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社会貢献への目覚め―根津嘉一郎にとっての渡米実業団(畑野勇)
はじめに

 武蔵高等学校設立の出発点が、創立者根津嘉一郎の1909(明治42)年における渡米実業団への参加であるということは、よく知られている。根津は、自著『世渡り体験談』の中で、以下のように述べている。

 「私は明治四十二年、渋沢栄一男爵を団長とした実業視察団の一員に加わって亜米利加へ渡ったが、亜米利加では、数かずの感服した話がある。 第一に亜米利加人は郷土を愛する心、愛郷心と云ふものが強くて、大抵どこの土地にも、図書館や、学校や、病院等が立派に建設されている。そして土地の人は、私のところは何々の建物や名物があって、亜米利加一であるとか、世界一であるとか云ふ事を誇りにして、委しく説明して呉れるのである。又、其のやうな金のかかる建造物の総ては、土地の有力者から寄附金を募集して建てたもので、亜米利加人は斯る公共的の事業に対しては、巨額の金を惜しまないのである。」

 この見聞が、帰国後の鉄道事業への進出や武蔵高等学校の設立などへ根津を向かわせた大きな誘因であったことは疑いない。ただ、根津の伝記(いわゆる正史としての『根津翁伝』)や自伝(前出『世渡り体験談』)、あるいは武蔵学園の年史類や『学園史年報』を参照しても、実業団の滞米期間中に、具体的にどのような経験から、武蔵学園の設立(渡米から12年近くが経過している)に乗り出したのまでは明らかではない。

 他方で、「実業団の訪米報告書」に相当するとされる、巌谷季雄(のち巌谷小波という筆名で活動)編集によって1910年に刊行された『渡米実業団誌』においても、帰国までの間に根津に関して言及された箇所はごくわずか(実業団のメンバー一覧などに名前が記される程度)である。

 そこで、この一文ではまず、渡米実業団が帯びた役割(アメリカへの訪問が持っていた意味)について、これまであまり語られることのなかった側面から言及し、その役割の中で、根津嘉一郎が米国のどのような点に着目して帰国後の武蔵高等学校設立に至ったのかを考察したい。

撮影時期不詳、根津嘉一郎。渡米実業団に参加した1909 年頃のものと推測される。
1 .渡米実業団とは

 冒頭で記した通り、実業団がアメリカに渡ったのは1909(明治42)年のことである。これは民間交流を図る日米の実業団による相互訪問の一環であり、前年の米国商業会議所実業団の日本招待に続き、今度は日本実業団がアメリカに招待されたものであった、と伝えられている。

 スポケーン・タコマ・ポートランド・シアトルの4つの商業会議所の招きにより、渋沢栄一(当時、第一銀行頭取)が団長となり、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人50名余りが、8月31日から12月1日(いずれも日本時間による日付)までの約3か月にわたって、アメリカの主要都市を訪問し、根津もその一員であった。各地で歓迎を受けながら産業、経済をはじめ政治、社会福祉、教育など多岐にわたる施設や機関を視察した。訪問した州は25、都市は60に及んだといわれる。

 渋沢は在米中の1909(明治42)年9月4日、シアトル博覧会の「日本日」(Japan Day)の祝賀式において「実業団之使命」と題する演説を行った。増田明六によってまとめられ、『竜門雑誌』に掲載されたその概要には、「日本帝国が外国と交通を開きたる以来、外国に向て派遣せられし使節は数多き事ながら、何れも政治的意味を有するものなりし、然れとも、吾々一行の使命は全く是等と異りて、合衆国の商工農の状態を観て、将来米日両国をして従来の親厚を益増進せんとするに在れば、其切要なる事は決して前者に譲らざるものなり」とある。

 ただし実業団に対しては日本政府から、日米通商航海条約の改正(のち、1911年に実現)に向けた、アメリカの政財界首脳との交流という外交面での期待が大きかったことも、判明している。前年の渡日実業団の訪問に際して、被訪問側の日本では、外務省を中心に政府各省が全面的にその企画を支援し、桂首相や小村外相みずから晩餐会を催したのをはじめ、政府関係者が数多く行事に参加した。そして翌年の渡米実業団の出発においても、直前に明治天皇が芝離宮において午餐会を開催し、政府要人として総理大臣(大蔵大臣兼任)の桂太郎や外務大臣の小村寿太郎、農商務大臣の大浦兼武などが列席している。

