Musashi
武 蔵 が 生 ま れ て 9 9 年 た っ た
99 YEARS HAVE PASSED SINCE MUSASHI WAS BORN
Days to 100th Anniversary
?
Days to Go
INFORMATION
サイト内「武蔵写真館」をリニューアルいたします!
本サイト内の「武蔵写真館」はこれまで、「人物」・「施設」・「武蔵の自然」・「学生・生徒」・「行事」・「江古田の街」の6つでカテゴリーを分類して、それぞれのカテゴリーを選択いただくと、一覧形式でサムネイルを表示し、ご覧になりたい写真の個所をクリックいただくと画像が表示される、というスタイルを取っていました。 上記のスタイルで、2020年12月末の時点で約980枚の写真を掲載しておりましたが、掲載枚数が増加するにつれて、画面のスクロールにかなり時間と手間を要する(とくに、スマートフォンや、画面の小さいタブレットを使用するとき)、というご意見が寄せられるようになりました。 そのようなご意見にお応えしまして今回、以下のような閲覧システムを構築いたしました。 (1)写真を一様に配列するのではなく、テーマごとに「ギャラリー」を設定し、それぞれが20~30枚程度の写真を含む。 (2)掲載予定の全枚数は、現時点で約1,700枚を予定し、この分量に見合ったギャラリー数として、約80~100を予定する。 (3)閲覧をご希望のギャラリーを一つ選択すると、そのギャラリーに該当する写真のサムネイルが表示される。ご覧になりたい写真の個所をクリックいただくと画像が表示される (4)2021年2月から、毎週3つ程度のギャラリーを公開してゆき、2021年夏ごろにはすべてのギャラリー(1922年の旧制武蔵高等学校創立前後から、100年にわたる学園のあゆみ)を掲載することを予定する。 これに加えて、後日、検索機能を実装して、キーワードや時代による検索を可能とすることを計画しています。 従来同様に、写真館の写真や説明についてのご質問やご指摘などありましたら、各写真のコメントボタンからお願いいたします。 また、ご提供可能な写真がございましたら、そちらもコメントでご連絡いただきたく、お願い申し上げます(僭越ながら、掲載・不掲載の決定については、学園記念室にて判断させていただきます)。 2021年2月1日 武蔵学園記念室
NEWS & TOPICS
2021.05.20
武蔵今昔物語
【追悼】風わたる草原に座る人のいなくなった椅子がひとつ
武蔵百年史と有馬朗人学園長
創立百周年を見届けることなく     有馬朗人学園長が2020年12月6日、白玉楼中の人となられた。その年の9月に、満で卒寿を迎えられたばかりだった。  筆者が有馬学園長に直接拝眉したのは学園記念室長を定年で退任するまえの2018年1月が最後だが、非常勤の研究員になってからも登室日の朝、有馬先生が登校されるところによく出会った。   有馬先生は正門を入ってすぐに学園長車を降りられ、少し背をかがめて杖もおつかいにならずゆっくりと学園長室のある8号館まで歩いていかれるのが常だった。おひとりでおつきの方もつけず、車を8号館に横付けすることはなかった。学園長車はそのまま右折して守衛室横の駐車場に向かった。学園内での自動車の移動を最小限にしたいという先生のお心遣いだったと想像する。たまにタイミングがあったとき「学園長、おはようございます」とごあいさつすると、先生は「はい、おはよう」とにっこり微笑まれた。  2022年に武蔵は創立百周年をむかえる。有馬先生は、そのときもお元気で学園長をされていると筆者は無邪気に思い込んでいた。すべての学園関係者もおなじ思いだったろう。毎年の新年の会のごあいさつ、大学、高中の卒業式、入学式での祝辞はいつも凛として、きびしくも愛情に満ちていた。齢をかさねられるごとにみずみずしくなられるのは驚異的だった。  創立百周年を機に「武蔵正史」を刊行することは、太田博太郎学園長時代の30年以上まえから決まっており、筆者は学園記念室長時代に「武蔵学園百年史刊行準備委員会」、さらに「同刊行委員会」とその作業部会の立ちあげを行った。これらの委員は大学、高中の教員、法人の職員から選ばれるが、規程上、学園長から委嘱するかたちになっている。  そのためにアポイントメントをとり、何回か有馬先生にご相談し、助言をいただいた。学園長室を予定の時刻にたずねると、有馬先生はうずたかく積まれた資料や書籍に囲まれていて、小柄な先生はお顔しかみえなかった。秘書の方が「記念室長がおみえです」と伝えると、先生は資料のなかから「やあやあ、ごくろうさん」と気さくに登場され、「ここは狭いから、広いところへ行きましょう」と、ふたりだけの打ち合わせなのに、大きな部屋に自ら案内してくださった。  資料をお渡しし準備状況を報告して、委嘱に関するお願いをすると、有馬先生は少年のように好奇心いっぱいに眼を輝かせ、筆者の整理されていない話を熱心に聴いてくださった。そして、いただいたご質問はすべて簡潔明瞭かつ正鵠を射ていた。最後に有馬先生から、「たいへんなお仕事でしょうがよろしくお願いします」と激励をいただいた。そして、「学園史は過去に起こったこと、現在のことを記述するのは当然ですが、回想に終わることなく、また旧制高校のノスタルジーに惹かれ過ぎることなく、次の50年への示唆、教育の未来に向けた発信にしていただきたい」と結ばれた。このときは、少年から研究者の鋭い眼になられ、筆者は心のなかで後退りをした。そして、多方面ですばらしい業績をのこされている方なのに、わけへだてのない対応をされる先生に、「ほんとうにえらい人とは、こういう人なのだ」と学んだ。 研究者、政治家、教育者、俳人としてーー「三理想」を体現された90年の旅  有馬先生は1930年、大阪のご出身だが、その後は銚子、浜松で過ごされ、県立浜松第一中学(現・県立浜松北高等学校)を卒業された。武蔵には高等科から入り旧制時代の終わり、22期(1950年)のご卒業だ。東京大学理学部物理学科に進まれ、同大学院で原子核物理学を研究、28歳で理学博士号を取得された。  その後、東京大学教授、ラトガーズ大学教授、ニューヨーク州立大学教授などを経て1989年東京大学総⻑。1993年理化学研究所理事⻑。1998年には参議院議員となり文部大臣、科学技術庁長官を歴任された。2006年4月に武蔵学園⻑に就任され、亡くなられるまで現職だった。また、公立大学法人静岡文化芸術大学院の創立者でもあり、理事長をされていたので毎週静岡にも行かれていた。  有馬先生は俳人でもあり、16歳で「ホトトギス」に入選して以来、俳句でも多くの賞をうけられているが、2018年には句界の最高賞と言われる蛇笏賞を受賞された。先生はご両親も俳人であり、ひろこ夫人も俳人だ。夫人に先立たれてからはおひとりなので関係者は案じていたのだが……。   2020年秋、武蔵高校卒業生の俳句をたしなむ有志が「武蔵俳句会」を立ちあげ、有馬先生に顧問と指導をお願いしたところご快諾をいただいた。12月1日には第1回の句会がオンラインで開催され、先生も参加されてとてもお元気そうだったという。筆者もその句会の案内を頂戴していたが、自分の句などはお目汚し、お耳汚しだと遠慮してしまった。いまではとても後悔している。  とらわれのない多様な表現と豊かな詩情は有馬先生の句の魅力だ。先生は「ホトトギス」同人の山口青邨に師事されたが、鉱山学者でもあった師と同様に科学者としての目線も感じられる作品も多い。  櫟なほ芽吹かざれども雲は春 朗人  福田泰二元校長によると、この句は1947年4月22日の夕刻か翌日に詠まれた作品で、有馬先生が旧制武蔵高校高等科の編入試験に合格され、その喜びと未来への期待をクヌギの巨木を見上げて詠まれた句だと、先生ご自身から伺ったとのことだ。この編入試験の志願者は1,000名強、合格者は45名だった。  爽やかに回り舞台の一変す 朗人  有馬先生の逝去は、あまりに突然だっため、ご自身が「辞世」として詠んだ句はない。先生は1990年から「天為俳句会」を主宰されているが、上記の句は同会のウェブサイトに有馬先生の2020年12月の句として掲載されている作品だ。「無季の句」であるが、なにか暗示的ではないだろうか。 お別れの会のしおりから ーー根津理事長、五神前東京大学総長の弔文  現職学園長の急逝に、学園関係のみならず有馬先生が関わられた多くの組織に連なる人びとが、悲しみをこえて前に進むためにはセレモニーが必要だった。 Covid-19の感染拡大のなか、武蔵学園、東京大学、理化学研究所の共催により、4月23日、帝国ホテルにて「「有馬朗人先生お別れの会」が執りおこなわれた。感染防止のため、参加は事前予約制、さらに参加時間もグループことに指定して、献花だけを行った。したがって、弔辞などのあいさつはなく、800名におよぶ参加者は献花のあとは別室に展示された有馬先生の業績やあゆみを語るパネルや資料で先生との思い出を偲んだ。  また参加者には、先生の略歴、受賞歴、折々の俳句が掲載された「しおり」が配布されだ。これに寄せられた根津公一学校法人根津育英会武蔵学園理事長(高校43期)、五神真前東京大学総長(高校50期)の弔文を、許可を得て転載する。                                ※  根津公一理事長ーー私が根津育英会理事長、有馬先生が武蔵学園長に就任したのは、2006年4月のことでした。就任早々有馬先生は私に、「初代根津嘉一郎が、どのような思いで、またどのように旧制武蔵高等学校をつくっていったのかを調べるように」との宿題を与えられました。調べた結果いくつか分かったのは、先ず初代根津嘉一郎の育英報国という動機。そして創立者が一人の思いで学校を創るのではなく、周囲に、当時日本の教育や政治にたずさわる超一流のブレーン達がいて、その人々の活発な議論の中から新しい学校が創られていったということでした。  そのとき私が思ったことは、初代根津嘉一郎を囲んだ多くのブレーン達の役割を、一世紀後の今日、有馬先生はひとりで果たしてくださっているのだと言うことでした。「天は二物を与えず」という俚諺がありますが、時として天は特定の人物にだけ、二物はおろかいくつもの才を与えることがあります。有馬先生はそういう方でした。今指を折って数えるだけでも、物理学者、教育者、学校の運営者、政治家、行政官、俳人等々そのどれをとっても、この国の、あるいは世界の最高級の才を、天は有馬先生一人に与えられたのです。気さくでひょうひょうとした日々の先生のたたずまいのどこから、あのきらびやかな才が閃くのか、まことに驚嘆する思いでした。  最晩年の有馬先生が、とくに心に掛けられていたのは、「東西文化融合」の思いでした。西欧近代文明と、その対極にあって漸く力をつけて来ている、中国、イスラムなどの東洋諸国との軋轢が先生の問題意識でした。そして、日本は古い東洋文化の一員でありながら、西洋の主導する近代文明とも価値観を共有することの出来る国として、これからの歴史の中で、両者の架け橋にならなければならない、というのが先生の持論でした。  武蔵学園は来年創立百周年を迎えます。その百周年を超えてどのような事業をしていくのか、それを議論している最中に、議論の中心であった有馬先生を突然喪ったことへの痛恨は大きいものですが、残された私たちは、これからも有馬先生の遺志を酌んで、将来「東西の架け橋」としての役割を果たす若い人々を育てる武蔵学園を創っていくことを誓います。  有馬先生の偉業に対し、心から尊敬と感謝を捧げ、謹んで御冥福をお祈り申し上げます。   五神真前東大総長ーー私が最後に有馬先生にお会いしたのは、昨2020年10月30日、先生が会長を務める東京大学地域同窓会連合会の会合でした。いつものはりのある声で、お変わりなく元気そのものでした。卒寿を過ぎてなお矍鑠たる有馬先生のお姿を見て、100歳までのご活躍を信じておりましたが、その僅か1月後に突然の訃報に接したのです。東京大学を長く精神的に支えて下さった巨星を不意に失い、大きな喪失感に襲われています。  有馬先生は、私の武蔵高校の先輩であり、東京大学理学部物理学科の先輩でありました。旧制と新制の違いこそあれ、武蔵高校では同じく、受験教育と距離を置き「自ら調べ自ら考える」ことの大切さと、リベラル・アーツを尊重する精神を学びました。  有馬先生は、配位混合理論や相互作用するボゾン模型など原子核理論の業績で世界的に知られ、文化勲章を始め国内外の栄誉を多数受けられました。原子核は多数の粒子が強く相互作用している難解な多体量子システムですが、対称性などの数理を駆使した先生の見事な理論によって、原子核はその美しい姿を際立たせました。一方で、現在の計算科学の先駆けとなる、原子核の量子構造の大型数値計算を創始されました。それは、お弟子さん達に引き継がれ、最先端計算科学を駆使して、先生の先見性が見事に証明されています。また、東京大学大型計算機センター長時代には、国産の大型計算機技術を堰合に示す事にも尽力されました。  2015年4月に私は東京大学総長に就任し、有馬元総長の後輩となったのですが、大学改革に対する先生の信念と行動力は、いつも私の手本でした。1990年代初頭の大学院重点化と教養学部改革という、よく知られたふたつの大改革の他にも、有馬総長は情報公開の推進、外部評価の導入、寄付講座の創設などを進められました。どれも常識を超えた大胆な改革で風当たりが強いものもありましたが、30年後の今、当たり前のこととなっています。批判に怯まず、将来を見通し、必要な改革は断行するという有馬先生の姿勢は、総長のあるべき姿を示すものでした。  私が総長となって2年たった頃に、東大の広報誌『淡青』での対談で、有馬先生は次のように発言されました。  「五神総長はよく頑張っていると感心していますよ。私も物理教室の出身ですが、理論屋だから屁理屈で終わってしまうことが多い。でも五神総長はきちんと実行もしますね。実験をやる人だったからかな。私を他山の石としてしっかりやってくれてありがとう」  私の総長在任中で、最も嬉しい言葉でした。有馬先生から、私の6年間の総長任期を終えたときの評価を伺うのを楽しみにしておりましたが、もはや叶いません。東京大学のさらなる発展を天国から見守って下さるようお願いするとともに、有馬先生のご冥福を心からお祈りいたします。                                ※  無月なり世のほころびをかくさんと  朗人  これは先生が「天為俳句会」に寄せた昨年12月の作品のなかの一句だ。有馬先生か旅立たれてからまもなく半年がたとうとしているが、Covid-19の感染収束の光は未だ見えず、社会のあらゆる局面に混乱が生じている。その歪みがもたらす変容は経済のみならずモラルにまで及びつつある。有馬先生は現在の日本と世界の状況を座標のない空間からどのようにご覧になっているのだろうか。  風わたる草原に置かれた椅子がひとつ、かつてここに座っていた人をいまもまっている。                                      (2021年5月記)                                         三澤正男(武蔵学園記念室調査研究員・前学園記念室長:高校45期)  写真上 1950年3月、武蔵高等学校22期理科の卒業式にて(現時点で有馬先生を特定できていない) 写真中 2018年春、武蔵学園の樹木のに名札をつける活動をされたとき、学生たちに語りかける有馬先生  写真下 2021年4月23日、帝国ホテル2階「孔雀の間」で執りおこなわれた「有馬朗人先生お別れの会」の祭壇
2021.10.11
武蔵学園史紀伝
山本良吉「と」武蔵高等学校
はじめに  「武蔵」とは何か?「自由の校風」とは何か? そもそも「自由」とは何ぞや? 早熟で少しばかり生意気な少年たちが、いつもの馬鹿話にも飽きると、ふと真剣な顔つきになって、差し込む木漏れ日に輝く「すすぎ川」を横眼に、青臭い議論を交わしながら校門を出ていく。そんな風景がいつから見られたのか、また今も残っているのかは分からない。だが確かに言えるのは、「古い男児たちOB」はしばしば、この種の話題を何時間でも語りたがるということである。キャンパスの門を出て幾星霜、時には世間の荒波を逃れ、今や失われた「変わり者たちの楽園」に浸る日があってもよかろう。しかしながら、我々がここでなすべき仕事は、そうした内向きの郷愁を無批判に再生産することではなく、冒頭の問いを可能にする武蔵学園という「場」を創った人間とその理念について、内と外をつなげる視点から動態的に捉え直すことである。  「武蔵の精神」なるものを問うとき、山本良吉(1871~1942)という巨像を避けては通れない。山本は石川県に生まれ、東京帝国大学文科大学を卒業した後は、倫理学の研究や教育学に関する評論をこなしつつ、京都帝国大学や第三高等学校、学習院で教鞭をとる。理論・実践の両面で中等・高等教育界で名を馳せた山本は、旧制武蔵高等学校の創設から20年間(1922~42)、その死に至るまで、初代教頭・第3代校長を勤め上げた。危機の時代に一つの理念を貫いた学校経営者・教育者としてのあり方は、「気骨あふれる教育者」(黒澤英典)、「仰げばいよいよ高い先生の御人格」(相原良一)と肯定的に語られる一方、「フューラー・システム」の牽引者(日下晃)、「閉鎖的な教育空間を作る方向に傾いていった」、(兵頭高夫)「ワンマン校長/教頭」「民族主義・国家主義的」(大坪秀二)と批判されることも多い*1。山本の評伝を著した上田久の言葉を借りれば「先生のように教え子の間での毀誉褒貶の激しい方も少ない」*2。  没後の語りをめぐる闘争は山本という存在の大きさとその多面性を如実に示している。だが、我々がここで注意すべきは、この偉大な「建学の父founding father」をめぐる対抗的な言説は、そのほとんどが学園関係者によるものであるため、「様々な評価はあれども山本先生は一つの礎を築いた」という楽観的(また擬似弁証法的)な結論を導きがちだということである。これはややもすれば、山本(像)の語りnarrativeを収束・単一化させ、学園史の叙述を閉鎖的なものにする危険をもつ。だが我々が『百年史』において目指すのは、内外の読み手と未来の書き手に開かれた、批判的かつ多元的な学園史である*3。  本学園史は「編年体」と「紀伝体」の二つの歴史叙述から成り立っているが、この「紀伝」に与えられた役割とは何か。それは、ある人間とその中心的テーマとの「と」を考え抜くこと、ここでは山本良吉「と」武蔵学園を、学園関係者による言説の網の目の外側から検討するということである。山本はいくつもの官立・私立学校で教鞭を執り、同時代には教育・倫理学者として多くの言論活動で知られた人物であり、必ずしも武蔵学園にだけ関わったのではない。とすれば、両者を結ぶ「と」を前もって当然視するのではなく、この「と」が19世紀後半から20世紀前半にかけて歴史的世界に結ばれた偶然的かつ運命的な糸であったということに注目せねばならない。本論では、そこから生まれる山本の課題を捉えた上で、戦前・戦中期の「武蔵の精神」を新たな視点から論じていきたい。  結論から言えば、山本が教育者として生涯抱きつづけた目標は、西欧的近代の文明を吸収しながら日本独自の伝統を守りつつ、世界に冠たる「民族文化」を建設することであった。「万世一系」の皇室を崇拝し、伝統的な家族道徳の上に「國體」を繁栄させていくここそ、国民全員の生きる意味である。旧制武蔵が当時の水準からすれば生徒の自主的な学びを重視したことは確かだが、その目的は日本帝国に最も忠実な「臣民」の育成であったこともまた無視してはならない。無論、ある時期に流行ったように、〈ここ・いまhinc et nunc〉の立場から山本の「政治的責任」を大上段に難じることは容易い。しかし、我々は彼自身が残したテキスト=痕跡に寄り添うことで、山本「と」武蔵の生成変化の過程を追うという歴史学的な手法を取る。とはいえ、山本の活動範囲の広さや残存テキストの多さを考えれば、あらゆる論点を限られた紙面で扱うことはできない。  そこで我々は、山本と大日本帝国(1868~1945)が生死をほぼ同じくしていることに着目する。日本帝国は山本「と」武蔵にとっていかなる意義をもったのか、また戦後も含めてそれはどのように機能したのか。これが本論が掲げる大きな問いである。以下ではその解決のために問題を切り分ける。まずは議論の前提として、前半生(1910年代まで)の軌跡を踏まえつつ、山本が明治国家の発展を経ながらいかに問題意識を形成していったかを確認する。次に第一次世界大戦後、日本帝国が転換期を迎えるなか、山本の思想がいかに具体化されていったかを、そのヨーロッパ滞在経験(1920~21年)を軸に論じる。そして明治が遠くなるなか、山本は自ら築き上げた明治人としての歴史観を武蔵の教育でどのように実践したかを詳しく検討する。最後に日本帝国と山本の精神が戦後も長く残りつづける点に注目し、山本の名がいかに語り継がれたかを学園関係者たちの声から考察する。 1.山本良吉と日本帝国の発展(1871~1917)  山本良吉は、1871(明治4)年10月10日、加賀藩下級藩士であった金田清三郎基之(もとゆき)の三男として、金沢・鶴間谷に生まれた。同年8月に始まった廃藩置県により、旧武士の生活基盤は藩による俸禄から新政府による金禄へと変わり、5年後には秩禄処分でそれも廃止されてしまう。生活の糧を失った多くの士族の例に漏れず、父・基之もまた米穀商を営み、母・直(なお)は木綿織の内職をして一家の生計を支えた。だが、まもなく長兄・孝三郎を水死事故で失うと、金田家は深い悲嘆に暮れる。越中町に移ってからは父母ともに定職を得ることができず、一家は日々の生活にも事欠くようになる。だが貧しさのなかでも父母は残された子供たちに教育を施すことを諦めず、良吉は1878年には小学校へ、84年には石川県専門学校へと入学した*4。  石川県専門学校は、その後の一生を左右する決定的な経験と出会いを良吉に与える。本校は、4年の予備科と3年の専門部からなる7年制の中等教育機関であり、1886年に設置されたばかりの(東京)帝国大学への進学を目指すところであった。そもそも加賀藩には学問や文化を重んじる雰囲気が強かったが、制度や人材の面で藩校・明倫館の系譜を引いていた本校は明治10~20年代、金沢の知識人ネットワーク(三宅雪嶺・高峰譲吉・清水澄・泉鏡花・徳田秋聲など)を形成し、近代日本精神史にも無視できない影響をもたらす。そのネットワークの中心には、少年時代の良吉が、鈴木大拙・藤岡作太郎・西田幾多郎と結んだ固い友情があった。彼らは文芸誌を作り、互いに書簡を交わし、文学や哲学、天下国家を語り合った。後年、教育・宗教・国文学・哲学の各方面で指導的地位を占めるようになってからも彼らの友情は変わることはなかったという(ただし藤岡は1910年に早逝)。さらに重要なのは、師・北條時敬(ときゆき)との出会いである。優等生だった良吉は唯一、数学を不得手としていたが、北條の丁寧な手ほどきのおかげで「十点か二十点くらい」だったのが「七十五点位取る力はついた」*5。加えて北條は、その高潔な人格によって一人の数学教師を越えて良吉や西田の永遠の師となった6。金沢で育まれた師弟・友情関係は、後に見るように武蔵学園創設の欠かせない伏線をなしていく。  しかし、学び舎での暖かい日々にはやがて終止符が打たれる。1887年、前年の教育令改正に伴い、石川県専門学校が廃止され、新たに第四高等中学校(四高)が設置された。中央集権的な教育を全国に広めようと目指す政府は、薩摩閥の教員を数多く金沢に送り込み、さらに加賀藩出身の教員を更迭したために、校風は一変する。かつての土着的で自由な雰囲気は失われ、校内は上からの規則ずくめとなり、教員の学力水準は落ちたという。試験を突破したにもかかわらず、新設校への期待を裏切られた良吉たちは、教師への抵抗を繰り返し、新方針に異を唱えて既に教壇を去っていた北條のあとを追うように、1889年に四高を退学した(翌年に西田も退学)。  四高退学後の良吉は、東京での学びを経て、教育者としてのキャリアを歩みはじめる。1892年、県内中学校での僅かな勤務を終えると、東京帝国大学法科大学に進学する。正規の進学ルートを経ねばならない本科生にはなれず、既に帝大で学んでいた西田と同じく、大学では選科生として様々な面で差別的な待遇を受けねばならなかった。そうしたなかで良吉は、西田と励まし合いながら学業をつづけ、政治学から教育学へと転向する。在学中にはルソーの教育思想を研究し、その成果を『教育時論』などの雑誌に発表することで、教育評論家としての第一歩を踏み出した。この間、故郷の山本家の養子となり、金田良吉は山本良吉となったが、実母・直への深い愛情はやがて訪れる離別(1896年)を経ても一生変わることはなかった。「不肖の身、吾母のなくては何をかなし得ん、憐みて教え祐け給へよ吾母、最も慈悲ありながら最も不幸なりし吾母、アゝ吾母」と追悼文を結んでいる*7。  山本は1895年に文科大学選科を修了してから、東京を離れること20年以上、京都府立尋常中学校、静岡県尋常中学校、京都府立第二中学校、京都帝国大学、第三高等学校に奉職する。この時期の山本は、主に舎監として寄宿舎学生の教育に長年、携わったこともあり、単なる知識の伝達ではない全人教育として、倫理・道徳教育がいかに重要であるかを自覚し、『倫理学史』(1897年)や『実践倫理要義』(1900年)、『中学修身教科書』(1909年)を出版した。