Musashi
武 蔵 が 生 ま れ て 9 8 年 た っ た
98 YEARS HAVE PASSED SINCE MUSASHI WAS BORN
COUNT DOWN 100
01.365.16:50:32
INFORMATION
「武蔵学園のあゆみ」コーナーの内容を更新しました!
これまで、同コーナーは、学園記念室の歴史紹介を掲載しておりましたが、『武蔵学園百年史』編集の作業の本格化にともない、やや詳細な内容での学園史を概観したい、という声にお応えするため、今回、2013(平成25)年に刊行された『武蔵九十年のあゆみ』の内容を掲載しました。 この冊子は、1922(大正11)年4月の(旧制)武蔵高等学校の開校から2012(平成24)年までの90年間の歴史を、時代・部門別に簡略にまとめたものです。 通読して「武蔵とはどのような学園であるか」を理解していただくことを主眼として編集されましたが、『武蔵学園百年史』の編纂にあたって、この冊子の内容も活用される予定です。 今後、『武蔵学園百年史』の原稿執筆が進むにつれて、本コーナーの記述は順次、それらの内容に置き換わる予定です。
「武蔵写真館」オープンしました!
本サイトに「武蔵写真館」コーナーが新規に登場しました。 武蔵学園記念室に所蔵されている、学園創立期から現在にいたるまでの武蔵を語る写真を、「人物」・「施設」・「武蔵の自然」・「学生・生徒」・「行事」・「江古田の街」などのジャンルに分類し、キャプション付きで掲載しています。写真は今後、随時追加され、ジャンル分けもより細かなものに進化していく予定です。 なお、写真館の写真や説明についてのご質問やご指摘などありましたら、各写真のコメントボタンからお願いいたします。 また、ご提供可能な写真がございましたら、そちらもコメントでご連絡いただきたく、お願い申し上げます(僭越ながら、掲載・不掲載の決定については、学園記念室にて判断させていただきます)。
Read me! コメントを書き込まれる方へ
コメント書き込みの前に、以下をお読みのうえ、次にお進みください。 ◎書込みについて 本サイトでは、以下の項目にコメントを書き込むことができます。 ・年表=年月日、事実の誤りのご指摘、追加したいできごと、ご質問 ・紀伝=誤植、事実の誤りのご指摘、ご感想、ご質問 ・武藏今昔物語=誤植、事実の誤りのご指摘。ご感想、ご質問 各項目に設置されているコメントボタンをクリックすると、別ウィンドウが開きますので、その指示に従って進めてください。 ◎返信とコメントの反映について ・いただいたコメントには、管理者(学園記念室)より受信した旨とその対応について返信いたします。(コメントが直接サイトに書き込まれることはありません) ・自動返信ではなく内容を拝見してからの手作業になりますので、返信まで2日程度かかることがあります。 ・誤植や事実の誤りのご指摘については、確認のうえ訂正いたします。その際、確認のため複数回メールでの確認作業を行う場合があります。 ・また、ご感想やご意見は、2023年度末に刊行予定の『武蔵学園百年史』編さんの参考とさせていただきます。 ・送信したコメントを取り消したい場合は、コメントした項目のところのコメントボタンから、取り消し依頼を送信してください。その際には、コメントしたときと同じメールアドレスから発信してください。 ◎メールアドレスとお名前について ・コメント送信時に使用されたメールアドレス、氏名は本サイトからの返信用以外には用いません。なお、その他の個人情報保護については本サイト最下段の「プライバシーポリシー」をご覧ください。
NEWS & TOPICS
2020.08.20
四大学オートバイレースのこと
武蔵大学OBへのインタビュー記録
インタビュー実施日:2019年(平成31年)3月28日   大久保:  本日は、1回生の小林隆幸先輩と、プレメディカルコース2回生の宮崎秀樹先輩から、1952年(昭和27年)に開催された四大学オートバイレースについてお話をお伺いするのが趣旨ではありますが、お二方とも大学の草創期を体験されておられます。せっかくの機会ですので、本題に入る前に、どういう動機で武蔵大学を選ばれたのか、また、学生生活はどのようなものだったのかについて、先にお伺いしたいと思います。   潜越ですが、私は20回生で、経済学部単学部の最後の募集年となる昭和43年の入学でした。すでに、入学定員は、経済学科と経営学科で計400名になっておりましたが、それでも、建物の多くは木造で質素、女子学生は大学全体でも20名程度しか在籍していなくて、男子校というイメージが濃かったように感じます。18歳人口に占める大学進学率は、25%程度になっておりましたが、先輩方が新制の大学に入学された時代(経済学科のみ、入学定員は120名)の大学進学率は10%以下であり、大学生がエリートと呼ばれた時代かと思います。    まず、1回生の小林先輩からお伺いします。先輩は、1932年(昭和7年)生まれ、ご出身は東京。武蔵大学経済学部をご卒業と同時に、1953年(昭和28年)に本田技研工業株式会社に入社、1959年(昭和34年)から27歳でアメリカに赴任し、アメリカホンダ設立に参画、1964年(昭和39年)には総支配人としてタイ法人を設立、営業の神様とまで言われてホンダの成長期を支えられ、1967年(昭和42年)に名古屋支店長、その後、1970年(昭和45年に)東京支店長、1977年(昭和52年)に鈴鹿製作所所長、1980年(昭和55/年)にホンダの常務取締役、1983年(昭和58年)に鈴鹿サーキットランド社長を務められました。また、大学同窓会においても、長らく副会長をされておられました。高校までは成城学園と伺っておりますが、なぜ武蔵大学に入学されたのですか。また、当時の学生生活はどのようなものだったのでしょうか。   小林:  戦後、学制改革の混乱があり、成城は、大学設立が他の四大学から1年遅れることになりました。しかし、いずれ、四大学は同じ連合大学になると聞いていたので、待っても同じだなと思って武蔵に入学した訳です。入学した当時、我々1回生は60名強くらいの人数しかいなくて、当然のこと、指導してくれる先輩などいませんよ。大学生が使う専用施設もほとんどなかったし、運動部や文化部に限らず、クラブなど何も存在しない。教職員、学生ともに、何事につけて、全部、自分達で、最初から始めるしかなかった。  私は、笹原壮介君(故人、元東北放送専務取締役、初代の同窓会東北ブロック長)と一緒に成城学園の尋常科時代からグランド・ホッケーをやっていたこともあって、いきなり、武蔵初の運動部の部長を任されたし、その後、四大学運動競技大会を仕切るとか、いろんなことをやりました。まだ、戦後間もなくのことだから、遊ぶと言ったって、お金もないし、とにかくやることがない。だけど、体力だけは、余っていたので、いつも「何か面白いことはないかな」と考えていた。お蔭で、2年、3年となるうちに、自分で計画して行動に移すということが身に付いたのと同時に、なるべくお金を使わずに目的を達成するという手法も上手くなっていった気がするね。   大久保:  次に、宮崎先輩にお伺いします。先輩は、1931年(昭和6年)生まれ、愛知県のご出身。1952年(昭和27年)3月に武蔵大学の医歯学進学課程(プレメディカルコース。以下「プレメ」と記す)を修了され、翌年1953年(昭和28年)に東京医科大学へ進まれました。東京医科大学大学院終了後の1962年(昭和37年)から、愛知県稲沢市で外科医院を開業され、1972年(昭和47年)には愛知県医師会理事、1986年(昭和61年)には日本医師連盟の推薦を得て参議院議員に初当選、以降計3回当選しておられます。  参議院におかれては、環境政務次官(1989年・平成元年)、労働政務次官(1991年・平成3年)、参議院内閣委員長、参議院議院運営委員長などを歴任されました。自由民主党の副幹事長を務められたご経験もおありですし、2004年(平成16年)から2年間、日本医師会の副会長も務められました。  医学部に進む前の受験資格としての必要な課程は、制度として、新制大学の中に置かれることになった訳ですが、学園の年史によれば、プレメ開設は、大学設立の翌年の1950年(昭和25年)4月1日(開設認可は、昭和24年7月)となっており、他方で、昭和26年5月10日にはプレメの修了者の壮行会を開催したとの記載があります。学園史の記載からは課程が1年間だったようにも思えますが、本来は2年間の筈です。そして、卒業生名簿によりますと、先輩は、プレメの2回生となっています。だとすれば、先輩は昭和26年4月入学になるのではと思いましたが、先回、お会いした折に、確か昭和25年4月の入学だと伺っております。創設期のプレメの制度がよくわかりません。実際に、どうだったのか教えて下さい。   宮崎:  認可との関係はわからないけれど、私が武蔵のプレメに入学したのは、昭和26年ではなくて昭和25年4月です。私は2回生ですから、プレメは実質上、武蔵大学開学の昭和24年当時からありましたよ。それと、課程は2年間でした。旧制高校を前身とする東京の大学の中では、武蔵と成蹊、成城にこのコースが置かれていましたが、旧制武蔵高校は有名な学校でしたからね。私が在籍した当時の教養課程のカリキュラムは、プレメも経済学部の学生も同じもので、必要な取得科目が異なっていただけでした。私の場合は、昭和27年3月にプレメを修了し、受験勉強のために武蔵大学の3年生として、更に1年間いて、昭和28年4月に医大に入学した。だから、四大学の当番校の時には、武蔵大学の学生として参加できたのです。   大久保:  そうだとすれば、新制度への移行時には良く見られますが、経過措置として、昭和24年度分の取得単位についても、認可日からさかのぼって適用されたことになりますね。それに、開設当初、学部生と同じだったプレメのカリキュラムも、制度が定着した4年後には、経済学部生とは別になったと『武蔵学園史年報』に書かれています。   宮崎:  そういえば、小林君も、最初はプレメで入学したんじゃなかったの。   小林:  違いますよ。私は、医者の道はお金もかかるしね、親にも負担はかけられない状況だったから、無理だと思ってプレメには進む気は、最初から無かった。それどころか、私は、大学に入る前から既に儲かる商売を始めていたので、大学などに行かずとも十分生きていけるという自信があった。でも、家族のほとんどが大学出だったせいもあって、母親からどうしても大学だけは出て欲しいと懇願されてね。成城時代に一緒だった笹原君の誘いもあって武蔵に入学した。   大久保:  入学当時の江古田駅は、武蔵野稲荷神社に近い踏切付近にあった時ですか。   宮崎:  神社付近だね。だから、学校までは、今よりずっと近かった。   大久保:  学生食堂ができるのは、はるか後の昭和32年9月です。お昼時間には、食事などはどのようにされていたのですか。出入りしていたお店の名前にご記憶はありますか。   小林:  私なんかは、弁当を持って来ていたよ。   宮崎:  名前は忘れたけど、学校の向かい側の桜台寄りに食堂が1つあった気がする。線路の向こうには蕎麦の「花月庵」があったね。その2階で、鈴木武雄先生にご馳走になったこともあった。   大久保:  まだ、賑やかな商店街などはなかったということですね。では、今回の本題である「四大学オートバイレース」のことについて詳しく伺いたいと思います。オートバイレースの企画は、武蔵が提案したものと伺っています。   小林:  たまたま、私の親父にホンダとのつてがあったので、オートバイなら何とかなるかも知れないと思って話をしたのがきっかけです。ホンダ初の2輪車「ドリームD型」が昭和24年(1949年)に完成し、普及し始めていて話題になっていました。   宮崎:  そうだったね。昭和27年(1952年)、武蔵が第3回四大学運動競技大会の当番校になった年(四大学がすべて揃ったのが昭和25年。第1回大会の当番校は学習院大学、2回目は成蹊大学)ですね。当時は、放課後になると、学生部でゴロゴロとしながら、先生方と話をするのが習慣のようになっていましたからね。あの時も、小林君と年齢は我々よりかなり上だったが2回生の岡崎道彦君(故人、アサヒビール入社)と、現在の大学3号館の東翼角にあった学生部の部屋で四大学運動競技大会の企画を話している中から出てきたものだったね。   大久保:  当時は、クルマの主流はオートバイだったのですか。   宮崎:  昭和27年ですよ。当時は、車(自動四輪)などは宝物に等しくて、我々に手の届くような存在ではなかったからね。だけど、当時だって、自動車部は一応あったんだよ。ただし、「オート三輪」と呼ばれたトラックでね、乗用車じゃない。活動といっても、魚卸の配達アルバイトみたいなことばかりでしたけどね。   小林:  当時は、バイクを借りるといっても、その仕組自体がないので、結局、いきなり本田技研の本社に、私と宮崎君と2回生の岡崎君の3人で行ったんですよ。その時は、四大学運動競技大会の経理を担うことになっていた同期の石田久君(故人、「益萬」代表取締役、元同窓会長)も一緒に行くはずだったが、交通事故で入院していて行けなかった。本田技研の本社は、当時は八重洲にあったのだけれど、ホンダといってもまだ今でいうところの駆け出しのベンチャー企業ですよ。昭和23年(1948年)に、浜松で自転車用の補助エンジンを製造したのが始まりだからね、それから、わずか4年後の話ですよ。  本社を訪ねたら、奥の方から藤澤さん(藤澤武夫専務、後の副社長)が出て来られて、我々の応対をしてくれた。身体の大きい人という印象だったね。いきなり「オートバイ10台、貸して下さい」と頼んだ。でも、詳しい理由を話すより前に、藤澤さんから「お前らに貸すクルマなんかあるか」とケンもホロロ、即座に断わられた。相手のことも良く知らなかったし、とにかく、学生は怖いもの知らずでしたから「すみませんが、社長(本田宗一郎氏)はどちらですか?」と聞いたんですよ。そうしたら「社長は、今、入院中だよ」と言われた。   大久保:  入院先を教えてくれたのですか。   小林:  社長の入院先なんか、教えてくれるわけないさ。でも、そんなことでは、あきらめなかったね。どうせ、こっちは暇で時間はあったからね。その足で、社長の自宅を尋ねることにしたんだよ。図々しいといえば、まあ、そうだけどね。   宮崎:  一面識もないのに、病院にお見舞いに行くことにした。でも、社長さんに変な見舞いも持ってゆけないだろうと思って、なけなしの自分の小遣いをはたいて、文明堂のカステーラ1箱を買った訳ですよ。当時は、高価なものだったから忘れないですよ。   小林:  社長の自宅まで行ったら、タイミング良く道路の前でご長男が遊んでいたので「お父さんは?」と聞くと「入院してる」。「そう、どこの病院?」という感じで、うまく入院先を聞き出せた。確か、荒川病院だったかな。   宮崎:  病院に着いて、いきなり病室をノックすると、奥様が出て来られて「何のご用ですか?」と。「実は、お願いがあります」と切り出すと、そのまま、病室の中に入れてくれた。そこで、社長に改めて遠乗りレースの企画を説明の上で、オートバイ10台を貸して欲しいとお願いした。すると、笑って「面白い。わかった、貸してやるよ」と、まさに即決だった。   小林: 「でも、今、本社で断られたばかりなのですが・・・」と伝えると、「オレが社長だ」と胸を叩いて大笑いされた。だから、我々は勇んで本社に戻りましたね。戻って、藤澤さんに向かって「貴方には断られたけど、我々は、借りましたからね」と自慢気に伝えた。   大久保:  君らは好き勝手なことをして、何だと、怒られた訳ですか。   小林:  それがさ、怒られるのかと思ったらね、藤澤さんもすごいよね。大笑いしたあと「お前らみたいに図々しいの、初めて見た」と、とても喜んでくれたんだよ。   宮崎:  本当、あれには、びっくりしたね。怒らなかったんだよね。   大久保:  四大学運動競技大会のバイクレースとなっていますが、大学問で競って到着順位を決めることが趣旨だったのですか。また、何故、名古屋までだったのですか。都知事のメッセージを届けるという企画は、後から、追加したものですか。   小林:  レースとはなっているけれども、競争をして順位を決めるという性格のものではなかった。各校、2名を選抜して、名古屋まで四大学が協力してメッセージを届けに行くことが趣旨だった。東京・名古屋間となったのは、遠乗りバイクレースの話を進める過程で、当時の鈴木武雄経済学部長(後に学長)が我々を心配して下さり、懇意にされていた中部経済新聞社社長に協力をお願いしていただけるということになったからです。  でも、都知事のメッセージを持ってゆくというのは、我々学生の企画です。新しく知事制度ができた記念に、安井誠一郎東京都知事のメッセージを、桑原幹根愛知県知事と小林橘川名古屋市長に届けよういう企画にしたんですよ。   大久保:  実際に、お借りしたバイクの型式名は何だったのですか。運転免許は、既に、持っておられたのですか。下見の段階からバイク10台とも、長期間借りたのでしょうか。コースの下見は、実際にどなたがされたのですか。   小林:  借りたのは、ホンダ・ドリームだよ。下見の時には、私は運転免許を持っていなくて、この企画の本番に間に合うように、後から取った。   宮崎:  既に運転免許を持っていたのは私と岡崎君だったので、コースの下見はこの二人で行った。成増のホンダの工場で、先ず2台を借りて、道路状況や、食事、宿泊先などの調査をしました。だから、下見と本番と合わせると、我々は、東京一名古屋間を2往復したことになる。   大久保:  本番での武蔵の運転者はどなただったのですか。   宮崎:  本番では、各校2名、往復とも原則同じ人物が運転した。でも、当番校の武蔵だけは3人で、私と岡崎君、そして、実行委員長だった小林君。   大久保:  実際、どの位のスピードで走ったのですか。道路状況が良くなかったでしょうから、せいぜい時速60キロ程度ですか。   小林:  いや、150cc程度のエンジンだったけど、本番では、最高で時速100キロ位では走りましたよ。バイクの能力自体は、もう少しスピードは出たと思うけどね。でも、今のような舗装された平らな道路を走る訳ではないんですよ。当時、国道1号線と言っても、三島までは、一応、舗装されていたけど、そこから先は、ひどかったからね。砂利道だからね、穴だらけだよ。  東京・名古屋間は、約360キロだけど、高速道路などないし道路はガタガタだし、長距離ドライブなんか普通は考えませんよ。ましてや、こちらは免許も取り立てだし、名古屋まで行くのは、私は出かける前に怪我をしていたこともあって、それこそ命がけだった。  それに、バイクを借りたといっても、当時は、まだ、長距離をちゃんと走れるのか、大丈夫なのか保証がない時代だったんだよ。帰り路では、怪我に加え夜道走行になっていたせいもあって、私は、途中で運転を交代してもらったくらいだから。   宮崎:  小林君の乗ったバイクなんかは、軽く30メートルくらいバウンドして飛んだね。そのはずみで、車輪が壊れたりしたね。カーブで曲がり切れずに、垣根を飛び越えて、街道脇の人家に飛び込む者もいた。前をトラックでも走ろうものなら、土埃で、先が全然見えなくなってしまうからね。   大久保:  途中の、給油はどうされたのですか。   宮崎:  結構、燃費は良かったと思うね。正確な記憶はないけれど、片道で1度くらいの給油で済んだと思う。   大久保:  往路、宿泊地となる浜松では、浜松工場にも立ち寄ったと記録にありましたが、宿泊地に設定したことという以外に、修理か何かで立ち寄る必要があったのですか。   宮崎:  浜松にもホンダの工場があったからで、特に、修理のためというつもりはなかった。けれども、結果的には、浜松工場でバイクの整備もしていただきました。   大久保:  当時のお金で、どのくらいの予算がかかったのでしょうか。目安になるような数字を、概算でもご記憶がございますか。   小林:  石田久君がいれば何か残してくれているかとは思うけれど、もう、記憶はないね。   大久保:  四大学運動競技大会の開会式は、1952年(昭和27年)7月5日ですが、バイクレースの実施時期は、11月9日から12日の4日間の開催だったと書かれております。結果として、レースは、どういうスケジュールになったのですか。   宮崎:  11月9日(1日目):午前8時に、朝日新聞社前をスタート           タ方4時過ぎに、ホンダの浜松工場に到着。浜松市内にて1泊  11月10日(2日目):午前8時に浜松を出て、お昼頃に、愛知県庁に到着            ミス名古屋からの「花束贈呈」           愛知県知事、名古屋市長と東京都知事の「メッセージ交換」           夜は、中経グリルにて中部経済新聞社主催の「歓迎パーティ」           名古屋市内にて1泊  11月11日(3日目):早朝ではないが午前中に名古屋を出発、往路と同じメンバーの運転で帰路に着く。           暗くなってから、沼津市内にて1泊  11月12日(4日目):武蔵には集合はせず、各自、大学に戻る。           後日、集まって、10台すべてを成増工場に返却。   大久保:  すでに寒い時期だったと思いますが、どのようなバイク・ウェアだったのですか。   宮崎:  ウェアなんてしゃれたものではないよ。格好はね、テレビ番組で流行った「月光仮面」そのものだよ。「ツナギ」が出回った頃だったので、これを着て、寒さ予防に腹に新聞紙を巻いて、土ぼこりを防ぐために、顔を白いマフラーで覆ったんだよ。私は、ポケットにウィスキーの瓶と、草鞋(わらじ)みたいな硬いトンカツを入れて、飲みかつ食べながら走ったんだよ。飲酒運転をしても、違反にならなかった時代だからね。11月上旬は、今よりも気温は低かったからね。   小林:  私は、お酒なんか飲んでませんよ。運転に必死でしたからね。   ↑ レース開催中の光景写真(『武蔵七十年史―写真でつづる学園のあゆみ』所収)     ↑ オートバイレースの学生が名古屋市役所前に到着した時の写真(『武蔵七十年史―写真でつづる学園のあゆみ』所収)   大久保:  大怪我をするかも知れない企画だったようにも思えますが、他大学の学生も参加するので、大学から企画を考え直せというようなことはなかったのですか。   小林:  武蔵という学校は、無茶とも思えるような我々の発想を、鈴木武雄先生、波多野真先生をはじめ多くの先生方が心底、成功するように応援してくれたんだよね。中部経済新聞社と名古屋タイムス社には主催の承諾交渉をしていただいたり、本田技研工業の後援を取っていただいたりと。だから、我々学生の方も、実施に向けて必死ですよ。四大学との協議、知事のメッセージの依頼、下見、宿泊を含むスケジュール調整まで、事前に準備しなければならないことは色々あった。   宮崎:  誰も考えないような企画を自分達で考えて、四大学をリードして、1名の落伍者もなく無事に最後までやり遂げた訳だけれど、あの当時、それができたのは、武蔵だけじゃないかと思うよ。とにかく大変な思いをしたけど、やって良かったと思うね。今の時代、あんなことやれと言われてもできないだろうからね。  2日目の夜の中部経済新聞社主催の「歓迎パーティ」には、大学から汽車で駆け付けた鈴木学部長をはじめ、四大学の新聞部の仲間なども参加した。終了後、酔った勢いで、名古屋の花柳界隈をバイクで走り回る者もいた。当時は、まだ、車がほとんど走っていなかった時代だからね。   小林:  歓迎パーティの時だけじゃなくて、鈴木先生も、波多野先生も、途中の箱根で手を振ってくれていましたよ。嬉しかったね。   宮崎:  武蔵が主催したこの第3回四大学運動競技大会には、当時、学習院大学の1年生でおられた皇太子殿下(明仁親王。のち、2019年4月末に生前退位され、上皇となられた明仁天皇)が、武蔵大学を訪れて競技をご覧になった後、光栄なことに、我々四大学の役員と歓談する機会に恵まれました。これも、自慢できる思い出になっていますね。   小林:  結果として、この行事はその後の我々の自信にも繋がっていきました。また、これはまったく個人的な話ではあるけれど、私は、この縁で、藤澤さんから明日からでもすぐに会社に来いと強い誘いを受けた。結局、断わり切れないまま、当時はまだ小さな会社だったホンダに入社することになった。学校では、最初の卒業生でもあり、古河電工への就職を用意して頂いていたようです。しかし、その事実は、卒業と同時にホンダに入社するという意思を藤澤さんに伝えた後から知った。  でもね、こういう自分達の話より、私が一番強調して言いたいことは、「武蔵」という学校は、学生が実行したいということを、何をおいても教職員が全力で応援してくれた学校だったということだよ。そのまま仕事に生かせる教育でもあったし、本当に、世話になったという気持ちだよ。今でも、心底、そう思っている。無事故で怪我人もなく、あの行事を終えられたのも、まさに「武蔵」だからこそできたことなんだよ。  だから、後輩の若い皆さんが望むなら、我々が「武蔵」で受けた教育と、それがその後の自分の仕事にどう生かされたのかという経験を直に話をして伝えたいと、何時でもそう思っていますよ。もっとも、元気なうちだけどね。   宮崎:  書いて残されている話は、どうしても、きれいごとが多いもの。肝心な本当の話は、あまり表には出ないことが多い。だから、あのバイクレースに限らないけれども、困難な課題を数多く乗り越えてきた経験者の話というのは、人が生きてゆくための知恵として、とても参考になるはずだと思いますよ。   大久保:  本日は、お昼からの同期会の終了後、お疲れのところ時間を割いていただきまして、本当に有難うございました。1時間半も経ってしまい、すっかり酔いが覚めてしまったのでありませんか。   小林:  いや大丈夫、これから、また、飲めばいいんですからね。じゃあ、お先に失礼しますよ。     おわりに:  インタビュー時、お二方とも90歳を目前にされておられましたが、兎に角、お元気でした。  この記録は、四大学オートバイレースを企画された1回生の小林隆幸氏(旧姓:迫田)とプレメディカルコース2回生の宮崎秀樹氏に、2018年(平成30)年5月11日にお顔合わせいただいた上で、改めて2019年(平成31年)3月28日にインタビューさせていただいた折の話を基にしております。  なお、お二人との顔合わせとインタビュー時には、8回生の松山孝氏、12回生の木村重紀氏、21回生の坂田光司氏(大学同窓会事務局長)にもご協力をいただきました。深く、感謝申し上げます。  また、過去に掲載されました大学同窓会報創立30周年記念特別号の「遠乗りオートバイ競技会の回想」(宮崎秀樹氏筆)、大学創立40周年記念誌『VOIR』の「四大学オートバイレース」(小林隆幸氏筆)、「駆け抜けたホンダウェイ」(小林隆幸氏著)の「ホンダ前夜」、および『武蔵七十年史―写真でつづる学園のあゆみ』の同関連記事、『武蔵学園史年報』第16号の「医歯学進学課程修了者座談会」などの記事を参考に、事実関係をお二人に確認させていただきました。 (大久保 武)
