Musashi
武 蔵 が 生 ま れ て 9 9 年 た っ た
99 YEARS HAVE PASSED SINCE MUSASHI WAS BORN
Days to 100th Anniversary
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Days to Go
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サイト内「武蔵写真館」をリニューアルいたします!
本サイト内の「武蔵写真館」はこれまで、「人物」・「施設」・「武蔵の自然」・「学生・生徒」・「行事」・「江古田の街」の6つでカテゴリーを分類して、それぞれのカテゴリーを選択いただくと、一覧形式でサムネイルを表示し、ご覧になりたい写真の個所をクリックいただくと画像が表示される、というスタイルを取っていました。 上記のスタイルで、2020年12月末の時点で約980枚の写真を掲載しておりましたが、掲載枚数が増加するにつれて、画面のスクロールにかなり時間と手間を要する(とくに、スマートフォンや、画面の小さいタブレットを使用するとき)、というご意見が寄せられるようになりました。 そのようなご意見にお応えしまして今回、以下のような閲覧システムを構築いたしました。 (1)写真を一様に配列するのではなく、テーマごとに「ギャラリー」を設定し、それぞれが20~30枚程度の写真を含む。 (2)掲載予定の全枚数は、現時点で約1,700枚を予定し、この分量に見合ったギャラリー数として、約80~100を予定する。 (3)閲覧をご希望のギャラリーを一つ選択すると、そのギャラリーに該当する写真のサムネイルが表示される。ご覧になりたい写真の個所をクリックいただくと画像が表示される (4)2021年2月から、毎週3つ程度のギャラリーを公開してゆき、2021年夏ごろにはすべてのギャラリー(1922年の旧制武蔵高等学校創立前後から、100年にわたる学園のあゆみ)を掲載することを予定する。 これに加えて、後日、検索機能を実装して、キーワードや時代による検索を可能とすることを計画しています。 従来同様に、写真館の写真や説明についてのご質問やご指摘などありましたら、各写真のコメントボタンからお願いいたします。 また、ご提供可能な写真がございましたら、そちらもコメントでご連絡いただきたく、お願い申し上げます(僭越ながら、掲載・不掲載の決定については、学園記念室にて判断させていただきます)。 2021年2月1日 武蔵学園記念室
NEWS & TOPICS
2021.05.20
武蔵今昔物語
【追悼】風わたる草原に座る人のいなくなった椅子がひとつ
武蔵百年史と有馬朗人学園長
創立百周年を見届けることなく     有馬朗人学園長が2020年12月6日、白玉楼中の人となられた。その年の9月に、満で卒寿を迎えられたばかりだった。  筆者が有馬学園長に直接拝眉したのは学園記念室長を定年で退任するまえの2018年1月が最後だが、非常勤の研究員になってからも登室日の朝、有馬先生が登校されるところによく出会った。   有馬先生は正門を入ってすぐに学園長車を降りられ、少し背をかがめて杖もおつかいにならずゆっくりと学園長室のある8号館まで歩いていかれるのが常だった。おひとりでおつきの方もつけず、車を8号館に横付けすることはなかった。学園長車はそのまま右折して守衛室横の駐車場に向かった。学園内での自動車の移動を最小限にしたいという先生のお心遣いだったと想像する。たまにタイミングがあったとき「学園長、おはようございます」とごあいさつすると、先生は「はい、おはよう」とにっこり微笑まれた。  2022年に武蔵は創立百周年をむかえる。有馬先生は、そのときもお元気で学園長をされていると筆者は無邪気に思い込んでいた。すべての学園関係者もおなじ思いだったろう。毎年の新年の会のごあいさつ、大学、高中の卒業式、入学式での祝辞はいつも凛として、きびしくも愛情に満ちていた。齢をかさねられるごとにみずみずしくなられるのは驚異的だった。  創立百周年を機に「武蔵正史」を刊行することは、太田博太郎学園長時代の30年以上まえから決まっており、筆者は学園記念室長時代に「武蔵学園百年史刊行準備委員会」、さらに「同刊行委員会」とその作業部会の立ちあげを行った。これらの委員は大学、高中の教員、法人の職員から選ばれるが、規程上、学園長から委嘱するかたちになっている。  そのためにアポイントメントをとり、何回か有馬先生にご相談し、助言をいただいた。学園長室を予定の時刻にたずねると、有馬先生はうずたかく積まれた資料や書籍に囲まれていて、小柄な先生はお顔しかみえなかった。秘書の方が「記念室長がおみえです」と伝えると、先生は資料のなかから「やあやあ、ごくろうさん」と気さくに登場され、「ここは狭いから、広いところへ行きましょう」と、ふたりだけの打ち合わせなのに、大きな部屋に自ら案内してくださった。  資料をお渡しし準備状況を報告して、委嘱に関するお願いをすると、有馬先生は少年のように好奇心いっぱいに眼を輝かせ、筆者の整理されていない話を熱心に聴いてくださった。そして、いただいたご質問はすべて簡潔明瞭かつ正鵠を射ていた。最後に有馬先生から、「たいへんなお仕事でしょうがよろしくお願いします」と激励をいただいた。そして、「学園史は過去に起こったこと、現在のことを記述するのは当然ですが、回想に終わることなく、また旧制高校のノスタルジーに惹かれ過ぎることなく、次の50年への示唆、教育の未来に向けた発信にしていただきたい」と結ばれた。このときは、少年から研究者の鋭い眼になられ、筆者は心のなかで後退りをした。そして、多方面ですばらしい業績をのこされている方なのに、わけへだてのない対応をされる先生に、「ほんとうにえらい人とは、こういう人なのだ」と学んだ。 研究者、政治家、教育者、俳人としてーー「三理想」を体現された90年の旅  有馬先生は1930年、大阪のご出身だが、その後は銚子、浜松で過ごされ、県立浜松第一中学(現・県立浜松北高等学校)を卒業された。武蔵には高等科から入り旧制時代の終わり、22期(1950年)のご卒業だ。東京大学理学部物理学科に進まれ、同大学院で原子核物理学を研究、28歳で理学博士号を取得された。  その後、東京大学教授、ラトガーズ大学教授、ニューヨーク州立大学教授などを経て1989年東京大学総⻑。1993年理化学研究所理事⻑。1998年には参議院議員となり文部大臣、科学技術庁長官を歴任された。2006年4月に武蔵学園⻑に就任され、亡くなられるまで現職だった。また、公立大学法人静岡文化芸術大学院の創立者でもあり、理事長をされていたので毎週静岡にも行かれていた。  有馬先生は俳人でもあり、16歳で「ホトトギス」に入選して以来、俳句でも多くの賞をうけられているが、2018年には句界の最高賞と言われる蛇笏賞を受賞された。先生はご両親も俳人であり、ひろこ夫人も俳人だ。夫人に先立たれてからはおひとりなので関係者は案じていたのだが……。   2020年秋、武蔵高校卒業生の俳句をたしなむ有志が「武蔵俳句会」を立ちあげ、有馬先生に顧問と指導をお願いしたところご快諾をいただいた。12月1日には第1回の句会がオンラインで開催され、先生も参加されてとてもお元気そうだったという。筆者もその句会の案内を頂戴していたが、自分の句などはお目汚し、お耳汚しだと遠慮してしまった。いまではとても後悔している。  とらわれのない多様な表現と豊かな詩情は有馬先生の句の魅力だ。先生は「ホトトギス」同人の山口青邨に師事されたが、鉱山学者でもあった師と同様に科学者としての目線も感じられる作品も多い。  櫟なほ芽吹かざれども雲は春 朗人  福田泰二元校長によると、この句は1947年4月22日の夕刻か翌日に詠まれた作品で、有馬先生が旧制武蔵高校高等科の編入試験に合格され、その喜びと未来への期待をクヌギの巨木を見上げて詠まれた句だと、先生ご自身から伺ったとのことだ。この編入試験の志願者は1,000名強、合格者は45名だった。  爽やかに回り舞台の一変す 朗人  有馬先生の逝去は、あまりに突然だっため、ご自身が「辞世」として詠んだ句はない。先生は1990年から「天為俳句会」を主宰されているが、上記の句は同会のウェブサイトに有馬先生の2020年12月の句として掲載されている作品だ。「無季の句」であるが、なにか暗示的ではないだろうか。 お別れの会のしおりから ーー根津理事長、五神前東京大学総長の弔文  現職学園長の急逝に、学園関係のみならず有馬先生が関わられた多くの組織に連なる人びとが、悲しみをこえて前に進むためにはセレモニーが必要だった。 Covid-19の感染拡大のなか、武蔵学園、東京大学、理化学研究所の共催により、4月23日、帝国ホテルにて「「有馬朗人先生お別れの会」が執りおこなわれた。感染防止のため、参加は事前予約制、さらに参加時間もグループことに指定して、献花だけを行った。したがって、弔辞などのあいさつはなく、800名におよぶ参加者は献花のあとは別室に展示された有馬先生の業績やあゆみを語るパネルや資料で先生との思い出を偲んだ。  また参加者には、先生の略歴、受賞歴、折々の俳句が掲載された「しおり」が配布されだ。これに寄せられた根津公一学校法人根津育英会武蔵学園理事長(高校43期)、五神真前東京大学総長(高校50期)の弔文を、許可を得て転載する。                                ※  根津公一理事長ーー私が根津育英会理事長、有馬先生が武蔵学園長に就任したのは、2006年4月のことでした。就任早々有馬先生は私に、「初代根津嘉一郎が、どのような思いで、またどのように旧制武蔵高等学校をつくっていったのかを調べるように」との宿題を与えられました。調べた結果いくつか分かったのは、先ず初代根津嘉一郎の育英報国という動機。そして創立者が一人の思いで学校を創るのではなく、周囲に、当時日本の教育や政治にたずさわる超一流のブレーン達がいて、その人々の活発な議論の中から新しい学校が創られていったということでした。  そのとき私が思ったことは、初代根津嘉一郎を囲んだ多くのブレーン達の役割を、一世紀後の今日、有馬先生はひとりで果たしてくださっているのだと言うことでした。「天は二物を与えず」という俚諺がありますが、時として天は特定の人物にだけ、二物はおろかいくつもの才を与えることがあります。有馬先生はそういう方でした。今指を折って数えるだけでも、物理学者、教育者、学校の運営者、政治家、行政官、俳人等々そのどれをとっても、この国の、あるいは世界の最高級の才を、天は有馬先生一人に与えられたのです。気さくでひょうひょうとした日々の先生のたたずまいのどこから、あのきらびやかな才が閃くのか、まことに驚嘆する思いでした。  最晩年の有馬先生が、とくに心に掛けられていたのは、「東西文化融合」の思いでした。西欧近代文明と、その対極にあって漸く力をつけて来ている、中国、イスラムなどの東洋諸国との軋轢が先生の問題意識でした。そして、日本は古い東洋文化の一員でありながら、西洋の主導する近代文明とも価値観を共有することの出来る国として、これからの歴史の中で、両者の架け橋にならなければならない、というのが先生の持論でした。  武蔵学園は来年創立百周年を迎えます。その百周年を超えてどのような事業をしていくのか、それを議論している最中に、議論の中心であった有馬先生を突然喪ったことへの痛恨は大きいものですが、残された私たちは、これからも有馬先生の遺志を酌んで、将来「東西の架け橋」としての役割を果たす若い人々を育てる武蔵学園を創っていくことを誓います。  有馬先生の偉業に対し、心から尊敬と感謝を捧げ、謹んで御冥福をお祈り申し上げます。   五神真前東大総長ーー私が最後に有馬先生にお会いしたのは、昨2020年10月30日、先生が会長を務める東京大学地域同窓会連合会の会合でした。いつものはりのある声で、お変わりなく元気そのものでした。卒寿を過ぎてなお矍鑠たる有馬先生のお姿を見て、100歳までのご活躍を信じておりましたが、その僅か1月後に突然の訃報に接したのです。東京大学を長く精神的に支えて下さった巨星を不意に失い、大きな喪失感に襲われています。  有馬先生は、私の武蔵高校の先輩であり、東京大学理学部物理学科の先輩でありました。旧制と新制の違いこそあれ、武蔵高校では同じく、受験教育と距離を置き「自ら調べ自ら考える」ことの大切さと、リベラル・アーツを尊重する精神を学びました。  有馬先生は、配位混合理論や相互作用するボゾン模型など原子核理論の業績で世界的に知られ、文化勲章を始め国内外の栄誉を多数受けられました。原子核は多数の粒子が強く相互作用している難解な多体量子システムですが、対称性などの数理を駆使した先生の見事な理論によって、原子核はその美しい姿を際立たせました。一方で、現在の計算科学の先駆けとなる、原子核の量子構造の大型数値計算を創始されました。それは、お弟子さん達に引き継がれ、最先端計算科学を駆使して、先生の先見性が見事に証明されています。また、東京大学大型計算機センター長時代には、国産の大型計算機技術を堰合に示す事にも尽力されました。  2015年4月に私は東京大学総長に就任し、有馬元総長の後輩となったのですが、大学改革に対する先生の信念と行動力は、いつも私の手本でした。1990年代初頭の大学院重点化と教養学部改革という、よく知られたふたつの大改革の他にも、有馬総長は情報公開の推進、外部評価の導入、寄付講座の創設などを進められました。どれも常識を超えた大胆な改革で風当たりが強いものもありましたが、30年後の今、当たり前のこととなっています。批判に怯まず、将来を見通し、必要な改革は断行するという有馬先生の姿勢は、総長のあるべき姿を示すものでした。  私が総長となって2年たった頃に、東大の広報誌『淡青』での対談で、有馬先生は次のように発言されました。  「五神総長はよく頑張っていると感心していますよ。私も物理教室の出身ですが、理論屋だから屁理屈で終わってしまうことが多い。でも五神総長はきちんと実行もしますね。実験をやる人だったからかな。私を他山の石としてしっかりやってくれてありがとう」  私の総長在任中で、最も嬉しい言葉でした。有馬先生から、私の6年間の総長任期を終えたときの評価を伺うのを楽しみにしておりましたが、もはや叶いません。東京大学のさらなる発展を天国から見守って下さるようお願いするとともに、有馬先生のご冥福を心からお祈りいたします。                                ※  無月なり世のほころびをかくさんと  朗人  これは先生が「天為俳句会」に寄せた昨年12月の作品のなかの一句だ。有馬先生か旅立たれてからまもなく半年がたとうとしているが、Covid-19の感染収束の光は未だ見えず、社会のあらゆる局面に混乱が生じている。その歪みがもたらす変容は経済のみならずモラルにまで及びつつある。有馬先生は現在の日本と世界の状況を座標のない空間からどのようにご覧になっているのだろうか。  風わたる草原に置かれた椅子がひとつ、かつてここに座っていた人をいまもまっている。                                      (2021年5月記)                                         三澤正男(武蔵学園記念室調査研究員・前学園記念室長:高校45期)  写真上 1950年3月、武蔵高等学校22期理科の卒業式にて(現時点で有馬先生を特定できていない) 写真中 2018年春、武蔵学園の樹木のに名札をつける活動をされたとき、学生たちに語りかける有馬先生  写真下 2021年4月23日、帝国ホテル2階「孔雀の間」で執りおこなわれた「有馬朗人先生お別れの会」の祭壇
2021.07.26
武蔵学園史紀伝
正田構想実現の10年間を回想する