言論人としては、『教育時論』だけでなく、国粋主義系の評論団体であった政教社(中心人物として同郷の三宅雪嶺など)の『日本人』や東京青年会YMCAの『六合雑誌』といった雑誌に教育の専門家として数多くの記事を残している*8。  山本の前半生は、明治国家体制の目まぐるしい発展とともにあった。彼はこの日本の変転を同時代人としてどのように捉えていたのか。山本が1899年に発表した論説「明治の三世」*9によれば、歴史の展開を人間の発達段階になぞらえ、いかなる国も幼児期は視野が狭くて夜郎自大に陥るが、広い世界で見識を深めるなかで、次第に自らの客観的な位置を理解できるようになる。そこでは徳川期からの日本の歴史は、「日本主義」と「西洋主義」の入れ替わりで展開する。まず、維新以前は根拠もなしに自らを天下唯一の神国、外国を野蛮国と見なす「日本主義」の思想があった。その後の明治の30年については、ヘーゲル的な弁証法が念頭に置かれつつ、最初の20年余は、文明開化の名の下に見境なく西洋の文物を受容しようという「是提」(正These)が続くが、その後の10年間はこの潮流に抗し、日本独自の歴史と生活を守るべきとする「国粋」主義が「反提」(反Antithese)として盛り上がる*10。しかし日清戦争の勝利後、日本が清と同等の存在として認められ、自らは西洋諸国と対等に渡り合えるかどうかを自問する段階に入ると、急進的な反西洋主義も成り立たない。そこで山本は、日本主義と西洋主義を高次で綜合する「合提」(合Synthese)、つまり「一方に於ては日本の社会的生活を認め、同時に其短処をも認め、之を長処ある西洋主義によりて改め、此社会をして円満の発達をなさしめんとする」時代、従来とは異なった「高尚なる日本主義の時代」に我々は立っていると論じる*11。この西洋の良い点からは学びつつも日本独自の精神こそが最も重要であるという立場は、その後もずっと山本の思想と実践の全てを貫くことになる。  この明治30年余の回顧が示すように、山本は西洋的近代に対峙するジレンマのなかで思索した。攘夷と開国、あるいは欧化と国粋の狭間で、日本人はいかにして「国のかたち/憲法constitution」を作るべきか、そのために国民一人ひとりは何をなすべきか。だが、こうした問題意識は、それ自体としては明治初頭生まれの知識人の誰もが抱いた典型的なものである。またこの時代の山本は、社会を進歩させ、「高尚なる日本主義」を実現させるは社会運動家と学校教師であると説く一方、その論点や方法については、教師として勉学と道徳の向上に努めるべしと主張するのみで、抽象論と具体論をうまく結びつけられていない*12。だが、武蔵「と」のつながりを扱う本論が追うべきは、理論の人というよりは実践の人としての山本である。別稿にあるように「もと人心内にあるを道徳と云ひ、之が外に実際に現はれたるを社会と云ふ」以上、社会の進歩は「知行合一」によってのみ実現されるということこそ、彼の生涯変わらないもう一つの立場であったのだ*13。  明治から大正へと時代が変わるなか、山本はいかに自らの課題を深めていったのか。 2.山本良吉と日本帝国の転換(1917~22) (1) 学習院での経験と人脈  1917~18年は、世界史の一大転換点であった。1914年8月に勃発した第一次世界大戦は、ヨーロッパ全土を、やがて中東・アフリカ・アジア諸国を戦火に包み込んだ。日本は協商(連合)国側で参戦し、極東での対独戦争を有利に進める。だが1917年の十月革命は、総力戦で疲弊した各国での共産主義革命を惹起し、ロシア・ドイツ・オーストリア=ハンガリー・オスマンの諸帝国を崩壊させた。列強上層部は戦争継続よりも革命阻止を深刻視するようになり、ロシア内戦への共同軍事介入を開始し、日本も列強最大の兵力を提供した。しかし、最終的には7年も続くシベリア出兵は、軍事・外交的な失策を招いたばかりか、国内の経済・社会に過大な負担を強いた。1918年の全国的な暴動(米騒動)は寺内正毅内閣を総辞職に追い込む。大戦後の日本は、山東省や南洋諸島の利権と国際連盟常任理事国の座を手にする一方、国内社会の大混乱によって天皇を戴く国家体制から崩壊する恐怖を味わった。大政奉還から50年目の日本帝国は厳しい転換期を迎えていた。  1918年は山本の人生にとっても転機の年であった。前年8月、文部大臣・岡田良平は、東北帝国大学総長の座にあった北條時敬に、学習院院長への就任を懇願し、紆余曲折を経て北條はこれを承諾した。学習院は皇族・華族の子弟教育を目的とする宮内省直轄の学校であったため、少ない例外をのぞき、乃木希典といった陸軍将官の院長のもと、厳しい質実剛健の気風が貫かれていた。それを踏まえれば異例の人事とも言える北條の登用の裏には、教育の近代化の遅れや学生の風紀弛緩といった問題を解決したいという宮中・文部行政の意図があったのかもしれない。北條は岡田の親友であったし、四高退任後、全国の高等学校で経験を積み、中央からの信任も厚かったからである。北條は早速、自らの教え子たちを東京に呼び寄せたが、学校改革の右腕として最も期待したのが山本であった。当時、京都帝大学生監として活躍していた山本はその地位を惜しみつつも、恩師の願いに応えることを選ぶ。1918年3月に学習院教授に就任してからは、寮長として厳格な学生指導に、教授として哲学・修身教育に尽力することで、北條の学校改革を最大限、補佐した。しかし、皇族・華族以外にも開かれた高度な教育機関を目指すという北條の路線は、学内で多くの反発を招き、1920年4月には北條は辞職、山本は休職を命じられた*14。  北條体制下の学習院は短期ではあったが、ここでの人的ネットワークは興味深い。例えば、北條と岡田良平、その次弟の一木喜徳郎、学習院評議会会員でもあった山川健次郎(1916年)らは、いずれも第一高等学校や京都帝大、文部省で重要なポストを歴任し、貴族院議員や枢密顧問官を務めている。この4人は岡田を筆頭に1917年8月に発足した「臨時教育会議」の中心メンバーであったことに注意しよう。これは、日露戦争期から続く深刻な社会の疲弊と大正期の自由主義や社会主義運動の台頭を前に、国民思想の善導と教育体制の刷新を目指すものであり、7年制高等学校の発足にも関与している*15。彼らの全員がやがて根津育英会(1921年発足)理事となったことを踏まえれば、小林敏明が指摘する通り、武蔵学園の起源は、北條・岡田を軸とする教育行政のエリート集団に見いだすことができる*16。金沢ネットワークについても触れておこう。西田は1909年から1年間赴任して同じ時期に大拙(後に北條院長を補佐)や法学者の清水澄といった四高出身者が学習院で教えており、山本は少し遅れてこのつながりに参入したと言えよう。  人間関係やキャリアは歴史学的な論証にとってある種の状況証拠に過ぎないとはいえ、院長時代の北條をめぐる文部省・宮中・金沢をつなぐネットワークこそが山本「と」武蔵をもつなぐ要因となったこと、その背景には日本帝国および皇室の危機という問題意識があったことは認められよう。なお、四高時代の苦渋と藩閥政治への反発から山本の性格を「反官僚的」とする言説が見られるが、あくまで彼自身は集権的かつ画一的な教育制度に反対しただけで、多数者の人気取りのために刹那的な機会主義に傾く自由主義よりは、地味ながらも国家全体の利益を長期的に考える官僚主義の方が優れているとさえ述べている*17。山本の視点はあくまで国家を統治する当事者の側にあったことを忘れてはならない。 (2) 山本の欧米旅行と『わが民族の理想』(1921)  山本は日本帝国の転換期にあたり、国家と国民の行く末をいかに考え、自らの教育的理念を具体化していくのか。その鍵は、山本の欧米旅行とその成果にある。学習院を去った北條は、山本の休職に責任を感じていたので、彼に外遊の機会を与えるよう文部省当局に働きかけた。山本はかねてよりの希望であった欧米視察の任を受け、1920年7月23日、横浜港から太平洋へと乗り出した。翌年7月までの1年の間、およそ3ヶ月を合州国で、2週間をオランダ・ドイツで、3日間をスイスで、2ヶ月をフランスで、そして3ヶ月をイギリスで過ごしている*18。彼は長旅で得た成果を帰りの船旅で原稿にまとめ、帰国後まもなく『わが民族の理想』(1921年)として出版した。本書は欧州各国の比較を行い、そこから日本人の使命を捉え、そのために解決すべき課題をテーマ毎に扱っている。  まず、本書冒頭で山本は自らの民族観を述べている。すなわち、各民族が世界に存在するにはそれぞれ異なった特殊の理想をもたねばならず、それを実現していくことで人類全体の文化が深まるが、逆に一つの理想を実現して他の理想を見つけられない民族は衰退する*19。民族を構成する諸慣習の起源を定めるのは難しいが、一つの民族は複数の民族が混ざり合って成立し、それぞれ独自の歴史を経て一つの個性と理想を獲得していく。そこで自らの民族的理想を実現することが国民の任務である*20。日本民族の理想発現の中心点は天皇にあり、その徳を発揚させて内外に発展させるのが臣下の役割であるという*21。  この記述に山本の国家主義・民族主義・天皇中心主義を見いだすのは容易だが、個人と国家の志向が同一であるべしという価値観を含め、この種のナショナリズムは同世代の知識人にとって別段、珍しくはない。ここで注目すべきは、自民族の核(特殊の理想)が同化されない限り、他民族の理想の良い点を学んで咀嚼・吸収して、自民族の位置づけを洗練させるべきだと山本が考えている点である*22。この有機的な民族観は後に、西田を含めた京都学派たちを通じて「世界史の哲学」として深められ、戦火のなかで大きな禍根を残した。本論でその膨大な研究と議論を追うことは避けるが、少なくとも山本や西田の民族観が日本民族の外部を認めない皇国史観のそれと全く相容れないことは確かである。  とすれば、山本は欧米諸国から何を選んで何を捨てるべきと考えたのか。まず、滞在日数の差が象徴しているが、山本はフランス・イギリス・合州国に大きな関心を示す一方、ドイツにはかなり悪印象を抱いている。日記によれば、エリートたちの「Kulturハ頭ノCulture」に過ぎず、非礼かつ高慢で下層階級を見下し、「共ニ社會ヲ経営スヘシトノ念ニ乏」しかったことが敗戦の原因であるという*23。明治以来、ドイツの学問は日本知識人に絶大な力をもっていたこと、特に敗戦後にインフレに陥ったドイツには、日本から若い学生たちがゲーテやカントに憧れて殺到していたことを考えると、山本のドイツ嫌いは一線を画しているが、同時に観念論を廃し、常に個々の具体的事例と伝統の継続性を重視する視座をそこに見ることができよう。  その視座は、仏・英・米に対しても貫かれている。まず、フランスは一般に想像される急進的な国ではなく、中世から現代までギリシャ語・ラテン語の古典を尊重する懐古的な民族理想をもつ。王党派と軍部の台頭が示すとおり、民衆にとって共和政は必ずしも適していないという*24。こうした歴史論を公式の革命史観ではなく、カトリック的な保守史観から表明しているのは、現地で交友した仏文学者・太宰施門の入れ知恵であった反面、大学令でフランスの制度を導入したために近代日本の教育制度が集権的なものになってしまったことに対する山本の批判意識を察知することが重要である*25。  山本のイギリスへの評価は高い。「個人の価値を明らかにしてその能力の最高を発揮せしめんとするのが英国民の理想であ」り、この個人主義をもってイギリス人は人類の文化に貢献した。彼らは自他の自由を侵犯しないよう細心の注意を払うため「考へ方も具体的となり、方案も実際的となり、議論にはまじめと親切とが主となって質問応酬互に誠意を披瀝する」*26。その結果、国の制度は画一化しないし、裁判ではフランスのように法律を機械的にあてはめるのではなく、個々の事例に応じて人情を重んじた判決が下されるという*27。多少の批判もあるがイギリスの民族理想からは深く学ぶべきだとしている*28。  アメリカについてはどうか。合州国の基本精神は、イギリスの個人主義をさらに進めて「民主的、共和的精神」を完成させることである。共和政をとる合州国では多数者が優先される以上、「品位品質の高尚」は保障されないものの、「米国第一America First」の標語のもとで「米国社会を世界最進文明の上に築かうとの国民的理想」が共有されている*29。そのため、アメリカ国民は優れたと感じるものは洋の東西やコストを問わずに取り込み、弊害をなすものは躊躇せずに捨てる。山本は彼らの進取の気風を高く評価する一方、これは日本民族にとって必ずしも楽観視できるわけではないと論じる*30。  なぜなら「わが民族の理想はわが文化を基礎として、それを欧米文化によつて拡張、深高化して、世界的大の新文化を人間文化史に貢献するにある、米国と相並んで、同一理想を洋の東西に於て違つた形式で発揚するにある」からだ*31。ここで山本は英・米と日本の民族理想の差異化を試みる。日本民族は伝統的に、君臣祖裔が全人格的関係で結合してきたのであり、自己は「家」を通じて民族と国家全体につながっている。そうした土台に神道・仏教・儒教を自らのものとしてきた日本の国民道徳は、自己の価値を至上として業務的関係を中心とする英・米の個人主義に対して、独自の可能性をもつとする*32。ここから武蔵建学の三大理想*33の一つとして今も謳われる「東西文化の融合」の背後には、第一次大戦後の日本が同じ後発的近代国家(新興勢力)として合州国に激しいライバル意識を感じていたこと、そして他ならぬ皇室の伝統をもつ日本民族こそが歴史的使命を果たすのだという山本の意志があったということに気づかされる。 (3)「民族文化」教育のために  仏・英・米の観察を経て設定された「わが民族の理想」をいかに実現するか。山本は、歴史・国文学・国語の教育改革を提案する。まずは従来の歴史教育の弊害を説く。一般的な歴史教科書は「少年の精神全体を引きつけるには余りに脱人間的であり、又その時代時代の活生活(引用者注:原文ママ)を知るには余りに抽象的」なので、歴史教育は無味乾燥な暗記作業と化している。そもそも普通教育では歴史の事実を教え込むより、それらへの生徒自身の関心を刺激するのが重要である*34。したがって歴史・国文学・国語の教科を合併して教え、教材は歴史物語や歌謡などの親しみやすいものを使うべきである*35。また民族文化の教育水準を高める上では専門的な歴史研究の基盤作りが欠かせない。よって歴史研究者への奨学金を手厚し、帝国大学から独立した総合的な学術機関として「日本学研究院」を設置すべきである*36。さらに、子供たちや民衆が生活のなかで歴史を身近に感じることができるよう、博物館や美術館を欧米並みの水準に引き上げ、重要文化財や歴史的建築物の保護を進めるべきだという*37。実現可能性の如何はさておき、ここで提起された文化教育の問題は今もなお問われるべきものであるし、その解決案については、教育の分野横断化や研究の学際化、歴史研究のアウトリーチが求められるようになった昨今の観点からしても十分、傾聴に値する。  では究極のところ、山本にとって歴史とは何を意味したのか。まず、彼は日本学研究院の経営において「民族の主張たり表現者であらせられる皇室」による庇護を望んでいる。このくだりから、山本が「伝統文化の体現者」としての役割を天皇に期待していることが分かる*38。さらに、効果的な歴史教育において写真や絵本、映画といった新しい媒体の役割に注目するのに加え、自ら熱心に取り組んだ謡曲や講釈物を勧めている点は山本の歴史に対する態度を示している。講釈物は大正期には一部の知識階層からは軽蔑されていたが、それでも多くの人々に親しまれていた。社会階層の上下を問わずに民族全体が歴史に親しめることこそ、講釈物の利点であると山本は述べる*39。畢竟するに、彼にとって歴史とは、文字を通じて冷静に分析すべき死んだ情報ではなく、声を通じて感情的に体感すべき血の通った物語なのだ。山本は歴史に科学的事実そのものよりも、民族的な規範を求める。彼は実証的な歴史研究とその成果の社会的共有を望んだが、それはより確かな歴史こそが民族をまとめる共同体の倫理に他ならず、その中心には神世の時代から皇室が鎮座してきたし、これからも全人類のなかで永遠に輝きつづけると信じていたからである。欧米への雄飛は山本の信仰をより堅く、その使命をより詳らかにしたのだ。    1922年元旦、山本は武蔵高等学校より辞令を受ける。その後の10年間は教頭として、もう10年間は校長として、創設まもない学び舎の教員・生徒を文字通り「領導」することになる。この動乱期の出来事は長大な説明を要するので他の文献に譲る*40。ここでは武蔵の教育では民族文化を涵養する場として修身(山本自らが教鞭をとった)、国語・漢文、地理・歴史が重視されていたことを述べるにとどめる。山本は教育者としての最終任務において、「民族文化」、あるいは共同体倫理としての歴史をいかに学生たちに伝えようとしたのだろうか。 3.山本良吉と日本帝国の黄昏(1922~42) (1) 昭和の危機と明治の回顧  降る雪や明治は遠くなりにけり…。一人の若き国文学徒がこの句を詠んだのは1931年のことであった*41。ひとがある時代を想起するのは、それが終わるときではない。その時代を象る精神の形象がやがて直観的に捉えられなくなるだろうと気づくときである。ここに歴史意識が生じ、ひとは自己の実存を賭けて過ぎ去った日々を語りはじめる。  明治維新はその50年目に本格的な想起の対象となった。1917年、旧幕臣や旧藩関係者によって各地で大規模な慰霊行事が開催され、第一次大戦後は明治「大帝」を顕彰する明治神宮の建設が進められた。明治回顧の雰囲気は関東大震災(1923年)で一段と強まる。文部省は明治末から維新史料編纂会に歴史学者を置いて幕末基礎史料の収集・整理をつづけていたが、その方針は設立当時から藩閥史観に偏っているとの批判を受けていた*42。しかし昭和天皇即位後の1928年、維新から60年目の「昭和戊辰」の年、さらなる明治維新ブームのなか、賊軍扱いされてきた人々(会津藩や新選組)や志なかばで落命した人々(坂本龍馬)に焦点が当てられるようになる。また、吉野作造や宮武外骨たちが主催した明治文化研究会(1924年発足)は、学者だけでなく在野・民間の研究者を巻き込み、維新期の関係者に聞き取りを行ったり、当時は軽視された雑誌や新聞を収集することで、明治史研究の幅を大きく広げた。こうした明治をめぐる語りは、史論や伝記、小説、戯曲や映画など多種多少なやり方で人々の歴史観を刺激した*43。その最大のケースとして島崎藤村の大河歴史小説『夜明け前』(1929~35年連載)を挙げることができる。  明治が遠くなることを山本も強く自覚していた。国家と自己の運命をどこまでも等しいものと捉えたこの明治人にとって、維新からの歴史を回顧することは、単なる慰みとしての懐古ではなく、緊張感ある実践であった。山本は後述するように、武蔵の生徒たちに明治の歴史に触れてもらうだけでなく、自ら筆をとって教育勅語や大日本帝国憲法を題材に明治立憲制の歩みを論じている。彼がここまで明治の精神にこだわる背景にはマルクス主義の興隆があった。1930年前後、世界恐慌の手痛い打撃を受けた日本では、共産主義の炎が燃え盛っており、武蔵もその例外ではなかったという*44。山本は、学生や官僚までもが「危険思想」にかぶれるのは、日本が西洋の物真似ばかりをつづけて伝統を疎かにしてきたツケであり、自らの民族文化を国民教育でうまく伝えられていないからであるとしている*45。こうした危機意識は山本の教育観をより保守化させたと西田は証言している*46。  山本は武蔵での歴史教育においてどのような歴史観を重視していたのか。彼は『勅語四十年』(1930年)で自らの明治論を披露するにあたって序文でこう述べている。 明治天皇の人格と維新以来のわが社会状態とが撞着して出たものが教育勅語である。勅語御下賜前のわが社会状態を知れば、勅語の意味がわかる。勅語の意味がわかれば、御下賜後四十年間、わが社会がその精神の発揚のために何をしてゐたかがわからう。それを考へるために、私は静かに過去六十年を顧みた*47。  単なる教育方針を示したものとしてではなく、近代以降に日本人の民族理想が世界に発現していく過程を捉える根本的な視座として山本は教育勅語を重視する。本書は、第一に勅語が日本社会で求められるようになる背景を論じ、第二に勅語の発布と意義を考察し、第三に勅語が各学校でどのように普及していったかを考え、最後に以上を踏まえた上での民族文化教育の立場から提言を行うという構成を取っている。以下、要点を見ていこう。  何よりもまず彼は、明治維新を伝統文化を破壊する革命として厳しく批判する。当時の日本が古い体制を脱却するためには、欧米諸国から先進的な技術を取り入れ、多くの制度や因習を廃止していくことが必要であったこと(廃藩置県や廃刀令)を認めつつも、五箇条の御誓文の「旧来ノ陋習ヲ破リ」という箇所ばかりが行き過ぎて、日本独自の文化を蔑ろにする風潮を生んだとする。例えば、江戸時代の礼服であった麻上下を廃止する必要はなかった。また廃仏毀釈や士族の困窮で貴重な文化財が海外に流出したと嘆いている*48。  次に明治初期の教育制度が知識偏重であったと難じている。御誓文の「知識ヲ広ク世界ニ求メ」というのは法律・政治・軍事・科学の知識を外国から取り入れることであったので、教育面ではフランスの制度を導入して学制(1872年)が敷かれた。これは大学校を頂点に中学校から小学校までを含めた階層秩序のもとで上から集権的な教育を施すものである。小中学校の授業ではアメリカやフランスの教科書の翻訳が用いられ、生徒は日本の風土に合わない内容を無理やり教え込まれたため、民族文化の教育は困難だったという。山本は中学時代を振り返って、英語・数学・科学はしっかり勉強できたが、国語の授業は全く受けられず、国史の教育も不十分だったとしている*49。しかし明治20年代から日本主義が台頭し、社会が民族文化を尊重するようになり、国民的自覚を強めていく。  こうした歴史観は第1節で扱った山本の青年期のものとあまり変わらない。しかし本論で大事なのは、山本が教育勅語が抱える問題をどう捉えていたかという点である。日本教育史の一般的な説明では、1870年代の欧化主義への反動として80年代からは復古主義の傾向が強まる。近代国家の国民のための先進的な知識を重視するか(森有礼)、天皇の臣民のための伝統的な道徳を重視するか(元田永孚)という、明治国家のもつ根本的なジレンマは深い対立を生んだが、両者の折り合いの産物が「教育ニ関スル勅語」(1890年)であるとされる*50。山本は、勅語発布までの対立には深入りせず、勅語によって日本独自の民族文化の地位と国民の考え方の基準が明らかになったと意義づける。これにつづいて「勅語は読む事によつてわかるのでもなく、読ませるために御下賜になつたのでもなく、わが民族をして永く前述の意味に於てわが民族伝来の胸の鼓動を聞き得しめるためのものである」と述べている点に注意したい51。教育勅語の本文は約300字と短く、宗教・政治的な対立を避けるために抽象的な言い回しが多いため、発布直後から解釈をめぐる問題が生じていた一方、語の修正や撤回を提案するのは不敬と目される恐れがあったため、各学校では勅語を丸暗記させるという教育法が流行していた52。山本はこの風潮を批判し、勅語の解釈が時代によって変わることや教育現場での混乱を認めつつも、勅語の意味を体得するプロセスの重要性を強調する。すなわち、自分たちの祖先は勅語に書かれた徳目をいかに理解し、民族の発展につなげたのかと生徒自身が問わねばならない。そのためには『わが民族の理想』が示した民族文化の教育によって、具体的な歴史的事実を身につけ、そのための制度や工夫を施す必要がある。山本は教育勅語の困難が文言それ自体ではなく、その解釈や伝達にあるということを痛感しており、その突破口を歴史教育に求めたのである。 (2)「明治講話」と「民族文化講義」  山本「と」武蔵高等学校による歴史教育は具体的にどのように実践されたのか。山本の教育理念の重心は、修身を軸に人文系諸科目を連携させて民族文化を涵養することにあったが、その実践として注目したいのが「明治講話」と「民族文化講義」である。  前者は1928年からほぼ毎年、明治節(11月3日)に開催され、生徒たちに様々な視点から明治の歴史に興味をもってもらう機会を作ろうとしたものである。各回の講師・題目・内容は校友会雑誌のバックナンバーから確認することができる(【表1】を参照)。講師には三上参次や渡邊幾治郎、本多辰次郎、藤井甚太郎、尾佐竹猛たちの名前が見える。彼らはいずれも宮内省や文部省で維新期史料の編纂に深く関わった歴史学者たちであり、明治史研究の開拓者として後世に知られる。山本が武蔵時代以前のコネを生かして彼らを招聘したのであろう。最初の7回は、明治天皇に関するテーマを扱っている。詳しい内容の紹介は省くが、いずれも時代背景を踏まえ、一次史料に基づきつつも、ちょっとしたエピソードを挟むことで天皇個人の人格を伝えている。天皇との個人的な想い出を語る講師も多い。講演内容を事前に山本が確認していたかは不明だが、大まかな方針として、生徒が具体的な事例を通じて明治天皇に親しみをもってもらえるよう意識していたのだろう。  山本自身も「明治講話」を4回行っている。日清戦争(37年)と不平等条約改正(39年)を扱った講演では、陸奥宗光の功績がいかに偉大であるかを情熱的に語っている。前者では、明治時代には陸軍の山縣有朋のような誰も文句を言えない絶対的権威がいるときは部下の統一がうまくいっていたが、「段々偉い人が無くなって全体が団栗のせい較べになると、どこから命令するのか、どこが中心になるのか分らなくなり、終に国家の大半を負担するに耐へなくなる」*53と結んだ。