第1回入学式写真
根津育英会武蔵学園は2022年4月17日で創立100周年を迎えました
武蔵学園史紀伝
『相浦忠雄遺稿集』を読む―武蔵卒業生戦死者の記録
植村 泰佳(高校45期・武蔵学園理事)

↑ 相浦忠雄肖像:武蔵高等学校在学中

 

↑ 相浦忠雄肖像:海軍主計大尉時代

 

はじめに

『武蔵七十年史』によれば、旧制武蔵高等学校の第二次世界大戦の戦没者は、教員(助手)3名、配属将校2名、卒業生52名を数えている。この数は、正式に戦死公報の来た者であるとのことなので、戦病死、戦災死、収容所内での死亡、徴用中の事故死等を加えた広義の戦没者はもう少し多いかも知れない。

これらの人々が、武蔵に居る頃、そして戦場に出て何を考え、どのように死んでいったかは、今となっては殆ど知るよしもない。が、その中で、遺稿集が編纂され、生前の考えが比較的よく分かり、さらに戦死のありさまについても十分の情報がある一人の卒業生をここに紹介することにしたい。

 

1. 相浦忠雄の略歴

相浦忠雄(11期文)は、1919(大正8)年11月23日、福岡県田川郡上野村の赤池炭鉱社宅に生まれた。赤池炭鉱は明治鉱業株式会社の経営で、相浦の父鼎五はその社員であったようだ。

忠雄の命名は、父の友人矢内原忠雄にあやかったものとされている。

1926(大正15)年、戸畑私立明治小学校入学、翌年父の転勤に伴い上野村市場小学校に転校。

1932(昭和7)年、市場小学校を卒業、上京して武蔵高等学校尋常科に入学。

1936(昭和11)年、武蔵高等学校高等科文科甲類に進む。

1937(昭和12)年、級友宮澤喜一と共に外遊生に選ばれる。旅行先は当初中国内地の予定であったが、日華事変勃発のため、朝鮮、満州となった。(現在武蔵学園記念室には、その時のレポートが残されている)

1939(昭和14)年、東京帝国大学法学部法律学科(英法)に入学。同年夏、日米学生会議日本代表団の一員として渡米。

1941(昭和16)年、外交官及び行政官高等文官試験に合格。同年12月25日、太平洋戦争勃発のため東京帝国大学を繰り上げ卒業。

1942(昭和17)年1月6日、商工省事務官に任官。燃料局に配属。同年1月20日、海軍短期現役主計科士官を志願し採用。海軍経理学校第8期補修科学生として入校。海軍主計中尉に任官。

同年5月16日、カトリックの洗礼を受ける。同年5月20日、海軍経理学校を卒業し海軍省人事局第1課に配属。

1943(昭和18)年2月、海軍経理学校補修科庶務主任、ついで分隊士。

1944(昭和19)年3月、航空母艦雲鷹主計長。雲鷹は同年8月7日、船団を護衛しシンガポールに向け出撃。同年9月17日、船団護衛の帰途南支那海にて、米潜水艦に雷撃され、沈没。

雲鷹沈没に際し、相浦は艦橋にあって配置についたまま生還しなかった。

享年24歳10ヶ月であった(*1)。

 