正田構想実現の10年間を回想する 【武蔵学園記念室より:以下の文章は、故大坪秀二氏(高校16期・元武蔵高等学校中学校校長)が生前、『武蔵学園史年報』第14号(2009年3月刊)に寄稿されたものである。】 ◆はじめに  たまたま時の巡り合わせのような縁で、『武蔵七十年史』編纂を機に学園史資料に関わることになり、20年近くが過ぎてしまった。その70周年記念事業で設置された学園記念室では、2022年に刊行されるであろう学園の正史、『武蔵百年史』を一つの目標とした仕事が進められている。旧制時代と、新制高校中学の18年間(発足から1967年3月まで)については、概略の記録を「校務記録抄」や「記録抄」として7回に分けて学園記念室年報に発表した。それらについては、歴史家でもない私が不遜とは思いつつ資料を取捨し、解題を書いた。対象とした四五年間のうち、筆者は生徒時代、教師時代を併せて23年半を武蔵で過ごした。一数学教師としての管見ではあるが、大勢の同僚と気持ちを共有するものが多く、ある程度は客観的な見方を貫くことが出来たように思っている。私はこれで、武蔵の歴史をあとの人々に引き継げると思った。  記念室の方針として、世間一般に倣い、30年以上を経過した史料は出来るだけ記録として遺すこと[30年ルール]にしており、現在[=この文章が執筆された2008年の時点(武蔵学園記念室注)]それは1978年以前を意味する。未発表の分の初めの10年間は、いつの間にかその30年ルールに当てはまってしまった。そのとき、任じられて教頭、のち校長の職にあった筆者には、それを取り纏める資格はなく、しかし、後継の人選は決まっていない。これまで協力して仕事をしてきた記念室関係諸氏のご意見で、ごく概略の記録だけでもまとめておけば、と促されて、異例ではあるがその10年間の整理をすることにした。  流れの大筋は、事務長が記録する「学務日誌」に拠り、これに内容的な肉付けを加える史料として、「教師会議事録」と、私自身の校務メモ(主として教師会のための準備)、私自身の日記(両メモをあわせて[大坪メモ]とした)とを援用した。他に『大欅』[学校と家庭の連絡誌]、『校友会報武蔵』の両資料を確認程度に利用した。私には克明な記録を残す習慣がなく、教頭になってやっと、書き残すべきことがあると気付いたが、長年の習慣は簡単には改善できず、今更ながら恥ずかしく思っている。 あり合わせの資料を並べただけの変則な記録であるが、これに『解題』を書くのも烏滸がましく、記念室運営委員会のお許しを得て、主な事柄についての私自身の回想のようなものを書き並べてお許し頂きたいと思っている。 ◆学園再編計画 第2次正田構想 (1966~1967年度)  学園を挙げて朝霞に移転するという第1次正田構想は、米軍朝霞基地[一部は既に自衛隊が使用中、さらに1966年にはホークミサイル基地となることが予定された]の追加払下げ可能性が消滅した段階で振り出しに戻ったが、大学を複学部にする(当初は文系、理系各一学部増設)構想は生きていた。1966年度の終わりには「学部増設準備会」が発足して、高中からは大坪[筆者。1967年度から教頭就任予定]と島田[いずれ日本史担当として大学への移籍が予想されていた]の二教諭も準備会の委員に加えられていた。 学部増設は殆ど大学プロパーの問題のように見えて、実はそうでない。新設すべき大学学部の居所を何処に設けるかは、大学と高中が建物についても運動施設についても混在していた当時にあっては、先ず直面する大問題であった。[さらに、東京都外の朝霞に移転する場合と異なり、江古田校地内で大学と高中が共存することになると、その住み分けの処理が、新学部認可申請の時期次第では、認可の成否にも微妙に関わる懸念もあった]  この問題は、結局、大部分が正田学長・校長の意中にあるということを、関係者みんなが暗黙のうちに了解し合う状況のなかで進行したといってよい。したがって、筆者が校長の計画の具体的な内容を正式の場で聞いたのも、1967年6月27日、高中父兄会長と高校同窓会長とを校長自宅に招いての新計画への募金事業に協力を懇請したときである。もちろん、それ以前に漠とした構想の話はあった。筆者が教頭に就任したばかりのころ、正田先生に誘われて濯川のへりを散歩した折のことである。「将来にわたって、大学、高中それぞれが施設その他の更新を望むことがある筈。それが、一々学園全体の問題となって動きがとれなくなるような事態には、今こそ対処しておかねばならない。それに、学生運動はまだまだ序の口で、将来に向けて一層高まることが予想される。大学、高中が完全に混在している現状で、どちらかに何事かあれば、必ず影響は全体に及ぶ。火種は個々別々なことが多いだろう。必要なだけの対応ですませる為にも、お互いの生活域は分けておく方がよい」と、まあこんな話であった。正田先生の考えはこの点ではっきり決まっており、細部のプランが未定のままに、濯川の線が大まかな境というところまで煮つまっていた。そして、先生はこの構想の線でどんどん周囲への働きかけを行っておられた。『正田構想』と呼ばれた所謂である。 ◆動き出した計画 (1967年度後半)  1967年9月末から計画は一気に動き始めた。まずは、教師会に校長から計画を発表することであったが、全員の同意を得ることは決して簡単なことではなかった。構想そのものへの強い批判もあった。その後の教師会では、強硬な反対意見も堂々と述べられ、論議は年末近くまで繰り返された。さんざん議論した揚げ句に、疑義は残したものの、学長・校長構想の線でとにかくまとまろうと言うことが多数の同意を得た。このあと、生徒への説明は教師会の論議をふまえて、11月24日、講堂に全校生徒を集めて教頭から説明が行われた。説明は1時間半に及び、10日ほどあとの代表委員その他有志との話し合いも含め、現段階で分かる限りの情報を尽くして話し合った。11月14日に父兄会委員会での説明のあと、生徒にも情報が流れて、主として上級生の間には反対行動を企てるやの噂も聞こえていたが、この説明後の全体の傾向としては、つとめて前向きに受け止め、遠慮なく要望を発言して行こうという方向に変わっていったのは頼もしいことであった。  根本問題の議論とは別に、具体的な移転計画は時間と睨めっこで進めねばならない。各教科に現状確認の作業が求められ、新施設への要望事項をまとめるための調査、検討が始められた。総務委員のほかに建設担当の小林教諭、体育施設担当の飯塚教諭(当面代理高橋教諭)を加えて建設委員会が作られ、専ら建設のことを扱った。一部屋を無理矢理に空き部屋にして、ここを建設委員会の作業場とした。 募金計画への対応は、父兄、同窓の間で大層好意的に進められ、学校側としては只ただ感謝であった。父兄会委員長会、委員会、総会がそれぞれ一度ならず持たれ、熱心な討論が夜遅くまで行われた。こうした率直な作業が、通り一遍、儀礼的な賛同ではなく、歯に衣着せぬ討論を経た強固な合意を形成してくれたと思っている。  同窓会については、総会、旧制・新制それぞれの部会、卒業期ごとや部ごとの集まり、関西・中京・東北・北海道等地域での集まりと、実に様々なグループが賛同と後援の催しを行ってくれた。その他、同窓には第一線で活躍中の建築家が多く、幾つもの場面でその人たちのアドバイスを得ることが出来た。もちろんその中心となってくれたのは建築学科の大先輩太田博太郎先生であり、すべてについて気を配ってくださったのは内田祥哉先生(17理、当時東大建築学科教授)であった。 ◆「日常+建設」の1年半  1967年の年末に設計・施工会社が清水建設に決まり、学校建築専門家をまじえたスタッフが紹介された。その人たちと年末から年始にかけて幾つかの学校を見学したのを皮切りに、設計の本格的な相談が始まった。相談はすべて建設委員会の部屋で行われたが、正田校長は毎週1度の定期会合に必ず出席されて、具体的な件にも個人の見解を述べられた。旧テニスコートの周りに植えられていた7本ほどの欅を1本だけは保存し、新校舎の屋上に穴を作って欅はその穴を貫いて茂らせるという設計側の案に、せっかくの欅は全部残して、それにさわらぬように校舎をプランしたいと提案されたのは正田先生だった。欅の列を渡り廊下が貫くというプランがこれで確定した。  基本設計の相談が始まったのが1月半ば、そして3月半ばには大坪、小林の二人が清水建設本社に出向いて設計スタッフと膝詰めで正味8時間を越す作業を行い、やっと基本設計を完了した。この2ヶ月間は教師としてのルーティンな仕事も多忙な年度末であり、これに設計計画が加わって、徹夜に近い忙しさに耐えた日々であった。[筆者注:このような高中プロパーの仕事は、大学の人たちには殆ど伝わっていなかったらしい。3月14日の学園協議会では、何の相談もなく勝手に基本設計を作ってしまったと学・校長をなじる発言が大学側から出て、「基本設計は案であること、一昨昨日、長時間かかって出来たばかり、一昨日教頭から報告を得て、すぐに学部長に渡したものであること」が学・校長から説明された。『武蔵学園史年報第9号』「学園協議会議事録」には、この時のやりとりがかなり省略して記録されている(43~44ページ)]  新しい学年が始まり、建設は実施設計に入った。細部になるほど素人の手に負えない事柄が多くなったが、内田教授の計らいで、34期の澤田誠二氏が技術的問題を検討する大役を引き受けてくれた。我々教師側にとって力強い味方であった。  この段階では、一つ一つの細部がすべて施工費算定に直結するので、きびしいやりとりが際限なく続くことになった。決着までの3ヶ月間には、思い出として苦いものが多い。計画の基本だけは崩したくなかった。初めて経験する「値段をめぐるやりとり」も、内田教授ほかの味方になってくれる人々の助けで何とか耐え抜いた。理科関係教室の設備を一部分別枠にすることで交渉が妥結し、7月15日に契約成立、全校生徒も出席して地鎮祭が行われ、新校舎への移転がはっきりとした未来として意識されることになった。  予想外のことの一つに、5月16日の十勝沖地震があった。倒壊した建物に学校建築が多く、構造上の強度があらためて問題になった。しかし、この時ただちに構造設計を見直すまでには到らなかった。此の問題は、1981年夏の校舎一部増築の時にまで持ち越された。  記事が前後したが、1969年4月の新校舎への移転を必ず実現しなければならないと言うギリギリの条件をあてがわれて、それでも生徒たちの日常の活動はなくすわけに行かない。体育館、グラウンド、テニスコート、すべてなくなって、この1年間、どこかの施設を借用して活動を続けねばならない。それは高中生だけでなく、大学生も同様であった。近隣の学校の厚意に縋り、他方で朝霞校地の迅速な整備が求められた。その工事中に遺跡が出土して一時工事中断。幸に早めに処理されて、切り抜けることが出来た。人文学部のための旧校舎の改装は先ず外壁の塗装から始まり、高中の授業終了をまって、内部の大がかりな模様替えを急ピッチで進めねばならない。これらすべてのお膳立ては、地鎮祭以後現場事務所が立ち上がるころから、先へ先へと相談が進行した。  1968年4月には、大学、高中双方の体育科の一致した意見が通って、大学体育館も江古田校地内に造ることが決まっていた。高中の体育館・グラウンド・集会所等については父兄、同窓の寄付金で造られることから、設計・管理[もちろん大学体育館も含めての]を19期卒業の山田水城氏に依頼することが決まり、夏の間にその点の調整が行われた。そのこともあって、体育館等の工事の細部決定だけが残った一一月末に、筆者が工事現場で転落、腰椎骨折の重傷を負うという不測の事故に遭ってしまった。必ずかぶらねばならぬヘルメットのせいで身長がほんの3センチほど高くなっていたために、触らずにすむ筈の足場パイプがヘルメットに当たったためであった。「ヘルメットは必ず阿弥陀にかぶれ」という工事現場の鉄則があることを後で聞いた。私の不注意が多大の迷惑をかける結果になったが、幸運にも入院108日、コルセット生活1年半という療養で全快することが出来た。しかし、1969年4月から大学人文学部に移籍予定の島田先生に4月末まで教頭代理をお願いしたことは、申しわけないことであった。  これら、当時の事情を回顧しながら思うことは、教師会のほかに、総務委員会、学科主任会、建設委員会がそれぞれ身軽な数名ずつのメンバーで機能したことの有難さである。 ◆高校紛争の1年間 (1969~1970年度)  1960年代の半ばすぎから、学生運動が大学を中心に少しずつ高まりはじめた。ベトナム戦争に反対する平和運動(ベ平連)、沖縄返還交渉に於ける核の問題、1968年にフランス全土を覆った学生の反乱、同年の日大闘争、東大医学部を発端にして全学に拡大した反権力闘争、それに1970年6月の日米安保条約継続問題など、幾つもの要因を抱え、指導者も様々な混迷の時代であった。 反乱の波は1968年終わりごろには高校段階までおりてきて、学校側、教師側への反権力闘争の形をとり、過激化した。武蔵でも、1969年3月の卒業式への異議申し立てを皮切りに、4月には沖縄反戦、10月には国際反戦デーへの参加に関連したバリケード・ストライキ予告[不発に終わる]、他校の紛争への参加、そして1970年3月には他校生をまじえての卒業式阻止バリスト未遂事件に至った。これら一連の動きは、本年報において内容が理解され得る程度に事実を追ったつもりである。  今、当時を思い出して感じるのは、われわれ教師たちがいわゆる過激派の生徒たちと、とことん対決する姿勢は決してとらなかったことが、事態を穏やかに収める大きな要因だったということである。いわゆる非行に対して、停学、謹慎という処分をきっぱりと行って来たのと異なり、思想上の対立[本当に思想上の対立があったかどうかは断定できない]に対しては、落ちついて話し合うしかないことを繰り返し説得するとともに、簡単に割り切った返事を求める彼等の要求に、それほど単純に割り切れないことの意味をよく話したつもりである。卒業式のバリスト未遂事件でも、試験の不正や社会的不正への対応とは異なり、それらと同様な処分では何も解決しないことを説明し、教師と生徒が結ぶ関係は、最終的には「人間関係」、いわばヒューマニズムとも言うべき、簡単には説明出来ない複合的思想が根本にあることを述べたつもりである。そのことにはその直後に、彼等からはげしい反発が寄せられたが、それ以上の反乱はなかった。通常の処分は行われることなく、大部分の問題は時が解決した。  同様の考え方は「70年安保の日」の対生徒の方針にも貫かれたと思う。「高校生が政治活動を行うのは何が何でも許せない」式の文部省方針に従う多数高校とは一線を画して、生徒たちがこの日をどのように過ごすべきか、本気で十分に討論した上で行動の方針を決めたらよかろうと、一日の授業時間を生徒の自由にまかせた。大げさに言えば一国の将来を大きく支配する基本が定められるとも言える日に、自分の意志で自分を律する経験を得損なうのは、生徒たちの今後の人生にとってまことに重大な損失であることを、彼等に伝えたかった。結果として、午後に大学生と高中生とが合同で校外へ出て、整然としたデモ行進を行った。学校が承認したデモと理解され、力による弾圧はなかった。  この日を境に、学校への反権力行動はすっかり影を潜めた。そのかわり、以後世の中では過激派同士のいわゆる内ゲバが長期間続いた。年を越えて1971年10月、外部の過激派勢力が校内に侵入、大学施設内で、居合わせた高校3年生1名が頭部を殴られ、脳挫傷で意識不明の重傷を負う事件が起きてしまった。これがきっかけで、校内にも過激派同士の争いが再燃した。内ゲバについては、暴力抗争は絶対に許さないこと、抗争が行われた場合には必ず厳しい処分をすることを、父兄同伴の場で、問題生徒数名には申し渡した。安保の日における対応とは全く異なる方針であることを明確に出したことで、以後、生徒内での暴力抗争は起こらなかった。重傷の生徒は約1ヶ月後に意識が戻り、その後徐々に回復した。 ◆紛争後 (70年代後半以後)  70年安保の後、世の中も武蔵高中も急速に落ちつきを取り戻していった。もちろん、外ではセクト間の抗争が引き続いていたし、成田闘争は、安保騒動が終わっても燃え尽きない学生たちの結集場として残った。一方、若者社会は急激に非政治化し、「しらけ世代」とか「三無主義」とかが言いならわされるようになった。しかし、武蔵の場合、この時代に新しい活動の気風が見え始めていたことも明らかである。自由研究発表の場である山川・山本両賞の応募が急に増えて、内容も著しく向上した。学校外の選者の批評でも、大学卒論レベルというより大学院レベルとまで賞賛される論文も多く、学校の授業の枠を越えて自己を形成しようと試みる若者活動は頼もしかった。  論文とは別に、部活動の面でも決して「しらけ」でないことが顕れてきた。スポーツの場合、東京都の大会を勝ち抜くことは、選手スカウトが当たり前の多数有名校がある以上ほとんど不可能に近いが、その次の位置を保ち続けるのも立派なことである。そうした部が幾つも出た以外に、世間から注目されることの少なかった種目で、著しい成果を上げる部も出て来た。