前年の二・二六事件で生徒の父親であった渡辺錠太郎陸軍大将が犠牲になったことに山本はショックを受けていたことは学園史でも語られるが、以上のくだりは彼が明治を称揚することで同時代の国家体制の危機を照射しているようにも読める。明治時代の教育(36年)と旅行についての講演(40年)は、いずれも山本の体験談が盛り込まれた自伝的な語りを取っているが、特に後者はその強みが生きている。明治から70年を経たいま、生徒(あるいは我々)にとって、旅行とは交通機関で目的地に向かうことを指すが、山本にとっては「その途中の風景を味つたり、名所を調べたり、生活を観察したりして、それがすつかり頭に収まるのをいふ」*54。徒歩・人力車・馬車・汽車・汽船・自動車と様々な移動手段が盛衰していく様子を自らの思い出を添えて語り、乗り物を使わない旅行をして日本各地をじっくりと学んでほしいと結んでいる*55。本講話は、交通技術が各地域を結ぶことで人々の国民意識を醸成したという古典的なナショナリズム論を裏づけるように見えて、その実、新たな技術が人々の時・空間意識を激変させていく70年余の過程を批判的に眺めた交通史的エッセイとしても興味深く読める。  「民族文化講義」についても触れておこう。本講義は1925年からほぼ毎年、各方面の研究者を招聘して開催され、その概要は校友会雑誌の記事として出版された(【表2】を参照)。講師には瀧精一や関野貞、武内義雄、村岡典嗣といった第一級の人文学者たちを、また鈴木大拙や暁烏敏といった金沢・四高ネットワークに連なる大物の名が見える。テーマはほぼ全て日本と中国の文学・思想・芸術に関するもので、西洋や自然科学(史)は極めて少ないが、それは山本の文化教育には東洋重視の傾向があったことを顕著に示している。明治以来の歴史学は国家中心の公文書に依拠した歴史叙述(政治・外交史)を中心としていたが、大正期からは欧米の学界動向の影響もあり、より幅広い史料や手法で民族全体の精神を描く「文化史」や「精神史」が流行しつつあった*56。「民族文化講義」は歴史研究の新たな潮流を取り込んで生徒の興味を引き出そうとしたのではないか。また、音楽史や服飾史(風俗史)といった、当時のアカデミアでは研究対象として認められなかった新領域の研究者にも目配りしている点に、山本の視野や度量の広さを認めることができる。 ※以上は、武蔵高等学校『校友会誌』(後に『武蔵』に改名)のバックナンバーを参考に作成した。    講演内容は概ね、講師の研究テーマを学術的に示すものであった。例えば、関野貞「日本彫刻史」(1931年9月)は「日本文化史上に於ける彫刻史の価値は鎌倉時代までゞ、それ以後は特に見るべきものなく、殊に江戸時代に入つては論ずるに足るものはない」と講師の歴史観を示した後、飛鳥・奈良・平安・藤原・鎌倉の各時代の彫刻様式について様々な事例とともに説明している*57。「明治講話」も「民族文化講義」も、その内容が講師自らの研究的知見を土台にしているという点で共通しているが、その語り方については、前者は明治天皇をはじめとする歴史上の人物に親しみをもたせる歴史物語の形式を、後者は実例を示しながら研究上のテーマを論証していく学術講義の形式を取っている。日本人は世界独自の優れた民族文化を長きに渡って受け継いできた(それ故にこれを守り伝えていかねばならない)という論旨がどの講義にも一貫していたことには注意せねばならないが、それを生徒に効果的に伝えるべく、複数の語りのスタイルを使い分けるという歴史教育上の工夫の痕跡を認めることができる。  いずれにせよ、山本「と」武蔵の「民族文化」教育にとって「明治講話」と「民族文化講義」が大きな役割を果たしたのは明らかだ。そして山本自身も講師として参加した前者は、明治国家の精神を、究極的には教育勅語の理念を教育する場として特に重要であった。戦後に文部大臣を務めた教育社会学者の永井道雄(14期文科)は「明治節の場合は、記念講演があって大体三時間くらいかかったように記憶しておりますが、天長節は大へん短くて」そういうものでよろしいと山本が考えていたと、武蔵OB座談会で回想している*58。ここでは詳しく触れないが、戦前の武蔵には、大正・昭和天皇の天長節(8月31日・4月29日)にその名を冠した企画は単発的なものを除けば存在しない。紀元節(2月11日)の扱いについては後で述べるが、毎年恒例の民族文化教育の特別日として選ばれたのは明治節(11月3日)であった。それは山本(「と」彼が率いる武蔵)の日本帝国と皇室に対して抱きつづけた強烈な忠義とその実践の何よりの証なのである。 (3)「わが民族の理想」の果てに  日本は1930年代、いよいよ先の見えない総力戦へと突入していく。山本は武蔵高等学校校長としていかに考え、何を語ったのか。  山本の危機意識は昭和10年前後にますます強まっていた。彼は1938年の紀元節講話「憲法五十年史」で、議会の動向を中心に日本憲政史を語っている。最後に、神兵隊事件や五・一五事件、二・二六事件は、国制を脅かす「不詳事件」であると不快感を示す一方、その遠因は「国民の不良政治に対する憂心」にもあったとして、原内閣以降の党利党略の横行(知事の更迭・行政の政党化・選挙干渉)を指摘する。そして「始には藩閥の専制を抑へんとして政党が力を得た。政党が政権を握るに及んで、政党自身の弊害を生じ、自己の信用を失墜した。憲政の運用はこゝに三転を見た」と憲政史50年を総括する*59。  山本は昭和初期の政治腐敗と軍部の政治介入を批判しているが、学園史で語られる「全体主義」に対する山本の「抵抗」を過剰に読み込むのは避けたい。彼の理解では、議会の最大政党が政権を担うやり方は必ずしも三権分立の原則に適ったものではない。政党政治を相対化する山本の立憲主義観は、現代の我々が想定する「リベラル」な政治観(議会制民主主義)とは大いに異なる。たとえ政党政治が機能しなくても、立法府が憲政上の一組織に過ぎなくなっただけで、立憲政治そのものは崩壊していない。山本にとって最も重要なのは、いかなる形であっても、憲法に定められた手続きに従い、国益全体にとって最善の方向を模索して行くことであった。  その意図があくまで明治維新が築いた近代国家体制の擁護にあったとはいえ、校長は中国との戦争を苦々しく思っておられた(のではないか)とOBの声はしばしば主張する。これについても留保が必要だ。山本は、1937年秋の講話で、勅語の精神を説きつつ、同年に勃発した「支那事変」(日中戦争)の意義を論じている。すなわち、中国やインドは儒教や仏教を生んだがこれを発展させられなかったのに対し、日本のみが両者を実際の教えとして自らの民族文化に活かしつづけることができた。今や中国人は愛国心を見失い、共産主義や外国勢力とその場の利害に応じて結託・敵対を繰り返す有様である。そうした情勢下での日本の任務とは「東洋の一有力なる表現たる支那文化を保護し、これによつて世界に於て東洋文化の地位を確立する」ことである。軍部はそうした意識で対中戦争を始めたわけではないが、結果としてこの目的を達成するだろうという*60。山本は日本の軍事行動を手段としては批判するものの、歴史的使命の名の下にこれを合理化しているのは見逃せない。古代文化への限りない敬意は、その後に「頽落」した彼ら(中国人)への蔑視を生み、東洋文化の偉大な遺産を我々(日本人)こそが保護すべしという論理を導く。それはE・W・サイードが論じた文脈とは異なるとはいえ、やはり「オリエンタリズム」の典型である。山本の帝国主義は「民族文化」教育の形をとって、武蔵の生徒たちに放たれていたのである。  日本は東洋文化の指導者として行動してきた/せねばならない。この魔性を秘めた格率は、近代化の加速とともに鍛えられ、右翼だけでなく左翼の知識人をも虜にした挙句、遂に「西洋」との決戦を迎える1941年12月8日朝、「世界史的使命」として一つの完成を見た*61。その凄惨な実態はさておき、「大東亜戦争」の理念が「アジアの解放」と「東洋世界の繁栄」にあるとすれば、42年2月15日の英領シンガポール占領の意義は計り知れなかっただろう。  同年2月18日、山本は老体に鞭打って歓喜の声をあげ、「シンガポール陥落祝賀式」を開いてその気持ちを学園全体で分かち合った。早朝、校長一同は東京駅に集合して皇居を奉拝して天皇陛下万歳三唱、その後は各自で靖国神社に参拝。夕方からは学園講堂にて国歌斉唱、校長式辞、賀表披露がつづき、宮内省職員が久米歌を奏でた*62。山本はその賀表にて「新世界史ノ想像ハ一ニ国民教育ニ俟タザルベカラズ」と天皇に向けて高らかに決意表明を行い、式辞ではシンガポール陥落の歴史的意義を次のように述べている。  ここに英国は堅い関所を設けて、東洋の勢力はこれより以西に入るべからずと固めてきた。この一の関にさへられて、東西洋ははつきりと別のものとなつて居り、西人の所謂世界史はこれから西のものと定つて居た。支那事変の初りに私は、これは東洋史と西洋史とが一になつて新らしい世界史を想像する陣痛であるといつておいた。このたびのシンガポールの関処の破れたことによつて、始めて新世界史想像の端緒に入つたのである。この意味に於て、この度の勝利は世界史上非常な大事件である*63。  ここでふと20年も前の記憶が蘇ってくる。「旅客がマルセーユを舟出して、スヱズを過ぎアデンから東に向ふと、一週間ばかりは何もない。目に入るものはたゞ青い天と青い水、満眼たゞ一青の間を、舟は明けても暮れても進む。時に旅客を驚かすものは激しいモンスーンであるが、それが過ぎれば、天地はまた依然たる一青。やがて印度が見え、暫くするとマレイが見えるいつともなしに右側にはスマトラの林丘がその静かな姿を横たへて居る。その極まる処がシンガポール」64。それはあの長旅の光景、欧米諸国での観察から「わが民族の理想」を打ち立て、膨らみつづける祖国と皇室への想いを乗せた長い旅路のなかで、人生50年で得た天命を長大なマニフェストとしてしたためる合間、ふと垣間見る客船の窓に浮んでは消えていく「東西文明」の夢の欠片たちであった。最晩年には涙脆くなっていたという山本は、この日、全校生徒に感極まった声で皇室に尽くしてきた自らの人生を回顧していたが、その熱く濡れた瞳のうちに認めたのは、「わが民族の理想」を達成しつつある日本帝国75年目の晴れ姿ではなかったのか。  それはやがて消え失せる一瞬の虹であることを我々は知っている。学生たちは輝きを増す虹に「悠久の大義」を見つけるや否や、筆を捨て、刀を取り、あるいは赤い夕陽の差す下で草生す屍に、あるいは南十字星の煌く下で水漬く屍となりはてた。武蔵の生徒や卒業生たちもまた虹の犠牲となった。だが、虹の消滅と帝国の結末を見届けぬまま、1942年7月12日、山本良吉はその最後の眼を閉じた。  ここまでで「民族文化」という視点から、山本「と」武蔵の実践のあり方を考察してきた。彼の究極的な目標は、国民各自が教育勅語の理念を体得すること、つまり自らの民族文化と主体的に向き合えるようにすることにある。それは一方で国家の教育方針との摩擦を生む。1930年代、文部省は国民精神文化研究所を通じて、上からの勅語の解釈変更を進め、そのアクセントを元来の国民道徳論から戦争動員を導く「皇道ノ道」へと移していった*65。ここで武蔵がトップダウンの方針に従わず、小冊子『国体の本義』(文部省発行)の採用や御真影の設置に抵抗したことは、「リベラル」な美談として語り継がれるが、山本の言葉を内在的に読めば、その理由はあくまで「國體」に忠義を尽くす方法の違いにあったのだと分かる。いかに勇ましい言葉や仰々しい儀式も、参加者の主体性を伴わなければ抽象論に陥る。教師は上から知識を押し付けるのではなく、生徒・学生が自らの手で材料を調べ、扱い、自らの頭で問題を考え、結論を導くようにすべし。こうした「発動主義」を中等教育に取り入れることを山本は早い時期から訴えていた*66。これは武蔵の建学理想にもつながる発想であるが、歴史的文脈を踏まえれば、「民族文化」を「自ら調べ自ら考える力」こそが自発性に満ちた帝国の「主体/臣民subject」を形成する原動力となるのだ。1941年の紀元節講話で山本は生徒たちに語っている。「具体的に楠公(引用者注:楠木正成)を知るとは、楠公が平生いかなる心懸で居り、いつ、いかなる気持で、いかに皇室のために尽したかを、自分自身の事の様につかむことである」*67。  山本と日本帝国はまもなく最期の時を迎えるが、両者は形を変えつつ、戦後もなお「武蔵的なるもの」を語るときに顔を見せるだろう。山本はいかに「没後の生Nachleben」を送ることになるのか。以下、山本「と」武蔵をとりまく人々の声に耳を傾けていこう。 4.山本良吉と日本帝国の亡霊(1942~2015) (1) 仰げば尊し、我が師の恩  1942年7月18日、新校長に就任した山川健次郎の甥・黙(しずか)のもと「故山本校長校葬儀」が行われ、一木喜徳郎や安倍能成、西田幾多郎などからは弔辞が寄せられた。同年10月19日の「故山本校長追悼会」には遺族・友人のほか、職員・生徒一同が参加し、山本が遺した功績や思い出を語った。ここで興味深いのは、武蔵の職員たちが、山本の人徳や見識に敬意を払いつつも、彼の直情的で頑固な性格を隠さずに話していることである。山川によれば、彼は生徒・教師の両方から非常に怖がられており、他人の欠点を徹底的に直してやろうという親切心から「かなり厳しい鉄槌が加へられ」たといい、また和田教授は、メートル法の導入を民族文化の破壊として猛反対していた山本と何度も激論を交わし、彼は一切意見を曲げなかったと回想している*68。山本の強烈な個性は反発を招きつつも「愛の鞭」であったという語りは(後になってそのありがたさが分かるというというオチを含め)、死後数カ月にして山本像の柱の一つを作っていたことが分かる。  終戦後、1946年には山川が校長を退任。後を襲った哲学者の宮本和吉は学制改革への対応に従事し、旧制武蔵高等学校は1950年にその幕をおろした。慌ただしい改編(新制高校は48年、大学は49年に設置)を経てまもない51年、故山本先生記念事業会より『晁水先生遺稿』が出版された。本書は、山本の手による各種テキスト(論説や随筆、講話・訓話原稿)を整理し、その一部を収録したものであり、大拙による序文や山本の略歴・著作物のリストなどを附す。本書は初めての山本のアンソロジーであり、出版部数は限られていたとはいえ、今なお彼の思想を知る上で第一に手に取るべき基礎文献である。また、生前の関係者が山本を語る際、本書がその土台としての役割を果たしたであろうことは想像に難くない。果たして1966年に山本先生記念会より刊行された続編は、山本をめぐる多種多彩な声(追悼文・回想・座談会)を収めて、その分量は本書全体の半分以上を占めている。本論ではそのあまりに膨大な声を詳しく分析することはせず、全体的な傾向をつかむにとどめたい。  まず何よりも、頑固でワンマンな強烈な人格をもった修身教授としての山本像が至るところで浮かび上がった。特に最初の10年までに教育を受けた卒業生たちの声に厳格なイメージが強く残る。毎回、「お尋ねします」との掛け声を合図にはじまる授業中の問答から校内での身なりや振舞に至るまで、生徒たちは一人ひとり厳しくチェックされ、端からみれば理不尽な理由で落第点をつけられるケース(例えば、厳格な山本の前で緊張して黒板に正しい答えを書けなかったため)も珍しくなかったという。1964年、旧制1~7回生を集めた卒業生座談会が開催された。ここで武蔵の第一の特徴として「落第主義」を挙げて「私自身二回も落ちている。満足に七年間で卒業したのは大秀才です」と振り返る本田正義(6期文科、当時は最高検検事)は、山本のやり方に反発して学校を追放された集団がいたことに触れて「山本教育の地盤で、要するに花が咲かなかった子供たちというのは、相当おりますよ。これは山本教育を見る場合、私どもは常に忘れては行かんところだと思うんですが、教育というものは一体それでいいものかどうかということですね」と加えている*69。すぐ後で草創期の私学を支えるために強硬手段を取る必要があったと山本をフォローしているとはいえ、座談会が全体として山本への感謝へと向かう雰囲気をつくるなか、以上のくだりは学園の内側から出された実感にもとづく批判として貴重である。  さらにそうした山本像がある種の神聖さを帯びていくさまを象徴する声も出てくる。64年の同じ座談会で山本の厳しい指導は生徒への愛情ゆえであったと、卒業生たちが自らの少年時代の苦い経験を意義づけようとするなか、高橋喜彦(2期理科、当時は気象技術研究所)は、かつての学友で医学者になった梅澤濱夫が文化勲章を受章した際の祝賀会でOBたちが「武蔵の心」を語ったときに、一度も山本の名前が出なかったことを肯定し、「『山本良吉』というのは、仮の宿りなんです。つまり、山本良吉が先代から受けついだ何ものかを、我々の心に残してくれた気持ちは、その祝賀会に非常に表れてくるんです」*70と述べる。恐怖の対象としての師は、同じ苦しみを耐えきった仲間で共有されることで、畏怖すべき対象としての父へと変わる。しかもそれは軽々しく口にすべきではない神聖な対象であるという前提こそが、この同質的な集団の結束力を強めるという、OB座談会にとって本来の機能を果たしている。とはいえ、第8~14回生の座談会になると、山本の厳格さのイメージには色々な声が見られるようになり、それより若い卒業生にとっては厳しさよりも優しさのイメージが強くなっている。  次に重要なのが山本の政治的立場についてのイメージである。旧制時代のOBたちはいずれも山本の教育に強烈な国家主義の匂いを嗅ぎとってはいたが、それは他国の良きを学びつつも自国の古きを守る「非常ないい意味の国粋主義者」といった像に落ち着く*71。それを支えるのは、彼は戦争へ向かう日本の政局に批判的であったという言説である。例えば、第15~21回生の座談会では、山本は政局を生徒の前で語ることには禁欲的であったこと、満洲事変後の陸軍の動きを暗に批判していたことなどが語られる。本座談会には参加者から一世代離れた先輩として参加している川崎明(4期文科)はそこで、自分たちが生徒だった時代には、山本は政友会と民政党の対立について後者を贔屓して前者を攻撃していたと回顧するついでに、山本が学園の配属将校を選ぶときに陸軍と一悶着を起こしたこと、軍への批判が当時は命に関わることであったことに触れ、「強い者を恐れなかった山本先生の勇気」を賞賛している。一方、山本は「紀元2600年」と「大東亜戦争」の初期の勝利に浮かれていた世の風潮に反し、お祭り騒ぎはやらなかったという声に注意を向けよう*72。山本が生徒たちに植林事業を行わせて気分を引き締めたという前者の証言は正しいものの、後者は第3節で詳しく扱ったとおり(シンガポール陥落祝賀会)誤りである。山本の国家に対する「抵抗」の神話は、旧制高校で1940年前後を迎えた者の記憶さえをも混乱させはじめていたのである。  川崎はここで、「軍の勢力をかさに着ていばる連中を軽べつなさったので、ここから軍人ぎらいの異名をもらわれた」と述べつつも、敗戦責任を軍に全て押しつける戦後の風潮への批判を忘れていない*73。彼は『晁水先生遺稿続編』の編者として「反軍人」のレッテルを避けつつ、「抵抗者」としての山本像をバランスよく立ち上げようと努めている。ここで教員座談会(64年6月末開催)に眼を移すと、興味深いことに、武蔵の配属将校(1928~31年)を務めた元陸軍将校(在任当時は中佐)の鈴木春松の証言が残されている。着任前は山本は礼儀に厳しくて反軍思想をもっているという評判を聞いていたが、武蔵では暖かく迎えられ、山本の理解も得られたと好意的に回顧する。一方、何か企画をやるときは将校団で民主的な話し合いをする陸軍軍人から見ても相当なレベルで、山本の指導手法は独断的に感じられたという旨を漏らす*74。鈴木の証言は、武蔵・陸軍関係が良好であった満洲事変以前のものであることは考慮すべきだが、それだけにかえって山本の強烈な個性とワンマンぶりを照らし出し、また「反軍人」イメージを相対化する学園の外からの声として示唆的である。  最後に、山本と武蔵の三大理想の確立をめぐる問題がある。上記の教員座談会で、三大理想の原案は山本ではなく、初代校長・一木喜徳郎が作ったものであり、だとすれば山本はその成立過程にどう関わったのかという話題が提起される。だが当時はそれを確定する史料に乏しかったため、様々な憶測が飛び交った結果、「時代がどんなに変っても、私はあれは、厳として不滅だと思うんですよ」という内田泉之助(1926年に漢文教授として着任)の言葉で締めくくられる*75。このくだりで気になるのは、山本自身は三大理想の原文を起草したとは一度も発言しなかったと、各人によって強調されていることである。従って、山本と三大理想を結びつける確かな根拠はこの時点では存在しない。後に言及するように、実際は山本の役割は限定的であったことが実証されることになるのだが、ここで重要なのは山本神聖化のプロセスがここに顕著に表れているということである。その強硬な領導で知られた山本は、元教員たちにとっても畏怖の存在であったが、建学時の精神について彼が沈黙していたことは、かえって(一木ではなく)山本「と」三大理想を結ぶ糸を想像させ、彼を絶対的な「建学の父」として神聖視する流れをもたらしている。  以上、山本の死から約20年のうちに、強烈で頑固な個性でワンマンぶりを発揮したというイメージから出発して、それ故に草創期の学園を指導できたのだという語りが戦前・戦中の抵抗という武勇談を交えて正当化され、またその厳格さをめぐる記憶が建学の三理想と結びついて共有されていく。こうして理念面でも実践面でも、山本は旧制武蔵の神話の主人公としての像を帯びていくのである。 (2) 学園史家・大坪秀二による神話破壊  大きな神話は破壊に時間を要する。そして破壊者は同時に創造者でもあるのが歴史の常である。20世紀の終わりに山本神話を破壊したのは、武蔵高等学校中学校第8代校長の大坪秀二(1924~2015)である。  大坪は武蔵在学中(1942年)、第16回外遊生として満洲行きの機会を与えられるほど傑出した生徒であったが、卒業後は東京帝大理学部で物理学を専攻し、大学教員を経て、1950年から新制になったばかりの武蔵高等学校・中学校で(後には武蔵大学でも)数学を教えた。67年からは同校教頭、75年からは校長を務め(87年まで)、90年に定年退職した*76。ほぼ40年に渡って武蔵の教育・経営に関わった大坪は、その膨大なエネルギーと独自の理念をもって新しい校風を学園にもたらし、その影響は現在にも及ぶと言われる。その実態については別途の検討を要するが、本論で重要なのは退職後の大坪の仕事である。彼は退職後、武蔵学園記念室顧問として学園史料の整理・編纂に携わっただけでなく、その解題やエッセイを通じて、従来の学園史の語りを批判しながら新しい歴史像を作ろうと試みた。その成果は、原史料と解題を収めた『武蔵学園史年報』として1995年から毎年出版され、バックナンバーは20号以上を数える。それらは武蔵学園史の研究のみならず、20世紀の日本教育史にとっても重要な基礎史料としての可能性を秘めている。  大坪の歴史叙述は、戦前から戦後まで、旧制高校から新制高校・中学・大学まで幅広く扱っているが、その最も重要な役割は、一次史料とその批判的検討にもとづいて山本神話を実証的に破壊した点にある。ここでその要点を整理しておこう。第一に、山本の専制体制が学園に招いた弊害を批判的に究明した。例えば「野球禁止考」(1999)は、旧制武蔵ではなぜか野球禁止令が出されていたという言説に注目し、日本での野球の社会的地位に触れた上で、創設当初は禁止ではなかったが途中から禁止になったと論証する。山本が公表した禁止の理由は道理にかけるとした上で、後半では1930年5月の「山本教授弾劾事件」という事件に触れている。卒業生数名が武蔵関係者や近隣住民にビラを撒き、「詰込主義、点数主義、厳罰冷酷主義」や生活・趣味への厳しい制限を批判していたという。学園内部の史料と照合したところ、叛乱卒業生側に「三分の理どころか、五分ほどの理を認めざるをえない」との評価を与えつつも、彼らの声は左翼運動弾圧のなかで消されてしまったとする*77。「たかが野球一つで大げさな」と言わず、野球問題を社会史上に位置づけるとともに、外部の声を拾い上げた上で、山本の教育体制を自由に反するものであったとする大坪の叙述は、効果的なものとなっている。そこには山本の強烈な個性・ワンマンぶりを「愛の鞭」や「リーダーシップ」という言葉で美化するのを拒み、外に開かれた学園史を創ろうという大坪の対抗的意志が横たわっているのだ。  大坪の第二の功績は、山本の「建学の父」としての役割をある程度まで相対化した点にある。例えば「三理想の成立過程を追う」(1997)は、武蔵の三大理想に関する原史料を丹念に整理・吟味した上で、開校当初(1922年4月)は一木喜徳郎が用意していた「第1の原型」があったとする。もとは「正義を重んじ真理を愛し、自ら理解考究する能力を有し、将来世界に活動し得る体力を有す」であったのが、約2年後に「東西文化融合のわが民族使命を遂行し得ベき人物を造ること。世界に雄飛するにたへる人物を造ること。自ら調べ自ら考える力を養うこと。」という現在のものにつながる「第2の原型」が作られたと推定している。特に「東西文化融合」という文言を肯定する一木に対し、山本は最後までこれに完全には同意していなかったとしている。そして「第2の原型」は山本体制下で教員たちによって権威づけられていったと主張している。