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武蔵学園百年史特別サイトへようこそ! - 「とこしえに続く学びの水源をたどって」
1922年、日本最初の私立七年制「武蔵高等学校」として開学した学校法人根津育英会武蔵学園は、2022年4月に創立百周年を迎えます。これを記念する事業のひとつとして、本学園の正史「武蔵学園百年史」の刊行が2023年度中に予定され、その編さんがすでに開始されています。 「武蔵学園百年史」は「正史(編年)編」「紀伝編」「史料編(DVD)」で構成され、本学園の学びの水源とその流れをたどりながら、日本教育史のなかで果してきた役割をも記述し、一私学の校史にとどまらない未来にむけた「武蔵の学び」を問うものとして編まれます。 本サイトでは、「武蔵学園百年史」の編さんの過程や、関連する情報を随時お知らせし、卒業生、保護者、歴史研究者、さらには受験生、一般の皆さまによる、本学園の歩みへの理解を深める一助とするとともに、ご意見、ご感想をいただいて、より充実した百年史作成のために反映させていく所存です。 ぜひお気軽にご訪問ください。
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NEWS & TOPICS
2018.12.19
「えごた」はたまた「えこだ」
江古田今昔混同物語
 タイトルに掲載した空中写真は、昭和30年代(1955〜64)に撮影された武蔵学園周辺だ。  まだ高等学校中学校の校舎は時計塔のある現在の3号館で、大学のメイン教室はその左手の旧1号館だった(高中新校舎は1968年竣工)。正門は現在の位置よりやや西にあり、ややわかりにくいが守衛所も今は郵便室になっている三角屋根だ(正門が現在地に移動し根津化学研究所まで直線的に欅並木を見通せるようになったのは2012年の暮)。     学園の北側(画面手前)には、すでに住宅が密集しているが、南には田畑が大きく広がっている。横に掲載した写真の最上段は、同じく昭和30年年代の江古田駅周辺(江古田銀座)だが、店舗は変わっても道路の幅や構成が今とほとんど変化していないことに驚く。江戸時代は農村(新田)であった江古田だが、現在は武蔵学園、日本大学芸術学部、武蔵野音楽大学という三大学が集まる学生の街として知られる。武蔵百年の歴史を考えるとき、学生・生徒たちを育んだ江古田の街について触れないわけにはいかない。当サイトでも何回かに分けて江古田の街についてとりあげたい。今回はその初回、町名についての話。 ■江古田の駅名、町名パラドックスをさぐる  「武蔵学園はどこにありますか」という問いに練馬区豊玉上といっても伝わりにくいので、「練馬の江古田です」「西武池袋線の江古田駅が最寄り」と返すことが多い。そして「えごた? えこだ? どっち」という質問は、もう武蔵の関係者なら何回も受けたことだろう。  ご存じのように、西武池袋線の駅名は「えこだ」だ。しかし南へ下って大江戸線の新江古田は「しんえごた」である。ちなみに江古田銀座のアーチから新江古田駅を経由して目白通りを横切り新青梅街道まで伸びる「江古田通り」(通称「チャンチキ通り」)は「えごたどおり」だ。  さらにこの新青梅街道にかかる妙正寺川の「江古田大橋」はなんと「えこたおおはし」であり、その下流の「江古田橋」は「えごたばし」なのでややこしさが倍増する。  「江古田」の名前が記録に現れるのは室町時代後期で、地域は現在の中野区江古田付近、目白通りの南側一帯で、太田道灌が豊島一族と戦った古戦場「江古田原」として『太田道灌状』に記されいる。ただし読みは判然としていない。その後も「えこた」「えごた」「えこだ」が混在して使用されているが、中野区江古田の地元では「えごた」が人口に膾炙していたようだ。そして、現在の中野区江古田(えごた)の町名と範囲は1963年の住居表示法で定まった。  一方、今の練馬には江古田という町名はない。1960年、横の写真の頃までは、現在の旭丘と栄町が江古田町だった。これは、この一帯が中野の江古田村の新田として開発された地域であることに由来する。戦後、中野区江古田と混同されることが多いことから、この年に旭町と栄町に再編・改名された(旭町の名は住民投票によって決定した)。       しかし江古田駅の名はそのまま残っており、駅名は「えこだ」である。ご承知のように江古田駅は大正11(1922)年、西武線の前身である武蔵野鉄道の「武蔵高等学校用仮停停留所」として開設され(根津嘉一郎初代理事長は同鉄道の大株主だった)、ホームは現在よりも武蔵に近かった。その翌年、今の位置に移設されて武蔵野鉄道「江古田駅」として開業。戦後、昭和21(1946)年に西武鉄道「江古田駅」となり駅名の読みが「えこだ」になったが、その読み変更の経緯は不明である。秋葉原駅が「あきばはら」が発音のしやすい「あきはばら」になったと同じという説もあるが、証明するものはない。なお、最下段の写真は昭和10(1935)年ごろの江古田駅で、このときも「えごた」である。  中段の地図は大正15(1926)年6月30日発行の大日本帝国陸地測量部によるものだ(武蔵学園記念室所蔵)。これには駅名は「えごた」と記されている。少なくともこの時点では「えごた駅」だった。また、右下には江古田新田の表示があり、中野の江古田より後に開墾されたことがわかる。千川通りの北側に沿う黒い細い線は千川上水で、まだ暗渠ではなく上水として機能していた。残念ながら中新井分水である濯川は描かれていないが、当時は川幅が30㎝程度だったためと推察される。なお、2017年夏にNHK衛星放送の番組で江古田をとりあげたとき、番組担当者と学園記念室で西武鉄道江古田駅に問い合わせたが、この駅名の読みについての資料は得られなかった。   ■江古田の語源は、エゴの木?  結局のところ、江古田の読みについては、地名にはさまざな「音の揺れ」がおこると理解するしかない。なお、江古田は横浜市にも江古田と荏子田があり、これはどちらも「えこだ」だ。  では江古田の語源は何かと追求したくなるが、現時点では確定できる説はない。一時期説得力があるとされたエゴマ油のエゴの木があった田という説も、証明できる、あるいは説得力の高い資料・記録はない。また。ひらがな表記すればエゴの木は「ゑご」であるが、「ゑこだ」あるいは「ゑごた」という記録がない。江古田の「え」は旧仮名でも「ゑ」ではない。  ほかには「窪地」「淵」などを意味する「えご」からだという地形説があるが、このことばは関東ではあまり使用されていないという反論もある。またアイヌ語語源説も証拠がない。  江古田の田は、おそらく水田に由来すると思われ、「えご」もしくは「えこ」の解明が待たれる。そして「た」か「だ」かという問題は日本語の特徴である「連濁」(サクラ→ヤマザクラ、クルマ、ニグルマのように接頭語により濁音化する例外が少ない現象)との関係性ともあいまって興味は尽きないが、武蔵学園記念室では今後も江古田の歴史については調査・研究を進めていく。次回は、江古田の街と店と学生について触れたい。 ※参考文献 黒田基樹『図説 太田道灌』(戎光祥出版 2009年) 武蔵学園70年史委員会編『武蔵七十年史』(1993年)  
2018.12.17
『相浦忠雄遺稿集』を読む―武蔵卒業生戦死者の記録
↑ 相浦忠雄肖像:武蔵高等学校在学中   ↑ 相浦忠雄肖像:海軍主計大尉時代   はじめに 『武蔵七十年史』によれば、旧制武蔵高等学校の第二次世界大戦の戦没者は、教員(助手)3名、配属将校2名、卒業生52名を数えている。この数は、正式に戦死公報の来た者であるとのことなので、戦病死、戦災死、収容所内での死亡、徴用中の事故死等を加えた広義の戦没者はもう少し多いかも知れない。 これらの人々が、武蔵に居る頃、そして戦場に出て何を考え、どのように死んでいったかは、今となっては殆ど知るよしもない。が、その中で、遺稿集が編纂され、生前の考えが比較的よく分かり、さらに戦死のありさまについても十分の情報がある一人の卒業生をここに紹介することにしたい。   1. 相浦忠雄の略歴 相浦忠雄(11期文)は、1919(大正8)年11月23日、福岡県田川郡上野村の赤池炭鉱社宅に生まれた。赤池炭鉱は明治鉱業株式会社の経営で、相浦の父鼎五はその社員であったようだ。 忠雄の命名は、父の友人矢内原忠雄にあやかったものとされている。 1926(大正15)年、戸畑私立明治小学校入学、翌年父の転勤に伴い上野村市場小学校に転校。 1932(昭和7)年、市場小学校を卒業、上京して武蔵高等学校尋常科に入学。 1936(昭和11)年、武蔵高等学校高等科文科甲類に進む。 1937(昭和12)年、級友宮澤喜一と共に外遊生に選ばれる。旅行先は当初中国内地の予定であったが、日華事変勃発のため、朝鮮、満州となった。(現在武蔵学園記念室には、その時のレポートが残されている) 1939(昭和14)年、東京帝国大学法学部法律学科(英法)に入学。同年夏、日米学生会議日本代表団の一員として渡米。 1941(昭和16)年、外交官及び行政官高等文官試験に合格。同年12月25日、太平洋戦争勃発のため東京帝国大学を繰り上げ卒業。 1942(昭和17)年1月6日、商工省事務官に任官。燃料局に配属。同年1月20日、海軍短期現役主計科士官を志願し採用。海軍経理学校第8期補修科学生として入校。海軍主計中尉に任官。 同年5月16日、カトリックの洗礼を受ける。同年5月20日、海軍経理学校を卒業し海軍省人事局第1課に配属。 1943(昭和18)年2月、海軍経理学校補修科庶務主任、ついで分隊士。 1944(昭和19)年3月、航空母艦雲鷹主計長。雲鷹は同年8月7日、船団を護衛しシンガポールに向け出撃。同年9月17日、船団護衛の帰途南支那海にて、米潜水艦に雷撃され、沈没。 雲鷹沈没に際し、相浦は艦橋にあって配置についたまま生還しなかった。 享年24歳10ヶ月であった(*1)。   2. 相浦忠雄遺稿集 『相浦忠雄遺稿集』は、1950(昭和25)年9月、彼の死を惜しむ武蔵の同窓後輩、海軍経理学校(主計科短期現役士官養成)の同期後輩、親族らの手によって編集刊行された。 冒頭「編者の言葉」では、「相浦忠雄の戦死が人類の文化にとってどれほどの損失であったかは、遂に知ることができない。唯ここに集められた彼の遺稿はその損失が並々のものでなかったことを示している。」と述べている。 編集委員は、赤沢璋一、小川政亮、大橋弘利、亀徳正之、相良一郎、早田和正、苫米地俊博、長橋尚、宮澤喜一、山下元利、吉国二郎、渡辺正雄の12名。この内宮澤(大蔵省、後に内閣総理大臣)、大橋(弁護士)、長橋(通商産業省)が武蔵同窓。赤沢(通商産業省)、山下(大蔵省、後に衆議院議員)、吉国(大蔵省、後に国税庁長官)らはおそらく海軍主計科短期現役士官の同期後輩、苫米地は義弟と推定される。遺稿集の題字は、相浦が日米学生会議で渡米した折の日本代表団長であり、戦後成蹊大学総長となった高柳賢三の手になるものである。 この時代の、日記、ノート、写真等の記録は、多く戦禍に遭って消失しており、相浦の場合も、武蔵の高等科1年から高校生時代に書きつないだノート一冊だけが遺され、遺稿集の母体となっている。幸い、このノートの余白には、相浦が雲鷹主計長に就任してから戦死までの約四ヶ月の日記が記されており、その意味でこのノートは、相浦の高校生時代と、主計長時代のそれぞれの時期の「肉声」を知る、よすがとなっている。このほかに、遺稿集にはもちろん、武蔵校内で刊行された諸雑誌への寄稿、日米学生会議の報告等、外部刊行物からの転載がいくつか収録されているが、中心はあくまでも前述のノートである。逆にこのノートがカヴァーしていない時期、たとえば海軍経理学校時代や雲鷹主計長就任以前の時期については、相浦の肉声は聞こえてこない。カトリックの入信についても、おそらく相浦はそれなりの信仰告白を記していたであろうが、記録は消失してしまっている。 本稿に於いては、『遺稿集』を読み解くことを作業の中心としつつ、相浦の生涯を意味づけるいくつかの重要なエピソードについては、相浦の肉声を直接に聞いた他者(土田国保、近藤道生ら)の証言をまじえながら、相浦が何を考え、どのように死んでいったかを見ていきたい。   3.  愛日寮生相浦忠雄 旧制武蔵高等学校には、尋常科生徒のための慎独寮、高等科生徒向けに愛日寮、双桂寮の二寮があった。これらの寮は、元々山本良吉校長が、他の高等学校の全寮制とその風俗を嫌忌していたこともあって、全生徒が入るものではなく、いわば一部寮制とも言うべきものであった。 相浦が高等科に進み、愛日寮生となったのは、おそらくは父親が明治鉱業に奉職して九州勤務が多かったことと関係があったのではないかと推測される。 愛日、双桂の二寮は、武蔵校内でライバル関係にあり、両寮対抗で弁論大会なども開かれていたようである。前者はともすれば儒教主義的東洋思想的寮風、後者はルネッサンス的西洋近代主義的な寮風と思われていた。 『遺稿集』では、両寮の対抗弁論大会において、相浦が愛日寮を代表して、双桂寮側の先輩竹田政民に反論する演説草稿が掲載されている。この内容を本稿に敷衍するには、あまりに難解かつテーマが広範であるのだが、一言でいえば、旧制高校生的な深い思索、思惟にこの頃の相浦が沈潜していたこと、さらに言えば、武蔵三理想の一である「東西文化の融合」を(相浦に限らず)当時の高校生が如何に重要な思索のテーマとしていたかがわかる。 大正期から昭和初期にあっても、この階級の人々の一般的な生活は、武士道あるいは儒教的な価値観をベースに営まれていたのであり、その一方で旧制高等学校生が日々学ぶ学問は、文系であれ理系であれ、ほとんど西洋の科学と思想の産物であったという事実が、この主題を、今日以上に彼ら旧制高校生にとって喫緊のものとしていた。21世紀の今日の我々があまり深くは考えない、東洋的な生活感覚と西洋的な知性、理性との整合は、この時代には、教養ある若者たちが乗り越えなければならない大きな課題であったといえる。武蔵高等学校の愛日、双桂二寮は、その寮風のわずかな差異で東西のいずれかに偏っていたのであり、今日から見れば「似たようなもの」であったかもしれない僅かな差異をめぐり、堂々の論争がなされていたと見ることもできる。   4. 武蔵高等学校外遊報告第十号 1937(昭和12)年7月、高等科2年の時、相浦忠雄と宮澤喜一は、武蔵高等学校第11回外遊生に選ばれ、中国視察の準備をしていたところ、折から盧溝橋事件が勃発し急きょ外遊先を満州に変更し出発することとなった。その外遊報告は、2597年度(*2)武蔵高等学校外遊報告という約50頁の小冊子として、山本良吉校長の前文を付して翌年刊行された。幸い、武蔵学園記念室にはその小冊子が現在も保存されている。 外遊報告は相浦と宮澤の共著であり、この報告のどの部分を相浦が執筆したかはわからない。が、いずれにしても、高校生のまとめた内容としては出色のレポートである。この中で日々の満洲訪問先での取材内容を記した部分(三理想の「自ら調べ」の部分)は、今日の武蔵高校生の国外研修報告と比較し、どちらも極めて優れているものと評価できる。むしろ現在の国外研修報告も、十分相浦、宮澤の域に達していると言うべきかもしれない。 だが、この報告の中で特徴的なものは、「二三の考察」という最後のまとめの部分であり、ここでは漢民族の民族性についての二人の考察が書かれている。「矛盾に富む」「自己本位」「金銭への執着」「面子」「没法子」「社交性」等々、当時多くの人が言い、今日でもよく言われる批判的な特性が考察された後、漢民族の「同化力」についてが、特筆されている。 その同化力があるゆえに、「支那は疲れた。早晩滅びる。」という人があるけれども私にはそうは思われない、との記述がある。この「私」は宮澤であったろうか、相浦であったろうか。 また、「二三の考察」の中では満州における日本農業移民についても、深い考察がなされていて、これの成功への危惧が控えめにではあるが表明されている。事実の報告、要約、構成もさることながら、こうしたまとめにおける洞察(三理想の「自ら考える」部分)の点において、二人の人物がいかに傑出していたかを見ることができる。   5. 日米学生会議 そして相浦の短い生涯の中で、再びの「海外雄飛」。 相浦忠雄は1939(昭和14)年東京帝国大学法学部法律学科(英法)に入学。同年夏、日米学生会議日本代表団の一員として渡米した。『遺稿集』には、帰国後学生たちが編纂し、日本評論社から刊行された「学生日米会談」寄稿した相浦の一文「支那事変の投げる影」が転載されている。 ここで述べられていることを要約すれば、当時の米国人が庶民の果てに至るまで、日本の中国侵略に対して、強い批判感情を持っていること。にもかかわらず、個々の米国人は個々の日本人に対して親切であり、国家レベルの批判感情を個人に及ぼさないこと。そして、米国人から生年、所属大学等を問われた後で、必ず「それでは間もなく貴方も戦争に行くのですね」と愛惜するように言われることなどである。 これらを読んでも、相浦がもし彼の戦争を生き延びて、日本再建の掌に当たることができたとしたら、米国人の良き友人として、この渡米の経験を活かすことができたであろうにとの思いを禁じ得ない。   6. これが全部焼け野原になる 1941(昭和16)年12月8日、東京帝国大学生近藤道生(武蔵12期文、後に大蔵省、国税庁長官、博報堂会長)は、本郷の下宿「幸運館」で同級生高柳忠夫から日米開戦と真珠湾攻撃の成功を聞いた。かねて、日米開戦に懐疑的であった近藤は、高柳に「困ったことになるかも知れないぞ」とだけ言い残して外へ出た。 ・・・・・ 歩いて十分ほどで東大図書館に着いた。そこには旧制武蔵高校で一年先輩だった相浦忠雄さんがいた。誘われるまま二人で図書館の屋上に上がると、眼下に広がる東京の家並みを前に相浦さんは「君、これが全部、焼け野原になるんだよ」と唐突に言う。 「そうでしょうか。日本の軍部もそれまでには手を打つでしょう」と、戸惑いながら相浦さんの横顔を覗き込んだ。相浦さんは迷いもなく「いやいや、必ずそうなる」と言って口元を引き結ぶ(*3)。 ・・・・・ 相浦の戦争の結末に関する予想は、その後の戦死直前のものも含めて、恐ろしい程透徹している。しかもそれは、直感的、宗教的な「予言」としてではなく、あくまで合理的な「判断」としての未来予測である。にもかかわらず相浦は「敗戦必至」の戦争を、自らの義務として引き受け、海軍主計科短期現役士官を志願し、その義務を果たすことの中で24歳の前途ある身に死を課した。 その心理の過程は、近藤が後に言う「開戦となったからには愛する者のために命を捧げよう」という程単純ではなかったかも知れないが、相浦の中に内在する「愛と献身」という心理的なモチーフが、主計科志願の動機の根幹にあったことは想像に難くない。   7. 海軍主計科短期現役士官 当時の日本は、義務兵役制であり、帝国大学出身者といえども徴兵は猶予されていただけで、卒業すれば兵役に就かなければならなかった。検査に合格し徴兵されれば、通常は陸軍二等兵からそのキャリアを始めなければならない。そうした事情の中で、海軍主計科短期現役制度は、医学部出身者における軍医の場合などと同じく、大学の文科卒業生を採用と同時に海軍主計中尉に任官させ、経理学校での数ヶ月の教育を経てすぐに艦隊や省部に配属、勤務させるというもので、兵役に就く条件としては格別に優遇され、またそれだけに志願者も多かった。(倍率約25倍という) 相浦は、東京帝国大学法学部卒商工省に採用された当時の超エリートであり、兵役に就くとすれば、この制度に志願するに最もふさわしい人材の一人であった。 因みに、この制度に志願し採用された者の中には、後の内閣総理大臣中曽根康弘や、民社党委員長永末栄一をはじめ、戦後政界、官界、経済界などで重きを成した者が非常に多い。 また、相浦より少し前1941(昭和16)年1月、三菱銀行員から主計科短期現役士官に採用され、特設巡洋艦八海山丸の主計長として戦死した小泉信吉は、父である慶應義塾塾長小泉信三の著作「海軍主計大尉小泉信吉」の主人公として名高い。 ただし、これらのエリートの中でさらに優秀な者には、僅かだが「兵役に就かない」という選択も可能であった。相浦と武藏同期の宮澤喜一は、同時期に大蔵省事務官となり、同省から軍に対して「余人を以て代えがたい」と通知されることで兵役を免除されている。相浦にもその道がなかったとは言えないかも知れないが、同世代の大半の若者が兵役に就く中でそれを回避することは、たとえ「敗戦必至」の見通しを持っていたとしても、おそらく相浦忠雄の選ぶところではなかったのであろう。   8. カトリックの洗礼を受ける 相浦は、1942(昭和17)年5月16日カトリックの洗礼を受けた。この時期相浦はすでに海軍主計中尉に任官しており、受洗の日は、海軍経理学校を卒業し現場に配属される4日前であった。 3.で述べた如く相浦は武藏高校生の頃から、宗教に強く関心を持ち、今日から見れば、いかにも旧制高校生らしい観念論的な思惟としか思えないような思索に、深く沈潜した求道者であった。 思考の出発点は、良心の根拠。限りなく小さい存在である一個人が、ともすれば道から外れそうになる時、行く手を照らしてくれる「大きな者」の存在であったろうか。相浦の宗教的関心の対象は、次第に仏教からキリスト教、「悟り」から「愛と献身」へと移行していく。おそらくは相浦の中には、すでに予め心的なモチーフとして「良き行い」「他者への愛と献身」があり、それが思考の方向を次第にキリスト教の方向に向けていったのではないかと、想像される。また彼の敬愛する長姉相浦清子の存在も、直接に彼のカトリック入信に影響があったのではないかと考えられる。 