高等学校「総合講座」への展開

柿沼亮介

はじめに

 

 武蔵らしい教育活動とは何だろうか。高い専門性を有する教員によって展開される旧制以来の教養主義的な授業は、「本物」に触れる教育として現在でも武蔵の根幹を為している。その際にはパッケージ化された知識を与えるのではなく、生徒の自発性を重視し、回り道をしても自分の力で調べ、考えさせることも重視されてきた。すなわち、研究者であり教育者である教員の専門性と、生徒の自主性が交叉したところに、武蔵らしい教育は立ち現れるといえるだろう。

 こうした武蔵の教育を体現している授業として、「総合講座」を取り上げてみたい。「総合講座」では、教員の専門や関心に関わるものや、生徒からの希望によって作られたものなど、多様な講座が設置されてきた。フィールドワークや実習を伴うものや、座学中心のものなど、内容によって様々な方法をとるが、ゼミ形式で授業が展開される点は共通している。「総合講座」への展開を紐解きながら、武蔵らしい自由な学びの一端を見ていきたい。

 

1 .前史

 

 様々な教員が自らの専門や関心に基づいた講座を開設し、生徒がその中から選んで参加する形式の授業としては、1987 年度と88 年度の2 年間、高1 のカリキュラムに組み込まれた社会科の「現代社会演習」があった*1。

 「現代社会演習」では、社会科の教員によって様々なテーマでの活動が行われたが、そのうち北海道での農業実習についての記録が残されている*2。このプログラムは地理の加藤侃教諭(当時)によるもので、1988年の8 月9 日~18 日にかけて、5 人の生徒が北海道上川郡新得町の農家で武蔵の卒業生でもある芳賀耕一氏(48期)のもとで実習を行った。生徒たちは水道のない山小屋に寝泊まりしながら、自炊して生活を送った。そして鶏の卵とり、水やり、餌やりという仕事を与えられ、鶏を絞めて解体することも経験した。また、卵を売りに行きながら、付加価値をつけることで通常の卵の4 倍近い利益を生むことを学んだ。

 このように、農作業を体験するだけにとどまらず、自然と人間との関係や、人間の暮らし、さらには経済活動の基本に向き合う実習が行われ、これは「家庭科」や「総合的な学習の時間」の教育理念とも通底するものであったといえよう。実際、加藤教諭によるこの講座は、後に「家庭科」や「総合的な学習の時間」において「北海道農(漁)業実習」として発展していくこととなる。「現代社会演習」は2 年で幕を閉じたが、「総合講座」の嚆矢となるものであったと評価することができる。

 また、1987 年度からの教育課程において設置された「自由選択科目」も、「総合講座」の源流の一つとして捉えることができる。この時のカリキュラム改訂では中3~高3 までの各学年で週の総授業時間を減らしたが*3、選択科目の関係で生徒の時間割に空きコマが生じる場合があった。そこに自由選択科目が設置され、生徒は時間割が許す場合に選択することができた。

 1987年度に設置された高2 の「自由選択科目」は、「音楽(合唱、作曲)」・「美術(油彩、水彩、鉛筆デッサン等)」・「体育(ウエイトトレーニング)」・「英語(映画シナリオを読む)」である。各講座、数名~15 名程の生徒が参加した。

 また、高3 の「自由選択科目」としては、「ウエイトトレーニング」と「数学統計」が設置された。「数学統計」の授業の目標としては、「大学入試で『確率・統計』として出題される統計の問題を解けることを1つの到達目標とするが、これが目標のすべてではない」「具体的な作業を通じて統計を使うことによって見えてくる世界を楽しむことを意図する」といったことが挙げられている*4。

 これらの設置科目やその目標とするところからは、単なる補習や、大学受験のみを目標とするのではなく、教員の専門性を生かして、心身の成長を促すための教養的な内容や、高度な学習が目指されていたことが分かる。