「民族使命」や「世界に雄飛する」といった文言に見られる山本の「民族主義、国家主義的な理想」に違和感を唱える大坪は、アナクロニズムを改め、これからの時代に即した三大理想を練り直す必要性を訴えて文章を締めている*78。山本神話を支える三大理想の文献学的な精査を通じて、その内側からの崩壊を試みる叙述には、先と同様、山本の思想に対する大坪の強い批判意識を読み取ることができる。従来は権威化されていた山本像を正面から破壊するのは、学園関係者にとっても相当に勇気あることであっただろう。それでもこの大変な仕事へと退職後の大坪を向かわせたのは何であろうか。   (3) 戦後民主主義の可能性と限界  時は遡って1942年2月18日、ひとりの武蔵高校1年生(16期理科)が「何故それほど破天荒なことなのか良く判ら」ないまま、シンガポール陥落に沸き立つ山本校長の「何時にない上機嫌」を唖然と見つめていた*79。それは、明治生まれと大正生まれ、戦場に赴く可能性のある者とそうでない者とのあいだに生じざるを得ない認識のズレであった。43年9月、戦局が悪化するなかで卒業を迎えるこの少年は、校友会誌の記事「卒業を前にして友へ」でこう呟く。  君、死ぬ事は一番やさしいよ。殊に大君の為、国の為に死ぬ事は最もたやすいよ。只如何に生きぬくか、国家の為に如何に生きぬくか、それが一番難しいだらう。僕達は死んではいけない(中略)僕達は僕達の学業に対してもつとはつきりした自信を抱き、もつと熱烈な理想と必死の努力とをそれにかけていゝのぢやないだらうか。*80 戦争で十分な勉学を果たせなかったことへの後悔と生きぬくことの決意は、後に教育者となる大坪少年にとって精神的な出発点となった。この強烈な戦争経験は同時に、老いては歴史家となる彼にとっての原点ともなる。  大坪は学園史を書くとき、書き手としての当事者意識を明らかにしている。歴史家は実証に徹すべきで自らの政治的立場の表明には禁欲的でなければならぬという格率を、彼もまた共有していたが、それでも自らの立場性に敢えて立ち入ったのが、「『君が代』の歌と『武蔵の式』のこと」(2000年)である。日本での国旗・国歌の法制化をめぐる議論が盛り上がるところから話を起こし、戦後の卒業式では国歌斉唱が消滅していたが、その復活の是非をめぐって校内で論争があったことが語られる。大坪が武蔵に着任した翌年の1951年、文部大臣の天野貞祐が「国民実践要領」を作成し、戦後の精神的荒廃に対して道徳教育の強化を訴えた。この「天野談話」が教育面での「反動」として左翼陣営や進歩的知識人たちから猛烈な批判を浴びたことは知られているが、大坪もまた批判側の立場から同時代を描いている。創立30周年(52年)からは天野大臣の来校もひとつの引き金となり、卒業式での国歌斉唱が復活する。その方針を保持させた中心人物として槍玉に上がるのが、内田泉之助教頭(1892~1979)である。この開校以来の最年長者であった漢文教授は、山本の理念に忠実な保守派であり「かなり強面で、とかくの異義は認めなかった」が、若手教員にとって「この『逆コース』は快いものではなかった」と大坪は回想している。しかし内田退職後の67年以降の卒業式では武蔵讃歌のみが歌われることになり、その後も学園関係者や生徒から復活を望む声があったが、結局は国歌斉唱はその後も行われなかった*81。  ここにはまず、「個人として『日の丸・君が代』を支持しない立場をとる」と述べる大坪の戦後民主主義への強いこだわりが見られる。戦時中のど真ん中に高等学校で、戦後の混乱期に大学で過ごした大坪にとって「二度と過ちを繰り返さぬ」という意志は、この時代を過ごした多くの者と同様、身体に刻み込まれたものであったに違いない。次に興味深いのが、テキストにおける大坪と内田との敵対関係である。内田は山本の信頼を最も受けた教員であり、戦後は『晁水先生遺稿』の編集に中心的役割を果たし、その続編の序文に彼の人格について「之を仰げばいよ/\(引用者注:いよ)高く、これを鑽(き)ればいよ/\堅い」*82と記した。いわば彼は、戦後における山本と日本帝国の精神の守護者であった。これに対し、明治憲法体制の破綻を受け止めて新制時代に相応しい精神を創ろうという改革者たらんとした大坪は、彼岸には山本、此岸には内田という二人の超克すべき目標を抱えていたのである。旧制武蔵の負の遺産を直視していた彼は、スパルタ教育や厳罰主義ではなく自律的な思考をじっくり育てる教育方針を取り、そして国家主義を相対化できるような広範な視野を育む機会を生徒たちに与えようと努めた。例えば、日本の受験戦争と詰め込み方式の過激化に警鐘を鳴らし、第二外国語学習の促進と国外研修制度の確立に力を尽くした。そうした点も含め、大坪に山本神話の解体を可能にしたのは、史料批判という研究手法だけでなく、戦後を生きぬいた彼自身の歴史意識であったと考えられる。  だが、大坪が戦後民主主義に忠実であったがゆえの限界も存在した。それは概して言えば、戦後の視点から戦前の精神を一括りにして外在的に批判・拒絶するという傾向、また評価するにしても戦後の価値に合うように修正して解釈するという傾向である。  例えば、大坪は上記のエッセイで、昭和30年代に学内で「君が代」復活論が唱えられた時、教員たちは「私立学校の私的行事論」でこれに対抗したと述べている。もとは国語科教員だった三木孝が提案した「武蔵は私立学校、入学式や卒業式は家庭での祝い事に類似の私的な行事だから、それに『国歌』はなじまない」という論理は「学校が君が代を禁止するのはおかしい」という生徒からの反発への抵抗にも用いられたという。「公私」の区分を根拠に学園内での「公的なもの」を拒否するというそれ自体はしかし、山本にも共有されていたは見落とされる。彼は1939年の紀元節講話で、日本の民族文化を象徴する行事は江戸時代に比べて、現在では廃れてしまったとして、例えば紀元節には神武天皇にちなんだ人形や食べ物を設け、各家庭で肇国の日を祝い、その理念を生活のなかで共有し、民族意識を高めるべきであると主張している*83。実際に武蔵は元旦には式を行わずに、1月8日に年賀式を行っていたし、国家主導の紀元2600年記念行事には他校と違って生徒を派遣しなかった。国家(公)と個人(私)の目標を分離させる大坪とこれらを統合させる山本とは、イデオロギーの面では正反対であるが、「公的行事」に「私的団体」が関与しないという方針自体は共有している。つまり、山本にとっては忠君愛国の理念に基づいていた以上の論理は、戦後の文脈で換骨奪胎された上で、学園に「公」を持ち込まない、つまり国歌を拒否する方便として利用されたわけである。  大坪は以上の論理を「私立学校を盾にとった」逃げ道であるとしつつも、地元住民の税金で支えられる公立学校にも適用できるはずだとさえ主張している。もしそうだとすれば、究極的には各個人が主権者として国民自らを統治することになっている日本国憲法下において「公」の論理はどこに働く余地を残すのだろうか。大坪はこれに明瞭な見解を示していないが、これに対して山本の「私」の論理は、「家族」から「団体」を経て「民族」へと徳を通じてつながっていくという共同体観を土台にした。我々は政治哲学を論じるつもりはないが、「公的なるもの」への学園の関わり方が戦前・戦後で実は継続してしまっているという点について大坪が十分に総括していないことは明らかである。  次に、大坪は戦後的な価値観に合うように山本の行動を解釈しようとするあまり、その理念の内在的な把握に失敗している。例えば、「御真影と奉安殿 旧制武蔵高等学校の場合」(2001年)は、旧制武蔵はある時期まで御真影も奉安殿も設置しない方針をとっていたという話を皮切りに、山本の国家との関係を論じている。そうした方針を山本の「個性」を国家に対する「反骨伝説」とする言説を括弧に入れ、大坪は自らの研究に基づき、彼が三理想の成立や学校成立の過程を学園史にまとめる際に意図的な記述・編集を施していることを指摘し、さらに陸軍や文部省高官との密接な関係に着目することで「反軍」や「反官僚」の像を脱色している。ここまでは山本の国家主義への批判を貫く大坪らしいキレのある叙述である。しかし、1920年前後から僅か数年間で「国の状勢は一挙に超国家主義の方向に動き始めていた」と述べるくだりから叙述が怪しい。さらに、二・二六事件(1936年)の犠牲者に武蔵生の父親であった渡辺錠太郎陸軍教育総監が含まれていたことに山本が衝撃を受けたのではないかと推測し、これを転機として彼の反軍・反官僚(文部省)の傾向が一気に強まり、対英米開戦後は「戦局への憂慮と軍人嫌いとが山本校長の気持ちの中で重なって、驚くほど過激な反発につながったのではなかろうか」と仮定する*84。大坪は1942年4月に起きた御真影問題をめぐる山本と文部省官僚・陸軍軍人の大喧嘩をエピソードとして挙げるが、以上の議論は憶測に憶測を重ねたもので説得力に欠ける。  山本が晩年には立場を変えて国家主義に対する「反骨者」に転じたという議論は、第3節で論じたとおり、「日支事変」や「大東亜戦争」開戦後、日本の「世界史的使命」に対する山本の期待が強まったことを考えれば、再考を要する。確かに、武蔵が奉安殿を置かなかったのは、根津嘉一郎など明治をはじめから知る財界人には「大正から昭和にかけて天皇を神格化し超国家主義、軍国主義の道を歩み始めたこの国の状勢を批判的に見ていた人物」が多かったからだと述べる大坪はなるほど、明治世代の大正世代に対する違和感そのものには気づいてはいる。しかし、山本の明治人としての論理において、「國體」(伝統的な生活と精神に基づいた皇室を軸とする民族文化)という目的への忠誠と「国制」(集権的なシステムに基づく統治機構)という手段をめぐる異論は両立する。つまり、陸軍の軍事行動の個々のやり方には反対しても、日本の対外行動には全体的に賛成することは可能である。この精神を十分に汲み取れなかった大坪は、「忠君愛国」の理想とその支柱としての「歴史観」教育の実践に死ぬまで固執しつづけた山本の思想的な一貫性を捉え損ねたのである。  勿論、大坪が学園の歴史を担う正統な後継者として、「建校の父」の権威を完全に葬り去るのではなく、その可能性を救いとらざるを得ない立場にあったことは認めよう。けれども、大坪は国家(公)と個人(私)を対立項で捉える戦後的な社会観に囚われたため、山本にとって不可分なはずの「国家主義」と「自由主義」を無理に分断して解釈してしまった。結局、大坪の実証的な努力とその名声に支えられる形で、山本=武蔵の「反骨精神」なるものは――1936年の「転向」という伝説を援軍に――「リベラル」な校風を裏づける強力な神話となり、21世紀に入っても機能することになる。    武蔵という場で神話の破壊者にして歴史の創世者たらんと努め、両方の仕事を自分なりに済ませた大坪の晩年は、穏やかな収穫の秋であった。2011年8月には学園史研究が反映された『武蔵九十年のあゆみ』の刊行を祝い、2013年6月には国外研修制度でドイツ・オーストリアに派遣された(元)生徒たちやドイツ語教員との懇親会を楽しんだ*85。あの敗戦から70年目の2015年11月15日、新しい武蔵を創った「ラディカル・リベラリスト」はついに冥府へと旅立った*86。翌年2月の「お別れ会」では、長い土砂降りが大講堂に無数の雨音を響かせるなか、500人以上の「大坪チルドレン」たちが師の学恩を偲んだ。 おわりに  武蔵のキャンパスには大きな欅の木が立っている。学園の象徴ともなったオオケヤキは開校以来、1世紀に渡って教師や学徒たちを見守りつづけている。けれども「建学の父」の薫りは今やすっかり薄れてしまったように見える。  1993年、西田幾多郎の孫であり、旧制武蔵で教育を受け(16期理科)、その後は新制武蔵高校・中学で物理や数学を教えた上田久は『山本良吉先生伝』を刊行した。本書は、対象の著作を読み込み、多くの同時代史料を検討し、抑制された筆致で山本の教育者としての生涯を初めて包括的に描いた優れた評伝である。それが呼び水になったのか、『同窓会会報』では3年連続(93?95年)で山本や「武蔵らしさ」を扱う特集が組まれた*87。そこには山本のテキストの引用や旧制出身者たちの回想が収録されたが、現在確認できる限りでは、これが山本「と」武蔵をめぐる声の群れが見られる最後の機会であった。  2010年代以降、受験教育への批判から塾・予備校業界と距離をとっていた武蔵高中は、次第にそれまでの方針を修正し、対外発信に力を入れるようになった。そこでは、建学の三大理想がブランドの史的根拠として強力に作用する。教育ジャーナリストのおおたとしまさは、綿密な取材を通して、武蔵の理念と実践を他に類を見ないものだと賞賛するが、その歴史理解には、かつての神話の影がうっすらと見られる。旧制武蔵は「特権に守られ、受験競争とは無縁の、真のエリート教育」を行いつつも、御真影や奉安殿を置かず、小冊子『国体の本義』も無視するなど「体制に与しない気骨も稜々だった」とする*88。それはまさしく、大坪が破壊しようとしたが、内在的な検討を徹底しなかったために、逆に強めてしまった「リベラルな抵抗者」としての山本像である。結局、彼の抵抗の事実だけが「自由の校風」の根拠として切り取られ、抵抗の理念としての帝国・皇室への忠誠心は葬られてしまったのだ。  以上、山本「と」武蔵を結ぶ糸を近代以来の歴史的世界のなかで洗い直してきたが、そこから浮き上がるのは、「武蔵的なるもの」が「日本帝国的なるもの」の生成・転換・崩壊・復活のサイクルのなかで様々な語りをなしたということである。だからといって全ては仮構の言説だったのだと切り捨てることはしない。教育勅語の理念への奉仕を誓った山本と、それに徹底して反対した大坪は、政治的立場は正反対であるにもかかわらず、両者の歴史(観)を語る言葉は、明日の世界を担う強い主体性をいかに育むかという近代教育の根源的な問いに真摯に応答し、また学校教育という場で実際に作動したからである。  では、山本という存在を〈ここ・いま〉の視座からどう考え直せるだろうか。20世紀の経験を経た我々にとって、山本の民族主義や国家主義を批判ぬきで扱うことなどできないし、理性を備えた強い主体を前提とする人間観も、数ある近代主義批判を前に修正を余儀なくされるだろう山本(や大坪)の理念を歴史的文脈から離して評価するのは極めて難しい。例えば、武蔵の三理想を「全球化globalization」の時代に「自律的思考」でもって対応できる個人を目指すことなどと読み替えるのは、それこそ山本の盲目的な伝統破壊への批判や、大坪の価値の画一化への警戒を水に流しかねない安易な行為である*89。  それでも、なんとかして山本の遺産を拾い上げようとすれば、そこに「型」への拘りがあることに気づく。思想家の唐木順三は戦後まもなく、近代日本の知のあり方を「型の喪失」と総括した。明治初期生まれの知識人は伝統的な形式を守ったが、明治20年代以降の世代は個性と自由を求める。前者(修養派)は「あれかこれか」と一冊の古典を熟読し、素読や坐禅などの身体実践を通じて知を身体に刻むのに対し、後者(教養派)は「あれもこれも」と多くの書を乱読し、内面世界での思索を通じて知と戯れる。昭和に入ると教養派は、強い型を擁するマルクス主義と帝国陸軍の席巻に対抗できず、やがて軍国主義の一人勝ちになってしまった*90。以上を補助線にすると、山本が武蔵で伝えようとした知のあり方の意味も、それに生徒たちが反発した理由も明快となる。山本は、生徒自身が「筋肉」を動かすことにこだわり、選ばれた古典(古文・漢文)を精読させ、自らもまた老年に至るまで謡曲に親しんだ。そして何のために教育の「自主」や「自由」があるかを自分なりに考え抜いた結果、大正という脱「型式」の時代風潮を横目に、明治の精神を徹底的に肯定したのだった。その方針が「個人」の自律を求める新世代の生徒たちの反発を生むのは必然であったが、山本の「ラディカルな反動性」は堅固な「型」を備えていたからこそ、左右の「全体主義」という新興の「型」に対して――「リベラル」な歴史観の想定とは逆のベクトルではあるが――叛逆しつづけられたと考えてよかろう。  今世紀に入って加速するIT革命と情報爆発、価値多元化のなか、もはや古典どころか一冊の新書さえまともに読めず、身体的な知の感覚を働かせる機会をほとんど失った我々にとって、残された唯一の規範とは、いかなる「型」からも脱して「自由に」(市場経済の再生産のために!)生きよという、見えざる「メタな型」である。機械翻訳もウィキペディアも使える新世紀に、敢えて漢文を暗唱させたり、原史料に耽溺させたり、英語以外の語学を習得させたりする教育は「反時代的」と目されるかもしれない。だが、少なくとも、画一的な「メタな型」を照らし出し、相対化するという目的に限るのであれば、自己と世界の具体的なつながりを「筋肉」を通じて「自ら調べ自ら考える力」は新たな可能性をもつのではなかろうか。「晁水」山本良吉の遺産は、我々に大きな問いを残している。 (後記)  本文に登場する史料は、読みやすさのために一部を常用漢字に改めて引用した。現代の観点で不適切と思われる表現であっても、同時代の雰囲気を伝えるためにそのまま引用した。武蔵の卒業生については旧制は「◯期文・理科」、新制は「◯期」と記した。    本論の執筆にあたり、武蔵学園記念室所蔵の数多くの貴重な資料を利用させていただいた。多忙のなかで全面的な協力を惜しまなかった同記念室の畑野勇室長に深く御礼申し上げる。有益なコメントをくださった同記念室の福田泰二名誉顧問(元武蔵高等学校長)・三澤正男調査研究員(高校45期・前武蔵学園記念室長)ほか、本学園史の書き手と読み手の全ての方々に感謝する。本論に対し、忌憚なき批判・助言を賜れれば、またOBの一人(84期)が残した声として読んでもらえれば幸いである。 注 *1 ここでの山本評は以下を参照。黒澤英典「武蔵学園建学の思想と山本良吉の教師論:閉塞的時代をリードした気骨あふれる教育者」『武蔵大学人文学会雑誌』41(3・4)(2010年3月)、199頁。相原良一「山本先生の思想について」川崎明編『晁水先生遺稿続編』山本先生記念会、1966年、547頁。兵頭高夫「山本良吉小論」『武蔵大学人文学会雑誌』37(4)(2006年3月)、126頁。大坪秀二『大坪秀二遺稿集』武蔵エンタープライズ、2017年、156、182頁。山本と武蔵学園をめぐる先行研究としては、上田久による評伝(上田久『山本良吉先生伝:私立七年制武蔵高等学校の創成者』南窓社、1993年)と大坪による一連の論考(大坪秀二、前掲書の「4 学園史研究」に収録)が最も充実している。  また、武蔵学園と関係しない点で山本を論じる研究も存在する。特に同郷の親友・西田幾多郎や鈴木大拙との関係で注目されてきた。石川県の知識人ネットワークの文脈で論じるものとして、浅見洋『思想のレクイエム:加賀・能登が生んだ15人の軌跡』春風社、2006年の第2曲「母への努めを果たす―気骨あふれる教育者・山本良吉」を参照。また明治知識人の宗教観の事例研究として山本を扱うものとして、松本皓一「晁水・山本良吉の宗教観」『駒澤大学佛教学部研究紀要』40(1982年3月)、62~83頁がある。  なお、山本は西田・大拙と膨大な量の書簡を交換している。それらの多くは今世紀に入って岩波書店より再編集・再刊行された『西田幾多郎全集』(全24巻、2002~2009年)および『鈴木大拙全集増補新版』(全40巻、1999~2003年)に新たに収録されている。濃厚な人間関係にもとづく私的なやりとりからは、両者の思想が生成変化していく過程を、論文や書籍、講義といった公共空間を意識せざるを得ない媒体には見られないような、赤裸々な痕跡を観察することができる。西田・大拙の思索に山本が果たした役割を考えることも、両者との関係から改めて山本の思想的意義を捉えなおすことも、学園史を広く位置づける上でも重要な課題となるが、それについては別の機会に論じたい。 *2 上田久、前掲書、271頁。 *3 「学園史」は、学校関係者の、学校関係者による、学校関係者のための歴史叙述としての性質をもつ以上、学園の指導(運営)者を顕彰する英雄伝となりがちである。伝統が浅い最初のうちはそうした歴史のあり方にも確かに意味はあろう。だが、学園創設から100年を数え、近代的教育理念の見直しや少子高齢化が世界的な課題となったいま、学園史は内向きの郷愁や好奇心を満たすためだけの「考古的歴史」を越え、外部を巻き込んで議論を喚起して新たな価値を生み出す「批判的歴史」を志向せねばならない。 *4 本節における山本の京大時代までの伝記的記述は次に依拠した。上田久、前掲書、第一章から第三章3節まで。 *5 山本良吉「開校十五週年記念式」『校友会誌』(武蔵高等学校)第34号(1937年6月)、14~15頁。 *6 北條の評伝は以下を参照。丸山久美子『双頭の鷲:北条時敬の生涯』工作舎、2018年。 *7 不孝(山本)良吉「アゝ我母」川崎明編『晁水先生遺稿続編』山本先生記念会、1966年、464頁。初出は『校友会雑誌』(静岡中学校)第2号(1896年4月)。 *8 山本の著作一覧は次を参照。上田久、前掲書、273~286頁。また山本の関連文献を含めたものとして「武蔵学園記念室支援サイト」内のページ(鈴木勝司編)を参照。http://wwr3.ucom.ne.jp/sirakigi/yamamoto-bk.html (最終閲覧日:2021年9月26日) *9 山本良吉「明治の三世」川崎明編、前掲書、464~474頁。初出は『静岡県教育協会雑誌』第126号(1899年5月)。 *10 同上、470頁。 *11 同上、471頁。 *12 同上、472頁以下。山本良吉「教育家と理想」川崎明編、同上、285?290頁。初出は『静岡県教育協会雑誌』第117号(1899年2月)。 *13 山本良吉「小学教師に呈す」川崎明編、同上、302頁以下。初出は『静岡県教育協会雑誌』第144号(1900年3月) *14 本節の学習院時代の山本の伝記的記述は次に依拠した。上田久、前掲書、第三章4節。 *15 臨時教育会議の概説とその時代背景については次を参照。山本正身『日本教育史』慶應大学出版会、2014年、第12章。 *16 小林敏明『西田幾多郎の憂鬱』岩波書店、2011年、318頁。 *17 山本良吉「岡田良平氏と歿後の教育界」『東洋文化』第109号(1934年5月)、13~23頁。山本は自由主義者と官僚主義者の代表としてそれぞれ澤柳政太郎と岡田を対比し、大衆受けはしないが教育人として誠実なのは岡田や山川・北條らであるとしている。澤柳は大正新教育(自由主義)運動の立役者、7年制高校をもった成城学園の創設者として知られる。山本のもつ澤柳および自由主義教育との距離感は改めて検討する必要があるが、少なくとも「リベラル」の名のもとに武蔵とほかの学校を論じることは避けるべきだろう。 *18 詳しい日程は以下の通りである。8月3日に合州国に入って大陸を横断し、11月6日に出国、大西洋を経て11月13日にイギリス着、12月1日にオランダ、12月4日にドイツ、12月14日にフランスに入って年末を過ごす。翌年1月16日にスイスを訪れ、同月19日にフランスに戻ってから2月12日に再び訪英する。そこで5月16日までロンドンやケンブリッジ、オックスフォードなどを視察し、再びフランスを経て5月23日にはマルセイユを出港、その後は地中海からスエズ運河、コロンボ、シンガポール、上海を経由して、7月2日に神戸に上陸、3日後に東京に帰着した。上田久、前掲書、139~140頁。 *19 山本良吉『わが民族の理想』弘道館、1921年、1頁。 *20 同上、4~7頁。 *21 同上、8~9頁。 *22 同上、5~7頁。 *23 山本良吉(尾形健編)『祖父・山本良吉渡欧日記:1920年-21年』私刊、1995年、62?64頁。1920年12月10日付。Kulturとはドイツ語で「文化」を表す単語であるが、大戦前後には英・仏の「文明civilisation」に対して独自の民族性を強調するための概念としてしばしば持ち出されていた。 *24 山本良吉『わが民族の理想』、12~23頁。 *25 一高教授としてフランスに派遣されていた太宰から受けた影響は、山本の日記(1921年2月10日付)にも反映されている。山本良吉(尾形健編)、前掲書、140~144頁。 *26 山本良吉『わが民族の理想』弘道館、1921年、25~29頁。 *27 同上、29~39頁。 *28 山本は個人主義の弊害として他者への同情心の欠乏を、その急進化として女権拡張(フェミニズム)運動や労働運動(ストライキ)を挙げて批判している。同上、42~45頁。 *29 同上、46~50頁。 *30 同上、52~55頁。 *31 同上、56~57頁。 *32 同上、63~72頁。 *33 武蔵学園が90年以上の伝統をもつと公言する建学の三理想は次の通り。 「1. 東西文化融合のわが民族理想を遂行し得べき人物   2. 世界に雄飛するにたえる人物  3. 自ら調べ自ら考える力ある人物」 根津育英会武蔵学園HP内より引用。https://www.musashigakuen.jp/gakuen/kyouiku.html (最終閲覧日:2021年9月30日) *34 山本良吉『わが民族の理想』弘道館、1921年、76~77頁。 *35 同上、80~90頁。 *36 同上、90~92頁。 *37 同上、第七章。 *38 1918年に送った山本宛書簡によれば、西田は文化のパトロンとして天皇を捉える考えをもっていたようだ。