2. 相浦忠雄遺稿集

『相浦忠雄遺稿集』は、1950(昭和25)年9月、彼

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これまでの百年と次の百年への展望

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2022.02.23
武蔵学園史紀伝
生徒の「服装」について(2)
「標準服」から服装自由へ
「白線問題」から服装規定廃止へ  終戦をむかえた1945年末、第四代校長校長山川黙が辞任した。玉蟲文一教頭の校長事務取扱時期を経て、翌46年2月に元京城帝国大学教授の宮本和吉が着任した。戦後の学制改革により宮本校長のもとで武蔵高等学校も新しい体制を構築することとなったが、これに先駆けて服装規定が大きく変化した。  1946年11月から12月にかけ、教師会・生徒大会で「白線問題」についての議論が行われ、結果として服装規定そのものが撤廃されることになったのである。「白線問題」とは、他の多くの旧制高校のように、制帽に白線を巻きたいという生徒の要望への対応を指す。「生徒の『服装』について(1)」でも触れたように、白線帽は旧制高校のシンボルである。武蔵では戦後になり、この白線を求めるうごきが高等科の生徒から改めて起こったようである。  このうごきに対し、教師会では生徒の意見を確認し、これを参考として校長が教師会の議を経て白線の可否を決定することにした。これが11月25日のことである。その後、11月29日に生徒大会が開催され、「白線を附するや否や」について全校生徒による投票が行われたが、結果は「白線を附する希望なき方多数」となった。12月2日開催の教師会でこの結果が伝えられ、いったんは服装規定については「従前の通り」すなわち制帽には白線を巻かないことが確認されている。しかし、生徒自治委員長より生徒の要望として服装規定そのものを撤廃し、自由にしたいという申し出もあわせて行われており、結局はこちらの提案が採用されることとなった。  服装規定撤廃に関する宮本校長の訓示(*1)では、この経緯が次のように説明される。   先般来高等科生の間に帽子に白線をつけたいという希望があり、之について教授会にはかった結果、全校生徒の意見を問い之を参考として教授会の議を経て裁定することになり、去る12月2日の教授会に付議したのであったが、其の際自治委員長から全校生徒の要望であるとして本校生徒の服装は自由にしたいとの申し出があったので、この事を併せ考えて長時間に亘って慎重討議の結果、12月3日を以て本校従来の服装規定を撤廃することになったのは諸君の承知の通りである。  さらには、終戦後の社会変化・価値観の転換を踏まえ、こうしたうごきのなかに服装規定撤廃を位置づけての生徒へのよびかけも行われた。   制服制帽主義は多分軍隊のそれから来たものであろうが、この服装規定は形式が内容を規定する、即ち形を整えて心を正すという形式本位の教育方法である。(中略)然るに終戦後しきりに人間の解放、人間の自由が叫ばれて居り、新憲法の第三章はこの自由権の確立を規定している。まことに自由こそ人間精神の本質であり、その真の在り方である。今日吾々に課せられた民主政治も、この人間自由を伸ばすための、人間の解放された精力が、それによって極めて多方面に表されるような便宜上の手段に他ならない。だから教育の民主化ということは形式が内容を規定するという形式尊重の教育ではなくして、反対に内容が形式を規定するという線に沿うべきである。だから制服制帽の撤廃という今度の本校の措置はこの線に沿うものということが出来る。(中略)  本校は軍隊ではなく、吾々はお互いに学問に志すものとして、むしろ形式からでなく内容の方からはいることが望ましく、内容から自ずから生まれる新しい形式を本当に自分のものとして身につけて行きたい。只このことは言うべくしてしかも極めて困難な仕事である。だからと云って之に着手しなければいつそれが実現されるかわからない。今吾々はこの困難な課題を自分に課したのである。まず何よりも内容の充実が吾々の課題である。この課題を諸君は之を夫々自己の問題として本当の自己の責任において解決せられんことを切望してやまない。   服装規定の変化―「標準服」化   一方で、玉蟲文一教頭による記録では「生徒大会に於ける白線問題に関する論議の帰趨、並びに戦後の物資難に基き、暫時の間、服装規定を撤廃することにした(*2)」と書かれているという。これをうけ、大坪は「宮本和吉校長との訓示とは意識の食い違いが見られる(*3)」、「そのときの先生方の姿勢は、ごく一部の方を除いて、あまりポジティブなものではなかったのではあるまいか」「煩わしさを避ける大人の智恵ではあっても、戦後の混迷の時代に新方針を打ち出すという程の意気込みはなかったように思う(*4)」と述べている。新制武蔵校等学校の教員として母校に戻った大坪は、ほどなくしておこった服装規定復活のうごきやそれへの対応、すなわち1953年の「標準服」の規定制定(*5) に関わることとなった。だからこそ、こうした感想を抱いたのではないかと考えられる。  ↑ 写真1:1951年撮影。生徒は標準服が多いが一部そうでない人もみえる。右端は森愈教諭    服装規程撤廃に関して、公開された文章としては『武蔵高等学校一覧 昭和29年度』(1954年12月10日印刷・発行)に掲載された「本校歴史」での記述が確認できる。昭和21(1946)年11月25日の項目としては玉蟲教頭による表現がほぼそのままに「生徒大会に於ける白線問題に関する論議の帰趨並に戦後の物資難に基き暫時の間、服装規定の実施を中止した」と記載されている(下線部分は、原文では傍点「、」が付されている)。ただし、「撤廃」と「実施を中止」ではずいぶんと印象が異なる。なお『武蔵五十年のあゆみ』における記述では「戦中・戦後の物資欠乏の故もあって、服装についての規程の実施は昭和21年に中止された」であり、同書収録の「年表」でも1946年11月に「服装規定の実施を中止」とある。『武蔵九十年のあゆみ』では宮本校長の訓話を紹介とあわせて、「服装規程を撤廃」との表現を用いている。「年表」では1946年12月2日の項において「服装規程を廃止」と記している。  1946年に従来の服装規定が撤廃、あるいは実施が中止されたとはいえ、校内での服装に関するルールが完全に自由化されたわけではないらしいことも『学務日誌(*6)』の記録から推測される。着衣についての明確な記述はみられないが、しばしば下駄履きに関する注意が登場する。生徒側から、とくに雨天時の下駄履きを認めて欲しいとの要望があったが認めていない。下駄履き禁止については学校でのルールというより一般的なマナーにもとづく指導と理解できるかもしれないが、1950年に新制大学・高校・中学共通の「武蔵バッジ」が制定(*7)されると、中学・高校生には後述するようにバッジの着用がルール化されていたようである。生徒の服装が完全自由となった現在からは想像しがたいが、この年には生徒がバッジを着用しているかどうかを教員が点検する期間を設けた(*8)ことも確認できる。旧制以来の生徒を紳士に育てようとするマナー指導は継続し、白線帽の代わりに授与された佩章もバッジにその姿をかえて受け継がれ、着用が指導されたのであろう。バッジのデザインも旧制時代の校章の一部を継承している。佩章は式典等への出席時に着用が求められたが、この「武蔵バッジ」は日常的な着用が求められた点に大きな違いがある。  さて、大坪は宮本校長による「服装規定」廃止から「標準服」制定までの経緯を次のように伝えている。   私が武蔵の教師になったのは新制の二年目、一九五〇年であるが、その二、三年後に制服問題の揺りもどしが来た。「父兄の要望」で、制服規定を復活させてほしいという話であった。窮乏生活はまだ続いていたが、景気がすこしは上向きかけてもいた。この時の教師会の会議では、かなり活発な論議があったように記憶している。私と同様、新制になってから就任した二〇歳台の先生が何人もいて、制服復活には反対の人が多かった。しかし、今思うには、服装自由賛成よりは制服反対が主な論点であったために、制服復活論を抑えきれなかった。結局、結論は玉虫色になった。つまり、制服復活はしないが、標準服のきまりを作るということである。(*9)  大坪は自分が着任した1950年の「その二、三年後に制服問題の揺りもどしが来た」と記しているが、1950年度(1951年1月29日)にはすでに父兄から無記名で生徒の制服を考えて欲しいとの投書があった(*10)。また、大坪は引用文よりも後の部分、すなわち「標準服」制定後の出来事と読める書き方で「玉虫色ではすまない事がすぐに起こった」として、高校2年生の修学旅行中におこった事件を紹介している。京都で「セーター姿で出歩いた生徒たちが、他校生に脅かされたり撲られたりという事故」がおこり、警察署で少年課の担当者から「制服を着ていないような生徒は、それだけで不良と見られても仕方ないのだ」といわれてしまったのである。その場で付添の島田俊彦教諭が「うちの学校では服装は自由なのだ。あんたは、ひとの学校の教育方針にケチをつけるのか」と反論したというが、当時の教師会記録「週報」では修学旅行後に「今回の旅行で学校の制服制帽の必要を痛感した」とあり(1952年10月27日)、「来年度から学校の制服を制定したいとの意見もあるので、機を改めて付議したい」(同年12月8日)、「生徒の制服については研究中であったが、学校の方針としては新学期から標準型を決めて制服希望者には指示することにした。その標準型の規格、選択等は購買部委員[引用者補:委員名は省略。大坪を含む7名の教員である]に於て考究する」(1953年2月2日)、武蔵校等学校服装規定、購買部規約の制定(1953年3月9日)と展開している(*11)。『武蔵五十年のあゆみ』・『武蔵九十年のあゆみ』でも1953年1月8日に「服装規程を定め標準服を示す」「標準服を定める」とあることから、まず年賀式で在校生徒に服装についての方針が示されたのであろう。『武蔵高等学校一覧』では昭和28(1953)年3月の項目に「服装規定を定め四月新入生に対して標準服を指示した」とあることも確認でき、規程の実施は新年度からであったと推測できる(下線部分は、原文ではいずれも、傍点「、」が付されている)。  つまり、時系列としては1950年頃には制服復活の要望が起こったが、具体的な対応が始まるのは1952年の修学旅行中の事件以後である。この事件を受けて制服制定(復活)の議論が動き出し、1952年度内に「標準服」を制定することを決定し、1953年度より実施となったのである(*12)。 ↑ 写真2 1957年撮影、37期生。生徒全員が標準服・左襟に「武蔵バッジ」。前列中央は横井徳治、松井栄一、大坪秀二の三教諭。    では「標準服のきまり」とは具体的にどのようなものであったのか。また先に述べたバッジ着用のルールとは何か。『武蔵高等学校一覽』(1954年12月10日印刷・発行)の「第三章 本校諸規定」には、「一、常に本校三理想の実現に心がけ特に組主任の指導を受け、自己の研鑽につとめること」にはじまる全8項の「生徒心得」が掲載されており、服装に関するものとしてはつぎの規定を確認できる。   一、服装は別に示された標準に基づき、常に本校所定のバッジをつけること   一、校舎内に於ては脱帽の習慣を守り、下駄を使用しないこと  「生徒心得」に続き、「服装規定(原文ママ)バッチ佩用規定」が示される。  服装規定   一、本校生徒の服装は清潔端正にして質素を旨とする   二、本校生徒が登校に際し着用すべき服装の標準は次の如くである     イ帽子      様式 丸型 品質 黒ラシャ 徽章及襟章 学校所定のもの     ロ冬服      様式 背広型立襟、袖ボタンなし 品質 紺又は黒サージ ボタン 学校所定のもの 長ズボン(中学の低学年は半ズボンが望ましい)     ハ夏服      様式 冬服に同じ 品質 鼠霜降小倉 ボタン 学校所定のもの     ニ靴      黒革、黒又は白ズック製、雨雪の場合(原文ママ)ムゴ製靴の使用は自由     ホ外套又は雨着      様式 品質標準なし 但し外套は黒又は紺のシングル(バンドのないもの)     ヘ開襟シャツ      半袖開襟を標準とし、長袖折襟これに準ずる 品質 白木綿   三、夏冬服着用期間の標準は次の如くである     冬服 十月一日より翌年五月三十一日迄        襟巻、ジャンパーはなるべく使用しないことが望ましい     夏服 六月一日(原文ママ)まり九月三十日迄        この間開襟シャツの使用を妨げない  バッチ(原文ママ)佩用規定   一、武蔵の学生生徒は登校の際は必ずこのバッジをつける   一、このバッジは武蔵の学生生徒であることをあらわすものであるからこれをつけることにより武蔵の学生生徒たる誇りと責任を感ずるようにしたい   一、このバッジを他人に貸与したり譲渡したりしてはいけない   一、このバッジを紛失した場合は所定の手続きを経て再交付する   一、このバッジは左襟または左胸につける   一、卒業以外の理由で学籍を離れる時は返納しなければならない   明文化されたこうしたルールがどのように運用されていたか、生徒にどう受け止められていたかが、『校友会報 武蔵』第5号(1954年5月15日) の「さえずり」というコーナーに掲載された「制服制度を望む」という生徒の投稿からわずかにうかがえる。この投稿は「『登校の際着用する服は、今迄着ていたもので結構です』(原文ママ)ただ今後新しく買う時には成る可く詰襟のものにして下さい』現在我校において入学第一歩に聞かされる文句にこのような一句がある」と始まる(*13)。おそらく小学校・中学校で着用していた制服のボタンや徽章などを付け替えて着用するのが一般的だったのであろう。入進学にあたり、「標準服」の新調を学校側が強く期待することはなかったのかもしれないが、校友会報には「武蔵特制(原文ママ)開襟シヤツ」を扱う制服店の広告がときおり掲載されている。この広告によれば学校の購買部でも同店の制服見本を展示していたとのことであるし、1960年代に在校した卒業生からは入学手続きの際に学校門外に制服を扱う業者が来ており、そのために生徒・保護者は疑問に思うことなく購入したとの情報が寄せられた。この時期、着用は強制されないものの、限りなく「制服」に近いものは用意されていたようである。なお、バッジは入学式で校長から授与されるものであった。  前述のように大坪ら若手教員らの反対もあり、規定上は制服ではなくあくまでも「標準服」であった。しかし、「教頭[引用者補:内田泉之助。在職1926~1967年]は標準服の着用を励行させることを教師たちに求めていた(*14)」し、校友会報の投稿で紹介された「今後新しく買う時には成る可く詰襟のものにして下さい」という呼びかけにもみられるように学校側からの標準服着用のはたらきかけがあったことも間違いない。服装規定の実際の運用にあたっては、旧制時代を知る教員、とくに山本良吉の薫陶を受けた世代(*15)と、新制になってから着任した教員との間に温度差があったものと推測される。おそらく服装規定廃止から「標準服」制定までのあいだも同様だったのではないか。  生徒・保護者がどのように受け止めていたのかを明らかにすることは困難であるが、学園記念室が保存する写真(*16)や筆者のもとに寄せられた卒業生からの情報からは1960年代には「標準服(詰襟・学生帽)」の着用がごくあたりまえに行われていたらしいことがうかがえる。冬季のセーターやコート類の自由な着用はあったようであるが、こだわりがなければ標準服が選択されていたようで、私服通学は多数派ではなかったようである。 ↑ 写真3 1960年撮影、40期生入学記念写真。生徒全員が標準服・左襟に「武蔵バッチ」・左胸に名札らしきもの。   ↑ 写真4 1966年撮影、40期生卒業記念写真。ロゴの入ったシャツや柄のセーターを着用した生徒もいるが、標準服着用者が多い。前列左端に鳥居邦朗教諭と藤崎達雄教諭、前列右端に島田俊彦教諭。         服装「自由」の時代へ  武蔵において「標準服」の規定がなくなり、完全な服装自由の時代が始まったといえるのは、1970年代末から80年代初めであろう。武蔵だけでなく、1960年代後半から70年代前半にかけての「高校闘争」のなかで、制服を自由化した学校は100校以上存在すると推測されている(*17)。この時期に校長を務めた大坪は次のように記している。      服装問題について最終的に決着をつける仕事は、時の流れの故にあって私が引き受けるめぐりあわせになった。‘70年前後の高校紛争の嵐の時代が来たとき、校則一般について、学校の側としても曖昧な態度はとれなかった。「昭和二一年以来、制服規定はない。服装は自由である」と言い切って、昭和二八年制定の標準服のきまりを握りつぶしてしまったのは、あえて言えば私の独断である。「玉虫色のものは規定とは言えない」という正当化を心中に持ってはいたのであるが(*18)。  玉虫色の規定とはいえ、「服装規定(標準服)」「バッジ佩用規定」は『一年生要覧』『新入生のために』といった入学時に配布される冊子である時期まで明文化されていた。こうした冊子類で現物を確認できるのは『一年生要覧』が1958年度から1962年度まで、『新入生のために』が1963年度から2002年度までである。なお、2003年度からは『学校生活の手引き』と名称を変えて現在も継続刊行中である。  『一年生要覧』には「生徒心得」が掲載され、「服装は別に示された標準に基づき常に本校所定のバッジをつけること」として「標準服」の規定を示していたが、1963年度の『新入生のために』では、服装について次のように説明する。   第八章 服装    服装に関しては、入学の時に授与されるバツジ(原文ママ)をつけるという次の規定のほかには、標準として示されているだけで、制服、制帽といつた厳密なものはありません。 《バツジ佩用規程(原文ママ)》   一、武蔵の学生生徒は登校の際は必ずこのバツジをつける。   一、このバツジは武蔵の学生生徒であることをあらわすものであるからこれをつけることにより武蔵の学生生徒たる誇りと責任を感ずるようにしたい。   一、このバツジを他人に貸与したり譲渡したりしてはいけない。   一、このバツジを紛失した場合は所定の手続きを経て再交付する。   一、このバツジは左襟または左胸につける。   一、卒業以外の理由で学籍を離れる時は返納しなければならない したがつて、バツジさえつけておれば、おとうさんのお古の背広でもいいわけです。 ただし、次の規定があります。    本校生徒の服装は清潔端正にして質素を旨とする。      実際には、冬が黒のつめえり、夏が半そで開きんシャツといつた人がほとんどで、ズボンは低学年で夏に半ズボンがちらほら、あとは長ズボンです。    新調される方はもちろんどこでなさつてもかまいません。    カバンも特に指定はなく、ズツクのさげカバンが大部分です。    ほかには体育の際の運動着がありますが、上下とも汚れのめだつ白がよいとされています。運動ぐつは白でなくてもよく、通学用のズツクぐつのままでもかまいません。    うわぐつはいりません。通学ぐつのまま教室にはいります。通学ぐつは何でもよいのですが、〈半バス[引用者補:ローカットのバスケットシューズのこと]〉の生徒が多いようです。げたばきは禁止してあります。 (下線は引用者による)    服装規定中に「標準」ということばは登場するが、具体的な「標準服」を示すことはなくなり、「本校生徒の服装は清潔端正にして質素を旨とする」のみとなっている。しかし、この時点ではまだ「バッジ着用」ルールがあり、実際には「詰襟」「開襟シャツ」といった「標準服」を着用している生徒が「ほとんど」なのである。さきに述べたように、1960年頃までは詰襟着用の生徒の写真が確認できた。60年代半ばでもおそらくは同じような状況で、少なくとも入学時には「標準服」を用意して着用していたと考えられる。著者のもとに寄せられた卒業生からの情報によると、入学時にあつらえた標準服が成長によりサイズがあわなくなったり、学校生活になれてきたりしたら私服に移行していったのだという。少なくとも1970年代初までは入学式には標準服の着用が一般的で、70年代末になると入学時にも私服に変化していたようである。  服装に関する「標準」が学校配布の文書から完全に消滅したことを確認できるのは1979年度の『新入生のために』からである。   第六章 生活   (1)服装    服装に関しては、入学時に授与されるバッジをつけるという規定のほかは、制服制帽といったものはありません。 (下線は引用者による)    この文章に続いて前出の「武蔵バッジ」に関するルールが《バッジ佩用規定》として示され、「したがつて、バッジさえつけておけば、おとうさんのお古の背広でもいいわけです。ただし次の規程があります」として「本校生徒の服装は清潔端正にして質素を旨とする」ことが説明されている。服装の「標準」が示されなくなってもまだ、登校の際にはバッジをつけるというルールが残ったのである。とはいえ、学校側がバッジ着用をどれほど厳密に指導していたかは確認することは困難である。1980年代初には入学時に組主任からバッジ着用がルールだと説明されたとの情報や、1980年代半ば以降も実際にバッジを着用していたという情報が卒業生から得られているが、現職教員に指導状況を尋ねてみたところによると、少なくとも90年代に入るとこのルールは死文化していったようである。それでも1997年度まではこの登校時のバッジ着用のルールは『新入生のために』に残され続けた(*19)。  1998年度の『新入生のために』「第六章 生活」は冒頭につぎのような文章を掲げており、これが現在まで継承されている。    本校には、服装、所持品、髪型などについて生徒に守らせるために書かれた規則はありません。日本の法律などの規則はもちろん武蔵でも守らなければなりませんが、そのほかに武蔵だけで適用される規則はほとんどないのです。(中略)武蔵の校風は自由だとよく言われますが、真の「自由」は「身勝手」とは正反対のところにあることを忘れないで下さい。他人に規制されるのではなく自身で規制して正しい行動をとるのが真の自由な人、自身を規制することができないのが身勝手な人です。このことに気をつけながら、自由な学校生活を十分に楽しみましょう。  服装についての説明も次のように変更された。「本校には制服や制帽はありません。学業に励み、体をつくり、心を磨く場所である学校へ来るのにふさわしい服装であれば、何を着て来てもよいのです。ふさわしいかどうかの判断は、自分でするように求められています。ただし、その判断があまりにも独善的であれば、他人から注意を受けることはあるでしょう」。 「生徒の『服装』について(1)」でも言及した、本校webサイトでの「服装などについては学校として決まりは作っていません。時として教員が個別に指導することはありますが、その場合も本人の自覚を促すことを基本としています。」という説明 は、この『新入生のために(学校生活の手引き)』での方針を踏まえたものである。服装指導を通じて生徒を統制する、あるいは制服や校章のような共通のシンボルによってスクール・アイデンティティを高めようとするようなねらいはなく、あくまでも一般社会におけるみだしなみの注意にとどまるものである。 現在も入学式では新入生全員に「バッジ授与」が行われるものの、生徒に着用を求めることはない。生徒の服装も、中学生入学式や高校卒業式では正装としてブレザーやスーツの着用(とくに高校3年生の場合は紋付きに袴姿も見られる)が多いものの、式服をふくめて学校からとくべつな指示をすることはない。生徒も教職員も、染髪・アクセサリー類の着用など服装はまったくの自由なのである。    ↑ 写真5 1971年撮影、45期卒業記念写真、標準服の生徒は少ない。前列左端に大坪秀二教頭、前列中央に矢崎三夫教諭。   ↑ 写真6 1976年3月撮影、50期卒業記念、標準服の生徒は全く見られない。中央のネクタイを締めている人物は田中正之教諭。   本稿作成にあたり、ご関係のみなさまがたより情報提供をいただきました。 心より感謝申し上げます。 ・卒業生の方々 井上俊一様、大塚日正様、加藤順康様、志村安弘様、高野陽太郎様、富重正蔵様、橋本芳博様 ・旧教員の方々 大橋義房様、梶取弘昌様、岸田生馬様 ・現職教員 杉山剛士校長、高野橋雅之副校長 ※ お名前掲載の許可をいただいた方々のみ、五十音順で紹介させていただきました。   注: *1 大坪秀二編「宮本和吉学長・校長訓話抄 昭和二一年~昭和三一年」(『武蔵学園史年報』10、2004年)。 *2 玉蟲文一教頭による「本校歴史(草稿)」の記述による。ここでは大坪秀二が『旧制武蔵高等学校記録編年史 大正11年~昭和24年』(武蔵学園記念室、2003年)に引用したもの(p.148)を再引用した。 *3 前掲『旧制武蔵高等学校記録編年史 大正11年~昭和24年』p.148。 *4 大坪秀二「随想 定年退職にあたって 武蔵の服装規定のこと」(『武蔵高等学校同窓会会報』32号1990年12月)。 *5 『武蔵七十年のあゆみ』(1994年)p.114。 *6 「新制武蔵高等学校中学校初期記録抄(一九四九・三~一九五二・八)」(『武蔵学園史年報』第3号、1997年)。 *7 『武蔵高等学校一覧』では昭和25(1950)年5月12日の項目として「開校記念式に際し新たに制定したバッヂを全職員学生生徒に授与した」とある(下線部分は、原文では傍点「、」が付されている)。「武蔵」の文字を両側から雉がかこみ、背景に6本・3本・4本の線を刻んだデザインである。大学では1998年に開学50周年記念として白雉と小枝を組み合わせた新たなシンボルマークを定め、現在はこちらのデザインを使用している。 *8 1950年9月4日に「近頃バッジを佩用しているものが少ないようであるが、なるべく佩用させることにした。なお、一定の日を定めてバッジの有無を一斉に点検することにした」とあり、10月2日~7日の一週間で実施、9日には結果を組主任から学務課へ報告することを確認している。前掲「新制武蔵高等学校中学校初期記録抄(一九四九・三~一九五二・八)」参照。 *9 大坪前掲「随想 定年退職にあたって 武蔵の服装規定のこと」。 *10 前掲「新制武蔵高等学校中学校初期記録抄(一九四九・三~一九五二・八)」参照。 *11 「新制武蔵高等学校中学校初期記録抄 その三(一九五二・九~一九五六・三)」(『武蔵学園史年報』7、2001年)。 *12 こうしたうごきを大坪は「諸慣行の旧制復帰」と述べている(前掲「新制武蔵高等学校中学校初期記録抄 その三(一九五二・九~一九五六・三)」)p.130。「諸慣行の旧制復帰」とは、服装規定以外に卒業式での「君が代」斉唱や、生徒の反対にもかかわらず購買部が復活したことを指している。 *13 投稿の趣旨は「団体生活に精神的締り」が不足するので、選択自由ではなく、全員着用の制服を制定して欲しいという学校への要望である。 *14 前掲「新制武蔵高等学校中学校初期記録抄 その三(一九五二・九~一九五六・三)」p.130。 *15 大坪は内田教頭について「昔のことを知る者から見れば、旧制時代山本校長のしたことの外形をできるだけそっくりになぞることであったと思う」と評している。「新制武蔵高等学校中学校初期記録抄解題 その三(一九五二・九~一九五六・三)」(『武蔵学園史年報』7、2001年)。卒業生からも、鎌田都助(くにすけ)教頭(1925年着任。教頭在任期間は1956-60年)は服装指導に厳しく、校舎玄関前で生徒の服装(靴が磨かれているかなど)をチェックしていたとの思い出が寄せられた。 *16 武蔵学園百年史サイト武蔵写真館「071 1950年代から60年代の武蔵高等学校」https://100nenshi.musashi.jp/Gallery/Theme/a4e111df-2c4e-40e4-b4b9-39b7e8e36431。 *17 小林哲夫『学校制服とは何か―その歴史と思想』(朝日新聞出版[朝日新書]2020年)p.112。 *18 大坪前掲「随想 定年退職にあたって 武蔵の服装規定のこと」。 *19 ちなみに、下駄履きについても2019年度の『学校生活の手引き』までは禁止が明文化されていた。 *20 武蔵高等学校中学校webサイト よくあるご質問 学校生活について「武蔵は自由だと聞いていますが、規制はないのですか」(https://www.musashi.ed.jp/nyuushi/faq.html)。
