第1回入学式写真
根津育英会武蔵学園は2022年4月17日で創立100周年を迎えました
武蔵学園史紀伝
生徒の「服装」について(2)
「標準服」から服装自由へ
通堂あゆみ(武蔵高等学校教諭)

「白線問題」から服装規定廃止へ

 終戦をむかえた1945年末、第四代校長校長山川黙が辞任した。玉蟲文一教頭の校長事務取扱時期を経て、翌46年2月に元京城帝国大学教授の宮本和吉が着任した。戦後の学制改革により宮本校長のもとで武蔵高等学校も新しい体制を構築することとなったが、これに先駆けて服装規定が大きく変化した。

 1946年11月から12月にかけ、教師会・生徒大会で「白線問題」についての議論が行われ、結果として服装規定そのものが撤廃されることになったのである。「白線問題」とは、他の多くの旧制高校のように、制帽に白線を巻きたいという生徒の要望への対応を指す。「生徒の『服装』について(1)」でも触れたように、白線帽は旧制高校のシンボルである。武蔵では戦後になり、この白線を求めるうごきが高等科の生徒から改めて起こったようである。

 このうごきに対し、教師会では生徒の意見を確認し、これを参考として校長が教師会の議を経て白線の可否を決定することにした。これが11月25日のことである。その後、11月29日に生徒大会が開催され、「白線を附するや否や」について全校生徒による投票が行われたが、結果は「白線を附する希望なき方多数」となった。12月2日開催の教師会でこの結果が伝えられ、いったんは服装規定については「従前の通り」すなわち制帽には白線を巻かないことが確認されている。しかし、生徒自治委員長より生徒の要望として服装規定そのものを撤廃し、自由にしたいという申し出もあわせて行われており、結局はこちらの提案が採用されることとなった。

 服装規定撤廃に関する宮本校長の訓示(*1)では、この経緯が次のように説明される。

  先般来高等科生の間に帽子に白線をつけたいという希望があり、之について教授会にはかった結果、全校生徒の意見を問い之を参考として教授会の議を経て裁定することになり、去る12月2日の教授会に付議したのであったが、其の際自治委員長から全校生徒の要望であるとして本校生徒の服装は自由にしたいとの申し出があったので、この事を併せ考えて長時間に亘って慎重討議の結果、12月3日を以て本校従来の服装規定を撤廃することになったのは諸君の承知の通りである。

 さらには、終戦後の社会変化・価値観の転換を踏まえ、こうしたうごきのなかに服装規定撤廃を位置づけての生徒へのよびかけも行われた。

  制服制帽主義は多分軍隊のそれから来たものであろうが、この服装規定は形式が内容を規定する、即ち形を整えて心を正すという形式本位の教育方法である。(中略)然るに終戦後しきりに人間の解放、人間の自由が叫ばれて居り、新憲法の第三章はこの自由権の確立を規定している。まことに自由こそ人間精神の本質であり、その真の在り方である。今日吾々に課せられた民主政治も、この人間自由を伸ばすための

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これまでの百年と次の百年への展望

根津育英会武蔵学園は2022年4月17日で創立100周年を迎えました
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2021.05.20
武蔵今昔物語
【追悼】風わたる草原に座る人のいなくなった椅子がひとつ
武蔵百年史と有馬朗人学園長
創立百周年を見届けることなく     有馬朗人学園長が2020年12月6日、白玉楼中の人となられた。その年の9月に、満で卒寿を迎えられたばかりだった。  筆者が有馬学園長に直接拝眉したのは学園記念室長を定年で退任するまえの2018年1月が最後だが、非常勤の研究員になってからも登室日の朝、有馬先生が登校されるところによく出会った。   有馬先生は正門を入ってすぐに学園長車を降りられ、少し背をかがめて杖もおつかいにならずゆっくりと学園長室のある8号館まで歩いていかれるのが常だった。おひとりでおつきの方もつけず、車を8号館に横付けすることはなかった。学園長車はそのまま右折して守衛室横の駐車場に向かった。学園内での自動車の移動を最小限にしたいという先生のお心遣いだったと想像する。たまにタイミングがあったとき「学園長、おはようございます」とごあいさつすると、先生は「はい、おはよう」とにっこり微笑まれた。  2022年に武蔵は創立百周年をむかえる。有馬先生は、そのときもお元気で学園長をされていると筆者は無邪気に思い込んでいた。すべての学園関係者もおなじ思いだったろう。毎年の新年の会のごあいさつ、大学、高中の卒業式、入学式での祝辞はいつも凛として、きびしくも愛情に満ちていた。齢をかさねられるごとにみずみずしくなられるのは驚異的だった。  創立百周年を機に「武蔵正史」を刊行することは、太田博太郎学園長時代の30年以上まえから決まっており、筆者は学園記念室長時代に「武蔵学園百年史刊行準備委員会」、さらに「同刊行委員会」とその作業部会の立ちあげを行った。これらの委員は大学、高中の教員、法人の職員から選ばれるが、規程上、学園長から委嘱するかたちになっている。  そのためにアポイントメントをとり、何回か有馬先生にご相談し、助言をいただいた。学園長室を予定の時刻にたずねると、有馬先生はうずたかく積まれた資料や書籍に囲まれていて、小柄な先生はお顔しかみえなかった。秘書の方が「記念室長がおみえです」と伝えると、先生は資料のなかから「やあやあ、ごくろうさん」と気さくに登場され、「ここは狭いから、広いところへ行きましょう」と、ふたりだけの打ち合わせなのに、大きな部屋に自ら案内してくださった。  資料をお渡しし準備状況を報告して、委嘱に関するお願いをすると、有馬先生は少年のように好奇心いっぱいに眼を輝かせ、筆者の整理されていない話を熱心に聴いてくださった。そして、いただいたご質問はすべて簡潔明瞭かつ正鵠を射ていた。最後に有馬先生から、「たいへんなお仕事でしょうがよろしくお願いします」と激励をいただいた。そして、「学園史は過去に起こったこと、現在のことを記述するのは当然ですが、回想に終わることなく、また旧制高校のノスタルジーに惹かれ過ぎることなく、次の50年への示唆、教育の未来に向けた発信にしていただきたい」と結ばれた。このときは、少年から研究者の鋭い眼になられ、筆者は心のなかで後退りをした。そして、多方面ですばらしい業績をのこされている方なのに、わけへだてのない対応をされる先生に、「ほんとうにえらい人とは、こういう人なのだ」と学んだ。 研究者、政治家、教育者、俳人としてーー「三理想」を体現された90年の旅  有馬先生は1930年、大阪のご出身だが、その後は銚子、浜松で過ごされ、県立浜松第一中学(現・県立浜松北高等学校)を卒業された。武蔵には高等科から入り旧制時代の終わり、22期(1950年)のご卒業だ。東京大学理学部物理学科に進まれ、同大学院で原子核物理学を研究、28歳で理学博士号を取得された。  その後、東京大学教授、ラトガーズ大学教授、ニューヨーク州立大学教授などを経て1989年東京大学総⻑。1993年理化学研究所理事⻑。1998年には参議院議員となり文部大臣、科学技術庁長官を歴任された。2006年4月に武蔵学園⻑に就任され、亡くなられるまで現職だった。また、公立大学法人静岡文化芸術大学院の創立者でもあり、理事長をされていたので毎週静岡にも行かれていた。  有馬先生は俳人でもあり、16歳で「ホトトギス」に入選して以来、俳句でも多くの賞をうけられているが、2018年には句界の最高賞と言われる蛇笏賞を受賞された。  2020年秋、武蔵高校卒業生の俳句をたしなむ有志が「武蔵俳句会」を立ちあげ、有馬先生に顧問と指導をお願いしたところご快諾をいただいた。12月1日には第1回の句会がオンラインで開催され、先生も参加されてとてもお元気そうだったという。筆者もその句会の案内を頂戴していたが、自分の句などはお目汚し、お耳汚しだと遠慮してしまった。いまではとても後悔している。  とらわれのない多様な表現と豊かな詩情は有馬先生の句の魅力だ。先生は「ホトトギス」同人の山口青邨に師事されたが、鉱山学者でもあった師と同様に科学者としての目線も感じられる作品も多い。  櫟なほ芽吹かざれども雲は春 朗人  福田泰二元校長によると、この句は1947年4月22日の夕刻か翌日に詠まれた作品で、有馬先生が旧制武蔵高校高等科の編入試験に合格され、その喜びと未来への期待をクヌギの巨木を見上げて詠まれた句だと、先生ご自身から伺ったとのことだ。この編入試験の志願者は1,000名強、合格者は45名だった。  爽やかに回り舞台の一変す 朗人  有馬先生の逝去は、あまりに突然だっため、ご自身が「辞世」として詠んだ句はない。先生は1990年から「天為俳句会」を主宰されているが、上記の句は同会のウェブサイトに有馬先生の2020年12月の句として掲載されている作品だ。「無季の句」であるが、なにか暗示的ではないだろうか。 お別れの会のしおりから ーー根津理事長、五神前東京大学総長の弔文  現職学園長の急逝に、学園関係のみならず有馬先生が関わられた多くの組織に連なる人びとが、悲しみをこえて前に進むためにはセレモニーが必要だった。 Covid-19の感染拡大のなか、武蔵学園、東京大学、理化学研究所の共催により、4月23日、帝国ホテルにて「「有馬朗人先生お別れの会」が執りおこなわれた。感染防止のため、参加は事前予約制、さらに参加時間もグループことに指定して、献花だけを行った。したがって、弔辞などのあいさつはなく、800名におよぶ参加者は献花のあとは別室に展示された有馬先生の業績やあゆみを語るパネルや資料で先生との思い出を偲んだ。  また参加者には、先生の略歴、受賞歴、折々の俳句が掲載された「しおり」が配布されだ。これに寄せられた根津公一学校法人根津育英会武蔵学園理事長(高校43期)、五神真前東京大学総長(高校50期)の弔文を、許可を得て転載する。                                ※  根津公一理事長ーー私が根津育英会理事長、有馬先生が武蔵学園長に就任したのは、2006年4月のことでした。就任早々有馬先生は私に、「初代根津嘉一郎が、どのような思いで、またどのように旧制武蔵高等学校をつくっていったのかを調べるように」との宿題を与えられました。調べた結果いくつか分かったのは、先ず初代根津嘉一郎の育英報国という動機。そして創立者が一人の思いで学校を創るのではなく、周囲に、当時日本の教育や政治にたずさわる超一流のブレーン達がいて、その人々の活発な議論の中から新しい学校が創られていったということでした。  そのとき私が思ったことは、初代根津嘉一郎を囲んだ多くのブレーン達の役割を、一世紀後の今日、有馬先生はひとりで果たしてくださっているのだと言うことでした。「天は二物を与えず」という俚諺がありますが、時として天は特定の人物にだけ、二物はおろかいくつもの才を与えることがあります。有馬先生はそういう方でした。今指を折って数えるだけでも、物理学者、教育者、学校の運営者、政治家、行政官、俳人等々そのどれをとっても、この国の、あるいは世界の最高級の才を、天は有馬先生一人に与えられたのです。気さくでひょうひょうとした日々の先生のたたずまいのどこから、あのきらびやかな才が閃くのか、まことに驚嘆する思いでした。  最晩年の有馬先生が、とくに心に掛けられていたのは、「東西文化融合」の思いでした。西欧近代文明と、その対極にあって漸く力をつけて来ている、中国、イスラムなどの東洋諸国との軋轢が先生の問題意識でした。そして、日本は古い東洋文化の一員でありながら、西洋の主導する近代文明とも価値観を共有することの出来る国として、これからの歴史の中で、両者の架け橋にならなければならない、というのが先生の持論でした。  武蔵学園は来年創立百周年を迎えます。その百周年を超えてどのような事業をしていくのか、それを議論している最中に、議論の中心であった有馬先生を突然喪ったことへの痛恨は大きいものですが、残された私たちは、これからも有馬先生の遺志を酌んで、将来「東西の架け橋」としての役割を果たす若い人々を育てる武蔵学園を創っていくことを誓います。  有馬先生の偉業に対し、心から尊敬と感謝を捧げ、謹んで御冥福をお祈り申し上げます。   五神真前東大総長ーー私が最後に有馬先生にお会いしたのは、昨2020年10月30日、先生が会長を務める東京大学地域同窓会連合会の会合でした。いつものはりのある声で、お変わりなく元気そのものでした。卒寿を過ぎてなお矍鑠たる有馬先生のお姿を見て、100歳までのご活躍を信じておりましたが、その僅か1月後に突然の訃報に接したのです。