文化的共同性の象徴としての皇室観は、西田の死後、その人脈を通じて、戦後の象徴天皇制を支えるイデオロギーとなったという小林の議論は、山本の皇室観を考える上でも示唆的である。小林敏明、前掲書、338~356頁。 *39 山本良吉『わが民族の理想』弘道館、1921年、86~89頁。 *40 武蔵時代の山本の伝記的記述は次を参照。上田久、前掲書、第四・五章。その他、通史については例えば、武蔵九十年のあゆみ編集委員会『武蔵九十年のあ*ゆみ』根津育英会武蔵学園、2013年。 *41 中村草田男(くさたお)(1901~83)作。後に『長子』(1936年、沙羅書店)所収。 *42 維新史料編纂事務局の業務については次を参照。淺井良亮「明治を編む:維新史料編纂事務局による維新史料の蒐集と編纂」『北の丸』第50号(2018年3月)、81~92頁。 *43 昭和初期の明治維新像については次を参照。奈良岡聰智「『昭和戊辰』における明治維新イメージ:歴史意識の変容と相克」(瀧井一博編著『「明治」という遺産:近代日本をめぐる比較文明史』ミネルヴァ書房、2020年所収)。 *44 山本は自ら編纂した学園史のなかでも生徒・教員の共産主義との接触を憂慮している。第八年目(1929年)の記述にそれが見られる。武蔵高等学校編『武蔵高等学校二十年史:二五八二年~二六〇一年』1941年、42~43頁。 *45 山本良吉「思想問題の一方面:民族文化の闡明」内田泉之助編『晁水先生遺稿』故山本先生記念事業会、1951年所収)。初出は『東洋文化』第87号(1931年9月)。 *46 「西田幾多郎「思出話」内田泉之助編、前掲書、6頁。初出は『校友会誌』(武蔵高等学校)第49号(1942年12月)。ただし西田はすぐ後に「彼の様な頭の人が、単なる保守主義者になれ様はない」と述べている。 *47 山本良吉『勅語四十年』教育研究會、1930年、i頁(最初の数頁には頁番号なし)。 *48 同上、1~11頁。 *49 同上、14~15頁。 *50 例えば、山本正身、前掲書、第6~9章。侍講として明治天皇に儒学を講じた元田は宮中要人とともに、藩閥政治に対して天皇を頂点とする政治体制を築こうと試みていたという背景は無視できない。山本は随所で国体を重視する元田の思想と実践を高く評価しているが、明治国家と立憲体制における宮中の役割を彼がどう考えていたのかは改めて問われるべきであろう。 *51 山本良吉『勅語四十年』教育研究會、1930年、44頁。 *52 貝塚茂樹「教育勅語の戦前と戦後:教育勅語研究の現在と課題」(道徳教育学フロンティア『道徳教育はいかにあるべきか:歴史・理論・実践』ミネルヴァ書房、2021年所収)36~38頁。近現代日本の道徳教育の通史としては、江島顕一『日本道徳教育の歴史:近代から現代まで』ミネルヴァ書房、2016年。 *53 山本校長(良吉)「明治講話〔九〕明治二十七八年戦役に就て」『校友会誌』第36号(1938年3月)、巻末14頁。 *54 山本校長(良吉)「明治講話〔十一〕明治の旅行」『校友会誌』第44号(1941年3月)、巻末1頁。 *55 同上、巻末14頁。 *56 その最も有名な例として次のものがある。和辻哲郎『日本精神史研究』岩波書店、1926年。西田直二郎『日本文化史序説』改造社、1932年。20年代以降、「文化史学」は、古代史家の津田左右吉や思想史家の村岡典嗣(武蔵の「民族文化講義」にも出講)などの仕事によって評価を高め、特に西田が属した京都帝大の国史学科がもっていた、狭い政治的領域にとどまらない民族の精神発展を広く研究する気風のなかで、また京都の学際的なネットワーク(哲学・文学・人類学・宗教学…)を背景に、独自の研究成果を生み出した。 *57「民族文化講演「日本彫刻史」概要」『校友会誌』(武蔵高等学校)第17号(1931年12月)、172~189頁。注記によれば、本文は校友会文化学部の生徒が関野の講演内容の要項をまとめたものである。 *58 川崎明編、前掲書、661頁。 *59 山本良吉「憲法五十年史」『校友会誌』第37号(1938年6月)、8~9頁。 *60 山本良吉「教育勅語の発布に就て」『校友会誌』第36号(1938年3月)、7~8頁。 *61 京都学派の「世界史の哲学」や日本浪曼派の「近代の超克」といった言論的キャンペーンは無論、戦争責任論で一刀両断できるものではない。特に山本や西田たちが右翼(原理日本社など)や陸軍からの暴力に晒されるなかで思考をつづけていたことの重みは十分に踏まえられねばならない。大橋良介『京都学派と日本海軍』PHP研究所、2001年。 *62 無記名「シンガポール陥落祝賀式」『武蔵』(武蔵高等学校報国団)第47号(1942年3月)、1~2頁。 *63 同上、4頁。 *64 同上、4頁。 *65 貝塚茂樹、前掲論文、38?40頁。なお、貝塚によれば、勅語が現場でどのように運用され、どの程度まで機能したかという問題や、勅語の解釈変更を促した社会・思想的背景は何であったかという問題は、特に昭和戦前期では十分に解明されていないという(同上、46~47頁)。明治に制定された教育勅語がそのまま「戦争イデオロギー」になったという直線的な理解を修正するためにも、本論を含めて多くの事例研究が必要だろう。 *66 山本良吉『発動主義の教育』弘道館、1913年。 *67 山本校長(良吉)「二六〇一年紀元節講話」『武蔵』(武蔵高等学校報国団)第44号(1941年3月)、4頁。 *68「故山本校長追悼会」『武蔵』(武蔵高等学校報国団)第49号(1943年3月)、14~20頁。山本は日本の伝統的にあった尺貫法の保存を擁護し、それを破壊するメートル法をトップダウンで導入することに対して徹底して反対した。関係する論文として、山本良吉「メートル制の再判」『東洋文化』第109号(1933年7月)、12?18頁。同「メートル法強行について再説明」『東洋文化』第113号(1933年11月)、13~22頁。同「メートル法問題と官僚と内閣」『東洋文化』第123号(1934年9月)、12~19頁。ほか多数あり。 *69 川崎明編、前掲書、606頁。 *70 同上、618頁。 *71 同上、750頁。岩田雄二(15期文科、当時は大日本紡績綿布課長)の発言。 *72 同上、712~713頁。 *73 同上、713~716頁。 *74 同上、794~797頁。ここで鈴木が「まあ、ワンマンじゃありませんけれどね」と場を和ませる言葉を挿んでいる点も興味深い。 *75 同上、817~819頁。 *76 大坪の経歴は次を参照。大坪秀二、前掲書、503~504頁。 *77 大坪秀二「武蔵七十年史余話(その三)野球禁止考」(同、前掲書、166~171頁)。初出は、『同窓会会報』第42号(1999年11月)。 *78 大坪秀二「武蔵七十年史余話三理想の成立過程を追う」(同、前掲書、155~159頁)。初出は『同窓会会報』第39号(1997年11月)。 *79 大坪秀二、前掲書、283頁。 *80 大坪秀二、前掲書、8頁。初出は『武蔵』(武蔵高等学校報国団)第50号(1944年1月)。 *81 大坪秀二「「君が代」の歌と「武蔵の式」のこと」(同、前掲書、176~180頁)。初出は、『同窓会会報』第43号(2000年11月)。 *82 内田泉之助「序」川崎明編、同上、1頁。 *83 山本校長「紀元節講話」『校友会誌』(武蔵高等学校)第39号(1939年7月)巻末1~3頁。 *84 大坪秀二「御真影と奉安殿旧制武蔵高等学校の場合」(同、前掲書、181?188頁)初出は『同窓会会報』第44号(2001年11月)。 *85「武蔵高等学校国外研修ドイツ・オーストリア派遣生懇親会」は2013年6月30日の夕方に当時の図書館棟で開催された。(元)派遣生は63期から86期まで30人ほどが参加し、本論著者の吉川(高校84期・2010年ヴィーン派遣生)もその一人であった。 *86 根津育英会理事(2021年9月現在)を務める植村泰佳(高校45期)は、『大坪秀二遺稿集』刊行委員長として、かつてその教えを受けた大坪を「自由」「平等」「博愛」という近代の徳目を「原理的」に思考・実践した「ラディカル・リベラリスト」と称している。植村泰佳「大坪時代」(大坪秀二、前掲書、507頁)。 *87『武蔵高等学校同窓会会報』第35号(1993年11月)~第37号(1995年11月)の特別企画のタイトルは「武蔵と山本良吉先生」「武蔵らしさと山本良吉先生」「武蔵らしさとはなにか」であった。 *88 おおたとしまさ『名門校「武蔵」で教える東大合格より大事なこと』集英社、2017年、5頁。なお「一二歳で武蔵に合格すれば、ほぼそのまま無選抜で帝国大学に入学できる特権が得られた」という記述は不正確である。旧制高校から帝国大学への進学は原則、無試験とされていたが、大正期に中等教育を受ける人数が激増したため、1922年から各帝国大学は進学者に統一試験を課している。特に東京帝大といった人気大学、法学部や医学部など人気学部には多くの高校生が殺到した。なお、1927~40年のデータによれば、最難関校の東京帝大法学部への合格率は、武蔵が第一高等学校を抑えて首位であり、同大医学部への合格率も50%を越えている。旧制武蔵と受験戦争の相性は抜群であったようだ。竹内洋『学歴貴族の栄光と挫折』講談社、2011年、132~141頁。 *89 ここまでの議論が明らかにした通り、山本が生徒たちに強く求めたのは「国際性inter-nationalism」であって「普遍性universalism」ではない。「国民nation」を前提とする「国際性」という概念は、「国民国家」が経年劣化を迎える今、練り直される必要があるのは確かだが、一方で「全球性globalism」の急進的拡張が、あらゆる面での不平等や格差を人類史上類を見ないレベルでもたらしているのは間違いない。日本の受験教育において東大を頂点とする「大学偏差値ランキング」が、英米名門大学を頂点とする「世界大学ランキング」へと取って代わられ、「グローバル人材」の名の下に、人間の評価軸がますます画一化する日も決して遠くはない。世界と個人とその「あいだ」で我々はいかに生きていくべきか。山本や大坪たち「と」武蔵のつながりに眠る「歴史の教訓」はまだまだ多い。 *90 唐木順三「現代史への試み:型と個性と実存」(『現代史への試み 喪失の時代(唐木順三ライブラリーⅠ)』中央公論新社、2011年収録)。初出は『現代史への試み』筑摩書房、1949年。
2020.09.30
武蔵今昔物語
武蔵百年への船出
青春の日付変更線をこえて
 花曇りの空から、わずかに陽ざしがこぼれた。武蔵野を渡る南風がやわらかに頬をなでたが、集った人びとはややかたい表情で時を留めた。  本記事の冒頭に掲げたのは、大正11(1922)年4月17日、武蔵高等学校の第1期生入学式の集合写真だ。いまから98年前のこの日、武蔵は日本初の私立七年制高等学校として歩みはじめた。尋常科4年、高等科3年を基本とする新学制の下にいち早く誕生したのは、根津嘉一郎という一個人の貢献によるものだった。  それ以前の中学5年、官立高校で3年の計8年ではなく、尋常小学校卒業後、7年間の一貫教育で大学に進学できる新しい学校である武蔵には、全国から1,102名が志願した。  一私人の篤志による設立、広大な校地に募集定員わずか80名という個性ある学校は、入学試験も独自だった。「理解力」では、「其の右に出づるものなし」「すめばみやこ」などの語句の説明や、武将の辞世の歌の知識を問う難問もあった。最後の大問は「世界石炭産額の比較」で、文科理科を問わず幅広い基礎教養を考査している。さらに「観察力」では実物の葉を3枚用意して差異を書かせていて、現在も武蔵中学入試の理科で出させれるいわゆる「おみやげ問題」は第1回入試から出題されていた。武蔵三理想の一つ「自ら調べ自ら考える人物」は入試問題からも求められていた。  こうして船出した武蔵は、初代校長に一木喜徳郎(枢密顧問官)、第二代に山川建次郎(東京帝大総長)という教育界の重鎮をすえ、強力な教授陣のもと、根津理事長の教育は現場に委ね経済的支援は惜しまぬ理解を得て、授業も設備施設も充実していった。また山上学校などの校外活動も開校直後から行なわれた。  とはいえ、都心から離れた小さな私立校が「一中、一高を経て帝大へ」を至上とする当時の学歴社会の荒海を渡っていくことへの不安は、生徒も父母も教員も抱えていただろう。しかし彼らの表情は、それ以上にパイオニアとしての希望と気迫に満ちている。事実武蔵は、その心映えのままに草創期を駆け抜けていく。  この日は少年たちにとって、海図も航跡ない日付変更線の彼方への船出だった。だから未来を見つめる彼らの表情は、かたいながらもどこかまぶしそうだ。                                                      (武蔵学園記念室・調査研究員 三澤正男) ※写真上=初代校長・一木喜徳郎 下=第1回入学試験の「観察力試験」  
2021.07.26
武蔵学園史紀伝
正田構想実現の10年間を回想する
正田構想実現の10年間を回想する 【武蔵学園記念室より:以下の文章は、故大坪秀二氏(高校16期・元武蔵高等学校中学校校長)が生前、『武蔵学園史年報』第14号(2009年3月刊)に寄稿されたものである。】 ◆はじめに  たまたま時の巡り合わせのような縁で、『武蔵七十年史』編纂を機に学園史資料に関わることになり、20年近くが過ぎてしまった。その70周年記念事業で設置された学園記念室では、2022年に刊行されるであろう学園の正史、『武蔵百年史』を一つの目標とした仕事が進められている。旧制時代と、新制高校中学の18年間(発足から1967年3月まで)については、概略の記録を「校務記録抄」や「記録抄」として7回に分けて学園記念室年報に発表した。それらについては、歴史家でもない私が不遜とは思いつつ資料を取捨し、解題を書いた。対象とした四五年間のうち、筆者は生徒時代、教師時代を併せて23年半を武蔵で過ごした。一数学教師としての管見ではあるが、大勢の同僚と気持ちを共有するものが多く、ある程度は客観的な見方を貫くことが出来たように思っている。私はこれで、武蔵の歴史をあとの人々に引き継げると思った。  記念室の方針として、世間一般に倣い、30年以上を経過した史料は出来るだけ記録として遺すこと[30年ルール]にしており、現在[=この文章が執筆された2008年の時点(武蔵学園記念室注)]それは1978年以前を意味する。未発表の分の初めの10年間は、いつの間にかその30年ルールに当てはまってしまった。そのとき、任じられて教頭、のち校長の職にあった筆者には、それを取り纏める資格はなく、しかし、後継の人選は決まっていない。これまで協力して仕事をしてきた記念室関係諸氏のご意見で、ごく概略の記録だけでもまとめておけば、と促されて、異例ではあるがその10年間の整理をすることにした。  流れの大筋は、事務長が記録する「学務日誌」に拠り、これに内容的な肉付けを加える史料として、「教師会議事録」と、私自身の校務メモ(主として教師会のための準備)、私自身の日記(両メモをあわせて[大坪メモ]とした)とを援用した。他に『大欅』[学校と家庭の連絡誌]、『校友会報武蔵』の両資料を確認程度に利用した。私には克明な記録を残す習慣がなく、教頭になってやっと、書き残すべきことがあると気付いたが、長年の習慣は簡単には改善できず、今更ながら恥ずかしく思っている。 あり合わせの資料を並べただけの変則な記録であるが、これに『解題』を書くのも烏滸がましく、記念室運営委員会のお許しを得て、主な事柄についての私自身の回想のようなものを書き並べてお許し頂きたいと思っている。 ◆学園再編計画 第2次正田構想 (1966~1967年度)  学園を挙げて朝霞に移転するという第1次正田構想は、米軍朝霞基地[一部は既に自衛隊が使用中、さらに1966年にはホークミサイル基地となることが予定された]の追加払下げ可能性が消滅した段階で振り出しに戻ったが、大学を複学部にする(当初は文系、理系各一学部増設)構想は生きていた。1966年度の終わりには「学部増設準備会」が発足して、高中からは大坪[筆者。1967年度から教頭就任予定]と島田[いずれ日本史担当として大学への移籍が予想されていた]の二教諭も準備会の委員に加えられていた。 学部増設は殆ど大学プロパーの問題のように見えて、実はそうでない。新設すべき大学学部の居所を何処に設けるかは、大学と高中が建物についても運動施設についても混在していた当時にあっては、先ず直面する大問題であった。[さらに、東京都外の朝霞に移転する場合と異なり、江古田校地内で大学と高中が共存することになると、その住み分けの処理が、新学部認可申請の時期次第では、認可の成否にも微妙に関わる懸念もあった]  この問題は、結局、大部分が正田学長・校長の意中にあるということを、関係者みんなが暗黙のうちに了解し合う状況のなかで進行したといってよい。したがって、筆者が校長の計画の具体的な内容を正式の場で聞いたのも、1967年6月27日、高中父兄会長と高校同窓会長とを校長自宅に招いての新計画への募金事業に協力を懇請したときである。もちろん、それ以前に漠とした構想の話はあった。筆者が教頭に就任したばかりのころ、正田先生に誘われて濯川のへりを散歩した折のことである。「将来にわたって、大学、高中それぞれが施設その他の更新を望むことがある筈。それが、一々学園全体の問題となって動きがとれなくなるような事態には、今こそ対処しておかねばならない。それに、学生運動はまだまだ序の口で、将来に向けて一層高まることが予想される。大学、高中が完全に混在している現状で、どちらかに何事かあれば、必ず影響は全体に及ぶ。火種は個々別々なことが多いだろう。必要なだけの対応ですませる為にも、お互いの生活域は分けておく方がよい」と、まあこんな話であった。正田先生の考えはこの点ではっきり決まっており、細部のプランが未定のままに、濯川の線が大まかな境というところまで煮つまっていた。そして、先生はこの構想の線でどんどん周囲への働きかけを行っておられた。『正田構想』と呼ばれた所謂である。 ◆動き出した計画 (1967年度後半)  1967年9月末から計画は一気に動き始めた。まずは、教師会に校長から計画を発表することであったが、全員の同意を得ることは決して簡単なことではなかった。構想そのものへの強い批判もあった。その後の教師会では、強硬な反対意見も堂々と述べられ、論議は年末近くまで繰り返された。さんざん議論した揚げ句に、疑義は残したものの、学長・校長構想の線でとにかくまとまろうと言うことが多数の同意を得た。このあと、生徒への説明は教師会の論議をふまえて、11月24日、講堂に全校生徒を集めて教頭から説明が行われた。説明は1時間半に及び、10日ほどあとの代表委員その他有志との話し合いも含め、現段階で分かる限りの情報を尽くして話し合った。11月14日に父兄会委員会での説明のあと、生徒にも情報が流れて、主として上級生の間には反対行動を企てるやの噂も聞こえていたが、この説明後の全体の傾向としては、つとめて前向きに受け止め、遠慮なく要望を発言して行こうという方向に変わっていったのは頼もしいことであった。  根本問題の議論とは別に、具体的な移転計画は時間と睨めっこで進めねばならない。各教科に現状確認の作業が求められ、新施設への要望事項をまとめるための調査、検討が始められた。総務委員のほかに建設担当の小林教諭、体育施設担当の飯塚教諭(当面代理高橋教諭)を加えて建設委員会が作られ、専ら建設のことを扱った。一部屋を無理矢理に空き部屋にして、ここを建設委員会の作業場とした。 募金計画への対応は、父兄、同窓の間で大層好意的に進められ、学校側としては只ただ感謝であった。父兄会委員長会、委員会、総会がそれぞれ一度ならず持たれ、熱心な討論が夜遅くまで行われた。こうした率直な作業が、通り一遍、儀礼的な賛同ではなく、歯に衣着せぬ討論を経た強固な合意を形成してくれたと思っている。  同窓会については、総会、旧制・新制それぞれの部会、卒業期ごとや部ごとの集まり、関西・中京・東北・北海道等地域での集まりと、実に様々なグループが賛同と後援の催しを行ってくれた。その他、同窓には第一線で活躍中の建築家が多く、幾つもの場面でその人たちのアドバイスを得ることが出来た。もちろんその中心となってくれたのは建築学科の大先輩太田博太郎先生であり、すべてについて気を配ってくださったのは内田祥哉先生(17理、当時東大建築学科教授)であった。 ◆「日常+建設」の1年半  1967年の年末に設計・施工会社が清水建設に決まり、学校建築専門家をまじえたスタッフが紹介された。その人たちと年末から年始にかけて幾つかの学校を見学したのを皮切りに、設計の本格的な相談が始まった。相談はすべて建設委員会の部屋で行われたが、正田校長は毎週1度の定期会合に必ず出席されて、具体的な件にも個人の見解を述べられた。旧テニスコートの周りに植えられていた7本ほどの欅を1本だけは保存し、新校舎の屋上に穴を作って欅はその穴を貫いて茂らせるという設計側の案に、せっかくの欅は全部残して、それにさわらぬように校舎をプランしたいと提案されたのは正田先生だった。欅の列を渡り廊下が貫くというプランがこれで確定した。  基本設計の相談が始まったのが1月半ば、そして3月半ばには大坪、小林の二人が清水建設本社に出向いて設計スタッフと膝詰めで正味8時間を越す作業を行い、やっと基本設計を完了した。この2ヶ月間は教師としてのルーティンな仕事も多忙な年度末であり、これに設計計画が加わって、徹夜に近い忙しさに耐えた日々であった。[筆者注:このような高中プロパーの仕事は、大学の人たちには殆ど伝わっていなかったらしい。3月14日の学園協議会では、何の相談もなく勝手に基本設計を作ってしまったと学・校長をなじる発言が大学側から出て、「基本設計は案であること、一昨昨日、長時間かかって出来たばかり、一昨日教頭から報告を得て、すぐに学部長に渡したものであること」が学・校長から説明された。『武蔵学園史年報第9号』「学園協議会議事録」には、この時のやりとりがかなり省略して記録されている(43~44ページ)]  新しい学年が始まり、建設は実施設計に入った。細部になるほど素人の手に負えない事柄が多くなったが、内田教授の計らいで、34期の澤田誠二氏が技術的問題を検討する大役を引き受けてくれた。我々教師側にとって力強い味方であった。  この段階では、一つ一つの細部がすべて施工費算定に直結するので、きびしいやりとりが際限なく続くことになった。決着までの3ヶ月間には、思い出として苦いものが多い。計画の基本だけは崩したくなかった。初めて経験する「値段をめぐるやりとり」も、内田教授ほかの味方になってくれる人々の助けで何とか耐え抜いた。理科関係教室の設備を一部分別枠にすることで交渉が妥結し、7月15日に契約成立、全校生徒も出席して地鎮祭が行われ、新校舎への移転がはっきりとした未来として意識されることになった。  予想外のことの一つに、5月16日の十勝沖地震があった。倒壊した建物に学校建築が多く、構造上の強度があらためて問題になった。しかし、この時ただちに構造設計を見直すまでには到らなかった。此の問題は、1981年夏の校舎一部増築の時にまで持ち越された。  記事が前後したが、1969年4月の新校舎への移転を必ず実現しなければならないと言うギリギリの条件をあてがわれて、それでも生徒たちの日常の活動はなくすわけに行かない。体育館、グラウンド、テニスコート、すべてなくなって、この1年間、どこかの施設を借用して活動を続けねばならない。それは高中生だけでなく、大学生も同様であった。近隣の学校の厚意に縋り、他方で朝霞校地の迅速な整備が求められた。その工事中に遺跡が出土して一時工事中断。幸に早めに処理されて、切り抜けることが出来た。人文学部のための旧校舎の改装は先ず外壁の塗装から始まり、高中の授業終了をまって、内部の大がかりな模様替えを急ピッチで進めねばならない。これらすべてのお膳立ては、地鎮祭以後現場事務所が立ち上がるころから、先へ先へと相談が進行した。  1968年4月には、大学、高中双方の体育科の一致した意見が通って、大学体育館も江古田校地内に造ることが決まっていた。高中の体育館・グラウンド・集会所等については父兄、同窓の寄付金で造られることから、設計・管理[もちろん大学体育館も含めての]を19期卒業の山田水城氏に依頼することが決まり、夏の間にその点の調整が行われた。そのこともあって、体育館等の工事の細部決定だけが残った一一月末に、筆者が工事現場で転落、腰椎骨折の重傷を負うという不測の事故に遭ってしまった。必ずかぶらねばならぬヘルメットのせいで身長がほんの3センチほど高くなっていたために、触らずにすむ筈の足場パイプがヘルメットに当たったためであった。「ヘルメットは必ず阿弥陀にかぶれ」という工事現場の鉄則があることを後で聞いた。私の不注意が多大の迷惑をかける結果になったが、幸運にも入院108日、コルセット生活1年半という療養で全快することが出来た。しかし、1969年4月から大学人文学部に移籍予定の島田先生に4月末まで教頭代理をお願いしたことは、申しわけないことであった。  これら、当時の事情を回顧しながら思うことは、教師会のほかに、総務委員会、学科主任会、建設委員会がそれぞれ身軽な数名ずつのメンバーで機能したことの有難さである。 ◆高校紛争の1年間 (1969~1970年度)  1960年代の半ばすぎから、学生運動が大学を中心に少しずつ高まりはじめた。