 さらにこの年には、英語の非常勤講師であった出村和彦講師(49期)の申し出により「ラテン語」も開講され、数名の生徒が参加した。

 このように「自由選択科目」は生徒と教員の希望によって開設されるものであり、また授業時間の空きコマだけでなく休み時間を利用して実施されたものもあるなど、その自由な学びの姿勢は、「総合講座」の理念と通底するものがある。

 以上のように1980 年代にはすでに、生徒が自由に講座を選択するグループ別活動が一部で始まっていたのである。

 

2 .家庭科必修化への対応

 

 1989 年度改訂の学習指導要領に基づき、1994年度から「家庭科」は高校において男女ともに必修の科目となった*5。それまで「家庭科」の授業を行っていなかった武蔵も、対応を迫られたのである。

 他の多くの男子校と同様、家庭科でどのような授業を行うかについて、当初は戸惑いや混乱も多かったようである。1991 年4 月に就任した矢崎三男校長への生徒によるインタビューには、次のようなやりとりが載せられている。
 


記者 「武蔵の教科課程は他校と比べて随分とユニークですけれども、文部省などからの『圧力』もあるのではないですか」
矢崎 「『圧力』といったものは無いけれども、いくつかは他校同様にやらなければならないものもある。例えば3年後には家庭科が導入される」
記者 「家庭科ですか。すると料理を作ったりと…」
矢崎 「どんな形の授業になるかは分からないけれど、3 年後には導入しなければならない。」*6

 
 このやりとりからは、「家庭科」の導入が内発的なものではなく、仕方なくやるものであるという当時の男子校の空気感が垣間見られる。当時の社会状況の下では、武蔵においてもジェンダー・ロールの意識は根強かったと言わざるを得ない。こうしたこともあり、矢崎校長の発言にあるように3 年後に導入される「家庭科」をどのような教科として武蔵の中で位置づけていくか、教員の間でも当初は積極的な議論は行われていなかったようである。

 「家庭科」の授業を行う上での課題の一つは、調理や被服の実習のための施設が整っていなかったことである。こうした中で導入初年度である1994 年度は、集中講義を実施することで乗り切ることとなった*7。

 高1 を対象に、栄養学を専門とする非常勤講師や学校医による集中講義を夏休み前の特別授業期間中と二学期期末試験終了後の自宅学習期間に実施し、レポートを提出させて成績評価を行った。集中講義では、「家庭科」担当の非常勤講師による講義の他にも、女性史や法律の専門家を招聘した特別講義が行われるなど、後の「家庭科」や「総合的な学習の時間」の理念にも連なるものになっていた。

 しかしながら、新しく男子校でも必修化された家庭科という科目に対する生徒たちの消極的な反応もあり、これらの講義が十分な成果をあげたとは言い難く、特別講義は10%程の生徒が欠席する状況だった*8。また、中1 の講義では「騒然とし」た状況となることもあったようである*9。

 こうした問題は教員の間でも重く受け止められ、「家庭科」の授業をどのようなものにしていくか模索が進められた。当時、武蔵の教諭を務めていた早稲田大学の大橋幸泰教授は、教師会での議論について次のように振り返る。
 
 単に授業を読み替えて、家庭科を形の上でやっていることにするのではなく、男女分業といったあり方を改善していくために家庭科を導入すべき、という議論になった。家庭科をどのように捉えるかをめぐって教員の間では温度差はあったが、それぞれの教員の得意分野を講座にしたらどうか、ということになった。
 
 そして、「総合講座」のような形が模索されていったのである。

 ここで注目されるのは、生徒に対して「家庭科」の授業に関するアンケート調査が実施されたことである。アンケートは新年度(高1 次)に「家庭科」を履修することになる中3を対象に行われ、中3 での「家庭科」の講義の内容を踏まえて、新しい「家庭科」のあり方に関する学校側の提案が示され、それに対して「意見・疑問・具体的な提案など」を聞くという形式のものであった。