 渡米実業団は、アメリカで訪問したそれぞれの都市の商業会議所において、東アジア(特に中国市場)での平和裏の競争、あるいは資本・技術提携の可能性について率直に意見を交換したという。その相手としては、発明王トーマス・エジソン、鉄道王ジェームズ・ヒルなど各界実力者だけでなく、同年の3月に合衆国大統領に就任していたウィリアム・タフトも含まれていた。

 ただ、タフトのような政界の代表が、当時の日米間での懸案と目された事柄について何らかの積極的な解決姿勢をこの面談で示したという記録はなく、あくまで日米間での友好親善の深化を期待する、という姿勢の表明にとどまったようである。

 それでは渡米実業団の派遣は日米関係史において、ほとんど顕著な役割を果たさなかったことになるのだろうか。団長の渋沢栄一が「渡米実業団の由来」と題して、前出の『渡米実業団誌』の巻頭に前書きとして掲載した以下の文面を読むと、そうは決して言い切れないように思われる。

 ……明治四年に成つてから、日本政府が岩倉公以下大勢の人々を派出して、海外各国との条約に付いて評議討論した時も、矢張亜米利加を第一番にした。……其後明治十二年に「ゼネラル、グラント」と云ふ人が、大統領を罷めて世界漫遊を企て、第一に日本へ来られた。其時に東京市民は、従来亜米利加を頗る徳として居り、殊に「グラント」と云ふ人が、文勲にも武功にも、世界に於て赫々たる名誉ある人であり、且其性質も至て真摯朴訥で、思ふたことは言ふ、言つたことは必ず行ふと云ふ気風に聴いて居つたから、其高風を慕うて、大に之を歓迎しやうと云ふ計画を起した。

 其時に斯く云ふ私も、歓迎委員の一人で、特に委員長に推されて万事斡旋した事である。……上野公園に大会を開いて、日本の古武術を見せると云ふので、幌曳とか流鏑馬とか云ふ、種々の芸術を演ずることにして、殊に当日は是非 陛下の御親臨を請うて、共に御覧ある様にと云ふことを、歓迎会の有志者から御願して御許可を蒙つて居つた……陛下は勉めて出御あらせられ、為めに当日は、実に満都湧き立つばかりの大歓迎会が開かれた。其時「グラント」氏に対しては、余興の前に特に会員が相集つて、歓迎文を私が朗読したことを覚へて居る。……

渡米実業団の米国内訪問のルート(木村昌人『日米民間経済外交 1905-1911』慶應通信、1989 年、122 ページに掲載の図)

 この文面においてユリシーズ・S・グラント元米国大統領の訪日が語られているが、実は明治天皇にとって、外国の政治家としてもっとも信頼しうる意見を提供してくれたと見なされた人物が彼であった。日本の外務省記録や『明治天皇紀』、岩倉具視の伝記である『岩倉公実記』には、1879(明治12)年8月10日に行われた、明治天皇と来日中のグラントとによる会見記録が残されているが、おそらくこの会見を用意したのが当時の右大臣であった岩倉であったと想像される。

 日本政治外交史の研究者である三谷太一郎氏は、この会見記録の歴史的意義として「明治天皇がグラントの勧告によって、不平等条約下の日本の進路について具体的な指針を得たことである。それは日清不戦と非外債政策である。しかもそれが天皇の信条に止まらず、少なくとも日清戦争前(日本の植民地帝国化前)の自立的資本主義を追求する日本の政治的経済的な対外政策の基本線を形成したことである。」(『外交史料館報』第30号、2017年)として、近代化途上にあった日本にとっての対外政策や国家発展の方向性が、グラントによる勧告によって大きな影響を受けたことを紹介している。

 また三谷氏によれば、この会見記録は対日占領下の1949年に『日本外交文書』第12巻に収録されたが、それは「当時の日本には、戦後日本の出発点を日清戦争前の明治日本に求めようとする考えが一部の識者や宮中関係者の間にあり、この会見記録はその考えに沿っていたと思われる」という、大きな意味を持つものであった。

 渋沢による「渡米実業団の由来」に話を戻すと、彼はグラントについての話題に続けて、タフトについても言及している。「明治三十八年と四十年とに、米国現大統領タフト氏の日本に来遊せられたときも、東京の商工業者は大に之を歓迎した。是等が日米間の商工業者の意志を通ずるに付ての、沿革と云うても宜からうと思ふ」。