ベトナム戦争に反対する平和運動(ベ平連)、沖縄返還交渉に於ける核の問題、1968年にフランス全土を覆った学生の反乱、同年の日大闘争、東大医学部を発端にして全学に拡大した反権力闘争、それに1970年6月の日米安保条約継続問題など、幾つもの要因を抱え、指導者も様々な混迷の時代であった。 反乱の波は1968年終わりごろには高校段階までおりてきて、学校側、教師側への反権力闘争の形をとり、過激化した。武蔵でも、1969年3月の卒業式への異議申し立てを皮切りに、4月には沖縄反戦、10月には国際反戦デーへの参加に関連したバリケード・ストライキ予告[不発に終わる]、他校の紛争への参加、そして1970年3月には他校生をまじえての卒業式阻止バリスト未遂事件に至った。これら一連の動きは、本年報において内容が理解され得る程度に事実を追ったつもりである。  今、当時を思い出して感じるのは、われわれ教師たちがいわゆる過激派の生徒たちと、とことん対決する姿勢は決してとらなかったことが、事態を穏やかに収める大きな要因だったということである。いわゆる非行に対して、停学、謹慎という処分をきっぱりと行って来たのと異なり、思想上の対立[本当に思想上の対立があったかどうかは断定できない]に対しては、落ちついて話し合うしかないことを繰り返し説得するとともに、簡単に割り切った返事を求める彼等の要求に、それほど単純に割り切れないことの意味をよく話したつもりである。卒業式のバリスト未遂事件でも、試験の不正や社会的不正への対応とは異なり、それらと同様な処分では何も解決しないことを説明し、教師と生徒が結ぶ関係は、最終的には「人間関係」、いわばヒューマニズムとも言うべき、簡単には説明出来ない複合的思想が根本にあることを述べたつもりである。そのことにはその直後に、彼等からはげしい反発が寄せられたが、それ以上の反乱はなかった。通常の処分は行われることなく、大部分の問題は時が解決した。  同様の考え方は「70年安保の日」の対生徒の方針にも貫かれたと思う。「高校生が政治活動を行うのは何が何でも許せない」式の文部省方針に従う多数高校とは一線を画して、生徒たちがこの日をどのように過ごすべきか、本気で十分に討論した上で行動の方針を決めたらよかろうと、一日の授業時間を生徒の自由にまかせた。大げさに言えば一国の将来を大きく支配する基本が定められるとも言える日に、自分の意志で自分を律する経験を得損なうのは、生徒たちの今後の人生にとってまことに重大な損失であることを、彼等に伝えたかった。結果として、午後に大学生と高中生とが合同で校外へ出て、整然としたデモ行進を行った。学校が承認したデモと理解され、力による弾圧はなかった。  この日を境に、学校への反権力行動はすっかり影を潜めた。そのかわり、以後世の中では過激派同士のいわゆる内ゲバが長期間続いた。年を越えて1971年10月、外部の過激派勢力が校内に侵入、大学施設内で、居合わせた高校3年生1名が頭部を殴られ、脳挫傷で意識不明の重傷を負う事件が起きてしまった。これがきっかけで、校内にも過激派同士の争いが再燃した。内ゲバについては、暴力抗争は絶対に許さないこと、抗争が行われた場合には必ず厳しい処分をすることを、父兄同伴の場で、問題生徒数名には申し渡した。安保の日における対応とは全く異なる方針であることを明確に出したことで、以後、生徒内での暴力抗争は起こらなかった。重傷の生徒は約1ヶ月後に意識が戻り、その後徐々に回復した。 ◆紛争後 (70年代後半以後)  70年安保の後、世の中も武蔵高中も急速に落ちつきを取り戻していった。もちろん、外ではセクト間の抗争が引き続いていたし、成田闘争は、安保騒動が終わっても燃え尽きない学生たちの結集場として残った。一方、若者社会は急激に非政治化し、「しらけ世代」とか「三無主義」とかが言いならわされるようになった。しかし、武蔵の場合、この時代に新しい活動の気風が見え始めていたことも明らかである。自由研究発表の場である山川・山本両賞の応募が急に増えて、内容も著しく向上した。学校外の選者の批評でも、大学卒論レベルというより大学院レベルとまで賞賛される論文も多く、学校の授業の枠を越えて自己を形成しようと試みる若者活動は頼もしかった。  論文とは別に、部活動の面でも決して「しらけ」でないことが顕れてきた。スポーツの場合、東京都の大会を勝ち抜くことは、選手スカウトが当たり前の多数有名校がある以上ほとんど不可能に近いが、その次の位置を保ち続けるのも立派なことである。そうした部が幾つも出た以外に、世間から注目されることの少なかった種目で、著しい成果を上げる部も出て来た。水泳部が水球で全国準優勝(同率2位)をつづけ、国体でも都代表の主軸として出場し連覇したのがその著しい例である。 ◆第2外国語に新しい風 (1973年度以後)  旧制武蔵高校では、高等科の外国語は英・独2ヶ国語で、英語を主とするものを甲類、ドイツ語を主とするものを乙類とし、文、理それぞれに甲、乙の別があって、生徒はそのどれかを選んだ。旧制一般ではフランス語を主とする丙類もあったが、丙類を置く高校はあまり多くなかった。  1950年に旧制は終わったが、ドイツ語の教授が引き続き武藏大学におられたので、それらの先生によって兼修、選択科目としてのドイツ語が存続した。旧制の名残のような選択ドイツ語にも、いろいろの変遷はあったが、今号で記述した時代には高校3学年にわたる学年制コースで、高1(初級)ではかなり多数が選択するが、高2(中級)につなげる者は激減、高3(上級)になるとほんの数人になってしまう状況が続いていた。  1969年に武藏大学に人文学部が新設され、英、独、仏3ヶ国語については、それまでの教養科目だけの扱いでなく、それぞれ英、独、仏文化コースという専門課程としてメンバーも増強された。  新しくなったキャンパス内の生活が落ちつくにつれ、大学の専任として人文学部に就任した大竹健介教授(旧制22期)から、第2外国語としてドイツ語だけでなくフランス語も始めてはどうか、協力したいとの話が熱心に寄せられた。そのドイツ語には、1970年度から鹿子木先生の後任にお願いしていた池谷洋子氏のほかに、大学人文学部に就任した鈴木滿助教授(32期)が加わってくれていたので、この機会に第2外国語の方式を一新する計画が立ち上がった。  従来の制度では、せっかく上級コースがあるのに、多くの生徒にとって大学進学と両立しにくい事情であった。新しい構想では学年制でなく初、中、上級の3グレード制、中3以上の生徒がどの級にも能力に応じて参入出来る、つまり、高2までで3つのグレードを終えられるという利点があり、途中脱落が防げることが期待出来た。  この計画には、国語科(漢文担当)高橋稔教諭から、中国語コースも設けてほしいとの希望があり、結局独、仏、中3ヶ国語にグレード制、無学年制の選択科目として、1973年度から第2外国語が発足したのである。高橋氏は翌年東京学芸大学に移籍したが、非常勤講師として1981年度まで中国語を担当した。  たしかに、新しい制度は途中での脱落を防ぐのにかなり役立った。高2で上級を終えた生徒たちが高3でもまだ学びたいという希望者もあって、上級の扱い方を時に応じて工夫するなど、嬉しい意外さもあった。しかし、第2外国語の学習が大学進学と全く無縁な、しかし異文化との接触に於ける独立のルートとしての意義を生み出すことになるのはまだ10年以上先の1987年を待たねばならなかった。 ◆海浜学校の方針転換  1970年には体育館と並んでプールも竣工して、授業では古いプール(大学プールとなった)と新しいプールとが時間割をうまく組めば両方を使えることになり、中1、中2の水泳指導効果が急速に向上した。旧プールだけの頃は、長距離を泳ぐ力を身につけるのは海浜学校の課題で、小三角、中三角、大三角(大三角ではじめて湾外へ出る)、興津(または守谷)への大遠泳と順次泳力を高め、参加者の半数以上が大遠泳を泳ぎ切る成果を上げていた。しかし、鵜原の海は水温が20度を割ることも多く、その克服のために学校のプールで水道水の温度が低い頃から泳ぎ込んで、寒さに順応する授業が行われていた。新施設が出来て、プールでの泳力が格段に向上し、その面だけ見れば、わざわざ海浜学校を行う必要はない、というのが体育科多数の見解であり、別に設けられた海浜学校を考える委員会の論議もそれに近いものであった。しかし、そのような技術問題ではなく、ある目標を中心にした合宿生活が、中学1、2年の少年たちに、人間同士のふれあいを通じて彼等の人格の成立に少なからぬ影響があるのではないか、技術面とは別に教師の役割の意義があるのではないか、極論すればそれが全くないというなら止めてしまえばよい、多少はあるだろうと思うからやっているのだという、比較的年かさの何人かの声に、積極的否定論に沈黙していた人たちも胸を打たれるものがあったようである。結局、目標は目標として新鮮なものに改め、それを中心とした生徒たちの活動を教師は協力して支えて行こうということに落ちついた。  1973年夏からの海浜学校では討論の結果を受けて、まず第1に2期にわけて1回の生徒数を半分にし、安全の確保を容易にすること、具体的課題としては水上安全教育という思想を中心に据えて、距離泳、潜水、サーフィンの3種目を行い、プールでの成果を基礎に水上での安全を高めるために、海そのもの、波や風、潮流などへの体験を深めることを求めた。そしてそれら総ての上にある(あるいは基にある)ものとは、それら具体的行動を共に行うことによって参加生徒1人ひとりが人間的成長を遂げることにある、としたのである。  また、翌年には教師の責任問題の議論を再度行い、これまで学校行事として参加を原則としていた海浜学校を、参加申し込み制に改めた。どうしても海を拒否したいという生徒なり父母なりの意志を尊重したからであった。同時に、授業を含む学校行事において、教師が個人としての事故責任を問われたとき、それが明白な不適切行為である場合以外では、学校法人の責任においてその教師を弁護するということを、学園協議会の議を経て議事録に明記した。 ◆修学旅行の方針  戦後、やや事情の安定した1951年秋に関西修学旅行が復活し、高2生を対象にして行われてきた。旅行を取りまく事情は次々に変化し、改善の工夫は絶え間なく繰り返されてきた。期間中、毎日、全員で同一行動だった当初の2、3回のあと、日程の一部にコース別選択制が採用され、見学のための学習資料が生徒たちの手で作成されるようになった。「もはや戦後ではない」といわれた昭和30年代になると、世間一般の観光ブームが起こり、奈良、京都の有名な見学先は人々がごった返すようになった。日本史担当の島田先生が計画の中心にいたおかげで、当時まだ観光ツアーから外れていた方面に歴史の学習としての基本的なコースを設定し、定着させることが出来た。しかしそれも、ほんの一時しのぎに過ぎなかった。京都郊外、奈良周辺、そして飛鳥一帯は、数年の中に一変してしまった。  コース選択制でバス1台ずつを行動単位とする方式では満足な見学が困難になり、とうとう、数人ずつのグループを作ってグループごとの自由行動を採り入れた。毎日を完全グループ化することに踏み切ったのは1973年秋からである。年報本号の範囲ではないが、1978年秋を最後に関西修学旅行はとりやめになった。何か新しい計画が浮かべば再考の余地があると含みを残したし、2学年ほどが、赤城や鵜原の寮に合宿して討論するなどの試行を行ったが、後続の企画は現れなかった。 ◆部合宿の付添問題  1973年6月、山岳部の夏山合宿に「田中 勝顧問は国外出張中、百済弘胤顧問は健康上の理由でともに付添不可能だが、信頼できるOBがいるので彼に委せて合宿をさせてやりたいが如何」との提議から、教師会は激論となった。  他の部でも休暇中に合宿するものは多いが、どの部にも顧問が付添うのが原則であった。しかし、顧問自身が技術面のコーチでもある場合だけでなく、OBのコーチに頼り、顧問は合宿の総責任者である場合が多いのも実情であった。その点で、山岳部の付添顧問には山行のリーダーとなるべき力量が求められている。OBに委せてただ付いて行くだけという顧問は問題外だというのが会議の共通理解であった。(実際には「顧問は付いて行くだけという高校山岳部」に山で出会ったことは一度ならずある)  だから、その最も責任の重い山岳部こそ、顧問付添の原則を外すわけにゆくまいという意見、更に山岳部でさえOBの付添ですむのなら、ほかの部の顧問もOB委せでいいはずだという意見が中心であった。  しかし、山岳部員から見れば、夏山は部活動の第一目標であり、これを禁じられることは部をつぶされるのと同様と受け止めるであろう。顧問が信頼を置くOBがいるのだから、そのOBの力量の範囲の山を選んで負担を軽くしてでも、合宿をさせてやりたいというのが問題提起した顧問の立場であった。  仲裁案は「現顧問が十分信頼出来る人物がいるなら、その人に学校の教師と同様の資格を認めて、合宿を行わすことが出来る」というものであった。賛否は教頭を除く40人中、賛成22、反対6、棄権12ですれすれの賛成だった。  実際には、この夏の合宿は顧問の判断で中止とし、個人山行に切り換えられた。一般論として、個人山行にすれば学校の責任外とはなるが、かえって顧問の目の届かない山行が暴走することもあり得る。その危険を考慮しない両顧問である筈はなかった。個人山行とは言え、顧問が十分に目を届かせ、責任への配慮をした上での「個人」であったのだが、記録の上には残らなかった。 ◆学園長制度と大学、高中にそれぞれ専任の学長、校長  1969年に発足した大学人文学部は1972年に4学年が揃う段階に達し、大学は成熟した2学部を持つことになった。単学部のときは、学部長が事実上の学長の役をつとめ、学長としての正田先生もそれをごく自然な形として受け止めていたが、2学部になって2人の学部長を取りまとめる学長の役は、単学部の時と全く異なる重みを持つことになった。1968年から69年の初めにかけて、この点について、「大学に専任の学長を置くべきであること、その選出は世間通例に従って教授、助教授の投票で決すべきこと、理事会決定で選ばれた学長、校長兼職の自分の立場は世間通例で言えば学園長というものであろう」という正田先生の意向を、一度ならずいろいろな側面からの考え方として伺うことになった。  大学学長に関する意見が問題の発端であったが、高校中学については従来通りというのでは学園内のバランスが崩れると言うことで、高中にも専任の校長を置くべきだという意見であった。1969年5月、校長から見解表明があり、それに応じた論議をふまえて校長選任内規を作ることが合意された。9月には、総務委員会で作成した内規原案が会議で承認され、10月にそれに従った方式で1975年度からの校長予定者として大坪教頭(筆者)が正田校長から指名され、大坪教頭退席の教師会で論議が行われて指名が承認された。内規は世間の慣例とかなり異なる点があり、それは内規作成段階での筆者の考え方に、総務委員諸氏が同意してくれて出来たものであった。  公立校などと異なるのは、校長とは身分の段階ではなく、職務の名称であること、従って、任期を終え、重任されなかった校長は、定年前であればもとの教諭職に戻ること、そのことは校長の給与を教諭給とし職務手当は別に定めるという形で明記されている。もう一つは、教師会で強く主張された「天下り校長の否定」である。1年以上教諭をつとめた者の中からしか選ばれないとする規程は、仮に、「天下り的人材」を校長に選任したいと「理事会」の意向が決まった場合でも、1年間この学校の教諭として仕事をし、同僚の信頼が得られなければ、選任の論議に上れないということであった。この2点のうち後者は、その後教師会の決議で変更されたが、それはこの制度発足から約20年後の話である。 ◆青山寮移転問題  1937年(昭和12年)、山上学校のための寮として、当時の父兄石川昌次氏の本郷弥生町にあった巨宅が寄贈されてそれを解体、軽井沢矢ヶ崎の地に移築したのが武蔵青山寮である。青山寮の敷地(約1万坪)は、南軽井沢一帯の広大な根津理事長所有地の一部分で、青山寮のために無償で使用を許されたものだった。移築にあたり学校では父兄からの寄付(約2万円)を得て、これを移築の費用に充てたが、別に理事長からは校長ほか付添教師のための教室の建築費を寄贈されている。  建築が古めかしいとは言え、築後70年程度ではまだまだ居住に耐えるはずであったが、寮のある軽井沢東端は夏期の極端な多湿気象、冬期の寒冷と積雪などの自然条件に加えて、年間約10ヶ月ほどは無人という利用状況の故もあって老朽化がはげしく、毎年手入れのためにかなりの費用を必要とした。その上に、保健所、消防署からは新時代に相応した設備の充実が求められるようになって、その場しのぎの対応は許され難くなっていた。  1974年の記録に青山寮をどうするかという教師会の記事がある。議論の設定がはっきりしなかった為に、話は散漫となり、明確な論議にならなかった。しかし、正田学長・校長の考えの中では、当時の学園の財政状況――物価高騰で支出が増大する一方で、容易に学費が上げられぬ事情――の中で、青山寮問題をどう処理すべきなのかを模索しておられたようである。根津副理事長とも内々の相談をされていたと思われる。  1976年3月、学園長から老朽した青山寮のためにいつまでも軽井沢の土地を使い続けることをやめてこれを根津家に返還し、新しい場所に寮を作りたいという話が切り出された。そしてその1ヶ月後には青山寮移転先の第一候補地が奥日光であることが表明され、移転話はにわかに具体的な段階に入った。  候補地については東武鉄道の不動産部が関与しており、東武が旅館を持っている光徳沼近辺が第1に挙げられていた。奥日光は旧制創立後の第5年目から昭和5年度以外の10夏にわたり山上学校を行ったところで、立地条件としては申し分なかった。[注:この時の山上学校は日光湯本の旅館を借りて行われた。例外の昭和五年は旅館が火災で建て替えとなり、やむなく軽井沢の夏期大学で行った]ただ、山上学校の運営形態が変わって、10数人ずつの班単位で山歩きなどをする方式になっていたので、奥日光周辺の山は標高の上でも、ルートの難易度や天候条件の上でも、1000メートルを僅かに越す程度の軽井沢周辺より危険は多いと思われた。そのことが、活動内容にかなりの制限を与えることだけは分かっておく必要があった。  実は、奥日光について、筆者はこの時から約20年前の1955年頃に、武蔵山岳部の山小屋を建てることについて、東武鉄道におられた先輩から候補地などの紹介を頂いた経験があった。はじめは光徳沼近辺、小田代近辺の何処でも、気に入った場所ならよかろうと告げられて実地を見て歩いたが、いざ本格的に話を進める段階になったところ、奥日光は国立公園中でもとくに規制がきびしく、原則として新築は禁止であること、さらに、附近唯一の水源地の水利権は、戦場ヶ原にある開拓村と東武鉄道のホテル[当時はまだ山小屋程度のものだったが]とが持って居り、割り込む余地がないことが分かり、計画は消滅した。そのような経験を持つ筆者には、その頃と全く同じ状況のままの光徳付近に武蔵が寮を持つことは、ほぼ不可能であると思えた。その旨を正田先生にも説明したが、先生は話の次第では道が開けるのではないかとして、なお、旧父兄の縁故を頼って交渉を続けられた。そして、この年10月、環境庁の許可が下りないことが明確となり、計画は白紙に戻った。  候補地探しは続行され裏磐梯の檜原湖周辺、同沼尻付近、安達太良山東面の岳温泉近辺などを岡学長、大坪校長、と事務局長、財務部長同道、東武側の案内で歴訪した。しかし、何処の場所もわれわれが考えている武蔵の寮のイメージとはまるで合致しなかった。12月に入り、赤城の大沼湖畔に東武の旅館(黒檜莊と呼ばれた)があり休業中であること、この施設を含め周囲の県有地を借地することが可能との話があり、取りあえず都合のつく3人(大坪、高久、志村)だけで現地を訪れた。会社や学校の寮が立ち並ぶ厚生団地から離れて、立地条件は申し分なかった。ただ、カルデラを囲む外輪山はごく小ぢんまりとまとまっていて、いささか箱庭的にも見え、避暑地としては最高でも生徒たちの活動の場としてはやや物足りぬ感もあった。学園長にはこの感想を伝え、最善とは言わぬが次善の候補地であろうと報告した。  年が明けて、学園長、学長が赤城を視察、候補地をほぼここに定めて話を進めることになった。此の問題についての最終的な詰めは、1月半ばに根津氏と学園長との間で行われ、両者ともに多少の含みを残しつつも、話はほぼまとまったようであった。  この話と同時進行で、学園内では再編事業にもれた大学関係施設(図書館、研究棟、中・小講堂など)を、更に充実したいとする要望について、意見がまとめられつつあった。1975年11月の着任以来1年余となった中村新一専務理事が学園長を補けて、大学側の意見を調整し、試案が固まったのが1977年3月半ばで、その直後に私達は正田学園長の急逝に遇った。そして私たちは、その日から先生の学園葬を終えるまでの10日間、ただ無我夢中で過ごした。それが終わって、どっと疲れが出た。  正田学園長没後、岡学長が学園長事務取扱を1年間つとめ、1978年4月、太田博太郎氏が第2代学園長に就任した。青山寮問題は新学園長に引き継がれて、約2年半後、1980年12月に赤城青山寮が竣工した。昭和12年、当時の父兄多数の拠金によって建てられた旧青山寮を、根津家、学園双方の事情が重なって廃棄せざるを得なかったことへの償いの意味も込めて、新寮は根津理事長の厚志により学園に寄贈された。しかし、これらのことは次の校務記録で記されるはずの内容である。  【写真:正田建次郎学園長の書。『武蔵七十年史』に掲載】
2020.09.23
武蔵今昔物語
白雉縁起
白い雉の剥製2体
白雉の由来   白雉は武蔵学園のシンボルであり、高中、大学のエンブレムにも意匠として用いられているほか、秋の武蔵大学祭は「白雉祭」を名乗り、大学の運動系サークルのニックネームにも雉を英語にしたPheasantsが使用されている。また、新制武蔵高校でも一時期、「白雉寮」という学寮があった。  その由来は『続日本紀』「称徳記」の「神護景雲二(768)年、武蔵の国で白雉が捕獲され、称徳天皇に献上された」という記述に基づいている。称徳天皇(第48代)は第46代の孝謙天皇と同一人物で、孝謙天皇が一度退位した後、重祚(ちょうそ)し称徳天皇として皇位についた。史上6人目の女性天皇である。  創立時の徽章を定めた記録にも、その理由として「雉は吉瑞(よいことの前兆)の鳥であり、さらにめずらしい白雉が武蔵の国からでたことは学校・国に貢献する人材を多数輩出することにもつながる」とある。このことは校名が「武蔵」と定められた理由のひとつでもある。  旧制武蔵高等学校が設立申請をしたときの名称は、「東京高等学校」だった。しかし、当時文部省でも同名の7年制高校を準備しており、「東京」の名を譲ってほしいという申し入れを受け、学校建設の中心人物だった本間則忠の提案により上記の「武蔵」が校名となった。本間則忠は、文部事務官で初代根津嘉一郎の社会貢献の志を知り、七年制高校の設立を根津に勧奨し、開校までの実務に奔走した人物である。  本間は、校名を武蔵とした事由について、武蔵国という地名、「むさし」の音が「無邪志」に通じることなどを挙げて述べているが、一方で本間は文部省の現役官僚であり、他の創立関係者も文部大臣、臨時教育会議総裁、東京帝大総長など、当時の教育界を代表する重鎮である。これらの人びとが「東京高等学校」を文部省が準備している情報を知らなかったと考えるほうが難しい。では、なぜあえて「東京」の名で申請したのか。設立の準備は武蔵のほうが東京高校より圧倒的にはやく、尊官民卑の時代ゆえに公式な設立の年月日は官立の東京高校に譲ったが、うがった見方ほすれば、あえて「東京高校」と申請し、それを取り下げることで民の気骨をしめしたのかもしれない。  その背景と校名の由来については、本サイト内の「武蔵学園紀伝」ページの大坪秀二元校長(故人)による論考、「校名『武蔵』のこと」を参照されたい。  剥製はどこからきたか  現在、学園記念室(大講堂2階の展示室)に展示されている白雉の剥製は、1972年、武蔵開学50周年の折に秋田県本庄市の野鳥研究家、繁殖家である佐藤栄一氏から寄贈されたものだ。佐藤氏は剥製を寄贈した後、武蔵に招待され、正田建次郎学長・ 校長(当時)と対談しており、そのときの録音カセットテープが残っている。  佐藤氏は当時39歳。すでに著名な鳥の繁殖家で、神奈川県のこどもの国に200羽の鳥を放鳥したりしている。 また、日本野鳥の会の発足に関わった中西悟堂氏とも交流があった。佐藤氏によるとこの白い雉はアルビノではなく、 5年くらいかけて体色の薄い雉を交配させた結果だという。しかし佐藤氏は、けして自分が「作った」のでは なく、あくまで生まれたのだと正田学長・ 校長に熱弁をふるっている。  さらにテープを聴くと、佐藤氏は当時武蔵で美術教師をされていた洋画家の伊能洋氏と懇意にされていて、 武蔵のシンボルである白雉をぜひ描きたい、そして白雉など想像上の鳥と思っている生徒たちに本物を見せたい という伊能氏の熱意に共感して寄贈を決めたということが判明した。なお、伊能氏の実兄の敬氏(故人)も武蔵の 教員をされていて、伊能忠敬の七代目の子孫にあたる。なお、佐藤氏の剥製は2体あり、もう1体は理事長室に置かれている。  佐藤氏は、子どもたちに本物をという伊能氏のことばにとにかく感動したようだ。そのころ、佐藤氏の白雉の剥製は各方面から譲ってほしいというオファーがあったが、「金額ではなく精神の問題」と佐藤氏は武蔵に寄贈を決めたという。対談後半で氏は、「鳥の写真をきれいに撮影したり、分類や生物学的知識で立派な先生や専門家はたくさんいるけれど、わたしのように何千羽の鳥を育て、直接触れ合うことで鳥を学んだ人間はそうはいません」と自負された。するとそれまで静 かに佐藤氏の熱弁を聴かれていた正田先生はおだやかに笑いながらこういわれた。  「いやいや、われわれ教員には耳の痛いお話です。子どもに教えたいという先生はたくさんいますが、子どもと心から触れあいたいという先生はなかなかいないのですよ」。  白雉の剥製が寄贈されてから48年が経過した。作りがていねいうえに、佐藤氏の情熱が込められているのだろう。保存状態はきわめて良好である。記念室に常設展示している白雉は、大講堂2階の展示室の開室時には誰でも見ることができる。                                                    (武蔵学園記念室・調査研究員 三澤正男)