東京大学を長く精神的に支えて下さった巨星を不意に失い、大きな喪失感に襲われています。  有馬先生は、私の武蔵高校の先輩であり、東京大学理学部物理学科の先輩でありました。旧制と新制の違いこそあれ、武蔵高校では同じく、受験教育と距離を置き「自ら調べ自ら考える」ことの大切さと、リベラル・アーツを尊重する精神を学びました。  有馬先生は、配位混合理論や相互作用するボゾン模型など原子核理論の業績で世界的に知られ、文化勲章を始め国内外の栄誉を多数受けられました。原子核は多数の粒子が強く相互作用している難解な多体量子システムですが、対称性などの数理を駆使した先生の見事な理論によって、原子核はその美しい姿を際立たせました。一方で、現在の計算科学の先駆けとなる、原子核の量子構造の大型数値計算を創始されました。それは、お弟子さん達に引き継がれ、最先端計算科学を駆使して、先生の先見性が見事に証明されています。また、東京大学大型計算機センター長時代には、国産の大型計算機技術を堰合に示す事にも尽力されました。  2015年4月に私は東京大学総長に就任し、有馬元総長の後輩となったのですが、大学改革に対する先生の信念と行動力は、いつも私の手本でした。1990年代初頭の大学院重点化と教養学部改革という、よく知られたふたつの大改革の他にも、有馬総長は情報公開の推進、外部評価の導入、寄付講座の創設などを進められました。どれも常識を超えた大胆な改革で風当たりが強いものもありましたが、30年後の今、当たり前のこととなっています。批判に怯まず、将来を見通し、必要な改革は断行するという有馬先生の姿勢は、総長のあるべき姿を示すものでした。  私が総長となって2年たった頃に、東大の広報誌『淡青』での対談で、有馬先生は次のように発言されました。  「五神総長はよく頑張っていると感心していますよ。私も物理教室の出身ですが、理論屋だから屁理屈で終わってしまうことが多い。でも五神総長はきちんと実行もしますね。実験をやる人だったからかな。私を他山の石としてしっかりやってくれてありがとう」  私の総長在任中で、最も嬉しい言葉でした。有馬先生から、私の6年間の総長任期を終えたときの評価を伺うのを楽しみにしておりましたが、もはや叶いません。東京大学のさらなる発展を天国から見守って下さるようお願いするとともに、有馬先生のご冥福を心からお祈りいたします。                                ※  無月なり世のほころびをかくさんと  朗人  これは先生が「天為俳句会」に寄せた昨年12月の作品のなかの一句だ。有馬先生か旅立たれてからまもなく半年がたとうとしているが、Covid-19の感染収束の光は未だ見えず、社会のあらゆる局面に混乱が生じている。その歪みがもたらす変容は経済のみならずモラルにまで及びつつある。有馬先生は現在の日本と世界の状況を座標のない空間からどのようにご覧になっているのだろうか。  風わたる草原に置かれた椅子がひとつ、かつてここに座っていた人をいまもまっている。                                      (2021年5月記)                                         三澤正男(武蔵学園記念室調査研究員・前学園記念室長:高校45期)  写真上 1950年3月、武蔵高等学校22期理科の卒業式にて(現時点で有馬先生を特定できていない) 写真中 2018年春、武蔵学園の樹木のに名札をつける活動をされたとき、学生たちに語りかける有馬先生  写真下 2021年4月23日、帝国ホテル2階「孔雀の間」で執りおこなわれた「有馬朗人先生お別れの会」の祭壇 ※訂正とおわびーー有馬先生の俳人としての歩みを紹介する文に「夫人に先立たれてからは」という事実に反する表現がありました。筆者の誤解に基づくものであり、謹んで削除、訂正しおわびいたします。 筆者  
2022.02.23
武蔵学園史紀伝
生徒の「服装」について(2)
「標準服」から服装自由へ
「白線問題」から服装規定廃止へ  終戦をむかえた1945年末、第四代校長校長山川黙が辞任した。玉蟲文一教頭の校長事務取扱時期を経て、翌46年2月に元京城帝国大学教授の宮本和吉が着任した。戦後の学制改革により宮本校長のもとで武蔵高等学校も新しい体制を構築することとなったが、これに先駆けて服装規定が大きく変化した。  1946年11月から12月にかけ、教師会・生徒大会で「白線問題」についての議論が行われ、結果として服装規定そのものが撤廃されることになったのである。「白線問題」とは、他の多くの旧制高校のように、制帽に白線を巻きたいという生徒の要望への対応を指す。「生徒の『服装』について(1)」でも触れたように、白線帽は旧制高校のシンボルである。武蔵では戦後になり、この白線を求めるうごきが高等科の生徒から改めて起こったようである。  このうごきに対し、教師会では生徒の意見を確認し、これを参考として校長が教師会の議を経て白線の可否を決定することにした。これが11月25日のことである。その後、11月29日に生徒大会が開催され、「白線を附するや否や」について全校生徒による投票が行われたが、結果は「白線を附する希望なき方多数」となった。12月2日開催の教師会でこの結果が伝えられ、いったんは服装規定については「従前の通り」すなわち制帽には白線を巻かないことが確認されている。しかし、生徒自治委員長より生徒の要望として服装規定そのものを撤廃し、自由にしたいという申し出もあわせて行われており、結局はこちらの提案が採用されることとなった。  服装規定撤廃に関する宮本校長の訓示(*1)では、この経緯が次のように説明される。   先般来高等科生の間に帽子に白線をつけたいという希望があり、之について教授会にはかった結果、全校生徒の意見を問い之を参考として教授会の議を経て裁定することになり、去る12月2日の教授会に付議したのであったが、其の際自治委員長から全校生徒の要望であるとして本校生徒の服装は自由にしたいとの申し出があったので、この事を併せ考えて長時間に亘って慎重討議の結果、12月3日を以て本校従来の服装規定を撤廃することになったのは諸君の承知の通りである。  さらには、終戦後の社会変化・価値観の転換を踏まえ、こうしたうごきのなかに服装規定撤廃を位置づけての生徒へのよびかけも行われた。   制服制帽主義は多分軍隊のそれから来たものであろうが、この服装規定は形式が内容を規定する、即ち形を整えて心を正すという形式本位の教育方法である。(中略)然るに終戦後しきりに人間の解放、人間の自由が叫ばれて居り、新憲法の第三章はこの自由権の確立を規定している。まことに自由こそ人間精神の本質であり、その真の在り方である。今日吾々に課せられた民主政治も、この人間自由を伸ばすための、人間の解放された精力が、それによって極めて多方面に表されるような便宜上の手段に他ならない。だから教育の民主化ということは形式が内容を規定するという形式尊重の教育ではなくして、反対に内容が形式を規定するという線に沿うべきである。だから制服制帽の撤廃という今度の本校の措置はこの線に沿うものということが出来る。(中略)  本校は軍隊ではなく、吾々はお互いに学問に志すものとして、むしろ形式からでなく内容の方からはいることが望ましく、内容から自ずから生まれる新しい形式を本当に自分のものとして身につけて行きたい。只このことは言うべくしてしかも極めて困難な仕事である。だからと云って之に着手しなければいつそれが実現されるかわからない。今吾々はこの困難な課題を自分に課したのである。まず何よりも内容の充実が吾々の課題である。この課題を諸君は之を夫々自己の問題として本当の自己の責任において解決せられんことを切望してやまない。   服装規定の変化―「標準服」化   一方で、玉蟲文一教頭による記録では「生徒大会に於ける白線問題に関する論議の帰趨、並びに戦後の物資難に基き、暫時の間、服装規定を撤廃することにした(*2)」と書かれているという。これをうけ、大坪は「宮本和吉校長との訓示とは意識の食い違いが見られる(*3)」、「そのときの先生方の姿勢は、ごく一部の方を除いて、あまりポジティブなものではなかったのではあるまいか」「煩わしさを避ける大人の智恵ではあっても、戦後の混迷の時代に新方針を打ち出すという程の意気込みはなかったように思う(*4)」と述べている。新制武蔵校等学校の教員として母校に戻った大坪は、ほどなくしておこった服装規定復活のうごきやそれへの対応、すなわち1953年の「標準服」の規定制定(*5) に関わることとなった。だからこそ、こうした感想を抱いたのではないかと考えられる。  ↑ 写真1:1951年撮影。生徒は標準服が多いが一部そうでない人もみえる。右端は森愈教諭    服装規程撤廃に関して、公開された文章としては『武蔵高等学校一覧 昭和29年度』(1954年12月10日印刷・発行)に掲載された「本校歴史」での記述が確認できる。昭和21(1946)年11月25日の項目としては玉蟲教頭による表現がほぼそのままに「生徒大会に於ける白線問題に関する論議の帰趨並に戦後の物資難に基き暫時の間、服装規定の実施を中止した」と記載されている(下線部分は、原文では傍点「、」が付されている)。ただし、「撤廃」と「実施を中止」ではずいぶんと印象が異なる。なお『武蔵五十年のあゆみ』における記述では「戦中・戦後の物資欠乏の故もあって、服装についての規程の実施は昭和21年に中止された」であり、同書収録の「年表」でも1946年11月に「服装規定の実施を中止」とある。『武蔵九十年のあゆみ』では宮本校長の訓話を紹介とあわせて、「服装規程を撤廃」との表現を用いている。「年表」では1946年12月2日の項において「服装規程を廃止」と記している。  1946年に従来の服装規定が撤廃、あるいは実施が中止されたとはいえ、校内での服装に関するルールが完全に自由化されたわけではないらしいことも『学務日誌(*6)』の記録から推測される。着衣についての明確な記述はみられないが、しばしば下駄履きに関する注意が登場する。生徒側から、とくに雨天時の下駄履きを認めて欲しいとの要望があったが認めていない。下駄履き禁止については学校でのルールというより一般的なマナーにもとづく指導と理解できるかもしれないが、1950年に新制大学・高校・中学共通の「武蔵バッジ」が制定(*7)されると、中学・高校生には後述するようにバッジの着用がルール化されていたようである。生徒の服装が完全自由となった現在からは想像しがたいが、この年には生徒がバッジを着用しているかどうかを教員が点検する期間を設けた(*8)ことも確認できる。旧制以来の生徒を紳士に育てようとするマナー指導は継続し、白線帽の代わりに授与された佩章もバッジにその姿をかえて受け継がれ、着用が指導されたのであろう。バッジのデザインも旧制時代の校章の一部を継承している。佩章は式典等への出席時に着用が求められたが、この「武蔵バッジ」は日常的な着用が求められた点に大きな違いがある。  さて、大坪は宮本校長による「服装規定」廃止から「標準服」制定までの経緯を次のように伝えている。   私が武蔵の教師になったのは新制の二年目、一九五〇年であるが、その二、三年後に制服問題の揺りもどしが来た。「父兄の要望」で、制服規定を復活させてほしいという話であった。窮乏生活はまだ続いていたが、景気がすこしは上向きかけてもいた。この時の教師会の会議では、かなり活発な論議があったように記憶している。私と同様、新制になってから就任した二〇歳台の先生が何人もいて、制服復活には反対の人が多かった。しかし、今思うには、服装自由賛成よりは制服反対が主な論点であったために、制服復活論を抑えきれなかった。結局、結論は玉虫色になった。つまり、制服復活はしないが、標準服のきまりを作るということである。(*9)  大坪は自分が着任した1950年の「その二、三年後に制服問題の揺りもどしが来た」と記しているが、1950年度(1951年1月29日)にはすでに父兄から無記名で生徒の制服を考えて欲しいとの投書があった(*10)。また、大坪は引用文よりも後の部分、すなわち「標準服」制定後の出来事と読める書き方で「玉虫色ではすまない事がすぐに起こった」として、高校2年生の修学旅行中におこった事件を紹介している。京都で「セーター姿で出歩いた生徒たちが、他校生に脅かされたり撲られたりという事故」がおこり、警察署で少年課の担当者から「制服を着ていないような生徒は、それだけで不良と見られても仕方ないのだ」といわれてしまったのである。その場で付添の島田俊彦教諭が「うちの学校では服装は自由なのだ。