 以上より、渡米実業団の役割とアメリカの位置づけは、すくなくとも渋沢に限ってはある程度明らかになったと思われる。渡米実業団の役割は、明治初期における岩倉使節団のそれ(直接には条約改正を意図、それに付随して諸国の近代化の様相を視察)に相当し、アメリカの位置づけは、来日経験もある政界の実力者に象徴される、日本の外交路線や経済発展路線への助言者というものであったのではないか。

 では、この実業団の3か月にわたる滞米において、根津嘉一郎はアメリカの何に啓発され、日本においてそれを実現しようとしたのか。

2.根津嘉一郎がアメリカで見て学んだもの

 1989年に刊行された『日米民間経済外交 1905-1911』(木村昌人著、慶應通信刊)で記されているように、20世紀の初頭に、婦人を含む50名以上の団体が太平洋を横断し日米各地を旅行することは、莫大な費用と時間がかかる事業であった。

 経費としては、シアトル商業会議所やアメリカ側準備委員会(1909年6月9日シアトルにて開会)で、渡米実業団の旅費及び接待費として5万ドルが要求され可決していることから、5万ドル前後(10万円)と推定される。またアメリカ東部の大物実業家も、渡米実業団の歓迎にあたっては尽力し、特にノーザン・パシフィック鉄道社長のJ・ヒルは渡米実業団専用の特別列車を用意し、シアトルからシカゴ、ニューヨークへの運賃を無料とするという好意を示した。20世紀初頭にこのようにアメリカ各地実業界から歓迎された実業団は、アジアでは日本が初であった(以上、同書より)。

 そのような歓待ぶりの中で、アメリカ各地で政治・経済・社会福祉・教育など、多方面の施設の視察見学を行った根津にとって、もっとも印象に残ったことは、「今は故人となられたロックフェラー氏に会った時、同氏が多額の金を儲けて、その多くを世の中のために散ずる主義を知って、大いに啓発された」(『世渡り体験談』より)という点であった。

 前出の『渡米実業団史』において、ロックフェラーの名が登場するのは、10月4日の項、クリーブランド滞在中における記録であり、以下のように記されている。「午前九時出迎の自動車に分乗し、亜米利加銅鉄及鋼線会社、工業学校等を参観し、午後は各自の希望により、工場、学校、慈善事業等を視察研究す。……午後七時半より商業会議所内に盛大なる晩餐会あり。例の石油王ロックフェラー氏も出席せしが氏が此種の宴席に出づるは、二十年来無きことなりと云ふ。」

 ロックフェラーがこのときにどのような発言をしたのかは記録に残っていないが、晩餐会で直接対面したという経験は、おそらく根津をはじめ他の団員にとっても強烈なものがあったと想像される。

 この使節団の一員であった巌谷小波による記録『新洋行土産 下巻』では、クリーブランドの別荘の庭園を巌谷ほか何人かが見学に行き、芝庭でゴルフをしていたロックフェラーと偶然出会い、見学者全員が彼と握手して愛想の良い世辞を言われた、という旨が記されている。あるいは根津もその見学者に含まれていたか、見学者から話を聞いた可能性があるのではなかろうか。

 クリーブランドはいうまでもなくロックフェラーの育った地(13、4歳のころから居住)であり、彼が事業を起こしたのもこの都市においてであった。実業団員らが見学した会社や工場、学校のほとんどが、彼の事業あるいは彼の慈善事業による寄付によって発展したものと考えられても不思議ではないだろう。

 というのは、実業団がその1週間ほど前に数日間滞在したシカゴにおいて、シカゴ大学の見学も一部の団員(根津が含まれたかどうか判明しないが)によって実施され、また商業会議所の晩餐会においてはシカゴ大学教授との面談も開催されているが、シカゴ大学は資金難から1886年に閉鎖されていたのを、ロックフェラーが8000万ドルを寄付して1890年に世界的な大学として再興させたという経緯がある。

 おそらく団員はその説明を受けており、根津も同大学やクリーブランドの隆盛が彼の事業の成功と慈善事業によるものであったと考えたのではなかろうか。すると根津が訪米によって得た最大の成果は、「社会から得た利益は社会に還元する」という信念を強固にしたことであったといえよう。