2020.07.30
武蔵学園構内で確認された疥癬タヌキと2017~2018 年のタヌキの生息状況
要旨  2018 年3 月に武蔵学園構内(東京都練馬区)でハクビシン捕獲用の箱罠に疥癬とみられるタヌキが混獲された。この個体は構内に生息するタヌキとは明らかに別個体で学外から迷い込んだものと考えられる。2017 年秋から2018 年秋までの構内のタヌキの生息状況は,1 頭での目撃情報が続き,ため糞場の利用も僅かだった。2018 年8 月上旬にため糞場を利用するタヌキがセンサーカメラにより撮影されたものの,下旬に構内で1 頭の死体がみつかった後,現在まで目撃情報はない。また構内の大規模工事に伴うタヌキの生息場の環境変化について記録した。   Keywords: 練馬区,ホンドタヌキ,疥癬,箱罠,目撃情報,センサーカメラ,たぬきマップ 【武蔵学園記念室より:この文章は、『武蔵高等学校中学校紀要』第3号(2018年12月刊)に掲載されたものである。近年の武蔵学園のキャンパス敷地の動向を、多くの人に知っていただく好適な文章として今回、当サイトに掲載させていただいた(掲載にあたって、一部の図版の位置を変更している)。今回、転載を快く認めていただいた紀要編集委員会と、著者の白井亮久先生に、記して御礼申し上げます。】    はじめに  タヌキNyctereutes procyonoides は世界に1 属1 種しかいない東アジアに自然分布するイヌ科で(佐伯,2008),東京都区内に生息する唯一の在来中型哺乳類である。近年,都心にすむタヌキの食性や行動様式などの研究がされているが,捕獲された個体についての情報はそれほど多くない(Endo et al. 2005;小泉ほか,2017)。東京都練馬区に位置する武蔵学園構内には20 年近く前からタヌキが生息しているとされており(白井,2017),2018 年3月に疥癬とみられるタヌキが確認されたため,記録として報告する。  加えて,白井(2017)による2016 年4 月~2017 年9 月までの武蔵学園構内のタヌキの生息状況の続報として,それ以降の2017 年10 月~2018 年9 月までの生息状況と,センサーカメラを用いたため糞場での行動観察,構内の改修工事に伴うタヌキの生息場所の環境の変化も合わせて記す。   図版1 学内地図(武蔵たぬきマップ2016 をもとに) ↑ 図.2017 年から2018 年にかけての構内のタヌキの生息と環境の改変 白井(2017)の「武蔵たぬきマップ2016」を改変して加筆。2017–18 年の出来事を赤字で示した。     武蔵学園構内で確認された疥癬のタヌキ  2018 年3 月14 日深夜1 時半ごろ,武蔵学園構内の9 号館裏(地点A)のハクビシン捕獲用の箱罠に疥癬のタヌキが混獲された(前掲の図版1,文末の図版2 A–B)。巻尺と上皿自動秤により計測したところ,およそ34cm 程度の大きさで体重は3.25kg の若い個体だった(腹部に陰嚢のような膨らみが確認できたが性別は不明)。頭部と尾部,四肢に毛はあるが首部から胴部にかけ完全に脱毛していることから疥癬に罹患していると考えられた。ライトで照らしても暴れることなくじっとしていた(文末の図版2 C)。巡回中の警備員によると0 時前後には入っていなかったため,箱罠に入って間もないと考えられる。  今回疥癬のタヌキが混獲された箱罠は,本学園の施設課により建物内に侵入するハクビシンの糞尿被害の対策のために業者に依頼して設置されたものである。2015 年12 月頃からハクビシン駆除を目的として構内に複数個所設置され,踏み板式の片側扉の箱罠(W260✖H300✖D820mm)で,誘引餌はリンゴやオレンジなどが用いられる(文末の図版2 A–C)。  ハクビシンが捕獲された場合(文末の図版4 B)は業者に引き渡されるが,ハクビシン以外の動物(鳥類やネコ,タヌキなど)が混獲された場合は,仕掛けを外し逃がすことになっている。疥癬のタヌキの計測と観察ののち,2 時半ごろ箱罠から逃がしたところ大学正門方向に駆けていった。その僅か約15 分後の2 時45 分に大学図書館脇の側溝付近(地点B)で再び1 頭のタヌキが目撃されたが,その個体は全身に毛が生え(文末の図版2 D),逃がした疥癬のタヌキとは明らかに別個体と確認できた。地点B はこれまで高頻度でタヌキが目撃されることから寝床に近いと考えられており,疥癬,あるいは脱毛の個体は2016 年春から現在まで構内の100 件近い目撃情報やセンサーカメラで確認されたことはない(白井,2017)。このことから今回みつかった疥癬のタヌキは偶発的に学外から入り迷い込んだものと考えられる。  疥癬はセンコウヒゼンダニSarcoptes scabiei の寄生によるイヌとの共通の疾病で,宿主の皮膚内に穿孔して脱毛を引き起こし,皮膚が肥厚・象皮様化して衰弱させる(鈴木ほか,1981;落合ほか,1995)。罹患した個体は二次感染などにより死亡し小さな個体群では絶滅に追い込まれることもある(谷地森・山本,1992)。野生のタヌキの疥癬の拡大には人間による餌付けとの関連が指摘されており(金子,2002;松尾ほか,2015),安易な給餌は禁物である。疥癬は主に接触感染で広がることから,野外で飼育されるペットと双方向での感染が起こりうるが,ペットからタヌキへの伝染が多いともいわれ(山本,1998;松山ほか, 2006),武蔵学園構内に生息するタヌキへの感染も懸念される。増井(1984)はタヌキの体重は冬に増え春先に減るというデータを示しており,今回混獲された個体の3 月に3.25kgという体重は生まれて一年に満たないとしても栄養状態が悪く,疥癬の影響もあるかもしれない。   2017 年秋から一年間の構内におけるタヌキの生息状況と環境の変化 ・生息状況(目撃情報,フィールドサイン)  前報【編者注:『武蔵高等学校中学校紀要』第2号(2017年12月刊)に掲載された、白井教諭の文章を指す。表題は文末の「引用文献」を参照】の2017 年3 月から現在まで,断続的に1 頭での目撃が続いている(目撃31 件:2017年10 月3 件,11 月2 件,12 月3 件,2018 年1 月1 件,2 月1 件,3 月6 件,4 月2 件,5月3 件,6 月6 件,7 月3 件,8 月1 件)。目撃場所の多くは大学図書館脇の側溝で(文末の図版2E,地点B),今回新しく目撃された場所は高中旧理科棟裏の標本庫前である(文末の図版2 F.ただしそれらの建物は2018 年8 月に解体され,現在はない)。2018 年4 月と5 月に濯川の玉の橋下の排水路でもタヌキの足跡が確認されたものの,その後はみつかっていない(前掲の図版1)。1 頭での目撃は2017 年3 月から1 年以上続いているが,つがいや親子での目撃情報はなく,2016 年夏に幼獣が確認された以降,2 年間幼獣がみつかっていないことから,この2 年間は構内では繁殖していない可能性が高い。   ・ため糞場の利用とセンサーカメラで撮影されたタヌキ  2016 年11 月以降(白井,2017),現在までため糞場3 地点の使用はまれで,本報告の調査期間中ため糞場MG-1 でのみ(前掲の図版1),少なくとも11 日間のため糞場の利用が確認された(2017 年10 月1 回,2018 年6 月1 回,7 月6 回,8 月3 回)。  2018 年8 月初旬にため糞場MG-1 において一晩で2 回のため糞場の利用があり,その様子をセンサーカメラで動画撮影した(文末の図版3)。8 月9 日20 時頃,1 回目となる1 匹のタヌキが現われ,排糞をして立ち去った。その約30 分後に再び別個体と思われる1 匹のタヌキが現れ,排糞をした。山本(1984)は,ため糞の交換や移動などの操作をした後の飼育個体の行動観察から,自分の糞,血縁関係のある個体の糞,見知らぬ個体の糞と遭遇した際に,「糞の臭いを嗅ぐ時間」が順に長くなることを報告している。今回,残念ながらセンサーカメラでは,臭いをかぐ行動の途中からしか撮影されておらず定量的なデータは得られなかったものの,短時間の内に同一個体がしっかりとした排便をすることは考え難いことや,体毛の模様が異なるように見えることから,別個体の可能性が高い。そうであるならば,目撃は1 頭であるがその期間は構内には単独で行動する2 頭がいたことになる。同様に翌10 日20 時頃にも短時間のうちに2 回の別個体と思われるタヌキの訪問と排糞が撮影された。今回撮影されたため糞場での行動はおおよそ田中ほか(2012)で報告されている里山のタヌキの例と類似していた。そのほか排糞中とその前後に鳴き声を発し,何らかのコミュニケーションとみられる行動も確認できた。  なお,今回センサーカメラでの排糞時刻とその後の目視での観察から,夏場にされた糞は糞虫等により分解が非常に早く1–2 日程度で形を留めず失われてしまうことが分かった。平沢(2006)で指摘されている通り,夏場でのサンプリングは迅速に行うべきだといえる。   ・ハクビシン用の箱罠に混獲されたタヌキ(2017 年12 月)  2017 年12 月10 日に大学2 号館裏(地点C)でハクビシン捕獲用の箱罠にタヌキが混獲された(前掲の図版1,文末の図版4 A)。この個体は疥癬ではなかった。この場所は警備員の巡回ルートではあるが,これまで目撃情報がなく(白井,2017),タヌキは決まったルートを通ることが多いとすると,この個体も偶発的に学外から入ってきた可能性がある。その後,警備員により箱罠の仕掛けが外され逃げていった。  構内の箱罠は前述のようにハクビシン駆除のために2015 年頃から業者により設置されたものである。構内でタヌキの目撃情報が100 回近くあり頻繁に活動していたとされる2016 年度であっても箱罠に混獲されることはなかった。これらの事をあわせて考えると,武蔵学園構内に生息しているタヌキは箱罠に入りにくく,偶発的に学外から入り込んできたタヌキが箱罠で入るということがあるのかもしれない。   ・9 号館裏のU字溝で見つかったフィールドサイン  2017 年12 月28 日に9 号館裏(地点A)のU字溝付近を探索した(前掲の図版1,文末の図版5 A)。この場所はため糞場MG-1 に近く,センサーカメラでもタヌキとハクビシンが良く撮影されている(白井,2017)。U 字溝のコンクリート蓋を外したところ,動物の骨や噛み跡の付いたマヨネーズ容器や硬式テニスボールが確認された(文末の図版5 B–F)。タヌキは寝床付近で遊ぶことから(盛口,1997),通り道(パス)としてだけなく寝床としてこの付近を利用している可能性もある。   ・高中グラウンド脇でみつかったタヌキの死体(2018 年8 月)  2018 年8 月27 日に高中野球グラウンド脇の側溝でタヌキの死体が見つかった(地点D,前掲の図版1)。集水桝からU 字溝に体を半分出した状態でみつかり,異臭が強く全体に蛆が付着し,既に頭部の大部分が白骨化していた(文末の図版4 C–D)。発見場所付近で普段活動している複数の野球部員への異臭の発生時期の聞き取りから,少なくとも死後1 週間近く経っているとみられた。腹部の内臓もほとんど失われ四肢の一部が欠損していた。頭胴長45cm 程度の比較的若齢個体で,全身に毛があり疥癬ではなかった。今回死体が発見された地点D の集水桝は2016 年7 月に幼獣が見つかった場所でもある(白井,2017:図版2)。しかし,それ以降その場所で成獣も幼獣も見かけることはなかった。U字溝はグレーチング(溝蓋)があり,集水桝に繋がる排水溝などを行き来していた結果,何らかの理由で死んでしまったと思われる(文末の図版4 D)。なお,死体は後日骨格標本として登録番号を付して武蔵高等学校中学校標本庫に収蔵される予定である。   ・工事に伴う環境の改変(2018年4 月~)  これまでタヌキが確認されている場所は,現在進行中の高中エントランス部の工事や学園の改修等の工事に伴い環境が比較的大きく変化している(前掲の図版1)。通り道,あるいは寝床に近いとみられる9 号館裏の喫煙小屋付近(地点A)は,2018 年4 月に喫煙所が撤去され,タヌキが通ることもある冷却塔がみえる開放空間になった。2018 年7 月より東門~高中エントランス部と軟式テニスコートなど整備のために,旧理科棟の裏の雑木林が消失し,濯川の玉の橋下流の排水路の暗渠化が進んでいる(エントランス部工事エリア)。それらの場所は目撃情報やセンサーカメラでの撮影,足跡などのフィールドサインが確認され(文末の図版3 E–F),冬季の餌資源となりうる果実の樹木も含んでいる場所である(白井,2017;飯島ほか,2018)。さらに2018 年8 月に大学図書館の空調整備のために3 号館中庭の一角に室外機の集中的な設置場が設けられ,ため糞場のひとつMG-3 と獣道が消失した(室外機設置エリア)。  このように構内のタヌキを取り巻く環境は急変しつつあり,今後タヌキの生活は変化すると思われる。岩本ほか(2012)は河川改修工事に伴うタヌキの行動変化を調べ,元の生息地への高い固執性や順応性を示している。タヌキは環境変化に柔軟に対応し都市に生息する唯一の在来食肉目といわれており,今後の構内での行動の変化から都市に生きるタヌキがどのように開発や環境改変に対応するのかに注目したい。   今後の展望  2018 年9 月以降,目撃情報やフィールドサインで構内のタヌキの確実な生息情報はないものの,今後の研究課題を記しておく。タヌキの個体識別やそれに基づくため糞場での行動観察,武蔵学園という都市の小さな孤立林にすむタヌキの食性の長期的な経年変化や,構内に同所的に生息する同じ食肉目のハクビシンとの食性や行動の比較,ノネコとの種間関係,タヌキの糞に集まる糞虫やハネカクシなどの訪糞昆虫調べなどがある。武蔵学園には食物連鎖の高次消費者であるタヌキを育めるだけの自然があり,タヌキを通してそこに生息する生き物たちの営みをみつめていきたい。   謝辞  前報(白井,2017)に引き続き目撃や箱罠に入ったタヌキの情報の提供は,内海幸哉さん,池原 満さん,蛭間一也さん,亀井哲夫さん(当時含む)はじめ武蔵学園守衛所の警備員の皆さんにお世話になった。本校生物部の部員には実地調査にご協力頂いた。本校英語科の楠部与誠さんとK. Bergman さんには英語表現について校閲頂いた。武蔵学園施設課にはハクビシン駆除用の箱罠の設置について教えて頂き,武蔵大学図書館の閲覧係の方々には文献の取り寄せで大変お世話になった。記してお礼申し上げる。本研究には,本校の個人研究費(2017–2018 年度「使える標本庫を作りつつ,研究する」)の一部を使用した。   引用文献 Endo, H., Hayashida, A. and Uetsuka, K. 2005. Pathological examination of a raccoon dog introduced to the Akasaka Imperial Gardens, Tokyo, Japan. Memoirs of the National Science Museum 39:47–53. 平沢瑞穂.2006.種子を運ぶタヌキ 東京郊外にすむタヌキの糞を分析して.どうぶつと動物園662:78–81. 飯島昌弘・斎藤昌幸・白井亮久.2018.武蔵学園に生息するタヌキの外食率を探る―東京都区部の狭い孤立林内の二つのため糞から出現した種子と人工物に注目して―.武蔵高等学校中学校紀要3:57–80. 岩本俊孝・傳田正利・三輪準二・竹下 毅・白石幸嗣.2012.河川改修工事にともなうホンドタヌキの行動変化に関する研究.宮崎大学教育文化学部紀要自然科学.25/26:1–17. 金子弥生.2002.タヌキ.フクロウとタヌキ(林良博・武内和彦,編),pp.77–144.岩波書店,東京. 小泉璃々子・酒向貴子・手塚牧人・小堀 睦・斎藤昌幸・金子弥生.2017.東京都心部の赤坂御用地におけるタヌキのタメフン場における個体間関係.フィールドサイエンス15: 7–13. 増井光子.1980.島のタヌキ.自然417:45–51. 増井光子.1984.小島のタヌキは個性的.アニマ140:76–82. 松尾典子・谷口裕子・大滝倫子.2015.動物疥癬の1 家族例—タヌキから感染した飼いイヌとの接触により発症.臨床皮膚科69:431–434. 松山淳子・畑 邦彦・曽根晃一.2006.鹿児島県におけるホンドタヌキの食性.鹿児島大学農学部演習林研究報告34:75–80. 盛口 満.1997.タヌキまるごと図鑑.大日本図書株式会社,東京.32pp. 落合啓二・石井睦弘・平岡 考.1995.千葉県のタヌキおよびタヌキ以外の野生哺乳類における疥癬の発生状況.千葉県立中央博物館自然誌研究報告7:89–103. 佐伯 緑.2008.里山の動物の生態-ホンドタヌキ.日本の哺乳類学2􀀃 中大型哺乳類・霊長類(高槻成紀・山極寿一,編),pp. 321–345.東京大学出版会,東京. 白井亮久.2017.武蔵学園構内におけるホンドタヌキの生息状況~“守衛さん”の巡回による目撃情報と痕跡調査に基づく2016 年度の記録と過去の聞き取り調査~.武蔵高等学校中学校紀要2:33–80. 鈴木義孝・杉村 誠・金子清俊.1981.岐阜県下の野生タヌキにおける疥癬症の蔓延について.岐阜大学農学部研究報告45:151–156. 田中 浩・相本実希・細井栄嗣.2012.ためフン場におけるタヌキの行動について.山口県立山口博物館研究報告38:51–58. 谷地森秀二・山本祐治.1992.八王子周辺のホンドタヌキの繁殖年周期と脱毛個体―聞込み及びアンケート調査から―.自然環境科学研究5:33–42. 山本伊津子.1984.ためふんの意味を探る タヌキの共同トイレ.アニマ140:71–75. 山本祐治.1998.ペットの病気がタヌキをなやます.タヌキの丘(小川智彦,著).p.39.フレーベル館,東京.   図版(2から5まで)一覧 (撮影者の記載のないものは,全て著者による撮影) 図版2 箱罠に入った疥癬タヌキ(A–C)と,構内で目撃されたタヌキ(D–F) ↑ A: ハクビシン用の箱罠の設置状況   ↑ B: 混獲された疥癬タヌキ   ↑ C: 疥癬のタヌキ(体重3.25kg) 誘引餌のオレンジが写っている(2018 年3 月14 日2 時26 分)   ↑ D: 大学図書館の中庭側の側溝で確認されたタヌキ 全身に毛があり,直前に見つかった疥癬個体 (上記のC)とは別個体であると分かる (2018 年3 月14 日3 時33 分,発見は2 時45 分) ↑ E: 大学図書館の中庭側の側溝で目撃されたタヌキ(2018 年5 月10 日 20 時45 分)   ↑ F: 旧理科棟裏の標本庫前で目撃されたタヌキ (2018 年6 月3 日 1 時22 分,守衛所 亀井さん撮影)   図版3 ため糞場MG-1 での排糞行動 ↑ ため糞場MG-1 で糞をするタヌキ(A)と,  ↓ その約30 分後に糞をするタヌキ(B). (黒矢印は1回目の糞で,灰矢印は2回目の糞)   説明:センサーカメラで撮影された2018 年8 月9 日夜の2 回のため糞場の利用。排糞前にその場の臭いを嗅ぎ,既に糞がある時には少し離れたところにする(A とB)。1度の排糞は2~4 回に分けられ,結果的に数個にみえることもある。糞便前後で高い鳴き声を発し,排糞中は体を反らせ遠吠えのようなしぐさをしていた。排糞後は速やかにその場から離れる。体毛の模様が異なる別個体に見えるが判定は難しい。増井(1980)の野外観察による,個体により毛色の濃淡の違いがあることや,雌雄の区別として排尿時にオスは片足を上げ,メスは跨ぐように行うことは,今後の個体識別の参考になるかもしれない。   図版4 生息状況(箱罠,死体,消失した場所) ↑ A: 4 号館裏(地点C)の箱罠に混獲されたタヌキ (2017 年12 月10 日,守衛所 蛭間さん撮影)   ↑ B: 高中保健室前の箱罠で捕獲されたハクビシン (2016 年2 月26 日,施設課撮影)   ↑ C: 見つかったタヌキの死体(左が頭部,体長は50cm 程度) ( 2018 年8 月27 日)   ↑ D: 死体が発見された場所  左が濯川,右が人工芝のグラウンド。矢印が発見場所の集水桝 ↓ E・F: 改修工事で消失した場所で撮影されたタヌキ(撮影は2017 年夏). ↑ E: 濯ぎ川最下流付近の側溝   ↑ F: 旧理科棟裏の標本庫付近の雑木林     図版5 生息近況(9号館裏で見つかったフィールドサイン) ↑ A: 9 号館裏の外観   ↑ B: 噛み跡の付いたテニスボール   ↑ C: マヨネーズ容器の落ちていた様子   ↑ D: 噛み跡の付いたマヨネーズ容器   ↑ E: U 字溝に落ちている骨   ↑ F: 骨の一つ(大腿骨)     【補遺】  本稿の入稿直前に構内でタヌキが混獲されたため,その記録を付しておく。武蔵大学の白雉祭期間中の2018 年11 月4 日深夜1 時15 分頃,大学2 号館裏(地点C)のハクビシン用の箱罠に冬毛のタヌキが混獲された。体重4.40kg,50cm 程度の大きさで疥癬個体ではなかった(写真A)。箱罠に誘引餌はなかった。計測中,断続的に排尿と少量の排糞もみられた。排尿はしゃがんで行っていた。2 時30 分頃,箱罠設置場所付近で逃がしたところ構内を駆けていき,約95cm の壁をジャンプし辛うじてよじ登り(写真B,赤丸がジャンプしたタヌキ),姿を消した。今年の8 月下旬以降2 ヶ月間構内で目撃情報がなかったことや誘引餌のない箱罠に入り込んでいることから,今回混獲された個体は学園構外から入ってきたものと考えられる。その後,4 時45 分頃にも大学9 号館の下で同一個体とみられるタヌキが徘徊していた。今後,この個体が構内で定着するか等を注視していきたい。   ↑ 写真A.箱罠に入ったタヌキ(体重4.40kg)   ↑ 写真B.ジャンプし95cm の壁を登るタヌキ    加えて,箱罠に入った前日の11 月3 日4 時35 分に,ため糞場MG-1 に設置したセンサーカメラで約3 ヶ月ぶりにタヌキが撮影され,排糞が確認された(写真C はその翌日に撮影された画像,写真D はその時の糞)。センサーカメラの撮影画像で同年8 月の個体(図版2)と比較すると,夏毛と冬毛という点で異なるものの一回り近く大きな個体であることが分かる(写真C)。訪問したタヌキは1 分30 秒以上ため糞場の臭いを嗅いだ後に糞をしたことが撮影動画で確認できた。その日以降ため糞場の利用が始まり,しばらくの間は一晩に3 回の利用が続いた(写真D)。目撃情報やセンサーカメラで撮影された画像から判断すると,ため糞場の利用個体はいずれも同一個体で,箱罠に入った個体と思われる。センサーカメラの記録と翌朝の糞の観察から,一晩にされた3 個の糞の形状の違いがみつかった。  3 回の利用時には,いずれも1 回目の糞は棒状の硬いもの,2 回目の糞は形があるものの小ぶりのもの,3 回目の糞は形がなく液体状のどろっとしたものである傾向がみられた(写真D)。このように回数毎,糞の量は少なく質感も軟らかいものになった。また日に日に,ため糞場での臭い嗅ぎ行動の時間が短くなった。今後,ため糞場での行動も観察していきたい。   ↑ 写真C.3 ヶ月ぶりにため糞場MG-1 に現われた排糞中のタヌキ   ↑ 写真D.ため糞(センサーカメラの記録から1 晩にされた3 回分の糞と分かる)  