あんたは、ひとの学校の教育方針にケチをつけるのか」と反論したというが、当時の教師会記録「週報」では修学旅行後に「今回の旅行で学校の制服制帽の必要を痛感した」とあり(1952年10月27日)、「来年度から学校の制服を制定したいとの意見もあるので、機を改めて付議したい」(同年12月8日)、「生徒の制服については研究中であったが、学校の方針としては新学期から標準型を決めて制服希望者には指示することにした。その標準型の規格、選択等は購買部委員[引用者補:委員名は省略。大坪を含む7名の教員である]に於て考究する」(1953年2月2日)、武蔵校等学校服装規定、購買部規約の制定(1953年3月9日)と展開している(*11)。『武蔵五十年のあゆみ』・『武蔵九十年のあゆみ』でも1953年1月8日に「服装規程を定め標準服を示す」「標準服を定める」とあることから、まず年賀式で在校生徒に服装についての方針が示されたのであろう。『武蔵高等学校一覧』では昭和28(1953)年3月の項目に「服装規定を定め四月新入生に対して標準服を指示した」とあることも確認でき、規程の実施は新年度からであったと推測できる(下線部分は、原文ではいずれも、傍点「、」が付されている)。  つまり、時系列としては1950年頃には制服復活の要望が起こったが、具体的な対応が始まるのは1952年の修学旅行中の事件以後である。この事件を受けて制服制定(復活)の議論が動き出し、1952年度内に「標準服」を制定することを決定し、1953年度より実施となったのである(*12)。 ↑ 写真2 1957年撮影、37期生。生徒全員が標準服・左襟に「武蔵バッジ」。前列中央は横井徳治、松井栄一、大坪秀二の三教諭。    では「標準服のきまり」とは具体的にどのようなものであったのか。また先に述べたバッジ着用のルールとは何か。『武蔵高等学校一覽』(1954年12月10日印刷・発行)の「第三章 本校諸規定」には、「一、常に本校三理想の実現に心がけ特に組主任の指導を受け、自己の研鑽につとめること」にはじまる全8項の「生徒心得」が掲載されており、服装に関するものとしてはつぎの規定を確認できる。   一、服装は別に示された標準に基づき、常に本校所定のバッジをつけること   一、校舎内に於ては脱帽の習慣を守り、下駄を使用しないこと  「生徒心得」に続き、「服装規定(原文ママ)バッチ佩用規定」が示される。  服装規定   一、本校生徒の服装は清潔端正にして質素を旨とする   二、本校生徒が登校に際し着用すべき服装の標準は次の如くである     イ帽子      様式 丸型 品質 黒ラシャ 徽章及襟章 学校所定のもの     ロ冬服      様式 背広型立襟、袖ボタンなし 品質 紺又は黒サージ ボタン 学校所定のもの 長ズボン(中学の低学年は半ズボンが望ましい)     ハ夏服      様式 冬服に同じ 品質 鼠霜降小倉 ボタン 学校所定のもの     ニ靴      黒革、黒又は白ズック製、雨雪の場合(原文ママ)ムゴ製靴の使用は自由     ホ外套又は雨着      様式 品質標準なし 但し外套は黒又は紺のシングル(バンドのないもの)     ヘ開襟シャツ      半袖開襟を標準とし、長袖折襟これに準ずる 品質 白木綿   三、夏冬服着用期間の標準は次の如くである     冬服 十月一日より翌年五月三十一日迄        襟巻、ジャンパーはなるべく使用しないことが望ましい     夏服 六月一日(原文ママ)まり九月三十日迄        この間開襟シャツの使用を妨げない  バッチ(原文ママ)佩用規定   一、武蔵の学生生徒は登校の際は必ずこのバッジをつける   一、このバッジは武蔵の学生生徒であることをあらわすものであるからこれをつけることにより武蔵の学生生徒たる誇りと責任を感ずるようにしたい   一、このバッジを他人に貸与したり譲渡したりしてはいけない   一、このバッジを紛失した場合は所定の手続きを経て再交付する   一、このバッジは左襟または左胸につける   一、卒業以外の理由で学籍を離れる時は返納しなければならない   明文化されたこうしたルールがどのように運用されていたか、生徒にどう受け止められていたかが、『校友会報 武蔵』第5号(1954年5月15日) の「さえずり」というコーナーに掲載された「制服制度を望む」という生徒の投稿からわずかにうかがえる。この投稿は「『登校の際着用する服は、今迄着ていたもので結構です』(原文ママ)ただ今後新しく買う時には成る可く詰襟のものにして下さい』現在我校において入学第一歩に聞かされる文句にこのような一句がある」と始まる(*13)。おそらく小学校・中学校で着用していた制服のボタンや徽章などを付け替えて着用するのが一般的だったのであろう。入進学にあたり、「標準服」の新調を学校側が強く期待することはなかったのかもしれないが、校友会報には「武蔵特制(原文ママ)開襟シヤツ」を扱う制服店の広告がときおり掲載されている。この広告によれば学校の購買部でも同店の制服見本を展示していたとのことであるし、1960年代に在校した卒業生からは入学手続きの際に学校門外に制服を扱う業者が来ており、そのために生徒・保護者は疑問に思うことなく購入したとの情報が寄せられた。この時期、着用は強制されないものの、限りなく「制服」に近いものは用意されていたようである。なお、バッジは入学式で校長から授与されるものであった。  前述のように大坪ら若手教員らの反対もあり、規定上は制服ではなくあくまでも「標準服」であった。しかし、「教頭[引用者補:内田泉之助。在職1926~1967年]は標準服の着用を励行させることを教師たちに求めていた(*14)」し、校友会報の投稿で紹介された「今後新しく買う時には成る可く詰襟のものにして下さい」という呼びかけにもみられるように学校側からの標準服着用のはたらきかけがあったことも間違いない。服装規定の実際の運用にあたっては、旧制時代を知る教員、とくに山本良吉の薫陶を受けた世代(*15)と、新制になってから着任した教員との間に温度差があったものと推測される。おそらく服装規定廃止から「標準服」制定までのあいだも同様だったのではないか。  生徒・保護者がどのように受け止めていたのかを明らかにすることは困難であるが、学園記念室が保存する写真(*16)や筆者のもとに寄せられた卒業生からの情報からは1960年代には「標準服(詰襟・学生帽)」の着用がごくあたりまえに行われていたらしいことがうかがえる。冬季のセーターやコート類の自由な着用はあったようであるが、こだわりがなければ標準服が選択されていたようで、私服通学は多数派ではなかったようである。 ↑ 写真3 1960年撮影、40期生入学記念写真。生徒全員が標準服・左襟に「武蔵バッチ」・左胸に名札らしきもの。   ↑ 写真4 1966年撮影、40期生卒業記念写真。ロゴの入ったシャツや柄のセーターを着用した生徒もいるが、標準服着用者が多い。前列左端に鳥居邦朗教諭と藤崎達雄教諭、前列右端に島田俊彦教諭。         服装「自由」の時代へ  武蔵において「標準服」の規定がなくなり、完全な服装自由の時代が始まったといえるのは、1970年代末から80年代初めであろう。武蔵だけでなく、1960年代後半から70年代前半にかけての「高校闘争」のなかで、制服を自由化した学校は100校以上存在すると推測されている(*17)。この時期に校長を務めた大坪は次のように記している。      服装問題について最終的に決着をつける仕事は、時の流れの故にあって私が引き受けるめぐりあわせになった。‘70年前後の高校紛争の嵐の時代が来たとき、校則一般について、学校の側としても曖昧な態度はとれなかった。「昭和二一年以来、制服規定はない。服装は自由である」と言い切って、昭和二八年制定の標準服のきまりを握りつぶしてしまったのは、あえて言えば私の独断である。「玉虫色のものは規定とは言えない」という正当化を心中に持ってはいたのであるが(*18)。  玉虫色の規定とはいえ、「服装規定(標準服)」「バッジ佩用規定」は『一年生要覧』『新入生のために』といった入学時に配布される冊子である時期まで明文化されていた。こうした冊子類で現物を確認できるのは『一年生要覧』が1958年度から1962年度まで、『新入生のために』が1963年度から2002年度までである。なお、2003年度からは『学校生活の手引き』と名称を変えて現在も継続刊行中である。  『一年生要覧』には「生徒心得」が掲載され、「服装は別に示された標準に基づき常に本校所定のバッジをつけること」として「標準服」の規定を示していたが、1963年度の『新入生のために』では、服装について次のように説明する。   第八章 服装    服装に関しては、入学の時に授与されるバツジ(原文ママ)をつけるという次の規定のほかには、標準として示されているだけで、制服、制帽といつた厳密なものはありません。 《バツジ佩用規程(原文ママ)》   一、武蔵の学生生徒は登校の際は必ずこのバツジをつける。   一、このバツジは武蔵の学生生徒であることをあらわすものであるからこれをつけることにより武蔵の学生生徒たる誇りと責任を感ずるようにしたい。   一、このバツジを他人に貸与したり譲渡したりしてはいけない。   一、このバツジを紛失した場合は所定の手続きを経て再交付する。   一、このバツジは左襟または左胸につける。   一、卒業以外の理由で学籍を離れる時は返納しなければならない したがつて、バツジさえつけておれば、おとうさんのお古の背広でもいいわけです。 ただし、次の規定があります。    本校生徒の服装は清潔端正にして質素を旨とする。      実際には、冬が黒のつめえり、夏が半そで開きんシャツといつた人がほとんどで、ズボンは低学年で夏に半ズボンがちらほら、あとは長ズボンです。    新調される方はもちろんどこでなさつてもかまいません。    カバンも特に指定はなく、ズツクのさげカバンが大部分です。    ほかには体育の際の運動着がありますが、上下とも汚れのめだつ白がよいとされています。運動ぐつは白でなくてもよく、通学用のズツクぐつのままでもかまいません。    うわぐつはいりません。通学ぐつのまま教室にはいります。通学ぐつは何でもよいのですが、〈半バス[引用者補:ローカットのバスケットシューズのこと]〉の生徒が多いようです。げたばきは禁止してあります。 (下線は引用者による)    服装規定中に「標準」ということばは登場するが、具体的な「標準服」を示すことはなくなり、「本校生徒の服装は清潔端正にして質素を旨とする」のみとなっている。しかし、この時点ではまだ「バッジ着用」ルールがあり、実際には「詰襟」「開襟シャツ」といった「標準服」を着用している生徒が「ほとんど」なのである。さきに述べたように、1960年頃までは詰襟着用の生徒の写真が確認できた。60年代半ばでもおそらくは同じような状況で、少なくとも入学時には「標準服」を用意して着用していたと考えられる。著者のもとに寄せられた卒業生からの情報によると、入学時にあつらえた標準服が成長によりサイズがあわなくなったり、学校生活になれてきたりしたら私服に移行していったのだという。少なくとも1970年代初までは入学式には標準服の着用が一般的で、70年代末になると入学時にも私服に変化していたようである。  服装に関する「標準」が学校配布の文書から完全に消滅したことを確認できるのは1979年度の『新入生のために』からである。   第六章 生活   (1)服装    服装に関しては、入学時に授与されるバッジをつけるという規定のほかは、制服制帽といったものはありません。 (下線は引用者による)    この文章に続いて前出の「武蔵バッジ」に関するルールが《バッジ佩用規定》として示され、「したがつて、バッジさえつけておけば、おとうさんのお古の背広でもいいわけです。ただし次の規程があります」として「本校生徒の服装は清潔端正にして質素を旨とする」ことが説明されている。服装の「標準」が示されなくなってもまだ、登校の際にはバッジをつけるというルールが残ったのである。とはいえ、学校側がバッジ着用をどれほど厳密に指導していたかは確認することは困難である。1980年代初には入学時に組主任からバッジ着用がルールだと説明されたとの情報や、1980年代半ば以降も実際にバッジを着用していたという情報が卒業生から得られているが、現職教員に指導状況を尋ねてみたところによると、少なくとも90年代に入るとこのルールは死文化していったようである。それでも1997年度まではこの登校時のバッジ着用のルールは『新入生のために』に残され続けた(*19)。  1998年度の『新入生のために』「第六章 生活」は冒頭につぎのような文章を掲げており、これが現在まで継承されている。    本校には、服装、所持品、髪型などについて生徒に守らせるために書かれた規則はありません。