水泳部が水球で全国準優勝(同率2位)をつづけ、国体でも都代表の主軸として出場し連覇したのがその著しい例である。 ◆第2外国語に新しい風 (1973年度以後)  旧制武蔵高校では、高等科の外国語は英・独2ヶ国語で、英語を主とするものを甲類、ドイツ語を主とするものを乙類とし、文、理それぞれに甲、乙の別があって、生徒はそのどれかを選んだ。旧制一般ではフランス語を主とする丙類もあったが、丙類を置く高校はあまり多くなかった。  1950年に旧制は終わったが、ドイツ語の教授が引き続き武藏大学におられたので、それらの先生によって兼修、選択科目としてのドイツ語が存続した。旧制の名残のような選択ドイツ語にも、いろいろの変遷はあったが、今号で記述した時代には高校3学年にわたる学年制コースで、高1(初級)ではかなり多数が選択するが、高2(中級)につなげる者は激減、高3(上級)になるとほんの数人になってしまう状況が続いていた。  1969年に武藏大学に人文学部が新設され、英、独、仏3ヶ国語については、それまでの教養科目だけの扱いでなく、それぞれ英、独、仏文化コースという専門課程としてメンバーも増強された。  新しくなったキャンパス内の生活が落ちつくにつれ、大学の専任として人文学部に就任した大竹健介教授(旧制22期)から、第2外国語としてドイツ語だけでなくフランス語も始めてはどうか、協力したいとの話が熱心に寄せられた。そのドイツ語には、1970年度から鹿子木先生の後任にお願いしていた池谷洋子氏のほかに、大学人文学部に就任した鈴木滿助教授(32期)が加わってくれていたので、この機会に第2外国語の方式を一新する計画が立ち上がった。  従来の制度では、せっかく上級コースがあるのに、多くの生徒にとって大学進学と両立しにくい事情であった。新しい構想では学年制でなく初、中、上級の3グレード制、中3以上の生徒がどの級にも能力に応じて参入出来る、つまり、高2までで3つのグレードを終えられるという利点があり、途中脱落が防げることが期待出来た。  この計画には、国語科(漢文担当)高橋稔教諭から、中国語コースも設けてほしいとの希望があり、結局独、仏、中3ヶ国語にグレード制、無学年制の選択科目として、1973年度から第2外国語が発足したのである。高橋氏は翌年東京学芸大学に移籍したが、非常勤講師として1981年度まで中国語を担当した。  たしかに、新しい制度は途中での脱落を防ぐのにかなり役立った。高2で上級を終えた生徒たちが高3でもまだ学びたいという希望者もあって、上級の扱い方を時に応じて工夫するなど、嬉しい意外さもあった。しかし、第2外国語の学習が大学進学と全く無縁な、しかし異文化との接触に於ける独立のルートとしての意義を生み出すことになるのはまだ10年以上先の1987年を待たねばならなかった。 ◆海浜学校の方針転換  1970年には体育館と並んでプールも竣工して、授業では古いプール(大学プールとなった)と新しいプールとが時間割をうまく組めば両方を使えることになり、中1、中2の水泳指導効果が急速に向上した。旧プールだけの頃は、長距離を泳ぐ力を身につけるのは海浜学校の課題で、小三角、中三角、大三角(大三角ではじめて湾外へ出る)、興津(または守谷)への大遠泳と順次泳力を高め、参加者の半数以上が大遠泳を泳ぎ切る成果を上げていた。しかし、鵜原の海は水温が20度を割ることも多く、その克服のために学校のプールで水道水の温度が低い頃から泳ぎ込んで、寒さに順応する授業が行われていた。新施設が出来て、プールでの泳力が格段に向上し、その面だけ見れば、わざわざ海浜学校を行う必要はない、というのが体育科多数の見解であり、別に設けられた海浜学校を考える委員会の論議もそれに近いものであった。しかし、そのような技術問題ではなく、ある目標を中心にした合宿生活が、中学1、2年の少年たちに、人間同士のふれあいを通じて彼等の人格の成立に少なからぬ影響があるのではないか、技術面とは別に教師の役割の意義があるのではないか、極論すればそれが全くないというなら止めてしまえばよい、多少はあるだろうと思うからやっているのだという、比較的年かさの何人かの声に、積極的否定論に沈黙していた人たちも胸を打たれるものがあったようである。結局、目標は目標として新鮮なものに改め、それを中心とした生徒たちの活動を教師は協力して支えて行こうということに落ちついた。  1973年夏からの海浜学校では討論の結果を受けて、まず第1に2期にわけて1回の生徒数を半分にし、安全の確保を容易にすること、具体的課題としては水上安全教育という思想を中心に据えて、距離泳、潜水、サーフィンの3種目を行い、プールでの成果を基礎に水上での安全を高めるために、海そのもの、波や風、潮流などへの体験を深めることを求めた。そしてそれら総ての上にある(あるいは基にある)ものとは、それら具体的行動を共に行うことによって参加生徒1人ひとりが人間的成長を遂げることにある、としたのである。  また、翌年には教師の責任問題の議論を再度行い、これまで学校行事として参加を原則としていた海浜学校を、参加申し込み制に改めた。どうしても海を拒否したいという生徒なり父母なりの意志を尊重したからであった。同時に、授業を含む学校行事において、教師が個人としての事故責任を問われたとき、それが明白な不適切行為である場合以外では、学校法人の責任においてその教師を弁護するということを、学園協議会の議を経て議事録に明記した。 ◆修学旅行の方針  戦後、やや事情の安定した1951年秋に関西修学旅行が復活し、高2生を対象にして行われてきた。旅行を取りまく事情は次々に変化し、改善の工夫は絶え間なく繰り返されてきた。期間中、毎日、全員で同一行動だった当初の2、3回のあと、日程の一部にコース別選択制が採用され、見学のための学習資料が生徒たちの手で作成されるようになった。「もはや戦後ではない」といわれた昭和30年代になると、世間一般の観光ブームが起こり、奈良、京都の有名な見学先は人々がごった返すようになった。日本史担当の島田先生が計画の中心にいたおかげで、当時まだ観光ツアーから外れていた方面に歴史の学習としての基本的なコースを設定し、定着させることが出来た。しかしそれも、ほんの一時しのぎに過ぎなかった。京都郊外、奈良周辺、そして飛鳥一帯は、数年の中に一変してしまった。  コース選択制でバス1台ずつを行動単位とする方式では満足な見学が困難になり、とうとう、数人ずつのグループを作ってグループごとの自由行動を採り入れた。毎日を完全グループ化することに踏み切ったのは1973年秋からである。年報本号の範囲ではないが、1978年秋を最後に関西修学旅行はとりやめになった。何か新しい計画が浮かべば再考の余地があると含みを残したし、2学年ほどが、赤城や鵜原の寮に合宿して討論するなどの試行を行ったが、後続の企画は現れなかった。 ◆部合宿の付添問題  1973年6月、山岳部の夏山合宿に「田中 勝顧問は国外出張中、百済弘胤顧問は健康上の理由でともに付添不可能だが、信頼できるOBがいるので彼に委せて合宿をさせてやりたいが如何」との提議から、教師会は激論となった。  他の部でも休暇中に合宿するものは多いが、どの部にも顧問が付添うのが原則であった。しかし、顧問自身が技術面のコーチでもある場合だけでなく、OBのコーチに頼り、顧問は合宿の総責任者である場合が多いのも実情であった。その点で、山岳部の付添顧問には山行のリーダーとなるべき力量が求められている。OBに委せてただ付いて行くだけという顧問は問題外だというのが会議の共通理解であった。(実際には「顧問は付いて行くだけという高校山岳部」に山で出会ったことは一度ならずある)  だから、その最も責任の重い山岳部こそ、顧問付添の原則を外すわけにゆくまいという意見、更に山岳部でさえOBの付添ですむのなら、ほかの部の顧問もOB委せでいいはずだという意見が中心であった。  しかし、山岳部員から見れば、夏山は部活動の第一目標であり、これを禁じられることは部をつぶされるのと同様と受け止めるであろう。顧問が信頼を置くOBがいるのだから、そのOBの力量の範囲の山を選んで負担を軽くしてでも、合宿をさせてやりたいというのが問題提起した顧問の立場であった。  仲裁案は「現顧問が十分信頼出来る人物がいるなら、その人に学校の教師と同様の資格を認めて、合宿を行わすことが出来る」というものであった。賛否は教頭を除く40人中、賛成22、反対6、棄権12ですれすれの賛成だった。  実際には、この夏の合宿は顧問の判断で中止とし、個人山行に切り換えられた。一般論として、個人山行にすれば学校の責任外とはなるが、かえって顧問の目の届かない山行が暴走することもあり得る。その危険を考慮しない両顧問である筈はなかった。個人山行とは言え、顧問が十分に目を届かせ、責任への配慮をした上での「個人」であったのだが、記録の上には残らなかった。 ◆学園長制度と大学、高中にそれぞれ専任の学長、校長  1969年に発足した大学人文学部は1972年に4学年が揃う段階に達し、大学は成熟した2学部を持つことになった。単学部のときは、学部長が事実上の学長の役をつとめ、学長としての正田先生もそれをごく自然な形として受け止めていたが、2学部になって2人の学部長を取りまとめる学長の役は、単学部の時と全く異なる重みを持つことになった。1968年から69年の初めにかけて、この点について、「大学に専任の学長を置くべきであること、その選出は世間通例に従って教授、助教授の投票で決すべきこと、理事会決定で選ばれた学長、校長兼職の自分の立場は世間通例で言えば学園長というものであろう」という正田先生の意向を、一度ならずいろいろな側面からの考え方として伺うことになった。  大学学長に関する意見が問題の発端であったが、高校中学については従来通りというのでは学園内のバランスが崩れると言うことで、高中にも専任の校長を置くべきだという意見であった。1969年5月、校長から見解表明があり、それに応じた論議をふまえて校長選任内規を作ることが合意された。9月には、総務委員会で作成した内規原案が会議で承認され、10月にそれに従った方式で1975年度からの校長予定者として大坪教頭(筆者)が正田校長から指名され、大坪教頭退席の教師会で論議が行われて指名が承認された。内規は世間の慣例とかなり異なる点があり、それは内規作成段階での筆者の考え方に、総務委員諸氏が同意してくれて出来たものであった。  公立校などと異なるのは、校長とは身分の段階ではなく、職務の名称であること、従って、任期を終え、重任されなかった校長は、定年前であればもとの教諭職に戻ること、そのことは校長の給与を教諭給とし職務手当は別に定めるという形で明記されている。もう一つは、教師会で強く主張された「天下り校長の否定」である。1年以上教諭をつとめた者の中からしか選ばれないとする規程は、仮に、「天下り的人材」を校長に選任したいと「理事会」の意向が決まった場合でも、1年間この学校の教諭として仕事をし、同僚の信頼が得られなければ、選任の論議に上れないということであった。この2点のうち後者は、その後教師会の決議で変更されたが、それはこの制度発足から約20年後の話である。 ◆青山寮移転問題  1937年(昭和12年)、山上学校のための寮として、当時の父兄石川昌次氏の本郷弥生町にあった巨宅が寄贈されてそれを解体、軽井沢矢ヶ崎の地に移築したのが武蔵青山寮である。青山寮の敷地(約1万坪)は、南軽井沢一帯の広大な根津理事長所有地の一部分で、青山寮のために無償で使用を許されたものだった。移築にあたり学校では父兄からの寄付(約2万円)を得て、これを移築の費用に充てたが、別に理事長からは校長ほか付添教師のための教室の建築費を寄贈されている。  建築が古めかしいとは言え、築後70年程度ではまだまだ居住に耐えるはずであったが、寮のある軽井沢東端は夏期の極端な多湿気象、冬期の寒冷と積雪などの自然条件に加えて、年間約10ヶ月ほどは無人という利用状況の故もあって老朽化がはげしく、毎年手入れのためにかなりの費用を必要とした。その上に、保健所、消防署からは新時代に相応した設備の充実が求められるようになって、その場しのぎの対応は許され難くなっていた。  1974年の記録に青山寮をどうするかという教師会の記事がある。議論の設定がはっきりしなかった為に、話は散漫となり、明確な論議にならなかった。しかし、正田学長・校長の考えの中では、当時の学園の財政状況――物価高騰で支出が増大する一方で、容易に学費が上げられぬ事情――の中で、青山寮問題をどう処理すべきなのかを模索しておられたようである。根津副理事長とも内々の相談をされていたと思われる。  1976年3月、学園長から老朽した青山寮のためにいつまでも軽井沢の土地を使い続けることをやめてこれを根津家に返還し、新しい場所に寮を作りたいという話が切り出された。そしてその1ヶ月後には青山寮移転先の第一候補地が奥日光であることが表明され、移転話はにわかに具体的な段階に入った。  候補地については東武鉄道の不動産部が関与しており、東武が旅館を持っている光徳沼近辺が第1に挙げられていた。奥日光は旧制創立後の第5年目から昭和5年度以外の10夏にわたり山上学校を行ったところで、立地条件としては申し分なかった。[注:この時の山上学校は日光湯本の旅館を借りて行われた。例外の昭和五年は旅館が火災で建て替えとなり、やむなく軽井沢の夏期大学で行った]ただ、山上学校の運営形態が変わって、10数人ずつの班単位で山歩きなどをする方式になっていたので、奥日光周辺の山は標高の上でも、ルートの難易度や天候条件の上でも、1000メートルを僅かに越す程度の軽井沢周辺より危険は多いと思われた。そのことが、活動内容にかなりの制限を与えることだけは分かっておく必要があった。  実は、奥日光について、筆者はこの時から約20年前の1955年頃に、武蔵山岳部の山小屋を建てることについて、東武鉄道におられた先輩から候補地などの紹介を頂いた経験があった。はじめは光徳沼近辺、小田代近辺の何処でも、気に入った場所ならよかろうと告げられて実地を見て歩いたが、いざ本格的に話を進める段階になったところ、奥日光は国立公園中でもとくに規制がきびしく、原則として新築は禁止であること、さらに、附近唯一の水源地の水利権は、戦場ヶ原にある開拓村と東武鉄道のホテル[当時はまだ山小屋程度のものだったが]とが持って居り、割り込む余地がないことが分かり、計画は消滅した。そのような経験を持つ筆者には、その頃と全く同じ状況のままの光徳付近に武蔵が寮を持つことは、ほぼ不可能であると思えた。その旨を正田先生にも説明したが、先生は話の次第では道が開けるのではないかとして、なお、旧父兄の縁故を頼って交渉を続けられた。そして、この年10月、環境庁の許可が下りないことが明確となり、計画は白紙に戻った。  候補地探しは続行され裏磐梯の檜原湖周辺、同沼尻付近、安達太良山東面の岳温泉近辺などを岡学長、大坪校長、と事務局長、財務部長同道、東武側の案内で歴訪した。しかし、何処の場所もわれわれが考えている武蔵の寮のイメージとはまるで合致しなかった。12月に入り、赤城の大沼湖畔に東武の旅館(黒檜莊と呼ばれた)があり休業中であること、この施設を含め周囲の県有地を借地することが可能との話があり、取りあえず都合のつく3人(大坪、高久、志村)だけで現地を訪れた。会社や学校の寮が立ち並ぶ厚生団地から離れて、立地条件は申し分なかった。ただ、カルデラを囲む外輪山はごく小ぢんまりとまとまっていて、いささか箱庭的にも見え、避暑地としては最高でも生徒たちの活動の場としてはやや物足りぬ感もあった。学園長にはこの感想を伝え、最善とは言わぬが次善の候補地であろうと報告した。  年が明けて、学園長、学長が赤城を視察、候補地をほぼここに定めて話を進めることになった。此の問題についての最終的な詰めは、1月半ばに根津氏と学園長との間で行われ、両者ともに多少の含みを残しつつも、話はほぼまとまったようであった。  この話と同時進行で、学園内では再編事業にもれた大学関係施設(図書館、研究棟、中・小講堂など)を、更に充実したいとする要望について、意見がまとめられつつあった。1975年11月の着任以来1年余となった中村新一専務理事が学園長を補けて、大学側の意見を調整し、試案が固まったのが1977年3月半ばで、その直後に私達は正田学園長の急逝に遇った。そして私たちは、その日から先生の学園葬を終えるまでの10日間、ただ無我夢中で過ごした。それが終わって、どっと疲れが出た。  正田学園長没後、岡学長が学園長事務取扱を1年間つとめ、1978年4月、太田博太郎氏が第2代学園長に就任した。青山寮問題は新学園長に引き継がれて、約2年半後、1980年12月に赤城青山寮が竣工した。昭和12年、当時の父兄多数の拠金によって建てられた旧青山寮を、根津家、学園双方の事情が重なって廃棄せざるを得なかったことへの償いの意味も込めて、新寮は根津理事長の厚志により学園に寄贈された。しかし、これらのことは次の校務記録で記されるはずの内容である。  【写真:正田建次郎学園長の書。『武蔵七十年史』に掲載】
