一木喜徳郎と武蔵学園

季武 嘉也

はじめに

 旧制武蔵高等学校の初代校長として一木(いっき)喜徳郎という人物がいた。一木は、枢密顧問官のまま1921(大正10)年12月27日校長に就任、1925年3月30日宮内大臣に任命されると辞意を表明したものの、それが認められたのは1926(大正15)年3月であった。枢密顧問官とは、憲法をはじめ皇室・外交・教育・官制などの制度変更のうち、特に重要な事項に関し天皇からの諮詢(質問)に対して奉答(回答)する者たちのことである。周知のように、1889年に発布された大日本帝国憲法の下では議会に予算審議権や立法権などを与えたが、天皇にも統帥(軍隊指揮)、条約締結、官制制定、人事、命令(勅令)発布など天皇大権と呼ばれる広範な権能を付与した。しかし、それでは天皇が恣意的に大権を行使して混乱を招く可能性があるので、上記のような分野に関しては枢密顧問官たちで構成される枢密院がチェックすることになったのである。彼らは概ね週一回御前会議を開いて審議をしたが、戦前期では枢密院の奉答に天皇が拒絶することはなかった。また、宮内大臣は内閣から独立して皇室の庶務を取り扱う宮内省の長官であるが、実際には天皇の国務上の決定や、皇室・華族にまつわるさまざまなトラブルにも関わることが多かった。つまり、この頃の一木は、天皇という元首の側に仕え大日本帝国を支えていたのである。
 したがって、多忙な一木校長が武蔵学園のために多くの時間を費やすことは困難であり、学校運営は山本良吉教頭が担ったが、それでも一木が武蔵学園に与えた影響は大きく、特に7年制の採用、建学の三理想の制定は彼の意見に依る部分が多かった。そこで、本稿では第一に一木という人物を紹介し、第二にその人格がどのように武蔵学園の形成に関わったのかをみていきたい。

1 天皇機関説論者

 一木は1867(慶応3)年4月4日、現在は静岡県掛川の大庄屋の家に、父岡田良一郎の次男として生まれた。良一郎は幕末の有名な農政家二宮尊徳の弟子で、尊徳が提唱した報徳思想を全国に普及すべく1911(明治44)年掛川に大日本報徳社を設立すると、しだいに日本各地の報徳社のセンター的存在となっていった。報徳思想は、簡単にいえば勤労・勤倹・勤勉しながら、私欲を去り相互に助け合って生きていくことを説いたもので、明治の時代になると内務省がこれを採用し、大々的に普及を図った(一木自身も内務官僚や大臣としてこれに深く関わった)。全国の小学校に二宮金次郎像が建設されていくのもこの影響である。また、良一郎の長男には岡田良平という人物がいた。良平は文部官僚から文部次官、京都帝国大学総長を経て、1916年には寺内正毅内閣の文部大臣に就任した。このように、岡田家と内務省・文部省との間には密接な関係があった。
 さて喜徳郎であるが、兄良平の後を追って彼も上京し帝国大学に入学した。卒業後の経歴は別表を参考にしていただきたいが、まず武蔵高等学校校長就任までのキャリアをみると、第一に注目されるのが帝国大学教授27歳、貴族院議員33歳、法制局長官35歳、文部大臣45歳と、昇進が非常に早いことである。自費でドイツに留学しそこで得た法学知識を発揮して、彼は瞬く間に官界・学界のトップに昇り詰めていった。この背景には、いまだ近代的制度が十分に整っていない段階のため、最新知識を持った若い人材がいきなり抜擢されたということもあろうが、一木はその期待に応えることができる人材だったのである。

  第二は、彼が官界と学界の両分野で活躍したという点である。まず、学界分野での活動をみると、ここで重要なことは彼がいわゆる天皇機関説(国家法人説)を提唱したことである。同説の特徴は、ア)国家は法人であり主権は国家に属する、イ)統治権を行使する国家の機関には内閣・官僚・軍部・議会・裁判所などがあるが、君主もその一つである、ウ)ただし君主は国家機関の中でも最高位にあり絶対である、というものであるが、これは、当時帝国大学で憲法学を担当していた穂積八束の天皇主権説(神聖なる天皇は国家そのものであり、主権は天皇個人に帰属する)と対立するものであった。のちに天皇機関説論者として有名になる美濃部達吉は、一木の直系の弟子にあたる。美濃部が1935年頃に天皇機関説排撃運動で糾弾されたことは有名であるが、やはり一木もその時に非難され、1936年には枢密院議長の職を追われることになった。この点は後述する。
 官界分野で特徴的なことは、まず山県・桂内閣時に重要なポストに就いたことが目を惹こう。これは、一木が山県有朋や桂太郎に連なるグループ(山県閥)に属していたことを示している。明治期においては、議会勢力の台頭を嫌う軍部や官僚政治家が山県閥を形成し政党と対峙していたが、このような中で一木は山県の法律顧問の役割を果たしていたのであった。このことは、一木の天皇主権説が山県らにも受け入れられるものであったことを意味している。つまり、一木にしても山県にしても、天皇は最高絶対ではあるが、決して恣意的に権力を乱用してよいのではなく、あくまでも他の国家機関との協調や助け(輔弼)を得て行動しなければならない存在だったのである(1)。山県のような勤王家は天皇主権説論者と思われがちであるが、じつは官僚や軍部にとっても天皇機関説の方が自分たちに都合がよい訳であり、だからこそ一木の天皇機関説は当時の支配者層の中で広く認められるものとなっていった。
 第三に、第二次大隈重信内閣で文相・内相となったように、彼は決して山県のような反政党主義者ではなかった。大正期では、一木学説を勉強して官僚となった人物たちが官僚組織のトップの椅子を占めるようになっていたが、彼らの一部はさらに政治家を志して政党に接近するようになった。特に、加藤高明を中心とした憲政会(大隈内閣の与党が1916年に結成した政党)の幹部にはそのような経歴の者が多かったが、一木は彼らとも近く、一般には憲政会系官僚政治家とみなされた。ただし、だからといって彼は政党主義者でもなかった。この点については、同じ天皇機関説でも一木と美濃部の学説を比較してみれば明らかである。前述のア)~ウ)は同じであるが、美濃部学説ではさらに、天皇が大権を行使する際は国務大臣の輔弼を受けなければならないが、国務大臣には議会の信任が必要である、という点も付け加えられた。これに従えば、議会は閣僚のポスト、さらには天皇の国務行為をも左右するほど重要な位置に立つことになり、それは政党内閣制の理論的根拠となるものであった。
 以上のことから、枢密顧問官や宮内大臣のように天皇の側でその大権行使を補佐する人物としては、官僚にも軍部にも政党にも偏しない一木ほど適任な者はいなかったであろう。こうして、彼は枢密顧問官となり宮内大臣となったのである。
 つぎに、武蔵高等学校校長を辞任したあとの一木の動向をみていこう。1921年11月25日、20歳に達した裕仁皇太子は摂政に就任し、病弱であった父大正天皇に替わって国務を代行するようになった。当時の宮内大臣は大久保利通の次男牧野伸顕であったが、1925年に老齢の内大臣平田東助が病気のため引退すると、牧野が同年3月30日に内大臣に就任、同日一木が宮内大臣に任命された。内大臣の職務内容はじつは曖昧で、強いて言えば宮中の顧問的な性格が強かったが、それに対し宮内大臣は実際の庶務全般に関わる実務的なポストであった。こうして、一木は大正末・昭和初期の8年間を、宮内大臣として若き皇太子・天皇に近侍して支え、同時に宮中改革を図るという重責を担うことになった。
 ここで宮中改革について一言触れておこう。第一次世界大戦で敗北したドイツは帝政から共和制に移行した。また、民族自決によって欧州では共和国が数多く誕生した。こうして、君主制から共和制へという流れが世界的傾向となったが、これに危機感を抱いたのが君主国であった。当時の日本の皇室は前時代からの伝統的な慣習を多く引き継いでおり、それらを国民が納得できる形に改革することが一木宮内大臣や牧野内大臣の重要任務となったのである。法学者でもある一木は、皇室制度を審議する帝室制度審議会に深く関わって法典の整備に尽力した。また、内務官僚を中心に外部の人材を積極的に登用し、自らは平日官邸に宿泊して女官問題・冗費節減・能率増進・内親王養育などの面で改革に努め、1928年の御大典も無事にやり遂げた。このほか、この時期は皇族・華族の家族内で思想(子弟が共産主義者となる)や恋愛に絡むトラブルが日常的に発生しており、これらを表面化させずに処理するのも彼の役割であった。
 しかし、それ以上に一木を悩ましたのが政治問題であった。昭和時代に入ると周知のように、張作霖爆殺事件、ロンドン海軍軍縮条約、満州事変、五・一五事件など天皇と政治の関わり方が争点化した。これらに対し、一木は天皇と同じく立憲主義、国際協調路線に立ちながらも、ついつい政治に口を出してしまう若き天皇を、元老西園寺公望、内大臣牧野とともに諫めるようと苦労を重ねていた。彼らは、天皇が外部勢力によって政治的に利用されることを極度に恐れていたのである。
 こうした中、1932年8月頃に元宮内大臣田中光顕が高松宮妃に関する件を理由に、一木に辞任を迫る事件が起きた(2)。これも一つの要因となって、翌年一木は宮内大臣を辞職する。しかし、彼に対する攻撃はこれに止まらず、1935年には天皇機関説排撃運動が起こった。排撃側が表面上の標的にしたのは美濃部達吉であったが、同じ機関説論者ということで当時枢密院議長であった一木も攻撃対象となり、むしろこちらが本命であったともいわれる。この時は、昭和天皇が本庄繁侍従武官長に「天皇機関説を明確な理由なく悪いとする時には必ず一木等にまで波及する嫌いがある故、陸軍等において声明をなす場合には、余程研究した上で注意した用語によるべき」(3)と注意を与えたこともあり事なきを得た。また、1936年に二・二六事件が発生し内大臣斎藤実が亡くなると、天皇は一木に「なるべく側近に侍す」(4)るよう要請し、実際に一木はこの日から3月8日まで皇居内に宿泊し、事実上の内大臣の役割を果たした(3月6日には宮内大臣任命の必要から1日だけ内大臣を就いている)。このように、天皇の信頼は厚いものであった。しかし前述のように、翌年には枢密院議長を辞職する状況に追い込まれてしまった。
 以上のように、昭和期の一木は西園寺、牧野、あるいは鈴木貫太郎らといわゆる「宮中グループ」を形成し、一木的な天皇機関説に基づく天皇制を守ろうとしたが、しだいに後退せざるを得なかった。こうして、機関説排撃運動は美濃部学説ばかりでなく、山県有朋や昭和天皇も支持した一木学説をも否定し去ったのである。

2 七年制高等学校制度の採用

 高等学校の七年制度は臨時教育会で私が極力主張したものであるから校長を引受けて此任に当たることは云はゞ私の理想を実現する訳である。担任者として最も苦心することは良教師を選択することだが、私の実験によると我国民の教育的欠陥は外国語に不鍛錬なことである。最近国際連盟規約の批准事務を掌つた私は、特にそれを痛感して現在の教育制度では到底「世界の日本人」を作ることは難しいと考へた。故に新設の私立高等学校の特色を其処に求めて力を尽したい(『朝日新聞』1921年5月11日)
校長就任を前にして、一木喜徳郎は7年制高等学校を「理想」と表現している。そこで、ここではまず7年制という制度と一木についてみていきたい。
 そもそも、一木が武蔵学園と関係するようになったのは、1919(大正8)年9月であった。学園創設の準備が大詰めを迎え、根津嘉一郎と本間則忠は指導を仰ぐべく平田東助を訪問した。これ対し、平田は承諾を与えるとともに岡田良平、一木、山川健次郎、北条時敬にも相談するよう勧めた。平田は山県閥の領袖で農商務相、内相を歴任し、後述の臨時教育会議では総裁を務めるほどの政界・教育界の大物であり、一木にとっては大先輩であった。岡田は前述の通り一木の実兄で、前年までは文相を務めていた。山川健次郎は当時東京帝国大学総長の職にあり、北条時敬は元東北帝国大学総長で、この時は学習院長であった。すなわち、日本教育界の大立者ばかりであった。そして、同年10月3日関係者が集まって第1回協議会が開催されたが、ここではさまざまな議論が出された。詳しくはこの「武蔵学園史紀伝」中の拙稿「武蔵学園の創設と本間則忠の「十一年制寄宿舎」構想」(https://100nenshi.musashi.jp/Kiden/Index/a9efca9f-85e4-42ee-b420-e3c0e9e612bb)を参照していただきたいが、本間は5年制の中等学校創設と11年間の寄宿舎建設を、山川は修業年限3年の実業補習学校(小学校卒業者の職業訓練)の創設を、そして、一木は前述の引用史料にあるように、7年制高等学校創設を主張した(この点は平田や岡田も同じであったと思われる)。そのため、この会合では結論がでなかったが、この会合後から根津の意向は7年制案に傾いたようで、1920年2月29日に開催された第2回協議会では、7年制高等学校とすること、陣容は総裁平田、顧問山川・岡田・北条、理事長根津、理事本間・正田貞一郎・宮島清次郎、校長・一木とすること、の2点が決定した。こうして、一木喜徳郎校長が誕生することになった。以上の経緯からも、一木が7年制案を強く主張し、そして自らその実行役を買って出たことが分かろう。
 では、なぜ彼はここまで7年制に拘ったのであろうか。その前に、まず学校制度について確認しておきたい。戦前の日本は複線型学校体系をとっていた。この制度は同じ中等教育機関であっても、進学や職業訓練など初めから異なる進路を想定しそれにふさわしい教育を施そうとするもので、このうち進学する場合は中等学校(5年)、高等学校(3年)、帝国大学(3年)というコースを設置し、帝国大学卒業生には国家を担う人材となることが期待された。このような体系はドイツをモデルにしたものであった。日本の場合、明治10年代に憲法の範をドイツにとって以来、特に官僚・陸軍の間ではドイツ志向が強くなったが、教育分野も同じで、平田・岡田・一木を含む内務・文部官僚はこのようなドイツモデルを採用したのである。
 しかし、この制度にまず異議を唱えたのが経済界であった。経済界は卒業するまで11年間もかかるこの制度は長すぎるとして年限短縮を主張した。これに対し、官僚や帝国大学側は年限短縮によるレベルの低下を危惧して消極的であったが、ここで登場したのが高等中学校案であった。1910年小松原英太郎文相が中学科(4年)および高等中学科(3年)を置く高等中学校案を提案した。この案は、従来の中等学校と高等学校を有機的に結び付け同時に修業年限を1年間短縮しようというもので、7年制高等学校案と近いものであった。ここで想起されたいのは、7年制案はドイツのギムナジウムを模したものであるという大坪秀二の指摘である。確かにドイツのギムナジウムは、日本でいえば小学校5・6年生の2年間と中等教育7年間(現在では6年間)を合わせた合計9年間を修業年限としており、日本の7年制案はギムナジウムの中等教育7年間に相当することになる。したがって、7年制案はじつはますますドイツに近づいたものでもあり、一木にとっては前述の引用史料の通り、理想的なものだったのである。
 しかし、ことはそう簡単に運ばなかった。明治後期になると初等教育就学率は100%近くに達し、さらに学歴というものが社会で認知されるようになったため、国民の間からは進学を希望する者が増加し、受験競争も厳しいものとなっていた。また、私立学校も数多く創設され広く認知されていたが、法制上の位置づけが不明確で国立・公立学校との関係が問題となっていた。そのため良案が見つからないまま時間が過ぎたが、この状況に最終的な断を下したのが1917年設置の臨時教育会議であった。同会議は岡田良平文相・平田東助総裁の下で次々と重要な決定を下した(一木・山川も委員で参加)。このうち、中等学校・高等学校に関しては、ア) 尋常科4年・高等科3年の7年制高等学校を基本とするが、高等科3年だけを単独に設けることができる、イ) 官立・公立・私立の3つを認める、とされた。この案によって、ギムナジウムを志向する者たちからも、進学を希望する国民からも、そして地位向上を目指す私立学校からも、最大公約数的な了解を得ることに成功した。そして次には、このように選択肢が増えた中で、どの形態が適当なのかを実際に示す段階に入ったのである。一木が校長に就任したのはまさしくこのような時期であった(実際には、例外とされた高等科3年だけを設置する学校や、公立・私立学校は急増したが、7年制高等学校数は伸び悩んだ)。

 

3 「世界の日本人」

 最後に、建学の三理想と一木校長について触れておく。これに関しては、この「武蔵学園史紀伝」中の大坪秀二「三理想の成立過程を追う」(https://100nenshi.musashi.jp/Kiden/Index/d86f70be-57ca-464c-acfc-fb1cd7581e79)にその詳細が語られているので、そちらを参照していただきたい。ところで、その中でも紹介されているが、『根津翁伝』には一木の発言として次のようにある。


〔牧野伸顕がベルサイユ会議の場で外国語ができる人材が少なくて苦労したと言っていたが、〕私もそれは尤もだと思い、そういう意味の学校を拵えたら、宜かろうと思って居った処へ、根津さんの話があって、七年制の高等学校を拵えることになったので、七年間一貫してやれば、語学も余程他の学校より巧く行くわけだし、この七年間にみっちり世界的に役に立つ人間を拵えたら宜かろうと考えた。それが即ち武蔵高等学校の三項目の一として世界に雄飛する人物を作ることとして現われたわけです。〔中略〕東西文化の融合と云うことは、大隈さんが頻りに言われ、これは私も良い意見だと思いました。私自身東西文化の融合を日本がやらなければいかぬと云うことを始終言って居りました。由来日本は、昔から支那の学問を入れて居るし、東西文化を融合するのは、日本でなければいかぬと云うことを考えて居った。(5)
 

 もちろん、これは三理想のうちの「1、東西文化融合のわが民族理想を遂行し得べき人物」「2、世界に雄飛するにたえる人物」と関連した発言であるが、ここではこの発言を手掛かりに、なぜ彼が「世界の日本人」ということに拘ったのかという点を、特に当時の時代状況との関連から簡単に補足してみたい。
 まず「世界雄飛」について。牧野伸顕は前出の通り、内大臣として若き昭和天皇を西園寺公望元老、一木宮内大臣とともに支えた人物であるが、彼は第一次世界大戦終了後に開催された1919年のベルサイユ会議に西園寺とともに全権として参加した。当時の日本は世界の「五大国」の一つに挙げられ、国際連盟では常任理事国にもなったように、明治維新以来50年にして世界の一流列強として認められたのである。ところがこの会議では、戦争で大きな被害を受けた欧米各国が、帝国主義を排し新たな平和的世界秩序を構築しようと熱心に議論を重ねたのに対し、日本政府はこうした議論には加わらず大勢に順応することを方針としたため、他国からは「サイレントパートナー」と揶揄されてしまった。日本政府の関心はあくまでも東アジアの権益に集中しており、それは欧米各国からみれば排すべき帝国主義の残滓だったのである。勿論、これをすべて日本政府の責任に帰すことも酷であろう。それまで東洋の小国でありいわば子供であった日本が、自身でも気づかないうちに急速に成長して大人の仲間入りを果たし、周囲からは大人らしく振舞うよう要求されたのと同じだったのである。
 しかし、このような海外からの冷評は、むしろ日本国内で大きな問題となった。特に、ベルサイユ会議を目の当たりにした若きジャーナリストたちは日本の全権を無能と罵倒し、さらに今後五大国として国際社会で活躍するには、まず国内を改造する必要があると主張したのである(6)。おそらく、彼らのこのような思いは批判された側の牧野も共有していたと思われ、だからこそ親しい一木に率直な感想を述べたものと思われる。そして、一木もそれを受け止め、教育という場で国際的に活躍できる人材を育成しようと考えたのであろう。ただ、一言付言しておけば、一木のいう「世界の日本人」とは単に外国語が堪能というだけでなく、「幼少の時より人格養成、品性陶冶と共に外国語に力を注いだならば、世界の舞台に活動すべき日本人を輩出せしむることを得」よう(7)と述べているように、7年制高等学校による「人格養成、品性陶冶」も重要であった。
 最後に、「東西文化融合」について(「東西文化」となっているが、大隈がしばしば語っていたのは「東西文明」であった。もちろん文化と文明は異なるが、以降では大隈に従って「東西文明」と理解しておく)。幕末に佐久間象山が東洋の道徳、西洋の技術を提唱したことは有名であるが、このような東西文明の融合あるいは調和という発想は、近代日本を通して広くみられるものである。というよりも、前述の一木の発言にもあるように、国是といえるかもしれない。日本の位置を世界地図でみれば、中国文明の東端に存在すると同時に、アジア市場を開拓しようとしたペリーがまず来航したのが日本であったように、アメリカ側からみればアジアの入口であった。そのような日本が世界の中で自らの独自性を主張しようとすれば、東西文明の接点であることを強調するのも自然であろう。すなわち、支配者西洋と被支配者東洋が対峙する状況の中で、東洋に対しては日本が仲介して西洋文明の普及とそれによる発展を手助けし、西洋に対しては東洋の代弁者として東洋特にその精神文化の理解を得ることで東西相互の理解が進めば、世界平和も実現できる、というのが東西文明融合論のおおよそ共通した主旨であった(8)。
 大正時代において、このような東西文明融合論を唱えて有名であったのが大隈重信であった。大隈は1908年に西洋思想の名著を日本に紹介するために大日本文明協会を設立し、実際に多くの訳書を刊行した。大隈は、東西両文明の差異が発生した理由を明らかにしていけば、両者は調和できるはずであると主張していた。一木は第二次大隈内閣の文相・内相であったので、当然大隈の所説を十分に理解していたであろう。
 以上のように、武蔵学園が創設された頃の日本は、ちょうど東洋の一国から「五大国」へと変身を遂げる最中であった。そして、国際社会もこの頃を境にして数多くの国際会議が開催され多国間条約が締結されていくようになり、急速に接近していった。こうした中で、根津理事長、一木校長は「東西文化融合」という日本の立場に立って、国際社会の中で「雄飛」できる人材の育成を目指したのである。一木の意図するところを現代風に言い換えれば、グローバル化し且つ多様な国際社会の中で、日本人という主体性を持ちつつ世界平和を目指して国際舞台で活躍できる人材の育成ということになろうか。このように書けば、むしろ現代の日本人にとってはかなり受け入れやすいものとなろうが、前述の臨時教育会議で決定した大学令が「国家ニ須要ナル学術」の教授と「国家思想ノ涵養」を、同じく高等学校令が「国民道徳ノ充実」を教育の目的にしたことを考えれば、当時の日本においてこの建学の三理想はかなり異色なものであったように思われる。

 

 注:

(1)一木の天皇機関説については、家永三郎『日本近代憲法思想史研究』(岩波書店、1967)参照。
(2)原田熊雄『西園寺公と政局』第2巻(岩波書店、1950)、345頁、『木戸幸一日記』上巻(東京大学出版会、1966)、185頁。
(3)『昭和天皇実録』第6巻(東京書籍、2017)、747~748頁。
(4)『昭和天皇実録』第7巻(東京書籍、2017)、33頁。
(5)根津翁伝記編纂会編刊『根津翁伝』(1961)、246~247頁。
(6)伊藤隆『大正期「革新」派の成立』(塙書房、1978)参照。
(7)一木喜徳郎「七年制高等学校の必要なる趣旨」(『武蔵学園史年報』創刊号、1995)。
(8)一木にとっての「東洋の道徳」とは、天皇を中心に据えた王道主義であった。一つの階級や勢力が権力を独占する政治体制はいずれ崩壊するしかなく、それに対し天皇とそれを補佐する者たちが道徳によって自らを律することで国民全体の利益を図り、国民の文化の発達を保護するという王道主義がより好ましい、と一木は考えていた(一木喜徳郎「世界の大勢と我が帝国、」『ぬき穂』第29号、1920年5月)。

 