 アンケートではまず、「十分な施設がなく、時間割上の制約も大きいために、先生にもご苦労をおかけし、生徒の関心にも応えられないままに終わった感は否めない」と、初年度の家庭科の取り組みについて総括した上で、1995 年度からの新しい取り組みとして、「同じ課題に取り組む小グループを作り、本校教員を含む適切な指導者のもとで、それぞれのグループが場所と時間を決めて活動する方式を取り入れてみてはどうかと考えている」と提案する。具体的には、次のようなものが例示されている。
 

農村・漁村・山村での実習作業・生活体験、学園内での作物栽培・樹木管理の手伝い(含学校山林)、調理実習・食品加工・自然食品の研究、家庭及び学校での防災研究・救急医療、ゴミ処理施設・流通施設・福祉施設などの見学・研究、コンピュータ・木工・洋裁(ミシン)・編物 などの実技、各種ボランティア活動、税・家族史・環境問題などのサークル研究、等々

 
 ここに挙げられているものには、かつて「現代社会演習」で先駆的に取り組まれたものや、後に「家庭科」や「総合」の定番となる講座の原型がみえる。

 さらにアンケートの最後は、次のような生徒へのメッセージで締めくくられている。
 

当面の課題は家庭科授業の充実であるが、併せて、広く社会に目を向けて行動することにより、教室の中での知識の習得だけに片寄りがちな傾向に何かを補うことができればと考える。本校の理想とする少数教育にも、また第3 代校長山本良吉先生の「筋肉に学べ」との教えにも通じるものであろう。いざ実行するとなると困難が伴い、一人一人に意欲と創意が要求されることはもちろん、ご家庭のご協力も欠かせないと思う。何をすべきか何ができるかを考え、家庭でそしてクラスで話し合うとき、家庭科学習はすでにその第一歩を踏み出すことになる。

 
 まさに、武蔵における「家庭科」の理念を体現しているといえよう。

 アンケートの結果は、グループ別活動に賛同するものが9 割を占めた。生徒からは、集中講義形式での授業について「内容にまとまりがない」「実習・体験・先生との対話が少なく、関心が持てない」といった意見が出され、また例示されたグループ別活動についても関心が寄せられた。

 こうして1995年度から高1「家庭科」の授業は、グループ別活動として行われることとなった。

 

3 .「家庭科」としての「総合講座」

 

 「総合講座」の実施にあたっては、まずは教員の間でコース(講座)を募集し、学校として生徒に提示するコースを用意した上で、さらに生徒からもコースを募集し、調整がついた場合にはコースを新設する形がとられた。活動はそれぞれのコースごとに、放課後や長期休暇などを利用して行われた。

 初年度に展開された講座は、以下の通りである*10。
 
北海道農業実習・生活体験
八王子水田稲作実習
八郷町自然農法酪農
自然観察・作物栽培
防災研究・救急医療
練馬区内ボランティア
校舎メンテナンス・修理
健康・医学
食物・被服
環境問題
家族史・女性史
コンピュータ
 
 このようにコースに分かれてのグループ別活動には、網羅性という意味では限界もあった。これについて1995 年度の教務委員長で、制度設計や運営の取りまとめを行った田中勝教諭(当時)は、次のように述べている。
 

本校で履修する科目は「生活一般」で、内容は家庭生活(家族、生活設計、高齢者問題など)、家庭経済(家計、生産者・消費者問題、生活情報など)、保育、衣食住、情報処理など極めて多岐にわたります。グループ活動には、その一部を学習するに留まるという限界があります。それにもかかわらずこうした形態で学習しようとするのは、施設面での不十分さを乗りこえるということもありますが、何よりも、教室の中だけの受け身学習の姿勢を排して、広く社会に目を向けて実地に体験し、また自ら進んで関心のある分野について探求しようとの主旨であります。これは家庭科という教科の特質にも、本校の建学の精神にも合致するものと思います。生徒諸君には、この機会を生かすべく真剣な選択と積極的な参加が望まれます。また、衣食住に関わる日常生活の実践と基本的生活習慣の涵養は家庭こそが学習の場であり、日頃からご協力いただくことが何より大切かと思います*11。