いずれにしても、相浦のこの時期の受洗、カトリック入信は、「敗戦必至」を覚悟の出征を前にして、高校生時代からの彼の長い宗教的な思惟に「けじめ」を付ける意味があったものと推察される。   9. 雲鷹主計長の日記を読む ~精神を病んだ同僚の夫人への対応 相浦が遺したノートのうち、雲鷹主計長就任後の日記の前半部は、相浦が同期生を代表して、精神を病んだ同僚の夫人と交渉する記録に割かれている。この事実関係はかなり煩瑣なものなので、略述すると、病人は、彼の精神疾患の原因となるストレスをつくった伯父と夫婦養子の関係にあり、その夫人は夫の病が嵩じた後、義父との養子縁組の解消をめぐってトラブルとなっている、というのがおよその事情である。日記から読み取る限り、相浦は同期生たちから「お前しかいない」と言われて夫人のもとに遣わされ、どうやら、夫人と養父との復縁を勧めに行ったらしいのだが、その理由や前後の関係は必ずしも全部記載されておらずやや不明の点もある。 だが、そのこと自体は本稿の主題ではない。『遺稿集』のこの項から伝わってくるのは、相浦が、こうした難しいトラブルを抱えた友人の世話役として周囲から期待されていた、ということ(後述のサービサーとしての自覚にも通じる面がある)と、相浦がその夫人に向かって狷介な養父を「愛し許せ」と説くときの、殆どカトリックの司祭のごとき様態である。 相浦の友人のある者は、彼が戦死せず復員したとしても、必ずしも行政官や政治の道は全うせずどこかで教育や宗教の道に行ったのではないかとも言っているが、この精神を病んだ同僚の夫人への対応は、相浦がこうした評価を得るようになった生前の行動の一つとして数えることができるだろう。 ~「日本の兵科士官」という気負い 1944(昭和19)年5月9日、相浦は戦地から帰還した友人達を迎えて開催された、主計科短期現役8期、9期10期合同のクラス会に参加。その時の感想が日記に記載されている。 ・・・・・ クラス会の成長そしてこれがやがて8期、9期、10期と繋がってやがて十年、二十年後に実を結び我国の充実せる発展の素地をなしてくれるようにと祈りてやまず。 補修科学生出身の主計科士官は、なる程海軍にてはまさに単なる主計科士官かも知れない。併し我々は背後に単なる海軍のみに非ず、我が皇国を担負って居るのである。 海軍兵学校出身者が、海軍の兵科将校として全海軍の中軸であるならば、補修科学生出身者と陸軍における一部の優秀者とは、正に相提携して日本の兵科将校として、全日本の中軸として働かなければならぬ人物なのである(*4)。 ・・・・・ 相浦にしてはやや珍しい、エリート意識を飾らずに述べている記載である。だが、相浦自身は置くとしても、主計科短期現役士官は、真に敗戦後の日本を担う中軸の人材として、一人でも多く生きさせたいと相浦が強く願っていたことがよく分かる記述でもある。このことは、戦死直前の雲鷹における土田国保との会話にも現れている。 ~サービサーとしての自覚 1944(昭和19)年5月13日、相浦は、目黒海仁会病院に、盲腸炎で入院している友人A(主計科同期と思われる)を見舞った。その時の会話と感想が日記に記されている。 ・・・・・ A 「実際貴様は看護の妙を心得とる。看護人最適だ」 相浦 「そうだな。しかし看護だけじゃないぞ。俺にホテルのボーイや御用聞きをさせたら、世界一のボーイや御用聞きになるぞ、きっと。又実際、ホテルのボーイをやろうと思ったこともあるんだ。大学1年の時に。そしてその為に髪迄伸ばして準備しとったら、案外アメリカに行くのに役立ったりしてね。到頭やらなかったけれども。」 看護、給仕、然り、余は終生それに甘んじ否その使命と役割をむしろ光栄として大切にして行くであろう。余の進み方は先頭に立ってついて来れと率いるのでもなく、是が非でもこれをやれと命令するのでもない。統帥の器は余の薄弱な意志と弱気を以てしては極めて乏しい。余は家庭に、学級に、学校に朋輩にさらに部下にも寧ろ看護人、給仕人たる心持ちであったようだし、将来も亦そうであろう。やがて我国全般の為の看護人となることがあるかも知れぬ。その時は上御一人の最も忠良なる臣民たると共に、最も卑賤の名も知れざる一小国民の為にも余はその給仕たり看護人たらねばならぬ(*5)。 ・・・・・ このサービスへの自覚は、相浦の短い人生を特徴付ける一本の筋でもあり、商工省の官吏たる職業意識でもあったのではないか。戦死の時の相浦の行動を考える上においても、相浦の持っていた「看護人、給仕人」としての自覚はきわめて重要な要素となっていると思われる。 ~童貞感覚 この時代の24歳と、21世紀の24歳の間を最も隔てている感覚の一つは、性に対するものである。相浦忠雄は、同時代の学徒出陣で兵営に入った人々と比較しても、並外れて女性に対して純粋な感性を持っていたし、おそらくは童貞のまま戦死したのではないかと想像される。以下は戦死二か月程前の相浦の日記の記述である。 ・・・・・ 1944(昭和19)年7月2日、3日 午後上陸して横浜に行く。~中略~ 横浜雪見橋際掃部山下の松の家電横浜(3)5542通いも三度を重ね、始め偶然に来れる角兵衛(角チャン)ことG子(西区・・・・方)と褥を共にするも三夜となる。6月21日、見送らむとて洋装に着換え山手の教会より桜木町迄従ひ来れる彼女は22日は部屋に入るや、縋りつきヨーコソとそして三度目の2日は休養中を出て来て掃部山を歩きそして3日の朝は「角ちゃんは泣かないことにしてゐるの」とて涙も見せざりしその眼にキラリ赤く熱く潤みを帯ばせて「つまんないの」とそして横浜駅横須賀線プラットフォーム迄も送り来る。貴重の林檎や、バターをつけたパンの御馳走(22日)に、又態々アルバムよりハガしての心籠めての肖像写真の贈物に、そして、未だ失はぬ羞恥を捨てて縋りつき顔を埋める女らしい仕草の内に、又時折の喜びに輝く眼とそれにつづく怨めし気の自嘲とと悲哀を湛える瞳に、不運を生まれながらに荷負ひつつもそれに打克とう努めつつ明るく諦めを持って生きて行こうとする単純な教養乏しき、しかしいぢらしき女の心を見る。彼女の上に多幸あれ。 三夜を共にしつつあれ程にも彼女の腕を、胸を腰を掻き抱き愛撫しつつ、結局は身体の関係を結ぶこともなく別れて了ふに到ったのも一つには我が生命なる息子達娘達の性をあだ、おろそかに頒かち難く罪を恐れたにもよれど、亦彼女の顔、瞳の上にやがてまともの結婚により幸ひの道を行く可能性ある心を見得た為でもあらう。それにしても母上の「病気にならぬように」の御注意はさることとして、姉上の「心を奪はぬやうに気をつけて上げなくては悪い」との御言葉、ああこれこそ真にその身体を愛せずその心を愛する切なき真人の道徳であるべきに余は背きたるに非ざるか、忙しがはしく入り交り立ち交る男達に弄ばれて余を忘るること幸いなれば忘らしめ給えへ。また若し、その財布の内にひそめし徒書の署名(松寿老人)と今宵奪われし名刺との記憶が彼女の心の幸ひに役立つものならば永く留まって慰めと励ましを注ぎ男に対する一脈の信頼を繋がしめ給へ。~後略~(*6)。 ・・・・・ 21世紀の価値観からすれば、「何なんだこれは」とやや違和感を持たざるを得ない記述であるが、第二次世界大戦時のひとりのナイーヴな若年海軍士官の心事として、ありのままをここに採録した。 また、このノートにG子の電話番号、住所等をかなり精細に遺しているのも、戦死後周囲の誰彼に思いを寄せた相手がいたことを知ってほしいとの相浦の潜在的な意識の為せる業であったと考えてもよいかもしれない。 ~生死、揺れる思い 以下は1944(昭和19)年7月14日の日記の記述である。 ・・・・・ 俺は帰らねばならない、余は人々が予期しない不幸に動天狼狽するを見るに忍びない。それを防ぐに必要な手段をのいくつかを、そしてそれを実施すべき時機を知っていたにも拘わらず、施す術もなくなす事なかりし罪をはずるが故にそれを見るに忍びない。しかしそういう時期こそ神は、そして我々の最上の天子様は余を必要とされるのだ。これは自惚れであろうか、この使命の予感は虚像であろうか、若しそうならば嘗て予感せる如く余は二十五歳の一生を終わらぬ内に召されるであろう。それで何とて悔いの残ることがあろう。それ程短い一生は恵まれた申し分のない人の生命の秘奥を開示されたよい一生であった。総てに感謝を捧げ得るよい一生であった。・・中略・・ 余にはあらゆる困難と混乱の内からこの事態を収拾し、多くの人々に恩恵を相頒つべき、苦しい、しかし重い使命が課せられているのではないか。若し許される事ならば、斯くも大きな重い使命の十字架を免除して、あの清い懐かしい豊かな恋の故郷(?)なる太平洋の底に永久に眠らしめ給え。又若しこの十字架が御命ならばそれを背負い完遂すべく意志と才能との力を授け給え。 ・・・・・ かつて太平洋上での戦死を夢見、充実した人生であった事まで回顧していた相浦が、ここでは、戦後の混乱する日本の事態を収拾する責務が己に課されているのではないかと自問する姿がある。 そして、後者の方がより苦しい使命であるとも述べている。この頃、相浦の透徹した見通しが、戦後日本の混乱と再建を予測していたということなのであろう。いずれにしても、戦場での生死は自己の意志や努力を超えたところにある。透徹した見通しを持つ相浦といえども、自己の戦場での運命を予測する事は出来なかった。   10. 沈没前夜 1944(昭和19)年9月6日、日本占領下のシンガポール、セレター軍港に一隻の航空母艦が入港してきた。航空母艦雲鷹である。雲鷹は日本郵船の豪華客船八幡丸を改造した空母だったが、第一線の機動部隊と行動を共にするには、やや鈍足で、主に航空機輸送の任務に就いていた。 この年8月雲鷹は正式に第1海上護衛部隊に編入され、巡洋艦香椎以下のヒ73船団に同行して、この日護衛空母としての初の任務を果たし、シンガポールに入港してきたのであった。 艦長は木村行蔵大佐、主計長は相浦忠雄主計大尉であった。 土田国保(東京高校、東京帝国大学法学部卒、内務省、主計科短期現役第10期、後に警視総監、防衛大学校校長)は、戦艦武蔵に勤務していたが、東京の海軍経理学校に転勤の命令を受けて、帰国のため便乗する艦船を求めているところであった。土田が便乗を求めて雲鷹を訪ねてみると、主計長は旧知の相浦で、二人は思わぬ邂逅を喜び合い、相浦は土田の雲鷹便乗を快諾した。   ↑ 航空母艦雲鷹。左には、大和型戦艦や金剛型戦艦の姿も見える。 雲鷹は、引き続き本土に必要な軍需物資を運ぶヒ74船団に同行し、9月11日セレター軍港を出航した。以下は、1988(昭和63年)3月、雑誌「水交」第406号に掲載された土田の回想である。 ・・・・・ 出港直後から、アメリカ潜水艦の偵察無線報告が傍受されたという噂が、便乗組の我々の間にも伝えられ、兵科の若手士官は便乗組でも交代で、飛行甲板上に点在する見張りの臨時指揮官となり、私も乗艦中は、相浦主計長から、戦闘記録作業の指揮官(同艦庶務主任病気中のため)を命ぜられた。“合戦準備夜戦ニ備ヘ”の毎夕のラッパの後は、夜毎、“配置二付ケ”の令に緊張を重ねる日々であった。・・中略・・ 9月15日になった。敵潜水艦のホノルル宛緊急信が判然と傍受され、当然ながら、前面海域での待ち伏せが予想される事態となった。15日は無事。高雄に近接していく16日の夜あたりが一番の山場と、誰もが予想していた。 館内の便乗士官の溜まり場に居た私に、相浦主計長から呼び出しがあった。9月16日午後3時頃である。入室すると“高雄入港が迫った。入港すれば、君たち便乗士官は退艦となるかも知れないから、今日はゆっくり話をしたい”とのことであった。それから夕食の時迄居て、夜また出掛けた。・・中略・・ “大東亜戦争開戦のあの12月8日、私(相浦)は東大の図書館に居たが、ラジオ放送を聞いてから屋上にのぼって、じっと東の方を望みながら、沁じみと大変なことになったと思った。私は高柳賢三先生の引率の下に日米交換学生として米国に渡った経験から、彼等はその物量と技術にものを言わせて、やがて我が国を滅ぼしてしまうに違いないと考えている。この卓上の洋書を見給え。これはアメリカの技術の本だ。私は海軍省人事局に勤務した関係から、同省の上司上官からもいろいろ耳にしていたが、今やサイパンを襲ったあとの敵は、これから比島方面に来襲し、そして沖縄を攻めてから中国大陸に渡り、西と南の両面から内地を攻めるであろう。そしておそらく来年の今頃(昭和20年9月頃)迄には、東京は米国の兵隊で充満しているに違いない。日本人か外国人か、わけのわからぬ子が沢山出来る。この期になっては、いかにして民族の生存を保つかが残された問題なのだ。この艦はこれから君達を降ろしてから、比島方面に向かって出撃することになっている。おとり艦として、撃沈される運命なのだ。私は志願してこの艦に乗り込んできた。私は艦と運命を共にする覚悟だが、君はこれから内地に帰って我が国行く末を見守ってくれ給え” 相浦さんは、その夜、以上のような内容のことを繰り返し、繰り返し、私(土田)に説いて聞かせたのであった(*7)。 ・・・・・ 11. 雲鷹沈没 ↑ 上空から撮影した、航空機輸送中の航空母艦雲鷹。   土田国保の回想続く。 ・・・・・ そして真夜中となった。この調子では今夜もなんとかうまくゆくのではないか思っていた矢先のことである。突如ドーンという爆発音が身近に聞こえた。本艦ではない。爆雷音でもない。僚艦に魚雷命中と直覚した同時に、“配置ニ付ケ”。主計長室を飛び出し、中甲板を艦橋に向かって駈け出して20米、轟音、激動!そして又一発。下からは異常なる煙!・・中略・・ さて、相浦さんである。一度部屋にとって返し、自らの戦闘服装を完全に整えて戻って来て、携行してきた自らの救命胴衣を、私によこしたのである。“是ヲ持ッテ居レ、俺ハ良イカラ”。 当時、空母雲鷹は、日本郵船“八幡丸”の改造空母であったことから、乗組員はコルク製の救命胴衣を所持していた。然し我々便乗者迄には配給はなかった。当日の海面は、後刻救助してくれた海防艦のスクリューが、折々ガラガラと空中で音を立てる位の荒天であったので、ひ弱な身体の相浦さんでは30分と持たない位だったろうと、後になって思った程であった。私も正直のところ、命は惜しい。理屈になるけれども、私自身の任務は、生きて内地に帰ることである。然し、“ハイ有難ウゴザイマス”では、なんと言っても男がすたる。・・中略・・私は何回も相浦主計長に“私ハ大丈夫デス。要リマセンカラ”とかなんとか言って渡そうとしたがその都度拒否されてしまったので、艦橋の隅に置いておいて、明け方になってから付添の主計兵に、イザという時、必ず着せて差し上げるようにと言って、渡しておいた。・・中略・・ 図らずも愛知県知多市知多町の関徳男氏(当時主計科庶務係)が主計長の最後の模様を目撃しておられると伺ったので、雲鷹沈没後36年の歳月を経た、昭和55年4月同氏の御宅を訪問し、直接御話を伺う機会を得た。関徳男氏は次のごとく語られた。 艦が沈む時の私(関)は、戦闘記録作製の当番勤務で、艦橋の中に居た。前任者との交代は午前6時頃だったと思う。そのあと、ずっと相浦主計長と行動を共にした。艦長は、副長に、下に行って補強箇所の状況を見に行くように指示された。副長は降りて行かれたが、やがて帰って来られて、“最早補強は全然駄目です”と報告された。艦長は榊原鉦松従兵兼伝令に命じ“総員集合上甲板”を下達され、榊原氏は艦橋右舷から外に飛び出して行った。副長も出て行かれた。艦長は、残っている主計長に傾斜の度合を示す計器の目盛りを何回も訊かれ、その都度主計長は報告しておられた。その後は艦長も主計長も無言のまま。艦長は羅針盤を背にして、洋刀を持って直立され、主計長は、海図台の前に、戦闘服装に軍刀をついて、前方をじっと眺めて直立されていた。その間は5分くらいだったと思うが、1時間も長く感じられた。(土田註、雲鷹戦闘詳報の記すところによれば、“総員上れ”の下令は0748、沈没は0755となっている) 突如主計長が叫んだ。“関!出ろ!” 私(関)は戦闘記録の用紙をとっさに胸ポケットに入れて、艦橋左舷から飛び出した。・・中略・・私が上甲板に到達するかしないかに、艦は後部からどんどん沈み、私も渦の中に巻き込まれてしまった。艦橋における木村艦長と、相浦主計長の姿は、神そのもののごとくでありました(*8)。 ・・・・・   12.主計長の救命胴衣 土田国保の回想続く。 ・・・・・ ところで、相浦さんの救命胴衣はどうなったのであろうか?この回答は、42年の歳月を経た昭和62年1月になって私(土田)の手元に飛び込んで来たのである。・・中略・・当時士官烹炊所に一等主計兵として勤務され現在名古屋市にご健在の柴田鈴嘉氏からの御手紙によってであった。それによれば被雷後、夜明けと共に主計兵長の人と御本人(柴田)の二人で、主計科事務室に総員名簿を取りに艦内に入り、乾パンとサイダー便も抱えて艦橋に上り、主計長に総員名簿と持参の糧食を届け、“柴田一主、帰ります”と申告したところ、“おまえは水泳不能者だったなあ、これを持ってゆけ”と士官用マークの入った救命胴衣を差し出された。兵の私が、とためらう柴田氏に、主計長は“早く持って行け”と言われて、有難くいただき、その救命胴衣のお陰で、命を全うすることが出来たとのことである(*9)。 ・・・・・ これを要するに、相浦は雲鷹被雷に際して、自分の救命胴衣を、初めは便乗者である土田主計少尉に、土田に辞退されると後に水泳不能者の柴田一等主計兵に譲り、柴田一主は、この救命胴衣によって命をながらえることが出来たということになる。当時軍艦の戦没に際して、艦長が艦と運命を共にするのは、謂わば、海軍の慣行であったが、主計長が必ず艦橋に残らなければならないという慣行はなかった。相浦が艦と運命を共にすることを選んだのは、何故だったのであろうか。   結び さて、相浦の戦死をめぐって、いくつか彼の心事を考えてみたい。 まず、救命胴衣を他者に譲った行為について。 既に本稿において取り上げてきた「サービサーとしての自覚」「愛と献身」という心的なモチーフが、相浦をして救命胴衣を他者に譲るという行いを為さしめたことは明らかであろう。これら心情は、おそらく相浦の高校生時代からの思惟やカトリック入信などよりも前に、相浦家の家庭で、両親の躾の中で自然と育まれたものと考えられる。相浦の場合、「よき行い」「あるべき行動」の倫理感の方が先にあって、それを裏付けるために哲学的、宗教的思惟に沈潜し、ついにカトリックの信仰に到達したのではないかと考えられる。さらに、既に相浦は、便乗者土田に救命胴衣を譲ろうとした時点で、「艦と運命を共にする」ことを覚悟していて、救命胴衣は彼にとって不要のものであったとも考えられる。 次に、カトリックの教義と「艦と運命を共にする」覚悟について。 相浦の戦死の様相から、沈没に際して彼が進んで艦橋に残り、「艦と運命を共にする」ことを選択したのはほぼ明らかである。しかし、主計長が必ず艦橋に残らなければならないという慣行はなかった。「艦と運命を共にする」ことは相浦の主体的な選択であった。 一方で、カトリックの信仰は自殺を禁じている。古くは、関ヶ原合戦の前に、西軍の人質となって大阪城に入る事を拒んだ細川ガラシアが、キリシタン故に自害を選ばず、(形式的ではあるが)家臣に座敷の外から自らを刺殺させた話は有名である。相浦の「艦と運命を共にする」行為は、カトリックの教義上の自殺に当たらないのか、あるいは救命胴衣を他者に譲った行為は「愛と献身」として正当化されうるとしても、相浦は艦橋を出て、及ばずとも泳ぐべきではなかったのか。 これについて、相浦が書き残したノートから、あるいは土田らの証言から想像しうる相浦の心事は、「自分は志願して雲鷹に乗艦してきたのだから、艦と運命を共にする」というものである。雲鷹主計長の前の相浦の軍歴は、海軍省人事局勤務、海軍経理学校庶務主任、分隊士など内地勤務ばかりであり、武蔵同期の宮澤ほど明示ではないにしても、海軍の人事によって選別され、内地に残されたと解釈しうるものであった。相浦はおそらくこれを潔しとせず、敢えて「第一線熱烈志望」の声を上げて雲鷹に配置されたとされている(*10)。「敗戦必至」の透徹した認識を持ち、敗戦後日本再建の責任まで引き受ける事をも考えていた相浦が、一方では敢えて戦場に自らの身を捧げる覚悟を持って、第一線を熱烈志願したのは、自分と同世代の若者達が多数戦場に倒れて行く中で、自らが殊更に優遇されているのではないかという疑いに耐えられなかったからではないか。これもおそらく、哲学的宗教的思惟や信仰の以前に、相浦家の家庭で、両親の躾の中で自然と育まれた、彼の倫理感ではなかったのだろうか。 最後に、小泉信吉との比較。 以下は少し本稿筆者の独断になるかもしれないが、小泉信三著「海軍主計大尉小泉信吉」を読み、『相浦忠雄遺稿集』を読むと、二人の個性(小泉は明るい慶應ボーイ、相浦は武蔵―帝大の一つの典型である深く思索に沈むタイプ(*11))を超えて、微かだが社会階層的な、あるいは出身家庭による差異があることに気づかされる。それは、封建時代で言えば、同じ武士階級の上士と下士程度の僅かな差異に過ぎないのだが、二人の家庭が育んだモラールには、やはり少しだけの違いがあるようだ。 小泉の家庭は、いわば近代社会におけるブルジョア階級であり、経済的にはきわめて恵まれていた。「海軍主計大尉小泉信吉」の中で、信吉が訪ねる叔母の嫁ぎ先安川家は、相浦の父の勤務先、明治鉱業のオーナー、炭鉱主である。一方相浦は炭鉱の社宅で生まれたホワイトカラーの出身。昭和になって、東京で言えば山手線のターミナル(池袋、新宿、渋谷など)から西に延びる郊外電車の駅近くに住宅を持ち、いわゆる労働者、農民階級からは一線を画すが、資本家階級でもない、新しい中産階級、サラリーマン階層が相浦の立ち位置である。(相浦家は吉祥寺に居を構えた) この時代、前者の中で良質な人々は、いわゆるNoble’s obligeの倫理感で戦争に参加していった。個々の政府施策への批判は置いても、戦争は彼らの戦争であり、守るべき国家は彼ら自身のものであった。第一次世界大戦に於いて、英国のパブリックスクール出身者が、塹壕を飛び出し、ラグビーボールを敵陣に蹴り上げて、部下に先んじて突撃していった(*12)ような、スポーツ感覚とユーモアが、小泉信吉のとくに巡洋艦那智勤務時代の日記や書簡からは読み取れる。 一方後者、山の手サラリーマン階級の倫理感は、この階層が子弟に与えた深い教養に根ざしている。本稿筆者は、吉野源三郎「君たちはどう生きるか」の主人公コペル君と叔父さんとの会話、手紙のやりとりの中に、相浦や当時の武蔵生達の与えられた教養や、育まれた倫理感を見ることが出来るような気がしている。便乗者や水泳不能者に、「オイ」と軽い調子で救命胴衣を譲って、自らは艦橋に残るという、雲鷹沈没時の相浦の行為の背景には、昭和期になって新しく勃興してきた勤め人階層の、深い教養に裏打ちされた「コモンセンス」の文化があったのではないだろうか。   注 *1 『相浦忠雄遺稿集』岩波書店、3~4頁 *2 皇紀を用いている。 *3 近藤道生「私の履歴書」日本経済新聞2009(平成21)年4月1日、第1回 *4 『相浦忠雄遺稿集』142頁 *5 同上書、148頁 *6 同上書、250頁 *7 土田国保「相浦忠雄主計少佐の最後」雑誌『水交』第406号、1988(昭和63年)3月 *8 同上 *9 同上 *10 近藤道生「私の履歴書」日本経済新聞2009(平成21)年4月1日、第1回 *11 日米学生会議で渡米の折、船内で相浦に「好かれた」と主張しているある女性は、彼のことを「なんだかモッサリしていた」と述べていたという。 *12 池田潔『自由と規律』岩波新書   ↑ 旧武蔵高等学校校舎(現在の大学3号館)横での旧制武蔵高等学校11期生の集合写真。1933年~1939年の間の撮影と思われる。相浦忠雄は前列の左から3人目で、右足を階段のふちにかけ、膝の上に右手を置いている。なお、右から7人目は、第78代総理大臣となった宮澤喜一。この写真は、生物学研究室に保管されていたガラス乾板を復元・現像して電子化した。