武蔵学園史紀伝一覧
2022.02.23
生徒の「服装」について(2)
「標準服」から服装自由へ
「白線問題」から服装規定廃止へ  終戦をむかえた1945年末、第四代校長校長山川黙が辞任した。玉蟲文一教頭の校長事務取扱時期を経て、翌46年2月に元京城帝国大学教授の宮本和吉が着任した。戦後の学制改革により宮本校長のもとで武蔵高等学校も新しい体制を構築することとなったが、これに先駆けて服装規定が大きく変化した。  1946年11月から12月にかけ、教師会・生徒大会で「白線問題」についての議論が行われ、結果として服装規定そのものが撤廃されることになったのである。「白線問題」とは、他の多くの旧制高校のように、制帽に白線を巻きたいという生徒の要望への対応を指す。「生徒の『服装』について(1)」でも触れたように、白線帽は旧制高校のシンボルである。武蔵では戦後になり、この白線を求めるうごきが高等科の生徒から改めて起こったようである。  このうごきに対し、教師会では生徒の意見を確認し、これを参考として校長が教師会の議を経て白線の可否を決定することにした。これが11月25日のことである。その後、11月29日に生徒大会が開催され、「白線を附するや否や」について全校生徒による投票が行われたが、結果は「白線を附する希望なき方多数」となった。12月2日開催の教師会でこの結果が伝えられ、いったんは服装規定については「従前の通り」すなわち制帽には白線を巻かないことが確認されている。しかし、生徒自治委員長より生徒の要望として服装規定そのものを撤廃し、自由にしたいという申し出もあわせて行われており、結局はこちらの提案が採用されることとなった。  服装規定撤廃に関する宮本校長の訓示(*1)では、この経緯が次のように説明される。   先般来高等科生の間に帽子に白線をつけたいという希望があり、之について教授会にはかった結果、全校生徒の意見を問い之を参考として教授会の議を経て裁定することになり、去る12月2日の教授会に付議したのであったが、其の際自治委員長から全校生徒の要望であるとして本校生徒の服装は自由にしたいとの申し出があったので、この事を併せ考えて長時間に亘って慎重討議の結果、12月3日を以て本校従来の服装規定を撤廃することになったのは諸君の承知の通りである。  さらには、終戦後の社会変化・価値観の転換を踏まえ、こうしたうごきのなかに服装規定撤廃を位置づけての生徒へのよびかけも行われた。   制服制帽主義は多分軍隊のそれから来たものであろうが、この服装規定は形式が内容を規定する、即ち形を整えて心を正すという形式本位の教育方法である。(中略)然るに終戦後しきりに人間の解放、人間の自由が叫ばれて居り、新憲法の第三章はこの自由権の確立を規定している。まことに自由こそ人間精神の本質であり、その真の在り方である。今日吾々に課せられた民主政治も、この人間自由を伸ばすための、人間の解放された精力が、それによって極めて多方面に表されるような便宜上の手段に他ならない。だから教育の民主化ということは形式が内容を規定するという形式尊重の教育ではなくして、反対に内容が形式を規定するという線に沿うべきである。だから制服制帽の撤廃という今度の本校の措置はこの線に沿うものということが出来る。(中略)  本校は軍隊ではなく、吾々はお互いに学問に志すものとして、むしろ形式からでなく内容の方からはいることが望ましく、内容から自ずから生まれる新しい形式を本当に自分のものとして身につけて行きたい。只このことは言うべくしてしかも極めて困難な仕事である。だからと云って之に着手しなければいつそれが実現されるかわからない。今吾々はこの困難な課題を自分に課したのである。まず何よりも内容の充実が吾々の課題である。この課題を諸君は之を夫々自己の問題として本当の自己の責任において解決せられんことを切望してやまない。   服装規定の変化―「標準服」化   一方で、玉蟲文一教頭による記録では「生徒大会に於ける白線問題に関する論議の帰趨、並びに戦後の物資難に基き、暫時の間、服装規定を撤廃することにした(*2)」と書かれているという。これをうけ、大坪は「宮本和吉校長との訓示とは意識の食い違いが見られる(*3)」、「そのときの先生方の姿勢は、ごく一部の方を除いて、あまりポジティブなものではなかったのではあるまいか」「煩わしさを避ける大人の智恵ではあっても、戦後の混迷の時代に新方針を打ち出すという程の意気込みはなかったように思う(*4)」と述べている。新制武蔵校等学校の教員として母校に戻った大坪は、ほどなくしておこった服装規定復活のうごきやそれへの対応、すなわち1953年の「標準服」の規定制定(*5) に関わることとなった。だからこそ、こうした感想を抱いたのではないかと考えられる。  ↑ 写真1:1951年撮影。生徒は標準服が多いが一部そうでない人もみえる。右端は森愈教諭    服装規程撤廃に関して、公開された文章としては『武蔵高等学校一覧 昭和29年度』(1954年12月10日印刷・発行)に掲載された「本校歴史」での記述が確認できる。昭和21(1946)年11月25日の項目としては玉蟲教頭による表現がほぼそのままに「生徒大会に於ける白線問題に関する論議の帰趨並に戦後の物資難に基き暫時の間、服装規定の実施を中止した」と記載されている(下線部分は、原文では傍点「、」が付されている)。ただし、「撤廃」と「実施を中止」ではずいぶんと印象が異なる。なお『武蔵五十年のあゆみ』における記述では「戦中・戦後の物資欠乏の故もあって、服装についての規程の実施は昭和21年に中止された」であり、同書収録の「年表」でも1946年11月に「服装規定の実施を中止」とある。『武蔵九十年のあゆみ』では宮本校長の訓話を紹介とあわせて、「服装規程を撤廃」との表現を用いている。「年表」では1946年12月2日の項において「服装規程を廃止」と記している。  1946年に従来の服装規定が撤廃、あるいは実施が中止されたとはいえ、校内での服装に関するルールが完全に自由化されたわけではないらしいことも『学務日誌(*6)』の記録から推測される。着衣についての明確な記述はみられないが、しばしば下駄履きに関する注意が登場する。生徒側から、とくに雨天時の下駄履きを認めて欲しいとの要望があったが認めていない。下駄履き禁止については学校でのルールというより一般的なマナーにもとづく指導と理解できるかもしれないが、1950年に新制大学・高校・中学共通の「武蔵バッジ」が制定(*7)されると、中学・高校生には後述するようにバッジの着用がルール化されていたようである。生徒の服装が完全自由となった現在からは想像しがたいが、この年には生徒がバッジを着用しているかどうかを教員が点検する期間を設けた(*8)ことも確認できる。旧制以来の生徒を紳士に育てようとするマナー指導は継続し、白線帽の代わりに授与された佩章もバッジにその姿をかえて受け継がれ、着用が指導されたのであろう。バッジのデザインも旧制時代の校章の一部を継承している。佩章は式典等への出席時に着用が求められたが、この「武蔵バッジ」は日常的な着用が求められた点に大きな違いがある。  さて、大坪は宮本校長による「服装規定」廃止から「標準服」制定までの経緯を次のように伝えている。   私が武蔵の教師になったのは新制の二年目、一九五〇年であるが、その二、三年後に制服問題の揺りもどしが来た。「父兄の要望」で、制服規定を復活させてほしいという話であった。窮乏生活はまだ続いていたが、景気がすこしは上向きかけてもいた。この時の教師会の会議では、かなり活発な論議があったように記憶している。私と同様、新制になってから就任した二〇歳台の先生が何人もいて、制服復活には反対の人が多かった。しかし、今思うには、服装自由賛成よりは制服反対が主な論点であったために、制服復活論を抑えきれなかった。結局、結論は玉虫色になった。つまり、制服復活はしないが、標準服のきまりを作るということである。(*9)  大坪は自分が着任した1950年の「その二、三年後に制服問題の揺りもどしが来た」と記しているが、1950年度(1951年1月29日)にはすでに父兄から無記名で生徒の制服を考えて欲しいとの投書があった(*10)。また、大坪は引用文よりも後の部分、すなわち「標準服」制定後の出来事と読める書き方で「玉虫色ではすまない事がすぐに起こった」として、高校2年生の修学旅行中におこった事件を紹介している。京都で「セーター姿で出歩いた生徒たちが、他校生に脅かされたり撲られたりという事故」がおこり、警察署で少年課の担当者から「制服を着ていないような生徒は、それだけで不良と見られても仕方ないのだ」といわれてしまったのである。その場で付添の島田俊彦教諭が「うちの学校では服装は自由なのだ。あんたは、ひとの学校の教育方針にケチをつけるのか」と反論したというが、当時の教師会記録「週報」では修学旅行後に「今回の旅行で学校の制服制帽の必要を痛感した」とあり(1952年10月27日)、「来年度から学校の制服を制定したいとの意見もあるので、機を改めて付議したい」(同年12月8日)、「生徒の制服については研究中であったが、学校の方針としては新学期から標準型を決めて制服希望者には指示することにした。その標準型の規格、選択等は購買部委員[引用者補:委員名は省略。大坪を含む7名の教員である]に於て考究する」(1953年2月2日)、武蔵校等学校服装規定、購買部規約の制定(1953年3月9日)と展開している(*11)。『武蔵五十年のあゆみ』・『武蔵九十年のあゆみ』でも1953年1月8日に「服装規程を定め標準服を示す」「標準服を定める」とあることから、まず年賀式で在校生徒に服装についての方針が示されたのであろう。『武蔵高等学校一覧』では昭和28(1953)年3月の項目に「服装規定を定め四月新入生に対して標準服を指示した」とあることも確認でき、規程の実施は新年度からであったと推測できる(下線部分は、原文ではいずれも、傍点「、」が付されている)。  つまり、時系列としては1950年頃には制服復活の要望が起こったが、具体的な対応が始まるのは1952年の修学旅行中の事件以後である。この事件を受けて制服制定(復活)の議論が動き出し、1952年度内に「標準服」を制定することを決定し、1953年度より実施となったのである(*12)。 ↑ 写真2 1957年撮影、37期生。生徒全員が標準服・左襟に「武蔵バッジ」。前列中央は横井徳治、松井栄一、大坪秀二の三教諭。    では「標準服のきまり」とは具体的にどのようなものであったのか。また先に述べたバッジ着用のルールとは何か。『武蔵高等学校一覽』(1954年12月10日印刷・発行)の「第三章 本校諸規定」には、「一、常に本校三理想の実現に心がけ特に組主任の指導を受け、自己の研鑽につとめること」にはじまる全8項の「生徒心得」が掲載されており、服装に関するものとしてはつぎの規定を確認できる。   一、服装は別に示された標準に基づき、常に本校所定のバッジをつけること   一、校舎内に於ては脱帽の習慣を守り、下駄を使用しないこと  「生徒心得」に続き、「服装規定(原文ママ)バッチ佩用規定」が示される。  服装規定   一、本校生徒の服装は清潔端正にして質素を旨とする   二、本校生徒が登校に際し着用すべき服装の標準は次の如くである     イ帽子      様式 丸型 品質 黒ラシャ 徽章及襟章 学校所定のもの     ロ冬服      様式 背広型立襟、袖ボタンなし 品質 紺又は黒サージ ボタン 学校所定のもの 長ズボン(中学の低学年は半ズボンが望ましい)     ハ夏服      様式 冬服に同じ 品質 鼠霜降小倉 ボタン 学校所定のもの     ニ靴      黒革、黒又は白ズック製、雨雪の場合(原文ママ)ムゴ製靴の使用は自由     ホ外套又は雨着      様式 品質標準なし 但し外套は黒又は紺のシングル(バンドのないもの)     ヘ開襟シャツ      半袖開襟を標準とし、長袖折襟これに準ずる 品質 白木綿   三、夏冬服着用期間の標準は次の如くである     冬服 十月一日より翌年五月三十一日迄        襟巻、ジャンパーはなるべく使用しないことが望ましい     夏服 六月一日(原文ママ)まり九月三十日迄        この間開襟シャツの使用を妨げない  バッチ(原文ママ)佩用規定   一、武蔵の学生生徒は登校の際は必ずこのバッジをつける   一、このバッジは武蔵の学生生徒であることをあらわすものであるからこれをつけることにより武蔵の学生生徒たる誇りと責任を感ずるようにしたい   一、このバッジを他人に貸与したり譲渡したりしてはいけない   一、このバッジを紛失した場合は所定の手続きを経て再交付する   一、このバッジは左襟または左胸につける   一、卒業以外の理由で学籍を離れる時は返納しなければならない   明文化されたこうしたルールがどのように運用されていたか、生徒にどう受け止められていたかが、『校友会報 武蔵』第5号(1954年5月15日) の「さえずり」というコーナーに掲載された「制服制度を望む」という生徒の投稿からわずかにうかがえる。この投稿は「『登校の際着用する服は、今迄着ていたもので結構です』(原文ママ)ただ今後新しく買う時には成る可く詰襟のものにして下さい』現在我校において入学第一歩に聞かされる文句にこのような一句がある」と始まる(*13)。おそらく小学校・中学校で着用していた制服のボタンや徽章などを付け替えて着用するのが一般的だったのであろう。入進学にあたり、「標準服」の新調を学校側が強く期待することはなかったのかもしれないが、校友会報には「武蔵特制(原文ママ)開襟シヤツ」を扱う制服店の広告がときおり掲載されている。この広告によれば学校の購買部でも同店の制服見本を展示していたとのことであるし、1960年代に在校した卒業生からは入学手続きの際に学校門外に制服を扱う業者が来ており、そのために生徒・保護者は疑問に思うことなく購入したとの情報が寄せられた。この時期、着用は強制されないものの、限りなく「制服」に近いものは用意されていたようである。なお、バッジは入学式で校長から授与されるものであった。  前述のように大坪ら若手教員らの反対もあり、規定上は制服ではなくあくまでも「標準服」であった。しかし、「教頭[引用者補:内田泉之助。在職1926~1967年]は標準服の着用を励行させることを教師たちに求めていた(*14)」し、校友会報の投稿で紹介された「今後新しく買う時には成る可く詰襟のものにして下さい」という呼びかけにもみられるように学校側からの標準服着用のはたらきかけがあったことも間違いない。服装規定の実際の運用にあたっては、旧制時代を知る教員、とくに山本良吉の薫陶を受けた世代(*15)と、新制になってから着任した教員との間に温度差があったものと推測される。おそらく服装規定廃止から「標準服」制定までのあいだも同様だったのではないか。  生徒・保護者がどのように受け止めていたのかを明らかにすることは困難であるが、学園記念室が保存する写真(*16)や筆者のもとに寄せられた卒業生からの情報からは1960年代には「標準服(詰襟・学生帽)」の着用がごくあたりまえに行われていたらしいことがうかがえる。冬季のセーターやコート類の自由な着用はあったようであるが、こだわりがなければ標準服が選択されていたようで、私服通学は多数派ではなかったようである。 ↑ 写真3 1960年撮影、40期生入学記念写真。生徒全員が標準服・左襟に「武蔵バッチ」・左胸に名札らしきもの。   ↑ 写真4 1966年撮影、40期生卒業記念写真。ロゴの入ったシャツや柄のセーターを着用した生徒もいるが、標準服着用者が多い。前列左端に鳥居邦朗教諭と藤崎達雄教諭、前列右端に島田俊彦教諭。         服装「自由」の時代へ  武蔵において「標準服」の規定がなくなり、完全な服装自由の時代が始まったといえるのは、1970年代末から80年代初めであろう。武蔵だけでなく、1960年代後半から70年代前半にかけての「高校闘争」のなかで、制服を自由化した学校は100校以上存在すると推測されている(*17)。この時期に校長を務めた大坪は次のように記している。      服装問題について最終的に決着をつける仕事は、時の流れの故にあって私が引き受けるめぐりあわせになった。‘70年前後の高校紛争の嵐の時代が来たとき、校則一般について、学校の側としても曖昧な態度はとれなかった。「昭和二一年以来、制服規定はない。服装は自由である」と言い切って、昭和二八年制定の標準服のきまりを握りつぶしてしまったのは、あえて言えば私の独断である。「玉虫色のものは規定とは言えない」という正当化を心中に持ってはいたのであるが(*18)。  玉虫色の規定とはいえ、「服装規定(標準服)」「バッジ佩用規定」は『一年生要覧』『新入生のために』といった入学時に配布される冊子である時期まで明文化されていた。こうした冊子類で現物を確認できるのは『一年生要覧』が1958年度から1962年度まで、『新入生のために』が1963年度から2002年度までである。なお、2003年度からは『学校生活の手引き』と名称を変えて現在も継続刊行中である。  『一年生要覧』には「生徒心得」が掲載され、「服装は別に示された標準に基づき常に本校所定のバッジをつけること」として「標準服」の規定を示していたが、1963年度の『新入生のために』では、服装について次のように説明する。   第八章 服装    服装に関しては、入学の時に授与されるバツジ(原文ママ)をつけるという次の規定のほかには、標準として示されているだけで、制服、制帽といつた厳密なものはありません。 《バツジ佩用規程(原文ママ)》   一、武蔵の学生生徒は登校の際は必ずこのバツジをつける。   一、このバツジは武蔵の学生生徒であることをあらわすものであるからこれをつけることにより武蔵の学生生徒たる誇りと責任を感ずるようにしたい。   一、このバツジを他人に貸与したり譲渡したりしてはいけない。   一、このバツジを紛失した場合は所定の手続きを経て再交付する。   一、このバツジは左襟または左胸につける。   一、卒業以外の理由で学籍を離れる時は返納しなければならない したがつて、バツジさえつけておれば、おとうさんのお古の背広でもいいわけです。 ただし、次の規定があります。    本校生徒の服装は清潔端正にして質素を旨とする。      実際には、冬が黒のつめえり、夏が半そで開きんシャツといつた人がほとんどで、ズボンは低学年で夏に半ズボンがちらほら、あとは長ズボンです。    新調される方はもちろんどこでなさつてもかまいません。    カバンも特に指定はなく、ズツクのさげカバンが大部分です。    ほかには体育の際の運動着がありますが、上下とも汚れのめだつ白がよいとされています。運動ぐつは白でなくてもよく、通学用のズツクぐつのままでもかまいません。    うわぐつはいりません。通学ぐつのまま教室にはいります。通学ぐつは何でもよいのですが、〈半バス[引用者補:ローカットのバスケットシューズのこと]〉の生徒が多いようです。げたばきは禁止してあります。 (下線は引用者による)    服装規定中に「標準」ということばは登場するが、具体的な「標準服」を示すことはなくなり、「本校生徒の服装は清潔端正にして質素を旨とする」のみとなっている。しかし、この時点ではまだ「バッジ着用」ルールがあり、実際には「詰襟」「開襟シャツ」といった「標準服」を着用している生徒が「ほとんど」なのである。さきに述べたように、1960年頃までは詰襟着用の生徒の写真が確認できた。60年代半ばでもおそらくは同じような状況で、少なくとも入学時には「標準服」を用意して着用していたと考えられる。著者のもとに寄せられた卒業生からの情報によると、入学時にあつらえた標準服が成長によりサイズがあわなくなったり、学校生活になれてきたりしたら私服に移行していったのだという。少なくとも1970年代初までは入学式には標準服の着用が一般的で、70年代末になると入学時にも私服に変化していたようである。  服装に関する「標準」が学校配布の文書から完全に消滅したことを確認できるのは1979年度の『新入生のために』からである。   第六章 生活   (1)服装    服装に関しては、入学時に授与されるバッジをつけるという規定のほかは、制服制帽といったものはありません。 (下線は引用者による)    この文章に続いて前出の「武蔵バッジ」に関するルールが《バッジ佩用規定》として示され、「したがつて、バッジさえつけておけば、おとうさんのお古の背広でもいいわけです。ただし次の規程があります」として「本校生徒の服装は清潔端正にして質素を旨とする」ことが説明されている。服装の「標準」が示されなくなってもまだ、登校の際にはバッジをつけるというルールが残ったのである。とはいえ、学校側がバッジ着用をどれほど厳密に指導していたかは確認することは困難である。1980年代初には入学時に組主任からバッジ着用がルールだと説明されたとの情報や、1980年代半ば以降も実際にバッジを着用していたという情報が卒業生から得られているが、現職教員に指導状況を尋ねてみたところによると、少なくとも90年代に入るとこのルールは死文化していったようである。それでも1997年度まではこの登校時のバッジ着用のルールは『新入生のために』に残され続けた(*19)。  1998年度の『新入生のために』「第六章 生活」は冒頭につぎのような文章を掲げており、これが現在まで継承されている。    本校には、服装、所持品、髪型などについて生徒に守らせるために書かれた規則はありません。日本の法律などの規則はもちろん武蔵でも守らなければなりませんが、そのほかに武蔵だけで適用される規則はほとんどないのです。(中略)武蔵の校風は自由だとよく言われますが、真の「自由」は「身勝手」とは正反対のところにあることを忘れないで下さい。他人に規制されるのではなく自身で規制して正しい行動をとるのが真の自由な人、自身を規制することができないのが身勝手な人です。このことに気をつけながら、自由な学校生活を十分に楽しみましょう。  服装についての説明も次のように変更された。「本校には制服や制帽はありません。学業に励み、体をつくり、心を磨く場所である学校へ来るのにふさわしい服装であれば、何を着て来てもよいのです。ふさわしいかどうかの判断は、自分でするように求められています。ただし、その判断があまりにも独善的であれば、他人から注意を受けることはあるでしょう」。 「生徒の『服装』について(1)」でも言及した、本校webサイトでの「服装などについては学校として決まりは作っていません。時として教員が個別に指導することはありますが、その場合も本人の自覚を促すことを基本としています。」という説明 は、この『新入生のために(学校生活の手引き)』での方針を踏まえたものである。服装指導を通じて生徒を統制する、あるいは制服や校章のような共通のシンボルによってスクール・アイデンティティを高めようとするようなねらいはなく、あくまでも一般社会におけるみだしなみの注意にとどまるものである。 現在も入学式では新入生全員に「バッジ授与」が行われるものの、生徒に着用を求めることはない。生徒の服装も、中学生入学式や高校卒業式では正装としてブレザーやスーツの着用(とくに高校3年生の場合は紋付きに袴姿も見られる)が多いものの、式服をふくめて学校からとくべつな指示をすることはない。生徒も教職員も、染髪・アクセサリー類の着用など服装はまったくの自由なのである。    ↑ 写真5 1971年撮影、45期卒業記念写真、標準服の生徒は少ない。前列左端に大坪秀二教頭、前列中央に矢崎三夫教諭。   ↑ 写真6 1976年3月撮影、50期卒業記念、標準服の生徒は全く見られない。中央のネクタイを締めている人物は田中正之教諭。   本稿作成にあたり、ご関係のみなさまがたより情報提供をいただきました。 心より感謝申し上げます。 ・卒業生の方々 井上俊一様、大塚日正様、加藤順康様、志村安弘様、高野陽太郎様、富重正蔵様、橋本芳博様 ・旧教員の方々 大橋義房様、梶取弘昌様、岸田生馬様 ・現職教員 杉山剛士校長、高野橋雅之副校長 ※ お名前掲載の許可をいただいた方々のみ、五十音順で紹介させていただきました。   注: *1 大坪秀二編「宮本和吉学長・校長訓話抄 昭和二一年~昭和三一年」(『武蔵学園史年報』10、2004年)。 *2 玉蟲文一教頭による「本校歴史(草稿)」の記述による。ここでは大坪秀二が『旧制武蔵高等学校記録編年史 大正11年~昭和24年』(武蔵学園記念室、2003年)に引用したもの(p.148)を再引用した。 *3 前掲『旧制武蔵高等学校記録編年史 大正11年~昭和24年』p.148。 *4 大坪秀二「随想 定年退職にあたって 武蔵の服装規定のこと」(『武蔵高等学校同窓会会報』32号1990年12月)。 *5 『武蔵七十年のあゆみ』(1994年)p.114。 *6 「新制武蔵高等学校中学校初期記録抄(一九四九・三~一九五二・八)」(『武蔵学園史年報』第3号、1997年)。 *7 『武蔵高等学校一覧』では昭和25(1950)年5月12日の項目として「開校記念式に際し新たに制定したバッヂを全職員学生生徒に授与した」とある(下線部分は、原文では傍点「、」が付されている)。「武蔵」の文字を両側から雉がかこみ、背景に6本・3本・4本の線を刻んだデザインである。大学では1998年に開学50周年記念として白雉と小枝を組み合わせた新たなシンボルマークを定め、現在はこちらのデザインを使用している。 *8 1950年9月4日に「近頃バッジを佩用しているものが少ないようであるが、なるべく佩用させることにした。なお、一定の日を定めてバッジの有無を一斉に点検することにした」とあり、10月2日~7日の一週間で実施、9日には結果を組主任から学務課へ報告することを確認している。前掲「新制武蔵高等学校中学校初期記録抄(一九四九・三~一九五二・八)」参照。 *9 大坪前掲「随想 定年退職にあたって 武蔵の服装規定のこと」。 *10 前掲「新制武蔵高等学校中学校初期記録抄(一九四九・三~一九五二・八)」参照。 *11 「新制武蔵高等学校中学校初期記録抄 その三(一九五二・九~一九五六・三)」(『武蔵学園史年報』7、2001年)。 *12 こうしたうごきを大坪は「諸慣行の旧制復帰」と述べている(前掲「新制武蔵高等学校中学校初期記録抄 その三(一九五二・九~一九五六・三)」)p.130。「諸慣行の旧制復帰」とは、服装規定以外に卒業式での「君が代」斉唱や、生徒の反対にもかかわらず購買部が復活したことを指している。 *13 投稿の趣旨は「団体生活に精神的締り」が不足するので、選択自由ではなく、全員着用の制服を制定して欲しいという学校への要望である。 *14 前掲「新制武蔵高等学校中学校初期記録抄 その三(一九五二・九~一九五六・三)」p.130。 *15 大坪は内田教頭について「昔のことを知る者から見れば、旧制時代山本校長のしたことの外形をできるだけそっくりになぞることであったと思う」と評している。「新制武蔵高等学校中学校初期記録抄解題 その三(一九五二・九~一九五六・三)」(『武蔵学園史年報』7、2001年)。卒業生からも、鎌田都助(くにすけ)教頭(1925年着任。教頭在任期間は1956-60年)は服装指導に厳しく、校舎玄関前で生徒の服装(靴が磨かれているかなど)をチェックしていたとの思い出が寄せられた。 *16 武蔵学園百年史サイト武蔵写真館「071 1950年代から60年代の武蔵高等学校」https://100nenshi.musashi.jp/Gallery/Theme/a4e111df-2c4e-40e4-b4b9-39b7e8e36431。 *17 小林哲夫『学校制服とは何か―その歴史と思想』(朝日新聞出版[朝日新書]2020年)p.112。 *18 大坪前掲「随想 定年退職にあたって 武蔵の服装規定のこと」。 *19 ちなみに、下駄履きについても2019年度の『学校生活の手引き』までは禁止が明文化されていた。 *20 武蔵高等学校中学校webサイト よくあるご質問 学校生活について「武蔵は自由だと聞いていますが、規制はないのですか」(https://www.musashi.ed.jp/nyuushi/faq.html)。
2022.01.13
夫が愛した「武蔵大学」
                               【編者注:この文章は、1979年に武蔵大学経済学部経営学科を第27回生として卒業された菅又佳郎氏(2009年10月3日に逝去された)の奥様、菅又里美様から、『武蔵学園100年史』紀伝編原稿として執筆いただいたものである。】  夫が亡くなって5年経った2014年の夏、武蔵大学同窓会栃木県支部総会にお誘いを受け、出席させていただきました。同窓生でもない私に「菅又君に代わって特別会員ですよ」と、皆さんが優しくお声をかけてくださるのが本当に有り難かったです。そこでの東武鉄道取締役の坂巻伸昭氏の「東京スカイツリープロジェクトについて」熱く語る講演は、この栃木支部会の立ち上げから事務局をしていた彼がいたら、どんなにか喜んだことだろうと思いながら聴き入りました。  私にとっての武蔵大学は30年ほど前、彼とお見合いで出会った日からです。日光までドライブをしましたが、道中彼の話はずっと武蔵大学のことでした。ゼミ、学生運動、恩師や友人、バイト、江古田のこと等々、私はここで武蔵大学の概要を聞かされたようなものでしたが、これが面白くて面白くてどんどん話に引き込まれていきました。目的地の明治の舘での食事の最中もあたかも昨日の出来事かのように「学内に一晩拉致されて差し入れの弁当がね……」「酔っ払って下宿に先生が泊まって、ズボンを間違えてはいてっちゃって……」「勉強してなくって、でっかく名前を書いて試験及第点……」「西武の配送センターのバイト、暑くてくたくたでわざと贈答カルピス破損させて……」などなど、およそ私の学生生活からは想像もつかないことを嬉しそうに話し続けていました。声が大きい人だったのでテラス席でよかったと思いましたが、今でもよく訪れる思い出の場所となっています。帰りの車内で流れていたBGMは歌謡曲でもフォークソングでもなく、岡村喬生氏が歌う武蔵大学讃歌で、延々とリピートされていました。  当時の日記を見るとその日のことを「独特の世界観をもっていて、これほど母校に生きている人私は知らない」と私は書いていて、それは彼が亡くなるまで変わりませんでした。この日がなければ彼と一緒になることはなかったのですが、ここに至るまでにさらに伏線がありました。卒業後は栃木に帰って就職することしか考えていなかったようで、武蔵大学の大先輩が経営する上野商事に入りました。同じ大学の卒業生ということで採用していただけたんだろうと思います。ほんの数年の勤務でしたが、当時商売をしていた私の実家に月1回営業に来ていたのです。私は高校生で何も知りませんでしたが、両親と彼はお互いに人柄を知り合った関係でした。彼が武蔵大学に入らなければ、きっと出会うことはなかったでしょう。そう思うとつくづく縁を感じます。その後彼は保険会社を立ち上げ、会社名も「武藏保険事務所」とします。どれほど大学が好きなのかと思います。  出会って2ヶ月後、私は初めて彼と武蔵大学に行きました。ケヤキの緑がとても美しく、校内には小さな「濯川」が流れていて都内とは思えないような自然を感じる大学というのが第一印象でした。大学を卒業して10年以上が経つのに「武蔵大学で僕を知らない人はもぐり」と。吹いていると思いましたが、守衛さんが「菅又さん」と声をかけてきたので驚き、大学職員のように学生生活課をはじめ各校舎を詳しく案内してくれました。親友の山田さんや大久保さんをはじめ大学職員の皆さんの笑顔に出会いました。正門を後にするときには「なんてアットホームな大学なんだろう」と思ったことを鮮明に覚えています。帰りに「ランプ」で優しそうなママさんから学生や同窓生の話を伺っていたら、卒業してもここに通う気持ちがわかるような気がしました。  彼と出会ってから何度もドライブをしましたが、大きな川を見ると川岸に行って対岸にまで届くような声で武蔵大学讃歌を歌うのが常でした。学ランでも着ているつもりかのようにエールまで切るのです。初めて渡良瀬川で聞いたときは唖然としましたが、あまりに堂々と歌うので思わず拍手をしてしまい、彼にとってはそれが私を選ぶ決め手になったようです。彼との20年の人生で武蔵大学讃歌を何度聞いたかしれません。嬉しいときも、辛いときも歌うので、私は自分の母校の校歌すら覚えていませんが、武蔵大学讃歌は3番まで歌えます。    元号が昭和から平成に変わった1989年の1月に結婚式をあげ、彼が日頃から大切にしている方々を200人からご招待し、祝福していただきました。翌日新婚旅行に出発しましたが、バブルのあの時代、日本で手に入らないものは何もないという感覚がありました。  そこで二人が考えたのは「世界の東京」に新婚旅行しようという発想でした。自分達がまだ経験していない、大相撲を桝席で観る、歌舞伎を桟敷席で観る、はとバスの夜の花魁コースに着物で参加する、ゴッホのひまわりを観る、根津美術館に行く、帝国ホテル、ホテルオークラに泊まる等々、1週間東京を満喫する贅沢な旅行でした。その旅行の最初の目的地が武蔵大学でした。前日ご出席いただいた先生方の研究室を次々訪ねては、どうして今ここに来ているんだと驚かれ、新婚旅行だと話してさらに驚かれ、昨日のご出席のお礼を伝えると皆さんようやく笑みをこぼされていました。  新婚旅行は東京でしたが、その夏からの20年、毎年夏と冬に海外旅行をしました。イスタンブールに行ったとき、「東西文化融合の……」とつぶやくので、聞いてみると武蔵大学建学の三理想「東西文化融合のわが民族理想を遂行し得べき人物、世界に雄飛するにたえる人物、自ら調べ自ら考える力ある人物」と、ボスポラス海峡に向かって叫んでくれました。そのために海外旅行をしていたわけではありませんが、彼の理想の人物像であったのかもしれません。  結婚してからは彼と一緒に何度も武蔵大学を訪れました。「武藏の日(平成6年3月4日)」では、アナウンサーの村松真貴子さんや柔道の山口香さんにお目にかかり、その2ヶ月後の武蔵丸の講演会にも聴きに行きました。武蔵大学に行くことで、なかなかお会いすることのできない方々との貴重な機会をたくさん得ることができました。「武蔵サミット」では大学にも行きましたが、「第二回武蔵サミット」で私にとっては初の九州、大分県の武蔵町に行ったこともいい思い出です。数ある日本の地名で「武藏」はここだけということも初めて知り、驚きました。  50周年の式典やゼミの石原先生の講義など彼一人で武蔵大学に行くこともありましたが、毎年文化の日には江古田で同級生と待ち合わせて小平霊園に行っていました。在学中に亡くなった同級生の六川さんのお墓参りです。私も一度連れていってもらったことがありますが、お線香を手向けた後は、近くのお店で一杯やるのが楽しみだったようです。近況を伝え合いながら、同級生ならではの楽しい酒を酌み交わしていました。 【石原司教授】  2009年6月に恒例の栃木支部会を開く段取りをして、当日は懇親会までいつもと何ら変わらず楽しんでいたので、同年の10月3日に亡くなったときは多くの方々を本当に驚かせ、悲しませてしまいました。葬儀で大好きな武蔵大学讃歌を流すことが遺言の一つでもありましたから、しめやかに流させていただきました。  翌年の2月には同窓会栃木県支部会の皆さんが「ミスター武蔵・菅又佳郎さんを偲ぶ会」を開いてくださいましたし、同級生や石原ゼミの方々が墓参りに足を運んでくださったり、恩師や友人からたくさんのお便りもいただきました。彼が日頃「人は宝」と言って、交友関係をとても大事にしていたからこそと思いました。  2年前に山梨の根津記念館を初めて訪れました。武蔵大学の創設者である根津嘉一郎について、私は「鉄道王」と言われ、茶人でもあったという程度の認識でしたから、ここでこの方の経歴や業績、功績を詳しく知ることができました。山梨県下の全小学校に200台ものピアノをはじめミシンや様々な教材・教具を寄贈し、「社会から得た利益は社会に還元する義務がある」という信念があったと知りました。夫は生前、亡くなったら大学に寄付をしてほしいと言っていましたから、遺言どおり大学に寄付をさせていただきましたが、根津嘉一郎に学んだことなんだと理解しました。広いお屋敷に佇んでゆったりと庭を眺めながら回想できたひとときでした。少しばかり夫婦でお茶を嗜み、二人でよくお抹茶を飲んでいましたから、帰りに館内のショップでお抹茶椀を一つ購入し、今もよく使っています。  夫の心のどこかにはいつも武蔵大学があり、武蔵大学に染まった人でしたが、彼は武蔵大学に全てに染まりたかったんだろうとさえ思える昨今です。今回思いがけない依頼で拙い文を書かせていただきましたが、在学中から夫を慕ってくれて、彼が亡くなった後も変わらない誠実さで「里美先輩」と気にかけてくれる大学職員の小倉宇思さんには感謝しています。
2022.01.13
武蔵大学同窓会の黎明期余談
 私は昭和29(1954)年に武蔵大学プレメディカルコースに入学、秋に胸の病気が発覚、その後2年間休学を余儀なくされ、昭和31(1956)年に復学した際に経済学部1年次へ転籍。かつて、大学新聞会再編に関り教授ともども大学知名度アップに奔走したこともあって、この度、学園百年史刊行作業部会の大学側委員である大久保武氏(大20回生、事務局長、常務理事を経て、現在学園の常勤監事)から、大学同窓会や新聞会の発足当時のこと、加えて学園ゴルフ会発足の経緯などを記録に残して欲しいとの依頼を頂いた。折よく木村重紀(大12回生・元同窓会副会長)氏から大学同窓会60周年史などの資料提供も頂けたので、記憶をたどりつつ当時を振り返りたい。 「武蔵大学新聞縮刷版」61ページ、大学新聞第32号をご覧いただきたい。この号から、題字も元気なものに変えたいと思い、当時学園の庶務課長であり書道家としても有名であった大竹正美氏に依頼、紙面もタブロイド判から朝日や読売新聞並みのブランケット版に一変、6ページ建てにした。加えて、6面に「同窓会便り」のコーナーをつくり、向山巌先生(大1回生。大学同窓会設立者で初代同窓会長。当時は大学助手)に寄稿をお願いした。 【武蔵大学新聞・第32号・1面】 【武蔵大学新聞・第32号・6面掲載の向山先生の文章】  昭和32(1957)年4月号からその寄稿文を紹介する:「本年3月殆ど100%の就職率をおさめた第5回卒業生を迎えて、わが同窓会会員も250名から一躍370名に増加し、小規模ながら団体にふさわしい世帯を張ることが出来るようになったことは大変うれしいことです。(中略)会員諸兄が同窓会の存在意義を十分認識し、同窓会を媒介として同窓生が学窓時代に受けた他校に見られないうるわしい師弟、友情関係を社会生活を通じて緊密に維持し母校の発展に寄与したいものと考えます。なお、今後新聞会が同窓会のためにこの欄を毎号設けてくれることになりました。新聞会の好意に感謝するとともに、この欄を通じて同窓生の動向や消息、トピックなどを載せていきたいと思いますので同窓会本部まで資料を提供してくださるようお願いいたします。  同窓会会長 向山 巌」  手前味噌になるが、この大学新聞の「同窓会便り」コーナーへの向山先生の寄稿が大学同窓会誕生の学園全体に向けた産声だったと思っている。実際には、大学新聞第27号によると「昭和30年(1955年)10月の総会で会則並びに会長が承認され正式に武蔵大学同窓会が発足した」とある。私が復学し経済学部1年に転籍したのがその翌年の昭和31年、秋に「新聞会」に入会。当時、旧制武蔵高校は天下に鳴り響いていたものの新制武蔵大学なんて誰も知らない。したがって鈴木武雄学部長以下全学一丸となって「知名度アップ」に奔走していた。生まれて間もないにもかかわらず、今の「地方創生」の先を行く企画といえる日本経済新聞社と組んだ各主要都市での「武蔵大学時事経済講演会」を開催。併せて各地方で大学父兄会を開く、など。なにしろ大学に父兄会なんてあるはずもない時代(東海大学にもあったそうだが)に確かに各地方に父兄会役員が居られた。その効果か、地方からの新入生が多かったが、「ゼミ」なんて聞きなれない言葉にあたふたし、「そうか、夜教授の家で勉強会をするのがゼミなのだ」と錯覚。先生たちはそのため家、土地を西武沿線に買う場合、ゼミ用のため少し広めを購入しなければならないので頭が痛い、などとまるでウソのような本当の話。一方、学生たちは武蔵3大理想を唱え、ゼミ選びで大騒ぎし、学生生活を謳歌していた。大学と言うよりは向山先生が言われたように麗しい師弟、友情関係に満ち溢れていて、あたかも家庭のような気がした。  旧制高校の雰囲気を色濃く残す中、鈴木武雄学部長を兄貴と慕い、4年で卒業するのが勿体ないくらいの大学生活であったが、やがて私も卒業し「東レ」に入社。実習を終え東京本社販売部に着任するや否や向山先生から電話。「少数団体の同窓会とはいえ土台固めが一番の難題。会員との絆には同窓会新聞が必要。副会長を命じるから広報担当として走りまわって欲しい」と言われた。引き受けてみればどなたでも気づくことだが、何故土台が固まらないのか、すぐわかる。向山先生は別格だが、その後選ばれる歴代の会長は前会長の指名制であったため学生時代の超やり手が指名される。彼等が、会社で忙しくない筈がない。同窓会の仕事なんて出来る余裕のない人たちばかりを指名していたのだ。そこで浅野徹(大2回生)副会長の時、次回は自営業の人で武蔵バカを選んでほしい、2~3年の任期制も破棄してもらいたい。長期にわたらなければ本当の土台作りなんかできる筈がない、とお願いした。結果、選ばれたのが、その後32年間に亘り会長を務めることになるあの「石田久」(大1回生、高24期生)氏である。銀行勤めをやめ、実家(用賀、駒沢学園駅近)を継ぐ、という時だ。向山、浅野攻撃に耐えられず引き受けてくださった。石田さんに「あなたは旧制武蔵高校から大学へ来られた得難い逸材。ぜひとも死ぬまでやって武蔵大学を世界に雄飛させるための唯一の応援団の土台をしっかり作っていただけませんか」、武蔵を愛して止まない一番手の方にはこの言葉が一番効きにきいた。石田体制の土台作りがすぐに始まった。広報活動の充実をはじめ、全国規模で展開した地方支部発足の呼びかけ(と言っても卒業生はごくわずか)、各企業内或いは業種別業界の交流会の発足呼びかけ、そして各部会の組織運営にふさわしい人材探し、目が回るほどの忙しさだった。長期基本方針がはっきりしていただけに素晴らしい人材たちが同窓会役員に入ってきて石田体制をしっかりサポートしてくれ、こんにちの素晴らしい同窓会が芽を出し始めて行った。同窓会新聞の発行については、当時現役の大学新聞会の各編集委員、特に戸塚章(大16回生)氏が活躍、名だたる優秀メンバーが揃い充実していった。途中、新聞では字数が少ないと言うことになり、週刊誌タイプに切り替えたがビックリするくらいの上出来ぶり。後に「講談社」に入り夕刊・日刊ゲンダイ初代編集長に抜擢された浦上脩二(大14回生)氏並びにそのグループなど、枚挙にいとまがない。ご協力いただいた皆様に感謝、感謝の毎日だ。  話が移るが、武蔵大学の母体は旧制武蔵高等学校である。大学発足時から、武蔵学園の中には、戦後の「学制改革」により誕生した新制武蔵高等学校(中高一貫男子校)と旧制高校を母体とした新制武蔵大学の二つが併存しており、現在もそうである。普通に考えれば同窓会が3つになるはずだ。つまり、旧制武蔵高等学校同窓会、新制武蔵高等学校同窓会、新制武蔵大学同窓会。これを学園全体で一つにまとめる?至難の業が必要となる。しかし、正田建次郎学園長時代にこの無理を無理でないものにしようと学園長が自ら立ち上がられ、その手始めにと発案されたのが、互いの親睦を深めるためのゴルフ会である。昭和49(1974)年11月9日(これらの資料は木村重紀氏・元同窓会副会長から入手)のことである。これに「はーい」と合流したのが、なんと旧制武蔵高等学校出身の石田大学同窓会長。彼、ゴルフが出来ないのに、会場の東武カントリーに朝から駆け付け懇親会終了まで出席。結果は旧制組が上位を独占、大学側は惨敗。大学同窓会新聞によれば「新旧同窓生交流に大きな成果」とありその後この「オール武蔵ゴルフ大会」は毎年開催と決定され、「武蔵学園ゴルフ会」と改名はされたが令和元(2019)年で通算なんと78回。3者(いや2者か)が和気藹藹となって力を合わせて学園長杯を競う、なんと素晴らしいことだ。学園が一つになった。  大学同窓会報の中に「武蔵なひと」と言う秀逸なコーナーがある。若い素敵な女性たちが作ってくれた作品らしい。プレメディカルコース出身の宮崎秀樹先輩(プレメ2回生。現在・参議院協会会長、元日本医師会副会長、現中国・国家発展と改革委員会の日本でただ一人の名誉顧問)、小林隆幸先輩(大1回生。元ホンダ常務)など90歳近くなのに目を細めてこのコーナーを楽しみにしている。こうしたコーナーこそが絆を強めるパイプ役だ。先人たちの土台作りに込めた思いがこうした形で強まっていく。同窓会をはじめ武蔵大学、武蔵学園全体がより強い絆で発展を遂げて行く。先人たちに心からの謝意を捧げたい。  最後に「武蔵大学新聞」が長期休刊に入った際、暖かな目で支援の手を差し伸べてくれたのは武蔵大学本体であり同窓会であり新聞会にたずさわった諸先輩たちだった。特に、当時学長でおられた桜井毅先生(大3回生)の強力な支援の下で「武蔵大学新聞縮刷版1~2号」が完成したことは画期的なことである。今、その新聞会は見事復活しヨチヨチながらも歩み始めている。武蔵学園全体のあふれんばかりの暖かさが身に染みる。武蔵学園万歳!   
2022.01.08
武蔵大学図書館のコレクション
イギリス通貨・銀行史コレクションを中心に
武蔵学園の図書館  現在、武蔵学園には、武蔵大学図書館と武蔵高等学校中学校図書館の2つの図書館がある。  図書館の充実を図ることは、旧制武蔵高等学校の以来の方針であり、開学から4年後の1922年の時点で、すでに蔵書数は2万8千冊に及んでいた。ただし、独立した図書館棟の建設については、その計画はあったものの、戦前の鉄材統制の影響などもあって、旧制高等学校の時代には実現をみるに至らなかった。戦後、大学の開学をうけて1951年に、新たに書庫と閲覧室が建設された。そして63年には新たな図書館棟が作られ、81年には現在の大学図書館が新築され、さらに2002年に大学8号館が建設されると、その地下に「洋書プラザ」が設置され、大学図書館に収蔵されていた洋書がここに収められた。大学図書館は大学と高等学校中学校が共同で利用されてきたが、04年に高等学校中学校の図書館棟が建設され利用が開始された。ただし、図書館を学園全体で利用する伝統はその後も続き、大学の学生・教員と高等学校中学校の生徒・教員が2つの図書館を利用するかたちは維持されている。  現在の蔵書数をみると、大学図書館では約65万冊、高等学校中学校では約7万6千冊に及んでおり、充実した内容のものとなっている。  さて、大学や高等学校中学校が図書館を設けて文献資料などを収集・保蔵し、利用の機会を提供する目的はどのよう考えられるだろうか。  いうまでもなく、学生・生徒が、学習に関連した書籍や各自の知的関心に応える文献などを閲覧できる環境を整備することを、その第一にあげることができる。武蔵学園は、旧制高等学校の時代から、「自ら調べ自ら考える力ある人物」の育成を「三理想」のひとつに掲げており、図書館機能の充実はこの理想の実現を支えるものといえる。  他方、各分野の研究に必要な文献資料などを収集・保存することも、図書館の役割である。特に「学術の中心」(教育基本法)とされる大学の図書館の場合、これは、教育と並ぶ基本的な役割であるといえる。そして、これらの資料は当該の図書館を運営する大学などの教員の研究に利用されるだけでなく、利用の便宜を外部にも広く提供し、社会の学術研究の発展に資する役割を担うものでもある。各々の分野の研究に必要な資料は広範囲に及び、また研究分野も多様である。他方、それぞれの図書館が所蔵できる資料の数は限られている。したがって、こうした外部提供の果たす役割は大きいといえる。  現在ではインターネットの普及により各図書館が所蔵する文献資料など検索をすることは容易となった。各大学図書館のOPACと呼ばれる文献検索システムはインターネット上に公開されている。また、国立情報学研究所(NII)が提供するCiNii Booksというデータベースによって、全国の大学図書館などが所蔵する図書・雑誌や雑誌を一括して検索することもできる。しかし、そうした現在においても、ある特定の分野に関する包括的な文献資料などが、ひとつの図書館において所蔵され閲覧できることの便宜は小さくない。各分野の資料にどのようなものがあるかの情報が得やすくなるばかりでなく、多くの資料の閲覧も多数の図書館に赴いたり、多数の図書館から資料を取り寄せたりする場合よりも容易となる。  「何々文庫」とか「何々コレクション」と呼ばれるものは、図書館が所蔵する文献などの資料のうち特定の分野に係るものを取りまとめたものである。そのひとつのタイプは、ある個人などが収集した文献などをもとにしたものである。例えば、一橋大学には「メンガー文庫」がある。これは、『国民経済学原理』などを著し、「限界革命」と呼ばれる1870年代における経済理論の革新の担い手の一人であった著名な経済学者、カール・メンガーが収集した2万冊からなるものである。一方、個人ではなく、古書店などが特定のテーマに係る文献などを集め、これを大学図書館などが所蔵するコレクションもある。  武蔵大学図書館も、こうしたコレクションがある。イギリス通貨・銀行史コレクション、バルザック(水野文庫)コレクション、ラファエル前派コレクション、そして朝田家型紙コレクションがそれである。   武蔵大学図書館のコレクション  これらのうちイギリス通貨・銀行史コレクションについては、最後に多少詳しく述べることとし、まず、それ以外のコレクションをみておこう。  バルザックは、19世紀のフランスを代表する小説家であり、リアリズム文学を確立したと評価される。水野亮氏は、このバルザックの研究者であり、『従妹ベット』、『従兄ポンス』、『「絶対」の探求』など岩波文庫に収められた多くのバルザックの著作の翻訳者としても名高い。水野氏はバルザックに関する多数の文献を収集されていたが、1979年に亡くなったのち、水野氏のもとで学ばれた私市保彦氏(武蔵大学名誉教授)との縁故により、この蔵書が武蔵大学図書館の所蔵するところとなった。79年の受け入れ開始から1年余りをかけて登録整理が行われ、目録が作成された。書籍1440余冊、雑誌論文などの資料約200点からなるバルザック(水野文庫)コレクションが、これである。  ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)とは、19世紀半ばのイギリスで結成された芸術家のグループである。このユニークな名前は、ラファエロ以降の芸術を規範とする当時のアカデミーの在り方を批判し、それに縛られない芸術を目指したことに由来するとされる。そして、このグループは、ルネサンス以前の素朴な芸術の精神の復興を唱え、その影響は、絵画だけでなく文学などの分野に及んだ。武蔵大学図書館のラファエル前派コレクションは、この芸術運動の資料の集成であり、240点の初刊本や書簡を含む328点からなっている。  武蔵大学のコレクションのなかでユニークなものに、朝田家型紙コレクションがある。朝田家は丹後国の宮津藩(現在の京都府宮津市)で、幕末の天保年間から明治30年代にかけて、三代にわたり紺屋(染物屋)を営んでいた。その間に使用・収集された小紋や中形の型紙約3000枚と、幕末期に藍染された小紋の裃1具、および関連文書約250件、図様の彩色見本長3冊が、武蔵大学に寄贈された。これらの資料を預かり受けていた型彫師の増井一平氏の仲介により、本学の丸山伸彦教授を通して、2012年に朝田家より寄贈されたものである。   イギリス通貨・銀行史コレクション  イギリス通貨・銀行史コレクションは、経済学部の金融学科開設と係わりがある。武蔵大学は、1949年に経済学部経済学科のみの単科大学としてスタートした。その後、59年には経済学部に経営学科が増設され、69年には人文学部が開設された。そして92年に経済学部の3つ目の学科として金融学科が開設されることとなった。当時、情報通信技術の発達や金融市場のグローバル化の進展などを背景として、経済分野における金融の役割は拡大し、金融取引の内容も進化していた。こうした状況のもとで、金融現象を総合的に取り扱う金融学科が誕生することとなった。イギリス通貨・銀行史コレクションは、これにあわせて金融関係の図書資料の充実をはかるために、丸善の協力をえて入手したものである。  このコレクションは、個人の蔵書をもとにしたものではなく、イギリスの古書店二社が専門家の協力のもとに5年の歳月をかけて収集した文献からなっている。文献数は1800点余りに達する。刊行年別にみると、1600年代のものが46点、1700年代が282点、1800年代が1,251点、1900年以降のものが627点であり(刊行年不詳のものを除く)、貴重な古書が多く含まれている。  そのタイトルが示すように、この文献コレクションはイギリスの通貨・銀行業に関するものである。主題別にその内容をみると次のようになっている。銀行および通貨の経済理論(205点)、イングランド銀行(92点)、スコットランドおよびアイルランドの銀行業(154点)、地方銀行・民間銀行・株式銀行(66点)、貯蓄銀行(194点)、海外におけるイギリス系銀行業(149点)、銀行業の法令および銀行実務(679点)、イギリス銀行業の歴史および回顧的研究(149点)、通貨・貨幣鋳造・銀行券(123点)、である。このように、このコレクションに収められた文献資料は、広い範囲に及んでいる。  現在でもロンドンは世界の金融センターのひとつであり、金融部門においてイギリスは大きな役割を担っている。ただし、イギリスの通貨制度や銀行制度を研究する意義は、こうした現代におけるイギリスの重要性に照らしてみただけでは十分理解できない。アムステルダムの後をうけて、イギリスはロンドンのシティを中心として、近代的な金融業をいち早く確立させ、その後長く世界の金融中心地の地位にあった。また通貨・銀行に関する理論の発展でもその中心となり、のちに触れるイギリスで行われた地金論争や通貨論争などは、通貨・銀行に関する古典的な論争である。したがって、通貨・銀行業の歴史や理論を研究するうえで、イギリスに関する諸文献の検討は欠かすことができず、年代的にも主題に関しても幅広く文献を収集したこのコレクションの意義は大きい。  ここに収められた文献の全体像を紹介する余裕はないが、代表的なものをいくつかとりあげて簡単に紹介しよう(1)。  そのひとつは、イングランド銀行の設立に関するものである。現在、イギリスの中央銀行であるイングランド銀行は、名誉革命からしばらくたった1694年に設立された。革命以前からイギリス政府は財政難に悩まされており、課税の強化や借入に頼って資金を確保することが困難な状態に陥っていた。イングランド銀行はこの問題を解決するために設立された。そして、同行の設立に際して重要な役割をになった人物が、ウィリアム・パターソンであった。波乱に富んだ経歴を経て、革命後ロンドンに定住し財を築いたこの人物が提案したイングランド銀行の設立案は、「真に実際的で、且つ十分に熟考された最初の計画」(2)であり、これに基づいてイングランド銀行が設立された。イングランド銀行の創設者ともいえる彼が、同行が基礎をおくべき原則を説明する目的で、1694に著した小冊子が、本コレクションに収められているA brief account of the intended Bank of Englandである。なお、イングランド銀行の設立と同時期に、土地銀行設立という別の構想があった。土地所有者から提供される土地抵当を基礎に信用創造を行うというこの企画に関して最も影響力が大きかった人物はH.チェンバレンであり、J.ブリスコウも有力な提唱者であったが、この二人の多くの書作も本コレクションに収められている。このようにイングランド銀行設立期において行われた信用制度に関する議論をみるうえで、本コレクションは重要な資料を提供している。  信用制度をめぐるイギリスの議論に係る文献をもうひとつ紹介しておこう。19世紀の初頭、イギリスは他の国々に先駆けて資本主義経済を確立させたが、1825年以降、信用恐慌を伴う恐慌が周期的に発生することとなった。本コレクションに収められたT.ジョプリンの1832年の論稿、Case for parliamentary inquiry ,into the circumstances of the panicは、銀行業の問題の権威者であったジョプリンが、この1825年恐慌についての検討の必要を説いたものである。  こうしたなかで1836年以降、議会に委員会が設けられ、通貨・信用制度の在り方をめぐる議論が活発に行われた。通貨論争と呼ばれるものが、これである。  19世紀のイギリスにおける通貨・信用制度に関する論争としては、地金論争と通貨論争が重要であり、かつ有名である。このうち、地金論争は、フランスとの戦争を背景として1797年にイングランド銀行がイングランド銀行券の兌換を停止したのちの諸現象-地金価格の上昇や為替相場の下落など―の原因や、兌換再開の是非などについて行われた論争である。地金論争関係の文献も本コレクションに収められているが、それについての説明は割愛し、通貨論争に戻ろう。  通貨論争と呼ばれるこの論争は、1844年のピール条例制定を中心とするイギリス信用制度の展開につながったが、それだけでなく、そこで議論された論点や提唱された理論的主張は、現在に至るまで、姿を変えながら繰り返し現れてきている。現在の日本銀行の量的金融緩和政策については、専門家の間でも評価が分かれているが、1990年代の前半には、岩田・翁論争と呼ばれる論争があった。これは、岩田規久男氏(上智大学教授、当時)と翁邦雄氏(日本銀行調査統計局企画調査課長、当時)との間で行われた論争であって、日本銀行がマネタリーベースを増加させることで物価を上昇させるという政策の実行可能性や妥当性が問題とされた。もちろん、当時、あるいは現在の日本と、19世紀半ばのイギリスとでは、状況も異なり、論争の争点も同じではない。しかし、中央銀行が通貨量を管理することができるか否かや、それが有効な問題解決手段となりうるか否かが基本的な論点となっている点では、現代のこの論争も通貨論争と共通しているといえる。  通貨論争の参加者は、通貨学派と銀行学派に大別される。このうち通貨学派の人々は、恐慌が発生するのは、銀行券が過剰に発行されるためだと考え、銀行券の発行高をイングランド銀行の金準備の大きさと厳密に結びつけることで、恐慌は回避または緩和できると主張した。他方、銀行学派の人々は、銀行券の過剰発行が恐慌の原因であるとする説を退け、また銀行券の発行額は取引の必要に応じて受動的に決まるなどと論じた。  このような両派のうち通貨学派を代表する論者のひとりが、サミュエル・ジョーンズ・ロイド(オヴァーストーン卿)である。イギリス通貨・銀行史コレクションには、ロイドの著作が複数収められている。そのなかには、イングランド銀行を発券部と銀行部の二部門に分割すべきこと―これは、ピール条例で実現される―を論じた珍しい私刊本、Thoughts on the separation of the departments in the Bank of England(1840年)も含まれている。通貨学派の論客としては、ロイド以外にも、G.W.ノーマンやR.トレンズなどがよく知られているが、両者の論稿も本コレクションに複数収められている。他方、銀行学派に属する人物の文献としては、T.トゥックの著作、A history of prices, and of the circulation, from 1793 to 1837をあげるべきだろう。この『物価史』は、たんに通貨論争に係る文献というだけでなく、事実による根拠を丹念に示しながら、イギリスの物価変動について詳細に論じた名著である。そしてこの大著の翻訳は、武蔵大学で長く教鞭をとられ、名誉教授となられた藤塚知義氏によって行われた。本コレクションには、1838年に刊行されたその第1巻と第2巻が収められている。   注: (1) 藤塚知義「イギリス銀行業・通貨制度の文献コレクション」(『学燈』Vol.89,No.3 1992年〔『イギリス銀行制度の展開 武蔵大学金融学科開設記念蔵書展 展示資料解説』に転載〕、および吉田暁「現代の観点からみるイギリスの銀行・通貨史」(同『展示資料解説』所収)参照。 (2) A.アンドレァデス『イングランド銀行史』(町田義一郎・吉田啓一共訳 日本評論社 1971年)」77頁。パターソンおよびイングランド銀行の設立に関しては、同書を参照。
2022.01.08
生徒の「服装」について(1)
旧制時代の服装規定を中心に
 高校・中学において「制服がない」ことは、武蔵の自由を象徴するもののひとつであるかもしれない。小林哲夫『学校制服とは何か―その歴史と思想』(朝日新聞出版[朝日新書]2020年)では本校のwebサイトでの説明(*1)「服装などについては学校として決まりは作っていません。時として教員が個別に指導することはありますが、その場合も本人の自覚を促すことを基本としています」を紹介し、「自由である。学校は規則で生徒を縛っていちいちうるさいことを言わない。自律を求め、自覚を促すに尽きる」(p.161)と述べている。なお、生徒だけでなく、教員の服装も基本的には自由である。おおたとしまさ『名門校「武蔵」で教える東大合格より大事なこと』(集英社[集英社新書]2017年)では、ある教員について「武蔵の教員にしてはいつもちゃんとした服装をしている」(p.24。下線は引用者)と評する。スーツ着用等のルールはないため、私服の教員はよほどラフに見えるのであろうか。  しかし、武蔵100年の歴史において、生徒の服装が完全自由になったのは後半の約50年のみである。第8代校長である大坪秀二先生(在任1975年度~1987年度[在職は1950年度~1996年度]。16期卒。以下、敬称略)が『武蔵学園史年報(*2)』、また同窓会会報(*3)に寄せられた「随想 定年退職にあたって 武蔵の服装規定のこと」で学校史における服装規定を整理され、規定廃止の経緯を記されている。小稿ではこれら記述を参考に、あらためて武蔵の服装規定をめぐる歴史を整理してみたい。 模索の時期  武蔵高等学校の開校は1922(大正11)年4月であるが、この時点では生徒の服装に関する規定は定められていなかったようである。第一回尋常科入学式記念写真(1922年4月17日撮影:下記「写真1」)でも、新入生は学生帽こそ揃ってかぶっているものの、着衣は羽織に袴、長着に袴、学生服(デザインも詰襟、立折襟が混在)とさまざまである。帽子正面には徽章が付けられているようであるが、帽子自体のデザイン(天井部分の形状)は微妙に異なるように見え、統一された規格ではなさそうである。 写真1 第一回尋常科入学生(1922年撮影)  開校の翌月、1922年5月6日の『教務日誌(*4)』に「生徒ノズボンハ長短随意トス。夏略帽ハ固キ麦帽トシ、リボンヲ黒色トシ徽章ハ外部ニ付セシム」、9日には「ズボンノ長サハ当分任意トスルコト」といった記述があるが、和装が禁止された様子はない。とはいえ1923(大正12)年2月23日には「本校生法規定中外套を削り、上衣の袖ボタンを随意とす(*5)」ることが定められており、徐々に洋装に統一されていったようである。またこの記述から、大坪はこの時点で「[引用者補:服装の]規定が既に存在する」と理解している。履き物については断片的な記述しか確認できないが、1925(大正14)年10月~11月の教師会(職員会議)において泥土による教室の汚れが話題にされている。教室に土足で入るためにおこった問題である(なお、現在も音楽室や家庭科室など一部教室をのぞき、校内では土足で過ごしている)。この解決方法として「靴底に凸凹の甚だしき靴の使用禁止」のほか、「脱靴」や「オーバーシュー」の導入が議論され、翌月7日には「靴底に甚だしき凸凹のある靴」は漸次禁止とすることが決定されている。しかし、この後も教室に泥土が持ち込まれてしまう問題は継続したようで、1926(大正15)年10月の教師会でも教室清掃についての話し合いが行われていることが確認できる。  制帽については、第一回入学生の高等科進学の際(彼らが尋常科4年在籍時の1925年度)に「白線」を巻くかどうかが議論になったことが伝えられている。白線帽は高校生のシンボル(*6)であり、高校生になるからには帽子に白線を巻きたいという生徒の希望が優勢であったというが(こうした意見の表明、学校当局に許可を求める運動は「白線運動」と呼ばれる)、武蔵高等学校では白線を巻くことは許さなかった。新設の私立七年制の諸高等学校では、従来の高校生らのバンカラなイメージを避けたスマートな校風作りを意識したことが指摘されており(*7)、武蔵では初代教頭・山本良吉(のち第三代校長)の英国風の「ハイカラ趣味」が生徒の服装やふるまいのしつけに強く影響したようである。山本のしつけに関する思い出のひとつとして、松葉谷誠一氏(第3回卒業生)は修身の試験で「きたない帽子をかぶってほうば(原文ママ)[引用者補:朴歯(ほおば)の下駄]をはいて、手拭をぶらさげて大きな声を出して歌をうたいながら町を歩く高等学生というものに対して、君等はそれをどう思うか」「どう思うかということについて理由を述べよ」という出題があったと紹介している。「だんだん反抗的になってくる年令」、バンカラな服装に「かなりのあこがれを感じて、なんとかしてああいうまねをしてみたいというようなことを思っていた時代」の生徒に「自分でなぜそうするほうがいいのか、なぜそうしたほうが悪いのかというようなことについて自分で考えさせるというような指導教育方法をされたように思っておるんで、その点は非常に立派な教育方法であった」と述べている(*8)。  帽子の白線は許可しなかったが、尋常科生徒と異なる高等科生徒の「待遇」については1925年度中に議論がたびたび行われており、12月には両者を区別する服飾として「ガウン[引用者補:アカデミックガウンのようなものを想定か?]又は懸章等」の案が出され、大坪はこれらが佩章規定につながるとみている。尋常科修了時に佩章を授与し、高等科の生徒は式典等でこれを身につけることが定められた。日常的には、上衣襟に文科/理科を示す徽章(当初は市販の“L[文科]"、“S[理科]"の徽章を使用。のちに独自にデザインした漢字の“文"、“理"に変更された(*9))を附したことが尋常科生徒との違いであった。 写真2 卒業式直後の高等科生徒(1928年ごろ) 服装規定の明文化  服装規定の明文化は1927(昭和2)年、開校から5年を経た秋である。10月19日の『教務日誌』で服装規定を定めたことが確認でき、昭和3年度からは佩章規定とあわせて『武蔵高等学校一覧』にも掲載されるようになった。次に挙げるのは、その服装規定である。 服装規定  第一條 生徒登校スルトキハ所定ノ制服ヲ著用スヘシ但シ脚絆ハ教練ソノ他特ニ指定シタル場合ニノミ著用スルモノトス  第二條 事情ニヨリ制服ヲ著用シ得サルトキハソノ旨保証人ヨリ届出ツヘシ  第三條 新ニ入学セル生徒ハソノ年ノ六月マデ従来使用ノモノヲ著用スルコトヲ得但シ前章及ヒ服釦ハ学校所定ノモノヲ用フヘシ  第四條 服装左ノ如シ  一 正帽    制式 丸形    品質 黒羅紗    前章及横章 学校所定ノモノ  二 略帽    制式 ソノ都度示ス    品質 麦藁    前章 学校所定ノモノ  三 冬衣袴    (1)衣 制式 背広型立襟 袖釦ヲ著ケス 品質 紺ヘル 釦  学校所定ノモノ    (2)袴    制式 普通又ハ短袴     品質 上衣ニ同シ     四 夏衣袴    制式 冬衣袴ニ同シ    品質 鼠霜降小倉  五 靴    制式 編上ケ又ハ深ゴム 底部ニ床板ヲ毀ケ又ハ汚損スル如キ付著物ナキモノ    品質 黒革  六 脚絆    制式 巻脚絆    品質 茶褐木綿又ハ茶褐絨  七 外套又ハ雨覆    制式 ナシ    品質 黒羅紗    父兄ノモノヲ改造シテ使用スルモノハコノ限リニアラス  第五條 夏衣袴ハ五月十日ヨリ十月十日マテ著用スルモノトス   この規定には、1929年度より冬衣袴の項に「右腰部後ロニボタン附隠(かくし)一ヲ附ス」の一文が追加され、1933年度には「外被[引用者補:オーバージャケットのようなものと見られる]」についての規定が加えられた。  さきにも少し触れたように、服装規定制定については山本良吉のこだわりがあったらしい。ここでは服地はヘルと定められているが、学生服にはサージが用いられることも多かった。生徒や父兄からはサージではだめなのかという問い合わせもあったが、ヘル地のほうが「本校生徒年齢の特殊性を考えて価格、保温等の関係上尤も適当」として退けている。ヘルもサージ(セル)も毛織物であるが、ヘルはサージよりも質が劣るものの丈夫であるのだという。ズボンについては前述の通り、1929年度に「隠(かくし)=ポケット」の位置が決められているが、これは1938年度には念を押すように「両側トモ附隠(かくし)ヲ附セズ右腰部後ロニボタン附隠一ヲ附ス」との表現に改められている。1933年度(第12回)入学生より尋常科1・2年生は半ズボンを着用することが定められ(*10)、1935年度には学校一覧の服装規定にも「尋常科第一学年及第二学年ニ於テハ半ズボントス但尋常科第二学年第二学期以後ニアリテハ事情ニヨリテハ許可ヲ経テ長袴ヲ用フルコトヲ得」と明記されるようになった。 写真3 中庭での太陽観測部・長ズボンの生徒と半ズボンの生徒  ヘル地への固執も、ズボンのポケットや長短の指定についても、その理由をうかがい知ることができる資料はない(*11)。しかしながら大坪は、これら規定化は山本の思想の反映ではないかと考察し、ズボンの左右の脇ポケットをつけさせなかったのは自慰の防止、尋常科1・2年生に半ズボンを着用させたのは上級の生徒と区別し、「不良の習慣・行為」が下級生に及ばぬようにする(そうした習慣を見つけた場合に注意しやすくする)ためではなかったかと述べている。そもそも七年制の中等教育機関には否定的な姿勢(*12)も見せていた山本は、「尋常科4カ年の成立の過程に於てがっちりと1つの型をはめてしまうこと、その生徒達が高等科に進んでひとかどの大人っぽい振舞におよびたくなったときでも、子供の時から仕付けた権力の手で、しっかりと手綱をとることができる」という考え方に基づいてその職をつとめたのではないかと大坪は推測している。上着の「隠」については言及がないことも自慰の防止説を補強するかもしれない。1939年には開襟服には必要なだけ隠を付けて良いことが教師会で確認されており、問題とされたのはあくまでもズボンのポケットの位置なのである。 写真4 校内行事「草刈式」での尋常科生徒(写真左側)と高等科生徒(写真右側)、内田泉之助教授(写真中央)  服装規定において履き物は洋靴とされているが、1938年9月に学校教練のない日は下駄履きでもよいことを確認している。ただし校内では革靴・運動靴を原則(*13)としており、願い出の上で上履き替わりにゴム草履の着用が認められている。通学時の下駄履きは構わないが草履は不可で、1941年5月6日記事には「制服制帽を着したるときは、校の内外を問わず草履の使用を禁止す」とある。現代においても「下駄履き禁止」は武蔵の数少ない校則(のようなもの)として言及されることがあるが、少なくともこの時期、限られた場面では下駄は許可されていたのである。終戦後には「下駄を校舎内で使わぬようにするため」(「教務日誌」1945年10月15日)の方法を生徒に考えさせることにしたが、生徒の要望で「当分随意」と下駄履きの継続が許されている(「教務日誌」10月29日)。 写真5 尋常科一年生入学(1936年、15期生)   時局への対応  生徒の服装はかなり細かく規定化が進められていたようであるが、日中戦争開始以後は物資不足により、そのようなこだわりにもとづく服装指導も不可能になっていった。服地に指定されたヘルは手に入りづらくなり、「当分の間、冬の服地は色は黒又は紺とし地質は選ばぬ」こととされ(1940年4月8日)、「教練服(*14)のズボンは平常に於ても使用差支なきも、上着はなるべく制服を着用することにする」(1940年9月30日)との対応も行われた。制服の金属ボタンの調達が難しくなってくると、卒業生からボタンを集めることも試みられたようである(1941年1月20日)。逼迫の度合いは「学校本来の制服の制式は変更せぬが、目下の時期では当分の間、服地色(紺、黒、国防色)は制限せぬ。又夏服では詰襟、開襟何れにてもよい」(1941年12月1日)、「国防色の配給服を使用して差支えなきことにした。但し尋常科1・2年は半ズボンとすること」(1942年1月12日)と服装規定をつぎつぎに緩和する様子からもうかがい知ることが出来る。いっぽうで、こうしたなかでも「尋常科1・2年生は半ズボン」と、かたくなに上級・下級生の区別が守られている点はなにやらおかしくもある。同年10月には「将来制服地の色は配給品の色のものを正規とし、その他の色地のものは許可を要することとする」(1942年10月26日)ことが定められ、翌11月にはついに「尋常科1、2年生のズボンは配給のままとし、長短は各自に委す」(「校報」1942年11月2日)ことになった。大坪は「戦争の激化につれて次第に服装規定は守れなくなるが、それは概ね山本没後[引用者補:山本は1942年7月12日に亡くなった]のことである」と述べている。それでも「式等に佩章を付けざるものを往々見る。定められたことは必ず実行するよう主任から注意する」(「校報」1942年11月16日)との記事もみられ、規定に基づき生徒の身だしなみを整えさせようとの意識は依然強かったようである。  1943年には燃料不足から暖房が入らなくなり、教室内でも「教師の許可を得た上で」外套やマントを着用するようになっている。それまでは「通学の際、外套、マントの使用は差支えなきも校内殊に教室内の使用は厳禁する」(1942年11月30日)とマナーを守ることが求められていた。1944年になると「身許票を各自上衣の裏側に縫着することにしたについて、生徒が所定の通りして居るや否や体操科及び教練科で調べる」(5月1日)ことも行われている。空襲被災等万が一の状況における身元確認に備えるためであろう。貴重な靴を大事にするためか「舎内では上履の代りに上草履又は裸足でもよいことにした」(1944年8月28日) と、「裸足」で過ごすことまでを許可している。  このような逼迫した状況にあっても「手拭は持参するも可なるも、外に見えないよう腰にすることに注意する」(1945年5月7日)というような細かな指示も行われている。洋装が崩れていくことにより、昔の旧制高等学校風、すなわちバンカラな服装がはやりだしたのではないか、それを見苦しいと考える「武蔵風」が残っており教員が指導を主張したのではないかと大坪は推測している。物資不足のなかでも見られるこうした“スマートさ”を求める態度は、他校生のように白線を巻きたいとの希望も叶えず、細かな規定を設けて身だしなみの指導を行ってきた、山本の路線を継承しようとする教員らの矜恃でもあったのではないか。  なお、終戦をむかえた1945年の冬も教室内での外套着用が続けられている。食糧事情も改善せず、45年度、46年度には冬期休業の延長や、臨時休校も行われた。 注: *1 武蔵高等学校中学校webサイト よくあるご質問 学校生活について「武蔵は自由だと聞いていますが、規制はないのですか」(https://www.musashi.ed.jp/nyuushi/faq.html)。 *2 『武蔵学園史年報』2、5、6号(1996年、1999年、2000年)に掲載された旧制武蔵高等学校校務記録抄(解題あり)が大坪秀二編『旧制武蔵高等学校記録編年史 大正11年~昭和24年』(武蔵学園記念室、2003年)としてまとめられている。 *3 『武蔵高等学校同窓会会報』32号(1990年12月)。 *4 前掲『旧制武蔵高等学校記録編年史 大正11年~昭和24年』より再引用。『教務日誌』(大正11年~14年度の4冊)は山本良吉が作成したものである。 *5 前掲『旧制武蔵高等学校記録編年史 大正11年~昭和24年』p.16。 *6 高等学校のほとんどが二条あるいは三条の白線を巻いた丸帽を制帽としていた。学生服に手ぬぐいをさげ、帽子・高下駄にマントといった「弊衣破帽」のバンカラスタイルが旧制高校生の典型的なイメージであろう。参考:難波知子『近代日本学校制服図録』(創元社、2016年)。 *7 武蔵と同時期に開校した七年制高等学校では、成蹊、成城、学習院高等科においても白線帽を採用していない。成蹊高等学校では学生の要望をうけて第2代校長土田誠一により1940年以降白線帽を許可しているが、成城高等学校はそもそもがワイシャツ・ネクタイに紺の背広、お釜帽(山高帽のような丸い帽子)を制服とする独自のスタイルであった。成城でも学生による「白線運動」が起きたが、許可されなかった。官立唯一の七年制高等学校である東京高等学校でもいわゆるバンカラスタイルはあまり見られなかったと伝えられ、同じく七年制の府立高等学校では白線帽を制服としつつも学校当局は下駄履きやマントを認めなかった。しかし実際にはバンカラ風の学生も少なくはなかったという。参考:旧制高等学校資料保存会『白線帽の青春―東日本編』(国書刊行会、1988年)。  *8 「第一回生から第七回生までの卒業生の座談会」(川崎明編『晁水先生遺稿 続編』山本先生記念会、1966年)pp.602-603。 *9 内田泉之助[助教諭・教授、在職1926年年度~1966年度]によると、山川健次郎校長が外国文字の使用はよくないと言いだして変更になったという。武蔵創立当時回顧座談会記録(『武蔵学園史年報』9、2003年)。 *10 昭和8年1月23日 *11 前掲『晁水先生遺稿 続編』では次のような周囲の回顧も確認できる。中村倭文夫氏(第8回卒業生)は「私どもが入った時には、一年、二年は半ズボンをはかなければいけないとは言われていなかったのでした。あんなからだの小さい子供に、長ズボンをはかせてもしようがない。ちょうど一年、二年くらいが、小学校の既製の服を着るのに適当なくらいの大きさなんです」「山本先生が思っておられたことは、決して画一的なことではなかったんで、そういう合理的なものから出発したのが、いつの間にか画一的になってしまったところに、山本先生のみんなに誤解される問題と、ほかの先生方の協力の足りない面がある(以下略)」と述べている(「第八回生から第十四回生までの卒業生の座談会」p.659)。鈴木春松氏(教授、配属将校)は、服地について父兄から質問をうけた山本からセル地とヘル地の調査を依頼されたことについて「先生は、人の意見に対しては、父兄の意見でも、それ以上に研究してね、納得させるようにしておられましたね」と述べている(「先生方の座談会」pp.796-797)。セル地の制服を指定していた東京高等学校の配属将校や陸軍被服廠の協力を得て、ヘル地がよいと報告したという。 *12 山本良吉「七年高等中学制」(『太陽』26-3、1920年)。 *13 東西両入り口への下駄箱設置が同日の教授会の話題となっており、ここで外履きを履き替えたと考えられる。 *14 教練服の制式は確認できないが、教練服姿の大坪秀二の写真が残されている(下記「写真6」)。 写真6 「教練服」を着た在学中の大坪秀二氏(16期)