2022.01.13
武蔵学園史紀伝
夫が愛した「武蔵大学」
                               【編者注:この文章は、1979年に武蔵大学経済学部経営学科を第27回生として卒業された菅又佳郎氏(2009年10月3日に逝去された)の奥様、菅又里美様から、『武蔵学園100年史』紀伝編原稿として執筆いただいたものである。】  夫が亡くなって5年経った2014年の夏、武蔵大学同窓会栃木県支部総会にお誘いを受け、出席させていただきました。同窓生でもない私に「菅又君に代わって特別会員ですよ」と、皆さんが優しくお声をかけてくださるのが本当に有り難かったです。そこでの東武鉄道取締役の坂巻伸昭氏の「東京スカイツリープロジェクトについて」熱く語る講演は、この栃木支部会の立ち上げから事務局をしていた彼がいたら、どんなにか喜んだことだろうと思いながら聴き入りました。  私にとっての武蔵大学は30年ほど前、彼とお見合いで出会った日からです。日光までドライブをしましたが、道中彼の話はずっと武蔵大学のことでした。ゼミ、学生運動、恩師や友人、バイト、江古田のこと等々、私はここで武蔵大学の概要を聞かされたようなものでしたが、これが面白くて面白くてどんどん話に引き込まれていきました。目的地の明治の舘での食事の最中もあたかも昨日の出来事かのように「学内に一晩拉致されて差し入れの弁当がね……」「酔っ払って下宿に先生が泊まって、ズボンを間違えてはいてっちゃって……」「勉強してなくって、でっかく名前を書いて試験及第点……」「西武の配送センターのバイト、暑くてくたくたでわざと贈答カルピス破損させて……」などなど、およそ私の学生生活からは想像もつかないことを嬉しそうに話し続けていました。声が大きい人だったのでテラス席でよかったと思いましたが、今でもよく訪れる思い出の場所となっています。帰りの車内で流れていたBGMは歌謡曲でもフォークソングでもなく、岡村喬生氏が歌う武蔵大学讃歌で、延々とリピートされていました。  当時の日記を見るとその日のことを「独特の世界観をもっていて、これほど母校に生きている人私は知らない」と私は書いていて、それは彼が亡くなるまで変わりませんでした。この日がなければ彼と一緒になることはなかったのですが、ここに至るまでにさらに伏線がありました。卒業後は栃木に帰って就職することしか考えていなかったようで、武蔵大学の大先輩が経営する上野商事に入りました。同じ大学の卒業生ということで採用していただけたんだろうと思います。ほんの数年の勤務でしたが、当時商売をしていた私の実家に月1回営業に来ていたのです。私は高校生で何も知りませんでしたが、両親と彼はお互いに人柄を知り合った関係でした。彼が武蔵大学に入らなければ、きっと出会うことはなかったでしょう。そう思うとつくづく縁を感じます。その後彼は保険会社を立ち上げ、会社名も「武藏保険事務所」とします。どれほど大学が好きなのかと思います。  出会って2ヶ月後、私は初めて彼と武蔵大学に行きました。ケヤキの緑がとても美しく、校内には小さな「濯川」が流れていて都内とは思えないような自然を感じる大学というのが第一印象でした。大学を卒業して10年以上が経つのに「武蔵大学で僕を知らない人はもぐり」と。吹いていると思いましたが、守衛さんが「菅又さん」と声をかけてきたので驚き、大学職員のように学生生活課をはじめ各校舎を詳しく案内してくれました。親友の山田さんや大久保さんをはじめ大学職員の皆さんの笑顔に出会いました。正門を後にするときには「なんてアットホームな大学なんだろう」と思ったことを鮮明に覚えています。帰りに「ランプ」で優しそうなママさんから学生や同窓生の話を伺っていたら、卒業してもここに通う気持ちがわかるような気がしました。  彼と出会ってから何度もドライブをしましたが、大きな川を見ると川岸に行って対岸にまで届くような声で武蔵大学讃歌を歌うのが常でした。学ランでも着ているつもりかのようにエールまで切るのです。初めて渡良瀬川で聞いたときは唖然としましたが、あまりに堂々と歌うので思わず拍手をしてしまい、彼にとってはそれが私を選ぶ決め手になったようです。彼との20年の人生で武蔵大学讃歌を何度聞いたかしれません。嬉しいときも、辛いときも歌うので、私は自分の母校の校歌すら覚えていませんが、武蔵大学讃歌は3番まで歌えます。    元号が昭和から平成に変わった1989年の1月に結婚式をあげ、彼が日頃から大切にしている方々を200人からご招待し、祝福していただきました。翌日新婚旅行に出発しましたが、バブルのあの時代、日本で手に入らないものは何もないという感覚がありました。  そこで二人が考えたのは「世界の東京」に新婚旅行しようという発想でした。自分達がまだ経験していない、大相撲を桝席で観る、歌舞伎を桟敷席で観る、はとバスの夜の花魁コースに着物で参加する、ゴッホのひまわりを観る、根津美術館に行く、帝国ホテル、ホテルオークラに泊まる等々、1週間東京を満喫する贅沢な旅行でした。その旅行の最初の目的地が武蔵大学でした。前日ご出席いただいた先生方の研究室を次々訪ねては、どうして今ここに来ているんだと驚かれ、新婚旅行だと話してさらに驚かれ、昨日のご出席のお礼を伝えると皆さんようやく笑みをこぼされていました。  新婚旅行は東京でしたが、その夏からの20年、毎年夏と冬に海外旅行をしました。イスタンブールに行ったとき、「東西文化融合の……」とつぶやくので、聞いてみると武蔵大学建学の三理想「東西文化融合のわが民族理想を遂行し得べき人物、世界に雄飛するにたえる人物、自ら調べ自ら考える力ある人物」と、ボスポラス海峡に向かって叫んでくれました。そのために海外旅行をしていたわけではありませんが、彼の理想の人物像であったのかもしれません。  結婚してからは彼と一緒に何度も武蔵大学を訪れました。「武藏の日(平成6年3月4日)」では、アナウンサーの村松真貴子さんや柔道の山口香さんにお目にかかり、その2ヶ月後の武蔵丸の講演会にも聴きに行きました。武蔵大学に行くことで、なかなかお会いすることのできない方々との貴重な機会をたくさん得ることができました。「武蔵サミット」では大学にも行きましたが、「第二回武蔵サミット」で私にとっては初の九州、大分県の武蔵町に行ったこともいい思い出です。数ある日本の地名で「武藏」はここだけということも初めて知り、驚きました。  50周年の式典やゼミの石原先生の講義など彼一人で武蔵大学に行くこともありましたが、毎年文化の日には江古田で同級生と待ち合わせて小平霊園に行っていました。在学中に亡くなった同級生の六川さんのお墓参りです。私も一度連れていってもらったことがありますが、お線香を手向けた後は、近くのお店で一杯やるのが楽しみだったようです。近況を伝え合いながら、同級生ならではの楽しい酒を酌み交わしていました。 【石原司教授】  2009年6月に恒例の栃木支部会を開く段取りをして、当日は懇親会までいつもと何ら変わらず楽しんでいたので、同年の10月3日に亡くなったときは多くの方々を本当に驚かせ、悲しませてしまいました。葬儀で大好きな武蔵大学讃歌を流すことが遺言の一つでもありましたから、しめやかに流させていただきました。  翌年の2月には同窓会栃木県支部会の皆さんが「ミスター武蔵・菅又佳郎さんを偲ぶ会」を開いてくださいましたし、同級生や石原ゼミの方々が墓参りに足を運んでくださったり、恩師や友人からたくさんのお便りもいただきました。彼が日頃「人は宝」と言って、交友関係をとても大事にしていたからこそと思いました。  2年前に山梨の根津記念館を初めて訪れました。武蔵大学の創設者である根津嘉一郎について、私は「鉄道王」と言われ、茶人でもあったという程度の認識でしたから、ここでこの方の経歴や業績、功績を詳しく知ることができました。山梨県下の全小学校に200台ものピアノをはじめミシンや様々な教材・教具を寄贈し、「社会から得た利益は社会に還元する義務がある」という信念があったと知りました。夫は生前、亡くなったら大学に寄付をしてほしいと言っていましたから、遺言どおり大学に寄付をさせていただきましたが、根津嘉一郎に学んだことなんだと理解しました。広いお屋敷に佇んでゆったりと庭を眺めながら回想できたひとときでした。少しばかり夫婦でお茶を嗜み、二人でよくお抹茶を飲んでいましたから、帰りに館内のショップでお抹茶椀を一つ購入し、今もよく使っています。  夫の心のどこかにはいつも武蔵大学があり、武蔵大学に染まった人でしたが、彼は武蔵大学に全てに染まりたかったんだろうとさえ思える昨今です。今回思いがけない依頼で拙い文を書かせていただきましたが、在学中から夫を慕ってくれて、彼が亡くなった後も変わらない誠実さで「里美先輩」と気にかけてくれる大学職員の小倉宇思さんには感謝しています。
2022.01.13
武蔵学園史紀伝
武蔵大学同窓会の黎明期余談
 私は昭和29(1954)年に武蔵大学プレメディカルコースに入学、秋に胸の病気が発覚、その後2年間休学を余儀なくされ、昭和31(1956)年に復学した際に経済学部1年次へ転籍。かつて、大学新聞会再編に関り教授ともども大学知名度アップに奔走したこともあって、この度、学園百年史刊行作業部会の大学側委員である大久保武氏(大20回生、事務局長、常務理事を経て、現在学園の常勤監事)から、大学同窓会や新聞会の発足当時のこと、加えて学園ゴルフ会発足の経緯などを記録に残して欲しいとの依頼を頂いた。折よく木村重紀(大12回生・元同窓会副会長)氏から大学同窓会60周年史などの資料提供も頂けたので、記憶をたどりつつ当時を振り返りたい。 「武蔵大学新聞縮刷版」61ページ、大学新聞第32号をご覧いただきたい。この号から、題字も元気なものに変えたいと思い、当時学園の庶務課長であり書道家としても有名であった大竹正美氏に依頼、紙面もタブロイド判から朝日や読売新聞並みのブランケット版に一変、6ページ建てにした。加えて、6面に「同窓会便り」のコーナーをつくり、向山巌先生(大1回生。大学同窓会設立者で初代同窓会長。当時は大学助手)に寄稿をお願いした。 【武蔵大学新聞・第32号・1面】 【武蔵大学新聞・第32号・6面掲載の向山先生の文章】  昭和32(1957)年4月号からその寄稿文を紹介する:「本年3月殆ど100%の就職率をおさめた第5回卒業生を迎えて、わが同窓会会員も250名から一躍370名に増加し、小規模ながら団体にふさわしい世帯を張ることが出来るようになったことは大変うれしいことです。(中略)会員諸兄が同窓会の存在意義を十分認識し、同窓会を媒介として同窓生が学窓時代に受けた他校に見られないうるわしい師弟、友情関係を社会生活を通じて緊密に維持し母校の発展に寄与したいものと考えます。なお、今後新聞会が同窓会のためにこの欄を毎号設けてくれることになりました。新聞会の好意に感謝するとともに、この欄を通じて同窓生の動向や消息、トピックなどを載せていきたいと思いますので同窓会本部まで資料を提供してくださるようお願いいたします。  同窓会会長 向山 巌」  手前味噌になるが、この大学新聞の「同窓会便り」コーナーへの向山先生の寄稿が大学同窓会誕生の学園全体に向けた産声だったと思っている。実際には、大学新聞第27号によると「昭和30年(1955年)10月の総会で会則並びに会長が承認され正式に武蔵大学同窓会が発足した」とある。私が復学し経済学部1年に転籍したのがその翌年の昭和31年、秋に「新聞会」に入会。当時、旧制武蔵高校は天下に鳴り響いていたものの新制武蔵大学なんて誰も知らない。したがって鈴木武雄学部長以下全学一丸となって「知名度アップ」に奔走していた。生まれて間もないにもかかわらず、今の「地方創生」の先を行く企画といえる日本経済新聞社と組んだ各主要都市での「武蔵大学時事経済講演会」を開催。併せて各地方で大学父兄会を開く、など。なにしろ大学に父兄会なんてあるはずもない時代(東海大学にもあったそうだが)に確かに各地方に父兄会役員が居られた。その効果か、地方からの新入生が多かったが、「ゼミ」なんて聞きなれない言葉にあたふたし、「そうか、夜教授の家で勉強会をするのがゼミなのだ」と錯覚。先生たちはそのため家、土地を西武沿線に買う場合、ゼミ用のため少し広めを購入しなければならないので頭が痛い、などとまるでウソのような本当の話。一方、学生たちは武蔵3大理想を唱え、ゼミ選びで大騒ぎし、学生生活を謳歌していた。大学と言うよりは向山先生が言われたように麗しい師弟、友情関係に満ち溢れていて、あたかも家庭のような気がした。  旧制高校の雰囲気を色濃く残す中、鈴木武雄学部長を兄貴と慕い、4年で卒業するのが勿体ないくらいの大学生活であったが、やがて私も卒業し「東レ」に入社。実習を終え東京本社販売部に着任するや否や向山先生から電話。「少数団体の同窓会とはいえ土台固めが一番の難題。会員との絆には同窓会新聞が必要。副会長を命じるから広報担当として走りまわって欲しい」と言われた。引き受けてみればどなたでも気づくことだが、何故土台が固まらないのか、すぐわかる。向山先生は別格だが、その後選ばれる歴代の会長は前会長の指名制であったため学生時代の超やり手が指名される。彼等が、会社で忙しくない筈がない。同窓会の仕事なんて出来る余裕のない人たちばかりを指名していたのだ。そこで浅野徹(大2回生)副会長の時、次回は自営業の人で武蔵バカを選んでほしい、2~3年の任期制も破棄してもらいたい。長期にわたらなければ本当の土台作りなんかできる筈がない、とお願いした。結果、選ばれたのが、その後32年間に亘り会長を務めることになるあの「石田久」(大1回生、高24期生)氏である。銀行勤めをやめ、実家(用賀、駒沢学園駅近)を継ぐ、という時だ。向山、浅野攻撃に耐えられず引き受けてくださった。石田さんに「あなたは旧制武蔵高校から大学へ来られた得難い逸材。ぜひとも死ぬまでやって武蔵大学を世界に雄飛させるための唯一の応援団の土台をしっかり作っていただけませんか」、武蔵を愛して止まない一番手の方にはこの言葉が一番効きにきいた。石田体制の土台作りがすぐに始まった。広報活動の充実をはじめ、全国規模で展開した地方支部発足の呼びかけ(と言っても卒業生はごくわずか)、各企業内或いは業種別業界の交流会の発足呼びかけ、そして各部会の組織運営にふさわしい人材探し、目が回るほどの忙しさだった。長期基本方針がはっきりしていただけに素晴らしい人材たちが同窓会役員に入ってきて石田体制をしっかりサポートしてくれ、こんにちの素晴らしい同窓会が芽を出し始めて行った。同窓会新聞の発行については、当時現役の大学新聞会の各編集委員、特に戸塚章(大16回生)氏が活躍、名だたる優秀メンバーが揃い充実していった。途中、新聞では字数が少ないと言うことになり、週刊誌タイプに切り替えたがビックリするくらいの上出来ぶり。後に「講談社」に入り夕刊・日刊ゲンダイ初代編集長に抜擢された浦上脩二(大14回生)氏並びにそのグループなど、枚挙にいとまがない。ご協力いただいた皆様に感謝、感謝の毎日だ。  話が移るが、武蔵大学の母体は旧制武蔵高等学校である。大学発足時から、武蔵学園の中には、戦後の「学制改革」により誕生した新制武蔵高等学校(中高一貫男子校)と旧制高校を母体とした新制武蔵大学の二つが併存しており、現在もそうである。普通に考えれば同窓会が3つになるはずだ。つまり、旧制武蔵高等学校同窓会、新制武蔵高等学校同窓会、新制武蔵大学同窓会。これを学園全体で一つにまとめる?至難の業が必要となる。しかし、正田建次郎学園長時代にこの無理を無理でないものにしようと学園長が自ら立ち上がられ、その手始めにと発案されたのが、互いの親睦を深めるためのゴルフ会である。昭和49(1974)年11月9日(これらの資料は木村重紀氏・元同窓会副会長から入手)のことである。これに「はーい」と合流したのが、なんと旧制武蔵高等学校出身の石田大学同窓会長。彼、ゴルフが出来ないのに、会場の東武カントリーに朝から駆け付け懇親会終了まで出席。結果は旧制組が上位を独占、大学側は惨敗。大学同窓会新聞によれば「新旧同窓生交流に大きな成果」とありその後この「オール武蔵ゴルフ大会」は毎年開催と決定され、「武蔵学園ゴルフ会」と改名はされたが令和元(2019)年で通算なんと78回。3者(いや2者か)が和気藹藹となって力を合わせて学園長杯を競う、なんと素晴らしいことだ。学園が一つになった。  大学同窓会報の中に「武蔵なひと」と言う秀逸なコーナーがある。若い素敵な女性たちが作ってくれた作品らしい。プレメディカルコース出身の宮崎秀樹先輩(プレメ2回生。現在・参議院協会会長、元日本医師会副会長、現中国・国家発展と改革委員会の日本でただ一人の名誉顧問)、小林隆幸先輩(大1回生。元ホンダ常務)など90歳近くなのに目を細めてこのコーナーを楽しみにしている。こうしたコーナーこそが絆を強めるパイプ役だ。先人たちの土台作りに込めた思いがこうした形で強まっていく。同窓会をはじめ武蔵大学、武蔵学園全体がより強い絆で発展を遂げて行く。先人たちに心からの謝意を捧げたい。  最後に「武蔵大学新聞」が長期休刊に入った際、暖かな目で支援の手を差し伸べてくれたのは武蔵大学本体であり同窓会であり新聞会にたずさわった諸先輩たちだった。特に、当時学長でおられた桜井毅先生(大3回生)の強力な支援の下で「武蔵大学新聞縮刷版1~2号」が完成したことは画期的なことである。今、その新聞会は見事復活しヨチヨチながらも歩み始めている。武蔵学園全体のあふれんばかりの暖かさが身に染みる。武蔵学園万歳!   
2022.01.08
武蔵学園史紀伝
武蔵大学図書館のコレクション
イギリス通貨・銀行史コレクションを中心に
武蔵学園の図書館  現在、武蔵学園には、武蔵大学図書館と武蔵高等学校中学校図書館の2つの図書館がある。  図書館の充実を図ることは、旧制武蔵高等学校の以来の方針であり、開学から4年後の1922年の時点で、すでに蔵書数は2万8千冊に及んでいた。ただし、独立した図書館棟の建設については、その計画はあったものの、戦前の鉄材統制の影響などもあって、旧制高等学校の時代には実現をみるに至らなかった。戦後、大学の開学をうけて1951年に、新たに書庫と閲覧室が建設された。そして63年には新たな図書館棟が作られ、81年には現在の大学図書館が新築され、さらに2002年に大学8号館が建設されると、その地下に「洋書プラザ」が設置され、大学図書館に収蔵されていた洋書がここに収められた。大学図書館は大学と高等学校中学校が共同で利用されてきたが、04年に高等学校中学校の図書館棟が建設され利用が開始された。ただし、図書館を学園全体で利用する伝統はその後も続き、大学の学生・教員と高等学校中学校の生徒・教員が2つの図書館を利用するかたちは維持されている。  現在の蔵書数をみると、大学図書館では約65万冊、高等学校中学校では約7万6千冊に及んでおり、充実した内容のものとなっている。  さて、大学や高等学校中学校が図書館を設けて文献資料などを収集・保蔵し、利用の機会を提供する目的はどのよう考えられるだろうか。  いうまでもなく、学生・生徒が、学習に関連した書籍や各自の知的関心に応える文献などを閲覧できる環境を整備することを、その第一にあげることができる。武蔵学園は、旧制高等学校の時代から、「自ら調べ自ら考える力ある人物」の育成を「三理想」のひとつに掲げており、図書館機能の充実はこの理想の実現を支えるものといえる。  他方、各分野の研究に必要な文献資料などを収集・保存することも、図書館の役割である。特に「学術の中心」(教育基本法)とされる大学の図書館の場合、これは、教育と並ぶ基本的な役割であるといえる。そして、これらの資料は当該の図書館を運営する大学などの教員の研究に利用されるだけでなく、利用の便宜を外部にも広く提供し、社会の学術研究の発展に資する役割を担うものでもある。各々の分野の研究に必要な資料は広範囲に及び、また研究分野も多様である。他方、それぞれの図書館が所蔵できる資料の数は限られている。したがって、こうした外部提供の果たす役割は大きいといえる。  現在ではインターネットの普及により各図書館が所蔵する文献資料など検索をすることは容易となった。各大学図書館のOPACと呼ばれる文献検索システムはインターネット上に公開されている。また、国立情報学研究所(NII)が提供するCiNii Booksというデータベースによって、全国の大学図書館などが所蔵する図書・雑誌や雑誌を一括して検索することもできる。しかし、そうした現在においても、ある特定の分野に関する包括的な文献資料などが、ひとつの図書館において所蔵され閲覧できることの便宜は小さくない。各分野の資料にどのようなものがあるかの情報が得やすくなるばかりでなく、多くの資料の閲覧も多数の図書館に赴いたり、多数の図書館から資料を取り寄せたりする場合よりも容易となる。  「何々文庫」とか「何々コレクション」と呼ばれるものは、図書館が所蔵する文献などの資料のうち特定の分野に係るものを取りまとめたものである。そのひとつのタイプは、ある個人などが収集した文献などをもとにしたものである。例えば、一橋大学には「メンガー文庫」がある。これは、『国民経済学原理』などを著し、「限界革命」と呼ばれる1870年代における経済理論の革新の担い手の一人であった著名な経済学者、カール・メンガーが収集した2万冊からなるものである。一方、個人ではなく、古書店などが特定のテーマに係る文献などを集め、これを大学図書館などが所蔵するコレクションもある。  武蔵大学図書館も、こうしたコレクションがある。イギリス通貨・銀行史コレクション、バルザック(水野文庫)コレクション、ラファエル前派コレクション、そして朝田家型紙コレクションがそれである。   武蔵大学図書館のコレクション  これらのうちイギリス通貨・銀行史コレクションについては、最後に多少詳しく述べることとし、まず、それ以外のコレクションをみておこう。  バルザックは、19世紀のフランスを代表する小説家であり、リアリズム文学を確立したと評価される。