Musashi
武 蔵 が 生 ま れ て 1 0 0 年 た っ た
100 YEARS HAVE PASSED SINCE MUSASHI WAS BORN
Days to 100th Anniversary
?
Days to Go
INFORMATION
サイト内「武蔵写真館」をリニューアルいたします!
本サイト内の「武蔵写真館」はこれまで、「人物」・「施設」・「武蔵の自然」・「学生・生徒」・「行事」・「江古田の街」の6つでカテゴリーを分類して、それぞれのカテゴリーを選択いただくと、一覧形式でサムネイルを表示し、ご覧になりたい写真の個所をクリックいただくと画像が表示される、というスタイルを取っていました。 上記のスタイルで、2020年12月末の時点で約980枚の写真を掲載しておりましたが、掲載枚数が増加するにつれて、画面のスクロールにかなり時間と手間を要する(とくに、スマートフォンや、画面の小さいタブレットを使用するとき)、というご意見が寄せられるようになりました。 そのようなご意見にお応えしまして今回、以下のような閲覧システムを構築いたしました。 (1)写真を一様に配列するのではなく、テーマごとに「ギャラリー」を設定し、それぞれが20~30枚程度の写真を含む。 (2)掲載予定の全枚数は、現時点で約1,700枚を予定し、この分量に見合ったギャラリー数として、約80~100を予定する。 (3)閲覧をご希望のギャラリーを一つ選択すると、そのギャラリーに該当する写真のサムネイルが表示される。ご覧になりたい写真の個所をクリックいただくと画像が表示される (4)2021年2月から、毎週3つ程度のギャラリーを公開してゆき、2021年夏ごろにはすべてのギャラリー(1922年の旧制武蔵高等学校創立前後から、100年にわたる学園のあゆみ)を掲載することを予定する。 これに加えて、後日、検索機能を実装して、キーワードや時代による検索を可能とすることを計画しています。 従来同様に、写真館の写真や説明についてのご質問やご指摘などありましたら、各写真のコメントボタンからお願いいたします。 また、ご提供可能な写真がございましたら、そちらもコメントでご連絡いただきたく、お願い申し上げます(僭越ながら、掲載・不掲載の決定については、学園記念室にて判断させていただきます)。 2021年2月1日 武蔵学園記念室
NEWS & TOPICS
2021.05.20
武蔵今昔物語
【追悼】風わたる草原に座る人のいなくなった椅子がひとつ
武蔵百年史と有馬朗人学園長
創立百周年を見届けることなく     有馬朗人学園長が2020年12月6日、白玉楼中の人となられた。その年の9月に、満で卒寿を迎えられたばかりだった。  筆者が有馬学園長に直接拝眉したのは学園記念室長を定年で退任するまえの2018年1月が最後だが、非常勤の研究員になってからも登室日の朝、有馬先生が登校されるところによく出会った。   有馬先生は正門を入ってすぐに学園長車を降りられ、少し背をかがめて杖もおつかいにならずゆっくりと学園長室のある8号館まで歩いていかれるのが常だった。おひとりでおつきの方もつけず、車を8号館に横付けすることはなかった。学園長車はそのまま右折して守衛室横の駐車場に向かった。学園内での自動車の移動を最小限にしたいという先生のお心遣いだったと想像する。たまにタイミングがあったとき「学園長、おはようございます」とごあいさつすると、先生は「はい、おはよう」とにっこり微笑まれた。  2022年に武蔵は創立百周年をむかえる。有馬先生は、そのときもお元気で学園長をされていると筆者は無邪気に思い込んでいた。すべての学園関係者もおなじ思いだったろう。毎年の新年の会のごあいさつ、大学、高中の卒業式、入学式での祝辞はいつも凛として、きびしくも愛情に満ちていた。齢をかさねられるごとにみずみずしくなられるのは驚異的だった。  創立百周年を機に「武蔵正史」を刊行することは、太田博太郎学園長時代の30年以上まえから決まっており、筆者は学園記念室長時代に「武蔵学園百年史刊行準備委員会」、さらに「同刊行委員会」とその作業部会の立ちあげを行った。これらの委員は大学、高中の教員、法人の職員から選ばれるが、規程上、学園長から委嘱するかたちになっている。  そのためにアポイントメントをとり、何回か有馬先生にご相談し、助言をいただいた。学園長室を予定の時刻にたずねると、有馬先生はうずたかく積まれた資料や書籍に囲まれていて、小柄な先生はお顔しかみえなかった。秘書の方が「記念室長がおみえです」と伝えると、先生は資料のなかから「やあやあ、ごくろうさん」と気さくに登場され、「ここは狭いから、広いところへ行きましょう」と、ふたりだけの打ち合わせなのに、大きな部屋に自ら案内してくださった。  資料をお渡しし準備状況を報告して、委嘱に関するお願いをすると、有馬先生は少年のように好奇心いっぱいに眼を輝かせ、筆者の整理されていない話を熱心に聴いてくださった。そして、いただいたご質問はすべて簡潔明瞭かつ正鵠を射ていた。最後に有馬先生から、「たいへんなお仕事でしょうがよろしくお願いします」と激励をいただいた。そして、「学園史は過去に起こったこと、現在のことを記述するのは当然ですが、回想に終わることなく、また旧制高校のノスタルジーに惹かれ過ぎることなく、次の50年への示唆、教育の未来に向けた発信にしていただきたい」と結ばれた。このときは、少年から研究者の鋭い眼になられ、筆者は心のなかで後退りをした。そして、多方面ですばらしい業績をのこされている方なのに、わけへだてのない対応をされる先生に、「ほんとうにえらい人とは、こういう人なのだ」と学んだ。 研究者、政治家、教育者、俳人としてーー「三理想」を体現された90年の旅  有馬先生は1930年、大阪のご出身だが、その後は銚子、浜松で過ごされ、県立浜松第一中学(現・県立浜松北高等学校)を卒業された。武蔵には高等科から入り旧制時代の終わり、22期(1950年)のご卒業だ。東京大学理学部物理学科に進まれ、同大学院で原子核物理学を研究、28歳で理学博士号を取得された。  その後、東京大学教授、ラトガーズ大学教授、ニューヨーク州立大学教授などを経て1989年東京大学総⻑。1993年理化学研究所理事⻑。1998年には参議院議員となり文部大臣、科学技術庁長官を歴任された。2006年4月に武蔵学園⻑に就任され、亡くなられるまで現職だった。また、公立大学法人静岡文化芸術大学院の創立者でもあり、理事長をされていたので毎週静岡にも行かれていた。  有馬先生は俳人でもあり、16歳で「ホトトギス」に入選して以来、俳句でも多くの賞をうけられているが、2018年には句界の最高賞と言われる蛇笏賞を受賞された。  2020年秋、武蔵高校卒業生の俳句をたしなむ有志が「武蔵俳句会」を立ちあげ、有馬先生に顧問と指導をお願いしたところご快諾をいただいた。12月1日には第1回の句会がオンラインで開催され、先生も参加されてとてもお元気そうだったという。筆者もその句会の案内を頂戴していたが、自分の句などはお目汚し、お耳汚しだと遠慮してしまった。いまではとても後悔している。  とらわれのない多様な表現と豊かな詩情は有馬先生の句の魅力だ。先生は「ホトトギス」同人の山口青邨に師事されたが、鉱山学者でもあった師と同様に科学者としての目線も感じられる作品も多い。  櫟なほ芽吹かざれども雲は春 朗人  福田泰二元校長によると、この句は1947年4月22日の夕刻か翌日に詠まれた作品で、有馬先生が旧制武蔵高校高等科の編入試験に合格され、その喜びと未来への期待をクヌギの巨木を見上げて詠まれた句だと、先生ご自身から伺ったとのことだ。この編入試験の志願者は1,000名強、合格者は45名だった。  爽やかに回り舞台の一変す 朗人  有馬先生の逝去は、あまりに突然だっため、ご自身が「辞世」として詠んだ句はない。先生は1990年から「天為俳句会」を主宰されているが、上記の句は同会のウェブサイトに有馬先生の2020年12月の句として掲載されている作品だ。「無季の句」であるが、なにか暗示的ではないだろうか。 お別れの会のしおりから ーー根津理事長、五神前東京大学総長の弔文  現職学園長の急逝に、学園関係のみならず有馬先生が関わられた多くの組織に連なる人びとが、悲しみをこえて前に進むためにはセレモニーが必要だった。 Covid-19の感染拡大のなか、武蔵学園、東京大学、理化学研究所の共催により、4月23日、帝国ホテルにて「「有馬朗人先生お別れの会」が執りおこなわれた。感染防止のため、参加は事前予約制、さらに参加時間もグループことに指定して、献花だけを行った。したがって、弔辞などのあいさつはなく、800名におよぶ参加者は献花のあとは別室に展示された有馬先生の業績やあゆみを語るパネルや資料で先生との思い出を偲んだ。  また参加者には、先生の略歴、受賞歴、折々の俳句が掲載された「しおり」が配布されだ。