2021.10.11
山本良吉「と」武蔵高等学校
はじめに  「武蔵」とは何か?「自由の校風」とは何か? そもそも「自由」とは何ぞや? 早熟で少しばかり生意気な少年たちが、いつもの馬鹿話にも飽きると、ふと真剣な顔つきになって、差し込む木漏れ日に輝く「すすぎ川」を横眼に、青臭い議論を交わしながら校門を出ていく。そんな風景がいつから見られたのか、また今も残っているのかは分からない。だが確かに言えるのは、「古い男児たちOB」はしばしば、この種の話題を何時間でも語りたがるということである。キャンパスの門を出て幾星霜、時には世間の荒波を逃れ、今や失われた「変わり者たちの楽園」に浸る日があってもよかろう。しかしながら、我々がここでなすべき仕事は、そうした内向きの郷愁を無批判に再生産することではなく、冒頭の問いを可能にする武蔵学園という「場」を創った人間とその理念について、内と外をつなげる視点から動態的に捉え直すことである。  「武蔵の精神」なるものを問うとき、山本良吉(1871~1942)という巨像を避けては通れない。山本は石川県に生まれ、東京帝国大学文科大学を卒業した後は、倫理学の研究や教育学に関する評論をこなしつつ、京都帝国大学や第三高等学校、学習院で教鞭をとる。理論・実践の両面で中等・高等教育界で名を馳せた山本は、旧制武蔵高等学校の創設から20年間(1922~42)、その死に至るまで、初代教頭・第3代校長を勤め上げた。危機の時代に一つの理念を貫いた学校経営者・教育者としてのあり方は、「気骨あふれる教育者」(黒澤英典)、「仰げばいよいよ高い先生の御人格」(相原良一)と肯定的に語られる一方、「フューラー・システム」の牽引者(日下晃)、「閉鎖的な教育空間を作る方向に傾いていった」、(兵頭高夫)「ワンマン校長/教頭」「民族主義・国家主義的」(大坪秀二)と批判されることも多い*1。山本の評伝を著した上田久の言葉を借りれば「先生のように教え子の間での毀誉褒貶の激しい方も少ない」*2。  没後の語りをめぐる闘争は山本という存在の大きさとその多面性を如実に示している。だが、我々がここで注意すべきは、この偉大な「建学の父founding father」をめぐる対抗的な言説は、そのほとんどが学園関係者によるものであるため、「様々な評価はあれども山本先生は一つの礎を築いた」という楽観的(また擬似弁証法的)な結論を導きがちだということである。これはややもすれば、山本(像)の語りnarrativeを収束・単一化させ、学園史の叙述を閉鎖的なものにする危険をもつ。だが我々が『百年史』において目指すのは、内外の読み手と未来の書き手に開かれた、批判的かつ多元的な学園史である*3。  本学園史は「編年体」と「紀伝体」の二つの歴史叙述から成り立っているが、この「紀伝」に与えられた役割とは何か。それは、ある人間とその中心的テーマとの「と」を考え抜くこと、ここでは山本良吉「と」武蔵学園を、学園関係者による言説の網の目の外側から検討するということである。山本はいくつもの官立・私立学校で教鞭を執り、同時代には教育・倫理学者として多くの言論活動で知られた人物であり、必ずしも武蔵学園にだけ関わったのではない。とすれば、両者を結ぶ「と」を前もって当然視するのではなく、この「と」が19世紀後半から20世紀前半にかけて歴史的世界に結ばれた偶然的かつ運命的な糸であったということに注目せねばならない。本論では、そこから生まれる山本の課題を捉えた上で、戦前・戦中期の「武蔵の精神」を新たな視点から論じていきたい。  結論から言えば、山本が教育者として生涯抱きつづけた目標は、西欧的近代の文明を吸収しながら日本独自の伝統を守りつつ、世界に冠たる「民族文化」を建設することであった。「万世一系」の皇室を崇拝し、伝統的な家族道徳の上に「國體」を繁栄させていくここそ、国民全員の生きる意味である。旧制武蔵が当時の水準からすれば生徒の自主的な学びを重視したことは確かだが、その目的は日本帝国に最も忠実な「臣民」の育成であったこともまた無視してはならない。無論、ある時期に流行ったように、〈ここ・いまhinc et nunc〉の立場から山本の「政治的責任」を大上段に難じることは容易い。しかし、我々は彼自身が残したテキスト=痕跡に寄り添うことで、山本「と」武蔵の生成変化の過程を追うという歴史学的な手法を取る。とはいえ、山本の活動範囲の広さや残存テキストの多さを考えれば、あらゆる論点を限られた紙面で扱うことはできない。  そこで我々は、山本と大日本帝国(1868~1945)が生死をほぼ同じくしていることに着目する。日本帝国は山本「と」武蔵にとっていかなる意義をもったのか、また戦後も含めてそれはどのように機能したのか。これが本論が掲げる大きな問いである。以下ではその解決のために問題を切り分ける。まずは議論の前提として、前半生(1910年代まで)の軌跡を踏まえつつ、山本が明治国家の発展を経ながらいかに問題意識を形成していったかを確認する。次に第一次世界大戦後、日本帝国が転換期を迎えるなか、山本の思想がいかに具体化されていったかを、そのヨーロッパ滞在経験(1920~21年)を軸に論じる。そして明治が遠くなるなか、山本は自ら築き上げた明治人としての歴史観を武蔵の教育でどのように実践したかを詳しく検討する。最後に日本帝国と山本の精神が戦後も長く残りつづける点に注目し、山本の名がいかに語り継がれたかを学園関係者たちの声から考察する。 1.山本良吉と日本帝国の発展(1871~1917)  山本良吉は、1871(明治4)年10月10日、加賀藩下級藩士であった金田清三郎基之(もとゆき)の三男として、金沢・鶴間谷に生まれた。同年8月に始まった廃藩置県により、旧武士の生活基盤は藩による俸禄から新政府による金禄へと変わり、5年後には秩禄処分でそれも廃止されてしまう。生活の糧を失った多くの士族の例に漏れず、父・基之もまた米穀商を営み、母・直(なお)は木綿織の内職をして一家の生計を支えた。だが、まもなく長兄・孝三郎を水死事故で失うと、金田家は深い悲嘆に暮れる。越中町に移ってからは父母ともに定職を得ることができず、一家は日々の生活にも事欠くようになる。だが貧しさのなかでも父母は残された子供たちに教育を施すことを諦めず、良吉は1878年には小学校へ、84年には石川県専門学校へと入学した*4。  石川県専門学校は、その後の一生を左右する決定的な経験と出会いを良吉に与える。本校は、4年の予備科と3年の専門部からなる7年制の中等教育機関であり、1886年に設置されたばかりの(東京)帝国大学への進学を目指すところであった。そもそも加賀藩には学問や文化を重んじる雰囲気が強かったが、制度や人材の面で藩校・明倫館の系譜を引いていた本校は明治10~20年代、金沢の知識人ネットワーク(三宅雪嶺・高峰譲吉・清水澄・泉鏡花・徳田秋聲など)を形成し、近代日本精神史にも無視できない影響をもたらす。そのネットワークの中心には、少年時代の良吉が、鈴木大拙・藤岡作太郎・西田幾多郎と結んだ固い友情があった。彼らは文芸誌を作り、互いに書簡を交わし、文学や哲学、天下国家を語り合った。後年、教育・宗教・国文学・哲学の各方面で指導的地位を占めるようになってからも彼らの友情は変わることはなかったという(ただし藤岡は1910年に早逝)。さらに重要なのは、師・北條時敬(ときゆき)との出会いである。優等生だった良吉は唯一、数学を不得手としていたが、北條の丁寧な手ほどきのおかげで「十点か二十点くらい」だったのが「七十五点位取る力はついた」*5。加えて北條は、その高潔な人格によって一人の数学教師を越えて良吉や西田の永遠の師となった6。金沢で育まれた師弟・友情関係は、後に見るように武蔵学園創設の欠かせない伏線をなしていく。  しかし、学び舎での暖かい日々にはやがて終止符が打たれる。1887年、前年の教育令改正に伴い、石川県専門学校が廃止され、新たに第四高等中学校(四高)が設置された。中央集権的な教育を全国に広めようと目指す政府は、薩摩閥の教員を数多く金沢に送り込み、さらに加賀藩出身の教員を更迭したために、校風は一変する。かつての土着的で自由な雰囲気は失われ、校内は上からの規則ずくめとなり、教員の学力水準は落ちたという。試験を突破したにもかかわらず、新設校への期待を裏切られた良吉たちは、教師への抵抗を繰り返し、新方針に異を唱えて既に教壇を去っていた北條のあとを追うように、1889年に四高を退学した(翌年に西田も退学)。  四高退学後の良吉は、東京での学びを経て、教育者としてのキャリアを歩みはじめる。1892年、県内中学校での僅かな勤務を終えると、東京帝国大学法科大学に進学する。正規の進学ルートを経ねばならない本科生にはなれず、既に帝大で学んでいた西田と同じく、大学では選科生として様々な面で差別的な待遇を受けねばならなかった。そうしたなかで良吉は、西田と励まし合いながら学業をつづけ、政治学から教育学へと転向する。在学中にはルソーの教育思想を研究し、その成果を『教育時論』などの雑誌に発表することで、教育評論家としての第一歩を踏み出した。この間、故郷の山本家の養子となり、金田良吉は山本良吉となったが、実母・直への深い愛情はやがて訪れる離別(1896年)を経ても一生変わることはなかった。「不肖の身、吾母のなくては何をかなし得ん、憐みて教え祐け給へよ吾母、最も慈悲ありながら最も不幸なりし吾母、アゝ吾母」と追悼文を結んでいる*7。  山本は1895年に文科大学選科を修了してから、東京を離れること20年以上、京都府立尋常中学校、静岡県尋常中学校、京都府立第二中学校、京都帝国大学、第三高等学校に奉職する。この時期の山本は、主に舎監として寄宿舎学生の教育に長年、携わったこともあり、単なる知識の伝達ではない全人教育として、倫理・道徳教育がいかに重要であるかを自覚し、『倫理学史』(1897年)や『実践倫理要義』(1900年)、『中学修身教科書』(1909年)を出版した。言論人としては、『教育時論』だけでなく、国粋主義系の評論団体であった政教社(中心人物として同郷の三宅雪嶺など)の『日本人』や東京青年会YMCAの『六合雑誌』といった雑誌に教育の専門家として数多くの記事を残している*8。  山本の前半生は、明治国家体制の目まぐるしい発展とともにあった。彼はこの日本の変転を同時代人としてどのように捉えていたのか。山本が1899年に発表した論説「明治の三世」*9によれば、歴史の展開を人間の発達段階になぞらえ、いかなる国も幼児期は視野が狭くて夜郎自大に陥るが、広い世界で見識を深めるなかで、次第に自らの客観的な位置を理解できるようになる。そこでは徳川期からの日本の歴史は、「日本主義」と「西洋主義」の入れ替わりで展開する。まず、維新以前は根拠もなしに自らを天下唯一の神国、外国を野蛮国と見なす「日本主義」の思想があった。その後の明治の30年については、ヘーゲル的な弁証法が念頭に置かれつつ、最初の20年余は、文明開化の名の下に見境なく西洋の文物を受容しようという「是提」(正These)が続くが、その後の10年間はこの潮流に抗し、日本独自の歴史と生活を守るべきとする「国粋」主義が「反提」(反Antithese)として盛り上がる*10。しかし日清戦争の勝利後、日本が清と同等の存在として認められ、自らは西洋諸国と対等に渡り合えるかどうかを自問する段階に入ると、急進的な反西洋主義も成り立たない。そこで山本は、日本主義と西洋主義を高次で綜合する「合提」(合Synthese)、つまり「一方に於ては日本の社会的生活を認め、同時に其短処をも認め、之を長処ある西洋主義によりて改め、此社会をして円満の発達をなさしめんとする」時代、従来とは異なった「高尚なる日本主義の時代」に我々は立っていると論じる*11。この西洋の良い点からは学びつつも日本独自の精神こそが最も重要であるという立場は、その後もずっと山本の思想と実践の全てを貫くことになる。  この明治30年余の回顧が示すように、山本は西洋的近代に対峙するジレンマのなかで思索した。攘夷と開国、あるいは欧化と国粋の狭間で、日本人はいかにして「国のかたち/憲法constitution」を作るべきか、そのために国民一人ひとりは何をなすべきか。だが、こうした問題意識は、それ自体としては明治初頭生まれの知識人の誰もが抱いた典型的なものである。またこの時代の山本は、社会を進歩させ、「高尚なる日本主義」を実現させるは社会運動家と学校教師であると説く一方、その論点や方法については、教師として勉学と道徳の向上に努めるべしと主張するのみで、抽象論と具体論をうまく結びつけられていない*12。だが、武蔵「と」のつながりを扱う本論が追うべきは、理論の人というよりは実践の人としての山本である。別稿にあるように「もと人心内にあるを道徳と云ひ、之が外に実際に現はれたるを社会と云ふ」以上、社会の進歩は「知行合一」によってのみ実現されるということこそ、彼の生涯変わらないもう一つの立場であったのだ*13。  明治から大正へと時代が変わるなか、山本はいかに自らの課題を深めていったのか。 2.山本良吉と日本帝国の転換(1917~22) (1) 学習院での経験と人脈  1917~18年は、世界史の一大転換点であった。1914年8月に勃発した第一次世界大戦は、ヨーロッパ全土を、やがて中東・アフリカ・アジア諸国を戦火に包み込んだ。日本は協商(連合)国側で参戦し、極東での対独戦争を有利に進める。だが1917年の十月革命は、総力戦で疲弊した各国での共産主義革命を惹起し、ロシア・ドイツ・オーストリア=ハンガリー・オスマンの諸帝国を崩壊させた。列強上層部は戦争継続よりも革命阻止を深刻視するようになり、ロシア内戦への共同軍事介入を開始し、日本も列強最大の兵力を提供した。しかし、最終的には7年も続くシベリア出兵は、軍事・外交的な失策を招いたばかりか、国内の経済・社会に過大な負担を強いた。1918年の全国的な暴動(米騒動)は寺内正毅内閣を総辞職に追い込む。大戦後の日本は、山東省や南洋諸島の利権と国際連盟常任理事国の座を手にする一方、国内社会の大混乱によって天皇を戴く国家体制から崩壊する恐怖を味わった。大政奉還から50年目の日本帝国は厳しい転換期を迎えていた。  1918年は山本の人生にとっても転機の年であった。前年8月、文部大臣・岡田良平は、東北帝国大学総長の座にあった北條時敬に、学習院院長への就任を懇願し、紆余曲折を経て北條はこれを承諾した。学習院は皇族・華族の子弟教育を目的とする宮内省直轄の学校であったため、少ない例外をのぞき、乃木希典といった陸軍将官の院長のもと、厳しい質実剛健の気風が貫かれていた。それを踏まえれば異例の人事とも言える北條の登用の裏には、教育の近代化の遅れや学生の風紀弛緩といった問題を解決したいという宮中・文部行政の意図があったのかもしれない。北條は岡田の親友であったし、四高退任後、全国の高等学校で経験を積み、中央からの信任も厚かったからである。北條は早速、自らの教え子たちを東京に呼び寄せたが、学校改革の右腕として最も期待したのが山本であった。当時、京都帝大学生監として活躍していた山本はその地位を惜しみつつも、恩師の願いに応えることを選ぶ。1918年3月に学習院教授に就任してからは、寮長として厳格な学生指導に、教授として哲学・修身教育に尽力することで、北條の学校改革を最大限、補佐した。しかし、皇族・華族以外にも開かれた高度な教育機関を目指すという北條の路線は、学内で多くの反発を招き、1920年4月には北條は辞職、山本は休職を命じられた*14。  北條体制下の学習院は短期ではあったが、ここでの人的ネットワークは興味深い。例えば、北條と岡田良平、その次弟の一木喜徳郎、学習院評議会会員でもあった山川健次郎(1916年)らは、いずれも第一高等学校や京都帝大、文部省で重要なポストを歴任し、貴族院議員や枢密顧問官を務めている。この4人は岡田を筆頭に1917年8月に発足した「臨時教育会議」の中心メンバーであったことに注意しよう。これは、日露戦争期から続く深刻な社会の疲弊と大正期の自由主義や社会主義運動の台頭を前に、国民思想の善導と教育体制の刷新を目指すものであり、7年制高等学校の発足にも関与している*15。彼らの全員がやがて根津育英会(1921年発足)理事となったことを踏まえれば、小林敏明が指摘する通り、武蔵学園の起源は、北條・岡田を軸とする教育行政のエリート集団に見いだすことができる*16。金沢ネットワークについても触れておこう。西田は1909年から1年間赴任して同じ時期に大拙(後に北條院長を補佐)や法学者の清水澄といった四高出身者が学習院で教えており、山本は少し遅れてこのつながりに参入したと言えよう。  人間関係やキャリアは歴史学的な論証にとってある種の状況証拠に過ぎないとはいえ、院長時代の北條をめぐる文部省・宮中・金沢をつなぐネットワークこそが山本「と」武蔵をもつなぐ要因となったこと、その背景には日本帝国および皇室の危機という問題意識があったことは認められよう。なお、四高時代の苦渋と藩閥政治への反発から山本の性格を「反官僚的」とする言説が見られるが、あくまで彼自身は集権的かつ画一的な教育制度に反対しただけで、多数者の人気取りのために刹那的な機会主義に傾く自由主義よりは、地味ながらも国家全体の利益を長期的に考える官僚主義の方が優れているとさえ述べている*17。山本の視点はあくまで国家を統治する当事者の側にあったことを忘れてはならない。 (2) 山本の欧米旅行と『わが民族の理想』(1921)  山本は日本帝国の転換期にあたり、国家と国民の行く末をいかに考え、自らの教育的理念を具体化していくのか。その鍵は、山本の欧米旅行とその成果にある。学習院を去った北條は、山本の休職に責任を感じていたので、彼に外遊の機会を与えるよう文部省当局に働きかけた。山本はかねてよりの希望であった欧米視察の任を受け、1920年7月23日、横浜港から太平洋へと乗り出した。翌年7月までの1年の間、およそ3ヶ月を合州国で、2週間をオランダ・ドイツで、3日間をスイスで、2ヶ月をフランスで、そして3ヶ月をイギリスで過ごしている*18。彼は長旅で得た成果を帰りの船旅で原稿にまとめ、帰国後まもなく『わが民族の理想』(1921年)として出版した。本書は欧州各国の比較を行い、そこから日本人の使命を捉え、そのために解決すべき課題をテーマ毎に扱っている。  まず、本書冒頭で山本は自らの民族観を述べている。すなわち、各民族が世界に存在するにはそれぞれ異なった特殊の理想をもたねばならず、それを実現していくことで人類全体の文化が深まるが、逆に一つの理想を実現して他の理想を見つけられない民族は衰退する*19。民族を構成する諸慣習の起源を定めるのは難しいが、一つの民族は複数の民族が混ざり合って成立し、それぞれ独自の歴史を経て一つの個性と理想を獲得していく。そこで自らの民族的理想を実現することが国民の任務である*20。日本民族の理想発現の中心点は天皇にあり、その徳を発揚させて内外に発展させるのが臣下の役割であるという*21。  この記述に山本の国家主義・民族主義・天皇中心主義を見いだすのは容易だが、個人と国家の志向が同一であるべしという価値観を含め、この種のナショナリズムは同世代の知識人にとって別段、珍しくはない。ここで注目すべきは、自民族の核(特殊の理想)が同化されない限り、他民族の理想の良い点を学んで咀嚼・吸収して、自民族の位置づけを洗練させるべきだと山本が考えている点である*22。この有機的な民族観は後に、西田を含めた京都学派たちを通じて「世界史の哲学」として深められ、戦火のなかで大きな禍根を残した。本論でその膨大な研究と議論を追うことは避けるが、少なくとも山本や西田の民族観が日本民族の外部を認めない皇国史観のそれと全く相容れないことは確かである。  とすれば、山本は欧米諸国から何を選んで何を捨てるべきと考えたのか。まず、滞在日数の差が象徴しているが、山本はフランス・イギリス・合州国に大きな関心を示す一方、ドイツにはかなり悪印象を抱いている。日記によれば、エリートたちの「Kulturハ頭ノCulture」に過ぎず、非礼かつ高慢で下層階級を見下し、「共ニ社會ヲ経営スヘシトノ念ニ乏」しかったことが敗戦の原因であるという*23。明治以来、ドイツの学問は日本知識人に絶大な力をもっていたこと、特に敗戦後にインフレに陥ったドイツには、日本から若い学生たちがゲーテやカントに憧れて殺到していたことを考えると、山本のドイツ嫌いは一線を画しているが、同時に観念論を廃し、常に個々の具体的事例と伝統の継続性を重視する視座をそこに見ることができよう。  その視座は、仏・英・米に対しても貫かれている。まず、フランスは一般に想像される急進的な国ではなく、中世から現代までギリシャ語・ラテン語の古典を尊重する懐古的な民族理想をもつ。王党派と軍部の台頭が示すとおり、民衆にとって共和政は必ずしも適していないという*24。こうした歴史論を公式の革命史観ではなく、カトリック的な保守史観から表明しているのは、現地で交友した仏文学者・太宰施門の入れ知恵であった反面、大学令でフランスの制度を導入したために近代日本の教育制度が集権的なものになってしまったことに対する山本の批判意識を察知することが重要である*25。  山本のイギリスへの評価は高い。「個人の価値を明らかにしてその能力の最高を発揮せしめんとするのが英国民の理想であ」り、この個人主義をもってイギリス人は人類の文化に貢献した。彼らは自他の自由を侵犯しないよう細心の注意を払うため「考へ方も具体的となり、方案も実際的となり、議論にはまじめと親切とが主となって質問応酬互に誠意を披瀝する」*26。その結果、国の制度は画一化しないし、裁判ではフランスのように法律を機械的にあてはめるのではなく、個々の事例に応じて人情を重んじた判決が下されるという*27。多少の批判もあるがイギリスの民族理想からは深く学ぶべきだとしている*28。  アメリカについてはどうか。合州国の基本精神は、イギリスの個人主義をさらに進めて「民主的、共和的精神」を完成させることである。共和政をとる合州国では多数者が優先される以上、「品位品質の高尚」は保障されないものの、「米国第一America First」の標語のもとで「米国社会を世界最進文明の上に築かうとの国民的理想」が共有されている*29。そのため、アメリカ国民は優れたと感じるものは洋の東西やコストを問わずに取り込み、弊害をなすものは躊躇せずに捨てる。山本は彼らの進取の気風を高く評価する一方、これは日本民族にとって必ずしも楽観視できるわけではないと論じる*30。  なぜなら「わが民族の理想はわが文化を基礎として、それを欧米文化によつて拡張、深高化して、世界的大の新文化を人間文化史に貢献するにある、米国と相並んで、同一理想を洋の東西に於て違つた形式で発揚するにある」からだ*31。ここで山本は英・米と日本の民族理想の差異化を試みる。日本民族は伝統的に、君臣祖裔が全人格的関係で結合してきたのであり、自己は「家」を通じて民族と国家全体につながっている。そうした土台に神道・仏教・儒教を自らのものとしてきた日本の国民道徳は、自己の価値を至上として業務的関係を中心とする英・米の個人主義に対して、独自の可能性をもつとする*32。ここから武蔵建学の三大理想*33の一つとして今も謳われる「東西文化の融合」の背後には、第一次大戦後の日本が同じ後発的近代国家(新興勢力)として合州国に激しいライバル意識を感じていたこと、そして他ならぬ皇室の伝統をもつ日本民族こそが歴史的使命を果たすのだという山本の意志があったということに気づかされる。 (3)「民族文化」教育のために  仏・英・米の観察を経て設定された「わが民族の理想」をいかに実現するか。山本は、歴史・国文学・国語の教育改革を提案する。まずは従来の歴史教育の弊害を説く。一般的な歴史教科書は「少年の精神全体を引きつけるには余りに脱人間的であり、又その時代時代の活生活(引用者注:原文ママ)を知るには余りに抽象的」なので、歴史教育は無味乾燥な暗記作業と化している。そもそも普通教育では歴史の事実を教え込むより、それらへの生徒自身の関心を刺激するのが重要である*34。したがって歴史・国文学・国語の教科を合併して教え、教材は歴史物語や歌謡などの親しみやすいものを使うべきである*35。また民族文化の教育水準を高める上では専門的な歴史研究の基盤作りが欠かせない。よって歴史研究者への奨学金を手厚し、帝国大学から独立した総合的な学術機関として「日本学研究院」を設置すべきである*36。さらに、子供たちや民衆が生活のなかで歴史を身近に感じることができるよう、博物館や美術館を欧米並みの水準に引き上げ、重要文化財や歴史的建築物の保護を進めるべきだという*37。実現可能性の如何はさておき、ここで提起された文化教育の問題は今もなお問われるべきものであるし、その解決案については、教育の分野横断化や研究の学際化、歴史研究のアウトリーチが求められるようになった昨今の観点からしても十分、傾聴に値する。  では究極のところ、山本にとって歴史とは何を意味したのか。まず、彼は日本学研究院の経営において「民族の主張たり表現者であらせられる皇室」による庇護を望んでいる。このくだりから、山本が「伝統文化の体現者」としての役割を天皇に期待していることが分かる*38。さらに、効果的な歴史教育において写真や絵本、映画といった新しい媒体の役割に注目するのに加え、自ら熱心に取り組んだ謡曲や講釈物を勧めている点は山本の歴史に対する態度を示している。講釈物は大正期には一部の知識階層からは軽蔑されていたが、それでも多くの人々に親しまれていた。社会階層の上下を問わずに民族全体が歴史に親しめることこそ、講釈物の利点であると山本は述べる*39。畢竟するに、彼にとって歴史とは、文字を通じて冷静に分析すべき死んだ情報ではなく、声を通じて感情的に体感すべき血の通った物語なのだ。山本は歴史に科学的事実そのものよりも、民族的な規範を求める。彼は実証的な歴史研究とその成果の社会的共有を望んだが、それはより確かな歴史こそが民族をまとめる共同体の倫理に他ならず、その中心には神世の時代から皇室が鎮座してきたし、これからも全人類のなかで永遠に輝きつづけると信じていたからである。欧米への雄飛は山本の信仰をより堅く、その使命をより詳らかにしたのだ。    1922年元旦、山本は武蔵高等学校より辞令を受ける。その後の10年間は教頭として、もう10年間は校長として、創設まもない学び舎の教員・生徒を文字通り「領導」することになる。この動乱期の出来事は長大な説明を要するので他の文献に譲る*40。ここでは武蔵の教育では民族文化を涵養する場として修身(山本自らが教鞭をとった)、国語・漢文、地理・歴史が重視されていたことを述べるにとどめる。山本は教育者としての最終任務において、「民族文化」、あるいは共同体倫理としての歴史をいかに学生たちに伝えようとしたのだろうか。 3.山本良吉と日本帝国の黄昏(1922~42) (1) 昭和の危機と明治の回顧  降る雪や明治は遠くなりにけり…。一人の若き国文学徒がこの句を詠んだのは1931年のことであった*41。ひとがある時代を想起するのは、それが終わるときではない。その時代を象る精神の形象がやがて直観的に捉えられなくなるだろうと気づくときである。ここに歴史意識が生じ、ひとは自己の実存を賭けて過ぎ去った日々を語りはじめる。  明治維新はその50年目に本格的な想起の対象となった。1917年、旧幕臣や旧藩関係者によって各地で大規模な慰霊行事が開催され、第一次大戦後は明治「大帝」を顕彰する明治神宮の建設が進められた。明治回顧の雰囲気は関東大震災(1923年)で一段と強まる。文部省は明治末から維新史料編纂会に歴史学者を置いて幕末基礎史料の収集・整理をつづけていたが、その方針は設立当時から藩閥史観に偏っているとの批判を受けていた*42。しかし昭和天皇即位後の1928年、維新から60年目の「昭和戊辰」の年、さらなる明治維新ブームのなか、賊軍扱いされてきた人々(会津藩や新選組)や志なかばで落命した人々(坂本龍馬)に焦点が当てられるようになる。また、吉野作造や宮武外骨たちが主催した明治文化研究会(1924年発足)は、学者だけでなく在野・民間の研究者を巻き込み、維新期の関係者に聞き取りを行ったり、当時は軽視された雑誌や新聞を収集することで、明治史研究の幅を大きく広げた。こうした明治をめぐる語りは、史論や伝記、小説、戯曲や映画など多種多少なやり方で人々の歴史観を刺激した*43。その最大のケースとして島崎藤村の大河歴史小説『夜明け前』(1929~35年連載)を挙げることができる。  明治が遠くなることを山本も強く自覚していた。国家と自己の運命をどこまでも等しいものと捉えたこの明治人にとって、維新からの歴史を回顧することは、単なる慰みとしての懐古ではなく、緊張感ある実践であった。山本は後述するように、武蔵の生徒たちに明治の歴史に触れてもらうだけでなく、自ら筆をとって教育勅語や大日本帝国憲法を題材に明治立憲制の歩みを論じている。彼がここまで明治の精神にこだわる背景にはマルクス主義の興隆があった。1930年前後、世界恐慌の手痛い打撃を受けた日本では、共産主義の炎が燃え盛っており、武蔵もその例外ではなかったという*44。山本は、学生や官僚までもが「危険思想」にかぶれるのは、日本が西洋の物真似ばかりをつづけて伝統を疎かにしてきたツケであり、自らの民族文化を国民教育でうまく伝えられていないからであるとしている*45。こうした危機意識は山本の教育観をより保守化させたと西田は証言している*46。  山本は武蔵での歴史教育においてどのような歴史観を重視していたのか。彼は『勅語四十年』(1930年)で自らの明治論を披露するにあたって序文でこう述べている。 明治天皇の人格と維新以来のわが社会状態とが撞着して出たものが教育勅語である。勅語御下賜前のわが社会状態を知れば、勅語の意味がわかる。勅語の意味がわかれば、御下賜後四十年間、わが社会がその精神の発揚のために何をしてゐたかがわからう。それを考へるために、私は静かに過去六十年を顧みた*47。  単なる教育方針を示したものとしてではなく、近代以降に日本人の民族理想が世界に発現していく過程を捉える根本的な視座として山本は教育勅語を重視する。本書は、第一に勅語が日本社会で求められるようになる背景を論じ、第二に勅語の発布と意義を考察し、第三に勅語が各学校でどのように普及していったかを考え、最後に以上を踏まえた上での民族文化教育の立場から提言を行うという構成を取っている。以下、要点を見ていこう。  何よりもまず彼は、明治維新を伝統文化を破壊する革命として厳しく批判する。当時の日本が古い体制を脱却するためには、欧米諸国から先進的な技術を取り入れ、多くの制度や因習を廃止していくことが必要であったこと(廃藩置県や廃刀令)を認めつつも、五箇条の御誓文の「旧来ノ陋習ヲ破リ」という箇所ばかりが行き過ぎて、日本独自の文化を蔑ろにする風潮を生んだとする。例えば、江戸時代の礼服であった麻上下を廃止する必要はなかった。また廃仏毀釈や士族の困窮で貴重な文化財が海外に流出したと嘆いている*48。  次に明治初期の教育制度が知識偏重であったと難じている。御誓文の「知識ヲ広ク世界ニ求メ」というのは法律・政治・軍事・科学の知識を外国から取り入れることであったので、教育面ではフランスの制度を導入して学制(1872年)が敷かれた。これは大学校を頂点に中学校から小学校までを含めた階層秩序のもとで上から集権的な教育を施すものである。小中学校の授業ではアメリカやフランスの教科書の翻訳が用いられ、生徒は日本の風土に合わない内容を無理やり教え込まれたため、民族文化の教育は困難だったという。山本は中学時代を振り返って、英語・数学・科学はしっかり勉強できたが、国語の授業は全く受けられず、国史の教育も不十分だったとしている*49。しかし明治20年代から日本主義が台頭し、社会が民族文化を尊重するようになり、国民的自覚を強めていく。  こうした歴史観は第1節で扱った山本の青年期のものとあまり変わらない。しかし本論で大事なのは、山本が教育勅語が抱える問題をどう捉えていたかという点である。日本教育史の一般的な説明では、1870年代の欧化主義への反動として80年代からは復古主義の傾向が強まる。近代国家の国民のための先進的な知識を重視するか(森有礼)、天皇の臣民のための伝統的な道徳を重視するか(元田永孚)という、明治国家のもつ根本的なジレンマは深い対立を生んだが、両者の折り合いの産物が「教育ニ関スル勅語」(1890年)であるとされる*50。山本は、勅語発布までの対立には深入りせず、勅語によって日本独自の民族文化の地位と国民の考え方の基準が明らかになったと意義づける。これにつづいて「勅語は読む事によつてわかるのでもなく、読ませるために御下賜になつたのでもなく、わが民族をして永く前述の意味に於てわが民族伝来の胸の鼓動を聞き得しめるためのものである」と述べている点に注意したい51。教育勅語の本文は約300字と短く、宗教・政治的な対立を避けるために抽象的な言い回しが多いため、発布直後から解釈をめぐる問題が生じていた一方、語の修正や撤回を提案するのは不敬と目される恐れがあったため、各学校では勅語を丸暗記させるという教育法が流行していた52。山本はこの風潮を批判し、勅語の解釈が時代によって変わることや教育現場での混乱を認めつつも、勅語の意味を体得するプロセスの重要性を強調する。すなわち、自分たちの祖先は勅語に書かれた徳目をいかに理解し、民族の発展につなげたのかと生徒自身が問わねばならない。そのためには『わが民族の理想』が示した民族文化の教育によって、具体的な歴史的事実を身につけ、そのための制度や工夫を施す必要がある。山本は教育勅語の困難が文言それ自体ではなく、その解釈や伝達にあるということを痛感しており、その突破口を歴史教育に求めたのである。 (2)「明治講話」と「民族文化講義」  山本「と」武蔵高等学校による歴史教育は具体的にどのように実践されたのか。山本の教育理念の重心は、修身を軸に人文系諸科目を連携させて民族文化を涵養することにあったが、その実践として注目したいのが「明治講話」と「民族文化講義」である。  前者は1928年からほぼ毎年、明治節(11月3日)に開催され、生徒たちに様々な視点から明治の歴史に興味をもってもらう機会を作ろうとしたものである。各回の講師・題目・内容は校友会雑誌のバックナンバーから確認することができる(【表1】を参照)。講師には三上参次や渡邊幾治郎、本多辰次郎、藤井甚太郎、尾佐竹猛たちの名前が見える。彼らはいずれも宮内省や文部省で維新期史料の編纂に深く関わった歴史学者たちであり、明治史研究の開拓者として後世に知られる。山本が武蔵時代以前のコネを生かして彼らを招聘したのであろう。最初の7回は、明治天皇に関するテーマを扱っている。詳しい内容の紹介は省くが、いずれも時代背景を踏まえ、一次史料に基づきつつも、ちょっとしたエピソードを挟むことで天皇個人の人格を伝えている。天皇との個人的な想い出を語る講師も多い。講演内容を事前に山本が確認していたかは不明だが、大まかな方針として、生徒が具体的な事例を通じて明治天皇に親しみをもってもらえるよう意識していたのだろう。  山本自身も「明治講話」を4回行っている。日清戦争(37年)と不平等条約改正(39年)を扱った講演では、陸奥宗光の功績がいかに偉大であるかを情熱的に語っている。前者では、明治時代には陸軍の山縣有朋のような誰も文句を言えない絶対的権威がいるときは部下の統一がうまくいっていたが、「段々偉い人が無くなって全体が団栗のせい較べになると、どこから命令するのか、どこが中心になるのか分らなくなり、終に国家の大半を負担するに耐へなくなる」*53と結んだ。前年の二・二六事件で生徒の父親であった渡辺錠太郎陸軍大将が犠牲になったことに山本はショックを受けていたことは学園史でも語られるが、以上のくだりは彼が明治を称揚することで同時代の国家体制の危機を照射しているようにも読める。明治時代の教育(36年)と旅行についての講演(40年)は、いずれも山本の体験談が盛り込まれた自伝的な語りを取っているが、特に後者はその強みが生きている。明治から70年を経たいま、生徒(あるいは我々)にとって、旅行とは交通機関で目的地に向かうことを指すが、山本にとっては「その途中の風景を味つたり、名所を調べたり、生活を観察したりして、それがすつかり頭に収まるのをいふ」*54。徒歩・人力車・馬車・汽車・汽船・自動車と様々な移動手段が盛衰していく様子を自らの思い出を添えて語り、乗り物を使わない旅行をして日本各地をじっくりと学んでほしいと結んでいる*55。本講話は、交通技術が各地域を結ぶことで人々の国民意識を醸成したという古典的なナショナリズム論を裏づけるように見えて、その実、新たな技術が人々の時・空間意識を激変させていく70年余の過程を批判的に眺めた交通史的エッセイとしても興味深く読める。  「民族文化講義」についても触れておこう。本講義は1925年からほぼ毎年、各方面の研究者を招聘して開催され、その概要は校友会雑誌の記事として出版された(【表2】を参照)。講師には瀧精一や関野貞、武内義雄、村岡典嗣といった第一級の人文学者たちを、また鈴木大拙や暁烏敏といった金沢・四高ネットワークに連なる大物の名が見える。テーマはほぼ全て日本と中国の文学・思想・芸術に関するもので、西洋や自然科学(史)は極めて少ないが、それは山本の文化教育には東洋重視の傾向があったことを顕著に示している。明治以来の歴史学は国家中心の公文書に依拠した歴史叙述(政治・外交史)を中心としていたが、大正期からは欧米の学界動向の影響もあり、より幅広い史料や手法で民族全体の精神を描く「文化史」や「精神史」が流行しつつあった*56。「民族文化講義」は歴史研究の新たな潮流を取り込んで生徒の興味を引き出そうとしたのではないか。また、音楽史や服飾史(風俗史)といった、当時のアカデミアでは研究対象として認められなかった新領域の研究者にも目配りしている点に、山本の視野や度量の広さを認めることができる。 ※以上は、武蔵高等学校『校友会誌』(後に『武蔵』に改名)のバックナンバーを参考に作成した。    講演内容は概ね、講師の研究テーマを学術的に示すものであった。例えば、関野貞「日本彫刻史」(1931年9月)は「日本文化史上に於ける彫刻史の価値は鎌倉時代までゞ、それ以後は特に見るべきものなく、殊に江戸時代に入つては論ずるに足るものはない」と講師の歴史観を示した後、飛鳥・奈良・平安・藤原・鎌倉の各時代の彫刻様式について様々な事例とともに説明している*57。「明治講話」も「民族文化講義」も、その内容が講師自らの研究的知見を土台にしているという点で共通しているが、その語り方については、前者は明治天皇をはじめとする歴史上の人物に親しみをもたせる歴史物語の形式を、後者は実例を示しながら研究上のテーマを論証していく学術講義の形式を取っている。日本人は世界独自の優れた民族文化を長きに渡って受け継いできた(それ故にこれを守り伝えていかねばならない)という論旨がどの講義にも一貫していたことには注意せねばならないが、それを生徒に効果的に伝えるべく、複数の語りのスタイルを使い分けるという歴史教育上の工夫の痕跡を認めることができる。  いずれにせよ、山本「と」武蔵の「民族文化」教育にとって「明治講話」と「民族文化講義」が大きな役割を果たしたのは明らかだ。そして山本自身も講師として参加した前者は、明治国家の精神を、究極的には教育勅語の理念を教育する場として特に重要であった。戦後に文部大臣を務めた教育社会学者の永井道雄(14期文科)は「明治節の場合は、記念講演があって大体三時間くらいかかったように記憶しておりますが、天長節は大へん短くて」そういうものでよろしいと山本が考えていたと、武蔵OB座談会で回想している*58。ここでは詳しく触れないが、戦前の武蔵には、大正・昭和天皇の天長節(8月31日・4月29日)にその名を冠した企画は単発的なものを除けば存在しない。紀元節(2月11日)の扱いについては後で述べるが、毎年恒例の民族文化教育の特別日として選ばれたのは明治節(11月3日)であった。それは山本(「と」彼が率いる武蔵)の日本帝国と皇室に対して抱きつづけた強烈な忠義とその実践の何よりの証なのである。 (3)「わが民族の理想」の果てに  日本は1930年代、いよいよ先の見えない総力戦へと突入していく。山本は武蔵高等学校校長としていかに考え、何を語ったのか。  山本の危機意識は昭和10年前後にますます強まっていた。彼は1938年の紀元節講話「憲法五十年史」で、議会の動向を中心に日本憲政史を語っている。最後に、神兵隊事件や五・一五事件、二・二六事件は、国制を脅かす「不詳事件」であると不快感を示す一方、その遠因は「国民の不良政治に対する憂心」にもあったとして、原内閣以降の党利党略の横行(知事の更迭・行政の政党化・選挙干渉)を指摘する。そして「始には藩閥の専制を抑へんとして政党が力を得た。政党が政権を握るに及んで、政党自身の弊害を生じ、自己の信用を失墜した。憲政の運用はこゝに三転を見た」と憲政史50年を総括する*59。  山本は昭和初期の政治腐敗と軍部の政治介入を批判しているが、学園史で語られる「全体主義」に対する山本の「抵抗」を過剰に読み込むのは避けたい。彼の理解では、議会の最大政党が政権を担うやり方は必ずしも三権分立の原則に適ったものではない。政党政治を相対化する山本の立憲主義観は、現代の我々が想定する「リベラル」な政治観(議会制民主主義)とは大いに異なる。たとえ政党政治が機能しなくても、立法府が憲政上の一組織に過ぎなくなっただけで、立憲政治そのものは崩壊していない。山本にとって最も重要なのは、いかなる形であっても、憲法に定められた手続きに従い、国益全体にとって最善の方向を模索して行くことであった。  その意図があくまで明治維新が築いた近代国家体制の擁護にあったとはいえ、校長は中国との戦争を苦々しく思っておられた(のではないか)とOBの声はしばしば主張する。これについても留保が必要だ。山本は、1937年秋の講話で、勅語の精神を説きつつ、同年に勃発した「支那事変」(日中戦争)の意義を論じている。すなわち、中国やインドは儒教や仏教を生んだがこれを発展させられなかったのに対し、日本のみが両者を実際の教えとして自らの民族文化に活かしつづけることができた。今や中国人は愛国心を見失い、共産主義や外国勢力とその場の利害に応じて結託・敵対を繰り返す有様である。そうした情勢下での日本の任務とは「東洋の一有力なる表現たる支那文化を保護し、これによつて世界に於て東洋文化の地位を確立する」ことである。軍部はそうした意識で対中戦争を始めたわけではないが、結果としてこの目的を達成するだろうという*60。山本は日本の軍事行動を手段としては批判するものの、歴史的使命の名の下にこれを合理化しているのは見逃せない。古代文化への限りない敬意は、その後に「頽落」した彼ら(中国人)への蔑視を生み、東洋文化の偉大な遺産を我々(日本人)こそが保護すべしという論理を導く。それはE・W・サイードが論じた文脈とは異なるとはいえ、やはり「オリエンタリズム」の典型である。山本の帝国主義は「民族文化」教育の形をとって、武蔵の生徒たちに放たれていたのである。  日本は東洋文化の指導者として行動してきた/せねばならない。この魔性を秘めた格率は、近代化の加速とともに鍛えられ、右翼だけでなく左翼の知識人をも虜にした挙句、遂に「西洋」との決戦を迎える1941年12月8日朝、「世界史的使命」として一つの完成を見た*61。その凄惨な実態はさておき、「大東亜戦争」の理念が「アジアの解放」と「東洋世界の繁栄」にあるとすれば、42年2月15日の英領シンガポール占領の意義は計り知れなかっただろう。  同年2月18日、山本は老体に鞭打って歓喜の声をあげ、「シンガポール陥落祝賀式」を開いてその気持ちを学園全体で分かち合った。早朝、校長一同は東京駅に集合して皇居を奉拝して天皇陛下万歳三唱、その後は各自で靖国神社に参拝。夕方からは学園講堂にて国歌斉唱、校長式辞、賀表披露がつづき、宮内省職員が久米歌を奏でた*62。山本はその賀表にて「新世界史ノ想像ハ一ニ国民教育ニ俟タザルベカラズ」と天皇に向けて高らかに決意表明を行い、式辞ではシンガポール陥落の歴史的意義を次のように述べている。  ここに英国は堅い関所を設けて、東洋の勢力はこれより以西に入るべからずと固めてきた。この一の関にさへられて、東西洋ははつきりと別のものとなつて居り、西人の所謂世界史はこれから西のものと定つて居た。支那事変の初りに私は、これは東洋史と西洋史とが一になつて新らしい世界史を想像する陣痛であるといつておいた。このたびのシンガポールの関処の破れたことによつて、始めて新世界史想像の端緒に入つたのである。この意味に於て、この度の勝利は世界史上非常な大事件である*63。  ここでふと20年も前の記憶が蘇ってくる。「旅客がマルセーユを舟出して、スヱズを過ぎアデンから東に向ふと、一週間ばかりは何もない。目に入るものはたゞ青い天と青い水、満眼たゞ一青の間を、舟は明けても暮れても進む。時に旅客を驚かすものは激しいモンスーンであるが、それが過ぎれば、天地はまた依然たる一青。やがて印度が見え、暫くするとマレイが見えるいつともなしに右側にはスマトラの林丘がその静かな姿を横たへて居る。その極まる処がシンガポール」64。それはあの長旅の光景、欧米諸国での観察から「わが民族の理想」を打ち立て、膨らみつづける祖国と皇室への想いを乗せた長い旅路のなかで、人生50年で得た天命を長大なマニフェストとしてしたためる合間、ふと垣間見る客船の窓に浮んでは消えていく「東西文明」の夢の欠片たちであった。最晩年には涙脆くなっていたという山本は、この日、全校生徒に感極まった声で皇室に尽くしてきた自らの人生を回顧していたが、その熱く濡れた瞳のうちに認めたのは、「わが民族の理想」を達成しつつある日本帝国75年目の晴れ姿ではなかったのか。  それはやがて消え失せる一瞬の虹であることを我々は知っている。学生たちは輝きを増す虹に「悠久の大義」を見つけるや否や、筆を捨て、刀を取り、あるいは赤い夕陽の差す下で草生す屍に、あるいは南十字星の煌く下で水漬く屍となりはてた。武蔵の生徒や卒業生たちもまた虹の犠牲となった。だが、虹の消滅と帝国の結末を見届けぬまま、1942年7月12日、山本良吉はその最後の眼を閉じた。  ここまでで「民族文化」という視点から、山本「と」武蔵の実践のあり方を考察してきた。彼の究極的な目標は、国民各自が教育勅語の理念を体得すること、つまり自らの民族文化と主体的に向き合えるようにすることにある。それは一方で国家の教育方針との摩擦を生む。1930年代、文部省は国民精神文化研究所を通じて、上からの勅語の解釈変更を進め、そのアクセントを元来の国民道徳論から戦争動員を導く「皇道ノ道」へと移していった*65。ここで武蔵がトップダウンの方針に従わず、小冊子『国体の本義』(文部省発行)の採用や御真影の設置に抵抗したことは、「リベラル」な美談として語り継がれるが、山本の言葉を内在的に読めば、その理由はあくまで「國體」に忠義を尽くす方法の違いにあったのだと分かる。いかに勇ましい言葉や仰々しい儀式も、参加者の主体性を伴わなければ抽象論に陥る。教師は上から知識を押し付けるのではなく、生徒・学生が自らの手で材料を調べ、扱い、自らの頭で問題を考え、結論を導くようにすべし。こうした「発動主義」を中等教育に取り入れることを山本は早い時期から訴えていた*66。これは武蔵の建学理想にもつながる発想であるが、歴史的文脈を踏まえれば、「民族文化」を「自ら調べ自ら考える力」こそが自発性に満ちた帝国の「主体/臣民subject」を形成する原動力となるのだ。1941年の紀元節講話で山本は生徒たちに語っている。「具体的に楠公(引用者注:楠木正成)を知るとは、楠公が平生いかなる心懸で居り、いつ、いかなる気持で、いかに皇室のために尽したかを、自分自身の事の様につかむことである」*67。  山本と日本帝国はまもなく最期の時を迎えるが、両者は形を変えつつ、戦後もなお「武蔵的なるもの」を語るときに顔を見せるだろう。山本はいかに「没後の生Nachleben」を送ることになるのか。以下、山本「と」武蔵をとりまく人々の声に耳を傾けていこう。 4.山本良吉と日本帝国の亡霊(1942~2015) (1) 仰げば尊し、我が師の恩  1942年7月18日、新校長に就任した山川健次郎の甥・黙(しずか)のもと「故山本校長校葬儀」が行われ、一木喜徳郎や安倍能成、西田幾多郎などからは弔辞が寄せられた。同年10月19日の「故山本校長追悼会」には遺族・友人のほか、職員・生徒一同が参加し、山本が遺した功績や思い出を語った。ここで興味深いのは、武蔵の職員たちが、山本の人徳や見識に敬意を払いつつも、彼の直情的で頑固な性格を隠さずに話していることである。山川によれば、彼は生徒・教師の両方から非常に怖がられており、他人の欠点を徹底的に直してやろうという親切心から「かなり厳しい鉄槌が加へられ」たといい、また和田教授は、メートル法の導入を民族文化の破壊として猛反対していた山本と何度も激論を交わし、彼は一切意見を曲げなかったと回想している*68。山本の強烈な個性は反発を招きつつも「愛の鞭」であったという語りは(後になってそのありがたさが分かるというというオチを含め)、死後数カ月にして山本像の柱の一つを作っていたことが分かる。  終戦後、1946年には山川が校長を退任。後を襲った哲学者の宮本和吉は学制改革への対応に従事し、旧制武蔵高等学校は1950年にその幕をおろした。慌ただしい改編(新制高校は48年、大学は49年に設置)を経てまもない51年、故山本先生記念事業会より『晁水先生遺稿』が出版された。本書は、山本の手による各種テキスト(論説や随筆、講話・訓話原稿)を整理し、その一部を収録したものであり、大拙による序文や山本の略歴・著作物のリストなどを附す。本書は初めての山本のアンソロジーであり、出版部数は限られていたとはいえ、今なお彼の思想を知る上で第一に手に取るべき基礎文献である。また、生前の関係者が山本を語る際、本書がその土台としての役割を果たしたであろうことは想像に難くない。果たして1966年に山本先生記念会より刊行された続編は、山本をめぐる多種多彩な声(追悼文・回想・座談会)を収めて、その分量は本書全体の半分以上を占めている。本論ではそのあまりに膨大な声を詳しく分析することはせず、全体的な傾向をつかむにとどめたい。  まず何よりも、頑固でワンマンな強烈な人格をもった修身教授としての山本像が至るところで浮かび上がった。特に最初の10年までに教育を受けた卒業生たちの声に厳格なイメージが強く残る。毎回、「お尋ねします」との掛け声を合図にはじまる授業中の問答から校内での身なりや振舞に至るまで、生徒たちは一人ひとり厳しくチェックされ、端からみれば理不尽な理由で落第点をつけられるケース(例えば、厳格な山本の前で緊張して黒板に正しい答えを書けなかったため)も珍しくなかったという。1964年、旧制1~7回生を集めた卒業生座談会が開催された。ここで武蔵の第一の特徴として「落第主義」を挙げて「私自身二回も落ちている。満足に七年間で卒業したのは大秀才です」と振り返る本田正義(6期文科、当時は最高検検事)は、山本のやり方に反発して学校を追放された集団がいたことに触れて「山本教育の地盤で、要するに花が咲かなかった子供たちというのは、相当おりますよ。これは山本教育を見る場合、私どもは常に忘れては行かんところだと思うんですが、教育というものは一体それでいいものかどうかということですね」と加えている*69。すぐ後で草創期の私学を支えるために強硬手段を取る必要があったと山本をフォローしているとはいえ、座談会が全体として山本への感謝へと向かう雰囲気をつくるなか、以上のくだりは学園の内側から出された実感にもとづく批判として貴重である。  さらにそうした山本像がある種の神聖さを帯びていくさまを象徴する声も出てくる。64年の同じ座談会で山本の厳しい指導は生徒への愛情ゆえであったと、卒業生たちが自らの少年時代の苦い経験を意義づけようとするなか、高橋喜彦(2期理科、当時は気象技術研究所)は、かつての学友で医学者になった梅澤濱夫が文化勲章を受章した際の祝賀会でOBたちが「武蔵の心」を語ったときに、一度も山本の名前が出なかったことを肯定し、「『山本良吉』というのは、仮の宿りなんです。つまり、山本良吉が先代から受けついだ何ものかを、我々の心に残してくれた気持ちは、その祝賀会に非常に表れてくるんです」*70と述べる。恐怖の対象としての師は、同じ苦しみを耐えきった仲間で共有されることで、畏怖すべき対象としての父へと変わる。しかもそれは軽々しく口にすべきではない神聖な対象であるという前提こそが、この同質的な集団の結束力を強めるという、OB座談会にとって本来の機能を果たしている。とはいえ、第8~14回生の座談会になると、山本の厳格さのイメージには色々な声が見られるようになり、それより若い卒業生にとっては厳しさよりも優しさのイメージが強くなっている。  次に重要なのが山本の政治的立場についてのイメージである。旧制時代のOBたちはいずれも山本の教育に強烈な国家主義の匂いを嗅ぎとってはいたが、それは他国の良きを学びつつも自国の古きを守る「非常ないい意味の国粋主義者」といった像に落ち着く*71。それを支えるのは、彼は戦争へ向かう日本の政局に批判的であったという言説である。例えば、第15~21回生の座談会では、山本は政局を生徒の前で語ることには禁欲的であったこと、満洲事変後の陸軍の動きを暗に批判していたことなどが語られる。本座談会には参加者から一世代離れた先輩として参加している川崎明(4期文科)はそこで、自分たちが生徒だった時代には、山本は政友会と民政党の対立について後者を贔屓して前者を攻撃していたと回顧するついでに、山本が学園の配属将校を選ぶときに陸軍と一悶着を起こしたこと、軍への批判が当時は命に関わることであったことに触れ、「強い者を恐れなかった山本先生の勇気」を賞賛している。一方、山本は「紀元2600年」と「大東亜戦争」の初期の勝利に浮かれていた世の風潮に反し、お祭り騒ぎはやらなかったという声に注意を向けよう*72。山本が生徒たちに植林事業を行わせて気分を引き締めたという前者の証言は正しいものの、後者は第3節で詳しく扱ったとおり(シンガポール陥落祝賀会)誤りである。山本の国家に対する「抵抗」の神話は、旧制高校で1940年前後を迎えた者の記憶さえをも混乱させはじめていたのである。  川崎はここで、「軍の勢力をかさに着ていばる連中を軽べつなさったので、ここから軍人ぎらいの異名をもらわれた」と述べつつも、敗戦責任を軍に全て押しつける戦後の風潮への批判を忘れていない*73。彼は『晁水先生遺稿続編』の編者として「反軍人」のレッテルを避けつつ、「抵抗者」としての山本像をバランスよく立ち上げようと努めている。ここで教員座談会(64年6月末開催)に眼を移すと、興味深いことに、武蔵の配属将校(1928~31年)を務めた元陸軍将校(在任当時は中佐)の鈴木春松の証言が残されている。着任前は山本は礼儀に厳しくて反軍思想をもっているという評判を聞いていたが、武蔵では暖かく迎えられ、山本の理解も得られたと好意的に回顧する。一方、何か企画をやるときは将校団で民主的な話し合いをする陸軍軍人から見ても相当なレベルで、山本の指導手法は独断的に感じられたという旨を漏らす*74。鈴木の証言は、武蔵・陸軍関係が良好であった満洲事変以前のものであることは考慮すべきだが、それだけにかえって山本の強烈な個性とワンマンぶりを照らし出し、また「反軍人」イメージを相対化する学園の外からの声として示唆的である。  最後に、山本と武蔵の三大理想の確立をめぐる問題がある。上記の教員座談会で、三大理想の原案は山本ではなく、初代校長・一木喜徳郎が作ったものであり、だとすれば山本はその成立過程にどう関わったのかという話題が提起される。だが当時はそれを確定する史料に乏しかったため、様々な憶測が飛び交った結果、「時代がどんなに変っても、私はあれは、厳として不滅だと思うんですよ」という内田泉之助(1926年に漢文教授として着任)の言葉で締めくくられる*75。このくだりで気になるのは、山本自身は三大理想の原文を起草したとは一度も発言しなかったと、各人によって強調されていることである。従って、山本と三大理想を結びつける確かな根拠はこの時点では存在しない。後に言及するように、実際は山本の役割は限定的であったことが実証されることになるのだが、ここで重要なのは山本神聖化のプロセスがここに顕著に表れているということである。その強硬な領導で知られた山本は、元教員たちにとっても畏怖の存在であったが、建学時の精神について彼が沈黙していたことは、かえって(一木ではなく)山本「と」三大理想を結ぶ糸を想像させ、彼を絶対的な「建学の父」として神聖視する流れをもたらしている。  以上、山本の死から約20年のうちに、強烈で頑固な個性でワンマンぶりを発揮したというイメージから出発して、それ故に草創期の学園を指導できたのだという語りが戦前・戦中の抵抗という武勇談を交えて正当化され、またその厳格さをめぐる記憶が建学の三理想と結びついて共有されていく。こうして理念面でも実践面でも、山本は旧制武蔵の神話の主人公としての像を帯びていくのである。 (2) 学園史家・大坪秀二による神話破壊  大きな神話は破壊に時間を要する。そして破壊者は同時に創造者でもあるのが歴史の常である。20世紀の終わりに山本神話を破壊したのは、武蔵高等学校中学校第8代校長の大坪秀二(1924~2015)である。  大坪は武蔵在学中(1942年)、第16回外遊生として満洲行きの機会を与えられるほど傑出した生徒であったが、卒業後は東京帝大理学部で物理学を専攻し、大学教員を経て、1950年から新制になったばかりの武蔵高等学校・中学校で(後には武蔵大学でも)数学を教えた。67年からは同校教頭、75年からは校長を務め(87年まで)、90年に定年退職した*76。ほぼ40年に渡って武蔵の教育・経営に関わった大坪は、その膨大なエネルギーと独自の理念をもって新しい校風を学園にもたらし、その影響は現在にも及ぶと言われる。その実態については別途の検討を要するが、本論で重要なのは退職後の大坪の仕事である。彼は退職後、武蔵学園記念室顧問として学園史料の整理・編纂に携わっただけでなく、その解題やエッセイを通じて、従来の学園史の語りを批判しながら新しい歴史像を作ろうと試みた。その成果は、原史料と解題を収めた『武蔵学園史年報』として1995年から毎年出版され、バックナンバーは20号以上を数える。それらは武蔵学園史の研究のみならず、20世紀の日本教育史にとっても重要な基礎史料としての可能性を秘めている。  大坪の歴史叙述は、戦前から戦後まで、旧制高校から新制高校・中学・大学まで幅広く扱っているが、その最も重要な役割は、一次史料とその批判的検討にもとづいて山本神話を実証的に破壊した点にある。ここでその要点を整理しておこう。第一に、山本の専制体制が学園に招いた弊害を批判的に究明した。例えば「野球禁止考」(1999)は、旧制武蔵ではなぜか野球禁止令が出されていたという言説に注目し、日本での野球の社会的地位に触れた上で、創設当初は禁止ではなかったが途中から禁止になったと論証する。山本が公表した禁止の理由は道理にかけるとした上で、後半では1930年5月の「山本教授弾劾事件」という事件に触れている。卒業生数名が武蔵関係者や近隣住民にビラを撒き、「詰込主義、点数主義、厳罰冷酷主義」や生活・趣味への厳しい制限を批判していたという。学園内部の史料と照合したところ、叛乱卒業生側に「三分の理どころか、五分ほどの理を認めざるをえない」との評価を与えつつも、彼らの声は左翼運動弾圧のなかで消されてしまったとする*77。「たかが野球一つで大げさな」と言わず、野球問題を社会史上に位置づけるとともに、外部の声を拾い上げた上で、山本の教育体制を自由に反するものであったとする大坪の叙述は、効果的なものとなっている。そこには山本の強烈な個性・ワンマンぶりを「愛の鞭」や「リーダーシップ」という言葉で美化するのを拒み、外に開かれた学園史を創ろうという大坪の対抗的意志が横たわっているのだ。  大坪の第二の功績は、山本の「建学の父」としての役割をある程度まで相対化した点にある。例えば「三理想の成立過程を追う」(1997)は、武蔵の三大理想に関する原史料を丹念に整理・吟味した上で、開校当初(1922年4月)は一木喜徳郎が用意していた「第1の原型」があったとする。もとは「正義を重んじ真理を愛し、自ら理解考究する能力を有し、将来世界に活動し得る体力を有す」であったのが、約2年後に「東西文化融合のわが民族使命を遂行し得ベき人物を造ること。世界に雄飛するにたへる人物を造ること。自ら調べ自ら考える力を養うこと。」という現在のものにつながる「第2の原型」が作られたと推定している。特に「東西文化融合」という文言を肯定する一木に対し、山本は最後までこれに完全には同意していなかったとしている。そして「第2の原型」は山本体制下で教員たちによって権威づけられていったと主張している。「民族使命」や「世界に雄飛する」といった文言に見られる山本の「民族主義、国家主義的な理想」に違和感を唱える大坪は、アナクロニズムを改め、これからの時代に即した三大理想を練り直す必要性を訴えて文章を締めている*78。山本神話を支える三大理想の文献学的な精査を通じて、その内側からの崩壊を試みる叙述には、先と同様、山本の思想に対する大坪の強い批判意識を読み取ることができる。従来は権威化されていた山本像を正面から破壊するのは、学園関係者にとっても相当に勇気あることであっただろう。それでもこの大変な仕事へと退職後の大坪を向かわせたのは何であろうか。   (3) 戦後民主主義の可能性と限界  時は遡って1942年2月18日、ひとりの武蔵高校1年生(16期理科)が「何故それほど破天荒なことなのか良く判ら」ないまま、シンガポール陥落に沸き立つ山本校長の「何時にない上機嫌」を唖然と見つめていた*79。それは、明治生まれと大正生まれ、戦場に赴く可能性のある者とそうでない者とのあいだに生じざるを得ない認識のズレであった。43年9月、戦局が悪化するなかで卒業を迎えるこの少年は、校友会誌の記事「卒業を前にして友へ」でこう呟く。  君、死ぬ事は一番やさしいよ。殊に大君の為、国の為に死ぬ事は最もたやすいよ。只如何に生きぬくか、国家の為に如何に生きぬくか、それが一番難しいだらう。僕達は死んではいけない(中略)僕達は僕達の学業に対してもつとはつきりした自信を抱き、もつと熱烈な理想と必死の努力とをそれにかけていゝのぢやないだらうか。*80 戦争で十分な勉学を果たせなかったことへの後悔と生きぬくことの決意は、後に教育者となる大坪少年にとって精神的な出発点となった。この強烈な戦争経験は同時に、老いては歴史家となる彼にとっての原点ともなる。  大坪は学園史を書くとき、書き手としての当事者意識を明らかにしている。歴史家は実証に徹すべきで自らの政治的立場の表明には禁欲的でなければならぬという格率を、彼もまた共有していたが、それでも自らの立場性に敢えて立ち入ったのが、「『君が代』の歌と『武蔵の式』のこと」(2000年)である。日本での国旗・国歌の法制化をめぐる議論が盛り上がるところから話を起こし、戦後の卒業式では国歌斉唱が消滅していたが、その復活の是非をめぐって校内で論争があったことが語られる。大坪が武蔵に着任した翌年の1951年、文部大臣の天野貞祐が「国民実践要領」を作成し、戦後の精神的荒廃に対して道徳教育の強化を訴えた。この「天野談話」が教育面での「反動」として左翼陣営や進歩的知識人たちから猛烈な批判を浴びたことは知られているが、大坪もまた批判側の立場から同時代を描いている。創立30周年(52年)からは天野大臣の来校もひとつの引き金となり、卒業式での国歌斉唱が復活する。その方針を保持させた中心人物として槍玉に上がるのが、内田泉之助教頭(1892~1979)である。この開校以来の最年長者であった漢文教授は、山本の理念に忠実な保守派であり「かなり強面で、とかくの異義は認めなかった」が、若手教員にとって「この『逆コース』は快いものではなかった」と大坪は回想している。しかし内田退職後の67年以降の卒業式では武蔵讃歌のみが歌われることになり、その後も学園関係者や生徒から復活を望む声があったが、結局は国歌斉唱はその後も行われなかった*81。  ここにはまず、「個人として『日の丸・君が代』を支持しない立場をとる」と述べる大坪の戦後民主主義への強いこだわりが見られる。戦時中のど真ん中に高等学校で、戦後の混乱期に大学で過ごした大坪にとって「二度と過ちを繰り返さぬ」という意志は、この時代を過ごした多くの者と同様、身体に刻み込まれたものであったに違いない。