2019.10.23
一木喜徳郎と武蔵学園
はじめに  旧制武蔵高等学校の初代校長として一木(いっき)喜徳郎という人物がいた。一木は、枢密顧問官のまま1921(大正10)年12月27日校長に就任、1925年3月30日宮内大臣に任命されると辞意を表明したものの、それが認められたのは1926(大正15)年3月であった。枢密顧問官とは、憲法をはじめ皇室・外交・教育・官制などの制度変更のうち、特に重要な事項に関し天皇からの諮詢(質問)に対して奉答(回答)する者たちのことである。周知のように、1889年に発布された大日本帝国憲法の下では議会に予算審議権や立法権などを与えたが、天皇にも統帥(軍隊指揮)、条約締結、官制制定、人事、命令(勅令)発布など天皇大権と呼ばれる広範な権能を付与した。しかし、それでは天皇が恣意的に大権を行使して混乱を招く可能性があるので、上記のような分野に関しては枢密顧問官たちで構成される枢密院がチェックすることになったのである。彼らは概ね週一回御前会議を開いて審議をしたが、戦前期では枢密院の奉答に天皇が拒絶することはなかった。また、宮内大臣は内閣から独立して皇室の庶務を取り扱う宮内省の長官であるが、実際には天皇の国務上の決定や、皇室・華族にまつわるさまざまなトラブルにも関わることが多かった。つまり、この頃の一木は、天皇という元首の側に仕え大日本帝国を支えていたのである。  したがって、多忙な一木校長が武蔵学園のために多くの時間を費やすことは困難であり、学校運営は山本良吉教頭が担ったが、それでも一木が武蔵学園に与えた影響は大きく、特に7年制の採用、建学の三理想の制定は彼の意見に依る部分が多かった。そこで、本稿では第一に一木という人物を紹介し、第二にその人格がどのように武蔵学園の形成に関わったのかをみていきたい。 1 天皇機関説論者  一木は1867(慶応3)年4月4日、現在は静岡県掛川の大庄屋の家に、父岡田良一郎の次男として生まれた。良一郎は幕末の有名な農政家二宮尊徳の弟子で、尊徳が提唱した報徳思想を全国に普及すべく1911(明治44)年掛川に大日本報徳社を設立すると、しだいに日本各地の報徳社のセンター的存在となっていった。報徳思想は、簡単にいえば勤労・勤倹・勤勉しながら、私欲を去り相互に助け合って生きていくことを説いたもので、明治の時代になると内務省がこれを採用し、大々的に普及を図った(一木自身も内務官僚や大臣としてこれに深く関わった)。全国の小学校に二宮金次郎像が建設されていくのもこの影響である。また、良一郎の長男には岡田良平という人物がいた。良平は文部官僚から文部次官、京都帝国大学総長を経て、1916年には寺内正毅内閣の文部大臣に就任した。このように、岡田家と内務省・文部省との間には密接な関係があった。  さて喜徳郎であるが、兄良平の後を追って彼も上京し帝国大学に入学した。卒業後の経歴は別表を参考にしていただきたいが、まず武蔵高等学校校長就任までのキャリアをみると、第一に注目されるのが帝国大学教授27歳、貴族院議員33歳、法制局長官35歳、文部大臣45歳と、昇進が非常に早いことである。自費でドイツに留学しそこで得た法学知識を発揮して、彼は瞬く間に官界・学界のトップに昇り詰めていった。この背景には、いまだ近代的制度が十分に整っていない段階のため、最新知識を持った若い人材がいきなり抜擢されたということもあろうが、一木はその期待に応えることができる人材だったのである。   第二は、彼が官界と学界の両分野で活躍したという点である。まず、学界分野での活動をみると、ここで重要なことは彼がいわゆる天皇機関説(国家法人説)を提唱したことである。同説の特徴は、ア)国家は法人であり主権は国家に属する、イ)統治権を行使する国家の機関には内閣・官僚・軍部・議会・裁判所などがあるが、君主もその一つである、ウ)ただし君主は国家機関の中でも最高位にあり絶対である、というものであるが、これは、当時帝国大学で憲法学を担当していた穂積八束の天皇主権説(神聖なる天皇は国家そのものであり、主権は天皇個人に帰属する)と対立するものであった。のちに天皇機関説論者として有名になる美濃部達吉は、一木の直系の弟子にあたる。美濃部が1935年頃に天皇機関説排撃運動で糾弾されたことは有名であるが、やはり一木もその時に非難され、1936年には枢密院議長の職を追われることになった。この点は後述する。  官界分野で特徴的なことは、まず山県・桂内閣時に重要なポストに就いたことが目を惹こう。これは、一木が山県有朋や桂太郎に連なるグループ(山県閥)に属していたことを示している。明治期においては、議会勢力の台頭を嫌う軍部や官僚政治家が山県閥を形成し政党と対峙していたが、このような中で一木は山県の法律顧問の役割を果たしていたのであった。このことは、一木の天皇主権説が山県らにも受け入れられるものであったことを意味している。つまり、一木にしても山県にしても、天皇は最高絶対ではあるが、決して恣意的に権力を乱用してよいのではなく、あくまでも他の国家機関との協調や助け(輔弼)を得て行動しなければならない存在だったのである(1)。山県のような勤王家は天皇主権説論者と思われがちであるが、じつは官僚や軍部にとっても天皇機関説の方が自分たちに都合がよい訳であり、だからこそ一木の天皇機関説は当時の支配者層の中で広く認められるものとなっていった。  第三に、第二次大隈重信内閣で文相・内相となったように、彼は決して山県のような反政党主義者ではなかった。大正期では、一木学説を勉強して官僚となった人物たちが官僚組織のトップの椅子を占めるようになっていたが、彼らの一部はさらに政治家を志して政党に接近するようになった。特に、加藤高明を中心とした憲政会(大隈内閣の与党が1916年に結成した政党)の幹部にはそのような経歴の者が多かったが、一木は彼らとも近く、一般には憲政会系官僚政治家とみなされた。ただし、だからといって彼は政党主義者でもなかった。この点については、同じ天皇機関説でも一木と美濃部の学説を比較してみれば明らかである。前述のア)~ウ)は同じであるが、美濃部学説ではさらに、天皇が大権を行使する際は国務大臣の輔弼を受けなければならないが、国務大臣には議会の信任が必要である、という点も付け加えられた。これに従えば、議会は閣僚のポスト、さらには天皇の国務行為をも左右するほど重要な位置に立つことになり、それは政党内閣制の理論的根拠となるものであった。  以上のことから、枢密顧問官や宮内大臣のように天皇の側でその大権行使を補佐する人物としては、官僚にも軍部にも政党にも偏しない一木ほど適任な者はいなかったであろう。こうして、彼は枢密顧問官となり宮内大臣となったのである。  つぎに、武蔵高等学校校長を辞任したあとの一木の動向をみていこう。1921年11月25日、20歳に達した裕仁皇太子は摂政に就任し、病弱であった父大正天皇に替わって国務を代行するようになった。当時の宮内大臣は大久保利通の次男牧野伸顕であったが、1925年に老齢の内大臣平田東助が病気のため引退すると、牧野が同年3月30日に内大臣に就任、同日一木が宮内大臣に任命された。内大臣の職務内容はじつは曖昧で、強いて言えば宮中の顧問的な性格が強かったが、それに対し宮内大臣は実際の庶務全般に関わる実務的なポストであった。こうして、一木は大正末・昭和初期の8年間を、宮内大臣として若き皇太子・天皇に近侍して支え、同時に宮中改革を図るという重責を担うことになった。  ここで宮中改革について一言触れておこう。第一次世界大戦で敗北したドイツは帝政から共和制に移行した。また、民族自決によって欧州では共和国が数多く誕生した。こうして、君主制から共和制へという流れが世界的傾向となったが、これに危機感を抱いたのが君主国であった。当時の日本の皇室は前時代からの伝統的な慣習を多く引き継いでおり、それらを国民が納得できる形に改革することが一木宮内大臣や牧野内大臣の重要任務となったのである。法学者でもある一木は、皇室制度を審議する帝室制度審議会に深く関わって法典の整備に尽力した。また、内務官僚を中心に外部の人材を積極的に登用し、自らは平日官邸に宿泊して女官問題・冗費節減・能率増進・内親王養育などの面で改革に努め、1928年の御大典も無事にやり遂げた。このほか、この時期は皇族・華族の家族内で思想(子弟が共産主義者となる)や恋愛に絡むトラブルが日常的に発生しており、これらを表面化させずに処理するのも彼の役割であった。  しかし、それ以上に一木を悩ましたのが政治問題であった。昭和時代に入ると周知のように、張作霖爆殺事件、ロンドン海軍軍縮条約、満州事変、五・一五事件など天皇と政治の関わり方が争点化した。これらに対し、一木は天皇と同じく立憲主義、国際協調路線に立ちながらも、ついつい政治に口を出してしまう若き天皇を、元老西園寺公望、内大臣牧野とともに諫めるようと苦労を重ねていた。彼らは、天皇が外部勢力によって政治的に利用されることを極度に恐れていたのである。  こうした中、1932年8月頃に元宮内大臣田中光顕が高松宮妃に関する件を理由に、一木に辞任を迫る事件が起きた(2)。これも一つの要因となって、翌年一木は宮内大臣を辞職する。しかし、彼に対する攻撃はこれに止まらず、1935年には天皇機関説排撃運動が起こった。排撃側が表面上の標的にしたのは美濃部達吉であったが、同じ機関説論者ということで当時枢密院議長であった一木も攻撃対象となり、むしろこちらが本命であったともいわれる。この時は、昭和天皇が本庄繁侍従武官長に「天皇機関説を明確な理由なく悪いとする時には必ず一木等にまで波及する嫌いがある故、陸軍等において声明をなす場合には、余程研究した上で注意した用語によるべき」(3)と注意を与えたこともあり事なきを得た。また、1936年に二・二六事件が発生し内大臣斎藤実が亡くなると、天皇は一木に「なるべく側近に侍す」(4)るよう要請し、実際に一木はこの日から3月8日まで皇居内に宿泊し、事実上の内大臣の役割を果たした(3月6日には宮内大臣任命の必要から1日だけ内大臣を就いている)。このように、天皇の信頼は厚いものであった。しかし前述のように、翌年には枢密院議長を辞職する状況に追い込まれてしまった。  以上のように、昭和期の一木は西園寺、牧野、あるいは鈴木貫太郎らといわゆる「宮中グループ」を形成し、一木的な天皇機関説に基づく天皇制を守ろうとしたが、しだいに後退せざるを得なかった。こうして、機関説排撃運動は美濃部学説ばかりでなく、山県有朋や昭和天皇も支持した一木学説をも否定し去ったのである。 2 七年制高等学校制度の採用  高等学校の七年制度は臨時教育会で私が極力主張したものであるから校長を引受けて此任に当たることは云はゞ私の理想を実現する訳である。担任者として最も苦心することは良教師を選択することだが、私の実験によると我国民の教育的欠陥は外国語に不鍛錬なことである。最近国際連盟規約の批准事務を掌つた私は、特にそれを痛感して現在の教育制度では到底「世界の日本人」を作ることは難しいと考へた。故に新設の私立高等学校の特色を其処に求めて力を尽したい(『朝日新聞』1921年5月11日) 校長就任を前にして、一木喜徳郎は7年制高等学校を「理想」と表現している。そこで、ここではまず7年制という制度と一木についてみていきたい。  そもそも、一木が武蔵学園と関係するようになったのは、1919(大正8)年9月であった。学園創設の準備が大詰めを迎え、根津嘉一郎と本間則忠は指導を仰ぐべく平田東助を訪問した。これ対し、平田は承諾を与えるとともに岡田良平、一木、山川健次郎、北条時敬にも相談するよう勧めた。平田は山県閥の領袖で農商務相、内相を歴任し、後述の臨時教育会議では総裁を務めるほどの政界・教育界の大物であり、一木にとっては大先輩であった。岡田は前述の通り一木の実兄で、前年までは文相を務めていた。山川健次郎は当時東京帝国大学総長の職にあり、北条時敬は元東北帝国大学総長で、この時は学習院長であった。すなわち、日本教育界の大立者ばかりであった。そして、同年10月3日関係者が集まって第1回協議会が開催されたが、ここではさまざまな議論が出された。詳しくはこの「武蔵学園史紀伝」中の拙稿「武蔵学園の創設と本間則忠の「十一年制寄宿舎」構想」(https://100nenshi.musashi.jp/Kiden/Index/a9efca9f-85e4-42ee-b420-e3c0e9e612bb)を参照していただきたいが、本間は5年制の中等学校創設と11年間の寄宿舎建設を、山川は修業年限3年の実業補習学校(小学校卒業者の職業訓練)の創設を、そして、一木は前述の引用史料にあるように、7年制高等学校創設を主張した(この点は平田や岡田も同じであったと思われる)。そのため、この会合では結論がでなかったが、この会合後から根津の意向は7年制案に傾いたようで、1920年2月29日に開催された第2回協議会では、7年制高等学校とすること、陣容は総裁平田、顧問山川・岡田・北条、理事長根津、理事本間・正田貞一郎・宮島清次郎、校長・一木とすること、の2点が決定した。こうして、一木喜徳郎校長が誕生することになった。以上の経緯からも、一木が7年制案を強く主張し、そして自らその実行役を買って出たことが分かろう。  では、なぜ彼はここまで7年制に拘ったのであろうか。その前に、まず学校制度について確認しておきたい。戦前の日本は複線型学校体系をとっていた。この制度は同じ中等教育機関であっても、進学や職業訓練など初めから異なる進路を想定しそれにふさわしい教育を施そうとするもので、このうち進学する場合は中等学校(5年)、高等学校(3年)、帝国大学(3年)というコースを設置し、帝国大学卒業生には国家を担う人材となることが期待された。このような体系はドイツをモデルにしたものであった。日本の場合、明治10年代に憲法の範をドイツにとって以来、特に官僚・陸軍の間ではドイツ志向が強くなったが、教育分野も同じで、平田・岡田・一木を含む内務・文部官僚はこのようなドイツモデルを採用したのである。  しかし、この制度にまず異議を唱えたのが経済界であった。経済界は卒業するまで11年間もかかるこの制度は長すぎるとして年限短縮を主張した。これに対し、官僚や帝国大学側は年限短縮によるレベルの低下を危惧して消極的であったが、ここで登場したのが高等中学校案であった。1910年小松原英太郎文相が中学科(4年)および高等中学科(3年)を置く高等中学校案を提案した。この案は、従来の中等学校と高等学校を有機的に結び付け同時に修業年限を1年間短縮しようというもので、7年制高等学校案と近いものであった。ここで想起されたいのは、7年制案はドイツのギムナジウムを模したものであるという大坪秀二の指摘である。確かにドイツのギムナジウムは、日本でいえば小学校5・6年生の2年間と中等教育7年間(現在では6年間)を合わせた合計9年間を修業年限としており、日本の7年制案はギムナジウムの中等教育7年間に相当することになる。したがって、7年制案はじつはますますドイツに近づいたものでもあり、一木にとっては前述の引用史料の通り、理想的なものだったのである。  しかし、ことはそう簡単に運ばなかった。明治後期になると初等教育就学率は100%近くに達し、さらに学歴というものが社会で認知されるようになったため、国民の間からは進学を希望する者が増加し、受験競争も厳しいものとなっていた。また、私立学校も数多く創設され広く認知されていたが、法制上の位置づけが不明確で国立・公立学校との関係が問題となっていた。そのため良案が見つからないまま時間が過ぎたが、この状況に最終的な断を下したのが1917年設置の臨時教育会議であった。同会議は岡田良平文相・平田東助総裁の下で次々と重要な決定を下した(一木・山川も委員で参加)。このうち、中等学校・高等学校に関しては、ア) 尋常科4年・高等科3年の7年制高等学校を基本とするが、高等科3年だけを単独に設けることができる、イ) 官立・公立・私立の3つを認める、とされた。この案によって、ギムナジウムを志向する者たちからも、進学を希望する国民からも、そして地位向上を目指す私立学校からも、最大公約数的な了解を得ることに成功した。そして次には、このように選択肢が増えた中で、どの形態が適当なのかを実際に示す段階に入ったのである。一木が校長に就任したのはまさしくこのような時期であった(実際には、例外とされた高等科3年だけを設置する学校や、公立・私立学校は急増したが、7年制高等学校数は伸び悩んだ)。   3 「世界の日本人」  最後に、建学の三理想と一木校長について触れておく。これに関しては、この「武蔵学園史紀伝」中の大坪秀二「三理想の成立過程を追う」(https://100nenshi.musashi.jp/Kiden/Index/d86f70be-57ca-464c-acfc-fb1cd7581e79)にその詳細が語られているので、そちらを参照していただきたい。ところで、その中でも紹介されているが、『根津翁伝』には一木の発言として次のようにある。 〔牧野伸顕がベルサイユ会議の場で外国語ができる人材が少なくて苦労したと言っていたが、〕私もそれは尤もだと思い、そういう意味の学校を拵えたら、宜かろうと思って居った処へ、根津さんの話があって、七年制の高等学校を拵えることになったので、七年間一貫してやれば、語学も余程他の学校より巧く行くわけだし、この七年間にみっちり世界的に役に立つ人間を拵えたら宜かろうと考えた。それが即ち武蔵高等学校の三項目の一として世界に雄飛する人物を作ることとして現われたわけです。〔中略〕東西文化の融合と云うことは、大隈さんが頻りに言われ、これは私も良い意見だと思いました。私自身東西文化の融合を日本がやらなければいかぬと云うことを始終言って居りました。由来日本は、昔から支那の学問を入れて居るし、東西文化を融合するのは、日本でなければいかぬと云うことを考えて居った。(5)    もちろん、これは三理想のうちの「1、東西文化融合のわが民族理想を遂行し得べき人物」「2、世界に雄飛するにたえる人物」と関連した発言であるが、ここではこの発言を手掛かりに、なぜ彼が「世界の日本人」ということに拘ったのかという点を、特に当時の時代状況との関連から簡単に補足してみたい。  まず「世界雄飛」について。牧野伸顕は前出の通り、内大臣として若き昭和天皇を西園寺公望元老、一木宮内大臣とともに支えた人物であるが、彼は第一次世界大戦終了後に開催された1919年のベルサイユ会議に西園寺とともに全権として参加した。当時の日本は世界の「五大国」の一つに挙げられ、国際連盟では常任理事国にもなったように、明治維新以来50年にして世界の一流列強として認められたのである。ところがこの会議では、戦争で大きな被害を受けた欧米各国が、帝国主義を排し新たな平和的世界秩序を構築しようと熱心に議論を重ねたのに対し、日本政府はこうした議論には加わらず大勢に順応することを方針としたため、他国からは「サイレントパートナー」と揶揄されてしまった。日本政府の関心はあくまでも東アジアの権益に集中しており、それは欧米各国からみれば排すべき帝国主義の残滓だったのである。勿論、これをすべて日本政府の責任に帰すことも酷であろう。それまで東洋の小国でありいわば子供であった日本が、自身でも気づかないうちに急速に成長して大人の仲間入りを果たし、周囲からは大人らしく振舞うよう要求されたのと同じだったのである。  しかし、このような海外からの冷評は、むしろ日本国内で大きな問題となった。特に、ベルサイユ会議を目の当たりにした若きジャーナリストたちは日本の全権を無能と罵倒し、さらに今後五大国として国際社会で活躍するには、まず国内を改造する必要があると主張したのである(6)。おそらく、彼らのこのような思いは批判された側の牧野も共有していたと思われ、だからこそ親しい一木に率直な感想を述べたものと思われる。そして、一木もそれを受け止め、教育という場で国際的に活躍できる人材を育成しようと考えたのであろう。ただ、一言付言しておけば、一木のいう「世界の日本人」とは単に外国語が堪能というだけでなく、「幼少の時より人格養成、品性陶冶と共に外国語に力を注いだならば、世界の舞台に活動すべき日本人を輩出せしむることを得」よう(7)と述べているように、7年制高等学校による「人格養成、品性陶冶」も重要であった。  最後に、「東西文化融合」について(「東西文化」となっているが、大隈がしばしば語っていたのは「東西文明」であった。もちろん文化と文明は異なるが、以降では大隈に従って「東西文明」と理解しておく)。幕末に佐久間象山が東洋の道徳、西洋の技術を提唱したことは有名であるが、このような東西文明の融合あるいは調和という発想は、近代日本を通して広くみられるものである。というよりも、前述の一木の発言にもあるように、国是といえるかもしれない。日本の位置を世界地図でみれば、中国文明の東端に存在すると同時に、アジア市場を開拓しようとしたペリーがまず来航したのが日本であったように、アメリカ側からみればアジアの入口であった。そのような日本が世界の中で自らの独自性を主張しようとすれば、東西文明の接点であることを強調するのも自然であろう。すなわち、支配者西洋と被支配者東洋が対峙する状況の中で、東洋に対しては日本が仲介して西洋文明の普及とそれによる発展を手助けし、西洋に対しては東洋の代弁者として東洋特にその精神文化の理解を得ることで東西相互の理解が進めば、世界平和も実現できる、というのが東西文明融合論のおおよそ共通した主旨であった(8)。  大正時代において、このような東西文明融合論を唱えて有名であったのが大隈重信であった。大隈は1908年に西洋思想の名著を日本に紹介するために大日本文明協会を設立し、実際に多くの訳書を刊行した。大隈は、東西両文明の差異が発生した理由を明らかにしていけば、両者は調和できるはずであると主張していた。一木は第二次大隈内閣の文相・内相であったので、当然大隈の所説を十分に理解していたであろう。  以上のように、武蔵学園が創設された頃の日本は、ちょうど東洋の一国から「五大国」へと変身を遂げる最中であった。そして、国際社会もこの頃を境にして数多くの国際会議が開催され多国間条約が締結されていくようになり、急速に接近していった。こうした中で、根津理事長、一木校長は「東西文化融合」という日本の立場に立って、国際社会の中で「雄飛」できる人材の育成を目指したのである。一木の意図するところを現代風に言い換えれば、グローバル化し且つ多様な国際社会の中で、日本人という主体性を持ちつつ世界平和を目指して国際舞台で活躍できる人材の育成ということになろうか。このように書けば、むしろ現代の日本人にとってはかなり受け入れやすいものとなろうが、前述の臨時教育会議で決定した大学令が「国家ニ須要ナル学術」の教授と「国家思想ノ涵養」を、同じく高等学校令が「国民道徳ノ充実」を教育の目的にしたことを考えれば、当時の日本においてこの建学の三理想はかなり異色なものであったように思われる。    注: (1)一木の天皇機関説については、家永三郎『日本近代憲法思想史研究』(岩波書店、1967)参照。 (2)原田熊雄『西園寺公と政局』第2巻(岩波書店、1950)、345頁、『木戸幸一日記』上巻(東京大学出版会、1966)、185頁。 (3)『昭和天皇実録』第6巻(東京書籍、2017)、747~748頁。 (4)『昭和天皇実録』第7巻(東京書籍、2017)、33頁。 (5)根津翁伝記編纂会編刊『根津翁伝』(1961)、246~247頁。 (6)伊藤隆『大正期「革新」派の成立』(塙書房、1978)参照。 (7)一木喜徳郎「七年制高等学校の必要なる趣旨」(『武蔵学園史年報』創刊号、1995)。 (8)一木にとっての「東洋の道徳」とは、天皇を中心に据えた王道主義であった。一つの階級や勢力が権力を独占する政治体制はいずれ崩壊するしかなく、それに対し天皇とそれを補佐する者たちが道徳によって自らを律することで国民全体の利益を図り、国民の文化の発達を保護するという王道主義がより好ましい、と一木は考えていた(一木喜徳郎「世界の大勢と我が帝国、」『ぬき穂』第29号、1920年5月)。  