2020.09.30
武蔵今昔物語
武蔵百年への船出
青春の日付変更線をこえて
 花曇りの空から、わずかに陽ざしがこぼれた。武蔵野を渡る南風がやわらかに頬をなでたが、集った人びとはややかたい表情で時を留めた。  本記事の冒頭に掲げたのは、大正11(1922)年4月17日、武蔵高等学校の第1期生入学式の集合写真だ。いまから98年前のこの日、武蔵は日本初の私立七年制高等学校として歩みはじめた。尋常科4年、高等科3年を基本とする新学制の下にいち早く誕生したのは、根津嘉一郎という一個人の貢献によるものだった。  それ以前の中学5年、官立高校で3年の計8年ではなく、尋常小学校卒業後、7年間の一貫教育で大学に進学できる新しい学校である武蔵には、全国から1,102名が志願した。  一私人の篤志による設立、広大な校地に募集定員わずか80名という個性ある学校は、入学試験も独自だった。「理解力」では、「其の右に出づるものなし」「すめばみやこ」などの語句の説明や、武将の辞世の歌の知識を問う難問もあった。最後の大問は「世界石炭産額の比較」で、文科理科を問わず幅広い基礎教養を考査している。さらに「観察力」では実物の葉を3枚用意して差異を書かせていて、現在も武蔵中学入試の理科で出させれるいわゆる「おみやげ問題」は第1回入試から出題されていた。武蔵三理想の一つ「自ら調べ自ら考える人物」は入試問題からも求められていた。  こうして船出した武蔵は、初代校長に一木喜徳郎(枢密顧問官)、第二代に山川建次郎(東京帝大総長)という教育界の重鎮をすえ、強力な教授陣のもと、根津理事長の教育は現場に委ね経済的支援は惜しまぬ理解を得て、授業も設備施設も充実していった。また山上学校などの校外活動も開校直後から行なわれた。  とはいえ、都心から離れた小さな私立校が「一中、一高を経て帝大へ」を至上とする当時の学歴社会の荒海を渡っていくことへの不安は、生徒も父母も教員も抱えていただろう。しかし彼らの表情は、それ以上にパイオニアとしての希望と気迫に満ちている。事実武蔵は、その心映えのままに草創期を駆け抜けていく。  この日は少年たちにとって、海図も航跡ない日付変更線の彼方への船出だった。だから未来を見つめる彼らの表情は、かたいながらもどこかまぶしそうだ。                                                      (武蔵学園記念室・調査研究員 三澤正男) ※写真上=初代校長・一木喜徳郎 下=第1回入学試験の「観察力試験」  
2020.08.20
武蔵学園史紀伝
四大学オートバイレースのこと
武蔵大学OBへのインタビュー記録
インタビュー実施日:2019年(平成31年)3月28日   大久保:  本日は、1回生の小林隆幸先輩と、プレメディカルコース2回生の宮崎秀樹先輩から、1952年(昭和27年)に開催された四大学オートバイレースについてお話をお伺いするのが趣旨ではありますが、お二方とも大学の草創期を体験されておられます。せっかくの機会ですので、本題に入る前に、どういう動機で武蔵大学を選ばれたのか、また、学生生活はどのようなものだったのかについて、先にお伺いしたいと思います。   潜越ですが、私は20回生で、経済学部単学部の最後の募集年となる昭和43年の入学でした。すでに、入学定員は、経済学科と経営学科で計400名になっておりましたが、それでも、建物の多くは木造で質素、女子学生は大学全体でも20名程度しか在籍していなくて、男子校というイメージが濃かったように感じます。18歳人口に占める大学進学率は、25%程度になっておりましたが、先輩方が新制の大学に入学された時代(経済学科のみ、入学定員は120名)の大学進学率は10%以下であり、大学生がエリートと呼ばれた時代かと思います。    まず、1回生の小林先輩からお伺いします。先輩は、1932年(昭和7年)生まれ、ご出身は東京。武蔵大学経済学部をご卒業と同時に、1953年(昭和28年)に本田技研工業株式会社に入社、1959年(昭和34年)から27歳でアメリカに赴任し、アメリカホンダ設立に参画、1964年(昭和39年)には総支配人としてタイ法人を設立、営業の神様とまで言われてホンダの成長期を支えられ、1967年(昭和42年)に名古屋支店長、その後、1970年(昭和45年に)東京支店長、1977年(昭和52年)に鈴鹿製作所所長、1980年(昭和55/年)にホンダの常務取締役、1983年(昭和58年)に鈴鹿サーキットランド社長を務められました。また、大学同窓会においても、長らく副会長をされておられました。高校までは成城学園と伺っておりますが、なぜ武蔵大学に入学されたのですか。また、当時の学生生活はどのようなものだったのでしょうか。   小林:  戦後、学制改革の混乱があり、成城は、大学設立が他の四大学から1年遅れることになりました。しかし、いずれ、四大学は同じ連合大学になると聞いていたので、待っても同じだなと思って武蔵に入学した訳です。入学した当時、我々1回生は60名強くらいの人数しかいなくて、当然のこと、指導してくれる先輩などいませんよ。大学生が使う専用施設もほとんどなかったし、運動部や文化部に限らず、クラブなど何も存在しない。教職員、学生ともに、何事につけて、全部、自分達で、最初から始めるしかなかった。  私は、笹原壮介君(故人、元東北放送専務取締役、初代の同窓会東北ブロック長)と一緒に成城学園の尋常科時代からグランド・ホッケーをやっていたこともあって、いきなり、武蔵初の運動部の部長を任されたし、その後、四大学運動競技大会を仕切るとか、いろんなことをやりました。まだ、戦後間もなくのことだから、遊ぶと言ったって、お金もないし、とにかくやることがない。だけど、体力だけは、余っていたので、いつも「何か面白いことはないかな」と考えていた。お蔭で、2年、3年となるうちに、自分で計画して行動に移すということが身に付いたのと同時に、なるべくお金を使わずに目的を達成するという手法も上手くなっていった気がするね。   大久保:  次に、宮崎先輩にお伺いします。先輩は、1931年(昭和6年)生まれ、愛知県のご出身。1952年(昭和27年)3月に武蔵大学の医歯学進学課程(プレメディカルコース。以下「プレメ」と記す)を修了され、翌年1953年(昭和28年)に東京医科大学へ進まれました。東京医科大学大学院終了後の1962年(昭和37年)から、愛知県稲沢市で外科医院を開業され、1972年(昭和47年)には愛知県医師会理事、1986年(昭和61年)には日本医師連盟の推薦を得て参議院議員に初当選、以降計3回当選しておられます。  参議院におかれては、環境政務次官(1989年・平成元年)、労働政務次官(1991年・平成3年)、参議院内閣委員長、参議院議院運営委員長などを歴任されました。自由民主党の副幹事長を務められたご経験もおありですし、2004年(平成16年)から2年間、日本医師会の副会長も務められました。  医学部に進む前の受験資格としての必要な課程は、制度として、新制大学の中に置かれることになった訳ですが、学園の年史によれば、プレメ開設は、大学設立の翌年の1950年(昭和25年)4月1日(開設認可は、昭和24年7月)となっており、他方で、昭和26年5月10日にはプレメの修了者の壮行会を開催したとの記載があります。学園史の記載からは課程が1年間だったようにも思えますが、本来は2年間の筈です。そして、卒業生名簿によりますと、先輩は、プレメの2回生となっています。だとすれば、先輩は昭和26年4月入学になるのではと思いましたが、先回、お会いした折に、確か昭和25年4月の入学だと伺っております。創設期のプレメの制度がよくわかりません。実際に、どうだったのか教えて下さい。   宮崎:  認可との関係はわからないけれど、私が武蔵のプレメに入学したのは、昭和26年ではなくて昭和25年4月です。私は2回生ですから、プレメは実質上、武蔵大学開学の昭和24年当時からありましたよ。それと、課程は2年間でした。旧制高校を前身とする東京の大学の中では、武蔵と成蹊、成城にこのコースが置かれていましたが、旧制武蔵高校は有名な学校でしたからね。私が在籍した当時の教養課程のカリキュラムは、プレメも経済学部の学生も同じもので、必要な取得科目が異なっていただけでした。私の場合は、昭和27年3月にプレメを修了し、受験勉強のために武蔵大学の3年生として、更に1年間いて、昭和28年4月に医大に入学した。だから、四大学の当番校の時には、武蔵大学の学生として参加できたのです。   大久保:  そうだとすれば、新制度への移行時には良く見られますが、経過措置として、昭和24年度分の取得単位についても、認可日からさかのぼって適用されたことになりますね。それに、開設当初、学部生と同じだったプレメのカリキュラムも、制度が定着した4年後には、経済学部生とは別になったと『武蔵学園史年報』に書かれています。   宮崎:  そういえば、小林君も、最初はプレメで入学したんじゃなかったの。   小林:  違いますよ。私は、医者の道はお金もかかるしね、親にも負担はかけられない状況だったから、無理だと思ってプレメには進む気は、最初から無かった。それどころか、私は、大学に入る前から既に儲かる商売を始めていたので、大学などに行かずとも十分生きていけるという自信があった。でも、家族のほとんどが大学出だったせいもあって、母親からどうしても大学だけは出て欲しいと懇願されてね。成城時代に一緒だった笹原君の誘いもあって武蔵に入学した。   大久保:  入学当時の江古田駅は、武蔵野稲荷神社に近い踏切付近にあった時ですか。   宮崎:  神社付近だね。だから、学校までは、今よりずっと近かった。   大久保:  学生食堂ができるのは、はるか後の昭和32年9月です。お昼時間には、食事などはどのようにされていたのですか。出入りしていたお店の名前にご記憶はありますか。   小林:  私なんかは、弁当を持って来ていたよ。   宮崎:  名前は忘れたけど、学校の向かい側の桜台寄りに食堂が1つあった気がする。線路の向こうには蕎麦の「花月庵」があったね。その2階で、鈴木武雄先生にご馳走になったこともあった。   大久保:  まだ、賑やかな商店街などはなかったということですね。では、今回の本題である「四大学オートバイレース」のことについて詳しく伺いたいと思います。オートバイレースの企画は、武蔵が提案したものと伺っています。   小林:  たまたま、私の親父にホンダとのつてがあったので、オートバイなら何とかなるかも知れないと思って話をしたのがきっかけです。ホンダ初の2輪車「ドリームD型」が昭和24年(1949年)に完成し、普及し始めていて話題になっていました。   宮崎:  そうだったね。昭和27年(1952年)、武蔵が第3回四大学運動競技大会の当番校になった年(四大学がすべて揃ったのが昭和25年。第1回大会の当番校は学習院大学、2回目は成蹊大学)ですね。当時は、放課後になると、学生部でゴロゴロとしながら、先生方と話をするのが習慣のようになっていましたからね。あの時も、小林君と年齢は我々よりかなり上だったが2回生の岡崎道彦君(故人、アサヒビール入社)と、現在の大学3号館の東翼角にあった学生部の部屋で四大学運動競技大会の企画を話している中から出てきたものだったね。   大久保:  当時は、クルマの主流はオートバイだったのですか。   宮崎:  昭和27年ですよ。当時は、車(自動四輪)などは宝物に等しくて、我々に手の届くような存在ではなかったからね。だけど、当時だって、自動車部は一応あったんだよ。ただし、「オート三輪」と呼ばれたトラックでね、乗用車じゃない。活動といっても、魚卸の配達アルバイトみたいなことばかりでしたけどね。   小林:  当時は、バイクを借りるといっても、その仕組自体がないので、結局、いきなり本田技研の本社に、私と宮崎君と2回生の岡崎君の3人で行ったんですよ。その時は、四大学運動競技大会の経理を担うことになっていた同期の石田久君(故人、「益萬」代表取締役、元同窓会長)も一緒に行くはずだったが、交通事故で入院していて行けなかった。本田技研の本社は、当時は八重洲にあったのだけれど、ホンダといってもまだ今でいうところの駆け出しのベンチャー企業ですよ。昭和23年(1948年)に、浜松で自転車用の補助エンジンを製造したのが始まりだからね、それから、わずか4年後の話ですよ。  本社を訪ねたら、奥の方から藤澤さん(藤澤武夫専務、後の副社長)が出て来られて、我々の応対をしてくれた。身体の大きい人という印象だったね。いきなり「オートバイ10台、貸して下さい」と頼んだ。でも、詳しい理由を話すより前に、藤澤さんから「お前らに貸すクルマなんかあるか」とケンもホロロ、即座に断わられた。相手のことも良く知らなかったし、とにかく、学生は怖いもの知らずでしたから「すみませんが、社長(本田宗一郎氏)はどちらですか?」と聞いたんですよ。そうしたら「社長は、今、入院中だよ」と言われた。   大久保:  入院先を教えてくれたのですか。   小林:  社長の入院先なんか、教えてくれるわけないさ。でも、そんなことでは、あきらめなかったね。どうせ、こっちは暇で時間はあったからね。その足で、社長の自宅を尋ねることにしたんだよ。図々しいといえば、まあ、そうだけどね。   宮崎:  一面識もないのに、病院にお見舞いに行くことにした。でも、社長さんに変な見舞いも持ってゆけないだろうと思って、なけなしの自分の小遣いをはたいて、文明堂のカステーラ1箱を買った訳ですよ。当時は、高価なものだったから忘れないですよ。   小林:  社長の自宅まで行ったら、タイミング良く道路の前でご長男が遊んでいたので「お父さんは?」と聞くと「入院してる」。「そう、どこの病院?」という感じで、うまく入院先を聞き出せた。確か、荒川病院だったかな。   宮崎:  病院に着いて、いきなり病室をノックすると、奥様が出て来られて「何のご用ですか?」と。「実は、お願いがあります」と切り出すと、そのまま、病室の中に入れてくれた。そこで、社長に改めて遠乗りレースの企画を説明の上で、オートバイ10台を貸して欲しいとお願いした。すると、笑って「面白い。わかった、貸してやるよ」と、まさに即決だった。   小林: 「でも、今、本社で断られたばかりなのですが・・・」と伝えると、「オレが社長だ」と胸を叩いて大笑いされた。だから、我々は勇んで本社に戻りましたね。戻って、藤澤さんに向かって「貴方には断られたけど、我々は、借りましたからね」と自慢気に伝えた。   大久保:  君らは好き勝手なことをして、何だと、怒られた訳ですか。   小林:  それがさ、怒られるのかと思ったらね、藤澤さんもすごいよね。大笑いしたあと「お前らみたいに図々しいの、初めて見た」と、とても喜んでくれたんだよ。   宮崎:  本当、あれには、びっくりしたね。怒らなかったんだよね。   大久保:  四大学運動競技大会のバイクレースとなっていますが、大学間で競って到着順位を決めることが趣旨だったのですか。また、何故、名古屋までだったのですか。都知事のメッセージを届けるという企画は、後から、追加したものですか。   小林:  レースとはなっているけれども、競争をして順位を決めるという性格のものではなかった。各校、2名を選抜して、名古屋まで四大学が協力してメッセージを届けに行くことが趣旨だった。東京・名古屋間となったのは、遠乗りバイクレースの話を進める過程で、当時の鈴木武雄経済学部長(後に学長)が我々を心配して下さり、懇意にされていた中部経済新聞社社長に協力をお願いしていただけるということになったからです。  でも、都知事のメッセージを持ってゆくというのは、我々学生の企画です。新しく知事制度ができた記念に、安井誠一郎東京都知事のメッセージを、桑原幹根愛知県知事と小林橘川名古屋市長に届けよういう企画にしたんですよ。   大久保:  実際に、お借りしたバイクの型式名は何だったのですか。運転免許は、既に、持っておられたのですか。