次に興味深いのが、テキストにおける大坪と内田との敵対関係である。内田は山本の信頼を最も受けた教員であり、戦後は『晁水先生遺稿』の編集に中心的役割を果たし、その続編の序文に彼の人格について「之を仰げばいよ/\(引用者注:いよ)高く、これを鑽(き)ればいよ/\堅い」*82と記した。いわば彼は、戦後における山本と日本帝国の精神の守護者であった。これに対し、明治憲法体制の破綻を受け止めて新制時代に相応しい精神を創ろうという改革者たらんとした大坪は、彼岸には山本、此岸には内田という二人の超克すべき目標を抱えていたのである。旧制武蔵の負の遺産を直視していた彼は、スパルタ教育や厳罰主義ではなく自律的な思考をじっくり育てる教育方針を取り、そして国家主義を相対化できるような広範な視野を育む機会を生徒たちに与えようと努めた。例えば、日本の受験戦争と詰め込み方式の過激化に警鐘を鳴らし、第二外国語学習の促進と国外研修制度の確立に力を尽くした。そうした点も含め、大坪に山本神話の解体を可能にしたのは、史料批判という研究手法だけでなく、戦後を生きぬいた彼自身の歴史意識であったと考えられる。  だが、大坪が戦後民主主義に忠実であったがゆえの限界も存在した。それは概して言えば、戦後の視点から戦前の精神を一括りにして外在的に批判・拒絶するという傾向、また評価するにしても戦後の価値に合うように修正して解釈するという傾向である。  例えば、大坪は上記のエッセイで、昭和30年代に学内で「君が代」復活論が唱えられた時、教員たちは「私立学校の私的行事論」でこれに対抗したと述べている。もとは国語科教員だった三木孝が提案した「武蔵は私立学校、入学式や卒業式は家庭での祝い事に類似の私的な行事だから、それに『国歌』はなじまない」という論理は「学校が君が代を禁止するのはおかしい」という生徒からの反発への抵抗にも用いられたという。「公私」の区分を根拠に学園内での「公的なもの」を拒否するというそれ自体はしかし、山本にも共有されていたは見落とされる。彼は1939年の紀元節講話で、日本の民族文化を象徴する行事は江戸時代に比べて、現在では廃れてしまったとして、例えば紀元節には神武天皇にちなんだ人形や食べ物を設け、各家庭で肇国の日を祝い、その理念を生活のなかで共有し、民族意識を高めるべきであると主張している*83。実際に武蔵は元旦には式を行わずに、1月8日に年賀式を行っていたし、国家主導の紀元2600年記念行事には他校と違って生徒を派遣しなかった。国家(公)と個人(私)の目標を分離させる大坪とこれらを統合させる山本とは、イデオロギーの面では正反対であるが、「公的行事」に「私的団体」が関与しないという方針自体は共有している。つまり、山本にとっては忠君愛国の理念に基づいていた以上の論理は、戦後の文脈で換骨奪胎された上で、学園に「公」を持ち込まない、つまり国歌を拒否する方便として利用されたわけである。  大坪は以上の論理を「私立学校を盾にとった」逃げ道であるとしつつも、地元住民の税金で支えられる公立学校にも適用できるはずだとさえ主張している。もしそうだとすれば、究極的には各個人が主権者として国民自らを統治することになっている日本国憲法下において「公」の論理はどこに働く余地を残すのだろうか。大坪はこれに明瞭な見解を示していないが、これに対して山本の「私」の論理は、「家族」から「団体」を経て「民族」へと徳を通じてつながっていくという共同体観を土台にした。我々は政治哲学を論じるつもりはないが、「公的なるもの」への学園の関わり方が戦前・戦後で実は継続してしまっているという点について大坪が十分に総括していないことは明らかである。  次に、大坪は戦後的な価値観に合うように山本の行動を解釈しようとするあまり、その理念の内在的な把握に失敗している。例えば、「御真影と奉安殿 旧制武蔵高等学校の場合」(2001年)は、旧制武蔵はある時期まで御真影も奉安殿も設置しない方針をとっていたという話を皮切りに、山本の国家との関係を論じている。そうした方針を山本の「個性」を国家に対する「反骨伝説」とする言説を括弧に入れ、大坪は自らの研究に基づき、彼が三理想の成立や学校成立の過程を学園史にまとめる際に意図的な記述・編集を施していることを指摘し、さらに陸軍や文部省高官との密接な関係に着目することで「反軍」や「反官僚」の像を脱色している。ここまでは山本の国家主義への批判を貫く大坪らしいキレのある叙述である。しかし、1920年前後から僅か数年間で「国の状勢は一挙に超国家主義の方向に動き始めていた」と述べるくだりから叙述が怪しい。さらに、二・二六事件(1936年)の犠牲者に武蔵生の父親であった渡辺錠太郎陸軍教育総監が含まれていたことに山本が衝撃を受けたのではないかと推測し、これを転機として彼の反軍・反官僚(文部省)の傾向が一気に強まり、対英米開戦後は「戦局への憂慮と軍人嫌いとが山本校長の気持ちの中で重なって、驚くほど過激な反発につながったのではなかろうか」と仮定する*84。大坪は1942年4月に起きた御真影問題をめぐる山本と文部省官僚・陸軍軍人の大喧嘩をエピソードとして挙げるが、以上の議論は憶測に憶測を重ねたもので説得力に欠ける。  山本が晩年には立場を変えて国家主義に対する「反骨者」に転じたという議論は、第3節で論じたとおり、「日支事変」や「大東亜戦争」開戦後、日本の「世界史的使命」に対する山本の期待が強まったことを考えれば、再考を要する。確かに、武蔵が奉安殿を置かなかったのは、根津嘉一郎など明治をはじめから知る財界人には「大正から昭和にかけて天皇を神格化し超国家主義、軍国主義の道を歩み始めたこの国の状勢を批判的に見ていた人物」が多かったからだと述べる大坪はなるほど、明治世代の大正世代に対する違和感そのものには気づいてはいる。しかし、山本の明治人としての論理において、「國體」(伝統的な生活と精神に基づいた皇室を軸とする民族文化)という目的への忠誠と「国制」(集権的なシステムに基づく統治機構)という手段をめぐる異論は両立する。つまり、陸軍の軍事行動の個々のやり方には反対しても、日本の対外行動には全体的に賛成することは可能である。この精神を十分に汲み取れなかった大坪は、「忠君愛国」の理想とその支柱としての「歴史観」教育の実践に死ぬまで固執しつづけた山本の思想的な一貫性を捉え損ねたのである。  勿論、大坪が学園の歴史を担う正統な後継者として、「建校の父」の権威を完全に葬り去るのではなく、その可能性を救いとらざるを得ない立場にあったことは認めよう。けれども、大坪は国家(公)と個人(私)を対立項で捉える戦後的な社会観に囚われたため、山本にとって不可分なはずの「国家主義」と「自由主義」を無理に分断して解釈してしまった。結局、大坪の実証的な努力とその名声に支えられる形で、山本=武蔵の「反骨精神」なるものは――1936年の「転向」という伝説を援軍に――「リベラル」な校風を裏づける強力な神話となり、21世紀に入っても機能することになる。    武蔵という場で神話の破壊者にして歴史の創世者たらんと努め、両方の仕事を自分なりに済ませた大坪の晩年は、穏やかな収穫の秋であった。2011年8月には学園史研究が反映された『武蔵九十年のあゆみ』の刊行を祝い、2013年6月には国外研修制度でドイツ・オーストリアに派遣された(元)生徒たちやドイツ語教員との懇親会を楽しんだ*85。あの敗戦から70年目の2015年11月15日、新しい武蔵を創った「ラディカル・リベラリスト」はついに冥府へと旅立った*86。翌年2月の「お別れ会」では、長い土砂降りが大講堂に無数の雨音を響かせるなか、500人以上の「大坪チルドレン」たちが師の学恩を偲んだ。 おわりに  武蔵のキャンパスには大きな欅の木が立っている。学園の象徴ともなったオオケヤキは開校以来、1世紀に渡って教師や学徒たちを見守りつづけている。けれども「建学の父」の薫りは今やすっかり薄れてしまったように見える。  1993年、西田幾多郎の孫であり、旧制武蔵で教育を受け(16期理科)、その後は新制武蔵高校・中学で物理や数学を教えた上田久は『山本良吉先生伝』を刊行した。本書は、対象の著作を読み込み、多くの同時代史料を検討し、抑制された筆致で山本の教育者としての生涯を初めて包括的に描いた優れた評伝である。それが呼び水になったのか、『同窓会会報』では3年連続(93?95年)で山本や「武蔵らしさ」を扱う特集が組まれた*87。そこには山本のテキストの引用や旧制出身者たちの回想が収録されたが、現在確認できる限りでは、これが山本「と」武蔵をめぐる声の群れが見られる最後の機会であった。  2010年代以降、受験教育への批判から塾・予備校業界と距離をとっていた武蔵高中は、次第にそれまでの方針を修正し、対外発信に力を入れるようになった。そこでは、建学の三大理想がブランドの史的根拠として強力に作用する。教育ジャーナリストのおおたとしまさは、綿密な取材を通して、武蔵の理念と実践を他に類を見ないものだと賞賛するが、その歴史理解には、かつての神話の影がうっすらと見られる。旧制武蔵は「特権に守られ、受験競争とは無縁の、真のエリート教育」を行いつつも、御真影や奉安殿を置かず、小冊子『国体の本義』も無視するなど「体制に与しない気骨も稜々だった」とする*88。それはまさしく、大坪が破壊しようとしたが、内在的な検討を徹底しなかったために、逆に強めてしまった「リベラルな抵抗者」としての山本像である。結局、彼の抵抗の事実だけが「自由の校風」の根拠として切り取られ、抵抗の理念としての帝国・皇室への忠誠心は葬られてしまったのだ。  以上、山本「と」武蔵を結ぶ糸を近代以来の歴史的世界のなかで洗い直してきたが、そこから浮き上がるのは、「武蔵的なるもの」が「日本帝国的なるもの」の生成・転換・崩壊・復活のサイクルのなかで様々な語りをなしたということである。だからといって全ては仮構の言説だったのだと切り捨てることはしない。教育勅語の理念への奉仕を誓った山本と、それに徹底して反対した大坪は、政治的立場は正反対であるにもかかわらず、両者の歴史(観)を語る言葉は、明日の世界を担う強い主体性をいかに育むかという近代教育の根源的な問いに真摯に応答し、また学校教育という場で実際に作動したからである。  では、山本という存在を〈ここ・いま〉の視座からどう考え直せるだろうか。20世紀の経験を経た我々にとって、山本の民族主義や国家主義を批判ぬきで扱うことなどできないし、理性を備えた強い主体を前提とする人間観も、数ある近代主義批判を前に修正を余儀なくされるだろう山本(や大坪)の理念を歴史的文脈から離して評価するのは極めて難しい。例えば、武蔵の三理想を「全球化globalization」の時代に「自律的思考」でもって対応できる個人を目指すことなどと読み替えるのは、それこそ山本の盲目的な伝統破壊への批判や、大坪の価値の画一化への警戒を水に流しかねない安易な行為である*89。  それでも、なんとかして山本の遺産を拾い上げようとすれば、そこに「型」への拘りがあることに気づく。思想家の唐木順三は戦後まもなく、近代日本の知のあり方を「型の喪失」と総括した。明治初期生まれの知識人は伝統的な形式を守ったが、明治20年代以降の世代は個性と自由を求める。前者(修養派)は「あれかこれか」と一冊の古典を熟読し、素読や坐禅などの身体実践を通じて知を身体に刻むのに対し、後者(教養派)は「あれもこれも」と多くの書を乱読し、内面世界での思索を通じて知と戯れる。昭和に入ると教養派は、強い型を擁するマルクス主義と帝国陸軍の席巻に対抗できず、やがて軍国主義の一人勝ちになってしまった*90。以上を補助線にすると、山本が武蔵で伝えようとした知のあり方の意味も、それに生徒たちが反発した理由も明快となる。山本は、生徒自身が「筋肉」を動かすことにこだわり、選ばれた古典(古文・漢文)を精読させ、自らもまた老年に至るまで謡曲に親しんだ。そして何のために教育の「自主」や「自由」があるかを自分なりに考え抜いた結果、大正という脱「型式」の時代風潮を横目に、明治の精神を徹底的に肯定したのだった。その方針が「個人」の自律を求める新世代の生徒たちの反発を生むのは必然であったが、山本の「ラディカルな反動性」は堅固な「型」を備えていたからこそ、左右の「全体主義」という新興の「型」に対して――「リベラル」な歴史観の想定とは逆のベクトルではあるが――叛逆しつづけられたと考えてよかろう。  今世紀に入って加速するIT革命と情報爆発、価値多元化のなか、もはや古典どころか一冊の新書さえまともに読めず、身体的な知の感覚を働かせる機会をほとんど失った我々にとって、残された唯一の規範とは、いかなる「型」からも脱して「自由に」(市場経済の再生産のために!)生きよという、見えざる「メタな型」である。機械翻訳もウィキペディアも使える新世紀に、敢えて漢文を暗唱させたり、原史料に耽溺させたり、英語以外の語学を習得させたりする教育は「反時代的」と目されるかもしれない。だが、少なくとも、画一的な「メタな型」を照らし出し、相対化するという目的に限るのであれば、自己と世界の具体的なつながりを「筋肉」を通じて「自ら調べ自ら考える力」は新たな可能性をもつのではなかろうか。「晁水」山本良吉の遺産は、我々に大きな問いを残している。 (後記)  本文に登場する史料は、読みやすさのために一部を常用漢字に改めて引用した。現代の観点で不適切と思われる表現であっても、同時代の雰囲気を伝えるためにそのまま引用した。武蔵の卒業生については旧制は「◯期文・理科」、新制は「◯期」と記した。    本論の執筆にあたり、武蔵学園記念室所蔵の数多くの貴重な資料を利用させていただいた。多忙のなかで全面的な協力を惜しまなかった同記念室の畑野勇室長に深く御礼申し上げる。有益なコメントをくださった同記念室の福田泰二名誉顧問(元武蔵高等学校長)・三澤正男調査研究員(高校45期・前武蔵学園記念室長)ほか、本学園史の書き手と読み手の全ての方々に感謝する。本論に対し、忌憚なき批判・助言を賜れれば、またOBの一人(84期)が残した声として読んでもらえれば幸いである。 注 *1 ここでの山本評は以下を参照。黒澤英典「武蔵学園建学の思想と山本良吉の教師論:閉塞的時代をリードした気骨あふれる教育者」『武蔵大学人文学会雑誌』41(3・4)(2010年3月)、199頁。相原良一「山本先生の思想について」川崎明編『晁水先生遺稿続編』山本先生記念会、1966年、547頁。兵頭高夫「山本良吉小論」『武蔵大学人文学会雑誌』37(4)(2006年3月)、126頁。大坪秀二『大坪秀二遺稿集』武蔵エンタープライズ、2017年、156、182頁。山本と武蔵学園をめぐる先行研究としては、上田久による評伝(上田久『山本良吉先生伝:私立七年制武蔵高等学校の創成者』南窓社、1993年)と大坪による一連の論考(大坪秀二、前掲書の「4 学園史研究」に収録)が最も充実している。  また、武蔵学園と関係しない点で山本を論じる研究も存在する。特に同郷の親友・西田幾多郎や鈴木大拙との関係で注目されてきた。石川県の知識人ネットワークの文脈で論じるものとして、浅見洋『思想のレクイエム:加賀・能登が生んだ15人の軌跡』春風社、2006年の第2曲「母への努めを果たす―気骨あふれる教育者・山本良吉」を参照。また明治知識人の宗教観の事例研究として山本を扱うものとして、松本皓一「晁水・山本良吉の宗教観」『駒澤大学佛教学部研究紀要』40(1982年3月)、62~83頁がある。  なお、山本は西田・大拙と膨大な量の書簡を交換している。それらの多くは今世紀に入って岩波書店より再編集・再刊行された『西田幾多郎全集』(全24巻、2002~2009年)および『鈴木大拙全集増補新版』(全40巻、1999~2003年)に新たに収録されている。濃厚な人間関係にもとづく私的なやりとりからは、両者の思想が生成変化していく過程を、論文や書籍、講義といった公共空間を意識せざるを得ない媒体には見られないような、赤裸々な痕跡を観察することができる。西田・大拙の思索に山本が果たした役割を考えることも、両者との関係から改めて山本の思想的意義を捉えなおすことも、学園史を広く位置づける上でも重要な課題となるが、それについては別の機会に論じたい。 *2 上田久、前掲書、271頁。 *3 「学園史」は、学校関係者の、学校関係者による、学校関係者のための歴史叙述としての性質をもつ以上、学園の指導(運営)者を顕彰する英雄伝となりがちである。伝統が浅い最初のうちはそうした歴史のあり方にも確かに意味はあろう。だが、学園創設から100年を数え、近代的教育理念の見直しや少子高齢化が世界的な課題となったいま、学園史は内向きの郷愁や好奇心を満たすためだけの「考古的歴史」を越え、外部を巻き込んで議論を喚起して新たな価値を生み出す「批判的歴史」を志向せねばならない。 *4 本節における山本の京大時代までの伝記的記述は次に依拠した。上田久、前掲書、第一章から第三章3節まで。 *5 山本良吉「開校十五週年記念式」『校友会誌』(武蔵高等学校)第34号(1937年6月)、14~15頁。 *6 北條の評伝は以下を参照。丸山久美子『双頭の鷲:北条時敬の生涯』工作舎、2018年。 *7 不孝(山本)良吉「アゝ我母」川崎明編『晁水先生遺稿続編』山本先生記念会、1966年、464頁。初出は『校友会雑誌』(静岡中学校)第2号(1896年4月)。 *8 山本の著作一覧は次を参照。上田久、前掲書、273~286頁。また山本の関連文献を含めたものとして「武蔵学園記念室支援サイト」内のページ(鈴木勝司編)を参照。http://wwr3.ucom.ne.jp/sirakigi/yamamoto-bk.html (最終閲覧日:2021年9月26日) *9 山本良吉「明治の三世」川崎明編、前掲書、464~474頁。初出は『静岡県教育協会雑誌』第126号(1899年5月)。 *10 同上、470頁。 *11 同上、471頁。 *12 同上、472頁以下。山本良吉「教育家と理想」川崎明編、同上、285?290頁。初出は『静岡県教育協会雑誌』第117号(1899年2月)。 *13 山本良吉「小学教師に呈す」川崎明編、同上、302頁以下。初出は『静岡県教育協会雑誌』第144号(1900年3月) *14 本節の学習院時代の山本の伝記的記述は次に依拠した。上田久、前掲書、第三章4節。 *15 臨時教育会議の概説とその時代背景については次を参照。山本正身『日本教育史』慶應大学出版会、2014年、第12章。 *16 小林敏明『西田幾多郎の憂鬱』岩波書店、2011年、318頁。 *17 山本良吉「岡田良平氏と歿後の教育界」『東洋文化』第109号(1934年5月)、13~23頁。山本は自由主義者と官僚主義者の代表としてそれぞれ澤柳政太郎と岡田を対比し、大衆受けはしないが教育人として誠実なのは岡田や山川・北條らであるとしている。澤柳は大正新教育(自由主義)運動の立役者、7年制高校をもった成城学園の創設者として知られる。山本のもつ澤柳および自由主義教育との距離感は改めて検討する必要があるが、少なくとも「リベラル」の名のもとに武蔵とほかの学校を論じることは避けるべきだろう。 *18 詳しい日程は以下の通りである。8月3日に合州国に入って大陸を横断し、11月6日に出国、大西洋を経て11月13日にイギリス着、12月1日にオランダ、12月4日にドイツ、12月14日にフランスに入って年末を過ごす。翌年1月16日にスイスを訪れ、同月19日にフランスに戻ってから2月12日に再び訪英する。そこで5月16日までロンドンやケンブリッジ、オックスフォードなどを視察し、再びフランスを経て5月23日にはマルセイユを出港、その後は地中海からスエズ運河、コロンボ、シンガポール、上海を経由して、7月2日に神戸に上陸、3日後に東京に帰着した。上田久、前掲書、139~140頁。 *19 山本良吉『わが民族の理想』弘道館、1921年、1頁。 *20 同上、4~7頁。 *21 同上、8~9頁。 *22 同上、5~7頁。 *23 山本良吉(尾形健編)『祖父・山本良吉渡欧日記:1920年-21年』私刊、1995年、62?64頁。1920年12月10日付。Kulturとはドイツ語で「文化」を表す単語であるが、大戦前後には英・仏の「文明civilisation」に対して独自の民族性を強調するための概念としてしばしば持ち出されていた。 *24 山本良吉『わが民族の理想』、12~23頁。 *25 一高教授としてフランスに派遣されていた太宰から受けた影響は、山本の日記(1921年2月10日付)にも反映されている。山本良吉(尾形健編)、前掲書、140~144頁。 *26 山本良吉『わが民族の理想』弘道館、1921年、25~29頁。 *27 同上、29~39頁。 *28 山本は個人主義の弊害として他者への同情心の欠乏を、その急進化として女権拡張(フェミニズム)運動や労働運動(ストライキ)を挙げて批判している。同上、42~45頁。 *29 同上、46~50頁。 *30 同上、52~55頁。 *31 同上、56~57頁。 *32 同上、63~72頁。 *33 武蔵学園が90年以上の伝統をもつと公言する建学の三理想は次の通り。 「1. 東西文化融合のわが民族理想を遂行し得べき人物   2. 世界に雄飛するにたえる人物  3. 自ら調べ自ら考える力ある人物」 根津育英会武蔵学園HP内より引用。https://www.musashigakuen.jp/gakuen/kyouiku.html (最終閲覧日:2021年9月30日) *34 山本良吉『わが民族の理想』弘道館、1921年、76~77頁。 *35 同上、80~90頁。 *36 同上、90~92頁。 *37 同上、第七章。 *38 1918年に送った山本宛書簡によれば、西田は文化のパトロンとして天皇を捉える考えをもっていたようだ。文化的共同性の象徴としての皇室観は、西田の死後、その人脈を通じて、戦後の象徴天皇制を支えるイデオロギーとなったという小林の議論は、山本の皇室観を考える上でも示唆的である。小林敏明、前掲書、338~356頁。 *39 山本良吉『わが民族の理想』弘道館、1921年、86~89頁。 *40 武蔵時代の山本の伝記的記述は次を参照。上田久、前掲書、第四・五章。その他、通史については例えば、武蔵九十年のあゆみ編集委員会『武蔵九十年のあ*ゆみ』根津育英会武蔵学園、2013年。 *41 中村草田男(くさたお)(1901~83)作。後に『長子』(1936年、沙羅書店)所収。 *42 維新史料編纂事務局の業務については次を参照。淺井良亮「明治を編む:維新史料編纂事務局による維新史料の蒐集と編纂」『北の丸』第50号(2018年3月)、81~92頁。 *43 昭和初期の明治維新像については次を参照。奈良岡聰智「『昭和戊辰』における明治維新イメージ:歴史意識の変容と相克」(瀧井一博編著『「明治」という遺産:近代日本をめぐる比較文明史』ミネルヴァ書房、2020年所収)。 *44 山本は自ら編纂した学園史のなかでも生徒・教員の共産主義との接触を憂慮している。第八年目(1929年)の記述にそれが見られる。武蔵高等学校編『武蔵高等学校二十年史:二五八二年~二六〇一年』1941年、42~43頁。 *45 山本良吉「思想問題の一方面:民族文化の闡明」内田泉之助編『晁水先生遺稿』故山本先生記念事業会、1951年所収)。初出は『東洋文化』第87号(1931年9月)。 *46 「西田幾多郎「思出話」内田泉之助編、前掲書、6頁。初出は『校友会誌』(武蔵高等学校)第49号(1942年12月)。ただし西田はすぐ後に「彼の様な頭の人が、単なる保守主義者になれ様はない」と述べている。 *47 山本良吉『勅語四十年』教育研究會、1930年、i頁(最初の数頁には頁番号なし)。 *48 同上、1~11頁。 *49 同上、14~15頁。 *50 例えば、山本正身、前掲書、第6~9章。侍講として明治天皇に儒学を講じた元田は宮中要人とともに、藩閥政治に対して天皇を頂点とする政治体制を築こうと試みていたという背景は無視できない。山本は随所で国体を重視する元田の思想と実践を高く評価しているが、明治国家と立憲体制における宮中の役割を彼がどう考えていたのかは改めて問われるべきであろう。 *51 山本良吉『勅語四十年』教育研究會、1930年、44頁。 *52 貝塚茂樹「教育勅語の戦前と戦後:教育勅語研究の現在と課題」(道徳教育学フロンティア『道徳教育はいかにあるべきか:歴史・理論・実践』ミネルヴァ書房、2021年所収)36~38頁。近現代日本の道徳教育の通史としては、江島顕一『日本道徳教育の歴史:近代から現代まで』ミネルヴァ書房、2016年。 *53 山本校長(良吉)「明治講話〔九〕明治二十七八年戦役に就て」『校友会誌』第36号(1938年3月)、巻末14頁。 *54 山本校長(良吉)「明治講話〔十一〕明治の旅行」『校友会誌』第44号(1941年3月)、巻末1頁。 *55 同上、巻末14頁。 *56 その最も有名な例として次のものがある。和辻哲郎『日本精神史研究』岩波書店、1926年。西田直二郎『日本文化史序説』改造社、1932年。20年代以降、「文化史学」は、古代史家の津田左右吉や思想史家の村岡典嗣(武蔵の「民族文化講義」にも出講)などの仕事によって評価を高め、特に西田が属した京都帝大の国史学科がもっていた、狭い政治的領域にとどまらない民族の精神発展を広く研究する気風のなかで、また京都の学際的なネットワーク(哲学・文学・人類学・宗教学…)を背景に、独自の研究成果を生み出した。 *57「民族文化講演「日本彫刻史」概要」『校友会誌』(武蔵高等学校)第17号(1931年12月)、172~189頁。注記によれば、本文は校友会文化学部の生徒が関野の講演内容の要項をまとめたものである。 *58 川崎明編、前掲書、661頁。 *59 山本良吉「憲法五十年史」『校友会誌』第37号(1938年6月)、8~9頁。 *60 山本良吉「教育勅語の発布に就て」『校友会誌』第36号(1938年3月)、7~8頁。 *61 京都学派の「世界史の哲学」や日本浪曼派の「近代の超克」といった言論的キャンペーンは無論、戦争責任論で一刀両断できるものではない。特に山本や西田たちが右翼(原理日本社など)や陸軍からの暴力に晒されるなかで思考をつづけていたことの重みは十分に踏まえられねばならない。大橋良介『京都学派と日本海軍』PHP研究所、2001年。 *62 無記名「シンガポール陥落祝賀式」『武蔵』(武蔵高等学校報国団)第47号(1942年3月)、1~2頁。 *63 同上、4頁。 *64 同上、4頁。 *65 貝塚茂樹、前掲論文、38?40頁。なお、貝塚によれば、勅語が現場でどのように運用され、どの程度まで機能したかという問題や、勅語の解釈変更を促した社会・思想的背景は何であったかという問題は、特に昭和戦前期では十分に解明されていないという(同上、46~47頁)。明治に制定された教育勅語がそのまま「戦争イデオロギー」になったという直線的な理解を修正するためにも、本論を含めて多くの事例研究が必要だろう。 *66 山本良吉『発動主義の教育』弘道館、1913年。 *67 山本校長(良吉)「二六〇一年紀元節講話」『武蔵』(武蔵高等学校報国団)第44号(1941年3月)、4頁。 *68「故山本校長追悼会」『武蔵』(武蔵高等学校報国団)第49号(1943年3月)、14~20頁。山本は日本の伝統的にあった尺貫法の保存を擁護し、それを破壊するメートル法をトップダウンで導入することに対して徹底して反対した。関係する論文として、山本良吉「メートル制の再判」『東洋文化』第109号(1933年7月)、12?18頁。同「メートル法強行について再説明」『東洋文化』第113号(1933年11月)、13~22頁。同「メートル法問題と官僚と内閣」『東洋文化』第123号(1934年9月)、12~19頁。ほか多数あり。 *69 川崎明編、前掲書、606頁。 *70 同上、618頁。 *71 同上、750頁。岩田雄二(15期文科、当時は大日本紡績綿布課長)の発言。 *72 同上、712~713頁。 *73 同上、713~716頁。 *74 同上、794~797頁。ここで鈴木が「まあ、ワンマンじゃありませんけれどね」と場を和ませる言葉を挿んでいる点も興味深い。 *75 同上、817~819頁。 *76 大坪の経歴は次を参照。大坪秀二、前掲書、503~504頁。 *77 大坪秀二「武蔵七十年史余話(その三)野球禁止考」(同、前掲書、166~171頁)。初出は、『同窓会会報』第42号(1999年11月)。 *78 大坪秀二「武蔵七十年史余話三理想の成立過程を追う」(同、前掲書、155~159頁)。初出は『同窓会会報』第39号(1997年11月)。 *79 大坪秀二、前掲書、283頁。 *80 大坪秀二、前掲書、8頁。初出は『武蔵』(武蔵高等学校報国団)第50号(1944年1月)。 *81 大坪秀二「「君が代」の歌と「武蔵の式」のこと」(同、前掲書、176~180頁)。初出は、『同窓会会報』第43号(2000年11月)。 *82 内田泉之助「序」川崎明編、同上、1頁。 *83 山本校長「紀元節講話」『校友会誌』(武蔵高等学校)第39号(1939年7月)巻末1~3頁。 *84 大坪秀二「御真影と奉安殿旧制武蔵高等学校の場合」(同、前掲書、181?188頁)初出は『同窓会会報』第44号(2001年11月)。 *85「武蔵高等学校国外研修ドイツ・オーストリア派遣生懇親会」は2013年6月30日の夕方に当時の図書館棟で開催された。(元)派遣生は63期から86期まで30人ほどが参加し、本論著者の吉川(高校84期・2010年ヴィーン派遣生)もその一人であった。 *86 根津育英会理事(2021年9月現在)を務める植村泰佳(高校45期)は、『大坪秀二遺稿集』刊行委員長として、かつてその教えを受けた大坪を「自由」「平等」「博愛」という近代の徳目を「原理的」に思考・実践した「ラディカル・リベラリスト」と称している。植村泰佳「大坪時代」(大坪秀二、前掲書、507頁)。 *87『武蔵高等学校同窓会会報』第35号(1993年11月)~第37号(1995年11月)の特別企画のタイトルは「武蔵と山本良吉先生」「武蔵らしさと山本良吉先生」「武蔵らしさとはなにか」であった。 *88 おおたとしまさ『名門校「武蔵」で教える東大合格より大事なこと』集英社、2017年、5頁。なお「一二歳で武蔵に合格すれば、ほぼそのまま無選抜で帝国大学に入学できる特権が得られた」という記述は不正確である。旧制高校から帝国大学への進学は原則、無試験とされていたが、大正期に中等教育を受ける人数が激増したため、1922年から各帝国大学は進学者に統一試験を課している。特に東京帝大といった人気大学、法学部や医学部など人気学部には多くの高校生が殺到した。なお、1927~40年のデータによれば、最難関校の東京帝大法学部への合格率は、武蔵が第一高等学校を抑えて首位であり、同大医学部への合格率も50%を越えている。旧制武蔵と受験戦争の相性は抜群であったようだ。竹内洋『学歴貴族の栄光と挫折』講談社、2011年、132~141頁。 *89 ここまでの議論が明らかにした通り、山本が生徒たちに強く求めたのは「国際性inter-nationalism」であって「普遍性universalism」ではない。「国民nation」を前提とする「国際性」という概念は、「国民国家」が経年劣化を迎える今、練り直される必要があるのは確かだが、一方で「全球性globalism」の急進的拡張が、あらゆる面での不平等や格差を人類史上類を見ないレベルでもたらしているのは間違いない。日本の受験教育において東大を頂点とする「大学偏差値ランキング」が、英米名門大学を頂点とする「世界大学ランキング」へと取って代わられ、「グローバル人材」の名の下に、人間の評価軸がますます画一化する日も決して遠くはない。世界と個人とその「あいだ」で我々はいかに生きていくべきか。山本や大坪たち「と」武蔵のつながりに眠る「歴史の教訓」はまだまだ多い。 *90 唐木順三「現代史への試み:型と個性と実存」(『現代史への試み 喪失の時代(唐木順三ライブラリーⅠ)』中央公論新社、2011年収録)。初出は『現代史への試み』筑摩書房、1949年。
2021.07.26
正田構想実現の10年間を回想する
正田構想実現の10年間を回想する 【武蔵学園記念室より:以下の文章は、故大坪秀二氏(高校16期・元武蔵高等学校中学校校長)が生前、『武蔵学園史年報』第14号(2009年3月刊)に寄稿されたものである。】 ◆はじめに  たまたま時の巡り合わせのような縁で、『武蔵七十年史』編纂を機に学園史資料に関わることになり、20年近くが過ぎてしまった。その70周年記念事業で設置された学園記念室では、2022年に刊行されるであろう学園の正史、『武蔵百年史』を一つの目標とした仕事が進められている。旧制時代と、新制高校中学の18年間(発足から1967年3月まで)については、概略の記録を「校務記録抄」や「記録抄」として7回に分けて学園記念室年報に発表した。それらについては、歴史家でもない私が不遜とは思いつつ資料を取捨し、解題を書いた。対象とした四五年間のうち、筆者は生徒時代、教師時代を併せて23年半を武蔵で過ごした。一数学教師としての管見ではあるが、大勢の同僚と気持ちを共有するものが多く、ある程度は客観的な見方を貫くことが出来たように思っている。私はこれで、武蔵の歴史をあとの人々に引き継げると思った。  記念室の方針として、世間一般に倣い、30年以上を経過した史料は出来るだけ記録として遺すこと[30年ルール]にしており、現在[=この文章が執筆された2008年の時点(武蔵学園記念室注)]それは1978年以前を意味する。未発表の分の初めの10年間は、いつの間にかその30年ルールに当てはまってしまった。そのとき、任じられて教頭、のち校長の職にあった筆者には、それを取り纏める資格はなく、しかし、後継の人選は決まっていない。これまで協力して仕事をしてきた記念室関係諸氏のご意見で、ごく概略の記録だけでもまとめておけば、と促されて、異例ではあるがその10年間の整理をすることにした。  流れの大筋は、事務長が記録する「学務日誌」に拠り、これに内容的な肉付けを加える史料として、「教師会議事録」と、私自身の校務メモ(主として教師会のための準備)、私自身の日記(両メモをあわせて[大坪メモ]とした)とを援用した。他に『大欅』[学校と家庭の連絡誌]、『校友会報武蔵』の両資料を確認程度に利用した。私には克明な記録を残す習慣がなく、教頭になってやっと、書き残すべきことがあると気付いたが、長年の習慣は簡単には改善できず、今更ながら恥ずかしく思っている。 あり合わせの資料を並べただけの変則な記録であるが、これに『解題』を書くのも烏滸がましく、記念室運営委員会のお許しを得て、主な事柄についての私自身の回想のようなものを書き並べてお許し頂きたいと思っている。 ◆学園再編計画 第2次正田構想 (1966~1967年度)  学園を挙げて朝霞に移転するという第1次正田構想は、米軍朝霞基地[一部は既に自衛隊が使用中、さらに1966年にはホークミサイル基地となることが予定された]の追加払下げ可能性が消滅した段階で振り出しに戻ったが、大学を複学部にする(当初は文系、理系各一学部増設)構想は生きていた。1966年度の終わりには「学部増設準備会」が発足して、高中からは大坪[筆者。1967年度から教頭就任予定]と島田[いずれ日本史担当として大学への移籍が予想されていた]の二教諭も準備会の委員に加えられていた。 学部増設は殆ど大学プロパーの問題のように見えて、実はそうでない。新設すべき大学学部の居所を何処に設けるかは、大学と高中が建物についても運動施設についても混在していた当時にあっては、先ず直面する大問題であった。[さらに、東京都外の朝霞に移転する場合と異なり、江古田校地内で大学と高中が共存することになると、その住み分けの処理が、新学部認可申請の時期次第では、認可の成否にも微妙に関わる懸念もあった]  この問題は、結局、大部分が正田学長・校長の意中にあるということを、関係者みんなが暗黙のうちに了解し合う状況のなかで進行したといってよい。したがって、筆者が校長の計画の具体的な内容を正式の場で聞いたのも、1967年6月27日、高中父兄会長と高校同窓会長とを校長自宅に招いての新計画への募金事業に協力を懇請したときである。もちろん、それ以前に漠とした構想の話はあった。筆者が教頭に就任したばかりのころ、正田先生に誘われて濯川のへりを散歩した折のことである。「将来にわたって、大学、高中それぞれが施設その他の更新を望むことがある筈。それが、一々学園全体の問題となって動きがとれなくなるような事態には、今こそ対処しておかねばならない。それに、学生運動はまだまだ序の口で、将来に向けて一層高まることが予想される。大学、高中が完全に混在している現状で、どちらかに何事かあれば、必ず影響は全体に及ぶ。火種は個々別々なことが多いだろう。必要なだけの対応ですませる為にも、お互いの生活域は分けておく方がよい」と、まあこんな話であった。正田先生の考えはこの点ではっきり決まっており、細部のプランが未定のままに、濯川の線が大まかな境というところまで煮つまっていた。そして、先生はこの構想の線でどんどん周囲への働きかけを行っておられた。『正田構想』と呼ばれた所謂である。 ◆動き出した計画 (1967年度後半)  1967年9月末から計画は一気に動き始めた。まずは、教師会に校長から計画を発表することであったが、全員の同意を得ることは決して簡単なことではなかった。構想そのものへの強い批判もあった。その後の教師会では、強硬な反対意見も堂々と述べられ、論議は年末近くまで繰り返された。さんざん議論した揚げ句に、疑義は残したものの、学長・校長構想の線でとにかくまとまろうと言うことが多数の同意を得た。このあと、生徒への説明は教師会の論議をふまえて、11月24日、講堂に全校生徒を集めて教頭から説明が行われた。説明は1時間半に及び、10日ほどあとの代表委員その他有志との話し合いも含め、現段階で分かる限りの情報を尽くして話し合った。11月14日に父兄会委員会での説明のあと、生徒にも情報が流れて、主として上級生の間には反対行動を企てるやの噂も聞こえていたが、この説明後の全体の傾向としては、つとめて前向きに受け止め、遠慮なく要望を発言して行こうという方向に変わっていったのは頼もしいことであった。  根本問題の議論とは別に、具体的な移転計画は時間と睨めっこで進めねばならない。各教科に現状確認の作業が求められ、新施設への要望事項をまとめるための調査、検討が始められた。総務委員のほかに建設担当の小林教諭、体育施設担当の飯塚教諭(当面代理高橋教諭)を加えて建設委員会が作られ、専ら建設のことを扱った。一部屋を無理矢理に空き部屋にして、ここを建設委員会の作業場とした。 募金計画への対応は、父兄、同窓の間で大層好意的に進められ、学校側としては只ただ感謝であった。父兄会委員長会、委員会、総会がそれぞれ一度ならず持たれ、熱心な討論が夜遅くまで行われた。こうした率直な作業が、通り一遍、儀礼的な賛同ではなく、歯に衣着せぬ討論を経た強固な合意を形成してくれたと思っている。  同窓会については、総会、旧制・新制それぞれの部会、卒業期ごとや部ごとの集まり、関西・中京・東北・北海道等地域での集まりと、実に様々なグループが賛同と後援の催しを行ってくれた。その他、同窓には第一線で活躍中の建築家が多く、幾つもの場面でその人たちのアドバイスを得ることが出来た。もちろんその中心となってくれたのは建築学科の大先輩太田博太郎先生であり、すべてについて気を配ってくださったのは内田祥哉先生(17理、当時東大建築学科教授)であった。 ◆「日常+建設」の1年半  1967年の年末に設計・施工会社が清水建設に決まり、学校建築専門家をまじえたスタッフが紹介された。その人たちと年末から年始にかけて幾つかの学校を見学したのを皮切りに、設計の本格的な相談が始まった。相談はすべて建設委員会の部屋で行われたが、正田校長は毎週1度の定期会合に必ず出席されて、具体的な件にも個人の見解を述べられた。旧テニスコートの周りに植えられていた7本ほどの欅を1本だけは保存し、新校舎の屋上に穴を作って欅はその穴を貫いて茂らせるという設計側の案に、せっかくの欅は全部残して、それにさわらぬように校舎をプランしたいと提案されたのは正田先生だった。欅の列を渡り廊下が貫くというプランがこれで確定した。  基本設計の相談が始まったのが1月半ば、そして3月半ばには大坪、小林の二人が清水建設本社に出向いて設計スタッフと膝詰めで正味8時間を越す作業を行い、やっと基本設計を完了した。この2ヶ月間は教師としてのルーティンな仕事も多忙な年度末であり、これに設計計画が加わって、徹夜に近い忙しさに耐えた日々であった。[筆者注:このような高中プロパーの仕事は、大学の人たちには殆ど伝わっていなかったらしい。3月14日の学園協議会では、何の相談もなく勝手に基本設計を作ってしまったと学・校長をなじる発言が大学側から出て、「基本設計は案であること、一昨昨日、長時間かかって出来たばかり、一昨日教頭から報告を得て、すぐに学部長に渡したものであること」が学・校長から説明された。『武蔵学園史年報第9号』「学園協議会議事録」には、この時のやりとりがかなり省略して記録されている(43~44ページ)]  新しい学年が始まり、建設は実施設計に入った。細部になるほど素人の手に負えない事柄が多くなったが、内田教授の計らいで、34期の澤田誠二氏が技術的問題を検討する大役を引き受けてくれた。我々教師側にとって力強い味方であった。  この段階では、一つ一つの細部がすべて施工費算定に直結するので、きびしいやりとりが際限なく続くことになった。決着までの3ヶ月間には、思い出として苦いものが多い。計画の基本だけは崩したくなかった。初めて経験する「値段をめぐるやりとり」も、内田教授ほかの味方になってくれる人々の助けで何とか耐え抜いた。理科関係教室の設備を一部分別枠にすることで交渉が妥結し、7月15日に契約成立、全校生徒も出席して地鎮祭が行われ、新校舎への移転がはっきりとした未来として意識されることになった。  予想外のことの一つに、5月16日の十勝沖地震があった。倒壊した建物に学校建築が多く、構造上の強度があらためて問題になった。しかし、この時ただちに構造設計を見直すまでには到らなかった。此の問題は、1981年夏の校舎一部増築の時にまで持ち越された。  記事が前後したが、1969年4月の新校舎への移転を必ず実現しなければならないと言うギリギリの条件をあてがわれて、それでも生徒たちの日常の活動はなくすわけに行かない。体育館、グラウンド、テニスコート、すべてなくなって、この1年間、どこかの施設を借用して活動を続けねばならない。それは高中生だけでなく、大学生も同様であった。近隣の学校の厚意に縋り、他方で朝霞校地の迅速な整備が求められた。その工事中に遺跡が出土して一時工事中断。幸に早めに処理されて、切り抜けることが出来た。人文学部のための旧校舎の改装は先ず外壁の塗装から始まり、高中の授業終了をまって、内部の大がかりな模様替えを急ピッチで進めねばならない。これらすべてのお膳立ては、地鎮祭以後現場事務所が立ち上がるころから、先へ先へと相談が進行した。  1968年4月には、大学、高中双方の体育科の一致した意見が通って、大学体育館も江古田校地内に造ることが決まっていた。高中の体育館・グラウンド・集会所等については父兄、同窓の寄付金で造られることから、設計・管理[もちろん大学体育館も含めての]を19期卒業の山田水城氏に依頼することが決まり、夏の間にその点の調整が行われた。そのこともあって、体育館等の工事の細部決定だけが残った一一月末に、筆者が工事現場で転落、腰椎骨折の重傷を負うという不測の事故に遭ってしまった。必ずかぶらねばならぬヘルメットのせいで身長がほんの3センチほど高くなっていたために、触らずにすむ筈の足場パイプがヘルメットに当たったためであった。「ヘルメットは必ず阿弥陀にかぶれ」という工事現場の鉄則があることを後で聞いた。私の不注意が多大の迷惑をかける結果になったが、幸運にも入院108日、コルセット生活1年半という療養で全快することが出来た。しかし、1969年4月から大学人文学部に移籍予定の島田先生に4月末まで教頭代理をお願いしたことは、申しわけないことであった。  これら、当時の事情を回顧しながら思うことは、教師会のほかに、総務委員会、学科主任会、建設委員会がそれぞれ身軽な数名ずつのメンバーで機能したことの有難さである。 ◆高校紛争の1年間 (1969~1970年度)  1960年代の半ばすぎから、学生運動が大学を中心に少しずつ高まりはじめた。ベトナム戦争に反対する平和運動(ベ平連)、沖縄返還交渉に於ける核の問題、1968年にフランス全土を覆った学生の反乱、同年の日大闘争、東大医学部を発端にして全学に拡大した反権力闘争、それに1970年6月の日米安保条約継続問題など、幾つもの要因を抱え、指導者も様々な混迷の時代であった。 反乱の波は1968年終わりごろには高校段階までおりてきて、学校側、教師側への反権力闘争の形をとり、過激化した。武蔵でも、1969年3月の卒業式への異議申し立てを皮切りに、4月には沖縄反戦、10月には国際反戦デーへの参加に関連したバリケード・ストライキ予告[不発に終わる]、他校の紛争への参加、そして1970年3月には他校生をまじえての卒業式阻止バリスト未遂事件に至った。これら一連の動きは、本年報において内容が理解され得る程度に事実を追ったつもりである。  今、当時を思い出して感じるのは、われわれ教師たちがいわゆる過激派の生徒たちと、とことん対決する姿勢は決してとらなかったことが、事態を穏やかに収める大きな要因だったということである。いわゆる非行に対して、停学、謹慎という処分をきっぱりと行って来たのと異なり、思想上の対立[本当に思想上の対立があったかどうかは断定できない]に対しては、落ちついて話し合うしかないことを繰り返し説得するとともに、簡単に割り切った返事を求める彼等の要求に、それほど単純に割り切れないことの意味をよく話したつもりである。卒業式のバリスト未遂事件でも、試験の不正や社会的不正への対応とは異なり、それらと同様な処分では何も解決しないことを説明し、教師と生徒が結ぶ関係は、最終的には「人間関係」、いわばヒューマニズムとも言うべき、簡単には説明出来ない複合的思想が根本にあることを述べたつもりである。そのことにはその直後に、彼等からはげしい反発が寄せられたが、それ以上の反乱はなかった。通常の処分は行われることなく、大部分の問題は時が解決した。  同様の考え方は「70年安保の日」の対生徒の方針にも貫かれたと思う。「高校生が政治活動を行うのは何が何でも許せない」式の文部省方針に従う多数高校とは一線を画して、生徒たちがこの日をどのように過ごすべきか、本気で十分に討論した上で行動の方針を決めたらよかろうと、一日の授業時間を生徒の自由にまかせた。大げさに言えば一国の将来を大きく支配する基本が定められるとも言える日に、自分の意志で自分を律する経験を得損なうのは、生徒たちの今後の人生にとってまことに重大な損失であることを、彼等に伝えたかった。結果として、午後に大学生と高中生とが合同で校外へ出て、整然としたデモ行進を行った。学校が承認したデモと理解され、力による弾圧はなかった。  この日を境に、学校への反権力行動はすっかり影を潜めた。そのかわり、以後世の中では過激派同士のいわゆる内ゲバが長期間続いた。年を越えて1971年10月、外部の過激派勢力が校内に侵入、大学施設内で、居合わせた高校3年生1名が頭部を殴られ、脳挫傷で意識不明の重傷を負う事件が起きてしまった。これがきっかけで、校内にも過激派同士の争いが再燃した。内ゲバについては、暴力抗争は絶対に許さないこと、抗争が行われた場合には必ず厳しい処分をすることを、父兄同伴の場で、問題生徒数名には申し渡した。安保の日における対応とは全く異なる方針であることを明確に出したことで、以後、生徒内での暴力抗争は起こらなかった。重傷の生徒は約1ヶ月後に意識が戻り、その後徐々に回復した。 ◆紛争後 (70年代後半以後)  70年安保の後、世の中も武蔵高中も急速に落ちつきを取り戻していった。もちろん、外ではセクト間の抗争が引き続いていたし、成田闘争は、安保騒動が終わっても燃え尽きない学生たちの結集場として残った。一方、若者社会は急激に非政治化し、「しらけ世代」とか「三無主義」とかが言いならわされるようになった。しかし、武蔵の場合、この時代に新しい活動の気風が見え始めていたことも明らかである。自由研究発表の場である山川・山本両賞の応募が急に増えて、内容も著しく向上した。学校外の選者の批評でも、大学卒論レベルというより大学院レベルとまで賞賛される論文も多く、学校の授業の枠を越えて自己を形成しようと試みる若者活動は頼もしかった。  論文とは別に、部活動の面でも決して「しらけ」でないことが顕れてきた。スポーツの場合、東京都の大会を勝ち抜くことは、選手スカウトが当たり前の多数有名校がある以上ほとんど不可能に近いが、その次の位置を保ち続けるのも立派なことである。そうした部が幾つも出た以外に、世間から注目されることの少なかった種目で、著しい成果を上げる部も出て来た。水泳部が水球で全国準優勝(同率2位)をつづけ、国体でも都代表の主軸として出場し連覇したのがその著しい例である。 ◆第2外国語に新しい風 (1973年度以後)  旧制武蔵高校では、高等科の外国語は英・独2ヶ国語で、英語を主とするものを甲類、ドイツ語を主とするものを乙類とし、文、理それぞれに甲、乙の別があって、生徒はそのどれかを選んだ。旧制一般ではフランス語を主とする丙類もあったが、丙類を置く高校はあまり多くなかった。  1950年に旧制は終わったが、ドイツ語の教授が引き続き武藏大学におられたので、それらの先生によって兼修、選択科目としてのドイツ語が存続した。旧制の名残のような選択ドイツ語にも、いろいろの変遷はあったが、今号で記述した時代には高校3学年にわたる学年制コースで、高1(初級)ではかなり多数が選択するが、高2(中級)につなげる者は激減、高3(上級)になるとほんの数人になってしまう状況が続いていた。  1969年に武藏大学に人文学部が新設され、英、独、仏3ヶ国語については、それまでの教養科目だけの扱いでなく、それぞれ英、独、仏文化コースという専門課程としてメンバーも増強された。  新しくなったキャンパス内の生活が落ちつくにつれ、大学の専任として人文学部に就任した大竹健介教授(旧制22期)から、第2外国語としてドイツ語だけでなくフランス語も始めてはどうか、協力したいとの話が熱心に寄せられた。そのドイツ語には、1970年度から鹿子木先生の後任にお願いしていた池谷洋子氏のほかに、大学人文学部に就任した鈴木滿助教授(32期)が加わってくれていたので、この機会に第2外国語の方式を一新する計画が立ち上がった。  従来の制度では、せっかく上級コースがあるのに、多くの生徒にとって大学進学と両立しにくい事情であった。新しい構想では学年制でなく初、中、上級の3グレード制、中3以上の生徒がどの級にも能力に応じて参入出来る、つまり、高2までで3つのグレードを終えられるという利点があり、途中脱落が防げることが期待出来た。  この計画には、国語科(漢文担当)高橋稔教諭から、中国語コースも設けてほしいとの希望があり、結局独、仏、中3ヶ国語にグレード制、無学年制の選択科目として、1973年度から第2外国語が発足したのである。高橋氏は翌年東京学芸大学に移籍したが、非常勤講師として1981年度まで中国語を担当した。  たしかに、新しい制度は途中での脱落を防ぐのにかなり役立った。高2で上級を終えた生徒たちが高3でもまだ学びたいという希望者もあって、上級の扱い方を時に応じて工夫するなど、嬉しい意外さもあった。しかし、第2外国語の学習が大学進学と全く無縁な、しかし異文化との接触に於ける独立のルートとしての意義を生み出すことになるのはまだ10年以上先の1987年を待たねばならなかった。 ◆海浜学校の方針転換  1970年には体育館と並んでプールも竣工して、授業では古いプール(大学プールとなった)と新しいプールとが時間割をうまく組めば両方を使えることになり、中1、中2の水泳指導効果が急速に向上した。旧プールだけの頃は、長距離を泳ぐ力を身につけるのは海浜学校の課題で、小三角、中三角、大三角(大三角ではじめて湾外へ出る)、興津(または守谷)への大遠泳と順次泳力を高め、参加者の半数以上が大遠泳を泳ぎ切る成果を上げていた。しかし、鵜原の海は水温が20度を割ることも多く、その克服のために学校のプールで水道水の温度が低い頃から泳ぎ込んで、寒さに順応する授業が行われていた。新施設が出来て、プールでの泳力が格段に向上し、その面だけ見れば、わざわざ海浜学校を行う必要はない、というのが体育科多数の見解であり、別に設けられた海浜学校を考える委員会の論議もそれに近いものであった。しかし、そのような技術問題ではなく、ある目標を中心にした合宿生活が、中学1、2年の少年たちに、人間同士のふれあいを通じて彼等の人格の成立に少なからぬ影響があるのではないか、技術面とは別に教師の役割の意義があるのではないか、極論すればそれが全くないというなら止めてしまえばよい、多少はあるだろうと思うからやっているのだという、比較的年かさの何人かの声に、積極的否定論に沈黙していた人たちも胸を打たれるものがあったようである。結局、目標は目標として新鮮なものに改め、それを中心とした生徒たちの活動を教師は協力して支えて行こうということに落ちついた。  1973年夏からの海浜学校では討論の結果を受けて、まず第1に2期にわけて1回の生徒数を半分にし、安全の確保を容易にすること、具体的課題としては水上安全教育という思想を中心に据えて、距離泳、潜水、サーフィンの3種目を行い、プールでの成果を基礎に水上での安全を高めるために、海そのもの、波や風、潮流などへの体験を深めることを求めた。そしてそれら総ての上にある(あるいは基にある)ものとは、それら具体的行動を共に行うことによって参加生徒1人ひとりが人間的成長を遂げることにある、としたのである。  また、翌年には教師の責任問題の議論を再度行い、これまで学校行事として参加を原則としていた海浜学校を、参加申し込み制に改めた。どうしても海を拒否したいという生徒なり父母なりの意志を尊重したからであった。同時に、授業を含む学校行事において、教師が個人としての事故責任を問われたとき、それが明白な不適切行為である場合以外では、学校法人の責任においてその教師を弁護するということを、学園協議会の議を経て議事録に明記した。 ◆修学旅行の方針  戦後、やや事情の安定した1951年秋に関西修学旅行が復活し、高2生を対象にして行われてきた。旅行を取りまく事情は次々に変化し、改善の工夫は絶え間なく繰り返されてきた。期間中、毎日、全員で同一行動だった当初の2、3回のあと、日程の一部にコース別選択制が採用され、見学のための学習資料が生徒たちの手で作成されるようになった。「もはや戦後ではない」といわれた昭和30年代になると、世間一般の観光ブームが起こり、奈良、京都の有名な見学先は人々がごった返すようになった。日本史担当の島田先生が計画の中心にいたおかげで、当時まだ観光ツアーから外れていた方面に歴史の学習としての基本的なコースを設定し、定着させることが出来た。しかしそれも、ほんの一時しのぎに過ぎなかった。京都郊外、奈良周辺、そして飛鳥一帯は、数年の中に一変してしまった。  コース選択制でバス1台ずつを行動単位とする方式では満足な見学が困難になり、とうとう、数人ずつのグループを作ってグループごとの自由行動を採り入れた。毎日を完全グループ化することに踏み切ったのは1973年秋からである。年報本号の範囲ではないが、1978年秋を最後に関西修学旅行はとりやめになった。何か新しい計画が浮かべば再考の余地があると含みを残したし、2学年ほどが、赤城や鵜原の寮に合宿して討論するなどの試行を行ったが、後続の企画は現れなかった。 ◆部合宿の付添問題  1973年6月、山岳部の夏山合宿に「田中 勝顧問は国外出張中、百済弘胤顧問は健康上の理由でともに付添不可能だが、信頼できるOBがいるので彼に委せて合宿をさせてやりたいが如何」との提議から、教師会は激論となった。  他の部でも休暇中に合宿するものは多いが、どの部にも顧問が付添うのが原則であった。しかし、顧問自身が技術面のコーチでもある場合だけでなく、OBのコーチに頼り、顧問は合宿の総責任者である場合が多いのも実情であった。その点で、山岳部の付添顧問には山行のリーダーとなるべき力量が求められている。OBに委せてただ付いて行くだけという顧問は問題外だというのが会議の共通理解であった。(実際には「顧問は付いて行くだけという高校山岳部」に山で出会ったことは一度ならずある)  だから、その最も責任の重い山岳部こそ、顧問付添の原則を外すわけにゆくまいという意見、更に山岳部でさえOBの付添ですむのなら、ほかの部の顧問もOB委せでいいはずだという意見が中心であった。  しかし、山岳部員から見れば、夏山は部活動の第一目標であり、これを禁じられることは部をつぶされるのと同様と受け止めるであろう。顧問が信頼を置くOBがいるのだから、そのOBの力量の範囲の山を選んで負担を軽くしてでも、合宿をさせてやりたいというのが問題提起した顧問の立場であった。  仲裁案は「現顧問が十分信頼出来る人物がいるなら、その人に学校の教師と同様の資格を認めて、合宿を行わすことが出来る」というものであった。賛否は教頭を除く40人中、賛成22、反対6、棄権12ですれすれの賛成だった。  実際には、この夏の合宿は顧問の判断で中止とし、個人山行に切り換えられた。一般論として、個人山行にすれば学校の責任外とはなるが、かえって顧問の目の届かない山行が暴走することもあり得る。その危険を考慮しない両顧問である筈はなかった。個人山行とは言え、顧問が十分に目を届かせ、責任への配慮をした上での「個人」であったのだが、記録の上には残らなかった。 ◆学園長制度と大学、高中にそれぞれ専任の学長、校長  1969年に発足した大学人文学部は1972年に4学年が揃う段階に達し、大学は成熟した2学部を持つことになった。単学部のときは、学部長が事実上の学長の役をつとめ、学長としての正田先生もそれをごく自然な形として受け止めていたが、2学部になって2人の学部長を取りまとめる学長の役は、単学部の時と全く異なる重みを持つことになった。1968年から69年の初めにかけて、この点について、「大学に専任の学長を置くべきであること、その選出は世間通例に従って教授、助教授の投票で決すべきこと、理事会決定で選ばれた学長、校長兼職の自分の立場は世間通例で言えば学園長というものであろう」という正田先生の意向を、一度ならずいろいろな側面からの考え方として伺うことになった。  大学学長に関する意見が問題の発端であったが、高校中学については従来通りというのでは学園内のバランスが崩れると言うことで、高中にも専任の校長を置くべきだという意見であった。1969年5月、校長から見解表明があり、それに応じた論議をふまえて校長選任内規を作ることが合意された。9月には、総務委員会で作成した内規原案が会議で承認され、10月にそれに従った方式で1975年度からの校長予定者として大坪教頭(筆者)が正田校長から指名され、大坪教頭退席の教師会で論議が行われて指名が承認された。内規は世間の慣例とかなり異なる点があり、それは内規作成段階での筆者の考え方に、総務委員諸氏が同意してくれて出来たものであった。  公立校などと異なるのは、校長とは身分の段階ではなく、職務の名称であること、従って、任期を終え、重任されなかった校長は、定年前であればもとの教諭職に戻ること、そのことは校長の給与を教諭給とし職務手当は別に定めるという形で明記されている。もう一つは、教師会で強く主張された「天下り校長の否定」である。1年以上教諭をつとめた者の中からしか選ばれないとする規程は、仮に、「天下り的人材」を校長に選任したいと「理事会」の意向が決まった場合でも、1年間この学校の教諭として仕事をし、同僚の信頼が得られなければ、選任の論議に上れないということであった。この2点のうち後者は、その後教師会の決議で変更されたが、それはこの制度発足から約20年後の話である。 ◆青山寮移転問題  1937年(昭和12年)、山上学校のための寮として、当時の父兄石川昌次氏の本郷弥生町にあった巨宅が寄贈されてそれを解体、軽井沢矢ヶ崎の地に移築したのが武蔵青山寮である。青山寮の敷地(約1万坪)は、南軽井沢一帯の広大な根津理事長所有地の一部分で、青山寮のために無償で使用を許されたものだった。移築にあたり学校では父兄からの寄付(約2万円)を得て、これを移築の費用に充てたが、別に理事長からは校長ほか付添教師のための教室の建築費を寄贈されている。  建築が古めかしいとは言え、築後70年程度ではまだまだ居住に耐えるはずであったが、寮のある軽井沢東端は夏期の極端な多湿気象、冬期の寒冷と積雪などの自然条件に加えて、年間約10ヶ月ほどは無人という利用状況の故もあって老朽化がはげしく、毎年手入れのためにかなりの費用を必要とした。その上に、保健所、消防署からは新時代に相応した設備の充実が求められるようになって、その場しのぎの対応は許され難くなっていた。  1974年の記録に青山寮をどうするかという教師会の記事がある。議論の設定がはっきりしなかった為に、話は散漫となり、明確な論議にならなかった。しかし、正田学長・校長の考えの中では、当時の学園の財政状況――物価高騰で支出が増大する一方で、容易に学費が上げられぬ事情――の中で、青山寮問題をどう処理すべきなのかを模索しておられたようである。根津副理事長とも内々の相談をされていたと思われる。  1976年3月、学園長から老朽した青山寮のためにいつまでも軽井沢の土地を使い続けることをやめてこれを根津家に返還し、新しい場所に寮を作りたいという話が切り出された。そしてその1ヶ月後には青山寮移転先の第一候補地が奥日光であることが表明され、移転話はにわかに具体的な段階に入った。  候補地については東武鉄道の不動産部が関与しており、東武が旅館を持っている光徳沼近辺が第1に挙げられていた。奥日光は旧制創立後の第5年目から昭和5年度以外の10夏にわたり山上学校を行ったところで、立地条件としては申し分なかった。[注:この時の山上学校は日光湯本の旅館を借りて行われた。例外の昭和五年は旅館が火災で建て替えとなり、やむなく軽井沢の夏期大学で行った]ただ、山上学校の運営形態が変わって、10数人ずつの班単位で山歩きなどをする方式になっていたので、奥日光周辺の山は標高の上でも、ルートの難易度や天候条件の上でも、1000メートルを僅かに越す程度の軽井沢周辺より危険は多いと思われた。そのことが、活動内容にかなりの制限を与えることだけは分かっておく必要があった。  実は、奥日光について、筆者はこの時から約20年前の1955年頃に、武蔵山岳部の山小屋を建てることについて、東武鉄道におられた先輩から候補地などの紹介を頂いた経験があった。はじめは光徳沼近辺、小田代近辺の何処でも、気に入った場所ならよかろうと告げられて実地を見て歩いたが、いざ本格的に話を進める段階になったところ、奥日光は国立公園中でもとくに規制がきびしく、原則として新築は禁止であること、さらに、附近唯一の水源地の水利権は、戦場ヶ原にある開拓村と東武鉄道のホテル[当時はまだ山小屋程度のものだったが]とが持って居り、割り込む余地がないことが分かり、計画は消滅した。そのような経験を持つ筆者には、その頃と全く同じ状況のままの光徳付近に武蔵が寮を持つことは、ほぼ不可能であると思えた。その旨を正田先生にも説明したが、先生は話の次第では道が開けるのではないかとして、なお、旧父兄の縁故を頼って交渉を続けられた。そして、この年10月、環境庁の許可が下りないことが明確となり、計画は白紙に戻った。  候補地探しは続行され裏磐梯の檜原湖周辺、同沼尻付近、安達太良山東面の岳温泉近辺などを岡学長、大坪校長、と事務局長、財務部長同道、東武側の案内で歴訪した。しかし、何処の場所もわれわれが考えている武蔵の寮のイメージとはまるで合致しなかった。12月に入り、赤城の大沼湖畔に東武の旅館(黒檜莊と呼ばれた)があり休業中であること、この施設を含め周囲の県有地を借地することが可能との話があり、取りあえず都合のつく3人(大坪、高久、志村)だけで現地を訪れた。会社や学校の寮が立ち並ぶ厚生団地から離れて、立地条件は申し分なかった。ただ、カルデラを囲む外輪山はごく小ぢんまりとまとまっていて、いささか箱庭的にも見え、避暑地としては最高でも生徒たちの活動の場としてはやや物足りぬ感もあった。学園長にはこの感想を伝え、最善とは言わぬが次善の候補地であろうと報告した。  年が明けて、学園長、学長が赤城を視察、候補地をほぼここに定めて話を進めることになった。此の問題についての最終的な詰めは、1月半ばに根津氏と学園長との間で行われ、両者ともに多少の含みを残しつつも、話はほぼまとまったようであった。  この話と同時進行で、学園内では再編事業にもれた大学関係施設(図書館、研究棟、中・小講堂など)を、更に充実したいとする要望について、意見がまとめられつつあった。1975年11月の着任以来1年余となった中村新一専務理事が学園長を補けて、大学側の意見を調整し、試案が固まったのが1977年3月半ばで、その直後に私達は正田学園長の急逝に遇った。そして私たちは、その日から先生の学園葬を終えるまでの10日間、ただ無我夢中で過ごした。それが終わって、どっと疲れが出た。  正田学園長没後、岡学長が学園長事務取扱を1年間つとめ、1978年4月、太田博太郎氏が第2代学園長に就任した。青山寮問題は新学園長に引き継がれて、約2年半後、1980年12月に赤城青山寮が竣工した。昭和12年、当時の父兄多数の拠金によって建てられた旧青山寮を、根津家、学園双方の事情が重なって廃棄せざるを得なかったことへの償いの意味も込めて、新寮は根津理事長の厚志により学園に寄贈された。しかし、これらのことは次の校務記録で記されるはずの内容である。  【写真:正田建次郎学園長の書。『武蔵七十年史』に掲載】
2020.08.20
四大学オートバイレースのこと
武蔵大学OBへのインタビュー記録