水野亮氏は、このバルザックの研究者であり、『従妹ベット』、『従兄ポンス』、『「絶対」の探求』など岩波文庫に収められた多くのバルザックの著作の翻訳者としても名高い。水野氏はバルザックに関する多数の文献を収集されていたが、1979年に亡くなったのち、水野氏のもとで学ばれた私市保彦氏(武蔵大学名誉教授)との縁故により、この蔵書が武蔵大学図書館の所蔵するところとなった。79年の受け入れ開始から1年余りをかけて登録整理が行われ、目録が作成された。書籍1440余冊、雑誌論文などの資料約200点からなるバルザック(水野文庫)コレクションが、これである。  ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)とは、19世紀半ばのイギリスで結成された芸術家のグループである。このユニークな名前は、ラファエロ以降の芸術を規範とする当時のアカデミーの在り方を批判し、それに縛られない芸術を目指したことに由来するとされる。そして、このグループは、ルネサンス以前の素朴な芸術の精神の復興を唱え、その影響は、絵画だけでなく文学などの分野に及んだ。武蔵大学図書館のラファエル前派コレクションは、この芸術運動の資料の集成であり、240点の初刊本や書簡を含む328点からなっている。  武蔵大学のコレクションのなかでユニークなものに、朝田家型紙コレクションがある。朝田家は丹後国の宮津藩(現在の京都府宮津市)で、幕末の天保年間から明治30年代にかけて、三代にわたり紺屋(染物屋)を営んでいた。その間に使用・収集された小紋や中形の型紙約3000枚と、幕末期に藍染された小紋の裃1具、および関連文書約250件、図様の彩色見本長3冊が、武蔵大学に寄贈された。これらの資料を預かり受けていた型彫師の増井一平氏の仲介により、本学の丸山伸彦教授を通して、2012年に朝田家より寄贈されたものである。   イギリス通貨・銀行史コレクション  イギリス通貨・銀行史コレクションは、経済学部の金融学科開設と係わりがある。武蔵大学は、1949年に経済学部経済学科のみの単科大学としてスタートした。その後、59年には経済学部に経営学科が増設され、69年には人文学部が開設された。そして92年に経済学部の3つ目の学科として金融学科が開設されることとなった。当時、情報通信技術の発達や金融市場のグローバル化の進展などを背景として、経済分野における金融の役割は拡大し、金融取引の内容も進化していた。こうした状況のもとで、金融現象を総合的に取り扱う金融学科が誕生することとなった。イギリス通貨・銀行史コレクションは、これにあわせて金融関係の図書資料の充実をはかるために、丸善の協力をえて入手したものである。  このコレクションは、個人の蔵書をもとにしたものではなく、イギリスの古書店二社が専門家の協力のもとに5年の歳月をかけて収集した文献からなっている。文献数は1800点余りに達する。刊行年別にみると、1600年代のものが46点、1700年代が282点、1800年代が1,251点、1900年以降のものが627点であり(刊行年不詳のものを除く)、貴重な古書が多く含まれている。  そのタイトルが示すように、この文献コレクションはイギリスの通貨・銀行業に関するものである。主題別にその内容をみると次のようになっている。銀行および通貨の経済理論(205点)、イングランド銀行(92点)、スコットランドおよびアイルランドの銀行業(154点)、地方銀行・民間銀行・株式銀行(66点)、貯蓄銀行(194点)、海外におけるイギリス系銀行業(149点)、銀行業の法令および銀行実務(679点)、イギリス銀行業の歴史および回顧的研究(149点)、通貨・貨幣鋳造・銀行券(123点)、である。このように、このコレクションに収められた文献資料は、広い範囲に及んでいる。  現在でもロンドンは世界の金融センターのひとつであり、金融部門においてイギリスは大きな役割を担っている。ただし、イギリスの通貨制度や銀行制度を研究する意義は、こうした現代におけるイギリスの重要性に照らしてみただけでは十分理解できない。アムステルダムの後をうけて、イギリスはロンドンのシティを中心として、近代的な金融業をいち早く確立させ、その後長く世界の金融中心地の地位にあった。また通貨・銀行に関する理論の発展でもその中心となり、のちに触れるイギリスで行われた地金論争や通貨論争などは、通貨・銀行に関する古典的な論争である。したがって、通貨・銀行業の歴史や理論を研究するうえで、イギリスに関する諸文献の検討は欠かすことができず、年代的にも主題に関しても幅広く文献を収集したこのコレクションの意義は大きい。  ここに収められた文献の全体像を紹介する余裕はないが、代表的なものをいくつかとりあげて簡単に紹介しよう(1)。  そのひとつは、イングランド銀行の設立に関するものである。現在、イギリスの中央銀行であるイングランド銀行は、名誉革命からしばらくたった1694年に設立された。革命以前からイギリス政府は財政難に悩まされており、課税の強化や借入に頼って資金を確保することが困難な状態に陥っていた。イングランド銀行はこの問題を解決するために設立された。そして、同行の設立に際して重要な役割をになった人物が、ウィリアム・パターソンであった。波乱に富んだ経歴を経て、革命後ロンドンに定住し財を築いたこの人物が提案したイングランド銀行の設立案は、「真に実際的で、且つ十分に熟考された最初の計画」(2)であり、これに基づいてイングランド銀行が設立された。イングランド銀行の創設者ともいえる彼が、同行が基礎をおくべき原則を説明する目的で、1694に著した小冊子が、本コレクションに収められているA brief account of the intended Bank of Englandである。なお、イングランド銀行の設立と同時期に、土地銀行設立という別の構想があった。土地所有者から提供される土地抵当を基礎に信用創造を行うというこの企画に関して最も影響力が大きかった人物はH.チェンバレンであり、J.ブリスコウも有力な提唱者であったが、この二人の多くの書作も本コレクションに収められている。このようにイングランド銀行設立期において行われた信用制度に関する議論をみるうえで、本コレクションは重要な資料を提供している。  信用制度をめぐるイギリスの議論に係る文献をもうひとつ紹介しておこう。19世紀の初頭、イギリスは他の国々に先駆けて資本主義経済を確立させたが、1825年以降、信用恐慌を伴う恐慌が周期的に発生することとなった。本コレクションに収められたT.ジョプリンの1832年の論稿、Case for parliamentary inquiry ,into the circumstances of the panicは、銀行業の問題の権威者であったジョプリンが、この1825年恐慌についての検討の必要を説いたものである。  こうしたなかで1836年以降、議会に委員会が設けられ、通貨・信用制度の在り方をめぐる議論が活発に行われた。通貨論争と呼ばれるものが、これである。  19世紀のイギリスにおける通貨・信用制度に関する論争としては、地金論争と通貨論争が重要であり、かつ有名である。このうち、地金論争は、フランスとの戦争を背景として1797年にイングランド銀行がイングランド銀行券の兌換を停止したのちの諸現象-地金価格の上昇や為替相場の下落など―の原因や、兌換再開の是非などについて行われた論争である。地金論争関係の文献も本コレクションに収められているが、それについての説明は割愛し、通貨論争に戻ろう。  通貨論争と呼ばれるこの論争は、1844年のピール条例制定を中心とするイギリス信用制度の展開につながったが、それだけでなく、そこで議論された論点や提唱された理論的主張は、現在に至るまで、姿を変えながら繰り返し現れてきている。現在の日本銀行の量的金融緩和政策については、専門家の間でも評価が分かれているが、1990年代の前半には、岩田・翁論争と呼ばれる論争があった。これは、岩田規久男氏(上智大学教授、当時)と翁邦雄氏(日本銀行調査統計局企画調査課長、当時)との間で行われた論争であって、日本銀行がマネタリーベースを増加させることで物価を上昇させるという政策の実行可能性や妥当性が問題とされた。もちろん、当時、あるいは現在の日本と、19世紀半ばのイギリスとでは、状況も異なり、論争の争点も同じではない。しかし、中央銀行が通貨量を管理することができるか否かや、それが有効な問題解決手段となりうるか否かが基本的な論点となっている点では、現代のこの論争も通貨論争と共通しているといえる。  通貨論争の参加者は、通貨学派と銀行学派に大別される。このうち通貨学派の人々は、恐慌が発生するのは、銀行券が過剰に発行されるためだと考え、銀行券の発行高をイングランド銀行の金準備の大きさと厳密に結びつけることで、恐慌は回避または緩和できると主張した。他方、銀行学派の人々は、銀行券の過剰発行が恐慌の原因であるとする説を退け、また銀行券の発行額は取引の必要に応じて受動的に決まるなどと論じた。  このような両派のうち通貨学派を代表する論者のひとりが、サミュエル・ジョーンズ・ロイド(オヴァーストーン卿)である。イギリス通貨・銀行史コレクションには、ロイドの著作が複数収められている。そのなかには、イングランド銀行を発券部と銀行部の二部門に分割すべきこと―これは、ピール条例で実現される―を論じた珍しい私刊本、Thoughts on the separation of the departments in the Bank of England(1840年)も含まれている。通貨学派の論客としては、ロイド以外にも、G.W.ノーマンやR.トレンズなどがよく知られているが、両者の論稿も本コレクションに複数収められている。他方、銀行学派に属する人物の文献としては、T.トゥックの著作、A history of prices, and of the circulation, from 1793 to 1837をあげるべきだろう。この『物価史』は、たんに通貨論争に係る文献というだけでなく、事実による根拠を丹念に示しながら、イギリスの物価変動について詳細に論じた名著である。そしてこの大著の翻訳は、武蔵大学で長く教鞭をとられ、名誉教授となられた藤塚知義氏によって行われた。本コレクションには、1838年に刊行されたその第1巻と第2巻が収められている。   注: (1) 藤塚知義「イギリス銀行業・通貨制度の文献コレクション」(『学燈』Vol.89,No.3 1992年〔『イギリス銀行制度の展開 武蔵大学金融学科開設記念蔵書展 展示資料解説』に転載〕、および吉田暁「現代の観点からみるイギリスの銀行・通貨史」(同『展示資料解説』所収)参照。 (2) A.アンドレァデス『イングランド銀行史』(町田義一郎・吉田啓一共訳 日本評論社 1971年)」77頁。パターソンおよびイングランド銀行の設立に関しては、同書を参照。
2022.01.08
武蔵学園史紀伝
生徒の「服装」について(1)
旧制時代の服装規定を中心に
 高校・中学において「制服がない」ことは、武蔵の自由を象徴するもののひとつであるかもしれない。小林哲夫『学校制服とは何か―その歴史と思想』(朝日新聞出版[朝日新書]2020年)では本校のwebサイトでの説明(*1)「服装などについては学校として決まりは作っていません。時として教員が個別に指導することはありますが、その場合も本人の自覚を促すことを基本としています」を紹介し、「自由である。学校は規則で生徒を縛っていちいちうるさいことを言わない。自律を求め、自覚を促すに尽きる」(p.161)と述べている。なお、生徒だけでなく、教員の服装も基本的には自由である。おおたとしまさ『名門校「武蔵」で教える東大合格より大事なこと』(集英社[集英社新書]2017年)では、ある教員について「武蔵の教員にしてはいつもちゃんとした服装をしている」(p.24。下線は引用者)と評する。スーツ着用等のルールはないため、私服の教員はよほどラフに見えるのであろうか。  しかし、武蔵100年の歴史において、生徒の服装が完全自由になったのは後半の約50年のみである。第8代校長である大坪秀二先生(在任1975年度~1987年度[在職は1950年度~1996年度]。16期卒。以下、敬称略)が『武蔵学園史年報(*2)』、また同窓会会報(*3)に寄せられた「随想 定年退職にあたって 武蔵の服装規定のこと」で学校史における服装規定を整理され、規定廃止の経緯を記されている。小稿ではこれら記述を参考に、あらためて武蔵の服装規定をめぐる歴史を整理してみたい。 模索の時期  武蔵高等学校の開校は1922(大正11)年4月であるが、この時点では生徒の服装に関する規定は定められていなかったようである。第一回尋常科入学式記念写真(1922年4月17日撮影:下記「写真1」)でも、新入生は学生帽こそ揃ってかぶっているものの、着衣は羽織に袴、長着に袴、学生服(デザインも詰襟、立折襟が混在)とさまざまである。帽子正面には徽章が付けられているようであるが、帽子自体のデザイン(天井部分の形状)は微妙に異なるように見え、統一された規格ではなさそうである。 写真1 第一回尋常科入学生(1922年撮影)  開校の翌月、1922年5月6日の『教務日誌(*4)』に「生徒ノズボンハ長短随意トス。夏略帽ハ固キ麦帽トシ、リボンヲ黒色トシ徽章ハ外部ニ付セシム」、9日には「ズボンノ長サハ当分任意トスルコト」といった記述があるが、和装が禁止された様子はない。とはいえ1923(大正12)年2月23日には「本校生法規定中外套を削り、上衣の袖ボタンを随意とす(*5)」ることが定められており、徐々に洋装に統一されていったようである。またこの記述から、大坪はこの時点で「[引用者補:服装の]規定が既に存在する」と理解している。履き物については断片的な記述しか確認できないが、1925(大正14)年10月~11月の教師会(職員会議)において泥土による教室の汚れが話題にされている。教室に土足で入るためにおこった問題である(なお、現在も音楽室や家庭科室など一部教室をのぞき、校内では土足で過ごしている)。この解決方法として「靴底に凸凹の甚だしき靴の使用禁止」のほか、「脱靴」や「オーバーシュー」の導入が議論され、翌月7日には「靴底に甚だしき凸凹のある靴」は漸次禁止とすることが決定されている。しかし、この後も教室に泥土が持ち込まれてしまう問題は継続したようで、1926(大正15)年10月の教師会でも教室清掃についての話し合いが行われていることが確認できる。  制帽については、第一回入学生の高等科進学の際(彼らが尋常科4年在籍時の1925年度)に「白線」を巻くかどうかが議論になったことが伝えられている。白線帽は高校生のシンボル(*6)であり、高校生になるからには帽子に白線を巻きたいという生徒の希望が優勢であったというが(こうした意見の表明、学校当局に許可を求める運動は「白線運動」と呼ばれる)、武蔵高等学校では白線を巻くことは許さなかった。新設の私立七年制の諸高等学校では、従来の高校生らのバンカラなイメージを避けたスマートな校風作りを意識したことが指摘されており(*7)、武蔵では初代教頭・山本良吉(のち第三代校長)の英国風の「ハイカラ趣味」が生徒の服装やふるまいのしつけに強く影響したようである。山本のしつけに関する思い出のひとつとして、松葉谷誠一氏(第3回卒業生)は修身の試験で「きたない帽子をかぶってほうば(原文ママ)[引用者補:朴歯(ほおば)の下駄]をはいて、手拭をぶらさげて大きな声を出して歌をうたいながら町を歩く高等学生というものに対して、君等はそれをどう思うか」「どう思うかということについて理由を述べよ」という出題があったと紹介している。「だんだん反抗的になってくる年令」、バンカラな服装に「かなりのあこがれを感じて、なんとかしてああいうまねをしてみたいというようなことを思っていた時代」の生徒に「自分でなぜそうするほうがいいのか、なぜそうしたほうが悪いのかというようなことについて自分で考えさせるというような指導教育方法をされたように思っておるんで、その点は非常に立派な教育方法であった」と述べている(*8)。  帽子の白線は許可しなかったが、尋常科生徒と異なる高等科生徒の「待遇」については1925年度中に議論がたびたび行われており、12月には両者を区別する服飾として「ガウン[引用者補:アカデミックガウンのようなものを想定か?]又は懸章等」の案が出され、大坪はこれらが佩章規定につながるとみている。尋常科修了時に佩章を授与し、高等科の生徒は式典等でこれを身につけることが定められた。日常的には、上衣襟に文科/理科を示す徽章(当初は市販の“L[文科]"、“S[理科]"の徽章を使用。のちに独自にデザインした漢字の“文"、“理"に変更された(*9))を附したことが尋常科生徒との違いであった。 写真2 卒業式直後の高等科生徒(1928年ごろ) 服装規定の明文化  服装規定の明文化は1927(昭和2)年、開校から5年を経た秋である。10月19日の『教務日誌』で服装規定を定めたことが確認でき、昭和3年度からは佩章規定とあわせて『武蔵高等学校一覧』にも掲載されるようになった。次に挙げるのは、その服装規定である。 服装規定  第一條 生徒登校スルトキハ所定ノ制服ヲ著用スヘシ但シ脚絆ハ教練ソノ他特ニ指定シタル場合ニノミ著用スルモノトス  第二條 事情ニヨリ制服ヲ著用シ得サルトキハソノ旨保証人ヨリ届出ツヘシ  第三條 新ニ入学セル生徒ハソノ年ノ六月マデ従来使用ノモノヲ著用スルコトヲ得但シ前章及ヒ服釦ハ学校所定ノモノヲ用フヘシ  第四條 服装左ノ如シ  一 正帽    制式 丸形    品質 黒羅紗    前章及横章 学校所定ノモノ  二 略帽    制式 ソノ都度示ス    品質 麦藁    前章 学校所定ノモノ  三 冬衣袴    (1)衣 制式 背広型立襟 袖釦ヲ著ケス 品質 紺ヘル 釦  学校所定ノモノ    (2)袴    制式 普通又ハ短袴     品質 上衣ニ同シ     四 夏衣袴    制式 冬衣袴ニ同シ    品質 鼠霜降小倉  五 靴    制式 編上ケ又ハ深ゴム 底部ニ床板ヲ毀ケ又ハ汚損スル如キ付著物ナキモノ    品質 黒革  六 脚絆    制式 巻脚絆    品質 茶褐木綿又ハ茶褐絨  七 外套又ハ雨覆    制式 ナシ    品質 黒羅紗    父兄ノモノヲ改造シテ使用スルモノハコノ限リニアラス  第五條 夏衣袴ハ五月十日ヨリ十月十日マテ著用スルモノトス   この規定には、1929年度より冬衣袴の項に「右腰部後ロニボタン附隠(かくし)一ヲ附ス」の一文が追加され、1933年度には「外被[引用者補:オーバージャケットのようなものと見られる]」についての規定が加えられた。  さきにも少し触れたように、服装規定制定については山本良吉のこだわりがあったらしい。ここでは服地はヘルと定められているが、学生服にはサージが用いられることも多かった。生徒や父兄からはサージではだめなのかという問い合わせもあったが、ヘル地のほうが「本校生徒年齢の特殊性を考えて価格、保温等の関係上尤も適当」として退けている。ヘルもサージ(セル)も毛織物であるが、ヘルはサージよりも質が劣るものの丈夫であるのだという。ズボンについては前述の通り、1929年度に「隠(かくし)=ポケット」の位置が決められているが、これは1938年度には念を押すように「両側トモ附隠(かくし)ヲ附セズ右腰部後ロニボタン附隠一ヲ附ス」との表現に改められている。1933年度(第12回)入学生より尋常科1・2年生は半ズボンを着用することが定められ(*10)、1935年度には学校一覧の服装規定にも「尋常科第一学年及第二学年ニ於テハ半ズボントス但尋常科第二学年第二学期以後ニアリテハ事情ニヨリテハ許可ヲ経テ長袴ヲ用フルコトヲ得」と明記されるようになった。 写真3 中庭での太陽観測部・長ズボンの生徒と半ズボンの生徒  ヘル地への固執も、ズボンのポケットや長短の指定についても、その理由をうかがい知ることができる資料はない(*11)。しかしながら大坪は、これら規定化は山本の思想の反映ではないかと考察し、ズボンの左右の脇ポケットをつけさせなかったのは自慰の防止、尋常科1・2年生に半ズボンを着用させたのは上級の生徒と区別し、「不良の習慣・行為」が下級生に及ばぬようにする(そうした習慣を見つけた場合に注意しやすくする)ためではなかったかと述べている。そもそも七年制の中等教育機関には否定的な姿勢(*12)も見せていた山本は、「尋常科4カ年の成立の過程に於てがっちりと1つの型をはめてしまうこと、その生徒達が高等科に進んでひとかどの大人っぽい振舞におよびたくなったときでも、子供の時から仕付けた権力の手で、しっかりと手綱をとることができる」という考え方に基づいてその職をつとめたのではないかと大坪は推測している。上着の「隠」については言及がないことも自慰の防止説を補強するかもしれない。1939年には開襟服には必要なだけ隠を付けて良いことが教師会で確認されており、問題とされたのはあくまでもズボンのポケットの位置なのである。 写真4 校内行事「草刈式」での尋常科生徒(写真左側)と高等科生徒(写真右側)、内田泉之助教授(写真中央)  服装規定において履き物は洋靴とされているが、1938年9月に学校教練のない日は下駄履きでもよいことを確認している。ただし校内では革靴・運動靴を原則(*13)としており、願い出の上で上履き替わりにゴム草履の着用が認められている。通学時の下駄履きは構わないが草履は不可で、1941年5月6日記事には「制服制帽を着したるときは、校の内外を問わず草履の使用を禁止す」とある。現代においても「下駄履き禁止」は武蔵の数少ない校則(のようなもの)として言及されることがあるが、少なくともこの時期、限られた場面では下駄は許可されていたのである。終戦後には「下駄を校舎内で使わぬようにするため」(「教務日誌」1945年10月15日)の方法を生徒に考えさせることにしたが、生徒の要望で「当分随意」と下駄履きの継続が許されている(「教務日誌」10月29日)。 写真5 尋常科一年生入学(1936年、15期生)   時局への対応  生徒の服装はかなり細かく規定化が進められていたようであるが、日中戦争開始以後は物資不足により、そのようなこだわりにもとづく服装指導も不可能になっていった。服地に指定されたヘルは手に入りづらくなり、「当分の間、冬の服地は色は黒又は紺とし地質は選ばぬ」こととされ(1940年4月8日)、「教練服(*14)のズボンは平常に於ても使用差支なきも、上着はなるべく制服を着用することにする」(1940年9月30日)との対応も行われた。制服の金属ボタンの調達が難しくなってくると、卒業生からボタンを集めることも試みられたようである(1941年1月20日)。逼迫の度合いは「学校本来の制服の制式は変更せぬが、目下の時期では当分の間、服地色(紺、黒、国防色)は制限せぬ。又夏服では詰襟、開襟何れにてもよい」(1941年12月1日)、「国防色の配給服を使用して差支えなきことにした。但し尋常科1・2年は半ズボンとすること」(1942年1月12日)と服装規定をつぎつぎに緩和する様子からもうかがい知ることが出来る。いっぽうで、こうしたなかでも「尋常科1・2年生は半ズボン」と、かたくなに上級・下級生の区別が守られている点はなにやらおかしくもある。同年10月には「将来制服地の色は配給品の色のものを正規とし、その他の色地のものは許可を要することとする」(1942年10月26日)ことが定められ、翌11月にはついに「尋常科1、2年生のズボンは配給のままとし、長短は各自に委す」(「校報」1942年11月2日)ことになった。大坪は「戦争の激化につれて次第に服装規定は守れなくなるが、それは概ね山本没後[引用者補:山本は1942年7月12日に亡くなった]のことである」と述べている。それでも「式等に佩章を付けざるものを往々見る。定められたことは必ず実行するよう主任から注意する」(「校報」1942年11月16日)との記事もみられ、規定に基づき生徒の身だしなみを整えさせようとの意識は依然強かったようである。  1943年には燃料不足から暖房が入らなくなり、教室内でも「教師の許可を得た上で」外套やマントを着用するようになっている。それまでは「通学の際、外套、マントの使用は差支えなきも校内殊に教室内の使用は厳禁する」(1942年11月30日)とマナーを守ることが求められていた。1944年になると「身許票を各自上衣の裏側に縫着することにしたについて、生徒が所定の通りして居るや否や体操科及び教練科で調べる」(5月1日)ことも行われている。空襲被災等万が一の状況における身元確認に備えるためであろう。貴重な靴を大事にするためか「舎内では上履の代りに上草履又は裸足でもよいことにした」(1944年8月28日) と、「裸足」で過ごすことまでを許可している。  このような逼迫した状況にあっても「手拭は持参するも可なるも、外に見えないよう腰にすることに注意する」(1945年5月7日)というような細かな指示も行われている。洋装が崩れていくことにより、昔の旧制高等学校風、すなわちバンカラな服装がはやりだしたのではないか、それを見苦しいと考える「武蔵風」が残っており教員が指導を主張したのではないかと大坪は推測している。物資不足のなかでも見られるこうした“スマートさ”を求める態度は、他校生のように白線を巻きたいとの希望も叶えず、細かな規定を設けて身だしなみの指導を行ってきた、山本の路線を継承しようとする教員らの矜恃でもあったのではないか。  