「歴史家島田俊彦」の出発点 ― 淡々たる言動に秘められた硬骨

畑野 勇(武蔵学園記念室)

武蔵における存在の重さ

 武蔵高等学校では、修学旅行が1978(昭和53)年を最後に廃止され、それ以降も復活の動きは見られない。武蔵学園の編年史における「修学旅行」の項では、『武蔵60年のあゆみ』から『武蔵90年のあゆみ』まで一貫して、ほぼ同一の記述が続いている。以下、その一節を掲記してみよう。
 「関西方面の歴史的風土・文化遺産を見学することを目的とした高校2年の修学旅行は、1951(昭和26)年に復活した。戦後の混乱期から少しずつ立ち直りかけた時期であり、戦前の国史教育の反省に立った戦後の日本史学習とあいまって、復活当初の修学旅行には新鮮な活気があった。しかし同時に、団体旅行につきものの無責任な風潮の萌芽も、すでにそこに存したといえよう。その後、集団観光旅行が観光地に充満する時代のなかで、武蔵の修学旅行は、コース選択制・グループ見学方式など先駆的な改善を行ってきたが、ついに修学旅行という因襲的形態にまつわる欠陥を除去し得なかった。集団のなかに個々の責任が埋没してしまうような学校行事はむしろ進んで廃止しそこで失われる修学旅行の美点は別の形で追求すべきであるという考えのもとに、78年を最後に廃止された。中学3年も東北旅行を実施していたが、66年を最後に廃止された。」(以上、『武蔵90年のあゆみ』190ページより)

 この廃止が決まったときの武蔵高校の校長は大坪秀二氏であったが、彼は『大欅』1979年6月15日号に「修学旅行の廃止をめぐって」と題する文章を載せている(のち『大坪秀二遺稿集』に収録)。大坪はそこにおいて、「出発から帰着まで、全員が一斉行動をする」という、修学旅行の「伝統的な様式」についての批判が復活早々から見られたと述べ、「修学旅行を単なる団体観光旅行、思い出旅行とするのでなく、各人が主体性をもって計画し見聞するという旅行本来の立場を、修学旅行の中に何とか生かせないだろうかという意図に発する」コース選択制の導入もあったものの、「結局は単なる集団旅行へと風化してゆく経過を、毎回たどった」と記している。

 続く文では、「修学旅行という名の下に私たちの社会に定着しているのは団体旅行であり、日本的な団体旅行の魅力は、それに加わることで個々人の責任が消失する気楽さにあるということが、すべての底流にあった」、「団体旅行に典型的なこうした精神現象を、私は生徒への話しの中で、『集団無責任体制』という言葉で表現しました。今の社会で問題となっている多くの事柄、青少年の聞で問題となっている事柄などを見きわめてゆくとき、この『集団無責任』が根本にある場合が実に多い」とある。

 上記の文章はいまから約40年前のものであり、率直に言って、なかなかその切実さが身近に感じられない部分もあるが、「集団観光旅行としての修学旅行」の強硬な廃止論者であった大坪による、現在全国的に積極的な意義が失われつつある修学旅行の否定的な側面を浮き彫りにした先駆的な考えとして、一読に値するものであろう。

 その大坪が、武蔵高校の修学旅行で唯一、「今日的観点から見ても、非常に立派なものだった」と高く評価しているものがあった。それは、1951(昭和26)年から1969(昭和44)年まで教諭(その後、1975年の逝去まで大学の人文学部専任教授)をつとめていた島田俊彦を中心に立案・実行されたものである。

 「20年以上昔の当時、既に、コース選択制による見学人数の分割を行って、見学の徹底をはかったことなども、島田さんだけの発案ではないが、卓見であった。阿弥陀信仰という一本の線で、法界寺・平等院・かにまん寺・浄瑠璃寺・岩船寺を結んだり、飛鳥・白鳳・天平の線を完成するために、一般コースを離れて当麻寺まで足を延〔ば〕したり、さらには室生・多武峯までを日程に含めたりした。

 当時は、バスの運転士でも飛鳥や南山城の道は不案内で、島田さんが運転士の横の席でいちいちコースを指示したし、島田さんの指導の下に生徒が編集した旅行の案内書は、バスガイドたちに好評で、せがまれてわけ与えることになったりした。

 島田さんは、地図なしでも歩ける旅行の先々でなおかつ熱心にスライド用の写真をとり、さらに民族文化部の生徒との旅行の時のデータなども補充して、翌年の生徒に対してはさらに新しい工夫を加えるなど、私たち教師にとっても、島田さんの手で総合された修学旅行につきあうことは、日本史への興味を啓発される上でも、大層勉強になることであった。」(以上、大坪「島田先生を悼む」『武蔵大学人文学会雑誌』第7巻第3・4号、1976年に所収)
 

 修学旅行が実施されていたとき、引率役であった島田の(武蔵学園史において)面目躍如たる事件があった。

 制服を着ることなくセーター姿で旅行先を歩いていた生徒たちが、他校生に脅かされたり撲られたりという出来事があったというが、付添い教師が京都の警察署で事情を説明する段になって、京都府警少年課の担当者が「制服を着てないような生徒は、それだけで不良と見られても仕方ないのだ」というような話をしたさい、島田が「うちの学校では服装は自由なのだ。あんたは、ひとの学校の教育方針にケチをつけるのか」と応酬したという。これ以降は、関西旅行の折には必ず教師が五条警察署に立寄り、「本校は服装自由であるので、その旨ご承知いただきたい。服装だけの事で取締りの対象にしていただきたくない」旨を説明することになり、これが結果として「武蔵は制服のない学校」ということを世間に定着させることに役立ったという(大坪「武蔵の服装規程のこと」同窓会会報第32号、1990年12月に所収。のち『大坪秀二遺稿集』に収録)。
 

 大坪は、新制武蔵高校発足の2、3年後ごろからのつきあいであった島田について、「吾々の仲間の餓鬼大将でもあった」と評している。

 「私は、あるいは私たちは、島田さんとよく飲み、よく出歩いた。そうした生活の中で、島田さんが発散するザックバランな、一本気な、正義派的な雰囲気は、当時の私達の気風をとりまとめる一つの中心になっていたかと思われる。」

 この文は、武蔵高校の教師陣が、個性的で、かつ識見すぐれた人物を得ていたことを示すものといえるだろう。


↑ 『武蔵七十年史―写真でつづる学園のあゆみ』(1993年)掲載の写真

 

近代史研究の出発点としての海軍勤務

 島田は教諭在任中に、満州事変や日中戦争の実証的研究の第一人者としても名高い存在であった。1962年から63年にかけて朝日新聞社から刊行された『太平洋戦争への道―開戦外交史』(全7巻)の共同執筆者として、また1964年から66年にかけては、みすず書房の『現代史資料』シリーズの『満州事変』、『満洲事変 続』、『日中戦争』の共同編者としてそれぞれ名を連ね、単著として『関東軍―在満陸軍の独走』(中公新書、1965年)、『満州事変』(人物往来社、1966年)を執筆している。この2冊の単著は講談社から学術文庫化され、初版刊行から半世紀がすぎた現在でも新刊本の書店で入手が可能である。このような貴重な成果として結実した研究の出発点は、以下に紹介するように、彼の使命感や良心と不可分のものであったといえる。
 

 島田は1908(明治41)年生まれ、1931(昭和6)年に東京帝国大学文学部史学科を卒業後、2年間の大学院での研究を経て聖心女子学院高等専門学校の教授をつとめていたが、太平洋戦争中の1942年5月に退職、その翌月に海軍の軍令部嘱託(戦史編纂事務)となり、終戦までその職にあった。以下、みすず書房の『現代史資料』第7巻の付録月報に収録されている島田の回想「軍令部戦史部始末記」によりながら、彼の研究基盤や独特な言行に接近してみたい。
 

 日本海軍では日清・日露戦争や北清事変、第1次世界大戦、満洲事変、第1次上海事変など、かかわった対外戦争や戦闘に関して、軍令部による厖大な戦史が(軍事機密扱いであるが)編纂されていた。日中戦争が太平洋戦争にまで発展拡大した時、軍令部が恒久機関として「戦史部」をあらためて発足、現役・予備役の将校が15、6名ほど配属されるとともに、歴史専門家として島田が嘱託に就任した。

 編纂の計画は、まず『大東亜戦争海軍戦史本紀』という表題の、従来程度の詳しさの戦史をつくるほか、さらに詳細でさらに機密度の高い『秘史』(作戦や用兵が記述の中心)、そのほかに機関科、主計科、軍医科等各科別の戦史を書く。さらに一般啓蒙用として、機密事項を取除いた奥味本位の戦史もつくる、というものであったという。「生来無類の臆病者である私は、何としても戦争へ行くのはイヤだった。徴兵検査は丙種だったから、満洲事変、日華事変のうちはいささか高みの見物だったが、これが太平洋戦争にまで拡大されると、安閑としてもいられなくなってきた。恩師の辻善之助先生〔1877―1955、歴史学者・日本仏教史〕は、私のこの哀れな心情を察して、ある日私を招いて『海軍で軍人たちだけで大東亜戦争の戦史を編さんしているそうだが、最近、歴史の専門家がひとり欲しいといってきた。この仕事をやれば、かえって戦争に行かないですむかもしれない。行かないか。』といわれた。……何よりも、もしかすると戦争にいかないですむということが最大の魅力だったので、結局推せんをお願いして清水の舞台から飛びおりた。」

 以上の叙述は、島田がこの仕事を引き受けた理由が、単なる徴兵の忌避にしか感じられないような書きぶりであるが、実相は彼が持っていた(実証的な歴史学の学徒という)職業的倫理観に共鳴するものが、このプロジェクトを担当した海軍側の人間の言動に見出されたからではなかろうか。「ある日、先生の紹介状を持って軍令部戦史部に先任部員(課長相当)の高田俐大佐をたずねた。……高田大佐は……『あなたにこれから書いてもらう戦史は、将来軍機書類として海軍軍人だけに研究させるのだから、あらゆる事実について絶対に筆を曲げないでほしい、よしんばそれで海軍が悪者になってもさしつかえないから――』というそのときの一言は、吹きすさぶファシズムの嵐の中で、自由な歴史研究が妨げられつつあることを感じていた私に、この仕事にたずさわる最後の腹をきめさせた。」
 

 なおこのプロジェクトでは、作家の吉川英治も勅任待遇の嘱託になっていたという。「吉川氏はわれわれの書いた『本紀』に基づいて、一般啓蒙用に筆を振うはずであった。そしてその出版は岩波書店が引受けていた。高田大佐の話によれば、吉川氏はこの仕事を依頼にいったとき、同氏は今後一切他の執筆を絶って、この意義ある任務に専心すると、涙と共に誓ったということだったが、ついに1字も書かずに終戦を迎え、他にも小説を書かれた(もっともその際軍令部の諒解を求めに来られたが)。それは恐らく、われわれの書いた無味乾燥な戦史だけが資料というのではどうにも筆の振いようがなかったことにもよるのであろうが、それよりも次第に吉川氏の胸中において、『大東亜聖戦』のイメージが崩れ去りつつあったことが最大原因だったのだろう。純真な吉川氏にはまことにお気の毒であった。」
 

 ここで島田が記している、吉川が覚えたかもしれない失望は、おそらく島田自身のものでもあったのではないだろうか。敗戦後、組織の解散時に残すことのできた業績は、B5版約900頁の『本紀第1巻』(1937年の第2次上海事変まで)1冊だけだったという。もっとも、島田の遺品として残された史資料群には『本紀第2巻』の草稿も含まれているが、これが日の目を見ることはなかった。島田は戦争後半のある時期から、海軍部内で編纂された戦史の完成を断念し、後世のいつの日か、自身の使命感を充足しうる(そして、広く国民一般にそれを公表しうる)内容の戦史執筆を構想し始めたように思われる。

 

島田の「歴史家としての良心」―戦後に大成へ

 島田の回想は以下に続く。

 「戦史部ではジッとしたままで、資料係が転手古舞するほどたくさんの貴重な資料が入手できた。それをいつでも自由に披見できることは、何ごとにも代え難い大きな魅力であった。ことに敗戦の〔19〕45年になってからだと思うが、情報担当の軍令部第3部から、古い資料が場所ふさげでこまるから、そちらで不要なら焼却するがという照会があって、そのあげく資料の山が戦史部に移管されたとき、私の胸は躍った。それらは昭和初年からの各種対外案件に関する陸・海・外の機密電報、外地からの情報、中央国策決定の文書、軍令部甲部員(政策担当)関係の作戦日誌……さては新聞の切抜きに至るまで、いずれも実によく整備された珠玉の資料であった。そのころ私は太平洋戦争のひとつの重要な核である日中両国のもつれ、そして戦争を、いつの日にか解明してやろうと考えていたので、これらの資料の中から主として中国関係のもの――つまり軍令部第6課(中国情報担当)のもの――ばかり200冊余(1冊平均約200枚)をえらび出し、自分用の金庫にこれを格納した。そして公務のあいまにこれを取出しては、少しずつ読んでいった。」
 

 1945年6月になると、空襲を避けて戦史部は保管資料とともに山中湖畔に移転し、島田らは翌々月にその地で敗戦を迎えた。

 「海軍大臣からは機密書類焼却の厳命が来ていた。だが当時資料保管の責任者でもあった私には、到底焼く気になれなかったし、また将来のため焼くべきでないと考えた。そこで私は独断で、ある日ひそかに湖畔の村の某家を訪れ、資料の隠匿を依頼した。幸い同家ではこれを快諾し、2階の物置をこれにあてるということだったので、私はすぐにホテルに戻り、夜陰に乗じて運びこむべく、水兵を指図して資料の箱詰め作業にとりかかった。ロビーを資料で一杯にして作業している最中に、終戦だというので本省へ出張した長井〔純隆〕大佐〔海軍兵学校50期、戦史部専任部員〕が帰られた。そしてこの『ていたらく』を何ごとかと不審がられ、やがて真相が分ると「大臣の命令が分らないのか。全部焼け」と命じられた。先任部員の立場としては、もちろん当然の発言だったのだろう。私も上官の命令とあればやむを得ず、速刻箱詰め作業を焼却作業に切換えた。それから4日3晩、徹夜で資料は火葬に付された。炎々たる焔は天を焦し、最初の晩には村人が火事とまちがえて駈付けるほどだった。」
 