インタビュー実施日:2019年(平成31年)3月28日   大久保:  本日は、1回生の小林隆幸先輩と、プレメディカルコース2回生の宮崎秀樹先輩から、1952年(昭和27年)に開催された四大学オートバイレースについてお話をお伺いするのが趣旨ではありますが、お二方とも大学の草創期を体験されておられます。せっかくの機会ですので、本題に入る前に、どういう動機で武蔵大学を選ばれたのか、また、学生生活はどのようなものだったのかについて、先にお伺いしたいと思います。   潜越ですが、私は20回生で、経済学部単学部の最後の募集年となる昭和43年の入学でした。すでに、入学定員は、経済学科と経営学科で計400名になっておりましたが、それでも、建物の多くは木造で質素、女子学生は大学全体でも20名程度しか在籍していなくて、男子校というイメージが濃かったように感じます。18歳人口に占める大学進学率は、25%程度になっておりましたが、先輩方が新制の大学に入学された時代(経済学科のみ、入学定員は120名)の大学進学率は10%以下であり、大学生がエリートと呼ばれた時代かと思います。    まず、1回生の小林先輩からお伺いします。先輩は、1932年(昭和7年)生まれ、ご出身は東京。武蔵大学経済学部をご卒業と同時に、1953年(昭和28年)に本田技研工業株式会社に入社、1959年(昭和34年)から27歳でアメリカに赴任し、アメリカホンダ設立に参画、1964年(昭和39年)には総支配人としてタイ法人を設立、営業の神様とまで言われてホンダの成長期を支えられ、1967年(昭和42年)に名古屋支店長、その後、1970年(昭和45年に)東京支店長、1977年(昭和52年)に鈴鹿製作所所長、1980年(昭和55/年)にホンダの常務取締役、1983年(昭和58年)に鈴鹿サーキットランド社長を務められました。また、大学同窓会においても、長らく副会長をされておられました。高校までは成城学園と伺っておりますが、なぜ武蔵大学に入学されたのですか。また、当時の学生生活はどのようなものだったのでしょうか。   小林:  戦後、学制改革の混乱があり、成城は、大学設立が他の四大学から1年遅れることになりました。しかし、いずれ、四大学は同じ連合大学になると聞いていたので、待っても同じだなと思って武蔵に入学した訳です。入学した当時、我々1回生は60名強くらいの人数しかいなくて、当然のこと、指導してくれる先輩などいませんよ。大学生が使う専用施設もほとんどなかったし、運動部や文化部に限らず、クラブなど何も存在しない。教職員、学生ともに、何事につけて、全部、自分達で、最初から始めるしかなかった。  私は、笹原壮介君(故人、元東北放送専務取締役、初代の同窓会東北ブロック長)と一緒に成城学園の尋常科時代からグランド・ホッケーをやっていたこともあって、いきなり、武蔵初の運動部の部長を任されたし、その後、四大学運動競技大会を仕切るとか、いろんなことをやりました。まだ、戦後間もなくのことだから、遊ぶと言ったって、お金もないし、とにかくやることがない。だけど、体力だけは、余っていたので、いつも「何か面白いことはないかな」と考えていた。お蔭で、2年、3年となるうちに、自分で計画して行動に移すということが身に付いたのと同時に、なるべくお金を使わずに目的を達成するという手法も上手くなっていった気がするね。   大久保:  次に、宮崎先輩にお伺いします。先輩は、1931年(昭和6年)生まれ、愛知県のご出身。1952年(昭和27年)3月に武蔵大学の医歯学進学課程(プレメディカルコース。以下「プレメ」と記す)を修了され、翌年1953年(昭和28年)に東京医科大学へ進まれました。東京医科大学大学院終了後の1962年(昭和37年)から、愛知県稲沢市で外科医院を開業され、1972年(昭和47年)には愛知県医師会理事、1986年(昭和61年)には日本医師連盟の推薦を得て参議院議員に初当選、以降計3回当選しておられます。  参議院におかれては、環境政務次官(1989年・平成元年)、労働政務次官(1991年・平成3年)、参議院内閣委員長、参議院議院運営委員長などを歴任されました。自由民主党の副幹事長を務められたご経験もおありですし、2004年(平成16年)から2年間、日本医師会の副会長も務められました。  医学部に進む前の受験資格としての必要な課程は、制度として、新制大学の中に置かれることになった訳ですが、学園の年史によれば、プレメ開設は、大学設立の翌年の1950年(昭和25年)4月1日(開設認可は、昭和24年7月)となっており、他方で、昭和26年5月10日にはプレメの修了者の壮行会を開催したとの記載があります。学園史の記載からは課程が1年間だったようにも思えますが、本来は2年間の筈です。そして、卒業生名簿によりますと、先輩は、プレメの2回生となっています。だとすれば、先輩は昭和26年4月入学になるのではと思いましたが、先回、お会いした折に、確か昭和25年4月の入学だと伺っております。創設期のプレメの制度がよくわかりません。実際に、どうだったのか教えて下さい。   宮崎:  認可との関係はわからないけれど、私が武蔵のプレメに入学したのは、昭和26年ではなくて昭和25年4月です。私は2回生ですから、プレメは実質上、武蔵大学開学の昭和24年当時からありましたよ。それと、課程は2年間でした。旧制高校を前身とする東京の大学の中では、武蔵と成蹊、成城にこのコースが置かれていましたが、旧制武蔵高校は有名な学校でしたからね。私が在籍した当時の教養課程のカリキュラムは、プレメも経済学部の学生も同じもので、必要な取得科目が異なっていただけでした。私の場合は、昭和27年3月にプレメを修了し、受験勉強のために武蔵大学の3年生として、更に1年間いて、昭和28年4月に医大に入学した。だから、四大学の当番校の時には、武蔵大学の学生として参加できたのです。   大久保:  そうだとすれば、新制度への移行時には良く見られますが、経過措置として、昭和24年度分の取得単位についても、認可日からさかのぼって適用されたことになりますね。それに、開設当初、学部生と同じだったプレメのカリキュラムも、制度が定着した4年後には、経済学部生とは別になったと『武蔵学園史年報』に書かれています。   宮崎:  そういえば、小林君も、最初はプレメで入学したんじゃなかったの。   小林:  違いますよ。私は、医者の道はお金もかかるしね、親にも負担はかけられない状況だったから、無理だと思ってプレメには進む気は、最初から無かった。それどころか、私は、大学に入る前から既に儲かる商売を始めていたので、大学などに行かずとも十分生きていけるという自信があった。でも、家族のほとんどが大学出だったせいもあって、母親からどうしても大学だけは出て欲しいと懇願されてね。成城時代に一緒だった笹原君の誘いもあって武蔵に入学した。   大久保:  入学当時の江古田駅は、武蔵野稲荷神社に近い踏切付近にあった時ですか。   宮崎:  神社付近だね。だから、学校までは、今よりずっと近かった。   大久保:  学生食堂ができるのは、はるか後の昭和32年9月です。お昼時間には、食事などはどのようにされていたのですか。出入りしていたお店の名前にご記憶はありますか。   小林:  私なんかは、弁当を持って来ていたよ。   宮崎:  名前は忘れたけど、学校の向かい側の桜台寄りに食堂が1つあった気がする。線路の向こうには蕎麦の「花月庵」があったね。その2階で、鈴木武雄先生にご馳走になったこともあった。   大久保:  まだ、賑やかな商店街などはなかったということですね。では、今回の本題である「四大学オートバイレース」のことについて詳しく伺いたいと思います。オートバイレースの企画は、武蔵が提案したものと伺っています。   小林:  たまたま、私の親父にホンダとのつてがあったので、オートバイなら何とかなるかも知れないと思って話をしたのがきっかけです。ホンダ初の2輪車「ドリームD型」が昭和24年(1949年)に完成し、普及し始めていて話題になっていました。   宮崎:  そうだったね。昭和27年(1952年)、武蔵が第3回四大学運動競技大会の当番校になった年(四大学がすべて揃ったのが昭和25年。第1回大会の当番校は学習院大学、2回目は成蹊大学)ですね。当時は、放課後になると、学生部でゴロゴロとしながら、先生方と話をするのが習慣のようになっていましたからね。あの時も、小林君と年齢は我々よりかなり上だったが2回生の岡崎道彦君(故人、アサヒビール入社)と、現在の大学3号館の東翼角にあった学生部の部屋で四大学運動競技大会の企画を話している中から出てきたものだったね。   大久保:  当時は、クルマの主流はオートバイだったのですか。   宮崎:  昭和27年ですよ。当時は、車(自動四輪)などは宝物に等しくて、我々に手の届くような存在ではなかったからね。だけど、当時だって、自動車部は一応あったんだよ。ただし、「オート三輪」と呼ばれたトラックでね、乗用車じゃない。活動といっても、魚卸の配達アルバイトみたいなことばかりでしたけどね。   小林:  当時は、バイクを借りるといっても、その仕組自体がないので、結局、いきなり本田技研の本社に、私と宮崎君と2回生の岡崎君の3人で行ったんですよ。その時は、四大学運動競技大会の経理を担うことになっていた同期の石田久君(故人、「益萬」代表取締役、元同窓会長)も一緒に行くはずだったが、交通事故で入院していて行けなかった。本田技研の本社は、当時は八重洲にあったのだけれど、ホンダといってもまだ今でいうところの駆け出しのベンチャー企業ですよ。昭和23年(1948年)に、浜松で自転車用の補助エンジンを製造したのが始まりだからね、それから、わずか4年後の話ですよ。  本社を訪ねたら、奥の方から藤澤さん(藤澤武夫専務、後の副社長)が出て来られて、我々の応対をしてくれた。身体の大きい人という印象だったね。いきなり「オートバイ10台、貸して下さい」と頼んだ。でも、詳しい理由を話すより前に、藤澤さんから「お前らに貸すクルマなんかあるか」とケンもホロロ、即座に断わられた。相手のことも良く知らなかったし、とにかく、学生は怖いもの知らずでしたから「すみませんが、社長(本田宗一郎氏)はどちらですか?」と聞いたんですよ。そうしたら「社長は、今、入院中だよ」と言われた。   大久保:  入院先を教えてくれたのですか。   小林:  社長の入院先なんか、教えてくれるわけないさ。でも、そんなことでは、あきらめなかったね。どうせ、こっちは暇で時間はあったからね。その足で、社長の自宅を尋ねることにしたんだよ。図々しいといえば、まあ、そうだけどね。   宮崎:  一面識もないのに、病院にお見舞いに行くことにした。でも、社長さんに変な見舞いも持ってゆけないだろうと思って、なけなしの自分の小遣いをはたいて、文明堂のカステーラ1箱を買った訳ですよ。当時は、高価なものだったから忘れないですよ。   小林:  社長の自宅まで行ったら、タイミング良く道路の前でご長男が遊んでいたので「お父さんは?」と聞くと「入院してる」。「そう、どこの病院?」という感じで、うまく入院先を聞き出せた。確か、荒川病院だったかな。   宮崎:  病院に着いて、いきなり病室をノックすると、奥様が出て来られて「何のご用ですか?」と。「実は、お願いがあります」と切り出すと、そのまま、病室の中に入れてくれた。そこで、社長に改めて遠乗りレースの企画を説明の上で、オートバイ10台を貸して欲しいとお願いした。すると、笑って「面白い。わかった、貸してやるよ」と、まさに即決だった。   小林: 「でも、今、本社で断られたばかりなのですが・・・」と伝えると、「オレが社長だ」と胸を叩いて大笑いされた。だから、我々は勇んで本社に戻りましたね。戻って、藤澤さんに向かって「貴方には断られたけど、我々は、借りましたからね」と自慢気に伝えた。   大久保:  君らは好き勝手なことをして、何だと、怒られた訳ですか。   小林:  それがさ、怒られるのかと思ったらね、藤澤さんもすごいよね。大笑いしたあと「お前らみたいに図々しいの、初めて見た」と、とても喜んでくれたんだよ。   宮崎:  本当、あれには、びっくりしたね。怒らなかったんだよね。   大久保:  四大学運動競技大会のバイクレースとなっていますが、大学間で競って到着順位を決めることが趣旨だったのですか。また、何故、名古屋までだったのですか。都知事のメッセージを届けるという企画は、後から、追加したものですか。   小林:  レースとはなっているけれども、競争をして順位を決めるという性格のものではなかった。各校、2名を選抜して、名古屋まで四大学が協力してメッセージを届けに行くことが趣旨だった。東京・名古屋間となったのは、遠乗りバイクレースの話を進める過程で、当時の鈴木武雄経済学部長(後に学長)が我々を心配して下さり、懇意にされていた中部経済新聞社社長に協力をお願いしていただけるということになったからです。  でも、都知事のメッセージを持ってゆくというのは、我々学生の企画です。新しく知事制度ができた記念に、安井誠一郎東京都知事のメッセージを、桑原幹根愛知県知事と小林橘川名古屋市長に届けよういう企画にしたんですよ。   大久保:  実際に、お借りしたバイクの型式名は何だったのですか。運転免許は、既に、持っておられたのですか。下見の段階からバイク10台とも、長期間借りたのでしょうか。コースの下見は、実際にどなたがされたのですか。   小林:  借りたのは、ホンダ・ドリームだよ。下見の時には、私は運転免許を持っていなくて、この企画の本番に間に合うように、後から取った。   宮崎:  既に運転免許を持っていたのは私と岡崎君だったので、コースの下見はこの二人で行った。成増のホンダの工場で、先ず2台を借りて、道路状況や、食事、宿泊先などの調査をしました。だから、下見と本番と合わせると、我々は、東京一名古屋間を2往復したことになる。   大久保:  本番での武蔵の運転者はどなただったのですか。   宮崎:  本番では、各校2名、往復とも原則同じ人物が運転した。でも、当番校の武蔵だけは3人で、私と岡崎君、そして、実行委員長だった小林君。   大久保:  実際、どの位のスピードで走ったのですか。道路状況が良くなかったでしょうから、せいぜい時速60キロ程度ですか。   小林:  いや、150cc程度のエンジンだったけど、本番では、最高で時速100キロ位では走りましたよ。バイクの能力自体は、もう少しスピードは出たと思うけどね。でも、今のような舗装された平らな道路を走る訳ではないんですよ。当時、国道1号線と言っても、三島までは、一応、舗装されていたけど、そこから先は、ひどかったからね。砂利道だからね、穴だらけだよ。  東京・名古屋間は、約360キロだけど、高速道路などないし道路はガタガタだし、長距離ドライブなんか普通は考えませんよ。ましてや、こちらは免許も取り立てだし、名古屋まで行くのは、私は出かける前に怪我をしていたこともあって、それこそ命がけだった。  それに、バイクを借りたといっても、当時は、まだ、長距離をちゃんと走れるのか、大丈夫なのか保証がない時代だったんだよ。帰り路では、怪我に加え夜道走行になっていたせいもあって、私は、途中で運転を交代してもらったくらいだから。   宮崎:  小林君の乗ったバイクなんかは、軽く30メートルくらいバウンドして飛んだね。そのはずみで、車輪が壊れたりしたね。カーブで曲がり切れずに、垣根を飛び越えて、街道脇の人家に飛び込む者もいた。前をトラックでも走ろうものなら、土埃で、先が全然見えなくなってしまうからね。   大久保:  途中の、給油はどうされたのですか。   宮崎:  結構、燃費は良かったと思うね。正確な記憶はないけれど、片道で1度くらいの給油で済んだと思う。   大久保:  往路、宿泊地となる浜松では、浜松工場にも立ち寄ったと記録にありましたが、宿泊地に設定したことという以外に、修理か何かで立ち寄る必要があったのですか。   宮崎:  浜松にもホンダの工場があったからで、特に、修理のためというつもりはなかった。けれども、結果的には、浜松工場でバイクの整備もしていただきました。   大久保:  当時のお金で、どのくらいの予算がかかったのでしょうか。目安になるような数字を、概算でもご記憶がございますか。   小林:  石田久君がいれば何か残してくれているかとは思うけれど、もう、記憶はないね。   大久保:  四大学運動競技大会の開会式は、1952年(昭和27年)7月5日ですが、バイクレースの実施時期は、11月9日から12日の4日間の開催だったと書かれております。結果として、レースは、どういうスケジュールになったのですか。   宮崎:  11月9日(1日目):午前8時に、朝日新聞社前をスタート           タ方4時過ぎに、ホンダの浜松工場に到着。浜松市内にて1泊  11月10日(2日目):午前8時に浜松を出て、お昼頃に、愛知県庁に到着            ミス名古屋からの「花束贈呈」           愛知県知事、名古屋市長と東京都知事の「メッセージ交換」           夜は、中経グリルにて中部経済新聞社主催の「歓迎パーティ」           名古屋市内にて1泊  11月11日(3日目):早朝ではないが午前中に名古屋を出発、往路と同じメンバーの運転で帰路に着く。           暗くなってから、沼津市内にて1泊  11月12日(4日目):武蔵には集合はせず、各自、大学に戻る。           後日、集まって、10台すべてを成増工場に返却。   大久保:  すでに寒い時期だったと思いますが、どのようなバイク・ウェアだったのですか。   宮崎:  ウェアなんてしゃれたものではないよ。格好はね、テレビ番組で流行った「月光仮面」そのものだよ。「ツナギ」が出回った頃だったので、これを着て、寒さ予防に腹に新聞紙を巻いて、土ぼこりを防ぐために、顔を白いマフラーで覆ったんだよ。私は、ポケットにウィスキーの瓶と、草鞋(わらじ)みたいな硬いトンカツを入れて、飲みかつ食べながら走ったんだよ。飲酒運転をしても、違反にならなかった時代だからね。11月上旬は、今よりも気温は低かったからね。   小林:  私は、お酒なんか飲んでませんよ。運転に必死でしたからね。   ↑ レース開催中の光景写真(『武蔵七十年史―写真でつづる学園のあゆみ』所収)     ↑ オートバイレースの学生が名古屋市役所前に到着した時の写真(『武蔵七十年史―写真でつづる学園のあゆみ』所収)   大久保:  大怪我をするかも知れない企画だったようにも思えますが、他大学の学生も参加するので、大学から企画を考え直せというようなことはなかったのですか。   小林:  武蔵という学校は、無茶とも思えるような我々の発想を、鈴木武雄先生、波多野真先生をはじめ多くの先生方が心底、成功するように応援してくれたんだよね。中部経済新聞社と名古屋タイムス社には主催の承諾交渉をしていただいたり、本田技研工業の後援を取っていただいたりと。だから、我々学生の方も、実施に向けて必死ですよ。四大学との協議、知事のメッセージの依頼、下見、宿泊を含むスケジュール調整まで、事前に準備しなければならないことは色々あった。   宮崎:  誰も考えないような企画を自分達で考えて、四大学をリードして、1名の落伍者もなく無事に最後までやり遂げた訳だけれど、あの当時、それができたのは、武蔵だけじゃないかと思うよ。とにかく大変な思いをしたけど、やって良かったと思うね。今の時代、あんなことやれと言われてもできないだろうからね。  2日目の夜の中部経済新聞社主催の「歓迎パーティ」には、大学から汽車で駆け付けた鈴木学部長をはじめ、四大学の新聞部の仲間なども参加した。終了後、酔った勢いで、名古屋の花柳界隈をバイクで走り回る者もいた。当時は、まだ、車がほとんど走っていなかった時代だからね。   小林:  歓迎パーティの時だけじゃなくて、鈴木先生も、波多野先生も、途中の箱根で手を振ってくれていましたよ。嬉しかったね。   宮崎:  武蔵が主催したこの第3回四大学運動競技大会には、当時、学習院大学の1年生でおられた皇太子殿下(明仁親王。のち、2019年4月末に生前退位され、上皇となられた明仁天皇)が、武蔵大学を訪れて競技をご覧になった後、光栄なことに、我々四大学の役員と歓談する機会に恵まれました。これも、自慢できる思い出になっていますね。   小林:  結果として、この行事はその後の我々の自信にも繋がっていきました。また、これはまったく個人的な話ではあるけれど、私は、この縁で、藤澤さんから明日からでもすぐに会社に来いと強い誘いを受けた。結局、断わり切れないまま、当時はまだ小さな会社だったホンダに入社することになった。学校では、最初の卒業生でもあり、古河電工への就職を用意して頂いていたようです。しかし、その事実は、卒業と同時にホンダに入社するという意思を藤澤さんに伝えた後から知った。  でもね、こういう自分達の話より、私が一番強調して言いたいことは、「武蔵」という学校は、学生が実行したいということを、何をおいても教職員が全力で応援してくれた学校だったということだよ。そのまま仕事に生かせる教育でもあったし、本当に、世話になったという気持ちだよ。今でも、心底、そう思っている。無事故で怪我人もなく、あの行事を終えられたのも、まさに「武蔵」だからこそできたことなんだよ。  だから、後輩の若い皆さんが望むなら、我々が「武蔵」で受けた教育と、それがその後の自分の仕事にどう生かされたのかという経験を直に話をして伝えたいと、何時でもそう思っていますよ。もっとも、元気なうちだけどね。   宮崎:  書いて残されている話は、どうしても、きれいごとが多いもの。肝心な本当の話は、あまり表には出ないことが多い。だから、あのバイクレースに限らないけれども、困難な課題を数多く乗り越えてきた経験者の話というのは、人が生きてゆくための知恵として、とても参考になるはずだと思いますよ。   大久保:  本日は、お昼からの同期会の終了後、お疲れのところ時間を割いていただきまして、本当に有難うございました。1時間半も経ってしまい、すっかり酔いが覚めてしまったのでありませんか。   小林:  いや大丈夫、これから、また、飲めばいいんですからね。じゃあ、お先に失礼しますよ。     おわりに:  インタビュー時、お二方とも90歳を目前にされておられましたが、兎に角、お元気でした。  この記録は、四大学オートバイレースを企画された1回生の小林隆幸氏(旧姓:迫田)とプレメディカルコース2回生の宮崎秀樹氏に、2018年(平成30)年5月11日にお顔合わせいただいた上で、改めて2019年(平成31年)3月28日にインタビューさせていただいた折の話を基にしております。  なお、お二人との顔合わせとインタビュー時には、8回生の松山孝氏、12回生の木村重紀氏、21回生の坂田光司氏(大学同窓会事務局長)にもご協力をいただきました。深く、感謝申し上げます。  また、過去に掲載されました大学同窓会報創立30周年記念特別号の「遠乗りオートバイ競技会の回想」(宮崎秀樹氏筆)、大学創立40周年記念誌『VOIR』の「四大学オートバイレース」(小林隆幸氏筆)、「駆け抜けたホンダウェイ」(小林隆幸氏著)の「ホンダ前夜」、および『武蔵七十年史―写真でつづる学園のあゆみ』の同関連記事、『武蔵学園史年報』第16号の「医歯学進学課程修了者座談会」などの記事を参考に、事実関係をお二人に確認させていただきました。 (大久保 武)
2020.07.30
武蔵学園構内で確認された疥癬タヌキと2017~2018 年のタヌキの生息状況
要旨  2018 年3 月に武蔵学園構内(東京都練馬区)でハクビシン捕獲用の箱罠に疥癬とみられるタヌキが混獲された。この個体は構内に生息するタヌキとは明らかに別個体で学外から迷い込んだものと考えられる。2017 年秋から2018 年秋までの構内のタヌキの生息状況は,1 頭での目撃情報が続き,ため糞場の利用も僅かだった。2018 年8 月上旬にため糞場を利用するタヌキがセンサーカメラにより撮影されたものの,下旬に構内で1 頭の死体がみつかった後,現在まで目撃情報はない。また構内の大規模工事に伴うタヌキの生息場の環境変化について記録した。   Keywords: 練馬区,ホンドタヌキ,疥癬,箱罠,目撃情報,センサーカメラ,たぬきマップ 【武蔵学園記念室より:この文章は、『武蔵高等学校中学校紀要』第3号(2018年12月刊)に掲載されたものである。近年の武蔵学園のキャンパス敷地の動向を、多くの人に知っていただく好適な文章として今回、当サイトに掲載させていただいた(掲載にあたって、一部の図版の位置を変更している)。今回、転載を快く認めていただいた紀要編集委員会と、著者の白井亮久先生に、記して御礼申し上げます。】    はじめに  タヌキNyctereutes procyonoides は世界に1 属1 種しかいない東アジアに自然分布するイヌ科で(佐伯,2008),東京都区内に生息する唯一の在来中型哺乳類である。近年,都心にすむタヌキの食性や行動様式などの研究がされているが,捕獲された個体についての情報はそれほど多くない(Endo et al. 2005;小泉ほか,2017)。東京都練馬区に位置する武蔵学園構内には20 年近く前からタヌキが生息しているとされており(白井,2017),2018 年3月に疥癬とみられるタヌキが確認されたため,記録として報告する。  加えて,白井(2017)による2016 年4 月~2017 年9 月までの武蔵学園構内のタヌキの生息状況の続報として,それ以降の2017 年10 月~2018 年9 月までの生息状況と,センサーカメラを用いたため糞場での行動観察,構内の改修工事に伴うタヌキの生息場所の環境の変化も合わせて記す。   図版1 学内地図(武蔵たぬきマップ2016 をもとに) ↑ 図.2017 年から2018 年にかけての構内のタヌキの生息と環境の改変 白井(2017)の「武蔵たぬきマップ2016」を改変して加筆。2017–18 年の出来事を赤字で示した。     武蔵学園構内で確認された疥癬のタヌキ  2018 年3 月14 日深夜1 時半ごろ,武蔵学園構内の9 号館裏(地点A)のハクビシン捕獲用の箱罠に疥癬のタヌキが混獲された(前掲の図版1,文末の図版2 A–B)。巻尺と上皿自動秤により計測したところ,およそ34cm 程度の大きさで体重は3.25kg の若い個体だった(腹部に陰嚢のような膨らみが確認できたが性別は不明)。頭部と尾部,四肢に毛はあるが首部から胴部にかけ完全に脱毛していることから疥癬に罹患していると考えられた。ライトで照らしても暴れることなくじっとしていた(文末の図版2 C)。巡回中の警備員によると0 時前後には入っていなかったため,箱罠に入って間もないと考えられる。  今回疥癬のタヌキが混獲された箱罠は,本学園の施設課により建物内に侵入するハクビシンの糞尿被害の対策のために業者に依頼して設置されたものである。2015 年12 月頃からハクビシン駆除を目的として構内に複数個所設置され,踏み板式の片側扉の箱罠(W260✖H300✖D820mm)で,誘引餌はリンゴやオレンジなどが用いられる(文末の図版2 A–C)。  ハクビシンが捕獲された場合(文末の図版4 B)は業者に引き渡されるが,ハクビシン以外の動物(鳥類やネコ,タヌキなど)が混獲された場合は,仕掛けを外し逃がすことになっている。疥癬のタヌキの計測と観察ののち,2 時半ごろ箱罠から逃がしたところ大学正門方向に駆けていった。その僅か約15 分後の2 時45 分に大学図書館脇の側溝付近(地点B)で再び1 頭のタヌキが目撃されたが,その個体は全身に毛が生え(文末の図版2 D),逃がした疥癬のタヌキとは明らかに別個体と確認できた。地点B はこれまで高頻度でタヌキが目撃されることから寝床に近いと考えられており,疥癬,あるいは脱毛の個体は2016 年春から現在まで構内の100 件近い目撃情報やセンサーカメラで確認されたことはない(白井,2017)。このことから今回みつかった疥癬のタヌキは偶発的に学外から入り迷い込んだものと考えられる。  疥癬はセンコウヒゼンダニSarcoptes scabiei の寄生によるイヌとの共通の疾病で,宿主の皮膚内に穿孔して脱毛を引き起こし,皮膚が肥厚・象皮様化して衰弱させる(鈴木ほか,1981;落合ほか,1995)。罹患した個体は二次感染などにより死亡し小さな個体群では絶滅に追い込まれることもある(谷地森・山本,1992)。野生のタヌキの疥癬の拡大には人間による餌付けとの関連が指摘されており(金子,2002;松尾ほか,2015),安易な給餌は禁物である。疥癬は主に接触感染で広がることから,野外で飼育されるペットと双方向での感染が起こりうるが,ペットからタヌキへの伝染が多いともいわれ(山本,1998;松山ほか, 2006),武蔵学園構内に生息するタヌキへの感染も懸念される。増井(1984)はタヌキの体重は冬に増え春先に減るというデータを示しており,今回混獲された個体の3 月に3.25kgという体重は生まれて一年に満たないとしても栄養状態が悪く,疥癬の影響もあるかもしれない。   2017 年秋から一年間の構内におけるタヌキの生息状況と環境の変化 ・生息状況(目撃情報,フィールドサイン)  前報【編者注:『武蔵高等学校中学校紀要』第2号(2017年12月刊)に掲載された、白井教諭の文章を指す。表題は文末の「引用文献」を参照】の2017 年3 月から現在まで,断続的に1 頭での目撃が続いている(目撃31 件:2017年10 月3 件,11 月2 件,12 月3 件,2018 年1 月1 件,2 月1 件,3 月6 件,4 月2 件,5月3 件,6 月6 件,7 月3 件,8 月1 件)。目撃場所の多くは大学図書館脇の側溝で(文末の図版2E,地点B),今回新しく目撃された場所は高中旧理科棟裏の標本庫前である(文末の図版2 F.ただしそれらの建物は2018 年8 月に解体され,現在はない)。2018 年4 月と5 月に濯川の玉の橋下の排水路でもタヌキの足跡が確認されたものの,その後はみつかっていない(前掲の図版1)。1 頭での目撃は2017 年3 月から1 年以上続いているが,つがいや親子での目撃情報はなく,2016 年夏に幼獣が確認された以降,2 年間幼獣がみつかっていないことから,この2 年間は構内では繁殖していない可能性が高い。   ・ため糞場の利用とセンサーカメラで撮影されたタヌキ  2016 年11 月以降(白井,2017),現在までため糞場3 地点の使用はまれで,本報告の調査期間中ため糞場MG-1 でのみ(前掲の図版1),少なくとも11 日間のため糞場の利用が確認された(2017 年10 月1 回,2018 年6 月1 回,7 月6 回,8 月3 回)。  2018 年8 月初旬にため糞場MG-1 において一晩で2 回のため糞場の利用があり,その様子をセンサーカメラで動画撮影した(文末の図版3)。8 月9 日20 時頃,1 回目となる1 匹のタヌキが現われ,排糞をして立ち去った。その約30 分後に再び別個体と思われる1 匹のタヌキが現れ,排糞をした。山本(1984)は,ため糞の交換や移動などの操作をした後の飼育個体の行動観察から,自分の糞,血縁関係のある個体の糞,見知らぬ個体の糞と遭遇した際に,「糞の臭いを嗅ぐ時間」が順に長くなることを報告している。今回,残念ながらセンサーカメラでは,臭いをかぐ行動の途中からしか撮影されておらず定量的なデータは得られなかったものの,短時間の内に同一個体がしっかりとした排便をすることは考え難いことや,体毛の模様が異なるように見えることから,別個体の可能性が高い。そうであるならば,目撃は1 頭であるがその期間は構内には単独で行動する2 頭がいたことになる。同様に翌10 日20 時頃にも短時間のうちに2 回の別個体と思われるタヌキの訪問と排糞が撮影された。今回撮影されたため糞場での行動はおおよそ田中ほか(2012)で報告されている里山のタヌキの例と類似していた。そのほか排糞中とその前後に鳴き声を発し,何らかのコミュニケーションとみられる行動も確認できた。  なお,今回センサーカメラでの排糞時刻とその後の目視での観察から,夏場にされた糞は糞虫等により分解が非常に早く1–2 日程度で形を留めず失われてしまうことが分かった。平沢(2006)で指摘されている通り,夏場でのサンプリングは迅速に行うべきだといえる。   ・ハクビシン用の箱罠に混獲されたタヌキ(2017 年12 月)  2017 年12 月10 日に大学2 号館裏(地点C)でハクビシン捕獲用の箱罠にタヌキが混獲された(前掲の図版1,文末の図版4 A)。この個体は疥癬ではなかった。この場所は警備員の巡回ルートではあるが,これまで目撃情報がなく(白井,2017),タヌキは決まったルートを通ることが多いとすると,この個体も偶発的に学外から入ってきた可能性がある。その後,警備員により箱罠の仕掛けが外され逃げていった。  構内の箱罠は前述のようにハクビシン駆除のために2015 年頃から業者により設置されたものである。構内でタヌキの目撃情報が100 回近くあり頻繁に活動していたとされる2016 年度であっても箱罠に混獲されることはなかった。これらの事をあわせて考えると,武蔵学園構内に生息しているタヌキは箱罠に入りにくく,偶発的に学外から入り込んできたタヌキが箱罠で入るということがあるのかもしれない。   ・9 号館裏のU字溝で見つかったフィールドサイン  2017 年12 月28 日に9 号館裏(地点A)のU字溝付近を探索した(前掲の図版1,文末の図版5 A)。この場所はため糞場MG-1 に近く,センサーカメラでもタヌキとハクビシンが良く撮影されている(白井,2017)。U 字溝のコンクリート蓋を外したところ,動物の骨や噛み跡の付いたマヨネーズ容器や硬式テニスボールが確認された(文末の図版5 B–F)。タヌキは寝床付近で遊ぶことから(盛口,1997),通り道(パス)としてだけなく寝床としてこの付近を利用している可能性もある。   ・高中グラウンド脇でみつかったタヌキの死体(2018 年8 月)  2018 年8 月27 日に高中野球グラウンド脇の側溝でタヌキの死体が見つかった(地点D,前掲の図版1)。集水桝からU 字溝に体を半分出した状態でみつかり,異臭が強く全体に蛆が付着し,既に頭部の大部分が白骨化していた(文末の図版4 C–D)。発見場所付近で普段活動している複数の野球部員への異臭の発生時期の聞き取りから,少なくとも死後1 週間近く経っているとみられた。腹部の内臓もほとんど失われ四肢の一部が欠損していた。頭胴長45cm 程度の比較的若齢個体で,全身に毛があり疥癬ではなかった。今回死体が発見された地点D の集水桝は2016 年7 月に幼獣が見つかった場所でもある(白井,2017:図版2)。しかし,それ以降その場所で成獣も幼獣も見かけることはなかった。U字溝はグレーチング(溝蓋)があり,集水桝に繋がる排水溝などを行き来していた結果,何らかの理由で死んでしまったと思われる(文末の図版4 D)。なお,死体は後日骨格標本として登録番号を付して武蔵高等学校中学校標本庫に収蔵される予定である。   ・工事に伴う環境の改変(2018年4 月~)  これまでタヌキが確認されている場所は,現在進行中の高中エントランス部の工事や学園の改修等の工事に伴い環境が比較的大きく変化している(前掲の図版1)。通り道,あるいは寝床に近いとみられる9 号館裏の喫煙小屋付近(地点A)は,2018 年4 月に喫煙所が撤去され,タヌキが通ることもある冷却塔がみえる開放空間になった。2018 年7 月より東門~高中エントランス部と軟式テニスコートなど整備のために,旧理科棟の裏の雑木林が消失し,濯川の玉の橋下流の排水路の暗渠化が進んでいる(エントランス部工事エリア)。それらの場所は目撃情報やセンサーカメラでの撮影,足跡などのフィールドサインが確認され(文末の図版3 E–F),冬季の餌資源となりうる果実の樹木も含んでいる場所である(白井,2017;飯島ほか,2018)。さらに2018 年8 月に大学図書館の空調整備のために3 号館中庭の一角に室外機の集中的な設置場が設けられ,ため糞場のひとつMG-3 と獣道が消失した(室外機設置エリア)。  このように構内のタヌキを取り巻く環境は急変しつつあり,今後タヌキの生活は変化すると思われる。岩本ほか(2012)は河川改修工事に伴うタヌキの行動変化を調べ,元の生息地への高い固執性や順応性を示している。タヌキは環境変化に柔軟に対応し都市に生息する唯一の在来食肉目といわれており,今後の構内での行動の変化から都市に生きるタヌキがどのように開発や環境改変に対応するのかに注目したい。   今後の展望  2018 年9 月以降,目撃情報やフィールドサインで構内のタヌキの確実な生息情報はないものの,今後の研究課題を記しておく。タヌキの個体識別やそれに基づくため糞場での行動観察,武蔵学園という都市の小さな孤立林にすむタヌキの食性の長期的な経年変化や,構内に同所的に生息する同じ食肉目のハクビシンとの食性や行動の比較,ノネコとの種間関係,タヌキの糞に集まる糞虫やハネカクシなどの訪糞昆虫調べなどがある。武蔵学園には食物連鎖の高次消費者であるタヌキを育めるだけの自然があり,タヌキを通してそこに生息する生き物たちの営みをみつめていきたい。   謝辞  前報(白井,2017)に引き続き目撃や箱罠に入ったタヌキの情報の提供は,内海幸哉さん,池原 満さん,蛭間一也さん,亀井哲夫さん(当時含む)はじめ武蔵学園守衛所の警備員の皆さんにお世話になった。本校生物部の部員には実地調査にご協力頂いた。本校英語科の楠部与誠さんとK. Bergman さんには英語表現について校閲頂いた。武蔵学園施設課にはハクビシン駆除用の箱罠の設置について教えて頂き,武蔵大学図書館の閲覧係の方々には文献の取り寄せで大変お世話になった。記してお礼申し上げる。本研究には,本校の個人研究費(2017–2018 年度「使える標本庫を作りつつ,研究する」)の一部を使用した。   引用文献 Endo, H., Hayashida, A. and Uetsuka, K. 2005. Pathological examination of a raccoon dog introduced to the Akasaka Imperial Gardens, Tokyo, Japan. Memoirs of the National Science Museum 39:47–53. 平沢瑞穂.2006.種子を運ぶタヌキ 東京郊外にすむタヌキの糞を分析して.どうぶつと動物園662:78–81. 飯島昌弘・斎藤昌幸・白井亮久.2018.武蔵学園に生息するタヌキの外食率を探る―東京都区部の狭い孤立林内の二つのため糞から出現した種子と人工物に注目して―.武蔵高等学校中学校紀要3:57–80. 岩本俊孝・傳田正利・三輪準二・竹下 毅・白石幸嗣.2012.河川改修工事にともなうホンドタヌキの行動変化に関する研究.宮崎大学教育文化学部紀要自然科学.25/26:1–17. 金子弥生.2002.タヌキ.フクロウとタヌキ(林良博・武内和彦,編),pp.77–144.岩波書店,東京. 小泉璃々子・酒向貴子・手塚牧人・小堀 睦・斎藤昌幸・金子弥生.2017.東京都心部の赤坂御用地におけるタヌキのタメフン場における個体間関係.フィールドサイエンス15: 7–13. 増井光子.1980.島のタヌキ.自然417:45–51. 増井光子.1984.小島のタヌキは個性的.アニマ140:76–82. 松尾典子・谷口裕子・大滝倫子.2015.動物疥癬の1 家族例—タヌキから感染した飼いイヌとの接触により発症.臨床皮膚科69:431–434. 松山淳子・畑 邦彦・曽根晃一.2006.鹿児島県におけるホンドタヌキの食性.鹿児島大学農学部演習林研究報告34:75–80. 盛口 満.1997.タヌキまるごと図鑑.大日本図書株式会社,東京.32pp. 落合啓二・石井睦弘・平岡 考.1995.千葉県のタヌキおよびタヌキ以外の野生哺乳類における疥癬の発生状況.千葉県立中央博物館自然誌研究報告7:89–103. 佐伯 緑.2008.里山の動物の生態-ホンドタヌキ.日本の哺乳類学2􀀃 中大型哺乳類・霊長類(高槻成紀・山極寿一,編),pp. 321–345.東京大学出版会,東京. 白井亮久.2017.武蔵学園構内におけるホンドタヌキの生息状況~“守衛さん”の巡回による目撃情報と痕跡調査に基づく2016 年度の記録と過去の聞き取り調査~.武蔵高等学校中学校紀要2:33–80. 鈴木義孝・杉村 誠・金子清俊.1981.岐阜県下の野生タヌキにおける疥癬症の蔓延について.岐阜大学農学部研究報告45:151–156. 田中 浩・相本実希・細井栄嗣.2012.ためフン場におけるタヌキの行動について.山口県立山口博物館研究報告38:51–58. 谷地森秀二・山本祐治.1992.八王子周辺のホンドタヌキの繁殖年周期と脱毛個体―聞込み及びアンケート調査から―.自然環境科学研究5:33–42. 山本伊津子.1984.ためふんの意味を探る タヌキの共同トイレ.アニマ140:71–75. 山本祐治.1998.ペットの病気がタヌキをなやます.タヌキの丘(小川智彦,著).p.39.フレーベル館,東京.   図版(2から5まで)一覧 (撮影者の記載のないものは,全て著者による撮影) 図版2 箱罠に入った疥癬タヌキ(A–C)と,構内で目撃されたタヌキ(D–F) ↑ A: ハクビシン用の箱罠の設置状況   ↑ B: 混獲された疥癬タヌキ   ↑ C: 疥癬のタヌキ(体重3.25kg) 誘引餌のオレンジが写っている(2018 年3 月14 日2 時26 分)   ↑ D: 大学図書館の中庭側の側溝で確認されたタヌキ 全身に毛があり,直前に見つかった疥癬個体 (上記のC)とは別個体であると分かる (2018 年3 月14 日3 時33 分,発見は2 時45 分) ↑ E: 大学図書館の中庭側の側溝で目撃されたタヌキ(2018 年5 月10 日 20 時45 分)   ↑ F: 旧理科棟裏の標本庫前で目撃されたタヌキ (2018 年6 月3 日 1 時22 分,守衛所 亀井さん撮影)   図版3 ため糞場MG-1 での排糞行動 ↑ ため糞場MG-1 で糞をするタヌキ(A)と,  ↓ その約30 分後に糞をするタヌキ(B). (黒矢印は1回目の糞で,灰矢印は2回目の糞)   説明:センサーカメラで撮影された2018 年8 月9 日夜の2 回のため糞場の利用。排糞前にその場の臭いを嗅ぎ,既に糞がある時には少し離れたところにする(A とB)。1度の排糞は2~4 回に分けられ,結果的に数個にみえることもある。糞便前後で高い鳴き声を発し,排糞中は体を反らせ遠吠えのようなしぐさをしていた。排糞後は速やかにその場から離れる。体毛の模様が異なる別個体に見えるが判定は難しい。増井(1980)の野外観察による,個体により毛色の濃淡の違いがあることや,雌雄の区別として排尿時にオスは片足を上げ,メスは跨ぐように行うことは,今後の個体識別の参考になるかもしれない。   図版4 生息状況(箱罠,死体,消失した場所) ↑ A: 4 号館裏(地点C)の箱罠に混獲されたタヌキ (2017 年12 月10 日,守衛所 蛭間さん撮影)   ↑ B: 高中保健室前の箱罠で捕獲されたハクビシン (2016 年2 月26 日,施設課撮影)   ↑ C: 見つかったタヌキの死体(左が頭部,体長は50cm 程度) ( 2018 年8 月27 日)   ↑ D: 死体が発見された場所  左が濯川,右が人工芝のグラウンド。矢印が発見場所の集水桝 ↓ E・F: 改修工事で消失した場所で撮影されたタヌキ(撮影は2017 年夏). ↑ E: 濯ぎ川最下流付近の側溝   ↑ F: 旧理科棟裏の標本庫付近の雑木林     図版5 生息近況(9号館裏で見つかったフィールドサイン) ↑ A: 9 号館裏の外観   ↑ B: 噛み跡の付いたテニスボール   ↑ C: マヨネーズ容器の落ちていた様子   ↑ D: 噛み跡の付いたマヨネーズ容器   ↑ E: U 字溝に落ちている骨   ↑ F: 骨の一つ(大腿骨)     【補遺】  本稿の入稿直前に構内でタヌキが混獲されたため,その記録を付しておく。武蔵大学の白雉祭期間中の2018 年11 月4 日深夜1 時15 分頃,大学2 号館裏(地点C)のハクビシン用の箱罠に冬毛のタヌキが混獲された。体重4.40kg,50cm 程度の大きさで疥癬個体ではなかった(写真A)。箱罠に誘引餌はなかった。計測中,断続的に排尿と少量の排糞もみられた。排尿はしゃがんで行っていた。2 時30 分頃,箱罠設置場所付近で逃がしたところ構内を駆けていき,約95cm の壁をジャンプし辛うじてよじ登り(写真B,赤丸がジャンプしたタヌキ),姿を消した。今年の8 月下旬以降2 ヶ月間構内で目撃情報がなかったことや誘引餌のない箱罠に入り込んでいることから,今回混獲された個体は学園構外から入ってきたものと考えられる。その後,4 時45 分頃にも大学9 号館の下で同一個体とみられるタヌキが徘徊していた。今後,この個体が構内で定着するか等を注視していきたい。   ↑ 写真A.箱罠に入ったタヌキ(体重4.40kg)   ↑ 写真B.ジャンプし95cm の壁を登るタヌキ    加えて,箱罠に入った前日の11 月3 日4 時35 分に,ため糞場MG-1 に設置したセンサーカメラで約3 ヶ月ぶりにタヌキが撮影され,排糞が確認された(写真C はその翌日に撮影された画像,写真D はその時の糞)。センサーカメラの撮影画像で同年8 月の個体(図版2)と比較すると,夏毛と冬毛という点で異なるものの一回り近く大きな個体であることが分かる(写真C)。訪問したタヌキは1 分30 秒以上ため糞場の臭いを嗅いだ後に糞をしたことが撮影動画で確認できた。その日以降ため糞場の利用が始まり,しばらくの間は一晩に3 回の利用が続いた(写真D)。目撃情報やセンサーカメラで撮影された画像から判断すると,ため糞場の利用個体はいずれも同一個体で,箱罠に入った個体と思われる。センサーカメラの記録と翌朝の糞の観察から,一晩にされた3 個の糞の形状の違いがみつかった。  3 回の利用時には,いずれも1 回目の糞は棒状の硬いもの,2 回目の糞は形があるものの小ぶりのもの,3 回目の糞は形がなく液体状のどろっとしたものである傾向がみられた(写真D)。このように回数毎,糞の量は少なく質感も軟らかいものになった。また日に日に,ため糞場での臭い嗅ぎ行動の時間が短くなった。今後,ため糞場での行動も観察していきたい。   ↑ 写真C.3 ヶ月ぶりにため糞場MG-1 に現われた排糞中のタヌキ   ↑ 写真D.ため糞(センサーカメラの記録から1 晩にされた3 回分の糞と分かる)  
2019.10.23
一木喜徳郎と武蔵学園
はじめに  旧制武蔵高等学校の初代校長として一木(いっき)喜徳郎という人物がいた。一木は、枢密顧問官のまま1921(大正10)年12月27日校長に就任、1925年3月30日宮内大臣に任命されると辞意を表明したものの、それが認められたのは1926(大正15)年3月であった。枢密顧問官とは、憲法をはじめ皇室・外交・教育・官制などの制度変更のうち、特に重要な事項に関し天皇からの諮詢(質問)に対して奉答(回答)する者たちのことである。周知のように、1889年に発布された大日本帝国憲法の下では議会に予算審議権や立法権などを与えたが、天皇にも統帥(軍隊指揮)、条約締結、官制制定、人事、命令(勅令)発布など天皇大権と呼ばれる広範な権能を付与した。しかし、それでは天皇が恣意的に大権を行使して混乱を招く可能性があるので、上記のような分野に関しては枢密顧問官たちで構成される枢密院がチェックすることになったのである。彼らは概ね週一回御前会議を開いて審議をしたが、戦前期では枢密院の奉答に天皇が拒絶することはなかった。また、宮内大臣は内閣から独立して皇室の庶務を取り扱う宮内省の長官であるが、実際には天皇の国務上の決定や、皇室・華族にまつわるさまざまなトラブルにも関わることが多かった。つまり、この頃の一木は、天皇という元首の側に仕え大日本帝国を支えていたのである。  したがって、多忙な一木校長が武蔵学園のために多くの時間を費やすことは困難であり、学校運営は山本良吉教頭が担ったが、それでも一木が武蔵学園に与えた影響は大きく、特に7年制の採用、建学の三理想の制定は彼の意見に依る部分が多かった。そこで、本稿では第一に一木という人物を紹介し、第二にその人格がどのように武蔵学園の形成に関わったのかをみていきたい。 1 天皇機関説論者  一木は1867(慶応3)年4月4日、現在は静岡県掛川の大庄屋の家に、父岡田良一郎の次男として生まれた。良一郎は幕末の有名な農政家二宮尊徳の弟子で、尊徳が提唱した報徳思想を全国に普及すべく1911(明治44)年掛川に大日本報徳社を設立すると、しだいに日本各地の報徳社のセンター的存在となっていった。報徳思想は、簡単にいえば勤労・勤倹・勤勉しながら、私欲を去り相互に助け合って生きていくことを説いたもので、明治の時代になると内務省がこれを採用し、大々的に普及を図った(一木自身も内務官僚や大臣としてこれに深く関わった)。全国の小学校に二宮金次郎像が建設されていくのもこの影響である。また、良一郎の長男には岡田良平という人物がいた。良平は文部官僚から文部次官、京都帝国大学総長を経て、1916年には寺内正毅内閣の文部大臣に就任した。このように、岡田家と内務省・文部省との間には密接な関係があった。  さて喜徳郎であるが、兄良平の後を追って彼も上京し帝国大学に入学した。卒業後の経歴は別表を参考にしていただきたいが、まず武蔵高等学校校長就任までのキャリアをみると、第一に注目されるのが帝国大学教授27歳、貴族院議員33歳、法制局長官35歳、文部大臣45歳と、昇進が非常に早いことである。自費でドイツに留学しそこで得た法学知識を発揮して、彼は瞬く間に官界・学界のトップに昇り詰めていった。この背景には、いまだ近代的制度が十分に整っていない段階のため、最新知識を持った若い人材がいきなり抜擢されたということもあろうが、一木はその期待に応えることができる人材だったのである。   第二は、彼が官界と学界の両分野で活躍したという点である。まず、学界分野での活動をみると、ここで重要なことは彼がいわゆる天皇機関説(国家法人説)を提唱したことである。同説の特徴は、ア)国家は法人であり主権は国家に属する、イ)統治権を行使する国家の機関には内閣・官僚・軍部・議会・裁判所などがあるが、君主もその一つである、ウ)ただし君主は国家機関の中でも最高位にあり絶対である、というものであるが、これは、当時帝国大学で憲法学を担当していた穂積八束の天皇主権説(神聖なる天皇は国家そのものであり、主権は天皇個人に帰属する)と対立するものであった。のちに天皇機関説論者として有名になる美濃部達吉は、一木の直系の弟子にあたる。美濃部が1935年頃に天皇機関説排撃運動で糾弾されたことは有名であるが、やはり一木もその時に非難され、1936年には枢密院議長の職を追われることになった。この点は後述する。  官界分野で特徴的なことは、まず山県・桂内閣時に重要なポストに就いたことが目を惹こう。これは、一木が山県有朋や桂太郎に連なるグループ(山県閥)に属していたことを示している。明治期においては、議会勢力の台頭を嫌う軍部や官僚政治家が山県閥を形成し政党と対峙していたが、このような中で一木は山県の法律顧問の役割を果たしていたのであった。このことは、一木の天皇主権説が山県らにも受け入れられるものであったことを意味している。つまり、一木にしても山県にしても、天皇は最高絶対ではあるが、決して恣意的に権力を乱用してよいのではなく、あくまでも他の国家機関との協調や助け(輔弼)を得て行動しなければならない存在だったのである(1)。山県のような勤王家は天皇主権説論者と思われがちであるが、じつは官僚や軍部にとっても天皇機関説の方が自分たちに都合がよい訳であり、だからこそ一木の天皇機関説は当時の支配者層の中で広く認められるものとなっていった。  第三に、第二次大隈重信内閣で文相・内相となったように、彼は決して山県のような反政党主義者ではなかった。大正期では、一木学説を勉強して官僚となった人物たちが官僚組織のトップの椅子を占めるようになっていたが、彼らの一部はさらに政治家を志して政党に接近するようになった。特に、加藤高明を中心とした憲政会(大隈内閣の与党が1916年に結成した政党)の幹部にはそのような経歴の者が多かったが、一木は彼らとも近く、一般には憲政会系官僚政治家とみなされた。ただし、だからといって彼は政党主義者でもなかった。この点については、同じ天皇機関説でも一木と美濃部の学説を比較してみれば明らかである。前述のア)~ウ)は同じであるが、美濃部学説ではさらに、天皇が大権を行使する際は国務大臣の輔弼を受けなければならないが、国務大臣には議会の信任が必要である、という点も付け加えられた。これに従えば、議会は閣僚のポスト、さらには天皇の国務行為をも左右するほど重要な位置に立つことになり、それは政党内閣制の理論的根拠となるものであった。  以上のことから、枢密顧問官や宮内大臣のように天皇の側でその大権行使を補佐する人物としては、官僚にも軍部にも政党にも偏しない一木ほど適任な者はいなかったであろう。こうして、彼は枢密顧問官となり宮内大臣となったのである。  つぎに、武蔵高等学校校長を辞任したあとの一木の動向をみていこう。1921年11月25日、20歳に達した裕仁皇太子は摂政に就任し、病弱であった父大正天皇に替わって国務を代行するようになった。当時の宮内大臣は大久保利通の次男牧野伸顕であったが、1925年に老齢の内大臣平田東助が病気のため引退すると、牧野が同年3月30日に内大臣に就任、同日一木が宮内大臣に任命された。内大臣の職務内容はじつは曖昧で、強いて言えば宮中の顧問的な性格が強かったが、それに対し宮内大臣は実際の庶務全般に関わる実務的なポストであった。こうして、一木は大正末・昭和初期の8年間を、宮内大臣として若き皇太子・天皇に近侍して支え、同時に宮中改革を図るという重責を担うことになった。  ここで宮中改革について一言触れておこう。第一次世界大戦で敗北したドイツは帝政から共和制に移行した。また、民族自決によって欧州では共和国が数多く誕生した。こうして、君主制から共和制へという流れが世界的傾向となったが、これに危機感を抱いたのが君主国であった。当時の日本の皇室は前時代からの伝統的な慣習を多く引き継いでおり、それらを国民が納得できる形に改革することが一木宮内大臣や牧野内大臣の重要任務となったのである。法学者でもある一木は、皇室制度を審議する帝室制度審議会に深く関わって法典の整備に尽力した。また、内務官僚を中心に外部の人材を積極的に登用し、自らは平日官邸に宿泊して女官問題・冗費節減・能率増進・内親王養育などの面で改革に努め、1928年の御大典も無事にやり遂げた。このほか、この時期は皇族・華族の家族内で思想(子弟が共産主義者となる)や恋愛に絡むトラブルが日常的に発生しており、これらを表面化させずに処理するのも彼の役割であった。  しかし、それ以上に一木を悩ましたのが政治問題であった。昭和時代に入ると周知のように、張作霖爆殺事件、ロンドン海軍軍縮条約、満州事変、五・一五事件など天皇と政治の関わり方が争点化した。これらに対し、一木は天皇と同じく立憲主義、国際協調路線に立ちながらも、ついつい政治に口を出してしまう若き天皇を、元老西園寺公望、内大臣牧野とともに諫めるようと苦労を重ねていた。彼らは、天皇が外部勢力によって政治的に利用されることを極度に恐れていたのである。  こうした中、1932年8月頃に元宮内大臣田中光顕が高松宮妃に関する件を理由に、一木に辞任を迫る事件が起きた(2)。これも一つの要因となって、翌年一木は宮内大臣を辞職する。しかし、彼に対する攻撃はこれに止まらず、1935年には天皇機関説排撃運動が起こった。排撃側が表面上の標的にしたのは美濃部達吉であったが、同じ機関説論者ということで当時枢密院議長であった一木も攻撃対象となり、むしろこちらが本命であったともいわれる。この時は、昭和天皇が本庄繁侍従武官長に「天皇機関説を明確な理由なく悪いとする時には必ず一木等にまで波及する嫌いがある故、陸軍等において声明をなす場合には、余程研究した上で注意した用語によるべき」(3)と注意を与えたこともあり事なきを得た。また、1936年に二・二六事件が発生し内大臣斎藤実が亡くなると、天皇は一木に「なるべく側近に侍す」(4)るよう要請し、実際に一木はこの日から3月8日まで皇居内に宿泊し、事実上の内大臣の役割を果たした(3月6日には宮内大臣任命の必要から1日だけ内大臣を就いている)。このように、天皇の信頼は厚いものであった。しかし前述のように、翌年には枢密院議長を辞職する状況に追い込まれてしまった。  以上のように、昭和期の一木は西園寺、牧野、あるいは鈴木貫太郎らといわゆる「宮中グループ」を形成し、一木的な天皇機関説に基づく天皇制を守ろうとしたが、しだいに後退せざるを得なかった。こうして、機関説排撃運動は美濃部学説ばかりでなく、山県有朋や昭和天皇も支持した一木学説をも否定し去ったのである。 2 七年制高等学校制度の採用  高等学校の七年制度は臨時教育会で私が極力主張したものであるから校長を引受けて此任に当たることは云はゞ私の理想を実現する訳である。担任者として最も苦心することは良教師を選択することだが、私の実験によると我国民の教育的欠陥は外国語に不鍛錬なことである。最近国際連盟規約の批准事務を掌つた私は、特にそれを痛感して現在の教育制度では到底「世界の日本人」を作ることは難しいと考へた。故に新設の私立高等学校の特色を其処に求めて力を尽したい(『朝日新聞』1921年5月11日) 校長就任を前にして、一木喜徳郎は7年制高等学校を「理想」と表現している。そこで、ここではまず7年制という制度と一木についてみていきたい。  そもそも、一木が武蔵学園と関係するようになったのは、1919(大正8)年9月であった。学園創設の準備が大詰めを迎え、根津嘉一郎と本間則忠は指導を仰ぐべく平田東助を訪問した。これ対し、平田は承諾を与えるとともに岡田良平、一木、山川健次郎、北条時敬にも相談するよう勧めた。平田は山県閥の領袖で農商務相、内相を歴任し、後述の臨時教育会議では総裁を務めるほどの政界・教育界の大物であり、一木にとっては大先輩であった。岡田は前述の通り一木の実兄で、前年までは文相を務めていた。山川健次郎は当時東京帝国大学総長の職にあり、北条時敬は元東北帝国大学総長で、この時は学習院長であった。すなわち、日本教育界の大立者ばかりであった。そして、同年10月3日関係者が集まって第1回協議会が開催されたが、ここではさまざまな議論が出された。詳しくはこの「武蔵学園史紀伝」中の拙稿「武蔵学園の創設と本間則忠の「十一年制寄宿舎」構想」(https://100nenshi.musashi.jp/Kiden/Index/a9efca9f-85e4-42ee-b420-e3c0e9e612bb)を参照していただきたいが、本間は5年制の中等学校創設と11年間の寄宿舎建設を、山川は修業年限3年の実業補習学校(小学校卒業者の職業訓練)の創設を、そして、一木は前述の引用史料にあるように、7年制高等学校創設を主張した(この点は平田や岡田も同じであったと思われる)。そのため、この会合では結論がでなかったが、この会合後から根津の意向は7年制案に傾いたようで、1920年2月29日に開催された第2回協議会では、7年制高等学校とすること、陣容は総裁平田、顧問山川・岡田・北条、理事長根津、理事本間・正田貞一郎・宮島清次郎、校長・一木とすること、の2点が決定した。こうして、一木喜徳郎校長が誕生することになった。以上の経緯からも、一木が7年制案を強く主張し、そして自らその実行役を買って出たことが分かろう。  では、なぜ彼はここまで7年制に拘ったのであろうか。その前に、まず学校制度について確認しておきたい。戦前の日本は複線型学校体系をとっていた。この制度は同じ中等教育機関であっても、進学や職業訓練など初めから異なる進路を想定しそれにふさわしい教育を施そうとするもので、このうち進学する場合は中等学校(5年)、高等学校(3年)、帝国大学(3年)というコースを設置し、帝国大学卒業生には国家を担う人材となることが期待された。このような体系はドイツをモデルにしたものであった。日本の場合、明治10年代に憲法の範をドイツにとって以来、特に官僚・陸軍の間ではドイツ志向が強くなったが、教育分野も同じで、平田・岡田・一木を含む内務・文部官僚はこのようなドイツモデルを採用したのである。  しかし、この制度にまず異議を唱えたのが経済界であった。経済界は卒業するまで11年間もかかるこの制度は長すぎるとして年限短縮を主張した。これに対し、官僚や帝国大学側は年限短縮によるレベルの低下を危惧して消極的であったが、ここで登場したのが高等中学校案であった。1910年小松原英太郎文相が中学科(4年)および高等中学科(3年)を置く高等中学校案を提案した。この案は、従来の中等学校と高等学校を有機的に結び付け同時に修業年限を1年間短縮しようというもので、7年制高等学校案と近いものであった。ここで想起されたいのは、7年制案はドイツのギムナジウムを模したものであるという大坪秀二の指摘である。確かにドイツのギムナジウムは、日本でいえば小学校5・6年生の2年間と中等教育7年間(現在では6年間)を合わせた合計9年間を修業年限としており、日本の7年制案はギムナジウムの中等教育7年間に相当することになる。したがって、7年制案はじつはますますドイツに近づいたものでもあり、一木にとっては前述の引用史料の通り、理想的なものだったのである。  しかし、ことはそう簡単に運ばなかった。明治後期になると初等教育就学率は100%近くに達し、さらに学歴というものが社会で認知されるようになったため、国民の間からは進学を希望する者が増加し、受験競争も厳しいものとなっていた。また、私立学校も数多く創設され広く認知されていたが、法制上の位置づけが不明確で国立・公立学校との関係が問題となっていた。そのため良案が見つからないまま時間が過ぎたが、この状況に最終的な断を下したのが1917年設置の臨時教育会議であった。同会議は岡田良平文相・平田東助総裁の下で次々と重要な決定を下した(一木・山川も委員で参加)。このうち、中等学校・高等学校に関しては、ア) 尋常科4年・高等科3年の7年制高等学校を基本とするが、高等科3年だけを単独に設けることができる、イ) 官立・公立・私立の3つを認める、とされた。この案によって、ギムナジウムを志向する者たちからも、進学を希望する国民からも、そして地位向上を目指す私立学校からも、最大公約数的な了解を得ることに成功した。そして次には、このように選択肢が増えた中で、どの形態が適当なのかを実際に示す段階に入ったのである。一木が校長に就任したのはまさしくこのような時期であった(実際には、例外とされた高等科3年だけを設置する学校や、公立・私立学校は急増したが、7年制高等学校数は伸び悩んだ)。   3 「世界の日本人」  最後に、建学の三理想と一木校長について触れておく。これに関しては、この「武蔵学園史紀伝」中の大坪秀二「三理想の成立過程を追う」(https://100nenshi.musashi.jp/Kiden/Index/d86f70be-57ca-464c-acfc-fb1cd7581e79)にその詳細が語られているので、そちらを参照していただきたい。ところで、その中でも紹介されているが、『根津翁伝』には一木の発言として次のようにある。 〔牧野伸顕がベルサイユ会議の場で外国語ができる人材が少なくて苦労したと言っていたが、〕私もそれは尤もだと思い、そういう意味の学校を拵えたら、宜かろうと思って居った処へ、根津さんの話があって、七年制の高等学校を拵えることになったので、七年間一貫してやれば、語学も余程他の学校より巧く行くわけだし、この七年間にみっちり世界的に役に立つ人間を拵えたら宜かろうと考えた。それが即ち武蔵高等学校の三項目の一として世界に雄飛する人物を作ることとして現われたわけです。〔中略〕東西文化の融合と云うことは、大隈さんが頻りに言われ、これは私も良い意見だと思いました。私自身東西文化の融合を日本がやらなければいかぬと云うことを始終言って居りました。由来日本は、昔から支那の学問を入れて居るし、東西文化を融合するのは、日本でなければいかぬと云うことを考えて居った。(5)    もちろん、これは三理想のうちの「1、東西文化融合のわが民族理想を遂行し得べき人物」「2、世界に雄飛するにたえる人物」と関連した発言であるが、ここではこの発言を手掛かりに、なぜ彼が「世界の日本人」ということに拘ったのかという点を、特に当時の時代状況との関連から簡単に補足してみたい。  まず「世界雄飛」について。牧野伸顕は前出の通り、内大臣として若き昭和天皇を西園寺公望元老、一木宮内大臣とともに支えた人物であるが、彼は第一次世界大戦終了後に開催された1919年のベルサイユ会議に西園寺とともに全権として参加した。当時の日本は世界の「五大国」の一つに挙げられ、国際連盟では常任理事国にもなったように、明治維新以来50年にして世界の一流列強として認められたのである。ところがこの会議では、戦争で大きな被害を受けた欧米各国が、帝国主義を排し新たな平和的世界秩序を構築しようと熱心に議論を重ねたのに対し、日本政府はこうした議論には加わらず大勢に順応することを方針としたため、他国からは「サイレントパートナー」と揶揄されてしまった。日本政府の関心はあくまでも東アジアの権益に集中しており、それは欧米各国からみれば排すべき帝国主義の残滓だったのである。勿論、これをすべて日本政府の責任に帰すことも酷であろう。それまで東洋の小国でありいわば子供であった日本が、自身でも気づかないうちに急速に成長して大人の仲間入りを果たし、周囲からは大人らしく振舞うよう要求されたのと同じだったのである。  しかし、このような海外からの冷評は、むしろ日本国内で大きな問題となった。特に、ベルサイユ会議を目の当たりにした若きジャーナリストたちは日本の全権を無能と罵倒し、さらに今後五大国として国際社会で活躍するには、まず国内を改造する必要があると主張したのである(6)。おそらく、彼らのこのような思いは批判された側の牧野も共有していたと思われ、だからこそ親しい一木に率直な感想を述べたものと思われる。そして、一木もそれを受け止め、教育という場で国際的に活躍できる人材を育成しようと考えたのであろう。ただ、一言付言しておけば、一木のいう「世界の日本人」とは単に外国語が堪能というだけでなく、「幼少の時より人格養成、品性陶冶と共に外国語に力を注いだならば、世界の舞台に活動すべき日本人を輩出せしむることを得」よう(7)と述べているように、7年制高等学校による「人格養成、品性陶冶」も重要であった。  最後に、「東西文化融合」について(「東西文化」となっているが、大隈がしばしば語っていたのは「東西文明」であった。もちろん文化と文明は異なるが、以降では大隈に従って「東西文明」と理解しておく)。幕末に佐久間象山が東洋の道徳、西洋の技術を提唱したことは有名であるが、このような東西文明の融合あるいは調和という発想は、近代日本を通して広くみられるものである。というよりも、前述の一木の発言にもあるように、国是といえるかもしれない。日本の位置を世界地図でみれば、中国文明の東端に存在すると同時に、アジア市場を開拓しようとしたペリーがまず来航したのが日本であったように、アメリカ側からみればアジアの入口であった。そのような日本が世界の中で自らの独自性を主張しようとすれば、東西文明の接点であることを強調するのも自然であろう。すなわち、支配者西洋と被支配者東洋が対峙する状況の中で、東洋に対しては日本が仲介して西洋文明の普及とそれによる発展を手助けし、西洋に対しては東洋の代弁者として東洋特にその精神文化の理解を得ることで東西相互の理解が進めば、世界平和も実現できる、というのが東西文明融合論のおおよそ共通した主旨であった(8)。  大正時代において、このような東西文明融合論を唱えて有名であったのが大隈重信であった。大隈は1908年に西洋思想の名著を日本に紹介するために大日本文明協会を設立し、実際に多くの訳書を刊行した。大隈は、東西両文明の差異が発生した理由を明らかにしていけば、両者は調和できるはずであると主張していた。一木は第二次大隈内閣の文相・内相であったので、当然大隈の所説を十分に理解していたであろう。  以上のように、武蔵学園が創設された頃の日本は、ちょうど東洋の一国から「五大国」へと変身を遂げる最中であった。そして、国際社会もこの頃を境にして数多くの国際会議が開催され多国間条約が締結されていくようになり、急速に接近していった。こうした中で、根津理事長、一木校長は「東西文化融合」という日本の立場に立って、国際社会の中で「雄飛」できる人材の育成を目指したのである。一木の意図するところを現代風に言い換えれば、グローバル化し且つ多様な国際社会の中で、日本人という主体性を持ちつつ世界平和を目指して国際舞台で活躍できる人材の育成ということになろうか。このように書けば、むしろ現代の日本人にとってはかなり受け入れやすいものとなろうが、前述の臨時教育会議で決定した大学令が「国家ニ須要ナル学術」の教授と「国家思想ノ涵養」を、同じく高等学校令が「国民道徳ノ充実」を教育の目的にしたことを考えれば、当時の日本においてこの建学の三理想はかなり異色なものであったように思われる。    注: (1)一木の天皇機関説については、家永三郎『日本近代憲法思想史研究』(岩波書店、1967)参照。 (2)原田熊雄『西園寺公と政局』第2巻(岩波書店、1950)、345頁、『木戸幸一日記』上巻(東京大学出版会、1966)、185頁。 (3)『昭和天皇実録』第6巻(東京書籍、2017)、747~748頁。 (4)『昭和天皇実録』第7巻(東京書籍、2017)、33頁。 (5)根津翁伝記編纂会編刊『根津翁伝』(1961)、246~247頁。 (6)伊藤隆『大正期「革新」派の成立』(塙書房、1978)参照。 (7)一木喜徳郎「七年制高等学校の必要なる趣旨」(『武蔵学園史年報』創刊号、1995)。 (8)一木にとっての「東洋の道徳」とは、天皇を中心に据えた王道主義であった。一つの階級や勢力が権力を独占する政治体制はいずれ崩壊するしかなく、それに対し天皇とそれを補佐する者たちが道徳によって自らを律することで国民全体の利益を図り、国民の文化の発達を保護するという王道主義がより好ましい、と一木は考えていた(一木喜徳郎「世界の大勢と我が帝国、」『ぬき穂』第29号、1920年5月)。  
2018.12.17
『相浦忠雄遺稿集』を読む―武蔵卒業生戦死者の記録