2018.12.19
「えごた」はたまた「えこだ」
江古田今昔混同物語
 タイトルに掲載した空中写真は、昭和30年代(1955〜64)に撮影された武蔵学園周辺だ。  まだ高等学校中学校の校舎は時計塔のある現在の3号館で、大学のメイン教室はその左手の旧1号館だった(高中新校舎は1968年竣工)。正門は現在の位置よりやや西にあり、ややわかりにくいが守衛所も今は郵便室になっている三角屋根だ(正門が現在地に移動し根津化学研究所まで直線的に欅並木を見通せるようになったのは2012年の暮)。     学園の北側(画面手前)には、すでに住宅が密集しているが、南には田畑が大きく広がっている。横に掲載した写真の最上段は、同じく昭和30年年代の江古田駅周辺(江古田銀座)だが、店舗は変わっても道路の幅や構成が今とほとんど変化していないことに驚く。江戸時代は農村(新田)であった江古田だが、現在は武蔵学園、日本大学芸術学部、武蔵野音楽大学という三大学が集まる学生の街として知られる。武蔵百年の歴史を考えるとき、学生・生徒たちを育んだ江古田の街について触れないわけにはいかない。当サイトでも何回かに分けて江古田の街についてとりあげたい。今回はその初回、町名についての話。 ■江古田の駅名、町名パラドックスをさぐる  「武蔵学園はどこにありますか」という問いに練馬区豊玉上といっても伝わりにくいので、「練馬の江古田です」「西武池袋線の江古田駅が最寄り」と返すことが多い。そして「えごた? えこだ? どっち」という質問は、もう武蔵の関係者なら何回も受けたことだろう。  ご存じのように、西武池袋線の駅名は「えこだ」だ。しかし南へ下って大江戸線の新江古田は「しんえごた」である。ちなみに江古田銀座のアーチから新江古田駅を経由して目白通りを横切り新青梅街道まで伸びる「江古田通り」(通称「チャンチキ通り」)は「えごたどおり」だ。  さらにこの新青梅街道にかかる妙正寺川の「江古田大橋」はなんと「えこたおおはし」であり、その下流の「江古田橋」は「えごたばし」なのでややこしさが倍増する。  「江古田」の名前が記録に現れるのは室町時代後期で、地域は現在の中野区江古田付近、目白通りの南側一帯で、太田道灌が豊島一族と戦った古戦場「江古田原」として『太田道灌状』に記されいる。ただし読みは判然としていない。その後も「えこた」「えごた」「えこだ」が混在して使用されているが、中野区江古田の地元では「えごた」が人口に膾炙していたようだ。そして、現在の中野区江古田(えごた)の町名と範囲は1963年の住居表示法で定まった。  一方、今の練馬には江古田という町名はない。1960年、横の写真の頃までは、現在の旭丘と栄町が江古田町だった。これは、この一帯が中野の江古田村の新田として開発された地域であることに由来する。戦後、中野区江古田と混同されることが多いことから、この年に旭町と栄町に再編・改名された(旭町の名は住民投票によって決定した)。       しかし江古田駅の名はそのまま残っており、駅名は「えこだ」である。ご承知のように江古田駅は大正11(1922)年、西武線の前身である武蔵野鉄道の「武蔵高等学校用仮停停留所」として開設され(根津嘉一郎初代理事長は同鉄道の大株主だった)、ホームは現在よりも武蔵に近かった。その翌年、今の位置に移設されて武蔵野鉄道「江古田駅」として開業。戦後、昭和21(1946)年に西武鉄道「江古田駅」となり駅名の読みが「えこだ」になったが、その読み変更の経緯は不明である。秋葉原駅が「あきばはら」が発音のしやすい「あきはばら」になったと同じという説もあるが、証明するものはない。なお、最下段の写真は昭和10(1935)年ごろの江古田駅で、このときも「えごた」である。  中段の地図は大正15(1926)年6月30日発行の大日本帝国陸地測量部によるものだ(武蔵学園記念室所蔵)。これには駅名は「えごた」と記されている。少なくともこの時点では「えごた駅」だった。また、右下には江古田新田の表示があり、中野の江古田より後に開墾されたことがわかる。千川通りの北側に沿う黒い細い線は千川上水で、まだ暗渠ではなく上水として機能していた。残念ながら中新井分水である濯川は描かれていないが、当時は川幅が30㎝程度だったためと推察される。なお、2017年夏にNHK衛星放送の番組で江古田をとりあげたとき、番組担当者と学園記念室で西武鉄道江古田駅に問い合わせたが、この駅名の読みについての資料は得られなかった。   ■江古田の語源は、エゴの木?  結局のところ、江古田の読みについては、地名にはさまざな「音の揺れ」がおこると理解するしかない。なお、江古田は横浜市にも江古田と荏子田があり、これはどちらも「えこだ」だ。  では江古田の語源は何かと追求したくなるが、現時点では確定できる説はない。一時期説得力があるとされたエゴマ油のエゴの木があった田という説も、証明できる、あるいは説得力の高い資料・記録はない。また。ひらがな表記すればエゴの木は「ゑご」であるが、「ゑこだ」あるいは「ゑごた」という記録がない。江古田の「え」は旧仮名でも「ゑ」ではない。  ほかには「窪地」「淵」などを意味する「えご」からだという地形説があるが、このことばは関東ではあまり使用されていないという反論もある。またアイヌ語語源説も証拠がない。  江古田の田は、おそらく水田に由来すると思われ、「えご」もしくは「えこ」の解明が待たれる。そして「た」か「だ」かという問題は日本語の特徴である「連濁」(サクラ→ヤマザクラ、クルマ、ニグルマのように接頭語により濁音化する例外が少ない現象)との関係性ともあいまって興味は尽きないが、武蔵学園記念室では今後も江古田の歴史については調査・研究を進めていく。次回は、江古田の街と店と学生について触れたい。                                                    (武蔵学園記念室・調査研究員 三澤正男) ※参考文献 黒田基樹『図説 太田道灌』(戎光祥出版 2009年) 武蔵学園70年史委員会編『武蔵七十年史』(1993年)  
2018.12.17
『相浦忠雄遺稿集』を読む―武蔵卒業生戦死者の記録
↑ 相浦忠雄肖像:武蔵高等学校在学中   ↑ 相浦忠雄肖像:海軍主計大尉時代   はじめに 『武蔵七十年史』によれば、旧制武蔵高等学校の第二次世界大戦の戦没者は、教員(助手)3名、配属将校2名、卒業生52名を数えている。この数は、正式に戦死公報の来た者であるとのことなので、戦病死、戦災死、収容所内での死亡、徴用中の事故死等を加えた広義の戦没者はもう少し多いかも知れない。 これらの人々が、武蔵に居る頃、そして戦場に出て何を考え、どのように死んでいったかは、今となっては殆ど知るよしもない。が、その中で、遺稿集が編纂され、生前の考えが比較的よく分かり、さらに戦死のありさまについても十分の情報がある一人の卒業生をここに紹介することにしたい。   1. 相浦忠雄の略歴 相浦忠雄(11期文)は、1919(大正8)年11月23日、福岡県田川郡上野村の赤池炭鉱社宅に生まれた。赤池炭鉱は明治鉱業株式会社の経営で、相浦の父鼎五はその社員であったようだ。 忠雄の命名は、父の友人矢内原忠雄にあやかったものとされている。 1926(大正15)年、戸畑私立明治小学校入学、翌年父の転勤に伴い上野村市場小学校に転校。 1932(昭和7)年、市場小学校を卒業、上京して武蔵高等学校尋常科に入学。 1936(昭和11)年、武蔵高等学校高等科文科甲類に進む。 1937(昭和12)年、級友宮澤喜一と共に外遊生に選ばれる。旅行先は当初中国内地の予定であったが、日華事変勃発のため、朝鮮、満州となった。(現在武蔵学園記念室には、その時のレポートが残されている) 1939(昭和14)年、東京帝国大学法学部法律学科(英法)に入学。同年夏、日米学生会議日本代表団の一員として渡米。 1941(昭和16)年、外交官及び行政官高等文官試験に合格。同年12月25日、太平洋戦争勃発のため東京帝国大学を繰り上げ卒業。 1942(昭和17)年1月6日、商工省事務官に任官。燃料局に配属。同年1月20日、海軍短期現役主計科士官を志願し採用。海軍経理学校第8期補修科学生として入校。海軍主計中尉に任官。 同年5月16日、カトリックの洗礼を受ける。同年5月20日、海軍経理学校を卒業し海軍省人事局第1課に配属。 1943(昭和18)年2月、海軍経理学校補修科庶務主任、ついで分隊士。 1944(昭和19)年3月、航空母艦雲鷹主計長。雲鷹は同年8月7日、船団を護衛しシンガポールに向け出撃。同年9月17日、船団護衛の帰途南支那海にて、米潜水艦に雷撃され、沈没。 雲鷹沈没に際し、相浦は艦橋にあって配置についたまま生還しなかった。 享年24歳10ヶ月であった(*1)。   2. 相浦忠雄遺稿集 『相浦忠雄遺稿集』は、1950(昭和25)年9月、彼の死を惜しむ武蔵の同窓後輩、海軍経理学校(主計科短期現役士官養成)の同期後輩、親族らの手によって編集刊行された。 冒頭「編者の言葉」では、「相浦忠雄の戦死が人類の文化にとってどれほどの損失であったかは、遂に知ることができない。唯ここに集められた彼の遺稿はその損失が並々のものでなかったことを示している。」と述べている。 編集委員は、赤沢璋一、小川政亮、大橋弘利、亀徳正之、相良一郎、早田和正、苫米地俊博、長橋尚、宮澤喜一、山下元利、吉国二郎、渡辺正雄の12名。この内宮澤(大蔵省、後に内閣総理大臣)、大橋(弁護士)、長橋(通商産業省)が武蔵同窓。赤沢(通商産業省)、山下(大蔵省、後に衆議院議員)、吉国(大蔵省、後に国税庁長官)らはおそらく海軍主計科短期現役士官の同期後輩、苫米地は義弟と推定される。遺稿集の題字は、相浦が日米学生会議で渡米した折の日本代表団長であり、戦後成蹊大学総長となった高柳賢三の手になるものである。 この時代の、日記、ノート、写真等の記録は、多く戦禍に遭って消失しており、相浦の場合も、武蔵の高等科1年から高校生時代に書きつないだノート一冊だけが遺され、遺稿集の母体となっている。幸い、このノートの余白には、相浦が雲鷹主計長に就任してから戦死までの約四ヶ月の日記が記されており、その意味でこのノートは、相浦の高校生時代と、主計長時代のそれぞれの時期の「肉声」を知る、よすがとなっている。このほかに、遺稿集にはもちろん、武蔵校内で刊行された諸雑誌への寄稿、日米学生会議の報告等、外部刊行物からの転載がいくつか収録されているが、中心はあくまでも前述のノートである。逆にこのノートがカヴァーしていない時期、たとえば海軍経理学校時代や雲鷹主計長就任以前の時期については、相浦の肉声は聞こえてこない。カトリックの入信についても、おそらく相浦はそれなりの信仰告白を記していたであろうが、記録は消失してしまっている。 本稿に於いては、『遺稿集』を読み解くことを作業の中心としつつ、相浦の生涯を意味づけるいくつかの重要なエピソードについては、相浦の肉声を直接に聞いた他者(土田国保、近藤道生ら)の証言をまじえながら、相浦が何を考え、どのように死んでいったかを見ていきたい。   3.  愛日寮生相浦忠雄 旧制武蔵高等学校には、尋常科生徒のための慎独寮、高等科生徒向けに愛日寮、双桂寮の二寮があった。これらの寮は、元々山本良吉校長が、他の高等学校の全寮制とその風俗を嫌忌していたこともあって、全生徒が入るものではなく、いわば一部寮制とも言うべきものであった。 相浦が高等科に進み、愛日寮生となったのは、おそらくは父親が明治鉱業に奉職して九州勤務が多かったことと関係があったのではないかと推測される。 愛日、双桂の二寮は、武蔵校内でライバル関係にあり、両寮対抗で弁論大会なども開かれていたようである。前者はともすれば儒教主義的東洋思想的寮風、後者はルネッサンス的西洋近代主義的な寮風と思われていた。 『遺稿集』では、両寮の対抗弁論大会において、相浦が愛日寮を代表して、双桂寮側の先輩竹田政民に反論する演説草稿が掲載されている。この内容を本稿に敷衍するには、あまりに難解かつテーマが広範であるのだが、一言でいえば、旧制高校生的な深い思索、思惟にこの頃の相浦が沈潜していたこと、さらに言えば、武蔵三理想の一である「東西文化の融合」を(相浦に限らず)当時の高校生が如何に重要な思索のテーマとしていたかがわかる。 大正期から昭和初期にあっても、この階級の人々の一般的な生活は、武士道あるいは儒教的な価値観をベースに営まれていたのであり、その一方で旧制高等学校生が日々学ぶ学問は、文系であれ理系であれ、ほとんど西洋の科学と思想の産物であったという事実が、この主題を、今日以上に彼ら旧制高校生にとって喫緊のものとしていた。21世紀の今日の我々があまり深くは考えない、東洋的な生活感覚と西洋的な知性、理性との整合は、この時代には、教養ある若者たちが乗り越えなければならない大きな課題であったといえる。武蔵高等学校の愛日、双桂二寮は、その寮風のわずかな差異で東西のいずれかに偏っていたのであり、今日から見れば「似たようなもの」であったかもしれない僅かな差異をめぐり、堂々の論争がなされていたと見ることもできる。   4. 武蔵高等学校外遊報告第十号 1937(昭和12)年7月、高等科2年の時、相浦忠雄と宮澤喜一は、武蔵高等学校第11回外遊生に選ばれ、中国視察の準備をしていたところ、折から盧溝橋事件が勃発し急きょ外遊先を満州に変更し出発することとなった。その外遊報告は、2597年度(*2)武蔵高等学校外遊報告という約50頁の小冊子として、山本良吉校長の前文を付して翌年刊行された。幸い、武蔵学園記念室にはその小冊子が現在も保存されている。 外遊報告は相浦と宮澤の共著であり、この報告のどの部分を相浦が執筆したかはわからない。が、いずれにしても、高校生のまとめた内容としては出色のレポートである。この中で日々の満洲訪問先での取材内容を記した部分(三理想の「自ら調べ」の部分)は、今日の武蔵高校生の国外研修報告と比較し、どちらも極めて優れているものと評価できる。むしろ現在の国外研修報告も、十分相浦、宮澤の域に達していると言うべきかもしれない。 だが、この報告の中で特徴的なものは、「二三の考察」という最後のまとめの部分であり、ここでは漢民族の民族性についての二人の考察が書かれている。「矛盾に富む」「自己本位」「金銭への執着」「面子」「没法子」「社交性」等々、当時多くの人が言い、今日でもよく言われる批判的な特性が考察された後、漢民族の「同化力」についてが、特筆されている。 その同化力があるゆえに、「支那は疲れた。早晩滅びる。」という人があるけれども私にはそうは思われない、との記述がある。この「私」は宮澤であったろうか、相浦であったろうか。 また、「二三の考察」の中では満州における日本農業移民についても、深い考察がなされていて、これの成功への危惧が控えめにではあるが表明されている。事実の報告、要約、構成もさることながら、こうしたまとめにおける洞察(三理想の「自ら考える」部分)の点において、二人の人物がいかに傑出していたかを見ることができる。   5. 日米学生会議 そして相浦の短い生涯の中で、再びの「海外雄飛」。 相浦忠雄は1939(昭和14)年東京帝国大学法学部法律学科(英法)に入学。同年夏、日米学生会議日本代表団の一員として渡米した。『遺稿集』には、帰国後学生たちが編纂し、日本評論社から刊行された「学生日米会談」寄稿した相浦の一文「支那事変の投げる影」が転載されている。 ここで述べられていることを要約すれば、当時の米国人が庶民の果てに至るまで、日本の中国侵略に対して、強い批判感情を持っていること。にもかかわらず、個々の米国人は個々の日本人に対して親切であり、国家レベルの批判感情を個人に及ぼさないこと。そして、米国人から生年、所属大学等を問われた後で、必ず「それでは間もなく貴方も戦争に行くのですね」と愛惜するように言われることなどである。 これらを読んでも、相浦がもし彼の戦争を生き延びて、日本再建の掌に当たることができたとしたら、米国人の良き友人として、この渡米の経験を活かすことができたであろうにとの思いを禁じ得ない。   6. これが全部焼け野原になる 1941(昭和16)年12月8日、東京帝国大学生近藤道生(武蔵12期文、後に大蔵省、国税庁長官、博報堂会長)は、本郷の下宿「幸運館」で同級生高柳忠夫から日米開戦と真珠湾攻撃の成功を聞いた。かねて、日米開戦に懐疑的であった近藤は、高柳に「困ったことになるかも知れないぞ」とだけ言い残して外へ出た。 ・・・・・ 歩いて十分ほどで東大図書館に着いた。そこには旧制武蔵高校で一年先輩だった相浦忠雄さんがいた。誘われるまま二人で図書館の屋上に上がると、眼下に広がる東京の家並みを前に相浦さんは「君、これが全部、焼け野原になるんだよ」と唐突に言う。 「そうでしょうか。日本の軍部もそれまでには手を打つでしょう」と、戸惑いながら相浦さんの横顔を覗き込んだ。相浦さんは迷いもなく「いやいや、必ずそうなる」と言って口元を引き結ぶ(*3)。 ・・・・・ 相浦の戦争の結末に関する予想は、その後の戦死直前のものも含めて、恐ろしい程透徹している。しかもそれは、直感的、宗教的な「予言」としてではなく、あくまで合理的な「判断」としての未来予測である。にもかかわらず相浦は「敗戦必至」の戦争を、自らの義務として引き受け、海軍主計科短期現役士官を志願し、その義務を果たすことの中で24歳の前途ある身に死を課した。 その心理の過程は、近藤が後に言う「開戦となったからには愛する者のために命を捧げよう」という程単純ではなかったかも知れないが、相浦の中に内在する「愛と献身」という心理的なモチーフが、主計科志願の動機の根幹にあったことは想像に難くない。   7. 海軍主計科短期現役士官 当時の日本は、義務兵役制であり、帝国大学出身者といえども徴兵は猶予されていただけで、卒業すれば兵役に就かなければならなかった。検査に合格し徴兵されれば、通常は陸軍二等兵からそのキャリアを始めなければならない。そうした事情の中で、海軍主計科短期現役制度は、医学部出身者における軍医の場合などと同じく、大学の文科卒業生を採用と同時に海軍主計中尉に任官させ、経理学校での数ヶ月の教育を経てすぐに艦隊や省部に配属、勤務させるというもので、兵役に就く条件としては格別に優遇され、またそれだけに志願者も多かった。(倍率約25倍という) 相浦は、東京帝国大学法学部卒商工省に採用された当時の超エリートであり、兵役に就くとすれば、この制度に志願するに最もふさわしい人材の一人であった。 因みに、この制度に志願し採用された者の中には、後の内閣総理大臣中曽根康弘や、民社党委員長永末栄一をはじめ、戦後政界、官界、経済界などで重きを成した者が非常に多い。 また、相浦より少し前1941(昭和16)年1月、三菱銀行員から主計科短期現役士官に採用され、特設巡洋艦八海山丸の主計長として戦死した小泉信吉は、父である慶應義塾塾長小泉信三の著作「海軍主計大尉小泉信吉」の主人公として名高い。 ただし、これらのエリートの中でさらに優秀な者には、僅かだが「兵役に就かない」という選択も可能であった。相浦と武藏同期の宮澤喜一は、同時期に大蔵省事務官となり、同省から軍に対して「余人を以て代えがたい」と通知されることで兵役を免除されている。相浦にもその道がなかったとは言えないかも知れないが、同世代の大半の若者が兵役に就く中でそれを回避することは、たとえ「敗戦必至」の見通しを持っていたとしても、おそらく相浦忠雄の選ぶところではなかったのであろう。   8. カトリックの洗礼を受ける 相浦は、1942(昭和17)年5月16日カトリックの洗礼を受けた。この時期相浦はすでに海軍主計中尉に任官しており、受洗の日は、海軍経理学校を卒業し現場に配属される4日前であった。 3.で述べた如く相浦は武藏高校生の頃から、宗教に強く関心を持ち、今日から見れば、いかにも旧制高校生らしい観念論的な思惟としか思えないような思索に、深く沈潜した求道者であった。 思考の出発点は、良心の根拠。限りなく小さい存在である一個人が、ともすれば道から外れそうになる時、行く手を照らしてくれる「大きな者」の存在であったろうか。相浦の宗教的関心の対象は、次第に仏教からキリスト教、「悟り」から「愛と献身」へと移行していく。おそらくは相浦の中には、すでに予め心的なモチーフとして「良き行い」「他者への愛と献身」があり、それが思考の方向を次第にキリスト教の方向に向けていったのではないかと、想像される。また彼の敬愛する長姉相浦清子の存在も、直接に彼のカトリック入信に影響があったのではないかと考えられる。 いずれにしても、相浦のこの時期の受洗、カトリック入信は、「敗戦必至」を覚悟の出征を前にして、高校生時代からの彼の長い宗教的な思惟に「けじめ」を付ける意味があったものと推察される。   9. 雲鷹主計長の日記を読む ~精神を病んだ同僚の夫人への対応 相浦が遺したノートのうち、雲鷹主計長就任後の日記の前半部は、相浦が同期生を代表して、精神を病んだ同僚の夫人と交渉する記録に割かれている。この事実関係はかなり煩瑣なものなので、略述すると、病人は、彼の精神疾患の原因となるストレスをつくった伯父と夫婦養子の関係にあり、その夫人は夫の病が嵩じた後、義父との養子縁組の解消をめぐってトラブルとなっている、というのがおよその事情である。日記から読み取る限り、相浦は同期生たちから「お前しかいない」と言われて夫人のもとに遣わされ、どうやら、夫人と養父との復縁を勧めに行ったらしいのだが、その理由や前後の関係は必ずしも全部記載されておらずやや不明の点もある。 だが、そのこと自体は本稿の主題ではない。『遺稿集』のこの項から伝わってくるのは、相浦が、こうした難しいトラブルを抱えた友人の世話役として周囲から期待されていた、ということ(後述のサービサーとしての自覚にも通じる面がある)と、相浦がその夫人に向かって狷介な養父を「愛し許せ」と説くときの、殆どカトリックの司祭のごとき様態である。 相浦の友人のある者は、彼が戦死せず復員したとしても、必ずしも行政官や政治の道は全うせずどこかで教育や宗教の道に行ったのではないかとも言っているが、この精神を病んだ同僚の夫人への対応は、相浦がこうした評価を得るようになった生前の行動の一つとして数えることができるだろう。 ~「日本の兵科士官」という気負い 1944(昭和19)年5月9日、相浦は戦地から帰還した友人達を迎えて開催された、主計科短期現役8期、9期10期合同のクラス会に参加。その時の感想が日記に記載されている。 ・・・・・ クラス会の成長そしてこれがやがて8期、9期、10期と繋がってやがて十年、二十年後に実を結び我国の充実せる発展の素地をなしてくれるようにと祈りてやまず。 補修科学生出身の主計科士官は、なる程海軍にてはまさに単なる主計科士官かも知れない。併し我々は背後に単なる海軍のみに非ず、我が皇国を担負って居るのである。 海軍兵学校出身者が、海軍の兵科将校として全海軍の中軸であるならば、補修科学生出身者と陸軍における一部の優秀者とは、正に相提携して日本の兵科将校として、全日本の中軸として働かなければならぬ人物なのである(*4)。 ・・・・・ 相浦にしてはやや珍しい、エリート意識を飾らずに述べている記載である。だが、相浦自身は置くとしても、主計科短期現役士官は、真に敗戦後の日本を担う中軸の人材として、一人でも多く生きさせたいと相浦が強く願っていたことがよく分かる記述でもある。このことは、戦死直前の雲鷹における土田国保との会話にも現れている。 ~サービサーとしての自覚 1944(昭和19)年5月13日、相浦は、目黒海仁会病院に、盲腸炎で入院している友人A(主計科同期と思われる)を見舞った。その時の会話と感想が日記に記されている。 ・・・・・ A 「実際貴様は看護の妙を心得とる。看護人最適だ」 相浦 「そうだな。しかし看護だけじゃないぞ。俺にホテルのボーイや御用聞きをさせたら、世界一のボーイや御用聞きになるぞ、きっと。又実際、ホテルのボーイをやろうと思ったこともあるんだ。大学1年の時に。そしてその為に髪迄伸ばして準備しとったら、案外アメリカに行くのに役立ったりしてね。到頭やらなかったけれども。」 看護、給仕、然り、余は終生それに甘んじ否その使命と役割をむしろ光栄として大切にして行くであろう。余の進み方は先頭に立ってついて来れと率いるのでもなく、是が非でもこれをやれと命令するのでもない。統帥の器は余の薄弱な意志と弱気を以てしては極めて乏しい。余は家庭に、学級に、学校に朋輩にさらに部下にも寧ろ看護人、給仕人たる心持ちであったようだし、将来も亦そうであろう。やがて我国全般の為の看護人となることがあるかも知れぬ。その時は上御一人の最も忠良なる臣民たると共に、最も卑賤の名も知れざる一小国民の為にも余はその給仕たり看護人たらねばならぬ(*5)。 ・・・・・ このサービスへの自覚は、相浦の短い人生を特徴付ける一本の筋でもあり、商工省の官吏たる職業意識でもあったのではないか。戦死の時の相浦の行動を考える上においても、相浦の持っていた「看護人、給仕人」としての自覚はきわめて重要な要素となっていると思われる。 ~童貞感覚 この時代の24歳と、21世紀の24歳の間を最も隔てている感覚の一つは、性に対するものである。相浦忠雄は、同時代の学徒出陣で兵営に入った人々と比較しても、並外れて女性に対して純粋な感性を持っていたし、おそらくは童貞のまま戦死したのではないかと想像される。以下は戦死二か月程前の相浦の日記の記述である。 ・・・・・ 1944(昭和19)年7月2日、3日 午後上陸して横浜に行く。~中略~ 横浜雪見橋際掃部山下の松の家電横浜(3)5542通いも三度を重ね、始め偶然に来れる角兵衛(角チャン)ことG子(西区・・・・方)と褥を共にするも三夜となる。6月21日、見送らむとて洋装に着換え山手の教会より桜木町迄従ひ来れる彼女は22日は部屋に入るや、縋りつきヨーコソとそして三度目の2日は休養中を出て来て掃部山を歩きそして3日の朝は「角ちゃんは泣かないことにしてゐるの」とて涙も見せざりしその眼にキラリ赤く熱く潤みを帯ばせて「つまんないの」とそして横浜駅横須賀線プラットフォーム迄も送り来る。貴重の林檎や、バターをつけたパンの御馳走(22日)に、又態々アルバムよりハガしての心籠めての肖像写真の贈物に、そして、未だ失はぬ羞恥を捨てて縋りつき顔を埋める女らしい仕草の内に、又時折の喜びに輝く眼とそれにつづく怨めし気の自嘲とと悲哀を湛える瞳に、不運を生まれながらに荷負ひつつもそれに打克とう努めつつ明るく諦めを持って生きて行こうとする単純な教養乏しき、しかしいぢらしき女の心を見る。彼女の上に多幸あれ。 三夜を共にしつつあれ程にも彼女の腕を、胸を腰を掻き抱き愛撫しつつ、結局は身体の関係を結ぶこともなく別れて了ふに到ったのも一つには我が生命なる息子達娘達の性をあだ、おろそかに頒かち難く罪を恐れたにもよれど、亦彼女の顔、瞳の上にやがてまともの結婚により幸ひの道を行く可能性ある心を見得た為でもあらう。それにしても母上の「病気にならぬように」の御注意はさることとして、姉上の「心を奪はぬやうに気をつけて上げなくては悪い」との御言葉、ああこれこそ真にその身体を愛せずその心を愛する切なき真人の道徳であるべきに余は背きたるに非ざるか、忙しがはしく入り交り立ち交る男達に弄ばれて余を忘るること幸いなれば忘らしめ給えへ。また若し、その財布の内にひそめし徒書の署名(松寿老人)と今宵奪われし名刺との記憶が彼女の心の幸ひに役立つものならば永く留まって慰めと励ましを注ぎ男に対する一脈の信頼を繋がしめ給へ。~後略~(*6)。 ・・・・・ 21世紀の価値観からすれば、「何なんだこれは」とやや違和感を持たざるを得ない記述であるが、第二次世界大戦時のひとりのナイーヴな若年海軍士官の心事として、ありのままをここに採録した。 また、このノートにG子の電話番号、住所等をかなり精細に遺しているのも、戦死後周囲の誰彼に思いを寄せた相手がいたことを知ってほしいとの相浦の潜在的な意識の為せる業であったと考えてもよいかもしれない。 ~生死、揺れる思い 以下は1944(昭和19)年7月14日の日記の記述である。 ・・・・・ 俺は帰らねばならない、余は人々が予期しない不幸に動天狼狽するを見るに忍びない。それを防ぐに必要な手段をのいくつかを、そしてそれを実施すべき時機を知っていたにも拘わらず、施す術もなくなす事なかりし罪をはずるが故にそれを見るに忍びない。しかしそういう時期こそ神は、そして我々の最上の天子様は余を必要とされるのだ。これは自惚れであろうか、この使命の予感は虚像であろうか、若しそうならば嘗て予感せる如く余は二十五歳の一生を終わらぬ内に召されるであろう。それで何とて悔いの残ることがあろう。それ程短い一生は恵まれた申し分のない人の生命の秘奥を開示されたよい一生であった。総てに感謝を捧げ得るよい一生であった。・・中略・・ 余にはあらゆる困難と混乱の内からこの事態を収拾し、多くの人々に恩恵を相頒つべき、苦しい、しかし重い使命が課せられているのではないか。若し許される事ならば、斯くも大きな重い使命の十字架を免除して、あの清い懐かしい豊かな恋の故郷(?)なる太平洋の底に永久に眠らしめ給え。又若しこの十字架が御命ならばそれを背負い完遂すべく意志と才能との力を授け給え。 ・・・・・ かつて太平洋上での戦死を夢見、充実した人生であった事まで回顧していた相浦が、ここでは、戦後の混乱する日本の事態を収拾する責務が己に課されているのではないかと自問する姿がある。 そして、後者の方がより苦しい使命であるとも述べている。この頃、相浦の透徹した見通しが、戦後日本の混乱と再建を予測していたということなのであろう。いずれにしても、戦場での生死は自己の意志や努力を超えたところにある。透徹した見通しを持つ相浦といえども、自己の戦場での運命を予測する事は出来なかった。   10. 沈没前夜 1944(昭和19)年9月6日、日本占領下のシンガポール、セレター軍港に一隻の航空母艦が入港してきた。航空母艦雲鷹である。雲鷹は日本郵船の豪華客船八幡丸を改造した空母だったが、第一線の機動部隊と行動を共にするには、やや鈍足で、主に航空機輸送の任務に就いていた。 この年8月雲鷹は正式に第1海上護衛部隊に編入され、巡洋艦香椎以下のヒ73船団に同行して、この日護衛空母としての初の任務を果たし、シンガポールに入港してきたのであった。 艦長は木村行蔵大佐、主計長は相浦忠雄主計大尉であった。 土田国保(東京高校、東京帝国大学法学部卒、内務省、主計科短期現役第10期、後に警視総監、防衛大学校校長)は、戦艦武蔵に勤務していたが、東京の海軍経理学校に転勤の命令を受けて、帰国のため便乗する艦船を求めているところであった。土田が便乗を求めて雲鷹を訪ねてみると、主計長は旧知の相浦で、二人は思わぬ邂逅を喜び合い、相浦は土田の雲鷹便乗を快諾した。   ↑ 航空母艦雲鷹。左には、大和型戦艦や金剛型戦艦の姿も見える。 雲鷹は、引き続き本土に必要な軍需物資を運ぶヒ74船団に同行し、9月11日セレター軍港を出航した。以下は、1988(昭和63年)3月、雑誌「水交」第406号に掲載された土田の回想である。 ・・・・・ 出港直後から、アメリカ潜水艦の偵察無線報告が傍受されたという噂が、便乗組の我々の間にも伝えられ、兵科の若手士官は便乗組でも交代で、飛行甲板上に点在する見張りの臨時指揮官となり、私も乗艦中は、相浦主計長から、戦闘記録作業の指揮官(同艦庶務主任病気中のため)を命ぜられた。“合戦準備夜戦ニ備ヘ”の毎夕のラッパの後は、夜毎、“配置二付ケ”の令に緊張を重ねる日々であった。・・中略・・ 9月15日になった。敵潜水艦のホノルル宛緊急信が判然と傍受され、当然ながら、前面海域での待ち伏せが予想される事態となった。15日は無事。高雄に近接していく16日の夜あたりが一番の山場と、誰もが予想していた。 館内の便乗士官の溜まり場に居た私に、相浦主計長から呼び出しがあった。9月16日午後3時頃である。入室すると“高雄入港が迫った。入港すれば、君たち便乗士官は退艦となるかも知れないから、今日はゆっくり話をしたい”とのことであった。それから夕食の時迄居て、夜また出掛けた。・・中略・・ “大東亜戦争開戦のあの12月8日、私(相浦)は東大の図書館に居たが、ラジオ放送を聞いてから屋上にのぼって、じっと東の方を望みながら、沁じみと大変なことになったと思った。私は高柳賢三先生の引率の下に日米交換学生として米国に渡った経験から、彼等はその物量と技術にものを言わせて、やがて我が国を滅ぼしてしまうに違いないと考えている。この卓上の洋書を見給え。これはアメリカの技術の本だ。私は海軍省人事局に勤務した関係から、同省の上司上官からもいろいろ耳にしていたが、今やサイパンを襲ったあとの敵は、これから比島方面に来襲し、そして沖縄を攻めてから中国大陸に渡り、西と南の両面から内地を攻めるであろう。そしておそらく来年の今頃(昭和20年9月頃)迄には、東京は米国の兵隊で充満しているに違いない。日本人か外国人か、わけのわからぬ子が沢山出来る。この期になっては、いかにして民族の生存を保つかが残された問題なのだ。この艦はこれから君達を降ろしてから、比島方面に向かって出撃することになっている。おとり艦として、撃沈される運命なのだ。私は志願してこの艦に乗り込んできた。私は艦と運命を共にする覚悟だが、君はこれから内地に帰って我が国行く末を見守ってくれ給え” 相浦さんは、その夜、以上のような内容のことを繰り返し、繰り返し、私(土田)に説いて聞かせたのであった(*7)。 ・・・・・ 11. 雲鷹沈没 ↑ 上空から撮影した、航空機輸送中の航空母艦雲鷹。   土田国保の回想続く。 ・・・・・ そして真夜中となった。この調子では今夜もなんとかうまくゆくのではないか思っていた矢先のことである。突如ドーンという爆発音が身近に聞こえた。本艦ではない。爆雷音でもない。僚艦に魚雷命中と直覚した同時に、“配置ニ付ケ”。主計長室を飛び出し、中甲板を艦橋に向かって駈け出して20米、轟音、激動!そして又一発。下からは異常なる煙!・・中略・・ さて、相浦さんである。一度部屋にとって返し、自らの戦闘服装を完全に整えて戻って来て、携行してきた自らの救命胴衣を、私によこしたのである。“是ヲ持ッテ居レ、俺ハ良イカラ”。 当時、空母雲鷹は、日本郵船“八幡丸”の改造空母であったことから、乗組員はコルク製の救命胴衣を所持していた。然し我々便乗者迄には配給はなかった。当日の海面は、後刻救助してくれた海防艦のスクリューが、折々ガラガラと空中で音を立てる位の荒天であったので、ひ弱な身体の相浦さんでは30分と持たない位だったろうと、後になって思った程であった。私も正直のところ、命は惜しい。理屈になるけれども、私自身の任務は、生きて内地に帰ることである。然し、“ハイ有難ウゴザイマス”では、なんと言っても男がすたる。・・中略・・私は何回も相浦主計長に“私ハ大丈夫デス。要リマセンカラ”とかなんとか言って渡そうとしたがその都度拒否されてしまったので、艦橋の隅に置いておいて、明け方になってから付添の主計兵に、イザという時、必ず着せて差し上げるようにと言って、渡しておいた。・・中略・・ 図らずも愛知県知多市知多町の関徳男氏(当時主計科庶務係)が主計長の最後の模様を目撃しておられると伺ったので、雲鷹沈没後36年の歳月を経た、昭和55年4月同氏の御宅を訪問し、直接御話を伺う機会を得た。関徳男氏は次のごとく語られた。 艦が沈む時の私(関)は、戦闘記録作製の当番勤務で、艦橋の中に居た。前任者との交代は午前6時頃だったと思う。そのあと、ずっと相浦主計長と行動を共にした。艦長は、副長に、下に行って補強箇所の状況を見に行くように指示された。副長は降りて行かれたが、やがて帰って来られて、“最早補強は全然駄目です”と報告された。艦長は榊原鉦松従兵兼伝令に命じ“総員集合上甲板”を下達され、榊原氏は艦橋右舷から外に飛び出して行った。副長も出て行かれた。艦長は、残っている主計長に傾斜の度合を示す計器の目盛りを何回も訊かれ、その都度主計長は報告しておられた。その後は艦長も主計長も無言のまま。艦長は羅針盤を背にして、洋刀を持って直立され、主計長は、海図台の前に、戦闘服装に軍刀をついて、前方をじっと眺めて直立されていた。その間は5分くらいだったと思うが、1時間も長く感じられた。(土田註、雲鷹戦闘詳報の記すところによれば、“総員上れ”の下令は0748、沈没は0755となっている) 突如主計長が叫んだ。“関!出ろ!” 私(関)は戦闘記録の用紙をとっさに胸ポケットに入れて、艦橋左舷から飛び出した。・・中略・・私が上甲板に到達するかしないかに、艦は後部からどんどん沈み、私も渦の中に巻き込まれてしまった。艦橋における木村艦長と、相浦主計長の姿は、神そのもののごとくでありました(*8)。 ・・・・・   12.主計長の救命胴衣 土田国保の回想続く。 ・・・・・ ところで、相浦さんの救命胴衣はどうなったのであろうか?この回答は、42年の歳月を経た昭和62年1月になって私(土田)の手元に飛び込んで来たのである。・・中略・・当時士官烹炊所に一等主計兵として勤務され現在名古屋市にご健在の柴田鈴嘉氏からの御手紙によってであった。それによれば被雷後、夜明けと共に主計兵長の人と御本人(柴田)の二人で、主計科事務室に総員名簿を取りに艦内に入り、乾パンとサイダー便も抱えて艦橋に上り、主計長に総員名簿と持参の糧食を届け、“柴田一主、帰ります”と申告したところ、“おまえは水泳不能者だったなあ、これを持ってゆけ”と士官用マークの入った救命胴衣を差し出された。兵の私が、とためらう柴田氏に、主計長は“早く持って行け”と言われて、有難くいただき、その救命胴衣のお陰で、命を全うすることが出来たとのことである(*9)。 ・・・・・ これを要するに、相浦は雲鷹被雷に際して、自分の救命胴衣を、初めは便乗者である土田主計少尉に、土田に辞退されると後に水泳不能者の柴田一等主計兵に譲り、柴田一主は、この救命胴衣によって命をながらえることが出来たということになる。当時軍艦の戦没に際して、艦長が艦と運命を共にするのは、謂わば、海軍の慣行であったが、主計長が必ず艦橋に残らなければならないという慣行はなかった。相浦が艦と運命を共にすることを選んだのは、何故だったのであろうか。   結び さて、相浦の戦死をめぐって、いくつか彼の心事を考えてみたい。 まず、救命胴衣を他者に譲った行為について。 既に本稿において取り上げてきた「サービサーとしての自覚」「愛と献身」という心的なモチーフが、相浦をして救命胴衣を他者に譲るという行いを為さしめたことは明らかであろう。これら心情は、おそらく相浦の高校生時代からの思惟やカトリック入信などよりも前に、相浦家の家庭で、両親の躾の中で自然と育まれたものと考えられる。相浦の場合、「よき行い」「あるべき行動」の倫理感の方が先にあって、それを裏付けるために哲学的、宗教的思惟に沈潜し、ついにカトリックの信仰に到達したのではないかと考えられる。さらに、既に相浦は、便乗者土田に救命胴衣を譲ろうとした時点で、「艦と運命を共にする」ことを覚悟していて、救命胴衣は彼にとって不要のものであったとも考えられる。 次に、カトリックの教義と「艦と運命を共にする」覚悟について。 相浦の戦死の様相から、沈没に際して彼が進んで艦橋に残り、「艦と運命を共にする」ことを選択したのはほぼ明らかである。しかし、主計長が必ず艦橋に残らなければならないという慣行はなかった。「艦と運命を共にする」ことは相浦の主体的な選択であった。 一方で、カトリックの信仰は自殺を禁じている。古くは、関ヶ原合戦の前に、西軍の人質となって大阪城に入る事を拒んだ細川ガラシアが、キリシタン故に自害を選ばず、(形式的ではあるが)家臣に座敷の外から自らを刺殺させた話は有名である。相浦の「艦と運命を共にする」行為は、カトリックの教義上の自殺に当たらないのか、あるいは救命胴衣を他者に譲った行為は「愛と献身」として正当化されうるとしても、相浦は艦橋を出て、及ばずとも泳ぐべきではなかったのか。 これについて、相浦が書き残したノートから、あるいは土田らの証言から想像しうる相浦の心事は、「自分は志願して雲鷹に乗艦してきたのだから、艦と運命を共にする」というものである。雲鷹主計長の前の相浦の軍歴は、海軍省人事局勤務、海軍経理学校庶務主任、分隊士など内地勤務ばかりであり、武蔵同期の宮澤ほど明示ではないにしても、海軍の人事によって選別され、内地に残されたと解釈しうるものであった。相浦はおそらくこれを潔しとせず、敢えて「第一線熱烈志望」の声を上げて雲鷹に配置されたとされている(*10)。「敗戦必至」の透徹した認識を持ち、敗戦後日本再建の責任まで引き受ける事をも考えていた相浦が、一方では敢えて戦場に自らの身を捧げる覚悟を持って、第一線を熱烈志願したのは、自分と同世代の若者達が多数戦場に倒れて行く中で、自らが殊更に優遇されているのではないかという疑いに耐えられなかったからではないか。これもおそらく、哲学的宗教的思惟や信仰の以前に、相浦家の家庭で、両親の躾の中で自然と育まれた、彼の倫理感ではなかったのだろうか。 最後に、小泉信吉との比較。 以下は少し本稿筆者の独断になるかもしれないが、小泉信三著「海軍主計大尉小泉信吉」を読み、『相浦忠雄遺稿集』を読むと、二人の個性(小泉は明るい慶應ボーイ、相浦は武蔵―帝大の一つの典型である深く思索に沈むタイプ(*11))を超えて、微かだが社会階層的な、あるいは出身家庭による差異があることに気づかされる。それは、封建時代で言えば、同じ武士階級の上士と下士程度の僅かな差異に過ぎないのだが、二人の家庭が育んだモラールには、やはり少しだけの違いがあるようだ。 小泉の家庭は、いわば近代社会におけるブルジョア階級であり、経済的にはきわめて恵まれていた。「海軍主計大尉小泉信吉」の中で、信吉が訪ねる叔母の嫁ぎ先安川家は、相浦の父の勤務先、明治鉱業のオーナー、炭鉱主である。一方相浦は炭鉱の社宅で生まれたホワイトカラーの出身。昭和になって、東京で言えば山手線のターミナル(池袋、新宿、渋谷など)から西に延びる郊外電車の駅近くに住宅を持ち、いわゆる労働者、農民階級からは一線を画すが、資本家階級でもない、新しい中産階級、サラリーマン階層が相浦の立ち位置である。(相浦家は吉祥寺に居を構えた) この時代、前者の中で良質な人々は、いわゆるNoble’s obligeの倫理感で戦争に参加していった。個々の政府施策への批判は置いても、戦争は彼らの戦争であり、守るべき国家は彼ら自身のものであった。第一次世界大戦に於いて、英国のパブリックスクール出身者が、塹壕を飛び出し、ラグビーボールを敵陣に蹴り上げて、部下に先んじて突撃していった(*12)ような、スポーツ感覚とユーモアが、小泉信吉のとくに巡洋艦那智勤務時代の日記や書簡からは読み取れる。 一方後者、山の手サラリーマン階級の倫理感は、この階層が子弟に与えた深い教養に根ざしている。本稿筆者は、吉野源三郎「君たちはどう生きるか」の主人公コペル君と叔父さんとの会話、手紙のやりとりの中に、相浦や当時の武蔵生達の与えられた教養や、育まれた倫理感を見ることが出来るような気がしている。便乗者や水泳不能者に、「オイ」と軽い調子で救命胴衣を譲って、自らは艦橋に残るという、雲鷹沈没時の相浦の行為の背景には、昭和期になって新しく勃興してきた勤め人階層の、深い教養に裏打ちされた「コモンセンス」の文化があったのではないだろうか。   注 *1 『相浦忠雄遺稿集』岩波書店、3~4頁 *2 皇紀を用いている。 *3 近藤道生「私の履歴書」日本経済新聞2009(平成21)年4月1日、第1回 *4 『相浦忠雄遺稿集』142頁 *5 同上書、148頁 *6 同上書、250頁 *7 土田国保「相浦忠雄主計少佐の最後」雑誌『水交』第406号、1988(昭和63年)3月 *8 同上 *9 同上 *10 近藤道生「私の履歴書」日本経済新聞2009(平成21)年4月1日、第1回 *11 日米学生会議で渡米の折、船内で相浦に「好かれた」と主張しているある女性は、彼のことを「なんだかモッサリしていた」と述べていたという。 *12 池田潔『自由と規律』岩波新書   ↑ 旧武蔵高等学校校舎(現在の大学3号館)横での旧制武蔵高等学校11期生の集合写真。1933年~1939年の間の撮影と思われる。相浦忠雄は前列の左から3人目で、右足を階段のふちにかけ、膝の上に右手を置いている。なお、右から7人目は、第78代総理大臣となった宮澤喜一。この写真は、生物学研究室に保管されていたガラス乾板を復元・現像して電子化した。
2018.12.13
三理想の成立過程を追う
【武蔵学園記念室より:以下の文章は、故大坪秀二氏(高校16期・元武蔵高等学校・中学校校長)が生前、「特別読みもの 武蔵七十年史余話」の一つとして、『同窓会会報』第39号(1997年11月30日)に寄稿されたものである。】 ↑ 武蔵高等学校(旧制)校舎前における一木喜徳郎校長(左)と山本良吉教頭(右)   ◆創立の時、いまの三理想はなかった!?  初代教頭・三代校長山本良吉先生の手になる『武蔵高等学校歴史』(いわゆる六年史)には、1922年4月17日の第1回入学式に一木喜徳郎校長が「本校の成立、使命および三理想について式辞を述べた」とあり、三理想の原型、「東西文化融合のわが民族使命を遂行し得ベき人物を造ること。世界に雄飛するにたへる人物を造ること。自ら調べ自ら考える力を養うこと。」(あとで『第2の原型』と呼ぶ)が記されています。三理想がどのように発想されたかについては一木・山本両先生の後日の証言があり、お二人の合作であるらしく推測されますが、その時代のなまの史料としては創立の前年5月、根津家の公式発表での一木先生の談話(武蔵学園記念室の年報創刊号に収録、当時の各新聞社の記事でも裏付けられる)と、入学式3日前の教師会における校長の訓辞原稿(『武蔵七十年史』15ぺージ。筆跡は山本先生のものと推測される)とがあります。後者は冒頭に「正義を重んじ真理を愛し、自ら理解考究する能力を有し、将来世界に活動し得る体力を有す」とあり、これが三理想の『第1の原型」でしょう。しかし、七十年史編集の時の私は、この史料をみていながら、この原型が僅か3日後に六年史に記録されている『第2の原型』ととり換った不思議さを、とくに感じることなしに過ごしました。初めて「おやっ?」と思ったのは、その後、山本先生の原稿集(製本されて何冊にも分かれている)の初めの一冊に、製本洩れになって、はさまっている5枚の談話原稿を読んだときです。それは1924(大正13)年4月8日の教師会のためのもので、新学年を迎えるにあたっての各教師の心得を詳細に説いた最後に「本校に於いては、真理を愛し、正義を重んじ、将来世界に活動し得る人物を造るを主としたく教授も仕附(しつけ)もすべて之を目安としたし」とあるのです。  つまり、創立初年に一木校長が話された「第1の」原型は、少なくとも2年後まで生きていたことになります。この時から、三理想成立に関する私の史料あさりが始まりました。実は、この草稿は『晁水先生遺稿』の327ページに載っていますので、読んだ方は多いと思うのですが、一木校長の訓辞と結びつけた人は多分ないでしょう。『一木訓辞』は『武蔵七十年史』で初めて人の目に触れたのですから。   ◆2年後に出来た『第2の原型』  私の「三理想あさり」は、詳しく書くとかなり長くなります。結論を先に言えば、『第2の原型』は1924(大正13)年の3月末頃に出来たものと推測され、したがって、武蔵六年史の第1回入学式の記述は、意図的に事実と違えて作られたのものと思われるということです。24年4月以降に書かれたと思われる『理事会における大正13年度予算案説明文書(山本教頭による)』の中に、「本校元来、東西の文化を融合し世界に雄飛する底の人物を養うを薫育の一方針とすることは、校長が新入生に対して告げらるる所なり」とあり、記録の中に初めて三理想の項目が二つ出てきます。前に記した同年4月の教頭談話草稿には、まだ『第1の原型』が述べられていることを考えると、『第2の原型』の成立はその教頭談話草稿が書かれた時期と4月始めの入学式との間のごく短い期間の中だと考えます。恐らく前々から一木・山本両先生の間に相談の積み重ねがあった結果、その入学式の式辞に結実したものでしょう。『予算案説明文書』は予算案提出の時点のものでなく、理事会の査定で「生徒の外国旅行への教師付添費」が切られたことへの復活要求として書かれたと見る根拠がありますので、「校長が新入生に対して告げらるる所なり」と言っているのは、「ついこの間の入学式で一木先生が言われたでしょう、あの三理想ですよ」というふうに読めば、すんなり読めます。「何時の新入生に」とか「第1回からずっと」とかの限定がないのは、理事長はじめ理事諸氏にとって、すぐ思い起こすことが出来るつい先日のことだったからではないでしょうか。   ◆東西文化融合と民族理想の合体  『根津翁伝』には一木校長の話として、「『東西文化融合』は大隈重信が言っていたことで私自身も良いと思った」ということと、「『世界雄飛』はヴェルサイユ会議のことを牧野伯から聞いて以来の私の主張である」こととが述べられています。出典が示されていないので真偽不明ですが、武蔵関係の記録に大隈云々の話はないので、根津翁伝の編者は何か独自の資料を持っていたのでしょう。『世界雄飛』については、大正10年5月の根津家育英事業発表時の記録に明記されています。ただし、「世界に雄飛」ではなく「世界の舞台に立って活動」、「世界の日本人」という表現です。この表現の根底にある心が開校当初の『第1の原型』に確かに合まれているのがわかります。  一方、山本教頭には、約1年間にわたるアメリカ・ヨーロッパ視察旅行からの帰途船中で書いたという著書『民族の思想』があります。