 ここで登場する長井が戦後、防衛庁防衛研修所の戦史室(現在、防衛省防衛研究所の戦史研究センター)の室員として海軍公刊戦史の編纂執筆に携わり、大半が焼却処分されてしまった機密書類の欠を埋めるため、関係者の回想やインタビューの実施や史料収集に日々忙殺されたことは、皮肉なめぐり合わせと言える。そして長井らの編纂官は、その作業において、今度は島田の大いなる助力を得ることとなったのであるが、それは島田が秘匿保管していた史資料を参照し得たことによるものであった。
 

 島田の回想を続ける。「戦史部の全機密書類は焼却完了ということになった。しかしそのことは必ずしも事実と符合しなかった。なぜならば焼却の指揮者であった私は、またしても独断で例の2百余冊の日中関係資料をえらび出し、家族を疎開させてあった山中湖畔の借家に、ひそかに運びこませてしまったからである。これは明らかに大臣命令違反であり、またやがて進駐して来るアメリカ軍の追求を受ける恐れもあった。しかしこのことに関する限り、臆病者の私にしてはふしぎなことに少しも恐くなかった。これという理由もなしに、私は当然これを守るべきだし守り得ると考えていた。」「終戦後、私は職場を失い、また元軍令部職員ということから、しばらくは教員の適格審査にも合格せず、いささか世の辛酸をなめた。しかしそのようなことは臆病者、卑怯者の当然受けるべき『しもと』であって、問題ではない。私の任務は、幸い残すことのできたこれらの資料を活用することにある。だから今まで細々とではあったが、これらをもとでに研究を続けてきた。そして一方では、私物ではないこれらに日の目を見せるチャンスをうかがってきた。」
 

 島田が保管していた、この一群の史資料の大部分は、後年、みすず書房の『現代史資料』に収録され、敗戦後約20年の年月を経て国民一般の目に供せられることになった。また防衛庁(当時)による陸海軍の公刊戦史の編纂執筆に際しても、さきにふれたように、それらの史資料が複製され参照されている。その内容から見えるものは、満州事変から日中戦争の拡大まで、日本の海軍も陸軍も外務省も、1930年代に中国に対して相当に強硬な姿勢を取り続け、軍事衝突の発生時にはさまざまな拡大防止の策を検討したことも確かではあるが、全体としては中国側の交戦意思を低く見積もり、また事態収拾の見込みについて著しく楽観し、最終的に国際的な孤立をまねいていったという日本の姿であった。
 

 みすず書房の『現代史資料』編集室は、上記の月報掲載文の紹介において「淡々たる筆致のうちに、『資料』とは日本国民の公有のもの、そして公開への使命感にささえられて、あの敗戦直後異常な緊迫時に、身をもって資料を守りぬいた姿が語られています。――この『焼け』という大臣命令に『焼かない』という行動が、どんな危険を意味し、この反逆がどれほどの勇気を必要とするかは、軍隊で8月15日を迎えた体験者には誰しも判っていただけると思います。」と記しているが、これは歴史家としての良心と硬骨さとを兼ね備えた島田がおこなった、他に類を見ない「日本国民にとっての一大貢献」であったといえる。
 

 1960年代半ばからの短期間で、続々と単著や共同研究の成果が世に出されるにつれて、しかし、島田の健康は急激に損なわれていった。それでも、1970年前後からさかんになった学費問題をめぐる学内での紛争にも正面から対処し、その収束から数年後の1975年12月に満67歳で逝去している。
 

 長いとはいえない生涯ではあったが、敗戦直後には史資料の秘蔵保管という心理的な抑圧(あるいは自責の念)に耐え、戦後は質の高い歴史研究の成果を次々と世に送り、あわせて教育者としても確固たる精神を持ち続け、多くの学生がその薫陶を受けた。このような人物は今後、武蔵においても他の教育機関においても、なかなか現れないのではなかろうか。