下見の段階からバイク10台とも、長期間借りたのでしょうか。コースの下見は、実際にどなたがされたのですか。   小林:  借りたのは、ホンダ・ドリームだよ。下見の時には、私は運転免許を持っていなくて、この企画の本番に間に合うように、後から取った。   宮崎:  既に運転免許を持っていたのは私と岡崎君だったので、コースの下見はこの二人で行った。成増のホンダの工場で、先ず2台を借りて、道路状況や、食事、宿泊先などの調査をしました。だから、下見と本番と合わせると、我々は、東京一名古屋間を2往復したことになる。   大久保:  本番での武蔵の運転者はどなただったのですか。   宮崎:  本番では、各校2名、往復とも原則同じ人物が運転した。でも、当番校の武蔵だけは3人で、私と岡崎君、そして、実行委員長だった小林君。   大久保:  実際、どの位のスピードで走ったのですか。道路状況が良くなかったでしょうから、せいぜい時速60キロ程度ですか。   小林:  いや、150cc程度のエンジンだったけど、本番では、最高で時速100キロ位では走りましたよ。バイクの能力自体は、もう少しスピードは出たと思うけどね。でも、今のような舗装された平らな道路を走る訳ではないんですよ。当時、国道1号線と言っても、三島までは、一応、舗装されていたけど、そこから先は、ひどかったからね。砂利道だからね、穴だらけだよ。  東京・名古屋間は、約360キロだけど、高速道路などないし道路はガタガタだし、長距離ドライブなんか普通は考えませんよ。ましてや、こちらは免許も取り立てだし、名古屋まで行くのは、私は出かける前に怪我をしていたこともあって、それこそ命がけだった。  それに、バイクを借りたといっても、当時は、まだ、長距離をちゃんと走れるのか、大丈夫なのか保証がない時代だったんだよ。帰り路では、怪我に加え夜道走行になっていたせいもあって、私は、途中で運転を交代してもらったくらいだから。   宮崎:  小林君の乗ったバイクなんかは、軽く30メートルくらいバウンドして飛んだね。そのはずみで、車輪が壊れたりしたね。カーブで曲がり切れずに、垣根を飛び越えて、街道脇の人家に飛び込む者もいた。前をトラックでも走ろうものなら、土埃で、先が全然見えなくなってしまうからね。   大久保:  途中の、給油はどうされたのですか。   宮崎:  結構、燃費は良かったと思うね。正確な記憶はないけれど、片道で1度くらいの給油で済んだと思う。   大久保:  往路、宿泊地となる浜松では、浜松工場にも立ち寄ったと記録にありましたが、宿泊地に設定したことという以外に、修理か何かで立ち寄る必要があったのですか。   宮崎:  浜松にもホンダの工場があったからで、特に、修理のためというつもりはなかった。けれども、結果的には、浜松工場でバイクの整備もしていただきました。   大久保:  当時のお金で、どのくらいの予算がかかったのでしょうか。目安になるような数字を、概算でもご記憶がございますか。   小林:  石田久君がいれば何か残してくれているかとは思うけれど、もう、記憶はないね。   大久保:  四大学運動競技大会の開会式は、1952年(昭和27年)7月5日ですが、バイクレースの実施時期は、11月9日から12日の4日間の開催だったと書かれております。結果として、レースは、どういうスケジュールになったのですか。   宮崎:  11月9日(1日目):午前8時に、朝日新聞社前をスタート           タ方4時過ぎに、ホンダの浜松工場に到着。浜松市内にて1泊  11月10日(2日目):午前8時に浜松を出て、お昼頃に、愛知県庁に到着            ミス名古屋からの「花束贈呈」           愛知県知事、名古屋市長と東京都知事の「メッセージ交換」           夜は、中経グリルにて中部経済新聞社主催の「歓迎パーティ」           名古屋市内にて1泊  11月11日(3日目):早朝ではないが午前中に名古屋を出発、往路と同じメンバーの運転で帰路に着く。           暗くなってから、沼津市内にて1泊  11月12日(4日目):武蔵には集合はせず、各自、大学に戻る。           後日、集まって、10台すべてを成増工場に返却。   大久保:  すでに寒い時期だったと思いますが、どのようなバイク・ウェアだったのですか。   宮崎:  ウェアなんてしゃれたものではないよ。格好はね、テレビ番組で流行った「月光仮面」そのものだよ。「ツナギ」が出回った頃だったので、これを着て、寒さ予防に腹に新聞紙を巻いて、土ぼこりを防ぐために、顔を白いマフラーで覆ったんだよ。私は、ポケットにウィスキーの瓶と、草鞋(わらじ)みたいな硬いトンカツを入れて、飲みかつ食べながら走ったんだよ。飲酒運転をしても、違反にならなかった時代だからね。11月上旬は、今よりも気温は低かったからね。   小林:  私は、お酒なんか飲んでませんよ。運転に必死でしたからね。   ↑ レース開催中の光景写真(『武蔵七十年史―写真でつづる学園のあゆみ』所収)     ↑ オートバイレースの学生が名古屋市役所前に到着した時の写真(『武蔵七十年史―写真でつづる学園のあゆみ』所収)   大久保:  大怪我をするかも知れない企画だったようにも思えますが、他大学の学生も参加するので、大学から企画を考え直せというようなことはなかったのですか。   小林:  武蔵という学校は、無茶とも思えるような我々の発想を、鈴木武雄先生、波多野真先生をはじめ多くの先生方が心底、成功するように応援してくれたんだよね。中部経済新聞社と名古屋タイムス社には主催の承諾交渉をしていただいたり、本田技研工業の後援を取っていただいたりと。だから、我々学生の方も、実施に向けて必死ですよ。四大学との協議、知事のメッセージの依頼、下見、宿泊を含むスケジュール調整まで、事前に準備しなければならないことは色々あった。   宮崎:  誰も考えないような企画を自分達で考えて、四大学をリードして、1名の落伍者もなく無事に最後までやり遂げた訳だけれど、あの当時、それができたのは、武蔵だけじゃないかと思うよ。とにかく大変な思いをしたけど、やって良かったと思うね。今の時代、あんなことやれと言われてもできないだろうからね。  2日目の夜の中部経済新聞社主催の「歓迎パーティ」には、大学から汽車で駆け付けた鈴木学部長をはじめ、四大学の新聞部の仲間なども参加した。終了後、酔った勢いで、名古屋の花柳界隈をバイクで走り回る者もいた。当時は、まだ、車がほとんど走っていなかった時代だからね。   小林:  歓迎パーティの時だけじゃなくて、鈴木先生も、波多野先生も、途中の箱根で手を振ってくれていましたよ。嬉しかったね。   宮崎:  武蔵が主催したこの第3回四大学運動競技大会には、当時、学習院大学の1年生でおられた皇太子殿下(明仁親王。のち、2019年4月末に生前退位され、上皇となられた明仁天皇)が、武蔵大学を訪れて競技をご覧になった後、光栄なことに、我々四大学の役員と歓談する機会に恵まれました。これも、自慢できる思い出になっていますね。   小林:  結果として、この行事はその後の我々の自信にも繋がっていきました。また、これはまったく個人的な話ではあるけれど、私は、この縁で、藤澤さんから明日からでもすぐに会社に来いと強い誘いを受けた。結局、断わり切れないまま、当時はまだ小さな会社だったホンダに入社することになった。学校では、最初の卒業生でもあり、古河電工への就職を用意して頂いていたようです。しかし、その事実は、卒業と同時にホンダに入社するという意思を藤澤さんに伝えた後から知った。  でもね、こういう自分達の話より、私が一番強調して言いたいことは、「武蔵」という学校は、学生が実行したいということを、何をおいても教職員が全力で応援してくれた学校だったということだよ。そのまま仕事に生かせる教育でもあったし、本当に、世話になったという気持ちだよ。今でも、心底、そう思っている。無事故で怪我人もなく、あの行事を終えられたのも、まさに「武蔵」だからこそできたことなんだよ。  だから、後輩の若い皆さんが望むなら、我々が「武蔵」で受けた教育と、それがその後の自分の仕事にどう生かされたのかという経験を直に話をして伝えたいと、何時でもそう思っていますよ。もっとも、元気なうちだけどね。   宮崎:  書いて残されている話は、どうしても、きれいごとが多いもの。肝心な本当の話は、あまり表には出ないことが多い。だから、あのバイクレースに限らないけれども、困難な課題を数多く乗り越えてきた経験者の話というのは、人が生きてゆくための知恵として、とても参考になるはずだと思いますよ。   大久保:  本日は、お昼からの同期会の終了後、お疲れのところ時間を割いていただきまして、本当に有難うございました。1時間半も経ってしまい、すっかり酔いが覚めてしまったのでありませんか。   小林:  いや大丈夫、これから、また、飲めばいいんですからね。じゃあ、お先に失礼しますよ。     おわりに:  インタビュー時、お二方とも90歳を目前にされておられましたが、兎に角、お元気でした。  この記録は、四大学オートバイレースを企画された1回生の小林隆幸氏(旧姓:迫田)とプレメディカルコース2回生の宮崎秀樹氏に、2018年(平成30)年5月11日にお顔合わせいただいた上で、改めて2019年(平成31年)3月28日にインタビューさせていただいた折の話を基にしております。  なお、お二人との顔合わせとインタビュー時には、8回生の松山孝氏、12回生の木村重紀氏、21回生の坂田光司氏(大学同窓会事務局長)にもご協力をいただきました。深く、感謝申し上げます。  また、過去に掲載されました大学同窓会報創立30周年記念特別号の「遠乗りオートバイ競技会の回想」(宮崎秀樹氏筆)、大学創立40周年記念誌『VOIR』の「四大学オートバイレース」(小林隆幸氏筆)、「駆け抜けたホンダウェイ」(小林隆幸氏著)の「ホンダ前夜」、および『武蔵七十年史―写真でつづる学園のあゆみ』の同関連記事、『武蔵学園史年報』第16号の「医歯学進学課程修了者座談会」などの記事を参考に、事実関係をお二人に確認させていただきました。 (大久保 武)
2020.09.23
武蔵今昔物語
白雉縁起
白い雉の剥製2体
白雉の由来   白雉は武蔵学園のシンボルであり、高中、大学のエンブレムにも意匠として用いられているほか、秋の武蔵大学祭は「白雉祭」を名乗り、大学の運動系サークルのニックネームにも雉を英語にしたPheasantsが使用されている。また、新制武蔵高校でも一時期、「白雉寮」という学寮があった。  その由来は『続日本紀』「称徳記」の「神護景雲二(768)年、武蔵の国で白雉が捕獲され、称徳天皇に献上された」という記述に基づいている。称徳天皇(第48代)は第46代の孝謙天皇と同一人物で、孝謙天皇が一度退位した後、重祚(ちょうそ)し称徳天皇として皇位についた。史上6人目の女性天皇である。  創立時の徽章を定めた記録にも、その理由として「雉は吉瑞(よいことの前兆)の鳥であり、さらにめずらしい白雉が武蔵の国からでたことは学校・国に貢献する人材を多数輩出することにもつながる」とある。このことは校名が「武蔵」と定められた理由のひとつでもある。  旧制武蔵高等学校が設立申請をしたときの名称は、「東京高等学校」だった。しかし、当時文部省でも同名の7年制高校を準備しており、「東京」の名を譲ってほしいという申し入れを受け、学校建設の中心人物だった本間則忠の提案により上記の「武蔵」が校名となった。本間則忠は、文部事務官で初代根津嘉一郎の社会貢献の志を知り、七年制高校の設立を根津に勧奨し、開校までの実務に奔走した人物である。  本間は、校名を武蔵とした事由について、武蔵国という地名、「むさし」の音が「無邪志」に通じることなどを挙げて述べているが、一方で本間は文部省の現役官僚であり、他の創立関係者も文部大臣、臨時教育会議総裁、東京帝大総長など、当時の教育界を代表する重鎮である。これらの人びとが「東京高等学校」を文部省が準備している情報を知らなかったと考えるほうが難しい。では、なぜあえて「東京」の名で申請したのか。設立の準備は武蔵のほうが東京高校より圧倒的にはやく、尊官民卑の時代ゆえに公式な設立の年月日は官立の東京高校に譲ったが、うがった見方ほすれば、あえて「東京高校」と申請し、それを取り下げることで民の気骨をしめしたのかもしれない。  その背景と校名の由来については、本サイト内の「武蔵学園紀伝」ページの大坪秀二元校長(故人)による論考、「校名『武蔵』のこと」を参照されたい。  剥製はどこからきたか  現在、学園記念室(大講堂2階の展示室)に展示されている白雉の剥製は、1972年、武蔵開学50周年の折に秋田県本庄市の野鳥研究家、繁殖家である佐藤栄一氏から寄贈されたものだ。佐藤氏は剥製を寄贈した後、武蔵に招待され、正田建次郎学長・ 校長(当時)と対談しており、そのときの録音カセットテープが残っている。  佐藤氏は当時39歳。すでに著名な鳥の繁殖家で、神奈川県のこどもの国に200羽の鳥を放鳥したりしている。 また、日本野鳥の会の発足に関わった中西悟堂氏とも交流があった。佐藤氏によるとこの白い雉はアルビノではなく、 5年くらいかけて体色の薄い雉を交配させた結果だという。しかし佐藤氏は、けして自分が「作った」のでは なく、あくまで生まれたのだと正田学長・ 校長に熱弁をふるっている。  さらにテープを聴くと、佐藤氏は当時武蔵で美術教師をされていた洋画家の伊能洋氏と懇意にされていて、 武蔵のシンボルである白雉をぜひ描きたい、そして白雉など想像上の鳥と思っている生徒たちに本物を見せたい という伊能氏の熱意に共感して寄贈を決めたということが判明した。なお、伊能氏の実兄の敬氏(故人)も武蔵の 教員をされていて、伊能忠敬の七代目の子孫にあたる。なお、佐藤氏の剥製は2体あり、もう1体は理事長室に置かれている。  佐藤氏は、子どもたちに本物をという伊能氏のことばにとにかく感動したようだ。そのころ、佐藤氏の白雉の剥製は各方面から譲ってほしいというオファーがあったが、「金額ではなく精神の問題」と佐藤氏は武蔵に寄贈を決めたという。対談後半で氏は、「鳥の写真をきれいに撮影したり、分類や生物学的知識で立派な先生や専門家はたくさんいるけれど、わたしのように何千羽の鳥を育て、直接触れ合うことで鳥を学んだ人間はそうはいません」と自負された。するとそれまで静 かに佐藤氏の熱弁を聴かれていた正田先生はおだやかに笑いながらこういわれた。  「いやいや、われわれ教員には耳の痛いお話です。子どもに教えたいという先生はたくさんいますが、子どもと心から触れあいたいという先生はなかなかいないのですよ」。  白雉の剥製が寄贈されてから48年が経過した。作りがていねいうえに、佐藤氏の情熱が込められているのだろう。保存状態はきわめて良好である。記念室に常設展示している白雉は、大講堂2階の展示室の開室時には誰でも見ることができる。                                                    (武蔵学園記念室・調査研究員 三澤正男)
2020.07.30
武蔵学園史紀伝
武蔵学園構内で確認された疥癬タヌキと2017~2018 年のタヌキの生息状況