2018.12.13
校名『武蔵』のこと
【武蔵学園記念室より:以下の文章は、故大坪秀二氏(高校16期・元武蔵高等学校・中学校校長)が生前、「特別読みもの 武蔵七十年史余話」の一つとして、『同窓会会報』第40号(1998年11月20日)に寄稿されたものである。】 ↑ 設立当時の文部省事務官であった本間則忠がまとめたと推定される、「武蔵と名付けたる事由」の冒頭部分。全文と注釈が、武蔵学園記念室発行の『武蔵学園史年報・創刊号』(1995年)に収録されている。  前号に三理想の成立過程のことを書かせていただきました【編者注:『同窓会会報』第39号に著者が「三理想の成立過程を追う」を寄稿されたことを指す。「三理想の成立過程を追う」は、当ホームページ紀伝編コーナーにも全文収録されている】。  多くの方から読後感を寄せていただき感謝しております。図にのって今年も、まともな史料集には載せられない、しかし、私にはかなり真実らしく思える物語として、「校名が武蔵と名付けられた経緯」を発表させていただきます。なお、文中、創立者根津翁、創立以来武蔵を育て上げた山本先生、その他全ての人々の敬称を省略しました。なにとぞご了承下さい。   ◆「東京」を譲って「武蔵」になった  これまで、『武蔵七十年史』・『武蔵七十年のあゆみ』その他に書かれているとおり、財団法人根津育英会の設立申請は1921(大正10)年7月25日、同財団の事業としての七年制高等学校の設置認可申請は同年7月27日で、申請書にある校名は『東京高等学校』でした。『武蔵七十年史』(写真集)には、この部分の写真が載せられています。育英事業を始めることを根津嘉一郎(先代)に勧誘し、その実現まで根津の手足となって働き、学校の開設準備万般の実行役を引き受けていた本間則忠の記録(『学園史年報創刊号』、55ページ)によれば、学校設置申請の直後に文部省から、東京に国が作る予定の第21高等学校(はじめ三年制で作る予定を、大正九年に七年制に計画変更)に『東京高等学校』の名を譲ることを求められ、急遽新校名『武蔵』について関係諸氏の賛成を取り付けた上で変更決定したものとあり、「名称については深遠なる典故を有す」と付け加えられています。本間が書き残した『本校創立事情記録』の中の「校名を武蔵と名けたる事由」は、『武蔵五十年のあゆみ』(1972年刊行)に初めて紹介されて以来、同窓生・在校生の多くの人々にとってなじみ多いものとなっていることと思いますが、本稿を読んでいただく便宜のために以下に引用します。  一、学校の設立せられたる国名に因みたり。即ち此の学校の位置が武蔵国に在るが故なり。而して群町村の名に拘泥せざりしは、古来世に広く知られ、且尊き記録を有する国名を採るに若かざるを以てなり。  二、学校の設立せられたる歳に因みたり。即ち此の歳には世界の大戦漸く戢まり、新たに平和条約の締結を見たり。依て戢武崇文の義解に随ひ武蔵と名けたり。  三、学校訓育の要義に因みたり。即ち武蔵の往古には万葉仮名にて兂邪志と書かれたり。然るに人として邪志を有せざることは人格向上の基礎にして、学校訓育の要義に他ならざるを以て採りて校名と為したり。   ◆旧制時代の伝承  なお、この校名変更の一幕は前述の通り大正十年八月中のことで、創立以来武蔵の中心人物となった山本良吉教頭(後に校長)が開校準備に関係する以前だったわけです。その山本によって、この校名変更の経緯が生徒に語られた記録は、私の探し得た限りでは『校友会誌34号』(昭和12年6月) にある「開校十五周年記念式山本校長式辞」だけで、それには次のように書かれています。 「大正七年[筆者注: 十年の誤り] に愈々本校を造る時には『東京高等学校』の名前で出願したのであるが、文部省の方でその名を欲しいといふので、東京よりは少し広い武蔵高等学校としたのであります、その時に日本高等学校とでもしたならばもっと広かったのですが。」  いま読むと、これはかなり皮肉をこめた表現のようにも思われます。同様な話は、折にふれて、山本はじめ何人かから繰り返されたのでしょう。旧制時代の多くの人が記憶しているようです。生徒の一人としてこの話を聞いた私の記憶には、「東京より武蔵の方が大きい」という山本校長の一言だけが鮮明に残っています。そして「大きいだけか」という、何か割り切れない思いが残ったことも確かでした。   ◆本間則忠は知っていた  校名変更の話は、一見単純な瑣事でした。三年ほど前に思い立って、七年制高校誕生を導いた大正六〜七年の臨時教育会議の詳細を調べはじめて間もないころ、これまで当然気が付いていてよかった筈の一事にはたと思いが及んで、校名武蔵のことを私は再考してみる気になったのです。そして、校名の由来をつくづく読み返すうちに、その第二項をこれまで全く迂闊に流し読みしてきたことに思い至りました。大正七年の新高等学校令で従来の第一から第八までの高等学校に加え新設されることになった高等学校には、新潟・松本・山口・松山……のように、設置する都市の名を冠する習慣が出来て、後にナンバー校に対し地名校と呼ばれるようになったのはよく知られています。そして、第21番目に設置を予定された高校は東京に作られるものですから、当然それは『東京高等学校』と呼ばれるのが当事者間では自明のことだったでしょう。本間則忠は文部省事務官として当事者側の一人でもあったわけです。その本間が殆ど一人で切り盛りした「根津家設立の学校」の名にわざわざ『東京高等学校』と書いて出すことの裏には、何か理由がないはずがないということに、今更ながら気がついたというわけです。   ◆武蔵命名はヴェルサイユ条約の年!?  これから先のことは私の推理でしかなく、状況証拠以外のものは今のところ皆無です。本間は官立の21高校が東京高校になることを知っていた筈です。だから、根津が設立する七年制高校の名前を考えるときには、当然『東京』以外の名を選んだでしょう。そして、本間と根津との間に校名の相談があったのは、七年制高校創設について関係者の合意が出来たごく初期の段階(おそらく大正八年末か九年)であることを暗示するのが、上に引用した「校名由来」の第二項だというのが、私の推測です。学校設立の年は大正十年で、大戦終結・条約締結の大正八年ではありません。 これを本間の思い違い、書き違いと言ってしまえばそれまでです。しかし、この時代に生きた人々が二年もの間違いをするでしょうか。事実、本間が書き残したもう一つの文書(『学園史年報第一号』61ページ) には、「時は正に世界大戦の後を亨け、今や平和条約の央に属す。戢武崇文を以てこの学校の名となすこと、たまたま以て創立の歳を紀するの便も亦鮮からざるなり」ともあり、より明確に大正八年を指しています。これらの文章から見ると、「学校の設立せられたる歳」とは、学校設立がはっきりと第一歩を踏み出した年と解釈できるのではないでしょうか。構想の初めからの二人(根津と本間)にとって、心の中に温めていた新事業がしかるべき後援者を得て動き始めた年(大正八年)こそ、記録すべき年だっただろうと思います。しかも、その時新制度「七年制高等学校」を国が設立する計画は難航し、五里霧中の状況でした。此の状況を傍らに見つつ、二人は「我等こそ新制度の先駆者」との思いが強かったことでしょう。   ◆文部省には貸しがあった  しかし、文部畑に長くいた本間は、此の国の官民の格差がどれほどのものかを熟知していました。そもそも、七年制高校は新高等学校令で高等学校の正規の姿として定められながら、国としてこれを実現する意図はもともとなかったようです。根津家の企てや甲南中学の七年制への移行計画などが文部省を揺さぶって、やっと一校だけ官立で作る決定はしたものの、その具体化は前述のように五里霧中でした。そんな事情があるのにその後の進行では、後発の官立七年制高校が全ての面において根津の私立高校に一歩を先んじる形の措置がとられています。学校の設置/設立認可の時期、校長の任命/就任認可の時期、開校日、そして、武蔵が一年生のみ募集したのに対して官立は一、二年生を同時募集して一年早く卒業生を出すなど、今の目で見るとき幼児のような優越心の表明らしいものさえあります。そのことを知りつくしていた本間にとって、ひとつだけ出来る悪戯は「校名の先取り」だったのではないでしょうか。『武蔵』という校名は、とうに根津との間に決定ずみであったにも拘わらず敢て伏せておいて、設立認可申請には文部省予定の『東京高校』で出す。「国も一度くらいは先駆者の根津育英会に頭を下げたらどうだ」と!本間の記録には、文部省からの要請により(校名につき)更に研究を重ね、急速の間、本間案を逗子滞在中の平田総裁の邸を始め各評議員邸を持ち回り云々とあります。根津・宮島・正田・本間の四人の相談について一言の言及もないのは、その部分が校名決定の核心に触れるから敢えて避けたのではないでしょうか。   ◆熱い思いと冷めた思い  根津や本間が校名にこめた思想をあらためて要約してみると、それらは、古代伝説も含めた武蔵の国への愛着、平和主義、邪志なき誠意の三つであり、全体を一括して武蔵の国という名と実への愛情が読みとれます。殆どが文字の上の遊びとはいえ、新設校への根津とその周辺の思い入れを表していたと思われます。本間が山形県の出であることを除くと、宮島は栃木県、正田は群馬県出身で、大きく言って皆「東国」の人達です。根津自身は山梨県人ですが、幕藩時代から甲斐は江戸と直結の地ですから、創立に関わった根津側の四人が、東国の中心である武蔵の国という名に西の人間よりも大きい愛着を持ったであろうことは推測できます。別の資料から見ても、根津は会津の白虎隊顕彰碑建立に私財を寄付したり、創立後の武蔵に御真影奉安殿を造るという学校側の提案を理事長決定で凍結したりで(『学園史年報第三号』185ぺージ)、政治思想として明治新政府を好まなかったらしい節が見えます。この側面から見ても、もし、「東京」か「武蔵」かと並べたとしたら、殆ど確実に「武蔵」が選ばれただろうと思うのです。  創立後の武蔵には、このような思想は継承されませんでした。それは、山本教頭の思想との齟齬に起因すると思われます。『晁水先生遺稿集』(正続)、『校友会誌』などに残る山本の話を検討してみると、平和主義に関するものは殆ど見あたりません。自由主義についても、青年期のことは別とすれば、かなり否定的な見解を持っていたようです。大正デモクラシーを特徴づけた自由主義教育などは、山本から見れば「先年初等教育界に盛んに行われた一弊風」であったらしく見えます(山本良吉『若い教師へ』大正十一年刊行)。山本は金沢に生まれ、京都での生活が長く、基本的に京都文化圏に浸って過ごした人です。彼にとって「武蔵」という名に特別の思いはなかったでしょう。しかし、山本は本間の残した『本校創立事情記録』を読んでいました。読んではいても、根津・本間の気持ちに共感を持たなかった山本は、言葉の上でのこじつけのような「校名の由来」を尊重する気にならなかったのでしょう。   ◆武蔵は初めから武蔵  以上、推測で固めた私の小論を、同窓各位はどう読んで下さったでしょうか。どうせ証拠はないことで、ただ、それらしい状況があるだけです。それなら、「武蔵は初めから武蔵であったらしい」ということ、そして、武蔵創立に関わった人達は武蔵野の大地とそこに結びつけられた古代の伝承を愛し、人間のまっすぐな誠実を愛し、大戦の後に漸く手にした平和を心から喜んだ人々であったという推理を真に受ける方が素敵ではないでしょうか。そして、武蔵の歴史を読むときに、創立者根津嘉一郎の社会貢献の志とともに、校名『武蔵』にこめた創業者たちの思想にも思いを馳せて頂けたらというのが、実り少ない史料あさりを懲りもせずに続けている私の些か厚かましい願いでもあります。 (筆者より:七年制高等学校を制度の中心に置いた大正七年の新高等学校令の成立や、それを審議した臨時教育会識の全体像については、日本の教育史上の重要事としてより詳細に論じる必要がありますし、資料も沢山あります。しかし、本稿ではそれらを一切省略しました)   ↑ 建設中の武蔵高等学校校舎(現在の大学3号館)  
2018.12.13
三理想の成立過程を追う
【武蔵学園記念室より:以下の文章は、故大坪秀二氏(高校16期・元武蔵高等学校・中学校校長)が生前、「特別読みもの 武蔵七十年史余話」の一つとして、『同窓会会報』第39号(1997年11月30日)に寄稿されたものである。】 ↑ 武蔵高等学校(旧制)校舎前における一木喜徳郎校長(左)と山本良吉教頭(右)   ◆創立の時、いまの三理想はなかった!?  初代教頭・三代校長山本良吉先生の手になる『武蔵高等学校歴史』(いわゆる六年史)には、1922年4月17日の第1回入学式に一木喜徳郎校長が「本校の成立、使命および三理想について式辞を述べた」とあり、三理想の原型、「東西文化融合のわが民族使命を遂行し得ベき人物を造ること。世界に雄飛するにたへる人物を造ること。自ら調べ自ら考える力を養うこと。」(あとで『第2の原型』と呼ぶ)が記されています。三理想がどのように発想されたかについては一木・山本両先生の後日の証言があり、お二人の合作であるらしく推測されますが、その時代のなまの史料としては創立の前年5月、根津家の公式発表での一木先生の談話(武蔵学園記念室の年報創刊号に収録、当時の各新聞社の記事でも裏付けられる)と、入学式3日前の教師会における校長の訓辞原稿(『武蔵七十年史』15ぺージ。筆跡は山本先生のものと推測される)とがあります。後者は冒頭に「正義を重んじ真理を愛し、自ら理解考究する能力を有し、将来世界に活動し得る体力を有す」とあり、これが三理想の『第1の原型」でしょう。しかし、七十年史編集の時の私は、この史料をみていながら、この原型が僅か3日後に六年史に記録されている『第2の原型』ととり換った不思議さを、とくに感じることなしに過ごしました。初めて「おやっ?」と思ったのは、その後、山本先生の原稿集(製本されて何冊にも分かれている)の初めの一冊に、製本洩れになって、はさまっている5枚の談話原稿を読んだときです。それは1924(大正13)年4月8日の教師会のためのもので、新学年を迎えるにあたっての各教師の心得を詳細に説いた最後に「本校に於いては、真理を愛し、正義を重んじ、将来世界に活動し得る人物を造るを主としたく教授も仕附(しつけ)もすべて之を目安としたし」とあるのです。  つまり、創立初年に一木校長が話された「第1の」原型は、少なくとも2年後まで生きていたことになります。この時から、三理想成立に関する私の史料あさりが始まりました。実は、この草稿は『晁水先生遺稿』の327ページに載っていますので、読んだ方は多いと思うのですが、一木校長の訓辞と結びつけた人は多分ないでしょう。『一木訓辞』は『武蔵七十年史』で初めて人の目に触れたのですから。   ◆2年後に出来た『第2の原型』  私の「三理想あさり」は、詳しく書くとかなり長くなります。結論を先に言えば、『第2の原型』は1924(大正13)年の3月末頃に出来たものと推測され、したがって、武蔵六年史の第1回入学式の記述は、意図的に事実と違えて作られたのものと思われるということです。24年4月以降に書かれたと思われる『理事会における大正13年度予算案説明文書(山本教頭による)』の中に、「本校元来、東西の文化を融合し世界に雄飛する底の人物を養うを薫育の一方針とすることは、校長が新入生に対して告げらるる所なり」とあり、記録の中に初めて三理想の項目が二つ出てきます。前に記した同年4月の教頭談話草稿には、まだ『第1の原型』が述べられていることを考えると、『第2の原型』の成立はその教頭談話草稿が書かれた時期と4月始めの入学式との間のごく短い期間の中だと考えます。恐らく前々から一木・山本両先生の間に相談の積み重ねがあった結果、その入学式の式辞に結実したものでしょう。『予算案説明文書』は予算案提出の時点のものでなく、理事会の査定で「生徒の外国旅行への教師付添費」が切られたことへの復活要求として書かれたと見る根拠がありますので、「校長が新入生に対して告げらるる所なり」と言っているのは、「ついこの間の入学式で一木先生が言われたでしょう、あの三理想ですよ」というふうに読めば、すんなり読めます。「何時の新入生に」とか「第1回からずっと」とかの限定がないのは、理事長はじめ理事諸氏にとって、すぐ思い起こすことが出来るつい先日のことだったからではないでしょうか。   ◆東西文化融合と民族理想の合体  『根津翁伝』には一木校長の話として、「『東西文化融合』は大隈重信が言っていたことで私自身も良いと思った」ということと、「『世界雄飛』はヴェルサイユ会議のことを牧野伯から聞いて以来の私の主張である」こととが述べられています。出典が示されていないので真偽不明ですが、武蔵関係の記録に大隈云々の話はないので、根津翁伝の編者は何か独自の資料を持っていたのでしょう。『世界雄飛』については、大正10年5月の根津家育英事業発表時の記録に明記されています。ただし、「世界に雄飛」ではなく「世界の舞台に立って活動」、「世界の日本人」という表現です。この表現の根底にある心が開校当初の『第1の原型』に確かに合まれているのがわかります。  一方、山本教頭には、約1年間にわたるアメリカ・ヨーロッパ視察旅行からの帰途船中で書いたという著書『民族の思想』があります。第1次大戦後の極右、極左台頭の時期のヨーロッパを周遊して、先生はその保守傾向(私の独断で恐縮ですが)に加えて民族主義、国家主義的な理想を強めて帰国したらしく思います。この本で主張する『わが民族の理想』とは、「日本の民族文化を基礎として、それを欧米的文化によって深高化し、世界的な新文化を創造して人間の文化史に貢献すること」であり、その日本民族文化とは、「いわば神道……存在・恩・義務を基礎とした国民道徳で、その発現の中心が皇室であることに特質がある」としています。山本教頭は後に『創立当時回顧座談会』(昭和11年、速記録あり) でも、「東西文化というが、東の方が大切だ」と、『民族の理想』での主張に近いことをのべています。『東西文化融合』という言葉が、必ずしも気に入っておられなかったらしく感じます。一木・山本両先生の話し合いで、一木先生は『東西文化』を持ちだし、山本先生は『民族の使命』あるいは『民族の理想』を持ち出して、両者がつけ合わされたものかと思われます。いずれにせよ、開校時の「第1原型」三項目に較べてかなり校是らしい体裁になったと同時に、民族主義・国家主義的な匂いがついたと思うのは私の偏見でしょうか。校長になった後の山本先生は、昭和13年に『三理想の英訳』を定めています。ここでは、『融合』は『Harmonization』となって一歩穏やかになり、『雄飛』は『to act on the World-Stage』となって、一木校長の表現に近づいています。私は、山本先生の思想傾向が昭和11年頃(二・二六事件のころ)を境に変化したと考えるものですが、三理想の英訳はそれをいささか裏付けているような気がします。   ◆史料に見えはじめた三理想  話が少し横道にそれました。三理想を初めて述べたと思われる大正13年入学式での一木校長の式辞は記録がありません。山本教頭の教務日誌その他にも三理想の影は見えません。翌14(1925)年7月に『校友会誌』が創刊され、その巻頭に『一木校長入学式訓辞大要』というのものが載っています。それには「本校は東西文化の融合を計るのが国民の任務であるという信念の上に、万端の施設をなしている…」と三理想の第一項目だけが述べられています。また、この年度の初めの「校報」(教師向けの会議まとめ)にも、校長式辞の概要が記録されています。