第1次大戦後の極右、極左台頭の時期のヨーロッパを周遊して、先生はその保守傾向(私の独断で恐縮ですが)に加えて民族主義、国家主義的な理想を強めて帰国したらしく思います。この本で主張する『わが民族の理想』とは、「日本の民族文化を基礎として、それを欧米的文化によって深高化し、世界的な新文化を創造して人間の文化史に貢献すること」であり、その日本民族文化とは、「いわば神道……存在・恩・義務を基礎とした国民道徳で、その発現の中心が皇室であることに特質がある」としています。山本教頭は後に『創立当時回顧座談会』(昭和11年、速記録あり) でも、「東西文化というが、東の方が大切だ」と、『民族の理想』での主張に近いことをのべています。『東西文化融合』という言葉が、必ずしも気に入っておられなかったらしく感じます。一木・山本両先生の話し合いで、一木先生は『東西文化』を持ちだし、山本先生は『民族の使命』あるいは『民族の理想』を持ち出して、両者がつけ合わされたものかと思われます。いずれにせよ、開校時の「第1原型」三項目に較べてかなり校是らしい体裁になったと同時に、民族主義・国家主義的な匂いがついたと思うのは私の偏見でしょうか。校長になった後の山本先生は、昭和13年に『三理想の英訳』を定めています。ここでは、『融合』は『Harmonization』となって一歩穏やかになり、『雄飛』は『to act on the World-Stage』となって、一木校長の表現に近づいています。私は、山本先生の思想傾向が昭和11年頃(二・二六事件のころ)を境に変化したと考えるものですが、三理想の英訳はそれをいささか裏付けているような気がします。   ◆史料に見えはじめた三理想  話が少し横道にそれました。三理想を初めて述べたと思われる大正13年入学式での一木校長の式辞は記録がありません。山本教頭の教務日誌その他にも三理想の影は見えません。翌14(1925)年7月に『校友会誌』が創刊され、その巻頭に『一木校長入学式訓辞大要』というのものが載っています。それには「本校は東西文化の融合を計るのが国民の任務であるという信念の上に、万端の施設をなしている…」と三理想の第一項目だけが述べられています。また、この年度の初めの「校報」(教師向けの会議まとめ)にも、校長式辞の概要が記録されています。思うにこの年以降、学校は三理想の生徒への周知に力を入れたようです。「校歌」が募集されたのもこの年からのようです。26(大正15)年12月発行の校友会誌第4号には、懸賞校歌応募3等当選作品(3期相当、小林保雄氏作)の発表があり、その歌詞に「我等の力は日毎に増して、天下に雄飛す準備は成らむ……」と三理想の第2項がちょっぴり詠み込まれています。そしてその選評に、「校歌は一校の理想・校風・特質等を標榜し、全校生徒の血潮を高鳴らしむべきものであってほしいと思う」とあり、この年から校歌が募集されて、しかも、そこに『本校理想』が歌い込まれることが奨励されていたが、実際の応募作品には従来の寮歌風のものが多く学校側の満足が得られなかったことが述べられています。この年は3等が最高でした。同じ号に脇田 忠氏(2期文)の『我等の使命』と題する論文があり、その中に「……。人物が出来て始めて東西文化の融合を望むこともできれば…」というくだりがありますから、おそらく、理想の三項目は既に発表されていたことでしょう。それにしても、当時それを印刷して生徒に配ったものがあってもよいと思うのですが、現存しません。「あった」という証言だけでもほしいものです。翌27(昭和2)年7月発行の校友会誌第5号には応募校歌当選作として、谷田閲次氏(2期文)の『2等作品』(「東西文化合壁の、灯かかぐる我ひとの……」の一節あり)と、野辺地東洋氏(3期文)の『2等作品』(「…東西古今の華をあつめん」の一節あり)とが発表され、選評には「本校理想の三大綱領も、割合よく歌い出されているが…」とあります。前年度の作品にも『雄飛』はあったのに不満とされ、この年の作品は、『東西文化』はあっても他の二つはないに近い(『雄飛』らしく見えるものはある)のに褒められているのは、歌としての善し悪しではあるとしても、少し奇妙に感じます。もしかすると三理想の最重点は『東西文化』であり、それを歌い込んでいないものは不満だと言うことかも知れません。なお、主に旧制時代の歌を集めた『武蔵歌集』が今年同窓会から刊行されますが、これらの当選歌はそこに収録されています。   ◆権威づけられた三理想  以上の経過を経て、28(昭和3)年4月15日の開校式(七学年が揃った時点での披露式)を迎えます。この式で一木前校長は、式辞の中で、自分がかつて第一回入学式の折に訓示したことだとして、修飾の多い漢文体で三理想を述べておられ、かつ、それを『三大理想』と呼んでおられます(校友会誌第7号)。私の独断で恐縮ですが、これを書いたのは一木先生でなく漢文の加藤虎之亮先生だと思います。たしかに一木先生は漢学の高い素養を身につけておられましたが、演説や著述の文章は平易で極めて明瞭です。この式辞のような、難解な言葉を多用する修飾の多い文章は、一木先生に、とりわけ生徒に語りかけるときの一木先生に似合わないように思います。加藤先生による双桂寮記、愛日寮記と文章の発想法が似ていること(似ていないという方もおられますが)、根津理事長の祝辞その他や、山本校長校葬の折の一木理事長弔辞などは多く加藤先生の手になるという証言があることから見ても、ありそうなことです。前に引用した『創立当時回顧座談会』での加藤先生の発言に、開校時、第1回入学式での一木先生の式辞の内容はと問われて、「三大理想です。あれを敷衍してずっとお話しになった」、「三大理想を一木先生が堂々とお述べになり」というくだりがありますが、「開校式」での一木前校長祝辞が加藤先生の代作だとすれば、話のつじつまを合わすためにも、加藤先生としてはこう言わざるを得なかったことでしょう。というより、代作した時点で既に、「三理想は第1回入学式で校長が述べたもの」と思いこんでおられたと考えるべきでしょう。一木先生は在任中4回の入学式式辞のうち、あとの二回には確かに三理想を、あるいはその一部分を話しておられたわけですから。1932(昭和7)年に創立十周年の記念式が行われましたが、その時の一木先生の祝辞の速記録が校友会誌第19号にあります。この時の話は至って平明なアドリブ調で、「本校は兼ねてより正義を重んじ、研究を尊び、而して将来のモットーとしては、世界の文化を進め人類の幸福に寄与すると云うことを信条としておるのであります云々」と、創立の時の『第1原型』に近い言葉が語られているのはまことに興味深いと思いますが、いかがでしょうか。  ともあれ、走り書きのような第1原型から始まった三理想を、校是に相応しい表現に直すこと、そしてそれを、第一回入学式に校長が生徒に表明したと学校史に記述し、同時に開校式での一木前校長祝辞で裏付けること(大正13、14両年の入学式で一木先生の訓示はあったものの、その内容は恐らく三理想の完全型でなく、山本先生にとっては意に充たぬものだったのでしょう)、これが山本先生のシナリオだった筈です。そのためには、開校式での前校長祝辞が一木先生の即妙の話で予定と違うものになってほしくなかった。加藤先生(でないにしろ一木先生以外の誰か)が祝辞を代作してそれを一木先生に読んでいただくことは、山本先生のシナリオにとって不可欠なことであり、予め一木先生の了解を得てあったことだろうというのが私の推測です。私個人の感想をつけ加えるなら、三理想の成立をそのように細工をしなくても、ありのままに伝えて良かった筈だと思います。理想の形が整うのが創立の2年後だからといって、三理想に傷が付くわけのものでもなかったでしょう。   ◆自由を我等に!『我々自身の三理想』  どの学校にもある校訓・校是が、前大戦以降の新時代に古い形のままで生き続ける例は必ずしも多くありもません。この点で、武蔵の三理想は時代を超えて生命を持ち続けていることを誇れると思います。とはいえ、今の目で見れば、「世界に雄飛する」という言葉が持つ戦前の膨張主義臭さとか、文化を東西に限定して東西南北多種多様な文化を互いに認めあう現代的視点を欠いていること、異文化どうしを融合するという考えに潜む独りよがり、それに、民族理想という断定など、多少の抵抗感なしには受け入れにくい点もあります。このことについては、以前、ある先輩の方からも「少なくとも第一理想の文言は改めるべきである」とのご指摘もありましたし、私自身、生徒に対しての話の中で、前述の諸点について注釈付きで三理想を説明してきたという経過もあります。三理想が示す「方向性」については、一木・山本両先覚者の見識に敬意を抱きながらも、後に続く我々としては、我々自身の現代的な思想の中で三理想を受けとめることが、我々に与えられた自由であろうと思います。三理想の成立の歴史を見ることも、そうした「我々自身の三理想」を形成する上で意義あることではなかろうかと考えて、独断と偏見の謗りを顧みず一個人として推測を書いてみました。   ◆追記…『三理想』か『三大理想』か  なお、1923年度から44年度までの22年間、43(昭和18)年を除いて毎年刊行された武蔵高等学校一覧に『三理想』が載るのは29(昭和4)年版からで、しかもその文言は現在と同じ「……人物。」のスタイルで書かれています。つまり、昭和3年度の一年間に「……人物を造ること。……力を養うこと。」のスタイルから現在の形に変えられたわけです。また、武高一覧ではずっと『三理想』のままで、『三大理想』ではありません。しかし、旧制時代の生徒達は『三大理想』という表現に慣らされてきたので、『三理想』というと違和感を覚える方もあるようです。そしてその『三大理想』の原点は、昭和3年開校式の一木前校長式辞であることは、ほぼ確実だと思います。  一つだけ私が気がかりに思っているのは、創立の年の一学期に生徒が発刊した同人誌の名が『雄飛』で、その会の名が『雄飛会』だということです。第一回入学の先輩たち何人かに伺ったところ、「それは三大理想の雄飛だろう」といわれる方もあれば、「三大理想とは関係ない。当時の世の中では『雄飛』という言葉はそんなに珍しいものではなかったよ」といわれる方もあります。私は、私の推測にかなりの自信をもっていますが、動かぬ証拠が出て私の推論が全て崩れても致し方ないことですので、新たな資料を寄せていただけることを切望しています。
2018.12.13
校名『武蔵』のこと
【武蔵学園記念室より:以下の文章は、故大坪秀二氏(高校16期・元武蔵高等学校・中学校校長)が生前、「特別読みもの 武蔵七十年史余話」の一つとして、『同窓会会報』第40号(1998年11月20日)に寄稿されたものである。】 ↑ 設立当時の文部省事務官であった本間則忠がまとめたと推定される、「武蔵と名付けたる事由」の冒頭部分。全文と注釈が、武蔵学園記念室発行の『武蔵学園史年報・創刊号』(1995年)に収録されている。  前号に三理想の成立過程のことを書かせていただきました【編者注:『同窓会会報』第39号に著者が「三理想の成立過程を追う」を寄稿されたことを指す。「三理想の成立過程を追う」は、当ホームページ紀伝編コーナーにも全文収録されている】。  多くの方から読後感を寄せていただき感謝しております。図にのって今年も、まともな史料集には載せられない、しかし、私にはかなり真実らしく思える物語として、「校名が武蔵と名付けられた経緯」を発表させていただきます。なお、文中、創立者根津翁、創立以来武蔵を育て上げた山本先生、その他全ての人々の敬称を省略しました。なにとぞご了承下さい。   ◆「東京」を譲って「武蔵」になった  これまで、『武蔵七十年史』・『武蔵七十年のあゆみ』その他に書かれているとおり、財団法人根津育英会の設立申請は1921(大正10)年7月25日、同財団の事業としての七年制高等学校の設置認可申請は同年7月27日で、申請書にある校名は『東京高等学校』でした。『武蔵七十年史』(写真集)には、この部分の写真が載せられています。育英事業を始めることを根津嘉一郎(先代)に勧誘し、その実現まで根津の手足となって働き、学校の開設準備万般の実行役を引き受けていた本間則忠の記録(『学園史年報創刊号』、55ページ)によれば、学校設置申請の直後に文部省から、東京に国が作る予定の第21高等学校(はじめ三年制で作る予定を、大正九年に七年制に計画変更)に『東京高等学校』の名を譲ることを求められ、急遽新校名『武蔵』について関係諸氏の賛成を取り付けた上で変更決定したものとあり、「名称については深遠なる典故を有す」と付け加えられています。本間が書き残した『本校創立事情記録』の中の「校名を武蔵と名けたる事由」は、『武蔵五十年のあゆみ』(1972年刊行)に初めて紹介されて以来、同窓生・在校生の多くの人々にとってなじみ多いものとなっていることと思いますが、本稿を読んでいただく便宜のために以下に引用します。  一、学校の設立せられたる国名に因みたり。即ち此の学校の位置が武蔵国に在るが故なり。而して群町村の名に拘泥せざりしは、古来世に広く知られ、且尊き記録を有する国名を採るに若かざるを以てなり。  二、学校の設立せられたる歳に因みたり。即ち此の歳には世界の大戦漸く戢まり、新たに平和条約の締結を見たり。依て戢武崇文の義解に随ひ武蔵と名けたり。  三、学校訓育の要義に因みたり。即ち武蔵の往古には万葉仮名にて兂邪志と書かれたり。然るに人として邪志を有せざることは人格向上の基礎にして、学校訓育の要義に他ならざるを以て採りて校名と為したり。   ◆旧制時代の伝承  なお、この校名変更の一幕は前述の通り大正十年八月中のことで、創立以来武蔵の中心人物となった山本良吉教頭(後に校長)が開校準備に関係する以前だったわけです。その山本によって、この校名変更の経緯が生徒に語られた記録は、私の探し得た限りでは『校友会誌34号』(昭和12年6月) にある「開校十五周年記念式山本校長式辞」だけで、それには次のように書かれています。 「大正七年[筆者注: 十年の誤り] に愈々本校を造る時には『東京高等学校』の名前で出願したのであるが、文部省の方でその名を欲しいといふので、東京よりは少し広い武蔵高等学校としたのであります、その時に日本高等学校とでもしたならばもっと広かったのですが。」  いま読むと、これはかなり皮肉をこめた表現のようにも思われます。同様な話は、折にふれて、山本はじめ何人かから繰り返されたのでしょう。旧制時代の多くの人が記憶しているようです。生徒の一人としてこの話を聞いた私の記憶には、「東京より武蔵の方が大きい」という山本校長の一言だけが鮮明に残っています。そして「大きいだけか」という、何か割り切れない思いが残ったことも確かでした。   ◆本間則忠は知っていた  校名変更の話は、一見単純な瑣事でした。三年ほど前に思い立って、七年制高校誕生を導いた大正六〜七年の臨時教育会議の詳細を調べはじめて間もないころ、これまで当然気が付いていてよかった筈の一事にはたと思いが及んで、校名武蔵のことを私は再考してみる気になったのです。そして、校名の由来をつくづく読み返すうちに、その第二項をこれまで全く迂闊に流し読みしてきたことに思い至りました。大正七年の新高等学校令で従来の第一から第八までの高等学校に加え新設されることになった高等学校には、新潟・松本・山口・松山……のように、設置する都市の名を冠する習慣が出来て、後にナンバー校に対し地名校と呼ばれるようになったのはよく知られています。そして、第21番目に設置を予定された高校は東京に作られるものですから、当然それは『東京高等学校』と呼ばれるのが当事者間では自明のことだったでしょう。本間則忠は文部省事務官として当事者側の一人でもあったわけです。その本間が殆ど一人で切り盛りした「根津家設立の学校」の名にわざわざ『東京高等学校』と書いて出すことの裏には、何か理由がないはずがないということに、今更ながら気がついたというわけです。   ◆武蔵命名はヴェルサイユ条約の年!?  これから先のことは私の推理でしかなく、状況証拠以外のものは今のところ皆無です。本間は官立の21高校が東京高校になることを知っていた筈です。だから、根津が設立する七年制高校の名前を考えるときには、当然『東京』以外の名を選んだでしょう。そして、本間と根津との間に校名の相談があったのは、七年制高校創設について関係者の合意が出来たごく初期の段階(おそらく大正八年末か九年)であることを暗示するのが、上に引用した「校名由来」の第二項だというのが、私の推測です。学校設立の年は大正十年で、大戦終結・条約締結の大正八年ではありません。 これを本間の思い違い、書き違いと言ってしまえばそれまでです。しかし、この時代に生きた人々が二年もの間違いをするでしょうか。事実、本間が書き残したもう一つの文書(『学園史年報第一号』61ページ) には、「時は正に世界大戦の後を亨け、今や平和条約の央に属す。戢武崇文を以てこの学校の名となすこと、たまたま以て創立の歳を紀するの便も亦鮮からざるなり」ともあり、より明確に大正八年を指しています。これらの文章から見ると、「学校の設立せられたる歳」とは、学校設立がはっきりと第一歩を踏み出した年と解釈できるのではないでしょうか。構想の初めからの二人(根津と本間)にとって、心の中に温めていた新事業がしかるべき後援者を得て動き始めた年(大正八年)こそ、記録すべき年だっただろうと思います。しかも、その時新制度「七年制高等学校」を国が設立する計画は難航し、五里霧中の状況でした。此の状況を傍らに見つつ、二人は「我等こそ新制度の先駆者」との思いが強かったことでしょう。   ◆文部省には貸しがあった  しかし、文部畑に長くいた本間は、此の国の官民の格差がどれほどのものかを熟知していました。そもそも、七年制高校は新高等学校令で高等学校の正規の姿として定められながら、国としてこれを実現する意図はもともとなかったようです。根津家の企てや甲南中学の七年制への移行計画などが文部省を揺さぶって、やっと一校だけ官立で作る決定はしたものの、その具体化は前述のように五里霧中でした。そんな事情があるのにその後の進行では、後発の官立七年制高校が全ての面において根津の私立高校に一歩を先んじる形の措置がとられています。学校の設置/設立認可の時期、校長の任命/就任認可の時期、開校日、そして、武蔵が一年生のみ募集したのに対して官立は一、二年生を同時募集して一年早く卒業生を出すなど、今の目で見るとき幼児のような優越心の表明らしいものさえあります。そのことを知りつくしていた本間にとって、ひとつだけ出来る悪戯は「校名の先取り」だったのではないでしょうか。『武蔵』という校名は、とうに根津との間に決定ずみであったにも拘わらず敢て伏せておいて、設立認可申請には文部省予定の『東京高校』で出す。「国も一度くらいは先駆者の根津育英会に頭を下げたらどうだ」と!本間の記録には、文部省からの要請により(校名につき)更に研究を重ね、急速の間、本間案を逗子滞在中の平田総裁の邸を始め各評議員邸を持ち回り云々とあります。根津・宮島・正田・本間の四人の相談について一言の言及もないのは、その部分が校名決定の核心に触れるから敢えて避けたのではないでしょうか。   ◆熱い思いと冷めた思い  根津や本間が校名にこめた思想をあらためて要約してみると、それらは、古代伝説も含めた武蔵の国への愛着、平和主義、邪志なき誠意の三つであり、全体を一括して武蔵の国という名と実への愛情が読みとれます。殆どが文字の上の遊びとはいえ、新設校への根津とその周辺の思い入れを表していたと思われます。本間が山形県の出であることを除くと、宮島は栃木県、正田は群馬県出身で、大きく言って皆「東国」の人達です。根津自身は山梨県人ですが、幕藩時代から甲斐は江戸と直結の地ですから、創立に関わった根津側の四人が、東国の中心である武蔵の国という名に西の人間よりも大きい愛着を持ったであろうことは推測できます。別の資料から見ても、根津は会津の白虎隊顕彰碑建立に私財を寄付したり、創立後の武蔵に御真影奉安殿を造るという学校側の提案を理事長決定で凍結したりで(『学園史年報第三号』185ぺージ)、政治思想として明治新政府を好まなかったらしい節が見えます。この側面から見ても、もし、「東京」か「武蔵」かと並べたとしたら、殆ど確実に「武蔵」が選ばれただろうと思うのです。  創立後の武蔵には、このような思想は継承されませんでした。それは、山本教頭の思想との齟齬に起因すると思われます。『晁水先生遺稿集』(正続)、『校友会誌』などに残る山本の話を検討してみると、平和主義に関するものは殆ど見あたりません。自由主義についても、青年期のことは別とすれば、かなり否定的な見解を持っていたようです。大正デモクラシーを特徴づけた自由主義教育などは、山本から見れば「先年初等教育界に盛んに行われた一弊風」であったらしく見えます(山本良吉『若い教師へ』大正十一年刊行)。山本は金沢に生まれ、京都での生活が長く、基本的に京都文化圏に浸って過ごした人です。彼にとって「武蔵」という名に特別の思いはなかったでしょう。しかし、山本は本間の残した『本校創立事情記録』を読んでいました。読んではいても、根津・本間の気持ちに共感を持たなかった山本は、言葉の上でのこじつけのような「校名の由来」を尊重する気にならなかったのでしょう。   ◆武蔵は初めから武蔵  以上、推測で固めた私の小論を、同窓各位はどう読んで下さったでしょうか。どうせ証拠はないことで、ただ、それらしい状況があるだけです。それなら、「武蔵は初めから武蔵であったらしい」ということ、そして、武蔵創立に関わった人達は武蔵野の大地とそこに結びつけられた古代の伝承を愛し、人間のまっすぐな誠実を愛し、大戦の後に漸く手にした平和を心から喜んだ人々であったという推理を真に受ける方が素敵ではないでしょうか。そして、武蔵の歴史を読むときに、創立者根津嘉一郎の社会貢献の志とともに、校名『武蔵』にこめた創業者たちの思想にも思いを馳せて頂けたらというのが、実り少ない史料あさりを懲りもせずに続けている私の些か厚かましい願いでもあります。 (筆者より:七年制高等学校を制度の中心に置いた大正七年の新高等学校令の成立や、それを審議した臨時教育会識の全体像については、日本の教育史上の重要事としてより詳細に論じる必要がありますし、資料も沢山あります。しかし、本稿ではそれらを一切省略しました)   ↑ 建設中の武蔵高等学校校舎(現在の大学3号館)  
2018.10.02
栄誉の思召しは一切断ること
無私の財界人・根津育英会第4代理事長宮島清次郎