要旨  2018 年3 月に武蔵学園構内(東京都練馬区)でハクビシン捕獲用の箱罠に疥癬とみられるタヌキが混獲された。この個体は構内に生息するタヌキとは明らかに別個体で学外から迷い込んだものと考えられる。2017 年秋から2018 年秋までの構内のタヌキの生息状況は,1 頭での目撃情報が続き,ため糞場の利用も僅かだった。2018 年8 月上旬にため糞場を利用するタヌキがセンサーカメラにより撮影されたものの,下旬に構内で1 頭の死体がみつかった後,現在まで目撃情報はない。また構内の大規模工事に伴うタヌキの生息場の環境変化について記録した。   Keywords: 練馬区,ホンドタヌキ,疥癬,箱罠,目撃情報,センサーカメラ,たぬきマップ 【武蔵学園記念室より:この文章は、『武蔵高等学校中学校紀要』第3号(2018年12月刊)に掲載されたものである。近年の武蔵学園のキャンパス敷地の動向を、多くの人に知っていただく好適な文章として今回、当サイトに掲載させていただいた(掲載にあたって、一部の図版の位置を変更している)。今回、転載を快く認めていただいた紀要編集委員会と、著者の白井亮久先生に、記して御礼申し上げます。】    はじめに  タヌキNyctereutes procyonoides は世界に1 属1 種しかいない東アジアに自然分布するイヌ科で(佐伯,2008),東京都区内に生息する唯一の在来中型哺乳類である。近年,都心にすむタヌキの食性や行動様式などの研究がされているが,捕獲された個体についての情報はそれほど多くない(Endo et al. 2005;小泉ほか,2017)。東京都練馬区に位置する武蔵学園構内には20 年近く前からタヌキが生息しているとされており(白井,2017),2018 年3月に疥癬とみられるタヌキが確認されたため,記録として報告する。  加えて,白井(2017)による2016 年4 月~2017 年9 月までの武蔵学園構内のタヌキの生息状況の続報として,それ以降の2017 年10 月~2018 年9 月までの生息状況と,センサーカメラを用いたため糞場での行動観察,構内の改修工事に伴うタヌキの生息場所の環境の変化も合わせて記す。   図版1 学内地図(武蔵たぬきマップ2016 をもとに) ↑ 図.2017 年から2018 年にかけての構内のタヌキの生息と環境の改変 白井(2017)の「武蔵たぬきマップ2016」を改変して加筆。2017–18 年の出来事を赤字で示した。     武蔵学園構内で確認された疥癬のタヌキ  2018 年3 月14 日深夜1 時半ごろ,武蔵学園構内の9 号館裏(地点A)のハクビシン捕獲用の箱罠に疥癬のタヌキが混獲された(前掲の図版1,文末の図版2 A–B)。巻尺と上皿自動秤により計測したところ,およそ34cm 程度の大きさで体重は3.25kg の若い個体だった(腹部に陰嚢のような膨らみが確認できたが性別は不明)。頭部と尾部,四肢に毛はあるが首部から胴部にかけ完全に脱毛していることから疥癬に罹患していると考えられた。ライトで照らしても暴れることなくじっとしていた(文末の図版2 C)。巡回中の警備員によると0 時前後には入っていなかったため,箱罠に入って間もないと考えられる。  今回疥癬のタヌキが混獲された箱罠は,本学園の施設課により建物内に侵入するハクビシンの糞尿被害の対策のために業者に依頼して設置されたものである。2015 年12 月頃からハクビシン駆除を目的として構内に複数個所設置され,踏み板式の片側扉の箱罠(W260✖H300✖D820mm)で,誘引餌はリンゴやオレンジなどが用いられる(文末の図版2 A–C)。  ハクビシンが捕獲された場合(文末の図版4 B)は業者に引き渡されるが,ハクビシン以外の動物(鳥類やネコ,タヌキなど)が混獲された場合は,仕掛けを外し逃がすことになっている。疥癬のタヌキの計測と観察ののち,2 時半ごろ箱罠から逃がしたところ大学正門方向に駆けていった。その僅か約15 分後の2 時45 分に大学図書館脇の側溝付近(地点B)で再び1 頭のタヌキが目撃されたが,その個体は全身に毛が生え(文末の図版2 D),逃がした疥癬のタヌキとは明らかに別個体と確認できた。地点B はこれまで高頻度でタヌキが目撃されることから寝床に近いと考えられており,疥癬,あるいは脱毛の個体は2016 年春から現在まで構内の100 件近い目撃情報やセンサーカメラで確認されたことはない(白井,2017)。このことから今回みつかった疥癬のタヌキは偶発的に学外から入り迷い込んだものと考えられる。  疥癬はセンコウヒゼンダニSarcoptes scabiei の寄生によるイヌとの共通の疾病で,宿主の皮膚内に穿孔して脱毛を引き起こし,皮膚が肥厚・象皮様化して衰弱させる(鈴木ほか,1981;落合ほか,1995)。罹患した個体は二次感染などにより死亡し小さな個体群では絶滅に追い込まれることもある(谷地森・山本,1992)。野生のタヌキの疥癬の拡大には人間による餌付けとの関連が指摘されており(金子,2002;松尾ほか,2015),安易な給餌は禁物である。疥癬は主に接触感染で広がることから,野外で飼育されるペットと双方向での感染が起こりうるが,ペットからタヌキへの伝染が多いともいわれ(山本,1998;松山ほか, 2006),武蔵学園構内に生息するタヌキへの感染も懸念される。増井(1984)はタヌキの体重は冬に増え春先に減るというデータを示しており,今回混獲された個体の3 月に3.25kgという体重は生まれて一年に満たないとしても栄養状態が悪く,疥癬の影響もあるかもしれない。   2017 年秋から一年間の構内におけるタヌキの生息状況と環境の変化 ・生息状況(目撃情報,フィールドサイン)  前報【編者注:『武蔵高等学校中学校紀要』第2号(2017年12月刊)に掲載された、白井教諭の文章を指す。表題は文末の「引用文献」を参照】の2017 年3 月から現在まで,断続的に1 頭での目撃が続いている(目撃31 件:2017年10 月3 件,11 月2 件,12 月3 件,2018 年1 月1 件,2 月1 件,3 月6 件,4 月2 件,5月3 件,6 月6 件,7 月3 件,8 月1 件)。目撃場所の多くは大学図書館脇の側溝で(文末の図版2E,地点B),今回新しく目撃された場所は高中旧理科棟裏の標本庫前である(文末の図版2 F.ただしそれらの建物は2018 年8 月に解体され,現在はない)。2018 年4 月と5 月に濯川の玉の橋下の排水路でもタヌキの足跡が確認されたものの,その後はみつかっていない(前掲の図版1)。1 頭での目撃は2017 年3 月から1 年以上続いているが,つがいや親子での目撃情報はなく,2016 年夏に幼獣が確認された以降,2 年間幼獣がみつかっていないことから,この2 年間は構内では繁殖していない可能性が高い。   ・ため糞場の利用とセンサーカメラで撮影されたタヌキ  2016 年11 月以降(白井,2017),現在までため糞場3 地点の使用はまれで,本報告の調査期間中ため糞場MG-1 でのみ(前掲の図版1),少なくとも11 日間のため糞場の利用が確認された(2017 年10 月1 回,2018 年6 月1 回,7 月6 回,8 月3 回)。  2018 年8 月初旬にため糞場MG-1 において一晩で2 回のため糞場の利用があり,その様子をセンサーカメラで動画撮影した(文末の図版3)。8 月9 日20 時頃,1 回目となる1 匹のタヌキが現われ,排糞をして立ち去った。その約30 分後に再び別個体と思われる1 匹のタヌキが現れ,排糞をした。山本(1984)は,ため糞の交換や移動などの操作をした後の飼育個体の行動観察から,自分の糞,血縁関係のある個体の糞,見知らぬ個体の糞と遭遇した際に,「糞の臭いを嗅ぐ時間」が順に長くなることを報告している。今回,残念ながらセンサーカメラでは,臭いをかぐ行動の途中からしか撮影されておらず定量的なデータは得られなかったものの,短時間の内に同一個体がしっかりとした排便をすることは考え難いことや,体毛の模様が異なるように見えることから,別個体の可能性が高い。そうであるならば,目撃は1 頭であるがその期間は構内には単独で行動する2 頭がいたことになる。同様に翌10 日20 時頃にも短時間のうちに2 回の別個体と思われるタヌキの訪問と排糞が撮影された。今回撮影されたため糞場での行動はおおよそ田中ほか(2012)で報告されている里山のタヌキの例と類似していた。そのほか排糞中とその前後に鳴き声を発し,何らかのコミュニケーションとみられる行動も確認できた。  なお,今回センサーカメラでの排糞時刻とその後の目視での観察から,夏場にされた糞は糞虫等により分解が非常に早く1–2 日程度で形を留めず失われてしまうことが分かった。平沢(2006)で指摘されている通り,夏場でのサンプリングは迅速に行うべきだといえる。   ・ハクビシン用の箱罠に混獲されたタヌキ(2017 年12 月)  2017 年12 月10 日に大学2 号館裏(地点C)でハクビシン捕獲用の箱罠にタヌキが混獲された(前掲の図版1,文末の図版4 A)。この個体は疥癬ではなかった。この場所は警備員の巡回ルートではあるが,これまで目撃情報がなく(白井,2017),タヌキは決まったルートを通ることが多いとすると,この個体も偶発的に学外から入ってきた可能性がある。その後,警備員により箱罠の仕掛けが外され逃げていった。  構内の箱罠は前述のようにハクビシン駆除のために2015 年頃から業者により設置されたものである。構内でタヌキの目撃情報が100 回近くあり頻繁に活動していたとされる2016 年度であっても箱罠に混獲されることはなかった。これらの事をあわせて考えると,武蔵学園構内に生息しているタヌキは箱罠に入りにくく,偶発的に学外から入り込んできたタヌキが箱罠で入るということがあるのかもしれない。   ・9 号館裏のU字溝で見つかったフィールドサイン  2017 年12 月28 日に9 号館裏(地点A)のU字溝付近を探索した(前掲の図版1,文末の図版5 A)。この場所はため糞場MG-1 に近く,センサーカメラでもタヌキとハクビシンが良く撮影されている(白井,2017)。U 字溝のコンクリート蓋を外したところ,動物の骨や噛み跡の付いたマヨネーズ容器や硬式テニスボールが確認された(文末の図版5 B–F)。タヌキは寝床付近で遊ぶことから(盛口,1997),通り道(パス)としてだけなく寝床としてこの付近を利用している可能性もある。   ・高中グラウンド脇でみつかったタヌキの死体(2018 年8 月)  2018 年8 月27 日に高中野球グラウンド脇の側溝でタヌキの死体が見つかった(地点D,前掲の図版1)。集水桝からU 字溝に体を半分出した状態でみつかり,異臭が強く全体に蛆が付着し,既に頭部の大部分が白骨化していた(文末の図版4 C–D)。発見場所付近で普段活動している複数の野球部員への異臭の発生時期の聞き取りから,少なくとも死後1 週間近く経っているとみられた。腹部の内臓もほとんど失われ四肢の一部が欠損していた。頭胴長45cm 程度の比較的若齢個体で,全身に毛があり疥癬ではなかった。今回死体が発見された地点D の集水桝は2016 年7 月に幼獣が見つかった場所でもある(白井,2017:図版2)。しかし,それ以降その場所で成獣も幼獣も見かけることはなかった。U字溝はグレーチング(溝蓋)があり,集水桝に繋がる排水溝などを行き来していた結果,何らかの理由で死んでしまったと思われる(文末の図版4 D)。なお,死体は後日骨格標本として登録番号を付して武蔵高等学校中学校標本庫に収蔵される予定である。   ・工事に伴う環境の改変(2018年4 月~)  これまでタヌキが確認されている場所は,現在進行中の高中エントランス部の工事や学園の改修等の工事に伴い環境が比較的大きく変化している(前掲の図版1)。通り道,あるいは寝床に近いとみられる9 号館裏の喫煙小屋付近(地点A)は,2018 年4 月に喫煙所が撤去され,タヌキが通ることもある冷却塔がみえる開放空間になった。2018 年7 月より東門~高中エントランス部と軟式テニスコートなど整備のために,旧理科棟の裏の雑木林が消失し,濯川の玉の橋下流の排水路の暗渠化が進んでいる(エントランス部工事エリア)。それらの場所は目撃情報やセンサーカメラでの撮影,足跡などのフィールドサインが確認され(文末の図版3 E–F),冬季の餌資源となりうる果実の樹木も含んでいる場所である(白井,2017;飯島ほか,2018)。さらに2018 年8 月に大学図書館の空調整備のために3 号館中庭の一角に室外機の集中的な設置場が設けられ,ため糞場のひとつMG-3 と獣道が消失した(室外機設置エリア)。  このように構内のタヌキを取り巻く環境は急変しつつあり,今後タヌキの生活は変化すると思われる。岩本ほか(2012)は河川改修工事に伴うタヌキの行動変化を調べ,元の生息地への高い固執性や順応性を示している。タヌキは環境変化に柔軟に対応し都市に生息する唯一の在来食肉目といわれており,今後の構内での行動の変化から都市に生きるタヌキがどのように開発や環境改変に対応するのかに注目したい。   今後の展望  2018 年9 月以降,目撃情報やフィールドサインで構内のタヌキの確実な生息情報はないものの,今後の研究課題を記しておく。タヌキの個体識別やそれに基づくため糞場での行動観察,武蔵学園という都市の小さな孤立林にすむタヌキの食性の長期的な経年変化や,構内に同所的に生息する同じ食肉目のハクビシンとの食性や行動の比較,ノネコとの種間関係,タヌキの糞に集まる糞虫やハネカクシなどの訪糞昆虫調べなどがある。武蔵学園には食物連鎖の高次消費者であるタヌキを育めるだけの自然があり,タヌキを通してそこに生息する生き物たちの営みをみつめていきたい。   謝辞  前報(白井,2017)に引き続き目撃や箱罠に入ったタヌキの情報の提供は,内海幸哉さん,池原 満さん,蛭間一也さん,亀井哲夫さん(当時含む)はじめ武蔵学園守衛所の警備員の皆さんにお世話になった。本校生物部の部員には実地調査にご協力頂いた。本校英語科の楠部与誠さんとK. Bergman さんには英語表現について校閲頂いた。武蔵学園施設課にはハクビシン駆除用の箱罠の設置について教えて頂き,武蔵大学図書館の閲覧係の方々には文献の取り寄せで大変お世話になった。記してお礼申し上げる。本研究には,本校の個人研究費(2017–2018 年度「使える標本庫を作りつつ,研究する」)の一部を使用した。   引用文献 Endo, H., Hayashida, A. and Uetsuka, K. 2005. Pathological examination of a raccoon dog introduced to the Akasaka Imperial Gardens, Tokyo, Japan. Memoirs of the National Science Museum 39:47–53. 平沢瑞穂.2006.種子を運ぶタヌキ 東京郊外にすむタヌキの糞を分析して.どうぶつと動物園662:78–81. 飯島昌弘・斎藤昌幸・白井亮久.2018.武蔵学園に生息するタヌキの外食率を探る―東京都区部の狭い孤立林内の二つのため糞から出現した種子と人工物に注目して―.武蔵高等学校中学校紀要3:57–80. 岩本俊孝・傳田正利・三輪準二・竹下 毅・白石幸嗣.2012.河川改修工事にともなうホンドタヌキの行動変化に関する研究.宮崎大学教育文化学部紀要自然科学.25/26:1–17. 金子弥生.2002.タヌキ.フクロウとタヌキ(林良博・武内和彦,編),pp.77–144.岩波書店,東京. 小泉璃々子・酒向貴子・手塚牧人・小堀 睦・斎藤昌幸・金子弥生.2017.東京都心部の赤坂御用地におけるタヌキのタメフン場における個体間関係.フィールドサイエンス15: 7–13. 増井光子.1980.島のタヌキ.自然417:45–51. 増井光子.1984.小島のタヌキは個性的.アニマ140:76–82. 松尾典子・谷口裕子・大滝倫子.2015.動物疥癬の1 家族例—タヌキから感染した飼いイヌとの接触により発症.臨床皮膚科69:431–434. 松山淳子・畑 邦彦・曽根晃一.2006.鹿児島県におけるホンドタヌキの食性.鹿児島大学農学部演習林研究報告34:75–80. 盛口 満.1997.タヌキまるごと図鑑.大日本図書株式会社,東京.32pp. 落合啓二・石井睦弘・平岡 考.1995.千葉県のタヌキおよびタヌキ以外の野生哺乳類における疥癬の発生状況.千葉県立中央博物館自然誌研究報告7:89–103. 佐伯 緑.2008.里山の動物の生態-ホンドタヌキ.日本の哺乳類学2􀀃 中大型哺乳類・霊長類(高槻成紀・山極寿一,編),pp. 321–345.東京大学出版会,東京. 白井亮久.2017.武蔵学園構内におけるホンドタヌキの生息状況~“守衛さん”の巡回による目撃情報と痕跡調査に基づく2016 年度の記録と過去の聞き取り調査~.武蔵高等学校中学校紀要2:33–80. 鈴木義孝・杉村 誠・金子清俊.1981.岐阜県下の野生タヌキにおける疥癬症の蔓延について.岐阜大学農学部研究報告45:151–156. 田中 浩・相本実希・細井栄嗣.2012.ためフン場におけるタヌキの行動について.山口県立山口博物館研究報告38:51–58. 谷地森秀二・山本祐治.1992.八王子周辺のホンドタヌキの繁殖年周期と脱毛個体―聞込み及びアンケート調査から―.自然環境科学研究5:33–42. 山本伊津子.1984.ためふんの意味を探る タヌキの共同トイレ.アニマ140:71–75. 