思うにこの年以降、学校は三理想の生徒への周知に力を入れたようです。「校歌」が募集されたのもこの年からのようです。26(大正15)年12月発行の校友会誌第4号には、懸賞校歌応募3等当選作品(3期相当、小林保雄氏作)の発表があり、その歌詞に「我等の力は日毎に増して、天下に雄飛す準備は成らむ……」と三理想の第2項がちょっぴり詠み込まれています。そしてその選評に、「校歌は一校の理想・校風・特質等を標榜し、全校生徒の血潮を高鳴らしむべきものであってほしいと思う」とあり、この年から校歌が募集されて、しかも、そこに『本校理想』が歌い込まれることが奨励されていたが、実際の応募作品には従来の寮歌風のものが多く学校側の満足が得られなかったことが述べられています。この年は3等が最高でした。同じ号に脇田 忠氏(2期文)の『我等の使命』と題する論文があり、その中に「……。人物が出来て始めて東西文化の融合を望むこともできれば…」というくだりがありますから、おそらく、理想の三項目は既に発表されていたことでしょう。それにしても、当時それを印刷して生徒に配ったものがあってもよいと思うのですが、現存しません。「あった」という証言だけでもほしいものです。翌27(昭和2)年7月発行の校友会誌第5号には応募校歌当選作として、谷田閲次氏(2期文)の『2等作品』(「東西文化合壁の、灯かかぐる我ひとの……」の一節あり)と、野辺地東洋氏(3期文)の『2等作品』(「…東西古今の華をあつめん」の一節あり)とが発表され、選評には「本校理想の三大綱領も、割合よく歌い出されているが…」とあります。前年度の作品にも『雄飛』はあったのに不満とされ、この年の作品は、『東西文化』はあっても他の二つはないに近い(『雄飛』らしく見えるものはある)のに褒められているのは、歌としての善し悪しではあるとしても、少し奇妙に感じます。もしかすると三理想の最重点は『東西文化』であり、それを歌い込んでいないものは不満だと言うことかも知れません。なお、主に旧制時代の歌を集めた『武蔵歌集』が今年同窓会から刊行されますが、これらの当選歌はそこに収録されています。   ◆権威づけられた三理想  以上の経過を経て、28(昭和3)年4月15日の開校式(七学年が揃った時点での披露式)を迎えます。この式で一木前校長は、式辞の中で、自分がかつて第一回入学式の折に訓示したことだとして、修飾の多い漢文体で三理想を述べておられ、かつ、それを『三大理想』と呼んでおられます(校友会誌第7号)。私の独断で恐縮ですが、これを書いたのは一木先生でなく漢文の加藤虎之亮先生だと思います。たしかに一木先生は漢学の高い素養を身につけておられましたが、演説や著述の文章は平易で極めて明瞭です。この式辞のような、難解な言葉を多用する修飾の多い文章は、一木先生に、とりわけ生徒に語りかけるときの一木先生に似合わないように思います。加藤先生による双桂寮記、愛日寮記と文章の発想法が似ていること(似ていないという方もおられますが)、根津理事長の祝辞その他や、山本校長校葬の折の一木理事長弔辞などは多く加藤先生の手になるという証言があることから見ても、ありそうなことです。前に引用した『創立当時回顧座談会』での加藤先生の発言に、開校時、第1回入学式での一木先生の式辞の内容はと問われて、「三大理想です。あれを敷衍してずっとお話しになった」、「三大理想を一木先生が堂々とお述べになり」というくだりがありますが、「開校式」での一木前校長祝辞が加藤先生の代作だとすれば、話のつじつまを合わすためにも、加藤先生としてはこう言わざるを得なかったことでしょう。というより、代作した時点で既に、「三理想は第1回入学式で校長が述べたもの」と思いこんでおられたと考えるべきでしょう。一木先生は在任中4回の入学式式辞のうち、あとの二回には確かに三理想を、あるいはその一部分を話しておられたわけですから。1932(昭和7)年に創立十周年の記念式が行われましたが、その時の一木先生の祝辞の速記録が校友会誌第19号にあります。この時の話は至って平明なアドリブ調で、「本校は兼ねてより正義を重んじ、研究を尊び、而して将来のモットーとしては、世界の文化を進め人類の幸福に寄与すると云うことを信条としておるのであります云々」と、創立の時の『第1原型』に近い言葉が語られているのはまことに興味深いと思いますが、いかがでしょうか。  ともあれ、走り書きのような第1原型から始まった三理想を、校是に相応しい表現に直すこと、そしてそれを、第一回入学式に校長が生徒に表明したと学校史に記述し、同時に開校式での一木前校長祝辞で裏付けること(大正13、14両年の入学式で一木先生の訓示はあったものの、その内容は恐らく三理想の完全型でなく、山本先生にとっては意に充たぬものだったのでしょう)、これが山本先生のシナリオだった筈です。そのためには、開校式での前校長祝辞が一木先生の即妙の話で予定と違うものになってほしくなかった。加藤先生(でないにしろ一木先生以外の誰か)が祝辞を代作してそれを一木先生に読んでいただくことは、山本先生のシナリオにとって不可欠なことであり、予め一木先生の了解を得てあったことだろうというのが私の推測です。私個人の感想をつけ加えるなら、三理想の成立をそのように細工をしなくても、ありのままに伝えて良かった筈だと思います。理想の形が整うのが創立の2年後だからといって、三理想に傷が付くわけのものでもなかったでしょう。   ◆自由を我等に!『我々自身の三理想』  どの学校にもある校訓・校是が、前大戦以降の新時代に古い形のままで生き続ける例は必ずしも多くありもません。この点で、武蔵の三理想は時代を超えて生命を持ち続けていることを誇れると思います。とはいえ、今の目で見れば、「世界に雄飛する」という言葉が持つ戦前の膨張主義臭さとか、文化を東西に限定して東西南北多種多様な文化を互いに認めあう現代的視点を欠いていること、異文化どうしを融合するという考えに潜む独りよがり、それに、民族理想という断定など、多少の抵抗感なしには受け入れにくい点もあります。このことについては、以前、ある先輩の方からも「少なくとも第一理想の文言は改めるべきである」とのご指摘もありましたし、私自身、生徒に対しての話の中で、前述の諸点について注釈付きで三理想を説明してきたという経過もあります。三理想が示す「方向性」については、一木・山本両先覚者の見識に敬意を抱きながらも、後に続く我々としては、我々自身の現代的な思想の中で三理想を受けとめることが、我々に与えられた自由であろうと思います。三理想の成立の歴史を見ることも、そうした「我々自身の三理想」を形成する上で意義あることではなかろうかと考えて、独断と偏見の謗りを顧みず一個人として推測を書いてみました。   ◆追記…『三理想』か『三大理想』か  なお、1923年度から44年度までの22年間、43(昭和18)年を除いて毎年刊行された武蔵高等学校一覧に『三理想』が載るのは29(昭和4)年版からで、しかもその文言は現在と同じ「……人物。」のスタイルで書かれています。つまり、昭和3年度の一年間に「……人物を造ること。……力を養うこと。」のスタイルから現在の形に変えられたわけです。また、武高一覧ではずっと『三理想』のままで、『三大理想』ではありません。しかし、旧制時代の生徒達は『三大理想』という表現に慣らされてきたので、『三理想』というと違和感を覚える方もあるようです。そしてその『三大理想』の原点は、昭和3年開校式の一木前校長式辞であることは、ほぼ確実だと思います。  一つだけ私が気がかりに思っているのは、創立の年の一学期に生徒が発刊した同人誌の名が『雄飛』で、その会の名が『雄飛会』だということです。第一回入学の先輩たち何人かに伺ったところ、「それは三大理想の雄飛だろう」といわれる方もあれば、「三大理想とは関係ない。当時の世の中では『雄飛』という言葉はそんなに珍しいものではなかったよ」といわれる方もあります。私は、私の推測にかなりの自信をもっていますが、動かぬ証拠が出て私の推論が全て崩れても致し方ないことですので、新たな資料を寄せていただけることを切望しています。
2018.10.02
栄誉の思召しは一切断ること
無私の財界人・根津育英会第4代理事長宮島清次郎
■「勲章などもらって、あの世でなんの顔で奴らに会えるか!」  泉岳寺から北西に向かう伊皿子坂(いさらござか)は頂上で魚籃坂(ぎょらんざか)となって三田方面に下る。江戸時代には江戸湾が望めたという。  1963年9月6日早朝、1台の黒塗りの車が伊皿子坂の中腹にある日本工業倶楽部理事長・財団法人根津育英会理事長の宮島清次郎の屋敷をすべりでた。  後部座席に身を沈めているのは、後にいう「財界四天王」の一人である日清紡績社長櫻田武である。櫻田は9月に入ってから、病篤く命潮汐にせまっていた育ての親ともいえる宮島清次郎の病床の傍に詰めていた。この朝、宮島の容態がやや安定したことで、櫻田はまだ息があるうちに宮島逝去後の相談を当時の首相池田勇人とすべきと思い、宮島邸から一度自宅に戻ったのだった。しかし、 洗顔をしていたところに逝去を知らせる電話が鳴ったと、櫻田は「日清紡績社報」の追悼文で述べている。  櫻田が東京帝大卒業後、日清紡績の入社試験を受けたのは1926年。200名に及ぶ志願者のなかから当時の社長、宮島の最終面接を経て入社したのはわずか2名。櫻田はそのひとりだった。早くから櫻田の力量を見抜いていた宮島は1945年に櫻田を41歳の若さで日清紡績社長に昇格させた後に会長を退任した。  厳格な合理主義的経営とともに、深夜操業廃止など労働者の立場も重視した宮島は、およそ賞されることが嫌いだった。「財界御意見番」といわれた経済評論家の三鬼陽之助によれば、宮島は死の数年前から「戦争で多くの部下が無冠の大夫で死んだ。生き残った俺が勲章などもらって、なんの顔で奴らに会えるか」と周囲に広言していたという。しかし、吉田茂と池田勇人という2名の宰相の政権成立に尽力した宮島には勲一等の叙勲と相応の叙位が追贈されることが予想された。かつてそのことを櫻田がいうと宮島は激怒し、遺言状に「栄誉の思召しは一切断ること」と鉛筆で書き添えた。  1963年9月6日午前7時28分、稀代の企業人宮島清次郎は老衰により84歳の生涯をとじた。そして、鉛筆書きの一行は尊重され叙勲叙位は見送られた。 ■19歳年上の親友、根津嘉一郎との絆  宮島清次郎は1879年、現在の栃木県佐野市の生まれだ。宇都宮中学(現・県立宇都宮高校)から四高(現・金沢大学)に進み、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業すると企業人としての道を選び、住友金属工業の前身である住友別子鉱業所を経て東京紡績に入社、業績回復を成し遂げて専務取締役に昇進する。宮島は東京紡績が尼崎紡績(現・ユニチカ)に吸収合併される際に退任し、根津嘉一郎(初代)が相談役を務めていた日清紡績専務に就任。同社の経営を建て直して安定企業に押しあげ1919年には社長に就任する。このとき清次郎はまだ40歳だった。根津と宮島は、宮島が専務就任直後から互いの経営哲学や見識に共感し、ビジネスを超えた絆を結んだ。根津は宮島より19歳も年上であるが、深い信頼と尊敬の関係が成立する両者の度量の大きさは驚くべきである。根津はさらに、日清製粉創業者正田貞一郎とも強い関係があったわけだが、根津嘉一郎にとって、友であり相談相手であり、社会や日本の未来に向けて同じベクトルを抱く同志であるこの2名の存在が、さまざまなリスクが想定されるなか、一私人による旧制七年制高校の設立という日本の教育史に大きな足跡を残す決断の支えになったことは確かである。  宮島は1921年から正田とともに財団法人根津育英会理事を務め、旧制武蔵高等学校の創設に協力、1940年、根津嘉一郎が急逝すると宮島はその遺志をついで武蔵の運営をサポートし、1951年からは学校法人根津育英会理事長に就任して武蔵高等学校、戦後の武蔵大学の経営に力を尽くした。1960年に私財を学園に寄付し(宮島基金)、これは今日でも学園基金の一つとなっている。  また根津がコレクションした美術品を保持・公開するべく根津美術館の設立に尽力したことはよく知られている。 ■清次郎の人物を見抜く眼力   宮島清次郎は経営者としてすぐれていたのみならず、人物の力量と可能性をいち早く見抜く眼力とその才能を育てる能力にも秀でていた。歴史が証明する強いリーダーに共通する短所は、「次世代の育成ができない」ことだが、宮島清次郎のもとからは政財界の中核を担う才能が多数巣立っている。宮島と帝大同期で5度も首相を務めた戦後の顔ともいえる吉田茂は、外交官出身であるが故に経済があまり得手ではなく、ことあるごとに宮島を頼り、宮島もそれに応えて物心両面で吉田を支えた。  1949年、宮島は第3次吉田内閣の大蔵大臣就任を打診される。しかし宮島は固辞し、かわりに吉田学校の優等生で初当選したばかりの池田勇人と会い、その実力、とりわけ数字に強く驚異的な記憶力を見抜いて推薦する。異例の抜擢で大蔵大臣となった池田は後に総理になり、高度経済成長を牽引した。  池田勇人をはじめ、前述の櫻田武、水野成夫(フジテレビジョン初代社長)、永野重雄(新日本製鉄会長)、小林中(日本開発銀行初代総裁・根津育英会理事長)など宮島清次郎の薫陶を得た財界人は綺羅、星のごとく居並ぶ。 ■座右の銘は「感謝報恩」——清貧無私の人生  宮島清次郎は吉田茂の朝食会に怒鳴り込んで白洲次郎を恫喝するといったradicalな行動でも怖れられたが、自身の生活は清貧というべき極めて質素なものであった。戦後は日本工業倶楽部理事長、日本銀行政策委員として日本の経済的復興に力を注いだ。日本工業倶楽部のある理事が洗面所にお湯が出ないことに注文をつけると「水で手洗いして冬が越せないような老人に経営はできない」と一喝したエピソードが伝わっている。  宮島は故郷に多くの寄付・寄贈もしており、1950年には母校の県立宇都宮高校にR書館を寄贈した。この図書館は現存し、宮島の座右の銘である「感謝報恩」から「報恩館」と名付けられている。また、一昨夏、佐野市郷土博物館から武蔵学園記念室に電話があり、宮島清次郎が佐野市の小学校に多額の図書購入費用を寄付しており、それによって佐野市出身の社会運動家田中正造の書や書簡をコレクトした「宮島文庫」を紹介する企画展をするので清次郎関連の資料を提供してほしいという依頼があった。この件は記念室にとって初耳だったが、自己喧伝を嫌った清次郎の寄付の全容はかように把握が困難である。清次郎は資産のほとんどを寄付しており、遺産と呼べるものはわずかで、晩年は自宅まで売却しようとして周囲に説得されたといわれる。  タイトルの写真は日清紡績の社葬として行われた宮島清次郎の葬儀。左から櫻田武社長、吉田茂元首相、池田勇人首相。三者の表情がそれぞれの清次郎との関係を物語る。なお、1949年秋、池田勇人が第2次吉田内閣で大蔵大臣に抜擢されたとき、池田は秘書官に黒金泰美(後に内閣官房長官)と、英語力に秀でた宮澤喜一(後に第78代首相)を指名したが、この両名は奇しくも旧制武蔵高等学校の卒業生である。  この社葬の翌年、1964年、日清紡績中興の祖と称された櫻田武は、「社長は60歳まで」という宮島清次郎の遺訓を忠実に守り、惜しまれながら退任する。  同年秋、東京オリンピックの開会式が挙行され、日本は世界に向かって大きな一歩を踏み出す。それを可能にした戦後の経済復興に於いて、礎石ともいえる大きな役割を宮島清次郎が担っていたことは、今あまり語られることがない。 ※横の写真=上・晩年の宮島清次郎 中・財団法人根津育英会設立の頃の宮島清次郎、推定41〜42歳  下・1936年6月15日、根津嘉一郎(初代)の喜寿を祝って、同窓会と父兄会から寄贈された「根津化学研究所」の玄関での集合写真。右から3人目、玄関柱の前に立つのが宮島清次郎(当時57歳)。中央に桜井錠二学士院長。その右隣に正田貞一郎理事(日清製粉社長・根津育英会理事)。左隣に談笑する山本良吉校長と根津嘉一郎理事長。その左下に玉蟲文一所長と根津藤太郎(後に2代根津嘉一郎)。
2018.08.20
オンケルの遺産 「民文」の礎を築いた原田亨一
はじめに  原田亨一(1897―1938)は、自らの号、恩軒にかけてオンケルと自称され、その愛称で生徒に非常に親しまれた旧制武蔵高校の歴史の先生である。原田は在職中、病床に倒れ、そのまま惜しまれつつ病没した。その教育熱心な授業態度や校友会活動に積極的に取り組まれる姿は教職員や生徒から多大な尊敬の念を集め、その一端は、『校友会誌』(追悼特別号)*1によって明らかである。その内容は、まず名物教師といってよいものであり、愛敬あふれるエピソードにめぐまれている。生徒とのほほえましい話は同号に多数収められており、原田氏の普段の活動については、同号を良く読んでいただければお分かりいただけるだろう。そこで本文では、追悼号では余り触れられなかった、原田亨一の歴史学者としての側面に注目し、学生時代のエピソードや研究テーマ、論文を参照し、武蔵の教育に与えたであろう少なからぬ影響についてみていきたいと思う。 1、大学・大学院学生時代  原田亨一は、明治30年(1897)に高知県高知市に生まれた。大正4年(1915)に第三高等学校第二部甲類に入学するも、同8年(1919)に病気を理由に退学する。同9年(1920)に第六高等学校文科乙類に入学し、同12年(1923)3月に卒業すると、同年4月に東京帝国大学文学部国史学科に入学した。同級生には、皇国史観で固まっていた東大国史研究室を戦後になって立て直し、実証的な歴史研究で多大な業績を挙げられ、後に文化勲章を受章する坂本太郎がいた。坂本は自叙伝の中で原田のことについて以下のように語っている。  原田亨一君は、肋膜で永く休んだとかで年がかなり上だった。自称オンケルOnkelというあだ名を披露して、よくみんなの面倒を見た。ただし学校の講義にはあんまり顔を見せず、修学旅行だけは休んでは卒業できぬという噂だといって参加した。無類の歌舞伎好きで、この人の案内で同級生数名が歌舞伎座の三階に行ったことがある*2。  歌舞伎好きが高じて卒業論文は、出雲の阿国歌舞伎についてであり、後に昭和3年(1928)に至文堂より『近世日本演劇の源流―阿国歌舞伎の内容と其の発展を中心として―』と題して出版されている。さすがに、戦前の研究のため現在では引用されることも少ない本書であるが、本書の史学史上の評価について、芸能史研究の大家である服部幸雄はこう論評している。  この書以前の歌舞伎成立史研究が、とかく「事始」的に「出雲阿国伝」にかかわりすぎて、いわゆる「出雲阿国の伝説」に入っている芸能(念仏踊・神楽など)以外に眼を向けようとしなかったのに対して、視野を周辺の先行諸芸能に拡げねばならないということに着目されたわけで、成立史研究の段階としては明らかに一つの飛躍であった。(中略)信憑性の濃い一等史料を利用するようになった嚆矢であって、このことは研究史上特筆される(中略)歌舞伎成立史が歴史学の一ジャンルとして認められていく道を開いたものといえる(中略)本書の出現によって、成立史研究が「学問」として、新しい展開を果たすことになったといってもよい*3。  服部によれば、原田の研究は歌舞伎成立史研究において一大画期をなす著作として高く評価されている。原田の研究によって歌舞伎成立史研究が歴史学の一分野として確立しえたことが非常に重要な点として評価されており、この点については同級生である坂本太郎も同様に歌舞伎を歴史学的に初めて取り組まれたものと評価しているのと共通している*4。原田の代表的著作の史学史上の位置は上述のようにまとめられよう。  歌舞伎が趣味であることは国史学研究室が毎月11日に行っていた研究集会である十一日会の記録にもしばしば見られる。例えば、大正14年(1925)9月21日の記事によれば、各自が休暇中の旅行について述べられる中で、原田は歌舞伎の写真の紹介と実地見学を説明している様子が紹介されている*5。  大正15年(1926)には東京帝国大学大学院に入学し、同時に史学研究室別室副手を務めている。大学院における研究題目は「室町時代の文化史的研究」であり*6、近世における歌舞伎の成立のみならず、より広く美術史、文化史へとその興味・関心が移っていたことが知られ、その造詣の深さについては、法隆寺再建・非再建論争で有名な建築史家である足立康が追悼号で指摘している*7。  大学院に進学し、副手拝命後の同研究室における原田による重要な提言と思われるのが学生文庫の創設についてである。十一日会の記録によれば、大正15年12月11日の会合において、原田が立たれて学生文庫の創設を提言された旨が記されている。学生一同また当時の同研究室の主任であった黒板勝美教授も賛成するものであり、同研究室の歴史を考える上でも非常に重要であるが、原田の人となりを考える上で重要なことは、同記事によれば、「同(原田)氏曰く「十年後の研究室を目標とすべし」」と発言されたらしいことである。原田は面倒見の良い性格だったらしく、その一例として、国史研究室の後輩である井上久米雄が急逝されると、その卒業論文をまとめて刊行することに尽力されたことがあげられる*8。また、坂本太郎は、恩師である黒板勝美が自身と原田について「君たち二人は、二人合わせて一人前の仕事ができる。まるっきり反対の性格だから」と言われたとしており、黒板氏の真意について原田が親切で面倒見もよく世事にも通じていたのに対し自分は世事にうとく役に立たないことを皮肉っていたのだろうと回想されている*9。  この他に、原田が携わった仕事としては、平泉澄のもとで坂本太郎とともに室町時代から戦国時代にかけて関白・太政大臣であった近衛政家の日記である『後法興院政家記』の校訂作業を手伝ったりしている*10。