日本の法律などの規則はもちろん武蔵でも守らなければなりませんが、そのほかに武蔵だけで適用される規則はほとんどないのです。(中略)武蔵の校風は自由だとよく言われますが、真の「自由」は「身勝手」とは正反対のところにあることを忘れないで下さい。他人に規制されるのではなく自身で規制して正しい行動をとるのが真の自由な人、自身を規制することができないのが身勝手な人です。このことに気をつけながら、自由な学校生活を十分に楽しみましょう。  服装についての説明も次のように変更された。「本校には制服や制帽はありません。学業に励み、体をつくり、心を磨く場所である学校へ来るのにふさわしい服装であれば、何を着て来てもよいのです。ふさわしいかどうかの判断は、自分でするように求められています。ただし、その判断があまりにも独善的であれば、他人から注意を受けることはあるでしょう」。 「生徒の『服装』について(1)」でも言及した、本校webサイトでの「服装などについては学校として決まりは作っていません。時として教員が個別に指導することはありますが、その場合も本人の自覚を促すことを基本としています。」という説明 は、この『新入生のために(学校生活の手引き)』での方針を踏まえたものである。服装指導を通じて生徒を統制する、あるいは制服や校章のような共通のシンボルによってスクール・アイデンティティを高めようとするようなねらいはなく、あくまでも一般社会におけるみだしなみの注意にとどまるものである。 現在も入学式では新入生全員に「バッジ授与」が行われるものの、生徒に着用を求めることはない。生徒の服装も、中学生入学式や高校卒業式では正装としてブレザーやスーツの着用(とくに高校3年生の場合は紋付きに袴姿も見られる)が多いものの、式服をふくめて学校からとくべつな指示をすることはない。生徒も教職員も、染髪・アクセサリー類の着用など服装はまったくの自由なのである。    ↑ 写真5 1971年撮影、45期卒業記念写真、標準服の生徒は少ない。前列左端に大坪秀二教頭、前列中央に矢崎三夫教諭。   ↑ 写真6 1976年3月撮影、50期卒業記念、標準服の生徒は全く見られない。中央のネクタイを締めている人物は田中正之教諭。   本稿作成にあたり、ご関係のみなさまがたより情報提供をいただきました。 心より感謝申し上げます。 ・卒業生の方々 井上俊一様、大塚日正様、加藤順康様、志村安弘様、高野陽太郎様、富重正蔵様、橋本芳博様 ・旧教員の方々 大橋義房様、梶取弘昌様、岸田生馬様 ・現職教員 杉山剛士校長、高野橋雅之副校長 ※ お名前掲載の許可をいただいた方々のみ、五十音順で紹介させていただきました。   注: *1 大坪秀二編「宮本和吉学長・校長訓話抄 昭和二一年~昭和三一年」(『武蔵学園史年報』10、2004年)。 *2 玉蟲文一教頭による「本校歴史(草稿)」の記述による。ここでは大坪秀二が『旧制武蔵高等学校記録編年史 大正11年~昭和24年』(武蔵学園記念室、2003年)に引用したもの(p.148)を再引用した。 *3 前掲『旧制武蔵高等学校記録編年史 大正11年~昭和24年』p.148。 *4 大坪秀二「随想 定年退職にあたって 武蔵の服装規定のこと」(『武蔵高等学校同窓会会報』32号1990年12月)。 *5 『武蔵七十年のあゆみ』(1994年)p.114。 *6 「新制武蔵高等学校中学校初期記録抄(一九四九・三~一九五二・八)」(『武蔵学園史年報』第3号、1997年)。 *7 『武蔵高等学校一覧』では昭和25(1950)年5月12日の項目として「開校記念式に際し新たに制定したバッヂを全職員学生生徒に授与した」とある(下線部分は、原文では傍点「、」が付されている)。「武蔵」の文字を両側から雉がかこみ、背景に6本・3本・4本の線を刻んだデザインである。大学では1998年に開学50周年記念として白雉と小枝を組み合わせた新たなシンボルマークを定め、現在はこちらのデザインを使用している。 *8 1950年9月4日に「近頃バッジを佩用しているものが少ないようであるが、なるべく佩用させることにした。なお、一定の日を定めてバッジの有無を一斉に点検することにした」とあり、10月2日~7日の一週間で実施、9日には結果を組主任から学務課へ報告することを確認している。前掲「新制武蔵高等学校中学校初期記録抄(一九四九・三~一九五二・八)」参照。 *9 大坪前掲「随想 定年退職にあたって 武蔵の服装規定のこと」。 *10 前掲「新制武蔵高等学校中学校初期記録抄(一九四九・三~一九五二・八)」参照。 *11 「新制武蔵高等学校中学校初期記録抄 その三(一九五二・九~一九五六・三)」(『武蔵学園史年報』7、2001年)。 *12 こうしたうごきを大坪は「諸慣行の旧制復帰」と述べている(前掲「新制武蔵高等学校中学校初期記録抄 その三(一九五二・九~一九五六・三)」)p.130。「諸慣行の旧制復帰」とは、服装規定以外に卒業式での「君が代」斉唱や、生徒の反対にもかかわらず購買部が復活したことを指している。 *13 投稿の趣旨は「団体生活に精神的締り」が不足するので、選択自由ではなく、全員着用の制服を制定して欲しいという学校への要望である。 *14 前掲「新制武蔵高等学校中学校初期記録抄 その三(一九五二・九~一九五六・三)」p.130。 *15 大坪は内田教頭について「昔のことを知る者から見れば、旧制時代山本校長のしたことの外形をできるだけそっくりになぞることであったと思う」と評している。「新制武蔵高等学校中学校初期記録抄解題 その三(一九五二・九~一九五六・三)」(『武蔵学園史年報』7、2001年)。卒業生からも、鎌田都助(くにすけ)教頭(1925年着任。教頭在任期間は1956-60年)は服装指導に厳しく、校舎玄関前で生徒の服装(靴が磨かれているかなど)をチェックしていたとの思い出が寄せられた。 *16 武蔵学園百年史サイト武蔵写真館「071 1950年代から60年代の武蔵高等学校」https://100nenshi.musashi.jp/Gallery/Theme/a4e111df-2c4e-40e4-b4b9-39b7e8e36431。 *17 小林哲夫『学校制服とは何か―その歴史と思想』(朝日新聞出版[朝日新書]2020年)p.112。 *18 大坪前掲「随想 定年退職にあたって 武蔵の服装規定のこと」。 *19 ちなみに、下駄履きについても2019年度の『学校生活の手引き』までは禁止が明文化されていた。 *20 武蔵高等学校中学校webサイト よくあるご質問 学校生活について「武蔵は自由だと聞いていますが、規制はないのですか」(https://www.musashi.ed.jp/nyuushi/faq.html)。
2018.12.19
武蔵今昔物語
「えごた」はたまた「えこだ」
江古田今昔混同物語
 タイトルに掲載した空中写真は、昭和30年代(1955〜64)に撮影された武蔵学園周辺だ。  まだ高等学校中学校の校舎は時計塔のある現在の3号館で、大学のメイン教室はその左手の旧1号館だった(高中新校舎は1968年竣工)。正門は現在の位置よりやや西にあり、ややわかりにくいが守衛所も今は郵便室になっている三角屋根だ(正門が現在地に移動し根津化学研究所まで直線的に欅並木を見通せるようになったのは2012年の暮)。     学園の北側(画面手前)には、すでに住宅が密集しているが、南には田畑が大きく広がっている。横に掲載した写真の最上段は、同じく昭和30年年代の江古田駅周辺(江古田銀座)だが、店舗は変わっても道路の幅や構成が今とほとんど変化していないことに驚く。江戸時代は農村(新田)であった江古田だが、現在は武蔵学園、日本大学芸術学部、武蔵野音楽大学という三大学が集まる学生の街として知られる。武蔵百年の歴史を考えるとき、学生・生徒たちを育んだ江古田の街について触れないわけにはいかない。当サイトでも何回かに分けて江古田の街についてとりあげたい。今回はその初回、町名についての話。 ■江古田の駅名、町名パラドックスをさぐる  「武蔵学園はどこにありますか」という問いに練馬区豊玉上といっても伝わりにくいので、「練馬の江古田です」「西武池袋線の江古田駅が最寄り」と返すことが多い。そして「えごた? えこだ? どっち」という質問は、もう武蔵の関係者なら何回も受けたことだろう。  ご存じのように、西武池袋線の駅名は「えこだ」だ。しかし南へ下って大江戸線の新江古田は「しんえごた」である。ちなみに江古田銀座のアーチから新江古田駅を経由して目白通りを横切り新青梅街道まで伸びる「江古田通り」(通称「チャンチキ通り」)は「えごたどおり」だ。  さらにこの新青梅街道にかかる妙正寺川の「江古田大橋」はなんと「えこたおおはし」であり、その下流の「江古田橋」は「えごたばし」なのでややこしさが倍増する。  「江古田」の名前が記録に現れるのは室町時代後期で、地域は現在の中野区江古田付近、目白通りの南側一帯で、太田道灌が豊島一族と戦った古戦場「江古田原」として『太田道灌状』に記されいる。ただし読みは判然としていない。その後も「えこた」「えごた」「えこだ」が混在して使用されているが、中野区江古田の地元では「えごた」が人口に膾炙していたようだ。そして、現在の中野区江古田(えごた)の町名と範囲は1963年の住居表示法で定まった。  一方、今の練馬には江古田という町名はない。1960年、横の写真の頃までは、現在の旭丘と栄町が江古田町だった。これは、この一帯が中野の江古田村の新田として開発された地域であることに由来する。戦後、中野区江古田と混同されることが多いことから、この年に旭町と栄町に再編・改名された(旭町の名は住民投票によって決定した)。       しかし江古田駅の名はそのまま残っており、駅名は「えこだ」である。ご承知のように江古田駅は大正11(1922)年、西武線の前身である武蔵野鉄道の「武蔵高等学校用仮停停留所」として開設され(根津嘉一郎初代理事長は同鉄道の大株主だった)、ホームは現在よりも武蔵に近かった。その翌年、今の位置に移設されて武蔵野鉄道「江古田駅」として開業。戦後、昭和21(1946)年に西武鉄道「江古田駅」となり駅名の読みが「えこだ」になったが、その読み変更の経緯は不明である。秋葉原駅が「あきばはら」が発音のしやすい「あきはばら」になったと同じという説もあるが、証明するものはない。なお、最下段の写真は昭和10(1935)年ごろの江古田駅で、このときも「えごた」である。  中段の地図は大正15(1926)年6月30日発行の大日本帝国陸地測量部によるものだ(武蔵学園記念室所蔵)。これには駅名は「えごた」と記されている。少なくともこの時点では「えごた駅」だった。また、右下には江古田新田の表示があり、中野の江古田より後に開墾されたことがわかる。千川通りの北側に沿う黒い細い線は千川上水で、まだ暗渠ではなく上水として機能していた。残念ながら中新井分水である濯川は描かれていないが、当時は川幅が30㎝程度だったためと推察される。なお、2017年夏にNHK衛星放送の番組で江古田をとりあげたとき、番組担当者と学園記念室で西武鉄道江古田駅に問い合わせたが、この駅名の読みについての資料は得られなかった。   ■江古田の語源は、エゴの木?  結局のところ、江古田の読みについては、地名にはさまざな「音の揺れ」がおこると理解するしかない。なお、江古田は横浜市にも江古田と荏子田があり、これはどちらも「えこだ」だ。  では江古田の語源は何かと追求したくなるが、現時点では確定できる説はない。一時期説得力があるとされたエゴマ油のエゴの木があった田という説も、証明できる、あるいは説得力の高い資料・記録はない。また。ひらがな表記すればエゴの木は「ゑご」であるが、「ゑこだ」あるいは「ゑごた」という記録がない。江古田の「え」は旧仮名でも「ゑ」ではない。  ほかには「窪地」「淵」などを意味する「えご」からだという地形説があるが、このことばは関東ではあまり使用されていないという反論もある。またアイヌ語語源説も証拠がない。  江古田の田は、おそらく水田に由来すると思われ、「えご」もしくは「えこ」の解明が待たれる。そして「た」か「だ」かという問題は日本語の特徴である「連濁」(サクラ→ヤマザクラ、クルマ、ニグルマのように接頭語により濁音化する例外が少ない現象)との関係性ともあいまって興味は尽きないが、武蔵学園記念室では今後も江古田の歴史については調査・研究を進めていく。次回は、江古田の街と店と学生について触れたい。                                                    (武蔵学園記念室・調査研究員 三澤正男) ※参考文献 黒田基樹『図説 太田道灌』(戎光祥出版 2009年) 武蔵学園70年史委員会編『武蔵七十年史』(1993年)  
2022.01.13
武蔵学園史紀伝