 
 すなわち、様々な制約の中で「家庭科」を導入するにあたり、「家庭科」という教科の目的を「広く社会に目を向けて実地に体験し、また自ら進んで関心のある分野について探求」することであるとし、それを実現するものとしてそれぞれのコースを位置づけたのである。これは、初年度の集中講義が当初想定した成果をあげられなかったように、一般に「家庭科」の学習内容と思われていることを形式的に座学で教授したとしても教育効果が上がらないという反省の下、実地体験を重視して特定の内容を少人数のグループによって深めることで、「家庭科」において涵養すべきことを考えさえ、身につけさせることを目指したということである。

 先述のように、当初は男子校での「家庭科」導入について、教員の間でも必ずしも積極的なイメージが持たれていたわけではなかった。しかし、大橋幸泰元教諭が述べるように、単なる「読み替え」に終わらせない「家庭科」のあり方を模索する教師会での議論や、導入初年度の反省を踏まえて、「家庭科」教育の本質を追究する試みとして、コース制が導入されたということである。そしてこのような授業形態がとられたことで、教員の間で温度差のあった「家庭科」について、学校全体として取り組む意識が醸成されていったといえるだろう。

 「家庭科」の導入についてしばしば、「家庭科の授業の本質にさかのぼっての議論を行い、生活における様々な知識や技能を、座学のみならず体験することによって体得することが重要であるとの結論に至った*12」といったことが指摘されるのは、こうした所以である。

 「家庭科」という受験科目ではない教科を導入するにあたって、学習指導要領の規定を守るために形だけ授業時間を設定してお茶を濁すのではなく、生徒による座学以外の体験を重視する姿勢の下に、学校総出で手間のかかるプログラムを育んでいった点に、武蔵の教育の特長が顕れているといえるだろう。

 

4 .「総合的な学習」への移行

 

 2002 年度より小・中学校において、そして2003 年度からは高校でも「総合的な学習の時間」が必修化された。これに対して各学校では対応を迫られ、武蔵でも教員が「総合的な学習」に関する外部の研究会に参加するなど、情報収集が行われた。

 どのような授業が「総合的な学習」として認められるかという文部科学省による見解を踏まえ、2000 年には教務より、以下のような対応策の叩き台が示された。
 
①現行の「家庭科」を「総合的な学習」とし、高1 各クラスの通常授業に家庭科を入れる。
②高1 生徒全員を専任教員に割り振り、1年間かけて何らかの観察・実験・実習・調査・研究等をさせる。
 
 この案は、従来の「家庭科」講座に替えて高1 の通常授業時間割内に家庭科の授業を組み込むことで、家庭科の単位を充足させる一方で、すべての専任教員が一人あたり3~4人の生徒を担当して行う個別指導を「総合的な学習の時間」として扱うというものである。

 このような「総合的な学習の時間」のイメージは、国外研修の提携校であった英国のイートン校(Eton College)のチュートリアル・システム(Tutorial system)をモデルとしている。「総合的な学習の時間」をめぐる議論に先立って、2000 年度の中1 の時間割に生じる空き時間をどのように活用するかという議論がなされた際に、同様のシステムの導入が議論されている。すなわち、中学新入生160 余人を専任教員50 人が一人3~4 人ずつ担当し、年間を通して勉強の仕方、資料の調べ方等の指導をしたり、本を読ませてその感想を提出させたり、議論させたりするという案が出されている。これについては、チューターとなる教員と中1 組主任がどのように指導を分担するかなどの問題も指摘されて継続検討課題とされた*13。こうしたアイデアを「総合的な学習の時間」に生かす形で、教務による叩き台は作成された。

 その後、「家庭科」の各コースで取り組んできたことこそ、「総合的な学習」の内容に相応しいという議論になり、それまでの「家庭科」を「総合的な学習の時間」とし、それとは別に高1 の授業時間割内に家庭科を組み込み、食生活、衣生活、消費者問題、家族・家庭、生活設計などを内容とする授業を行う*14 形で、新教育課程に対応することとなった*15。