また、注目される点として『新訂増補国史大系』の校正にも一部参加されており、担当書物は『後鏡』であった*11。『国史大系』とは歴史研究で必須かつ基本となる古典籍を集成、校訂した叢書であり、歴史研究者必携の叢書である。もとは明治時代に田口卯吉の主宰によって刊行されたもので、原田が参加したのは黒板勝美が主宰され、昭和4年(1929)より刊行されたシリーズである。ただし、原田は健康を害したため中途でリタイアしたらしい*12。しかし、黒板勝美が自身の作業を手伝う助手として指名されていたということは黒板が原田のことを高く評価していたことの表れではなかろうか。ちなみに黒板勝美の甥にあたる黒板伸夫も旧制武蔵高等学校の卒業生であるが、伸夫が武蔵に進学することに決まったことを報告すると勝美は大変喜ばれたという*13。伸夫は18期卒業生で昭和20年(1945)に卒業しているので、原田の授業を受けてはいないが、黒板勝美にしてみれば、自分もよく知っている教え子が教えていた学校に甥が入学したわけで、喜んだ背景には単純に旧制高校入学を祝う以外の気持ちもあったのではないだろうか。  いずれにせよ、原田亨一は、学生時代から人の面倒を見るのが好きな世話焼きの人物で自分の研究だけでなく、他人の研究の手伝いや仕事を熱心に行う学生であったことがうかがい知れる。このような学生生活を経た上で旧制武蔵高等学校の教員となったわけで、世話好きな一面は、生徒と積極的に関わっていく原田亨一の教育スタイルとして旧制武蔵高校の教育にも大きな影響を与えたものと考えられる。 2、研究内容  原田亨一の論考は多いとは言えない。若くして亡くなられたことを勘案しても多い方ではないだろう。以下が確認できた活字化されている論考である。 1928年『近世日本演劇の源流―阿國歌舞伎の内容と其の發展を中心として』至文堂 1929年「信西古学圖にあらはれたる原始散樂の研究」『歴史教育』4―2 1929年「正倉院御物弾弓にあらはれたる原始散楽」『寧楽』12 1934年「平安時代の藝術」國史研究會編輯『岩波講座日本歴史 第3(上代2)』岩波書店 1934年「伎楽雑攷」『寧楽』16  これら一つ一つの論考に対して論評を加えることは避けるが、注目すべき点として、演劇史を扱う関係上からか、文献資料のみにとらわれず、信西古楽図や正倉院宝物に見える絵柄などに注目されている点があげられるであろう。文字資料にとらわれずに研究する姿勢が教育に与えた影響も十分に想定される。この他にこの様な原田の研究姿勢、能力を伺うことが出来る場面としては大学院での研究会での報告内容があげられる。以下、長文ながら原田の研究報告に関わる部分を全文引用した。      第五回例会   十一月廿八日?午後四時より史料に於て開き、五時半散會。本日は原田氏の研究發表があつた。即ち法隆寺四天王像一躰の銘文〈山口大□費上斤次木閇二人作也〉とある下に行久皮臣とあるのを行久皮臣(イクハノオミ)と解され、此の人は造像を手傳ひし人ならん云はれ、應神紀に高麗より献ぜる鐵の盾(的)を射通してイクハノ臣なる姓を與へられた者の子孫ならんとて、新撰姓氏録其他國史の記事を引用して考証された。黒板先生は評されて行にイなる発音なくユクと訓むべきであるが、行は伊と解する方可ならんと言はれた。又工藝に直接手を下すは雑戸等の賤民で姓を有する者が手を下す筈なく、又應神紀にイクハノ臣なる姓を賜つたとある記事は地名解釋説話と同じく、子孫が其の祖先を飾り、又その姓を説明せんが爲に作爲せる家の纂記の如きもので信用するべきものではないとの御説明があつた*14。    (中略)   〇志貴山縁起に見える東大寺大佛殿に就て 原田亨一君   志貴山縁起三巻中尼君の巻にある東大寺大佛殿は天平創建當時のスケツチではあるまいか。現在の大佛殿は7X7、天平當時のは11X7である。志貴山縁起のは鎌倉時代のものではない。大佛記、東大寺要録、扶桑略記によれば、鎌倉時代のものは天平時代の土台の上にそのまゝ作られた。志貴山縁起のは正面に扉七ツあり。東大寺要録には扉十六とある。今の大佛は石台の上に蓮座があるが、志貴山縁起の図には石台のかはりに瑪瑙石(東大寺要録)の蓮辨の上に坐して居る。此の瑪瑙石の蓮辨の模様は三月堂の不空羂索觀音の蓮辨と同一形式である。この蓮辨にも三千世界の図があつたであらう。又志貴山縁起には脇侍が見えて居る。現在の石段は三つあるが、志貴山縁起のは五つに区切られて居る。石壇上の欄干は図のと同様なものが今もある。組物は図では二手先組となつて居る。又その左右の小壁に唐草模様がある。図中の一本燈籠は今も変りはない。恐らく志貴山縁起に見える図は天平創建のものであらう*15。  第5回例会報告では、法隆寺四天王像の銘文について「片文皮臣」と読まれていたものに対して、「行久皮臣」(イクハノオミ)と釈読し、仏像制作を担った人物の名前ではないかとされている。これに対して黒板勝美は、「行」には「イ」という音はなく、「伊」ではないかとされ、さらに『日本書紀』にみえる「的臣」の伝承については氏族伝承であることから史実かどうかには慎重であるべきという史料批判を展開しており、あくまでも実証、論証的歴史学を志向しようとする当時の東大国史研究室の研究姿勢が見て取れる。  実は、この文言を「イクハノオミ」と読むことは、その後に東野治之によって1960年代以降出土するようになった木簡等を用いて論証されており、原田の見解は―「行」と釈読した以外は―正当であったことが実証されている*16。時代状況―木簡等の出土史料が存在しない時代―から論証過程に問題があるとはいえ、史料を読み取る能力は戦後歴史学の研究者と比べても遜色がないことが明らかである。  美術史料を多用する点は第7回報告でも看取され、志貴山縁起絵巻に見える東大寺大仏殿の構造から絵巻に記された大仏殿を天平創建当初のものと解釈する点は、美術史的、建築史的視点が欠かせない。原田は、昭和6年に大学院を退学されており、この他の研究内容を明らかにすることは叶わないが、この二回の報告内容が分かったことによって、①史料読解能力、②美術史に対する見識、③建築史に関わる知見、④それらを積極的に活用する先見性といった原田の歴史学的素養が明らかになったと言える。  特に原田は武蔵高等学校に着任後、昭和4年(1929)に文化学部の事業として拓本展覧会を実施しており*17、この時には、国史学研究室所蔵の拓本を多数借用して実施している様子が明らかになっている。現在の東大日本史学研究室では、黒板勝美を中心として行われた全国の金石文拓本が所蔵されており*18、『校友会誌』の目録と所蔵拓本がほぼ一致する。また、採拓が行われた時期は原田の在学期間に一致していること、また、大学生、大学院生時代の懇話会にて黒板勝美が日本史を勉強する者の心得として様々な分野に精通すべきことを縷々述べていることから考えても、美術、芸術史料活用の積極性は黒板勝美の薫陶を受けたものであろう。そして、この黒板勝美の教えを受け、拓本展覧会に代表されるように武蔵高等学校では、単なる文献史料に捉われずに様々な史料に基づいた歴史教育が校友会活動を含めて行われたものと考えられる。 おわりに  以上、原田の著作や研究内容、また同窓生の回顧録より原田の研究姿勢や目的意識、その識見と能力についてみて来た。最後に、原田の授業を受けて、歴史分野に大きな足跡を残した二人の太田による原田亨一に関する回顧について見て筆をおきたい。原田亨一の授業内容について、4期(文)卒業生で帝大国史研究室を卒業し、史料編纂所教授を務められた太田晶二郎は以下のように回顧されている。  旧七年制私立武蔵高等学校の国史の時限、教授原田亨一先生が小冊子を生徒に配って、読めと命ぜられたので、皆、目を白黒させた。何しろ上宮聖徳法王帝説證注(『日本古典全集』本抽印)というしろ物だったのだから、  時処移って、東京帝国大学の国史十一日会、昭和七年六月例会、「宮田〔俊彦〕君引く所の法王帝説の問題から、一年生太田晶二郎君立って明快に是を論じて気を吐く」。此れは『史学雑誌』第四十三編第七号、彙報、一三九頁にまさしく記録する所である。本当に「明快」であったかどうかは保証せぬが、半家言ぐらい持っていたとして、入学後二個月そこそこだったのだから、失礼ながら大学の御蔭ではない、原田先生の賜ものにほかならぬ*19。  同じく4期(理)卒業で、帝大工学部建築学科を卒業し、後に武蔵学園の学園長も務められた太田博太郎は以下のような回顧談を民族文化部の創立五十周年記念号に掲載されている。  原田先生は、三高の理科を出て、六高の文科に行かれた。それで若干、他の生徒より年が上なもんですから、それに人の世話をするのが好きだからということもあるのかもしれませんが、当時からオンケルというあだ名があって、自分でも気に入っておられた。で、我々もオンケル、オンケルと呼んでおりましたが、そのオンケルさんの三高の時の同級生に長谷川輝雄という人がいた。東大の建築史の助教授になってすぐ、昭和二年に亡くなられてしまった。それでオンケルは自分の弟子の中から、将来を非常に属目されながら若くして亡くなった、親友、長谷川さんの代わりになる様なやつを作っておきたいと思っておられたらしい。ただ建築史は、ヨーロッパでは考古学者、または美術史家がやるけど、日本では建築の卒業生の商売になっている。当時、工学部に建築学科があったのは、東大と京大と東工大ですけれども、いずれにしても理科を卒業した人間でないと入れない。だから武蔵の理科の生徒の中で歴史が好きなやつはいないだろうかと探しておられた。そういう風にはっきり聞いたことはないんですが、遊びに行くと遅くまで引き留めて話しをされる、その口裏を察すると、どうもそういう意図があった様です*20。  武蔵高校の授業内容については、一般的にアカデミックな内容と評価されることがしばしばであるが、太田晶二郎の回想は、旧制時代から原文にあたって授業を行う様子が看取され、校風の淵源が旧制時代に遡ることが出来そうである。旧制時代の武蔵については、少数精鋭のがり勉と評されることもあるが、単なるがり勉とは言い切れない側面があることがみてとれるだろう。また、太田博太郎の随想からは、「十年後の研究室を目標とすべし」と発言されたように、将来を見据えた人材育成を行っていこうという姿勢が感じ取れる。  拓本展覧会を開くなど原田が精力的に活動された文化学部は後に民文の愛称でよばれる「民族文化部」と改称されて、現在まで続き、その卒業生の少なくない人数が歴史学者として育っていったことを考え合わせれば、原田の業績には軽視できないものがあるだろう。また、拓本展覧会では、東大国史研究室から多数の拓本を借用しており、武蔵高校と東大国史研究室との浅からぬ関係が見て取れ、その両者の間に原田の存在があることは疑いない。本文はあくまで武蔵の歴史を明らかにする目的の一端として執筆したが、本文を通じてより広い範囲に原田亨一という興味深い人物がいることが知れ渡れば幸いである。 ↑ 校舎脇での集合写真、前列中央が原田亨一教授。   ↑ 民族文化部の記念祭における展示と思われる写真、左から二番目が原田亨一教授。   脚注: *1 武蔵高等学校校友会編集・発行『故原田教授追悼 校友会誌別号』1938年。 *2 坂本太郎『古代史の道 考証史学六十年』1980年、62頁。 *3 服部幸雄『歌舞伎成立の研究』風間書房、1968年、14~17頁。 *4 武蔵高等学校校友会編集・発行『故原田教授追悼 校友会誌別号』1938年、8頁。 *5 東京大学文学部日本史学研究室所蔵『東京帝国大学文学部国史研究室十一日会記録』同日条。 *6 東京大学文学部日本史学研究室所蔵『東京帝国大学大学院学生談話記録』第一回記録。 *7 武蔵高等学校校友会編集・発行『故原田教授追悼 校友会誌別号』1938年、10頁。 *8 武蔵高等学校校友会編集・発行『故原田教授追悼 校友会誌別号』1938年、7頁。 *9 坂本太郎『古代史の道 考証史学六十年』1980年、89頁。 *10 坂本太郎『古代史の道 考証史学六十年』1980年、88頁。 *11 皆川完一・山本信吉編『国史大系書目改題』下、吉川弘文館、2001年、955頁。 *12 坂本太郎『古代史の道 考証史学六十年』1980年。98頁。 *13 黒板伸夫・永井路子編『黒板勝美の思い出と私たちの歴史探求』吉川弘文館、2015年、4頁。 *14 東京大学文学部日本史学研究室所蔵『大学院国史学科専攻学生談話会記録』昭和四年十一月廿八日付第五回例会記録。 *15 東京大学文学部日本史学研究室所蔵『大学院国史学科専攻学生談話会記録』昭和五年六月十九日第七回例会記録 *16 東野治之「法隆寺金堂四天王像光背銘の「片文皮」」(『東京国立博物館研究誌』388、1983年)。 *17  『校友会報』(9〈分冊1〉、1929)16頁、太田博太郎「民族文化部創立当時の思い出―OB会講演より―」『民族文化部五十周年記念随筆集』(武蔵高校民族文化部OB会、1980年)6頁。 *18 佐藤信解説「東京大学日本史学研究室架蔵拓本目録」、「東京大学日本史学研究室架蔵拓本目録索引」、「東京大学日本史学研究室架蔵拓本目録(続)」(『東京大学日本史学研究室紀要』創刊号、2、3、1997~1999年)。 *19 太田晶二郎「『上宮聖徳法王帝説』夢ものがたり」『太田晶二郎著作集』第二冊、吉川弘文館、1991年、初出1960年、9頁。 *20 太田博太郎「民族文化部創立当時の思い出」武蔵高校民族文化部OB会編集・発行『民族文化部五十周年記念随筆集』1980年、6~7頁。
2018.07.26
「武蔵のゼミ」 ここが出発点!
はじめに  大学開学当初からの「少人数制教育」および旧制武蔵高等学校時代から引き継がれた「三理想」の精神を具体化したカリキュラム「ゼミナール教育」。  「経済学部経済単学科時代(1949~1958年)」「経済学部経済・経営複学科時代(1959~1968年)」「経済学部・人文学部複学部時代(1969~1991年)」そして「学部改組、カリキュラム改正に伴う新たな展開(1992年~)」の過程において「ゼミの武蔵」と称されるほどとなり、「ゼミ」の果たす役割は大きい。   旧制武蔵高等学校開設当時の少人数制教育  「少人数制教育」は旧制武蔵高等学校時代の特色であり、まずは旧制武蔵高等学校開設に際しての教育指針「国際的な感覚を持ち、自主性のある人材の教育を目標とした」視点を史料から見ることにする。  一木喜徳郎初代校長は、「我国民の教育的欠陥は外国語に不鍛錬なことである。最近国際連盟規約の批准事務を掌った私は特にそれを痛感して現在の教育制度では到底『世界の日本人』を作ることは難しいと考えた。故に新設の私立高等学校の特色を其処に求めて力を尽くしたい」と、校長就任に際し述べられている。そして「外国語教育の重視を宣言した」と1921年5月11日の朝日新聞ほか各紙に報じられた。  実際の「英語」の授業では、40人の一クラスを20人ずつの2組に分けて別々に行う「分割授業」が採用された。これは山本良吉初代教頭の熱心な主張を容れたものであるという。  また、分割授業という形態は新制時代に受け継がれ、1953年(昭和28年)より英語・数学の一部に実施することになった。さらに1966年(昭和41年)より中学1・2年の理科にも取り入れられた。  他の教科の特色も見てみる。  「修身」これは今日の道徳あるいは倫理に当たるが、山本初代教頭(第三代校長)が尋常科の全生徒の授業に当たった。生徒の日常の生活と行為に直結した具体的問題について、個人としてまた社会人として踏むべき道を説いた。教科書によって教えるというよりはむしろ独自の個性を通じて生徒一人ひとりと接触する方法をとった。12~13歳の少年期において基本的なしつけを身につけねばならぬというのが山本初代教頭の信念であり、それによって徹底した教育を行った。  「国語・漢文」は三大理想の一つである「東西文化の融合」の観点から特別の配慮があり、「数学・理科」は三大理想の中の「自ら考え自ら調べる能力」という観点からも大きな比重がおかれた。  小学校卒業者を入学させて7年間の教育を施して、大学に進学させるのであるから、自然に「エリート教育の形態」をとらざるを得ない。開校当初から「厳選少数教育」を目指したのであった。   武蔵大学の草創期― 「特殊研究(ゼミナール)」の導入  次に、大学開学に際し、「旧制武蔵高等学校の伝統」が、どのように反映、引き継がれたのか当時の入学志願要項、大学入学案内などを見てみる。  1949年度(昭和24年度)入学志願要項には、「経済理論、経営実践の各種講義及び演習による十分な専門知識と、社会人、経済人としての必要な高度の科学知識並びに豊富な文化教養を有する有能な実力ある人材を育成せんとするものである」と記されている。  1950年度(昭和25年度)入学志願要項には、「将来の日本経済界に活躍する経済人として充分な専門知識と、豊富な文化教養とを有する、実力ある人材を育成せんとするものである。なお、本学には武蔵高等学校・武蔵中学校を併設して「その伝統による教育」をもって日本文化の向上に寄与せんことを期している」と記されている。  1951年度(昭和26年度)入学案内には、「本大学は、旧制高等学校以来の豊富な教育経験を基幹とし、これに優秀にして豊富な教授陣容を整備して、比較的少数の学生に徹底した教育を施し、真の実力を養い正しい人格を培い現実社会に正しく強く生きぬくことのできる人物を養成することを特色とする。教授と学生との密接な交渉は相互の人間的信頼の上に、知識の徹底的な習得と中正穏健な思想の形成と高潔な人格の陶冶を可能ならしめるもの」と記されている。 また、「学則」の項では、「特殊研究(ゼミナール)」について、「最初の二学年においては毎年四単位、以後は八単位以上の特殊研究を取得することになっている。これは学生がその希望する学科を選んで担当教授指導の下に特に自発的な研究を行うものであり、又教授・学生間の密接な接触によって人格陶冶に資せんことを期している」と謳われている。  1949年(昭和24年)4月の第一回入学式において初代宮本和吉学長(旧制武蔵高等学校第五代校長)は「本学は過去の伝統にこだわらず、いわば処女地を開墾し、新しい伝統と校風を築いていくが、『視野の広い、世界人としての日本人、自ら調べ自ら考え、批判的精神を失わない日本人をつくり上げる』というモットーを大切にしたい」と述べ、「この大学を良くするも悪くするもすべて諸君の今後の努力にかかっている。武蔵大学の歴史を先ずつくる人、それは諸君である」と結んでいる。  そして、初代鈴木武雄経済学部長は、宮本学長が描く「新しい伝統と校風」の具体化として武蔵大学の第一の特色「少数精鋭主義」を基本とする教育方針を前面に打ち出した。  もともと旧制武蔵高等学校は、少数学生を徹底的に教育することを校是として大きな成果を上げていたから、武蔵大学がそれを大学教育の「場」において実現できるのであれば、極めて望ましいわけである。  第二の特色は、「全学ゼミナール制」と「指導教授制」。これは「少数精鋭主義」の具体的な面であり、旧制武蔵高等学校以来の建学の三大理想の一つの「自ら調べ自ら考える力ある人物」の育成には最もふさわしいものであって、マスプロ大学ではない武蔵大学にして、はじめて採りうる制度であるといってよい、と位置付けている。  「全学ゼミナール制」は、第1年次および第2年次を「教養ゼミナール」、第3年次および第4年次を「専門ゼミナール」とし、学生すべてが専任教員の担当するゼミナールのどれかに入れるように全ての専任教員がゼミナールを開講、毎学年のゼミナールを必修科目とするものである。  なお、1969年に開設した人文学部においては、これを「演習」と呼称したが、当時の人文学分野では「ゼミナール」はなく、「演習」と呼称する傾向にあったと、星野誉夫名誉教授から史料調査の段階でご教示頂いた。  「指導教授制」は、このゼミナール制の基盤の上に設けられたものであって、ゼミナール担当の教授・助教授・専任講師がそのゼミナール学生の指導教授となり、ゼミナールにおける学問研究の指導とともに、それとは別の学生の思想・生活その他あらゆる面にわたる親身の相談相手となるものである。  この「ゼミナール制」と「指導教授制」によって、教授と学生の接触が深まり、他大学には見られない相互信頼のヒューマン・リレーションが形成されたことは、武蔵大学の特色となっていく。 ゼミナールの様子 1951年(昭和26年)「武蔵大学入学案内」より    ここで鈴木武雄経済学部長についての「思い出」を一つご紹介する。  1992年に就任した第八代櫻井毅学長は、かつて1948年4月、新制武蔵高等学校2年に編入されたが、随筆集『思い出に誘われるままに』の中、「武蔵高等学校時代の思い出」で、鈴木学部長が新制武蔵高等学校の「社会科」の授業もされたことを記している。「高名な学者が武蔵大学にこられて、われわれの社会科の授業を担当してくださるということに、大いに誇りを感じたものだ」、「その授業方法について、前半は講義をされたが、後半は『いわゆるゼミ形式』を取るといわれ、報告者を指名して順々に報告させた。社会科ということで内容は生徒に完全にゆだねた。生徒は勝手にテーマを決めたため、テーマによっては「あまり行き過ぎないように」と苦笑され注意を与えられたほどだ」、と回想されている。  大学開学から8年が経過した1957年度(昭和32年度)の『武蔵大学概覧』に、当時の鈴木武雄経済学部長が「本学の特色」と題する一文を草している。  「武蔵大学は、大学としては新しいとはいえ、創立以来すでに満8年を経過し、その間卒業生を世に送ること5回におよんでいる。したがって旧制武蔵高等学校の光輝ある伝統の校風の上に、いまや大学としての独自の学風もほぼ確立されたといってよい。