これに寄せられた根津公一学校法人根津育英会武蔵学園理事長(高校43期)、五神真前東京大学総長(高校50期)の弔文を、許可を得て転載する。                                ※  根津公一理事長ーー私が根津育英会理事長、有馬先生が武蔵学園長に就任したのは、2006年4月のことでした。就任早々有馬先生は私に、「初代根津嘉一郎が、どのような思いで、またどのように旧制武蔵高等学校をつくっていったのかを調べるように」との宿題を与えられました。調べた結果いくつか分かったのは、先ず初代根津嘉一郎の育英報国という動機。そして創立者が一人の思いで学校を創るのではなく、周囲に、当時日本の教育や政治にたずさわる超一流のブレーン達がいて、その人々の活発な議論の中から新しい学校が創られていったということでした。  そのとき私が思ったことは、初代根津嘉一郎を囲んだ多くのブレーン達の役割を、一世紀後の今日、有馬先生はひとりで果たしてくださっているのだと言うことでした。「天は二物を与えず」という俚諺がありますが、時として天は特定の人物にだけ、二物はおろかいくつもの才を与えることがあります。有馬先生はそういう方でした。今指を折って数えるだけでも、物理学者、教育者、学校の運営者、政治家、行政官、俳人等々そのどれをとっても、この国の、あるいは世界の最高級の才を、天は有馬先生一人に与えられたのです。気さくでひょうひょうとした日々の先生のたたずまいのどこから、あのきらびやかな才が閃くのか、まことに驚嘆する思いでした。  最晩年の有馬先生が、とくに心に掛けられていたのは、「東西文化融合」の思いでした。西欧近代文明と、その対極にあって漸く力をつけて来ている、中国、イスラムなどの東洋諸国との軋轢が先生の問題意識でした。そして、日本は古い東洋文化の一員でありながら、西洋の主導する近代文明とも価値観を共有することの出来る国として、これからの歴史の中で、両者の架け橋にならなければならない、というのが先生の持論でした。  武蔵学園は来年創立百周年を迎えます。その百周年を超えてどのような事業をしていくのか、それを議論している最中に、議論の中心であった有馬先生を突然喪ったことへの痛恨は大きいものですが、残された私たちは、これからも有馬先生の遺志を酌んで、将来「東西の架け橋」としての役割を果たす若い人々を育てる武蔵学園を創っていくことを誓います。  有馬先生の偉業に対し、心から尊敬と感謝を捧げ、謹んで御冥福をお祈り申し上げます。   五神真前東大総長ーー私が最後に有馬先生にお会いしたのは、昨2020年10月30日、先生が会長を務める東京大学地域同窓会連合会の会合でした。いつものはりのある声で、お変わりなく元気そのものでした。卒寿を過ぎてなお矍鑠たる有馬先生のお姿を見て、100歳までのご活躍を信じておりましたが、その僅か1月後に突然の訃報に接したのです。東京大学を長く精神的に支えて下さった巨星を不意に失い、大きな喪失感に襲われています。  有馬先生は、私の武蔵高校の先輩であり、東京大学理学部物理学科の先輩でありました。旧制と新制の違いこそあれ、武蔵高校では同じく、受験教育と距離を置き「自ら調べ自ら考える」ことの大切さと、リベラル・アーツを尊重する精神を学びました。  有馬先生は、配位混合理論や相互作用するボゾン模型など原子核理論の業績で世界的に知られ、文化勲章を始め国内外の栄誉を多数受けられました。原子核は多数の粒子が強く相互作用している難解な多体量子システムですが、対称性などの数理を駆使した先生の見事な理論によって、原子核はその美しい姿を際立たせました。一方で、現在の計算科学の先駆けとなる、原子核の量子構造の大型数値計算を創始されました。それは、お弟子さん達に引き継がれ、最先端計算科学を駆使して、先生の先見性が見事に証明されています。また、東京大学大型計算機センター長時代には、国産の大型計算機技術を堰合に示す事にも尽力されました。  2015年4月に私は東京大学総長に就任し、有馬元総長の後輩となったのですが、大学改革に対する先生の信念と行動力は、いつも私の手本でした。1990年代初頭の大学院重点化と教養学部改革という、よく知られたふたつの大改革の他にも、有馬総長は情報公開の推進、外部評価の導入、寄付講座の創設などを進められました。どれも常識を超えた大胆な改革で風当たりが強いものもありましたが、30年後の今、当たり前のこととなっています。批判に怯まず、将来を見通し、必要な改革は断行するという有馬先生の姿勢は、総長のあるべき姿を示すものでした。  私が総長となって2年たった頃に、東大の広報誌『淡青』での対談で、有馬先生は次のように発言されました。  「五神総長はよく頑張っていると感心していますよ。私も物理教室の出身ですが、理論屋だから屁理屈で終わってしまうことが多い。でも五神総長はきちんと実行もしますね。実験をやる人だったからかな。私を他山の石としてしっかりやってくれてありがとう」  私の総長在任中で、最も嬉しい言葉でした。有馬先生から、私の6年間の総長任期を終えたときの評価を伺うのを楽しみにしておりましたが、もはや叶いません。東京大学のさらなる発展を天国から見守って下さるようお願いするとともに、有馬先生のご冥福を心からお祈りいたします。                                ※  無月なり世のほころびをかくさんと  朗人  これは先生が「天為俳句会」に寄せた昨年12月の作品のなかの一句だ。有馬先生か旅立たれてからまもなく半年がたとうとしているが、Covid-19の感染収束の光は未だ見えず、社会のあらゆる局面に混乱が生じている。その歪みがもたらす変容は経済のみならずモラルにまで及びつつある。有馬先生は現在の日本と世界の状況を座標のない空間からどのようにご覧になっているのだろうか。  風わたる草原に置かれた椅子がひとつ、かつてここに座っていた人をいまもまっている。                                      (2021年5月記)                                         三澤正男(武蔵学園記念室調査研究員・前学園記念室長:高校45期)  写真上 1950年3月、武蔵高等学校22期理科の卒業式にて(現時点で有馬先生を特定できていない) 写真中 2018年春、武蔵学園の樹木のに名札をつける活動をされたとき、学生たちに語りかける有馬先生  写真下 2021年4月23日、帝国ホテル2階「孔雀の間」で執りおこなわれた「有馬朗人先生お別れの会」の祭壇 ※訂正とおわびーー有馬先生の俳人としての歩みを紹介する文に「夫人に先立たれてからは」という事実に反する表現がありました。筆者の誤解に基づくものであり、謹んで削除、訂正しおわびいたします。 筆者  
2022.01.13
武蔵学園史紀伝
夫が愛した「武蔵大学」
                               【編者注:この文章は、1979年に武蔵大学経済学部経営学科を第27回生として卒業された菅又佳郎氏(2009年10月3日に逝去された)の奥様、菅又里美様から、『武蔵学園100年史』紀伝編原稿として執筆いただいたものである。】  夫が亡くなって5年経った2014年の夏、武蔵大学同窓会栃木県支部総会にお誘いを受け、出席させていただきました。同窓生でもない私に「菅又君に代わって特別会員ですよ」と、皆さんが優しくお声をかけてくださるのが本当に有り難かったです。そこでの東武鉄道取締役の坂巻伸昭氏の「東京スカイツリープロジェクトについて」熱く語る講演は、この栃木支部会の立ち上げから事務局をしていた彼がいたら、どんなにか喜んだことだろうと思いながら聴き入りました。  私にとっての武蔵大学は30年ほど前、彼とお見合いで出会った日からです。日光までドライブをしましたが、道中彼の話はずっと武蔵大学のことでした。ゼミ、学生運動、恩師や友人、バイト、江古田のこと等々、私はここで武蔵大学の概要を聞かされたようなものでしたが、これが面白くて面白くてどんどん話に引き込まれていきました。目的地の明治の舘での食事の最中もあたかも昨日の出来事かのように「学内に一晩拉致されて差し入れの弁当がね……」「酔っ払って下宿に先生が泊まって、ズボンを間違えてはいてっちゃって……」「勉強してなくって、でっかく名前を書いて試験及第点……」「西武の配送センターのバイト、暑くてくたくたでわざと贈答カルピス破損させて……」などなど、およそ私の学生生活からは想像もつかないことを嬉しそうに話し続けていました。声が大きい人だったのでテラス席でよかったと思いましたが、今でもよく訪れる思い出の場所となっています。帰りの車内で流れていたBGMは歌謡曲でもフォークソングでもなく、岡村喬生氏が歌う武蔵大学讃歌で、延々とリピートされていました。  当時の日記を見るとその日のことを「独特の世界観をもっていて、これほど母校に生きている人私は知らない」と私は書いていて、それは彼が亡くなるまで変わりませんでした。