↑ 相浦忠雄肖像:武蔵高等学校在学中   ↑ 相浦忠雄肖像:海軍主計大尉時代   はじめに 『武蔵七十年史』によれば、旧制武蔵高等学校の第二次世界大戦の戦没者は、教員(助手)3名、配属将校2名、卒業生52名を数えている。この数は、正式に戦死公報の来た者であるとのことなので、戦病死、戦災死、収容所内での死亡、徴用中の事故死等を加えた広義の戦没者はもう少し多いかも知れない。 これらの人々が、武蔵に居る頃、そして戦場に出て何を考え、どのように死んでいったかは、今となっては殆ど知るよしもない。が、その中で、遺稿集が編纂され、生前の考えが比較的よく分かり、さらに戦死のありさまについても十分の情報がある一人の卒業生をここに紹介することにしたい。   1. 相浦忠雄の略歴 相浦忠雄(11期文)は、1919(大正8)年11月23日、福岡県田川郡上野村の赤池炭鉱社宅に生まれた。赤池炭鉱は明治鉱業株式会社の経営で、相浦の父鼎五はその社員であったようだ。 忠雄の命名は、父の友人矢内原忠雄にあやかったものとされている。 1926(大正15)年、戸畑私立明治小学校入学、翌年父の転勤に伴い上野村市場小学校に転校。 1932(昭和7)年、市場小学校を卒業、上京して武蔵高等学校尋常科に入学。 1936(昭和11)年、武蔵高等学校高等科文科甲類に進む。 1937(昭和12)年、級友宮澤喜一と共に外遊生に選ばれる。旅行先は当初中国内地の予定であったが、日華事変勃発のため、朝鮮、満州となった。(現在武蔵学園記念室には、その時のレポートが残されている) 1939(昭和14)年、東京帝国大学法学部法律学科(英法)に入学。同年夏、日米学生会議日本代表団の一員として渡米。 1941(昭和16)年、外交官及び行政官高等文官試験に合格。同年12月25日、太平洋戦争勃発のため東京帝国大学を繰り上げ卒業。 1942(昭和17)年1月6日、商工省事務官に任官。燃料局に配属。同年1月20日、海軍短期現役主計科士官を志願し採用。海軍経理学校第8期補修科学生として入校。海軍主計中尉に任官。 同年5月16日、カトリックの洗礼を受ける。同年5月20日、海軍経理学校を卒業し海軍省人事局第1課に配属。 1943(昭和18)年2月、海軍経理学校補修科庶務主任、ついで分隊士。 1944(昭和19)年3月、航空母艦雲鷹主計長。雲鷹は同年8月7日、船団を護衛しシンガポールに向け出撃。同年9月17日、船団護衛の帰途南支那海にて、米潜水艦に雷撃され、沈没。 雲鷹沈没に際し、相浦は艦橋にあって配置についたまま生還しなかった。 享年24歳10ヶ月であった(*1)。   2. 相浦忠雄遺稿集 『相浦忠雄遺稿集』は、1950(昭和25)年9月、彼の死を惜しむ武蔵の同窓後輩、海軍経理学校(主計科短期現役士官養成)の同期後輩、親族らの手によって編集刊行された。 冒頭「編者の言葉」では、「相浦忠雄の戦死が人類の文化にとってどれほどの損失であったかは、遂に知ることができない。唯ここに集められた彼の遺稿はその損失が並々のものでなかったことを示している。」と述べている。 編集委員は、赤沢璋一、小川政亮、大橋弘利、亀徳正之、相良一郎、早田和正、苫米地俊博、長橋尚、宮澤喜一、山下元利、吉国二郎、渡辺正雄の12名。この内宮澤(大蔵省、後に内閣総理大臣)、大橋(弁護士)、長橋(通商産業省)が武蔵同窓。赤沢(通商産業省)、山下(大蔵省、後に衆議院議員)、吉国(大蔵省、後に国税庁長官)らはおそらく海軍主計科短期現役士官の同期後輩、苫米地は義弟と推定される。遺稿集の題字は、相浦が日米学生会議で渡米した折の日本代表団長であり、戦後成蹊大学総長となった高柳賢三の手になるものである。 この時代の、日記、ノート、写真等の記録は、多く戦禍に遭って消失しており、相浦の場合も、武蔵の高等科1年から高校生時代に書きつないだノート一冊だけが遺され、遺稿集の母体となっている。幸い、このノートの余白には、相浦が雲鷹主計長に就任してから戦死までの約四ヶ月の日記が記されており、その意味でこのノートは、相浦の高校生時代と、主計長時代のそれぞれの時期の「肉声」を知る、よすがとなっている。このほかに、遺稿集にはもちろん、武蔵校内で刊行された諸雑誌への寄稿、日米学生会議の報告等、外部刊行物からの転載がいくつか収録されているが、中心はあくまでも前述のノートである。逆にこのノートがカヴァーしていない時期、たとえば海軍経理学校時代や雲鷹主計長就任以前の時期については、相浦の肉声は聞こえてこない。カトリックの入信についても、おそらく相浦はそれなりの信仰告白を記していたであろうが、記録は消失してしまっている。 本稿に於いては、『遺稿集』を読み解くことを作業の中心としつつ、相浦の生涯を意味づけるいくつかの重要なエピソードについては、相浦の肉声を直接に聞いた他者(土田国保、近藤道生ら)の証言をまじえながら、相浦が何を考え、どのように死んでいったかを見ていきたい。   3.  愛日寮生相浦忠雄 旧制武蔵高等学校には、尋常科生徒のための慎独寮、高等科生徒向けに愛日寮、双桂寮の二寮があった。これらの寮は、元々山本良吉校長が、他の高等学校の全寮制とその風俗を嫌忌していたこともあって、全生徒が入るものではなく、いわば一部寮制とも言うべきものであった。 相浦が高等科に進み、愛日寮生となったのは、おそらくは父親が明治鉱業に奉職して九州勤務が多かったことと関係があったのではないかと推測される。 愛日、双桂の二寮は、武蔵校内でライバル関係にあり、両寮対抗で弁論大会なども開かれていたようである。前者はともすれば儒教主義的東洋思想的寮風、後者はルネッサンス的西洋近代主義的な寮風と思われていた。 『遺稿集』では、両寮の対抗弁論大会において、相浦が愛日寮を代表して、双桂寮側の先輩竹田政民に反論する演説草稿が掲載されている。この内容を本稿に敷衍するには、あまりに難解かつテーマが広範であるのだが、一言でいえば、旧制高校生的な深い思索、思惟にこの頃の相浦が沈潜していたこと、さらに言えば、武蔵三理想の一である「東西文化の融合」を(相浦に限らず)当時の高校生が如何に重要な思索のテーマとしていたかがわかる。 大正期から昭和初期にあっても、この階級の人々の一般的な生活は、武士道あるいは儒教的な価値観をベースに営まれていたのであり、その一方で旧制高等学校生が日々学ぶ学問は、文系であれ理系であれ、ほとんど西洋の科学と思想の産物であったという事実が、この主題を、今日以上に彼ら旧制高校生にとって喫緊のものとしていた。21世紀の今日の我々があまり深くは考えない、東洋的な生活感覚と西洋的な知性、理性との整合は、この時代には、教養ある若者たちが乗り越えなければならない大きな課題であったといえる。武蔵高等学校の愛日、双桂二寮は、その寮風のわずかな差異で東西のいずれかに偏っていたのであり、今日から見れば「似たようなもの」であったかもしれない僅かな差異をめぐり、堂々の論争がなされていたと見ることもできる。   4. 武蔵高等学校外遊報告第十号 1937(昭和12)年7月、高等科2年の時、相浦忠雄と宮澤喜一は、武蔵高等学校第11回外遊生に選ばれ、中国視察の準備をしていたところ、折から盧溝橋事件が勃発し急きょ外遊先を満州に変更し出発することとなった。その外遊報告は、2597年度(*2)武蔵高等学校外遊報告という約50頁の小冊子として、山本良吉校長の前文を付して翌年刊行された。幸い、武蔵学園記念室にはその小冊子が現在も保存されている。 外遊報告は相浦と宮澤の共著であり、この報告のどの部分を相浦が執筆したかはわからない。が、いずれにしても、高校生のまとめた内容としては出色のレポートである。この中で日々の満洲訪問先での取材内容を記した部分(三理想の「自ら調べ」の部分)は、今日の武蔵高校生の国外研修報告と比較し、どちらも極めて優れているものと評価できる。むしろ現在の国外研修報告も、十分相浦、宮澤の域に達していると言うべきかもしれない。 だが、この報告の中で特徴的なものは、「二三の考察」という最後のまとめの部分であり、ここでは漢民族の民族性についての二人の考察が書かれている。「矛盾に富む」「自己本位」「金銭への執着」「面子」「没法子」「社交性」等々、当時多くの人が言い、今日でもよく言われる批判的な特性が考察された後、漢民族の「同化力」についてが、特筆されている。 その同化力があるゆえに、「支那は疲れた。早晩滅びる。」という人があるけれども私にはそうは思われない、との記述がある。この「私」は宮澤であったろうか、相浦であったろうか。 また、「二三の考察」の中では満州における日本農業移民についても、深い考察がなされていて、これの成功への危惧が控えめにではあるが表明されている。事実の報告、要約、構成もさることながら、こうしたまとめにおける洞察(三理想の「自ら考える」部分)の点において、二人の人物がいかに傑出していたかを見ることができる。   5. 日米学生会議 そして相浦の短い生涯の中で、再びの「海外雄飛」。 相浦忠雄は1939(昭和14)年東京帝国大学法学部法律学科(英法)に入学。同年夏、日米学生会議日本代表団の一員として渡米した。『遺稿集』には、帰国後学生たちが編纂し、日本評論社から刊行された「学生日米会談」寄稿した相浦の一文「支那事変の投げる影」が転載されている。 ここで述べられていることを要約すれば、当時の米国人が庶民の果てに至るまで、日本の中国侵略に対して、強い批判感情を持っていること。にもかかわらず、個々の米国人は個々の日本人に対して親切であり、国家レベルの批判感情を個人に及ぼさないこと。そして、米国人から生年、所属大学等を問われた後で、必ず「それでは間もなく貴方も戦争に行くのですね」と愛惜するように言われることなどである。 これらを読んでも、相浦がもし彼の戦争を生き延びて、日本再建の掌に当たることができたとしたら、米国人の良き友人として、この渡米の経験を活かすことができたであろうにとの思いを禁じ得ない。   6. これが全部焼け野原になる 1941(昭和16)年12月8日、東京帝国大学生近藤道生(武蔵12期文、後に大蔵省、国税庁長官、博報堂会長)は、本郷の下宿「幸運館」で同級生高柳忠夫から日米開戦と真珠湾攻撃の成功を聞いた。かねて、日米開戦に懐疑的であった近藤は、高柳に「困ったことになるかも知れないぞ」とだけ言い残して外へ出た。 ・・・・・ 歩いて十分ほどで東大図書館に着いた。そこには旧制武蔵高校で一年先輩だった相浦忠雄さんがいた。誘われるまま二人で図書館の屋上に上がると、眼下に広がる東京の家並みを前に相浦さんは「君、これが全部、焼け野原になるんだよ」と唐突に言う。 「そうでしょうか。日本の軍部もそれまでには手を打つでしょう」と、戸惑いながら相浦さんの横顔を覗き込んだ。相浦さんは迷いもなく「いやいや、必ずそうなる」と言って口元を引き結ぶ(*3)。 ・・・・・ 相浦の戦争の結末に関する予想は、その後の戦死直前のものも含めて、恐ろしい程透徹している。しかもそれは、直感的、宗教的な「予言」としてではなく、あくまで合理的な「判断」としての未来予測である。にもかかわらず相浦は「敗戦必至」の戦争を、自らの義務として引き受け、海軍主計科短期現役士官を志願し、その義務を果たすことの中で24歳の前途ある身に死を課した。 その心理の過程は、近藤が後に言う「開戦となったからには愛する者のために命を捧げよう」という程単純ではなかったかも知れないが、相浦の中に内在する「愛と献身」という心理的なモチーフが、主計科志願の動機の根幹にあったことは想像に難くない。   7. 海軍主計科短期現役士官 当時の日本は、義務兵役制であり、帝国大学出身者といえども徴兵は猶予されていただけで、卒業すれば兵役に就かなければならなかった。検査に合格し徴兵されれば、通常は陸軍二等兵からそのキャリアを始めなければならない。そうした事情の中で、海軍主計科短期現役制度は、医学部出身者における軍医の場合などと同じく、大学の文科卒業生を採用と同時に海軍主計中尉に任官させ、経理学校での数ヶ月の教育を経てすぐに艦隊や省部に配属、勤務させるというもので、兵役に就く条件としては格別に優遇され、またそれだけに志願者も多かった。(倍率約25倍という) 相浦は、東京帝国大学法学部卒業後に商工省に採用された当時の超エリートであり、兵役に就くとすれば、この制度に志願するに最もふさわしい人材の一人であった。 因みに、この制度に志願し採用された者の中には、後の内閣総理大臣中曽根康弘や、民社党委員長永末英一をはじめ、戦後政界、官界、経済界などで重きを成した者が非常に多い。 また、相浦より少し前1941(昭和16)年1月、三菱銀行員から主計科短期現役士官に採用され、特設巡洋艦八海山丸の主計長として戦死した小泉信吉は、父である慶應義塾塾長小泉信三の著作「海軍主計大尉小泉信吉」の主人公として名高い。 ただし、これらのエリートの中でさらに優秀な者には、僅かだが「兵役に就かない」という選択も可能であった。相浦と武藏同期の宮澤喜一は、同時期に大蔵省事務官となり、同省から軍に対して「余人を以て代えがたい」と通知されることで兵役を免除されている。相浦にもその道がなかったとは言えないかも知れないが、同世代の大半の若者が兵役に就く中でそれを回避することは、たとえ「敗戦必至」の見通しを持っていたとしても、おそらく相浦忠雄の選ぶところではなかったのであろう。   8. カトリックの洗礼を受ける 相浦は、1942(昭和17)年5月16日カトリックの洗礼を受けた。この時期相浦はすでに海軍主計中尉に任官しており、受洗の日は、海軍経理学校を卒業し現場に配属される4日前であった。 3.で述べた如く相浦は武藏高校生の頃から、宗教に強く関心を持ち、今日から見れば、いかにも旧制高校生らしい観念論的な思惟としか思えないような思索に、深く沈潜した求道者であった。 思考の出発点は、良心の根拠。限りなく小さい存在である一個人が、ともすれば道から外れそうになる時、行く手を照らしてくれる「大きな者」の存在であったろうか。相浦の宗教的関心の対象は、次第に仏教からキリスト教、「悟り」から「愛と献身」へと移行していく。おそらくは相浦の中には、すでに予め心的なモチーフとして「良き行い」「他者への愛と献身」があり、それが思考の方向を次第にキリスト教の方向に向けていったのではないかと、想像される。また彼の敬愛する長姉相浦清子の存在も、直接に彼のカトリック入信に影響があったのではないかと考えられる。 いずれにしても、相浦のこの時期の受洗、カトリック入信は、「敗戦必至」を覚悟の出征を前にして、高校生時代からの彼の長い宗教的な思惟に「けじめ」を付ける意味があったものと推察される。   9. 雲鷹主計長の日記を読む ~精神を病んだ同僚の夫人への対応 相浦が遺したノートのうち、雲鷹主計長就任後の日記の前半部は、相浦が同期生を代表して、精神を病んだ同僚の夫人と交渉する記録に割かれている。この事実関係はかなり煩瑣なものなので、略述すると、病人は、彼の精神疾患の原因となるストレスをつくった伯父と夫婦養子の関係にあり、その夫人は夫の病が嵩じた後、義父との養子縁組の解消をめぐってトラブルとなっている、というのがおよその事情である。日記から読み取る限り、相浦は同期生たちから「お前しかいない」と言われて夫人のもとに遣わされ、どうやら、夫人と養父との復縁を勧めに行ったらしいのだが、その理由や前後の関係は必ずしも全部記載されておらずやや不明の点もある。 だが、そのこと自体は本稿の主題ではない。『遺稿集』のこの項から伝わってくるのは、相浦が、こうした難しいトラブルを抱えた友人の世話役として周囲から期待されていた、ということ(後述のサービサーとしての自覚にも通じる面がある)と、相浦がその夫人に向かって狷介な養父を「愛し許せ」と説くときの、殆どカトリックの司祭のごとき様態である。 相浦の友人のある者は、彼が戦死せず復員したとしても、必ずしも行政官や政治の道は全うせずどこかで教育や宗教の道に行ったのではないかとも言っているが、この精神を病んだ同僚の夫人への対応は、相浦がこうした評価を得るようになった生前の行動の一つとして数えることができるだろう。 ~「日本の兵科士官」という気負い 1944(昭和19)年5月9日、相浦は戦地から帰還した友人達を迎えて開催された、主計科短期現役8期、9期10期合同のクラス会に参加。その時の感想が日記に記載されている。 ・・・・・ クラス会の成長そしてこれがやがて8期、9期、10期と繋がってやがて十年、二十年後に実を結び我国の充実せる発展の素地をなしてくれるようにと祈りてやまず。 補修科学生出身の主計科士官は、なる程海軍にてはまさに単なる主計科士官かも知れない。併し我々は背後に単なる海軍のみに非ず、我が皇国を担負って居るのである。 海軍兵学校出身者が、海軍の兵科将校として全海軍の中軸であるならば、補修科学生出身者と陸軍における一部の優秀者とは、正に相提携して日本の兵科将校として、全日本の中軸として働かなければならぬ人物なのである(*4)。 ・・・・・ 相浦にしてはやや珍しい、エリート意識を飾らずに述べている記載である。だが、相浦自身は置くとしても、主計科短期現役士官は、真に敗戦後の日本を担う中軸の人材として、一人でも多く生きさせたいと相浦が強く願っていたことがよく分かる記述でもある。このことは、戦死直前の雲鷹における土田国保との会話にも現れている。 ~サービサーとしての自覚 1944(昭和19)年5月13日、相浦は、目黒海仁会病院に、盲腸炎で入院している友人A(主計科同期と思われる)を見舞った。その時の会話と感想が日記に記されている。 ・・・・・ A 「実際貴様は看護の妙を心得とる。看護人最適だ」 相浦 「そうだな。しかし看護だけじゃないぞ。俺にホテルのボーイや御用聞きをさせたら、世界一のボーイや御用聞きになるぞ、きっと。又実際、ホテルのボーイをやろうと思ったこともあるんだ。大学1年の時に。そしてその為に髪迄伸ばして準備しとったら、案外アメリカに行くのに役立ったりしてね。到頭やらなかったけれども。」 看護、給仕、然り、余は終生それに甘んじ否その使命と役割をむしろ光栄として大切にして行くであろう。余の進み方は先頭に立ってついて来れと率いるのでもなく、是が非でもこれをやれと命令するのでもない。統帥の器は余の薄弱な意志と弱気を以てしては極めて乏しい。余は家庭に、学級に、学校に朋輩にさらに部下にも寧ろ看護人、給仕人たる心持ちであったようだし、将来も亦そうであろう。やがて我国全般の為の看護人となることがあるかも知れぬ。その時は上御一人の最も忠良なる臣民たると共に、最も卑賤の名も知れざる一小国民の為にも余はその給仕たり看護人たらねばならぬ(*5)。 ・・・・・ このサービスへの自覚は、相浦の短い人生を特徴付ける一本の筋でもあり、商工省の官吏たる職業意識でもあったのではないか。戦死の時の相浦の行動を考える上においても、相浦の持っていた「看護人、給仕人」としての自覚はきわめて重要な要素となっていると思われる。 ~童貞感覚 この時代の24歳と、21世紀の24歳の間を最も隔てている感覚の一つは、性に対するものである。相浦忠雄は、同時代の学徒出陣で兵営に入った人々と比較しても、並外れて女性に対して純粋な感性を持っていたし、おそらくは童貞のまま戦死したのではないかと想像される。以下は戦死二か月程前の相浦の日記の記述である。 ・・・・・ 1944(昭和19)年7月2日、3日 午後上陸して横浜に行く。~中略~ 横浜雪見橋際掃部山下の松の家電横浜(3)5542通いも三度を重ね、始め偶然に来れる角兵衛(角チャン)ことG子(西区・・・・方)と褥を共にするも三夜となる。6月21日、見送らむとて洋装に着換え山手の教会より桜木町迄従ひ来れる彼女は22日は部屋に入るや、縋りつきヨーコソとそして三度目の2日は休養中を出て来て掃部山を歩きそして3日の朝は「角ちゃんは泣かないことにしてゐるの」とて涙も見せざりしその眼にキラリ赤く熱く潤みを帯ばせて「つまんないの」とそして横浜駅横須賀線プラットフォーム迄も送り来る。貴重の林檎や、バターをつけたパンの御馳走(22日)に、又態々アルバムよりハガしての心籠めての肖像写真の贈物に、そして、未だ失はぬ羞恥を捨てて縋りつき顔を埋める女らしい仕草の内に、又時折の喜びに輝く眼とそれにつづく怨めし気の自嘲とと悲哀を湛える瞳に、不運を生まれながらに荷負ひつつもそれに打克とう努めつつ明るく諦めを持って生きて行こうとする単純な教養乏しき、しかしいぢらしき女の心を見る。彼女の上に多幸あれ。 三夜を共にしつつあれ程にも彼女の腕を、胸を腰を掻き抱き愛撫しつつ、結局は身体の関係を結ぶこともなく別れて了ふに到ったのも一つには我が生命なる息子達娘達の性をあだ、おろそかに頒かち難く罪を恐れたにもよれど、亦彼女の顔、瞳の上にやがてまともの結婚により幸ひの道を行く可能性ある心を見得た為でもあらう。それにしても母上の「病気にならぬように」の御注意はさることとして、姉上の「心を奪はぬやうに気をつけて上げなくては悪い」との御言葉、ああこれこそ真にその身体を愛せずその心を愛する切なき真人の道徳であるべきに余は背きたるに非ざるか、忙しがはしく入り交り立ち交る男達に弄ばれて余を忘るること幸いなれば忘らしめ給えへ。また若し、その財布の内にひそめし徒書の署名(松寿老人)と今宵奪われし名刺との記憶が彼女の心の幸ひに役立つものならば永く留まって慰めと励ましを注ぎ男に対する一脈の信頼を繋がしめ給へ。~後略~(*6)。 ・・・・・ 21世紀の価値観からすれば、「何なんだこれは」とやや違和感を持たざるを得ない記述であるが、第二次世界大戦時のひとりのナイーヴな若年海軍士官の心事として、ありのままをここに採録した。 また、このノートにG子の電話番号、住所等をかなり精細に遺しているのも、戦死後周囲の誰彼に思いを寄せた相手がいたことを知ってほしいとの相浦の潜在的な意識の為せる業であったと考えてもよいかもしれない。 ~生死、揺れる思い 以下は1944(昭和19)年7月14日の日記の記述である。 ・・・・・ 俺は帰らねばならない、余は人々が予期しない不幸に動天狼狽するを見るに忍びない。それを防ぐに必要な手段をのいくつかを、そしてそれを実施すべき時機を知っていたにも拘わらず、施す術もなくなす事なかりし罪をはずるが故にそれを見るに忍びない。しかしそういう時期こそ神は、そして我々の最上の天子様は余を必要とされるのだ。これは自惚れであろうか、この使命の予感は虚像であろうか、若しそうならば嘗て予感せる如く余は二十五歳の一生を終わらぬ内に召されるであろう。それで何とて悔いの残ることがあろう。それ程短い一生は恵まれた申し分のない人の生命の秘奥を開示されたよい一生であった。総てに感謝を捧げ得るよい一生であった。・・中略・・ 余にはあらゆる困難と混乱の内からこの事態を収拾し、多くの人々に恩恵を相頒つべき、苦しい、しかし重い使命が課せられているのではないか。若し許される事ならば、斯くも大きな重い使命の十字架を免除して、あの清い懐かしい豊かな恋の故郷(?)なる太平洋の底に永久に眠らしめ給え。又若しこの十字架が御命ならばそれを背負い完遂すべく意志と才能との力を授け給え。 ・・・・・ かつて太平洋上での戦死を夢見、充実した人生であった事まで回顧していた相浦が、ここでは、戦後の混乱する日本の事態を収拾する責務が己に課されているのではないかと自問する姿がある。 そして、後者の方がより苦しい使命であるとも述べている。この頃、相浦の透徹した見通しが、戦後日本の混乱と再建を予測していたということなのであろう。いずれにしても、戦場での生死は自己の意志や努力を超えたところにある。透徹した見通しを持つ相浦といえども、自己の戦場での運命を予測する事は出来なかった。   10. 沈没前夜 1944(昭和19)年9月6日、日本占領下のシンガポール、セレター軍港に一隻の航空母艦が入港してきた。航空母艦雲鷹である。雲鷹は日本郵船の豪華客船八幡丸を改造した空母だったが、第一線の機動部隊と行動を共にするには、やや鈍足で、主に航空機輸送の任務に就いていた。 この年8月雲鷹は正式に第1海上護衛部隊に編入され、巡洋艦香椎以下のヒ73船団に同行して、この日護衛空母としての初の任務を果たし、シンガポールに入港してきたのであった。 艦長は木村行蔵大佐、主計長は相浦忠雄主計大尉であった。 土田国保(東京高校、東京帝国大学法学部卒、内務省、主計科短期現役第10期、後に警視総監、防衛大学校校長)は、戦艦武蔵に勤務していたが、東京の海軍経理学校に転勤の命令を受けて、帰国のため便乗する艦船を求めているところであった。土田が便乗を求めて雲鷹を訪ねてみると、主計長は旧知の相浦で、二人は思わぬ邂逅を喜び合い、相浦は土田の雲鷹便乗を快諾した。   ↑ 航空母艦雲鷹。左には、大和型戦艦や金剛型戦艦の姿も見える。 雲鷹は、引き続き本土に必要な軍需物資を運ぶヒ74船団に同行し、9月11日セレター軍港を出航した。以下は、1988(昭和63年)3月、雑誌「水交」第406号に掲載された土田の回想である。 ・・・・・ 出港直後から、アメリカ潜水艦の偵察無線報告が傍受されたという噂が、便乗組の我々の間にも伝えられ、兵科の若手士官は便乗組でも交代で、飛行甲板上に点在する見張りの臨時指揮官となり、私も乗艦中は、相浦主計長から、戦闘記録作業の指揮官(同艦庶務主任病気中のため)を命ぜられた。“合戦準備夜戦ニ備ヘ”の毎夕のラッパの後は、夜毎、“配置二付ケ”の令に緊張を重ねる日々であった。・・中略・・ 9月15日になった。敵潜水艦のホノルル宛緊急信が判然と傍受され、当然ながら、前面海域での待ち伏せが予想される事態となった。15日は無事。高雄に近接していく16日の夜あたりが一番の山場と、誰もが予想していた。 館内の便乗士官の溜まり場に居た私に、相浦主計長から呼び出しがあった。9月16日午後3時頃である。入室すると“高雄入港が迫った。入港すれば、君たち便乗士官は退艦となるかも知れないから、今日はゆっくり話をしたい”とのことであった。それから夕食の時迄居て、夜また出掛けた。・・中略・・ “大東亜戦争開戦のあの12月8日、私(相浦)は東大の図書館に居たが、ラジオ放送を聞いてから屋上にのぼって、じっと東の方を望みながら、沁じみと大変なことになったと思った。私は高柳賢三先生の引率の下に日米交換学生として米国に渡った経験から、彼等はその物量と技術にものを言わせて、やがて我が国を滅ぼしてしまうに違いないと考えている。この卓上の洋書を見給え。これはアメリカの技術の本だ。私は海軍省人事局に勤務した関係から、同省の上司上官からもいろいろ耳にしていたが、今やサイパンを襲ったあとの敵は、これから比島方面に来襲し、そして沖縄を攻めてから中国大陸に渡り、西と南の両面から内地を攻めるであろう。そしておそらく来年の今頃(昭和20年9月頃)迄には、東京は米国の兵隊で充満しているに違いない。日本人か外国人か、わけのわからぬ子が沢山出来る。この期になっては、いかにして民族の生存を保つかが残された問題なのだ。この艦はこれから君達を降ろしてから、比島方面に向かって出撃することになっている。おとり艦として、撃沈される運命なのだ。私は志願してこの艦に乗り込んできた。私は艦と運命を共にする覚悟だが、君はこれから内地に帰って我が国行く末を見守ってくれ給え” 相浦さんは、その夜、以上のような内容のことを繰り返し、繰り返し、私(土田)に説いて聞かせたのであった(*7)。 ・・・・・ 11. 雲鷹沈没 ↑ 上空から撮影した、航空機輸送中の航空母艦雲鷹。   土田国保の回想続く。 ・・・・・ そして真夜中となった。この調子では今夜もなんとかうまくゆくのではないか思っていた矢先のことである。突如ドーンという爆発音が身近に聞こえた。本艦ではない。爆雷音でもない。僚艦に魚雷命中と直覚した同時に、“配置ニ付ケ”。主計長室を飛び出し、中甲板を艦橋に向かって駈け出して20米、轟音、激動!そして又一発。下からは異常なる煙!・・中略・・ さて、相浦さんである。一度部屋にとって返し、自らの戦闘服装を完全に整えて戻って来て、携行してきた自らの救命胴衣を、私によこしたのである。“是ヲ持ッテ居レ、俺ハ良イカラ”。 当時、空母雲鷹は、日本郵船“八幡丸”の改造空母であったことから、乗組員はコルク製の救命胴衣を所持していた。然し我々便乗者迄には配給はなかった。当日の海面は、後刻救助してくれた海防艦のスクリューが、折々ガラガラと空中で音を立てる位の荒天であったので、ひ弱な身体の相浦さんでは30分と持たない位だったろうと、後になって思った程であった。私も正直のところ、命は惜しい。理屈になるけれども、私自身の任務は、生きて内地に帰ることである。然し、“ハイ有難ウゴザイマス”では、なんと言っても男がすたる。・・中略・・私は何回も相浦主計長に“私ハ大丈夫デス。要リマセンカラ”とかなんとか言って渡そうとしたがその都度拒否されてしまったので、艦橋の隅に置いておいて、明け方になってから付添の主計兵に、イザという時、必ず着せて差し上げるようにと言って、渡しておいた。・・中略・・ 図らずも愛知県知多市知多町の関徳男氏(当時主計科庶務係)が主計長の最後の模様を目撃しておられると伺ったので、雲鷹沈没後36年の歳月を経た、昭和55年4月同氏の御宅を訪問し、直接御話を伺う機会を得た。関徳男氏は次のごとく語られた。 艦が沈む時の私(関)は、戦闘記録作製の当番勤務で、艦橋の中に居た。前任者との交代は午前6時頃だったと思う。そのあと、ずっと相浦主計長と行動を共にした。艦長は、副長に、下に行って補強箇所の状況を見に行くように指示された。副長は降りて行かれたが、やがて帰って来られて、“最早補強は全然駄目です”と報告された。艦長は榊原鉦松従兵兼伝令に命じ“総員集合上甲板”を下達され、榊原氏は艦橋右舷から外に飛び出して行った。副長も出て行かれた。艦長は、残っている主計長に傾斜の度合を示す計器の目盛りを何回も訊かれ、その都度主計長は報告しておられた。その後は艦長も主計長も無言のまま。艦長は羅針盤を背にして、洋刀を持って直立され、主計長は、海図台の前に、戦闘服装に軍刀をついて、前方をじっと眺めて直立されていた。その間は5分くらいだったと思うが、1時間も長く感じられた。(土田註、雲鷹戦闘詳報の記すところによれば、“総員上れ”の下令は0748、沈没は0755となっている) 突如主計長が叫んだ。“関!出ろ!” 私(関)は戦闘記録の用紙をとっさに胸ポケットに入れて、艦橋左舷から飛び出した。・・中略・・私が上甲板に到達するかしないかに、艦は後部からどんどん沈み、私も渦の中に巻き込まれてしまった。艦橋における木村艦長と、相浦主計長の姿は、神そのもののごとくでありました(*8)。 ・・・・・   12.主計長の救命胴衣 土田国保の回想続く。 ・・・・・ ところで、相浦さんの救命胴衣はどうなったのであろうか?この回答は、42年の歳月を経た昭和62年1月になって私(土田)の手元に飛び込んで来たのである。・・中略・・当時士官烹炊所に一等主計兵として勤務され現在名古屋市にご健在の柴田鈴嘉氏からの御手紙によってであった。それによれば被雷後、夜明けと共に主計兵長の人と御本人(柴田)の二人で、主計科事務室に総員名簿を取りに艦内に入り、乾パンとサイダー便も抱えて艦橋に上り、主計長に総員名簿と持参の糧食を届け、“柴田一主、帰ります”と申告したところ、“おまえは水泳不能者だったなあ、これを持ってゆけ”と士官用マークの入った救命胴衣を差し出された。兵の私が、とためらう柴田氏に、主計長は“早く持って行け”と言われて、有難くいただき、その救命胴衣のお陰で、命を全うすることが出来たとのことである(*9)。 ・・・・・ これを要するに、相浦は雲鷹被雷に際して、自分の救命胴衣を、初めは便乗者である土田主計少尉に、土田に辞退されると後に水泳不能者の柴田一等主計兵に譲り、柴田一主は、この救命胴衣によって命をながらえることが出来たということになる。当時軍艦の戦没に際して、艦長が艦と運命を共にするのは、謂わば、海軍の慣行であったが、主計長が必ず艦橋に残らなければならないという慣行はなかった。相浦が艦と運命を共にすることを選んだのは、何故だったのであろうか。   結び さて、相浦の戦死をめぐって、いくつか彼の心事を考えてみたい。 まず、救命胴衣を他者に譲った行為について。 既に本稿において取り上げてきた「サービサーとしての自覚」「愛と献身」という心的なモチーフが、相浦をして救命胴衣を他者に譲るという行いを為さしめたことは明らかであろう。これら心情は、おそらく相浦の高校生時代からの思惟やカトリック入信などよりも前に、相浦家の家庭で、両親の躾の中で自然と育まれたものと考えられる。相浦の場合、「よき行い」「あるべき行動」の倫理感の方が先にあって、それを裏付けるために哲学的、宗教的思惟に沈潜し、ついにカトリックの信仰に到達したのではないかと考えられる。さらに、既に相浦は、便乗者土田に救命胴衣を譲ろうとした時点で、「艦と運命を共にする」ことを覚悟していて、救命胴衣は彼にとって不要のものであったとも考えられる。 次に、カトリックの教義と「艦と運命を共にする」覚悟について。 相浦の戦死の様相から、沈没に際して彼が進んで艦橋に残り、「艦と運命を共にする」ことを選択したのはほぼ明らかである。しかし、主計長が必ず艦橋に残らなければならないという慣行はなかった。「艦と運命を共にする」ことは相浦の主体的な選択であった。 一方で、カトリックの信仰は自殺を禁じている。古くは、関ヶ原合戦の前に、西軍の人質となって大阪城に入る事を拒んだ細川ガラシアが、キリシタン故に自害を選ばず、(形式的ではあるが)家臣に座敷の外から自らを刺殺させた話は有名である。相浦の「艦と運命を共にする」行為は、カトリックの教義上の自殺に当たらないのか、あるいは救命胴衣を他者に譲った行為は「愛と献身」として正当化されうるとしても、相浦は艦橋を出て、及ばずとも泳ぐべきではなかったのか。 これについて、相浦が書き残したノートから、あるいは土田らの証言から想像しうる相浦の心事は、「自分は志願して雲鷹に乗艦してきたのだから、艦と運命を共にする」というものである。雲鷹主計長の前の相浦の軍歴は、海軍省人事局勤務、海軍経理学校庶務主任、分隊士など内地勤務ばかりであり、武蔵同期の宮澤ほど明示ではないにしても、海軍の人事によって選別され、内地に残されたと解釈しうるものであった。相浦はおそらくこれを潔しとせず、敢えて「第一線熱烈志望」の声を上げて雲鷹に配置されたとされている(*10)。「敗戦必至」の透徹した認識を持ち、敗戦後日本再建の責任まで引き受ける事をも考えていた相浦が、一方では敢えて戦場に自らの身を捧げる覚悟を持って、第一線を熱烈志願したのは、自分と同世代の若者達が多数戦場に倒れて行く中で、自らが殊更に優遇されているのではないかという疑いに耐えられなかったからではないか。これもおそらく、哲学的宗教的思惟や信仰の以前に、相浦家の家庭で、両親の躾の中で自然と育まれた、彼の倫理感ではなかったのだろうか。 最後に、小泉信吉との比較。 以下は少し本稿筆者の独断になるかもしれないが、小泉信三著「海軍主計大尉小泉信吉」を読み、『相浦忠雄遺稿集』を読むと、二人の個性(小泉は明るい慶應ボーイ、相浦は武蔵―帝大の一つの典型である深く思索に沈むタイプ(*11))を超えて、微かだが社会階層的な、あるいは出身家庭による差異があることに気づかされる。それは、封建時代で言えば、同じ武士階級の上士と下士程度の僅かな差異に過ぎないのだが、二人の家庭が育んだモラールには、やはり少しだけの違いがあるようだ。 小泉の家庭は、いわば近代社会におけるブルジョア階級であり、経済的にはきわめて恵まれていた。「海軍主計大尉小泉信吉」の中で、信吉が訪ねる叔母の嫁ぎ先安川家は、相浦の父の勤務先、明治鉱業のオーナー、炭鉱主である。一方相浦は炭鉱の社宅で生まれたホワイトカラーの出身。昭和になって、東京で言えば山手線のターミナル(池袋、新宿、渋谷など)から西に延びる郊外電車の駅近くに住宅を持ち、いわゆる労働者、農民階級からは一線を画すが、資本家階級でもない、新しい中産階級、サラリーマン階層が相浦の立ち位置である。(相浦家は吉祥寺に居を構えた) この時代、前者の中で良質な人々は、いわゆるNoble’s obligeの倫理感で戦争に参加していった。個々の政府施策への批判は置いても、戦争は彼らの戦争であり、守るべき国家は彼ら自身のものであった。第一次世界大戦に於いて、英国のパブリックスクール出身者が、塹壕を飛び出し、ラグビーボールを敵陣に蹴り上げて、部下に先んじて突撃していった(*12)ような、スポーツ感覚とユーモアが、小泉信吉のとくに巡洋艦那智勤務時代の日記や書簡からは読み取れる。 一方後者、山の手サラリーマン階級の倫理感は、この階層が子弟に与えた深い教養に根ざしている。本稿筆者は、吉野源三郎「君たちはどう生きるか」の主人公コペル君と叔父さんとの会話、手紙のやりとりの中に、相浦や当時の武蔵生達の与えられた教養や、育まれた倫理感を見ることが出来るような気がしている。便乗者や水泳不能者に、「オイ」と軽い調子で救命胴衣を譲って、自らは艦橋に残るという、雲鷹沈没時の相浦の行為の背景には、昭和期になって新しく勃興してきた勤め人階層の、深い教養に裏打ちされた「コモンセンス」の文化があったのではないだろうか。   注 *1 『相浦忠雄遺稿集』岩波書店、3~4頁 *2 皇紀を用いている。 *3 近藤道生「私の履歴書」日本経済新聞2009(平成21)年4月1日、第1回 *4 『相浦忠雄遺稿集』142頁 *5 同上書、148頁 *6 同上書、250頁 *7 土田国保「相浦忠雄主計少佐の最後」雑誌『水交』第406号、1988(昭和63年)3月 *8 同上 *9 同上 *10 近藤道生「私の履歴書」日本経済新聞2009(平成21)年4月1日、第1回 *11 日米学生会議で渡米の折、船内で相浦に「好かれた」と主張しているある女性は、彼のことを「なんだかモッサリしていた」と述べていたという。 *12 池田潔『自由と規律』岩波新書   ↑ 旧武蔵高等学校校舎(現在の大学3号館)横での旧制武蔵高等学校11期生の集合写真。1933年~1939年の間の撮影と思われる。相浦忠雄は前列の左から3人目で、右足を階段のふちにかけ、膝の上に右手を置いている。なお、右から7人目は、第78代総理大臣となった宮澤喜一。この写真は、生物学研究室に保管されていたガラス乾板を復元・現像して電子化した。
2018.12.13
校名『武蔵』のこと
【武蔵学園記念室より:以下の文章は、故大坪秀二氏(高校16期・元武蔵高等学校・中学校校長)が生前、「特別読みもの 武蔵七十年史余話」の一つとして、『同窓会会報』第40号(1998年11月20日)に寄稿されたものである。】 ↑ 設立当時の文部省事務官であった本間則忠がまとめたと推定される、「武蔵と名付けたる事由」の冒頭部分。全文と注釈が、武蔵学園記念室発行の『武蔵学園史年報・創刊号』(1995年)に収録されている。  前号に三理想の成立過程のことを書かせていただきました【編者注:『同窓会会報』第39号に著者が「三理想の成立過程を追う」を寄稿されたことを指す。「三理想の成立過程を追う」は、当ホームページ紀伝編コーナーにも全文収録されている】。  多くの方から読後感を寄せていただき感謝しております。図にのって今年も、まともな史料集には載せられない、しかし、私にはかなり真実らしく思える物語として、「校名が武蔵と名付けられた経緯」を発表させていただきます。なお、文中、創立者根津翁、創立以来武蔵を育て上げた山本先生、その他全ての人々の敬称を省略しました。なにとぞご了承下さい。   ◆「東京」を譲って「武蔵」になった  これまで、『武蔵七十年史』・『武蔵七十年のあゆみ』その他に書かれているとおり、財団法人根津育英会の設立申請は1921(大正10)年7月25日、同財団の事業としての七年制高等学校の設置認可申請は同年7月27日で、申請書にある校名は『東京高等学校』でした。『武蔵七十年史』(写真集)には、この部分の写真が載せられています。育英事業を始めることを根津嘉一郎(先代)に勧誘し、その実現まで根津の手足となって働き、学校の開設準備万般の実行役を引き受けていた本間則忠の記録(『学園史年報創刊号』、55ページ)によれば、学校設置申請の直後に文部省から、東京に国が作る予定の第21高等学校(はじめ三年制で作る予定を、大正九年に七年制に計画変更)に『東京高等学校』の名を譲ることを求められ、急遽新校名『武蔵』について関係諸氏の賛成を取り付けた上で変更決定したものとあり、「名称については深遠なる典故を有す」と付け加えられています。本間が書き残した『本校創立事情記録』の中の「校名を武蔵と名けたる事由」は、『武蔵五十年のあゆみ』(1972年刊行)に初めて紹介されて以来、同窓生・在校生の多くの人々にとってなじみ多いものとなっていることと思いますが、本稿を読んでいただく便宜のために以下に引用します。  一、学校の設立せられたる国名に因みたり。即ち此の学校の位置が武蔵国に在るが故なり。而して群町村の名に拘泥せざりしは、古来世に広く知られ、且尊き記録を有する国名を採るに若かざるを以てなり。  二、学校の設立せられたる歳に因みたり。即ち此の歳には世界の大戦漸く戢まり、新たに平和条約の締結を見たり。依て戢武崇文の義解に随ひ武蔵と名けたり。  三、学校訓育の要義に因みたり。即ち武蔵の往古には万葉仮名にて兂邪志と書かれたり。然るに人として邪志を有せざることは人格向上の基礎にして、学校訓育の要義に他ならざるを以て採りて校名と為したり。   ◆旧制時代の伝承  なお、この校名変更の一幕は前述の通り大正十年八月中のことで、創立以来武蔵の中心人物となった山本良吉教頭(後に校長)が開校準備に関係する以前だったわけです。その山本によって、この校名変更の経緯が生徒に語られた記録は、私の探し得た限りでは『校友会誌34号』(昭和12年6月) にある「開校十五周年記念式山本校長式辞」だけで、それには次のように書かれています。 「大正七年[筆者注: 十年の誤り] に愈々本校を造る時には『東京高等学校』の名前で出願したのであるが、文部省の方でその名を欲しいといふので、東京よりは少し広い武蔵高等学校としたのであります、その時に日本高等学校とでもしたならばもっと広かったのですが。」  いま読むと、これはかなり皮肉をこめた表現のようにも思われます。同様な話は、折にふれて、山本はじめ何人かから繰り返されたのでしょう。旧制時代の多くの人が記憶しているようです。生徒の一人としてこの話を聞いた私の記憶には、「東京より武蔵の方が大きい」という山本校長の一言だけが鮮明に残っています。そして「大きいだけか」という、何か割り切れない思いが残ったことも確かでした。   ◆本間則忠は知っていた  校名変更の話は、一見単純な瑣事でした。三年ほど前に思い立って、七年制高校誕生を導いた大正六〜七年の臨時教育会議の詳細を調べはじめて間もないころ、これまで当然気が付いていてよかった筈の一事にはたと思いが及んで、校名武蔵のことを私は再考してみる気になったのです。そして、校名の由来をつくづく読み返すうちに、その第二項をこれまで全く迂闊に流し読みしてきたことに思い至りました。大正七年の新高等学校令で従来の第一から第八までの高等学校に加え新設されることになった高等学校には、新潟・松本・山口・松山……のように、設置する都市の名を冠する習慣が出来て、後にナンバー校に対し地名校と呼ばれるようになったのはよく知られています。そして、第21番目に設置を予定された高校は東京に作られるものですから、当然それは『東京高等学校』と呼ばれるのが当事者間では自明のことだったでしょう。本間則忠は文部省事務官として当事者側の一人でもあったわけです。その本間が殆ど一人で切り盛りした「根津家設立の学校」の名にわざわざ『東京高等学校』と書いて出すことの裏には、何か理由がないはずがないということに、今更ながら気がついたというわけです。   ◆武蔵命名はヴェルサイユ条約の年!?  これから先のことは私の推理でしかなく、状況証拠以外のものは今のところ皆無です。本間は官立の21高校が東京高校になることを知っていた筈です。だから、根津が設立する七年制高校の名前を考えるときには、当然『東京』以外の名を選んだでしょう。そして、本間と根津との間に校名の相談があったのは、七年制高校創設について関係者の合意が出来たごく初期の段階(おそらく大正八年末か九年)であることを暗示するのが、上に引用した「校名由来」の第二項だというのが、私の推測です。学校設立の年は大正十年で、大戦終結・条約締結の大正八年ではありません。 これを本間の思い違い、書き違いと言ってしまえばそれまでです。しかし、この時代に生きた人々が二年もの間違いをするでしょうか。事実、本間が書き残したもう一つの文書(『学園史年報第一号』61ページ) には、「時は正に世界大戦の後を亨け、今や平和条約の央に属す。戢武崇文を以てこの学校の名となすこと、たまたま以て創立の歳を紀するの便も亦鮮からざるなり」ともあり、より明確に大正八年を指しています。これらの文章から見ると、「学校の設立せられたる歳」とは、学校設立がはっきりと第一歩を踏み出した年と解釈できるのではないでしょうか。構想の初めからの二人(根津と本間)にとって、心の中に温めていた新事業がしかるべき後援者を得て動き始めた年(大正八年)こそ、記録すべき年だっただろうと思います。しかも、その時新制度「七年制高等学校」を国が設立する計画は難航し、五里霧中の状況でした。此の状況を傍らに見つつ、二人は「我等こそ新制度の先駆者」との思いが強かったことでしょう。   ◆文部省には貸しがあった  しかし、文部畑に長くいた本間は、此の国の官民の格差がどれほどのものかを熟知していました。そもそも、七年制高校は新高等学校令で高等学校の正規の姿として定められながら、国としてこれを実現する意図はもともとなかったようです。根津家の企てや甲南中学の七年制への移行計画などが文部省を揺さぶって、やっと一校だけ官立で作る決定はしたものの、その具体化は前述のように五里霧中でした。そんな事情があるのにその後の進行では、後発の官立七年制高校が全ての面において根津の私立高校に一歩を先んじる形の措置がとられています。学校の設置/設立認可の時期、校長の任命/就任認可の時期、開校日、そして、武蔵が一年生のみ募集したのに対して官立は一、二年生を同時募集して一年早く卒業生を出すなど、今の目で見るとき幼児のような優越心の表明らしいものさえあります。そのことを知りつくしていた本間にとって、ひとつだけ出来る悪戯は「校名の先取り」だったのではないでしょうか。『武蔵』という校名は、とうに根津との間に決定ずみであったにも拘わらず敢て伏せておいて、設立認可申請には文部省予定の『東京高校』で出す。「国も一度くらいは先駆者の根津育英会に頭を下げたらどうだ」と!本間の記録には、文部省からの要請により(校名につき)更に研究を重ね、急速の間、本間案を逗子滞在中の平田総裁の邸を始め各評議員邸を持ち回り云々とあります。根津・宮島・正田・本間の四人の相談について一言の言及もないのは、その部分が校名決定の核心に触れるから敢えて避けたのではないでしょうか。   ◆熱い思いと冷めた思い  根津や本間が校名にこめた思想をあらためて要約してみると、それらは、古代伝説も含めた武蔵の国への愛着、平和主義、邪志なき誠意の三つであり、全体を一括して武蔵の国という名と実への愛情が読みとれます。殆どが文字の上の遊びとはいえ、新設校への根津とその周辺の思い入れを表していたと思われます。本間が山形県の出であることを除くと、宮島は栃木県、正田は群馬県出身で、大きく言って皆「東国」の人達です。根津自身は山梨県人ですが、幕藩時代から甲斐は江戸と直結の地ですから、創立に関わった根津側の四人が、東国の中心である武蔵の国という名に西の人間よりも大きい愛着を持ったであろうことは推測できます。別の資料から見ても、根津は会津の白虎隊顕彰碑建立に私財を寄付したり、創立後の武蔵に御真影奉安殿を造るという学校側の提案を理事長決定で凍結したりで(『学園史年報第三号』185ぺージ)、政治思想として明治新政府を好まなかったらしい節が見えます。この側面から見ても、もし、「東京」か「武蔵」かと並べたとしたら、殆ど確実に「武蔵」が選ばれただろうと思うのです。  創立後の武蔵には、このような思想は継承されませんでした。それは、山本教頭の思想との齟齬に起因すると思われます。『晁水先生遺稿集』(正続)、『校友会誌』などに残る山本の話を検討してみると、平和主義に関するものは殆ど見あたりません。自由主義についても、青年期のことは別とすれば、かなり否定的な見解を持っていたようです。大正デモクラシーを特徴づけた自由主義教育などは、山本から見れば「先年初等教育界に盛んに行われた一弊風」であったらしく見えます(山本良吉『若い教師へ』大正十一年刊行)。山本は金沢に生まれ、京都での生活が長く、基本的に京都文化圏に浸って過ごした人です。彼にとって「武蔵」という名に特別の思いはなかったでしょう。しかし、山本は本間の残した『本校創立事情記録』を読んでいました。読んではいても、根津・本間の気持ちに共感を持たなかった山本は、言葉の上でのこじつけのような「校名の由来」を尊重する気にならなかったのでしょう。   ◆武蔵は初めから武蔵  以上、推測で固めた私の小論を、同窓各位はどう読んで下さったでしょうか。どうせ証拠はないことで、ただ、それらしい状況があるだけです。それなら、「武蔵は初めから武蔵であったらしい」ということ、そして、武蔵創立に関わった人達は武蔵野の大地とそこに結びつけられた古代の伝承を愛し、人間のまっすぐな誠実を愛し、大戦の後に漸く手にした平和を心から喜んだ人々であったという推理を真に受ける方が素敵ではないでしょうか。そして、武蔵の歴史を読むときに、創立者根津嘉一郎の社会貢献の志とともに、校名『武蔵』にこめた創業者たちの思想にも思いを馳せて頂けたらというのが、実り少ない史料あさりを懲りもせずに続けている私の些か厚かましい願いでもあります。 (筆者より:七年制高等学校を制度の中心に置いた大正七年の新高等学校令の成立や、それを審議した臨時教育会識の全体像については、日本の教育史上の重要事としてより詳細に論じる必要がありますし、資料も沢山あります。しかし、本稿ではそれらを一切省略しました)   ↑ 建設中の武蔵高等学校校舎(現在の大学3号館)  
2018.12.13
三理想の成立過程を追う
【武蔵学園記念室より:以下の文章は、故大坪秀二氏(高校16期・元武蔵高等学校・中学校校長)が生前、「特別読みもの 武蔵七十年史余話」の一つとして、『同窓会会報』第39号(1997年11月30日)に寄稿されたものである。】 ↑ 武蔵高等学校(旧制)校舎前における一木喜徳郎校長(左)と山本良吉教頭(右)   ◆創立の時、いまの三理想はなかった!?  初代教頭・三代校長山本良吉先生の手になる『武蔵高等学校歴史』(いわゆる六年史)には、1922年4月17日の第1回入学式に一木喜徳郎校長が「本校の成立、使命および三理想について式辞を述べた」とあり、三理想の原型、「東西文化融合のわが民族使命を遂行し得ベき人物を造ること。世界に雄飛するにたへる人物を造ること。自ら調べ自ら考える力を養うこと。」(あとで『第2の原型』と呼ぶ)が記されています。三理想がどのように発想されたかについては一木・山本両先生の後日の証言があり、お二人の合作であるらしく推測されますが、その時代のなまの史料としては創立の前年5月、根津家の公式発表での一木先生の談話(武蔵学園記念室の年報創刊号に収録、当時の各新聞社の記事でも裏付けられる)と、入学式3日前の教師会における校長の訓辞原稿(『武蔵七十年史』15ぺージ。筆跡は山本先生のものと推測される)とがあります。後者は冒頭に「正義を重んじ真理を愛し、自ら理解考究する能力を有し、将来世界に活動し得る体力を有す」とあり、これが三理想の『第1の原型」でしょう。しかし、七十年史編集の時の私は、この史料をみていながら、この原型が僅か3日後に六年史に記録されている『第2の原型』ととり換った不思議さを、とくに感じることなしに過ごしました。初めて「おやっ?」と思ったのは、その後、山本先生の原稿集(製本されて何冊にも分かれている)の初めの一冊に、製本洩れになって、はさまっている5枚の談話原稿を読んだときです。それは1924(大正13)年4月8日の教師会のためのもので、新学年を迎えるにあたっての各教師の心得を詳細に説いた最後に「本校に於いては、真理を愛し、正義を重んじ、将来世界に活動し得る人物を造るを主としたく教授も仕附(しつけ)もすべて之を目安としたし」とあるのです。  つまり、創立初年に一木校長が話された「第1の」原型は、少なくとも2年後まで生きていたことになります。この時から、三理想成立に関する私の史料あさりが始まりました。実は、この草稿は『晁水先生遺稿』の327ページに載っていますので、読んだ方は多いと思うのですが、一木校長の訓辞と結びつけた人は多分ないでしょう。『一木訓辞』は『武蔵七十年史』で初めて人の目に触れたのですから。   ◆2年後に出来た『第2の原型』  私の「三理想あさり」は、詳しく書くとかなり長くなります。結論を先に言えば、『第2の原型』は1924(大正13)年の3月末頃に出来たものと推測され、したがって、武蔵六年史の第1回入学式の記述は、意図的に事実と違えて作られたのものと思われるということです。24年4月以降に書かれたと思われる『理事会における大正13年度予算案説明文書(山本教頭による)』の中に、「本校元来、東西の文化を融合し世界に雄飛する底の人物を養うを薫育の一方針とすることは、校長が新入生に対して告げらるる所なり」とあり、記録の中に初めて三理想の項目が二つ出てきます。前に記した同年4月の教頭談話草稿には、まだ『第1の原型』が述べられていることを考えると、『第2の原型』の成立はその教頭談話草稿が書かれた時期と4月始めの入学式との間のごく短い期間の中だと考えます。恐らく前々から一木・山本両先生の間に相談の積み重ねがあった結果、その入学式の式辞に結実したものでしょう。『予算案説明文書』は予算案提出の時点のものでなく、理事会の査定で「生徒の外国旅行への教師付添費」が切られたことへの復活要求として書かれたと見る根拠がありますので、「校長が新入生に対して告げらるる所なり」と言っているのは、「ついこの間の入学式で一木先生が言われたでしょう、あの三理想ですよ」というふうに読めば、すんなり読めます。「何時の新入生に」とか「第1回からずっと」とかの限定がないのは、理事長はじめ理事諸氏にとって、すぐ思い起こすことが出来るつい先日のことだったからではないでしょうか。   ◆東西文化融合と民族理想の合体  『根津翁伝』には一木校長の話として、「『東西文化融合』は大隈重信が言っていたことで私自身も良いと思った」ということと、「『世界雄飛』はヴェルサイユ会議のことを牧野伯から聞いて以来の私の主張である」こととが述べられています。出典が示されていないので真偽不明ですが、武蔵関係の記録に大隈云々の話はないので、根津翁伝の編者は何か独自の資料を持っていたのでしょう。『世界雄飛』については、大正10年5月の根津家育英事業発表時の記録に明記されています。ただし、「世界に雄飛」ではなく「世界の舞台に立って活動」、「世界の日本人」という表現です。この表現の根底にある心が開校当初の『第1の原型』に確かに合まれているのがわかります。  一方、山本教頭には、約1年間にわたるアメリカ・ヨーロッパ視察旅行からの帰途船中で書いたという著書『民族の思想』があります。第1次大戦後の極右、極左台頭の時期のヨーロッパを周遊して、先生はその保守傾向(私の独断で恐縮ですが)に加えて民族主義、国家主義的な理想を強めて帰国したらしく思います。この本で主張する『わが民族の理想』とは、「日本の民族文化を基礎として、それを欧米的文化によって深高化し、世界的な新文化を創造して人間の文化史に貢献すること」であり、その日本民族文化とは、「いわば神道……存在・恩・義務を基礎とした国民道徳で、その発現の中心が皇室であることに特質がある」としています。山本教頭は後に『創立当時回顧座談会』(昭和11年、速記録あり) でも、「東西文化というが、東の方が大切だ」と、『民族の理想』での主張に近いことをのべています。『東西文化融合』という言葉が、必ずしも気に入っておられなかったらしく感じます。一木・山本両先生の話し合いで、一木先生は『東西文化』を持ちだし、山本先生は『民族の使命』あるいは『民族の理想』を持ち出して、両者がつけ合わされたものかと思われます。いずれにせよ、開校時の「第1原型」三項目に較べてかなり校是らしい体裁になったと同時に、民族主義・国家主義的な匂いがついたと思うのは私の偏見でしょうか。校長になった後の山本先生は、昭和13年に『三理想の英訳』を定めています。ここでは、『融合』は『Harmonization』となって一歩穏やかになり、『雄飛』は『to act on the World-Stage』となって、一木校長の表現に近づいています。私は、山本先生の思想傾向が昭和11年頃(二・二六事件のころ)を境に変化したと考えるものですが、三理想の英訳はそれをいささか裏付けているような気がします。   ◆史料に見えはじめた三理想  話が少し横道にそれました。三理想を初めて述べたと思われる大正13年入学式での一木校長の式辞は記録がありません。山本教頭の教務日誌その他にも三理想の影は見えません。翌14(1925)年7月に『校友会誌』が創刊され、その巻頭に『一木校長入学式訓辞大要』というのものが載っています。それには「本校は東西文化の融合を計るのが国民の任務であるという信念の上に、万端の施設をなしている…」と三理想の第一項目だけが述べられています。また、この年度の初めの「校報」(教師向けの会議まとめ)にも、校長式辞の概要が記録されています。思うにこの年以降、学校は三理想の生徒への周知に力を入れたようです。「校歌」が募集されたのもこの年からのようです。26(大正15)年12月発行の校友会誌第4号には、懸賞校歌応募3等当選作品(3期相当、小林保雄氏作)の発表があり、その歌詞に「我等の力は日毎に増して、天下に雄飛す準備は成らむ……」と三理想の第2項がちょっぴり詠み込まれています。そしてその選評に、「校歌は一校の理想・校風・特質等を標榜し、全校生徒の血潮を高鳴らしむべきものであってほしいと思う」とあり、この年から校歌が募集されて、しかも、そこに『本校理想』が歌い込まれることが奨励されていたが、実際の応募作品には従来の寮歌風のものが多く学校側の満足が得られなかったことが述べられています。この年は3等が最高でした。同じ号に脇田 忠氏(2期文)の『我等の使命』と題する論文があり、その中に「……。人物が出来て始めて東西文化の融合を望むこともできれば…」というくだりがありますから、おそらく、理想の三項目は既に発表されていたことでしょう。それにしても、当時それを印刷して生徒に配ったものがあってもよいと思うのですが、現存しません。「あった」という証言だけでもほしいものです。翌27(昭和2)年7月発行の校友会誌第5号には応募校歌当選作として、谷田閲次氏(2期文)の『2等作品』(「東西文化合壁の、灯かかぐる我ひとの……」の一節あり)と、野辺地東洋氏(3期文)の『2等作品』(「…東西古今の華をあつめん」の一節あり)とが発表され、選評には「本校理想の三大綱領も、割合よく歌い出されているが…」とあります。前年度の作品にも『雄飛』はあったのに不満とされ、この年の作品は、『東西文化』はあっても他の二つはないに近い(『雄飛』らしく見えるものはある)のに褒められているのは、歌としての善し悪しではあるとしても、少し奇妙に感じます。もしかすると三理想の最重点は『東西文化』であり、それを歌い込んでいないものは不満だと言うことかも知れません。なお、主に旧制時代の歌を集めた『武蔵歌集』が今年同窓会から刊行されますが、これらの当選歌はそこに収録されています。   ◆権威づけられた三理想  以上の経過を経て、28(昭和3)年4月15日の開校式(七学年が揃った時点での披露式)を迎えます。この式で一木前校長は、式辞の中で、自分がかつて第一回入学式の折に訓示したことだとして、修飾の多い漢文体で三理想を述べておられ、かつ、それを『三大理想』と呼んでおられます(校友会誌第7号)。私の独断で恐縮ですが、これを書いたのは一木先生でなく漢文の加藤虎之亮先生だと思います。たしかに一木先生は漢学の高い素養を身につけておられましたが、演説や著述の文章は平易で極めて明瞭です。この式辞のような、難解な言葉を多用する修飾の多い文章は、一木先生に、とりわけ生徒に語りかけるときの一木先生に似合わないように思います。加藤先生による双桂寮記、愛日寮記と文章の発想法が似ていること(似ていないという方もおられますが)、根津理事長の祝辞その他や、山本校長校葬の折の一木理事長弔辞などは多く加藤先生の手になるという証言があることから見ても、ありそうなことです。前に引用した『創立当時回顧座談会』での加藤先生の発言に、開校時、第1回入学式での一木先生の式辞の内容はと問われて、「三大理想です。あれを敷衍してずっとお話しになった」、「三大理想を一木先生が堂々とお述べになり」というくだりがありますが、「開校式」での一木前校長祝辞が加藤先生の代作だとすれば、話のつじつまを合わすためにも、加藤先生としてはこう言わざるを得なかったことでしょう。というより、代作した時点で既に、「三理想は第1回入学式で校長が述べたもの」と思いこんでおられたと考えるべきでしょう。一木先生は在任中4回の入学式式辞のうち、あとの二回には確かに三理想を、あるいはその一部分を話しておられたわけですから。1932(昭和7)年に創立十周年の記念式が行われましたが、その時の一木先生の祝辞の速記録が校友会誌第19号にあります。この時の話は至って平明なアドリブ調で、「本校は兼ねてより正義を重んじ、研究を尊び、而して将来のモットーとしては、世界の文化を進め人類の幸福に寄与すると云うことを信条としておるのであります云々」と、創立の時の『第1原型』に近い言葉が語られているのはまことに興味深いと思いますが、いかがでしょうか。  ともあれ、走り書きのような第1原型から始まった三理想を、校是に相応しい表現に直すこと、そしてそれを、第一回入学式に校長が生徒に表明したと学校史に記述し、同時に開校式での一木前校長祝辞で裏付けること(大正13、14両年の入学式で一木先生の訓示はあったものの、その内容は恐らく三理想の完全型でなく、山本先生にとっては意に充たぬものだったのでしょう)、これが山本先生のシナリオだった筈です。そのためには、開校式での前校長祝辞が一木先生の即妙の話で予定と違うものになってほしくなかった。加藤先生(でないにしろ一木先生以外の誰か)が祝辞を代作してそれを一木先生に読んでいただくことは、山本先生のシナリオにとって不可欠なことであり、予め一木先生の了解を得てあったことだろうというのが私の推測です。私個人の感想をつけ加えるなら、三理想の成立をそのように細工をしなくても、ありのままに伝えて良かった筈だと思います。理想の形が整うのが創立の2年後だからといって、三理想に傷が付くわけのものでもなかったでしょう。   ◆自由を我等に!『我々自身の三理想』  どの学校にもある校訓・校是が、前大戦以降の新時代に古い形のままで生き続ける例は必ずしも多くありもません。この点で、武蔵の三理想は時代を超えて生命を持ち続けていることを誇れると思います。とはいえ、今の目で見れば、「世界に雄飛する」という言葉が持つ戦前の膨張主義臭さとか、文化を東西に限定して東西南北多種多様な文化を互いに認めあう現代的視点を欠いていること、異文化どうしを融合するという考えに潜む独りよがり、それに、民族理想という断定など、多少の抵抗感なしには受け入れにくい点もあります。このことについては、以前、ある先輩の方からも「少なくとも第一理想の文言は改めるべきである」とのご指摘もありましたし、私自身、生徒に対しての話の中で、前述の諸点について注釈付きで三理想を説明してきたという経過もあります。三理想が示す「方向性」については、一木・山本両先覚者の見識に敬意を抱きながらも、後に続く我々としては、我々自身の現代的な思想の中で三理想を受けとめることが、我々に与えられた自由であろうと思います。三理想の成立の歴史を見ることも、そうした「我々自身の三理想」を形成する上で意義あることではなかろうかと考えて、独断と偏見の謗りを顧みず一個人として推測を書いてみました。   ◆追記…『三理想』か『三大理想』か  なお、1923年度から44年度までの22年間、43(昭和18)年を除いて毎年刊行された武蔵高等学校一覧に『三理想』が載るのは29(昭和4)年版からで、しかもその文言は現在と同じ「……人物。」のスタイルで書かれています。つまり、昭和3年度の一年間に「……人物を造ること。……力を養うこと。」のスタイルから現在の形に変えられたわけです。また、武高一覧ではずっと『三理想』のままで、『三大理想』ではありません。しかし、旧制時代の生徒達は『三大理想』という表現に慣らされてきたので、『三理想』というと違和感を覚える方もあるようです。そしてその『三大理想』の原点は、昭和3年開校式の一木前校長式辞であることは、ほぼ確実だと思います。  一つだけ私が気がかりに思っているのは、創立の年の一学期に生徒が発刊した同人誌の名が『雄飛』で、その会の名が『雄飛会』だということです。第一回入学の先輩たち何人かに伺ったところ、「それは三大理想の雄飛だろう」といわれる方もあれば、「三大理想とは関係ない。当時の世の中では『雄飛』という言葉はそんなに珍しいものではなかったよ」といわれる方もあります。私は、私の推測にかなりの自信をもっていますが、動かぬ証拠が出て私の推論が全て崩れても致し方ないことですので、新たな資料を寄せていただけることを切望しています。
2018.08.20
オンケルの遺産 「民文」の礎を築いた原田亨一
はじめに  原田亨一(1897―1938)は、自らの号、恩軒にかけてオンケルと自称され、その愛称で生徒に非常に親しまれた旧制武蔵高校の歴史の先生である。原田は在職中、病床に倒れ、そのまま惜しまれつつ病没した。その教育熱心な授業態度や校友会活動に積極的に取り組まれる姿は教職員や生徒から多大な尊敬の念を集め、その一端は、『校友会誌』(追悼特別号)*1によって明らかである。その内容は、まず名物教師といってよいものであり、愛敬あふれるエピソードにめぐまれている。生徒とのほほえましい話は同号に多数収められており、原田氏の普段の活動については、同号を良く読んでいただければお分かりいただけるだろう。そこで本文では、追悼号では余り触れられなかった、原田亨一の歴史学者としての側面に注目し、学生時代のエピソードや研究テーマ、論文を参照し、武蔵の教育に与えたであろう少なからぬ影響についてみていきたいと思う。 1、大学・大学院学生時代  原田亨一は、明治30年(1897)に高知県高知市に生まれた。大正4年(1915)に第三高等学校第二部甲類に入学するも、同8年(1919)に病気を理由に退学する。同9年(1920)に第六高等学校文科乙類に入学し、同12年(1923)3月に卒業すると、同年4月に東京帝国大学文学部国史学科に入学した。同級生には、皇国史観で固まっていた東大国史研究室を戦後になって立て直し、実証的な歴史研究で多大な業績を挙げられ、後に文化勲章を受章する坂本太郎がいた。坂本は自叙伝の中で原田のことについて以下のように語っている。  原田亨一君は、肋膜で永く休んだとかで年がかなり上だった。自称オンケルOnkelというあだ名を披露して、よくみんなの面倒を見た。ただし学校の講義にはあんまり顔を見せず、修学旅行だけは休んでは卒業できぬという噂だといって参加した。無類の歌舞伎好きで、この人の案内で同級生数名が歌舞伎座の三階に行ったことがある*2。  歌舞伎好きが高じて卒業論文は、出雲の阿国歌舞伎についてであり、後に昭和3年(1928)に至文堂より『近世日本演劇の源流―阿国歌舞伎の内容と其の発展を中心として―』と題して出版されている。さすがに、戦前の研究のため現在では引用されることも少ない本書であるが、本書の史学史上の評価について、芸能史研究の大家である服部幸雄はこう論評している。  この書以前の歌舞伎成立史研究が、とかく「事始」的に「出雲阿国伝」にかかわりすぎて、いわゆる「出雲阿国の伝説」に入っている芸能(念仏踊・神楽など)以外に眼を向けようとしなかったのに対して、視野を周辺の先行諸芸能に拡げねばならないということに着目されたわけで、成立史研究の段階としては明らかに一つの飛躍であった。(中略)信憑性の濃い一等史料を利用するようになった嚆矢であって、このことは研究史上特筆される(中略)歌舞伎成立史が歴史学の一ジャンルとして認められていく道を開いたものといえる(中略)本書の出現によって、成立史研究が「学問」として、新しい展開を果たすことになったといってもよい*3。  服部によれば、原田の研究は歌舞伎成立史研究において一大画期をなす著作として高く評価されている。原田の研究によって歌舞伎成立史研究が歴史学の一分野として確立しえたことが非常に重要な点として評価されており、この点については同級生である坂本太郎も同様に歌舞伎を歴史学的に初めて取り組まれたものと評価しているのと共通している*4。原田の代表的著作の史学史上の位置は上述のようにまとめられよう。  歌舞伎が趣味であることは国史学研究室が毎月11日に行っていた研究集会である十一日会の記録にもしばしば見られる。例えば、大正14年(1925)9月21日の記事によれば、各自が休暇中の旅行について述べられる中で、原田は歌舞伎の写真の紹介と実地見学を説明している様子が紹介されている*5。  大正15年(1926)には東京帝国大学大学院に入学し、同時に史学研究室別室副手を務めている。大学院における研究題目は「室町時代の文化史的研究」であり*6、近世における歌舞伎の成立のみならず、より広く美術史、文化史へとその興味・関心が移っていたことが知られ、その造詣の深さについては、法隆寺再建・非再建論争で有名な建築史家である足立康が追悼号で指摘している*7。  大学院に進学し、副手拝命後の同研究室における原田による重要な提言と思われるのが学生文庫の創設についてである。十一日会の記録によれば、大正15年12月11日の会合において、原田が立たれて学生文庫の創設を提言された旨が記されている。学生一同また当時の同研究室の主任であった黒板勝美教授も賛成するものであり、同研究室の歴史を考える上でも非常に重要であるが、原田の人となりを考える上で重要なことは、同記事によれば、「同(原田)氏曰く「十年後の研究室を目標とすべし」」と発言されたらしいことである。原田は面倒見の良い性格だったらしく、その一例として、国史研究室の後輩である井上久米雄が急逝されると、その卒業論文をまとめて刊行することに尽力されたことがあげられる*8。また、坂本太郎は、恩師である黒板勝美が自身と原田について「君たち二人は、二人合わせて一人前の仕事ができる。まるっきり反対の性格だから」と言われたとしており、黒板氏の真意について原田が親切で面倒見もよく世事にも通じていたのに対し自分は世事にうとく役に立たないことを皮肉っていたのだろうと回想されている*9。  この他に、原田が携わった仕事としては、平泉澄のもとで坂本太郎とともに室町時代から戦国時代にかけて関白・太政大臣であった近衛政家の日記である『後法興院政家記』の校訂作業を手伝ったりしている*10。また、注目される点として『新訂増補国史大系』の校正にも一部参加されており、担当書物は『後鏡』であった*11。『国史大系』とは歴史研究で必須かつ基本となる古典籍を集成、校訂した叢書であり、歴史研究者必携の叢書である。もとは明治時代に田口卯吉の主宰によって刊行されたもので、原田が参加したのは黒板勝美が主宰され、昭和4年(1929)より刊行されたシリーズである。ただし、原田は健康を害したため中途でリタイアしたらしい*12。しかし、黒板勝美が自身の作業を手伝う助手として指名されていたということは黒板が原田のことを高く評価していたことの表れではなかろうか。ちなみに黒板勝美の甥にあたる黒板伸夫も旧制武蔵高等学校の卒業生であるが、伸夫が武蔵に進学することに決まったことを報告すると勝美は大変喜ばれたという*13。伸夫は18期卒業生で昭和20年(1945)に卒業しているので、原田の授業を受けてはいないが、黒板勝美にしてみれば、自分もよく知っている教え子が教えていた学校に甥が入学したわけで、喜んだ背景には単純に旧制高校入学を祝う以外の気持ちもあったのではないだろうか。  いずれにせよ、原田亨一は、学生時代から人の面倒を見るのが好きな世話焼きの人物で自分の研究だけでなく、他人の研究の手伝いや仕事を熱心に行う学生であったことがうかがい知れる。このような学生生活を経た上で旧制武蔵高等学校の教員となったわけで、世話好きな一面は、生徒と積極的に関わっていく原田亨一の教育スタイルとして旧制武蔵高校の教育にも大きな影響を与えたものと考えられる。 2、研究内容  原田亨一の論考は多いとは言えない。若くして亡くなられたことを勘案しても多い方ではないだろう。以下が確認できた活字化されている論考である。 1928年『近世日本演劇の源流―阿國歌舞伎の内容と其の發展を中心として』至文堂 1929年「信西古学圖にあらはれたる原始散樂の研究」『歴史教育』4―2 1929年「正倉院御物弾弓にあらはれたる原始散楽」『寧楽』12 1934年「平安時代の藝術」國史研究會編輯『岩波講座日本歴史 第3(上代2)』岩波書店 1934年「伎楽雑攷」『寧楽』16  これら一つ一つの論考に対して論評を加えることは避けるが、注目すべき点として、演劇史を扱う関係上からか、文献資料のみにとらわれず、信西古楽図や正倉院宝物に見える絵柄などに注目されている点があげられるであろう。文字資料にとらわれずに研究する姿勢が教育に与えた影響も十分に想定される。この他にこの様な原田の研究姿勢、能力を伺うことが出来る場面としては大学院での研究会での報告内容があげられる。以下、長文ながら原田の研究報告に関わる部分を全文引用した。      第五回例会   十一月廿八日?午後四時より史料に於て開き、五時半散會。本日は原田氏の研究發表があつた。即ち法隆寺四天王像一躰の銘文〈山口大□費上斤次木閇二人作也〉とある下に行久皮臣とあるのを行久皮臣(イクハノオミ)と解され、此の人は造像を手傳ひし人ならん云はれ、應神紀に高麗より献ぜる鐵の盾(的)を射通してイクハノ臣なる姓を與へられた者の子孫ならんとて、新撰姓氏録其他國史の記事を引用して考証された。黒板先生は評されて行にイなる発音なくユクと訓むべきであるが、行は伊と解する方可ならんと言はれた。又工藝に直接手を下すは雑戸等の賤民で姓を有する者が手を下す筈なく、又應神紀にイクハノ臣なる姓を賜つたとある記事は地名解釋説話と同じく、子孫が其の祖先を飾り、又その姓を説明せんが爲に作爲せる家の纂記の如きもので信用するべきものではないとの御説明があつた*14。    (中略)   〇志貴山縁起に見える東大寺大佛殿に就て 原田亨一君   志貴山縁起三巻中尼君の巻にある東大寺大佛殿は天平創建當時のスケツチではあるまいか。現在の大佛殿は7X7、天平當時のは11X7である。志貴山縁起のは鎌倉時代のものではない。大佛記、東大寺要録、扶桑略記によれば、鎌倉時代のものは天平時代の土台の上にそのまゝ作られた。志貴山縁起のは正面に扉七ツあり。東大寺要録には扉十六とある。今の大佛は石台の上に蓮座があるが、志貴山縁起の図には石台のかはりに瑪瑙石(東大寺要録)の蓮辨の上に坐して居る。此の瑪瑙石の蓮辨の模様は三月堂の不空羂索觀音の蓮辨と同一形式である。この蓮辨にも三千世界の図があつたであらう。又志貴山縁起には脇侍が見えて居る。現在の石段は三つあるが、志貴山縁起のは五つに区切られて居る。石壇上の欄干は図のと同様なものが今もある。組物は図では二手先組となつて居る。又その左右の小壁に唐草模様がある。図中の一本燈籠は今も変りはない。恐らく志貴山縁起に見える図は天平創建のものであらう*15。  第5回例会報告では、法隆寺四天王像の銘文について「片文皮臣」と読まれていたものに対して、「行久皮臣」(イクハノオミ)と釈読し、仏像制作を担った人物の名前ではないかとされている。これに対して黒板勝美は、「行」には「イ」という音はなく、「伊」ではないかとされ、さらに『日本書紀』にみえる「的臣」の伝承については氏族伝承であることから史実かどうかには慎重であるべきという史料批判を展開しており、あくまでも実証、論証的歴史学を志向しようとする当時の東大国史研究室の研究姿勢が見て取れる。  実は、この文言を「イクハノオミ」と読むことは、その後に東野治之によって1960年代以降出土するようになった木簡等を用いて論証されており、原田の見解は―「行」と釈読した以外は―正当であったことが実証されている*16。時代状況―木簡等の出土史料が存在しない時代―から論証過程に問題があるとはいえ、史料を読み取る能力は戦後歴史学の研究者と比べても遜色がないことが明らかである。  美術史料を多用する点は第7回報告でも看取され、志貴山縁起絵巻に見える東大寺大仏殿の構造から絵巻に記された大仏殿を天平創建当初のものと解釈する点は、美術史的、建築史的視点が欠かせない。原田は、昭和6年に大学院を退学されており、この他の研究内容を明らかにすることは叶わないが、この二回の報告内容が分かったことによって、①史料読解能力、②美術史に対する見識、③建築史に関わる知見、④それらを積極的に活用する先見性といった原田の歴史学的素養が明らかになったと言える。  特に原田は武蔵高等学校に着任後、昭和4年(1929)に文化学部の事業として拓本展覧会を実施しており*17、この時には、国史学研究室所蔵の拓本を多数借用して実施している様子が明らかになっている。現在の東大日本史学研究室では、黒板勝美を中心として行われた全国の金石文拓本が所蔵されており*18、『校友会誌』の目録と所蔵拓本がほぼ一致する。また、採拓が行われた時期は原田の在学期間に一致していること、また、大学生、大学院生時代の懇話会にて黒板勝美が日本史を勉強する者の心得として様々な分野に精通すべきことを縷々述べていることから考えても、美術、芸術史料活用の積極性は黒板勝美の薫陶を受けたものであろう。そして、この黒板勝美の教えを受け、拓本展覧会に代表されるように武蔵高等学校では、単なる文献史料に捉われずに様々な史料に基づいた歴史教育が校友会活動を含めて行われたものと考えられる。 おわりに  以上、原田の著作や研究内容、また同窓生の回顧録より原田の研究姿勢や目的意識、その識見と能力についてみて来た。最後に、原田の授業を受けて、歴史分野に大きな足跡を残した二人の太田による原田亨一に関する回顧について見て筆をおきたい。原田亨一の授業内容について、4期(文)卒業生で帝大国史研究室を卒業し、史料編纂所教授を務められた太田晶二郎は以下のように回顧されている。  旧七年制私立武蔵高等学校の国史の時限、教授原田亨一先生が小冊子を生徒に配って、読めと命ぜられたので、皆、目を白黒させた。何しろ上宮聖徳法王帝説證注(『日本古典全集』本抽印)というしろ物だったのだから、  時処移って、東京帝国大学の国史十一日会、昭和七年六月例会、「宮田〔俊彦〕君引く所の法王帝説の問題から、一年生太田晶二郎君立って明快に是を論じて気を吐く」。此れは『史学雑誌』第四十三編第七号、彙報、一三九頁にまさしく記録する所である。本当に「明快」であったかどうかは保証せぬが、半家言ぐらい持っていたとして、入学後二個月そこそこだったのだから、失礼ながら大学の御蔭ではない、原田先生の賜ものにほかならぬ*19。  同じく4期(理)卒業で、帝大工学部建築学科を卒業し、後に武蔵学園の学園長も務められた太田博太郎は以下のような回顧談を民族文化部の創立五十周年記念号に掲載されている。  原田先生は、三高の理科を出て、六高の文科に行かれた。それで若干、他の生徒より年が上なもんですから、それに人の世話をするのが好きだからということもあるのかもしれませんが、当時からオンケルというあだ名があって、自分でも気に入っておられた。で、我々もオンケル、オンケルと呼んでおりましたが、そのオンケルさんの三高の時の同級生に長谷川輝雄という人がいた。東大の建築史の助教授になってすぐ、昭和二年に亡くなられてしまった。それでオンケルは自分の弟子の中から、将来を非常に属目されながら若くして亡くなった、親友、長谷川さんの代わりになる様なやつを作っておきたいと思っておられたらしい。ただ建築史は、ヨーロッパでは考古学者、または美術史家がやるけど、日本では建築の卒業生の商売になっている。当時、工学部に建築学科があったのは、東大と京大と東工大ですけれども、いずれにしても理科を卒業した人間でないと入れない。だから武蔵の理科の生徒の中で歴史が好きなやつはいないだろうかと探しておられた。そういう風にはっきり聞いたことはないんですが、遊びに行くと遅くまで引き留めて話しをされる、その口裏を察すると、どうもそういう意図があった様です*20。  武蔵高校の授業内容については、一般的にアカデミックな内容と評価されることがしばしばであるが、太田晶二郎の回想は、旧制時代から原文にあたって授業を行う様子が看取され、校風の淵源が旧制時代に遡ることが出来そうである。旧制時代の武蔵については、少数精鋭のがり勉と評されることもあるが、単なるがり勉とは言い切れない側面があることがみてとれるだろう。また、太田博太郎の随想からは、「十年後の研究室を目標とすべし」と発言されたように、将来を見据えた人材育成を行っていこうという姿勢が感じ取れる。  拓本展覧会を開くなど原田が精力的に活動された文化学部は後に民文の愛称でよばれる「民族文化部」と改称されて、現在まで続き、その卒業生の少なくない人数が歴史学者として育っていったことを考え合わせれば、原田の業績には軽視できないものがあるだろう。また、拓本展覧会では、東大国史研究室から多数の拓本を借用しており、武蔵高校と東大国史研究室との浅からぬ関係が見て取れ、その両者の間に原田の存在があることは疑いない。本文はあくまで武蔵の歴史を明らかにする目的の一端として執筆したが、本文を通じてより広い範囲に原田亨一という興味深い人物がいることが知れ渡れば幸いである。 ↑ 校舎脇での集合写真、前列中央が原田亨一教授。   ↑ 民族文化部の記念祭における展示と思われる写真、左から二番目が原田亨一教授。   脚注: *1 武蔵高等学校校友会編集・発行『故原田教授追悼 校友会誌別号』1938年。 *2 坂本太郎『古代史の道 考証史学六十年』1980年、62頁。 *3 服部幸雄『歌舞伎成立の研究』風間書房、1968年、14~17頁。 *4 武蔵高等学校校友会編集・発行『故原田教授追悼 校友会誌別号』1938年、8頁。 *5 東京大学文学部日本史学研究室所蔵『東京帝国大学文学部国史研究室十一日会記録』同日条。 *6 東京大学文学部日本史学研究室所蔵『東京帝国大学大学院学生談話記録』第一回記録。 *7 武蔵高等学校校友会編集・発行『故原田教授追悼 校友会誌別号』1938年、10頁。 *8 武蔵高等学校校友会編集・発行『故原田教授追悼 校友会誌別号』1938年、7頁。 *9 坂本太郎『古代史の道 考証史学六十年』1980年、89頁。 *10 坂本太郎『古代史の道 考証史学六十年』1980年、88頁。 *11 皆川完一・山本信吉編『国史大系書目改題』下、吉川弘文館、2001年、955頁。 *12 坂本太郎『古代史の道 考証史学六十年』1980年。98頁。 *13 黒板伸夫・永井路子編『黒板勝美の思い出と私たちの歴史探求』吉川弘文館、2015年、4頁。 *14 東京大学文学部日本史学研究室所蔵『大学院国史学科専攻学生談話会記録』昭和四年十一月廿八日付第五回例会記録。 *15 東京大学文学部日本史学研究室所蔵『大学院国史学科専攻学生談話会記録』昭和五年六月十九日第七回例会記録 *16 東野治之「法隆寺金堂四天王像光背銘の「片文皮」」(『東京国立博物館研究誌』388、1983年)。 *17  『校友会報』(9〈分冊1〉、1929)16頁、太田博太郎「民族文化部創立当時の思い出―OB会講演より―」『民族文化部五十周年記念随筆集』(武蔵高校民族文化部OB会、1980年)6頁。 *18 佐藤信解説「東京大学日本史学研究室架蔵拓本目録」、「東京大学日本史学研究室架蔵拓本目録索引」、「東京大学日本史学研究室架蔵拓本目録(続)」(『東京大学日本史学研究室紀要』創刊号、2、3、1997~1999年)。 *19 太田晶二郎「『上宮聖徳法王帝説』夢ものがたり」『太田晶二郎著作集』第二冊、吉川弘文館、1991年、初出1960年、9頁。 *20 太田博太郎「民族文化部創立当時の思い出」武蔵高校民族文化部OB会編集・発行『民族文化部五十周年記念随筆集』1980年、6~7頁。