山本祐治.1998.ペットの病気がタヌキをなやます.タヌキの丘(小川智彦,著).p.39.フレーベル館,東京.   図版(2から5まで)一覧 (撮影者の記載のないものは,全て著者による撮影) 図版2 箱罠に入った疥癬タヌキ(A–C)と,構内で目撃されたタヌキ(D–F) ↑ A: ハクビシン用の箱罠の設置状況   ↑ B: 混獲された疥癬タヌキ   ↑ C: 疥癬のタヌキ(体重3.25kg) 誘引餌のオレンジが写っている(2018 年3 月14 日2 時26 分)   ↑ D: 大学図書館の中庭側の側溝で確認されたタヌキ 全身に毛があり,直前に見つかった疥癬個体 (上記のC)とは別個体であると分かる (2018 年3 月14 日3 時33 分,発見は2 時45 分) ↑ E: 大学図書館の中庭側の側溝で目撃されたタヌキ(2018 年5 月10 日 20 時45 分)   ↑ F: 旧理科棟裏の標本庫前で目撃されたタヌキ (2018 年6 月3 日 1 時22 分,守衛所 亀井さん撮影)   図版3 ため糞場MG-1 での排糞行動 ↑ ため糞場MG-1 で糞をするタヌキ(A)と,  ↓ その約30 分後に糞をするタヌキ(B). (黒矢印は1回目の糞で,灰矢印は2回目の糞)   説明:センサーカメラで撮影された2018 年8 月9 日夜の2 回のため糞場の利用。排糞前にその場の臭いを嗅ぎ,既に糞がある時には少し離れたところにする(A とB)。1度の排糞は2~4 回に分けられ,結果的に数個にみえることもある。糞便前後で高い鳴き声を発し,排糞中は体を反らせ遠吠えのようなしぐさをしていた。排糞後は速やかにその場から離れる。体毛の模様が異なる別個体に見えるが判定は難しい。増井(1980)の野外観察による,個体により毛色の濃淡の違いがあることや,雌雄の区別として排尿時にオスは片足を上げ,メスは跨ぐように行うことは,今後の個体識別の参考になるかもしれない。   図版4 生息状況(箱罠,死体,消失した場所) ↑ A: 4 号館裏(地点C)の箱罠に混獲されたタヌキ (2017 年12 月10 日,守衛所 蛭間さん撮影)   ↑ B: 高中保健室前の箱罠で捕獲されたハクビシン (2016 年2 月26 日,施設課撮影)   ↑ C: 見つかったタヌキの死体(左が頭部,体長は50cm 程度) ( 2018 年8 月27 日)   ↑ D: 死体が発見された場所  左が濯川,右が人工芝のグラウンド。矢印が発見場所の集水桝 ↓ E・F: 改修工事で消失した場所で撮影されたタヌキ(撮影は2017 年夏). ↑ E: 濯ぎ川最下流付近の側溝   ↑ F: 旧理科棟裏の標本庫付近の雑木林     図版5 生息近況(9号館裏で見つかったフィールドサイン) ↑ A: 9 号館裏の外観   ↑ B: 噛み跡の付いたテニスボール   ↑ C: マヨネーズ容器の落ちていた様子   ↑ D: 噛み跡の付いたマヨネーズ容器   ↑ E: U 字溝に落ちている骨   ↑ F: 骨の一つ(大腿骨)     【補遺】  本稿の入稿直前に構内でタヌキが混獲されたため,その記録を付しておく。武蔵大学の白雉祭期間中の2018 年11 月4 日深夜1 時15 分頃,大学2 号館裏(地点C)のハクビシン用の箱罠に冬毛のタヌキが混獲された。体重4.40kg,50cm 程度の大きさで疥癬個体ではなかった(写真A)。箱罠に誘引餌はなかった。計測中,断続的に排尿と少量の排糞もみられた。排尿はしゃがんで行っていた。2 時30 分頃,箱罠設置場所付近で逃がしたところ構内を駆けていき,約95cm の壁をジャンプし辛うじてよじ登り(写真B,赤丸がジャンプしたタヌキ),姿を消した。今年の8 月下旬以降2 ヶ月間構内で目撃情報がなかったことや誘引餌のない箱罠に入り込んでいることから,今回混獲された個体は学園構外から入ってきたものと考えられる。その後,4 時45 分頃にも大学9 号館の下で同一個体とみられるタヌキが徘徊していた。今後,この個体が構内で定着するか等を注視していきたい。   ↑ 写真A.箱罠に入ったタヌキ(体重4.40kg)   ↑ 写真B.ジャンプし95cm の壁を登るタヌキ    加えて,箱罠に入った前日の11 月3 日4 時35 分に,ため糞場MG-1 に設置したセンサーカメラで約3 ヶ月ぶりにタヌキが撮影され,排糞が確認された(写真C はその翌日に撮影された画像,写真D はその時の糞)。センサーカメラの撮影画像で同年8 月の個体(図版2)と比較すると,夏毛と冬毛という点で異なるものの一回り近く大きな個体であることが分かる(写真C)。訪問したタヌキは1 分30 秒以上ため糞場の臭いを嗅いだ後に糞をしたことが撮影動画で確認できた。その日以降ため糞場の利用が始まり,しばらくの間は一晩に3 回の利用が続いた(写真D)。目撃情報やセンサーカメラで撮影された画像から判断すると,ため糞場の利用個体はいずれも同一個体で,箱罠に入った個体と思われる。センサーカメラの記録と翌朝の糞の観察から,一晩にされた3 個の糞の形状の違いがみつかった。  3 回の利用時には,いずれも1 回目の糞は棒状の硬いもの,2 回目の糞は形があるものの小ぶりのもの,3 回目の糞は形がなく液体状のどろっとしたものである傾向がみられた(写真D)。このように回数毎,糞の量は少なく質感も軟らかいものになった。また日に日に,ため糞場での臭い嗅ぎ行動の時間が短くなった。今後,ため糞場での行動も観察していきたい。   ↑ 写真C.3 ヶ月ぶりにため糞場MG-1 に現われた排糞中のタヌキ   ↑ 写真D.ため糞(センサーカメラの記録から1 晩にされた3 回分の糞と分かる)  
2020.09.16
武蔵今昔物語
武蔵大學第1回入学志願要綱
第1回学生募集時に見る「ゼミの武蔵」、リベラルアーツへの志
 2015年、記念室書庫の未整理の段ボールに詰められた書類を整理した際、戦後新学制施行後の学生募集募集関連の史料が、数年度分発見されました。そのなかでも貴重なのは、写真にある、昭和24(1949)年度の武蔵大學(当時の表記)の入学志願要項です。新制武蔵大学の第1回生募集の詳細を示す史料ですが、これまでなぜか未発見でした。    もちろん、入学に関する試験や手続き、学費などはその他の記録、教務資料、理事会議事録などから判明していますが、一般に配布された第1回の学生募集の史料はきわめて重要です。しかも、現存するのは、この奇跡的に発見された1枚だけと考えられます。  「第1回志願要項」は、いわゆる「わら半紙」(パルプ未使用)に印刷されており、縦書きで右から大学の紹介、募集人員、出願手続き、試験内容、納入金が示され、続けて教授陣紹介があり、左端は写真を貼付する受験票と切り取り線で区切られた願書になっています。受験票には出身高校名、願書には保証人・学費出資者の住所氏名、職業(具体的に)を記入するようになっているのが時代を感じさせます。  冒頭の大学紹介文には「わが国初の七年制高等学校で培った豊富な教育経験をもとにつくられた新制大学」と明記され、「優秀な教授陣容を整備して経済理論・経営実践の各種講義と演習による専門知識」とうたって、後に「ゼミの武蔵」のもととなる小人数演習もすでに特徴としてあげられています。また「社会人、経済人として必要な高度な科学知識と文化教養を有する人材の育成」をかかげ、単科大学でありながらリベラル・アーツへの志を高く掲げている点も注目できます。  これらの表現から新制武蔵大学が旧制高校のよい部分「小人数の実践教育」「幅広い基礎教養」を継承しようとしていたことが伝わってきます。その質を支える教授陣は、宮本和吉学長、鈴木武雄学部長以下、教養科目には哲学、歴史、日本文学、数学、心理学、物理学、化学、生物学などの広範囲な分野に、その道の第一人者をそろえ、専門である経済関連には、当代一流の研究者を教授にむかえています。また、社会政策の教授として当時44歳の大河内一男氏(1962年、東大総長に就任)が招かれています。    募集人員は120名、入学試験は3日間あり、初日は国語、数学、外国語、進学適正検査で、翌日は身体検査、最終日は口頭試問となっています。入学時の納入金は入学金6,000円、学費半年分4,800円、父兄会費半年分2,400円となっています。したがって初年度の納入金総額は20,400円。ちなみに、当時の大学卒業者の会社員初任給の平均額は4,220円でした。  なお、案内に「戦渦被害が少なく設備充実」と強調されているのも印象的です。 ※写真上=志願要綱の左側、受験票部分。中=草創期の演習風景。下=各紙に掲載された学生募集広告。                             (武蔵学園記念室・調査研究員 三澤正男)
2019.10.23
武蔵学園史紀伝
一木喜徳郎と武蔵学園
はじめに  旧制武蔵高等学校の初代校長として一木(いっき)喜徳郎という人物がいた。一木は、枢密顧問官のまま1921(大正10)年12月27日校長に就任、1925年3月30日宮内大臣に任命されると辞意を表明したものの、それが認められたのは1926(大正15)年3月であった。枢密顧問官とは、憲法をはじめ皇室・外交・教育・官制などの制度変更のうち、特に重要な事項に関し天皇からの諮詢(質問)に対して奉答(回答)する者たちのことである。周知のように、1889年に発布された大日本帝国憲法の下では議会に予算審議権や立法権などを与えたが、天皇にも統帥(軍隊指揮)、条約締結、官制制定、人事、命令(勅令)発布など天皇大権と呼ばれる広範な権能を付与した。しかし、それでは天皇が恣意的に大権を行使して混乱を招く可能性があるので、上記のような分野に関しては枢密顧問官たちで構成される枢密院がチェックすることになったのである。彼らは概ね週一回御前会議を開いて審議をしたが、戦前期では枢密院の奉答に天皇が拒絶することはなかった。また、宮内大臣は内閣から独立して皇室の庶務を取り扱う宮内省の長官であるが、実際には天皇の国務上の決定や、皇室・華族にまつわるさまざまなトラブルにも関わることが多かった。つまり、この頃の一木は、天皇という元首の側に仕え大日本帝国を支えていたのである。  したがって、多忙な一木校長が武蔵学園のために多くの時間を費やすことは困難であり、学校運営は山本良吉教頭が担ったが、それでも一木が武蔵学園に与えた影響は大きく、特に7年制の採用、建学の三理想の制定は彼の意見に依る部分が多かった。そこで、本稿では第一に一木という人物を紹介し、第二にその人格がどのように武蔵学園の形成に関わったのかをみていきたい。 1 天皇機関説論者  一木は1867(慶応3)年4月4日、現在は静岡県掛川の大庄屋の家に、父岡田良一郎の次男として生まれた。良一郎は幕末の有名な農政家二宮尊徳の弟子で、尊徳が提唱した報徳思想を全国に普及すべく1911(明治44)年掛川に大日本報徳社を設立すると、しだいに日本各地の報徳社のセンター的存在となっていった。報徳思想は、簡単にいえば勤労・勤倹・勤勉しながら、私欲を去り相互に助け合って生きていくことを説いたもので、明治の時代になると内務省がこれを採用し、大々的に普及を図った(一木自身も内務官僚や大臣としてこれに深く関わった)。全国の小学校に二宮金次郎像が建設されていくのもこの影響である。また、良一郎の長男には岡田良平という人物がいた。良平は文部官僚から文部次官、京都帝国大学総長を経て、1916年には寺内正毅内閣の文部大臣に就任した。このように、岡田家と内務省・文部省との間には密接な関係があった。  さて喜徳郎であるが、兄良平の後を追って彼も上京し帝国大学に入学した。卒業後の経歴は別表を参考にしていただきたいが、まず武蔵高等学校校長就任までのキャリアをみると、第一に注目されるのが帝国大学教授27歳、貴族院議員33歳、法制局長官35歳、文部大臣45歳と、昇進が非常に早いことである。自費でドイツに留学しそこで得た法学知識を発揮して、彼は瞬く間に官界・学界のトップに昇り詰めていった。この背景には、いまだ近代的制度が十分に整っていない段階のため、最新知識を持った若い人材がいきなり抜擢されたということもあろうが、一木はその期待に応えることができる人材だったのである。   第二は、彼が官界と学界の両分野で活躍したという点である。まず、学界分野での活動をみると、ここで重要なことは彼がいわゆる天皇機関説(国家法人説)を提唱したことである。同説の特徴は、ア)国家は法人であり主権は国家に属する、イ)統治権を行使する国家の機関には内閣・官僚・軍部・議会・裁判所などがあるが、君主もその一つである、ウ)ただし君主は国家機関の中でも最高位にあり絶対である、というものであるが、これは、当時帝国大学で憲法学を担当していた穂積八束の天皇主権説(神聖なる天皇は国家そのものであり、主権は天皇個人に帰属する)と対立するものであった。のちに天皇機関説論者として有名になる美濃部達吉は、一木の直系の弟子にあたる。美濃部が1935年頃に天皇機関説排撃運動で糾弾されたことは有名であるが、やはり一木もその時に非難され、1936年には枢密院議長の職を追われることになった。この点は後述する。  官界分野で特徴的なことは、まず山県・桂内閣時に重要なポストに就いたことが目を惹こう。これは、一木が山県有朋や桂太郎に連なるグループ(山県閥)に属していたことを示している。明治期においては、議会勢力の台頭を嫌う軍部や官僚政治家が山県閥を形成し政党と対峙していたが、このような中で一木は山県の法律顧問の役割を果たしていたのであった。このことは、一木の天皇主権説が山県らにも受け入れられるものであったことを意味している。つまり、一木にしても山県にしても、天皇は最高絶対ではあるが、決して恣意的に権力を乱用してよいのではなく、あくまでも他の国家機関との協調や助け(輔弼)を得て行動しなければならない存在だったのである(1)。山県のような勤王家は天皇主権説論者と思われがちであるが、じつは官僚や軍部にとっても天皇機関説の方が自分たちに都合がよい訳であり、だからこそ一木の天皇機関説は当時の支配者層の中で広く認められるものとなっていった。  第三に、第二次大隈重信内閣で文相・内相となったように、彼は決して山県のような反政党主義者ではなかった。大正期では、一木学説を勉強して官僚となった人物たちが官僚組織のトップの椅子を占めるようになっていたが、彼らの一部はさらに政治家を志して政党に接近するようになった。特に、加藤高明を中心とした憲政会(大隈内閣の与党が1916年に結成した政党)の幹部にはそのような経歴の者が多かったが、一木は彼らとも近く、一般には憲政会系官僚政治家とみなされた。ただし、だからといって彼は政党主義者でもなかった。この点については、同じ天皇機関説でも一木と美濃部の学説を比較してみれば明らかである。前述のア)~ウ)は同じであるが、美濃部学説ではさらに、天皇が大権を行使する際は国務大臣の輔弼を受けなければならないが、国務大臣には議会の信任が必要である、という点も付け加えられた。これに従えば、議会は閣僚のポスト、さらには天皇の国務行為をも左右するほど重要な位置に立つことになり、それは政党内閣制の理論的根拠となるものであった。  以上のことから、枢密顧問官や宮内大臣のように天皇の側でその大権行使を補佐する人物としては、官僚にも軍部にも政党にも偏しない一木ほど適任な者はいなかったであろう。こうして、彼は枢密顧問官となり宮内大臣となったのである。  つぎに、武蔵高等学校校長を辞任したあとの一木の動向をみていこう。1921年11月25日、20歳に達した裕仁皇太子は摂政に就任し、病弱であった父大正天皇に替わって国務を代行するようになった。当時の宮内大臣は大久保利通の次男牧野伸顕であったが、1925年に老齢の内大臣平田東助が病気のため引退すると、牧野が同年3月30日に内大臣に就任、同日一木が宮内大臣に任命された。内大臣の職務内容はじつは曖昧で、強いて言えば宮中の顧問的な性格が強かったが、それに対し宮内大臣は実際の庶務全般に関わる実務的なポストであった。こうして、一木は大正末・昭和初期の8年間を、宮内大臣として若き皇太子・天皇に近侍して支え、同時に宮中改革を図るという重責を担うことになった。  ここで宮中改革について一言触れておこう。第一次世界大戦で敗北したドイツは帝政から共和制に移行した。また、民族自決によって欧州では共和国が数多く誕生した。こうして、君主制から共和制へという流れが世界的傾向となったが、これに危機感を抱いたのが君主国であった。