この日がなければ彼と一緒になることはなかったのですが、ここに至るまでにさらに伏線がありました。卒業後は栃木に帰って就職することしか考えていなかったようで、武蔵大学の大先輩が経営する上野商事に入りました。同じ大学の卒業生ということで採用していただけたんだろうと思います。ほんの数年の勤務でしたが、当時商売をしていた私の実家に月1回営業に来ていたのです。私は高校生で何も知りませんでしたが、両親と彼はお互いに人柄を知り合った関係でした。彼が武蔵大学に入らなければ、きっと出会うことはなかったでしょう。そう思うとつくづく縁を感じます。その後彼は保険会社を立ち上げ、会社名も「武藏保険事務所」とします。どれほど大学が好きなのかと思います。  出会って2ヶ月後、私は初めて彼と武蔵大学に行きました。ケヤキの緑がとても美しく、校内には小さな「濯川」が流れていて都内とは思えないような自然を感じる大学というのが第一印象でした。大学を卒業して10年以上が経つのに「武蔵大学で僕を知らない人はもぐり」と。吹いていると思いましたが、守衛さんが「菅又さん」と声をかけてきたので驚き、大学職員のように学生生活課をはじめ各校舎を詳しく案内してくれました。親友の山田さんや大久保さんをはじめ大学職員の皆さんの笑顔に出会いました。正門を後にするときには「なんてアットホームな大学なんだろう」と思ったことを鮮明に覚えています。帰りに「ランプ」で優しそうなママさんから学生や同窓生の話を伺っていたら、卒業してもここに通う気持ちがわかるような気がしました。  彼と出会ってから何度もドライブをしましたが、大きな川を見ると川岸に行って対岸にまで届くような声で武蔵大学讃歌を歌うのが常でした。学ランでも着ているつもりかのようにエールまで切るのです。初めて渡良瀬川で聞いたときは唖然としましたが、あまりに堂々と歌うので思わず拍手をしてしまい、彼にとってはそれが私を選ぶ決め手になったようです。彼との20年の人生で武蔵大学讃歌を何度聞いたかしれません。嬉しいときも、辛いときも歌うので、私は自分の母校の校歌すら覚えていませんが、武蔵大学讃歌は3番まで歌えます。    元号が昭和から平成に変わった1989年の1月に結婚式をあげ、彼が日頃から大切にしている方々を200人からご招待し、祝福していただきました。翌日新婚旅行に出発しましたが、バブルのあの時代、日本で手に入らないものは何もないという感覚がありました。  そこで二人が考えたのは「世界の東京」に新婚旅行しようという発想でした。自分達がまだ経験していない、大相撲を桝席で観る、歌舞伎を桟敷席で観る、はとバスの夜の花魁コースに着物で参加する、ゴッホのひまわりを観る、根津美術館に行く、帝国ホテル、ホテルオークラに泊まる等々、1週間東京を満喫する贅沢な旅行でした。その旅行の最初の目的地が武蔵大学でした。前日ご出席いただいた先生方の研究室を次々訪ねては、どうして今ここに来ているんだと驚かれ、新婚旅行だと話してさらに驚かれ、昨日のご出席のお礼を伝えると皆さんようやく笑みをこぼされていました。  新婚旅行は東京でしたが、その夏からの20年、毎年夏と冬に海外旅行をしました。イスタンブールに行ったとき、「東西文化融合の……」とつぶやくので、聞いてみると武蔵大学建学の三理想「東西文化融合のわが民族理想を遂行し得べき人物、世界に雄飛するにたえる人物、自ら調べ自ら考える力ある人物」と、ボスポラス海峡に向かって叫んでくれました。そのために海外旅行をしていたわけではありませんが、彼の理想の人物像であったのかもしれません。  結婚してからは彼と一緒に何度も武蔵大学を訪れました。「武藏の日(平成6年3月4日)」では、アナウンサーの村松真貴子さんや柔道の山口香さんにお目にかかり、その2ヶ月後の武蔵丸の講演会にも聴きに行きました。武蔵大学に行くことで、なかなかお会いすることのできない方々との貴重な機会をたくさん得ることができました。「武蔵サミット」では大学にも行きましたが、「第二回武蔵サミット」で私にとっては初の九州、大分県の武蔵町に行ったこともいい思い出です。数ある日本の地名で「武藏」はここだけということも初めて知り、驚きました。  50周年の式典やゼミの石原先生の講義など彼一人で武蔵大学に行くこともありましたが、毎年文化の日には江古田で同級生と待ち合わせて小平霊園に行っていました。在学中に亡くなった同級生の六川さんのお墓参りです。私も一度連れていってもらったことがありますが、お線香を手向けた後は、近くのお店で一杯やるのが楽しみだったようです。近況を伝え合いながら、同級生ならではの楽しい酒を酌み交わしていました。 【石原司教授】  2009年6月に恒例の栃木支部会を開く段取りをして、当日は懇親会までいつもと何ら変わらず楽しんでいたので、同年の10月3日に亡くなったときは多くの方々を本当に驚かせ、悲しませてしまいました。葬儀で大好きな武蔵大学讃歌を流すことが遺言の一つでもありましたから、しめやかに流させていただきました。  翌年の2月には同窓会栃木県支部会の皆さんが「ミスター武蔵・菅又佳郎さんを偲ぶ会」を開いてくださいましたし、同級生や石原ゼミの方々が墓参りに足を運んでくださったり、恩師や友人からたくさんのお便りもいただきました。彼が日頃「人は宝」と言って、交友関係をとても大事にしていたからこそと思いました。  2年前に山梨の根津記念館を初めて訪れました。武蔵大学の創設者である根津嘉一郎について、私は「鉄道王」と言われ、茶人でもあったという程度の認識でしたから、ここでこの方の経歴や業績、功績を詳しく知ることができました。山梨県下の全小学校に200台ものピアノをはじめミシンや様々な教材・教具を寄贈し、「社会から得た利益は社会に還元する義務がある」という信念があったと知りました。夫は生前、亡くなったら大学に寄付をしてほしいと言っていましたから、遺言どおり大学に寄付をさせていただきましたが、根津嘉一郎に学んだことなんだと理解しました。広いお屋敷に佇んでゆったりと庭を眺めながら回想できたひとときでした。少しばかり夫婦でお茶を嗜み、二人でよくお抹茶を飲んでいましたから、帰りに館内のショップでお抹茶椀を一つ購入し、今もよく使っています。  夫の心のどこかにはいつも武蔵大学があり、武蔵大学に染まった人でしたが、彼は武蔵大学に全てに染まりたかったんだろうとさえ思える昨今です。今回思いがけない依頼で拙い文を書かせていただきましたが、在学中から夫を慕ってくれて、彼が亡くなった後も変わらない誠実さで「里美先輩」と気にかけてくれる大学職員の小倉宇思さんには感謝しています。
2020.09.30
武蔵今昔物語
武蔵百年への船出
青春の日付変更線をこえて
 花曇りの空から、わずかに陽ざしがこぼれた。武蔵野を渡る南風がやわらかに頬をなでたが、集った人びとはややかたい表情で時を留めた。  本記事の冒頭に掲げたのは、大正11(1922)年4月17日、武蔵高等学校の第1期生入学式の集合写真だ。いまから98年前のこの日、武蔵は日本初の私立七年制高等学校として歩みはじめた。尋常科4年、高等科3年を基本とする新学制の下にいち早く誕生したのは、根津嘉一郎という一個人の貢献によるものだった。  それ以前の中学5年、官立高校で3年の計8年ではなく、尋常小学校卒業後、7年間の一貫教育で大学に進学できる新しい学校である武蔵には、全国から1,102名が志願した。  一私人の篤志による設立、広大な校地に募集定員わずか80名という個性ある学校は、入学試験も独自だった。「理解力」では、「其の右に出づるものなし」「すめばみやこ」などの語句の説明や、武将の辞世の歌の知識を問う難問もあった。最後の大問は「世界石炭産額の比較」で、文科理科を問わず幅広い基礎教養を考査している。さらに「観察力」では実物の葉を3枚用意して差異を書かせていて、現在も武蔵中学入試の理科で出させれるいわゆる「おみやげ問題」は第1回入試から出題されていた。武蔵三理想の一つ「自ら調べ自ら考える人物」は入試問題からも求められていた。  こうして船出した武蔵は、初代校長に一木喜徳郎(枢密顧問官)、第二代に山川建次郎(東京帝大総長)という教育界の重鎮をすえ、強力な教授陣のもと、根津理事長の教育は現場に委ね経済的支援は惜しまぬ理解を得て、授業も設備施設も充実していった。また山上学校などの校外活動も開校直後から行なわれた。  とはいえ、都心から離れた小さな私立校が「一中、一高を経て帝大へ」を至上とする当時の学歴社会の荒海を渡っていくことへの不安は、生徒も父母も教員も抱えていただろう。しかし彼らの表情は、それ以上にパイオニアとしての希望と気迫に満ちている。事実武蔵は、その心映えのままに草創期を駆け抜けていく。  この日は少年たちにとって、海図も航跡ない日付変更線の彼方への船出だった。だから未来を見つめる彼らの表情は、かたいながらもどこかまぶしそうだ。                                                      (武蔵学園記念室・調査研究員 三澤正男) ※写真上=初代校長・一木喜徳郎 下=第1回入学試験の「観察力試験」  