2018.07.26
「武蔵のゼミ」 ここが出発点!
はじめに  大学開学当初からの「少人数制教育」および旧制武蔵高等学校時代から引き継がれた「三理想」の精神を具体化したカリキュラム「ゼミナール教育」。  「経済学部経済単学科時代(1949~1958年)」「経済学部経済・経営複学科時代(1959~1968年)」「経済学部・人文学部複学部時代(1969~1991年)」そして「学部改組、カリキュラム改正に伴う新たな展開(1992年~)」の過程において「ゼミの武蔵」と称されるほどとなり、「ゼミ」の果たす役割は大きい。   旧制武蔵高等学校開設当時の少人数制教育  「少人数制教育」は旧制武蔵高等学校時代の特色であり、まずは旧制武蔵高等学校開設に際しての教育指針「国際的な感覚を持ち、自主性のある人材の教育を目標とした」視点を史料から見ることにする。  一木喜徳郎初代校長は、「我国民の教育的欠陥は外国語に不鍛錬なことである。最近国際連盟規約の批准事務を掌った私は特にそれを痛感して現在の教育制度では到底『世界の日本人』を作ることは難しいと考えた。故に新設の私立高等学校の特色を其処に求めて力を尽くしたい」と、校長就任に際し述べられている。そして「外国語教育の重視を宣言した」と1921年5月11日の朝日新聞ほか各紙に報じられた。  実際の「英語」の授業では、40人の一クラスを20人ずつの2組に分けて別々に行う「分割授業」が採用された。これは山本良吉初代教頭の熱心な主張を容れたものであるという。  また、分割授業という形態は新制時代に受け継がれ、1953年(昭和28年)より英語・数学の一部に実施することになった。さらに1966年(昭和41年)より中学1・2年の理科にも取り入れられた。  他の教科の特色も見てみる。  「修身」これは今日の道徳あるいは倫理に当たるが、山本初代教頭(第三代校長)が尋常科の全生徒の授業に当たった。生徒の日常の生活と行為に直結した具体的問題について、個人としてまた社会人として踏むべき道を説いた。教科書によって教えるというよりはむしろ独自の個性を通じて生徒一人ひとりと接触する方法をとった。12~13歳の少年期において基本的なしつけを身につけねばならぬというのが山本初代教頭の信念であり、それによって徹底した教育を行った。  「国語・漢文」は三大理想の一つである「東西文化の融合」の観点から特別の配慮があり、「数学・理科」は三大理想の中の「自ら考え自ら調べる能力」という観点からも大きな比重がおかれた。  小学校卒業者を入学させて7年間の教育を施して、大学に進学させるのであるから、自然に「エリート教育の形態」をとらざるを得ない。開校当初から「厳選少数教育」を目指したのであった。   武蔵大学の草創期― 「特殊研究(ゼミナール)」の導入  次に、大学開学に際し、「旧制武蔵高等学校の伝統」が、どのように反映、引き継がれたのか当時の入学志願要項、大学入学案内などを見てみる。  1949年度(昭和24年度)入学志願要項には、「経済理論、経営実践の各種講義及び演習による十分な専門知識と、社会人、経済人としての必要な高度の科学知識並びに豊富な文化教養を有する有能な実力ある人材を育成せんとするものである」と記されている。  1950年度(昭和25年度)入学志願要項には、「将来の日本経済界に活躍する経済人として充分な専門知識と、豊富な文化教養とを有する、実力ある人材を育成せんとするものである。なお、本学には武蔵高等学校・武蔵中学校を併設して「その伝統による教育」をもって日本文化の向上に寄与せんことを期している」と記されている。  1951年度(昭和26年度)入学案内には、「本大学は、旧制高等学校以来の豊富な教育経験を基幹とし、これに優秀にして豊富な教授陣容を整備して、比較的少数の学生に徹底した教育を施し、真の実力を養い正しい人格を培い現実社会に正しく強く生きぬくことのできる人物を養成することを特色とする。教授と学生との密接な交渉は相互の人間的信頼の上に、知識の徹底的な習得と中正穏健な思想の形成と高潔な人格の陶冶を可能ならしめるもの」と記されている。 また、「学則」の項では、「特殊研究(ゼミナール)」について、「最初の二学年においては毎年四単位、以後は八単位以上の特殊研究を取得することになっている。これは学生がその希望する学科を選んで担当教授指導の下に特に自発的な研究を行うものであり、又教授・学生間の密接な接触によって人格陶冶に資せんことを期している」と謳われている。  1949年(昭和24年)4月の第一回入学式において初代宮本和吉学長(旧制武蔵高等学校第五代校長)は「本学は過去の伝統にこだわらず、いわば処女地を開墾し、新しい伝統と校風を築いていくが、『視野の広い、世界人としての日本人、自ら調べ自ら考え、批判的精神を失わない日本人をつくり上げる』というモットーを大切にしたい」と述べ、「この大学を良くするも悪くするもすべて諸君の今後の努力にかかっている。武蔵大学の歴史を先ずつくる人、それは諸君である」と結んでいる。  そして、初代鈴木武雄経済学部長は、宮本学長が描く「新しい伝統と校風」の具体化として武蔵大学の第一の特色「少数精鋭主義」を基本とする教育方針を前面に打ち出した。  もともと旧制武蔵高等学校は、少数学生を徹底的に教育することを校是として大きな成果を上げていたから、武蔵大学がそれを大学教育の「場」において実現できるのであれば、極めて望ましいわけである。  第二の特色は、「全学ゼミナール制」と「指導教授制」。これは「少数精鋭主義」の具体的な面であり、旧制武蔵高等学校以来の建学の三大理想の一つの「自ら調べ自ら考える力ある人物」の育成には最もふさわしいものであって、マスプロ大学ではない武蔵大学にして、はじめて採りうる制度であるといってよい、と位置付けている。  「全学ゼミナール制」は、第1年次および第2年次を「教養ゼミナール」、第3年次および第4年次を「専門ゼミナール」とし、学生すべてが専任教員の担当するゼミナールのどれかに入れるように全ての専任教員がゼミナールを開講、毎学年のゼミナールを必修科目とするものである。  なお、1969年に開設した人文学部においては、これを「演習」と呼称したが、当時の人文学分野では「ゼミナール」はなく、「演習」と呼称する傾向にあったと、星野誉夫名誉教授から史料調査の段階でご教示頂いた。  「指導教授制」は、このゼミナール制の基盤の上に設けられたものであって、ゼミナール担当の教授・助教授・専任講師がそのゼミナール学生の指導教授となり、ゼミナールにおける学問研究の指導とともに、それとは別の学生の思想・生活その他あらゆる面にわたる親身の相談相手となるものである。  この「ゼミナール制」と「指導教授制」によって、教授と学生の接触が深まり、他大学には見られない相互信頼のヒューマン・リレーションが形成されたことは、武蔵大学の特色となっていく。 ゼミナールの様子 1951年(昭和26年)「武蔵大学入学案内」より    ここで鈴木武雄経済学部長についての「思い出」を一つご紹介する。  1992年に就任した第八代櫻井毅学長は、かつて1948年4月、新制武蔵高等学校2年に編入されたが、随筆集『思い出に誘われるままに』の中、「武蔵高等学校時代の思い出」で、鈴木学部長が新制武蔵高等学校の「社会科」の授業もされたことを記している。「高名な学者が武蔵大学にこられて、われわれの社会科の授業を担当してくださるということに、大いに誇りを感じたものだ」、「その授業方法について、前半は講義をされたが、後半は『いわゆるゼミ形式』を取るといわれ、報告者を指名して順々に報告させた。社会科ということで内容は生徒に完全にゆだねた。生徒は勝手にテーマを決めたため、テーマによっては「あまり行き過ぎないように」と苦笑され注意を与えられたほどだ」、と回想されている。  大学開学から8年が経過した1957年度(昭和32年度)の『武蔵大学概覧』に、当時の鈴木武雄経済学部長が「本学の特色」と題する一文を草している。  「武蔵大学は、大学としては新しいとはいえ、創立以来すでに満8年を経過し、その間卒業生を世に送ること5回におよんでいる。したがって旧制武蔵高等学校の光輝ある伝統の校風の上に、いまや大学としての独自の学風もほぼ確立されたといってよい。それは、学生数を比較的少数にとどめていることによるであろうが、教授と学生の間がきわめて親密だということである。本学は、基礎的な講義のほかに、ゼミナールに大いに力を入れているが、一般教育および専門両課程の専任教授・助教授総員が担当しているので、全学生は、一人残らず毎年ゼミナールに入ることができ、且つ1ゼミナールあたり学生数が20~30人であるため、行き届いた効果的な研究指導が可能である。また、とくに指導教授制なるものを設け専任の教授・助教授一人当たり平均20~30人の学生を配属したグループをつくり、教室以外の師弟同行の場として、緊密な接触指導を行うとともに学生の勉学および生活上のよろず相談相手たる役を果たしている。(中略)こういうことは充実した教授陣に対し学生数が比較的少数であるからこそ可能なのであって、他のいわゆる『大』大学には見られないところの本学独自の学風として、私どもひそかに自負するところである。」   文系総合大学をめざして  経済学部に人文学部を増設、複学部体制移行に際し、武蔵大学事務部編『武蔵をめざす友へ』《武蔵の青春群像 No.5 1968年(昭和43年)》に、第三代正田健次郎学長が「武蔵の教育理念」と題する寄稿がある。  「国際的な感覚と知識を身につけた人材を生み出す。身につけるためには自主的に調べ、考えなくてはならない。これが武蔵大学の建学以来の理念であり方針である。このことは本学に限るわけではないが、大学において、特に大切だと思う。  大学教育を受けることによって学生は何を得ようとすべきか。学士の称号を得ることでもない。スポーツの選手になることでも勿論ない。良い職場を得ること、つまり働き甲斐のある職につくことも望ましい結果ではあっても、大学教育の直接の目的とはいえない。  大学では自己と社会との関連に於いて確立し、あわせて社会の一員として役立つ専門の知識技能を身につけること、それ自体を目的として専念すべきである。  科学技術の進歩は世界をますます狭いものにし、今日では国際的視野に立たなくては、何事もなし得ないようになった。本学の教育理念として重視してきた国際的感覚の重要性は、現在の時点に於いて特に強調すべきであろう。学校教育においては、本学に限らず、ともすると知識を偏重するきらいがある。知識はそれが働かされて初めて効能があるので、そのためには感覚にまで深められていることが望ましい。換言すれば身についたものにすることである。自ら調べ自ら考えるという、本学の教育方針はそのためであり、それも教授との密接な接触により、その個人的指導のもとに行なおうとしているのである。  知識の切り売り的な、書物を読んで事足りているような教育は本学のとらざるところである。  本学が開学以来経済学部だけの単科大学として今日に至り、ようやく明年度より人文学部を増設することになったのもこの望ましい姿を無理なく堅持するためであった。将来もこの姿を教職員・学生が一緒になって更に徹底させていくように努力したい。」  その後、1992年(平成4年)からは学部改組、カリキュラム改正に伴う新たな展開が進められている。  2005年(平成17年)10月、「武蔵学園将来構想計画」が学校法人根津育英会から打ち出された。その中で「大学のビジョン」として、  「武蔵大学は、21世紀の新たな時代と社会において大学に求められる知の創造、継承と実践にその教育研究活動を通じて貢献すること(「知と実践の融合」)を基本的な理念とし、知的実践の基盤となるリベラルアーツを重視した教育に重点を置く大学としてその社会的使命を持続的に果たしていくことを目指す。」  と記され、この理念・使命の達成のための教育・研究活動等の基本目標を、次のように定めている。  『教育の基本目標』として、「建学の三理想」と「自由闊達な学風」の今日的な意義と有効性を踏まえ、その新たな展開を図る。すなわち、①自ら調べ自ら考える(自立)、②心を開いて対話する(対話)、③世界に思いをめぐらし、身近な場所で実践する(実践)ことができる資質・能力を有し、21世紀の社会を支え発展させ得る「自立した活力ある人材」を育成する。   おわりに 繋げよう武蔵の伝統  この新たな展開の中でスタートした「三学部横断型ゼミナール」、その運営に必要とされる能力として「社会人基礎力」を求めている。その社会人基礎力の活用を含めた三学部横断ゼミナールの具体的実践内容を卒業生にもアピールする目的で、「大学開学60周年記念オールカミング(2010年(平成22年)3月6日開催)」プログラムの一コマに組み入れた経緯もある。  大学開学以来積み上げた約70年の重み、それを未来に確実に繋ぐためにも卒業生の協力も一層重要になると感じる。「自ら考え、そして実践する姿勢」は、卒業生としてずっと持ち続けていきたい。 【主要参考文献】 『武蔵五十年のあゆみ』 (1972年 昭和47年) 『武蔵七十年のあゆみ』 (1994年 平成 6年) 『武蔵九十年のあゆみ』 (2013年 平成25年) 『武蔵大学五十年史』  (2002年 平成14年)  『随筆集 思い出に誘われるままに』 櫻井 毅 (2007年 平成19年)  キャンパス内の緑陰でのゼミナール授業風景。中央は近藤康男教授。  『武蔵大学五十年史』2002年(平成14年)に掲載
2018.07.02
根津化学研究所初代所長・玉蟲文一の足跡と学問観・教育観
はじめに  1936(昭和11)年に武蔵学園内に設置された根津化学研究所は、私立の旧制高等学校が高度な研究活動を展開すべく、特定領域の研究所を設置したという点で、きわめてユニークな存在であった。そして、その初代所長に就任した玉蟲文一(1898-1982)もまた、武蔵学園における化学研究と教育の高度化、そして新制大学における一般教育の充実発展に大きな貢献があった稀有の教員であった。  世間ではじめて彼が有名となったのは、ロングセラーとなった岩波新書『科学と一般教育』を上梓した1952年以降のことと思われるが、本稿では武蔵学園での経験に関わりが深い事項を中心に、彼の足跡とその学問観・教育観の特色、さらには、当時の武蔵での教育の意義について考察してみたい。   1 玉蟲の生い立ちと武蔵学園への就職  玉蟲は1898(明治31)年宮城県生まれ、母方の祖父は玉蟲左太夫といい、江戸幕府が初めて米国と通商条約を結ぶため派遣した使節の一行に加わっていた。仙台藩に帰ってからは藩の学問所であった養賢堂の頭取となったが、戊辰の乱では仙台藩が幕府側に立ったため、戦争終結後に責任を負って切腹となり、玉録家は家財没収、家名略奪となった。家名の復興が許されたのは22年後の1889年、大日本帝国憲法発布の年になってからという。そして玉蟲の父は玉蟲家の養子となり、しばしば朝鮮・中国方面へ出張していたが、玉蟲が9歳の年に京城(ソウル)で急病にあい、若くして客死したという。  東京にでて母の手一つで育てられた玉蟲は一高に入学し、ここで北川三郎(ウェルズの『世界文化史大系』の訳者)と親友となり、東京帝国大学に進学後は理学部化学教室で片山正夫教授に学んだ。1922年に大学を卒業して財団法人理化学研究所の片山正夫研究室の助手に任用され、2年間の助手生活を過ごした後、旧制武蔵高校の教員となる。  玉蟲の教授就任は、当時武蔵高校の顧問であった山川健次郎が、片山教授に化学教員の適任者の推薦を依頼し、片山が玉蟲を推薦したことによる。山川は会津藩の出身で玉蟲左太夫の事蹟を知っており、玉蟲文一の研究教育をこれ以降、強力に支援したという。  旧制武蔵高校における玉蟲の教員生活と当時の高校の雰囲気については、玉蟲自身の回想(『科学・教育・随想』岩波書店、1970年)において、以下のように精細に描かれている。   私が奉職した武蔵高等学校は最初に設立された私立の7年制高等学校であった。そこでは、当時すでに和田八重造氏によって初年級(尋常1、2年、現在の中学1、2年に当たる)の理科の授業がおこなわれていた。その授業は同氏の編著「科学入門」ならびに「生物」によっておこなわれており、前者はアメリカにおける一般科学(ジェネラル・サイエンス)の方法を入れたものであったが、著者自身の体験と工夫にもとづく独特の内容をもつものであった。その内容や方法に対しては、多くの批判や抵抗があったが、和田氏は信念をもってこの自著による理科教育をおし進めていた。同氏の献身的な努力と情熱的な指尊によって、多くの純真な生徒は理科への興味にひき入れられた。私は実際、その影響力によっていかに多くの少年が後に科学に志すようになったかを知っている。私は和田氏の授業をうけついで3、4年の生徒に対する化学と物理を主体とする理科の授業を担当した。   私が武蔵高等学校に就任した際の一条件は、1人で化学と物理を綜合した教案に従って教えるという試みを実行するということであった。当時、一般の中学校では、文部省検定教科書にしたがって動植物、鉱物、化学、物理などがそれぞれ独立の科目として教えられていた。それに対して武蔵高等学校の理科授業は、科学入門(ジェネラル・サイエンス)、生物(ジェネラル・バイオロジー)、理化(フィジックス・アンド・ケミストリ)の系統にしたがって計画されたのであった。……初歩の段階であっても、化学と物理学を―つの綜合科目としてまとめ、かつそれを一人の教師が担当するという仕事は実際にいろいろな困難をともなうものであった。  ……私はできるだけ労をいとわず生徒に実験と観察の機会を与えた。実験室で生徒の行動をみていると、その性格がよくわかった。ある生徒は与えられた仕事を順序よく迅速に片づけてゆくのに、他の生徒はそうではなかった。ある生徒は要求された課題の外にも自らの問題を見出しているのに、他の生徒は課題だけで追いまわされていた。しかし、概して生徒は実験の時間になると活気づいているのがわかった。そして実験のともなわない理科の授業がどんなに生気のないものであるかがよくわかった。 2 武蔵での玉蟲の研究と教育  前項での回想の末尾に記された実験の重要さに対して、玉蟲自身はどのようにユニークかつ有意義なスタイルの授業を展開したのか言及していないが、実際に授業を受けた学生が受けた印象は強烈で、玉蟲の名物教師ぶりは学内にいち早く知れ渡った。受講生であった永松一夫氏(高校16期卒業生・故人)が、1983年に「玉蟲先生を偲ぶ」と題して発表した回想文(『日本レオロジ一学会誌』第11号に所収)が、その情景をリアルに描写している。以下は、その抜粋である。  玉蟲先生が居られた頃の武蔵は、いわゆる旧制の7年制だった時期が大部分をしめる。現在でも中・高あわせて6年の学校もあるが、この年頃の少年にとっての1年は大きな意味を持つ上、時代差もあって、新入生は現在よりも一層小学生に近く、最高学年の方は逆に今の大学生よりも逝かに大人であった。玉蟲先生の授業があるのは高等科になってからだが、校内での評判は高く、部活動の場などで上級生たちから頻繁に玉蟲先生の御噂を聞かされた。「講義が魅力的だ」「話の筋が通っている」「身ぶり、手ぶり、話し方に特徴がある」「大きな声で叱ったりされることは絶対ないだけに“君、それは危ないですよ”などと言われたら大変な事なのだゾ……」等、等。  玉蟲先生の講義が受けられる高等科になるまで、中学に相当する4年間、こうして期待を持ち続けさせられる。そして、ようやくその時期になるのだが、玉蟲先生の援業は期待を上まわるものであった. Langmuirの式、Freundlichの式あたりは玉蟲先生としても特に熱のこもったお話となる故か、現に私の同級生でもその頃から先廻りして統計力学の勉強にまで自分で手を拡げる者も生じてきた。その上、ほぼ毎週講義実験を見せて頂いたのが印象に刻まれている。  中でも忘れられないのは、シキソトロピーのサンプルである。たしか、石英粉―トルエン、ベントナイト―水の系の2種だったと思うが、両方とも試験管に封入されていて、そのまま倒立させても、逆になった底部の方に固まったまま落ちてこないものが、軽く振るだけでシャポ・シャポと音をたてて、掌の中で液化するのがよく分かるものであった。これを生徒たちに手渡されて、ひとりひとりが「ほう」と感嘆の声をあげては隣にまわして行ったのを、昨日のことのように思い出す。この実験は玉蟲先生御自身でもお得意のものであったらしく、私たちが驚異の目をみはるのを、あの、例の「玉蟲スマイル」とも言うべき微笑を浮かべて(一寸首をかしげて)見守っておられた。  このように、高校において多くの生徒の科学探究心に火をともした玉蟲は、また同時にコロイド化学分野におけるすぐれた学究でもあった。1927年には当時武蔵高校の校長であった山川の配慮によって、ドイツのカイザー・ウィルヘルム物理化学研究所に約2年間留学した。帰国後、1935年には論文「2次元状態方程式と表面層の構造」によって東京大学から理学博士の学位を得ている。当時、高等学校の教職にあって学位の取得はきわめて珍しいケースであり、「教育と研究は両立しうる」を持論としていた玉蟲が、自らの活動においてそれを証明したといえよう。  玉蟲は前出の回想録において、「1934―1940年の数年間はおそらく筆者の研究生活において、もっとも恵まれた時期であった」と記している。これは玉蟲が博士の学位を取得して以降、日本が太平洋戦争に突入する(そして1942年に玉蟲が教頭に就任する)直前までの期間であるが、その中で根津化学研究所長としての活動が占めた役割は大きなものがあった。研究所では根津が寄贈した資金を元手に研究が行われ、化学に関する基礎的な問題に焦点が当てられ、物理化学、地球化学、放射化学、化学教育などで成果を出している(これらの成果については『根津化学研究所20年史』1956年に詳しい)。なお以下に掲げる玉蟲晩年の回想からは、彼の目からみた同研究所の規模や社会的位置づけ、そのなかにあって彼の持った強い職業的使命感が伝わってくる。  ……この研究所は、その名は大げさに聞こえるが、学校の付属施設であり、研究員は学校の化学教室の教員(当時都築洋次郎氏と私)であり、ほかに専任の助手1名の給与と年間の経常費として若干の金額が財団から供与されるにすぎなかった。しかし、研究に必要な最小限の機械類、器具類は開設に際して根津氏から寄贈された金額(当時の約3万円)をもって整えることができた。研究施設の規模としてはおそらく当時の国立大学の一講座に比較される程度のものと思われた。にもかかわらず、大学でない学校の中にこのような研究施設が設けられたことは、明るい話題として世間の注目をひいたようであった。  世間の一角からは、武蔵高校が私という個人の足止めのために作った研究所だというような風評もあったが、私としては、この研究所の設立は良心的教育者は何よりも学問研究を大事にするということの表われであり、研究は大学でなければできないという一般論に対する抗弁でもあったと思われた。  いずれにしても私が何の拘束もうけることなく、まったく自由に研究ができるという立場におかれたことは感謝すべきことであり、それだけに課せられた責任の重さを感じたのである。(玉蟲『一科学者の回想』中央公論社1978年に所収) 3 戦後の玉蟲と武蔵学園  戦後初期の玉蟲は武蔵高校のゆくべき道として、武蔵・学習院・成蹊・成城の旧7年制高校を土台とする「東京連合大学」の設置に向けて奔走した。これはもともと、当時の学習院教授であった天野貞祐が提唱したものであったが、この構想に共鳴した玉蟲は「その可能性を打診するために二、三心当りの方面に当ってみた」という。  玉蟲による自身の奔走についての回想は上記のように控えめであるが、この構想については、4大学それぞれの専門学部設置構想を記した「協定案」が作成されるまでにいたったことが知られており、(『武蔵大学五十年史』)。近年では、教育史の研究者である天野郁夫氏が「自発的に模索された私学間の連合化・共同化の試みとしてしかるべき構想」(天野『新制大学の誕生 下』名古屋大学出版会、2016年)と評価している。この構想が、学園間での検討段階に至るまでに玉蟲が果たした役割はきわめて大きなものがあったはずである。  「しかし、当時の各学校の内部事情はそのような1つの理想案を検討する余裕もなく、その意欲すらもちえないことが明らかになった。つまり、この構想は天野博士を中核とするきわめて少数の人々の間での話題となったにすぎなかったが、それもいつの間にか忘れ去られたのである。……やがて学習院も成蹊も成城も、また武蔵もそれぞれの方途に従って新制大学となった。それが自然の成行きであったのである。武蔵では宮本学長の下に経済学部が設置された。そのさい私自身の立場は学長の補佐役であったが、新設学部に対しては傍観者であるにとどまり、いずれは自分自身の行く道を定めなければならなかった」(前出『一化学者の回想』による)。  玉蟲は戦後、1949年の旧制武蔵高等学校の廃止に伴って東京大学教養学部に転じた。1959年に東京大学教授を定年で退職して後は東京女子大学教授就任、そして69年にふたたび武蔵学園で教鞭をとり、あわせて根津科学研究所の所長に復帰した(翌年から名誉所長)。1975年まで再び在職した武蔵学園で、玉蟲は新制武蔵大学の人文学部教授として、人文系の学生に対する一般教育として科学史の講義を担当し、人文・経済学部の共通科目としての科学概論を演習形式で行った。そしてこの時期の玉蟲は「大学における一般教育のあり方」に対する積極的かつ具体的な提言を行い、教育界にきわめて大きな光を放ったことが知られている。  現在我々が容易に入手しうる玉蟲の提言として、ここでは武蔵大学での教育経験に根ざした「科学史と科学教育」(『自然』1973年3月所収)に焦点を当ててみたい。この文章において玉蟲はまず、高等学校までに科学についてある程度の一般的知識を学んでおり、かつ科学を専門としない(もっぱら文化系の)学生人に、何を教えればよいかを問う。「高校の教育はもっぱら一般人のための教育であるから、科学者にとって重要であり、興味あるものであるとの理由によって教材が選ばれてはならない。生徒に対して期待すべきことは多くの科学的事実や技術を習得することではなく、むしろ彼らが将来科学という学問への関心を向け。それについていくばくかの理解をもちうるような素地を養うことである」。  そして、玉蟲が科学史の講義で取りあげるテーマは、たとえば“酸素はいかにして発見されたか”、“エネルギー保存の法則はいかにして確立されたか”というようなものである。この点についての彼の主張を以下に取り上げてみよう。  空気中に酸素があることは小学生も知っている。しかしそれが初めて確認されるまでに、いかに多くの錯綜した道程があったかは、大学生も知らない。そこで18世紀末期にプリーストとラヴォアジエの二人の人物を中心として展開された問題を歴史的資料にもとづいて解説することは、科学における研究や発見の実態を知らせ、科学的方法についての理解を与えることに役立つと思われるのである。また、エネルギー保存の法則については高等学校の物理で教えられているが、どのような人間の経験と推論によってこの法則がみちびかれたかは必ずしも数えられていない。このことについていくらかの解説が与えられないで、この法則の正しい理解がえられるであろうか。落下した物体はひとりでに上ってくることはないという事実は原始人も知っていたにちがいないが、人間は長い間いわゆる“永久機関”をつくることに腐心したのである。この経験の歴史からファラデー、ジュール、マイヤーのような科学者がどのような実験と考察によって、自然界における諸力――当時の語法による――の間の関係を求め、保存の法則に達したかという思索の過程は科学の進歩の実際の状況を示し、この法則の意義を理解させる上に役立つのである。   このような科学的事例は、現代ではすでに“常識化”したものであり、学生にとって“古くさい”という印象を与えるかも知れない。学生はむしろ“素粒子”の話とか、遺伝のしくみにおける“二重ラセン”の話のようなものに魅力を感ずるであろう。しかし、これらのように現に進展しつつある科学の新しい問題は、専門外の者にとっては難解な基礎的知識なしには扱うことができないものである。もちろん新しいものでも事例によっては教育的に適切と考えられるものもあろう。しかし、科学史によって科学の方法やその本質を理解させるという観点から見れば、すでに常識化しているような話題についての歴史的扱いの方がより実際的でもあり、適切であると思われるのである。  いわゆる“リベラル・アーツ”の一科目としての科学史においては、科学史を通じて科学への理解を与えることが重要であるが。その“理解”は単に科学的方法への理解というばかりでなく、さらに広い意味に解さるべきである。それは、科学は元来人間の本性―ヒューマニズム―と結びついたものであること、科学は人間の社会生活や一般的思想と関連したものであること、科学は人類の文化的遺産の重要な部分であること、などに対する理解を与えるものでなければならない。そして科学史はその扱い方によってこのような目的にかなうものとなりうるのである。(以上、「科学史と科学教育」より)  なお、玉蟲は上記の提言と同じ年に「大学における一般教育の立場から見た現下の教育問題」(『教育委員会月報』文部科学省1973年9月所収)という文を発表している。これは戦後の新制大学における一般教育の開始と展開、そしてその問題点をカバーしたものであるが、「国語にせよ、数学にせよ、理科にせよ、人間性に無縁のものはない。例えば、筆者の専門の化学は理科の中の一科目であるが、既知の事実や慨念や法則のみを教えるものではない。それらが知られるにいたる過程を通じて人間の理性の働きとその背景にある社会的・文化的事情についての理解を与えるものでなければならない」とも述べている。   4 おわりに―玉蟲の学問観・教育観の起点について  これまで、参照文献からの抜粋が多くなったが、玉蟲が遺した文章を概観して、「科学が人類の社会生活と深い関わりを持つ」という玉蟲の科学観・学問観が、ある程度浮き彫りになったように思われる。  最後に、上のような科学観・学問観が、いつから玉蟲に育ち始めたのかを考察してみたい。そして、彼が教育の第一線にあった時期の武蔵学園の社会的意義もまた、その作業を通じて、いくらかは明らかになるだろう。  玉蟲は逝去の前年に、「ワイマール末期(1927-29)のベルリン」と題する見聞録を発表している(『思想』1981年10月号所収)。表題の年代から、彼が武蔵高校教授在職中にドイツに留学した時期の思い出を記したものであることは一目瞭然であり、また彼はそれまでも、この留学時の経験談(研究活動や音楽・オペラ・演劇の鑑賞ぶり)を詳細に記した回想を何度も発表しているが、末尾において、いままでの回想になかった以下のような考察がある。   ……右の時期はベルリンの“輝かしい時期”というに適わしく、科学に於ても、芸術においても世界の文化史に残る果実を生んだ。先に引用した物理学者エルウィン・シュレーディンガー(1887-1961)は1932年、“科学は時代の流行か”と題するプロシア・アカデミーでの講演の中で、“芸術は人間気質を透して見た自然である”というゾラの言葉を引用しつつ、科学もまた、その時代や環境と無縁のものではないことを語っている。私が1927―29年ベルリンで体験したことは、このシュレーディンガーの言説を裏書していたかのように思われる。物理学における量子力学や波動力学の勃興は芸術における新即物主義の展開と無関係ではなかったのではあるまいか。ドイツにおけるワイマール末期の芸術や科学がその短期間にいっせいにその花を咲かせ、実を結んだことは偶然ではなかった。それは共にそれらの底流に流れる時代精神の現われであったと言ってよかろう。  玉蟲はすでに1958年に、自身の武蔵高校での教師生活を回顧して「私は理科教師としてたしかに恵まれた境遇にあった。現在は過去とは非常にちがうことは明らかである」と述べ、続けて次のように記していた。   「理科教育の内容や方法は文部省の指尊要領や検定教科書で制約されている。それは一つの基準としては有意義なものであるが、それによって教育が画一化される傾向の強くなることは問題である。人間に思想の自由がなければ、文化の発展は望みえないと同じように、教育者に自由が与えられなければ、教育の効果を期待することはむずかしいのである。……過去をそのまま現在に移すべきではないが、教育におけるかつての自由主義時代の経験は、現在において、とくに尊重さるべきではなかろうか」(前掲『科学・教育・随想』に所収)。  この2つの文章から、以下のような解釈が可能なように思われる。 「玉蟲は、ワイマール末期のドイツにおける人文・自然両文化の隆盛を目の当たりにして、自身も精力的にかかわっていた武蔵学園における『自由な教育』が、場所や時代を超えて、普遍的な意義を持つことを自覚し、その文化的意義が戦後の教育界においても埋没しないように努め続けた」、と。  玉蟲の逝去から35年以上が経過した現在、彼の研究と教育の経験から生まれた教育界への提言は今なお、尊重されるべきメッセージではなかろうか。 化学実験室における玉蟲の授業の様子   1936(昭和11)年に竣工した根津化学研究所内の実験設備を見る根津嘉一郎理事長(右から2人目)。 最も左は桜井錠二学士院長、その右は玉蟲文一教授。最も右に写っているのは山本良吉校長    
2018.07.02
「大臣学長」吉野信次の事績と人物像
学園運営に関する後世からの評価  1956(昭和31)年から1965(同40)年まで大学学長・中高の校長をつとめた吉野信次(1888-1971)は、大正・昭和戦前期の商工官僚、そして政治家(大臣や貴族院議員、県知事)として知られる。第一高等学校を経て東京帝国大学法科大学に入学、在学中に高等文官試験に合格し、1913(大正2)年の大学卒業と同時に農商務省に入り、1937(昭和12)年に商工大臣、翌年には貴族院議員、その後愛知県知事などを歴任し、戦後1953(昭和28)年に参議院議員に当選した。    その吉野が武蔵学園の学長・校長に就任した時は、第3次鳩山一郎内閣の運輸大臣の職にあり、学園での執務は週1日程度であった。彼は就任式の席上で「私はいわばパートタイムの学長・校長」と述べたが、1956年12月の内閣総辞職で大臣を辞した後も1959年まで参議院議員であり、武蔵大学では学部長が事実上の学長、中高では教頭(鎌田都助)が事実上の校長と言われていた。『武蔵学園史年報』第20号の「昭和38年度~40年度の武蔵大学―『教授会記録抄』解題」(星野誉夫氏執筆)によれば、学園から月給は出されず、法人から出ていたのかどうかも不明であったという。    『武蔵七十年史―写真でつづる学園のあゆみ』では、この期間中の学園の運営について、学長校長が不在のことが多く、学部長と教頭との連絡・協力によって進行した、と記されている。「この期間、大学の新館建設を別としても、集中暖房の復活、青山寮・鵜原寮の増築など、父兄・同窓の寄与に頼りながらの諸施設改善が進行した。戦後状態からのこのような立ち直りを、鎌田教頭の円満・謙虚・誠実な人柄が常に支えてきたということができるだろう」。この記述からは、吉野学長・校長が在任中、学園の発展に著しい寄与があったという評価はうかがえない。  また、『武蔵学園史年報』第4号所収の「武蔵高等学校中学校記録抄 その2(1956.4~60.3)」の解題(大坪秀二)においては、在任初期の吉野について、以下のように記されている。  「新制発足から昭和33年までは、もし大学、高中を分離すれば大学に赤字、高中に黒字がついたのであるが、高中の側からとかくのクレームつかなかったのは、新設の大学を盛り立てる為という考えが学園内に多数を占めていたからである。経営学科増設で大学学生数が増加し、一方高中では教師平均年齢の漸増と一部定員割れしている学年があることなどから、34年度で赤黒の関係が逆転した。この時から、大学から高中への経営上の圧力が強まったが、『パートタイマー』を自称する吉野学長校長は調整の努力に欠けるところがあった。この問題は正田学長校長の着任と、50周年記念事業、公的助成金導入に伴う大学・高中経理の対行政上の分離作業成立などに伴って一応の決着を見た」。  「『パートタイマー』を自称する吉野学長校長は調整の努力に欠けるところがあった」と記されている以上、学園全体の運営に積極性が見られなかった、という評価とみて差し支えないであろう。  哲学者で教育者だった宮本和吉学長・校長が1956年に退任したとき、元官僚・当時代議士で運輸大臣であった吉野がその後任となった事情は、現在でも詳しくはわかっていない。吉野に関する正伝『吉野信次』(同追悼録刊行会、1974年)によれば、理事の山本為三郎(のち理事長)が当時の鈴木武雄学部長に対して吉野の就任を打診したとき、鈴木は、「吉野信次には面識がないが、実兄であった吉野作造はよく識り、尊敬していた。その実弟なのだから、役人あがりでも、大学とか学者といったものに対し十分の理解があるに違いない。自分個人として異論はない」という旨回答したという。しかし教授会においては、学問や教育の中立性という観点から現役政治家の学長就任に難色を示す雰囲気であった。  発令日の前日にあたる3月31日の教授会では、深夜の24時になっても了承に至らず、このため時計の針を操作して議事録では「31日夜に了承」とした、という紛糾ぶりであったという。またその際に教授会では吉野に対し、「学長就任後は再び大臣を引き受けない・参議院への立候補もしない」という要望を伝え、吉野もこれに応じての学長就任という経緯があった。  以上より、すくなくとも学内では就任時の吉野について、その人柄や才幹に期待が寄せられていたとは言いがたい。『武蔵大学五十年史』では「多忙のため週に1度くらいの出校であったから、一般の教職員との接触は薄く、また学生から親しまれた学長ではなかった」と、かなり厳しい評価が記されている。   「官僚として一流」といわれた吉野の実像は?  武蔵学園での執務が「パートタイマー」であった吉野だが、では戦後の政治家としての足跡はどうか。現代の目から見て、それは微々たるものであったと言わざるをえない。  吉野が第3次鳩山内閣の運輸大臣に就任した当時の自民党幹事長は岸信介である。この大臣人事における岸の影響力の発揮が容易に想像できるが、吉野が大臣をつとめたのはこの1年1か月間にすぎず、1959(昭和34)年の参議院議員任期満了とともに議席を去り、また多くの関係事業の現役の地位からも降りて、相談役に終始している。政治家生活が終わってからも学長校長の在任期間が5年以上あったにもかかわらず、学園運営についての後世の評価が芳しいものではないことは冒頭にみたとおりである。政治・文教の世界に適しなかった(と、言っても過言ではないだろう)彼の真骨頂は、それではどのような領域にあったのか。  前出の正伝『吉野信次』の序文に、岸信介が次のような一文を載せている。「……吉野さんは大正2年農商務省に入られて以来、累進して商工次官となり、退官後、商工大臣にもなられ、その間大正、昭和にかけて、日本の商工行政、産業政策、特に中小企業育成の政策に秩序と体系を整え、その理論的根拠を樹立された功績は、特筆に値するものでありました。……私の知る限り素晴らしい記憶力の持ち主で、官僚としては最高級の人物の一人であった事は間違いないと思います」。  「官僚としては最高級の人物の一人」という表現は、吉野があくまでも官僚社会の内部でのみ力を発揮できた人間だったといわんばかりに感じられるが、別の場所で岸は、吉野の商工省時代の貢献について、以下のように述べている。  「私は吉野という人は、本当に日本の商工行政を初めて系統立てて、それに理論的な根拠を与えた人だと思う。産業組合は別にして、それまでの産業政策は、その場その場の思いつきみたいなもので、統一した考え方はなかったわけです。商工省の役人だけの考えということではなく、我々の作った原案を審議してもらうために学者や実務家や役人を入れた商工審議会を作ったのですが、それを実際にリードしたのは幹事長役をした吉野さんでした」(『岸信介の回想』)。  この商工審議会の設置当時、吉野の8年後輩として重用されていたのが岸であった。昭和初期の商工省において、吉野と岸は強力なコンビを組み、産業合理化路線において省内をリードした。1931(昭和6)年の重要産業統制法や工業組合法、翌32年の商業組合法などは、このコンビが生み出したものであった。他方で財界や自由主義者からは警戒された。1936年には当時の商工大臣であった小川郷太郎によって2人は辞表提出を迫られ、それぞれ新たな仕事場を求めるに至る。この時点で吉野は次官就任から5年が経過していたのであるから、省内での力は絶大なものであった。  吉野や岸が注目を集めた時期は、兄の吉野作造がかつて、その象徴的存在であった「大正デモクラシー体制」が急速に衰退しつつあったときであった。昭和初期から続く恐慌のなか、政党政治の腐敗を糾弾し、満州の重要性を強調し、中国ナショナリズムの挑戦から日本権益を守るために積極的に行動すべしとして、国内政治の革新と強硬な対外政策の樹立を要求する主張が国民大衆の支持を得ていた。  満州事変が発生した1931年当時、政友会の幹事長でありながらも、従来の議会政治擁護の態度を捨て、政友会と軍部との提携による独裁政治の実現を強く主張していた、森恪という人物がいた。そして、国内革新を断行して政治権力の強化と統制経済を確立することにより、はじめて日本は大陸へ膨脹することが可能であると信じた森が、当時連絡を保っていた軍人や官僚の一人に、吉野がいたことも知られている(緒方貞子『満州事変―政策の形成過程』)。  また1935(昭和10)年ごろになると、陸軍を主体として軍需工業と基礎産業の生産力を拡充するための計画作成が着手され、1937年には「重要産業5ヶ年計画要綱」が第1次近衛文麿内閣(同年の6月に成立)に提案されており、内閣はこれを受けて「我国経済力の充実に関する件」を閣議決定し、あわせて財政経済3原則(生産力の拡充・物資需給の調整・国際収支の均衡)を発表した。生産力拡充が経済統制を要請することを表明したこの原則は、当時商工大臣に就任していた吉野と賀屋興宣(おきのり)大蔵大臣の名で発表されている。そして翌38年の内閣改造で大臣を退いた吉野は、満州重工業開発会社の副総裁を2年間つとめている。  このような経歴から、兄の作造と対照的な国家観・政治観の持ち主として吉野をとらえる見方が一般に広く行き渡っているようである。作造の妻であった玉乃と、吉野の妻であった君代とは姉妹であったが、彼ら彼女ら4人を描いた評伝劇『兄おとうと』(講談社刊)において、作者の井上ひさしは次のように4人に言わせている。   信次 君代、これ以上、ここにいては危険だ。帰ろう。   君代 おにぎりがまだのこってる。   信次 (改まって)万世一系の神聖にして侵すべからざる巨きな存在から下しおかれた憲法、その憲法にたいし、きみの義兄は不敬をはたらいている。それが判らないのか。【引用者注:「きみの義兄」という部分に傍点あり】   君代 きみの義兄? へんな言い方なさるのね。   信次 帰るんだ。   君代 いまのはただのお講義でしょう。   信次 その内容は大逆罪に相当する。   作造 待てよ、信次。憲法の原理を説いて、なぜ大逆罪なんだ。ましてやここは学問の府、どんな議論も許されるはずだよ。   信次 国家の官僚としてとうてい聞き逃すことのできない話を耳にしました。しかし、密告はしません。それが、弟としての最後の友情、と思うからです。     信次、さっと出て行く。君代、作造や玉乃に目顔で「さよなら」を告げて、そのあとを追う。   作造 弟として最後の……どういう意味だ。   玉乃 あなたが、うーんと遠いところ、怖いところへ行ってしまった。だから……。   作造 ……縁を切る?     玉乃の悲しいうなずきに、作造、暗然となる。  だが、国家革新の流れを代表する人物として、兄と対比(そして対決)させて吉野を描いたその像が、はたして史実に即したものであるのか、引用者にはやや疑問に感じられる。商工次官を辞任してからの吉野が顕著な事績を見せた、あるいは大いに実力を発揮できた(すくなくとも当人がそう感じえた)場は、戦前戦中の日本(・「満州国」)に存在しなかったことは、正伝『吉野信次』の記述からも明らかである。むしろ引用者には、その像は吉野というよりも、戦後に戦犯容疑者から総理大臣にまで上り詰めた岸信介について、より当てはまるように思われる。岸が「官僚としては第一級」と評したように、吉野は世の中の趨勢に抗ったり、あるいは趨勢をつくるというより、むしろ既定の国家の路線のただ中にあって着実に成果を積み重ねることに適した人物であったといえるのではないか。  ここで、吉野作造記念館の研究員である小嶋翔氏が吉野のパーソナリティに関して以下のように述べているのは、注目すべき分析と思われる。「信次は帝大卒業後の就職先探しについて『就職について特別の希望もなかった』『折角高文試験に合格したのだから官庁へでもと思って』などと回顧しているが、こうした野心の希薄さには、かえって大正時代らしい新しい国家エリートのあり方が認められると思われる。『天下国家』や人類の歴史といったことに大志を抱くよりも、目の前の仕事を着実にこなし、実際的な努力の結果として得られた成果に、職業人としての人生の充足を覚える、というあり方である」(「吉野信次の思想形成」『吉野作造研究』第9号、2013年所収)。  なお吉野が兄作造をどのように見ていたか、その思い出を語った文章が、『青葉集』に掲載されているが、その中で次の一節は、兄弟の性格や生き方の相違や、兄弟間の距離を感じさせる象徴的な記述ではなかろうか。  ……年が十も違つては、吾輩の物心のついた頃にはもう仙台の学校へ遊学中であったから、家庭で兄に甘えて遊んで貰った記憶がない。  ……[兄が]漸く多年の宿望の留学が出来ることになって、二つの故障に遭遇した。……一つは金である。子供が五人もあったから、洋行中の家族の生活費の問題である。流石に金に対しては無頓着な彼も之には弱ったらしい。それを[徳富]蘇峰先生の尽力で、当時政界に飛ぶ鳥を落す勢力のあった後藤新平伯より三ヶ年間、毎月五百円宛頂戴することになって大安心をした。其の辺の事情は吾輩はよく知らない。蘇峰先生とも当時昵懇と云う仲ではなかったらしく思う。  ……第一回は兄が出立前直接に受取り、第二回以後の分は弟にお渡しをと云う訳で、紹介方々[明治]四十三年の春だったか、時めく通信大臣官邸に朝早く兄に連れられて行った。帰るさに銀座の松喜と云ふ牛肉屋で朝食を奢ると云い出した。所が生憎貰った斗りの百円札五枚の外、電車賃の小銭があるに過ぎぬ。百円と云えば大金だから、之で牛肉屋に上っては具合悪いと思ったらしく、兄は兎も角牛肉代を借りる積りで銀座裏の知人の家に行ったものだ。朝早くの珍客の御入来で一寸驚いたらしい。  あれで妙にはにかみやの癖があって、仲々要点を切り出さない。吾輩は朝早くからやって来てるので腹が減った。下らぬ世間話はやめて早く金を借りればよいとヂリヂリしてたらば、漸く一寸買物をし度いので百円札を細いのに代へて貰えまいかとやったものだ。素より家の構えから見て百円の手持があろう筈がないことは書生っぽの吾輩にだって明白である。果して先方では迷惑顔をした。実は少々入用なんですが、これを向けたら三十円位ならここにありますとの返事だ。いや十円もあれば結構ですと云う訳で、十円札一枚借りるのに一時間以上も費した。松喜の牛肉を生れて始めて御馳走になった。  今から考えると午前の十時頃に牛肉屋に行くのも変な話だし、百円札を銀行で両替えて貰っても宜かろうし、或は松喜の支払に出しても差支なかりそうに思われるのに、随分廻りくどい事をやったものだ。俗事に疎いと云うよりは、そう云う性格の半面を持った人であった。  海外留学を卒えて大学の助教授となってからの兄に付いては別段茲(ここ)に書くことはない。云わば公人としての活動期に属するので、寧ろ吾輩には之を叙する資格がないと云って宜しい。第三者として眺むれば華かな所もあったが、文字通りの悪戦苦闘の四字に尽きると思う。……   吉野学長校長の積極的事績と教育観  (あくまでも官僚として)抜群の有能さを評価された吉野が、それでは武蔵大学学長・高中校長として、どのような事績を残したであろうか。ここであらためて確認してみたい。  吉野の在任中の事項として特記されるのは、1961(昭和36)年に「君が代斉唱」の必要を述べた件である。『武蔵学園史年報』第8号所収の「武蔵高等学校中学校記録抄その4 1960.4~1967.3」(大坪秀二編)によれば、吉野は4月17日の教師会において「今まで歌っていないものを急に歌うのもどうかという意見もあるが、歌わないことの理由はどこにあるのか。とにかく、歌う歌わないは別問題として高校を卒業して国歌を知らない国民が出現する心配は無いものだろうか。またそれで良いものだろうか。これはある意味で根本問題だと思う」と述べ、ただそれに続けて「ここで今すぐ議して貰わなくてもよいが、以上問題を提供しておく」と発言し、この問題はそのままとなったという。学長校長在任中の吉野について、現在の目から見た評価は「積極果断な、かつ大きな変革への取り組みが見られなかった」ということになろう。  ただ、前出の『武蔵大学五十年史』は、吉野が教職員と接触が薄く、学生からも親しまれていなかったと記した後、続けてこのように記している。「しかし、吉野学長の期間には、経営学科の新設と大規模な施設の拡充が実現されたという点で、大学の歴史に残る仕事を成した学長の一人であった」。  詳細は正史の記述に譲りたいが、大学の拡充に消極的であったといわれる宮島清次郎理事長、山本為三郎理事をはじめ学園の要路の説得に吉野は成功し、経営学科の増設や大学1号館、そして研究棟・図書館・学生ホールの建設を実現させている(『武蔵大学五十年史』、向山巌「経営懇談会記録解題―経営学科創設との関連について」(『武蔵学園史年報』第4号所収)、大坪秀二「武蔵学園経営懇談会記録解題」(同じく第4号に所収)による)。  大学における人文学部の設置をはじめとする学園の飛躍的な発展は、1965(昭和40)年4月に吉野の後任として学長校長に就任した正田建次郎によってなされたと言えるが、それまでの「つなぎという立場」(前掲『吉野信次』)として、学科と設備面での拡充に関しては、吉野学長の寄与貢献があったことになる。    最後に、吉野は学生に対してどのような希望を託したのかを確認しておきたい。入学式・卒業式の祝辞などは 『武蔵大学新聞』のバックナンバーにおいて確認できるが、ここでは正伝『吉野信次』(執筆者:有竹修二)に収録された、卒業式の挨拶(初出は武蔵高校・中学校の学園雑誌『大欅』創刊号(1965年)、当時の吉野は名誉校長)を紹介したい。そこでは、19世紀の詩人であったヘンリー・ワーズワース・ロングフェロー(Henry Wadsworth Longfellow)のA Psalm of Lifeの一節が引かれ、吉野の解説あるいは解釈が記されている。  Lives of great men all remind us     we can make our lives subline,  And, departing, leave behind us     Footprints on the sands of time ;  Footprints, that perhaps another,     Sailing o'er life's solemn main,  A forlorn and shipwrecked brother,    Seeing, shall take heart again.  「……われわれは、この世においては、この人生の、(sands of time) 時の砂の上に、ある足跡を残すような気持ちで奮発しろ。どうせ、どんなにえらい人でも、結局、時の波というものには、みんな洗われちまうんです。  われわれは、人生に残した足跡というものは、これは、永久に岩に刻むようなわけにはいかないんで、やっぱり砂の上の足跡なんですね。いずれは消えてしまうんだ。消えちまうんだけれども、しかし、短かい間でも、その砂の上に残した足跡というものがあれば、あとに来る人がこの足跡を見て、大いにふるい立って、勇気を起こすだろうというんです。  それだから、いま、支那流、東洋流にいうた『志は不朽にあり』というのが、そういう意味なんだ。そういう学に志す心という気風が、私は非常に欠けていると思うのですよ。……あなた方も、この卒業という段階の時に、いま申したように、志を不朽にもって、そうして自分の与えられた境遇で、どうしたら一番効果的の勉強をすることができるかということに、私は一段と力を尽くしてもらいたいと思います。……」  引用者には、この挨拶が、役人生活を終えて以降、(あくまで引用者の想像であるが)会心の活躍の場がなかった自身の人生を振り返り、かつ、学長校長としての事績が微々たるものであったことを自覚していた吉野の、きわめて深い感慨が込められているように感じられる。   ↑ 吉野信次学長・校長(在任期間:1956-65年)   ↑ 1964(昭和39)年6月に開催された、「第4回武蔵大学土曜講座」にて、「我が邦工業政策の変遷」と題して講演を行っている吉野学長   ↑ 吉野信次学長の武蔵大学卒業式(1963年度)送辞原稿
2018.07.02
「歴史家島田俊彦」の出発点 ― 淡々たる言動に秘められた硬骨
武蔵における存在の重さ  武蔵高等学校では、修学旅行が1978(昭和53)年を最後に廃止され、それ以降も復活の動きは見られない。武蔵学園の編年史における「修学旅行」の項では、『武蔵60年のあゆみ』から『武蔵90年のあゆみ』まで一貫して、ほぼ同一の記述が続いている。以下、その一節を掲記してみよう。  「関西方面の歴史的風土・文化遺産を見学することを目的とした高校2年の修学旅行は、1951(昭和26)年に復活した。戦後の混乱期から少しずつ立ち直りかけた時期であり、戦前の国史教育の反省に立った戦後の日本史学習とあいまって、復活当初の修学旅行には新鮮な活気があった。しかし同時に、団体旅行につきものの無責任な風潮の萌芽も、すでにそこに存したといえよう。その後、集団観光旅行が観光地に充満する時代のなかで、武蔵の修学旅行は、コース選択制・グループ見学方式など先駆的な改善を行ってきたが、ついに修学旅行という因襲的形態にまつわる欠陥を除去し得なかった。集団のなかに個々の責任が埋没してしまうような学校行事はむしろ進んで廃止しそこで失われる修学旅行の美点は別の形で追求すべきであるという考えのもとに、78年を最後に廃止された。中学3年も東北旅行を実施していたが、66年を最後に廃止された。」(以上、『武蔵90年のあゆみ』190ページより)  この廃止が決まったときの武蔵高校の校長は大坪秀二氏であったが、彼は『大欅』1979年6月15日号に「修学旅行の廃止をめぐって」と題する文章を載せている(のち『大坪秀二遺稿集』に収録)。大坪はそこにおいて、「出発から帰着まで、全員が一斉行動をする」という、修学旅行の「伝統的な様式」についての批判が復活早々から見られたと述べ、「修学旅行を単なる団体観光旅行、思い出旅行とするのでなく、各人が主体性をもって計画し見聞するという旅行本来の立場を、修学旅行の中に何とか生かせないだろうかという意図に発する」コース選択制の導入もあったものの、「結局は単なる集団旅行へと風化してゆく経過を、毎回たどった」と記している。  続く文では、「修学旅行という名の下に私たちの社会に定着しているのは団体旅行であり、日本的な団体旅行の魅力は、それに加わることで個々人の責任が消失する気楽さにあるということが、すべての底流にあった」、「団体旅行に典型的なこうした精神現象を、私は生徒への話しの中で、『集団無責任体制』という言葉で表現しました。今の社会で問題となっている多くの事柄、青少年の聞で問題となっている事柄などを見きわめてゆくとき、この『集団無責任』が根本にある場合が実に多い」とある。  上記の文章はいまから約40年前のものであり、率直に言って、なかなかその切実さが身近に感じられない部分もあるが、「集団観光旅行としての修学旅行」の強硬な廃止論者であった大坪による、現在全国的に積極的な意義が失われつつある修学旅行の否定的な側面を浮き彫りにした先駆的な考えとして、一読に値するものであろう。  その大坪が、武蔵高校の修学旅行で唯一、「今日的観点から見ても、非常に立派なものだった」と高く評価しているものがあった。それは、1951(昭和26)年から1969(昭和44)年まで教諭(その後、1975年の逝去まで大学の人文学部専任教授)をつとめていた島田俊彦を中心に立案・実行されたものである。  「20年以上昔の当時、既に、コース選択制による見学人数の分割を行って、見学の徹底をはかったことなども、島田さんだけの発案ではないが、卓見であった。阿弥陀信仰という一本の線で、法界寺・平等院・かにまん寺・浄瑠璃寺・岩船寺を結んだり、飛鳥・白鳳・天平の線を完成するために、一般コースを離れて当麻寺まで足を延〔ば〕したり、さらには室生・多武峯までを日程に含めたりした。  当時は、バスの運転士でも飛鳥や南山城の道は不案内で、島田さんが運転士の横の席でいちいちコースを指示したし、島田さんの指導の下に生徒が編集した旅行の案内書は、バスガイドたちに好評で、せがまれてわけ与えることになったりした。  島田さんは、地図なしでも歩ける旅行の先々でなおかつ熱心にスライド用の写真をとり、さらに民族文化部の生徒との旅行の時のデータなども補充して、翌年の生徒に対してはさらに新しい工夫を加えるなど、私たち教師にとっても、島田さんの手で総合された修学旅行につきあうことは、日本史への興味を啓発される上でも、大層勉強になることであった。」(以上、大坪「島田先生を悼む」『武蔵大学人文学会雑誌』第7巻第3・4号、1976年に所収)    修学旅行が実施されていたとき、引率役であった島田の(武蔵学園史において)面目躍如たる事件があった。  制服を着ることなくセーター姿で旅行先を歩いていた生徒たちが、他校生に脅かされたり撲られたりという出来事があったというが、付添い教師が京都の警察署で事情を説明する段になって、京都府警少年課の担当者が「制服を着てないような生徒は、それだけで不良と見られても仕方ないのだ」というような話をしたさい、島田が「うちの学校では服装は自由なのだ。あんたは、ひとの学校の教育方針にケチをつけるのか」と応酬したという。これ以降は、関西旅行の折には必ず教師が五条警察署に立寄り、「本校は服装自由であるので、その旨ご承知いただきたい。服装だけの事で取締りの対象にしていただきたくない」旨を説明することになり、これが結果として「武蔵は制服のない学校」ということを世間に定着させることに役立ったという(大坪「武蔵の服装規程のこと」同窓会会報第32号、1990年12月に所収。のち『大坪秀二遺稿集』に収録)。    大坪は、新制武蔵高校発足の2、3年後ごろからのつきあいであった島田について、「吾々の仲間の餓鬼大将でもあった」と評している。  「私は、あるいは私たちは、島田さんとよく飲み、よく出歩いた。そうした生活の中で、島田さんが発散するザックバランな、一本気な、正義派的な雰囲気は、当時の私達の気風をとりまとめる一つの中心になっていたかと思われる。」  この文は、武蔵高校の教師陣が、個性的で、かつ識見すぐれた人物を得ていたことを示すものといえるだろう。 ↑ 『武蔵七十年史―写真でつづる学園のあゆみ』(1993年)掲載の写真   近代史研究の出発点としての海軍勤務  島田は教諭在任中に、満州事変や日中戦争の実証的研究の第一人者としても名高い存在であった。1962年から63年にかけて朝日新聞社から刊行された『太平洋戦争への道―開戦外交史』(全7巻)の共同執筆者として、また1964年から66年にかけては、みすず書房の『現代史資料』シリーズの『満州事変』、『満洲事変 続』、『日中戦争』の共同編者としてそれぞれ名を連ね、単著として『関東軍―在満陸軍の独走』(中公新書、1965年)、『満州事変』(人物往来社、1966年)を執筆している。この2冊の単著は講談社から学術文庫化され、初版刊行から半世紀がすぎた現在でも新刊本の書店で入手が可能である。このような貴重な成果として結実した研究の出発点は、以下に紹介するように、彼の使命感や良心と不可分のものであったといえる。    島田は1908(明治41)年生まれ、1931(昭和6)年に東京帝国大学文学部史学科を卒業後、2年間の大学院での研究を経て聖心女子学院高等専門学校の教授をつとめていたが、太平洋戦争中の1942年5月に退職、その翌月に海軍の軍令部嘱託(戦史編纂事務)となり、終戦までその職にあった。以下、みすず書房の『現代史資料』第7巻の付録月報に収録されている島田の回想「軍令部戦史部始末記」によりながら、彼の研究基盤や独特な言行に接近してみたい。    日本海軍では日清・日露戦争や北清事変、第1次世界大戦、満洲事変、第1次上海事変など、かかわった対外戦争や戦闘に関して、軍令部による厖大な戦史が(軍事機密扱いであるが)編纂されていた。日中戦争が太平洋戦争にまで発展拡大した時、軍令部が恒久機関として「戦史部」をあらためて発足、現役・予備役の将校が15、6名ほど配属されるとともに、歴史専門家として島田が嘱託に就任した。  編纂の計画は、まず『大東亜戦争海軍戦史本紀』という表題の、従来程度の詳しさの戦史をつくるほか、さらに詳細でさらに機密度の高い『秘史』(作戦や用兵が記述の中心)、そのほかに機関科、主計科、軍医科等各科別の戦史を書く。さらに一般啓蒙用として、機密事項を取除いた興味本位の戦史もつくる、というものであったという。「生来無類の臆病者である私は、何としても戦争へ行くのはイヤだった。徴兵検査は丙種だったから、満洲事変、日華事変のうちはいささか高みの見物だったが、これが太平洋戦争にまで拡大されると、安閑としてもいられなくなってきた。恩師の辻善之助先生〔1877―1955、歴史学者・日本仏教史〕は、私のこの哀れな心情を察して、ある日私を招いて『海軍で軍人たちだけで大東亜戦争の戦史を編さんしているそうだが、最近、歴史の専門家がひとり欲しいといってきた。この仕事をやれば、かえって戦争に行かないですむかもしれない。行かないか。』といわれた。……何よりも、もしかすると戦争にいかないですむということが最大の魅力だったので、結局推せんをお願いして清水の舞台から飛びおりた。」  以上の叙述は、島田がこの仕事を引き受けた理由が、単なる徴兵の忌避にしか感じられないような書きぶりであるが、実相は彼が持っていた(実証的な歴史学の学徒という)職業的倫理観に共鳴するものが、このプロジェクトを担当した海軍側の人間の言動に見出されたからではなかろうか。「ある日、先生の紹介状を持って軍令部戦史部に先任部員(課長相当)の高田俐大佐をたずねた。……高田大佐は……『あなたにこれから書いてもらう戦史は、将来軍機書類として海軍軍人だけに研究させるのだから、あらゆる事実について絶対に筆を曲げないでほしい、よしんばそれで海軍が悪者になってもさしつかえないから――』というそのときの一言は、吹きすさぶファシズムの嵐の中で、自由な歴史研究が妨げられつつあることを感じていた私に、この仕事にたずさわる最後の腹をきめさせた。」    なおこのプロジェクトでは、作家の吉川英治も勅任待遇の嘱託になっていたという。「吉川氏はわれわれの書いた『本紀』に基づいて、一般啓蒙用に筆を振うはずであった。そしてその出版は岩波書店が引受けていた。高田大佐の話によれば、吉川氏はこの仕事を依頼にいったとき、同氏は今後一切他の執筆を絶って、この意義ある任務に専心すると、涙と共に誓ったということだったが、ついに1字も書かずに終戦を迎え、他にも小説を書かれた(もっともその際軍令部の諒解を求めに来られたが)。それは恐らく、われわれの書いた無味乾燥な戦史だけが資料というのではどうにも筆の振いようがなかったことにもよるのであろうが、それよりも次第に吉川氏の胸中において、『大東亜聖戦』のイメージが崩れ去りつつあったことが最大原因だったのだろう。純真な吉川氏にはまことにお気の毒であった。」    ここで島田が記している、吉川が覚えたかもしれない失望は、おそらく島田自身のものでもあったのではないだろうか。敗戦後、組織の解散時に残すことのできた業績は、B5版約900頁の『本紀第1巻』(1937年の第2次上海事変まで)1冊だけだったという。もっとも、島田の遺品として残された史資料群には『本紀第2巻』の草稿も含まれているが、これが日の目を見ることはなかった。島田は戦争後半のある時期から、海軍部内で編纂された戦史の完成を断念し、後世のいつの日か、自身の使命感を充足しうる(そして、広く国民一般にそれを公表しうる)内容の戦史執筆を構想し始めたように思われる。   島田の「歴史家としての良心」―戦後に大成へ  島田の回想は以下に続く。  「戦史部ではジッとしたままで、資料係が転手古舞するほどたくさんの貴重な資料が入手できた。それをいつでも自由に披見できることは、何ごとにも代え難い大きな魅力であった。ことに敗戦の〔19〕45年になってからだと思うが、情報担当の軍令部第3部から、古い資料が場所ふさげでこまるから、そちらで不要なら焼却するがという照会があって、そのあげく資料の山が戦史部に移管されたとき、私の胸は躍った。それらは昭和初年からの各種対外案件に関する陸・海・外の機密電報、外地からの情報、中央国策決定の文書、軍令部甲部員(政策担当)関係の作戦日誌……さては新聞の切抜きに至るまで、いずれも実によく整備された珠玉の資料であった。そのころ私は太平洋戦争のひとつの重要な核である日中両国のもつれ、そして戦争を、いつの日にか解明してやろうと考えていたので、これらの資料の中から主として中国関係のもの――つまり軍令部第6課(中国情報担当)のもの――ばかり200冊余(1冊平均約200枚)をえらび出し、自分用の金庫にこれを格納した。そして公務のあいまにこれを取出しては、少しずつ読んでいった。」    1945年6月になると、空襲を避けて戦史部は保管資料とともに山中湖畔に移転し、島田らは翌々月にその地で敗戦を迎えた。  「海軍大臣からは機密書類焼却の厳命が来ていた。だが当時資料保管の責任者でもあった私には、到底焼く気になれなかったし、また将来のため焼くべきでないと考えた。そこで私は独断で、ある日ひそかに湖畔の村の某家を訪れ、資料の隠匿を依頼した。幸い同家ではこれを快諾し、2階の物置をこれにあてるということだったので、私はすぐにホテルに戻り、夜陰に乗じて運びこむべく、水兵を指図して資料の箱詰め作業にとりかかった。ロビーを資料で一杯にして作業している最中に、終戦だというので本省へ出張した長井〔純隆〕大佐〔海軍兵学校50期、戦史部専任部員〕が帰られた。そしてこの『ていたらく』を何ごとかと不審がられ、やがて真相が分ると「大臣の命令が分らないのか。全部焼け」と命じられた。先任部員の立場としては、もちろん当然の発言だったのだろう。私も上官の命令とあればやむを得ず、速刻箱詰め作業を焼却作業に切換えた。それから4日3晩、徹夜で資料は火葬に付された。炎々たる焔は天を焦し、最初の晩には村人が火事とまちがえて駈付けるほどだった。」    ここで登場する長井が戦後、防衛庁防衛研修所の戦史室(現在、防衛省防衛研究所の戦史研究センター)の室員として海軍公刊戦史の編纂執筆に携わり、大半が焼却処分されてしまった機密書類の欠を埋めるため、関係者の回想やインタビューの実施や史料収集に日々忙殺されたことは、皮肉なめぐり合わせと言える。そして長井らの編纂官は、その作業において、今度は島田の大いなる助力を得ることとなったのであるが、それは島田が秘匿保管していた史資料を参照し得たことによるものであった。    島田の回想を続ける。「戦史部の全機密書類は焼却完了ということになった。しかしそのことは必ずしも事実と符合しなかった。なぜならば焼却の指揮者であった私は、またしても独断で例の2百余冊の日中関係資料をえらび出し、家族を疎開させてあった山中湖畔の借家に、ひそかに運びこませてしまったからである。これは明らかに大臣命令違反であり、またやがて進駐して来るアメリカ軍の追求を受ける恐れもあった。しかしこのことに関する限り、臆病者の私にしてはふしぎなことに少しも恐くなかった。これという理由もなしに、私は当然これを守るべきだし守り得ると考えていた。」「終戦後、私は職場を失い、また元軍令部職員ということから、しばらくは教員の適格審査にも合格せず、いささか世の辛酸をなめた。しかしそのようなことは臆病者、卑怯者の当然受けるべき『しもと』であって、問題ではない。私の任務は、幸い残すことのできたこれらの資料を活用することにある。だから今まで細々とではあったが、これらをもとでに研究を続けてきた。そして一方では、私物ではないこれらに日の目を見せるチャンスをうかがってきた。」    島田が保管していた、この一群の史資料の大部分は、後年、みすず書房の『現代史資料』に収録され、敗戦後約20年の年月を経て国民一般の目に供せられることになった。また防衛庁(当時)による陸海軍の公刊戦史の編纂執筆に際しても、さきにふれたように、それらの史資料が複製され参照されている。その内容から見えるものは、満州事変から日中戦争の拡大まで、日本の海軍も陸軍も外務省も、1930年代に中国に対して相当に強硬な姿勢を取り続け、軍事衝突の発生時にはさまざまな拡大防止の策を検討したことも確かではあるが、全体としては中国側の交戦意思を低く見積もり、また事態収拾の見込みについて著しく楽観し、最終的に国際的な孤立をまねいていったという日本の姿であった。    みすず書房の『現代史資料』編集室は、上記の月報掲載文の紹介において「淡々たる筆致のうちに、『資料』とは日本国民の公有のもの、そして公開への使命感にささえられて、あの敗戦直後異常な緊迫時に、身をもって資料を守りぬいた姿が語られています。――この『焼け』という大臣命令に『焼かない』という行動が、どんな危険を意味し、この反逆がどれほどの勇気を必要とするかは、軍隊で8月15日を迎えた体験者には誰しも判っていただけると思います。」と記しているが、これは歴史家としての良心と硬骨さとを兼ね備えた島田がおこなった、他に類を見ない「日本国民にとっての一大貢献」であったといえる。    1960年代半ばからの短期間で、続々と単著や共同研究の成果が世に出されるにつれて、しかし、島田の健康は急激に損なわれていった。それでも、1970年前後からさかんになった学費問題をめぐる学内での紛争にも正面から対処し、その収束から数年後の1975年12月に満67歳で逝去している。    長いとはいえない生涯ではあったが、敗戦直後には史資料の秘蔵保管という心理的な抑圧(あるいは自責の念)に耐え、戦後は質の高い歴史研究の成果を次々と世に送り、あわせて教育者としても確固たる精神を持ち続け、多くの学生がその薫陶を受けた。このような人物は今後、武蔵においても他の教育機関においても、なかなか現れないのではなかろうか。