それは、学生数を比較的少数にとどめていることによるであろうが、教授と学生の間がきわめて親密だということである。本学は、基礎的な講義のほかに、ゼミナールに大いに力を入れているが、一般教育および専門両課程の専任教授・助教授総員が担当しているので、全学生は、一人残らず毎年ゼミナールに入ることができ、且つ1ゼミナールあたり学生数が20~30人であるため、行き届いた効果的な研究指導が可能である。また、とくに指導教授制なるものを設け専任の教授・助教授一人当たり平均20~30人の学生を配属したグループをつくり、教室以外の師弟同行の場として、緊密な接触指導を行うとともに学生の勉学および生活上のよろず相談相手たる役を果たしている。(中略)こういうことは充実した教授陣に対し学生数が比較的少数であるからこそ可能なのであって、他のいわゆる『大』大学には見られないところの本学独自の学風として、私どもひそかに自負するところである。」   文系総合大学をめざして  経済学部に人文学部を増設、複学部体制移行に際し、武蔵大学事務部編『武蔵をめざす友へ』《武蔵の青春群像 No.5 1968年(昭和43年)》に、第三代正田健次郎学長が「武蔵の教育理念」と題する寄稿がある。  「国際的な感覚と知識を身につけた人材を生み出す。身につけるためには自主的に調べ、考えなくてはならない。これが武蔵大学の建学以来の理念であり方針である。このことは本学に限るわけではないが、大学において、特に大切だと思う。  大学教育を受けることによって学生は何を得ようとすべきか。学士の称号を得ることでもない。スポーツの選手になることでも勿論ない。良い職場を得ること、つまり働き甲斐のある職につくことも望ましい結果ではあっても、大学教育の直接の目的とはいえない。  大学では自己と社会との関連に於いて確立し、あわせて社会の一員として役立つ専門の知識技能を身につけること、それ自体を目的として専念すべきである。  科学技術の進歩は世界をますます狭いものにし、今日では国際的視野に立たなくては、何事もなし得ないようになった。本学の教育理念として重視してきた国際的感覚の重要性は、現在の時点に於いて特に強調すべきであろう。学校教育においては、本学に限らず、ともすると知識を偏重するきらいがある。知識はそれが働かされて初めて効能があるので、そのためには感覚にまで深められていることが望ましい。換言すれば身についたものにすることである。自ら調べ自ら考えるという、本学の教育方針はそのためであり、それも教授との密接な接触により、その個人的指導のもとに行なおうとしているのである。  知識の切り売り的な、書物を読んで事足りているような教育は本学のとらざるところである。  本学が開学以来経済学部だけの単科大学として今日に至り、ようやく明年度より人文学部を増設することになったのもこの望ましい姿を無理なく堅持するためであった。将来もこの姿を教職員・学生が一緒になって更に徹底させていくように努力したい。」  その後、1992年(平成4年)からは学部改組、カリキュラム改正に伴う新たな展開が進められている。  2005年(平成17年)10月、「武蔵学園将来構想計画」が学校法人根津育英会から打ち出された。その中で「大学のビジョン」として、  「武蔵大学は、21世紀の新たな時代と社会において大学に求められる知の創造、継承と実践にその教育研究活動を通じて貢献すること(「知と実践の融合」)を基本的な理念とし、知的実践の基盤となるリベラルアーツを重視した教育に重点を置く大学としてその社会的使命を持続的に果たしていくことを目指す。」  と記され、この理念・使命の達成のための教育・研究活動等の基本目標を、次のように定めている。  『教育の基本目標』として、「建学の三理想」と「自由闊達な学風」の今日的な意義と有効性を踏まえ、その新たな展開を図る。すなわち、①自ら調べ自ら考える(自立)、②心を開いて対話する(対話)、③世界に思いをめぐらし、身近な場所で実践する(実践)ことができる資質・能力を有し、21世紀の社会を支え発展させ得る「自立した活力ある人材」を育成する。   おわりに 繋げよう武蔵の伝統  この新たな展開の中でスタートした「三学部横断型ゼミナール」、その運営に必要とされる能力として「社会人基礎力」を求めている。その社会人基礎力の活用を含めた三学部横断ゼミナールの具体的実践内容を卒業生にもアピールする目的で、「大学開学60周年記念オールカミング(2010年(平成22年)3月6日開催)」プログラムの一コマに組み入れた経緯もある。  大学開学以来積み上げた約70年の重み、それを未来に確実に繋ぐためにも卒業生の協力も一層重要になると感じる。「自ら考え、そして実践する姿勢」は、卒業生としてずっと持ち続けていきたい。 【主要参考文献】 『武蔵五十年のあゆみ』 (1972年 昭和47年) 『武蔵七十年のあゆみ』 (1994年 平成 6年) 『武蔵九十年のあゆみ』 (2013年 平成25年) 『武蔵大学五十年史』  (2002年 平成14年)  『随筆集 思い出に誘われるままに』 櫻井 毅 (2007年 平成19年)  キャンパス内の緑陰でのゼミナール授業風景。中央は近藤康男教授。  『武蔵大学五十年史』2002年(平成14年)に掲載
2018.07.13
智の邂逅ーー単学部からの飛躍
高津春繁と正田建次郎
人文学部を生んだ世界的数学者と言語学者の出会い  1955年からの数年間で、経営学科の新設と大規模な施設計画をほぼ完成した武蔵大学は、少数教育を基盤に「経済の武藏」「ゼミの武蔵」の社会的評価を確実なものにした。さらに1963〜4年ごろには、研究・教育の一層の充実のために複学部への発展が求められるようになった。こうしたなか、1965年、正田建次郎元大阪大学学長(1902-1977)が武蔵大学学長・武蔵高等学校中学校校長に就任すると、7年後にせまった学園創立50周年を念頭に、大学の質量両面の拡充に着手。その成果は1969年、人文学部の創設という具体的な形となった。この人文学部創設には初代人文学部長を務めた高津春繁(こうづ・はるしげ 1908-1973)前東京大学教授の役割が大きい。世界的数学者と言語学者という異なる分野の知性の邂逅をふりかえる。 ■長イスでの長考——文学部ではなく、Humanities 人文学部へ  自宅の南に向いた居間に置かれた長イスには、冬の穏やかな陽が舞い降りていた。1967年、師走半ば、東京大学教授高津春繁は、昼食後この長イスに横たわり、陽射しに包まれながら2時間以上も瞑目したままだった。比較言語学、ギリシア文化を中心とする西洋古典学の大家は、どんな小文でも大著でも、なにかを纏め決断するときには、この長イスで沈思黙考するのが習わしだった。やがて、陽が傾き部屋が薄暗くなった頃、高津はゆっくりと起きあがると机上のメモに力強い字でこう書き留めた「Humanities 人文学部」。  高津は神戸市にうまれ、旧制第六高等学校から東京帝国大学文学部言語学科に進んだ。卒業、オックスフォード大学に留学。帰国してすぐに辻直四郎(つじ・なおしろう 古代インド学・言語学)から引き継ぐ形で東京帝大の講義を受けもった。その内容をもとに上梓した『印欧語比較文法』は今でも比較言語学の研究者が避けて通れぬ1冊であり、さらには19世紀には受け入れられなかったソシュールの評価にもつながった。1951年には東京大学文学部教授に就任、第3代日本西洋古典学会会長も務め、呉茂一(くれ・もいち)とともに西洋古典学、とくに古代ギリシア文学研究の泰斗となっていた。  高津が師である辻から、「経済学部単学部の武蔵大学が『文学部』を増設する計画がある。ついては学長の正田建次郎氏と会ってほしい」といわれたのはその年の秋のはじめである。理知的だが義に篤い高津にことわる理由はなかった。  正田建次郎武蔵大学学長・武蔵高等学校中学校校長(当時)に高津が学士会館で面会したのは秋も深まった11月である。そして師走はじめには、正田邸で辻と桂壽一(かつら・じゅいち 哲学者)を顧問に招き、新学部創設のミーティングが行われた。この席には上野景福武蔵大学教授らも参加。高津が正田学長以外の武蔵大学の関係者と接触したのはこのときが最初のようだ。  高津はもちろん正田建次郎の名前は知っていた。武蔵の創設者根津嘉一郎の親友である正田貞一郎の次男にして皇太子妃(当時)の叔父、そしてなにより世界的な数学者であるとともに大阪大学中興の祖といわれた学長としての実績は、専門の異なる高津にとっても十分認識できていた。    だが、高津は学士会館での初面談と会合で、人間としての正田建次郎のスケールと魅力に惹かれてしまう。正田学長の堂々たる体躯に矛盾しない、細事に動じない大らかさと真摯な態度。学問に対する志の高さと造詣の深さ、さらに新学部創設への熱い思いに高津は大きく心を揺さぶられたのだ。 ■哲・史・文、全てを包括——人間の人間たる理由を培う人文学部=LIBERAL ARTSへの旅たち  新学部創設に向けた第1回会合からほどなく、高津は正田学長に招かれて武蔵を訪ねた。大講堂から濯川、そして諸施設を正田学長直々の案内で見学したが、敷石の1枚、樹木の1本にまで学長の思いがこもっているのを高津は感じた。それは、一貫して官立で学び教鞭をとってきた高津にとっては私学ならではの緻密かつ和らいだ空気感だった。高津はまた、そのときに武蔵高等学校の教育プログラムにも強く関心をもち、後に久美子夫人に「あのような高校で教えてみたい。いや、もう一度生徒になって学んでみたい」と語っている。  かくして、「あの学長のもとでなら」と、高津は武蔵大学文学部創設に協力する意志を固めた。しかし学部新設には、さまざまな準備作業、人事や財務面の計画立案や交渉などが山積した。根っからの研究者であり、けして実務派ではなく、しかもすでに専門分野では大家であった高津だが、年末から翌春にかけてはまさに「師走」を過ごすことになった。翌年には東大の定年退官を控え、それ以後は愛してやまないギリシア研究に没頭することが高津の計画だった。だが、正田学長との出会い、抽象代数学と比較言語学という狭義では異質な分野の、しかし広義に言語・記号に水源をもつ智という意味では、重なりあう部分をもつ学問の専門家同士の邂逅が生み出した熱量が高津をつき動かした。  高津の人文学部創設への思いは、以下の文部省に提出された人文学部設置認可申請書のなかの「設置要項」に明確に示されている。  「人文学はもともと、ローマのキケロによって提唱せられたhumanitasに由来し、人間形成のために必要な諸々の知識と、その結果の正しい応用を意味した。それが中世から文芸復興期にいたるとlitterae humanioresとして西欧における教育の基礎と見做され、ギリシア、ローマの言語への深い理解の上に立ち、文学、思想、歴史はもとより、広く芸術全般、これらを培い育てる社会そのものに対する把握を加えて織り成された高い叡智を教養する学問と考えられたのである。  新たに設立を計画している人文学部は上述のような、人文学に対する理解にもとづき、広い視野をもつ人材の育成を主眼とする。学部は欧米文化学科、日本文化学科、および社会学科の三学科をもって構成される。前二学科において「文学」の名称をさけて、あえて「文化」とした理由は、人文学に対する上述の基本理由から、在来の文学部に見られるような晢・史・文の狭い垣根を意識的に除去し、人間存在と文化伝承の中心をなす言語の習熟を基盤に、広く思想、文学、芸術、政治、経済、社会等に関する専門知識を授けて、幅と厚味のある人格の養成を目指したためである。欧米文化学科と日本文化学科の併設を意図した理由は、西欧文化の中心的担い手である英・独・仏三民族の文化や生活、その深い影響の下に独自の新旧文化の文脈を形成しつつある日本民族の生活や文化に対する相互理解と専門的研究の必要を痛感したが故である。また、社会学科は、東西文化交流の一拠点として、独特の状況を展開しているわが国社会構造全般の解明を中心に、制度や文化を運載する生活共同体そのものの維持発展に対する偏らない把握をねらった科目を編成している。  とくに、専門教育課程に豊富な共通科目をおいたことは、前記理念を卒直に具体化したものであって、在来の縦割りシステムからくる独善的なセクショナリズムの弊を排除しつつ、人間形成のために必要な専門知識を広く習得させる意味をもち、本学部の特色の一つとするところである」 ■ソークラテースやプラトーン、アリストパネースのように    かくして1969年2月8日、武藏大学人文学部の設置が認可され、同月末と3月に2期に分けて入学試験が行われた。定員は欧米文化学科100名、日本文化学科50名、社会学科100名である。  4月1日、武蔵大学人文学部が開設され、初代学部長に高津が就任した。8月には3号館の学部増設に伴う改修工事が完成し、人文学部研究室、学科研究室、演習室、教室などが整備された。単学部単学科でスタートした武蔵大学の新たな旅たちである。おなじく4月には大学院経済学研究科経済学研究科選考修士課程も設置され、学園創立50周年事業は着々と進んでいた。また、秋には正田建次郎学長・校長が文化勲章を受賞するという慶事もあった。  しかし、1968年ごろからから大学立法や沖縄返還協定、日米安全保障条約自動延長などをめぐって「学生運動」が全国に広がっていた。武蔵大学もそれと無縁ではなく、さらに学費改定とあいまって学生集会やストライキが行われた。学生側の要求する団体交渉は、野次と怒号が飛び交う交渉とは呼べないものだったが、正田は学長として、高津は学部長としてできるかぎり学生の声に耳を傾けた。そうした大学紛争への対応は両名にとっては大きな心労であっただろう。  高津は人文学部の準備中から「第1回の卒業生が出た際には、彼らとともにソークラテースやプラトーン、アリストパネースのように酒を酌み交わしながら学問を、社会を、そして人生を語り合いたいものよ」と夫人に語っていたという。また、一日も早く大学院での専門の講義をできるようにと準備もしていた。  高津は1972年、紫綬褒章を受賞した秋ころから体調をくずし、学部長を努めることが困難になり療養生活に入った(上野景福教授が学部長代理)。明けて73年3月には第1回人文学部卒業生284名が誕生し、4月には高津の念願だった大学院人文科学研究科が開設するが、5月4日高津春繁はその研究と学生の育成に捧げた生涯を閉じた。  正田建次郎学長・校長は、1975年、新制度により設けられた学園長に就任し、武蔵学園全体の発展に尽力したが、1977年3月20日、講演先の足利市で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。武蔵高等学校中学校卒業式の翌日だった。  正田建次郎が武蔵で過した12年間のエピソードについては、あらためて紹介したい。 ※タイトル写真=正田建次郎初代学園長(左)、高津春繁初代人文学部長 写真1枚目=1969年度の武蔵大学の学生募集ポスター 写真2枚目=日本文化学科の演習報告書 写真3枚目=1973年3月21、人文学部第1回卒業式で卒業生一人ひとりと握手する正田学長(中央)。この卒業式(学位授与式)での学長と学部長による 握手による送りだしは現在も続いている  
2018.07.09
清濁を呑み今日も流れる
濯川(すすぎがわ)物語
 武蔵学園内を流れる濯川は、春の桜、初夏には新緑、秋は紅葉と、四季の移ろいを水面に映しつつたゆとい、生徒・学生・教職員のみならず近隣の人びとや訪問者に安らぎと潤いを与えている。校内に池や噴水などの水がある学校は少なくないが、川が流れる学校は稀だ。  武蔵学園の魅力のひとつに23区でありながら校地の自然の美しさが挙げられるが、濯川は大欅とともにその象徴といえる。 ■320年前からの流れーー千川上水中新井分水  濯川という名称は古来よりのものではない。その起源は元禄9(1696)年、5代将軍綱吉の時代まで遡る。この年、綱吉は江戸城以北の飲料水確保の名目で玉川上水を水源とする上水の開削を指示し、現在の武蔵野市と西東京市の境界付近から取水された水は、巣鴨から地中に埋めた木樋を通り、湯島、本郷、白山、外神田、浅草の一帯を潤した。しかし一方で、綱吉の小石川の別荘、湯島聖堂、寛永寺、浅草寺、さらに綱吉が重用した柳沢吉保の下屋敷(六義園)にも大量の導水がなされた。  総距離は22キロメートルに及び、高低差は約40メートル。寛永時のある上野の台地にもサイフォン効果で水をあげる技術が用いられていた。設計は政商の河村瑞軒。開削には仙川村太兵衛、徳兵衛があたった。この二人は後に仙の字を改め千川の姓が与えられ水流の管理も委託された。「千川上水」の名はここからである。   その10年後、それまで天水に頼り幾度も干害に苦しんできた千川上水沿いの20か村から農業用水としての使用が嘆願され、現在の練馬区、豊島区内7か所から分水が引かれた。当時としてはかなり規模の大きい灌漑、Irrigationであり、なんと米田1反歩あたり玄米3升の料金を取っている。この7分水のひとつが中新井分水で、正確には中新井分水は3本あり、その1本が大講堂裏手から武蔵学園内を抜けて東門の先の北新井公園付近から目白通りを横切るように南下して国立中野療養所跡地手前で中新井川に合流していた。 ■命名「濯川」———憂国の詩人、屈原の漢詩から  大正11(1922)年の武蔵開校時には、中新井分水は幅30センチメートルほどの細い流れだった。生徒たちは運動の後に手を洗い、近隣の人びとが野菜を洗ったりもしたと記録にある。その後、武蔵の生徒たちが授業として川幅を広げ、橋を架け、島も築き、大正14(1925)年に山本良吉教頭によって「濯川」と命名された。  出典は、BC4世紀からBC3世紀に活躍した楚の詩人、屈原の以下の詩による。  滄浪之水清兮 可以濯吾纓 滄浪之水濁兮 可以濯吾足 「楚辞」巻七「漁父」  滄浪(そうろう)とは揚子江支流の漢水下流のことで、纓(えい)とは冠の紐の呼称だ。詩の大意は「滄浪の水が澄んでいるなら冠の紐を洗い、もし濁っているのなら自分の足を洗う。すなわち世の清濁に応じて生きよ」である。  屈原は文学的才能のみならず政治にもすぐれ、かつ強力な愛国者であった。しかしできすぎる者は妬みと嫉みの標的になる。屈原は、楚にとって西方の脅威である秦との同盟を思いとどまるよう楚王に進言したこことがきっかけとなり、地方に左遷されてしまう。この詩は、傷心の屈原が、漁父に出会い「潔白にストレートに生きたい」と主張したことに対する漁父の助言に感銘をうけて書かれたものだ。  命名者の山本良吉は昭和3(1928)年の「同窓会報」に次のような一文を寄せている。  「(前略)川の水、時には澄み、時には濁る。丁度われ等の心が時には晴れ、時には曇ると同じく、又人生の運に時には幸があり、時には不幸があると同じである。いづれ二元の間に徘徊するわれ等は、この川が二相を呈するのを咎めむべきでもあるまい。清い時には清きに処し濁った時には濁りに処する。幸が来れば幸を受けん、不幸が来れば不幸を迎へん。この小川が自身の清濁を一向知らず顔に、ゆるゆる、しかも止まずにその流れを続ける如く、われ等もわれ等の道を辿りたい。川沿いの木、今は尚小さいが、他日それが大きくなって、亭々として天を衝くとき、今の諸生が その下逍遙して、想いを今昔の間に回らせば、かならず感にたへないものがあらう。今諸生が見るその水はその頃には流れ流れて、いづこの果に、どうなってあるか考えることもできまい。しかし在る物は永遠に消えぬ。独り水辺 に立って、静かに行末を思ふと、われ等の心は自然に悠遠に引きこまれて行く。・・・・・ 昭和3年8月9日 久雨始めて晴れた朝、 山良生」 ■千年後へのメッセージ、八角井戸、そしてケム川幻想  千川上水は、戦後、近郊農業が減少していくなかで農業用水としての役割を終え、暗渠化して下水道に転用された。濯川も学園60周年記念事業として1985年に蘇生作業が行われ、現在は一の橋から玉の橋の間で循環しており千川とは繋がっていない。上流の水源(地下水)には八角井戸が埋められており、これには武蔵の祐筆として多くの書を遺した矢代素川氏の筆による前述の屈原の詩が記されている。この井戸は平城京跡から出土したもののレプリカで千年の後までも思いを伝えたいという心映えが込められている。  屈原はその後、楚の首都陥落に絶望し汨羅江(べきらこう)に入水するが、彼の詩形はその後の漢詩の源流のひとつになっていく。  校内に川の流れる学校は稀だと冒頭に書いたが、山本良吉は、University of Cambridgeを流れるRiver of Cam(The River Camとも表記。ケンブリッジ大学の校名の由来)のイメージを濯川に対して抱いており、当初は「武高のケム川」と仮称していた。山本は武蔵開校の1年前、欧米を視察した際にケンブリッジを訪問しケム川を舟で周遊しており、ケム川とその周囲の森から幾多の偉人、世界の運命にかかわる人材が輩出されたことへの憧れと尊敬を書き残している。  アカデミズムにとって、豊かな自然環境が教員、書籍、施設、教材などと同様に、いやそれ以前の基本的要件として必要であることを山本は確信していたのだろう。  その豊かな自然をこれまで守り抜いてきたことは、武蔵学園の誇りであることはまちがいない。 タイトル写真=紅葉の濯川。中流の欅橋から上流を臨む 写真1枚目=新緑の濯川。中の島付近 写真2枚目=下流の玉の橋周辺の改修作業を行う8期生。1933年撮影 写真3枚目=現在の濯川水源、八角井戸
2018.07.03
「はやぶさ」イオンエンジン開発者
國中均「深宇宙への夢」