2022.01.13
武蔵学園史紀伝
武蔵大学同窓会の黎明期余談
 私は昭和29(1954)年に武蔵大学プレメディカルコースに入学、秋に胸の病気が発覚、その後2年間休学を余儀なくされ、昭和31(1956)年に復学した際に経済学部1年次へ転籍。かつて、大学新聞会再編に関り教授ともども大学知名度アップに奔走したこともあって、この度、学園百年史刊行作業部会の大学側委員である大久保武氏(大20回生、事務局長、常務理事を経て、現在学園の常勤監事)から、大学同窓会や新聞会の発足当時のこと、加えて学園ゴルフ会発足の経緯などを記録に残して欲しいとの依頼を頂いた。折よく木村重紀(大12回生・元同窓会副会長)氏から大学同窓会60周年史などの資料提供も頂けたので、記憶をたどりつつ当時を振り返りたい。 「武蔵大学新聞縮刷版」61ページ、大学新聞第32号をご覧いただきたい。この号から、題字も元気なものに変えたいと思い、当時学園の庶務課長であり書道家としても有名であった大竹正美氏に依頼、紙面もタブロイド判から朝日や読売新聞並みのブランケット版に一変、6ページ建てにした。加えて、6面に「同窓会便り」のコーナーをつくり、向山巌先生(大1回生。大学同窓会設立者で初代同窓会長。当時は大学助手)に寄稿をお願いした。 【武蔵大学新聞・第32号・1面】 【武蔵大学新聞・第32号・6面掲載の向山先生の文章】  昭和32(1957)年4月号からその寄稿文を紹介する:「本年3月殆ど100%の就職率をおさめた第5回卒業生を迎えて、わが同窓会会員も250名から一躍370名に増加し、小規模ながら団体にふさわしい世帯を張ることが出来るようになったことは大変うれしいことです。(中略)会員諸兄が同窓会の存在意義を十分認識し、同窓会を媒介として同窓生が学窓時代に受けた他校に見られないうるわしい師弟、友情関係を社会生活を通じて緊密に維持し母校の発展に寄与したいものと考えます。なお、今後新聞会が同窓会のためにこの欄を毎号設けてくれることになりました。新聞会の好意に感謝するとともに、この欄を通じて同窓生の動向や消息、トピックなどを載せていきたいと思いますので同窓会本部まで資料を提供してくださるようお願いいたします。  同窓会会長 向山 巌」  手前味噌になるが、この大学新聞の「同窓会便り」コーナーへの向山先生の寄稿が大学同窓会誕生の学園全体に向けた産声だったと思っている。実際には、大学新聞第27号によると「昭和30年(1955年)10月の総会で会則並びに会長が承認され正式に武蔵大学同窓会が発足した」とある。私が復学し経済学部1年に転籍したのがその翌年の昭和31年、秋に「新聞会」に入会。当時、旧制武蔵高校は天下に鳴り響いていたものの新制武蔵大学なんて誰も知らない。したがって鈴木武雄学部長以下全学一丸となって「知名度アップ」に奔走していた。生まれて間もないにもかかわらず、今の「地方創生」の先を行く企画といえる日本経済新聞社と組んだ各主要都市での「武蔵大学時事経済講演会」を開催。併せて各地方で大学父兄会を開く、など。なにしろ大学に父兄会なんてあるはずもない時代(東海大学にもあったそうだが)に確かに各地方に父兄会役員が居られた。その効果か、地方からの新入生が多かったが、「ゼミ」なんて聞きなれない言葉にあたふたし、「そうか、夜教授の家で勉強会をするのがゼミなのだ」と錯覚。先生たちはそのため家、土地を西武沿線に買う場合、ゼミ用のため少し広めを購入しなければならないので頭が痛い、などとまるでウソのような本当の話。一方、学生たちは武蔵3大理想を唱え、ゼミ選びで大騒ぎし、学生生活を謳歌していた。大学と言うよりは向山先生が言われたように麗しい師弟、友情関係に満ち溢れていて、あたかも家庭のような気がした。  旧制高校の雰囲気を色濃く残す中、鈴木武雄学部長を兄貴と慕い、4年で卒業するのが勿体ないくらいの大学生活であったが、やがて私も卒業し「東レ」に入社。実習を終え東京本社販売部に着任するや否や向山先生から電話。「少数団体の同窓会とはいえ土台固めが一番の難題。会員との絆には同窓会新聞が必要。副会長を命じるから広報担当として走りまわって欲しい」と言われた。引き受けてみればどなたでも気づくことだが、何故土台が固まらないのか、すぐわかる。向山先生は別格だが、その後選ばれる歴代の会長は前会長の指名制であったため学生時代の超やり手が指名される。彼等が、会社で忙しくない筈がない。同窓会の仕事なんて出来る余裕のない人たちばかりを指名していたのだ。そこで浅野徹(大2回生)副会長の時、次回は自営業の人で武蔵バカを選んでほしい、2~3年の任期制も破棄してもらいたい。長期にわたらなければ本当の土台作りなんかできる筈がない、とお願いした。結果、選ばれたのが、その後32年間に亘り会長を務めることになるあの「石田久」(大1回生、高24期生)氏である。銀行勤めをやめ、実家(用賀、駒沢学園駅近)を継ぐ、という時だ。向山、浅野攻撃に耐えられず引き受けてくださった。石田さんに「あなたは旧制武蔵高校から大学へ来られた得難い逸材。ぜひとも死ぬまでやって武蔵大学を世界に雄飛させるための唯一の応援団の土台をしっかり作っていただけませんか」、武蔵を愛して止まない一番手の方にはこの言葉が一番効きにきいた。石田体制の土台作りがすぐに始まった。広報活動の充実をはじめ、全国規模で展開した地方支部発足の呼びかけ(と言っても卒業生はごくわずか)、各企業内或いは業種別業界の交流会の発足呼びかけ、そして各部会の組織運営にふさわしい人材探し、目が回るほどの忙しさだった。長期基本方針がはっきりしていただけに素晴らしい人材たちが同窓会役員に入ってきて石田体制をしっかりサポートしてくれ、こんにちの素晴らしい同窓会が芽を出し始めて行った。同窓会新聞の発行については、当時現役の大学新聞会の各編集委員、特に戸塚章(大16回生)氏が活躍、名だたる優秀メンバーが揃い充実していった。途中、新聞では字数が少ないと言うことになり、週刊誌タイプに切り替えたがビックリするくらいの上出来ぶり。後に「講談社」に入り夕刊・日刊ゲンダイ初代編集長に抜擢された浦上脩二(大14回生)氏並びにそのグループなど、枚挙にいとまがない。ご協力いただいた皆様に感謝、感謝の毎日だ。  話が移るが、武蔵大学の母体は旧制武蔵高等学校である。大学発足時から、武蔵学園の中には、戦後の「学制改革」により誕生した新制武蔵高等学校(中高一貫男子校)と旧制高校を母体とした新制武蔵大学の二つが併存しており、現在もそうである。普通に考えれば同窓会が3つになるはずだ。つまり、旧制武蔵高等学校同窓会、新制武蔵高等学校同窓会、新制武蔵大学同窓会。これを学園全体で一つにまとめる?至難の業が必要となる。しかし、正田建次郎学園長時代にこの無理を無理でないものにしようと学園長が自ら立ち上がられ、その手始めにと発案されたのが、互いの親睦を深めるためのゴルフ会である。昭和49(1974)年11月9日(これらの資料は木村重紀氏・元同窓会副会長から入手)のことである。これに「はーい」と合流したのが、なんと旧制武蔵高等学校出身の石田大学同窓会長。彼、ゴルフが出来ないのに、会場の東武カントリーに朝から駆け付け懇親会終了まで出席。結果は旧制組が上位を独占、大学側は惨敗。大学同窓会新聞によれば「新旧同窓生交流に大きな成果」とありその後この「オール武蔵ゴルフ大会」は毎年開催と決定され、「武蔵学園ゴルフ会」と改名はされたが令和元(2019)年で通算なんと78回。3者(いや2者か)が和気藹藹となって力を合わせて学園長杯を競う、なんと素晴らしいことだ。学園が一つになった。  大学同窓会報の中に「武蔵なひと」と言う秀逸なコーナーがある。若い素敵な女性たちが作ってくれた作品らしい。プレメディカルコース出身の宮崎秀樹先輩(プレメ2回生。現在・参議院協会会長、元日本医師会副会長、現中国・国家発展と改革委員会の日本でただ一人の名誉顧問)、小林隆幸先輩(大1回生。元ホンダ常務)など90歳近くなのに目を細めてこのコーナーを楽しみにしている。こうしたコーナーこそが絆を強めるパイプ役だ。先人たちの土台作りに込めた思いがこうした形で強まっていく。同窓会をはじめ武蔵大学、武蔵学園全体がより強い絆で発展を遂げて行く。先人たちに心からの謝意を捧げたい。  最後に「武蔵大学新聞」が長期休刊に入った際、暖かな目で支援の手を差し伸べてくれたのは武蔵大学本体であり同窓会であり新聞会にたずさわった諸先輩たちだった。特に、当時学長でおられた桜井毅先生(大3回生)の強力な支援の下で「武蔵大学新聞縮刷版1~2号」が完成したことは画期的なことである。今、その新聞会は見事復活しヨチヨチながらも歩み始めている。武蔵学園全体のあふれんばかりの暖かさが身に染みる。武蔵学園万歳!   