2020.08.20
武蔵学園史紀伝
四大学オートバイレースのこと
武蔵大学OBへのインタビュー記録
インタビュー実施日:2019年(平成31年)3月28日   大久保:  本日は、1回生の小林隆幸先輩と、プレメディカルコース2回生の宮崎秀樹先輩から、1952年(昭和27年)に開催された四大学オートバイレースについてお話をお伺いするのが趣旨ではありますが、お二方とも大学の草創期を体験されておられます。せっかくの機会ですので、本題に入る前に、どういう動機で武蔵大学を選ばれたのか、また、学生生活はどのようなものだったのかについて、先にお伺いしたいと思います。   潜越ですが、私は20回生で、経済学部単学部の最後の募集年となる昭和43年の入学でした。すでに、入学定員は、経済学科と経営学科で計400名になっておりましたが、それでも、建物の多くは木造で質素、女子学生は大学全体でも20名程度しか在籍していなくて、男子校というイメージが濃かったように感じます。18歳人口に占める大学進学率は、25%程度になっておりましたが、先輩方が新制の大学に入学された時代(経済学科のみ、入学定員は120名)の大学進学率は10%以下であり、大学生がエリートと呼ばれた時代かと思います。    まず、1回生の小林先輩からお伺いします。先輩は、1932年(昭和7年)生まれ、ご出身は東京。武蔵大学経済学部をご卒業と同時に、1953年(昭和28年)に本田技研工業株式会社に入社、1959年(昭和34年)から27歳でアメリカに赴任し、アメリカホンダ設立に参画、1964年(昭和39年)には総支配人としてタイ法人を設立、営業の神様とまで言われてホンダの成長期を支えられ、1967年(昭和42年)に名古屋支店長、その後、1970年(昭和45年に)東京支店長、1977年(昭和52年)に鈴鹿製作所所長、1980年(昭和55/年)にホンダの常務取締役、1983年(昭和58年)に鈴鹿サーキットランド社長を務められました。また、大学同窓会においても、長らく副会長をされておられました。高校までは成城学園と伺っておりますが、なぜ武蔵大学に入学されたのですか。また、当時の学生生活はどのようなものだったのでしょうか。   小林:  戦後、学制改革の混乱があり、成城は、大学設立が他の四大学から1年遅れることになりました。しかし、いずれ、四大学は同じ連合大学になると聞いていたので、待っても同じだなと思って武蔵に入学した訳です。入学した当時、我々1回生は60名強くらいの人数しかいなくて、当然のこと、指導してくれる先輩などいませんよ。大学生が使う専用施設もほとんどなかったし、運動部や文化部に限らず、クラブなど何も存在しない。教職員、学生ともに、何事につけて、全部、自分達で、最初から始めるしかなかった。  私は、笹原壮介君(故人、元東北放送専務取締役、初代の同窓会東北ブロック長)と一緒に成城学園の尋常科時代からグランド・ホッケーをやっていたこともあって、いきなり、武蔵初の運動部の部長を任されたし、その後、四大学運動競技大会を仕切るとか、いろんなことをやりました。まだ、戦後間もなくのことだから、遊ぶと言ったって、お金もないし、とにかくやることがない。だけど、体力だけは、余っていたので、いつも「何か面白いことはないかな」と考えていた。お蔭で、2年、3年となるうちに、自分で計画して行動に移すということが身に付いたのと同時に、なるべくお金を使わずに目的を達成するという手法も上手くなっていった気がするね。   大久保:  次に、宮崎先輩にお伺いします。先輩は、1931年(昭和6年)生まれ、愛知県のご出身。1952年(昭和27年)3月に武蔵大学の医歯学進学課程(プレメディカルコース。以下「プレメ」と記す)を修了され、翌年1953年(昭和28年)に東京医科大学へ進まれました。東京医科大学大学院終了後の1962年(昭和37年)から、愛知県稲沢市で外科医院を開業され、1972年(昭和47年)には愛知県医師会理事、1986年(昭和61年)には日本医師連盟の推薦を得て参議院議員に初当選、以降計3回当選しておられます。  参議院におかれては、環境政務次官(1989年・平成元年)、労働政務次官(1991年・平成3年)、参議院内閣委員長、参議院議院運営委員長などを歴任されました。自由民主党の副幹事長を務められたご経験もおありですし、2004年(平成16年)から2年間、日本医師会の副会長も務められました。  医学部に進む前の受験資格としての必要な課程は、制度として、新制大学の中に置かれることになった訳ですが、学園の年史によれば、プレメ開設は、大学設立の翌年の1950年(昭和25年)4月1日(開設認可は、昭和24年7月)となっており、他方で、昭和26年5月10日にはプレメの修了者の壮行会を開催したとの記載があります。学園史の記載からは課程が1年間だったようにも思えますが、本来は2年間の筈です。そして、卒業生名簿によりますと、先輩は、プレメの2回生となっています。だとすれば、先輩は昭和26年4月入学になるのではと思いましたが、先回、お会いした折に、確か昭和25年4月の入学だと伺っております。創設期のプレメの制度がよくわかりません。実際に、どうだったのか教えて下さい。   宮崎:  認可との関係はわからないけれど、私が武蔵のプレメに入学したのは、昭和26年ではなくて昭和25年4月です。私は2回生ですから、プレメは実質上、武蔵大学開学の昭和24年当時からありましたよ。それと、課程は2年間でした。旧制高校を前身とする東京の大学の中では、武蔵と成蹊、成城にこのコースが置かれていましたが、旧制武蔵高校は有名な学校でしたからね。私が在籍した当時の教養課程のカリキュラムは、プレメも経済学部の学生も同じもので、必要な取得科目が異なっていただけでした。私の場合は、昭和27年3月にプレメを修了し、受験勉強のために武蔵大学の3年生として、更に1年間いて、昭和28年4月に医大に入学した。だから、四大学の当番校の時には、武蔵大学の学生として参加できたのです。   大久保:  そうだとすれば、新制度への移行時には良く見られますが、経過措置として、昭和24年度分の取得単位についても、認可日からさかのぼって適用されたことになりますね。それに、開設当初、学部生と同じだったプレメのカリキュラムも、制度が定着した4年後には、経済学部生とは別になったと『武蔵学園史年報』に書かれています。   宮崎:  そういえば、小林君も、最初はプレメで入学したんじゃなかったの。   小林:  違いますよ。私は、医者の道はお金もかかるしね、親にも負担はかけられない状況だったから、無理だと思ってプレメには進む気は、最初から無かった。それどころか、私は、大学に入る前から既に儲かる商売を始めていたので、大学などに行かずとも十分生きていけるという自信があった。でも、家族のほとんどが大学出だったせいもあって、母親からどうしても大学だけは出て欲しいと懇願されてね。成城時代に一緒だった笹原君の誘いもあって武蔵に入学した。   大久保:  入学当時の江古田駅は、武蔵野稲荷神社に近い踏切付近にあった時ですか。   宮崎:  神社付近だね。だから、学校までは、今よりずっと近かった。   大久保:  学生食堂ができるのは、はるか後の昭和32年9月です。お昼時間には、食事などはどのようにされていたのですか。出入りしていたお店の名前にご記憶はありますか。   小林:  私なんかは、弁当を持って来ていたよ。   宮崎:  名前は忘れたけど、学校の向かい側の桜台寄りに食堂が1つあった気がする。線路の向こうには蕎麦の「花月庵」があったね。その2階で、鈴木武雄先生にご馳走になったこともあった。   大久保:  まだ、賑やかな商店街などはなかったということですね。では、今回の本題である「四大学オートバイレース」のことについて詳しく伺いたいと思います。オートバイレースの企画は、武蔵が提案したものと伺っています。   小林:  たまたま、私の親父にホンダとのつてがあったので、オートバイなら何とかなるかも知れないと思って話をしたのがきっかけです。ホンダ初の2輪車「ドリームD型」が昭和24年(1949年)に完成し、普及し始めていて話題になっていました。   宮崎:  そうだったね。昭和27年(1952年)、武蔵が第3回四大学運動競技大会の当番校になった年(四大学がすべて揃ったのが昭和25年。第1回大会の当番校は学習院大学、2回目は成蹊大学)ですね。当時は、放課後になると、学生部でゴロゴロとしながら、先生方と話をするのが習慣のようになっていましたからね。あの時も、小林君と年齢は我々よりかなり上だったが2回生の岡崎道彦君(故人、アサヒビール入社)と、現在の大学3号館の東翼角にあった学生部の部屋で四大学運動競技大会の企画を話している中から出てきたものだったね。   大久保:  当時は、クルマの主流はオートバイだったのですか。   宮崎:  昭和27年ですよ。当時は、車(自動四輪)などは宝物に等しくて、我々に手の届くような存在ではなかったからね。だけど、当時だって、自動車部は一応あったんだよ。ただし、「オート三輪」と呼ばれたトラックでね、乗用車じゃない。活動といっても、魚卸の配達アルバイトみたいなことばかりでしたけどね。   小林:  当時は、バイクを借りるといっても、その仕組自体がないので、結局、いきなり本田技研の本社に、私と宮崎君と2回生の岡崎君の3人で行ったんですよ。その時は、四大学運動競技大会の経理を担うことになっていた同期の石田久君(故人、「益萬」代表取締役、元同窓会長)も一緒に行くはずだったが、交通事故で入院していて行けなかった。本田技研の本社は、当時は八重洲にあったのだけれど、ホンダといってもまだ今でいうところの駆け出しのベンチャー企業ですよ。昭和23年(1948年)に、浜松で自転車用の補助エンジンを製造したのが始まりだからね、それから、わずか4年後の話ですよ。  本社を訪ねたら、奥の方から藤澤さん(藤澤武夫専務、後の副社長)が出て来られて、我々の応対をしてくれた。身体の大きい人という印象だったね。いきなり「オートバイ10台、貸して下さい」と頼んだ。でも、詳しい理由を話すより前に、藤澤さんから「お前らに貸すクルマなんかあるか」とケンもホロロ、即座に断わられた。相手のことも良く知らなかったし、とにかく、学生は怖いもの知らずでしたから「すみませんが、社長(本田宗一郎氏)はどちらですか?」と聞いたんですよ。そうしたら「社長は、今、入院中だよ」と言われた。   大久保:  入院先を教えてくれたのですか。   小林:  社長の入院先なんか、教えてくれるわけないさ。でも、そんなことでは、あきらめなかったね。どうせ、こっちは暇で時間はあったからね。その足で、社長の自宅を尋ねることにしたんだよ。図々しいといえば、まあ、そうだけどね。   宮崎:  一面識もないのに、病院にお見舞いに行くことにした。でも、社長さんに変な見舞いも持ってゆけないだろうと思って、なけなしの自分の小遣いをはたいて、文明堂のカステーラ1箱を買った訳ですよ。当時は、高価なものだったから忘れないですよ。   小林:  社長の自宅まで行ったら、タイミング良く道路の前でご長男が遊んでいたので「お父さんは?」と聞くと「入院してる」。「そう、どこの病院?」という感じで、うまく入院先を聞き出せた。確か、荒川病院だったかな。   宮崎:  病院に着いて、いきなり病室をノックすると、奥様が出て来られて「何のご用ですか?」と。「実は、お願いがあります」と切り出すと、そのまま、病室の中に入れてくれた。そこで、社長に改めて遠乗りレースの企画を説明の上で、オートバイ10台を貸して欲しいとお願いした。すると、笑って「面白い。わかった、貸してやるよ」と、まさに即決だった。   小林: 「でも、今、本社で断られたばかりなのですが・・・」と伝えると、「オレが社長だ」と胸を叩いて大笑いされた。だから、我々は勇んで本社に戻りましたね。戻って、藤澤さんに向かって「貴方には断られたけど、我々は、借りましたからね」と自慢気に伝えた。   大久保:  君らは好き勝手なことをして、何だと、怒られた訳ですか。   小林:  それがさ、怒られるのかと思ったらね、藤澤さんもすごいよね。大笑いしたあと「お前らみたいに図々しいの、初めて見た」と、とても喜んでくれたんだよ。   宮崎:  本当、あれには、びっくりしたね。怒らなかったんだよね。   大久保:  四大学運動競技大会のバイクレースとなっていますが、大学間で競って到着順位を決めることが趣旨だったのですか。また、何故、名古屋までだったのですか。都知事のメッセージを届けるという企画は、後から、追加したものですか。   小林:  レースとはなっているけれども、競争をして順位を決めるという性格のものではなかった。各校、2名を選抜して、名古屋まで四大学が協力してメッセージを届けに行くことが趣旨だった。東京・名古屋間となったのは、遠乗りバイクレースの話を進める過程で、当時の鈴木武雄経済学部長(後に学長)が我々を心配して下さり、懇意にされていた中部経済新聞社社長に協力をお願いしていただけるということになったからです。  でも、都知事のメッセージを持ってゆくというのは、我々学生の企画です。新しく知事制度ができた記念に、安井誠一郎東京都知事のメッセージを、桑原幹根愛知県知事と小林橘川名古屋市長に届けよういう企画にしたんですよ。   大久保:  実際に、お借りしたバイクの型式名は何だったのですか。運転免許は、既に、持っておられたのですか。下見の段階からバイク10台とも、長期間借りたのでしょうか。コースの下見は、実際にどなたがされたのですか。   小林:  借りたのは、ホンダ・ドリームだよ。下見の時には、私は運転免許を持っていなくて、この企画の本番に間に合うように、後から取った。   宮崎:  既に運転免許を持っていたのは私と岡崎君だったので、コースの下見はこの二人で行った。成増のホンダの工場で、先ず2台を借りて、道路状況や、食事、宿泊先などの調査をしました。だから、下見と本番と合わせると、我々は、東京一名古屋間を2往復したことになる。   大久保:  本番での武蔵の運転者はどなただったのですか。   宮崎:  本番では、各校2名、往復とも原則同じ人物が運転した。でも、当番校の武蔵だけは3人で、私と岡崎君、そして、実行委員長だった小林君。   大久保:  実際、どの位のスピードで走ったのですか。道路状況が良くなかったでしょうから、せいぜい時速60キロ程度ですか。   小林:  いや、150cc程度のエンジンだったけど、本番では、最高で時速100キロ位では走りましたよ。バイクの能力自体は、もう少しスピードは出たと思うけどね。でも、今のような舗装された平らな道路を走る訳ではないんですよ。当時、国道1号線と言っても、三島までは、一応、舗装されていたけど、そこから先は、ひどかったからね。砂利道だからね、穴だらけだよ。  東京・名古屋間は、約360キロだけど、高速道路などないし道路はガタガタだし、長距離ドライブなんか普通は考えませんよ。ましてや、こちらは免許も取り立てだし、名古屋まで行くのは、私は出かける前に怪我をしていたこともあって、それこそ命がけだった。  それに、バイクを借りたといっても、当時は、まだ、長距離をちゃんと走れるのか、大丈夫なのか保証がない時代だったんだよ。帰り路では、怪我に加え夜道走行になっていたせいもあって、私は、途中で運転を交代してもらったくらいだから。   宮崎:  小林君の乗ったバイクなんかは、軽く30メートルくらいバウンドして飛んだね。そのはずみで、車輪が壊れたりしたね。カーブで曲がり切れずに、垣根を飛び越えて、街道脇の人家に飛び込む者もいた。前をトラックでも走ろうものなら、土埃で、先が全然見えなくなってしまうからね。   大久保:  途中の、給油はどうされたのですか。   宮崎:  結構、燃費は良かったと思うね。正確な記憶はないけれど、片道で1度くらいの給油で済んだと思う。   大久保:  往路、宿泊地となる浜松では、浜松工場にも立ち寄ったと記録にありましたが、宿泊地に設定したことという以外に、修理か何かで立ち寄る必要があったのですか。   宮崎:  浜松にもホンダの工場があったからで、特に、修理のためというつもりはなかった。けれども、結果的には、浜松工場でバイクの整備もしていただきました。   大久保:  当時のお金で、どのくらいの予算がかかったのでしょうか。目安になるような数字を、概算でもご記憶がございますか。   小林:  石田久君がいれば何か残してくれているかとは思うけれど、もう、記憶はないね。   大久保:  四大学運動競技大会の開会式は、1952年(昭和27年)7月5日ですが、バイクレースの実施時期は、11月9日から12日の4日間の開催だったと書かれております。結果として、レースは、どういうスケジュールになったのですか。   宮崎:  11月9日(1日目):午前8時に、朝日新聞社前をスタート           タ方4時過ぎに、ホンダの浜松工場に到着。浜松市内にて1泊  11月10日(2日目):午前8時に浜松を出て、お昼頃に、愛知県庁に到着            ミス名古屋からの「花束贈呈」           愛知県知事、名古屋市長と東京都知事の「メッセージ交換」           夜は、中経グリルにて中部経済新聞社主催の「歓迎パーティ」           名古屋市内にて1泊  11月11日(3日目):早朝ではないが午前中に名古屋を出発、往路と同じメンバーの運転で帰路に着く。           暗くなってから、沼津市内にて1泊  11月12日(4日目):武蔵には集合はせず、各自、大学に戻る。           後日、集まって、10台すべてを成増工場に返却。   大久保:  すでに寒い時期だったと思いますが、どのようなバイク・ウェアだったのですか。   宮崎:  ウェアなんてしゃれたものではないよ。格好はね、テレビ番組で流行った「月光仮面」そのものだよ。「ツナギ」が出回った頃だったので、これを着て、寒さ予防に腹に新聞紙を巻いて、土ぼこりを防ぐために、顔を白いマフラーで覆ったんだよ。私は、ポケットにウィスキーの瓶と、草鞋(わらじ)みたいな硬いトンカツを入れて、飲みかつ食べながら走ったんだよ。飲酒運転をしても、違反にならなかった時代だからね。11月上旬は、今よりも気温は低かったからね。   小林:  私は、お酒なんか飲んでませんよ。運転に必死でしたからね。   ↑ レース開催中の光景写真(『武蔵七十年史―写真でつづる学園のあゆみ』所収)     ↑ オートバイレースの学生が名古屋市役所前に到着した時の写真(『武蔵七十年史―写真でつづる学園のあゆみ』所収)   大久保:  大怪我をするかも知れない企画だったようにも思えますが、他大学の学生も参加するので、大学から企画を考え直せというようなことはなかったのですか。   小林:  武蔵という学校は、無茶とも思えるような我々の発想を、鈴木武雄先生、波多野真先生をはじめ多くの先生方が心底、成功するように応援してくれたんだよね。中部経済新聞社と名古屋タイムス社には主催の承諾交渉をしていただいたり、本田技研工業の後援を取っていただいたりと。だから、我々学生の方も、実施に向けて必死ですよ。四大学との協議、知事のメッセージの依頼、下見、宿泊を含むスケジュール調整まで、事前に準備しなければならないことは色々あった。   宮崎:  誰も考えないような企画を自分達で考えて、四大学をリードして、1名の落伍者もなく無事に最後までやり遂げた訳だけれど、あの当時、それができたのは、武蔵だけじゃないかと思うよ。とにかく大変な思いをしたけど、やって良かったと思うね。今の時代、あんなことやれと言われてもできないだろうからね。  2日目の夜の中部経済新聞社主催の「歓迎パーティ」には、大学から汽車で駆け付けた鈴木学部長をはじめ、四大学の新聞部の仲間なども参加した。終了後、酔った勢いで、名古屋の花柳界隈をバイクで走り回る者もいた。当時は、まだ、車がほとんど走っていなかった時代だからね。   小林:  歓迎パーティの時だけじゃなくて、鈴木先生も、波多野先生も、途中の箱根で手を振ってくれていましたよ。嬉しかったね。   宮崎:  武蔵が主催したこの第3回四大学運動競技大会には、当時、学習院大学の1年生でおられた皇太子殿下(明仁親王。のち、2019年4月末に生前退位され、上皇となられた明仁天皇)が、武蔵大学を訪れて競技をご覧になった後、光栄なことに、我々四大学の役員と歓談する機会に恵まれました。これも、自慢できる思い出になっていますね。   小林:  結果として、この行事はその後の我々の自信にも繋がっていきました。また、これはまったく個人的な話ではあるけれど、私は、この縁で、藤澤さんから明日からでもすぐに会社に来いと強い誘いを受けた。結局、断わり切れないまま、当時はまだ小さな会社だったホンダに入社することになった。学校では、最初の卒業生でもあり、古河電工への就職を用意して頂いていたようです。しかし、その事実は、卒業と同時にホンダに入社するという意思を藤澤さんに伝えた後から知った。  でもね、こういう自分達の話より、私が一番強調して言いたいことは、「武蔵」という学校は、学生が実行したいということを、何をおいても教職員が全力で応援してくれた学校だったということだよ。そのまま仕事に生かせる教育でもあったし、本当に、世話になったという気持ちだよ。今でも、心底、そう思っている。無事故で怪我人もなく、あの行事を終えられたのも、まさに「武蔵」だからこそできたことなんだよ。  だから、後輩の若い皆さんが望むなら、我々が「武蔵」で受けた教育と、それがその後の自分の仕事にどう生かされたのかという経験を直に話をして伝えたいと、何時でもそう思っていますよ。もっとも、元気なうちだけどね。   宮崎:  書いて残されている話は、どうしても、きれいごとが多いもの。肝心な本当の話は、あまり表には出ないことが多い。だから、あのバイクレースに限らないけれども、困難な課題を数多く乗り越えてきた経験者の話というのは、人が生きてゆくための知恵として、とても参考になるはずだと思いますよ。   大久保:  本日は、お昼からの同期会の終了後、お疲れのところ時間を割いていただきまして、本当に有難うございました。1時間半も経ってしまい、すっかり酔いが覚めてしまったのでありませんか。   小林:  いや大丈夫、これから、また、飲めばいいんですからね。じゃあ、お先に失礼しますよ。     おわりに:  インタビュー時、お二方とも90歳を目前にされておられましたが、兎に角、お元気でした。  この記録は、四大学オートバイレースを企画された1回生の小林隆幸氏(旧姓:迫田)とプレメディカルコース2回生の宮崎秀樹氏に、2018年(平成30)年5月11日にお顔合わせいただいた上で、改めて2019年(平成31年)3月28日にインタビューさせていただいた折の話を基にしております。  なお、お二人との顔合わせとインタビュー時には、8回生の松山孝氏、12回生の木村重紀氏、21回生の坂田光司氏(大学同窓会事務局長)にもご協力をいただきました。深く、感謝申し上げます。  また、過去に掲載されました大学同窓会報創立30周年記念特別号の「遠乗りオートバイ競技会の回想」(宮崎秀樹氏筆)、大学創立40周年記念誌『VOIR』の「四大学オートバイレース」(小林隆幸氏筆)、「駆け抜けたホンダウェイ」(小林隆幸氏著)の「ホンダ前夜」、および『武蔵七十年史―写真でつづる学園のあゆみ』の同関連記事、『武蔵学園史年報』第16号の「医歯学進学課程修了者座談会」などの記事を参考に、事実関係をお二人に確認させていただきました。 (大久保 武)
2020.09.16
武蔵今昔物語
武蔵大學第1回入学志願要綱
第1回学生募集時に見る「ゼミの武蔵」、リベラルアーツへの志