 もっとも、彼が学校設立の社会的意義を認めたとしても、ただちにアメリカ(あるいは西欧)の学風や制度にならった設立には向かわず、またそれについて否定的な意向を持っていたであろうこともまた、容易に想像できる。『根津翁伝』には、武蔵高等学校設置の項目において、彼が重視した教育方針が以下の通り記されている。

 我が国の教育は、御一新までは各藩に藩の学校があったり、寺子屋の塾があって、日本人を作るのに、実地に即した教育機関を設けていたのであるが、明治になってから我が国の教育が、欧米の文化を参酌した結果は、日本固有の教育は次第に影を潜めて、極端に言えば、日本人であるのか世界人であるのか、執れとも判らぬような教育を採って来たのである。

 其の結果、漢字廃止論などが現はれ、漢字は煩雑極まりないもので、世人の頭脳を圧迫することが甚だしいから、宜しく漢字を廃止し〔←す?〕ベしなどと説いている。併し、漢字の圧迫が甚だしいといふならば、西洋諸学説の方が、遥かに圧迫が強いのである。そして、明治以来六十年間、専ら欧米思想を注入した結果は如何かというに、其の影響は、随分と危険極まる思想を胚胎させたのである。

 事実一概に総てを欧米流に行うことは、余程考えなければならぬことである。新しい教育を受けたといふ人達が、何かという場合、年号の記載に一々西暦紀元を用うることなども、大日本帝国の認識を欠いたもので、それが西洋歴史の場合には、西暦紀元は必要に違いないだろうが、我が国の日常生活にまで西暦紀元を用いることは、矛盾の甚だしいものである。

 それから、今日の教育では、最早、西洋の学問ばかりを主とせずに、国学は言うに及ばず、昔から採り入れられたところの、漢籍なども相当学ばせるべきである。そして、日本人を育成するといふ根本観念の下に、総て教育の見識を高め、且つ深められることを望みたい。

 根津が武蔵高等学校の設立に向けて、寄付金360万円(地所、株券、引金)を基礎とする財団法人根津育英会の設立に踏み切ったのは1921(大正10)年のことで、この間にロックフェラー財団が1913年に設置され、ロックフェラー自身による2億5,000万ドル近くの寄付によって、公衆衛生、医学教育、芸術などを主な対象とした大々的な支援活動が軌道に乗っていた。

 根津の寄付金の額はいうまでもなくロックフェラーのそれとはかなりのスケールの差があり、高等学校の開学の年も1909年からやや隔たりがあるが、実は根津はすでに1915(大正4)年ごろから、「今のところ一つの学校を建てるには、私に未だ多少の負債があるから、それを償却した上でと、暫く時節を待つ心でいた。けれども翻って考えてみると、負債は短日月に切れるものでないし、負債があっても、銀行が資金を融通して呉れるならば、それが出来ないわけはなく、而も人聞は老少不定であるから、何時どういう事が起らないとも限らない」と考え、「現在社会の為に尽す事としては、教育事業に奉仕するよりほかに道がないと決心して、そのことを友人宮島清次郎君に相談」(以上、『根津翁伝』より)という行動を取っていた。

 したがって、根津はやはりロックフェラーの事績を大いに意識して、武蔵高等学校の建学に踏み切った、と言って誤りではないであろう。

 最後に、渡米実業団の一員としては「若輩者」に分類された根津であるが、彼がその晩年に、日米両政府間での友好促進の試みにおいて、きわめて重要な役割を担った事実を明らかにしておきたい。

 1939(昭和14)年2 月、その直前まで駐米日本大使であった元外交官の斎藤博がワシントンで客死したとき、アメリカ人の友人が中心となって、日米関係友好につくした彼の努力と業績とをたたえて、篤く遇する方途が唱えられた。かつて1925(大正14)年に駐日アメリカ大使エドガー・バンククロフトが日本で死去した時、その遺体が日本の軍艦で送られてきた先例にならい、その返礼と日米関係友好改善にも資するとして、3 月、米国大統領フランクリン・ローズヴェルトが斎藤の遺骨をアメリカ軍艦で日本に護送するよう海軍省に命令を下した。

 そして、その5 年前に就役した新鋭重巡洋艦「アストリア」が、艦長リッチモンド・K・ターナー大佐指揮のもと、斎藤の遺骨を乗せて3 月18 日にアナポリスを出港し、パナマ運河をへて、4 月17 日横浜港に入り、翌日に斎藤の葬儀が外務省葬として、築地本願寺で行なわれた。