2020.09.23
武蔵今昔物語
白雉縁起
白い雉の剥製2体
白雉の由来   白雉は武蔵学園のシンボルであり、高中、大学のエンブレムにも意匠として用いられているほか、秋の武蔵大学祭は「白雉祭」を名乗り、大学の運動系サークルのニックネームにも雉を英語にしたPheasantsが使用されている。また、新制武蔵高校でも一時期、「白雉寮」という学寮があった。  その由来は『続日本紀』「称徳紀」の「神護景雲二(768)年、武蔵の国で白雉が捕獲され、称徳天皇に献上された」という記述に基づいている。称徳天皇(第48代)は第46代の孝謙天皇と同一人物で、孝謙天皇が一度退位した後、重祚(ちょうそ)し称徳天皇として皇位についた。史上6人目の女性天皇である。  創立時の徽章を定めた記録にも、その理由として「雉は吉瑞(よいことの前兆)の鳥であり、さらにめずらしい白雉が武蔵の国からでたことは学校・国に貢献する人材を多数輩出することにもつながる」とある。このことは校名が「武蔵」と定められた理由のひとつでもある。  旧制武蔵高等学校が設立申請をしたときの名称は、「東京高等学校」だった。しかし、当時文部省でも同名の7年制高校を準備しており、「東京」の名を譲ってほしいという申し入れを受け、学校建設の中心人物だった本間則忠の提案により上記の「武蔵」が校名となった。本間則忠は、文部事務官で初代根津嘉一郎の社会貢献の志を知り、七年制高校の設立を根津に勧奨し、開校までの実務に奔走した人物である。  本間は、校名を武蔵とした事由について、武蔵国という地名、「むさし」の音が「無邪志」に通じることなどを挙げて述べているが、一方で本間は文部省の現役官僚であり、他の創立関係者も文部大臣、臨時教育会議総裁、東京帝大総長など、当時の教育界を代表する重鎮である。これらの人びとが「東京高等学校」を文部省が準備している情報を知らなかったと考えるほうが難しい。では、なぜあえて「東京」の名で申請したのか。設立の準備は武蔵のほうが東京高校より圧倒的にはやく、尊官民卑の時代ゆえに公式な設立の年月日は官立の東京高校に譲ったが、うがった見方ほすれば、あえて「東京高校」と申請し、それを取り下げることで民の気骨をしめしたのかもしれない。  その背景と校名の由来については、本サイト内の「武蔵学園紀伝」ページの大坪秀二元校長(故人)による論考、「校名『武蔵』のこと」を参照されたい。  剥製はどこからきたか  現在、学園記念室(大講堂2階の展示室)に展示されている白雉の剥製は、1972年、武蔵開学50周年の折に秋田県本庄市の野鳥研究家、繁殖家である佐藤栄一氏から寄贈されたものだ。佐藤氏は剥製を寄贈した後、武蔵に招待され、正田建次郎学長・ 校長(当時)と対談しており、そのときの録音カセットテープが残っている。  佐藤氏は当時39歳。すでに著名な鳥の繁殖家で、神奈川県のこどもの国に200羽の鳥を放鳥したりしている。 また、日本野鳥の会の発足に関わった中西悟堂氏とも交流があった。佐藤氏によるとこの白い雉はアルビノではなく、 5年くらいかけて体色の薄い雉を交配させた結果だという。しかし佐藤氏は、けして自分が「作った」のでは なく、あくまで生まれたのだと正田学長・ 校長に熱弁をふるっている。  さらにテープを聴くと、佐藤氏は当時武蔵で美術教師をされていた洋画家の伊能洋氏と懇意にされていて、 武蔵のシンボルである白雉をぜひ描きたい、そして白雉など想像上の鳥と思っている生徒たちに本物を見せたい という伊能氏の熱意に共感して寄贈を決めたということが判明した。なお、伊能氏の実兄の敬氏(故人)も武蔵の 教員をされていて、伊能忠敬の七代目の子孫にあたる。なお、佐藤氏の剥製は2体あり、もう1体は理事長室に置かれている。  佐藤氏は、子どもたちに本物をという伊能氏のことばにとにかく感動したようだ。そのころ、佐藤氏の白雉の剥製は各方面から譲ってほしいというオファーがあったが、「金額ではなく精神の問題」と佐藤氏は武蔵に寄贈を決めたという。対談後半で氏は、「鳥の写真をきれいに撮影したり、分類や生物学的知識で立派な先生や専門家はたくさんいるけれど、わたしのように何千羽の鳥を育て、直接触れ合うことで鳥を学んだ人間はそうはいません」と自負された。するとそれまで静 かに佐藤氏の熱弁を聴かれていた正田先生はおだやかに笑いながらこういわれた。  「いやいや、われわれ教員には耳の痛いお話です。子どもに教えたいという先生はたくさんいますが、子どもと心から触れあいたいという先生はなかなかいないのですよ」。  白雉の剥製が寄贈されてから48年が経過した。作りがていねいうえに、佐藤氏の情熱が込められているのだろう。保存状態はきわめて良好である。記念室に常設展示している白雉は、大講堂2階の展示室の開室時には誰でも見ることができる。                                                    (武蔵学園記念室・調査研究員 三澤正男)
2022.01.08
武蔵学園史紀伝
武蔵大学図書館のコレクション
イギリス通貨・銀行史コレクションを中心に
武蔵学園の図書館  現在、武蔵学園には、武蔵大学図書館と武蔵高等学校中学校図書館の2つの図書館がある。  図書館の充実を図ることは、旧制武蔵高等学校の以来の方針であり、開学から4年後の1922年の時点で、すでに蔵書数は2万8千冊に及んでいた。ただし、独立した図書館棟の建設については、その計画はあったものの、戦前の鉄材統制の影響などもあって、旧制高等学校の時代には実現をみるに至らなかった。戦後、大学の開学をうけて1951年に、新たに書庫と閲覧室が建設された。そして63年には新たな図書館棟が作られ、81年には現在の大学図書館が新築され、さらに2002年に大学8号館が建設されると、その地下に「洋書プラザ」が設置され、大学図書館に収蔵されていた洋書がここに収められた。大学図書館は大学と高等学校中学校が共同で利用されてきたが、04年に高等学校中学校の図書館棟が建設され利用が開始された。ただし、図書館を学園全体で利用する伝統はその後も続き、大学の学生・教員と高等学校中学校の生徒・教員が2つの図書館を利用するかたちは維持されている。  現在の蔵書数をみると、大学図書館では約65万冊、高等学校中学校では約7万6千冊に及んでおり、充実した内容のものとなっている。  さて、大学や高等学校中学校が図書館を設けて文献資料などを収集・保蔵し、利用の機会を提供する目的はどのよう考えられるだろうか。  いうまでもなく、学生・生徒が、学習に関連した書籍や各自の知的関心に応える文献などを閲覧できる環境を整備することを、その第一にあげることができる。武蔵学園は、旧制高等学校の時代から、「自ら調べ自ら考える力ある人物」の育成を「三理想」のひとつに掲げており、図書館機能の充実はこの理想の実現を支えるものといえる。  他方、各分野の研究に必要な文献資料などを収集・保存することも、図書館の役割である。特に「学術の中心」(教育基本法)とされる大学の図書館の場合、これは、教育と並ぶ基本的な役割であるといえる。そして、これらの資料は当該の図書館を運営する大学などの教員の研究に利用されるだけでなく、利用の便宜を外部にも広く提供し、社会の学術研究の発展に資する役割を担うものでもある。各々の分野の研究に必要な資料は広範囲に及び、また研究分野も多様である。他方、それぞれの図書館が所蔵できる資料の数は限られている。したがって、こうした外部提供の果たす役割は大きいといえる。  現在ではインターネットの普及により各図書館が所蔵する文献資料など検索をすることは容易となった。各大学図書館のOPACと呼ばれる文献検索システムはインターネット上に公開されている。また、国立情報学研究所(NII)が提供するCiNii Booksというデータベースによって、全国の大学図書館などが所蔵する図書・雑誌や雑誌を一括して検索することもできる。しかし、そうした現在においても、ある特定の分野に関する包括的な文献資料などが、ひとつの図書館において所蔵され閲覧できることの便宜は小さくない。各分野の資料にどのようなものがあるかの情報が得やすくなるばかりでなく、多くの資料の閲覧も多数の図書館に赴いたり、多数の図書館から資料を取り寄せたりする場合よりも容易となる。  「何々文庫」とか「何々コレクション」と呼ばれるものは、図書館が所蔵する文献などの資料のうち特定の分野に係るものを取りまとめたものである。そのひとつのタイプは、ある個人などが収集した文献などをもとにしたものである。例えば、一橋大学には「メンガー文庫」がある。これは、『国民経済学原理』などを著し、「限界革命」と呼ばれる1870年代における経済理論の革新の担い手の一人であった著名な経済学者、カール・メンガーが収集した2万冊からなるものである。一方、個人ではなく、古書店などが特定のテーマに係る文献などを集め、これを大学図書館などが所蔵するコレクションもある。  武蔵大学図書館も、こうしたコレクションがある。イギリス通貨・銀行史コレクション、バルザック(水野文庫)コレクション、ラファエル前派コレクション、そして朝田家型紙コレクションがそれである。   武蔵大学図書館のコレクション  これらのうちイギリス通貨・銀行史コレクションについては、最後に多少詳しく述べることとし、まず、それ以外のコレクションをみておこう。  バルザックは、19世紀のフランスを代表する小説家であり、リアリズム文学を確立したと評価される。水野亮氏は、このバルザックの研究者であり、『従妹ベット』、『従兄ポンス』、『「絶対」の探求』など岩波文庫に収められた多くのバルザックの著作の翻訳者としても名高い。水野氏はバルザックに関する多数の文献を収集されていたが、1979年に亡くなったのち、水野氏のもとで学ばれた私市保彦氏(武蔵大学名誉教授)との縁故により、この蔵書が武蔵大学図書館の所蔵するところとなった。79年の受け入れ開始から1年余りをかけて登録整理が行われ、目録が作成された。書籍1440余冊、雑誌論文などの資料約200点からなるバルザック(水野文庫)コレクションが、これである。  ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)とは、19世紀半ばのイギリスで結成された芸術家のグループである。このユニークな名前は、ラファエロ以降の芸術を規範とする当時のアカデミーの在り方を批判し、それに縛られない芸術を目指したことに由来するとされる。そして、このグループは、ルネサンス以前の素朴な芸術の精神の復興を唱え、その影響は、絵画だけでなく文学などの分野に及んだ。