↑ 相浦忠雄肖像:武蔵高等学校在学中
↑ 相浦忠雄肖像:海軍主計大尉時代
はじめに
『武蔵七十年史』によれば、旧制武蔵高等学校の第二次世界大戦の戦没者は、教員(助手)3名、配属将校2名、卒業生52名を数えている。この数は、正式に戦死公報の来た者であるとのことなので、戦病死、戦災死、収容所内での死亡、徴用中の事故死等を加えた広義の戦没者はもう少し多いかも知れない。
これらの人々が、武蔵に居る頃、そして戦場に出て何を考え、どのように死んでいったかは、今となっては殆ど知るよしもない。が、その中で、遺稿集が編纂され、生前の考えが比較的よく分かり、さらに戦死のありさまについても十分の情報がある一人の卒業生をここに紹介することにしたい。
1. 相浦忠雄の略歴
相浦忠雄(11期文)は、1919(大正8)年11月23日、福岡県田川郡上野村の赤池炭鉱社宅に生まれた。赤池炭鉱は明治鉱業株式会社の経営で、相浦の父鼎五はその社員であったようだ。
忠雄の命名は、父の友人矢内原忠雄にあやかったものとされている。
1926(大正15)年、戸畑私立明治小学校入学、翌年父の転勤に伴い上野村市場小学校に転校。
1932(昭和7)年、市場小学校を卒業、上京して武蔵高等学校尋常科に入学。
1936(昭和11)年、武蔵高等学校高等科文科甲類に進む。
1937(昭和12)年、級友宮澤喜一と共に外遊生に選ばれる。旅行先は当初中国内地の予定であったが、日華事変勃発のため、朝鮮、満州となった。(現在武蔵学園記念室には、その時のレポートが残されている)
1939(昭和14)年、東京帝国大学法学部法律学科(英法)に入学。同年夏、日米学生会議日本代表団の一員として渡米。
1941(昭和16)年、外交官及び行政官高等文官試験に合格。同年12月25日、太平洋戦争勃発のため東京帝国大学を繰り上げ卒業。
1942(昭和17)年1月6日、商工省事務官に任官。燃料局に配属。同年1月20日、海軍短期現役主計科士官を志願し採用。海軍経理学校第8期補修科学生として入校。海軍主計中尉に任官。
同年5月16日、カトリックの洗礼を受ける。同年5月20日、海軍経理学校を卒業し海軍省人事局第1課に配属。
1943(昭和18)年2月、海軍経理学校補修科庶務主任、ついで分隊士。
1944(昭和19)年3月、航空母艦雲鷹主計長。雲鷹は同年8月7日、船団を護衛しシンガポールに向け出撃。同年9月17日、船団護衛の帰途南支那海にて、米潜水艦に雷撃され、沈没。
雲鷹沈没に際し、相浦は艦橋にあって配置についたまま生還しなかった。
享年24歳10ヶ月であった(*1)。
2. 相浦忠雄遺稿集
『相浦忠雄遺稿集』は、1950(昭和25)年9月、彼