  ☆……2014年12月に打ち上げられた小惑星探査機「はやぶさ2」は、2018年6月27日、3年半の旅を経て「Ryugu」の上空20キロメートルに到着した。これから精密な探査や岩石などのサンプル採取を行い、2020年末の地球帰還を目指す。往復58億キロメートルにおよぶ飛行の主な推力であるイオンエンジンは、奇跡の帰還物語で感動を呼んだ初代「はやぶさ」に搭載されたものの改良型である。このイオンエンジンの開発者が、JAXAの國中均(くになか・ひとし)教授は武蔵高等学校53期の卒業生だ。幾多の困難をのりこえ、「自ら調べ自ら考え」「宇宙に雄飛」した「はやぶさ」と國中教授の物語 ■太陽観測部で培った宇宙への憧れ  2003年5月の打上げから7年、小惑星イトカワのサンプルを携えた探査機「はやぶさ」は、60億㎞の旅を経て、2010年6月13日、地球に帰還した。往路は比較的順調だったが、イトカワへの着陸失敗と再試行の後、「はやぶさ」は通信が途絶し3年間も帰還が遅れる。その帰路にも予定を超える長時間飛行や着陸失敗による損傷のため、「はやぶさ」は幾多のトラブルに見舞われた。当初の予定では「はやぶさ」は地球の衛星軌道でサンプルカプセルを切り離し、本体は無限の宇宙の果てに旅に出るはずだった。しかし、すでに満身創痍だった「はやぶさ」は、確実にカプセルを地上の安全な位置に落下させるため本体ごと大気圏に再突入する。「はやぶさ」は最後に地球を撮影して故郷を見とどけると、カプセルを切り離し、自らは分散焼滅し全ミッションを終えた。  「はやぶさ」の想像を絶する長旅の主動力を担った「イオンエンジン」。その開発責任者が、武蔵高等学校53期卒業生の國中均氏だ。國中氏は武蔵在学中には「太陽観測部」に所属し宇宙への夢を膨らませた(はやぶさのティームには太陽観測部の後輩も2名参加)。卒業後は京都大学、東京大学大学院に学び、28歳で現在のJAXAの研究員となった。  イオンエンジンはマイクロ波を使いプラズマを作る電気推進機関で、燃料を燃焼させる化学エンジンに比べてはるかに効率がいい。推進力は1円玉を2mくらいの高さから落とした程度だが、宇宙空間ではパワーよりも耐久力が重要だ。そのため國中氏は18000時間の耐久試験を2度行った。1年は約9000時間だから4年間である。試験はイオンエンジンを真空装置に入れてコンピューターによる自動制御で行われたが、そのプログラム作りも試行錯誤の繰り返しであり、國中氏たちは夏休みも正月も返上し、夜中でも連絡があれば実験室に駆けつけたという。「はやぶさ」のプロジェクトは、イオンエンジンのみならず各部門において緻密な作業が長期間にわたって行われ、その積み重ねがサンプルリターンを成し遂げることになった。奇跡は周到な準備の結果である。 ■火事場の馬鹿力、110%の5乗  「はやぶさ」のイオンエンジンは世界初の実用化でもあった。「はやぶさ」は4機のイオンエンジンを搭載し、計算上は、29000時間の連続飛行が可能だった。しかし宇宙空間では予測不能な事態もおきる。そこで國中氏は「万が一」に備え、エンジンと中和機の組み合わせを変更できるシステムを組みこんだが、これが帰路のエンジントラブルを救うことになった。國中氏はいう「通常の機械は作る人と使う人がちがいます。だからその能力を万が一にそなえて90%で用いるように作られます。『はやぶさ』は基本的に5つのシステムなので、この方式だと90%の5乗、6割弱の力しかでない。ところが、『はやぶさ』は作り手と使い手がいっしょ。だから協力して休ませたりがんばらせたりすることで110%の力がでる。そうすると110%の5乗という力になる。いわば火事場の馬鹿力です」。  とはいえ、「はやぶさ」が1回目のイトカワタッチダウン(着地)に失敗したとき、國中氏は「お願いだからこれ以上壊さないで。もう帰ろうよ」と思ったと、同窓会の会合で語られた。結果的には、「はやぶさ」は再度タッチダウンを試み、サンプル採取に成功する。 ■未来はあるものではなく創るもの  持ち帰ったイトカワ資料の分析は進み、すでに3000以上もの、ミリからミクロン単位のイトカワ由来のサンプルが検出されており、その3倍程度はさらに見つかるといわれている。かつては望遠鏡で点にしか見えなかったイトカワをついに顕微鏡の世界でとらえることができたのだ。これらのサンプルは、一切地球の外気にふれさせてはいない。また、全体の約3割は手をつけず、未来でよりすぐれた分析方法、知見が生まれたときのため、まだ見ぬ研究者たちのために保存されている。  その後、2014年には「はやぶさ2」が打ち上げられ、小惑星リュウグウを目指して順調に飛行している。國中均氏は今回もイオンエンジン改良型μ10の開発と、さらに打ち上げ時のプロジェクトマネージャーを担当した。  リュウグウには炭素系の物質があるとされ、サンプルに有機物が含まれていれば、地球の生命起源と小惑星衝突との関係を知る縁(よすが)となることが期待される。   國中氏はイオンエンジンのように「ゆっくりでも進めば届く力」を追求することで、さらなる「深宇宙探査の夢」の可能性を語る。そのためには、もっと短い間隔での実験研究ができる人的、経済的態勢が必要だという。  「はやぶさ2」の打ち上げが成功した日、國中氏はメディアの「今回も感動を与えてください」という呼びかけに、こう答えた。「もう物語はいりません」。國中均氏は根っからの技術者である。 ※タイトル写真=2015年11月14日に本校大教室で開催された國中教授の特別授業『新領域への挑戦が切り開く宇宙活動』から 写真1枚目=同授業で生徒とディスカッションする國中教授 写真2枚目、3枚目=同授業での國中教授のメッセージ ※撮影 岸田生馬(武蔵高等学校中学校教諭)
2018.07.02
「歴史家島田俊彦」の出発点 ― 淡々たる言動に秘められた硬骨
武蔵における存在の重さ  武蔵高等学校では、修学旅行が1978(昭和53)年を最後に廃止され、それ以降も復活の動きは見られない。武蔵学園の編年史における「修学旅行」の項では、『武蔵60年のあゆみ』から『武蔵90年のあゆみ』まで一貫して、ほぼ同一の記述が続いている。以下、その一節を掲記してみよう。  「関西方面の歴史的風土・文化遺産を見学することを目的とした高校2年の修学旅行は、1951(昭和26)年に復活した。戦後の混乱期から少しずつ立ち直りかけた時期であり、戦前の国史教育の反省に立った戦後の日本史学習とあいまって、復活当初の修学旅行には新鮮な活気があった。しかし同時に、団体旅行につきものの無責任な風潮の萌芽も、すでにそこに存したといえよう。その後、集団観光旅行が観光地に充満する時代のなかで、武蔵の修学旅行は、コース選択制・グループ見学方式など先駆的な改善を行ってきたが、ついに修学旅行という因襲的形態にまつわる欠陥を除去し得なかった。集団のなかに個々の責任が埋没してしまうような学校行事はむしろ進んで廃止しそこで失われる修学旅行の美点は別の形で追求すべきであるという考えのもとに、78年を最後に廃止された。中学3年も東北旅行を実施していたが、66年を最後に廃止された。」(以上、『武蔵90年のあゆみ』190ページより)  この廃止が決まったときの武蔵高校の校長は大坪秀二氏であったが、彼は『大欅』1979年6月15日号に「修学旅行の廃止をめぐって」と題する文章を載せている(のち『大坪秀二遺稿集』に収録)。大坪はそこにおいて、「出発から帰着まで、全員が一斉行動をする」という、修学旅行の「伝統的な様式」についての批判が復活早々から見られたと述べ、「修学旅行を単なる団体観光旅行、思い出旅行とするのでなく、各人が主体性をもって計画し見聞するという旅行本来の立場を、修学旅行の中に何とか生かせないだろうかという意図に発する」コース選択制の導入もあったものの、「結局は単なる集団旅行へと風化してゆく経過を、毎回たどった」と記している。  続く文では、「修学旅行という名の下に私たちの社会に定着しているのは団体旅行であり、日本的な団体旅行の魅力は、それに加わることで個々人の責任が消失する気楽さにあるということが、すべての底流にあった」、「団体旅行に典型的なこうした精神現象を、私は生徒への話しの中で、『集団無責任体制』という言葉で表現しました。今の社会で問題となっている多くの事柄、青少年の聞で問題となっている事柄などを見きわめてゆくとき、この『集団無責任』が根本にある場合が実に多い」とある。  上記の文章はいまから約40年前のものであり、率直に言って、なかなかその切実さが身近に感じられない部分もあるが、「集団観光旅行としての修学旅行」の強硬な廃止論者であった大坪による、現在全国的に積極的な意義が失われつつある修学旅行の否定的な側面を浮き彫りにした先駆的な考えとして、一読に値するものであろう。  その大坪が、武蔵高校の修学旅行で唯一、「今日的観点から見ても、非常に立派なものだった」と高く評価しているものがあった。それは、1951(昭和26)年から1969(昭和44)年まで教諭(その後、1975年の逝去まで大学の人文学部専任教授)をつとめていた島田俊彦を中心に立案・実行されたものである。  「20年以上昔の当時、既に、コース選択制による見学人数の分割を行って、見学の徹底をはかったことなども、島田さんだけの発案ではないが、卓見であった。阿弥陀信仰という一本の線で、法界寺・平等院・かにまん寺・浄瑠璃寺・岩船寺を結んだり、飛鳥・白鳳・天平の線を完成するために、一般コースを離れて当麻寺まで足を延〔ば〕したり、さらには室生・多武峯までを日程に含めたりした。  当時は、バスの運転士でも飛鳥や南山城の道は不案内で、島田さんが運転士の横の席でいちいちコースを指示したし、島田さんの指導の下に生徒が編集した旅行の案内書は、バスガイドたちに好評で、せがまれてわけ与えることになったりした。  島田さんは、地図なしでも歩ける旅行の先々でなおかつ熱心にスライド用の写真をとり、さらに民族文化部の生徒との旅行の時のデータなども補充して、翌年の生徒に対してはさらに新しい工夫を加えるなど、私たち教師にとっても、島田さんの手で総合された修学旅行につきあうことは、日本史への興味を啓発される上でも、大層勉強になることであった。」(以上、大坪「島田先生を悼む」『武蔵大学人文学会雑誌』第7巻第3・4号、1976年に所収)    修学旅行が実施されていたとき、引率役であった島田の(武蔵学園史において)面目躍如たる事件があった。  制服を着ることなくセーター姿で旅行先を歩いていた生徒たちが、他校生に脅かされたり撲られたりという出来事があったというが、付添い教師が京都の警察署で事情を説明する段になって、京都府警少年課の担当者が「制服を着てないような生徒は、それだけで不良と見られても仕方ないのだ」というような話をしたさい、島田が「うちの学校では服装は自由なのだ。あんたは、ひとの学校の教育方針にケチをつけるのか」と応酬したという。これ以降は、関西旅行の折には必ず教師が五条警察署に立寄り、「本校は服装自由であるので、その旨ご承知いただきたい。服装だけの事で取締りの対象にしていただきたくない」旨を説明することになり、これが結果として「武蔵は制服のない学校」ということを世間に定着させることに役立ったという(大坪「武蔵の服装規程のこと」同窓会会報第32号、1990年12月に所収。のち『大坪秀二遺稿集』に収録)。    大坪は、新制武蔵高校発足の2、3年後ごろからのつきあいであった島田について、「吾々の仲間の餓鬼大将でもあった」と評している。  「私は、あるいは私たちは、島田さんとよく飲み、よく出歩いた。そうした生活の中で、島田さんが発散するザックバランな、一本気な、正義派的な雰囲気は、当時の私達の気風をとりまとめる一つの中心になっていたかと思われる。」  この文は、武蔵高校の教師陣が、個性的で、かつ識見すぐれた人物を得ていたことを示すものといえるだろう。 ↑ 『武蔵七十年史―写真でつづる学園のあゆみ』(1993年)掲載の写真   近代史研究の出発点としての海軍勤務  島田は教諭在任中に、満州事変や日中戦争の実証的研究の第一人者としても名高い存在であった。1962年から63年にかけて朝日新聞社から刊行された『太平洋戦争への道―開戦外交史』(全7巻)の共同執筆者として、また1964年から66年にかけては、みすず書房の『現代史資料』シリーズの『満州事変』、『満洲事変 続』、『日中戦争』の共同編者としてそれぞれ名を連ね、単著として『関東軍―在満陸軍の独走』(中公新書、1965年)、『満州事変』(人物往来社、1966年)を執筆している。この2冊の単著は講談社から学術文庫化され、初版刊行から半世紀がすぎた現在でも新刊本の書店で入手が可能である。このような貴重な成果として結実した研究の出発点は、以下に紹介するように、彼の使命感や良心と不可分のものであったといえる。    島田は1908(明治41)年生まれ、1931(昭和6)年に東京帝国大学文学部史学科を卒業後、2年間の大学院での研究を経て聖心女子学院高等専門学校の教授をつとめていたが、太平洋戦争中の1942年5月に退職、その翌月に海軍の軍令部嘱託(戦史編纂事務)となり、終戦までその職にあった。以下、みすず書房の『現代史資料』第7巻の付録月報に収録されている島田の回想「軍令部戦史部始末記」によりながら、彼の研究基盤や独特な言行に接近してみたい。    日本海軍では日清・日露戦争や北清事変、第1次世界大戦、満洲事変、第1次上海事変など、かかわった対外戦争や戦闘に関して、軍令部による厖大な戦史が(軍事機密扱いであるが)編纂されていた。日中戦争が太平洋戦争にまで発展拡大した時、軍令部が恒久機関として「戦史部」をあらためて発足、現役・予備役の将校が15、6名ほど配属されるとともに、歴史専門家として島田が嘱託に就任した。  編纂の計画は、まず『大東亜戦争海軍戦史本紀』という表題の、従来程度の詳しさの戦史をつくるほか、さらに詳細でさらに機密度の高い『秘史』(作戦や用兵が記述の中心)、そのほかに機関科、主計科、軍医科等各科別の戦史を書く。さらに一般啓蒙用として、機密事項を取除いた奥味本位の戦史もつくる、というものであったという。「生来無類の臆病者である私は、何としても戦争へ行くのはイヤだった。徴兵検査は丙種だったから、満洲事変、日華事変のうちはいささか高みの見物だったが、これが太平洋戦争にまで拡大されると、安閑としてもいられなくなってきた。恩師の辻善之助先生〔1877―1955、歴史学者・日本仏教史〕は、私のこの哀れな心情を察して、ある日私を招いて『海軍で軍人たちだけで大東亜戦争の戦史を編さんしているそうだが、最近、歴史の専門家がひとり欲しいといってきた。この仕事をやれば、かえって戦争に行かないですむかもしれない。行かないか。』といわれた。……何よりも、もしかすると戦争にいかないですむということが最大の魅力だったので、結局推せんをお願いして清水の舞台から飛びおりた。」  以上の叙述は、島田がこの仕事を引き受けた理由が、単なる徴兵の忌避にしか感じられないような書きぶりであるが、実相は彼が持っていた(実証的な歴史学の学徒という)職業的倫理観に共鳴するものが、このプロジェクトを担当した海軍側の人間の言動に見出されたからではなかろうか。「ある日、先生の紹介状を持って軍令部戦史部に先任部員(課長相当)の高田俐大佐をたずねた。……高田大佐は……『あなたにこれから書いてもらう戦史は、将来軍機書類として海軍軍人だけに研究させるのだから、あらゆる事実について絶対に筆を曲げないでほしい、よしんばそれで海軍が悪者になってもさしつかえないから――』というそのときの一言は、吹きすさぶファシズムの嵐の中で、自由な歴史研究が妨げられつつあることを感じていた私に、この仕事にたずさわる最後の腹をきめさせた。」    なおこのプロジェクトでは、作家の吉川英治も勅任待遇の嘱託になっていたという。「吉川氏はわれわれの書いた『本紀』に基づいて、一般啓蒙用に筆を振うはずであった。そしてその出版は岩波書店が引受けていた。高田大佐の話によれば、吉川氏はこの仕事を依頼にいったとき、同氏は今後一切他の執筆を絶って、この意義ある任務に専心すると、涙と共に誓ったということだったが、ついに1字も書かずに終戦を迎え、他にも小説を書かれた(もっともその際軍令部の諒解を求めに来られたが)。それは恐らく、われわれの書いた無味乾燥な戦史だけが資料というのではどうにも筆の振いようがなかったことにもよるのであろうが、それよりも次第に吉川氏の胸中において、『大東亜聖戦』のイメージが崩れ去りつつあったことが最大原因だったのだろう。純真な吉川氏にはまことにお気の毒であった。」    ここで島田が記している、吉川が覚えたかもしれない失望は、おそらく島田自身のものでもあったのではないだろうか。敗戦後、組織の解散時に残すことのできた業績は、B5版約900頁の『本紀第1巻』(1937年の第2次上海事変まで)1冊だけだったという。もっとも、島田の遺品として残された史資料群には『本紀第2巻』の草稿も含まれているが、これが日の目を見ることはなかった。島田は戦争後半のある時期から、海軍部内で編纂された戦史の完成を断念し、後世のいつの日か、自身の使命感を充足しうる(そして、広く国民一般にそれを公表しうる)内容の戦史執筆を構想し始めたように思われる。   島田の「歴史家としての良心」―戦後に大成へ  島田の回想は以下に続く。  「戦史部ではジッとしたままで、資料係が転手古舞するほどたくさんの貴重な資料が入手できた。それをいつでも自由に披見できることは、何ごとにも代え難い大きな魅力であった。ことに敗戦の〔19〕45年になってからだと思うが、情報担当の軍令部第3部から、古い資料が場所ふさげでこまるから、そちらで不要なら焼却するがという照会があって、そのあげく資料の山が戦史部に移管されたとき、私の胸は躍った。それらは昭和初年からの各種対外案件に関する陸・海・外の機密電報、外地からの情報、中央国策決定の文書、軍令部甲部員(政策担当)関係の作戦日誌……さては新聞の切抜きに至るまで、いずれも実によく整備された珠玉の資料であった。そのころ私は太平洋戦争のひとつの重要な核である日中両国のもつれ、そして戦争を、いつの日にか解明してやろうと考えていたので、これらの資料の中から主として中国関係のもの――つまり軍令部第6課(中国情報担当)のもの――ばかり200冊余(1冊平均約200枚)をえらび出し、自分用の金庫にこれを格納した。そして公務のあいまにこれを取出しては、少しずつ読んでいった。」    1945年6月になると、空襲を避けて戦史部は保管資料とともに山中湖畔に移転し、島田らは翌々月にその地で敗戦を迎えた。  「海軍大臣からは機密書類焼却の厳命が来ていた。だが当時資料保管の責任者でもあった私には、到底焼く気になれなかったし、また将来のため焼くべきでないと考えた。そこで私は独断で、ある日ひそかに湖畔の村の某家を訪れ、資料の隠匿を依頼した。幸い同家ではこれを快諾し、2階の物置をこれにあてるということだったので、私はすぐにホテルに戻り、夜陰に乗じて運びこむべく、水兵を指図して資料の箱詰め作業にとりかかった。ロビーを資料で一杯にして作業している最中に、終戦だというので本省へ出張した長井〔純隆〕大佐〔海軍兵学校50期、戦史部専任部員〕が帰られた。そしてこの『ていたらく』を何ごとかと不審がられ、やがて真相が分ると「大臣の命令が分らないのか。全部焼け」と命じられた。先任部員の立場としては、もちろん当然の発言だったのだろう。私も上官の命令とあればやむを得ず、速刻箱詰め作業を焼却作業に切換えた。それから4日3晩、徹夜で資料は火葬に付された。炎々たる焔は天を焦し、最初の晩には村人が火事とまちがえて駈付けるほどだった。」    ここで登場する長井が戦後、防衛庁防衛研修所の戦史室(現在、防衛省防衛研究所の戦史研究センター)の室員として海軍公刊戦史の編纂執筆に携わり、大半が焼却処分されてしまった機密書類の欠を埋めるため、関係者の回想やインタビューの実施や史料収集に日々忙殺されたことは、皮肉なめぐり合わせと言える。そして長井らの編纂官は、その作業において、今度は島田の大いなる助力を得ることとなったのであるが、それは島田が秘匿保管していた史資料を参照し得たことによるものであった。    島田の回想を続ける。「戦史部の全機密書類は焼却完了ということになった。しかしそのことは必ずしも事実と符合しなかった。なぜならば焼却の指揮者であった私は、またしても独断で例の2百余冊の日中関係資料をえらび出し、家族を疎開させてあった山中湖畔の借家に、ひそかに運びこませてしまったからである。これは明らかに大臣命令違反であり、またやがて進駐して来るアメリカ軍の追求を受ける恐れもあった。しかしこのことに関する限り、臆病者の私にしてはふしぎなことに少しも恐くなかった。これという理由もなしに、私は当然これを守るべきだし守り得ると考えていた。」「終戦後、私は職場を失い、また元軍令部職員ということから、しばらくは教員の適格審査にも合格せず、いささか世の辛酸をなめた。しかしそのようなことは臆病者、卑怯者の当然受けるべき『しもと』であって、問題ではない。私の任務は、幸い残すことのできたこれらの資料を活用することにある。だから今まで細々とではあったが、これらをもとでに研究を続けてきた。そして一方では、私物ではないこれらに日の目を見せるチャンスをうかがってきた。」    島田が保管していた、この一群の史資料の大部分は、後年、みすず書房の『現代史資料』に収録され、敗戦後約20年の年月を経て国民一般の目に供せられることになった。また防衛庁(当時)による陸海軍の公刊戦史の編纂執筆に際しても、さきにふれたように、それらの史資料が複製され参照されている。その内容から見えるものは、満州事変から日中戦争の拡大まで、日本の海軍も陸軍も外務省も、1930年代に中国に対して相当に強硬な姿勢を取り続け、軍事衝突の発生時にはさまざまな拡大防止の策を検討したことも確かではあるが、全体としては中国側の交戦意思を低く見積もり、また事態収拾の見込みについて著しく楽観し、最終的に国際的な孤立をまねいていったという日本の姿であった。    みすず書房の『現代史資料』編集室は、上記の月報掲載文の紹介において「淡々たる筆致のうちに、『資料』とは日本国民の公有のもの、そして公開への使命感にささえられて、あの敗戦直後異常な緊迫時に、身をもって資料を守りぬいた姿が語られています。――この『焼け』という大臣命令に『焼かない』という行動が、どんな危険を意味し、この反逆がどれほどの勇気を必要とするかは、軍隊で8月15日を迎えた体験者には誰しも判っていただけると思います。」と記しているが、これは歴史家としての良心と硬骨さとを兼ね備えた島田がおこなった、他に類を見ない「日本国民にとっての一大貢献」であったといえる。    1960年代半ばからの短期間で、続々と単著や共同研究の成果が世に出されるにつれて、しかし、島田の健康は急激に損なわれていった。それでも、1970年前後からさかんになった学費問題をめぐる学内での紛争にも正面から対処し、その収束から数年後の1975年12月に満67歳で逝去している。    長いとはいえない生涯ではあったが、敗戦直後には史資料の秘蔵保管という心理的な抑圧(あるいは自責の念)に耐え、戦後は質の高い歴史研究の成果を次々と世に送り、あわせて教育者としても確固たる精神を持ち続け、多くの学生がその薫陶を受けた。このような人物は今後、武蔵においても他の教育機関においても、なかなか現れないのではなかろうか。