武蔵大学図書館のラファエル前派コレクションは、この芸術運動の資料の集成であり、240点の初刊本や書簡を含む328点からなっている。  武蔵大学のコレクションのなかでユニークなものに、朝田家型紙コレクションがある。朝田家は丹後国の宮津藩(現在の京都府宮津市)で、幕末の天保年間から明治30年代にかけて、三代にわたり紺屋(染物屋)を営んでいた。その間に使用・収集された小紋や中形の型紙約3000枚と、幕末期に藍染された小紋の裃1具、および関連文書約250件、図様の彩色見本長3冊が、武蔵大学に寄贈された。これらの資料を預かり受けていた型彫師の増井一平氏の仲介により、本学の丸山伸彦教授を通して、2012年に朝田家より寄贈されたものである。   イギリス通貨・銀行史コレクション  イギリス通貨・銀行史コレクションは、経済学部の金融学科開設と係わりがある。武蔵大学は、1949年に経済学部経済学科のみの単科大学としてスタートした。その後、59年には経済学部に経営学科が増設され、69年には人文学部が開設された。そして92年に経済学部の3つ目の学科として金融学科が開設されることとなった。当時、情報通信技術の発達や金融市場のグローバル化の進展などを背景として、経済分野における金融の役割は拡大し、金融取引の内容も進化していた。こうした状況のもとで、金融現象を総合的に取り扱う金融学科が誕生することとなった。イギリス通貨・銀行史コレクションは、これにあわせて金融関係の図書資料の充実をはかるために、丸善の協力をえて入手したものである。  このコレクションは、個人の蔵書をもとにしたものではなく、イギリスの古書店二社が専門家の協力のもとに5年の歳月をかけて収集した文献からなっている。文献数は1800点余りに達する。刊行年別にみると、1600年代のものが46点、1700年代が282点、1800年代が1,251点、1900年以降のものが627点であり(刊行年不詳のものを除く)、貴重な古書が多く含まれている。  そのタイトルが示すように、この文献コレクションはイギリスの通貨・銀行業に関するものである。主題別にその内容をみると次のようになっている。銀行および通貨の経済理論(205点)、イングランド銀行(92点)、スコットランドおよびアイルランドの銀行業(154点)、地方銀行・民間銀行・株式銀行(66点)、貯蓄銀行(194点)、海外におけるイギリス系銀行業(149点)、銀行業の法令および銀行実務(679点)、イギリス銀行業の歴史および回顧的研究(149点)、通貨・貨幣鋳造・銀行券(123点)、である。このように、このコレクションに収められた文献資料は、広い範囲に及んでいる。  現在でもロンドンは世界の金融センターのひとつであり、金融部門においてイギリスは大きな役割を担っている。ただし、イギリスの通貨制度や銀行制度を研究する意義は、こうした現代におけるイギリスの重要性に照らしてみただけでは十分理解できない。アムステルダムの後をうけて、イギリスはロンドンのシティを中心として、近代的な金融業をいち早く確立させ、その後長く世界の金融中心地の地位にあった。また通貨・銀行に関する理論の発展でもその中心となり、のちに触れるイギリスで行われた地金論争や通貨論争などは、通貨・銀行に関する古典的な論争である。したがって、通貨・銀行業の歴史や理論を研究するうえで、イギリスに関する諸文献の検討は欠かすことができず、年代的にも主題に関しても幅広く文献を収集したこのコレクションの意義は大きい。  ここに収められた文献の全体像を紹介する余裕はないが、代表的なものをいくつかとりあげて簡単に紹介しよう(1)。  そのひとつは、イングランド銀行の設立に関するものである。現在、イギリスの中央銀行であるイングランド銀行は、名誉革命からしばらくたった1694年に設立された。革命以前からイギリス政府は財政難に悩まされており、課税の強化や借入に頼って資金を確保することが困難な状態に陥っていた。イングランド銀行はこの問題を解決するために設立された。そして、同行の設立に際して重要な役割をになった人物が、ウィリアム・パターソンであった。波乱に富んだ経歴を経て、革命後ロンドンに定住し財を築いたこの人物が提案したイングランド銀行の設立案は、「真に実際的で、且つ十分に熟考された最初の計画」(2)であり、これに基づいてイングランド銀行が設立された。イングランド銀行の創設者ともいえる彼が、同行が基礎をおくべき原則を説明する目的で、1694に著した小冊子が、本コレクションに収められているA brief account of the intended Bank of Englandである。なお、イングランド銀行の設立と同時期に、土地銀行設立という別の構想があった。土地所有者から提供される土地抵当を基礎に信用創造を行うというこの企画に関して最も影響力が大きかった人物はH.チェンバレンであり、J.ブリスコウも有力な提唱者であったが、この二人の多くの書作も本コレクションに収められている。このようにイングランド銀行設立期において行われた信用制度に関する議論をみるうえで、本コレクションは重要な資料を提供している。  信用制度をめぐるイギリスの議論に係る文献をもうひとつ紹介しておこう。19世紀の初頭、イギリスは他の国々に先駆けて資本主義経済を確立させたが、1825年以降、信用恐慌を伴う恐慌が周期的に発生することとなった。本コレクションに収められたT.ジョプリンの1832年の論稿、Case for parliamentary inquiry ,into the circumstances of the panicは、銀行業の問題の権威者であったジョプリンが、この1825年恐慌についての検討の必要を説いたものである。  こうしたなかで1836年以降、議会に委員会が設けられ、通貨・信用制度の在り方をめぐる議論が活発に行われた。通貨論争と呼ばれるものが、これである。  19世紀のイギリスにおける通貨・信用制度に関する論争としては、地金論争と通貨論争が重要であり、かつ有名である。このうち、地金論争は、フランスとの戦争を背景として1797年にイングランド銀行がイングランド銀行券の兌換を停止したのちの諸現象-地金価格の上昇や為替相場の下落など―の原因や、兌換再開の是非などについて行われた論争である。地金論争関係の文献も本コレクションに収められているが、それについての説明は割愛し、通貨論争に戻ろう。  通貨論争と呼ばれるこの論争は、1844年のピール条例制定を中心とするイギリス信用制度の展開につながったが、それだけでなく、そこで議論された論点や提唱された理論的主張は、現在に至るまで、姿を変えながら繰り返し現れてきている。現在の日本銀行の量的金融緩和政策については、専門家の間でも評価が分かれているが、1990年代の前半には、岩田・翁論争と呼ばれる論争があった。これは、岩田規久男氏(上智大学教授、当時)と翁邦雄氏(日本銀行調査統計局企画調査課長、当時)との間で行われた論争であって、日本銀行がマネタリーベースを増加させることで物価を上昇させるという政策の実行可能性や妥当性が問題とされた。もちろん、当時、あるいは現在の日本と、19世紀半ばのイギリスとでは、状況も異なり、論争の争点も同じではない。しかし、中央銀行が通貨量を管理することができるか否かや、それが有効な問題解決手段となりうるか否かが基本的な論点となっている点では、現代のこの論争も通貨論争と共通しているといえる。  通貨論争の参加者は、通貨学派と銀行学派に大別される。このうち通貨学派の人々は、恐慌が発生するのは、銀行券が過剰に発行されるためだと考え、銀行券の発行高をイングランド銀行の金準備の大きさと厳密に結びつけることで、恐慌は回避または緩和できると主張した。他方、銀行学派の人々は、銀行券の過剰発行が恐慌の原因であるとする説を退け、また銀行券の発行額は取引の必要に応じて受動的に決まるなどと論じた。  このような両派のうち通貨学派を代表する論者のひとりが、サミュエル・ジョーンズ・ロイド(オヴァーストーン卿)である。イギリス通貨・銀行史コレクションには、ロイドの著作が複数収められている。そのなかには、イングランド銀行を発券部と銀行部の二部門に分割すべきこと―これは、ピール条例で実現される―を論じた珍しい私刊本、Thoughts on the separation of the departments in the Bank of England(1840年)も含まれている。通貨学派の論客としては、ロイド以外にも、G.W.ノーマンやR.トレンズなどがよく知られているが、両者の論稿も本コレクションに複数収められている。他方、銀行学派に属する人物の文献としては、T.トゥックの著作、A history of prices, and of the circulation, from 1793 to 1837をあげるべきだろう。この『物価史』は、たんに通貨論争に係る文献というだけでなく、事実による根拠を丹念に示しながら、イギリスの物価変動について詳細に論じた名著である。そしてこの大著の翻訳は、武蔵大学で長く教鞭をとられ、名誉教授となられた藤塚知義氏によって行われた。本コレクションには、1838年に刊行されたその第1巻と第2巻が収められている。   注: (1) 藤塚知義「イギリス銀行業・通貨制度の文献コレクション」(『学燈』Vol.89,No.3 1992年〔『イギリス銀行制度の展開 武蔵大学金融学科開設記念蔵書展 展示資料解説』に転載〕、および吉田暁「現代の観点からみるイギリスの銀行・通貨史」(同『展示資料解説』所収)参照。 (2) A.アンドレァデス『イングランド銀行史』(町田義一郎・吉田啓一共訳 日本評論社 1971年)」77頁。パターソンおよびイングランド銀行の設立に関しては、同書を参照。
2020.09.16
武蔵今昔物語
武蔵大學第1回入学志願要綱
第1回学生募集時に見る「ゼミの武蔵」、リベラルアーツへの志