夫が愛した「武蔵大学」
                               【編者注:この文章は、1979年に武蔵大学経済学部経営学科を第27回生として卒業された菅又佳郎氏(2009年10月3日に逝去された)の奥様、菅又里美様から、『武蔵学園100年史』紀伝編原稿として執筆いただいたものである。】  夫が亡くなって5年経った2014年の夏、武蔵大学同窓会栃木県支部総会にお誘いを受け、出席させていただきました。同窓生でもない私に「菅又君に代わって特別会員ですよ」と、皆さんが優しくお声をかけてくださるのが本当に有り難かったです。そこでの東武鉄道取締役の坂巻伸昭氏の「東京スカイツリープロジェクトについて」熱く語る講演は、この栃木支部会の立ち上げから事務局をしていた彼がいたら、どんなにか喜んだことだろうと思いながら聴き入りました。  私にとっての武蔵大学は30年ほど前、彼とお見合いで出会った日からです。日光までドライブをしましたが、道中彼の話はずっと武蔵大学のことでした。ゼミ、学生運動、恩師や友人、バイト、江古田のこと等々、私はここで武蔵大学の概要を聞かされたようなものでしたが、これが面白くて面白くてどんどん話に引き込まれていきました。目的地の明治の舘での食事の最中もあたかも昨日の出来事かのように「学内に一晩拉致されて差し入れの弁当がね……」「酔っ払って下宿に先生が泊まって、ズボンを間違えてはいてっちゃって……」「勉強してなくって、でっかく名前を書いて試験及第点……」「西武の配送センターのバイト、暑くてくたくたでわざと贈答カルピス破損させて……」などなど、およそ私の学生生活からは想像もつかないことを嬉しそうに話し続けていました。声が大きい人だったのでテラス席でよかったと思いましたが、今でもよく訪れる思い出の場所となっています。帰りの車内で流れていたBGMは歌謡曲でもフォークソングでもなく、岡村喬生氏が歌う武蔵大学讃歌で、延々とリピートされていました。  当時の日記を見るとその日のことを「独特の世界観をもっていて、これほど母校に生きている人私は知らない」と私は書いていて、それは彼が亡くなるまで変わりませんでした。この日がなければ彼と一緒になることはなかったのですが、ここに至るまでにさらに伏線がありました。卒業後は栃木に帰って就職することしか考えていなかったようで、武蔵大学の大先輩が経営する上野商事に入りました。同じ大学の卒業生ということで採用していただけたんだろうと思います。ほんの数年の勤務でしたが、当時商売をしていた私の実家に月1回営業に来ていたのです。私は高校生で何も知りませんでしたが、両親と彼はお互いに人柄を知り合った関係でした。彼が武蔵大学に入らなければ、きっと出会うことはなかったでしょう。そう思うとつくづく縁を感じます。その後彼は保険会社を立ち上げ、会社名も「武藏保険事務所」とします。どれほど大学が好きなのかと思います。  出会って2ヶ月後、私は初めて彼と武蔵大学に行きました。ケヤキの緑がとても美しく、校内には小さな「濯川」が流れていて都内とは思えないような自然を感じる大学というのが第一印象でした。大学を卒業して10年以上が経つのに「武蔵大学で僕を知らない人はもぐり」と。吹いていると思いましたが、守衛さんが「菅又さん」と声をかけてきたので驚き、大学職員のように学生生活課をはじめ各校舎を詳しく案内してくれました。親友の山田さんや大久保さんをはじめ大学職員の皆さんの笑顔に出会いました。正門を後にするときには「なんてアットホームな大学なんだろう」と思ったことを鮮明に覚えています。帰りに「ランプ」で優しそうなママさんから学生や同窓生の話を伺っていたら、卒業してもここに通う気持ちがわかるような気がしました。  彼と出会ってから何度もドライブをしましたが、大きな川を見ると川岸に行って対岸にまで届くような声で武蔵大学讃歌を歌うのが常でした。学ランでも着ているつもりかのようにエールまで切るのです。初めて渡良瀬川で聞いたときは唖然としましたが、あまりに堂々と歌うので思わず拍手をしてしまい、彼にとってはそれが私を選ぶ決め手になったようです。彼との20年の人生で武蔵大学讃歌を何度聞いたかしれません。嬉しいときも、辛いときも歌うので、私は自分の母校の校歌すら覚えていませんが、武蔵大学讃歌は3番まで歌えます。    元号が昭和から平成に変わった1989年の1月に結婚式をあげ、彼が日頃から大切にしている方々を200人からご招待し、祝福していただきました。翌日新婚旅行に出発しましたが、バブルのあの時代、日本で手に入らないものは何もないという感覚がありました。  そこで二人が考えたのは「世界の東京」に新婚旅行しようという発想でした。自分達がまだ経験していない、大相撲を桝席で観る、歌舞伎を桟敷席で観る、はとバスの夜の花魁コースに着物で参加する、ゴッホのひまわりを観る、根津美術館に行く、帝国ホテル、ホテルオークラに泊まる等々、1週間東京を満喫する贅沢な旅行でした。その旅行の最初の目的地が武蔵大学でした。前日ご出席いただいた先生方の研究室を次々訪ねては、どうして今ここに来ているんだと驚かれ、新婚旅行だと話してさらに驚かれ、昨日のご出席のお礼を伝えると皆さんようやく笑みをこぼされていました。  新婚旅行は東京でしたが、その夏からの20年、毎年夏と冬に海外旅行をしました。イスタンブールに行ったとき、「東西文化融合の……」とつぶやくので、聞いてみると武蔵大学建学の三理想「東西文化融合のわが民族理想を遂行し得べき人物、世界に雄飛するにたえる人物、自ら調べ自ら考える力ある人物」と、ボスポラス海峡に向かって叫んでくれました。そのために海外旅行をしていたわけではありませんが、彼の理想の人物像であったのかもしれません。  結婚してからは彼と一緒に何度も武蔵大学を訪れました。「武藏の日(平成6年3月4日)」では、アナウンサーの村松真貴子さんや柔道の山口香さんにお目にかかり、その2ヶ月後の武蔵丸の講演会にも聴きに行きました。武蔵大学に行くことで、なかなかお会いすることのできない方々との貴重な機会をたくさん得ることができました。「武蔵サミット」では大学にも行きましたが、「第二回武蔵サミット」で私にとっては初の九州、大分県の武蔵町に行ったこともいい思い出です。数ある日本の地名で「武藏」はここだけということも初めて知り、驚きました。  50周年の式典やゼミの石原先生の講義など彼一人で武蔵大学に行くこともありましたが、毎年文化の日には江古田で同級生と待ち合わせて小平霊園に行っていました。在学中に亡くなった同級生の六川さんのお墓参りです。私も一度連れていってもらったことがありますが、お線香を手向けた後は、近くのお店で一杯やるのが楽しみだったようです。近況を伝え合いながら、同級生ならではの楽しい酒を酌み交わしていました。 【石原司教授】  2009年6月に恒例の栃木支部会を開く段取りをして、当日は懇親会までいつもと何ら変わらず楽しんでいたので、同年の10月3日に亡くなったときは多くの方々を本当に驚かせ、悲しませてしまいました。葬儀で大好きな武蔵大学讃歌を流すことが遺言の一つでもありましたから、しめやかに流させていただきました。  翌年の2月には同窓会栃木県支部会の皆さんが「ミスター武蔵・菅又佳郎さんを偲ぶ会」を開いてくださいましたし、同級生や石原ゼミの方々が墓参りに足を運んでくださったり、恩師や友人からたくさんのお便りもいただきました。彼が日頃「人は宝」と言って、交友関係をとても大事にしていたからこそと思いました。  2年前に山梨の根津記念館を初めて訪れました。武蔵大学の創設者である根津嘉一郎について、私は「鉄道王」と言われ、茶人でもあったという程度の認識でしたから、ここでこの方の経歴や業績、功績を詳しく知ることができました。山梨県下の全小学校に200台ものピアノをはじめミシンや様々な教材・教具を寄贈し、「社会から得た利益は社会に還元する義務がある」という信念があったと知りました。夫は生前、亡くなったら大学に寄付をしてほしいと言っていましたから、遺言どおり大学に寄付をさせていただきましたが、根津嘉一郎に学んだことなんだと理解しました。広いお屋敷に佇んでゆったりと庭を眺めながら回想できたひとときでした。少しばかり夫婦でお茶を嗜み、二人でよくお抹茶を飲んでいましたから、帰りに館内のショップでお抹茶椀を一つ購入し、今もよく使っています。  夫の心のどこかにはいつも武蔵大学があり、武蔵大学に染まった人でしたが、彼は武蔵大学に全てに染まりたかったんだろうとさえ思える昨今です。今回思いがけない依頼で拙い文を書かせていただきましたが、在学中から夫を慕ってくれて、彼が亡くなった後も変わらない誠実さで「里美先輩」と気にかけてくれる大学職員の小倉宇思さんには感謝しています。
2018.10.02
武蔵今昔物語
栄誉の思召しは一切断ること
無私の財界人・根津育英会第4代理事長宮島清次郎
■「勲章などもらって、あの世でなんの顔で奴らに会えるか!」  泉岳寺から北西に向かう伊皿子坂(いさらござか)は頂上で魚籃坂(ぎょらんざか)となって三田方面に下る。江戸時代には江戸湾が望めたという。  1963年9月6日早朝、1台の黒塗りの車が伊皿子坂の中腹にある日本工業倶楽部理事長・財団法人根津育英会理事長の宮島清次郎の屋敷をすべりでた。  後部座席に身を沈めているのは、後にいう「財界四天王」の一人である日清紡績社長櫻田武である。櫻田は9月に入ってから、病篤く命潮汐にせまっていた育ての親ともいえる宮島清次郎の病床の傍に詰めていた。この朝、宮島の容態がやや安定したことで、櫻田はまだ息があるうちに宮島逝去後の相談を当時の首相池田勇人とすべきと思い、宮島邸から一度自宅に戻ったのだった。しかし、 洗顔をしていたところに逝去を知らせる電話が鳴ったと、櫻田は「日清紡績社報」の追悼文で述べている。  櫻田が東京帝大卒業後、日清紡績の入社試験を受けたのは1926年。200名に及ぶ志願者のなかから当時の社長、宮島の最終面接を経て入社したのはわずか2名。櫻田はそのひとりだった。早くから櫻田の力量を見抜いていた宮島は1945年に櫻田を41歳の若さで日清紡績社長に昇格させた後に会長を退任した。  厳格な合理主義的経営とともに、深夜操業廃止など労働者の立場も重視した宮島は、およそ賞されることが嫌いだった。「財界御意見番」といわれた経済評論家の三鬼陽之助によれば、宮島は死の数年前から「戦争で多くの部下が無冠の大夫で死んだ。生き残った俺が勲章などもらって、なんの顔で奴らに会えるか」と周囲に広言していたという。しかし、吉田茂と池田勇人という2名の宰相の政権成立に尽力した宮島には勲一等の叙勲と相応の叙位が追贈されることが予想された。かつてそのことを櫻田がいうと宮島は激怒し、遺言状に「栄誉の思召しは一切断ること」と鉛筆で書き添えた。  1963年9月6日午前7時28分、稀代の企業人宮島清次郎は老衰により84歳の生涯をとじた。そして、鉛筆書きの一行は尊重され叙勲叙位は見送られた。 ■19歳年上の親友、根津嘉一郎との絆  宮島清次郎は1879年、現在の栃木県佐野市の生まれだ。宇都宮中学(現・県立宇都宮高校)から四高(現・金沢大学)に進み、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業すると企業人としての道を選び、住友金属工業の前身である住友別子鉱業所を経て東京紡績に入社、業績回復を成し遂げて専務取締役に昇進する。宮島は東京紡績が尼崎紡績(現・ユニチカ)に吸収合併される際に退任し、根津嘉一郎(初代)が相談役を務めていた日清紡績専務に就任。同社の経営を建て直して安定企業に押しあげ1919年には社長に就任する。このとき清次郎はまだ40歳だった。根津と宮島は、宮島が専務就任直後から互いの経営哲学や見識に共感し、ビジネスを超えた絆を結んだ。根津は宮島より19歳も年上であるが、深い信頼と尊敬の関係が成立する両者の度量の大きさは驚くべきである。根津はさらに、日清製粉創業者正田貞一郎とも強い関係があったわけだが、根津嘉一郎にとって、友であり相談相手であり、社会や日本の未来に向けて同じベクトルを抱く同志であるこの2名の存在が、さまざまなリスクが想定されるなか、一私人による旧制七年制高校の設立という日本の教育史に大きな足跡を残す決断の支えになったことは確かである。  宮島は1921年から正田とともに財団法人根津育英会理事を務め、旧制武蔵高等学校の創設に協力、1940年、根津嘉一郎が急逝すると宮島はその遺志をついで武蔵の運営をサポートし、1951年からは学校法人根津育英会理事長に就任して武蔵高等学校、戦後の武蔵大学の経営に力を尽くした。1960年に私財を学園に寄付し(宮島基金)、これは今日でも学園基金の一つとなっている。  また根津がコレクションした美術品を保持・公開するべく根津美術館の設立に尽力したことはよく知られている。 ■清次郎の人物を見抜く眼力   宮島清次郎は経営者としてすぐれていたのみならず、人物の力量と可能性をいち早く見抜く眼力とその才能を育てる能力にも秀でていた。歴史が証明する強いリーダーに共通する短所は、「次世代の育成ができない」ことだが、宮島清次郎のもとからは政財界の中核を担う才能が多数巣立っている。宮島と帝大同期で5度も首相を務めた戦後の顔ともいえる吉田茂は、外交官出身であるが故に経済があまり得手ではなく、ことあるごとに宮島を頼り、宮島もそれに応えて物心両面で吉田を支えた。  1949年、宮島は第3次吉田内閣の大蔵大臣就任を打診される。しかし宮島は固辞し、かわりに吉田学校の優等生で初当選したばかりの池田勇人と会い、その実力、とりわけ数字に強く驚異的な記憶力を見抜いて推薦する。異例の抜擢で大蔵大臣となった池田は後に総理になり、高度経済成長を牽引した。  池田勇人をはじめ、前述の櫻田武、水野成夫(フジテレビジョン初代社長)、永野重雄(新日本製鉄会長)、小林中(日本開発銀行初代総裁・根津育英会理事長)など宮島清次郎の薫陶を得た財界人は綺羅、星のごとく居並ぶ。 ■座右の銘は「感謝報恩」——清貧無私の人生  宮島清次郎は吉田茂の朝食会に怒鳴り込んで白洲次郎を恫喝するといったradicalな行動でも怖れられたが、自身の生活は清貧というべき極めて質素なものであった。戦後は日本工業倶楽部理事長、日本銀行政策委員として日本の経済的復興に力を注いだ。日本工業倶楽部のある理事が洗面所にお湯が出ないことに注文をつけると「水で手洗いして冬が越せないような老人に経営はできない」と一喝したエピソードが伝わっている。  宮島は故郷に多くの寄付・寄贈もしており、1950年には母校の県立宇都宮高校にR書館を寄贈した。この図書館は現存し、宮島の座右の銘である「感謝報恩」から「報恩館」と名付けられている。また、一昨夏、佐野市郷土博物館から武蔵学園記念室に電話があり、宮島清次郎が佐野市の小学校に多額の図書購入費用を寄付しており、それによって佐野市出身の社会運動家田中正造の書や書簡をコレクトした「宮島文庫」を紹介する企画展をするので清次郎関連の資料を提供してほしいという依頼があった。この件は記念室にとって初耳だったが、自己喧伝を嫌った清次郎の寄付の全容はかように把握が困難である。清次郎は資産のほとんどを寄付しており、遺産と呼べるものはわずかで、晩年は自宅まで売却しようとして周囲に説得されたといわれる。  タイトルの写真は日清紡績の社葬として行われた宮島清次郎の葬儀。左から櫻田武社長、吉田茂元首相、池田勇人首相。三者の表情がそれぞれの清次郎との関係を物語る。なお、1949年秋、池田勇人が第2次吉田内閣で大蔵大臣に抜擢されたとき、池田は秘書官に黒金泰美(後に内閣官房長官)と、英語力に秀でた宮澤喜一(後に第78代首相)を指名したが、この両名は奇しくも旧制武蔵高等学校の卒業生である。  この社葬の翌年、1964年、日清紡績中興の祖と称された櫻田武は、「社長は60歳まで」という宮島清次郎の遺訓を忠実に守り、惜しまれながら退任する。  同年秋、東京オリンピックの開会式が挙行され、日本は世界に向かって大きな一歩を踏み出す。それを可能にした戦後の経済復興に於いて、礎石ともいえる大きな役割を宮島清次郎が担っていたことは、今あまり語られることがない。                                                    (武蔵学園記念室・調査研究員 三澤正男) ※横の写真=上・晩年の宮島清次郎 中・財団法人根津育英会設立の頃の宮島清次郎、推定41〜42歳  下・1936年6月15日、根津嘉一郎(初代)の喜寿を祝って、同窓会と父兄会から寄贈された「根津化学研究所」の玄関での集合写真。右から3人目、玄関柱の前に立つのが宮島清次郎(当時57歳)。中央に桜井錠二学士院長。その右隣に正田貞一郎理事(日清製粉社長・根津育英会理事)。左隣に談笑する山本良吉校長と根津嘉一郎理事長。その左下に玉蟲文一所長と根津藤太郎(後に2代根津嘉一郎)。
2022.01.13
武蔵学園史紀伝
武蔵大学同窓会の黎明期余談
 私は昭和29(1954)年に武蔵大学プレメディカルコースに入学、秋に胸の病気が発覚、その後2年間休学を余儀なくされ、昭和31(1956)年に復学した際に経済学部1年次へ転籍。かつて、大学新聞会再編に関り教授ともども大学知名度アップに奔走したこともあって、この度、学園百年史刊行作業部会の大学側委員である大久保武氏(大20回生、事務局長、常務理事を経て、現在学園の常勤監事)から、大学同窓会や新聞会の発足当時のこと、加えて学園ゴルフ会発足の経緯などを記録に残して欲しいとの依頼を頂いた。折よく木村重紀(大12回生・元同窓会副会長)氏から大学同窓会60周年史などの資料提供も頂けたので、記憶をたどりつつ当時を振り返りたい。 「武蔵大学新聞縮刷版」61ページ、大学新聞第32号をご覧いただきたい。この号から、題字も元気なものに変えたいと思い、当時学園の庶務課長であり書道家としても有名であった大竹正美氏に依頼、紙面もタブロイド判から朝日や読売新聞並みのブランケット版に一変、6ページ建てにした。加えて、6面に「同窓会便り」のコーナーをつくり、向山巌先生(大1回生。大学同窓会設立者で初代同窓会長。当時は大学助手)に寄稿をお願いした。 【武蔵大学新聞・第32号・1面】 【武蔵大学新聞・第32号・6面掲載の向山先生の文章】  昭和32(1957)年4月号からその寄稿文を紹介する:「本年3月殆ど100%の就職率をおさめた第5回卒業生を迎えて、わが同窓会会員も250名から一躍370名に増加し、小規模ながら団体にふさわしい世帯を張ることが出来るようになったことは大変うれしいことです。(中略)会員諸兄が同窓会の存在意義を十分認識し、同窓会を媒介として同窓生が学窓時代に受けた他校に見られないうるわしい師弟、友情関係を社会生活を通じて緊密に維持し母校の発展に寄与したいものと考えます。なお、今後新聞会が同窓会のためにこの欄を毎号設けてくれることになりました。新聞会の好意に感謝するとともに、この欄を通じて同窓生の動向や消息、トピックなどを載せていきたいと思いますので同窓会本部まで資料を提供してくださるようお願いいたします。  同窓会会長 向山 巌」  手前味噌になるが、この大学新聞の「同窓会便り」コーナーへの向山先生の寄稿が大学同窓会誕生の学園全体に向けた産声だったと思っている。実際には、大学新聞第27号によると「昭和30年(1955年)10月の総会で会則並びに会長が承認され正式に武蔵大学同窓会が発足した」とある。私が復学し経済学部1年に転籍したのがその翌年の昭和31年、秋に「新聞会」に入会。当時、旧制武蔵高校は天下に鳴り響いていたものの新制武蔵大学なんて誰も知らない。したがって鈴木武雄学部長以下全学一丸となって「知名度アップ」に奔走していた。生まれて間もないにもかかわらず、今の「地方創生」の先を行く企画といえる日本経済新聞社と組んだ各主要都市での「武蔵大学時事経済講演会」を開催。併せて各地方で大学父兄会を開く、など。なにしろ大学に父兄会なんてあるはずもない時代(東海大学にもあったそうだが)に確かに各地方に父兄会役員が居られた。その効果か、地方からの新入生が多かったが、「ゼミ」なんて聞きなれない言葉にあたふたし、「そうか、夜教授の家で勉強会をするのがゼミなのだ」と錯覚。先生たちはそのため家、土地を西武沿線に買う場合、ゼミ用のため少し広めを購入しなければならないので頭が痛い、などとまるでウソのような本当の話。一方、学生たちは武蔵3大理想を唱え、ゼミ選びで大騒ぎし、学生生活を謳歌していた。大学と言うよりは向山先生が言われたように麗しい師弟、友情関係に満ち溢れていて、あたかも家庭のような気がした。  旧制高校の雰囲気を色濃く残す中、鈴木武雄学部長を兄貴と慕い、4年で卒業するのが勿体ないくらいの大学生活であったが、やがて私も卒業し「東レ」に入社。実習を終え東京本社販売部に着任するや否や向山先生から電話。「少数団体の同窓会とはいえ土台固めが一番の難題。会員との絆には同窓会新聞が必要。副会長を命じるから広報担当として走りまわって欲しい」と言われた。引き受けてみればどなたでも気づくことだが、何故土台が固まらないのか、すぐわかる。向山先生は別格だが、その後選ばれる歴代の会長は前会長の指名制であったため学生時代の超やり手が指名される。彼等が、会社で忙しくない筈がない。同窓会の仕事なんて出来る余裕のない人たちばかりを指名していたのだ。そこで浅野徹(大2回生)副会長の時、次回は自営業の人で武蔵バカを選んでほしい、2~3年の任期制も破棄してもらいたい。長期にわたらなければ本当の土台作りなんかできる筈がない、とお願いした。結果、選ばれたのが、その後32年間に亘り会長を務めることになるあの「石田久」(大1回生、高24期生)氏である。銀行勤めをやめ、実家(用賀、駒沢学園駅近)を継ぐ、という時だ。向山、浅野攻撃に耐えられず引き受けてくださった。石田さんに「あなたは旧制武蔵高校から大学へ来られた得難い逸材。ぜひとも死ぬまでやって武蔵大学を世界に雄飛させるための唯一の応援団の土台をしっかり作っていただけませんか」、武蔵を愛して止まない一番手の方にはこの言葉が一番効きにきいた。石田体制の土台作りがすぐに始まった。広報活動の充実をはじめ、全国規模で展開した地方支部発足の呼びかけ(と言っても卒業生はごくわずか)、各企業内或いは業種別業界の交流会の発足呼びかけ、そして各部会の組織運営にふさわしい人材探し、目が回るほどの忙しさだった。長期基本方針がはっきりしていただけに素晴らしい人材たちが同窓会役員に入ってきて石田体制をしっかりサポートしてくれ、こんにちの素晴らしい同窓会が芽を出し始めて行った。同窓会新聞の発行については、当時現役の大学新聞会の各編集委員、特に戸塚章(大16回生)氏が活躍、名だたる優秀メンバーが揃い充実していった。途中、新聞では字数が少ないと言うことになり、週刊誌タイプに切り替えたがビックリするくらいの上出来ぶり。後に「講談社」に入り夕刊・日刊ゲンダイ初代編集長に抜擢された浦上脩二(大14回生)氏並びにそのグループなど、枚挙にいとまがない。ご協力いただいた皆様に感謝、感謝の毎日だ。  話が移るが、武蔵大学の母体は旧制武蔵高等学校である。大学発足時から、武蔵学園の中には、戦後の「学制改革」により誕生した新制武蔵高等学校(中高一貫男子校)と旧制高校を母体とした新制武蔵大学の二つが併存しており、現在もそうである。普通に考えれば同窓会が3つになるはずだ。つまり、旧制武蔵高等学校同窓会、新制武蔵高等学校同窓会、新制武蔵大学同窓会。これを学園全体で一つにまとめる?至難の業が必要となる。しかし、正田建次郎学園長時代にこの無理を無理でないものにしようと学園長が自ら立ち上がられ、その手始めにと発案されたのが、互いの親睦を深めるためのゴルフ会である。昭和49(1974)年11月9日(これらの資料は木村重紀氏・元同窓会副会長から入手)のことである。これに「はーい」と合流したのが、なんと旧制武蔵高等学校出身の石田大学同窓会長。彼、ゴルフが出来ないのに、会場の東武カントリーに朝から駆け付け懇親会終了まで出席。結果は旧制組が上位を独占、大学側は惨敗。大学同窓会新聞によれば「新旧同窓生交流に大きな成果」とありその後この「オール武蔵ゴルフ大会」は毎年開催と決定され、「武蔵学園ゴルフ会」と改名はされたが令和元(2019)年で通算なんと78回。3者(いや2者か)が和気藹藹となって力を合わせて学園長杯を競う、なんと素晴らしいことだ。学園が一つになった。  大学同窓会報の中に「武蔵なひと」と言う秀逸なコーナーがある。若い素敵な女性たちが作ってくれた作品らしい。プレメディカルコース出身の宮崎秀樹先輩(プレメ2回生。現在・参議院協会会長、元日本医師会副会長、現中国・国家発展と改革委員会の日本でただ一人の名誉顧問)、小林隆幸先輩(大1回生。元ホンダ常務)など90歳近くなのに目を細めてこのコーナーを楽しみにしている。こうしたコーナーこそが絆を強めるパイプ役だ。先人たちの土台作りに込めた思いがこうした形で強まっていく。同窓会をはじめ武蔵大学、武蔵学園全体がより強い絆で発展を遂げて行く。先人たちに心からの謝意を捧げたい。  最後に「武蔵大学新聞」が長期休刊に入った際、暖かな目で支援の手を差し伸べてくれたのは武蔵大学本体であり同窓会であり新聞会にたずさわった諸先輩たちだった。特に、当時学長でおられた桜井毅先生(大3回生)の強力な支援の下で「武蔵大学新聞縮刷版1~2号」が完成したことは画期的なことである。今、その新聞会は見事復活しヨチヨチながらも歩み始めている。武蔵学園全体のあふれんばかりの暖かさが身に染みる。武蔵学園万歳!   