■「勲章などもらって、あの世でなんの顔で奴らに会えるか!」  泉岳寺から北西に向かう伊皿子坂(いさらござか)は頂上で魚籃坂(ぎょらんざか)となって三田方面に下る。江戸時代には江戸湾が望めたという。  1963年9月6日早朝、1台の黒塗りの車が伊皿子坂の中腹にある日本工業倶楽部理事長・財団法人根津育英会理事長の宮島清次郎の屋敷をすべりでた。  後部座席に身を沈めているのは、後にいう「財界四天王」の一人である日清紡績社長櫻田武である。櫻田は9月に入ってから、病篤く命潮汐にせまっていた育ての親ともいえる宮島清次郎の病床の傍に詰めていた。この朝、宮島の容態がやや安定したことで、櫻田はまだ息があるうちに宮島逝去後の相談を当時の首相池田勇人とすべきと思い、宮島邸から一度自宅に戻ったのだった。しかし、 洗顔をしていたところに逝去を知らせる電話が鳴ったと、櫻田は「日清紡績社報」の追悼文で述べている。  櫻田が東京帝大卒業後、日清紡績の入社試験を受けたのは1926年。200名に及ぶ志願者のなかから当時の社長、宮島の最終面接を経て入社したのはわずか2名。櫻田はそのひとりだった。早くから櫻田の力量を見抜いていた宮島は1945年に櫻田を41歳の若さで日清紡績社長に昇格させた後に会長を退任した。  厳格な合理主義的経営とともに、深夜操業廃止など労働者の立場も重視した宮島は、およそ賞されることが嫌いだった。「財界御意見番」といわれた経済評論家の三鬼陽之助によれば、宮島は死の数年前から「戦争で多くの部下が無冠の大夫で死んだ。生き残った俺が勲章などもらって、なんの顔で奴らに会えるか」と周囲に広言していたという。しかし、吉田茂と池田勇人という2名の宰相の政権成立に尽力した宮島には勲一等の叙勲と相応の叙位が追贈されることが予想された。かつてそのことを櫻田がいうと宮島は激怒し、遺言状に「栄誉の思召しは一切断ること」と鉛筆で書き添えた。  1963年9月6日午前7時28分、稀代の企業人宮島清次郎は老衰により84歳の生涯をとじた。そして、鉛筆書きの一行は尊重され叙勲叙位は見送られた。 ■19歳年上の親友、根津嘉一郎との絆  宮島清次郎は1879年、現在の栃木県佐野市の生まれだ。宇都宮中学(現・県立宇都宮高校)から四高(現・金沢大学)に進み、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業すると企業人としての道を選び、住友金属工業の前身である住友別子鉱業所を経て東京紡績に入社、業績回復を成し遂げて専務取締役に昇進する。宮島は東京紡績が尼崎紡績(現・ユニチカ)に吸収合併される際に退任し、根津嘉一郎(初代)が相談役を務めていた日清紡績専務に就任。同社の経営を建て直して安定企業に押しあげ1919年には社長に就任する。このとき清次郎はまだ40歳だった。根津と宮島は、宮島が専務就任直後から互いの経営哲学や見識に共感し、ビジネスを超えた絆を結んだ。根津は宮島より19歳も年上であるが、深い信頼と尊敬の関係が成立する両者の度量の大きさは驚くべきである。根津はさらに、日清製粉創業者正田貞一郎とも強い関係があったわけだが、根津嘉一郎にとって、友であり相談相手であり、社会や日本の未来に向けて同じベクトルを抱く同志であるこの2名の存在が、さまざまなリスクが想定されるなか、一私人による旧制七年制高校の設立という日本の教育史に大きな足跡を残す決断の支えになったことは確かである。  宮島は1921年から正田とともに財団法人根津育英会理事を務め、旧制武蔵高等学校の創設に協力、1940年、根津嘉一郎が急逝すると宮島はその遺志をついで武蔵の運営をサポートし、1951年からは学校法人根津育英会理事長に就任して武蔵高等学校、戦後の武蔵大学の経営に力を尽くした。1960年に私財を学園に寄付し(宮島基金)、これは今日でも学園基金の一つとなっている。  また根津がコレクションした美術品を保持・公開するべく根津美術館の設立に尽力したことはよく知られている。 ■清次郎の人物を見抜く眼力   宮島清次郎は経営者としてすぐれていたのみならず、人物の力量と可能性をいち早く見抜く眼力とその才能を育てる能力にも秀でていた。歴史が証明する強いリーダーに共通する短所は、「次世代の育成ができない」ことだが、宮島清次郎のもとからは政財界の中核を担う才能が多数巣立っている。宮島と帝大同期で5度も首相を務めた戦後の顔ともいえる吉田茂は、外交官出身であるが故に経済があまり得手ではなく、ことあるごとに宮島を頼り、宮島もそれに応えて物心両面で吉田を支えた。  1949年、宮島は第3次吉田内閣の大蔵大臣就任を打診される。しかし宮島は固辞し、かわりに吉田学校の優等生で初当選したばかりの池田勇人と会い、その実力、とりわけ数字に強く驚異的な記憶力を見抜いて推薦する。異例の抜擢で大蔵大臣となった池田は後に総理になり、高度経済成長を牽引した。  池田勇人をはじめ、前述の櫻田武、水野成夫(フジテレビジョン初代社長)、永野重雄(新日本製鉄会長)、小林中(日本開発銀行初代総裁・根津育英会理事長)など宮島清次郎の薫陶を得た財界人は綺羅、星のごとく居並ぶ。 ■座右の銘は「感謝報恩」——清貧無私の人生  宮島清次郎は吉田茂の朝食会に怒鳴り込んで白洲次郎を恫喝するといったradicalな行動でも怖れられたが、自身の生活は清貧というべき極めて質素なものであった。戦後は日本工業倶楽部理事長、日本銀行政策委員として日本の経済的復興に力を注いだ。日本工業倶楽部のある理事が洗面所にお湯が出ないことに注文をつけると「水で手洗いして冬が越せないような老人に経営はできない」と一喝したエピソードが伝わっている。  宮島は故郷に多くの寄付・寄贈もしており、1950年には母校の県立宇都宮高校にR書館を寄贈した。この図書館は現存し、宮島の座右の銘である「感謝報恩」から「報恩館」と名付けられている。また、一昨夏、佐野市郷土博物館から武蔵学園記念室に電話があり、宮島清次郎が佐野市の小学校に多額の図書購入費用を寄付しており、それによって佐野市出身の社会運動家田中正造の書や書簡をコレクトした「宮島文庫」を紹介する企画展をするので清次郎関連の資料を提供してほしいという依頼があった。この件は記念室にとって初耳だったが、自己喧伝を嫌った清次郎の寄付の全容はかように把握が困難である。清次郎は資産のほとんどを寄付しており、遺産と呼べるものはわずかで、晩年は自宅まで売却しようとして周囲に説得されたといわれる。  タイトルの写真は日清紡績の社葬として行われた宮島清次郎の葬儀。左から櫻田武社長、吉田茂元首相、池田勇人首相。三者の表情がそれぞれの清次郎との関係を物語る。なお、1949年秋、池田勇人が第2次吉田内閣で大蔵大臣に抜擢されたとき、池田は秘書官に黒金泰美(後に内閣官房長官)と、英語力に秀でた宮澤喜一(後に第78代首相)を指名したが、この両名は奇しくも旧制武蔵高等学校の卒業生である。  この社葬の翌年、1964年、日清紡績中興の祖と称された櫻田武は、「社長は60歳まで」という宮島清次郎の遺訓を忠実に守り、惜しまれながら退任する。  同年秋、東京オリンピックの開会式が挙行され、日本は世界に向かって大きな一歩を踏み出す。それを可能にした戦後の経済復興に於いて、礎石ともいえる大きな役割を宮島清次郎が担っていたことは、今あまり語られることがない。                                                    (武蔵学園記念室・調査研究員 三澤正男) ※横の写真=上・晩年の宮島清次郎 中・財団法人根津育英会設立の頃の宮島清次郎、推定41〜42歳  下・1936年6月15日、根津嘉一郎(初代)の喜寿を祝って、同窓会と父兄会から寄贈された「根津化学研究所」の玄関での集合写真。右から3人目、玄関柱の前に立つのが宮島清次郎(当時57歳)。中央に桜井錠二学士院長。その右隣に正田貞一郎理事(日清製粉社長・根津育英会理事)。左隣に談笑する山本良吉校長と根津嘉一郎理事長。その左下に玉蟲文一所長と根津藤太郎(後に2代根津嘉一郎)。
2018.08.20
オンケルの遺産 「民文」の礎を築いた原田亨一
はじめに  原田亨一(1897―1938)は、自らの号、恩軒にかけてオンケルと自称され、その愛称で生徒に非常に親しまれた旧制武蔵高校の歴史の先生である。原田は在職中、病床に倒れ、そのまま惜しまれつつ病没した。その教育熱心な授業態度や校友会活動に積極的に取り組まれる姿は教職員や生徒から多大な尊敬の念を集め、その一端は、『校友会誌』(追悼特別号)*1によって明らかである。その内容は、まず名物教師といってよいものであり、愛敬あふれるエピソードにめぐまれている。生徒とのほほえましい話は同号に多数収められており、原田氏の普段の活動については、同号を良く読んでいただければお分かりいただけるだろう。そこで本文では、追悼号では余り触れられなかった、原田亨一の歴史学者としての側面に注目し、学生時代のエピソードや研究テーマ、論文を参照し、武蔵の教育に与えたであろう少なからぬ影響についてみていきたいと思う。 1、大学・大学院学生時代  原田亨一は、明治30年(1897)に高知県高知市に生まれた。大正4年(1915)に第三高等学校第二部甲類に入学するも、同8年(1919)に病気を理由に退学する。同9年(1920)に第六高等学校文科乙類に入学し、同12年(1923)3月に卒業すると、同年4月に東京帝国大学文学部国史学科に入学した。同級生には、皇国史観で固まっていた東大国史研究室を戦後になって立て直し、実証的な歴史研究で多大な業績を挙げられ、後に文化勲章を受章する坂本太郎がいた。坂本は自叙伝の中で原田のことについて以下のように語っている。  原田亨一君は、肋膜で永く休んだとかで年がかなり上だった。自称オンケルOnkelというあだ名を披露して、よくみんなの面倒を見た。ただし学校の講義にはあんまり顔を見せず、修学旅行だけは休んでは卒業できぬという噂だといって参加した。無類の歌舞伎好きで、この人の案内で同級生数名が歌舞伎座の三階に行ったことがある*2。  歌舞伎好きが高じて卒業論文は、出雲の阿国歌舞伎についてであり、後に昭和3年(1928)に至文堂より『近世日本演劇の源流―阿国歌舞伎の内容と其の発展を中心として―』と題して出版されている。さすがに、戦前の研究のため現在では引用されることも少ない本書であるが、本書の史学史上の評価について、芸能史研究の大家である服部幸雄はこう論評している。  この書以前の歌舞伎成立史研究が、とかく「事始」的に「出雲阿国伝」にかかわりすぎて、いわゆる「出雲阿国の伝説」に入っている芸能(念仏踊・神楽など)以外に眼を向けようとしなかったのに対して、視野を周辺の先行諸芸能に拡げねばならないということに着目されたわけで、成立史研究の段階としては明らかに一つの飛躍であった。(中略)信憑性の濃い一等史料を利用するようになった嚆矢であって、このことは研究史上特筆される(中略)歌舞伎成立史が歴史学の一ジャンルとして認められていく道を開いたものといえる(中略)本書の出現によって、成立史研究が「学問」として、新しい展開を果たすことになったといってもよい*3。  服部によれば、原田の研究は歌舞伎成立史研究において一大画期をなす著作として高く評価されている。原田の研究によって歌舞伎成立史研究が歴史学の一分野として確立しえたことが非常に重要な点として評価されており、この点については同級生である坂本太郎も同様に歌舞伎を歴史学的に初めて取り組まれたものと評価しているのと共通している*4。原田の代表的著作の史学史上の位置は上述のようにまとめられよう。  歌舞伎が趣味であることは国史学研究室が毎月11日に行っていた研究集会である十一日会の記録にもしばしば見られる。例えば、大正14年(1925)9月21日の記事によれば、各自が休暇中の旅行について述べられる中で、原田は歌舞伎の写真の紹介と実地見学を説明している様子が紹介されている*5。  大正15年(1926)には東京帝国大学大学院に入学し、同時に史学研究室別室副手を務めている。大学院における研究題目は「室町時代の文化史的研究」であり*6、近世における歌舞伎の成立のみならず、より広く美術史、文化史へとその興味・関心が移っていたことが知られ、その造詣の深さについては、法隆寺再建・非再建論争で有名な建築史家である足立康が追悼号で指摘している*7。  大学院に進学し、副手拝命後の同研究室における原田による重要な提言と思われるのが学生文庫の創設についてである。十一日会の記録によれば、大正15年12月11日の会合において、原田が立たれて学生文庫の創設を提言された旨が記されている。学生一同また当時の同研究室の主任であった黒板勝美教授も賛成するものであり、同研究室の歴史を考える上でも非常に重要であるが、原田の人となりを考える上で重要なことは、同記事によれば、「同(原田)氏曰く「十年後の研究室を目標とすべし」」と発言されたらしいことである。原田は面倒見の良い性格だったらしく、その一例として、国史研究室の後輩である井上久米雄が急逝されると、その卒業論文をまとめて刊行することに尽力されたことがあげられる*8。また、坂本太郎は、恩師である黒板勝美が自身と原田について「君たち二人は、二人合わせて一人前の仕事ができる。まるっきり反対の性格だから」と言われたとしており、黒板氏の真意について原田が親切で面倒見もよく世事にも通じていたのに対し自分は世事にうとく役に立たないことを皮肉っていたのだろうと回想されている*9。  この他に、原田が携わった仕事としては、平泉澄のもとで坂本太郎とともに室町時代から戦国時代にかけて関白・太政大臣であった近衛政家の日記である『後法興院政家記』の校訂作業を手伝ったりしている*10。また、注目される点として『新訂増補国史大系』の校正にも一部参加されており、担当書物は『後鏡』であった*11。『国史大系』とは歴史研究で必須かつ基本となる古典籍を集成、校訂した叢書であり、歴史研究者必携の叢書である。もとは明治時代に田口卯吉の主宰によって刊行されたもので、原田が参加したのは黒板勝美が主宰され、昭和4年(1929)より刊行されたシリーズである。ただし、原田は健康を害したため中途でリタイアしたらしい*12。しかし、黒板勝美が自身の作業を手伝う助手として指名されていたということは黒板が原田のことを高く評価していたことの表れではなかろうか。ちなみに黒板勝美の甥にあたる黒板伸夫も旧制武蔵高等学校の卒業生であるが、伸夫が武蔵に進学することに決まったことを報告すると勝美は大変喜ばれたという*13。伸夫は18期卒業生で昭和20年(1945)に卒業しているので、原田の授業を受けてはいないが、黒板勝美にしてみれば、自分もよく知っている教え子が教えていた学校に甥が入学したわけで、喜んだ背景には単純に旧制高校入学を祝う以外の気持ちもあったのではないだろうか。  いずれにせよ、原田亨一は、学生時代から人の面倒を見るのが好きな世話焼きの人物で自分の研究だけでなく、他人の研究の手伝いや仕事を熱心に行う学生であったことがうかがい知れる。このような学生生活を経た上で旧制武蔵高等学校の教員となったわけで、世話好きな一面は、生徒と積極的に関わっていく原田亨一の教育スタイルとして旧制武蔵高校の教育にも大きな影響を与えたものと考えられる。 2、研究内容  原田亨一の論考は多いとは言えない。若くして亡くなられたことを勘案しても多い方ではないだろう。以下が確認できた活字化されている論考である。 1928年『近世日本演劇の源流―阿國歌舞伎の内容と其の發展を中心として』至文堂 1929年「信西古学圖にあらはれたる原始散樂の研究」『歴史教育』4―2 1929年「正倉院御物弾弓にあらはれたる原始散楽」『寧楽』12 1934年「平安時代の藝術」國史研究會編輯『岩波講座日本歴史 第3(上代2)』岩波書店 1934年「伎楽雑攷」『寧楽』16  これら一つ一つの論考に対して論評を加えることは避けるが、注目すべき点として、演劇史を扱う関係上からか、文献資料のみにとらわれず、信西古楽図や正倉院宝物に見える絵柄などに注目されている点があげられるであろう。文字資料にとらわれずに研究する姿勢が教育に与えた影響も十分に想定される。この他にこの様な原田の研究姿勢、能力を伺うことが出来る場面としては大学院での研究会での報告内容があげられる。以下、長文ながら原田の研究報告に関わる部分を全文引用した。      第五回例会   十一月廿八日?午後四時より史料に於て開き、五時半散會。本日は原田氏の研究發表があつた。即ち法隆寺四天王像一躰の銘文〈山口大□費上斤次木閇二人作也〉とある下に行久皮臣とあるのを行久皮臣(イクハノオミ)と解され、此の人は造像を手傳ひし人ならん云はれ、應神紀に高麗より献ぜる鐵の盾(的)を射通してイクハノ臣なる姓を與へられた者の子孫ならんとて、新撰姓氏録其他國史の記事を引用して考証された。黒板先生は評されて行にイなる発音なくユクと訓むべきであるが、行は伊と解する方可ならんと言はれた。又工藝に直接手を下すは雑戸等の賤民で姓を有する者が手を下す筈なく、又應神紀にイクハノ臣なる姓を賜つたとある記事は地名解釋説話と同じく、子孫が其の祖先を飾り、又その姓を説明せんが爲に作爲せる家の纂記の如きもので信用するべきものではないとの御説明があつた*14。    (中略)   〇志貴山縁起に見える東大寺大佛殿に就て 原田亨一君   志貴山縁起三巻中尼君の巻にある東大寺大佛殿は天平創建當時のスケツチではあるまいか。現在の大佛殿は7X7、天平當時のは11X7である。志貴山縁起のは鎌倉時代のものではない。大佛記、東大寺要録、扶桑略記によれば、鎌倉時代のものは天平時代の土台の上にそのまゝ作られた。志貴山縁起のは正面に扉七ツあり。東大寺要録には扉十六とある。今の大佛は石台の上に蓮座があるが、志貴山縁起の図には石台のかはりに瑪瑙石(東大寺要録)の蓮辨の上に坐して居る。此の瑪瑙石の蓮辨の模様は三月堂の不空羂索觀音の蓮辨と同一形式である。この蓮辨にも三千世界の図があつたであらう。又志貴山縁起には脇侍が見えて居る。現在の石段は三つあるが、志貴山縁起のは五つに区切られて居る。石壇上の欄干は図のと同様なものが今もある。組物は図では二手先組となつて居る。又その左右の小壁に唐草模様がある。図中の一本燈籠は今も変りはない。恐らく志貴山縁起に見える図は天平創建のものであらう*15。  第5回例会報告では、法隆寺四天王像の銘文について「片文皮臣」と読まれていたものに対して、「行久皮臣」(イクハノオミ)と釈読し、仏像制作を担った人物の名前ではないかとされている。これに対して黒板勝美は、「行」には「イ」という音はなく、「伊」ではないかとされ、さらに『日本書紀』にみえる「的臣」の伝承については氏族伝承であることから史実かどうかには慎重であるべきという史料批判を展開しており、あくまでも実証、論証的歴史学を志向しようとする当時の東大国史研究室の研究姿勢が見て取れる。  実は、この文言を「イクハノオミ」と読むことは、その後に東野治之によって1960年代以降出土するようになった木簡等を用いて論証されており、原田の見解は―「行」と釈読した以外は―正当であったことが実証されている*16。時代状況―木簡等の出土史料が存在しない時代―から論証過程に問題があるとはいえ、史料を読み取る能力は戦後歴史学の研究者と比べても遜色がないことが明らかである。  美術史料を多用する点は第7回報告でも看取され、志貴山縁起絵巻に見える東大寺大仏殿の構造から絵巻に記された大仏殿を天平創建当初のものと解釈する点は、美術史的、建築史的視点が欠かせない。原田は、昭和6年に大学院を退学されており、この他の研究内容を明らかにすることは叶わないが、この二回の報告内容が分かったことによって、①史料読解能力、②美術史に対する見識、③建築史に関わる知見、④それらを積極的に活用する先見性といった原田の歴史学的素養が明らかになったと言える。  特に原田は武蔵高等学校に着任後、昭和4年(1929)に文化学部の事業として拓本展覧会を実施しており*17、この時には、国史学研究室所蔵の拓本を多数借用して実施している様子が明らかになっている。現在の東大日本史学研究室では、黒板勝美を中心として行われた全国の金石文拓本が所蔵されており*18、『校友会誌』の目録と所蔵拓本がほぼ一致する。また、採拓が行われた時期は原田の在学期間に一致していること、また、大学生、大学院生時代の懇話会にて黒板勝美が日本史を勉強する者の心得として様々な分野に精通すべきことを縷々述べていることから考えても、美術、芸術史料活用の積極性は黒板勝美の薫陶を受けたものであろう。そして、この黒板勝美の教えを受け、拓本展覧会に代表されるように武蔵高等学校では、単なる文献史料に捉われずに様々な史料に基づいた歴史教育が校友会活動を含めて行われたものと考えられる。 おわりに  以上、原田の著作や研究内容、また同窓生の回顧録より原田の研究姿勢や目的意識、その識見と能力についてみて来た。最後に、原田の授業を受けて、歴史分野に大きな足跡を残した二人の太田による原田亨一に関する回顧について見て筆をおきたい。原田亨一の授業内容について、4期(文)卒業生で帝大国史研究室を卒業し、史料編纂所教授を務められた太田晶二郎は以下のように回顧されている。  旧七年制私立武蔵高等学校の国史の時限、教授原田亨一先生が小冊子を生徒に配って、読めと命ぜられたので、皆、目を白黒させた。何しろ上宮聖徳法王帝説證注(『日本古典全集』本抽印)というしろ物だったのだから、  時処移って、東京帝国大学の国史十一日会、昭和七年六月例会、「宮田〔俊彦〕君引く所の法王帝説の問題から、一年生太田晶二郎君立って明快に是を論じて気を吐く」。此れは『史学雑誌』第四十三編第七号、彙報、一三九頁にまさしく記録する所である。本当に「明快」であったかどうかは保証せぬが、半家言ぐらい持っていたとして、入学後二個月そこそこだったのだから、失礼ながら大学の御蔭ではない、原田先生の賜ものにほかならぬ*19。  同じく4期(理)卒業で、帝大工学部建築学科を卒業し、後に武蔵学園の学園長も務められた太田博太郎は以下のような回顧談を民族文化部の創立五十周年記念号に掲載されている。  原田先生は、三高の理科を出て、六高の文科に行かれた。それで若干、他の生徒より年が上なもんですから、それに人の世話をするのが好きだからということもあるのかもしれませんが、当時からオンケルというあだ名があって、自分でも気に入っておられた。で、我々もオンケル、オンケルと呼んでおりましたが、そのオンケルさんの三高の時の同級生に長谷川輝雄という人がいた。東大の建築史の助教授になってすぐ、昭和二年に亡くなられてしまった。それでオンケルは自分の弟子の中から、将来を非常に属目されながら若くして亡くなった、親友、長谷川さんの代わりになる様なやつを作っておきたいと思っておられたらしい。ただ建築史は、ヨーロッパでは考古学者、または美術史家がやるけど、日本では建築の卒業生の商売になっている。当時、工学部に建築学科があったのは、東大と京大と東工大ですけれども、いずれにしても理科を卒業した人間でないと入れない。だから武蔵の理科の生徒の中で歴史が好きなやつはいないだろうかと探しておられた。そういう風にはっきり聞いたことはないんですが、遊びに行くと遅くまで引き留めて話しをされる、その口裏を察すると、どうもそういう意図があった様です*20。  武蔵高校の授業内容については、一般的にアカデミックな内容と評価されることがしばしばであるが、太田晶二郎の回想は、旧制時代から原文にあたって授業を行う様子が看取され、校風の淵源が旧制時代に遡ることが出来そうである。旧制時代の武蔵については、少数精鋭のがり勉と評されることもあるが、単なるがり勉とは言い切れない側面があることがみてとれるだろう。また、太田博太郎の随想からは、「十年後の研究室を目標とすべし」と発言されたように、将来を見据えた人材育成を行っていこうという姿勢が感じ取れる。  拓本展覧会を開くなど原田が精力的に活動された文化学部は後に民文の愛称でよばれる「民族文化部」と改称されて、現在まで続き、その卒業生の少なくない人数が歴史学者として育っていったことを考え合わせれば、原田の業績には軽視できないものがあるだろう。また、拓本展覧会では、東大国史研究室から多数の拓本を借用しており、武蔵高校と東大国史研究室との浅からぬ関係が見て取れ、その両者の間に原田の存在があることは疑いない。本文はあくまで武蔵の歴史を明らかにする目的の一端として執筆したが、本文を通じてより広い範囲に原田亨一という興味深い人物がいることが知れ渡れば幸いである。 ↑ 校舎脇での集合写真、前列中央が原田亨一教授。   ↑ 民族文化部の記念祭における展示と思われる写真、左から二番目が原田亨一教授。   脚注: *1 武蔵高等学校校友会編集・発行『故原田教授追悼 校友会誌別号』1938年。 *2 坂本太郎『古代史の道 考証史学六十年』1980年、62頁。 *3 服部幸雄『歌舞伎成立の研究』風間書房、1968年、14~17頁。 *4 武蔵高等学校校友会編集・発行『故原田教授追悼 校友会誌別号』1938年、8頁。 *5 東京大学文学部日本史学研究室所蔵『東京帝国大学文学部国史研究室十一日会記録』同日条。 *6 東京大学文学部日本史学研究室所蔵『東京帝国大学大学院学生談話記録』第一回記録。 *7 武蔵高等学校校友会編集・発行『故原田教授追悼 校友会誌別号』1938年、10頁。 *8 武蔵高等学校校友会編集・発行『故原田教授追悼 校友会誌別号』1938年、7頁。 *9 坂本太郎『古代史の道 考証史学六十年』1980年、89頁。 *10 坂本太郎『古代史の道 考証史学六十年』1980年、88頁。 *11 皆川完一・山本信吉編『国史大系書目改題』下、吉川弘文館、2001年、955頁。 *12 坂本太郎『古代史の道 考証史学六十年』1980年。98頁。 *13 黒板伸夫・永井路子編『黒板勝美の思い出と私たちの歴史探求』吉川弘文館、2015年、4頁。 *14 東京大学文学部日本史学研究室所蔵『大学院国史学科専攻学生談話会記録』昭和四年十一月廿八日付第五回例会記録。 *15 東京大学文学部日本史学研究室所蔵『大学院国史学科専攻学生談話会記録』昭和五年六月十九日第七回例会記録 *16 東野治之「法隆寺金堂四天王像光背銘の「片文皮」」(『東京国立博物館研究誌』388、1983年)。 *17  『校友会報』(9〈分冊1〉、1929)16頁、太田博太郎「民族文化部創立当時の思い出―OB会講演より―」『民族文化部五十周年記念随筆集』(武蔵高校民族文化部OB会、1980年)6頁。 *18 佐藤信解説「東京大学日本史学研究室架蔵拓本目録」、「東京大学日本史学研究室架蔵拓本目録索引」、「東京大学日本史学研究室架蔵拓本目録(続)」(『東京大学日本史学研究室紀要』創刊号、2、3、1997~1999年)。 *19 太田晶二郎「『上宮聖徳法王帝説』夢ものがたり」『太田晶二郎著作集』第二冊、吉川弘文館、1991年、初出1960年、9頁。 *20 太田博太郎「民族文化部創立当時の思い出」武蔵高校民族文化部OB会編集・発行『民族文化部五十周年記念随筆集』1980年、6~7頁。
2018.07.26
「武蔵のゼミ」 ここが出発点!