 2015年、記念室書庫の未整理の段ボールに詰められた書類を整理した際、戦後新学制施行後の学生募集募集関連の史料が、数年度分発見されました。そのなかでも貴重なのは、写真にある、昭和24(1949)年度の武蔵大學(当時の表記)の入学志願要項です。新制武蔵大学の第1回生募集の詳細を示す史料ですが、これまでなぜか未発見でした。    もちろん、入学に関する試験や手続き、学費などはその他の記録、教務資料、理事会議事録などから判明していますが、一般に配布された第1回の学生募集の史料はきわめて重要です。しかも、現存するのは、この奇跡的に発見された1枚だけと考えられます。  「第1回志願要項」は、いわゆる「わら半紙」(パルプ未使用)に印刷されており、縦書きで右から大学の紹介、募集人員、出願手続き、試験内容、納入金が示され、続けて教授陣紹介があり、左端は写真を貼付する受験票と切り取り線で区切られた願書になっています。受験票には出身高校名、願書には保証人・学費出資者の住所氏名、職業(具体的に)を記入するようになっているのが時代を感じさせます。  冒頭の大学紹介文には「わが国初の七年制高等学校で培った豊富な教育経験をもとにつくられた新制大学」と明記され、「優秀な教授陣容を整備して経済理論・経営実践の各種講義と演習による専門知識」とうたって、後に「ゼミの武蔵」のもととなる小人数演習もすでに特徴としてあげられています。また「社会人、経済人として必要な高度な科学知識と文化教養を有する人材の育成」をかかげ、単科大学でありながらリベラル・アーツへの志を高く掲げている点も注目できます。  これらの表現から新制武蔵大学が旧制高校のよい部分「小人数の実践教育」「幅広い基礎教養」を継承しようとしていたことが伝わってきます。その質を支える教授陣は、宮本和吉学長、鈴木武雄学部長以下、教養科目には哲学、歴史、日本文学、数学、心理学、物理学、化学、生物学などの広範囲な分野に、その道の第一人者をそろえ、専門である経済関連には、当代一流の研究者を教授にむかえています。また、社会政策の教授として当時44歳の大河内一男氏(1962年、東大総長に就任)が招かれています。    募集人員は120名、入学試験は3日間あり、初日は国語、数学、外国語、進学適正検査で、翌日は身体検査、最終日は口頭試問となっています。入学時の納入金は入学金6,000円、学費半年分4,800円、父兄会費半年分2,400円となっています。したがって初年度の納入金総額は20,400円。ちなみに、当時の大学卒業者の会社員初任給の平均額は4,220円でした。  なお、案内に「戦渦被害が少なく設備充実」と強調されているのも印象的です。 ※写真上=志願要綱の左側、受験票部分。中=草創期の演習風景。下=各紙に掲載された学生募集広告。                             (武蔵学園記念室・調査研究員 三澤正男)
2022.01.08
武蔵学園史紀伝
生徒の「服装」について(1)
旧制時代の服装規定を中心に
 高校・中学において「制服がない」ことは、武蔵の自由を象徴するもののひとつであるかもしれない。小林哲夫『学校制服とは何か―その歴史と思想』(朝日新聞出版[朝日新書]2020年)では本校のwebサイトでの説明(*1)「服装などについては学校として決まりは作っていません。時として教員が個別に指導することはありますが、その場合も本人の自覚を促すことを基本としています」を紹介し、「自由である。学校は規則で生徒を縛っていちいちうるさいことを言わない。自律を求め、自覚を促すに尽きる」(p.161)と述べている。なお、生徒だけでなく、教員の服装も基本的には自由である。おおたとしまさ『名門校「武蔵」で教える東大合格より大事なこと』(集英社[集英社新書]2017年)では、ある教員について「武蔵の教員にしてはいつもちゃんとした服装をしている」(p.24。下線は引用者)と評する。スーツ着用等のルールはないため、私服の教員はよほどラフに見えるのであろうか。  しかし、武蔵100年の歴史において、生徒の服装が完全自由になったのは後半の約50年のみである。第8代校長である大坪秀二先生(在任1975年度~1987年度[在職は1950年度~1996年度]。16期卒。以下、敬称略)が『武蔵学園史年報(*2)』、また同窓会会報(*3)に寄せられた「随想 定年退職にあたって 武蔵の服装規定のこと」で学校史における服装規定を整理され、規定廃止の経緯を記されている。小稿ではこれら記述を参考に、あらためて武蔵の服装規定をめぐる歴史を整理してみたい。 模索の時期  武蔵高等学校の開校は1922(大正11)年4月であるが、この時点では生徒の服装に関する規定は定められていなかったようである。第一回尋常科入学式記念写真(1922年4月17日撮影:下記「写真1」)でも、新入生は学生帽こそ揃ってかぶっているものの、着衣は羽織に袴、長着に袴、学生服(デザインも詰襟、立折襟が混在)とさまざまである。帽子正面には徽章が付けられているようであるが、帽子自体のデザイン(天井部分の形状)は微妙に異なるように見え、統一された規格ではなさそうである。 写真1 第一回尋常科入学生(1922年撮影)  開校の翌月、1922年5月6日の『教務日誌(*4)』に「生徒ノズボンハ長短随意トス。夏略帽ハ固キ麦帽トシ、リボンヲ黒色トシ徽章ハ外部ニ付セシム」、9日には「ズボンノ長サハ当分任意トスルコト」といった記述があるが、和装が禁止された様子はない。とはいえ1923(大正12)年2月23日には「本校生法規定中外套を削り、上衣の袖ボタンを随意とす(*5)」ることが定められており、徐々に洋装に統一されていったようである。またこの記述から、大坪はこの時点で「[引用者補:服装の]規定が既に存在する」と理解している。履き物については断片的な記述しか確認できないが、1925(大正14)年10月~11月の教師会(職員会議)において泥土による教室の汚れが話題にされている。教室に土足で入るためにおこった問題である(なお、現在も音楽室や家庭科室など一部教室をのぞき、校内では土足で過ごしている)。この解決方法として「靴底に凸凹の甚だしき靴の使用禁止」のほか、「脱靴」や「オーバーシュー」の導入が議論され、翌月7日には「靴底に甚だしき凸凹のある靴」は漸次禁止とすることが決定されている。しかし、この後も教室に泥土が持ち込まれてしまう問題は継続したようで、1926(大正15)年10月の教師会でも教室清掃についての話し合いが行われていることが確認できる。  制帽については、第一回入学生の高等科進学の際(彼らが尋常科4年在籍時の1925年度)に「白線」を巻くかどうかが議論になったことが伝えられている。白線帽は高校生のシンボル(*6)であり、高校生になるからには帽子に白線を巻きたいという生徒の希望が優勢であったというが(こうした意見の表明、学校当局に許可を求める運動は「白線運動」と呼ばれる)、武蔵高等学校では白線を巻くことは許さなかった。新設の私立七年制の諸高等学校では、従来の高校生らのバンカラなイメージを避けたスマートな校風作りを意識したことが指摘されており(*7)、武蔵では初代教頭・山本良吉(のち第三代校長)の英国風の「ハイカラ趣味」が生徒の服装やふるまいのしつけに強く影響したようである。山本のしつけに関する思い出のひとつとして、松葉谷誠一氏(第3回卒業生)は修身の試験で「きたない帽子をかぶってほうば(原文ママ)[引用者補:朴歯(ほおば)の下駄]をはいて、手拭をぶらさげて大きな声を出して歌をうたいながら町を歩く高等学生というものに対して、君等はそれをどう思うか」「どう思うかということについて理由を述べよ」という出題があったと紹介している。「だんだん反抗的になってくる年令」、バンカラな服装に「かなりのあこがれを感じて、なんとかしてああいうまねをしてみたいというようなことを思っていた時代」の生徒に「自分でなぜそうするほうがいいのか、なぜそうしたほうが悪いのかというようなことについて自分で考えさせるというような指導教育方法をされたように思っておるんで、その点は非常に立派な教育方法であった」と述べている(*8)。  帽子の白線は許可しなかったが、尋常科生徒と異なる高等科生徒の「待遇」については1925年度中に議論がたびたび行われており、12月には両者を区別する服飾として「ガウン[引用者補:アカデミックガウンのようなものを想定か?]又は懸章等」の案が出され、大坪はこれらが佩章規定につながるとみている。尋常科修了時に佩章を授与し、高等科の生徒は式典等でこれを身につけることが定められた。日常的には、上衣襟に文科/理科を示す徽章(当初は市販の“L[文科]"、“S[理科]"の徽章を使用。のちに独自にデザインした漢字の“文"、“理"に変更された(*9))を附したことが尋常科生徒との違いであった。 写真2 卒業式直後の高等科生徒(1928年ごろ) 服装規定の明文化  服装規定の明文化は1927(昭和2)年、開校から5年を経た秋である。10月19日の『教務日誌』で服装規定を定めたことが確認でき、昭和3年度からは佩章規定とあわせて『武蔵高等学校一覧』にも掲載されるようになった。次に挙げるのは、その服装規定である。 服装規定  第一條 生徒登校スルトキハ所定ノ制服ヲ著用スヘシ但シ脚絆ハ教練ソノ他特ニ指定シタル場合ニノミ著用スルモノトス  第二條 事情ニヨリ制服ヲ著用シ得サルトキハソノ旨保証人ヨリ届出ツヘシ  第三條 新ニ入学セル生徒ハソノ年ノ六月マデ従来使用ノモノヲ著用スルコトヲ得但シ前章及ヒ服釦ハ学校所定ノモノヲ用フヘシ  第四條 服装左ノ如シ  一 正帽    制式 丸形    品質 黒羅紗    前章及横章 学校所定ノモノ  二 略帽    制式 ソノ都度示ス    品質 麦藁    前章 学校所定ノモノ  三 冬衣袴    (1)衣 制式 背広型立襟 袖釦ヲ著ケス 品質 紺ヘル 釦  学校所定ノモノ    (2)袴    制式 普通又ハ短袴     品質 上衣ニ同シ     四 夏衣袴    制式 冬衣袴ニ同シ    品質 鼠霜降小倉  五 靴    制式 編上ケ又ハ深ゴム 底部ニ床板ヲ毀ケ又ハ汚損スル如キ付著物ナキモノ    品質 黒革  六 脚絆    制式 巻脚絆    品質 茶褐木綿又ハ茶褐絨  七 外套又ハ雨覆    制式 ナシ    品質 黒羅紗    父兄ノモノヲ改造シテ使用スルモノハコノ限リニアラス  第五條 夏衣袴ハ五月十日ヨリ十月十日マテ著用スルモノトス   この規定には、1929年度より冬衣袴の項に「右腰部後ロニボタン附隠(かくし)一ヲ附ス」の一文が追加され、1933年度には「外被[引用者補:オーバージャケットのようなものと見られる]」についての規定が加えられた。  さきにも少し触れたように、服装規定制定については山本良吉のこだわりがあったらしい。ここでは服地はヘルと定められているが、学生服にはサージが用いられることも多かった。生徒や父兄からはサージではだめなのかという問い合わせもあったが、ヘル地のほうが「本校生徒年齢の特殊性を考えて価格、保温等の関係上尤も適当」として退けている。ヘルもサージ(セル)も毛織物であるが、ヘルはサージよりも質が劣るものの丈夫であるのだという。