なお、終戦をむかえた1945年の冬も教室内での外套着用が続けられている。食糧事情も改善せず、45年度、46年度には冬期休業の延長や、臨時休校も行われた。 注: *1 武蔵高等学校中学校webサイト よくあるご質問 学校生活について「武蔵は自由だと聞いていますが、規制はないのですか」(https://www.musashi.ed.jp/nyuushi/faq.html)。 *2 『武蔵学園史年報』2、5、6号(1996年、1999年、2000年)に掲載された旧制武蔵高等学校校務記録抄(解題あり)が大坪秀二編『旧制武蔵高等学校記録編年史 大正11年~昭和24年』(武蔵学園記念室、2003年)としてまとめられている。 *3 『武蔵高等学校同窓会会報』32号(1990年12月)。 *4 前掲『旧制武蔵高等学校記録編年史 大正11年~昭和24年』より再引用。『教務日誌』(大正11年~14年度の4冊)は山本良吉が作成したものである。 *5 前掲『旧制武蔵高等学校記録編年史 大正11年~昭和24年』p.16。 *6 高等学校のほとんどが二条あるいは三条の白線を巻いた丸帽を制帽としていた。学生服に手ぬぐいをさげ、帽子・高下駄にマントといった「弊衣破帽」のバンカラスタイルが旧制高校生の典型的なイメージであろう。参考:難波知子『近代日本学校制服図録』(創元社、2016年)。 *7 武蔵と同時期に開校した七年制高等学校では、成蹊、成城、学習院高等科においても白線帽を採用していない。成蹊高等学校では学生の要望をうけて第2代校長土田誠一により1940年以降白線帽を許可しているが、成城高等学校はそもそもがワイシャツ・ネクタイに紺の背広、お釜帽(山高帽のような丸い帽子)を制服とする独自のスタイルであった。成城でも学生による「白線運動」が起きたが、許可されなかった。官立唯一の七年制高等学校である東京高等学校でもいわゆるバンカラスタイルはあまり見られなかったと伝えられ、同じく七年制の府立高等学校では白線帽を制服としつつも学校当局は下駄履きやマントを認めなかった。しかし実際にはバンカラ風の学生も少なくはなかったという。参考:旧制高等学校資料保存会『白線帽の青春―東日本編』(国書刊行会、1988年)。  *8 「第一回生から第七回生までの卒業生の座談会」(川崎明編『晁水先生遺稿 続編』山本先生記念会、1966年)pp.602-603。 *9 内田泉之助[助教諭・教授、在職1926年年度~1966年度]によると、山川健次郎校長が外国文字の使用はよくないと言いだして変更になったという。武蔵創立当時回顧座談会記録(『武蔵学園史年報』9、2003年)。 *10 昭和8年1月23日 *11 前掲『晁水先生遺稿 続編』では次のような周囲の回顧も確認できる。中村倭文夫氏(第8回卒業生)は「私どもが入った時には、一年、二年は半ズボンをはかなければいけないとは言われていなかったのでした。あんなからだの小さい子供に、長ズボンをはかせてもしようがない。ちょうど一年、二年くらいが、小学校の既製の服を着るのに適当なくらいの大きさなんです」「山本先生が思っておられたことは、決して画一的なことではなかったんで、そういう合理的なものから出発したのが、いつの間にか画一的になってしまったところに、山本先生のみんなに誤解される問題と、ほかの先生方の協力の足りない面がある(以下略)」と述べている(「第八回生から第十四回生までの卒業生の座談会」p.659)。鈴木春松氏(教授、配属将校)は、服地について父兄から質問をうけた山本からセル地とヘル地の調査を依頼されたことについて「先生は、人の意見に対しては、父兄の意見でも、それ以上に研究してね、納得させるようにしておられましたね」と述べている(「先生方の座談会」pp.796-797)。セル地の制服を指定していた東京高等学校の配属将校や陸軍被服廠の協力を得て、ヘル地がよいと報告したという。 *12 山本良吉「七年高等中学制」(『太陽』26-3、1920年)。 *13 東西両入り口への下駄箱設置が同日の教授会の話題となっており、ここで外履きを履き替えたと考えられる。 *14 教練服の制式は確認できないが、教練服姿の大坪秀二の写真が残されている(下記「写真6」)。 写真6 「教練服」を着た在学中の大坪秀二氏(16期)
2021.10.11
武蔵学園史紀伝
山本良吉「と」武蔵高等学校
はじめに  「武蔵」とは何か?「自由の校風」とは何か? そもそも「自由」とは何ぞや? 早熟で少しばかり生意気な少年たちが、いつもの馬鹿話にも飽きると、ふと真剣な顔つきになって、差し込む木漏れ日に輝く「すすぎ川」を横眼に、青臭い議論を交わしながら校門を出ていく。そんな風景がいつから見られたのか、また今も残っているのかは分からない。だが確かに言えるのは、「古い男児たちOB」はしばしば、この種の話題を何時間でも語りたがるということである。キャンパスの門を出て幾星霜、時には世間の荒波を逃れ、今や失われた「変わり者たちの楽園」に浸る日があってもよかろう。しかしながら、我々がここでなすべき仕事は、そうした内向きの郷愁を無批判に再生産することではなく、冒頭の問いを可能にする武蔵学園という「場」を創った人間とその理念について、内と外をつなげる視点から動態的に捉え直すことである。  「武蔵の精神」なるものを問うとき、山本良吉(1871~1942)という巨像を避けては通れない。山本は石川県に生まれ、東京帝国大学文科大学を卒業した後は、倫理学の研究や教育学に関する評論をこなしつつ、京都帝国大学や第三高等学校、学習院で教鞭をとる。理論・実践の両面で中等・高等教育界で名を馳せた山本は、旧制武蔵高等学校の創設から20年間(1922~42)、その死に至るまで、初代教頭・第3代校長を勤め上げた。危機の時代に一つの理念を貫いた学校経営者・教育者としてのあり方は、「気骨あふれる教育者」(黒澤英典)、「仰げばいよいよ高い先生の御人格」(相原良一)と肯定的に語られる一方、「フューラー・システム」の牽引者(日下晃)、「閉鎖的な教育空間を作る方向に傾いていった」、(兵頭高夫)「ワンマン校長/教頭」「民族主義・国家主義的」(大坪秀二)と批判されることも多い*1。山本の評伝を著した上田久の言葉を借りれば「先生のように教え子の間での毀誉褒貶の激しい方も少ない」*2。  没後の語りをめぐる闘争は山本という存在の大きさとその多面性を如実に示している。だが、我々がここで注意すべきは、この偉大な「建学の父founding father」をめぐる対抗的な言説は、そのほとんどが学園関係者によるものであるため、「様々な評価はあれども山本先生は一つの礎を築いた」という楽観的(また擬似弁証法的)な結論を導きがちだということである。これはややもすれば、山本(像)の語りnarrativeを収束・単一化させ、学園史の叙述を閉鎖的なものにする危険をもつ。だが我々が『百年史』において目指すのは、内外の読み手と未来の書き手に開かれた、批判的かつ多元的な学園史である*3。  本学園史は「編年体」と「紀伝体」の二つの歴史叙述から成り立っているが、この「紀伝」に与えられた役割とは何か。それは、ある人間とその中心的テーマとの「と」を考え抜くこと、ここでは山本良吉「と」武蔵学園を、学園関係者による言説の網の目の外側から検討するということである。山本はいくつもの官立・私立学校で教鞭を執り、同時代には教育・倫理学者として多くの言論活動で知られた人物であり、必ずしも武蔵学園にだけ関わったのではない。とすれば、両者を結ぶ「と」を前もって当然視するのではなく、この「と」が19世紀後半から20世紀前半にかけて歴史的世界に結ばれた偶然的かつ運命的な糸であったということに注目せねばならない。本論では、そこから生まれる山本の課題を捉えた上で、戦前・戦中期の「武蔵の精神」を新たな視点から論じていきたい。  結論から言えば、山本が教育者として生涯抱きつづけた目標は、西欧的近代の文明を吸収しながら日本独自の伝統を守りつつ、世界に冠たる「民族文化」を建設することであった。「万世一系」の皇室を崇拝し、伝統的な家族道徳の上に「國體」を繁栄させていくここそ、国民全員の生きる意味である。旧制武蔵が当時の水準からすれば生徒の自主的な学びを重視したことは確かだが、その目的は日本帝国に最も忠実な「臣民」の育成であったこともまた無視してはならない。無論、ある時期に流行ったように、〈ここ・いまhinc et nunc〉の立場から山本の「政治的責任」を大上段に難じることは容易い。しかし、我々は彼自身が残したテキスト=痕跡に寄り添うことで、山本「と」武蔵の生成変化の過程を追うという歴史学的な手法を取る。とはいえ、山本の活動範囲の広さや残存テキストの多さを考えれば、あらゆる論点を限られた紙面で扱うことはできない。  そこで我々は、山本と大日本帝国(1868~1945)が生死をほぼ同じくしていることに着目する。日本帝国は山本「と」武蔵にとっていかなる意義をもったのか、また戦後も含めてそれはどのように機能したのか。これが本論が掲げる大きな問いである。以下ではその解決のために問題を切り分ける。まずは議論の前提として、前半生(1910年代まで)の軌跡を踏まえつつ、山本が明治国家の発展を経ながらいかに問題意識を形成していったかを確認する。次に第一次世界大戦後、日本帝国が転換期を迎えるなか、山本の思想がいかに具体化されていったかを、そのヨーロッパ滞在経験(1920~21年)を軸に論じる。そして明治が遠くなるなか、山本は自ら築き上げた明治人としての歴史観を武蔵の教育でどのように実践したかを詳しく検討する。最後に日本帝国と山本の精神が戦後も長く残りつづける点に注目し、山本の名がいかに語り継がれたかを学園関係者たちの声から考察する。 1.山本良吉と日本帝国の発展(1871~1917)  山本良吉は、1871(明治4)年10月10日、加賀藩下級藩士であった金田清三郎基之(もとゆき)の三男として、金沢・鶴間谷に生まれた。同年8月に始まった廃藩置県により、旧武士の生活基盤は藩による俸禄から新政府による金禄へと変わり、5年後には秩禄処分でそれも廃止されてしまう。生活の糧を失った多くの士族の例に漏れず、父・基之もまた米穀商を営み、母・直(なお)は木綿織の内職をして一家の生計を支えた。だが、まもなく長兄・孝三郎を水死事故で失うと、金田家は深い悲嘆に暮れる。越中町に移ってからは父母ともに定職を得ることができず、一家は日々の生活にも事欠くようになる。だが貧しさのなかでも父母は残された子供たちに教育を施すことを諦めず、良吉は1878年には小学校へ、84年には石川県専門学校へと入学した*4。  石川県専門学校は、その後の一生を左右する決定的な経験と出会いを良吉に与える。本校は、4年の予備科と3年の専門部からなる7年制の中等教育機関であり、1886年に設置されたばかりの(東京)帝国大学への進学を目指すところであった。そもそも加賀藩には学問や文化を重んじる雰囲気が強かったが、制度や人材の面で藩校・明倫館の系譜を引いていた本校は明治10~20年代、金沢の知識人ネットワーク(三宅雪嶺・高峰譲吉・清水澄・泉鏡花・徳田秋聲など)を形成し、近代日本精神史にも無視できない影響をもたらす。そのネットワークの中心には、少年時代の良吉が、鈴木大拙・藤岡作太郎・西田幾多郎と結んだ固い友情があった。彼らは文芸誌を作り、互いに書簡を交わし、文学や哲学、天下国家を語り合った。後年、教育・宗教・国文学・哲学の各方面で指導的地位を占めるようになってからも彼らの友情は変わることはなかったという(ただし藤岡は1910年に早逝)。さらに重要なのは、師・北條時敬(ときゆき)との出会いである。優等生だった良吉は唯一、数学を不得手としていたが、北條の丁寧な手ほどきのおかげで「十点か二十点くらい」だったのが「七十五点位取る力はついた」*5。加えて北條は、その高潔な人格によって一人の数学教師を越えて良吉や西田の永遠の師となった6。金沢で育まれた師弟・友情関係は、後に見るように武蔵学園創設の欠かせない伏線をなしていく。  しかし、学び舎での暖かい日々にはやがて終止符が打たれる。1887年、前年の教育令改正に伴い、石川県専門学校が廃止され、新たに第四高等中学校(四高)が設置された。中央集権的な教育を全国に広めようと目指す政府は、薩摩閥の教員を数多く金沢に送り込み、さらに加賀藩出身の教員を更迭したために、校風は一変する。かつての土着的で自由な雰囲気は失われ、校内は上からの規則ずくめとなり、教員の学力水準は落ちたという。試験を突破したにもかかわらず、新設校への期待を裏切られた良吉たちは、教師への抵抗を繰り返し、新方針に異を唱えて既に教壇を去っていた北條のあとを追うように、1889年に四高を退学した(翌年に西田も退学)。  四高退学後の良吉は、東京での学びを経て、教育者としてのキャリアを歩みはじめる。1892年、県内中学校での僅かな勤務を終えると、東京帝国大学法科大学に進学する。正規の進学ルートを経ねばならない本科生にはなれず、既に帝大で学んでいた西田と同じく、大学では選科生として様々な面で差別的な待遇を受けねばならなかった。そうしたなかで良吉は、西田と励まし合いながら学業をつづけ、政治学から教育学へと転向する。在学中にはルソーの教育思想を研究し、その成果を『教育時論』などの雑誌に発表することで、教育評論家としての第一歩を踏み出した。この間、故郷の山本家の養子となり、金田良吉は山本良吉となったが、実母・直への深い愛情はやがて訪れる離別(1896年)を経ても一生変わることはなかった。「不肖の身、吾母のなくては何をかなし得ん、憐みて教え祐け給へよ吾母、最も慈悲ありながら最も不幸なりし吾母、アゝ吾母」と追悼文を結んでいる*7。  山本は1895年に文科大学選科を修了してから、東京を離れること20年以上、京都府立尋常中学校、静岡県尋常中学校、京都府立第二中学校、京都帝国大学、第三高等学校に奉職する。この時期の山本は、主に舎監として寄宿舎学生の教育に長年、携わったこともあり、単なる知識の伝達ではない全人教育として、倫理・道徳教育がいかに重要であるかを自覚し、『倫理学史』(1897年)や『実践倫理要義』(1900年)、『中学修身教科書』(1909年)を出版した。言論人としては、『教育時論』だけでなく、国粋主義系の評論団体であった政教社(中心人物として同郷の三宅雪嶺など)の『日本人』や東京青年会YMCAの『六合雑誌』といった雑誌に教育の専門家として数多くの記事を残している*8。  山本の前半生は、明治国家体制の目まぐるしい発展とともにあった。彼はこの日本の変転を同時代人としてどのように捉えていたのか。山本が1899年に発表した論説「明治の三世」*9によれば、歴史の展開を人間の発達段階になぞらえ、いかなる国も幼児期は視野が狭くて夜郎自大に陥るが、広い世界で見識を深めるなかで、次第に自らの客観的な位置を理解できるようになる。そこでは徳川期からの日本の歴史は、「日本主義」と「西洋主義」の入れ替わりで展開する。まず、維新以前は根拠もなしに自らを天下唯一の神国、外国を野蛮国と見なす「日本主義」の思想があった。その後の明治の30年については、ヘーゲル的な弁証法が念頭に置かれつつ、最初の20年余は、文明開化の名の下に見境なく西洋の文物を受容しようという「是提」(正These)が続くが、その後の10年間はこの潮流に抗し、日本独自の歴史と生活を守るべきとする「国粋」主義が「反提」(反Antithese)として盛り上がる*10。しかし日清戦争の勝利後、日本が清と同等の存在として認められ、自らは西洋諸国と対等に渡り合えるかどうかを自問する段階に入ると、急進的な反西洋主義も成り立たない。そこで山本は、日本主義と西洋主義を高次で綜合する「合提」(合Synthese)、つまり「一方に於ては日本の社会的生活を認め、同時に其短処をも認め、之を長処ある西洋主義によりて改め、此社会をして円満の発達をなさしめんとする」時代、従来とは異なった「高尚なる日本主義の時代」に我々は立っていると論じる*11。この西洋の良い点からは学びつつも日本独自の精神こそが最も重要であるという立場は、その後もずっと山本の思想と実践の全てを貫くことになる。  この明治30年余の回顧が示すように、山本は西洋的近代に対峙するジレンマのなかで思索した。攘夷と開国、あるいは欧化と国粋の狭間で、日本人はいかにして「国のかたち/憲法constitution」を作るべきか、そのために国民一人ひとりは何をなすべきか。だが、こうした問題意識は、それ自体としては明治初頭生まれの知識人の誰もが抱いた典型的なものである。またこの時代の山本は、社会を進歩させ、「高尚なる日本主義」を実現させるは社会運動家と学校教師であると説く一方、その論点や方法については、教師として勉学と道徳の向上に努めるべしと主張するのみで、抽象論と具体論をうまく結びつけられていない*12。だが、武蔵「と」のつながりを扱う本論が追うべきは、理論の人というよりは実践の人としての山本である。別稿にあるように「もと人心内にあるを道徳と云ひ、之が外に実際に現はれたるを社会と云ふ」以上、社会の進歩は「知行合一」によってのみ実現されるということこそ、彼の生涯変わらないもう一つの立場であったのだ*13。  明治から大正へと時代が変わるなか、山本はいかに自らの課題を深めていったのか。 2.山本良吉と日本帝国の転換(1917~22) (1) 学習院での経験と人脈  1917~18年は、世界史の一大転換点であった。1914年8月に勃発した第一次世界大戦は、ヨーロッパ全土を、やがて中東・アフリカ・アジア諸国を戦火に包み込んだ。日本は協商(連合)国側で参戦し、極東での対独戦争を有利に進める。だが1917年の十月革命は、総力戦で疲弊した各国での共産主義革命を惹起し、ロシア・ドイツ・オーストリア=ハンガリー・オスマンの諸帝国を崩壊させた。列強上層部は戦争継続よりも革命阻止を深刻視するようになり、ロシア内戦への共同軍事介入を開始し、日本も列強最大の兵力を提供した。しかし、最終的には7年も続くシベリア出兵は、軍事・外交的な失策を招いたばかりか、国内の経済・社会に過大な負担を強いた。1918年の全国的な暴動(米騒動)は寺内正毅内閣を総辞職に追い込む。大戦後の日本は、山東省や南洋諸島の利権と国際連盟常任理事国の座を手にする一方、国内社会の大混乱によって天皇を戴く国家体制から崩壊する恐怖を味わった。大政奉還から50年目の日本帝国は厳しい転換期を迎えていた。  1918年は山本の人生にとっても転機の年であった。前年8月、文部大臣・岡田良平は、東北帝国大学総長の座にあった北條時敬に、学習院院長への就任を懇願し、紆余曲折を経て北條はこれを承諾した。学習院は皇族・華族の子弟教育を目的とする宮内省直轄の学校であったため、少ない例外をのぞき、乃木希典といった陸軍将官の院長のもと、厳しい質実剛健の気風が貫かれていた。それを踏まえれば異例の人事とも言える北條の登用の裏には、教育の近代化の遅れや学生の風紀弛緩といった問題を解決したいという宮中・文部行政の意図があったのかもしれない。北條は岡田の親友であったし、四高退任後、全国の高等学校で経験を積み、中央からの信任も厚かったからである。北條は早速、自らの教え子たちを東京に呼び寄せたが、学校改革の右腕として最も期待したのが山本であった。当時、京都帝大学生監として活躍していた山本はその地位を惜しみつつも、恩師の願いに応えることを選ぶ。1918年3月に学習院教授に就任してからは、寮長として厳格な学生指導に、教授として哲学・修身教育に尽力することで、北條の学校改革を最大限、補佐した。しかし、皇族・華族以外にも開かれた高度な教育機関を目指すという北條の路線は、学内で多くの反発を招き、1920年4月には北條は辞職、山本は休職を命じられた*14。  北條体制下の学習院は短期ではあったが、ここでの人的ネットワークは興味深い。例えば、北條と岡田良平、その次弟の一木喜徳郎、学習院評議会会員でもあった山川健次郎(1916年)らは、いずれも第一高等学校や京都帝大、文部省で重要なポストを歴任し、貴族院議員や枢密顧問官を務めている。この4人は岡田を筆頭に1917年8月に発足した「臨時教育会議」の中心メンバーであったことに注意しよう。これは、日露戦争期から続く深刻な社会の疲弊と大正期の自由主義や社会主義運動の台頭を前に、国民思想の善導と教育体制の刷新を目指すものであり、7年制高等学校の発足にも関与している*15。彼らの全員がやがて根津育英会(1921年発足)理事となったことを踏まえれば、小林敏明が指摘する通り、武蔵学園の起源は、北條・岡田を軸とする教育行政のエリート集団に見いだすことができる*16。金沢ネットワークについても触れておこう。西田は1909年から1年間赴任して同じ時期に大拙(後に北條院長を補佐)や法学者の清水澄といった四高出身者が学習院で教えており、山本は少し遅れてこのつながりに参入したと言えよう。  人間関係やキャリアは歴史学的な論証にとってある種の状況証拠に過ぎないとはいえ、院長時代の北條をめぐる文部省・宮中・金沢をつなぐネットワークこそが山本「と」武蔵をもつなぐ要因となったこと、その背景には日本帝国および皇室の危機という問題意識があったことは認められよう。なお、四高時代の苦渋と藩閥政治への反発から山本の性格を「反官僚的」とする言説が見られるが、あくまで彼自身は集権的かつ画一的な教育制度に反対しただけで、多数者の人気取りのために刹那的な機会主義に傾く自由主義よりは、地味ながらも国家全体の利益を長期的に考える官僚主義の方が優れているとさえ述べている*17。山本の視点はあくまで国家を統治する当事者の側にあったことを忘れてはならない。 (2) 山本の欧米旅行と『わが民族の理想』(1921)  山本は日本帝国の転換期にあたり、国家と国民の行く末をいかに考え、自らの教育的理念を具体化していくのか。その鍵は、山本の欧米旅行とその成果にある。学習院を去った北條は、山本の休職に責任を感じていたので、彼に外遊の機会を与えるよう文部省当局に働きかけた。山本はかねてよりの希望であった欧米視察の任を受け、1920年7月23日、横浜港から太平洋へと乗り出した。翌年7月までの1年の間、およそ3ヶ月を合州国で、2週間をオランダ・ドイツで、3日間をスイスで、2ヶ月をフランスで、そして3ヶ月をイギリスで過ごしている*18。彼は長旅で得た成果を帰りの船旅で原稿にまとめ、帰国後まもなく『わが民族の理想』(1921年)として出版した。本書は欧州各国の比較を行い、そこから日本人の使命を捉え、そのために解決すべき課題をテーマ毎に扱っている。  まず、本書冒頭で山本は自らの民族観を述べている。すなわち、各民族が世界に存在するにはそれぞれ異なった特殊の理想をもたねばならず、それを実現していくことで人類全体の文化が深まるが、逆に一つの理想を実現して他の理想を見つけられない民族は衰退する*19。民族を構成する諸慣習の起源を定めるのは難しいが、一つの民族は複数の民族が混ざり合って成立し、それぞれ独自の歴史を経て一つの個性と理想を獲得していく。そこで自らの民族的理想を実現することが国民の任務である*20。日本民族の理想発現の中心点は天皇にあり、その徳を発揚させて内外に発展させるのが臣下の役割であるという*21。  この記述に山本の国家主義・民族主義・天皇中心主義を見いだすのは容易だが、個人と国家の志向が同一であるべしという価値観を含め、この種のナショナリズムは同世代の知識人にとって別段、珍しくはない。ここで注目すべきは、自民族の核(特殊の理想)が同化されない限り、他民族の理想の良い点を学んで咀嚼・吸収して、自民族の位置づけを洗練させるべきだと山本が考えている点である*22。この有機的な民族観は後に、西田を含めた京都学派たちを通じて「世界史の哲学」として深められ、戦火のなかで大きな禍根を残した。本論でその膨大な研究と議論を追うことは避けるが、少なくとも山本や西田の民族観が日本民族の外部を認めない皇国史観のそれと全く相容れないことは確かである。  とすれば、山本は欧米諸国から何を選んで何を捨てるべきと考えたのか。まず、滞在日数の差が象徴しているが、山本はフランス・イギリス・合州国に大きな関心を示す一方、ドイツにはかなり悪印象を抱いている。日記によれば、エリートたちの「Kulturハ頭ノCulture」に過ぎず、非礼かつ高慢で下層階級を見下し、「共ニ社會ヲ経営スヘシトノ念ニ乏」しかったことが敗戦の原因であるという*23。明治以来、ドイツの学問は日本知識人に絶大な力をもっていたこと、特に敗戦後にインフレに陥ったドイツには、日本から若い学生たちがゲーテやカントに憧れて殺到していたことを考えると、山本のドイツ嫌いは一線を画しているが、同時に観念論を廃し、常に個々の具体的事例と伝統の継続性を重視する視座をそこに見ることができよう。  その視座は、仏・英・米に対しても貫かれている。まず、フランスは一般に想像される急進的な国ではなく、中世から現代までギリシャ語・ラテン語の古典を尊重する懐古的な民族理想をもつ。王党派と軍部の台頭が示すとおり、民衆にとって共和政は必ずしも適していないという*24。こうした歴史論を公式の革命史観ではなく、カトリック的な保守史観から表明しているのは、現地で交友した仏文学者・太宰施門の入れ知恵であった反面、大学令でフランスの制度を導入したために近代日本の教育制度が集権的なものになってしまったことに対する山本の批判意識を察知することが重要である*25。  