はじめに  大学開学当初からの「少人数制教育」および旧制武蔵高等学校時代から引き継がれた「三理想」の精神を具体化したカリキュラム「ゼミナール教育」。  「経済学部経済単学科時代(1949~1958年)」「経済学部経済・経営複学科時代(1959~1968年)」「経済学部・人文学部複学部時代(1969~1991年)」そして「学部改組、カリキュラム改正に伴う新たな展開(1992年~)」の過程において「ゼミの武蔵」と称されるほどとなり、「ゼミ」の果たす役割は大きい。   旧制武蔵高等学校開設当時の少人数制教育  「少人数制教育」は旧制武蔵高等学校時代の特色であり、まずは旧制武蔵高等学校開設に際しての教育指針「国際的な感覚を持ち、自主性のある人材の教育を目標とした」視点を史料から見ることにする。  一木喜徳郎初代校長は、「我国民の教育的欠陥は外国語に不鍛錬なことである。最近国際連盟規約の批准事務を掌った私は特にそれを痛感して現在の教育制度では到底『世界の日本人』を作ることは難しいと考えた。故に新設の私立高等学校の特色を其処に求めて力を尽くしたい」と、校長就任に際し述べられている。そして「外国語教育の重視を宣言した」と1921年5月11日の朝日新聞ほか各紙に報じられた。  実際の「英語」の授業では、40人の一クラスを20人ずつの2組に分けて別々に行う「分割授業」が採用された。これは山本良吉初代教頭の熱心な主張を容れたものであるという。  また、分割授業という形態は新制時代に受け継がれ、1953年(昭和28年)より英語・数学の一部に実施することになった。さらに1966年(昭和41年)より中学1・2年の理科にも取り入れられた。  他の教科の特色も見てみる。  「修身」これは今日の道徳あるいは倫理に当たるが、山本初代教頭(第三代校長)が尋常科の全生徒の授業に当たった。生徒の日常の生活と行為に直結した具体的問題について、個人としてまた社会人として踏むべき道を説いた。教科書によって教えるというよりはむしろ独自の個性を通じて生徒一人ひとりと接触する方法をとった。12~13歳の少年期において基本的なしつけを身につけねばならぬというのが山本初代教頭の信念であり、それによって徹底した教育を行った。  「国語・漢文」は三大理想の一つである「東西文化の融合」の観点から特別の配慮があり、「数学・理科」は三大理想の中の「自ら考え自ら調べる能力」という観点からも大きな比重がおかれた。  小学校卒業者を入学させて7年間の教育を施して、大学に進学させるのであるから、自然に「エリート教育の形態」をとらざるを得ない。開校当初から「厳選少数教育」を目指したのであった。   武蔵大学の草創期― 「特殊研究(ゼミナール)」の導入  次に、大学開学に際し、「旧制武蔵高等学校の伝統」が、どのように反映、引き継がれたのか当時の入学志願要項、大学入学案内などを見てみる。  1949年度(昭和24年度)入学志願要項には、「経済理論、経営実践の各種講義及び演習による十分な専門知識と、社会人、経済人としての必要な高度の科学知識並びに豊富な文化教養を有する有能な実力ある人材を育成せんとするものである」と記されている。  1950年度(昭和25年度)入学志願要項には、「将来の日本経済界に活躍する経済人として充分な専門知識と、豊富な文化教養とを有する、実力ある人材を育成せんとするものである。なお、本学には武蔵高等学校・武蔵中学校を併設して「その伝統による教育」をもって日本文化の向上に寄与せんことを期している」と記されている。  1951年度(昭和26年度)入学案内には、「本大学は、旧制高等学校以来の豊富な教育経験を基幹とし、これに優秀にして豊富な教授陣容を整備して、比較的少数の学生に徹底した教育を施し、真の実力を養い正しい人格を培い現実社会に正しく強く生きぬくことのできる人物を養成することを特色とする。教授と学生との密接な交渉は相互の人間的信頼の上に、知識の徹底的な習得と中正穏健な思想の形成と高潔な人格の陶冶を可能ならしめるもの」と記されている。 また、「学則」の項では、「特殊研究(ゼミナール)」について、「最初の二学年においては毎年四単位、以後は八単位以上の特殊研究を取得することになっている。これは学生がその希望する学科を選んで担当教授指導の下に特に自発的な研究を行うものであり、又教授・学生間の密接な接触によって人格陶冶に資せんことを期している」と謳われている。  1949年(昭和24年)4月の第一回入学式において初代宮本和吉学長(旧制武蔵高等学校第五代校長)は「本学は過去の伝統にこだわらず、いわば処女地を開墾し、新しい伝統と校風を築いていくが、『視野の広い、世界人としての日本人、自ら調べ自ら考え、批判的精神を失わない日本人をつくり上げる』というモットーを大切にしたい」と述べ、「この大学を良くするも悪くするもすべて諸君の今後の努力にかかっている。武蔵大学の歴史を先ずつくる人、それは諸君である」と結んでいる。  そして、初代鈴木武雄経済学部長は、宮本学長が描く「新しい伝統と校風」の具体化として武蔵大学の第一の特色「少数精鋭主義」を基本とする教育方針を前面に打ち出した。  もともと旧制武蔵高等学校は、少数学生を徹底的に教育することを校是として大きな成果を上げていたから、武蔵大学がそれを大学教育の「場」において実現できるのであれば、極めて望ましいわけである。  第二の特色は、「全学ゼミナール制」と「指導教授制」。これは「少数精鋭主義」の具体的な面であり、旧制武蔵高等学校以来の建学の三大理想の一つの「自ら調べ自ら考える力ある人物」の育成には最もふさわしいものであって、マスプロ大学ではない武蔵大学にして、はじめて採りうる制度であるといってよい、と位置付けている。  「全学ゼミナール制」は、第1年次および第2年次を「教養ゼミナール」、第3年次および第4年次を「専門ゼミナール」とし、学生すべてが専任教員の担当するゼミナールのどれかに入れるように全ての専任教員がゼミナールを開講、毎学年のゼミナールを必修科目とするものである。  なお、1969年に開設した人文学部においては、これを「演習」と呼称したが、当時の人文学分野では「ゼミナール」はなく、「演習」と呼称する傾向にあったと、星野誉夫名誉教授から史料調査の段階でご教示頂いた。  「指導教授制」は、このゼミナール制の基盤の上に設けられたものであって、ゼミナール担当の教授・助教授・専任講師がそのゼミナール学生の指導教授となり、ゼミナールにおける学問研究の指導とともに、それとは別の学生の思想・生活その他あらゆる面にわたる親身の相談相手となるものである。  この「ゼミナール制」と「指導教授制」によって、教授と学生の接触が深まり、他大学には見られない相互信頼のヒューマン・リレーションが形成されたことは、武蔵大学の特色となっていく。 ゼミナールの様子 1951年(昭和26年)「武蔵大学入学案内」より    ここで鈴木武雄経済学部長についての「思い出」を一つご紹介する。  1992年に就任した第八代櫻井毅学長は、かつて1948年4月、新制武蔵高等学校2年に編入されたが、随筆集『思い出に誘われるままに』の中、「武蔵高等学校時代の思い出」で、鈴木学部長が新制武蔵高等学校の「社会科」の授業もされたことを記している。「高名な学者が武蔵大学にこられて、われわれの社会科の授業を担当してくださるということに、大いに誇りを感じたものだ」、「その授業方法について、前半は講義をされたが、後半は『いわゆるゼミ形式』を取るといわれ、報告者を指名して順々に報告させた。社会科ということで内容は生徒に完全にゆだねた。生徒は勝手にテーマを決めたため、テーマによっては「あまり行き過ぎないように」と苦笑され注意を与えられたほどだ」、と回想されている。  大学開学から8年が経過した1957年度(昭和32年度)の『武蔵大学概覧』に、当時の鈴木武雄経済学部長が「本学の特色」と題する一文を草している。  「武蔵大学は、大学としては新しいとはいえ、創立以来すでに満8年を経過し、その間卒業生を世に送ること5回におよんでいる。したがって旧制武蔵高等学校の光輝ある伝統の校風の上に、いまや大学としての独自の学風もほぼ確立されたといってよい。それは、学生数を比較的少数にとどめていることによるであろうが、教授と学生の間がきわめて親密だということである。本学は、基礎的な講義のほかに、ゼミナールに大いに力を入れているが、一般教育および専門両課程の専任教授・助教授総員が担当しているので、全学生は、一人残らず毎年ゼミナールに入ることができ、且つ1ゼミナールあたり学生数が20~30人であるため、行き届いた効果的な研究指導が可能である。また、とくに指導教授制なるものを設け専任の教授・助教授一人当たり平均20~30人の学生を配属したグループをつくり、教室以外の師弟同行の場として、緊密な接触指導を行うとともに学生の勉学および生活上のよろず相談相手たる役を果たしている。(中略)こういうことは充実した教授陣に対し学生数が比較的少数であるからこそ可能なのであって、他のいわゆる『大』大学には見られないところの本学独自の学風として、私どもひそかに自負するところである。」   文系総合大学をめざして  経済学部に人文学部を増設、複学部体制移行に際し、武蔵大学事務部編『武蔵をめざす友へ』《武蔵の青春群像 No.5 1968年(昭和43年)》に、第三代正田健次郎学長が「武蔵の教育理念」と題する寄稿がある。  「国際的な感覚と知識を身につけた人材を生み出す。身につけるためには自主的に調べ、考えなくてはならない。これが武蔵大学の建学以来の理念であり方針である。このことは本学に限るわけではないが、大学において、特に大切だと思う。  大学教育を受けることによって学生は何を得ようとすべきか。学士の称号を得ることでもない。スポーツの選手になることでも勿論ない。良い職場を得ること、つまり働き甲斐のある職につくことも望ましい結果ではあっても、大学教育の直接の目的とはいえない。  大学では自己と社会との関連に於いて確立し、あわせて社会の一員として役立つ専門の知識技能を身につけること、それ自体を目的として専念すべきである。  科学技術の進歩は世界をますます狭いものにし、今日では国際的視野に立たなくては、何事もなし得ないようになった。本学の教育理念として重視してきた国際的感覚の重要性は、現在の時点に於いて特に強調すべきであろう。学校教育においては、本学に限らず、ともすると知識を偏重するきらいがある。知識はそれが働かされて初めて効能があるので、そのためには感覚にまで深められていることが望ましい。換言すれば身についたものにすることである。自ら調べ自ら考えるという、本学の教育方針はそのためであり、それも教授との密接な接触により、その個人的指導のもとに行なおうとしているのである。  知識の切り売り的な、書物を読んで事足りているような教育は本学のとらざるところである。  本学が開学以来経済学部だけの単科大学として今日に至り、ようやく明年度より人文学部を増設することになったのもこの望ましい姿を無理なく堅持するためであった。将来もこの姿を教職員・学生が一緒になって更に徹底させていくように努力したい。」  その後、1992年(平成4年)からは学部改組、カリキュラム改正に伴う新たな展開が進められている。  2005年(平成17年)10月、「武蔵学園将来構想計画」が学校法人根津育英会から打ち出された。その中で「大学のビジョン」として、  「武蔵大学は、21世紀の新たな時代と社会において大学に求められる知の創造、継承と実践にその教育研究活動を通じて貢献すること(「知と実践の融合」)を基本的な理念とし、知的実践の基盤となるリベラルアーツを重視した教育に重点を置く大学としてその社会的使命を持続的に果たしていくことを目指す。」  と記され、この理念・使命の達成のための教育・研究活動等の基本目標を、次のように定めている。  『教育の基本目標』として、「建学の三理想」と「自由闊達な学風」の今日的な意義と有効性を踏まえ、その新たな展開を図る。すなわち、①自ら調べ自ら考える(自立)、②心を開いて対話する(対話)、③世界に思いをめぐらし、身近な場所で実践する(実践)ことができる資質・能力を有し、21世紀の社会を支え発展させ得る「自立した活力ある人材」を育成する。   おわりに 繋げよう武蔵の伝統  この新たな展開の中でスタートした「三学部横断型ゼミナール」、その運営に必要とされる能力として「社会人基礎力」を求めている。その社会人基礎力の活用を含めた三学部横断ゼミナールの具体的実践内容を卒業生にもアピールする目的で、「大学開学60周年記念オールカミング(2010年(平成22年)3月6日開催)」プログラムの一コマに組み入れた経緯もある。  大学開学以来積み上げた約70年の重み、それを未来に確実に繋ぐためにも卒業生の協力も一層重要になると感じる。「自ら考え、そして実践する姿勢」は、卒業生としてずっと持ち続けていきたい。 【主要参考文献】 『武蔵五十年のあゆみ』 (1972年 昭和47年) 『武蔵七十年のあゆみ』 (1994年 平成 6年) 『武蔵九十年のあゆみ』 (2013年 平成25年) 『武蔵大学五十年史』  (2002年 平成14年)  『随筆集 思い出に誘われるままに』 櫻井 毅 (2007年 平成19年)  キャンパス内の緑陰でのゼミナール授業風景。中央は近藤康男教授。  『武蔵大学五十年史』2002年(平成14年)に掲載
2018.07.13
智の邂逅ーー単学部からの飛躍
高津春繁と正田建次郎
人文学部を生んだ世界的数学者と言語学者の出会い  1955年からの数年間で、経営学科の新設と大規模な施設計画をほぼ完成した武蔵大学は、少数教育を基盤に「経済の武藏」「ゼミの武蔵」の社会的評価を確実なものにした。さらに1963〜4年ごろには、研究・教育の一層の充実のために複学部への発展が求められるようになった。こうしたなか、1965年、正田建次郎元大阪大学学長(1902-1977)が武蔵大学学長・武蔵高等学校中学校校長に就任すると、7年後にせまった学園創立50周年を念頭に、大学の質量両面の拡充に着手。その成果は1969年、人文学部の創設という具体的な形となった。この人文学部創設には初代人文学部長を務めた高津春繁(こうづ・はるしげ 1908-1973)前東京大学教授の役割が大きい。世界的数学者と言語学者という異なる分野の知性の邂逅をふりかえる。 ■長イスでの長考——文学部ではなく、Humanities 人文学部へ  自宅の南に向いた居間に置かれた長イスには、冬の穏やかな陽が舞い降りていた。1967年、師走半ば、東京大学教授高津春繁は、昼食後この長イスに横たわり、陽射しに包まれながら2時間以上も瞑目したままだった。比較言語学、ギリシア文化を中心とする西洋古典学の大家は、どんな小文でも大著でも、なにかを纏め決断するときには、この長イスで沈思黙考するのが習わしだった。やがて、陽が傾き部屋が薄暗くなった頃、高津はゆっくりと起きあがると机上のメモに力強い字でこう書き留めた「Humanities 人文学部」。  高津は神戸市にうまれ、旧制第六高等学校から東京帝国大学文学部言語学科に進んだ。卒業、オックスフォード大学に留学。帰国してすぐに辻直四郎(つじ・なおしろう 古代インド学・言語学)から引き継ぐ形で東京帝大の講義を受けもった。その内容をもとに上梓した『印欧語比較文法』は今でも比較言語学の研究者が避けて通れぬ1冊であり、さらには19世紀には受け入れられなかったソシュールの評価にもつながった。1951年には東京大学文学部教授に就任、第3代日本西洋古典学会会長も務め、呉茂一(くれ・もいち)とともに西洋古典学、とくに古代ギリシア文学研究の泰斗となっていた。  高津が師である辻から、「経済学部単学部の武蔵大学が『文学部』を増設する計画がある。ついては学長の正田建次郎氏と会ってほしい」といわれたのはその年の秋のはじめである。理知的だが義に篤い高津にことわる理由はなかった。  正田建次郎武蔵大学学長・武蔵高等学校中学校校長(当時)に高津が学士会館で面会したのは秋も深まった11月である。そして師走はじめには、正田邸で辻と桂壽一(かつら・じゅいち 哲学者)を顧問に招き、新学部創設のミーティングが行われた。この席には上野景福武蔵大学教授らも参加。高津が正田学長以外の武蔵大学の関係者と接触したのはこのときが最初のようだ。  高津はもちろん正田建次郎の名前は知っていた。武蔵の創設者根津嘉一郎の親友である正田貞一郎の次男にして皇太子妃(当時)の叔父、そしてなにより世界的な数学者であるとともに大阪大学中興の祖といわれた学長としての実績は、専門の異なる高津にとっても十分認識できていた。    だが、高津は学士会館での初面談と会合で、人間としての正田建次郎のスケールと魅力に惹かれてしまう。正田学長の堂々たる体躯に矛盾しない、細事に動じない大らかさと真摯な態度。学問に対する志の高さと造詣の深さ、さらに新学部創設への熱い思いに高津は大きく心を揺さぶられたのだ。 ■哲・史・文、全てを包括——人間の人間たる理由を培う人文学部=LIBERAL ARTSへの旅たち  新学部創設に向けた第1回会合からほどなく、高津は正田学長に招かれて武蔵を訪ねた。大講堂から濯川、そして諸施設を正田学長直々の案内で見学したが、敷石の1枚、樹木の1本にまで学長の思いがこもっているのを高津は感じた。それは、一貫して官立で学び教鞭をとってきた高津にとっては私学ならではの緻密かつ和らいだ空気感だった。高津はまた、そのときに武蔵高等学校の教育プログラムにも強く関心をもち、後に久美子夫人に「あのような高校で教えてみたい。いや、もう一度生徒になって学んでみたい」と語っている。  かくして、「あの学長のもとでなら」と、高津は武蔵大学文学部創設に協力する意志を固めた。しかし学部新設には、さまざまな準備作業、人事や財務面の計画立案や交渉などが山積した。根っからの研究者であり、けして実務派ではなく、しかもすでに専門分野では大家であった高津だが、年末から翌春にかけてはまさに「師走」を過ごすことになった。翌年には東大の定年退官を控え、それ以後は愛してやまないギリシア研究に没頭することが高津の計画だった。だが、正田学長との出会い、抽象代数学と比較言語学という狭義では異質な分野の、しかし広義に言語・記号に水源をもつ智という意味では、重なりあう部分をもつ学問の専門家同士の邂逅が生み出した熱量が高津をつき動かした。  高津の人文学部創設への思いは、以下の文部省に提出された人文学部設置認可申請書のなかの「設置要項」に明確に示されている。  「人文学はもともと、ローマのキケロによって提唱せられたhumanitasに由来し、人間形成のために必要な諸々の知識と、その結果の正しい応用を意味した。それが中世から文芸復興期にいたるとlitterae humanioresとして西欧における教育の基礎と見做され、ギリシア、ローマの言語への深い理解の上に立ち、文学、思想、歴史はもとより、広く芸術全般、これらを培い育てる社会そのものに対する把握を加えて織り成された高い叡智を教養する学問と考えられたのである。  新たに設立を計画している人文学部は上述のような、人文学に対する理解にもとづき、広い視野をもつ人材の育成を主眼とする。学部は欧米文化学科、日本文化学科、および社会学科の三学科をもって構成される。前二学科において「文学」の名称をさけて、あえて「文化」とした理由は、人文学に対する上述の基本理由から、在来の文学部に見られるような晢・史・文の狭い垣根を意識的に除去し、人間存在と文化伝承の中心をなす言語の習熟を基盤に、広く思想、文学、芸術、政治、経済、社会等に関する専門知識を授けて、幅と厚味のある人格の養成を目指したためである。欧米文化学科と日本文化学科の併設を意図した理由は、西欧文化の中心的担い手である英・独・仏三民族の文化や生活、その深い影響の下に独自の新旧文化の文脈を形成しつつある日本民族の生活や文化に対する相互理解と専門的研究の必要を痛感したが故である。また、社会学科は、東西文化交流の一拠点として、独特の状況を展開しているわが国社会構造全般の解明を中心に、制度や文化を運載する生活共同体そのものの維持発展に対する偏らない把握をねらった科目を編成している。  とくに、専門教育課程に豊富な共通科目をおいたことは、前記理念を卒直に具体化したものであって、在来の縦割りシステムからくる独善的なセクショナリズムの弊を排除しつつ、人間形成のために必要な専門知識を広く習得させる意味をもち、本学部の特色の一つとするところである」 ■ソークラテースやプラトーン、アリストパネースのように    かくして1969年2月8日、武藏大学人文学部の設置が認可され、同月末と3月に2期に分けて入学試験が行われた。定員は欧米文化学科100名、日本文化学科50名、社会学科100名である。  4月1日、武蔵大学人文学部が開設され、初代学部長に高津が就任した。8月には3号館の学部増設に伴う改修工事が完成し、人文学部研究室、学科研究室、演習室、教室などが整備された。単学部単学科でスタートした武蔵大学の新たな旅たちである。おなじく4月には大学院経済学研究科経済学研究科選考修士課程も設置され、学園創立50周年事業は着々と進んでいた。また、秋には正田建次郎学長・校長が文化勲章を受賞するという慶事もあった。  しかし、1968年ごろからから大学立法や沖縄返還協定、日米安全保障条約自動延長などをめぐって「学生運動」が全国に広がっていた。武蔵大学もそれと無縁ではなく、さらに学費改定とあいまって学生集会やストライキが行われた。学生側の要求する団体交渉は、野次と怒号が飛び交う交渉とは呼べないものだったが、正田は学長として、高津は学部長としてできるかぎり学生の声に耳を傾けた。そうした大学紛争への対応は両名にとっては大きな心労であっただろう。  高津は人文学部の準備中から「第1回の卒業生が出た際には、彼らとともにソークラテースやプラトーン、アリストパネースのように酒を酌み交わしながら学問を、社会を、そして人生を語り合いたいものよ」と夫人に語っていたという。また、一日も早く大学院での専門の講義をできるようにと準備もしていた。  高津は1972年、紫綬褒章を受賞した秋ころから体調をくずし、学部長を努めることが困難になり療養生活に入った(上野景福教授が学部長代理)。明けて73年3月には第1回人文学部卒業生284名が誕生し、4月には高津の念願だった大学院人文科学研究科が開設するが、5月4日高津春繁はその研究と学生の育成に捧げた生涯を閉じた。  正田建次郎学長・校長は、1975年、新制度により設けられた学園長に就任し、武蔵学園全体の発展に尽力したが、1977年3月20日、講演先の足利市で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。武蔵高等学校中学校卒業式の翌日だった。  正田建次郎が武蔵で過した12年間のエピソードについては、あらためて紹介したい。                                                    (武蔵学園記念室・調査研究員 三澤正男) ※タイトル写真=正田建次郎初代学園長(左)、高津春繁初代人文学部長 写真1枚目=1969年度の武蔵大学の学生募集ポスター 写真2枚目=日本文化学科の演習報告書 写真3枚目=1973年3月21、人文学部第1回卒業式で卒業生一人ひとりと握手する正田学長(中央)。この卒業式(学位授与式)での学長と学部長による 握手による送りだしは現在も続いている  
2018.07.09
清濁を呑み今日も流れる
濯川(すすぎがわ)物語
 武蔵学園内を流れる濯川は、春の桜、初夏には新緑、秋は紅葉と、四季の移ろいを水面に映しつつたゆとい、生徒・学生・教職員のみならず近隣の人びとや訪問者に安らぎと潤いを与えている。校内に池や噴水などの水がある学校は少なくないが、川が流れる学校は稀だ。  武蔵学園の魅力のひとつに23区でありながら校地の自然の美しさが挙げられるが、濯川は大欅とともにその象徴といえる。 ■320年前からの流れーー千川上水中新井分水  濯川という名称は古来よりのものではない。その起源は元禄9(1696)年、5代将軍綱吉の時代まで遡る。この年、綱吉は江戸城以北の飲料水確保の名目で玉川上水を水源とする上水の開削を指示し、現在の武蔵野市と西東京市の境界付近から取水された水は、巣鴨から地中に埋めた木樋を通り、湯島、本郷、白山、外神田、浅草の一帯を潤した。しかし一方で、綱吉の小石川の別荘、湯島聖堂、寛永寺、浅草寺、さらに綱吉が重用した柳沢吉保の下屋敷(六義園)にも大量の導水がなされた。  総距離は22キロメートルに及び、高低差は約40メートル。寛永時のある上野の台地にもサイフォン効果で水をあげる技術が用いられていた。設計は政商の河村瑞軒。開削には仙川村太兵衛、徳兵衛があたった。この二人は後に仙の字を改め千川の姓が与えられ水流の管理も委託された。「千川上水」の名はここからである。   その10年後、それまで天水に頼り幾度も干害に苦しんできた千川上水沿いの20か村から農業用水としての使用が嘆願され、現在の練馬区、豊島区内7か所から分水が引かれた。当時としてはかなり規模の大きい灌漑、Irrigationであり、なんと米田1反歩あたり玄米3升の料金を取っている。この7分水のひとつが中新井分水で、正確には中新井分水は3本あり、その1本が大講堂裏手から武蔵学園内を抜けて東門の先の北新井公園付近から目白通りを横切るように南下して国立中野療養所跡地手前で中新井川に合流していた。 ■命名「濯川」———憂国の詩人、屈原の漢詩から  大正11(1922)年の武蔵開校時には、中新井分水は幅30センチメートルほどの細い流れだった。生徒たちは運動の後に手を洗い、近隣の人びとが野菜を洗ったりもしたと記録にある。その後、武蔵の生徒たちが授業として川幅を広げ、橋を架け、島も築き、大正14(1925)年に山本良吉教頭によって「濯川」と命名された。  出典は、BC4世紀からBC3世紀に活躍した楚の詩人、屈原の以下の詩による。  滄浪之水清兮 可以濯吾纓 滄浪之水濁兮 可以濯吾足 「楚辞」巻七「漁父」  滄浪(そうろう)とは揚子江支流の漢水下流のことで、纓(えい)とは冠の紐の呼称だ。詩の大意は「滄浪の水が澄んでいるなら冠の紐を洗い、もし濁っているのなら自分の足を洗う。すなわち世の清濁に応じて生きよ」である。  屈原は文学的才能のみならず政治にもすぐれ、かつ強力な愛国者であった。しかしできすぎる者は妬みと嫉みの標的になる。屈原は、楚にとって西方の脅威である秦との同盟を思いとどまるよう楚王に進言したこことがきっかけとなり、地方に左遷されてしまう。この詩は、傷心の屈原が、漁父に出会い「潔白にストレートに生きたい」と主張したことに対する漁父の助言に感銘をうけて書かれたものだ。  命名者の山本良吉は昭和3(1928)年の「同窓会報」に次のような一文を寄せている。  「(前略)川の水、時には澄み、時には濁る。丁度われ等の心が時には晴れ、時には曇ると同じく、又人生の運に時には幸があり、時には不幸があると同じである。いづれ二元の間に徘徊するわれ等は、この川が二相を呈するのを咎めむべきでもあるまい。清い時には清きに処し濁った時には濁りに処する。幸が来れば幸を受けん、不幸が来れば不幸を迎へん。この小川が自身の清濁を一向知らず顔に、ゆるゆる、しかも止まずにその流れを続ける如く、われ等もわれ等の道を辿りたい。川沿いの木、今は尚小さいが、他日それが大きくなって、亭々として天を衝くとき、今の諸生が その下逍遙して、想いを今昔の間に回らせば、かならず感にたへないものがあらう。今諸生が見るその水はその頃には流れ流れて、いづこの果に、どうなってあるか考えることもできまい。しかし在る物は永遠に消えぬ。独り水辺 に立って、静かに行末を思ふと、われ等の心は自然に悠遠に引きこまれて行く。・・・・・ 昭和3年8月9日 久雨始めて晴れた朝、 山良生」 ■千年後へのメッセージ、八角井戸、そしてケム川幻想  千川上水は、戦後、近郊農業が減少していくなかで農業用水としての役割を終え、暗渠化して下水道に転用された。濯川も学園60周年記念事業として1985年に蘇生作業が行われ、現在は一の橋から玉の橋の間で循環しており千川とは繋がっていない。上流の水源(地下水)には八角井戸が埋められており、これには武蔵の祐筆として多くの書を遺した矢代素川氏の筆による前述の屈原の詩が記されている。この井戸は平城京跡から出土したもののレプリカで千年の後までも思いを伝えたいという心映えが込められている。  屈原はその後、楚の首都陥落に絶望し汨羅江(べきらこう)に入水するが、彼の詩形はその後の漢詩の源流のひとつになっていく。  校内に川の流れる学校は稀だと冒頭に書いたが、山本良吉は、University of Cambridgeを流れるRiver of Cam(The River Camとも表記。ケンブリッジ大学の校名の由来)のイメージを濯川に対して抱いており、当初は「武高のケム川」と仮称していた。山本は武蔵開校の1年前、欧米を視察した際にケンブリッジを訪問しケム川を舟で周遊しており、ケム川とその周囲の森から幾多の偉人、世界の運命にかかわる人材が輩出されたことへの憧れと尊敬を書き残している。  アカデミズムにとって、豊かな自然環境が教員、書籍、施設、教材などと同様に、いやそれ以前の基本的要件として必要であることを山本は確信していたのだろう。  その豊かな自然をこれまで守り抜いてきたことは、武蔵学園の誇りであることはまちがいない。                                                    (武蔵学園記念室・調査研究員 三澤正男) タイトル写真=紅葉の濯川。中流の欅橋から上流を臨む 写真1枚目=新緑の濯川。中の島付近 写真2枚目=下流の玉の橋周辺の改修作業を行う8期生。1933年撮影 写真3枚目=現在の濯川水源、八角井戸
 
to-top