 2015年、記念室書庫の未整理の段ボールに詰められた書類を整理した際、戦後新学制施行後の学生募集募集関連の史料が、数年度分発見されました。そのなかでも貴重なのは、写真にある、昭和24(1949)年度の武蔵大學(当時の表記)の入学志願要項です。新制武蔵大学の第1回生募集の詳細を示す史料ですが、これまでなぜか未発見でした。    もちろん、入学に関する試験や手続き、学費などはその他の記録、教務資料、理事会議事録などから判明していますが、一般に配布された第1回の学生募集の史料はきわめて重要です。しかも、現存するのは、この奇跡的に発見された1枚だけと考えられます。  「第1回志願要項」は、いわゆる「わら半紙」(パルプ未使用)に印刷されており、縦書きで右から大学の紹介、募集人員、出願手続き、試験内容、納入金が示され、続けて教授陣紹介があり、左端は写真を貼付する受験票と切り取り線で区切られた願書になっています。受験票には出身高校名、願書には保証人・学費出資者の住所氏名、職業(具体的に)を記入するようになっているのが時代を感じさせます。  冒頭の大学紹介文には「わが国初の七年制高等学校で培った豊富な教育経験をもとにつくられた新制大学」と明記され、「優秀な教授陣容を整備して経済理論・経営実践の各種講義と演習による専門知識」とうたって、後に「ゼミの武蔵」のもととなる小人数演習もすでに特徴としてあげられています。また「社会人、経済人として必要な高度な科学知識と文化教養を有する人材の育成」をかかげ、単科大学でありながらリベラル・アーツへの志を高く掲げている点も注目できます。  これらの表現から新制武蔵大学が旧制高校のよい部分「小人数の実践教育」「幅広い基礎教養」を継承しようとしていたことが伝わってきます。その質を支える教授陣は、宮本和吉学長、鈴木武雄学部長以下、教養科目には哲学、歴史、日本文学、数学、心理学、物理学、化学、生物学などの広範囲な分野に、その道の第一人者をそろえ、専門である経済関連には、当代一流の研究者を教授にむかえています。また、社会政策の教授として当時44歳の大河内一男氏(1962年、東大総長に就任)が招かれています。    募集人員は120名、入学試験は3日間あり、初日は国語、数学、外国語、進学適正検査で、翌日は身体検査、最終日は口頭試問となっています。入学時の納入金は入学金6,000円、学費半年分4,800円、父兄会費半年分2,400円となっています。したがって初年度の納入金総額は20,400円。ちなみに、当時の大学卒業者の会社員初任給の平均額は4,220円でした。  なお、案内に「戦渦被害が少なく設備充実」と強調されているのも印象的です。 ※写真上=志願要綱の左側、受験票部分。中=草創期の演習風景。下=各紙に掲載された学生募集広告。                             (武蔵学園記念室・調査研究員 三澤正男)
2020.07.30
武蔵学園史紀伝
武蔵学園構内で確認された疥癬タヌキと2017~2018 年のタヌキの生息状況
要旨  2018 年3 月に武蔵学園構内(東京都練馬区)でハクビシン捕獲用の箱罠に疥癬とみられるタヌキが混獲された。この個体は構内に生息するタヌキとは明らかに別個体で学外から迷い込んだものと考えられる。2017 年秋から2018 年秋までの構内のタヌキの生息状況は,1 頭での目撃情報が続き,ため糞場の利用も僅かだった。2018 年8 月上旬にため糞場を利用するタヌキがセンサーカメラにより撮影されたものの,下旬に構内で1 頭の死体がみつかった後,現在まで目撃情報はない。また構内の大規模工事に伴うタヌキの生息場の環境変化について記録した。   Keywords: 練馬区,ホンドタヌキ,疥癬,箱罠,目撃情報,センサーカメラ,たぬきマップ 【武蔵学園記念室より:この文章は、『武蔵高等学校中学校紀要』第3号(2018年12月刊)に掲載されたものである。近年の武蔵学園のキャンパス敷地の動向を、多くの人に知っていただく好適な文章として今回、当サイトに掲載させていただいた(掲載にあたって、一部の図版の位置を変更している)。今回、転載を快く認めていただいた紀要編集委員会と、著者の白井亮久先生に、記して御礼申し上げます。】    はじめに  タヌキNyctereutes procyonoides は世界に1 属1 種しかいない東アジアに自然分布するイヌ科で(佐伯,2008),東京都区内に生息する唯一の在来中型哺乳類である。近年,都心にすむタヌキの食性や行動様式などの研究がされているが,捕獲された個体についての情報はそれほど多くない(Endo et al. 2005;小泉ほか,2017)。東京都練馬区に位置する武蔵学園構内には20 年近く前からタヌキが生息しているとされており(白井,2017),2018 年3月に疥癬とみられるタヌキが確認されたため,記録として報告する。  加えて,白井(2017)による2016 年4 月~2017 年9 月までの武蔵学園構内のタヌキの生息状況の続報として,それ以降の2017 年10 月~2018 年9 月までの生息状況と,センサーカメラを用いたため糞場での行動観察,構内の改修工事に伴うタヌキの生息場所の環境の変化も合わせて記す。   図版1 学内地図(武蔵たぬきマップ2016 をもとに) ↑ 図.2017 年から2018 年にかけての構内のタヌキの生息と環境の改変 白井(2017)の「武蔵たぬきマップ2016」を改変して加筆。2017–18 年の出来事を赤字で示した。     武蔵学園構内で確認された疥癬のタヌキ  2018 年3 月14 日深夜1 時半ごろ,武蔵学園構内の9 号館裏(地点A)のハクビシン捕獲用の箱罠に疥癬のタヌキが混獲された(前掲の図版1,文末の図版2 A–B)。巻尺と上皿自動秤により計測したところ,およそ34cm 程度の大きさで体重は3.25kg の若い個体だった(腹部に陰嚢のような膨らみが確認できたが性別は不明)。頭部と尾部,四肢に毛はあるが首部から胴部にかけ完全に脱毛していることから疥癬に罹患していると考えられた。ライトで照らしても暴れることなくじっとしていた(文末の図版2 C)。巡回中の警備員によると0 時前後には入っていなかったため,箱罠に入って間もないと考えられる。  今回疥癬のタヌキが混獲された箱罠は,本学園の施設課により建物内に侵入するハクビシンの糞尿被害の対策のために業者に依頼して設置されたものである。2015 年12 月頃からハクビシン駆除を目的として構内に複数個所設置され,踏み板式の片側扉の箱罠(W260✖H300✖D820mm)で,誘引餌はリンゴやオレンジなどが用いられる(文末の図版2 A–C)。  ハクビシンが捕獲された場合(文末の図版4 B)は業者に引き渡されるが,ハクビシン以外の動物(鳥類やネコ,タヌキなど)が混獲された場合は,仕掛けを外し逃がすことになっている。疥癬のタヌキの計測と観察ののち,2 時半ごろ箱罠から逃がしたところ大学正門方向に駆けていった。その僅か約15 分後の2 時45 分に大学図書館脇の側溝付近(地点B)で再び1 頭のタヌキが目撃されたが,その個体は全身に毛が生え(文末の図版2 D),逃がした疥癬のタヌキとは明らかに別個体と確認できた。地点B はこれまで高頻度でタヌキが目撃されることから寝床に近いと考えられており,疥癬,あるいは脱毛の個体は2016 年春から現在まで構内の100 件近い目撃情報やセンサーカメラで確認されたことはない(白井,2017)。このことから今回みつかった疥癬のタヌキは偶発的に学外から入り迷い込んだものと考えられる。  疥癬はセンコウヒゼンダニSarcoptes scabiei の寄生によるイヌとの共通の疾病で,宿主の皮膚内に穿孔して脱毛を引き起こし,皮膚が肥厚・象皮様化して衰弱させる(鈴木ほか,1981;落合ほか,1995)。罹患した個体は二次感染などにより死亡し小さな個体群では絶滅に追い込まれることもある(谷地森・山本,1992)。野生のタヌキの疥癬の拡大には人間による餌付けとの関連が指摘されており(金子,2002;松尾ほか,2015),安易な給餌は禁物である。疥癬は主に接触感染で広がることから,野外で飼育されるペットと双方向での感染が起こりうるが,ペットからタヌキへの伝染が多いともいわれ(山本,1998;松山ほか, 2006),武蔵学園構内に生息するタヌキへの感染も懸念される。増井(1984)はタヌキの体重は冬に増え春先に減るというデータを示しており,今回混獲された個体の3 月に3.25kgという体重は生まれて一年に満たないとしても栄養状態が悪く,疥癬の影響もあるかもしれない。   2017 年秋から一年間の構内におけるタヌキの生息状況と環境の変化 ・生息状況(目撃情報,フィールドサイン)  前報【編者注:『武蔵高等学校中学校紀要』第2号(2017年12月刊)に掲載された、白井教諭の文章を指す。表題は文末の「引用文献」を参照】の2017 年3 月から現在まで,断続的に1 頭での目撃が続いている(目撃31 件:2017年10 月3 件,11 月2 件,12 月3 件,2018 年1 月1 件,2 月1 件,3 月6 件,4 月2 件,5月3 件,6 月6 件,7 月3 件,8 月1 件)。目撃場所の多くは大学図書館脇の側溝で(文末の図版2E,地点B),今回新しく目撃された場所は高中旧理科棟裏の標本庫前である(文末の図版2 F.ただしそれらの建物は2018 年8 月に解体され,現在はない)。2018 年4 月と5 月に濯川の玉の橋下の排水路でもタヌキの足跡が確認されたものの,その後はみつかっていない(前掲の図版1)。1 頭での目撃は2017 年3 月から1 年以上続いているが,つがいや親子での目撃情報はなく,2016 年夏に幼獣が確認された以降,2 年間幼獣がみつかっていないことから,この2 年間は構内では繁殖していない可能性が高い。   ・ため糞場の利用とセンサーカメラで撮影されたタヌキ  2016 年11 月以降(白井,2017),現在までため糞場3 地点の使用はまれで,本報告の調査期間中ため糞場MG-1 でのみ(前掲の図版1),少なくとも11 日間のため糞場の利用が確認された(2017 年10 月1 回,2018 年6 月1 回,7 月6 回,8 月3 回)。  2018 年8 月初旬にため糞場MG-1 において一晩で2 回のため糞場の利用があり,その様子をセンサーカメラで動画撮影した(文末の図版3)。8 月9 日20 時頃,1 回目となる1 匹のタヌキが現われ,排糞をして立ち去った。その約30 分後に再び別個体と思われる1 匹のタヌキが現れ,排糞をした。山本(1984)は,ため糞の交換や移動などの操作をした後の飼育個体の行動観察から,自分の糞,血縁関係のある個体の糞,見知らぬ個体の糞と遭遇した際に,「糞の臭いを嗅ぐ時間」が順に長くなることを報告している。今回,残念ながらセンサーカメラでは,臭いをかぐ行動の途中からしか撮影されておらず定量的なデータは得られなかったものの,短時間の内に同一個体がしっかりとした排便をすることは考え難いことや,体毛の模様が異なるように見えることから,別個体の可能性が高い。そうであるならば,目撃は1 頭であるがその期間は構内には単独で行動する2 頭がいたことになる。同様に翌10 日20 時頃にも短時間のうちに2 回の別個体と思われるタヌキの訪問と排糞が撮影された。今回撮影されたため糞場での行動はおおよそ田中ほか(2012)で報告されている里山のタヌキの例と類似していた。そのほか排糞中とその前後に鳴き声を発し,何らかのコミュニケーションとみられる行動も確認できた。  なお,今回センサーカメラでの排糞時刻とその後の目視での観察から,夏場にされた糞は糞虫等により分解が非常に早く1–2 日程度で形を留めず失われてしまうことが分かった。平沢(2006)で指摘されている通り,夏場でのサンプリングは迅速に行うべきだといえる。   ・ハクビシン用の箱罠に混獲されたタヌキ(2017 年12 月)  2017 年12 月10 日に大学2 号館裏(地点C)でハクビシン捕獲用の箱罠にタヌキが混獲された(前掲の図版1,文末の図版4 A)。この個体は疥癬ではなかった。この場所は警備員の巡回ルートではあるが,これまで目撃情報がなく(白井,2017),タヌキは決まったルートを通ることが多いとすると,この個体も偶発的に学外から入ってきた可能性がある。その後,警備員により箱罠の仕掛けが外され逃げていった。  構内の箱罠は前述のようにハクビシン駆除のために2015 年頃から業者により設置されたものである。構内でタヌキの目撃情報が100 回近くあり頻繁に活動していたとされる2016 年度であっても箱罠に混獲されることはなかった。これらの事をあわせて考えると,武蔵学園構内に生息しているタヌキは箱罠に入りにくく,偶発的に学外から入り込んできたタヌキが箱罠で入るということがあるのかもしれない。   ・9 号館裏のU字溝で見つかったフィールドサイン  2017 年12 月28 日に9 号館裏(地点A)のU字溝付近を探索した(前掲の図版1,文末の図版5 A)。この場所はため糞場MG-1 に近く,センサーカメラでもタヌキとハクビシンが良く撮影されている(白井,2017)。U 字溝のコンクリート蓋を外したところ,動物の骨や噛み跡の付いたマヨネーズ容器や硬式テニスボールが確認された(文末の図版5 B–F)。タヌキは寝床付近で遊ぶことから(盛口,1997),通り道(パス)としてだけなく寝床としてこの付近を利用している可能性もある。   ・高中グラウンド脇でみつかったタヌキの死体(2018 年8 月)  2018 年8 月27 日に高中野球グラウンド脇の側溝でタヌキの死体が見つかった(地点D,前掲の図版1)。集水桝からU 字溝に体を半分出した状態でみつかり,異臭が強く全体に蛆が付着し,既に頭部の大部分が白骨化していた(文末の図版4 C–D)。発見場所付近で普段活動している複数の野球部員への異臭の発生時期の聞き取りから,少なくとも死後1 週間近く経っているとみられた。腹部の内臓もほとんど失われ四肢の一部が欠損していた。頭胴長45cm 程度の比較的若齢個体で,全身に毛があり疥癬ではなかった。今回死体が発見された地点D の集水桝は2016 年7 月に幼獣が見つかった場所でもある(白井,2017:図版2)。しかし,それ以降その場所で成獣も幼獣も見かけることはなかった。U字溝はグレーチング(溝蓋)があり,集水桝に繋がる排水溝などを行き来していた結果,何らかの理由で死んでしまったと思われる(文末の図版4 D)。なお,死体は後日骨格標本として登録番号を付して武蔵高等学校中学校標本庫に収蔵される予定である。   ・工事に伴う環境の改変(2018年4 月~)  これまでタヌキが確認されている場所は,現在進行中の高中エントランス部の工事や学園の改修等の工事に伴い環境が比較的大きく変化している(前掲の図版1)。通り道,あるいは寝床に近いとみられる9 号館裏の喫煙小屋付近(地点A)は,2018 年4 月に喫煙所が撤去され,タヌキが通ることもある冷却塔がみえる開放空間になった。2018 年7 月より東門~高中エントランス部と軟式テニスコートなど整備のために,旧理科棟の裏の雑木林が消失し,濯川の玉の橋下流の排水路の暗渠化が進んでいる(エントランス部工事エリア)。それらの場所は目撃情報やセンサーカメラでの撮影,足跡などのフィールドサインが確認され(文末の図版3 E–F),冬季の餌資源となりうる果実の樹木も含んでいる場所である(白井,2017;飯島ほか,2018)。さらに2018 年8 月に大学図書館の空調整備のために3 号館中庭の一角に室外機の集中的な設置場が設けられ,ため糞場のひとつMG-3 と獣道が消失した(室外機設置エリア)。  このように構内のタヌキを取り巻く環境は急変しつつあり,今後タヌキの生活は変化すると思われる。岩本ほか(2012)は河川改修工事に伴うタヌキの行動変化を調べ,元の生息地への高い固執性や順応性を示している。タヌキは環境変化に柔軟に対応し都市に生息する唯一の在来食肉目といわれており,今後の構内での行動の変化から都市に生きるタヌキがどのように開発や環境改変に対応するのかに注目したい。   今後の展望  2018 年9 月以降,目撃情報やフィールドサインで構内のタヌキの確実な生息情報はないものの,今後の研究課題を記しておく。タヌキの個体識別やそれに基づくため糞場での行動観察,武蔵学園という都市の小さな孤立林にすむタヌキの食性の長期的な経年変化や,構内に同所的に生息する同じ食肉目のハクビシンとの食性や行動の比較,ノネコとの種間関係,タヌキの糞に集まる糞虫やハネカクシなどの訪糞昆虫調べなどがある。武蔵学園には食物連鎖の高次消費者であるタヌキを育めるだけの自然があり,タヌキを通してそこに生息する生き物たちの営みをみつめていきたい。   謝辞  前報(白井,2017)に引き続き目撃や箱罠に入ったタヌキの情報の提供は,内海幸哉さん,池原 満さん,蛭間一也さん,亀井哲夫さん(当時含む)はじめ武蔵学園守衛所の警備員の皆さんにお世話になった。本校生物部の部員には実地調査にご協力頂いた。本校英語科の楠部与誠さんとK. Bergman さんには英語表現について校閲頂いた。武蔵学園施設課にはハクビシン駆除用の箱罠の設置について教えて頂き,武蔵大学図書館の閲覧係の方々には文献の取り寄せで大変お世話になった。記してお礼申し上げる。本研究には,本校の個人研究費(2017–2018 年度「使える標本庫を作りつつ,研究する」)の一部を使用した。   引用文献 Endo, H., Hayashida, A. and Uetsuka, K. 2005. Pathological examination of a raccoon dog introduced to the Akasaka Imperial Gardens, Tokyo, Japan. Memoirs of the National Science Museum 39:47–53. 平沢瑞穂.2006.種子を運ぶタヌキ 東京郊外にすむタヌキの糞を分析して.どうぶつと動物園662:78–81. 飯島昌弘・斎藤昌幸・白井亮久.2018.武蔵学園に生息するタヌキの外食率を探る―東京都区部の狭い孤立林内の二つのため糞から出現した種子と人工物に注目して―.武蔵高等学校中学校紀要3:57–80. 岩本俊孝・傳田正利・三輪準二・竹下 毅・白石幸嗣.2012.河川改修工事にともなうホンドタヌキの行動変化に関する研究.宮崎大学教育文化学部紀要自然科学.25/26:1–17. 金子弥生.2002.タヌキ.フクロウとタヌキ(林良博・武内和彦,編),pp.77–144.岩波書店,東京. 小泉璃々子・酒向貴子・手塚牧人・小堀 睦・斎藤昌幸・金子弥生.2017.東京都心部の赤坂御用地におけるタヌキのタメフン場における個体間関係.フィールドサイエンス15: 7–13. 増井光子.1980.島のタヌキ.自然417:45–51. 増井光子.1984.小島のタヌキは個性的.アニマ140:76–82. 松尾典子・谷口裕子・大滝倫子.2015.動物疥癬の1 家族例—タヌキから感染した飼いイヌとの接触により発症.臨床皮膚科69:431–434. 松山淳子・畑 邦彦・曽根晃一.2006.鹿児島県におけるホンドタヌキの食性.鹿児島大学農学部演習林研究報告34:75–80. 盛口 満.1997.タヌキまるごと図鑑.大日本図書株式会社,東京.32pp. 落合啓二・石井睦弘・平岡 考.1995.千葉県のタヌキおよびタヌキ以外の野生哺乳類における疥癬の発生状況.千葉県立中央博物館自然誌研究報告7:89–103. 佐伯 緑.2008.里山の動物の生態-ホンドタヌキ.日本の哺乳類学2􀀃 中大型哺乳類・霊長類(高槻成紀・山極寿一,編),pp. 321–345.東京大学出版会,東京. 白井亮久.2017.武蔵学園構内におけるホンドタヌキの生息状況~“守衛さん”の巡回による目撃情報と痕跡調査に基づく2016 年度の記録と過去の聞き取り調査~.武蔵高等学校中学校紀要2:33–80. 鈴木義孝・杉村 誠・金子清俊.1981.岐阜県下の野生タヌキにおける疥癬症の蔓延について.岐阜大学農学部研究報告45:151–156. 田中 浩・相本実希・細井栄嗣.2012.ためフン場におけるタヌキの行動について.山口県立山口博物館研究報告38:51–58. 谷地森秀二・山本祐治.1992.八王子周辺のホンドタヌキの繁殖年周期と脱毛個体―聞込み及びアンケート調査から―.自然環境科学研究5:33–42. 山本伊津子.1984.ためふんの意味を探る タヌキの共同トイレ.アニマ140:71–75. 山本祐治.1998.ペットの病気がタヌキをなやます.タヌキの丘(小川智彦,著).p.39.フレーベル館,東京.   図版(2から5まで)一覧 (撮影者の記載のないものは,全て著者による撮影) 図版2 箱罠に入った疥癬タヌキ(A–C)と,構内で目撃されたタヌキ(D–F) ↑ A: ハクビシン用の箱罠の設置状況   ↑ B: 混獲された疥癬タヌキ   ↑ C: 疥癬のタヌキ(体重3.25kg) 誘引餌のオレンジが写っている(2018 年3 月14 日2 時26 分)   ↑ D: 大学図書館の中庭側の側溝で確認されたタヌキ 全身に毛があり,直前に見つかった疥癬個体 (上記のC)とは別個体であると分かる (2018 年3 月14 日3 時33 分,発見は2 時45 分) ↑ E: 大学図書館の中庭側の側溝で目撃されたタヌキ(2018 年5 月10 日 20 時45 分)   ↑ F: 旧理科棟裏の標本庫前で目撃されたタヌキ (2018 年6 月3 日 1 時22 分,守衛所 亀井さん撮影)   図版3 ため糞場MG-1 での排糞行動 ↑ ため糞場MG-1 で糞をするタヌキ(A)と,  ↓ その約30 分後に糞をするタヌキ(B). (黒矢印は1回目の糞で,灰矢印は2回目の糞)   説明:センサーカメラで撮影された2018 年8 月9 日夜の2 回のため糞場の利用。排糞前にその場の臭いを嗅ぎ,既に糞がある時には少し離れたところにする(A とB)。1度の排糞は2~4 回に分けられ,結果的に数個にみえることもある。糞便前後で高い鳴き声を発し,排糞中は体を反らせ遠吠えのようなしぐさをしていた。排糞後は速やかにその場から離れる。体毛の模様が異なる別個体に見えるが判定は難しい。増井(1980)の野外観察による,個体により毛色の濃淡の違いがあることや,雌雄の区別として排尿時にオスは片足を上げ,メスは跨ぐように行うことは,今後の個体識別の参考になるかもしれない。   図版4 生息状況(箱罠,死体,消失した場所) ↑ A: 4 号館裏(地点C)の箱罠に混獲されたタヌキ (2017 年12 月10 日,守衛所 蛭間さん撮影)   ↑ B: 高中保健室前の箱罠で捕獲されたハクビシン (2016 年2 月26 日,施設課撮影)   ↑ C: 見つかったタヌキの死体(左が頭部,体長は50cm 程度) ( 2018 年8 月27 日)   ↑ D: 死体が発見された場所  左が濯川,右が人工芝のグラウンド。矢印が発見場所の集水桝 ↓ E・F: 改修工事で消失した場所で撮影されたタヌキ(撮影は2017 年夏). ↑ E: 濯ぎ川最下流付近の側溝   ↑ F: 旧理科棟裏の標本庫付近の雑木林     図版5 生息近況(9号館裏で見つかったフィールドサイン) ↑ A: 9 号館裏の外観   ↑ B: 噛み跡の付いたテニスボール   ↑ C: マヨネーズ容器の落ちていた様子   ↑ D: 噛み跡の付いたマヨネーズ容器   ↑ E: U 字溝に落ちている骨   ↑ F: 骨の一つ(大腿骨)     【補遺】  本稿の入稿直前に構内でタヌキが混獲されたため,その記録を付しておく。武蔵大学の白雉祭期間中の2018 年11 月4 日深夜1 時15 分頃,大学2 号館裏(地点C)のハクビシン用の箱罠に冬毛のタヌキが混獲された。体重4.40kg,50cm 程度の大きさで疥癬個体ではなかった(写真A)。箱罠に誘引餌はなかった。計測中,断続的に排尿と少量の排糞もみられた。排尿はしゃがんで行っていた。2 時30 分頃,箱罠設置場所付近で逃がしたところ構内を駆けていき,約95cm の壁をジャンプし辛うじてよじ登り(写真B,赤丸がジャンプしたタヌキ),姿を消した。今年の8 月下旬以降2 ヶ月間構内で目撃情報がなかったことや誘引餌のない箱罠に入り込んでいることから,今回混獲された個体は学園構外から入ってきたものと考えられる。その後,4 時45 分頃にも大学9 号館の下で同一個体とみられるタヌキが徘徊していた。今後,この個体が構内で定着するか等を注視していきたい。   ↑ 写真A.箱罠に入ったタヌキ(体重4.40kg)   ↑ 写真B.ジャンプし95cm の壁を登るタヌキ    加えて,箱罠に入った前日の11 月3 日4 時35 分に,ため糞場MG-1 に設置したセンサーカメラで約3 ヶ月ぶりにタヌキが撮影され,排糞が確認された(写真C はその翌日に撮影された画像,写真D はその時の糞)。センサーカメラの撮影画像で同年8 月の個体(図版2)と比較すると,夏毛と冬毛という点で異なるものの一回り近く大きな個体であることが分かる(写真C)。訪問したタヌキは1 分30 秒以上ため糞場の臭いを嗅いだ後に糞をしたことが撮影動画で確認できた。その日以降ため糞場の利用が始まり,しばらくの間は一晩に3 回の利用が続いた(写真D)。目撃情報やセンサーカメラで撮影された画像から判断すると,ため糞場の利用個体はいずれも同一個体で,箱罠に入った個体と思われる。センサーカメラの記録と翌朝の糞の観察から,一晩にされた3 個の糞の形状の違いがみつかった。  3 回の利用時には,いずれも1 回目の糞は棒状の硬いもの,2 回目の糞は形があるものの小ぶりのもの,3 回目の糞は形がなく液体状のどろっとしたものである傾向がみられた(写真D)。このように回数毎,糞の量は少なく質感も軟らかいものになった。また日に日に,ため糞場での臭い嗅ぎ行動の時間が短くなった。今後,ため糞場での行動も観察していきたい。   ↑ 写真C.3 ヶ月ぶりにため糞場MG-1 に現われた排糞中のタヌキ   ↑ 写真D.ため糞(センサーカメラの記録から1 晩にされた3 回分の糞と分かる)  
 
to-top