山本のイギリスへの評価は高い。「個人の価値を明らかにしてその能力の最高を発揮せしめんとするのが英国民の理想であ」り、この個人主義をもってイギリス人は人類の文化に貢献した。彼らは自他の自由を侵犯しないよう細心の注意を払うため「考へ方も具体的となり、方案も実際的となり、議論にはまじめと親切とが主となって質問応酬互に誠意を披瀝する」*26。その結果、国の制度は画一化しないし、裁判ではフランスのように法律を機械的にあてはめるのではなく、個々の事例に応じて人情を重んじた判決が下されるという*27。多少の批判もあるがイギリスの民族理想からは深く学ぶべきだとしている*28。  アメリカについてはどうか。合州国の基本精神は、イギリスの個人主義をさらに進めて「民主的、共和的精神」を完成させることである。共和政をとる合州国では多数者が優先される以上、「品位品質の高尚」は保障されないものの、「米国第一America First」の標語のもとで「米国社会を世界最進文明の上に築かうとの国民的理想」が共有されている*29。そのため、アメリカ国民は優れたと感じるものは洋の東西やコストを問わずに取り込み、弊害をなすものは躊躇せずに捨てる。山本は彼らの進取の気風を高く評価する一方、これは日本民族にとって必ずしも楽観視できるわけではないと論じる*30。  なぜなら「わが民族の理想はわが文化を基礎として、それを欧米文化によつて拡張、深高化して、世界的大の新文化を人間文化史に貢献するにある、米国と相並んで、同一理想を洋の東西に於て違つた形式で発揚するにある」からだ*31。ここで山本は英・米と日本の民族理想の差異化を試みる。日本民族は伝統的に、君臣祖裔が全人格的関係で結合してきたのであり、自己は「家」を通じて民族と国家全体につながっている。そうした土台に神道・仏教・儒教を自らのものとしてきた日本の国民道徳は、自己の価値を至上として業務的関係を中心とする英・米の個人主義に対して、独自の可能性をもつとする*32。ここから武蔵建学の三大理想*33の一つとして今も謳われる「東西文化の融合」の背後には、第一次大戦後の日本が同じ後発的近代国家(新興勢力)として合州国に激しいライバル意識を感じていたこと、そして他ならぬ皇室の伝統をもつ日本民族こそが歴史的使命を果たすのだという山本の意志があったということに気づかされる。 (3)「民族文化」教育のために  仏・英・米の観察を経て設定された「わが民族の理想」をいかに実現するか。山本は、歴史・国文学・国語の教育改革を提案する。まずは従来の歴史教育の弊害を説く。一般的な歴史教科書は「少年の精神全体を引きつけるには余りに脱人間的であり、又その時代時代の活生活(引用者注:原文ママ)を知るには余りに抽象的」なので、歴史教育は無味乾燥な暗記作業と化している。そもそも普通教育では歴史の事実を教え込むより、それらへの生徒自身の関心を刺激するのが重要である*34。したがって歴史・国文学・国語の教科を合併して教え、教材は歴史物語や歌謡などの親しみやすいものを使うべきである*35。また民族文化の教育水準を高める上では専門的な歴史研究の基盤作りが欠かせない。よって歴史研究者への奨学金を手厚し、帝国大学から独立した総合的な学術機関として「日本学研究院」を設置すべきである*36。さらに、子供たちや民衆が生活のなかで歴史を身近に感じることができるよう、博物館や美術館を欧米並みの水準に引き上げ、重要文化財や歴史的建築物の保護を進めるべきだという*37。実現可能性の如何はさておき、ここで提起された文化教育の問題は今もなお問われるべきものであるし、その解決案については、教育の分野横断化や研究の学際化、歴史研究のアウトリーチが求められるようになった昨今の観点からしても十分、傾聴に値する。  では究極のところ、山本にとって歴史とは何を意味したのか。まず、彼は日本学研究院の経営において「民族の主張たり表現者であらせられる皇室」による庇護を望んでいる。このくだりから、山本が「伝統文化の体現者」としての役割を天皇に期待していることが分かる*38。さらに、効果的な歴史教育において写真や絵本、映画といった新しい媒体の役割に注目するのに加え、自ら熱心に取り組んだ謡曲や講釈物を勧めている点は山本の歴史に対する態度を示している。講釈物は大正期には一部の知識階層からは軽蔑されていたが、それでも多くの人々に親しまれていた。社会階層の上下を問わずに民族全体が歴史に親しめることこそ、講釈物の利点であると山本は述べる*39。畢竟するに、彼にとって歴史とは、文字を通じて冷静に分析すべき死んだ情報ではなく、声を通じて感情的に体感すべき血の通った物語なのだ。山本は歴史に科学的事実そのものよりも、民族的な規範を求める。彼は実証的な歴史研究とその成果の社会的共有を望んだが、それはより確かな歴史こそが民族をまとめる共同体の倫理に他ならず、その中心には神世の時代から皇室が鎮座してきたし、これからも全人類のなかで永遠に輝きつづけると信じていたからである。欧米への雄飛は山本の信仰をより堅く、その使命をより詳らかにしたのだ。    1922年元旦、山本は武蔵高等学校より辞令を受ける。その後の10年間は教頭として、もう10年間は校長として、創設まもない学び舎の教員・生徒を文字通り「領導」することになる。この動乱期の出来事は長大な説明を要するので他の文献に譲る*40。ここでは武蔵の教育では民族文化を涵養する場として修身(山本自らが教鞭をとった)、国語・漢文、地理・歴史が重視されていたことを述べるにとどめる。山本は教育者としての最終任務において、「民族文化」、あるいは共同体倫理としての歴史をいかに学生たちに伝えようとしたのだろうか。 3.山本良吉と日本帝国の黄昏(1922~42) (1) 昭和の危機と明治の回顧  降る雪や明治は遠くなりにけり…。一人の若き国文学徒がこの句を詠んだのは1931年のことであった*41。ひとがある時代を想起するのは、それが終わるときではない。その時代を象る精神の形象がやがて直観的に捉えられなくなるだろうと気づくときである。ここに歴史意識が生じ、ひとは自己の実存を賭けて過ぎ去った日々を語りはじめる。  明治維新はその50年目に本格的な想起の対象となった。1917年、旧幕臣や旧藩関係者によって各地で大規模な慰霊行事が開催され、第一次大戦後は明治「大帝」を顕彰する明治神宮の建設が進められた。明治回顧の雰囲気は関東大震災(1923年)で一段と強まる。文部省は明治末から維新史料編纂会に歴史学者を置いて幕末基礎史料の収集・整理をつづけていたが、その方針は設立当時から藩閥史観に偏っているとの批判を受けていた*42。しかし昭和天皇即位後の1928年、維新から60年目の「昭和戊辰」の年、さらなる明治維新ブームのなか、賊軍扱いされてきた人々(会津藩や新選組)や志なかばで落命した人々(坂本龍馬)に焦点が当てられるようになる。また、吉野作造や宮武外骨たちが主催した明治文化研究会(1924年発足)は、学者だけでなく在野・民間の研究者を巻き込み、維新期の関係者に聞き取りを行ったり、当時は軽視された雑誌や新聞を収集することで、明治史研究の幅を大きく広げた。こうした明治をめぐる語りは、史論や伝記、小説、戯曲や映画など多種多少なやり方で人々の歴史観を刺激した*43。その最大のケースとして島崎藤村の大河歴史小説『夜明け前』(1929~35年連載)を挙げることができる。  明治が遠くなることを山本も強く自覚していた。国家と自己の運命をどこまでも等しいものと捉えたこの明治人にとって、維新からの歴史を回顧することは、単なる慰みとしての懐古ではなく、緊張感ある実践であった。山本は後述するように、武蔵の生徒たちに明治の歴史に触れてもらうだけでなく、自ら筆をとって教育勅語や大日本帝国憲法を題材に明治立憲制の歩みを論じている。彼がここまで明治の精神にこだわる背景にはマルクス主義の興隆があった。1930年前後、世界恐慌の手痛い打撃を受けた日本では、共産主義の炎が燃え盛っており、武蔵もその例外ではなかったという*44。山本は、学生や官僚までもが「危険思想」にかぶれるのは、日本が西洋の物真似ばかりをつづけて伝統を疎かにしてきたツケであり、自らの民族文化を国民教育でうまく伝えられていないからであるとしている*45。こうした危機意識は山本の教育観をより保守化させたと西田は証言している*46。  山本は武蔵での歴史教育においてどのような歴史観を重視していたのか。彼は『勅語四十年』(1930年)で自らの明治論を披露するにあたって序文でこう述べている。 明治天皇の人格と維新以来のわが社会状態とが撞着して出たものが教育勅語である。勅語御下賜前のわが社会状態を知れば、勅語の意味がわかる。勅語の意味がわかれば、御下賜後四十年間、わが社会がその精神の発揚のために何をしてゐたかがわからう。それを考へるために、私は静かに過去六十年を顧みた*47。  単なる教育方針を示したものとしてではなく、近代以降に日本人の民族理想が世界に発現していく過程を捉える根本的な視座として山本は教育勅語を重視する。本書は、第一に勅語が日本社会で求められるようになる背景を論じ、第二に勅語の発布と意義を考察し、第三に勅語が各学校でどのように普及していったかを考え、最後に以上を踏まえた上での民族文化教育の立場から提言を行うという構成を取っている。以下、要点を見ていこう。  何よりもまず彼は、明治維新を伝統文化を破壊する革命として厳しく批判する。当時の日本が古い体制を脱却するためには、欧米諸国から先進的な技術を取り入れ、多くの制度や因習を廃止していくことが必要であったこと(廃藩置県や廃刀令)を認めつつも、五箇条の御誓文の「旧来ノ陋習ヲ破リ」という箇所ばかりが行き過ぎて、日本独自の文化を蔑ろにする風潮を生んだとする。例えば、江戸時代の礼服であった麻上下を廃止する必要はなかった。また廃仏毀釈や士族の困窮で貴重な文化財が海外に流出したと嘆いている*48。  次に明治初期の教育制度が知識偏重であったと難じている。御誓文の「知識ヲ広ク世界ニ求メ」というのは法律・政治・軍事・科学の知識を外国から取り入れることであったので、教育面ではフランスの制度を導入して学制(1872年)が敷かれた。これは大学校を頂点に中学校から小学校までを含めた階層秩序のもとで上から集権的な教育を施すものである。小中学校の授業ではアメリカやフランスの教科書の翻訳が用いられ、生徒は日本の風土に合わない内容を無理やり教え込まれたため、民族文化の教育は困難だったという。山本は中学時代を振り返って、英語・数学・科学はしっかり勉強できたが、国語の授業は全く受けられず、国史の教育も不十分だったとしている*49。しかし明治20年代から日本主義が台頭し、社会が民族文化を尊重するようになり、国民的自覚を強めていく。  こうした歴史観は第1節で扱った山本の青年期のものとあまり変わらない。しかし本論で大事なのは、山本が教育勅語が抱える問題をどう捉えていたかという点である。日本教育史の一般的な説明では、1870年代の欧化主義への反動として80年代からは復古主義の傾向が強まる。近代国家の国民のための先進的な知識を重視するか(森有礼)、天皇の臣民のための伝統的な道徳を重視するか(元田永孚)という、明治国家のもつ根本的なジレンマは深い対立を生んだが、両者の折り合いの産物が「教育ニ関スル勅語」(1890年)であるとされる*50。山本は、勅語発布までの対立には深入りせず、勅語によって日本独自の民族文化の地位と国民の考え方の基準が明らかになったと意義づける。これにつづいて「勅語は読む事によつてわかるのでもなく、読ませるために御下賜になつたのでもなく、わが民族をして永く前述の意味に於てわが民族伝来の胸の鼓動を聞き得しめるためのものである」と述べている点に注意したい51。教育勅語の本文は約300字と短く、宗教・政治的な対立を避けるために抽象的な言い回しが多いため、発布直後から解釈をめぐる問題が生じていた一方、語の修正や撤回を提案するのは不敬と目される恐れがあったため、各学校では勅語を丸暗記させるという教育法が流行していた52。山本はこの風潮を批判し、勅語の解釈が時代によって変わることや教育現場での混乱を認めつつも、勅語の意味を体得するプロセスの重要性を強調する。すなわち、自分たちの祖先は勅語に書かれた徳目をいかに理解し、民族の発展につなげたのかと生徒自身が問わねばならない。そのためには『わが民族の理想』が示した民族文化の教育によって、具体的な歴史的事実を身につけ、そのための制度や工夫を施す必要がある。山本は教育勅語の困難が文言それ自体ではなく、その解釈や伝達にあるということを痛感しており、その突破口を歴史教育に求めたのである。 (2)「明治講話」と「民族文化講義」  山本「と」武蔵高等学校による歴史教育は具体的にどのように実践されたのか。山本の教育理念の重心は、修身を軸に人文系諸科目を連携させて民族文化を涵養することにあったが、その実践として注目したいのが「明治講話」と「民族文化講義」である。  前者は1928年からほぼ毎年、明治節(11月3日)に開催され、生徒たちに様々な視点から明治の歴史に興味をもってもらう機会を作ろうとしたものである。各回の講師・題目・内容は校友会雑誌のバックナンバーから確認することができる(【表1】を参照)。講師には三上参次や渡邊幾治郎、本多辰次郎、藤井甚太郎、尾佐竹猛たちの名前が見える。彼らはいずれも宮内省や文部省で維新期史料の編纂に深く関わった歴史学者たちであり、明治史研究の開拓者として後世に知られる。山本が武蔵時代以前のコネを生かして彼らを招聘したのであろう。最初の7回は、明治天皇に関するテーマを扱っている。詳しい内容の紹介は省くが、いずれも時代背景を踏まえ、一次史料に基づきつつも、ちょっとしたエピソードを挟むことで天皇個人の人格を伝えている。天皇との個人的な想い出を語る講師も多い。講演内容を事前に山本が確認していたかは不明だが、大まかな方針として、生徒が具体的な事例を通じて明治天皇に親しみをもってもらえるよう意識していたのだろう。  山本自身も「明治講話」を4回行っている。日清戦争(37年)と不平等条約改正(39年)を扱った講演では、陸奥宗光の功績がいかに偉大であるかを情熱的に語っている。前者では、明治時代には陸軍の山縣有朋のような誰も文句を言えない絶対的権威がいるときは部下の統一がうまくいっていたが、「段々偉い人が無くなって全体が団栗のせい較べになると、どこから命令するのか、どこが中心になるのか分らなくなり、終に国家の大半を負担するに耐へなくなる」*53と結んだ。前年の二・二六事件で生徒の父親であった渡辺錠太郎陸軍大将が犠牲になったことに山本はショックを受けていたことは学園史でも語られるが、以上のくだりは彼が明治を称揚することで同時代の国家体制の危機を照射しているようにも読める。明治時代の教育(36年)と旅行についての講演(40年)は、いずれも山本の体験談が盛り込まれた自伝的な語りを取っているが、特に後者はその強みが生きている。明治から70年を経たいま、生徒(あるいは我々)にとって、旅行とは交通機関で目的地に向かうことを指すが、山本にとっては「その途中の風景を味つたり、名所を調べたり、生活を観察したりして、それがすつかり頭に収まるのをいふ」*54。徒歩・人力車・馬車・汽車・汽船・自動車と様々な移動手段が盛衰していく様子を自らの思い出を添えて語り、乗り物を使わない旅行をして日本各地をじっくりと学んでほしいと結んでいる*55。本講話は、交通技術が各地域を結ぶことで人々の国民意識を醸成したという古典的なナショナリズム論を裏づけるように見えて、その実、新たな技術が人々の時・空間意識を激変させていく70年余の過程を批判的に眺めた交通史的エッセイとしても興味深く読める。  「民族文化講義」についても触れておこう。本講義は1925年からほぼ毎年、各方面の研究者を招聘して開催され、その概要は校友会雑誌の記事として出版された(【表2】を参照)。講師には瀧精一や関野貞、武内義雄、村岡典嗣といった第一級の人文学者たちを、また鈴木大拙や暁烏敏といった金沢・四高ネットワークに連なる大物の名が見える。テーマはほぼ全て日本と中国の文学・思想・芸術に関するもので、西洋や自然科学(史)は極めて少ないが、それは山本の文化教育には東洋重視の傾向があったことを顕著に示している。明治以来の歴史学は国家中心の公文書に依拠した歴史叙述(政治・外交史)を中心としていたが、大正期からは欧米の学界動向の影響もあり、より幅広い史料や手法で民族全体の精神を描く「文化史」や「精神史」が流行しつつあった*56。「民族文化講義」は歴史研究の新たな潮流を取り込んで生徒の興味を引き出そうとしたのではないか。また、音楽史や服飾史(風俗史)といった、当時のアカデミアでは研究対象として認められなかった新領域の研究者にも目配りしている点に、山本の視野や度量の広さを認めることができる。 ※以上は、武蔵高等学校『校友会誌』(後に『武蔵』に改名)のバックナンバーを参考に作成した。    講演内容は概ね、講師の研究テーマを学術的に示すものであった。例えば、関野貞「日本彫刻史」(1931年9月)は「日本文化史上に於ける彫刻史の価値は鎌倉時代までゞ、それ以後は特に見るべきものなく、殊に江戸時代に入つては論ずるに足るものはない」と講師の歴史観を示した後、飛鳥・奈良・平安・藤原・鎌倉の各時代の彫刻様式について様々な事例とともに説明している*57。「明治講話」も「民族文化講義」も、その内容が講師自らの研究的知見を土台にしているという点で共通しているが、その語り方については、前者は明治天皇をはじめとする歴史上の人物に親しみをもたせる歴史物語の形式を、後者は実例を示しながら研究上のテーマを論証していく学術講義の形式を取っている。日本人は世界独自の優れた民族文化を長きに渡って受け継いできた(それ故にこれを守り伝えていかねばならない)という論旨がどの講義にも一貫していたことには注意せねばならないが、それを生徒に効果的に伝えるべく、複数の語りのスタイルを使い分けるという歴史教育上の工夫の痕跡を認めることができる。  いずれにせよ、山本「と」武蔵の「民族文化」教育にとって「明治講話」と「民族文化講義」が大きな役割を果たしたのは明らかだ。そして山本自身も講師として参加した前者は、明治国家の精神を、究極的には教育勅語の理念を教育する場として特に重要であった。戦後に文部大臣を務めた教育社会学者の永井道雄(14期文科)は「明治節の場合は、記念講演があって大体三時間くらいかかったように記憶しておりますが、天長節は大へん短くて」そういうものでよろしいと山本が考えていたと、武蔵OB座談会で回想している*58。ここでは詳しく触れないが、戦前の武蔵には、大正・昭和天皇の天長節(8月31日・4月29日)にその名を冠した企画は単発的なものを除けば存在しない。紀元節(2月11日)の扱いについては後で述べるが、毎年恒例の民族文化教育の特別日として選ばれたのは明治節(11月3日)であった。それは山本(「と」彼が率いる武蔵)の日本帝国と皇室に対して抱きつづけた強烈な忠義とその実践の何よりの証なのである。 (3)「わが民族の理想」の果てに  日本は1930年代、いよいよ先の見えない総力戦へと突入していく。山本は武蔵高等学校校長としていかに考え、何を語ったのか。  山本の危機意識は昭和10年前後にますます強まっていた。彼は1938年の紀元節講話「憲法五十年史」で、議会の動向を中心に日本憲政史を語っている。最後に、神兵隊事件や五・一五事件、二・二六事件は、国制を脅かす「不詳事件」であると不快感を示す一方、その遠因は「国民の不良政治に対する憂心」にもあったとして、原内閣以降の党利党略の横行(知事の更迭・行政の政党化・選挙干渉)を指摘する。そして「始には藩閥の専制を抑へんとして政党が力を得た。政党が政権を握るに及んで、政党自身の弊害を生じ、自己の信用を失墜した。憲政の運用はこゝに三転を見た」と憲政史50年を総括する*59。  山本は昭和初期の政治腐敗と軍部の政治介入を批判しているが、学園史で語られる「全体主義」に対する山本の「抵抗」を過剰に読み込むのは避けたい。彼の理解では、議会の最大政党が政権を担うやり方は必ずしも三権分立の原則に適ったものではない。政党政治を相対化する山本の立憲主義観は、現代の我々が想定する「リベラル」な政治観(議会制民主主義)とは大いに異なる。たとえ政党政治が機能しなくても、立法府が憲政上の一組織に過ぎなくなっただけで、立憲政治そのものは崩壊していない。山本にとって最も重要なのは、いかなる形であっても、憲法に定められた手続きに従い、国益全体にとって最善の方向を模索して行くことであった。  その意図があくまで明治維新が築いた近代国家体制の擁護にあったとはいえ、校長は中国との戦争を苦々しく思っておられた(のではないか)とOBの声はしばしば主張する。これについても留保が必要だ。山本は、1937年秋の講話で、勅語の精神を説きつつ、同年に勃発した「支那事変」(日中戦争)の意義を論じている。すなわち、中国やインドは儒教や仏教を生んだがこれを発展させられなかったのに対し、日本のみが両者を実際の教えとして自らの民族文化に活かしつづけることができた。今や中国人は愛国心を見失い、共産主義や外国勢力とその場の利害に応じて結託・敵対を繰り返す有様である。そうした情勢下での日本の任務とは「東洋の一有力なる表現たる支那文化を保護し、これによつて世界に於て東洋文化の地位を確立する」ことである。軍部はそうした意識で対中戦争を始めたわけではないが、結果としてこの目的を達成するだろうという*60。山本は日本の軍事行動を手段としては批判するものの、歴史的使命の名の下にこれを合理化しているのは見逃せない。古代文化への限りない敬意は、その後に「頽落」した彼ら(中国人)への蔑視を生み、東洋文化の偉大な遺産を我々(日本人)こそが保護すべしという論理を導く。それはE・W・サイードが論じた文脈とは異なるとはいえ、やはり「オリエンタリズム」の典型である。山本の帝国主義は「民族文化」教育の形をとって、武蔵の生徒たちに放たれていたのである。  日本は東洋文化の指導者として行動してきた/せねばならない。この魔性を秘めた格率は、近代化の加速とともに鍛えられ、右翼だけでなく左翼の知識人をも虜にした挙句、遂に「西洋」との決戦を迎える1941年12月8日朝、「世界史的使命」として一つの完成を見た*61。その凄惨な実態はさておき、「大東亜戦争」の理念が「アジアの解放」と「東洋世界の繁栄」にあるとすれば、42年2月15日の英領シンガポール占領の意義は計り知れなかっただろう。  同年2月18日、山本は老体に鞭打って歓喜の声をあげ、「シンガポール陥落祝賀式」を開いてその気持ちを学園全体で分かち合った。早朝、校長一同は東京駅に集合して皇居を奉拝して天皇陛下万歳三唱、その後は各自で靖国神社に参拝。夕方からは学園講堂にて国歌斉唱、校長式辞、賀表披露がつづき、宮内省職員が久米歌を奏でた*62。山本はその賀表にて「新世界史ノ想像ハ一ニ国民教育ニ俟タザルベカラズ」と天皇に向けて高らかに決意表明を行い、式辞ではシンガポール陥落の歴史的意義を次のように述べている。  ここに英国は堅い関所を設けて、東洋の勢力はこれより以西に入るべからずと固めてきた。この一の関にさへられて、東西洋ははつきりと別のものとなつて居り、西人の所謂世界史はこれから西のものと定つて居た。支那事変の初りに私は、これは東洋史と西洋史とが一になつて新らしい世界史を想像する陣痛であるといつておいた。このたびのシンガポールの関処の破れたことによつて、始めて新世界史想像の端緒に入つたのである。この意味に於て、この度の勝利は世界史上非常な大事件である*63。  ここでふと20年も前の記憶が蘇ってくる。「旅客がマルセーユを舟出して、スヱズを過ぎアデンから東に向ふと、一週間ばかりは何もない。目に入るものはたゞ青い天と青い水、満眼たゞ一青の間を、舟は明けても暮れても進む。時に旅客を驚かすものは激しいモンスーンであるが、それが過ぎれば、天地はまた依然たる一青。やがて印度が見え、暫くするとマレイが見えるいつともなしに右側にはスマトラの林丘がその静かな姿を横たへて居る。その極まる処がシンガポール」64。それはあの長旅の光景、欧米諸国での観察から「わが民族の理想」を打ち立て、膨らみつづける祖国と皇室への想いを乗せた長い旅路のなかで、人生50年で得た天命を長大なマニフェストとしてしたためる合間、ふと垣間見る客船の窓に浮んでは消えていく「東西文明」の夢の欠片たちであった。最晩年には涙脆くなっていたという山本は、この日、全校生徒に感極まった声で皇室に尽くしてきた自らの人生を回顧していたが、その熱く濡れた瞳のうちに認めたのは、「わが民族の理想」を達成しつつある日本帝国75年目の晴れ姿ではなかったのか。  それはやがて消え失せる一瞬の虹であることを我々は知っている。学生たちは輝きを増す虹に「悠久の大義」を見つけるや否や、筆を捨て、刀を取り、あるいは赤い夕陽の差す下で草生す屍に、あるいは南十字星の煌く下で水漬く屍となりはてた。武蔵の生徒や卒業生たちもまた虹の犠牲となった。だが、虹の消滅と帝国の結末を見届けぬまま、1942年7月12日、山本良吉はその最後の眼を閉じた。  ここまでで「民族文化」という視点から、山本「と」武蔵の実践のあり方を考察してきた。