武蔵学園史紀伝一覧
2018.12.17
『相浦忠雄遺稿集』を読む―武蔵卒業生戦死者の記録
↑ 相浦忠雄肖像:武蔵高等学校在学中   ↑ 相浦忠雄肖像:海軍主計大尉時代   はじめに 『武蔵七十年史』によれば、旧制武蔵高等学校の第二次世界大戦の戦没者は、教員(助手)3名、配属将校2名、卒業生52名を数えている。この数は、正式に戦死公報の来た者であるとのことなので、戦病死、戦災死、収容所内での死亡、徴用中の事故死等を加えた広義の戦没者はもう少し多いかも知れない。 これらの人々が、武蔵に居る頃、そして戦場に出て何を考え、どのように死んでいったかは、今となっては殆ど知るよしもない。が、その中で、遺稿集が編纂され、生前の考えが比較的よく分かり、さらに戦死のありさまについても十分の情報がある一人の卒業生をここに紹介することにしたい。   1. 相浦忠雄の略歴 相浦忠雄(11期文)は、1919(大正8)年11月23日、福岡県田川郡上野村の赤池炭鉱社宅に生まれた。赤池炭鉱は明治鉱業株式会社の経営で、相浦の父鼎五はその社員であったようだ。 忠雄の命名は、父の友人矢内原忠雄にあやかったものとされている。 1926(大正15)年、戸畑私立明治小学校入学、翌年父の転勤に伴い上野村市場小学校に転校。 1932(昭和7)年、市場小学校を卒業、上京して武蔵高等学校尋常科に入学。 1936(昭和11)年、武蔵高等学校高等科文科甲類に進む。 1937(昭和12)年、級友宮澤喜一と共に外遊生に選ばれる。旅行先は当初中国内地の予定であったが、日華事変勃発のため、朝鮮、満州となった。(現在武蔵学園記念室には、その時のレポートが残されている) 1939(昭和14)年、東京帝国大学法学部法律学科(英法)に入学。同年夏、日米学生会議日本代表団の一員として渡米。 1941(昭和16)年、外交官及び行政官高等文官試験に合格。同年12月25日、太平洋戦争勃発のため東京帝国大学を繰り上げ卒業。 1942(昭和17)年1月6日、商工省事務官に任官。燃料局に配属。同年1月20日、海軍短期現役主計科士官を志願し採用。海軍経理学校第8期補修科学生として入校。海軍主計中尉に任官。 同年5月16日、カトリックの洗礼を受ける。同年5月20日、海軍経理学校を卒業し海軍省人事局第1課に配属。 1943(昭和18)年2月、海軍経理学校補修科庶務主任、ついで分隊士。 1944(昭和19)年3月、航空母艦雲鷹主計長。雲鷹は同年8月7日、船団を護衛しシンガポールに向け出撃。同年9月17日、船団護衛の帰途南支那海にて、米潜水艦に雷撃され、沈没。 雲鷹沈没に際し、相浦は艦橋にあって配置についたまま生還しなかった。 享年24歳10ヶ月であった(*1)。   2. 相浦忠雄遺稿集 『相浦忠雄遺稿集』は、1950(昭和25)年9月、彼の死を惜しむ武蔵の同窓後輩、海軍経理学校(主計科短期現役士官養成)の同期後輩、親族らの手によって編集刊行された。 冒頭「編者の言葉」では、「相浦忠雄の戦死が人類の文化にとってどれほどの損失であったかは、遂に知ることができない。唯ここに集められた彼の遺稿はその損失が並々のものでなかったことを示している。」と述べている。 編集委員は、赤沢璋一、小川政亮、大橋弘利、亀徳正之、相良一郎、早田和正、苫米地俊博、長橋尚、宮澤喜一、山下元利、吉国二郎、渡辺正雄の12名。この内宮澤(大蔵省、後に内閣総理大臣)、大橋(弁護士)、長橋(通商産業省)が武蔵同窓。赤沢(通商産業省)、山下(大蔵省、後に衆議院議員)、吉国(大蔵省、後に国税庁長官)らはおそらく海軍主計科短期現役士官の同期後輩、苫米地は義弟と推定される。遺稿集の題字は、相浦が日米学生会議で渡米した折の日本代表団長であり、戦後成蹊大学総長となった高柳賢三の手になるものである。 この時代の、日記、ノート、写真等の記録は、多く戦禍に遭って消失しており、相浦の場合も、武蔵の高等科1年から高校生時代に書きつないだノート一冊だけが遺され、遺稿集の母体となっている。幸い、このノートの余白には、相浦が雲鷹主計長に就任してから戦死までの約四ヶ月の日記が記されており、その意味でこのノートは、相浦の高校生時代と、主計長時代のそれぞれの時期の「肉声」を知る、よすがとなっている。このほかに、遺稿集にはもちろん、武蔵校内で刊行された諸雑誌への寄稿、日米学生会議の報告等、外部刊行物からの転載がいくつか収録されているが、中心はあくまでも前述のノートである。逆にこのノートがカヴァーしていない時期、たとえば海軍経理学校時代や雲鷹主計長就任以前の時期については、相浦の肉声は聞こえてこない。カトリックの入信についても、おそらく相浦はそれなりの信仰告白を記していたであろうが、記録は消失してしまっている。 本稿に於いては、『遺稿集』を読み解くことを作業の中心としつつ、相浦の生涯を意味づけるいくつかの重要なエピソードについては、相浦の肉声を直接に聞いた他者(土田国保、近藤道生ら)の証言をまじえながら、相浦が何を考え、どのように死んでいったかを見ていきたい。   3.  愛日寮生相浦忠雄 旧制武蔵高等学校には、尋常科生徒のための慎独寮、高等科生徒向けに愛日寮、双桂寮の二寮があった。これらの寮は、元々山本良吉校長が、他の高等学校の全寮制とその風俗を嫌忌していたこともあって、全生徒が入るものではなく、いわば一部寮制とも言うべきものであった。 相浦が高等科に進み、愛日寮生となったのは、おそらくは父親が明治鉱業に奉職して九州勤務が多かったことと関係があったのではないかと推測される。 愛日、双桂の二寮は、武蔵校内でライバル関係にあり、両寮対抗で弁論大会なども開かれていたようである。前者はともすれば儒教主義的東洋思想的寮風、後者はルネッサンス的西洋近代主義的な寮風と思われていた。 『遺稿集』では、両寮の対抗弁論大会において、相浦が愛日寮を代表して、双桂寮側の先輩竹田政民に反論する演説草稿が掲載されている。この内容を本稿に敷衍するには、あまりに難解かつテーマが広範であるのだが、一言でいえば、旧制高校生的な深い思索、思惟にこの頃の相浦が沈潜していたこと、さらに言えば、武蔵三理想の一である「東西文化の融合」を(相浦に限らず)当時の高校生が如何に重要な思索のテーマとしていたかがわかる。 大正期から昭和初期にあっても、この階級の人々の一般的な生活は、武士道あるいは儒教的な価値観をベースに営まれていたのであり、その一方で旧制高等学校生が日々学ぶ学問は、文系であれ理系であれ、ほとんど西洋の科学と思想の産物であったという事実が、この主題を、今日以上に彼ら旧制高校生にとって喫緊のものとしていた。21世紀の今日の我々があまり深くは考えない、東洋的な生活感覚と西洋的な知性、理性との整合は、この時代には、教養ある若者たちが乗り越えなければならない大きな課題であったといえる。武蔵高等学校の愛日、双桂二寮は、その寮風のわずかな差異で東西のいずれかに偏っていたのであり、今日から見れば「似たようなもの」であったかもしれない僅かな差異をめぐり、堂々の論争がなされていたと見ることもできる。   4. 武蔵高等学校外遊報告第十号 1937(昭和12)年7月、高等科2年の時、相浦忠雄と宮澤喜一は、武蔵高等学校第11回外遊生に選ばれ、中国視察の準備をしていたところ、折から盧溝橋事件が勃発し急きょ外遊先を満州に変更し出発することとなった。その外遊報告は、2597年度(*2)武蔵高等学校外遊報告という約50頁の小冊子として、山本良吉校長の前文を付して翌年刊行された。幸い、武蔵学園記念室にはその小冊子が現在も保存されている。 外遊報告は相浦と宮澤の共著であり、この報告のどの部分を相浦が執筆したかはわからない。が、いずれにしても、高校生のまとめた内容としては出色のレポートである。この中で日々の満洲訪問先での取材内容を記した部分(三理想の「自ら調べ」の部分)は、今日の武蔵高校生の国外研修報告と比較し、どちらも極めて優れているものと評価できる。むしろ現在の国外研修報告も、十分相浦、宮澤の域に達していると言うべきかもしれない。 だが、この報告の中で特徴的なものは、「二三の考察」という最後のまとめの部分であり、ここでは漢民族の民族性についての二人の考察が書かれている。「矛盾に富む」「自己本位」「金銭への執着」「面子」「没法子」「社交性」等々、当時多くの人が言い、今日でもよく言われる批判的な特性が考察された後、漢民族の「同化力」についてが、特筆されている。 その同化力があるゆえに、「支那は疲れた。早晩滅びる。」という人があるけれども私にはそうは思われない、との記述がある。この「私」は宮澤であったろうか、相浦であったろうか。 また、「二三の考察」の中では満州における日本農業移民についても、深い考察がなされていて、これの成功への危惧が控えめにではあるが表明されている。事実の報告、要約、構成もさることながら、こうしたまとめにおける洞察(三理想の「自ら考える」部分)の点において、二人の人物がいかに傑出していたかを見ることができる。   5. 日米学生会議 そして相浦の短い生涯の中で、再びの「海外雄飛」。 相浦忠雄は1939(昭和14)年東京帝国大学法学部法律学科(英法)に入学。同年夏、日米学生会議日本代表団の一員として渡米した。『遺稿集』には、帰国後学生たちが編纂し、日本評論社から刊行された「学生日米会談」寄稿した相浦の一文「支那事変の投げる影」が転載されている。 ここで述べられていることを要約すれば、当時の米国人が庶民の果てに至るまで、日本の中国侵略に対して、強い批判感情を持っていること。にもかかわらず、個々の米国人は個々の日本人に対して親切であり、国家レベルの批判感情を個人に及ぼさないこと。そして、米国人から生年、所属大学等を問われた後で、必ず「それでは間もなく貴方も戦争に行くのですね」と愛惜するように言われることなどである。 これらを読んでも、相浦がもし彼の戦争を生き延びて、日本再建の掌に当たることができたとしたら、米国人の良き友人として、この渡米の経験を活かすことができたであろうにとの思いを禁じ得ない。   6. これが全部焼け野原になる 1941(昭和16)年12月8日、東京帝国大学生近藤道生(武蔵12期文、後に大蔵省、国税庁長官、博報堂会長)は、本郷の下宿「幸運館」で同級生高柳忠夫から日米開戦と真珠湾攻撃の成功を聞いた。かねて、日米開戦に懐疑的であった近藤は、高柳に「困ったことになるかも知れないぞ」とだけ言い残して外へ出た。 ・・・・・ 歩いて十分ほどで東大図書館に着いた。そこには旧制武蔵高校で一年先輩だった相浦忠雄さんがいた。誘われるまま二人で図書館の屋上に上がると、眼下に広がる東京の家並みを前に相浦さんは「君、これが全部、焼け野原になるんだよ」と唐突に言う。 「そうでしょうか。日本の軍部もそれまでには手を打つでしょう」と、戸惑いながら相浦さんの横顔を覗き込んだ。相浦さんは迷いもなく「いやいや、必ずそうなる」と言って口元を引き結ぶ(*3)。 ・・・・・ 相浦の戦争の結末に関する予想は、その後の戦死直前のものも含めて、恐ろしい程透徹している。しかもそれは、直感的、宗教的な「予言」としてではなく、あくまで合理的な「判断」としての未来予測である。にもかかわらず相浦は「敗戦必至」の戦争を、自らの義務として引き受け、海軍主計科短期現役士官を志願し、その義務を果たすことの中で24歳の前途ある身に死を課した。 その心理の過程は、近藤が後に言う「開戦となったからには愛する者のために命を捧げよう」という程単純ではなかったかも知れないが、相浦の中に内在する「愛と献身」という心理的なモチーフが、主計科志願の動機の根幹にあったことは想像に難くない。   7. 海軍主計科短期現役士官 当時の日本は、義務兵役制であり、帝国大学出身者といえども徴兵は猶予されていただけで、卒業すれば兵役に就かなければならなかった。検査に合格し徴兵されれば、通常は陸軍二等兵からそのキャリアを始めなければならない。そうした事情の中で、海軍主計科短期現役制度は、医学部出身者における軍医の場合などと同じく、大学の文科卒業生を採用と同時に海軍主計中尉に任官させ、経理学校での数ヶ月の教育を経てすぐに艦隊や省部に配属、勤務させるというもので、兵役に就く条件としては格別に優遇され、またそれだけに志願者も多かった。(倍率約25倍という) 相浦は、東京帝国大学法学部卒商工省に採用された当時の超エリートであり、兵役に就くとすれば、この制度に志願するに最もふさわしい人材の一人であった。 因みに、この制度に志願し採用された者の中には、後の内閣総理大臣中曽根康弘や、民社党委員長永末栄一をはじめ、戦後政界、官界、経済界などで重きを成した者が非常に多い。 また、相浦より少し前1941(昭和16)年1月、三菱銀行員から主計科短期現役士官に採用され、特設巡洋艦八海山丸の主計長として戦死した小泉信吉は、父である慶應義塾塾長小泉信三の著作「海軍主計大尉小泉信吉」の主人公として名高い。 ただし、これらのエリートの中でさらに優秀な者には、僅かだが「兵役に就かない」という選択も可能であった。相浦と武藏同期の宮澤喜一は、同時期に大蔵省事務官となり、同省から軍に対して「余人を以て代えがたい」と通知されることで兵役を免除されている。相浦にもその道がなかったとは言えないかも知れないが、同世代の大半の若者が兵役に就く中でそれを回避することは、たとえ「敗戦必至」の見通しを持っていたとしても、おそらく相浦忠雄の選ぶところではなかったのであろう。   8. カトリックの洗礼を受ける 相浦は、1942(昭和17)年5月16日カトリックの洗礼を受けた。この時期相浦はすでに海軍主計中尉に任官しており、受洗の日は、海軍経理学校を卒業し現場に配属される4日前であった。 3.で述べた如く相浦は武藏高校生の頃から、宗教に強く関心を持ち、今日から見れば、いかにも旧制高校生らしい観念論的な思惟としか思えないような思索に、深く沈潜した求道者であった。 思考の出発点は、良心の根拠。限りなく小さい存在である一個人が、ともすれば道から外れそうになる時、行く手を照らしてくれる「大きな者」の存在であったろうか。相浦の宗教的関心の対象は、次第に仏教からキリスト教、「悟り」から「愛と献身」へと移行していく。おそらくは相浦の中には、すでに予め心的なモチーフとして「良き行い」「他者への愛と献身」があり、それが思考の方向を次第にキリスト教の方向に向けていったのではないかと、想像される。また彼の敬愛する長姉相浦清子の存在も、直接に彼のカトリック入信に影響があったのではないかと考えられる。 いずれにしても、相浦のこの時期の受洗、カトリック入信は、「敗戦必至」を覚悟の出征を前にして、高校生時代からの彼の長い宗教的な思惟に「けじめ」を付ける意味があったものと推察される。   9. 雲鷹主計長の日記を読む ~精神を病んだ同僚の夫人への対応 相浦が遺したノートのうち、雲鷹主計長就任後の日記の前半部は、相浦が同期生を代表して、精神を病んだ同僚の夫人と交渉する記録に割かれている。この事実関係はかなり煩瑣なものなので、略述すると、病人は、彼の精神疾患の原因となるストレスをつくった伯父と夫婦養子の関係にあり、その夫人は夫の病が嵩じた後、義父との養子縁組の解消をめぐってトラブルとなっている、というのがおよその事情である。日記から読み取る限り、相浦は同期生たちから「お前しかいない」と言われて夫人のもとに遣わされ、どうやら、夫人と養父との復縁を勧めに行ったらしいのだが、その理由や前後の関係は必ずしも全部記載されておらずやや不明の点もある。 だが、そのこと自体は本稿の主題ではない。『遺稿集』のこの項から伝わってくるのは、相浦が、こうした難しいトラブルを抱えた友人の世話役として周囲から期待されていた、ということ(後述のサービサーとしての自覚にも通じる面がある)と、相浦がその夫人に向かって狷介な養父を「愛し許せ」と説くときの、殆どカトリックの司祭のごとき様態である。 