2018.07.02
武蔵学園の創設と本間則忠の「十一年制寄宿舎」構想
はじめに  1921(大正10)年9月、財団法人根津育英会が設立され、1922年4月の旧制七年制武蔵高等学校開校に向け動きが本格化した。その中心となったのはもちろん初代理事長根津嘉一郎であったが、根津に学校建設を働きかけ、さらに具体的なプラン作りにも大きな影響を与えた人物として、本間則忠(1865~1938)という文部官僚がいた。その本間の構想については、すでに大坪秀二「武蔵創設の『初心』 創立前史に想う」によって紹介されている。それによれば、ドイツのギムナジウムを模した中高一貫教育と、イギリスのオックスブリッジなどのカレッジにみられる学寮制を併せ持ったようなものであり、特に学寮制については、日本の旧制高等学校のような精神主義的で「バンカラ」風なものでは決してなく、人格陶冶をめざし、教師と生徒が同じキャンパスで生活することで「広範に教育活動を展開」できるような、まさしくイギリス風の寄宿舎を考えていたという。そして、大坪はそのような寄宿舎が結局は実現しなかったことを「ちょっぴり残念な気もする」と述べている。  この項では、この本間構想が実際にどのようなものであったのかを改めて振り返ってみたい。というのも、じつは2016年より元国立国会図書館長大滝則忠氏らの手によって、同年夏に発見された「本間則忠旧蔵文書」の整理が武蔵学園記念室で進められている。2018年8月の時点で整理作業はまだ進行中であるが、それでも少しずつ新たな事実が判明しつつある。そこで、ここではいわばその中間報告として、新事実を含めて本間の構想を再構成したいと思う(以下、特に出典を注記せずに引用する資料は「本間則忠旧蔵文書」所収のものである。また、引用文は現代語風に書き換えた)。   1 本間と平田東助・根津嘉一郎  まず、本間について紹介しよう。現在の山形県東置賜郡川西町玉庭の農家に生まれた本間は、山形師範学校(当時の師範学校は授業料がないため、貧しいが優秀な生徒が通う学校というイメージが強かった)を卒業して小学校教員となり、さらに東京の高等師範学校(現・筑波大学)を卒業すると長崎県師範学校教員として赴任した。ここまでは通常のエリート教員のコースであるが、本間の場合は、こののち文部省に勤務することとなり、かつ40歳で文官高等試験(現・国家公務員試験Ⅰ種)に合格し、いわゆるキャリア官僚となった点がほかの者と異なっていた。このような履歴をみる限り、歳をとっても刻苦勉励を怠らずに教育界・官界で立身出世に成功した人物であり、勉学というものの重要さを身に染みて理解している人物といえよう。しかし、そんな努力型の彼でも、50歳頃になると官界での出世に陰りが見えてきた。本間の後ろ盾となってくれた人物として、同郷の先輩である元内務大臣平田東助(1849~1925)という大物政治家がいたが、この頃の本間は、しばしば平田に書簡を差し出し、なんとか自分を引き立ててくれるよう懇願している。  その平田も武蔵学園に由縁の深い人物なので簡単に紹介しておこう。彼は米沢藩の医師の家に生まれ、明治維新後は藩命で上京し勉学に励んでいた。その際に優秀さが認められ、いわゆる「賊軍」出身であったにも拘らず、岩倉使節団に加えられそのままドイツに留学した。帰国後は法制官僚となって伊藤博文の憲法調査団にも加わっている。その後は、反政党意識を強く持つ山県有朋に近い官僚政治家として貴族院に強い影響力を持つ一方、現在の農業協同組合の前身である産業組合の育成に力を注いだり、教育振興にも熱心に取り組んだ。そんな平田と本間が最初に接触したのは、1894年に本間が東京の高等師範学校に入学する際に、平田に保証人になってくれるよう依頼した時であった。この時は、面識がないとの理由から本間の申し出は断られたが、その後は平田の子供たちからも本間は慕われたようで、家族的な付き合いをするようになっていく。したがって、平田も本間のさきほどのような懇願には大いに配慮したものと思われるが、それでも結局、本間の希望が叶うことはなかった。  根津と本間が運命的な出会いをしたのは、丁度このような時であった。1915年12月、大分県別府温泉日名子旅館に静養のため宿泊していた根津を、大分県理事官であった本間が訪問し「秀才教育の施設経営」を熱心に説いたのである(本間則忠「武蔵高等学校創立に関する経過」)。ただし、これが両者の初対面ではなかった。本間は根津の出身地である山梨県で役人をしていたことがあり、その頃根津が本間に「御書面の件に付ては自分にも多少意見もあり、いずれお目にかかった際に申し上げたい」との趣意の書簡(1909年7月24日付)を送っている。この書簡は、根津が公益的な事業に私財を投じたいと考える契機となった実業視察団の出発直前であり、「御書面の件」の具体的内容がどのようなものであったのか是非知りたいところであるが、残念ながらこれ以上は不明である。  さて、この出会いの後、「武蔵高等学校創立に関する経過」によれば、翌1916年12月、再び別府を訪れた根津は、本間に前年の提案に承諾を与えるとともに、その実行方法を本間に委嘱したとあり、学園建設に向け順調な滑り出しを切ったように見えるが、この後も創設までには様々な紆余曲折があった。じつは本間はこの頃、大物実業家の久原房之助(1869~1965、日立製作所などの創設者)にも同じような提案をしていた。つまり、二股をかけていたのであり、それを示すのが1917年6月付の久原宛本間書簡控である。久原はこの頃、自身の出身地である山口県下松に一大工業都市を建設する計画を持っており、その一部として学校の設立も含まれていた(『久原房之助』日本鉱業、1970)。そして、その校長に東京高等師範学校校長の嘉納治五郎を予定しており、その嘉納は本間を同校の幹事(校長の補佐役)に擬していたのである(1917年12月12日付平田東助宛本間書簡控)。しかし、久原の計画はアメリカの鉄禁輸の影響を受けて頓挫し、同時に学校設立も一時中断してしまったようで、本間にとっては根津が唯一の頼みの綱となってしまった。   2 「十一年制寄宿舎」構想  さて、本間がめざした学園とはどのようなものであったのか。「本間則忠旧蔵文書」には作成時期は不詳であるが、本間が執筆したと思われる「秀才教育に関する施設経営」という史料が存在する。それによれば、「人生を通して教育上、最も大切な時期は青年時代である。青年時代は身心の発達最も旺盛にして、まさに保護者の干渉を脱し、独立の地位に就かんとする」時期なので、「青年個々の資性に応じて適切な教育を施し、特に英才俊秀の者に対してはこれを抜擢して適切な教育を受けしめ、自由にその驥足を伸ばさせる」必要があるという。これは、当時の画一的な教育を強く非難し、「個性教育」を主張したものであった。そして、これを実現するためには、まず中学校では全国から優秀な人材を集めた上で、校舎と寄宿舎を一体化し、教師と生徒が親子のごとく接することができるような環境を整え、そこで勉学の進展と天稟の才能の自由な発達を促すことが重要である、と本間は述べている。  さらに、そのような中学校を卒業した者に対しては、「親」からの必要以上の干渉は個性の発達にとってむしろ有害なので、既に存在する官立の高等学校や大学(一高や東京帝国大学を指すと思われる)に進学させることをめざすべきであるが、その一方で、進学した学生たちには「独立自修」の便を与えることが重要なので、そのような設備がある寄宿舎に依然として留まらせるべきであるとも彼は主張する。つまり、中学校5年間、高等学校3年間、大学3年間合計11年間の寄宿舎生活を構想していたのである。そして、こうした教育を受けた者は将来、各方面における「大器」の指導者として活躍することが期待できるであろう、と本間は結んでいる。  以上のように、本間構想の特徴は、第一に、画一的教育に対し「自由」「個性教育」「独立自修」を重んじたことであり、第二に、11年間という長期間に亘る寄宿舎生活を送ることにあった。特に第二の点は、「前古未曾有の大教育事業として、世間の注目を受けるべきものはこの学寮制度の実現にほかならず」(1918年11月6日付根津宛本間書簡控)と本間自身が語っているが、確かにそれも首肯できよう。彼は、このような形でドイツのギムナジウムと、イギリスのカレッジにおける学寮制の両立を、東洋の日本で実現しようとしたのであった。なお、「本間則忠旧蔵文書」中には、当時本間が作成したと思われる図面も残されているので、文末に掲載しておいた。  ところで、このように長期の寄宿舎生活を強いるとすれば、その寄宿舎に「自分の家のごとき親しみを与えることができるか否か」が重要であり、それは「学寮敷地の良否により決する」(同前、書簡控)ことも確かであった。このため、本間は学校の建築場所に強い拘りをもっていた。具体的には、風教の良さや交通の便はもちろんのことであるが、「採光通風佳良にして高燥の地」でなければならない、なぜならば「近視眼と脚気が学生の最も冒されやすい病気であり、ことに地方出身の学生には脚気の用心が最も必要なので、運動を奨励し胃腑を健全にする」ことが必要であったからである。もっとも、実際に土地の選定にあたったのは、いまだ地方官として地方に在住していた本間ではなく根津自身であった。根津は不動産業者の小玉光威なる人物を通して土地を物色したが、最初に候補に挙がったのは谷中(台東区)であった。しかし、本間にはここでは工場の煙が多く流れ込むのではないかという不安があったようである。つぎには、滝野川(北区)が候補地となったが、ここも地価で折り合いがつかなかったり、陸軍の火薬庫がそばにあることが問題であったようで、本間が「いずれの点から見ても不足の無い」と表現した現在の練馬区豊玉に決定したのは、1919年の4月以降のことであった(1918年11月6日付根津宛本間書簡控、1918年12月5日付本間宛小玉光威書簡)。   3 本間構想の挫折とその功績  以上が本間構想の概略であるが、つぎにこの構想がどのような経緯をたどって最終的な七年制高等学校に落着したのかをみていきたい。これに関しては、本間が作成したと思われる「本校創立事情記録」と「武蔵高等学校創立に関する経過」のほかに、北條時敬の日記を掲載した『廓堂片影』(教育研究会、1931)や花見朔巳編『男爵山川先生伝』(故男爵山川先生記念会、1939)、および近年発見された小宮京・中澤俊輔編『山川健次郎日記』(尚友倶楽部、2014)などが参考になる。 まず、指摘しておきたいのは、根津嘉一郎が本間構想を全面的に支持した訳ではなかったことである。1919年3月30日付本間宛根津書簡には「敷地に付ては目下二三交渉中であり、不日相談が整うものと思われる。そして、適当の時期に発表するつもりであるが、その時期は私の考えに任せてもらいたい。また、趣意書についても他の方と相談したいので、貴台が趣意書を起草するのは暫く見合わせてほしい」と記されている。即ち、学校敷地や学校の全体的骨格については、あくまでも根津が主導権を持っていた。  土地の目途もついた1919年9月、その根津の動きが本格化した。根津と本間はまず平田東助に正式に援助を依頼すると、平田はそれに承諾を与えるとともに、山川健次郎(東京帝国大学総長)、岡田良平(前文相)、一木喜徳郎(元文相)、北条時敬(学習院長)にも相談するよう進言した。彼らはいずれも当時の代表的な教育家である。これをうけて9月28日には山川には平田から、北条には正田貞一郎、宮島清次郎からそれぞれ依頼がなされている。  そして、10月3日午後4時を期して南青山根津邸で平田、山川、一木、北条、佐々木吉三郎(東京高等師範学校教授)、根津、正田、宮島、本間らが会合を開き、まず根津側から二百万円の提供と一万坪の土地を既に購入したことが示された。これに対し、学校建設そのものには出席者一同みな賛成したが、どのような学校にするかで紛糾した。北条の日記には「俊才を集める中等教育」が議題であったと記されているので、これはあくまでも推測であるが、本間の前述のような構想がここで開陳されたものと思われる。しかし、これに対し、山川は「実業補習学校」案を提案した。実業補習学校とは、小学校の義務教育を終えた者が進学する中等教育程度の機関であるが、実業に従事することを想定した修業年限3年の職業訓練学校であり、本間のめざす「秀才教育」のための「十一年制寄宿舎」とはかけ離れたものであった。さらに、あとで触れるが、「七年制高等学校」案も提唱されたものと推測される。このため、結局この日は決議するに至らなかった。これ以降の状況については、これ以上判然としないが、『男爵山川先生伝』には次のように記されている。  本間氏は〔以前から〕将来大臣大将を以て任ずる如き学生を養成する学校を設立すべきことを根津氏に進言してゐたが、第一回会合〔10月3日の会合のこと〕の折に実業学校を作るべきことを主張するもの〔山川のこと〕もあり、根津氏の意見もこれに傾いたのであつたが、時恰も七年制の高等学校が岡田文相の発案で出現することゝとなり、之が人物を養成するに好都合だといふので、〔第二回会合の前には〕根津氏の学校も我国最初の七年制高等学校として誕生することに略々決定してゐた  即ち、第一回会合と第二回会合の間の根回しで、本間の言う「将来大臣大将を以て任ずる」ような「秀才」の養成を目的としながらも、学校としては「七年制高等学校」に変更した形に落着したようである。この「七年制」案を主張したのは、引用文中にある岡田のほかに平田、一木であったと思われる。大坪秀二が明らかにしたように、以前からギムナジウムのような七年制高等学校という制度に強い執着を持ち、実際にそれに基礎に1918年に新高等学校令を法制化したのは、ほかならぬ彼らたちであった。  ここで少し説明を加えておきたいのは、引用文中の「将来大臣大将を以て任ずる如き学生」という表現である。おそらく『男爵山川先生伝』は、本間が以前から主張していた「秀才」の意味を「将来大臣大将」と解釈したものと思われるが、「本間則忠旧蔵文書」中の資料をみる限り、大将(軍人)を育成しようという発想は見当たらない。むしろ、当時の制度では「大将」へのキャリアパスとして、「七年制」のような学校はふさわしいものではなかった。  さて話は戻るが、前出の第二回会合は1920年2月29日、一ツ橋如水会館に本間を除く前回のメンバーが集まり、以下のことを決定した。   ・七年制高等学校とすること   ・総裁平田、顧問山川・岡田・北条、理事長根津、理事本間・正田・宮島、校長・一木    とすること   ・山川の発案で、根津が提供する資金を増額すること  このうち、資金について付言すれば、前述のように山川は「実業学校」説を唱えたが、その理由の一つはおそらく資金面にあったと思われる。彼にしてみれば、「七年制高等学校」や「十一年制寄宿舎」では、金銭的に維持管理が困難であると感じたからであろう。しかし、根津が増額を承諾したことで、彼も「七年制」に同意したものと思われる。  もう一つ付言すれば、前述の引用資料中に、山川の「実業学校」案に根津の意見が傾いたとの記述があったが、これも事実だったようである。「本間則忠旧蔵文書」には武蔵学園創設後、九段の中坂に宮島清次郎を校長として、実業教育を施す第二根津学園構想があったことを示す資料がある。これにも本間が深く関わっていたようであるが、結局実現することはなかった。  こうして、本間の構想は実現することがなかった。しかし、本間は別の形で大きな足跡を残した。当初は「東京高等学校」という校名を予定していたが、同時期にやはり七年制として設立が予定されていた現在の東京大学教育学部附属高等学校もその名称を使用しようとしており、結局は根津側が「武蔵学園」に変更したが、それを考案したのが本間であった。また、現在でも武蔵大学3号館として利用されている建物が、木造から鉄筋コンクリート造りに変更されたのも本間の主張によるものであった。    「十一年制」学校概略図  (「本間則忠旧蔵文書」収蔵) ※本図には、高等学校寄宿舎が記入されていないが、本間則忠は高等学校を大学の一部として取り扱っていると思われる。
2018.06.11
鈴木武雄―武蔵大学経済学部の生みの親
はじめに  経済学部のみの単科大学としてスタートした武蔵大学の基礎を創り、「ゼミの武蔵」の風土を醸成した*1 といえるのが、この項でとりあげる鈴木武雄である。鈴木の経歴を紹介しながら、創設期の教員配置における鈴木の人脈や「ゼミの武蔵」の風土醸成の背景を整理することに努めたい。記述にあたっては鈴木自身による回顧録である『鈴木武雄〰経済学の五十年*2 』(発行人・鈴木洋子、制作・社団法人金融財政事情研究会、1980年[非売品])および「鈴木先生を囲んで武蔵大学の草創期を語る〈第一部〉*3 」(『武蔵大学同窓会報』30、1981年)を基本資料とし、関係者による文章など各種周辺資料を利用する。 1.文学青年を経て経済学を志す  1901(明治34)年生まれの鈴木は、兵庫県立神戸第一中学校(現・神戸高校。以下、神戸一中)を経て第三高等学校文科丙類(1919年9月入学、1922年3月卒業。以下、三高)に学んでいる。9月入学で3月卒業と在学期間が変則的であるのは、1920年に行われた学年終始時期の変更による*4 。  いわゆる旧制高校におけるクラス分けは、文科においても理科においても学習する第一外国語によって行われていた。鈴木が在籍した丙類はフランス語選択である(甲類=英語、乙類=ドイツ語)。志望者の多い甲類や乙類ではなく丙類を選んだことについて、鈴木は「実はそのころおやじから外交官になれといわれて、ぼくはそれほどなりたいとは思っていなかったのですが、そのためにはフランス語がいちばんいいんだろうというぐらいの気持ち」と「多少、文学青年的になっていたから、フランス語をやってフランス文学を」という気持ちであったと述べている。  旧制高校時代には同級生の大宅壮一(大宅は文科乙類)らに誘われて新劇運動に熱中し、『キネマ旬報』への映画評論の執筆も盛んに行うなど文学青年であったというが、鈴木を社会科学方面へと導いていったのも大宅壮一であるという。大宅のほか、浅野晃(文科乙類)、服部之総(文科甲類)らと河上肇の講義を聴きに京都帝国大学へ通っていたというエピソードも残されている。  それでも、外交官になってもらいたいという父親の希望から東京帝国大学進学時には法学部政治学科を選び、高等文官試験も受験・合格している。このため大学卒業時には法学士称号を得ており、これは後年の武蔵[旧制高等学校]着任時に経済学ではなく法制概論を担当した背景ともなっている。とはいえ記憶に残っている講義として名前を挙げているのは渡辺銕蔵の経済政策や矢作栄蔵の農政(農業経済)学、後に師事することになる大内兵衛の社会政策などであり、学部を卒業するころには経済学を学ぶことを志すようになっていたという。なかでも政治学とも関連の深い財政学を専攻することを望み、1925(大正14)年に学部を卒業すると大学院へ進学し、土方成美や大内兵衛に学んだ。このころから大内の影響で金融関係の論文を発表しており、鈴木にとって初めてのアカデミック・ポストとなる京城帝国大学法文学部講師(のち助教授をへて教授*5 )においても貨幣金融論を担当した。 2.京城帝国大学での教歴と武蔵大学の創設  京城帝国大学とは、日本統治下の朝鮮半島に6番目の帝国大学として1926年に設立された大学である(学部開学に先立ち、高等学校高等科に相当する予科を1924年に開設した)。鈴木は1928年4月に法文学部講師として着任、翌月には助教授となり財政学講座、経済学第二講座を担当した(2年間の留学を経て1935年から教授)。この大学での経験が、のちに武蔵大学経済学部を創設する際に様々な面で影響を及ぼしていることが鈴木自身の回顧からも読み取れる。  最も大きな影響は、人脈の形成であろう。そもそも鈴木を武蔵に招いたのは当時高校校長であった宮本和吉であるが、宮本は京城帝国大学法文学部で哲学・哲学史講座を担当していた人物である。宮本は「[引用者補:武蔵大学として]経済学部をつくることになったので、自分は哲学者で経済学のことはさっぱりわからんから*6 」と「五顧の礼」(実際に鈴木を五度訪問した)で鈴木を迎え、大学創設の中心に据えた。着任時の身分は武蔵高等学校講師であり、1948年度後期から高校生に法制概論を講義しながら設立準備を進めたという。  当時は新制大学、とりわけ経済学部の創設が相次ぎ、教員スタッフの確保に苦労があったというが、経済再建研究会(のち経済発展協会)における鈴木の人脈(渡辺佐平、芹沢彪衛)に加え、京城帝国大学人脈からも教員が招かれている(山口正吾[無給副手として京城帝国大学法文学部経済研究室所属、のち京城高等商業学校教授]、藤塚知義[経済思想史。父の藤塚鄰が京城帝国大学教授])。経済学分野のみならず、教養科目担当として鵜飼信成[法学]、有泉亨[民法]、船田享二[憲法]、高橋幸八郎[西洋経済史]、山田文雄[経済学]が講師として授業を担当した。助手として採用された波多野真、小沢辰男、秋山穣は東京帝国大学経済学部の教え子であるなど、むろんのこと京城帝国大学関係者以外からもスタッフが招来されたが、いずれも鈴木のネットワークによるものであった。鈴木自身が「まあ極端に申しますと、ほとんど私が個人的に懇意であり、知っているという人に頭を下げて来ていただいたと。中にはそういう人からまた推薦のあった人に来ていただいたというようなことで、[中略]ほとんど私が一人で、自分の知っている範囲の人を歩き回って連れてきたと、そういう形です*7 」と述べている。  また武蔵大学が少人数教育・少数精鋭主義を特色としたことについて、単学部単学科からスタートせざるを得なかったことから、それは「ある意味では負け惜しみ」であったとしながらも「宮本学長なり私なりが、長い間おりました京城帝国大学法文学部というのは[中略]いろんな事情から少数で、[中略]そういう講義をずっとやってきておりましたので、言わば少数の学生を対象とした大学というものには馴れておったと言いますか、そういう経験を十分に持っておった」と述べている。京城帝国大学法文学部*8 は学生定員(一学年80名程度)に対して講座数が豊富で教員が多いことが特徴であり、教員と学生との距離が短かったことが関係者の回顧*9 からもうかがえる。武蔵大学が創立初期から父兄会(設立当初は武蔵大学父兄会、現在は武蔵大学父母の会)を持ち、学生―保護者―教員の連携を密に持った背景にも、鈴木の京城での経験がある意味で理想的な大学イメージとして形作られていたものではなかったかと想像される。  鈴木自身が「[引用者補:武蔵大学は]ほかの大きな大学に比べまして少数ですから、教授と学生のあいだが、非常に親密でして、教室内ばかりでなくて校外でもコンパをするとか、ハイキングをするとか、泊まりがけの旅行をするとか、そういうことで非常に親密にやってきたことが、後年、学内紛争が盛んになってきたときも、比較的話し合いが楽になって、断絶ということにはいまだに至っていないと思います*10 」と述べている。学生の側もこうした雰囲気を好ましいものと捉えていたようで、「いまの言葉で言いますとゴッドファーザーファミリーと言うんですか、鈴木先生ファミリーですか、秋山先生、小沢先生、波多野先生、秋山先生なんかはまだ独身だったし、その先生方と鈴木先生を中心にやっていった中で学生たちも中心になっていったという感じは、いま思うと強いですね。それがうんと盛り立てていったというような――。[改行]それともう一つ、わりあい家族的と言うか、ハイキングで鳩ノ巣ですか、あっちのほうへ行ったりしてやってきたのが盛り上がってきたんじゃないですかね*11 」との発言が見られる。学生たちも教員を尊敬しながら親しくつきあっていたのであろう。 3.教育者として  初期のゼミ運営にも、学生への配慮と公平性確保とを両立させようという鈴木の思想が反映されている。ゼミは、必修(専門)ゼミと選択(教養)ゼミの二種類が設定されていたが、学部長と学生部長を務める教員は必修ゼミを担当しないという運用方法である。その理由は「必修ゼミを担当する先生は指導教授として自分のゼミ学生の学内における父兄に代るいわば保証人のごとき立場に立つわけで、武職(原文ママ)[引用者補:就職]の世話や学生のプライベートな問題にも親身な相談相手になる」が、「万が一何か処分問題などが起ったときには、指導教授は教授会においては指導学生の弁護人の立場に立つことになるが、その場合、学生部長はいわば検事であり、学部長は裁判長である」ため、両者は必修ゼミを持たないようにしたというのである。ただし、学生数が増えてくると学部長も学生部長も必修ゼミを持たざるを得なくなったという。  鈴木自身がゼミの指導だけではなく、コンパや旅行などを学生とともに気さくに楽しんだという回顧や関係者の想い出もたくさん残されている。親身になって学生の世話をし、就職相談に限らずゼミ生の恋愛問題の相談にさえ乗ったという鈴木を慕い、在籍期を問わず交流を持てるようにとゼミ出身者が「四月会」というグループを組織している*12 。東京大学の鈴木ゼミ生らは「七月会」(初会合がフランス革命記念日である7月14日であったこと、鈴木の留学先のひとつがパリであったことから)という集まりを持っており、これに対して鈴木の誕生日が4月27日であることにより「四月会」と名付けられたものである。会名にちなむ『あぷりーりす』という機関誌が発行されており、鈴木ゼミ生のさかんな活動や交流を知ることができる。  1957年には本務校を東京大学に移し武蔵大学では経済学部兼任講師となったが、1962年に東京大学を定年退官となると武蔵大学教授として復職した。学部増設が議論された際には正田健次郎学長(当時)の委嘱を受けて新学部の原案を作成している。それは「外国語を中心とした人文科学的なエーリア・スタディ」の学部か、「社会科学に若干傾斜するが社会科学・人文科学双方から接近するエーリア・スタディ」の学部か、いずれかが挙げられるが後者が望ましいとするもので(国際関係コース、アジアコース、英米コース、ヨーロッパコースからなる「国際社会学部」構想*13 )、実際の人文学部創設に大きな影響を与えたという*14 。その後鈴木は学部増設当審議会に委員として加わっており、大学創設初期のみならず拡充期にあっても鈴木はなお積極的に自身の役割を果たそうとしていたらしいことがうかがえる。 おわりに  1975年4月には教授会選出として初めての学長に就任したが、同年11月に脳出血により学長室で倒れ、一ヶ月後の12月6日に練馬総合病院で亡くなった。同月22日に大学葬が営まれ、武蔵大学経済学会は『武蔵大学論集 故鈴木武雄学長追悼記念号』を編み、その業績や遺徳を偲んでいる。  鈴木の死から十年後、四月会が中心となり寄付を集め(前述の七月会も協力している)、彫刻家松村外二郎による鈴木の胸像が作成された。1985年の建立当初は大学三号館正面入り口のホールに位置していたが、大学図書館入り口ホールを経て、現在では大学一号館ホールに移されている。胸像制作時には多額の寄付が集まったため、剰余金に同窓会からの援助金を加えた300万円を大学に寄付し、これをもとに学生の研究を支援するための基金が設立された。毎年度、学部学生の優れた研究論文に与えられる鈴木賞の始まりである。なお鈴木が大学に寄贈した旧蔵書は4000冊以上にのぼり、『鈴木武雄先生寄贈図書目録』(武蔵大学附属図書館、1989年)に整理されている。とくに鈴木が学外で関わった各種審議会・委員会関係資料群は貴重なもので、別途『鈴木武雄先生寄贈 審議会・委員会関係資料―昭和30・40年代を中心とした』(武蔵大学附属図書館、1984年)が作成されている。  鈴木は死後もなお、学生や大学を見守り続けているのである。   鈴木武雄 経済学部長・学長   文化放送のスタジオで「武蔵大学ラジオ公開講座」放送中の鈴木武雄教授    【注釈】 *1 鈴木の追悼記念号である『武蔵大学論集』(24-3・4・5、1976年11月)に収められた文章では「今日の経済学部の秀れた学風と伸びやかな気風は、鈴木先生によってはじめて培われた」(経済学部長[当時]・浅羽二郎)、「本学の「生みの親」、「育ての親」ともいうべき存在」(葬儀委員長・岡茂男[当時武蔵大学学長])と評されている。 *2 『エコノミスト』誌(毎日新聞社)の企画で行われたインタビュー速記録による。記事は「社会科学50年の証言」というタイトルで連載された(全50回。鈴木のインタビューは1~7回[51(27)1973年7月~51(33)1973年8月]。聞き手は高橋誠、加藤三郎)。 *3 1973年3月に丸の内銀行協会で行われた座談会の記録である。出席者は鈴木武雄、向山巌、桜井毅。 *4 島専一四号「高等学校学年終始ノ時期ニ関スル件」(大正9年10月15日に文部省専門学務局長松浦鎭次郎名で各地方長官宛てに出されたもの。「文部時報」19、1920年11月1日発行)。高等学校規定第二十四条但し書きにより従来は9月1日から翌年8月31日までであった年度を、同条本文により4月1日から翌年3月31日までとした。 *5 東京帝国大学大学院を1927年3月に退学し、大学院在籍中から勤めていた財団法人東京市政調査会研究員を1928年3月に辞任した。京城帝国大学講師として朝鮮に渡ったのもこの年で、4月の着任時には講師であったが、翌5月には准教授となった。教授昇進は1935年である。 *6 前掲『鈴木武雄―経済学の五十年』p.129。 *7 前掲「鈴木先生を囲んで武蔵大学の草創期を語る〈第一部〉」pp.42-43。 *8 法科系学科(法学・政治学・経済学)と文科系学科(哲学・史学・文学)からなる。ただし京城帝国大学法文学部を卒業して得られる称号は法学士か文学士のいずれか限られており、経済学士称号は得られなかった。 *9 京城帝国大学創立五十周年記念誌編集委員会編『紺碧遥かに―京城帝国大学創立五十周年記念誌』(京城帝国大学同窓会、1974年)等参照。 *10 前掲『鈴木武雄―経済学の五十年』pp.132-133。 *11 「鈴木先生を囲んで武蔵大学の草創期を語る〈第二部〉」pp.47-48。長谷川勝己[一回生]の発言。 *12 鈴木武雄「最後のゼミを終えて―鈴木ゼミ四半世紀の回顧」(『あぷりーりす』11、1974年)、向山巌「四月会あれこれ」(同)。学生数の少なかった経済学部第一回・二回生はほぼ全員が鈴木ゼミ(選択ゼミ)参加者であったことから、みな構成員として加えられている。 *13 『武蔵学園史年報』9(武蔵学園記念室、2003年)収録。 *14 鳥居邦朗「人文学部準備教授会記録解題」(前掲『武蔵学園史年報』9)、『武蔵(武蔵大学同窓会報)』54(2005年)掲載の白鳥優子による人文学部改組特集記事(pp.4-5)も参照。
2018.05.25
社会貢献への目覚め―根津嘉一郎にとっての渡米実業団
はじめに  武蔵高等学校設立の出発点が、創立者根津嘉一郎の1909(明治42)年における渡米実業団への参加であるということは、よく知られている。根津は、自著『世渡り体験談』の中で、以下のように述べている。 「私は明治四十二年、渋沢栄一男爵を団長とした実業視察団の一員に加わって亜米利加へ渡ったが、亜米利加では、数かずの感服した話がある。 第一に亜米利加人は郷土を愛する心、愛郷心と云ふものが強くて、大抵どこの土地にも、図書館や、学校や、病院等が立派に建設されている。そして土地の人は、私のところは何々の建物や名物があって、亜米利加一であるとか、世界一であるとか云ふ事を誇りにして、委しく説明して呉れるのである。又、其のやうな金のかかる建造物の総ては、土地の有力者から寄附金を募集して建てたもので、亜米利加人は斯る公共的の事業に対しては、巨額の金を惜しまないのである。」  この見聞が、帰国後の鉄道事業への進出や武蔵高等学校の設立などへ根津を向かわせた大きな誘因であったことは疑いない。ただ、根津の伝記(いわゆる正史としての『根津翁伝』)や自伝(前出『世渡り体験談』)、あるいは武蔵学園の年史類や『学園史年報』を参照しても、実業団の滞米期間中に、具体的にどのような経験から、武蔵学園の設立(渡米から12年近くが経過している)に乗り出したのまでは明らかではない。  他方で、「実業団の訪米報告書」に相当するとされる、巌谷季雄(のち巌谷小波という筆名で活動)編集によって1910年に刊行された『渡米実業団誌』においても、帰国までの間に根津に関して言及された箇所はごくわずか(実業団のメンバー一覧などに名前が記される程度)である。  そこで、この一文ではまず、渡米実業団が帯びた役割(アメリカへの訪問が持っていた意味)について、これまであまり語られることのなかった側面から言及し、その役割の中で、根津嘉一郎が米国のどのような点に着目して帰国後の武蔵高等学校設立に至ったのかを考察したい。   1 渡米実業団とは  冒頭で記した通り、実業団がアメリカに渡ったのは1909(明治42)年のことである。これは民間交流を図る日米の実業団による相互訪問の一環であり、前年の米国商業会議所実業団の日本招待に続き、今度は日本実業団がアメリカに招待されたものであった、と伝えられている。 スポケーン・タコマ・ポートランド・シアトルの4つの商業会議所の招きにより、渋沢栄一(当時、第一銀行頭取)が団長となり、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人50名余りが、8月31日から12月1日(いずれも日本時間による日付)までの約3か月にわたって、アメリカの主要都市を訪問し、根津もその一員であった。各地で歓迎を受けながら産業、経済をはじめ政治、社会福祉、教育など多岐にわたる施設や機関を視察した。訪問した州は25、都市は60に及んだといわれる。 渡米実業団の米国内訪問のルート (↓ 木村昌人『日米民間経済外交 1905-1911』慶應通信、1989年、122ページに掲載の図)    渋沢は在米中の1909(明治42)年9月4日、シアトル博覧会の「日本日」(Japan Day)の祝賀式において「実業団之使命」と題する演説を行った。増田明六によってまとめられ、『竜門雑誌』に掲載されたその概要には、「日本帝国が外国と交通を開きたる以来、外国に向て派遣せられし使節は数多き事ながら、何れも政治的意味を有するものなりし、然れとも、吾々一行の使命は全く是等と異りて、合衆国の商工農の状態を観て、将来米日両国をして従来の親厚を益増進せんとするに在れば、其切要なる事は決して前者に譲らざるものなり」とある。  ただし実業団に対しては日本政府から、日米通商航海条約の改正(のち、1911年に実現)に向けた、アメリカの政財界首脳との交流という外交面での期待が大きかったことも、判明している。前年の渡日実業団の訪問に際して、被訪問側の日本では、外務省を中心に政府各省が全面的にその企画を支援し、桂首相や小村外相みずから晩餐会を催したのをはじめ、政府関係者が数多く行事に参加した。そして翌年の渡米実業団の出発においても、直前に明治天皇が芝離宮において午餐会を開催し、政府要人として総理大臣(大蔵大臣兼任)の桂太郎や外務大臣の小村寿太郎、農商務大臣の大浦兼武などが列席している。  渡米実業団は、アメリカで訪問したそれぞれの都市の商業会議所において、東アジア(特に中国市場)での平和裏の競争、あるいは資本・技術提携の可能性について率直に意見を交換したという。その相手としては、発明王トーマス・エジソン、鉄道王ジェームズ・ヒルなど各界実力者だけでなく、同年の3月に合衆国大統領に就任していたウィリアム・タフトも含まれていた。  ただ、タフトのような政界の代表が、当時の日米間での懸案と目された事柄について何らかの積極的な解決姿勢をこの面談で示したという記録はなく、あくまで日米間での友好親善の深化を期待する、という姿勢の表明にとどまったようである。  それでは渡米実業団の派遣は日米関係史において、ほとんど顕著な役割を果たさなかったことになるのだろうか。団長の渋沢栄一が「渡米実業団の由来」と題して、前出の『渡米実業団誌』の巻頭に前書きとして掲載した以下の文面を読むと、そうは決して言い切れないように思われる。  ……明治四年に成つてから、日本政府が岩倉公以下大勢の人々を派出して、海外各国との条約に付いて評議討論した時も、矢張亜米利加を第一番にした。……其後明治十二年に「ゼネラル、グラント」と云ふ人が、大統領を罷めて世界漫遊を企て、第一に日本へ来られた。其時に東京市民は、従来亜米利加を頗る徳として居り、殊に「グラント」と云ふ人が、文勲にも武功にも、世界に於て赫々たる名誉ある人であり、且其性質も至て真摯朴訥で、思ふたことは言ふ、言つたことは必ず行ふと云ふ気風に聴いて居つたから、其高風を慕うて、大に之を歓迎しやうと云ふ計画を起した。  其時に斯く云ふ私も、歓迎委員の一人で、特に委員長に推されて万事斡旋した事である。……上野公園に大会を開いて、日本の古武術を見せると云ふので、幌曳とか流鏑馬とか云ふ、種々の芸術を演ずることにして、殊に当日は是非 陛下の御親臨を請うて、共に御覧ある様にと云ふことを、歓迎会の有志者から御願して御許可を蒙つて居つた……陛下は勉めて出御あらせられ、為めに当日は、実に満都湧き立つばかりの大歓迎会が開かれた。其時「グラント」氏に対しては、余興の前に特に会員が相集つて、歓迎文を私が朗読したことを覚へて居る。……  この文面においてユリシーズ・S・グラント元米国大統領の訪日が語られているが、実は明治天皇にとって、外国の政治家としてもっとも信頼しうる意見を提供してくれたと見なされた人物が彼であった。日本の外務省記録や『明治天皇紀』、岩倉具視の伝記である『岩倉公実記』には、1879(明治12)年8月10日に行われた、明治天皇と来日中のグラントとによる会見記録が残されているが、おそらくこの会見を用意したのが当時の右大臣であった岩倉であったと想像される。  日本政治外交史の研究者である三谷太一郎氏は、この会見記録の歴史的意義として「明治天皇がグラントの勧告によって、不平等条約下の日本の進路について具体的な指針を得たことである。それは日清不戦と非外債政策である。しかもそれが天皇の信条に止まらず、少なくとも日清戦争前(日本の植民地帝国化前)の自立的資本主義を追求する日本の政治的経済的な対外政策の基本線を形成したことである。」(『外交史料館報』第30号、2017年)として、近代化途上にあった日本にとっての対外政策や国家発展の方向性が、グラントによる勧告によって大きな影響を受けたことを紹介している。  また三谷氏によれば、この会見記録は対日占領下の1949年に『日本外交文書』第12巻に収録されたが、それは「当時の日本には、戦後日本の出発点を日清戦争前の明治日本に求めようとする考えが一部の識者や宮中関係者の間にあり、この会見記録はその考えに沿っていたと思われる」という、大きな意味を持つものであった。  渋沢による「渡米実業団の由来」に話を戻すと、彼はグラントについての話題に続けて、タフトについても言及している。「明治三十八年と四十年とに、米国現大統領タフト氏の日本に来遊せられたときも、東京の商工業者は大に之を歓迎した。是等が日米間の商工業者の意志を通ずるに付ての、沿革と云うても宜からうと思ふ」。  以上より、渡米実業団の役割とアメリカの位置づけは、すくなくとも渋沢に限ってはある程度明らかになったと思われる。渡米実業団の役割は、明治初期における岩倉使節団のそれ(直接には条約改正を意図、それに付随して諸国の近代化の様相を視察)に相当し、アメリカの位置づけは、来日経験もある政界の実力者に象徴される、日本の外交路線や経済発展路線への助言者というものであったのではないか。  では、この実業団の3か月にわたる滞米において、根津嘉一郎はアメリカの何に啓発され、日本においてそれを実現しようとしたのか。   2 根津嘉一郎がアメリカで見て学んだもの  1989年に刊行された『日米民間経済外交 1905-1911』(木村昌人著、慶應通信刊)で記されているように、20世紀の初頭に、婦人を含む50名以上の団体が太平洋を横断し日米各地を旅行することは、莫大な費用と時間がかかる事業であった。  経費としては、シアトル商業会議所やアメリカ側準備委員会(1909年6月9日シアトルにて開会)で、渡米実業団の旅費及び接待費として5万ドルが要求され可決していることから、5万ドル前後(10万円)と推定される。またアメリカ東部の大物実業家も、渡米実業団の歓迎にあたっては尽力し、特にノーザン・パシフィック鉄道社長のJ・ヒルは渡米実業団専用の特別列車を用意し、シアトルからシカゴ、ニューヨークへの運賃を無料とするという好意を示した。20世紀初頭にこのようにアメリカ各地実業界から歓迎された実業団は、アジアでは日本が初であった(以上、同書より)。  そのような歓待ぶりの中で、アメリカ各地で政治・経済・社会福祉・教育など、多方面の施設の視察見学を行った根津にとって、もっとも印象に残ったことは、「今は故人となられたロックフェラー氏に会った時、同氏が多額の金を儲けて、その多くを世の中のために散ずる主義を知って、大いに啓発された」(『世渡り体験談』より)という点であった。  前出の『渡米実業団史』において、ロックフェラーの名が登場するのは、10月4日の項、クリーブランド滞在中における記録であり、以下のように記されている。「午前九時出迎の自動車に分乗し、亜米利加銅鉄及鋼線会社、工業学校等を参観し、午後は各自の希望により、工場、学校、慈善事業等を視察研究す。……午後七時半より商業会議所内に盛大なる晩餐会あり。例の石油王ロックフェラー氏も出席せしが氏が此種の宴席に出づるは、二十年来無きことなりと云ふ。」  ロックフェラーがこのときにどのような発言をしたのかは記録に残っていないが、晩餐会で直接対面したという経験は、おそらく根津をはじめ他の団員にとっても強烈なものがあったと想像される。  この使節団の一員であった巌谷小波による記録『新洋行土産 下巻』では、クリーブランドの別荘の庭園を巌谷ほか何人かが見学に行き、芝庭でゴルフをしていたロックフェラーと偶然出会い、見学者全員が彼と握手して愛想の良い世辞を言われた、という旨が記されている。あるいは根津もその見学者に含まれていたか、見学者から話を聞いた可能性があるのではなかろうか。  クリーブランドはいうまでもなくロックフェラーの育った地(13、4歳のころから居住)であり、彼が事業を起こしたのもこの都市においてであった。実業団員らが見学した会社や工場、学校のほとんどが、彼の事業あるいは彼の慈善事業による寄付によって発展したものと考えられても不思議ではないだろう。  というのは、実業団がその1週間ほど前に数日間滞在したシカゴにおいて、シカゴ大学の見学も一部の団員(根津が含まれたかどうか判明しないが)によって実施され、また商業会議所の晩餐会においてはシカゴ大学教授との面談も開催されているが、シカゴ大学は資金難から1886年に閉鎖されていたのを、ロックフェラーが8000万ドルを寄付して1890年に世界的な大学として再興させたという経緯がある。  おそらく団員はその説明を受けており、根津も同大学やクリーブランドの隆盛が彼の事業の成功と慈善事業によるものであったと考えたのではなかろうか。すると根津が訪米によって得た最大の成果は、「社会から得た利益は社会に還元する」という信念を強固にしたことであったといえよう。  もっとも、彼が学校設立の社会的意義を認めたとしても、ただちにアメリカ(あるいは西欧)の学風や制度にならった設立には向かわず、またそれについて否定的な意向を持っていたであろうこともまた、容易に想像できる。『根津翁伝』には、武蔵高等学校設置の項目において、彼が重視した教育方針が以下の通り記されている。  我が国の教育は、御一新までは各藩に藩の学校があったり、寺子屋の塾があって、日本人を作るのに、実地に即した教育機関を設けていたのであるが、明治になってから我が国の教育が、欧米の文化を参酌した結果は、日本固有の教育は次第に影を潜めて、極端に言えば、日本人であるのか世界人であるのか、執れとも判らぬような教育を採って来たのである。  其の結果、漢字廃止論などが現はれ、漢字は煩雑極まりないもので、世人の頭脳を圧迫することが甚だしいから、宜しく漢字を廃止し〔←す?〕ベしなどと説いている。併し、漢字の圧迫が甚だしいといふならば、西洋諸学説の方が、遥かに圧迫が強いのである。そして、明治以来六十年間、専ら欧米思想を注入した結果は如何かというに、其の影響は、随分と危険極まる思想を胚胎させたのである。  事実一概に総てを欧米流に行うことは、余程考えなければならぬことである。新しい教育を受けたといふ人達が、何かという場合、年号の記載に一々西暦紀元を用うることなども、大日本帝国の認識を欠いたもので、それが西洋歴史の場合には、西暦紀元は必要に違いないだろうが、我が国の日常生活にまで西暦紀元を用いることは、矛盾の甚だしいものである。  それから、今日の教育では、最早、西洋の学問ばかりを主とせずに、国学は言うに及ばず、昔から採り入れられたところの、漢籍なども相当学ばせるべきである。そして、日本人を育成するといふ根本観念の下に、総て教育の見識を高め、且つ深められることを望みたい。  根津が武蔵高等学校の設立に向けて、寄付金360万円(地所、株券、引金)を基礎とする財団法人根津育英会の設立に踏み切ったのは1921(大正10)年のことで、この間にロックフェラー財団が1913年に設置され、ロックフェラー自身による2億5,000万ドル近くの寄付によって、公衆衛生、医学教育、芸術などを主な対象とした大々的な支援活動が軌道に乗っていた。  根津の寄付金の額はいうまでもなくロックフェラーのそれとはかなりのスケールの差があり、高等学校の開学の年も1909年からやや隔たりがあるが、実は根津はすでに1915(大正4)年ごろから、「今のところ一つの学校を建てるには、私に未だ多少の負債があるから、それを償却した上でと、暫く時節を待つ心でいた。けれども翻って考えてみると、負債は短日月に切れるものでないし、負債があっても、銀行が資金を融通して呉れるならば、それが出来ないわけはなく、而も人聞は老少不定であるから、何時どういう事が起らないとも限らない」と考え、「現在社会の為に尽す事としては、教育事業に奉仕するよりほかに道がないと決心して、そのことを友人宮島清次郎君に相談」(以上、『根津翁伝』より)という行動を取っていた。  したがって、根津はやはりロックフェラーの事績を大いに意識して、武蔵高等学校の建学に踏み切った、と言って誤りではないであろう。  では、その具体的な構想は、相談相手の宮島清次郎らによってどのように具体化されていったのか。それについては後日、別稿で、英米訪問実業団(1921~22年、団長は団琢磨)にも参加した宮島の足跡にも言及しながら論考を進めることとしたい。   <参考文献> ・『根津翁伝』1961年(第28章「渡米実業団」) ・根津嘉一郎『世渡り体験談』(「亜米利加へ行って感服した数々」) ・『渋沢栄一伝記資料』第32巻 ・東京商業會議所編『渡米實業團誌』(1910年10月) ・巌谷小波(季雄)『新洋行土産』上下巻、1910年 ・木村昌人『日米民間経済外交 1905-1911』慶應通信、1989年
2018.05.25
武蔵大学プレメディカルコース(医歯学進学課程)について
はじめに  1949(昭和24)年に開学した武蔵大学は当初、経済学部経済学科の単学部単学科によって発足したが、その中にあって、他大学の医学部への進学を目指す学生が多数入学し、教養科目を学んでいた。そして1950年台前半には、そのような学生のための課程(プレメディカルコース:医歯学進学課程)が本学に設置され、巣立った学生の多くが、開業医やいくつもの大学の医歯学部のスタッフとして活躍した。以下は、その背景と活動の紹介である。  いまでは想像しにくいことだが、開学当初の武蔵大学は、志願者を集めるのに大変な苦労を強いられていた。当時の経済学部経済学科の定員は1学年120名、4学年の定員総数は480名であったが、初年度(49年度)4月の入学生数は78名と、定員の半分強でしかなかった。このため5月に第2次学生募集(56名)を行い、国立大学1期の入試後の6月20日に入試を行うなどの措置が取られていたが、これ以降も定員数の確保は容易ではなかった。53年・54年・55年のいずれも3月に挙行された第1回から第3回の卒業式それぞれにおける卒業者数を見ると、66名・36名・53名にとどまっている。  ただ、このときの記録で目を引かれる事柄がある。「教養課程のプレメディカルコースを修了して他大学の医歯学部へ進学する」学生がそれぞれ42名・48名・45名あり、その修了者にも修了証書が授与されている(第1回の卒業式では、それ以前の同課程修了者49名にも授与がなされた)、という事実である。開学以来、第4回の卒業式がおこなわれた1956年3月までの卒業者数の合計は250名であるが、同じ時期のプレメディカルコースの修了者数の合計は225名であり、ほとんど同規模といえる。年度によっては、このコースの在学生の方がはるかに多いという現象も見られたのである。定員の確保が大きな課題であった初期の大学が、本来の経済学部での教育活動と同程度(あるいはそれ以上)に、いかにこのプレメディカルコースの活動に力を入れていたかがうかがえる。 プレメディカルコース設置の背景  プレメディカルコースの設置は、戦後初期の学制改革の産物といえる。まず、新制の大学で医歯学部の修業年限は教養課程(2年間)と専門課程(4年間)の6年制となっていた。そして49年6月に学校教育法(1947年制定・施行)が改正され、「医学又は歯学の学部を置く大学に入学し、医学又は歯学を履修することのできる者は、[中略]その大学の他の学部又は他の大学に二年以上在学し、監督庁の定める課程を履修した者[中略]でなければならない。」(第56条第2項)と定められたのである。この法改正の主旨として、第5回国会の参議院本会議における文部委員長(田中耕太郎)は以下のように説明している。  「医学又は歯学の大学につきましては、医師や歯科医の業務の特殊性に鑑みまして、特例を認めて、普通の場合よりも就学年限を長くいたしまして、他の学部又は他の大学に二年以上在学するということを要求いたしておるのであります。[中略]本法案に対する質疑によりまして明らかにされました点といたしましては、医学、歯学の修業に特に年限を延長するのはどういうわけであるかという点でありました。これは業務の性質が人命を預かる極めて重要な職責であつて、人格教養等が特に高いことが要求せらるるという理由であるのであります」。  この改正によって、医歯学部は自ら一般教育課程をもつことを認められず、学内の他学部でこの部門を履修した学生、あるいは他大学で履修した学生を試験によって選考し、専門課程に入学させることとなった。具体的な医歯学進学の資格は、1948年5月に大学基準協会で承認された「医学教育基準」・「歯学教育基準」によって定められた。そこでは医歯学教育の修業年限はそれぞれ4年以上とされ、入学資格として、修業年限4年の大学において2年以上の課程を修了し、物理学・化学・生物学・数学・人文科学・社会科学・外国語(英語に加えてもう一つの言語)などを含めて「64単位以上を履修して充分なる知識・教養を修得したもの」とされた。  武蔵大学が医歯学部進学者のためのプレメディカルコース(医歯学進学課程)を設置したのは、改正された学校教育法が施行された50年4月のことである。もっともそれ以前から、前出の「医学教育基準」にしたがって大学の授業を履修し、医師学部進学を目指す者もすでに在学していた。このとき武蔵大学は旧制高校時代の遺産として、すぐれた教師陣と設備が残っており、講義や実験を基準に沿って行うことに支障はなかった。 1949年度においては、特にプレメディカルコースの課程を設けなかったものの、翌年度に講義内容を医歯学部進学に対応させるために充実させ、募集に際してその旨を強調するという方針であった。50年度以後はプレメディカルコースを開設し、経済学部の経済学科と区別して学生を募集することとなり、はじめの数年間は毎年、40名内外の学生が入学していた。経済学科への入学者とほとんど同数の学生を確保できたことは、学園経営のうえでも大きなメリットがあったと想像できる。 プレメディカルコースの教授内容  当時の入学試験は、1950~52年度について見ると学科試験(国語・数学・外国語:英語または独語、いずれも必修)と適性検査、口頭試問(面接)、身体検査からなっており、これは経済学科とプレメディカルコースとで共通であった。翌53年度から経済学科の入試科目は国語・社会(2科目)・外国語に変更され、プレメディカルコースでは数学・国語・外国語のほか理科が追加された。入学後については経済学科とプレメディカルコースとはクラスが別に編成され、それぞれ独自のカリキュラムで授業が行われた。  時の生物系科目の担当教授であった故岡山光憲氏の回想によれば、プレメディカルコースに入学した学生には厳しい勉学が課されたという。自然科学部門の各科目の担当者は指導教授を兼ねており、教員による学生への指導は密接であった。「カリキュラムはきびしく、特に自然科学では、数学、物理学、化学、生物学がおのおの四講座と実験、演習(数学)が必修として課されていた。1学年2級制で、佐藤(独)、上野(数)、依田(化)、岡山(生)の四教授が指導教授となって面倒を見ていたが、実に皆よく勉強したものだ」(光憲「プレメディカル・コースのこと」(武蔵大学同窓会『VOIR』武蔵大学創立40周年記念誌所収)。修了後に学部に進学した学生数について、『武蔵大学新聞』に掲載の記事によれば、1951・52年度の2年間で医歯学部に進学した学生は20名以上(修了者数は計49名)、53年度には15名(同36名)、54年度には26名(同42名)とあり、年度の経過につれて好調な実績を収めていることがわかる。このため、他大学の医歯学部に進学する目的で武蔵大学に入学する者も多かった。ただ、医科大学の進学に失敗した、あるいは途中で文科系に志望を変更した学生で、武蔵大学経済学部に転部して卒業した者も一定数存在したようである(1951・52年度の2年間で9名の転部が判明している)。  プレメディカルコースの修了者に対しては、1951年1月の時点では、修了式、証書授与等は行われず「送別会は適当な時期に行うことにしたい。同窓会員とすることを考慮することにしたい」という旨のみが教授会で決められていた(『成蹊学園史年報』第3号所収)が、翌52年4月には、修了者の扱いを卒業者に準じる措置とすることが決まり、その翌53年の第1回卒業式以降、前出のように修了証書が授与されている。 【以下2枚の写真は、化学実験中のプレメディカルコースの学生の様子を撮影したもの。(『武蔵七十年史―写真でつづる学園のあゆみ』102ページに掲載)】 他大学のケース  かつての私立旧制高等学校(七年制)から新制大学設置に踏み切った成蹊大学・成城大学も、武蔵大学と同様にプレメディカルコースを設置していた。なかでも成蹊大学は、政治経済学部の単学部制で1949年に開学したが、この年のうちに政治経済学部の中にプレメディカルコースを設置し、1964年3月に廃止されるまでの間、課程を修了して国公私立の医歯学系学部へと進学した者は637名に及ぶ(『成蹊学園六十年史』より)。  創設当時、政治経済学部とならんで工学部の設置を要望していた成蹊大学において、同コースは、「一般教養の自然科学系を増やすことができ、旧制高校の理科系の教授や工学部設立予定で採用した人材をプールできた」(『成蹊学園百年史』より)という点で、メリットは大きかった。のち1962年の工学部設置実現にあたって、これらの設備や教員などが役立ったことは容易に想像できる。  なお成城大学については、1950年4月に経済学部と理学部の2学部制で開学したが、その2年後の52年4月にプレメディカルコース(医歯学進学課程)が開設されている。ただ、翌年の3月に施設・設備の資金難という事情で理学部が廃止され、その翌54年 3月にはコースが廃止されている。この2年間における同大学でのコースの活動や成果について、刊行されている年史類(『成城学園五十年』・『成城学園六十年』・『成城学園七十年のあゆみ』・『成城学園八十年』など)ではこれ以上のことは確認できない。 コース廃止の経緯と背景  武蔵大学の初期の教育において重要な役割を果たしたプレメディカルコースであるが、1955年度をもって経済学科とは別枠での入試を停止し、62年3月には廃止された。このコースの縮小や廃止をもたらした原因は医歯学教育制度の変更にあった。1954年2月18日発行の「武蔵大学新聞」13号には、「プレメ廃止か 医歯学部教育方針変わる」と題する、以下の記事が掲載されている。  「大学の医歯学部の教育方法改善のため文部省では昨年末医[学]、歯[学]視学委員会にその具体策を検討するよう諮問していたが、8日の中央教育審議会でその改善方法が認められ学校教育法改正をはかって30年4月から実施することになった。この改善方法によると ①新しく6年生の医科大学、歯科大学または医学部、歯学部を設け高校と直結させ、進学課程2年、専門課程4年とする。②進学課程をおかない総合大学の医歯学部では他の学部に進学課程を置き、また単科大学では他の大学と協定して進学課程を置く。  これによると本学のプレメは②の他大学との協定によって存続させるか、あるいは調停せずに廃止するかの二途専一を迫られるわけである。現在のところ、学校、教授側はこの協定による存続に消極的で、プレメ学生募集は今年で終止符が打たれるものとみられている」  この新聞が発行された1954年2月は、ちょうど第19回国会において学校教育法の再度の改正が審議されていた時期である。この中で医歯学教育に関する条項の改正案は、第55条・第56条を対象として、「1955年度から、修業年限は従来同様6年以上として、これを4年の専門課程と2年以上の進学課程とに分け、医歯学部において6年一貫の教育を実施することを可能とする、ただし特別の必要があるときは専門の課程だけを置くことができるようにする」という主旨であった。この修正案は3月に可決成立し、同年12月には大学基準協会において「医学教育基準」「歯学教育基準」それぞれにおいても、6年一貫の教育が行えるように改められている。  この動きは、先の「武蔵大学新聞」記事にもあるように、武蔵学園の外部から起こってきたものであった。たとえば右の学校教育法改正の主旨について、第19回国会の参議院文部委員会では政府委員(稲田清助)から以下のように説明されている。  「……医学又は歯学又は歯学の単科大学におきましては直接高等学校の進学者と結びつかない点からいたしまして、必要な優秀な志願者を得にくいというような事情を訴える向が相当あるのであります。又総合大学等におきましては、この医学、歯学の進学課程と他の学部の課程とが年限において相違いたしまするというような点からいたしまして、すでに農学部或いは理学部等他学部に入つております者が、途中から医学又は歯学に入つて来ることによつて、農学教育或いは理学教育が撹乱されるというような弊を訴えられる。そういうような点からいたしまして、どうせ進学課程と専門課程と両課程を設けることならば、これを一貫的に六年の学部とするのがいいのじやないかということが、その方面の当事者から切実に要求がありまして、まあそういうことで改正いたしたわけであります」。  この説明から、医歯学部の従来の4年の課程を6年に移行させることが、修正の眼目にあったことがうかがえる。なおこの日の質疑で、文部大臣(大達茂雄)は「本問題は中央教育審議会の答申の大綱をそのまま容れて立案した」と説明している。  このような医歯学部進学の制度改変にともない、武蔵大学では経済学科とは別枠での医歯学進学課程の学生募集に関しては、1955年度をもって廃止した。ただ、この時点では東京慈恵会医科大学・日本医科大学など、進学課程を設置していない医歯学部も多数あり、それらの専門課程進学のために必要な科目単位の修得ができるカリキュラムを残置し、募集人員の制限もおこなわず、入学案内に医学部受験の単位を取得できる旨を記載していた。そして59年4月の経済学部内での経営学科開設に際して、学科内に経営管理コース・工業経営コースとならんで「プレメ・コース」が設けられている。  経営学科の学生募集にあたって、当時の大学が発行したリーフレットでは、将来の展望として、近い将来には、理論を主体にした理学関係学科と、応用を主体とした工学関係学科をもって理工系の新学部を増設すること、その時は工業経営学科に発展せしめる予定であることが記されていた。そしてプレメ・コースについては、経営学科と直接の関係はないが、このコースに進む学生の履修科目が工業経営コースの場合とほとんど同じであるため開設したこと、希望により工業経営コースへの進学も可能であると説明されていた。この内容は、成蹊大学の工学部設置時にプレメディカルコースが有した資産を活用し得た前出の事例を想起させる話である。  しかるに、工業経営コースが設置7年後に廃止の憂き目を見るよりも早く、プレメ・コースは経営学科内に設置されて3年後の1962年3月末日をもって廃止されることとなった。先述の医歯学教育制度の転換以降、武蔵大学の経済学部を経て医歯学部の進学を志望する学生は減少を見たからである。このころには、プレメディカルコース修了者にとっての主要な進学先であった東京医科歯科大学・東京医科大学が1955年に、また東京慈恵会医科大学が1960年に、それぞれ医学進学課程の設置認可を得て6年制へ移行していた。 コースの価値と遺産  武蔵大学のプレメディカルコースの変遷は、高校教育と大学専門教育の間に位置する進学課程(=教養課程)の位置づけをめぐる教育界の混迷という波を、正面から受けたものといえる。たとえば1949年の学校教育法改正を審議した第5回国会で、政府委員(剱木亨弘文部省学校教育局次長)は、2年間の医学進学課程が医歯学部以外の学部(あるいは学校)に設置された背景として、医科のように説明している。「医学の入学資格はそれはPHW[Public Health and Welfare Section:公衆衛生福祉局]の中に設けられました医学[教育]審議会から、日本の医学教育の刷新につきまして、他の大学若しくは学部の3年以上を終了した者について入学せしめるようにするというように勧告があつたのでございます。併し日本の実情から申しまして、一面これは相当医学の教育について、長い年月を要しますので、教育刷新委員会におきまして、この問題を取上げていろいろ論議いたしました結果、刷新委員会の原案といたしましては、6年の大学ということが適当ではないかという御意見があつたのでありますが、それで今の医学[教育]審議会と刷新委員会としばしば会議をいたしまして、両者の意見の相違を妥結するように努めたのでございますが、その結論といたしまして6年の大学は認められない。他の大学もしくは学部の2年以上を終了した者について、入学資格を認めようということに結論として妥結いたしましたので、その結論に基いて、この法案を作成したのでございます」(1949年4月26日の参議院文部委員会における答弁による)。  この答弁を見ると、もっぱら占領軍最高司令官総司令部GHQ/SCAPの一部門であったPHWの強い意向によって医歯学進学課程が設置され、占領終了後ほどなくして教育刷新委員会の唱えた6年制一貫課程への移行がなされたことになる。ただしそのような時代背景のもとで一時的に設置されたプレメディカルコース制度も、普遍的な価値を有するものとして現在、リベラルアーツを再考する上での検討に値するものではないだろうか。上記の参議院文部委員会の席上、剱木政府委員は上記の発言に続けてこのようにも述べている。 「6年の大学を他の大学というふうに限定いたしました理由は、その医師という職業を決定いたしますのが、できるだけ高年齢において決定するをまあ適当と認めるという理由が一つになつておるのでございます。もう一つは先程申上げました、やはりこの広い視野に立つて医師のコースというふうに、決定したコースによつて勉学しないで、いろいろな職業につくものと同じような扱いで、共に勉学をして、それから二ケ年以上たつて医者になるというふうに方向転換をする。これが最も適当であるというふうに考えられたからでございます。  現在の大学におきましては、そういうふうに決めましても、一定の単位を要求されますので、その如何なる学部でもそれを、要求を充たすだけの学科課程、学識組織がございませんので、例えば総合大学でございますとか、今般国立で申しますと、高等学校と他の專門学校と一緒になりましてできました文理学部を持つような大学でございますとか、或いは又一般教養におきまして、相当大きい一般教養のコースを以て医学に対しまする進学者の必要とする科目を備えておる大学等が、医学歯学への学部を有する大学と考えられると考えるのでございます。」  当時の武蔵大学の教育設備やスタッフは、この発言(とくに、「一般教養におきまして、相当大きい一般教養のコースを以て医学に対しまする進学者の必要とする科目を備えておる大学」という部分)に最適な資源を持つ学校の一つと評価されていたことになる。  こんにち武蔵大学のプレメディカルコース出身者の年齢は、すでに70歳代後半から80歳代に達しつつある。そのうち多くの者が大学同窓会に加入して、いまもなお同窓会は続いている。人格教養すぐれた医歯学進学者たるべく、旧制武蔵高校の遺産を受け継いだ良質の教育を受けた人々の、変わらぬご健康とご活躍を祈念する次第である。 参考文献 武蔵大学プレメディカルコース(医歯学進学課程)の歴史については、『武蔵学園史年報・第16号』所収の川村政義・竹林惟允・星野誉夫編「武蔵大学医歯学進学課程」、また同号所収の星野誉夫「武蔵大学医歯学進学課程の歴史」に詳しく、本稿でもこれらの記述に負うところがきわめて大きい。 その他、本稿の執筆にあたっては下記の文献を参照した。 ・『武蔵七十年史―写真でつづる学園のあゆみ』1993年 ・『武蔵大学五十年史』2001年 ・『武蔵九十年のあゆみ』2013年 ・『武蔵学園史年報・第3号』(「武蔵大学教授会記録抄(一~四六号) 昭和二四年五月九日~二六年三月一五日」) ・『武蔵学園史年報・第6号』(「武蔵大学教授会記録抄(昭和二六年四月九日~二九年三月三一日)」・星野誉夫「武蔵大学教授会記録抄解題(昭和二六年四月九日~二九年三月三一日)」 ・『武蔵学園史年報・第10号』(「評議員会記録(評議員会決議録)昭和二七年度~昭和三〇年度」・「宮本和吉学長・校長訓話抄」) ・『武蔵学園史年報・第18号』(「武蔵大学教授会記録抄 昭和32年4月18日~昭和35年3月27日」・星野誉夫「武蔵大学教授会記録抄解題」) ・『武蔵大学新聞』(復刊12号)1954年1月15日:「プレメディカル探訪―四年のあとをおう」 ・『武蔵大学新聞』(復刊13号)1954年2月18日:「プレメ廃止か―他校との協定に消極的」 ・『武蔵大学新聞』(復刊18号)1955年4月1日:「好成績を収めたプレメ進学者」 ・『武蔵大学新聞』(復刊20号)1955年6月21日:「プレメ存続か」 ・岡山光憲「医歯学進学課程について」(『武蔵大学創立40周年記念誌VOIR』1989年所収) ・『成蹊学園六十年史』1973年 ・『成蹊学園百年史』2015年 ・『成城学園五十年』1967年 ・『東京医科大学五十年史』1971年 ・『東京慈恵会医科大学百年史』1980年 ・国立国会図書館ホームページ内「日本法令索引」:「学校教育法の一部を改正する法律案」 ・橋本鉱市『専門職養成の政策過程』学術出版会、2008年    
 
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