当時の日本の皇室は前時代からの伝統的な慣習を多く引き継いでおり、それらを国民が納得できる形に改革することが一木宮内大臣や牧野内大臣の重要任務となったのである。法学者でもある一木は、皇室制度を審議する帝室制度審議会に深く関わって法典の整備に尽力した。また、内務官僚を中心に外部の人材を積極的に登用し、自らは平日官邸に宿泊して女官問題・冗費節減・能率増進・内親王養育などの面で改革に努め、1928年の御大典も無事にやり遂げた。このほか、この時期は皇族・華族の家族内で思想(子弟が共産主義者となる)や恋愛に絡むトラブルが日常的に発生しており、これらを表面化させずに処理するのも彼の役割であった。  しかし、それ以上に一木を悩ましたのが政治問題であった。昭和時代に入ると周知のように、張作霖爆殺事件、ロンドン海軍軍縮条約、満州事変、五・一五事件など天皇と政治の関わり方が争点化した。これらに対し、一木は天皇と同じく立憲主義、国際協調路線に立ちながらも、ついつい政治に口を出してしまう若き天皇を、元老西園寺公望、内大臣牧野とともに諫めるようと苦労を重ねていた。彼らは、天皇が外部勢力によって政治的に利用されることを極度に恐れていたのである。  こうした中、1932年8月頃に元宮内大臣田中光顕が高松宮妃に関する件を理由に、一木に辞任を迫る事件が起きた(2)。これも一つの要因となって、翌年一木は宮内大臣を辞職する。しかし、彼に対する攻撃はこれに止まらず、1935年には天皇機関説排撃運動が起こった。排撃側が表面上の標的にしたのは美濃部達吉であったが、同じ機関説論者ということで当時枢密院議長であった一木も攻撃対象となり、むしろこちらが本命であったともいわれる。この時は、昭和天皇が本庄繁侍従武官長に「天皇機関説を明確な理由なく悪いとする時には必ず一木等にまで波及する嫌いがある故、陸軍等において声明をなす場合には、余程研究した上で注意した用語によるべき」(3)と注意を与えたこともあり事なきを得た。また、1936年に二・二六事件が発生し内大臣斎藤実が亡くなると、天皇は一木に「なるべく側近に侍す」(4)るよう要請し、実際に一木はこの日から3月8日まで皇居内に宿泊し、事実上の内大臣の役割を果たした(3月6日には宮内大臣任命の必要から1日だけ内大臣を就いている)。このように、天皇の信頼は厚いものであった。しかし前述のように、翌年には枢密院議長を辞職する状況に追い込まれてしまった。  以上のように、昭和期の一木は西園寺、牧野、あるいは鈴木貫太郎らといわゆる「宮中グループ」を形成し、一木的な天皇機関説に基づく天皇制を守ろうとしたが、しだいに後退せざるを得なかった。こうして、機関説排撃運動は美濃部学説ばかりでなく、山県有朋や昭和天皇も支持した一木学説をも否定し去ったのである。 2 七年制高等学校制度の採用  高等学校の七年制度は臨時教育会で私が極力主張したものであるから校長を引受けて此任に当たることは云はゞ私の理想を実現する訳である。担任者として最も苦心することは良教師を選択することだが、私の実験によると我国民の教育的欠陥は外国語に不鍛錬なことである。最近国際連盟規約の批准事務を掌つた私は、特にそれを痛感して現在の教育制度では到底「世界の日本人」を作ることは難しいと考へた。故に新設の私立高等学校の特色を其処に求めて力を尽したい(『朝日新聞』1921年5月11日) 校長就任を前にして、一木喜徳郎は7年制高等学校を「理想」と表現している。そこで、ここではまず7年制という制度と一木についてみていきたい。  そもそも、一木が武蔵学園と関係するようになったのは、1919(大正8)年9月であった。学園創設の準備が大詰めを迎え、根津嘉一郎と本間則忠は指導を仰ぐべく平田東助を訪問した。これ対し、平田は承諾を与えるとともに岡田良平、一木、山川健次郎、北条時敬にも相談するよう勧めた。平田は山県閥の領袖で農商務相、内相を歴任し、後述の臨時教育会議では総裁を務めるほどの政界・教育界の大物であり、一木にとっては大先輩であった。岡田は前述の通り一木の実兄で、前年までは文相を務めていた。山川健次郎は当時東京帝国大学総長の職にあり、北条時敬は元東北帝国大学総長で、この時は学習院長であった。すなわち、日本教育界の大立者ばかりであった。そして、同年10月3日関係者が集まって第1回協議会が開催されたが、ここではさまざまな議論が出された。詳しくはこの「武蔵学園史紀伝」中の拙稿「武蔵学園の創設と本間則忠の「十一年制寄宿舎」構想」(https://100nenshi.musashi.jp/Kiden/Index/a9efca9f-85e4-42ee-b420-e3c0e9e612bb)を参照していただきたいが、本間は5年制の中等学校創設と11年間の寄宿舎建設を、山川は修業年限3年の実業補習学校(小学校卒業者の職業訓練)の創設を、そして、一木は前述の引用史料にあるように、7年制高等学校創設を主張した(この点は平田や岡田も同じであったと思われる)。そのため、この会合では結論がでなかったが、この会合後から根津の意向は7年制案に傾いたようで、1920年2月29日に開催された第2回協議会では、7年制高等学校とすること、陣容は総裁平田、顧問山川・岡田・北条、理事長根津、理事本間・正田貞一郎・宮島清次郎、校長・一木とすること、の2点が決定した。こうして、一木喜徳郎校長が誕生することになった。以上の経緯からも、一木が7年制案を強く主張し、そして自らその実行役を買って出たことが分かろう。  では、なぜ彼はここまで7年制に拘ったのであろうか。その前に、まず学校制度について確認しておきたい。戦前の日本は複線型学校体系をとっていた。この制度は同じ中等教育機関であっても、進学や職業訓練など初めから異なる進路を想定しそれにふさわしい教育を施そうとするもので、このうち進学する場合は中等学校(5年)、高等学校(3年)、帝国大学(3年)というコースを設置し、帝国大学卒業生には国家を担う人材となることが期待された。このような体系はドイツをモデルにしたものであった。日本の場合、明治10年代に憲法の範をドイツにとって以来、特に官僚・陸軍の間ではドイツ志向が強くなったが、教育分野も同じで、平田・岡田・一木を含む内務・文部官僚はこのようなドイツモデルを採用したのである。  しかし、この制度にまず異議を唱えたのが経済界であった。経済界は卒業するまで11年間もかかるこの制度は長すぎるとして年限短縮を主張した。これに対し、官僚や帝国大学側は年限短縮によるレベルの低下を危惧して消極的であったが、ここで登場したのが高等中学校案であった。1910年小松原英太郎文相が中学科(4年)および高等中学科(3年)を置く高等中学校案を提案した。この案は、従来の中等学校と高等学校を有機的に結び付け同時に修業年限を1年間短縮しようというもので、7年制高等学校案と近いものであった。ここで想起されたいのは、7年制案はドイツのギムナジウムを模したものであるという大坪秀二の指摘である。確かにドイツのギムナジウムは、日本でいえば小学校5・6年生の2年間と中等教育7年間(現在では6年間)を合わせた合計9年間を修業年限としており、日本の7年制案はギムナジウムの中等教育7年間に相当することになる。したがって、7年制案はじつはますますドイツに近づいたものでもあり、一木にとっては前述の引用史料の通り、理想的なものだったのである。  しかし、ことはそう簡単に運ばなかった。明治後期になると初等教育就学率は100%近くに達し、さらに学歴というものが社会で認知されるようになったため、国民の間からは進学を希望する者が増加し、受験競争も厳しいものとなっていた。また、私立学校も数多く創設され広く認知されていたが、法制上の位置づけが不明確で国立・公立学校との関係が問題となっていた。そのため良案が見つからないまま時間が過ぎたが、この状況に最終的な断を下したのが1917年設置の臨時教育会議であった。同会議は岡田良平文相・平田東助総裁の下で次々と重要な決定を下した(一木・山川も委員で参加)。このうち、中等学校・高等学校に関しては、ア) 尋常科4年・高等科3年の7年制高等学校を基本とするが、高等科3年だけを単独に設けることができる、イ) 官立・公立・私立の3つを認める、とされた。この案によって、ギムナジウムを志向する者たちからも、進学を希望する国民からも、そして地位向上を目指す私立学校からも、最大公約数的な了解を得ることに成功した。そして次には、このように選択肢が増えた中で、どの形態が適当なのかを実際に示す段階に入ったのである。一木が校長に就任したのはまさしくこのような時期であった(実際には、例外とされた高等科3年だけを設置する学校や、公立・私立学校は急増したが、7年制高等学校数は伸び悩んだ)。   3 「世界の日本人」  最後に、建学の三理想と一木校長について触れておく。これに関しては、この「武蔵学園史紀伝」中の大坪秀二「三理想の成立過程を追う」(https://100nenshi.musashi.jp/Kiden/Index/d86f70be-57ca-464c-acfc-fb1cd7581e79)にその詳細が語られているので、そちらを参照していただきたい。ところで、その中でも紹介されているが、『根津翁伝』には一木の発言として次のようにある。 〔牧野伸顕がベルサイユ会議の場で外国語ができる人材が少なくて苦労したと言っていたが、〕私もそれは尤もだと思い、そういう意味の学校を拵えたら、宜かろうと思って居った処へ、根津さんの話があって、七年制の高等学校を拵えることになったので、七年間一貫してやれば、語学も余程他の学校より巧く行くわけだし、この七年間にみっちり世界的に役に立つ人間を拵えたら宜かろうと考えた。それが即ち武蔵高等学校の三項目の一として世界に雄飛する人物を作ることとして現われたわけです。〔中略〕東西文化の融合と云うことは、大隈さんが頻りに言われ、これは私も良い意見だと思いました。私自身東西文化の融合を日本がやらなければいかぬと云うことを始終言って居りました。由来日本は、昔から支那の学問を入れて居るし、東西文化を融合するのは、日本でなければいかぬと云うことを考えて居った。(5)    もちろん、これは三理想のうちの「1、東西文化融合のわが民族理想を遂行し得べき人物」「2、世界に雄飛するにたえる人物」と関連した発言であるが、ここではこの発言を手掛かりに、なぜ彼が「世界の日本人」ということに拘ったのかという点を、特に当時の時代状況との関連から簡単に補足してみたい。  まず「世界雄飛」について。牧野伸顕は前出の通り、内大臣として若き昭和天皇を西園寺公望元老、一木宮内大臣とともに支えた人物であるが、彼は第一次世界大戦終了後に開催された1919年のベルサイユ会議に西園寺とともに全権として参加した。当時の日本は世界の「五大国」の一つに挙げられ、国際連盟では常任理事国にもなったように、明治維新以来50年にして世界の一流列強として認められたのである。ところがこの会議では、戦争で大きな被害を受けた欧米各国が、帝国主義を排し新たな平和的世界秩序を構築しようと熱心に議論を重ねたのに対し、日本政府はこうした議論には加わらず大勢に順応することを方針としたため、他国からは「サイレントパートナー」と揶揄されてしまった。日本政府の関心はあくまでも東アジアの権益に集中しており、それは欧米各国からみれば排すべき帝国主義の残滓だったのである。勿論、これをすべて日本政府の責任に帰すことも酷であろう。それまで東洋の小国でありいわば子供であった日本が、自身でも気づかないうちに急速に成長して大人の仲間入りを果たし、周囲からは大人らしく振舞うよう要求されたのと同じだったのである。  しかし、このような海外からの冷評は、むしろ日本国内で大きな問題となった。特に、ベルサイユ会議を目の当たりにした若きジャーナリストたちは日本の全権を無能と罵倒し、さらに今後五大国として国際社会で活躍するには、まず国内を改造する必要があると主張したのである(6)。おそらく、彼らのこのような思いは批判された側の牧野も共有していたと思われ、だからこそ親しい一木に率直な感想を述べたものと思われる。そして、一木もそれを受け止め、教育という場で国際的に活躍できる人材を育成しようと考えたのであろう。ただ、一言付言しておけば、一木のいう「世界の日本人」とは単に外国語が堪能というだけでなく、「幼少の時より人格養成、品性陶冶と共に外国語に力を注いだならば、世界の舞台に活動すべき日本人を輩出せしむることを得」よう(7)と述べているように、7年制高等学校による「人格養成、品性陶冶」も重要であった。  最後に、「東西文化融合」について(「東西文化」となっているが、大隈がしばしば語っていたのは「東西文明」であった。もちろん文化と文明は異なるが、以降では大隈に従って「東西文明」と理解しておく)。幕末に佐久間象山が東洋の道徳、西洋の技術を提唱したことは有名であるが、このような東西文明の融合あるいは調和という発想は、近代日本を通して広くみられるものである。というよりも、前述の一木の発言にもあるように、国是といえるかもしれない。日本の位置を世界地図でみれば、中国文明の東端に存在すると同時に、アジア市場を開拓しようとしたペリーがまず来航したのが日本であったように、アメリカ側からみればアジアの入口であった。そのような日本が世界の中で自らの独自性を主張しようとすれば、東西文明の接点であることを強調するのも自然であろう。すなわち、支配者西洋と被支配者東洋が対峙する状況の中で、東洋に対しては日本が仲介して西洋文明の普及とそれによる発展を手助けし、西洋に対しては東洋の代弁者として東洋特にその精神文化の理解を得ることで東西相互の理解が進めば、世界平和も実現できる、というのが東西文明融合論のおおよそ共通した主旨であった(8)。  大正時代において、このような東西文明融合論を唱えて有名であったのが大隈重信であった。大隈は1908年に西洋思想の名著を日本に紹介するために大日本文明協会を設立し、実際に多くの訳書を刊行した。大隈は、東西両文明の差異が発生した理由を明らかにしていけば、両者は調和できるはずであると主張していた。一木は第二次大隈内閣の文相・内相であったので、当然大隈の所説を十分に理解していたであろう。  以上のように、武蔵学園が創設された頃の日本は、ちょうど東洋の一国から「五大国」へと変身を遂げる最中であった。そして、国際社会もこの頃を境にして数多くの国際会議が開催され多国間条約が締結されていくようになり、急速に接近していった。こうした中で、根津理事長、一木校長は「東西文化融合」という日本の立場に立って、国際社会の中で「雄飛」できる人材の育成を目指したのである。一木の意図するところを現代風に言い換えれば、グローバル化し且つ多様な国際社会の中で、日本人という主体性を持ちつつ世界平和を目指して国際舞台で活躍できる人材の育成ということになろうか。このように書けば、むしろ現代の日本人にとってはかなり受け入れやすいものとなろうが、前述の臨時教育会議で決定した大学令が「国家ニ須要ナル学術」の教授と「国家思想ノ涵養」を、同じく高等学校令が「国民道徳ノ充実」を教育の目的にしたことを考えれば、当時の日本においてこの建学の三理想はかなり異色なものであったように思われる。    注: (1)一木の天皇機関説については、家永三郎『日本近代憲法思想史研究』(岩波書店、1967)参照。 (2)原田熊雄『西園寺公と政局』第2巻(岩波書店、1950)、345頁、『木戸幸一日記』上巻(東京大学出版会、1966)、185頁。 (3)『昭和天皇実録』第6巻(東京書籍、2017)、747~748頁。 (4)『昭和天皇実録』第7巻(東京書籍、2017)、33頁。 (5)根津翁伝記編纂会編刊『根津翁伝』(1961)、246~247頁。 (6)伊藤隆『大正期「革新」派の成立』(塙書房、1978)参照。 (7)一木喜徳郎「七年制高等学校の必要なる趣旨」(『武蔵学園史年報』創刊号、1995)。 (8)一木にとっての「東洋の道徳」とは、天皇を中心に据えた王道主義であった。一つの階級や勢力が権力を独占する政治体制はいずれ崩壊するしかなく、それに対し天皇とそれを補佐する者たちが道徳によって自らを律することで国民全体の利益を図り、国民の文化の発達を保護するという王道主義がより好ましい、と一木は考えていた(一木喜徳郎「世界の大勢と我が帝国、」『ぬき穂』第29号、1920年5月)。  
 
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