 この「アストリア」号による護送は、アメリカが友好の手をさしのべたものとして、日本人一般から強く歓迎された。そこで、斎藤の葬儀後、日本の官民をあげて「アストリア」号乗組の将兵への歓迎宴・旅行招待・贈物贈呈が行なわれた。感激した一部の日本人が、感謝大集会案や、「アストリア」号の訪日返礼に日本海軍軍艦のサンフランシスコ、ないしニューヨーク訪問すら唱えるほどであった。これら日本人による熱のこもった感謝行事の提案と申出とに、駐日大使グルーがその鎮静化と調整に苦労したほどであった(以上、本橋正『太平洋戦争をめぐる日米外交と戦後の米ソ対立』学術出版会、2006年)。

 この当時の日米両国では、前々年に発生した盧溝橋事件を発端とする日中間の全面戦争化の進行、またナチスドイツやイタリアと日本との接近(この翌年に、アメリカを敵国と想定した日独伊三国軍事同盟が締結された)によって、関係が急速に悪化(とくに米国内における対日世論が悪化)していたといわれる。その時期にあって日本政府、とくにアメリカ軍艦「アストリア」号の乗組員を歓待するカウンターパートとして、日本海軍の当局者(海軍大臣米内光政・次官山本五十六・軍務局長井上成美など)は最大限の歓待を行っていた。

 そのとき、重要な歓待役の一人として選ばれたのが根津嘉一郎であった。「アストリア」号の離日の前々日(4 月24日)の午後、青山南町の根津邸において、根津の招待による「日米交歓園遊会」が開かれ、日本海軍からは大臣・政務次官・次官、軍令部次長、海軍省軍務局・人事局・教育局ほか各局の局長ほか、あわせて29 名が(いずれも夫人同伴で)出席するという一大行事となったのである。

 なお根津は、その翌日の晩には横浜停泊中の「アストリア」号を訪問し、餞別として「士官全部へ振袖姿の可愛い人形を贈り大任を果したア号に謝意を表した」(東京日日新聞1939 年4 月26 日朝刊)という。同新聞の記事内容からは、政府の歓待担当者以外から送られた餞別は、これが唯一と考えられる。

 「アストリア」号が離日した翌4 月27 日に海軍部内で作成された「連絡将校としての感想覚」は、「今般の行事を総括しての感想は、彼等に対し、又彼等を通じて米国国民一般に対し、第一の目的たる故大使遺骨礼送を感謝する日本人の心情を表明し日米親善に寄与したること、及び事変〔引用者注―日中戦争〕下にあって余裕綽々たる日本の底力を示したることに於て一大成功なりしものと認む」と結論している。この1939 年4 月が、日独伊三国同盟の締結を強硬に推進しようと試みる陸軍に対して、前記の米内・山本・井上を中心とする海軍首脳が終始一貫抵抗し、陸海両軍の政治的対立が頂点に達しつつあった時期であったことを考えれば、海軍はこの園遊会の開催にあたって、日米の友好親善重視の姿勢を「アストリア」号乗組員や駐日アメリカ大使のジョセフ・グルー、ひいてはアメリカ本国の政府要人に強くアピールし、根津はその期待に十分に応えたといえるだろう。

 根津がちょうど30 年前の渡米実業団の一員となったときからはじまった日米親善への取り組みは、その晩年(根津は翌1940年1月に死去)において、両国の戦争の回避は達しえなかったものの、日米関係史において小さくない足跡を残したという評価が可能である。

【参考文献】
  • 根津翁伝記編纂会編刊『根津翁伝』(1961年)
  • 根津嘉一郎『世渡り体験談』(実業之日本社、1938年)
  • 渋沢青淵記念財団竜門社編『渋沢栄一伝記資料』第32巻(渋沢栄一伝記資料刊行会、1960年)
  • 巌谷季雄編集・発行『渡米實業團誌』(1910年10月)
  • 巌谷小波(季雄)『新洋行土産』上下巻(博文館、1910年)
  • 木村昌人『日米民間経済外交 1905-1911』(慶應通信、1989年)
  • 防衛省防衛研究所戦史研究センター所蔵史料:海軍大臣官房編「米国軍艦『アストリア』来航関係 昭和14年4 月」
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