彼の究極的な目標は、国民各自が教育勅語の理念を体得すること、つまり自らの民族文化と主体的に向き合えるようにすることにある。それは一方で国家の教育方針との摩擦を生む。1930年代、文部省は国民精神文化研究所を通じて、上からの勅語の解釈変更を進め、そのアクセントを元来の国民道徳論から戦争動員を導く「皇道ノ道」へと移していった*65。ここで武蔵がトップダウンの方針に従わず、小冊子『国体の本義』(文部省発行)の採用や御真影の設置に抵抗したことは、「リベラル」な美談として語り継がれるが、山本の言葉を内在的に読めば、その理由はあくまで「國體」に忠義を尽くす方法の違いにあったのだと分かる。いかに勇ましい言葉や仰々しい儀式も、参加者の主体性を伴わなければ抽象論に陥る。教師は上から知識を押し付けるのではなく、生徒・学生が自らの手で材料を調べ、扱い、自らの頭で問題を考え、結論を導くようにすべし。こうした「発動主義」を中等教育に取り入れることを山本は早い時期から訴えていた*66。これは武蔵の建学理想にもつながる発想であるが、歴史的文脈を踏まえれば、「民族文化」を「自ら調べ自ら考える力」こそが自発性に満ちた帝国の「主体/臣民subject」を形成する原動力となるのだ。1941年の紀元節講話で山本は生徒たちに語っている。「具体的に楠公(引用者注:楠木正成)を知るとは、楠公が平生いかなる心懸で居り、いつ、いかなる気持で、いかに皇室のために尽したかを、自分自身の事の様につかむことである」*67。  山本と日本帝国はまもなく最期の時を迎えるが、両者は形を変えつつ、戦後もなお「武蔵的なるもの」を語るときに顔を見せるだろう。山本はいかに「没後の生Nachleben」を送ることになるのか。以下、山本「と」武蔵をとりまく人々の声に耳を傾けていこう。 4.山本良吉と日本帝国の亡霊(1942~2015) (1) 仰げば尊し、我が師の恩  1942年7月18日、新校長に就任した山川健次郎の甥・黙(しずか)のもと「故山本校長校葬儀」が行われ、一木喜徳郎や安倍能成、西田幾多郎などからは弔辞が寄せられた。同年10月19日の「故山本校長追悼会」には遺族・友人のほか、職員・生徒一同が参加し、山本が遺した功績や思い出を語った。ここで興味深いのは、武蔵の職員たちが、山本の人徳や見識に敬意を払いつつも、彼の直情的で頑固な性格を隠さずに話していることである。山川によれば、彼は生徒・教師の両方から非常に怖がられており、他人の欠点を徹底的に直してやろうという親切心から「かなり厳しい鉄槌が加へられ」たといい、また和田教授は、メートル法の導入を民族文化の破壊として猛反対していた山本と何度も激論を交わし、彼は一切意見を曲げなかったと回想している*68。山本の強烈な個性は反発を招きつつも「愛の鞭」であったという語りは(後になってそのありがたさが分かるというというオチを含め)、死後数カ月にして山本像の柱の一つを作っていたことが分かる。  終戦後、1946年には山川が校長を退任。後を襲った哲学者の宮本和吉は学制改革への対応に従事し、旧制武蔵高等学校は1950年にその幕をおろした。慌ただしい改編(新制高校は48年、大学は49年に設置)を経てまもない51年、故山本先生記念事業会より『晁水先生遺稿』が出版された。本書は、山本の手による各種テキスト(論説や随筆、講話・訓話原稿)を整理し、その一部を収録したものであり、大拙による序文や山本の略歴・著作物のリストなどを附す。本書は初めての山本のアンソロジーであり、出版部数は限られていたとはいえ、今なお彼の思想を知る上で第一に手に取るべき基礎文献である。また、生前の関係者が山本を語る際、本書がその土台としての役割を果たしたであろうことは想像に難くない。果たして1966年に山本先生記念会より刊行された続編は、山本をめぐる多種多彩な声(追悼文・回想・座談会)を収めて、その分量は本書全体の半分以上を占めている。本論ではそのあまりに膨大な声を詳しく分析することはせず、全体的な傾向をつかむにとどめたい。  まず何よりも、頑固でワンマンな強烈な人格をもった修身教授としての山本像が至るところで浮かび上がった。特に最初の10年までに教育を受けた卒業生たちの声に厳格なイメージが強く残る。毎回、「お尋ねします」との掛け声を合図にはじまる授業中の問答から校内での身なりや振舞に至るまで、生徒たちは一人ひとり厳しくチェックされ、端からみれば理不尽な理由で落第点をつけられるケース(例えば、厳格な山本の前で緊張して黒板に正しい答えを書けなかったため)も珍しくなかったという。1964年、旧制1~7回生を集めた卒業生座談会が開催された。ここで武蔵の第一の特徴として「落第主義」を挙げて「私自身二回も落ちている。満足に七年間で卒業したのは大秀才です」と振り返る本田正義(6期文科、当時は最高検検事)は、山本のやり方に反発して学校を追放された集団がいたことに触れて「山本教育の地盤で、要するに花が咲かなかった子供たちというのは、相当おりますよ。これは山本教育を見る場合、私どもは常に忘れては行かんところだと思うんですが、教育というものは一体それでいいものかどうかということですね」と加えている*69。すぐ後で草創期の私学を支えるために強硬手段を取る必要があったと山本をフォローしているとはいえ、座談会が全体として山本への感謝へと向かう雰囲気をつくるなか、以上のくだりは学園の内側から出された実感にもとづく批判として貴重である。  さらにそうした山本像がある種の神聖さを帯びていくさまを象徴する声も出てくる。64年の同じ座談会で山本の厳しい指導は生徒への愛情ゆえであったと、卒業生たちが自らの少年時代の苦い経験を意義づけようとするなか、高橋喜彦(2期理科、当時は気象技術研究所)は、かつての学友で医学者になった梅澤濱夫が文化勲章を受章した際の祝賀会でOBたちが「武蔵の心」を語ったときに、一度も山本の名前が出なかったことを肯定し、「『山本良吉』というのは、仮の宿りなんです。つまり、山本良吉が先代から受けついだ何ものかを、我々の心に残してくれた気持ちは、その祝賀会に非常に表れてくるんです」*70と述べる。恐怖の対象としての師は、同じ苦しみを耐えきった仲間で共有されることで、畏怖すべき対象としての父へと変わる。しかもそれは軽々しく口にすべきではない神聖な対象であるという前提こそが、この同質的な集団の結束力を強めるという、OB座談会にとって本来の機能を果たしている。とはいえ、第8~14回生の座談会になると、山本の厳格さのイメージには色々な声が見られるようになり、それより若い卒業生にとっては厳しさよりも優しさのイメージが強くなっている。  次に重要なのが山本の政治的立場についてのイメージである。旧制時代のOBたちはいずれも山本の教育に強烈な国家主義の匂いを嗅ぎとってはいたが、それは他国の良きを学びつつも自国の古きを守る「非常ないい意味の国粋主義者」といった像に落ち着く*71。それを支えるのは、彼は戦争へ向かう日本の政局に批判的であったという言説である。例えば、第15~21回生の座談会では、山本は政局を生徒の前で語ることには禁欲的であったこと、満洲事変後の陸軍の動きを暗に批判していたことなどが語られる。本座談会には参加者から一世代離れた先輩として参加している川崎明(4期文科)はそこで、自分たちが生徒だった時代には、山本は政友会と民政党の対立について後者を贔屓して前者を攻撃していたと回顧するついでに、山本が学園の配属将校を選ぶときに陸軍と一悶着を起こしたこと、軍への批判が当時は命に関わることであったことに触れ、「強い者を恐れなかった山本先生の勇気」を賞賛している。一方、山本は「紀元2600年」と「大東亜戦争」の初期の勝利に浮かれていた世の風潮に反し、お祭り騒ぎはやらなかったという声に注意を向けよう*72。山本が生徒たちに植林事業を行わせて気分を引き締めたという前者の証言は正しいものの、後者は第3節で詳しく扱ったとおり(シンガポール陥落祝賀会)誤りである。山本の国家に対する「抵抗」の神話は、旧制高校で1940年前後を迎えた者の記憶さえをも混乱させはじめていたのである。  川崎はここで、「軍の勢力をかさに着ていばる連中を軽べつなさったので、ここから軍人ぎらいの異名をもらわれた」と述べつつも、敗戦責任を軍に全て押しつける戦後の風潮への批判を忘れていない*73。彼は『晁水先生遺稿続編』の編者として「反軍人」のレッテルを避けつつ、「抵抗者」としての山本像をバランスよく立ち上げようと努めている。ここで教員座談会(64年6月末開催)に眼を移すと、興味深いことに、武蔵の配属将校(1928~31年)を務めた元陸軍将校(在任当時は中佐)の鈴木春松の証言が残されている。着任前は山本は礼儀に厳しくて反軍思想をもっているという評判を聞いていたが、武蔵では暖かく迎えられ、山本の理解も得られたと好意的に回顧する。一方、何か企画をやるときは将校団で民主的な話し合いをする陸軍軍人から見ても相当なレベルで、山本の指導手法は独断的に感じられたという旨を漏らす*74。鈴木の証言は、武蔵・陸軍関係が良好であった満洲事変以前のものであることは考慮すべきだが、それだけにかえって山本の強烈な個性とワンマンぶりを照らし出し、また「反軍人」イメージを相対化する学園の外からの声として示唆的である。  最後に、山本と武蔵の三大理想の確立をめぐる問題がある。上記の教員座談会で、三大理想の原案は山本ではなく、初代校長・一木喜徳郎が作ったものであり、だとすれば山本はその成立過程にどう関わったのかという話題が提起される。だが当時はそれを確定する史料に乏しかったため、様々な憶測が飛び交った結果、「時代がどんなに変っても、私はあれは、厳として不滅だと思うんですよ」という内田泉之助(1926年に漢文教授として着任)の言葉で締めくくられる*75。このくだりで気になるのは、山本自身は三大理想の原文を起草したとは一度も発言しなかったと、各人によって強調されていることである。従って、山本と三大理想を結びつける確かな根拠はこの時点では存在しない。後に言及するように、実際は山本の役割は限定的であったことが実証されることになるのだが、ここで重要なのは山本神聖化のプロセスがここに顕著に表れているということである。その強硬な領導で知られた山本は、元教員たちにとっても畏怖の存在であったが、建学時の精神について彼が沈黙していたことは、かえって(一木ではなく)山本「と」三大理想を結ぶ糸を想像させ、彼を絶対的な「建学の父」として神聖視する流れをもたらしている。  以上、山本の死から約20年のうちに、強烈で頑固な個性でワンマンぶりを発揮したというイメージから出発して、それ故に草創期の学園を指導できたのだという語りが戦前・戦中の抵抗という武勇談を交えて正当化され、またその厳格さをめぐる記憶が建学の三理想と結びついて共有されていく。こうして理念面でも実践面でも、山本は旧制武蔵の神話の主人公としての像を帯びていくのである。 (2) 学園史家・大坪秀二による神話破壊  大きな神話は破壊に時間を要する。そして破壊者は同時に創造者でもあるのが歴史の常である。20世紀の終わりに山本神話を破壊したのは、武蔵高等学校中学校第8代校長の大坪秀二(1924~2015)である。  大坪は武蔵在学中(1942年)、第16回外遊生として満洲行きの機会を与えられるほど傑出した生徒であったが、卒業後は東京帝大理学部で物理学を専攻し、大学教員を経て、1950年から新制になったばかりの武蔵高等学校・中学校で(後には武蔵大学でも)数学を教えた。67年からは同校教頭、75年からは校長を務め(87年まで)、90年に定年退職した*76。ほぼ40年に渡って武蔵の教育・経営に関わった大坪は、その膨大なエネルギーと独自の理念をもって新しい校風を学園にもたらし、その影響は現在にも及ぶと言われる。その実態については別途の検討を要するが、本論で重要なのは退職後の大坪の仕事である。彼は退職後、武蔵学園記念室顧問として学園史料の整理・編纂に携わっただけでなく、その解題やエッセイを通じて、従来の学園史の語りを批判しながら新しい歴史像を作ろうと試みた。その成果は、原史料と解題を収めた『武蔵学園史年報』として1995年から毎年出版され、バックナンバーは20号以上を数える。それらは武蔵学園史の研究のみならず、20世紀の日本教育史にとっても重要な基礎史料としての可能性を秘めている。  大坪の歴史叙述は、戦前から戦後まで、旧制高校から新制高校・中学・大学まで幅広く扱っているが、その最も重要な役割は、一次史料とその批判的検討にもとづいて山本神話を実証的に破壊した点にある。ここでその要点を整理しておこう。第一に、山本の専制体制が学園に招いた弊害を批判的に究明した。例えば「野球禁止考」(1999)は、旧制武蔵ではなぜか野球禁止令が出されていたという言説に注目し、日本での野球の社会的地位に触れた上で、創設当初は禁止ではなかったが途中から禁止になったと論証する。山本が公表した禁止の理由は道理にかけるとした上で、後半では1930年5月の「山本教授弾劾事件」という事件に触れている。卒業生数名が武蔵関係者や近隣住民にビラを撒き、「詰込主義、点数主義、厳罰冷酷主義」や生活・趣味への厳しい制限を批判していたという。学園内部の史料と照合したところ、叛乱卒業生側に「三分の理どころか、五分ほどの理を認めざるをえない」との評価を与えつつも、彼らの声は左翼運動弾圧のなかで消されてしまったとする*77。「たかが野球一つで大げさな」と言わず、野球問題を社会史上に位置づけるとともに、外部の声を拾い上げた上で、山本の教育体制を自由に反するものであったとする大坪の叙述は、効果的なものとなっている。そこには山本の強烈な個性・ワンマンぶりを「愛の鞭」や「リーダーシップ」という言葉で美化するのを拒み、外に開かれた学園史を創ろうという大坪の対抗的意志が横たわっているのだ。  大坪の第二の功績は、山本の「建学の父」としての役割をある程度まで相対化した点にある。例えば「三理想の成立過程を追う」(1997)は、武蔵の三大理想に関する原史料を丹念に整理・吟味した上で、開校当初(1922年4月)は一木喜徳郎が用意していた「第1の原型」があったとする。もとは「正義を重んじ真理を愛し、自ら理解考究する能力を有し、将来世界に活動し得る体力を有す」であったのが、約2年後に「東西文化融合のわが民族使命を遂行し得ベき人物を造ること。世界に雄飛するにたへる人物を造ること。自ら調べ自ら考える力を養うこと。」という現在のものにつながる「第2の原型」が作られたと推定している。特に「東西文化融合」という文言を肯定する一木に対し、山本は最後までこれに完全には同意していなかったとしている。そして「第2の原型」は山本体制下で教員たちによって権威づけられていったと主張している。「民族使命」や「世界に雄飛する」といった文言に見られる山本の「民族主義、国家主義的な理想」に違和感を唱える大坪は、アナクロニズムを改め、これからの時代に即した三大理想を練り直す必要性を訴えて文章を締めている*78。山本神話を支える三大理想の文献学的な精査を通じて、その内側からの崩壊を試みる叙述には、先と同様、山本の思想に対する大坪の強い批判意識を読み取ることができる。従来は権威化されていた山本像を正面から破壊するのは、学園関係者にとっても相当に勇気あることであっただろう。それでもこの大変な仕事へと退職後の大坪を向かわせたのは何であろうか。   (3) 戦後民主主義の可能性と限界  時は遡って1942年2月18日、ひとりの武蔵高校1年生(16期理科)が「何故それほど破天荒なことなのか良く判ら」ないまま、シンガポール陥落に沸き立つ山本校長の「何時にない上機嫌」を唖然と見つめていた*79。それは、明治生まれと大正生まれ、戦場に赴く可能性のある者とそうでない者とのあいだに生じざるを得ない認識のズレであった。43年9月、戦局が悪化するなかで卒業を迎えるこの少年は、校友会誌の記事「卒業を前にして友へ」でこう呟く。  君、死ぬ事は一番やさしいよ。殊に大君の為、国の為に死ぬ事は最もたやすいよ。只如何に生きぬくか、国家の為に如何に生きぬくか、それが一番難しいだらう。僕達は死んではいけない(中略)僕達は僕達の学業に対してもつとはつきりした自信を抱き、もつと熱烈な理想と必死の努力とをそれにかけていゝのぢやないだらうか。*80 戦争で十分な勉学を果たせなかったことへの後悔と生きぬくことの決意は、後に教育者となる大坪少年にとって精神的な出発点となった。この強烈な戦争経験は同時に、老いては歴史家となる彼にとっての原点ともなる。  大坪は学園史を書くとき、書き手としての当事者意識を明らかにしている。歴史家は実証に徹すべきで自らの政治的立場の表明には禁欲的でなければならぬという格率を、彼もまた共有していたが、それでも自らの立場性に敢えて立ち入ったのが、「『君が代』の歌と『武蔵の式』のこと」(2000年)である。日本での国旗・国歌の法制化をめぐる議論が盛り上がるところから話を起こし、戦後の卒業式では国歌斉唱が消滅していたが、その復活の是非をめぐって校内で論争があったことが語られる。大坪が武蔵に着任した翌年の1951年、文部大臣の天野貞祐が「国民実践要領」を作成し、戦後の精神的荒廃に対して道徳教育の強化を訴えた。この「天野談話」が教育面での「反動」として左翼陣営や進歩的知識人たちから猛烈な批判を浴びたことは知られているが、大坪もまた批判側の立場から同時代を描いている。創立30周年(52年)からは天野大臣の来校もひとつの引き金となり、卒業式での国歌斉唱が復活する。その方針を保持させた中心人物として槍玉に上がるのが、内田泉之助教頭(1892~1979)である。この開校以来の最年長者であった漢文教授は、山本の理念に忠実な保守派であり「かなり強面で、とかくの異義は認めなかった」が、若手教員にとって「この『逆コース』は快いものではなかった」と大坪は回想している。しかし内田退職後の67年以降の卒業式では武蔵讃歌のみが歌われることになり、その後も学園関係者や生徒から復活を望む声があったが、結局は国歌斉唱はその後も行われなかった*81。  ここにはまず、「個人として『日の丸・君が代』を支持しない立場をとる」と述べる大坪の戦後民主主義への強いこだわりが見られる。戦時中のど真ん中に高等学校で、戦後の混乱期に大学で過ごした大坪にとって「二度と過ちを繰り返さぬ」という意志は、この時代を過ごした多くの者と同様、身体に刻み込まれたものであったに違いない。次に興味深いのが、テキストにおける大坪と内田との敵対関係である。内田は山本の信頼を最も受けた教員であり、戦後は『晁水先生遺稿』の編集に中心的役割を果たし、その続編の序文に彼の人格について「之を仰げばいよ/\(引用者注:いよ)高く、これを鑽(き)ればいよ/\堅い」*82と記した。いわば彼は、戦後における山本と日本帝国の精神の守護者であった。これに対し、明治憲法体制の破綻を受け止めて新制時代に相応しい精神を創ろうという改革者たらんとした大坪は、彼岸には山本、此岸には内田という二人の超克すべき目標を抱えていたのである。旧制武蔵の負の遺産を直視していた彼は、スパルタ教育や厳罰主義ではなく自律的な思考をじっくり育てる教育方針を取り、そして国家主義を相対化できるような広範な視野を育む機会を生徒たちに与えようと努めた。例えば、日本の受験戦争と詰め込み方式の過激化に警鐘を鳴らし、第二外国語学習の促進と国外研修制度の確立に力を尽くした。そうした点も含め、大坪に山本神話の解体を可能にしたのは、史料批判という研究手法だけでなく、戦後を生きぬいた彼自身の歴史意識であったと考えられる。  だが、大坪が戦後民主主義に忠実であったがゆえの限界も存在した。それは概して言えば、戦後の視点から戦前の精神を一括りにして外在的に批判・拒絶するという傾向、また評価するにしても戦後の価値に合うように修正して解釈するという傾向である。  例えば、大坪は上記のエッセイで、昭和30年代に学内で「君が代」復活論が唱えられた時、教員たちは「私立学校の私的行事論」でこれに対抗したと述べている。もとは国語科教員だった三木孝が提案した「武蔵は私立学校、入学式や卒業式は家庭での祝い事に類似の私的な行事だから、それに『国歌』はなじまない」という論理は「学校が君が代を禁止するのはおかしい」という生徒からの反発への抵抗にも用いられたという。「公私」の区分を根拠に学園内での「公的なもの」を拒否するというそれ自体はしかし、山本にも共有されていたは見落とされる。彼は1939年の紀元節講話で、日本の民族文化を象徴する行事は江戸時代に比べて、現在では廃れてしまったとして、例えば紀元節には神武天皇にちなんだ人形や食べ物を設け、各家庭で肇国の日を祝い、その理念を生活のなかで共有し、民族意識を高めるべきであると主張している*83。実際に武蔵は元旦には式を行わずに、1月8日に年賀式を行っていたし、国家主導の紀元2600年記念行事には他校と違って生徒を派遣しなかった。国家(公)と個人(私)の目標を分離させる大坪とこれらを統合させる山本とは、イデオロギーの面では正反対であるが、「公的行事」に「私的団体」が関与しないという方針自体は共有している。つまり、山本にとっては忠君愛国の理念に基づいていた以上の論理は、戦後の文脈で換骨奪胎された上で、学園に「公」を持ち込まない、つまり国歌を拒否する方便として利用されたわけである。  大坪は以上の論理を「私立学校を盾にとった」逃げ道であるとしつつも、地元住民の税金で支えられる公立学校にも適用できるはずだとさえ主張している。もしそうだとすれば、究極的には各個人が主権者として国民自らを統治することになっている日本国憲法下において「公」の論理はどこに働く余地を残すのだろうか。大坪はこれに明瞭な見解を示していないが、これに対して山本の「私」の論理は、「家族」から「団体」を経て「民族」へと徳を通じてつながっていくという共同体観を土台にした。我々は政治哲学を論じるつもりはないが、「公的なるもの」への学園の関わり方が戦前・戦後で実は継続してしまっているという点について大坪が十分に総括していないことは明らかである。  次に、大坪は戦後的な価値観に合うように山本の行動を解釈しようとするあまり、その理念の内在的な把握に失敗している。例えば、「御真影と奉安殿 旧制武蔵高等学校の場合」(2001年)は、旧制武蔵はある時期まで御真影も奉安殿も設置しない方針をとっていたという話を皮切りに、山本の国家との関係を論じている。そうした方針を山本の「個性」を国家に対する「反骨伝説」とする言説を括弧に入れ、大坪は自らの研究に基づき、彼が三理想の成立や学校成立の過程を学園史にまとめる際に意図的な記述・編集を施していることを指摘し、さらに陸軍や文部省高官との密接な関係に着目することで「反軍」や「反官僚」の像を脱色している。ここまでは山本の国家主義への批判を貫く大坪らしいキレのある叙述である。しかし、1920年前後から僅か数年間で「国の状勢は一挙に超国家主義の方向に動き始めていた」と述べるくだりから叙述が怪しい。さらに、二・二六事件(1936年)の犠牲者に武蔵生の父親であった渡辺錠太郎陸軍教育総監が含まれていたことに山本が衝撃を受けたのではないかと推測し、これを転機として彼の反軍・反官僚(文部省)の傾向が一気に強まり、対英米開戦後は「戦局への憂慮と軍人嫌いとが山本校長の気持ちの中で重なって、驚くほど過激な反発につながったのではなかろうか」と仮定する*84。大坪は1942年4月に起きた御真影問題をめぐる山本と文部省官僚・陸軍軍人の大喧嘩をエピソードとして挙げるが、以上の議論は憶測に憶測を重ねたもので説得力に欠ける。  山本が晩年には立場を変えて国家主義に対する「反骨者」に転じたという議論は、第3節で論じたとおり、「日支事変」や「大東亜戦争」開戦後、日本の「世界史的使命」に対する山本の期待が強まったことを考えれば、再考を要する。確かに、武蔵が奉安殿を置かなかったのは、根津嘉一郎など明治をはじめから知る財界人には「大正から昭和にかけて天皇を神格化し超国家主義、軍国主義の道を歩み始めたこの国の状勢を批判的に見ていた人物」が多かったからだと述べる大坪はなるほど、明治世代の大正世代に対する違和感そのものには気づいてはいる。しかし、山本の明治人としての論理において、「國體」(伝統的な生活と精神に基づいた皇室を軸とする民族文化)という目的への忠誠と「国制」(集権的なシステムに基づく統治機構)という手段をめぐる異論は両立する。つまり、陸軍の軍事行動の個々のやり方には反対しても、日本の対外行動には全体的に賛成することは可能である。この精神を十分に汲み取れなかった大坪は、「忠君愛国」の理想とその支柱としての「歴史観」教育の実践に死ぬまで固執しつづけた山本の思想的な一貫性を捉え損ねたのである。  勿論、大坪が学園の歴史を担う正統な後継者として、「建校の父」の権威を完全に葬り去るのではなく、その可能性を救いとらざるを得ない立場にあったことは認めよう。けれども、大坪は国家(公)と個人(私)を対立項で捉える戦後的な社会観に囚われたため、山本にとって不可分なはずの「国家主義」と「自由主義」を無理に分断して解釈してしまった。結局、大坪の実証的な努力とその名声に支えられる形で、山本=武蔵の「反骨精神」なるものは――1936年の「転向」という伝説を援軍に――「リベラル」な校風を裏づける強力な神話となり、21世紀に入っても機能することになる。    