2018.07.09
武蔵今昔物語
清濁を呑み今日も流れる
濯川(すすぎがわ)物語
 武蔵学園内を流れる濯川は、春の桜、初夏には新緑、秋は紅葉と、四季の移ろいを水面に映しつつたゆとい、生徒・学生・教職員のみならず近隣の人びとや訪問者に安らぎと潤いを与えている。校内に池や噴水などの水がある学校は少なくないが、川が流れる学校は稀だ。  武蔵学園の魅力のひとつに23区でありながら校地の自然の美しさが挙げられるが、濯川は大欅とともにその象徴といえる。 ■320年前からの流れーー千川上水中新井分水  濯川という名称は古来よりのものではない。その起源は元禄9(1696)年、5代将軍綱吉の時代まで遡る。この年、綱吉は江戸城以北の飲料水確保の名目で玉川上水を水源とする上水の開削を指示し、現在の武蔵野市と西東京市の境界付近から取水された水は、巣鴨から地中に埋めた木樋を通り、湯島、本郷、白山、外神田、浅草の一帯を潤した。しかし一方で、綱吉の小石川の別荘、湯島聖堂、寛永寺、浅草寺、さらに綱吉が重用した柳沢吉保の下屋敷(六義園)にも大量の導水がなされた。  総距離は22キロメートルに及び、高低差は約40メートル。寛永時のある上野の台地にもサイフォン効果で水をあげる技術が用いられていた。設計は政商の河村瑞軒。開削には仙川村太兵衛、徳兵衛があたった。この二人は後に仙の字を改め千川の姓が与えられ水流の管理も委託された。「千川上水」の名はここからである。   その10年後、それまで天水に頼り幾度も干害に苦しんできた千川上水沿いの20か村から農業用水としての使用が嘆願され、現在の練馬区、豊島区内7か所から分水が引かれた。当時としてはかなり規模の大きい灌漑、Irrigationであり、なんと米田1反歩あたり玄米3升の料金を取っている。この7分水のひとつが中新井分水で、正確には中新井分水は3本あり、その1本が大講堂裏手から武蔵学園内を抜けて東門の先の北新井公園付近から目白通りを横切るように南下して国立中野療養所跡地手前で中新井川に合流していた。 ■命名「濯川」———憂国の詩人、屈原の漢詩から  大正11(1922)年の武蔵開校時には、中新井分水は幅30センチメートルほどの細い流れだった。生徒たちは運動の後に手を洗い、近隣の人びとが野菜を洗ったりもしたと記録にある。その後、武蔵の生徒たちが授業として川幅を広げ、橋を架け、島も築き、大正14(1925)年に山本良吉教頭によって「濯川」と命名された。  出典は、BC4世紀からBC3世紀に活躍した楚の詩人、屈原の以下の詩による。  滄浪之水清兮 可以濯吾纓 滄浪之水濁兮 可以濯吾足 「楚辞」巻七「漁父」  滄浪(そうろう)とは揚子江支流の漢水下流のことで、纓(えい)とは冠の紐の呼称だ。詩の大意は「滄浪の水が澄んでいるなら冠の紐を洗い、もし濁っているのなら自分の足を洗う。すなわち世の清濁に応じて生きよ」である。  屈原は文学的才能のみならず政治にもすぐれ、かつ強力な愛国者であった。しかしできすぎる者は妬みと嫉みの標的になる。屈原は、楚にとって西方の脅威である秦との同盟を思いとどまるよう楚王に進言したこことがきっかけとなり、地方に左遷されてしまう。この詩は、傷心の屈原が、漁父に出会い「潔白にストレートに生きたい」と主張したことに対する漁父の助言に感銘をうけて書かれたものだ。  命名者の山本良吉は昭和3(1928)年の「同窓会報」に次のような一文を寄せている。  「(前略)川の水、時には澄み、時には濁る。丁度われ等の心が時には晴れ、時には曇ると同じく、又人生の運に時には幸があり、時には不幸があると同じである。いづれ二元の間に徘徊するわれ等は、この川が二相を呈するのを咎めむべきでもあるまい。清い時には清きに処し濁った時には濁りに処する。幸が来れば幸を受けん、不幸が来れば不幸を迎へん。この小川が自身の清濁を一向知らず顔に、ゆるゆる、しかも止まずにその流れを続ける如く、われ等もわれ等の道を辿りたい。川沿いの木、今は尚小さいが、他日それが大きくなって、亭々として天を衝くとき、今の諸生が その下逍遙して、想いを今昔の間に回らせば、かならず感にたへないものがあらう。今諸生が見るその水はその頃には流れ流れて、いづこの果に、どうなってあるか考えることもできまい。しかし在る物は永遠に消えぬ。独り水辺 に立って、静かに行末を思ふと、われ等の心は自然に悠遠に引きこまれて行く。・・・・・ 昭和3年8月9日 久雨始めて晴れた朝、 山良生」 ■千年後へのメッセージ、八角井戸、そしてケム川幻想  千川上水は、戦後、近郊農業が減少していくなかで農業用水としての役割を終え、暗渠化して下水道に転用された。濯川も学園60周年記念事業として1985年に蘇生作業が行われ、現在は一の橋から玉の橋の間で循環しており千川とは繋がっていない。上流の水源(地下水)には八角井戸が埋められており、これには武蔵の祐筆として多くの書を遺した矢代素川氏の筆による前述の屈原の詩が記されている。この井戸は平城京跡から出土したもののレプリカで千年の後までも思いを伝えたいという心映えが込められている。  屈原はその後、楚の首都陥落に絶望し汨羅江(べきらこう)に入水するが、彼の詩形はその後の漢詩の源流のひとつになっていく。  校内に川の流れる学校は稀だと冒頭に書いたが、山本良吉は、University of Cambridgeを流れるRiver of Cam(The River Camとも表記。ケンブリッジ大学の校名の由来)のイメージを濯川に対して抱いており、当初は「武高のケム川」と仮称していた。山本は武蔵開校の1年前、欧米を視察した際にケンブリッジを訪問しケム川を舟で周遊しており、ケム川とその周囲の森から幾多の偉人、世界の運命にかかわる人材が輩出されたことへの憧れと尊敬を書き残している。  アカデミズムにとって、豊かな自然環境が教員、書籍、施設、教材などと同様に、いやそれ以前の基本的要件として必要であることを山本は確信していたのだろう。  その豊かな自然をこれまで守り抜いてきたことは、武蔵学園の誇りであることはまちがいない。                                                    (武蔵学園記念室・調査研究員 三澤正男) タイトル写真=紅葉の濯川。中流の欅橋から上流を臨む 写真1枚目=新緑の濯川。中の島付近 写真2枚目=下流の玉の橋周辺の改修作業を行う8期生。1933年撮影 写真3枚目=現在の濯川水源、八角井戸
2022.01.08
武蔵学園史紀伝
武蔵大学図書館のコレクション
イギリス通貨・銀行史コレクションを中心に
武蔵学園の図書館  現在、武蔵学園には、武蔵大学図書館と武蔵高等学校中学校図書館の2つの図書館がある。  図書館の充実を図ることは、旧制武蔵高等学校の以来の方針であり、開学から4年後の1922年の時点で、すでに蔵書数は2万8千冊に及んでいた。ただし、独立した図書館棟の建設については、その計画はあったものの、戦前の鉄材統制の影響などもあって、旧制高等学校の時代には実現をみるに至らなかった。戦後、大学の開学をうけて1951年に、新たに書庫と閲覧室が建設された。そして63年には新たな図書館棟が作られ、81年には現在の大学図書館が新築され、さらに2002年に大学8号館が建設されると、その地下に「洋書プラザ」が設置され、大学図書館に収蔵されていた洋書がここに収められた。大学図書館は大学と高等学校中学校が共同で利用されてきたが、04年に高等学校中学校の図書館棟が建設され利用が開始された。ただし、図書館を学園全体で利用する伝統はその後も続き、大学の学生・教員と高等学校中学校の生徒・教員が2つの図書館を利用するかたちは維持されている。  現在の蔵書数をみると、大学図書館では約65万冊、高等学校中学校では約7万6千冊に及んでおり、充実した内容のものとなっている。  さて、大学や高等学校中学校が図書館を設けて文献資料などを収集・保蔵し、利用の機会を提供する目的はどのよう考えられるだろうか。  いうまでもなく、学生・生徒が、学習に関連した書籍や各自の知的関心に応える文献などを閲覧できる環境を整備することを、その第一にあげることができる。武蔵学園は、旧制高等学校の時代から、「自ら調べ自ら考える力ある人物」の育成を「三理想」のひとつに掲げており、図書館機能の充実はこの理想の実現を支えるものといえる。  他方、各分野の研究に必要な文献資料などを収集・保存することも、図書館の役割である。特に「学術の中心」(教育基本法)とされる大学の図書館の場合、これは、教育と並ぶ基本的な役割であるといえる。そして、これらの資料は当該の図書館を運営する大学などの教員の研究に利用されるだけでなく、利用の便宜を外部にも広く提供し、社会の学術研究の発展に資する役割を担うものでもある。各々の分野の研究に必要な資料は広範囲に及び、また研究分野も多様である。他方、それぞれの図書館が所蔵できる資料の数は限られている。したがって、こうした外部提供の果たす役割は大きいといえる。  現在ではインターネットの普及により各図書館が所蔵する文献資料など検索をすることは容易となった。各大学図書館のOPACと呼ばれる文献検索システムはインターネット上に公開されている。また、国立情報学研究所(NII)が提供するCiNii Booksというデータベースによって、全国の大学図書館などが所蔵する図書・雑誌や雑誌を一括して検索することもできる。しかし、そうした現在においても、ある特定の分野に関する包括的な文献資料などが、ひとつの図書館において所蔵され閲覧できることの便宜は小さくない。各分野の資料にどのようなものがあるかの情報が得やすくなるばかりでなく、多くの資料の閲覧も多数の図書館に赴いたり、多数の図書館から資料を取り寄せたりする場合よりも容易となる。  「何々文庫」とか「何々コレクション」と呼ばれるものは、図書館が所蔵する文献などの資料のうち特定の分野に係るものを取りまとめたものである。そのひとつのタイプは、ある個人などが収集した文献などをもとにしたものである。例えば、一橋大学には「メンガー文庫」がある。これは、『国民経済学原理』などを著し、「限界革命」と呼ばれる1870年代における経済理論の革新の担い手の一人であった著名な経済学者、カール・メンガーが収集した2万冊からなるものである。一方、個人ではなく、古書店などが特定のテーマに係る文献などを集め、これを大学図書館などが所蔵するコレクションもある。  武蔵大学図書館も、こうしたコレクションがある。イギリス通貨・銀行史コレクション、バルザック(水野文庫)コレクション、ラファエル前派コレクション、そして朝田家型紙コレクションがそれである。   武蔵大学図書館のコレクション  これらのうちイギリス通貨・銀行史コレクションについては、最後に多少詳しく述べることとし、まず、それ以外のコレクションをみておこう。  バルザックは、19世紀のフランスを代表する小説家であり、リアリズム文学を確立したと評価される。