相浦の友人のある者は、彼が戦死せず復員したとしても、必ずしも行政官や政治の道は全うせずどこかで教育や宗教の道に行ったのではないかとも言っているが、この精神を病んだ同僚の夫人への対応は、相浦がこうした評価を得るようになった生前の行動の一つとして数えることができるだろう。 ~「日本の兵科士官」という気負い 1944(昭和19)年5月9日、相浦は戦地から帰還した友人達を迎えて開催された、主計科短期現役8期、9期10期合同のクラス会に参加。その時の感想が日記に記載されている。 ・・・・・ クラス会の成長そしてこれがやがて8期、9期、10期と繋がってやがて十年、二十年後に実を結び我国の充実せる発展の素地をなしてくれるようにと祈りてやまず。 補修科学生出身の主計科士官は、なる程海軍にてはまさに単なる主計科士官かも知れない。併し我々は背後に単なる海軍のみに非ず、我が皇国を担負って居るのである。 海軍兵学校出身者が、海軍の兵科将校として全海軍の中軸であるならば、補修科学生出身者と陸軍における一部の優秀者とは、正に相提携して日本の兵科将校として、全日本の中軸として働かなければならぬ人物なのである(*4)。 ・・・・・ 相浦にしてはやや珍しい、エリート意識を飾らずに述べている記載である。だが、相浦自身は置くとしても、主計科短期現役士官は、真に敗戦後の日本を担う中軸の人材として、一人でも多く生きさせたいと相浦が強く願っていたことがよく分かる記述でもある。このことは、戦死直前の雲鷹における土田国保との会話にも現れている。 ~サービサーとしての自覚 1944(昭和19)年5月13日、相浦は、目黒海仁会病院に、盲腸炎で入院している友人A(主計科同期と思われる)を見舞った。その時の会話と感想が日記に記されている。 ・・・・・ A 「実際貴様は看護の妙を心得とる。看護人最適だ」 相浦 「そうだな。しかし看護だけじゃないぞ。俺にホテルのボーイや御用聞きをさせたら、世界一のボーイや御用聞きになるぞ、きっと。又実際、ホテルのボーイをやろうと思ったこともあるんだ。大学1年の時に。そしてその為に髪迄伸ばして準備しとったら、案外アメリカに行くのに役立ったりしてね。到頭やらなかったけれども。」 看護、給仕、然り、余は終生それに甘んじ否その使命と役割をむしろ光栄として大切にして行くであろう。余の進み方は先頭に立ってついて来れと率いるのでもなく、是が非でもこれをやれと命令するのでもない。統帥の器は余の薄弱な意志と弱気を以てしては極めて乏しい。余は家庭に、学級に、学校に朋輩にさらに部下にも寧ろ看護人、給仕人たる心持ちであったようだし、将来も亦そうであろう。やがて我国全般の為の看護人となることがあるかも知れぬ。その時は上御一人の最も忠良なる臣民たると共に、最も卑賤の名も知れざる一小国民の為にも余はその給仕たり看護人たらねばならぬ(*5)。 ・・・・・ このサービスへの自覚は、相浦の短い人生を特徴付ける一本の筋でもあり、商工省の官吏たる職業意識でもあったのではないか。戦死の時の相浦の行動を考える上においても、相浦の持っていた「看護人、給仕人」としての自覚はきわめて重要な要素となっていると思われる。 ~童貞感覚 この時代の24歳と、21世紀の24歳の間を最も隔てている感覚の一つは、性に対するものである。相浦忠雄は、同時代の学徒出陣で兵営に入った人々と比較しても、並外れて女性に対して純粋な感性を持っていたし、おそらくは童貞のまま戦死したのではないかと想像される。以下は戦死二か月程前の相浦の日記の記述である。 ・・・・・ 1944(昭和19)年7月2日、3日 午後上陸して横浜に行く。~中略~ 横浜雪見橋際掃部山下の松の家電横浜(3)5542通いも三度を重ね、始め偶然に来れる角兵衛(角チャン)ことG子(西区・・・・方)と褥を共にするも三夜となる。6月21日、見送らむとて洋装に着換え山手の教会より桜木町迄従ひ来れる彼女は22日は部屋に入るや、縋りつきヨーコソとそして三度目の2日は休養中を出て来て掃部山を歩きそして3日の朝は「角ちゃんは泣かないことにしてゐるの」とて涙も見せざりしその眼にキラリ赤く熱く潤みを帯ばせて「つまんないの」とそして横浜駅横須賀線プラットフォーム迄も送り来る。貴重の林檎や、バターをつけたパンの御馳走(22日)に、又態々アルバムよりハガしての心籠めての肖像写真の贈物に、そして、未だ失はぬ羞恥を捨てて縋りつき顔を埋める女らしい仕草の内に、又時折の喜びに輝く眼とそれにつづく怨めし気の自嘲とと悲哀を湛える瞳に、不運を生まれながらに荷負ひつつもそれに打克とう努めつつ明るく諦めを持って生きて行こうとする単純な教養乏しき、しかしいぢらしき女の心を見る。彼女の上に多幸あれ。 三夜を共にしつつあれ程にも彼女の腕を、胸を腰を掻き抱き愛撫しつつ、結局は身体の関係を結ぶこともなく別れて了ふに到ったのも一つには我が生命なる息子達娘達の性をあだ、おろそかに頒かち難く罪を恐れたにもよれど、亦彼女の顔、瞳の上にやがてまともの結婚により幸ひの道を行く可能性ある心を見得た為でもあらう。それにしても母上の「病気にならぬように」の御注意はさることとして、姉上の「心を奪はぬやうに気をつけて上げなくては悪い」との御言葉、ああこれこそ真にその身体を愛せずその心を愛する切なき真人の道徳であるべきに余は背きたるに非ざるか、忙しがはしく入り交り立ち交る男達に弄ばれて余を忘るること幸いなれば忘らしめ給えへ。また若し、その財布の内にひそめし徒書の署名(松寿老人)と今宵奪われし名刺との記憶が彼女の心の幸ひに役立つものならば永く留まって慰めと励ましを注ぎ男に対する一脈の信頼を繋がしめ給へ。~後略~(*6)。 ・・・・・ 21世紀の価値観からすれば、「何なんだこれは」とやや違和感を持たざるを得ない記述であるが、第二次世界大戦時のひとりのナイーヴな若年海軍士官の心事として、ありのままをここに採録した。 また、このノートにG子の電話番号、住所等をかなり精細に遺しているのも、戦死後周囲の誰彼に思いを寄せた相手がいたことを知ってほしいとの相浦の潜在的な意識の為せる業であったと考えてもよいかもしれない。 ~生死、揺れる思い 以下は1944(昭和19)年7月14日の日記の記述である。 ・・・・・ 俺は帰らねばならない、余は人々が予期しない不幸に動天狼狽するを見るに忍びない。それを防ぐに必要な手段をのいくつかを、そしてそれを実施すべき時機を知っていたにも拘わらず、施す術もなくなす事なかりし罪をはずるが故にそれを見るに忍びない。しかしそういう時期こそ神は、そして我々の最上の天子様は余を必要とされるのだ。これは自惚れであろうか、この使命の予感は虚像であろうか、若しそうならば嘗て予感せる如く余は二十五歳の一生を終わらぬ内に召されるであろう。それで何とて悔いの残ることがあろう。それ程短い一生は恵まれた申し分のない人の生命の秘奥を開示されたよい一生であった。総てに感謝を捧げ得るよい一生であった。・・中略・・ 余にはあらゆる困難と混乱の内からこの事態を収拾し、多くの人々に恩恵を相頒つべき、苦しい、しかし重い使命が課せられているのではないか。若し許される事ならば、斯くも大きな重い使命の十字架を免除して、あの清い懐かしい豊かな恋の故郷(?)なる太平洋の底に永久に眠らしめ給え。又若しこの十字架が御命ならばそれを背負い完遂すべく意志と才能との力を授け給え。 ・・・・・ かつて太平洋上での戦死を夢見、充実した人生であった事まで回顧していた相浦が、ここでは、戦後の混乱する日本の事態を収拾する責務が己に課されているのではないかと自問する姿がある。 そして、後者の方がより苦しい使命であるとも述べている。この頃、相浦の透徹した見通しが、戦後日本の混乱と再建を予測していたということなのであろう。いずれにしても、戦場での生死は自己の意志や努力を超えたところにある。透徹した見通しを持つ相浦といえども、自己の戦場での運命を予測する事は出来なかった。   10. 沈没前夜 1944(昭和19)年9月6日、日本占領下のシンガポール、セレター軍港に一隻の航空母艦が入港してきた。航空母艦雲鷹である。雲鷹は日本郵船の豪華客船八幡丸を改造した空母だったが、第一線の機動部隊と行動を共にするには、やや鈍足で、主に航空機輸送の任務に就いていた。 この年8月雲鷹は正式に第1海上護衛部隊に編入され、巡洋艦香椎以下のヒ73船団に同行して、この日護衛空母としての初の任務を果たし、シンガポールに入港してきたのであった。 艦長は木村行蔵大佐、主計長は相浦忠雄主計大尉であった。 土田国保(東京高校、東京帝国大学法学部卒、内務省、主計科短期現役第10期、後に警視総監、防衛大学校校長)は、戦艦武蔵に勤務していたが、東京の海軍経理学校に転勤の命令を受けて、帰国のため便乗する艦船を求めているところであった。土田が便乗を求めて雲鷹を訪ねてみると、主計長は旧知の相浦で、二人は思わぬ邂逅を喜び合い、相浦は土田の雲鷹便乗を快諾した。   ↑ 航空母艦雲鷹。左には、大和型戦艦や金剛型戦艦の姿も見える。 雲鷹は、引き続き本土に必要な軍需物資を運ぶヒ74船団に同行し、9月11日セレター軍港を出航した。以下は、1988(昭和63年)3月、雑誌「水交」第406号に掲載された土田の回想である。 ・・・・・ 出港直後から、アメリカ潜水艦の偵察無線報告が傍受されたという噂が、便乗組の我々の間にも伝えられ、兵科の若手士官は便乗組でも交代で、飛行甲板上に点在する見張りの臨時指揮官となり、私も乗艦中は、相浦主計長から、戦闘記録作業の指揮官(同艦庶務主任病気中のため)を命ぜられた。“合戦準備夜戦ニ備ヘ”の毎夕のラッパの後は、夜毎、“配置二付ケ”の令に緊張を重ねる日々であった。・・中略・・ 9月15日になった。敵潜水艦のホノルル宛緊急信が判然と傍受され、当然ながら、前面海域での待ち伏せが予想される事態となった。15日は無事。高雄に近接していく16日の夜あたりが一番の山場と、誰もが予想していた。 館内の便乗士官の溜まり場に居た私に、相浦主計長から呼び出しがあった。9月16日午後3時頃である。入室すると“高雄入港が迫った。入港すれば、君たち便乗士官は退艦となるかも知れないから、今日はゆっくり話をしたい”とのことであった。それから夕食の時迄居て、夜また出掛けた。・・中略・・ “大東亜戦争開戦のあの12月8日、私(相浦)は東大の図書館に居たが、ラジオ放送を聞いてから屋上にのぼって、じっと東の方を望みながら、沁じみと大変なことになったと思った。私は高柳賢三先生の引率の下に日米交換学生として米国に渡った経験から、彼等はその物量と技術にものを言わせて、やがて我が国を滅ぼしてしまうに違いないと考えている。この卓上の洋書を見給え。これはアメリカの技術の本だ。私は海軍省人事局に勤務した関係から、同省の上司上官からもいろいろ耳にしていたが、今やサイパンを襲ったあとの敵は、これから比島方面に来襲し、そして沖縄を攻めてから中国大陸に渡り、西と南の両面から内地を攻めるであろう。そしておそらく来年の今頃(昭和20年9月頃)迄には、東京は米国の兵隊で充満しているに違いない。日本人か外国人か、わけのわからぬ子が沢山出来る。この期になっては、いかにして民族の生存を保つかが残された問題なのだ。この艦はこれから君達を降ろしてから、比島方面に向かって出撃することになっている。おとり艦として、撃沈される運命なのだ。私は志願してこの艦に乗り込んできた。私は艦と運命を共にする覚悟だが、君はこれから内地に帰って我が国行く末を見守ってくれ給え” 相浦さんは、その夜、以上のような内容のことを繰り返し、繰り返し、私(土田)に説いて聞かせたのであった(*7)。 ・・・・・ 11. 雲鷹沈没 ↑ 上空から撮影した、航空機輸送中の航空母艦雲鷹。   土田国保の回想続く。 ・・・・・ そして真夜中となった。この調子では今夜もなんとかうまくゆくのではないか思っていた矢先のことである。突如ドーンという爆発音が身近に聞こえた。本艦ではない。爆雷音でもない。僚艦に魚雷命中と直覚した同時に、“配置ニ付ケ”。主計長室を飛び出し、中甲板を艦橋に向かって駈け出して20米、轟音、激動!そして又一発。下からは異常なる煙!・・中略・・ さて、相浦さんである。一度部屋にとって返し、自らの戦闘服装を完全に整えて戻って来て、携行してきた自らの救命胴衣を、私によこしたのである。“是ヲ持ッテ居レ、俺ハ良イカラ”。 当時、空母雲鷹は、日本郵船“八幡丸”の改造空母であったことから、乗組員はコルク製の救命胴衣を所持していた。然し我々便乗者迄には配給はなかった。当日の海面は、後刻救助してくれた海防艦のスクリューが、折々ガラガラと空中で音を立てる位の荒天であったので、ひ弱な身体の相浦さんでは30分と持たない位だったろうと、後になって思った程であった。私も正直のところ、命は惜しい。理屈になるけれども、私自身の任務は、生きて内地に帰ることである。然し、“ハイ有難ウゴザイマス”では、なんと言っても男がすたる。・・中略・・私は何回も相浦主計長に“私ハ大丈夫デス。要リマセンカラ”とかなんとか言って渡そうとしたがその都度拒否されてしまったので、艦橋の隅に置いておいて、明け方になってから付添の主計兵に、イザという時、必ず着せて差し上げるようにと言って、渡しておいた。・・中略・・ 図らずも愛知県知多市知多町の関徳男氏(当時主計科庶務係)が主計長の最後の模様を目撃しておられると伺ったので、雲鷹沈没後36年の歳月を経た、昭和55年4月同氏の御宅を訪問し、直接御話を伺う機会を得た。関徳男氏は次のごとく語られた。 艦が沈む時の私(関)は、戦闘記録作製の当番勤務で、艦橋の中に居た。前任者との交代は午前6時頃だったと思う。そのあと、ずっと相浦主計長と行動を共にした。艦長は、副長に、下に行って補強箇所の状況を見に行くように指示された。副長は降りて行かれたが、やがて帰って来られて、“最早補強は全然駄目です”と報告された。艦長は榊原鉦松従兵兼伝令に命じ“総員集合上甲板”を下達され、榊原氏は艦橋右舷から外に飛び出して行った。副長も出て行かれた。艦長は、残っている主計長に傾斜の度合を示す計器の目盛りを何回も訊かれ、その都度主計長は報告しておられた。その後は艦長も主計長も無言のまま。艦長は羅針盤を背にして、洋刀を持って直立され、主計長は、海図台の前に、戦闘服装に軍刀をついて、前方をじっと眺めて直立されていた。その間は5分くらいだったと思うが、1時間も長く感じられた。(土田註、雲鷹戦闘詳報の記すところによれば、“総員上れ”の下令は0748、沈没は0755となっている) 突如主計長が叫んだ。“関!出ろ!” 私(関)は戦闘記録の用紙をとっさに胸ポケットに入れて、艦橋左舷から飛び出した。・・中略・・私が上甲板に到達するかしないかに、艦は後部からどんどん沈み、私も渦の中に巻き込まれてしまった。艦橋における木村艦長と、相浦主計長の姿は、神そのもののごとくでありました(*8)。 ・・・・・   12.主計長の救命胴衣 土田国保の回想続く。 ・・・・・ ところで、相浦さんの救命胴衣はどうなったのであろうか?この回答は、42年の歳月を経た昭和62年1月になって私(土田)の手元に飛び込んで来たのである。・・中略・・当時士官烹炊所に一等主計兵として勤務され現在名古屋市にご健在の柴田鈴嘉氏からの御手紙によってであった。それによれば被雷後、夜明けと共に主計兵長の人と御本人(柴田)の二人で、主計科事務室に総員名簿を取りに艦内に入り、乾パンとサイダー便も抱えて艦橋に上り、主計長に総員名簿と持参の糧食を届け、“柴田一主、帰ります”と申告したところ、“おまえは水泳不能者だったなあ、これを持ってゆけ”と士官用マークの入った救命胴衣を差し出された。