武蔵という場で神話の破壊者にして歴史の創世者たらんと努め、両方の仕事を自分なりに済ませた大坪の晩年は、穏やかな収穫の秋であった。2011年8月には学園史研究が反映された『武蔵九十年のあゆみ』の刊行を祝い、2013年6月には国外研修制度でドイツ・オーストリアに派遣された(元)生徒たちやドイツ語教員との懇親会を楽しんだ*85。あの敗戦から70年目の2015年11月15日、新しい武蔵を創った「ラディカル・リベラリスト」はついに冥府へと旅立った*86。翌年2月の「お別れ会」では、長い土砂降りが大講堂に無数の雨音を響かせるなか、500人以上の「大坪チルドレン」たちが師の学恩を偲んだ。 おわりに  武蔵のキャンパスには大きな欅の木が立っている。学園の象徴ともなったオオケヤキは開校以来、1世紀に渡って教師や学徒たちを見守りつづけている。けれども「建学の父」の薫りは今やすっかり薄れてしまったように見える。  1993年、西田幾多郎の孫であり、旧制武蔵で教育を受け(16期理科)、その後は新制武蔵高校・中学で物理や数学を教えた上田久は『山本良吉先生伝』を刊行した。本書は、対象の著作を読み込み、多くの同時代史料を検討し、抑制された筆致で山本の教育者としての生涯を初めて包括的に描いた優れた評伝である。それが呼び水になったのか、『同窓会会報』では3年連続(93?95年)で山本や「武蔵らしさ」を扱う特集が組まれた*87。そこには山本のテキストの引用や旧制出身者たちの回想が収録されたが、現在確認できる限りでは、これが山本「と」武蔵をめぐる声の群れが見られる最後の機会であった。  2010年代以降、受験教育への批判から塾・予備校業界と距離をとっていた武蔵高中は、次第にそれまでの方針を修正し、対外発信に力を入れるようになった。そこでは、建学の三大理想がブランドの史的根拠として強力に作用する。教育ジャーナリストのおおたとしまさは、綿密な取材を通して、武蔵の理念と実践を他に類を見ないものだと賞賛するが、その歴史理解には、かつての神話の影がうっすらと見られる。旧制武蔵は「特権に守られ、受験競争とは無縁の、真のエリート教育」を行いつつも、御真影や奉安殿を置かず、小冊子『国体の本義』も無視するなど「体制に与しない気骨も稜々だった」とする*88。それはまさしく、大坪が破壊しようとしたが、内在的な検討を徹底しなかったために、逆に強めてしまった「リベラルな抵抗者」としての山本像である。結局、彼の抵抗の事実だけが「自由の校風」の根拠として切り取られ、抵抗の理念としての帝国・皇室への忠誠心は葬られてしまったのだ。  以上、山本「と」武蔵を結ぶ糸を近代以来の歴史的世界のなかで洗い直してきたが、そこから浮き上がるのは、「武蔵的なるもの」が「日本帝国的なるもの」の生成・転換・崩壊・復活のサイクルのなかで様々な語りをなしたということである。だからといって全ては仮構の言説だったのだと切り捨てることはしない。教育勅語の理念への奉仕を誓った山本と、それに徹底して反対した大坪は、政治的立場は正反対であるにもかかわらず、両者の歴史(観)を語る言葉は、明日の世界を担う強い主体性をいかに育むかという近代教育の根源的な問いに真摯に応答し、また学校教育という場で実際に作動したからである。  では、山本という存在を〈ここ・いま〉の視座からどう考え直せるだろうか。20世紀の経験を経た我々にとって、山本の民族主義や国家主義を批判ぬきで扱うことなどできないし、理性を備えた強い主体を前提とする人間観も、数ある近代主義批判を前に修正を余儀なくされるだろう山本(や大坪)の理念を歴史的文脈から離して評価するのは極めて難しい。例えば、武蔵の三理想を「全球化globalization」の時代に「自律的思考」でもって対応できる個人を目指すことなどと読み替えるのは、それこそ山本の盲目的な伝統破壊への批判や、大坪の価値の画一化への警戒を水に流しかねない安易な行為である*89。  それでも、なんとかして山本の遺産を拾い上げようとすれば、そこに「型」への拘りがあることに気づく。思想家の唐木順三は戦後まもなく、近代日本の知のあり方を「型の喪失」と総括した。明治初期生まれの知識人は伝統的な形式を守ったが、明治20年代以降の世代は個性と自由を求める。前者(修養派)は「あれかこれか」と一冊の古典を熟読し、素読や坐禅などの身体実践を通じて知を身体に刻むのに対し、後者(教養派)は「あれもこれも」と多くの書を乱読し、内面世界での思索を通じて知と戯れる。昭和に入ると教養派は、強い型を擁するマルクス主義と帝国陸軍の席巻に対抗できず、やがて軍国主義の一人勝ちになってしまった*90。以上を補助線にすると、山本が武蔵で伝えようとした知のあり方の意味も、それに生徒たちが反発した理由も明快となる。山本は、生徒自身が「筋肉」を動かすことにこだわり、選ばれた古典(古文・漢文)を精読させ、自らもまた老年に至るまで謡曲に親しんだ。そして何のために教育の「自主」や「自由」があるかを自分なりに考え抜いた結果、大正という脱「型式」の時代風潮を横目に、明治の精神を徹底的に肯定したのだった。その方針が「個人」の自律を求める新世代の生徒たちの反発を生むのは必然であったが、山本の「ラディカルな反動性」は堅固な「型」を備えていたからこそ、左右の「全体主義」という新興の「型」に対して――「リベラル」な歴史観の想定とは逆のベクトルではあるが――叛逆しつづけられたと考えてよかろう。  今世紀に入って加速するIT革命と情報爆発、価値多元化のなか、もはや古典どころか一冊の新書さえまともに読めず、身体的な知の感覚を働かせる機会をほとんど失った我々にとって、残された唯一の規範とは、いかなる「型」からも脱して「自由に」(市場経済の再生産のために!)生きよという、見えざる「メタな型」である。機械翻訳もウィキペディアも使える新世紀に、敢えて漢文を暗唱させたり、原史料に耽溺させたり、英語以外の語学を習得させたりする教育は「反時代的」と目されるかもしれない。だが、少なくとも、画一的な「メタな型」を照らし出し、相対化するという目的に限るのであれば、自己と世界の具体的なつながりを「筋肉」を通じて「自ら調べ自ら考える力」は新たな可能性をもつのではなかろうか。「晁水」山本良吉の遺産は、我々に大きな問いを残している。 (後記)  本文に登場する史料は、読みやすさのために一部を常用漢字に改めて引用した。現代の観点で不適切と思われる表現であっても、同時代の雰囲気を伝えるためにそのまま引用した。武蔵の卒業生については旧制は「◯期文・理科」、新制は「◯期」と記した。    本論の執筆にあたり、武蔵学園記念室所蔵の数多くの貴重な資料を利用させていただいた。多忙のなかで全面的な協力を惜しまなかった同記念室の畑野勇室長に深く御礼申し上げる。有益なコメントをくださった同記念室の福田泰二名誉顧問(元武蔵高等学校長)・三澤正男調査研究員(高校45期・前武蔵学園記念室長)ほか、本学園史の書き手と読み手の全ての方々に感謝する。本論に対し、忌憚なき批判・助言を賜れれば、またOBの一人(84期)が残した声として読んでもらえれば幸いである。 注 *1 ここでの山本評は以下を参照。黒澤英典「武蔵学園建学の思想と山本良吉の教師論:閉塞的時代をリードした気骨あふれる教育者」『武蔵大学人文学会雑誌』41(3・4)(2010年3月)、199頁。相原良一「山本先生の思想について」川崎明編『晁水先生遺稿続編』山本先生記念会、1966年、547頁。兵頭高夫「山本良吉小論」『武蔵大学人文学会雑誌』37(4)(2006年3月)、126頁。大坪秀二『大坪秀二遺稿集』武蔵エンタープライズ、2017年、156、182頁。山本と武蔵学園をめぐる先行研究としては、上田久による評伝(上田久『山本良吉先生伝:私立七年制武蔵高等学校の創成者』南窓社、1993年)と大坪による一連の論考(大坪秀二、前掲書の「4 学園史研究」に収録)が最も充実している。  また、武蔵学園と関係しない点で山本を論じる研究も存在する。特に同郷の親友・西田幾多郎や鈴木大拙との関係で注目されてきた。石川県の知識人ネットワークの文脈で論じるものとして、浅見洋『思想のレクイエム:加賀・能登が生んだ15人の軌跡』春風社、2006年の第2曲「母への努めを果たす―気骨あふれる教育者・山本良吉」を参照。また明治知識人の宗教観の事例研究として山本を扱うものとして、松本皓一「晁水・山本良吉の宗教観」『駒澤大学佛教学部研究紀要』40(1982年3月)、62~83頁がある。  なお、山本は西田・大拙と膨大な量の書簡を交換している。それらの多くは今世紀に入って岩波書店より再編集・再刊行された『西田幾多郎全集』(全24巻、2002~2009年)および『鈴木大拙全集増補新版』(全40巻、1999~2003年)に新たに収録されている。濃厚な人間関係にもとづく私的なやりとりからは、両者の思想が生成変化していく過程を、論文や書籍、講義といった公共空間を意識せざるを得ない媒体には見られないような、赤裸々な痕跡を観察することができる。西田・大拙の思索に山本が果たした役割を考えることも、両者との関係から改めて山本の思想的意義を捉えなおすことも、学園史を広く位置づける上でも重要な課題となるが、それについては別の機会に論じたい。 *2 上田久、前掲書、271頁。 *3 「学園史」は、学校関係者の、学校関係者による、学校関係者のための歴史叙述としての性質をもつ以上、学園の指導(運営)者を顕彰する英雄伝となりがちである。伝統が浅い最初のうちはそうした歴史のあり方にも確かに意味はあろう。だが、学園創設から100年を数え、近代的教育理念の見直しや少子高齢化が世界的な課題となったいま、学園史は内向きの郷愁や好奇心を満たすためだけの「考古的歴史」を越え、外部を巻き込んで議論を喚起して新たな価値を生み出す「批判的歴史」を志向せねばならない。 *4 本節における山本の京大時代までの伝記的記述は次に依拠した。上田久、前掲書、第一章から第三章3節まで。 *5 山本良吉「開校十五週年記念式」『校友会誌』(武蔵高等学校)第34号(1937年6月)、14~15頁。 *6 北條の評伝は以下を参照。丸山久美子『双頭の鷲:北条時敬の生涯』工作舎、2018年。 *7 不孝(山本)良吉「アゝ我母」川崎明編『晁水先生遺稿続編』山本先生記念会、1966年、464頁。初出は『校友会雑誌』(静岡中学校)第2号(1896年4月)。 *8 山本の著作一覧は次を参照。上田久、前掲書、273~286頁。また山本の関連文献を含めたものとして「武蔵学園記念室支援サイト」内のページ(鈴木勝司編)を参照。http://wwr3.ucom.ne.jp/sirakigi/yamamoto-bk.html (最終閲覧日:2021年9月26日) *9 山本良吉「明治の三世」川崎明編、前掲書、464~474頁。初出は『静岡県教育協会雑誌』第126号(1899年5月)。 *10 同上、470頁。 *11 同上、471頁。 *12 同上、472頁以下。山本良吉「教育家と理想」川崎明編、同上、285?290頁。初出は『静岡県教育協会雑誌』第117号(1899年2月)。 *13 山本良吉「小学教師に呈す」川崎明編、同上、302頁以下。初出は『静岡県教育協会雑誌』第144号(1900年3月) *14 本節の学習院時代の山本の伝記的記述は次に依拠した。上田久、前掲書、第三章4節。 *15 臨時教育会議の概説とその時代背景については次を参照。山本正身『日本教育史』慶應大学出版会、2014年、第12章。 *16 小林敏明『西田幾多郎の憂鬱』岩波書店、2011年、318頁。 *17 山本良吉「岡田良平氏と歿後の教育界」『東洋文化』第109号(1934年5月)、13~23頁。山本は自由主義者と官僚主義者の代表としてそれぞれ澤柳政太郎と岡田を対比し、大衆受けはしないが教育人として誠実なのは岡田や山川・北條らであるとしている。澤柳は大正新教育(自由主義)運動の立役者、7年制高校をもった成城学園の創設者として知られる。山本のもつ澤柳および自由主義教育との距離感は改めて検討する必要があるが、少なくとも「リベラル」の名のもとに武蔵とほかの学校を論じることは避けるべきだろう。 *18 詳しい日程は以下の通りである。8月3日に合州国に入って大陸を横断し、11月6日に出国、大西洋を経て11月13日にイギリス着、12月1日にオランダ、12月4日にドイツ、12月14日にフランスに入って年末を過ごす。翌年1月16日にスイスを訪れ、同月19日にフランスに戻ってから2月12日に再び訪英する。そこで5月16日までロンドンやケンブリッジ、オックスフォードなどを視察し、再びフランスを経て5月23日にはマルセイユを出港、その後は地中海からスエズ運河、コロンボ、シンガポール、上海を経由して、7月2日に神戸に上陸、3日後に東京に帰着した。上田久、前掲書、139~140頁。 *19 山本良吉『わが民族の理想』弘道館、1921年、1頁。 *20 同上、4~7頁。 *21 同上、8~9頁。 *22 同上、5~7頁。 *23 山本良吉(尾形健編)『祖父・山本良吉渡欧日記:1920年-21年』私刊、1995年、62?64頁。1920年12月10日付。Kulturとはドイツ語で「文化」を表す単語であるが、大戦前後には英・仏の「文明civilisation」に対して独自の民族性を強調するための概念としてしばしば持ち出されていた。 *24 山本良吉『わが民族の理想』、12~23頁。 *25 一高教授としてフランスに派遣されていた太宰から受けた影響は、山本の日記(1921年2月10日付)にも反映されている。山本良吉(尾形健編)、前掲書、140~144頁。 *26 山本良吉『わが民族の理想』弘道館、1921年、25~29頁。 *27 同上、29~39頁。 *28 山本は個人主義の弊害として他者への同情心の欠乏を、その急進化として女権拡張(フェミニズム)運動や労働運動(ストライキ)を挙げて批判している。同上、42~45頁。 *29 同上、46~50頁。 *30 同上、52~55頁。 *31 同上、56~57頁。 *32 同上、63~72頁。 *33 武蔵学園が90年以上の伝統をもつと公言する建学の三理想は次の通り。 「1. 東西文化融合のわが民族理想を遂行し得べき人物   2. 世界に雄飛するにたえる人物  3. 自ら調べ自ら考える力ある人物」 根津育英会武蔵学園HP内より引用。https://www.musashigakuen.jp/gakuen/kyouiku.html (最終閲覧日:2021年9月30日) *34 山本良吉『わが民族の理想』弘道館、1921年、76~77頁。 *35 同上、80~90頁。 *36 同上、90~92頁。 *37 同上、第七章。 *38 1918年に送った山本宛書簡によれば、西田は文化のパトロンとして天皇を捉える考えをもっていたようだ。文化的共同性の象徴としての皇室観は、西田の死後、その人脈を通じて、戦後の象徴天皇制を支えるイデオロギーとなったという小林の議論は、山本の皇室観を考える上でも示唆的である。小林敏明、前掲書、338~356頁。 *39 山本良吉『わが民族の理想』弘道館、1921年、86~89頁。 *40 武蔵時代の山本の伝記的記述は次を参照。上田久、前掲書、第四・五章。その他、通史については例えば、武蔵九十年のあゆみ編集委員会『武蔵九十年のあ*ゆみ』根津育英会武蔵学園、2013年。 *41 中村草田男(くさたお)(1901~83)作。後に『長子』(1936年、沙羅書店)所収。 *42 維新史料編纂事務局の業務については次を参照。淺井良亮「明治を編む:維新史料編纂事務局による維新史料の蒐集と編纂」『北の丸』第50号(2018年3月)、81~92頁。 *43 昭和初期の明治維新像については次を参照。奈良岡聰智「『昭和戊辰』における明治維新イメージ:歴史意識の変容と相克」(瀧井一博編著『「明治」という遺産:近代日本をめぐる比較文明史』ミネルヴァ書房、2020年所収)。 *44 山本は自ら編纂した学園史のなかでも生徒・教員の共産主義との接触を憂慮している。第八年目(1929年)の記述にそれが見られる。武蔵高等学校編『武蔵高等学校二十年史:二五八二年~二六〇一年』1941年、42~43頁。 *45 山本良吉「思想問題の一方面:民族文化の闡明」内田泉之助編『晁水先生遺稿』故山本先生記念事業会、1951年所収)。初出は『東洋文化』第87号(1931年9月)。 *46 「西田幾多郎「思出話」内田泉之助編、前掲書、6頁。初出は『校友会誌』(武蔵高等学校)第49号(1942年12月)。ただし西田はすぐ後に「彼の様な頭の人が、単なる保守主義者になれ様はない」と述べている。 *47 山本良吉『勅語四十年』教育研究會、1930年、i頁(最初の数頁には頁番号なし)。 *48 同上、1~11頁。 *49 同上、14~15頁。 *50 例えば、山本正身、前掲書、第6~9章。侍講として明治天皇に儒学を講じた元田は宮中要人とともに、藩閥政治に対して天皇を頂点とする政治体制を築こうと試みていたという背景は無視できない。山本は随所で国体を重視する元田の思想と実践を高く評価しているが、明治国家と立憲体制における宮中の役割を彼がどう考えていたのかは改めて問われるべきであろう。 *51 山本良吉『勅語四十年』教育研究會、1930年、44頁。 *52 貝塚茂樹「教育勅語の戦前と戦後:教育勅語研究の現在と課題」(道徳教育学フロンティア『道徳教育はいかにあるべきか:歴史・理論・実践』ミネルヴァ書房、2021年所収)36~38頁。近現代日本の道徳教育の通史としては、江島顕一『日本道徳教育の歴史:近代から現代まで』ミネルヴァ書房、2016年。 *53 山本校長(良吉)「明治講話〔九〕明治二十七八年戦役に就て」『校友会誌』第36号(1938年3月)、巻末14頁。 *54 山本校長(良吉)「明治講話〔十一〕明治の旅行」『校友会誌』第44号(1941年3月)、巻末1頁。 *55 同上、巻末14頁。 *56 その最も有名な例として次のものがある。和辻哲郎『日本精神史研究』岩波書店、1926年。西田直二郎『日本文化史序説』改造社、1932年。20年代以降、「文化史学」は、古代史家の津田左右吉や思想史家の村岡典嗣(武蔵の「民族文化講義」にも出講)などの仕事によって評価を高め、特に西田が属した京都帝大の国史学科がもっていた、狭い政治的領域にとどまらない民族の精神発展を広く研究する気風のなかで、また京都の学際的なネットワーク(哲学・文学・人類学・宗教学…)を背景に、独自の研究成果を生み出した。 *57「民族文化講演「日本彫刻史」概要」『校友会誌』(武蔵高等学校)第17号(1931年12月)、172~189頁。注記によれば、本文は校友会文化学部の生徒が関野の講演内容の要項をまとめたものである。 *58 川崎明編、前掲書、661頁。 *59 山本良吉「憲法五十年史」『校友会誌』第37号(1938年6月)、8~9頁。 *60 山本良吉「教育勅語の発布に就て」『校友会誌』第36号(1938年3月)、7~8頁。 *61 京都学派の「世界史の哲学」や日本浪曼派の「近代の超克」といった言論的キャンペーンは無論、戦争責任論で一刀両断できるものではない。特に山本や西田たちが右翼(原理日本社など)や陸軍からの暴力に晒されるなかで思考をつづけていたことの重みは十分に踏まえられねばならない。大橋良介『京都学派と日本海軍』PHP研究所、2001年。 *62 無記名「シンガポール陥落祝賀式」『武蔵』(武蔵高等学校報国団)第47号(1942年3月)、1~2頁。 *63 同上、4頁。 *64 同上、4頁。 *65 貝塚茂樹、前掲論文、38?40頁。なお、貝塚によれば、勅語が現場でどのように運用され、どの程度まで機能したかという問題や、勅語の解釈変更を促した社会・思想的背景は何であったかという問題は、特に昭和戦前期では十分に解明されていないという(同上、46~47頁)。明治に制定された教育勅語がそのまま「戦争イデオロギー」になったという直線的な理解を修正するためにも、本論を含めて多くの事例研究が必要だろう。 *66 山本良吉『発動主義の教育』弘道館、1913年。 *67 山本校長(良吉)「二六〇一年紀元節講話」『武蔵』(武蔵高等学校報国団)第44号(1941年3月)、4頁。 *68「故山本校長追悼会」『武蔵』(武蔵高等学校報国団)第49号(1943年3月)、14~20頁。山本は日本の伝統的にあった尺貫法の保存を擁護し、それを破壊するメートル法をトップダウンで導入することに対して徹底して反対した。関係する論文として、山本良吉「メートル制の再判」『東洋文化』第109号(1933年7月)、12?18頁。同「メートル法強行について再説明」『東洋文化』第113号(1933年11月)、13~22頁。同「メートル法問題と官僚と内閣」『東洋文化』第123号(1934年9月)、12~19頁。ほか多数あり。 *69 川崎明編、前掲書、606頁。 *70 同上、618頁。 *71 同上、750頁。岩田雄二(15期文科、当時は大日本紡績綿布課長)の発言。 *72 同上、712~713頁。 *73 同上、713~716頁。 *74 同上、794~797頁。ここで鈴木が「まあ、ワンマンじゃありませんけれどね」と場を和ませる言葉を挿んでいる点も興味深い。 *75 同上、817~819頁。 *76 大坪の経歴は次を参照。大坪秀二、前掲書、503~504頁。 *77 大坪秀二「武蔵七十年史余話(その三)野球禁止考」(同、前掲書、166~171頁)。初出は、『同窓会会報』第42号(1999年11月)。 *78 大坪秀二「武蔵七十年史余話三理想の成立過程を追う」(同、前掲書、155~159頁)。初出は『同窓会会報』第39号(1997年11月)。 *79 大坪秀二、前掲書、283頁。 *80 大坪秀二、前掲書、8頁。初出は『武蔵』(武蔵高等学校報国団)第50号(1944年1月)。 *81 大坪秀二「「君が代」の歌と「武蔵の式」のこと」(同、前掲書、176~180頁)。初出は、『同窓会会報』第43号(2000年11月)。 *82 内田泉之助「序」川崎明編、同上、1頁。 *83 山本校長「紀元節講話」『校友会誌』(武蔵高等学校)第39号(1939年7月)巻末1~3頁。 *84 大坪秀二「御真影と奉安殿旧制武蔵高等学校の場合」(同、前掲書、181?188頁)初出は『同窓会会報』第44号(2001年11月)。 *85「武蔵高等学校国外研修ドイツ・オーストリア派遣生懇親会」は2013年6月30日の夕方に当時の図書館棟で開催された。(元)派遣生は63期から86期まで30人ほどが参加し、本論著者の吉川(高校84期・2010年ヴィーン派遣生)もその一人であった。 *86 根津育英会理事(2021年9月現在)を務める植村泰佳(高校45期)は、『大坪秀二遺稿集』刊行委員長として、かつてその教えを受けた大坪を「自由」「平等」「博愛」という近代の徳目を「原理的」に思考・実践した「ラディカル・リベラリスト」と称している。植村泰佳「大坪時代」(大坪秀二、前掲書、507頁)。 *87『武蔵高等学校同窓会会報』第35号(1993年11月)~第37号(1995年11月)の特別企画のタイトルは「武蔵と山本良吉先生」「武蔵らしさと山本良吉先生」「武蔵らしさとはなにか」であった。 *88 おおたとしまさ『名門校「武蔵」で教える東大合格より大事なこと』集英社、2017年、5頁。なお「一二歳で武蔵に合格すれば、ほぼそのまま無選抜で帝国大学に入学できる特権が得られた」という記述は不正確である。旧制高校から帝国大学への進学は原則、無試験とされていたが、大正期に中等教育を受ける人数が激増したため、1922年から各帝国大学は進学者に統一試験を課している。特に東京帝大といった人気大学、法学部や医学部など人気学部には多くの高校生が殺到した。なお、1927~40年のデータによれば、最難関校の東京帝大法学部への合格率は、武蔵が第一高等学校を抑えて首位であり、同大医学部への合格率も50%を越えている。旧制武蔵と受験戦争の相性は抜群であったようだ。竹内洋『学歴貴族の栄光と挫折』講談社、2011年、132~141頁。 *89 ここまでの議論が明らかにした通り、山本が生徒たちに強く求めたのは「国際性inter-nationalism」であって「普遍性universalism」ではない。「国民nation」を前提とする「国際性」という概念は、「国民国家」が経年劣化を迎える今、練り直される必要があるのは確かだが、一方で「全球性globalism」の急進的拡張が、あらゆる面での不平等や格差を人類史上類を見ないレベルでもたらしているのは間違いない。日本の受験教育において東大を頂点とする「大学偏差値ランキング」が、英米名門大学を頂点とする「世界大学ランキング」へと取って代わられ、「グローバル人材」の名の下に、人間の評価軸がますます画一化する日も決して遠くはない。世界と個人とその「あいだ」で我々はいかに生きていくべきか。山本や大坪たち「と」武蔵のつながりに眠る「歴史の教訓」はまだまだ多い。 *90 唐木順三「現代史への試み:型と個性と実存」(『現代史への試み 喪失の時代(唐木順三ライブラリーⅠ)』中央公論新社、2011年収録)。初出は『現代史への試み』筑摩書房、1949年。
 
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