2018.07.02
根津化学研究所初代所長・玉蟲文一の足跡と学問観・教育観
はじめに  1936(昭和11)年に武蔵学園内に設置された根津化学研究所は、私立の旧制高等学校が高度な研究活動を展開すべく、特定領域の研究所を設置したという点で、きわめてユニークな存在であった。そして、その初代所長に就任した玉蟲文一(1898-1982)もまた、武蔵学園における化学研究と教育の高度化、そして新制大学における一般教育の充実発展に大きな貢献があった稀有の教員であった。  世間ではじめて彼が有名となったのは、ロングセラーとなった岩波新書『科学と一般教育』を上梓した1952年以降のことと思われるが、本稿では武蔵学園での経験に関わりが深い事項を中心に、彼の足跡とその学問観・教育観の特色、さらには、当時の武蔵での教育の意義について考察してみたい。   1 玉蟲の生い立ちと武蔵学園への就職  玉蟲は1898(明治31)年宮城県生まれ、母方の祖父は玉蟲左太夫といい、江戸幕府が初めて米国と通商条約を結ぶため派遣した使節の一行に加わっていた。仙台藩に帰ってからは藩の学問所であった養賢堂の頭取となったが、戊辰の乱では仙台藩が幕府側に立ったため、戦争終結後に責任を負って切腹となり、玉録家は家財没収、家名略奪となった。家名の復興が許されたのは22年後の1889年、大日本帝国憲法発布の年になってからという。そして玉蟲の父は玉蟲家の養子となり、しばしば朝鮮・中国方面へ出張していたが、玉蟲が9歳の年に京城(ソウル)で急病にあい、若くして客死したという。  東京にでて母の手一つで育てられた玉蟲は一高に入学し、ここで北川三郎(ウェルズの『世界文化史大系』の訳者)と親友となり、東京帝国大学に進学後は理学部化学教室で片山正夫教授に学んだ。1922年に大学を卒業して財団法人理化学研究所の片山正夫研究室の助手に任用され、2年間の助手生活を過ごした後、旧制武蔵高校の教員となる。  玉蟲の教授就任は、当時武蔵高校の顧問であった山川健次郎が、片山教授に化学教員の適任者の推薦を依頼し、片山が玉蟲を推薦したことによる。山川は会津藩の出身で玉蟲左太夫の事蹟を知っており、玉蟲文一の研究教育をこれ以降、強力に支援したという。  旧制武蔵高校における玉蟲の教員生活と当時の高校の雰囲気については、玉蟲自身の回想(『科学・教育・随想』岩波書店、1970年)において、以下のように精細に描かれている。   私が奉職した武蔵高等学校は最初に設立された私立の7年制高等学校であった。そこでは、当時すでに和田八重造氏によって初年級(尋常1、2年、現在の中学1、2年に当たる)の理科の授業がおこなわれていた。その授業は同氏の編著「科学入門」ならびに「生物」によっておこなわれており、前者はアメリカにおける一般科学(ジェネラル・サイエンス)の方法を入れたものであったが、著者自身の体験と工夫にもとづく独特の内容をもつものであった。その内容や方法に対しては、多くの批判や抵抗があったが、和田氏は信念をもってこの自著による理科教育をおし進めていた。同氏の献身的な努力と情熱的な指尊によって、多くの純真な生徒は理科への興味にひき入れられた。私は実際、その影響力によっていかに多くの少年が後に科学に志すようになったかを知っている。私は和田氏の授業をうけついで3、4年の生徒に対する化学と物理を主体とする理科の授業を担当した。   私が武蔵高等学校に就任した際の一条件は、1人で化学と物理を綜合した教案に従って教えるという試みを実行するということであった。当時、一般の中学校では、文部省検定教科書にしたがって動植物、鉱物、化学、物理などがそれぞれ独立の科目として教えられていた。それに対して武蔵高等学校の理科授業は、科学入門(ジェネラル・サイエンス)、生物(ジェネラル・バイオロジー)、理化(フィジックス・アンド・ケミストリ)の系統にしたがって計画されたのであった。……初歩の段階であっても、化学と物理学を―つの綜合科目としてまとめ、かつそれを一人の教師が担当するという仕事は実際にいろいろな困難をともなうものであった。  ……私はできるだけ労をいとわず生徒に実験と観察の機会を与えた。実験室で生徒の行動をみていると、その性格がよくわかった。ある生徒は与えられた仕事を順序よく迅速に片づけてゆくのに、他の生徒はそうではなかった。ある生徒は要求された課題の外にも自らの問題を見出しているのに、他の生徒は課題だけで追いまわされていた。しかし、概して生徒は実験の時間になると活気づいているのがわかった。そして実験のともなわない理科の授業がどんなに生気のないものであるかがよくわかった。 2 武蔵での玉蟲の研究と教育  前項での回想の末尾に記された実験の重要さに対して、玉蟲自身はどのようにユニークかつ有意義なスタイルの授業を展開したのか言及していないが、実際に授業を受けた学生が受けた印象は強烈で、玉蟲の名物教師ぶりは学内にいち早く知れ渡った。受講生であった永松一夫氏(高校16期卒業生・故人)が、1983年に「玉蟲先生を偲ぶ」と題して発表した回想文(『日本レオロジ一学会誌』第11号に所収)が、その情景をリアルに描写している。以下は、その抜粋である。  玉蟲先生が居られた頃の武蔵は、いわゆる旧制の7年制だった時期が大部分をしめる。現在でも中・高あわせて6年の学校もあるが、この年頃の少年にとっての1年は大きな意味を持つ上、時代差もあって、新入生は現在よりも一層小学生に近く、最高学年の方は逆に今の大学生よりも逝かに大人であった。玉蟲先生の授業があるのは高等科になってからだが、校内での評判は高く、部活動の場などで上級生たちから頻繁に玉蟲先生の御噂を聞かされた。「講義が魅力的だ」「話の筋が通っている」「身ぶり、手ぶり、話し方に特徴がある」「大きな声で叱ったりされることは絶対ないだけに“君、それは危ないですよ”などと言われたら大変な事なのだゾ……」等、等。  玉蟲先生の講義が受けられる高等科になるまで、中学に相当する4年間、こうして期待を持ち続けさせられる。そして、ようやくその時期になるのだが、玉蟲先生の援業は期待を上まわるものであった. Langmuirの式、Freundlichの式あたりは玉蟲先生としても特に熱のこもったお話となる故か、現に私の同級生でもその頃から先廻りして統計力学の勉強にまで自分で手を拡げる者も生じてきた。その上、ほぼ毎週講義実験を見せて頂いたのが印象に刻まれている。  中でも忘れられないのは、シキソトロピーのサンプルである。たしか、石英粉―トルエン、ベントナイト―水の系の2種だったと思うが、両方とも試験管に封入されていて、そのまま倒立させても、逆になった底部の方に固まったまま落ちてこないものが、軽く振るだけでシャポ・シャポと音をたてて、掌の中で液化するのがよく分かるものであった。これを生徒たちに手渡されて、ひとりひとりが「ほう」と感嘆の声をあげては隣にまわして行ったのを、昨日のことのように思い出す。この実験は玉蟲先生御自身でもお得意のものであったらしく、私たちが驚異の目をみはるのを、あの、例の「玉蟲スマイル」とも言うべき微笑を浮かべて(一寸首をかしげて)見守っておられた。  このように、高校において多くの生徒の科学探究心に火をともした玉蟲は、また同時にコロイド化学分野におけるすぐれた学究でもあった。1927年には当時武蔵高校の校長であった山川の配慮によって、ドイツのカイザー・ウィルヘルム物理化学研究所に約2年間留学した。帰国後、1935年には論文「2次元状態方程式と表面層の構造」によって東京大学から理学博士の学位を得ている。当時、高等学校の教職にあって学位の取得はきわめて珍しいケースであり、「教育と研究は両立しうる」を持論としていた玉蟲が、自らの活動においてそれを証明したといえよう。  玉蟲は前出の回想録において、「1934―1940年の数年間はおそらく筆者の研究生活において、もっとも恵まれた時期であった」と記している。これは玉蟲が博士の学位を取得して以降、日本が太平洋戦争に突入する(そして1942年に玉蟲が教頭に就任する)直前までの期間であるが、その中で根津化学研究所長としての活動が占めた役割は大きなものがあった。研究所では根津が寄贈した資金を元手に研究が行われ、化学に関する基礎的な問題に焦点が当てられ、物理化学、地球化学、放射化学、化学教育などで成果を出している(これらの成果については『根津化学研究所20年史』1956年に詳しい)。なお以下に掲げる玉蟲晩年の回想からは、彼の目からみた同研究所の規模や社会的位置づけ、そのなかにあって彼の持った強い職業的使命感が伝わってくる。  ……この研究所は、その名は大げさに聞こえるが、学校の付属施設であり、研究員は学校の化学教室の教員(当時都築洋次郎氏と私)であり、ほかに専任の助手1名の給与と年間の経常費として若干の金額が財団から供与されるにすぎなかった。しかし、研究に必要な最小限の機械類、器具類は開設に際して根津氏から寄贈された金額(当時の約3万円)をもって整えることができた。研究施設の規模としてはおそらく当時の国立大学の一講座に比較される程度のものと思われた。にもかかわらず、大学でない学校の中にこのような研究施設が設けられたことは、明るい話題として世間の注目をひいたようであった。  世間の一角からは、武蔵高校が私という個人の足止めのために作った研究所だというような風評もあったが、私としては、この研究所の設立は良心的教育者は何よりも学問研究を大事にするということの表われであり、研究は大学でなければできないという一般論に対する抗弁でもあったと思われた。  いずれにしても私が何の拘束もうけることなく、まったく自由に研究ができるという立場におかれたことは感謝すべきことであり、それだけに課せられた責任の重さを感じたのである。(玉蟲『一科学者の回想』中央公論社1978年に所収) 3 戦後の玉蟲と武蔵学園  戦後初期の玉蟲は武蔵高校のゆくべき道として、武蔵・学習院・成蹊・成城の旧7年制高校を土台とする「東京連合大学」の設置に向けて奔走した。これはもともと、当時の学習院教授であった天野貞祐が提唱したものであったが、この構想に共鳴した玉蟲は「その可能性を打診するために二、三心当りの方面に当ってみた」という。  玉蟲による自身の奔走についての回想は上記のように控えめであるが、この構想については、4大学それぞれの専門学部設置構想を記した「協定案」が作成されるまでにいたったことが知られており、(『武蔵大学五十年史』)。近年では、教育史の研究者である天野郁夫氏が「自発的に模索された私学間の連合化・共同化の試みとしてしかるべき構想」(天野『新制大学の誕生 下』名古屋大学出版会、2016年)と評価している。この構想が、学園間での検討段階に至るまでに玉蟲が果たした役割はきわめて大きなものがあったはずである。  「しかし、当時の各学校の内部事情はそのような1つの理想案を検討する余裕もなく、その意欲すらもちえないことが明らかになった。つまり、この構想は天野博士を中核とするきわめて少数の人々の間での話題となったにすぎなかったが、それもいつの間にか忘れ去られたのである。……やがて学習院も成蹊も成城も、また武蔵もそれぞれの方途に従って新制大学となった。それが自然の成行きであったのである。武蔵では宮本学長の下に経済学部が設置された。そのさい私自身の立場は学長の補佐役であったが、新設学部に対しては傍観者であるにとどまり、いずれは自分自身の行く道を定めなければならなかった」(前出『一化学者の回想』による)。  玉蟲は戦後、1949年の旧制武蔵高等学校の廃止に伴って東京大学教養学部に転じた。1959年に東京大学教授を定年で退職して後は東京女子大学教授就任、そして69年にふたたび武蔵学園で教鞭をとり、あわせて根津科学研究所の所長に復帰した(翌年から名誉所長)。1975年まで再び在職した武蔵学園で、玉蟲は新制武蔵大学の人文学部教授として、人文系の学生に対する一般教育として科学史の講義を担当し、人文・経済学部の共通科目としての科学概論を演習形式で行った。そしてこの時期の玉蟲は「大学における一般教育のあり方」に対する積極的かつ具体的な提言を行い、教育界にきわめて大きな光を放ったことが知られている。  現在我々が容易に入手しうる玉蟲の提言として、ここでは武蔵大学での教育経験に根ざした「科学史と科学教育」(『自然』1973年3月所収)に焦点を当ててみたい。この文章において玉蟲はまず、高等学校までに科学についてある程度の一般的知識を学んでおり、かつ科学を専門としない(もっぱら文化系の)学生人に、何を教えればよいかを問う。「高校の教育はもっぱら一般人のための教育であるから、科学者にとって重要であり、興味あるものであるとの理由によって教材が選ばれてはならない。生徒に対して期待すべきことは多くの科学的事実や技術を習得することではなく、むしろ彼らが将来科学という学問への関心を向け。それについていくばくかの理解をもちうるような素地を養うことである」。  そして、玉蟲が科学史の講義で取りあげるテーマは、たとえば“酸素はいかにして発見されたか”、“エネルギー保存の法則はいかにして確立されたか”というようなものである。この点についての彼の主張を以下に取り上げてみよう。  空気中に酸素があることは小学生も知っている。しかしそれが初めて確認されるまでに、いかに多くの錯綜した道程があったかは、大学生も知らない。そこで18世紀末期にプリーストとラヴォアジエの二人の人物を中心として展開された問題を歴史的資料にもとづいて解説することは、科学における研究や発見の実態を知らせ、科学的方法についての理解を与えることに役立つと思われるのである。また、エネルギー保存の法則については高等学校の物理で教えられているが、どのような人間の経験と推論によってこの法則がみちびかれたかは必ずしも数えられていない。このことについていくらかの解説が与えられないで、この法則の正しい理解がえられるであろうか。落下した物体はひとりでに上ってくることはないという事実は原始人も知っていたにちがいないが、人間は長い間いわゆる“永久機関”をつくることに腐心したのである。この経験の歴史からファラデー、ジュール、マイヤーのような科学者がどのような実験と考察によって、自然界における諸力――当時の語法による――の間の関係を求め、保存の法則に達したかという思索の過程は科学の進歩の実際の状況を示し、この法則の意義を理解させる上に役立つのである。   このような科学的事例は、現代ではすでに“常識化”したものであり、学生にとって“古くさい”という印象を与えるかも知れない。学生はむしろ“素粒子”の話とか、遺伝のしくみにおける“二重ラセン”の話のようなものに魅力を感ずるであろう。しかし、これらのように現に進展しつつある科学の新しい問題は、専門外の者にとっては難解な基礎的知識なしには扱うことができないものである。もちろん新しいものでも事例によっては教育的に適切と考えられるものもあろう。しかし、科学史によって科学の方法やその本質を理解させるという観点から見れば、すでに常識化しているような話題についての歴史的扱いの方がより実際的でもあり、適切であると思われるのである。  いわゆる“リベラル・アーツ”の一科目としての科学史においては、科学史を通じて科学への理解を与えることが重要であるが。その“理解”は単に科学的方法への理解というばかりでなく、さらに広い意味に解さるべきである。それは、科学は元来人間の本性―ヒューマニズム―と結びついたものであること、科学は人間の社会生活や一般的思想と関連したものであること、科学は人類の文化的遺産の重要な部分であること、などに対する理解を与えるものでなければならない。そして科学史はその扱い方によってこのような目的にかなうものとなりうるのである。(以上、「科学史と科学教育」より)  なお、玉蟲は上記の提言と同じ年に「大学における一般教育の立場から見た現下の教育問題」(『教育委員会月報』文部科学省1973年9月所収)という文を発表している。これは戦後の新制大学における一般教育の開始と展開、そしてその問題点をカバーしたものであるが、「国語にせよ、数学にせよ、理科にせよ、人間性に無縁のものはない。例えば、筆者の専門の化学は理科の中の一科目であるが、既知の事実や慨念や法則のみを教えるものではない。それらが知られるにいたる過程を通じて人間の理性の働きとその背景にある社会的・文化的事情についての理解を与えるものでなければならない」とも述べている。   4 おわりに―玉蟲の学問観・教育観の起点について  これまで、参照文献からの抜粋が多くなったが、玉蟲が遺した文章を概観して、「科学が人類の社会生活と深い関わりを持つ」という玉蟲の科学観・学問観が、ある程度浮き彫りになったように思われる。  最後に、上のような科学観・学問観が、いつから玉蟲に育ち始めたのかを考察してみたい。そして、彼が教育の第一線にあった時期の武蔵学園の社会的意義もまた、その作業を通じて、いくらかは明らかになるだろう。  玉蟲は逝去の前年に、「ワイマール末期(1927-29)のベルリン」と題する見聞録を発表している(『思想』1981年10月号所収)。表題の年代から、彼が武蔵高校教授在職中にドイツに留学した時期の思い出を記したものであることは一目瞭然であり、また彼はそれまでも、この留学時の経験談(研究活動や音楽・オペラ・演劇の鑑賞ぶり)を詳細に記した回想を何度も発表しているが、末尾において、いままでの回想になかった以下のような考察がある。   ……右の時期はベルリンの“輝かしい時期”というに適わしく、科学に於ても、芸術においても世界の文化史に残る果実を生んだ。先に引用した物理学者エルウィン・シュレーディンガー(1887-1961)は1932年、“科学は時代の流行か”と題するプロシア・アカデミーでの講演の中で、“芸術は人間気質を透して見た自然である”というゾラの言葉を引用しつつ、科学もまた、その時代や環境と無縁のものではないことを語っている。私が1927―29年ベルリンで体験したことは、このシュレーディンガーの言説を裏書していたかのように思われる。物理学における量子力学や波動力学の勃興は芸術における新即物主義の展開と無関係ではなかったのではあるまいか。ドイツにおけるワイマール末期の芸術や科学がその短期間にいっせいにその花を咲かせ、実を結んだことは偶然ではなかった。それは共にそれらの底流に流れる時代精神の現われであったと言ってよかろう。  玉蟲はすでに1958年に、自身の武蔵高校での教師生活を回顧して「私は理科教師としてたしかに恵まれた境遇にあった。現在は過去とは非常にちがうことは明らかである」と述べ、続けて次のように記していた。   「理科教育の内容や方法は文部省の指尊要領や検定教科書で制約されている。それは一つの基準としては有意義なものであるが、それによって教育が画一化される傾向の強くなることは問題である。人間に思想の自由がなければ、文化の発展は望みえないと同じように、教育者に自由が与えられなければ、教育の効果を期待することはむずかしいのである。……過去をそのまま現在に移すべきではないが、教育におけるかつての自由主義時代の経験は、現在において、とくに尊重さるべきではなかろうか」(前掲『科学・教育・随想』に所収)。  この2つの文章から、以下のような解釈が可能なように思われる。 「玉蟲は、ワイマール末期のドイツにおける人文・自然両文化の隆盛を目の当たりにして、自身も精力的にかかわっていた武蔵学園における『自由な教育』が、場所や時代を超えて、普遍的な意義を持つことを自覚し、その文化的意義が戦後の教育界においても埋没しないように努め続けた」、と。  玉蟲の逝去から35年以上が経過した現在、彼の研究と教育の経験から生まれた教育界への提言は今なお、尊重されるべきメッセージではなかろうか。 化学実験室における玉蟲の授業の様子   1936(昭和11)年に竣工した根津化学研究所内の実験設備を見る根津嘉一郎理事長(右から2人目)。 最も左は桜井錠二学士院長、その右は玉蟲文一教授。最も右に写っているのは山本良吉校長    
 
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