兵の私が、とためらう柴田氏に、主計長は“早く持って行け”と言われて、有難くいただき、その救命胴衣のお陰で、命を全うすることが出来たとのことである(*9)。 ・・・・・ これを要するに、相浦は雲鷹被雷に際して、自分の救命胴衣を、初めは便乗者である土田主計少尉に、土田に辞退されると後に水泳不能者の柴田一等主計兵に譲り、柴田一主は、この救命胴衣によって命をながらえることが出来たということになる。当時軍艦の戦没に際して、艦長が艦と運命を共にするのは、謂わば、海軍の慣行であったが、主計長が必ず艦橋に残らなければならないという慣行はなかった。相浦が艦と運命を共にすることを選んだのは、何故だったのであろうか。   結び さて、相浦の戦死をめぐって、いくつか彼の心事を考えてみたい。 まず、救命胴衣を他者に譲った行為について。 既に本稿において取り上げてきた「サービサーとしての自覚」「愛と献身」という心的なモチーフが、相浦をして救命胴衣を他者に譲るという行いを為さしめたことは明らかであろう。これら心情は、おそらく相浦の高校生時代からの思惟やカトリック入信などよりも前に、相浦家の家庭で、両親の躾の中で自然と育まれたものと考えられる。相浦の場合、「よき行い」「あるべき行動」の倫理感の方が先にあって、それを裏付けるために哲学的、宗教的思惟に沈潜し、ついにカトリックの信仰に到達したのではないかと考えられる。さらに、既に相浦は、便乗者土田に救命胴衣を譲ろうとした時点で、「艦と運命を共にする」ことを覚悟していて、救命胴衣は彼にとって不要のものであったとも考えられる。 次に、カトリックの教義と「艦と運命を共にする」覚悟について。 相浦の戦死の様相から、沈没に際して彼が進んで艦橋に残り、「艦と運命を共にする」ことを選択したのはほぼ明らかである。しかし、主計長が必ず艦橋に残らなければならないという慣行はなかった。「艦と運命を共にする」ことは相浦の主体的な選択であった。 一方で、カトリックの信仰は自殺を禁じている。古くは、関ヶ原合戦の前に、西軍の人質となって大阪城に入る事を拒んだ細川ガラシアが、キリシタン故に自害を選ばず、(形式的ではあるが)家臣に座敷の外から自らを刺殺させた話は有名である。相浦の「艦と運命を共にする」行為は、カトリックの教義上の自殺に当たらないのか、あるいは救命胴衣を他者に譲った行為は「愛と献身」として正当化されうるとしても、相浦は艦橋を出て、及ばずとも泳ぐべきではなかったのか。 これについて、相浦が書き残したノートから、あるいは土田らの証言から想像しうる相浦の心事は、「自分は志願して雲鷹に乗艦してきたのだから、艦と運命を共にする」というものである。雲鷹主計長の前の相浦の軍歴は、海軍省人事局勤務、海軍経理学校庶務主任、分隊士など内地勤務ばかりであり、武蔵同期の宮澤ほど明示ではないにしても、海軍の人事によって選別され、内地に残されたと解釈しうるものであった。相浦はおそらくこれを潔しとせず、敢えて「第一線熱烈志望」の声を上げて雲鷹に配置されたとされている(*10)。「敗戦必至」の透徹した認識を持ち、敗戦後日本再建の責任まで引き受ける事をも考えていた相浦が、一方では敢えて戦場に自らの身を捧げる覚悟を持って、第一線を熱烈志願したのは、自分と同世代の若者達が多数戦場に倒れて行く中で、自らが殊更に優遇されているのではないかという疑いに耐えられなかったからではないか。これもおそらく、哲学的宗教的思惟や信仰の以前に、相浦家の家庭で、両親の躾の中で自然と育まれた、彼の倫理感ではなかったのだろうか。 最後に、小泉信吉との比較。 以下は少し本稿筆者の独断になるかもしれないが、小泉信三著「海軍主計大尉小泉信吉」を読み、『相浦忠雄遺稿集』を読むと、二人の個性(小泉は明るい慶應ボーイ、相浦は武蔵―帝大の一つの典型である深く思索に沈むタイプ(*11))を超えて、微かだが社会階層的な、あるいは出身家庭による差異があることに気づかされる。それは、封建時代で言えば、同じ武士階級の上士と下士程度の僅かな差異に過ぎないのだが、二人の家庭が育んだモラールには、やはり少しだけの違いがあるようだ。 小泉の家庭は、いわば近代社会におけるブルジョア階級であり、経済的にはきわめて恵まれていた。「海軍主計大尉小泉信吉」の中で、信吉が訪ねる叔母の嫁ぎ先安川家は、相浦の父の勤務先、明治鉱業のオーナー、炭鉱主である。一方相浦は炭鉱の社宅で生まれたホワイトカラーの出身。昭和になって、東京で言えば山手線のターミナル(池袋、新宿、渋谷など)から西に延びる郊外電車の駅近くに住宅を持ち、いわゆる労働者、農民階級からは一線を画すが、資本家階級でもない、新しい中産階級、サラリーマン階層が相浦の立ち位置である。(相浦家は吉祥寺に居を構えた) この時代、前者の中で良質な人々は、いわゆるNoble’s obligeの倫理感で戦争に参加していった。個々の政府施策への批判は置いても、戦争は彼らの戦争であり、守るべき国家は彼ら自身のものであった。第一次世界大戦に於いて、英国のパブリックスクール出身者が、塹壕を飛び出し、ラグビーボールを敵陣に蹴り上げて、部下に先んじて突撃していった(*12)ような、スポーツ感覚とユーモアが、小泉信吉のとくに巡洋艦那智勤務時代の日記や書簡からは読み取れる。 一方後者、山の手サラリーマン階級の倫理感は、この階層が子弟に与えた深い教養に根ざしている。本稿筆者は、吉野源三郎「君たちはどう生きるか」の主人公コペル君と叔父さんとの会話、手紙のやりとりの中に、相浦や当時の武蔵生達の与えられた教養や、育まれた倫理感を見ることが出来るような気がしている。便乗者や水泳不能者に、「オイ」と軽い調子で救命胴衣を譲って、自らは艦橋に残るという、雲鷹沈没時の相浦の行為の背景には、昭和期になって新しく勃興してきた勤め人階層の、深い教養に裏打ちされた「コモンセンス」の文化があったのではないだろうか。   注 *1 『相浦忠雄遺稿集』岩波書店、3~4頁 *2 皇紀を用いている。 *3 近藤道生「私の履歴書」日本経済新聞2009(平成21)年4月1日、第1回 *4 『相浦忠雄遺稿集』142頁 *5 同上書、148頁 *6 同上書、250頁 *7 土田国保「相浦忠雄主計少佐の最後」雑誌『水交』第406号、1988(昭和63年)3月 *8 同上 *9 同上 *10 近藤道生「私の履歴書」日本経済新聞2009(平成21)年4月1日、第1回 *11 日米学生会議で渡米の折、船内で相浦に「好かれた」と主張しているある女性は、彼のことを「なんだかモッサリしていた」と述べていたという。 *12 池田潔『自由と規律』岩波新書   ↑ 旧武蔵高等学校校舎(現在の大学3号館)横での旧制武蔵高等学校11期生の集合写真。1933年~1939年の間の撮影と思われる。相浦忠雄は前列の左から3人目で、右足を階段のふちにかけ、膝の上に右手を置いている。なお、右から7人目は、第78代総理大臣となった宮澤喜一。この写真は、生物学研究室に保管されていたガラス乾板を復元・現像して電子化した。
2018.12.13
校名『武蔵』のこと
【武蔵学園記念室より:以下の文章は、故大坪秀二氏(高校16期・元武蔵高等学校・中学校校長)が生前、「特別読みもの 武蔵七十年史余話」の一つとして、『同窓会会報』第40号(1998年11月20日)に寄稿されたものである。】 ↑ 設立当時の文部省事務官であった本間則忠がまとめたと推定される、「武蔵と名付けたる事由」の冒頭部分。全文と注釈が、武蔵学園記念室発行の『武蔵学園史年報・創刊号』(1995年)に収録されている。  前号に三理想の成立過程のことを書かせていただきました【編者注:『同窓会会報』第39号に著者が「三理想の成立過程を追う」を寄稿されたことを指す。「三理想の成立過程を追う」は、当ホームページ紀伝編コーナーにも全文収録されている】。  多くの方から読後感を寄せていただき感謝しております。図にのって今年も、まともな史料集には載せられない、しかし、私にはかなり真実らしく思える物語として、「校名が武蔵と名付けられた経緯」を発表させていただきます。なお、文中、創立者根津翁、創立以来武蔵を育て上げた山本先生、その他全ての人々の敬称を省略しました。なにとぞご了承下さい。   ◆「東京」を譲って「武蔵」になった  これまで、『武蔵七十年史』・『武蔵七十年のあゆみ』その他に書かれているとおり、財団法人根津育英会の設立申請は1921(大正10)年7月25日、同財団の事業としての七年制高等学校の設置認可申請は同年7月27日で、申請書にある校名は『東京高等学校』でした。『武蔵七十年史』(写真集)には、この部分の写真が載せられています。育英事業を始めることを根津嘉一郎(先代)に勧誘し、その実現まで根津の手足となって働き、学校の開設準備万般の実行役を引き受けていた本間則忠の記録(『学園史年報創刊号』、55ページ)によれば、学校設置申請の直後に文部省から、東京に国が作る予定の第21高等学校(はじめ三年制で作る予定を、大正九年に七年制に計画変更)に『東京高等学校』の名を譲ることを求められ、急遽新校名『武蔵』について関係諸氏の賛成を取り付けた上で変更決定したものとあり、「名称については深遠なる典故を有す」と付け加えられています。本間が書き残した『本校創立事情記録』の中の「校名を武蔵と名けたる事由」は、『武蔵五十年のあゆみ』(1972年刊行)に初めて紹介されて以来、同窓生・在校生の多くの人々にとってなじみ多いものとなっていることと思いますが、本稿を読んでいただく便宜のために以下に引用します。  一、学校の設立せられたる国名に因みたり。即ち此の学校の位置が武蔵国に在るが故なり。而して群町村の名に拘泥せざりしは、古来世に広く知られ、且尊き記録を有する国名を採るに若かざるを以てなり。  二、学校の設立せられたる歳に因みたり。即ち此の歳には世界の大戦漸く戢まり、新たに平和条約の締結を見たり。依て戢武崇文の義解に随ひ武蔵と名けたり。  三、学校訓育の要義に因みたり。即ち武蔵の往古には万葉仮名にて兂邪志と書かれたり。然るに人として邪志を有せざることは人格向上の基礎にして、学校訓育の要義に他ならざるを以て採りて校名と為したり。   ◆旧制時代の伝承  なお、この校名変更の一幕は前述の通り大正十年八月中のことで、創立以来武蔵の中心人物となった山本良吉教頭(後に校長)が開校準備に関係する以前だったわけです。その山本によって、この校名変更の経緯が生徒に語られた記録は、私の探し得た限りでは『校友会誌34号』(昭和12年6月) にある「開校十五周年記念式山本校長式辞」だけで、それには次のように書かれています。 「大正七年[筆者注: 十年の誤り] に愈々本校を造る時には『東京高等学校』の名前で出願したのであるが、文部省の方でその名を欲しいといふので、東京よりは少し広い武蔵高等学校としたのであります、その時に日本高等学校とでもしたならばもっと広かったのですが。」  いま読むと、これはかなり皮肉をこめた表現のようにも思われます。同様な話は、折にふれて、山本はじめ何人かから繰り返されたのでしょう。旧制時代の多くの人が記憶しているようです。生徒の一人としてこの話を聞いた私の記憶には、「東京より武蔵の方が大きい」という山本校長の一言だけが鮮明に残っています。そして「大きいだけか」という、何か割り切れない思いが残ったことも確かでした。   ◆本間則忠は知っていた  校名変更の話は、一見単純な瑣事でした。三年ほど前に思い立って、七年制高校誕生を導いた大正六〜七年の臨時教育会議の詳細を調べはじめて間もないころ、これまで当然気が付いていてよかった筈の一事にはたと思いが及んで、校名武蔵のことを私は再考してみる気になったのです。そして、校名の由来をつくづく読み返すうちに、その第二項をこれまで全く迂闊に流し読みしてきたことに思い至りました。大正七年の新高等学校令で従来の第一から第八までの高等学校に加え新設されることになった高等学校には、新潟・松本・山口・松山……のように、設置する都市の名を冠する習慣が出来て、後にナンバー校に対し地名校と呼ばれるようになったのはよく知られています。そして、第21番目に設置を予定された高校は東京に作られるものですから、当然それは『東京高等学校』と呼ばれるのが当事者間では自明のことだったでしょう。本間則忠は文部省事務官として当事者側の一人でもあったわけです。その本間が殆ど一人で切り盛りした「根津家設立の学校」の名にわざわざ『東京高等学校』と書いて出すことの裏には、何か理由がないはずがないということに、今更ながら気がついたというわけです。   ◆武蔵命名はヴェルサイユ条約の年!?  これから先のことは私の推理でしかなく、状況証拠以外のものは今のところ皆無です。本間は官立の21高校が東京高校になることを知っていた筈です。だから、根津が設立する七年制高校の名前を考えるときには、当然『東京』以外の名を選んだでしょう。そして、本間と根津との間に校名の相談があったのは、七年制高校創設について関係者の合意が出来たごく初期の段階(おそらく大正八年末か九年)であることを暗示するのが、上に引用した「校名由来」の第二項だというのが、私の推測です。学校設立の年は大正十年で、大戦終結・条約締結の大正八年ではありません。 これを本間の思い違い、書き違いと言ってしまえばそれまでです。しかし、この時代に生きた人々が二年もの間違いをするでしょうか。事実、本間が書き残したもう一つの文書(『学園史年報第一号』61ページ) には、「時は正に世界大戦の後を亨け、今や平和条約の央に属す。戢武崇文を以てこの学校の名となすこと、たまたま以て創立の歳を紀するの便も亦鮮からざるなり」ともあり、より明確に大正八年を指しています。これらの文章から見ると、「学校の設立せられたる歳」とは、学校設立がはっきりと第一歩を踏み出した年と解釈できるのではないでしょうか。構想の初めからの二人(根津と本間)にとって、心の中に温めていた新事業がしかるべき後援者を得て動き始めた年(大正八年)こそ、記録すべき年だっただろうと思います。しかも、その時新制度「七年制高等学校」を国が設立する計画は難航し、五里霧中の状況でした。此の状況を傍らに見つつ、二人は「我等こそ新制度の先駆者」との思いが強かったことでしょう。   ◆文部省には貸しがあった  しかし、文部畑に長くいた本間は、此の国の官民の格差がどれほどのものかを熟知していました。そもそも、七年制高校は新高等学校令で高等学校の正規の姿として定められながら、国としてこれを実現する意図はもともとなかったようです。根津家の企てや甲南中学の七年制への移行計画などが文部省を揺さぶって、やっと一校だけ官立で作る決定はしたものの、その具体化は前述のように五里霧中でした。そんな事情があるのにその後の進行では、後発の官立七年制高校が全ての面において根津の私立高校に一歩を先んじる形の措置がとられています。学校の設置/設立認可の時期、校長の任命/就任認可の時期、開校日、そして、武蔵が一年生のみ募集したのに対して官立は一、二年生を同時募集して一年早く卒業生を出すなど、今の目で見るとき幼児のような優越心の表明らしいものさえあります。そのことを知りつくしていた本間にとって、ひとつだけ出来る悪戯は「校名の先取り」だったのではないでしょうか。『武蔵』という校名は、とうに根津との間に決定ずみであったにも拘わらず敢て伏せておいて、設立認可申請には文部省予定の『東京高校』で出す。「国も一度くらいは先駆者の根津育英会に頭を下げたらどうだ」と!本間の記録には、文部省からの要請により(校名につき)更に研究を重ね、急速の間、本間案を逗子滞在中の平田総裁の邸を始め各評議員邸を持ち回り云々とあります。根津・宮島・正田・本間の四人の相談について一言の言及もないのは、その部分が校名決定の核心に触れるから敢えて避けたのではないでしょうか。   ◆熱い思いと冷めた思い  根津や本間が校名にこめた思想をあらためて要約してみると、それらは、古代伝説も含めた武蔵の国への愛着、平和主義、邪志なき誠意の三つであり、全体を一括して武蔵の国という名と実への愛情が読みとれます。殆どが文字の上の遊びとはいえ、新設校への根津とその周辺の思い入れを表していたと思われます。本間が山形県の出であることを除くと、宮島は栃木県、正田は群馬県出身で、大きく言って皆「東国」の人達です。根津自身は山梨県人ですが、幕藩時代から甲斐は江戸と直結の地ですから、創立に関わった根津側の四人が、東国の中心である武蔵の国という名に西の人間よりも大きい愛着を持ったであろうことは推測できます。別の資料から見ても、根津は会津の白虎隊顕彰碑建立に私財を寄付したり、創立後の武蔵に御真影奉安殿を造るという学校側の提案を理事長決定で凍結したりで(『学園史年報第三号』185ぺージ)、政治思想として明治新政府を好まなかったらしい節が見えます。この側面から見ても、もし、「東京」か「武蔵」かと並べたとしたら、殆ど確実に「武蔵」が選ばれただろうと思うのです。  創立後の武蔵には、このような思想は継承されませんでした。それは、山本教頭の思想との齟齬に起因すると思われます。『晁水先生遺稿集』(正続)、『校友会誌』などに残る山本の話を検討してみると、平和主義に関するものは殆ど見あたりません。自由主義についても、青年期のことは別とすれば、かなり否定的な見解を持っていたようです。大正デモクラシーを特徴づけた自由主義教育などは、山本から見れば「先年初等教育界に盛んに行われた一弊風」であったらしく見えます(山本良吉『若い教師へ』大正十一年刊行)。山本は金沢に生まれ、京都での生活が長く、基本的に京都文化圏に浸って過ごした人です。彼にとって「武蔵」という名に特別の思いはなかったでしょう。しかし、山本は本間の残した『本校創立事情記録』を読んでいました。読んではいても、根津・本間の気持ちに共感を持たなかった山本は、言葉の上でのこじつけのような「校名の由来」を尊重する気にならなかったのでしょう。   ◆武蔵は初めから武蔵  以上、推測で固めた私の小論を、同窓各位はどう読んで下さったでしょうか。どうせ証拠はないことで、ただ、それらしい状況があるだけです。それなら、「武蔵は初めから武蔵であったらしい」ということ、そして、武蔵創立に関わった人達は武蔵野の大地とそこに結びつけられた古代の伝承を愛し、人間のまっすぐな誠実を愛し、大戦の後に漸く手にした平和を心から喜んだ人々であったという推理を真に受ける方が素敵ではないでしょうか。そして、武蔵の歴史を読むときに、創立者根津嘉一郎の社会貢献の志とともに、校名『武蔵』にこめた創業者たちの思想にも思いを馳せて頂けたらというのが、実り少ない史料あさりを懲りもせずに続けている私の些か厚かましい願いでもあります。 (筆者より:七年制高等学校を制度の中心に置いた大正七年の新高等学校令の成立や、それを審議した臨時教育会識の全体像については、日本の教育史上の重要事としてより詳細に論じる必要がありますし、資料も沢山あります。しかし、本稿ではそれらを一切省略しました)   ↑ 建設中の武蔵高等学校校舎(現在の大学3号館)  
2018.12.13
三理想の成立過程を追う
【武蔵学園記念室より:以下の文章は、故大坪秀二氏(高校16期・元武蔵高等学校・中学校校長)が生前、「特別読みもの 武蔵七十年史余話」の一つとして、『同窓会会報』第39号(1997年11月30日)に寄稿されたものである。】 ↑ 武蔵高等学校(旧制)校舎前における一木喜徳郎校長(左)と山本良吉教頭(右)   ◆創立の時、いまの三理想はなかった!?  初代教頭・三代校長山本良吉先生の手になる『武蔵高等学校歴史』(いわゆる六年史)には、1922年4月17日の第1回入学式に一木喜徳郎校長が「本校の成立、使命および三理想について式辞を述べた」とあり、三理想の原型、「東西文化融合のわが民族使命を遂行し得ベき人物を造ること。世界に雄飛するにたへる人物を造ること。自ら調べ自ら考える力を養うこと。」(あとで『第2の原型』と呼ぶ)が記されています。三理想がどのように発想されたかについては一木・山本両先生の後日の証言があり、お二人の合作であるらしく推測されますが、その時代のなまの史料としては創立の前年5月、根津家の公式発表での一木先生の談話(武蔵学園記念室の年報創刊号に収録、当時の各新聞社の記事でも裏付けられる)と、入学式3日前の教師会における校長の訓辞原稿(『武蔵七十年史』15ぺージ。筆跡は山本先生のものと推測される)とがあります。後者は冒頭に「正義を重んじ真理を愛し、自ら理解考究する能力を有し、将来世界に活動し得る体力を有す」とあり、これが三理想の『第1の原型」でしょう。しかし、七十年史編集の時の私は、この史料をみていながら、この原型が僅か3日後に六年史に記録されている『第2の原型』ととり換った不思議さを、とくに感じることなしに過ごしました。初めて「おやっ?」と思ったのは、その後、山本先生の原稿集(製本されて何冊にも分かれている)の初めの一冊に、製本洩れになって、はさまっている5枚の談話原稿を読んだときです。それは1924(大正13)年4月8日の教師会のためのもので、新学年を迎えるにあたっての各教師の心得を詳細に説いた最後に「本校に於いては、真理を愛し、正義を重んじ、将来世界に活動し得る人物を造るを主としたく教授も仕附(しつけ)もすべて之を目安としたし」とあるのです。  つまり、創立初年に一木校長が話された「第1の」原型は、少なくとも2年後まで生きていたことになります。この時から、三理想成立に関する私の史料あさりが始まりました。実は、この草稿は『晁水先生遺稿』の327ページに載っていますので、読んだ方は多いと思うのですが、一木校長の訓辞と結びつけた人は多分ないでしょう。『一木訓辞』は『武蔵七十年史』で初めて人の目に触れたのですから。   ◆2年後に出来た『第2の原型』  私の「三理想あさり」は、詳しく書くとかなり長くなります。結論を先に言えば、『第2の原型』は1924(大正13)年の3月末頃に出来たものと推測され、したがって、武蔵六年史の第1回入学式の記述は、意図的に事実と違えて作られたのものと思われるということです。24年4月以降に書かれたと思われる『理事会における大正13年度予算案説明文書(山本教頭による)』の中に、「本校元来、東西の文化を融合し世界に雄飛する底の人物を養うを薫育の一方針とすることは、校長が新入生に対して告げらるる所なり」とあり、記録の中に初めて三理想の項目が二つ出てきます。前に記した同年4月の教頭談話草稿には、まだ『第1の原型』が述べられていることを考えると、『第2の原型』の成立はその教頭談話草稿が書かれた時期と4月始めの入学式との間のごく短い期間の中だと考えます。恐らく前々から一木・山本両先生の間に相談の積み重ねがあった結果、その入学式の式辞に結実したものでしょう。『予算案説明文書』は予算案提出の時点のものでなく、理事会の査定で「生徒の外国旅行への教師付添費」が切られたことへの復活要求として書かれたと見る根拠がありますので、「校長が新入生に対して告げらるる所なり」と言っているのは、「ついこの間の入学式で一木先生が言われたでしょう、あの三理想ですよ」というふうに読めば、すんなり読めます。「何時の新入生に」とか「第1回からずっと」とかの限定がないのは、理事長はじめ理事諸氏にとって、すぐ思い起こすことが出来るつい先日のことだったからではないでしょうか。   ◆東西文化融合と民族理想の合体  『根津翁伝』には一木校長の話として、「『東西文化融合』は大隈重信が言っていたことで私自身も良いと思った」ということと、「『世界雄飛』はヴェルサイユ会議のことを牧野伯から聞いて以来の私の主張である」こととが述べられています。出典が示されていないので真偽不明ですが、武蔵関係の記録に大隈云々の話はないので、根津翁伝の編者は何か独自の資料を持っていたのでしょう。『世界雄飛』については、大正10年5月の根津家育英事業発表時の記録に明記されています。ただし、「世界に雄飛」ではなく「世界の舞台に立って活動」、「世界の日本人」という表現です。この表現の根底にある心が開校当初の『第1の原型』に確かに合まれているのがわかります。  一方、山本教頭には、約1年間にわたるアメリカ・ヨーロッパ視察旅行からの帰途船中で書いたという著書『民族の思想』があります。第1次大戦後の極右、極左台頭の時期のヨーロッパを周遊して、先生はその保守傾向(私の独断で恐縮ですが)に加えて民族主義、国家主義的な理想を強めて帰国したらしく思います。この本で主張する『わが民族の理想』とは、「日本の民族文化を基礎として、それを欧米的文化によって深高化し、世界的な新文化を創造して人間の文化史に貢献すること」であり、その日本民族文化とは、「いわば神道……存在・恩・義務を基礎とした国民道徳で、その発現の中心が皇室であることに特質がある」としています。山本教頭は後に『創立当時回顧座談会』(昭和11年、速記録あり) でも、「東西文化というが、東の方が大切だ」と、『民族の理想』での主張に近いことをのべています。『東西文化融合』という言葉が、必ずしも気に入っておられなかったらしく感じます。一木・山本両先生の話し合いで、一木先生は『東西文化』を持ちだし、山本先生は『民族の使命』あるいは『民族の理想』を持ち出して、両者がつけ合わされたものかと思われます。いずれにせよ、開校時の「第1原型」三項目に較べてかなり校是らしい体裁になったと同時に、民族主義・国家主義的な匂いがついたと思うのは私の偏見でしょうか。校長になった後の山本先生は、昭和13年に『三理想の英訳』を定めています。ここでは、『融合』は『Harmonization』となって一歩穏やかになり、『雄飛』は『to act on the World-Stage』となって、一木校長の表現に近づいています。私は、山本先生の思想傾向が昭和11年頃(二・二六事件のころ)を境に変化したと考えるものですが、三理想の英訳はそれをいささか裏付けているような気がします。   ◆史料に見えはじめた三理想  話が少し横道にそれました。三理想を初めて述べたと思われる大正13年入学式での一木校長の式辞は記録がありません。山本教頭の教務日誌その他にも三理想の影は見えません。翌14(1925)年7月に『校友会誌』が創刊され、その巻頭に『一木校長入学式訓辞大要』というのものが載っています。それには「本校は東西文化の融合を計るのが国民の任務であるという信念の上に、万端の施設をなしている…」と三理想の第一項目だけが述べられています。また、この年度の初めの「校報」(教師向けの会議まとめ)にも、校長式辞の概要が記録されています。思うにこの年以降、学校は三理想の生徒への周知に力を入れたようです。「校歌」が募集されたのもこの年からのようです。26(大正15)年12月発行の校友会誌第4号には、懸賞校歌応募3等当選作品(3期相当、小林保雄氏作)の発表があり、その歌詞に「我等の力は日毎に増して、天下に雄飛す準備は成らむ……」と三理想の第2項がちょっぴり詠み込まれています。そしてその選評に、「校歌は一校の理想・校風・特質等を標榜し、全校生徒の血潮を高鳴らしむべきものであってほしいと思う」とあり、この年から校歌が募集されて、しかも、そこに『本校理想』が歌い込まれることが奨励されていたが、実際の応募作品には従来の寮歌風のものが多く学校側の満足が得られなかったことが述べられています。この年は3等が最高でした。同じ号に脇田 忠氏(2期文)の『我等の使命』と題する論文があり、その中に「……。人物が出来て始めて東西文化の融合を望むこともできれば…」というくだりがありますから、おそらく、理想の三項目は既に発表されていたことでしょう。それにしても、当時それを印刷して生徒に配ったものがあってもよいと思うのですが、現存しません。「あった」という証言だけでもほしいものです。翌27(昭和2)年7月発行の校友会誌第5号には応募校歌当選作として、谷田閲次氏(2期文)の『2等作品』(「東西文化合壁の、灯かかぐる我ひとの……」の一節あり)と、野辺地東洋氏(3期文)の『2等作品』(「…東西古今の華をあつめん」の一節あり)とが発表され、選評には「本校理想の三大綱領も、割合よく歌い出されているが…」とあります。前年度の作品にも『雄飛』はあったのに不満とされ、この年の作品は、『東西文化』はあっても他の二つはないに近い(『雄飛』らしく見えるものはある)のに褒められているのは、歌としての善し悪しではあるとしても、少し奇妙に感じます。もしかすると三理想の最重点は『東西文化』であり、それを歌い込んでいないものは不満だと言うことかも知れません。なお、主に旧制時代の歌を集めた『武蔵歌集』が今年同窓会から刊行されますが、これらの当選歌はそこに収録されています。   ◆権威づけられた三理想  以上の経過を経て、28(昭和3)年4月15日の開校式(七学年が揃った時点での披露式)を迎えます。この式で一木前校長は、式辞の中で、自分がかつて第一回入学式の折に訓示したことだとして、修飾の多い漢文体で三理想を述べておられ、かつ、それを『三大理想』と呼んでおられます(校友会誌第7号)。私の独断で恐縮ですが、これを書いたのは一木先生でなく漢文の加藤虎之亮先生だと思います。たしかに一木先生は漢学の高い素養を身につけておられましたが、演説や著述の文章は平易で極めて明瞭です。この式辞のような、難解な言葉を多用する修飾の多い文章は、一木先生に、とりわけ生徒に語りかけるときの一木先生に似合わないように思います。加藤先生による双桂寮記、愛日寮記と文章の発想法が似ていること(似ていないという方もおられますが)、根津理事長の祝辞その他や、山本校長校葬の折の一木理事長弔辞などは多く加藤先生の手になるという証言があることから見ても、ありそうなことです。前に引用した『創立当時回顧座談会』での加藤先生の発言に、開校時、第1回入学式での一木先生の式辞の内容はと問われて、「三大理想です。あれを敷衍してずっとお話しになった」、「三大理想を一木先生が堂々とお述べになり」というくだりがありますが、「開校式」での一木前校長祝辞が加藤先生の代作だとすれば、話のつじつまを合わすためにも、加藤先生としてはこう言わざるを得なかったことでしょう。というより、代作した時点で既に、「三理想は第1回入学式で校長が述べたもの」と思いこんでおられたと考えるべきでしょう。一木先生は在任中4回の入学式式辞のうち、あとの二回には確かに三理想を、あるいはその一部分を話しておられたわけですから。1932(昭和7)年に創立十周年の記念式が行われましたが、その時の一木先生の祝辞の速記録が校友会誌第19号にあります。この時の話は至って平明なアドリブ調で、「本校は兼ねてより正義を重んじ、研究を尊び、而して将来のモットーとしては、世界の文化を進め人類の幸福に寄与すると云うことを信条としておるのであります云々」と、創立の時の『第1原型』に近い言葉が語られているのはまことに興味深いと思いますが、いかがでしょうか。  ともあれ、走り書きのような第1原型から始まった三理想を、校是に相応しい表現に直すこと、そしてそれを、第一回入学式に校長が生徒に表明したと学校史に記述し、同時に開校式での一木前校長祝辞で裏付けること(大正13、14両年の入学式で一木先生の訓示はあったものの、その内容は恐らく三理想の完全型でなく、山本先生にとっては意に充たぬものだったのでしょう)、これが山本先生のシナリオだった筈です。そのためには、開校式での前校長祝辞が一木先生の即妙の話で予定と違うものになってほしくなかった。加藤先生(でないにしろ一木先生以外の誰か)が祝辞を代作してそれを一木先生に読んでいただくことは、山本先生のシナリオにとって不可欠なことであり、予め一木先生の了解を得てあったことだろうというのが私の推測です。