水野亮氏は、このバルザックの研究者であり、『従妹ベット』、『従兄ポンス』、『「絶対」の探求』など岩波文庫に収められた多くのバルザックの著作の翻訳者としても名高い。水野氏はバルザックに関する多数の文献を収集されていたが、1979年に亡くなったのち、水野氏のもとで学ばれた私市保彦氏(武蔵大学名誉教授)との縁故により、この蔵書が武蔵大学図書館の所蔵するところとなった。79年の受け入れ開始から1年余りをかけて登録整理が行われ、目録が作成された。書籍1440余冊、雑誌論文などの資料約200点からなるバルザック(水野文庫)コレクションが、これである。  ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)とは、19世紀半ばのイギリスで結成された芸術家のグループである。このユニークな名前は、ラファエロ以降の芸術を規範とする当時のアカデミーの在り方を批判し、それに縛られない芸術を目指したことに由来するとされる。そして、このグループは、ルネサンス以前の素朴な芸術の精神の復興を唱え、その影響は、絵画だけでなく文学などの分野に及んだ。武蔵大学図書館のラファエル前派コレクションは、この芸術運動の資料の集成であり、240点の初刊本や書簡を含む328点からなっている。  武蔵大学のコレクションのなかでユニークなものに、朝田家型紙コレクションがある。朝田家は丹後国の宮津藩(現在の京都府宮津市)で、幕末の天保年間から明治30年代にかけて、三代にわたり紺屋(染物屋)を営んでいた。その間に使用・収集された小紋や中形の型紙約3000枚と、幕末期に藍染された小紋の裃1具、および関連文書約250件、図様の彩色見本長3冊が、武蔵大学に寄贈された。これらの資料を預かり受けていた型彫師の増井一平氏の仲介により、本学の丸山伸彦教授を通して、2012年に朝田家より寄贈されたものである。   イギリス通貨・銀行史コレクション  イギリス通貨・銀行史コレクションは、経済学部の金融学科開設と係わりがある。武蔵大学は、1949年に経済学部経済学科のみの単科大学としてスタートした。その後、59年には経済学部に経営学科が増設され、69年には人文学部が開設された。そして92年に経済学部の3つ目の学科として金融学科が開設されることとなった。当時、情報通信技術の発達や金融市場のグローバル化の進展などを背景として、経済分野における金融の役割は拡大し、金融取引の内容も進化していた。こうした状況のもとで、金融現象を総合的に取り扱う金融学科が誕生することとなった。イギリス通貨・銀行史コレクションは、これにあわせて金融関係の図書資料の充実をはかるために、丸善の協力をえて入手したものである。  このコレクションは、個人の蔵書をもとにしたものではなく、イギリスの古書店二社が専門家の協力のもとに5年の歳月をかけて収集した文献からなっている。文献数は1800点余りに達する。刊行年別にみると、1600年代のものが46点、1700年代が282点、1800年代が1,251点、1900年以降のものが627点であり(刊行年不詳のものを除く)、貴重な古書が多く含まれている。  そのタイトルが示すように、この文献コレクションはイギリスの通貨・銀行業に関するものである。主題別にその内容をみると次のようになっている。銀行および通貨の経済理論(205点)、イングランド銀行(92点)、スコットランドおよびアイルランドの銀行業(154点)、地方銀行・民間銀行・株式銀行(66点)、貯蓄銀行(194点)、海外におけるイギリス系銀行業(149点)、銀行業の法令および銀行実務(679点)、イギリス銀行業の歴史および回顧的研究(149点)、通貨・貨幣鋳造・銀行券(123点)、である。このように、このコレクションに収められた文献資料は、広い範囲に及んでいる。  現在でもロンドンは世界の金融センターのひとつであり、金融部門においてイギリスは大きな役割を担っている。ただし、イギリスの通貨制度や銀行制度を研究する意義は、こうした現代におけるイギリスの重要性に照らしてみただけでは十分理解できない。アムステルダムの後をうけて、イギリスはロンドンのシティを中心として、近代的な金融業をいち早く確立させ、その後長く世界の金融中心地の地位にあった。また通貨・銀行に関する理論の発展でもその中心となり、のちに触れるイギリスで行われた地金論争や通貨論争などは、通貨・銀行に関する古典的な論争である。したがって、通貨・銀行業の歴史や理論を研究するうえで、イギリスに関する諸文献の検討は欠かすことができず、年代的にも主題に関しても幅広く文献を収集したこのコレクションの意義は大きい。  ここに収められた文献の全体像を紹介する余裕はないが、代表的なものをいくつかとりあげて簡単に紹介しよう(1)。  そのひとつは、イングランド銀行の設立に関するものである。現在、イギリスの中央銀行であるイングランド銀行は、名誉革命からしばらくたった1694年に設立された。革命以前からイギリス政府は財政難に悩まされており、課税の強化や借入に頼って資金を確保することが困難な状態に陥っていた。イングランド銀行はこの問題を解決するために設立された。そして、同行の設立に際して重要な役割をになった人物が、ウィリアム・パターソンであった。波乱に富んだ経歴を経て、革命後ロンドンに定住し財を築いたこの人物が提案したイングランド銀行の設立案は、「真に実際的で、且つ十分に熟考された最初の計画」(2)であり、これに基づいてイングランド銀行が設立された。イングランド銀行の創設者ともいえる彼が、同行が基礎をおくべき原則を説明する目的で、1694に著した小冊子が、本コレクションに収められているA brief account of the intended Bank of Englandである。なお、イングランド銀行の設立と同時期に、土地銀行設立という別の構想があった。土地所有者から提供される土地抵当を基礎に信用創造を行うというこの企画に関して最も影響力が大きかった人物はH.チェンバレンであり、J.ブリスコウも有力な提唱者であったが、この二人の多くの書作も本コレクションに収められている。このようにイングランド銀行設立期において行われた信用制度に関する議論をみるうえで、本コレクションは重要な資料を提供している。  信用制度をめぐるイギリスの議論に係る文献をもうひとつ紹介しておこう。19世紀の初頭、イギリスは他の国々に先駆けて資本主義経済を確立させたが、1825年以降、信用恐慌を伴う恐慌が周期的に発生することとなった。本コレクションに収められたT.ジョプリンの1832年の論稿、Case for parliamentary inquiry ,into the circumstances of the panicは、銀行業の問題の権威者であったジョプリンが、この1825年恐慌についての検討の必要を説いたものである。  こうしたなかで1836年以降、議会に委員会が設けられ、通貨・信用制度の在り方をめぐる議論が活発に行われた。通貨論争と呼ばれるものが、これである。  19世紀のイギリスにおける通貨・信用制度に関する論争としては、地金論争と通貨論争が重要であり、かつ有名である。このうち、地金論争は、フランスとの戦争を背景として1797年にイングランド銀行がイングランド銀行券の兌換を停止したのちの諸現象-地金価格の上昇や為替相場の下落など―の原因や、兌換再開の是非などについて行われた論争である。地金論争関係の文献も本コレクションに収められているが、それについての説明は割愛し、通貨論争に戻ろう。  通貨論争と呼ばれるこの論争は、1844年のピール条例制定を中心とするイギリス信用制度の展開につながったが、それだけでなく、そこで議論された論点や提唱された理論的主張は、現在に至るまで、姿を変えながら繰り返し現れてきている。現在の日本銀行の量的金融緩和政策については、専門家の間でも評価が分かれているが、1990年代の前半には、岩田・翁論争と呼ばれる論争があった。これは、岩田規久男氏(上智大学教授、当時)と翁邦雄氏(日本銀行調査統計局企画調査課長、当時)との間で行われた論争であって、日本銀行がマネタリーベースを増加させることで物価を上昇させるという政策の実行可能性や妥当性が問題とされた。もちろん、当時、あるいは現在の日本と、19世紀半ばのイギリスとでは、状況も異なり、論争の争点も同じではない。しかし、中央銀行が通貨量を管理することができるか否かや、それが有効な問題解決手段となりうるか否かが基本的な論点となっている点では、現代のこの論争も通貨論争と共通しているといえる。  通貨論争の参加者は、通貨学派と銀行学派に大別される。このうち通貨学派の人々は、恐慌が発生するのは、銀行券が過剰に発行されるためだと考え、銀行券の発行高をイングランド銀行の金準備の大きさと厳密に結びつけることで、恐慌は回避または緩和できると主張した。他方、銀行学派の人々は、銀行券の過剰発行が恐慌の原因であるとする説を退け、また銀行券の発行額は取引の必要に応じて受動的に決まるなどと論じた。  このような両派のうち通貨学派を代表する論者のひとりが、サミュエル・ジョーンズ・ロイド(オヴァーストーン卿)である。イギリス通貨・銀行史コレクションには、ロイドの著作が複数収められている。そのなかには、イングランド銀行を発券部と銀行部の二部門に分割すべきこと―これは、ピール条例で実現される―を論じた珍しい私刊本、Thoughts on the separation of the departments in the Bank of England(1840年)も含まれている。通貨学派の論客としては、ロイド以外にも、G.W.ノーマンやR.トレンズなどがよく知られているが、両者の論稿も本コレクションに複数収められている。他方、銀行学派に属する人物の文献としては、T.トゥックの著作、A history of prices, and of the circulation, from 1793 to 1837をあげるべきだろう。この『物価史』は、たんに通貨論争に係る文献というだけでなく、事実による根拠を丹念に示しながら、イギリスの物価変動について詳細に論じた名著である。そしてこの大著の翻訳は、武蔵大学で長く教鞭をとられ、名誉教授となられた藤塚知義氏によって行われた。本コレクションには、1838年に刊行されたその第1巻と第2巻が収められている。   注: (1) 藤塚知義「イギリス銀行業・通貨制度の文献コレクション」(『学燈』Vol.89,No.3 1992年〔『イギリス銀行制度の展開 武蔵大学金融学科開設記念蔵書展 展示資料解説』に転載〕、および吉田暁「現代の観点からみるイギリスの銀行・通貨史」(同『展示資料解説』所収)参照。 (2) A.アンドレァデス『イングランド銀行史』(町田義一郎・吉田啓一共訳 日本評論社 1971年)」77頁。パターソンおよびイングランド銀行の設立に関しては、同書を参照。
 
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