 担任教員が学級を担当することが当たり前とされる日本の中等教育において、教員がクラスとは別に生徒を担当するチュートリアル・システムは画期的な構想である。また、「家庭科」において培われてきた教員と少人数の生徒によるゼミ形式のコース別活動とも、基本的な発想の面で通底しているといえるだろう。「総合的な学習の時間」の導入をめぐる議論の中でこのような仕組みが作られていったのは、武蔵の教育が、ただ文部科学省が示す教育課程を形式的に取り入れるのではなく、それぞれの教科は本質的に何を目的としたもので、武蔵生に教授する際にはどのように工夫する必要があるかを常に意識して行われてきたことの顕れであるといえよう。

 

5 .「総合講座」の画期性

 

 本節では「総合講座」で展開されてきたコースの画期性について、いくつかの事例を紹介しながらみていきたい。

 

5-1 先進的な取り組み

 「総合講座」では、社会情勢の変化に対応して、中高一貫の男子校における取り組みとしては先進的と思われる内容の講座がいくつも開設されてきた。
 
◇女性史・家族史・生活史

 大橋幸泰教諭(当時)は、グループ別活動の初年度である1995 年度から「女性史・家族史・生活史」をテーマとする講座を設置していた。この講座では、女性史などに関するテキストを輪読しつつ、各自の関心に応じたテーマを設定して研究報告をし、その内容について全員で討論するという形で行われた。

 当時はすでに、「ジェンダー」という概念が専門家の間では広く知られるようになっていたが、一般にはまだ浸透しておらず、こうした社会情勢の下で古くからの男子校である武蔵では、生徒や教員の間に無意識のうちに女性を軽視する風潮が一定程度存在していた。女性教員が徐々に着任し始めた時期にあって、女性教員と、男性教員や生徒との間でのトラブルが生じることもあった。こうした中で「総合講座」では、男子校で敢えて女性史を扱うという先進的な取り組みが行われたのである。生徒たちの中にはこの問題を正面から受けとめてくれる者も少なくなかったと、大橋元教諭は述懐する。
 
◇株式入門

 岡崎泰雄教諭によって開設された「株式入門」は、社会の経済活動全般についての実用的な理解を目指すもので、「新聞の経済面の記事が、一年後にはある程度よめるようになる」ことを目標としている。架空の取引ゲームを通じて株式の仕組を学ぶ「株式シミュレーション」や、経済に関する専門用語などについて調べて輪番で発表を行うことなどを通して、「債権」「金利」「為替」「企業財務」などについて学習する*16。昨今、話題になっている金融教育に、金融機関への勤務経験のある岡崎教諭がその専門性を生かしていち早く取り組んだという点で画期的である。
 
◇やぎの研究

 田中洋一教諭らによって2011 年に開設された「やぎの研究」は、やぎの飼育を通して生徒に生命や食糧について考えさせるものである。小動物ならいざ知らず、飼育担当の用務員などの人員がいるわけでもない中で、365 日世話が必要で、かつ鳴き声などの問題もある動物を学校で飼うというのは、画期的な取り組みであるといえる*17。現在では、受験業界やメディアでも取り上げられるなど、やぎは武蔵の教育を象徴的する存在になりつつあり、「ひつじになるな、やぎになれ」という標語は、すっかりおなじみのものとなった。

 

 

宮城の林業と地域循環型エネルギーに関する研修風景

 

5-2 地域における活動

 

 「総合講座」では、様々な地域における活動が展開されてきた。これらは単なる「農業体験」にとどまらず、民泊などを通して地域の方々とともに生活することで、地域の視点から世界を見て考えることを目指すものだった。
 