私個人の感想をつけ加えるなら、三理想の成立をそのように細工をしなくても、ありのままに伝えて良かった筈だと思います。理想の形が整うのが創立の2年後だからといって、三理想に傷が付くわけのものでもなかったでしょう。   ◆自由を我等に!『我々自身の三理想』  どの学校にもある校訓・校是が、前大戦以降の新時代に古い形のままで生き続ける例は必ずしも多くありもません。この点で、武蔵の三理想は時代を超えて生命を持ち続けていることを誇れると思います。とはいえ、今の目で見れば、「世界に雄飛する」という言葉が持つ戦前の膨張主義臭さとか、文化を東西に限定して東西南北多種多様な文化を互いに認めあう現代的視点を欠いていること、異文化どうしを融合するという考えに潜む独りよがり、それに、民族理想という断定など、多少の抵抗感なしには受け入れにくい点もあります。このことについては、以前、ある先輩の方からも「少なくとも第一理想の文言は改めるべきである」とのご指摘もありましたし、私自身、生徒に対しての話の中で、前述の諸点について注釈付きで三理想を説明してきたという経過もあります。三理想が示す「方向性」については、一木・山本両先覚者の見識に敬意を抱きながらも、後に続く我々としては、我々自身の現代的な思想の中で三理想を受けとめることが、我々に与えられた自由であろうと思います。三理想の成立の歴史を見ることも、そうした「我々自身の三理想」を形成する上で意義あることではなかろうかと考えて、独断と偏見の謗りを顧みず一個人として推測を書いてみました。   ◆追記…『三理想』か『三大理想』か  なお、1923年度から44年度までの22年間、43(昭和18)年を除いて毎年刊行された武蔵高等学校一覧に『三理想』が載るのは29(昭和4)年版からで、しかもその文言は現在と同じ「……人物。」のスタイルで書かれています。つまり、昭和3年度の一年間に「……人物を造ること。……力を養うこと。」のスタイルから現在の形に変えられたわけです。また、武高一覧ではずっと『三理想』のままで、『三大理想』ではありません。しかし、旧制時代の生徒達は『三大理想』という表現に慣らされてきたので、『三理想』というと違和感を覚える方もあるようです。そしてその『三大理想』の原点は、昭和3年開校式の一木前校長式辞であることは、ほぼ確実だと思います。  一つだけ私が気がかりに思っているのは、創立の年の一学期に生徒が発刊した同人誌の名が『雄飛』で、その会の名が『雄飛会』だということです。第一回入学の先輩たち何人かに伺ったところ、「それは三大理想の雄飛だろう」といわれる方もあれば、「三大理想とは関係ない。当時の世の中では『雄飛』という言葉はそんなに珍しいものではなかったよ」といわれる方もあります。私は、私の推測にかなりの自信をもっていますが、動かぬ証拠が出て私の推論が全て崩れても致し方ないことですので、新たな資料を寄せていただけることを切望しています。
2018.08.20
オンケルの遺産 「民文」の礎を築いた原田亨一
はじめに  原田亨一(1897―1938)は、自らの号、恩軒にかけてオンケルと自称され、その愛称で生徒に非常に親しまれた旧制武蔵高校の歴史の先生である。原田は在職中、病床に倒れ、そのまま惜しまれつつ病没した。その教育熱心な授業態度や校友会活動に積極的に取り組まれる姿は教職員や生徒から多大な尊敬の念を集め、その一端は、『校友会誌』(追悼特別号)*1によって明らかである。その内容は、まず名物教師といってよいものであり、愛敬あふれるエピソードにめぐまれている。生徒とのほほえましい話は同号に多数収められており、原田氏の普段の活動については、同号を良く読んでいただければお分かりいただけるだろう。そこで本文では、追悼号では余り触れられなかった、原田亨一の歴史学者としての側面に注目し、学生時代のエピソードや研究テーマ、論文を参照し、武蔵の教育に与えたであろう少なからぬ影響についてみていきたいと思う。 1、大学・大学院学生時代  原田亨一は、明治30年(1897)に高知県高知市に生まれた。大正4年(1915)に第三高等学校第二部甲類に入学するも、同8年(1919)に病気を理由に退学する。同9年(1920)に第六高等学校文科乙類に入学し、同12年(1923)3月に卒業すると、同年4月に東京帝国大学文学部国史学科に入学した。同級生には、皇国史観で固まっていた東大国史研究室を戦後になって立て直し、実証的な歴史研究で多大な業績を挙げられ、後に文化勲章を受章する坂本太郎がいた。坂本は自叙伝の中で原田のことについて以下のように語っている。  原田亨一君は、肋膜で永く休んだとかで年がかなり上だった。自称オンケルOnkelというあだ名を披露して、よくみんなの面倒を見た。ただし学校の講義にはあんまり顔を見せず、修学旅行だけは休んでは卒業できぬという噂だといって参加した。無類の歌舞伎好きで、この人の案内で同級生数名が歌舞伎座の三階に行ったことがある*2。  歌舞伎好きが高じて卒業論文は、出雲の阿国歌舞伎についてであり、後に昭和3年(1928)に至文堂より『近世日本演劇の源流―阿国歌舞伎の内容と其の発展を中心として―』と題して出版されている。さすがに、戦前の研究のため現在では引用されることも少ない本書であるが、本書の史学史上の評価について、芸能史研究の大家である服部幸雄はこう論評している。  この書以前の歌舞伎成立史研究が、とかく「事始」的に「出雲阿国伝」にかかわりすぎて、いわゆる「出雲阿国の伝説」に入っている芸能(念仏踊・神楽など)以外に眼を向けようとしなかったのに対して、視野を周辺の先行諸芸能に拡げねばならないということに着目されたわけで、成立史研究の段階としては明らかに一つの飛躍であった。(中略)信憑性の濃い一等史料を利用するようになった嚆矢であって、このことは研究史上特筆される(中略)歌舞伎成立史が歴史学の一ジャンルとして認められていく道を開いたものといえる(中略)本書の出現によって、成立史研究が「学問」として、新しい展開を果たすことになったといってもよい*3。  服部によれば、原田の研究は歌舞伎成立史研究において一大画期をなす著作として高く評価されている。原田の研究によって歌舞伎成立史研究が歴史学の一分野として確立しえたことが非常に重要な点として評価されており、この点については同級生である坂本太郎も同様に歌舞伎を歴史学的に初めて取り組まれたものと評価しているのと共通している*4。原田の代表的著作の史学史上の位置は上述のようにまとめられよう。  歌舞伎が趣味であることは国史学研究室が毎月11日に行っていた研究集会である十一日会の記録にもしばしば見られる。例えば、大正14年(1925)9月21日の記事によれば、各自が休暇中の旅行について述べられる中で、原田は歌舞伎の写真の紹介と実地見学を説明している様子が紹介されている*5。  大正15年(1926)には東京帝国大学大学院に入学し、同時に史学研究室別室副手を務めている。大学院における研究題目は「室町時代の文化史的研究」であり*6、近世における歌舞伎の成立のみならず、より広く美術史、文化史へとその興味・関心が移っていたことが知られ、その造詣の深さについては、法隆寺再建・非再建論争で有名な建築史家である足立康が追悼号で指摘している*7。  大学院に進学し、副手拝命後の同研究室における原田による重要な提言と思われるのが学生文庫の創設についてである。十一日会の記録によれば、大正15年12月11日の会合において、原田が立たれて学生文庫の創設を提言された旨が記されている。学生一同また当時の同研究室の主任であった黒板勝美教授も賛成するものであり、同研究室の歴史を考える上でも非常に重要であるが、原田の人となりを考える上で重要なことは、同記事によれば、「同(原田)氏曰く「十年後の研究室を目標とすべし」」と発言されたらしいことである。原田は面倒見の良い性格だったらしく、その一例として、国史研究室の後輩である井上久米雄が急逝されると、その卒業論文をまとめて刊行することに尽力されたことがあげられる*8。また、坂本太郎は、恩師である黒板勝美が自身と原田について「君たち二人は、二人合わせて一人前の仕事ができる。まるっきり反対の性格だから」と言われたとしており、黒板氏の真意について原田が親切で面倒見もよく世事にも通じていたのに対し自分は世事にうとく役に立たないことを皮肉っていたのだろうと回想されている*9。  この他に、原田が携わった仕事としては、平泉澄のもとで坂本太郎とともに室町時代から戦国時代にかけて関白・太政大臣であった近衛政家の日記である『後法興院政家記』の校訂作業を手伝ったりしている*10。また、注目される点として『新訂増補国史大系』の校正にも一部参加されており、担当書物は『後鏡』であった*11。『国史大系』とは歴史研究で必須かつ基本となる古典籍を集成、校訂した叢書であり、歴史研究者必携の叢書である。もとは明治時代に田口卯吉の主宰によって刊行されたもので、原田が参加したのは黒板勝美が主宰され、昭和4年(1929)より刊行されたシリーズである。ただし、原田は健康を害したため中途でリタイアしたらしい*12。しかし、黒板勝美が自身の作業を手伝う助手として指名されていたということは黒板が原田のことを高く評価していたことの表れではなかろうか。ちなみに黒板勝美の甥にあたる黒板伸夫も旧制武蔵高等学校の卒業生であるが、伸夫が武蔵に進学することに決まったことを報告すると勝美は大変喜ばれたという*13。伸夫は18期卒業生で昭和20年(1945)に卒業しているので、原田の授業を受けてはいないが、黒板勝美にしてみれば、自分もよく知っている教え子が教えていた学校に甥が入学したわけで、喜んだ背景には単純に旧制高校入学を祝う以外の気持ちもあったのではないだろうか。  いずれにせよ、原田亨一は、学生時代から人の面倒を見るのが好きな世話焼きの人物で自分の研究だけでなく、他人の研究の手伝いや仕事を熱心に行う学生であったことがうかがい知れる。このような学生生活を経た上で旧制武蔵高等学校の教員となったわけで、世話好きな一面は、生徒と積極的に関わっていく原田亨一の教育スタイルとして旧制武蔵高校の教育にも大きな影響を与えたものと考えられる。 2、研究内容  原田亨一の論考は多いとは言えない。若くして亡くなられたことを勘案しても多い方ではないだろう。以下が確認できた活字化されている論考である。 1928年『近世日本演劇の源流―阿國歌舞伎の内容と其の發展を中心として』至文堂 1929年「信西古学圖にあらはれたる原始散樂の研究」『歴史教育』4―2 1929年「正倉院御物弾弓にあらはれたる原始散楽」『寧楽』12 1934年「平安時代の藝術」國史研究會編輯『岩波講座日本歴史 第3(上代2)』岩波書店 1934年「伎楽雑攷」『寧楽』16  これら一つ一つの論考に対して論評を加えることは避けるが、注目すべき点として、演劇史を扱う関係上からか、文献資料のみにとらわれず、信西古楽図や正倉院宝物に見える絵柄などに注目されている点があげられるであろう。文字資料にとらわれずに研究する姿勢が教育に与えた影響も十分に想定される。この他にこの様な原田の研究姿勢、能力を伺うことが出来る場面としては大学院での研究会での報告内容があげられる。以下、長文ながら原田の研究報告に関わる部分を全文引用した。      第五回例会   十一月廿八日?午後四時より史料に於て開き、五時半散會。本日は原田氏の研究發表があつた。即ち法隆寺四天王像一躰の銘文〈山口大□費上斤次木閇二人作也〉とある下に行久皮臣とあるのを行久皮臣(イクハノオミ)と解され、此の人は造像を手傳ひし人ならん云はれ、應神紀に高麗より献ぜる鐵の盾(的)を射通してイクハノ臣なる姓を與へられた者の子孫ならんとて、新撰姓氏録其他國史の記事を引用して考証された。黒板先生は評されて行にイなる発音なくユクと訓むべきであるが、行は伊と解する方可ならんと言はれた。又工藝に直接手を下すは雑戸等の賤民で姓を有する者が手を下す筈なく、又應神紀にイクハノ臣なる姓を賜つたとある記事は地名解釋説話と同じく、子孫が其の祖先を飾り、又その姓を説明せんが爲に作爲せる家の纂記の如きもので信用するべきものではないとの御説明があつた*14。    (中略)   〇志貴山縁起に見える東大寺大佛殿に就て 原田亨一君   志貴山縁起三巻中尼君の巻にある東大寺大佛殿は天平創建當時のスケツチではあるまいか。現在の大佛殿は7X7、天平當時のは11X7である。志貴山縁起のは鎌倉時代のものではない。大佛記、東大寺要録、扶桑略記によれば、鎌倉時代のものは天平時代の土台の上にそのまゝ作られた。志貴山縁起のは正面に扉七ツあり。東大寺要録には扉十六とある。今の大佛は石台の上に蓮座があるが、志貴山縁起の図には石台のかはりに瑪瑙石(東大寺要録)の蓮辨の上に坐して居る。此の瑪瑙石の蓮辨の模様は三月堂の不空羂索觀音の蓮辨と同一形式である。この蓮辨にも三千世界の図があつたであらう。又志貴山縁起には脇侍が見えて居る。現在の石段は三つあるが、志貴山縁起のは五つに区切られて居る。石壇上の欄干は図のと同様なものが今もある。組物は図では二手先組となつて居る。又その左右の小壁に唐草模様がある。図中の一本燈籠は今も変りはない。恐らく志貴山縁起に見える図は天平創建のものであらう*15。  第5回例会報告では、法隆寺四天王像の銘文について「片文皮臣」と読まれていたものに対して、「行久皮臣」(イクハノオミ)と釈読し、仏像制作を担った人物の名前ではないかとされている。これに対して黒板勝美は、「行」には「イ」という音はなく、「伊」ではないかとされ、さらに『日本書紀』にみえる「的臣」の伝承については氏族伝承であることから史実かどうかには慎重であるべきという史料批判を展開しており、あくまでも実証、論証的歴史学を志向しようとする当時の東大国史研究室の研究姿勢が見て取れる。  実は、この文言を「イクハノオミ」と読むことは、その後に東野治之によって1960年代以降出土するようになった木簡等を用いて論証されており、原田の見解は―「行」と釈読した以外は―正当であったことが実証されている*16。時代状況―木簡等の出土史料が存在しない時代―から論証過程に問題があるとはいえ、史料を読み取る能力は戦後歴史学の研究者と比べても遜色がないことが明らかである。  美術史料を多用する点は第7回報告でも看取され、志貴山縁起絵巻に見える東大寺大仏殿の構造から絵巻に記された大仏殿を天平創建当初のものと解釈する点は、美術史的、建築史的視点が欠かせない。原田は、昭和6年に大学院を退学されており、この他の研究内容を明らかにすることは叶わないが、この二回の報告内容が分かったことによって、①史料読解能力、②美術史に対する見識、③建築史に関わる知見、④それらを積極的に活用する先見性といった原田の歴史学的素養が明らかになったと言える。  特に原田は武蔵高等学校に着任後、昭和4年(1929)に文化学部の事業として拓本展覧会を実施しており*17、この時には、国史学研究室所蔵の拓本を多数借用して実施している様子が明らかになっている。現在の東大日本史学研究室では、黒板勝美を中心として行われた全国の金石文拓本が所蔵されており*18、『校友会誌』の目録と所蔵拓本がほぼ一致する。また、採拓が行われた時期は原田の在学期間に一致していること、また、大学生、大学院生時代の懇話会にて黒板勝美が日本史を勉強する者の心得として様々な分野に精通すべきことを縷々述べていることから考えても、美術、芸術史料活用の積極性は黒板勝美の薫陶を受けたものであろう。そして、この黒板勝美の教えを受け、拓本展覧会に代表されるように武蔵高等学校では、単なる文献史料に捉われずに様々な史料に基づいた歴史教育が校友会活動を含めて行われたものと考えられる。 