ズボンについては前述の通り、1929年度に「隠(かくし)=ポケット」の位置が決められているが、これは1938年度には念を押すように「両側トモ附隠(かくし)ヲ附セズ右腰部後ロニボタン附隠一ヲ附ス」との表現に改められている。1933年度(第12回)入学生より尋常科1・2年生は半ズボンを着用することが定められ(*10)、1935年度には学校一覧の服装規定にも「尋常科第一学年及第二学年ニ於テハ半ズボントス但尋常科第二学年第二学期以後ニアリテハ事情ニヨリテハ許可ヲ経テ長袴ヲ用フルコトヲ得」と明記されるようになった。 写真3 中庭での太陽観測部・長ズボンの生徒と半ズボンの生徒  ヘル地への固執も、ズボンのポケットや長短の指定についても、その理由をうかがい知ることができる資料はない(*11)。しかしながら大坪は、これら規定化は山本の思想の反映ではないかと考察し、ズボンの左右の脇ポケットをつけさせなかったのは自慰の防止、尋常科1・2年生に半ズボンを着用させたのは上級の生徒と区別し、「不良の習慣・行為」が下級生に及ばぬようにする(そうした習慣を見つけた場合に注意しやすくする)ためではなかったかと述べている。そもそも七年制の中等教育機関には否定的な姿勢(*12)も見せていた山本は、「尋常科4カ年の成立の過程に於てがっちりと1つの型をはめてしまうこと、その生徒達が高等科に進んでひとかどの大人っぽい振舞におよびたくなったときでも、子供の時から仕付けた権力の手で、しっかりと手綱をとることができる」という考え方に基づいてその職をつとめたのではないかと大坪は推測している。上着の「隠」については言及がないことも自慰の防止説を補強するかもしれない。1939年には開襟服には必要なだけ隠を付けて良いことが教師会で確認されており、問題とされたのはあくまでもズボンのポケットの位置なのである。 写真4 校内行事「草刈式」での尋常科生徒(写真左側)と高等科生徒(写真右側)、内田泉之助教授(写真中央)  服装規定において履き物は洋靴とされているが、1938年9月に学校教練のない日は下駄履きでもよいことを確認している。ただし校内では革靴・運動靴を原則(*13)としており、願い出の上で上履き替わりにゴム草履の着用が認められている。通学時の下駄履きは構わないが草履は不可で、1941年5月6日記事には「制服制帽を着したるときは、校の内外を問わず草履の使用を禁止す」とある。現代においても「下駄履き禁止」は武蔵の数少ない校則(のようなもの)として言及されることがあるが、少なくともこの時期、限られた場面では下駄は許可されていたのである。終戦後には「下駄を校舎内で使わぬようにするため」(「教務日誌」1945年10月15日)の方法を生徒に考えさせることにしたが、生徒の要望で「当分随意」と下駄履きの継続が許されている(「教務日誌」10月29日)。 写真5 尋常科一年生入学(1936年、15期生)   時局への対応  生徒の服装はかなり細かく規定化が進められていたようであるが、日中戦争開始以後は物資不足により、そのようなこだわりにもとづく服装指導も不可能になっていった。服地に指定されたヘルは手に入りづらくなり、「当分の間、冬の服地は色は黒又は紺とし地質は選ばぬ」こととされ(1940年4月8日)、「教練服(*14)のズボンは平常に於ても使用差支なきも、上着はなるべく制服を着用することにする」(1940年9月30日)との対応も行われた。制服の金属ボタンの調達が難しくなってくると、卒業生からボタンを集めることも試みられたようである(1941年1月20日)。逼迫の度合いは「学校本来の制服の制式は変更せぬが、目下の時期では当分の間、服地色(紺、黒、国防色)は制限せぬ。又夏服では詰襟、開襟何れにてもよい」(1941年12月1日)、「国防色の配給服を使用して差支えなきことにした。但し尋常科1・2年は半ズボンとすること」(1942年1月12日)と服装規定をつぎつぎに緩和する様子からもうかがい知ることが出来る。いっぽうで、こうしたなかでも「尋常科1・2年生は半ズボン」と、かたくなに上級・下級生の区別が守られている点はなにやらおかしくもある。同年10月には「将来制服地の色は配給品の色のものを正規とし、その他の色地のものは許可を要することとする」(1942年10月26日)ことが定められ、翌11月にはついに「尋常科1、2年生のズボンは配給のままとし、長短は各自に委す」(「校報」1942年11月2日)ことになった。大坪は「戦争の激化につれて次第に服装規定は守れなくなるが、それは概ね山本没後[引用者補:山本は1942年7月12日に亡くなった]のことである」と述べている。それでも「式等に佩章を付けざるものを往々見る。定められたことは必ず実行するよう主任から注意する」(「校報」1942年11月16日)との記事もみられ、規定に基づき生徒の身だしなみを整えさせようとの意識は依然強かったようである。  1943年には燃料不足から暖房が入らなくなり、教室内でも「教師の許可を得た上で」外套やマントを着用するようになっている。それまでは「通学の際、外套、マントの使用は差支えなきも校内殊に教室内の使用は厳禁する」(1942年11月30日)とマナーを守ることが求められていた。1944年になると「身許票を各自上衣の裏側に縫着することにしたについて、生徒が所定の通りして居るや否や体操科及び教練科で調べる」(5月1日)ことも行われている。空襲被災等万が一の状況における身元確認に備えるためであろう。貴重な靴を大事にするためか「舎内では上履の代りに上草履又は裸足でもよいことにした」(1944年8月28日) と、「裸足」で過ごすことまでを許可している。  このような逼迫した状況にあっても「手拭は持参するも可なるも、外に見えないよう腰にすることに注意する」(1945年5月7日)というような細かな指示も行われている。洋装が崩れていくことにより、昔の旧制高等学校風、すなわちバンカラな服装がはやりだしたのではないか、それを見苦しいと考える「武蔵風」が残っており教員が指導を主張したのではないかと大坪は推測している。物資不足のなかでも見られるこうした“スマートさ”を求める態度は、他校生のように白線を巻きたいとの希望も叶えず、細かな規定を設けて身だしなみの指導を行ってきた、山本の路線を継承しようとする教員らの矜恃でもあったのではないか。  なお、終戦をむかえた1945年の冬も教室内での外套着用が続けられている。食糧事情も改善せず、45年度、46年度には冬期休業の延長や、臨時休校も行われた。 注: *1 武蔵高等学校中学校webサイト よくあるご質問 学校生活について「武蔵は自由だと聞いていますが、規制はないのですか」(https://www.musashi.ed.jp/nyuushi/faq.html)。 *2 『武蔵学園史年報』2、5、6号(1996年、1999年、2000年)に掲載された旧制武蔵高等学校校務記録抄(解題あり)が大坪秀二編『旧制武蔵高等学校記録編年史 大正11年~昭和24年』(武蔵学園記念室、2003年)としてまとめられている。 *3 『武蔵高等学校同窓会会報』32号(1990年12月)。 *4 前掲『旧制武蔵高等学校記録編年史 大正11年~昭和24年』より再引用。『教務日誌』(大正11年~14年度の4冊)は山本良吉が作成したものである。 *5 前掲『旧制武蔵高等学校記録編年史 大正11年~昭和24年』p.16。 *6 高等学校のほとんどが二条あるいは三条の白線を巻いた丸帽を制帽としていた。学生服に手ぬぐいをさげ、帽子・高下駄にマントといった「弊衣破帽」のバンカラスタイルが旧制高校生の典型的なイメージであろう。参考:難波知子『近代日本学校制服図録』(創元社、2016年)。 *7 武蔵と同時期に開校した七年制高等学校では、成蹊、成城、学習院高等科においても白線帽を採用していない。成蹊高等学校では学生の要望をうけて第2代校長土田誠一により1940年以降白線帽を許可しているが、成城高等学校はそもそもがワイシャツ・ネクタイに紺の背広、お釜帽(山高帽のような丸い帽子)を制服とする独自のスタイルであった。成城でも学生による「白線運動」が起きたが、許可されなかった。官立唯一の七年制高等学校である東京高等学校でもいわゆるバンカラスタイルはあまり見られなかったと伝えられ、同じく七年制の府立高等学校では白線帽を制服としつつも学校当局は下駄履きやマントを認めなかった。しかし実際にはバンカラ風の学生も少なくはなかったという。参考:旧制高等学校資料保存会『白線帽の青春―東日本編』(国書刊行会、1988年)。  *8 「第一回生から第七回生までの卒業生の座談会」(川崎明編『晁水先生遺稿 続編』山本先生記念会、1966年)pp.602-603。 *9 内田泉之助[助教諭・教授、在職1926年年度~1966年度]によると、山川健次郎校長が外国文字の使用はよくないと言いだして変更になったという。武蔵創立当時回顧座談会記録(『武蔵学園史年報』9、2003年)。 *10 昭和8年1月23日 *11 前掲『晁水先生遺稿 続編』では次のような周囲の回顧も確認できる。中村倭文夫氏(第8回卒業生)は「私どもが入った時には、一年、二年は半ズボンをはかなければいけないとは言われていなかったのでした。あんなからだの小さい子供に、長ズボンをはかせてもしようがない。ちょうど一年、二年くらいが、小学校の既製の服を着るのに適当なくらいの大きさなんです」「山本先生が思っておられたことは、決して画一的なことではなかったんで、そういう合理的なものから出発したのが、いつの間にか画一的になってしまったところに、山本先生のみんなに誤解される問題と、ほかの先生方の協力の足りない面がある(以下略)」と述べている(「第八回生から第十四回生までの卒業生の座談会」p.659)。鈴木春松氏(教授、配属将校)は、服地について父兄から質問をうけた山本からセル地とヘル地の調査を依頼されたことについて「先生は、人の意見に対しては、父兄の意見でも、それ以上に研究してね、納得させるようにしておられましたね」と述べている(「先生方の座談会」pp.796-797)。セル地の制服を指定していた東京高等学校の配属将校や陸軍被服廠の協力を得て、ヘル地がよいと報告したという。 *12 山本良吉「七年高等中学制」(『太陽』26-3、1920年)。 *13 東西両入り口への下駄箱設置が同日の教授会の話題となっており、ここで外履きを履き替えたと考えられる。 *14 教練服の制式は確認できないが、教練服姿の大坪秀二の写真が残されている(下記「写真6」)。 写真6 「教練服」を着た在学中の大坪秀二氏(16期)
 
to-top