◇北海道農漁業実習

 加藤侃教諭(当時)によって1995年度に開設された「北海道農漁業実習」は、夏休み中に10 日間~2 週間、農家や酪農家、漁師の方のお宅にて民泊し、お仕事を体験させていただくというものである。斜里町や南富良野町、江別市など北海道内の各地に提携先は拡がり、生徒の実習中は加藤元教諭が道内各地を巡り、様子を見てまわった。斜里町では町をあげて歓迎を受け、地元の祭りに参加するなど、地域との交流を深めた。
 
◇八王子水田稲作実習

 大橋義房教諭(当時)によって1995年度に開設された「八王子水田稲作実習」は、八王子市長沼の菱山史郎氏所有の5 アールの水田に定期的に通い、代掻き、田植え、草取り、稗抜き、稲刈り、稲架掛けなどを体験するもので、農家とのお付き合いも長期的なものとなり、大橋元教諭の定年退職後も継続されている。

 また、大橋元教諭の方針により、収穫した米は生徒が買うこともできるシステムになっている。すなわち、記念として「もらう」のではなく「買う」ことで、資本制生産の社会では自分たちの労働は対価として米をもらえるには及ばないものであるということを自覚させ、単に農業を体験するだけでなく、産業としての稲作のあり方に目を向けさせるものとなっている。
 
◇沖縄・宮古島農業実習

 高江洲瑩教諭(当時)は1997年度に「宮古島農業実習」を開設し、試行錯誤を繰り返しながら宮古島や沖縄島にて活動を行った*18。目的としては、「世界史における砂糖の役割について、各自の知っていることを踏まえ、サトウキビの刈り取りを手伝うとともに、農家の方々の立場について思考し、人の生き方としての理解を深める*19」ということが掲げられている。

 2000年の九州・沖縄サミットの開催や、石垣島での新空港開港、宮古の下地島空港の利用活性化など、沖縄をめぐる状況はこの20年でも大きく変化しており、宮古・八重山の離島も含めて観光地化は急速に進展していった。こうした中で、東京の高校生が農家での実習を行うということに対する現地の農家の方々の理解を得るところから始めたこの講座は、2005 年に至るまで実習先を変えながら活動を継続した。
 
◇国境の島「対馬」を体験する

 加藤十握教諭、小池保則教諭は2004 年に「国境の島『対馬』を体験する」を開設し、現在に至るまで開講されている。プログラムの案内では、次のように説明されている。
 
 対馬は、古来よりその地理的な条件から、時には海路の要津として文化交流の架け橋となり、また時には国防上の最前線としての緊張を余儀なくされてきた島である。そのような歴史的現場に足を運び、その空気を呼吸し、自らを考えてみようではないか。受講者は年間を通して対馬に関するテーマ研究を行い、適宜その成果を会合などで発表する*20。
 
 この講座では、生徒たちは農家や漁師の方の家に民泊し、密なコミュニケーションをとることで対馬への理解がより深まるようになっている。

 また、対馬での研究テーマは教員から与えられるものではなく、生徒が自分自身で設定している。そのため、生徒の関心に応じて「漂着ゴミ」「韓国人観光客」「古墳」「ハチミツ」「ツシマヤマネコ」などテーマは文理問わず多岐に及び、対馬を舞台とした総合的な活動が展開されている。
 
◇酪農体験

 赤間祐也教諭によって2016 年に開設された「酪農体験」は、生徒の希望者4 名によって立ち上げられた講座である。当初は、北海道に旅行して搾乳体験を行うといった、「観光牧場」での活動のようなものが想定されていたが、「総合講座」としての実習の充実を図るため、まずは実習先を探すことから始め、北海道別海町のオシダファームにおいて実習が行われることになった。「あらかじめ調べた知識」と「現地で体験した経験」を有機的に結びつける学びが目指されている*21。このように本講座は、生徒の希望によって講座が開設され、単なる遊びや体験にとどまらない活動が目指されて発展していった。

 

おわりに

 

 「現代社会演習」や「自由選択科目」を源流とし、「家庭科」から「総合的な学習の時間」へと受け継がれてきた「総合講座」では、様々な特徴あるコースが設定されてきた。

 女性史や金融教育などの取り組みは、現在では教科教育の中でもその視点は取り入れられるようになってきているが、武蔵では「総合講座」の形でそれらが先進的に取り入れられてきたということである。

