第1回入学式写真
根津育英会武蔵学園は2022年4月17日で創立100周年を迎えました
武蔵学園史紀伝
武蔵学園の創設と本間則忠の「十一年制寄宿舎」構想
季武 嘉也

はじめに

 1921(大正10)年9月、財団法人根津育英会が設立され、1922年4月の旧制七年制武蔵高等学校開校に向け動きが本格化した。その中心となったのはもちろん初代理事長根津嘉一郎であったが、根津に学校建設を働きかけ、さらに具体的なプラン作りにも大きな影響を与えた人物として、本間則忠(1865~1938)という文部官僚がいた。その本間の構想については、すでに大坪秀二「武蔵創設の『初心』 創立前史に想う」によって紹介されている。それによれば、ドイツのギムナジウムを模した中高一貫教育と、イギリスのオックスブリッジなどのカレッジにみられる学寮制を併せ持ったようなものであり、特に学寮制については、日本の旧制高等学校のような精神主義的で「バンカラ」風なものでは決してなく、人格陶冶をめざし、教師と生徒が同じキャンパスで生活することで「広範に教育活動を展開」できるような、まさしくイギリス風の寄宿舎を考えていたという。そして、大坪はそのような寄宿舎が結局は実現しなかったことを「ちょっぴり残念な気もする」と述べている。

 この項では、この本間構想が実際にどのようなものであったのかを改めて振り返ってみたい。というのも、じつは2016年より元国立国会図書館長大滝則忠氏らの手によって、同年夏に発見された「本間則忠旧蔵文書」の整理が武蔵学園記念室で進められている。2018年8月の時点で整理作業はまだ進行中であるが、それでも少しずつ新たな事実が判明しつつある。そこで、ここではいわばその中間報告として、新事実を含めて本間の構想を再構成したいと思う(以下、特に出典を注記せずに引用する資料は「本間則忠旧蔵文書」所収のものである。また、引用文は現代語風に書き換えた)。

 

1 本間と平田東助・根津嘉一郎

 まず、本間について紹介しよう。現在の山形県東置賜郡川西町玉庭の農家に生まれた本間は、山形師範学校(当時の師範学校は授業料がないため、貧しいが優秀な生徒が通う学校というイメージが強かった)を卒業して小学校教員となり、さらに東京の高等師範学校(現・筑波大学)を卒業すると長崎県師範学校教員として赴任した。ここまでは通常のエリート教員のコースであるが、本間の場合は、こののち文部省に勤務することとなり、かつ40歳で文官高等試験(現・国家公務員試験Ⅰ種)に合格し、いわゆるキャリア官僚となった点がほかの者と異なっていた。このような履歴をみる限り、歳をとっても刻苦勉励を怠らずに教育界・官界で立身出世に成功した人物であり、勉学というものの重要さを身に染みて理解している人物といえよう。しかし、そんな努力型の彼でも、50歳頃になると官界での出世に陰りが見えてきた。本間の後ろ盾となってくれた人物として、同郷の先輩である元内務大臣平田東助(1849~1925)という大物政治家がいたが

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これまでの百年と次の百年への展望

根津育英会武蔵学園は2022年4月17日で創立100周年を迎えました

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