 また、農家などでの民泊は近年ブームになってきており、学校行事として取り入れる中学・高校も少なくない。しかしそれらの多くは、旅行会社や地方自治体などが教育旅行のために作り上げたプログラムに乗っかり、容易に実習先や民泊先が供給される状態で進められている。それに対して武蔵の「総合講座」では、既存のプログラムを利用するのではなく、教員や生徒が試行錯誤しながら、ゼロから地域との関係を築き上げてきた。その過程で様々な失敗を経験するからこそ学びが深まり、また地域との絆も強固なものとなるのである。

 教員も生徒も自由な学びを追究し、回り道をしても「本物」を目指す武蔵の教育の真髄が、「総合講座」には顕れている。

 

【註】

 

1.拙稿「中学校社会科『卒業研究』への展開」(本書)を参照。
2.樋口治朗「社会科演習『農業』中間報告」(『大欅』No.29、1989年)
3.教科教育の授業時間を減らし、余裕のあるカリキュラムを作るということは、いわゆる詰め込み教育への反省から1980年代に全国的に試みられた。武蔵における教育課程の改訂も、教育界の動向と連動するものであったといえる。
4.教務委員会から数学科への意向確認のため、正田良教諭が作成した資料による(1986年12月6 日付)。
5.中学校は1993年度から男女必修。
6.報道班『武蔵』第136 号(1991 年4 月8日発行)。
7.同じく家庭科が必修化された中1 と中3については、木曜日の午後の時間割上授業が入っていない時間帯を利用して、各学期数回ずつの講義が行われた。
8.教師会資料(1994年10月17 日)。
9.教師会資料(1994年11月14 日)。
10.様々な理由でコースの活動に参加できない生徒のために、家庭科の非常勤講師や学校医による集中講義も、前年度に引き続いて行われた。この「家庭科集中講義」は、翌年以降も設置された。1996 年度と1997 年度の授業内容は、鬼木雅子非常勤講師が被服や食物を、今村晋学校医が健康・医学を担当し、7 月の特別授業期間中に約10 時間、二学期期末試験後の自宅学習日に2 日間(約5 時間)の講義が行われ、さらに東京都環境科学研究所の見学やレポートなどが課される、といったものだった。(教務委員会「新高1 家庭科コース案内」1996年2 月19日付、同「高一家庭科コース案内」1997年4 月8 日付)。
11.教務委員会(文責:田中勝)「高校家庭科について」(『大欅』No.36、1996年)。
12.加藤十握「武蔵高等学校における『総合講座』」(『武蔵高等学校中学校紀要』第3号、2018年)
13.教務・カリキュラム委員会資料「’00年度の中1 の空き時間について」(1999 年11月22日付)。なお、中1 の時間割上の空き時間については、家庭科の講義などを行う時間として活用されることとなった。
14.「2004 年度 各科からの報告」(『大欅』No.45、2005 年)、「2005 年度 各科からの報告」(『大欅』No.46、2006年)。
15.2004 年度からは生物実験室を利用しての調理実習も始められた。
16.2009年度 高校1 年 総合講座要覧」。
17.ヤギの研究の内容については、生徒による以下のような報告がある。石塚大輝「山羊の研究」(『大欅』No.55、2015 年)、須田雅啓「4 年間の研究活動とこれからの展望」(『大欅』No.55、2015 年)。
18.高江洲瑩「総合講座・沖縄グループの歩み」(『大欅』No.46、2006年)
19.教務委員会「1999 年度 高1「家庭科」講座案内」(1999年4 月8 日付)。
20.「2009年度 高校1 年 総合講座要覧」。
21.赤間祐也「総合講座「酪農体験」報告 ~2016年度開設から2018年度まで~」(『武蔵高等学校中学校紀要』第3 号、2018 年)。

武蔵学園史紀伝一覧
 
to-top