おわりに  以上、原田の著作や研究内容、また同窓生の回顧録より原田の研究姿勢や目的意識、その識見と能力についてみて来た。最後に、原田の授業を受けて、歴史分野に大きな足跡を残した二人の太田による原田亨一に関する回顧について見て筆をおきたい。原田亨一の授業内容について、4期(文)卒業生で帝大国史研究室を卒業し、史料編纂所教授を務められた太田晶二郎は以下のように回顧されている。  旧七年制私立武蔵高等学校の国史の時限、教授原田亨一先生が小冊子を生徒に配って、読めと命ぜられたので、皆、目を白黒させた。何しろ上宮聖徳法王帝説證注(『日本古典全集』本抽印)というしろ物だったのだから、  時処移って、東京帝国大学の国史十一日会、昭和七年六月例会、「宮田〔俊彦〕君引く所の法王帝説の問題から、一年生太田晶二郎君立って明快に是を論じて気を吐く」。此れは『史学雑誌』第四十三編第七号、彙報、一三九頁にまさしく記録する所である。本当に「明快」であったかどうかは保証せぬが、半家言ぐらい持っていたとして、入学後二個月そこそこだったのだから、失礼ながら大学の御蔭ではない、原田先生の賜ものにほかならぬ*19。  同じく4期(理)卒業で、帝大工学部建築学科を卒業し、後に武蔵学園の学園長も務められた太田博太郎は以下のような回顧談を民族文化部の創立五十周年記念号に掲載されている。  原田先生は、三高の理科を出て、六高の文科に行かれた。それで若干、他の生徒より年が上なもんですから、それに人の世話をするのが好きだからということもあるのかもしれませんが、当時からオンケルというあだ名があって、自分でも気に入っておられた。で、我々もオンケル、オンケルと呼んでおりましたが、そのオンケルさんの三高の時の同級生に長谷川輝雄という人がいた。東大の建築史の助教授になってすぐ、昭和二年に亡くなられてしまった。それでオンケルは自分の弟子の中から、将来を非常に属目されながら若くして亡くなった、親友、長谷川さんの代わりになる様なやつを作っておきたいと思っておられたらしい。ただ建築史は、ヨーロッパでは考古学者、または美術史家がやるけど、日本では建築の卒業生の商売になっている。当時、工学部に建築学科があったのは、東大と京大と東工大ですけれども、いずれにしても理科を卒業した人間でないと入れない。だから武蔵の理科の生徒の中で歴史が好きなやつはいないだろうかと探しておられた。そういう風にはっきり聞いたことはないんですが、遊びに行くと遅くまで引き留めて話しをされる、その口裏を察すると、どうもそういう意図があった様です*20。  武蔵高校の授業内容については、一般的にアカデミックな内容と評価されることがしばしばであるが、太田晶二郎の回想は、旧制時代から原文にあたって授業を行う様子が看取され、校風の淵源が旧制時代に遡ることが出来そうである。旧制時代の武蔵については、少数精鋭のがり勉と評されることもあるが、単なるがり勉とは言い切れない側面があることがみてとれるだろう。また、太田博太郎の随想からは、「十年後の研究室を目標とすべし」と発言されたように、将来を見据えた人材育成を行っていこうという姿勢が感じ取れる。  拓本展覧会を開くなど原田が精力的に活動された文化学部は後に民文の愛称でよばれる「民族文化部」と改称されて、現在まで続き、その卒業生の少なくない人数が歴史学者として育っていったことを考え合わせれば、原田の業績には軽視できないものがあるだろう。また、拓本展覧会では、東大国史研究室から多数の拓本を借用しており、武蔵高校と東大国史研究室との浅からぬ関係が見て取れ、その両者の間に原田の存在があることは疑いない。本文はあくまで武蔵の歴史を明らかにする目的の一端として執筆したが、本文を通じてより広い範囲に原田亨一という興味深い人物がいることが知れ渡れば幸いである。 ↑ 校舎脇での集合写真、前列中央が原田亨一教授。   ↑ 民族文化部の記念祭における展示と思われる写真、左から二番目が原田亨一教授。   脚注: *1 武蔵高等学校校友会編集・発行『故原田教授追悼 校友会誌別号』1938年。 *2 坂本太郎『古代史の道 考証史学六十年』1980年、62頁。 *3 服部幸雄『歌舞伎成立の研究』風間書房、1968年、14~17頁。 *4 武蔵高等学校校友会編集・発行『故原田教授追悼 校友会誌別号』1938年、8頁。 *5 東京大学文学部日本史学研究室所蔵『東京帝国大学文学部国史研究室十一日会記録』同日条。 *6 東京大学文学部日本史学研究室所蔵『東京帝国大学大学院学生談話記録』第一回記録。 *7 武蔵高等学校校友会編集・発行『故原田教授追悼 校友会誌別号』1938年、10頁。 *8 武蔵高等学校校友会編集・発行『故原田教授追悼 校友会誌別号』1938年、7頁。 *9 坂本太郎『古代史の道 考証史学六十年』1980年、89頁。 *10 坂本太郎『古代史の道 考証史学六十年』1980年、88頁。 *11 皆川完一・山本信吉編『国史大系書目改題』下、吉川弘文館、2001年、955頁。 *12 坂本太郎『古代史の道 考証史学六十年』1980年。98頁。 *13 黒板伸夫・永井路子編『黒板勝美の思い出と私たちの歴史探求』吉川弘文館、2015年、4頁。 *14 東京大学文学部日本史学研究室所蔵『大学院国史学科専攻学生談話会記録』昭和四年十一月廿八日付第五回例会記録。 *15 東京大学文学部日本史学研究室所蔵『大学院国史学科専攻学生談話会記録』昭和五年六月十九日第七回例会記録 *16 東野治之「法隆寺金堂四天王像光背銘の「片文皮」」(『東京国立博物館研究誌』388、1983年)。 *17  『校友会報』(9〈分冊1〉、1929)16頁、太田博太郎「民族文化部創立当時の思い出―OB会講演より―」『民族文化部五十周年記念随筆集』(武蔵高校民族文化部OB会、1980年)6頁。 *18 佐藤信解説「東京大学日本史学研究室架蔵拓本目録」、「東京大学日本史学研究室架蔵拓本目録索引」、「東京大学日本史学研究室架蔵拓本目録(続)」(『東京大学日本史学研究室紀要』創刊号、2、3、1997~1999年)。 *19 太田晶二郎「『上宮聖徳法王帝説』夢ものがたり」『太田晶二郎著作集』第二冊、吉川弘文館、1991年、初出1960年、9頁。 *20 太田博太郎「民族文化部創立当時の思い出」武蔵高校民族文化部OB会編集・発行『民族文化部五十周年記念随筆集』1980年、6~7頁。
2018.07.26
「武蔵のゼミ」 ここが出発点!
はじめに  大学開学当初からの「少人数制教育」および旧制武蔵高等学校時代から引き継がれた「三理想」の精神を具体化したカリキュラム「ゼミナール教育」。  「経済学部経済単学科時代(1949~1958年)」「経済学部経済・経営複学科時代(1959~1968年)」「経済学部・人文学部複学部時代(1969~1991年)」そして「学部改組、カリキュラム改正に伴う新たな展開(1992年~)」の過程において「ゼミの武蔵」と称されるほどとなり、「ゼミ」の果たす役割は大きい。   旧制武蔵高等学校開設当時の少人数制教育  「少人数制教育」は旧制武蔵高等学校時代の特色であり、まずは旧制武蔵高等学校開設に際しての教育指針「国際的な感覚を持ち、自主性のある人材の教育を目標とした」視点を史料から見ることにする。  一木喜徳郎初代校長は、「我国民の教育的欠陥は外国語に不鍛錬なことである。最近国際連盟規約の批准事務を掌った私は特にそれを痛感して現在の教育制度では到底『世界の日本人』を作ることは難しいと考えた。故に新設の私立高等学校の特色を其処に求めて力を尽くしたい」と、校長就任に際し述べられている。そして「外国語教育の重視を宣言した」と1921年5月11日の朝日新聞ほか各紙に報じられた。  実際の「英語」の授業では、40人の一クラスを20人ずつの2組に分けて別々に行う「分割授業」が採用された。これは山本良吉初代教頭の熱心な主張を容れたものであるという。  また、分割授業という形態は新制時代に受け継がれ、1953年(昭和28年)より英語・数学の一部に実施することになった。さらに1966年(昭和41年)より中学1・2年の理科にも取り入れられた。  他の教科の特色も見てみる。  「修身」これは今日の道徳あるいは倫理に当たるが、山本初代教頭(第三代校長)が尋常科の全生徒の授業に当たった。生徒の日常の生活と行為に直結した具体的問題について、個人としてまた社会人として踏むべき道を説いた。教科書によって教えるというよりはむしろ独自の個性を通じて生徒一人ひとりと接触する方法をとった。12~13歳の少年期において基本的なしつけを身につけねばならぬというのが山本初代教頭の信念であり、それによって徹底した教育を行った。  「国語・漢文」は三大理想の一つである「東西文化の融合」の観点から特別の配慮があり、「数学・理科」は三大理想の中の「自ら考え自ら調べる能力」という観点からも大きな比重がおかれた。  小学校卒業者を入学させて7年間の教育を施して、大学に進学させるのであるから、自然に「エリート教育の形態」をとらざるを得ない。開校当初から「厳選少数教育」を目指したのであった。   武蔵大学の草創期― 「特殊研究(ゼミナール)」の導入  次に、大学開学に際し、「旧制武蔵高等学校の伝統」が、どのように反映、引き継がれたのか当時の入学志願要項、大学入学案内などを見てみる。  1949年度(昭和24年度)入学志願要項には、「経済理論、経営実践の各種講義及び演習による十分な専門知識と、社会人、経済人としての必要な高度の科学知識並びに豊富な文化教養を有する有能な実力ある人材を育成せんとするものである」と記されている。  1950年度(昭和25年度)入学志願要項には、「将来の日本経済界に活躍する経済人として充分な専門知識と、豊富な文化教養とを有する、実力ある人材を育成せんとするものである。なお、本学には武蔵高等学校・武蔵中学校を併設して「その伝統による教育」をもって日本文化の向上に寄与せんことを期している」と記されている。  1951年度(昭和26年度)入学案内には、「本大学は、旧制高等学校以来の豊富な教育経験を基幹とし、これに優秀にして豊富な教授陣容を整備して、比較的少数の学生に徹底した教育を施し、真の実力を養い正しい人格を培い現実社会に正しく強く生きぬくことのできる人物を養成することを特色とする。教授と学生との密接な交渉は相互の人間的信頼の上に、知識の徹底的な習得と中正穏健な思想の形成と高潔な人格の陶冶を可能ならしめるもの」と記されている。 また、「学則」の項では、「特殊研究(ゼミナール)」について、「最初の二学年においては毎年四単位、以後は八単位以上の特殊研究を取得することになっている。これは学生がその希望する学科を選んで担当教授指導の下に特に自発的な研究を行うものであり、又教授・学生間の密接な接触によって人格陶冶に資せんことを期している」と謳われている。  1949年(昭和24年)4月の第一回入学式において初代宮本和吉学長(旧制武蔵高等学校第五代校長)は「本学は過去の伝統にこだわらず、いわば処女地を開墾し、新しい伝統と校風を築いていくが、『視野の広い、世界人としての日本人、自ら調べ自ら考え、批判的精神を失わない日本人をつくり上げる』というモットーを大切にしたい」と述べ、「この大学を良くするも悪くするもすべて諸君の今後の努力にかかっている。武蔵大学の歴史を先ずつくる人、それは諸君である」と結んでいる。  そして、初代鈴木武雄経済学部長は、宮本学長が描く「新しい伝統と校風」の具体化として武蔵大学の第一の特色「少数精鋭主義」を基本とする教育方針を前面に打ち出した。  もともと旧制武蔵高等学校は、少数学生を徹底的に教育することを校是として大きな成果を上げていたから、武蔵大学がそれを大学教育の「場」において実現できるのであれば、極めて望ましいわけである。  第二の特色は、「全学ゼミナール制」と「指導教授制」。これは「少数精鋭主義」の具体的な面であり、旧制武蔵高等学校以来の建学の三大理想の一つの「自ら調べ自ら考える力ある人物」の育成には最もふさわしいものであって、マスプロ大学ではない武蔵大学にして、はじめて採りうる制度であるといってよい、と位置付けている。  「全学ゼミナール制」は、第1年次および第2年次を「教養ゼミナール」、第3年次および第4年次を「専門ゼミナール」とし、学生すべてが専任教員の担当するゼミナールのどれかに入れるように全ての専任教員がゼミナールを開講、毎学年のゼミナールを必修科目とするものである。  なお、1969年に開設した人文学部においては、これを「演習」と呼称したが、当時の人文学分野では「ゼミナール」はなく、「演習」と呼称する傾向にあったと、星野誉夫名誉教授から史料調査の段階でご教示頂いた。  「指導教授制」は、このゼミナール制の基盤の上に設けられたものであって、ゼミナール担当の教授・助教授・専任講師がそのゼミナール学生の指導教授となり、ゼミナールにおける学問研究の指導とともに、それとは別の学生の思想・生活その他あらゆる面にわたる親身の相談相手となるものである。  この「ゼミナール制」と「指導教授制」によって、教授と学生の接触が深まり、他大学には見られない相互信頼のヒューマン・リレーションが形成されたことは、武蔵大学の特色となっていく。 ゼミナールの様子 1951年(昭和26年)「武蔵大学入学案内」より    ここで鈴木武雄経済学部長についての「思い出」を一つご紹介する。  1992年に就任した第八代櫻井毅学長は、かつて1948年4月、新制武蔵高等学校2年に編入されたが、随筆集『思い出に誘われるままに』の中、「武蔵高等学校時代の思い出」で、鈴木学部長が新制武蔵高等学校の「社会科」の授業もされたことを記している。「高名な学者が武蔵大学にこられて、われわれの社会科の授業を担当してくださるということに、大いに誇りを感じたものだ」、「その授業方法について、前半は講義をされたが、後半は『いわゆるゼミ形式』を取るといわれ、報告者を指名して順々に報告させた。社会科ということで内容は生徒に完全にゆだねた。生徒は勝手にテーマを決めたため、テーマによっては「あまり行き過ぎないように」と苦笑され注意を与えられたほどだ」、と回想されている。  大学開学から8年が経過した1957年度(昭和32年度)の『武蔵大学概覧』に、当時の鈴木武雄経済学部長が「本学の特色」と題する一文を草している。  「武蔵大学は、大学としては新しいとはいえ、創立以来すでに満8年を経過し、その間卒業生を世に送ること5回におよんでいる。したがって旧制武蔵高等学校の光輝ある伝統の校風の上に、いまや大学としての独自の学風もほぼ確立されたといってよい。それは、学生数を比較的少数にとどめていることによるであろうが、教授と学生の間がきわめて親密だということである。本学は、基礎的な講義のほかに、ゼミナールに大いに力を入れているが、一般教育および専門両課程の専任教授・助教授総員が担当しているので、全学生は、一人残らず毎年ゼミナールに入ることができ、且つ1ゼミナールあたり学生数が20~30人であるため、行き届いた効果的な研究指導が可能である。また、とくに指導教授制なるものを設け専任の教授・助教授一人当たり平均20~30人の学生を配属したグループをつくり、教室以外の師弟同行の場として、緊密な接触指導を行うとともに学生の勉学および生活上のよろず相談相手たる役を果たしている。(中略)こういうことは充実した教授陣に対し学生数が比較的少数であるからこそ可能なのであって、他のいわゆる『大』大学には見られないところの本学独自の学風として、私どもひそかに自負するところである。」   文系総合大学をめざして  経済学部に人文学部を増設、複学部体制移行に際し、武蔵大学事務部編『武蔵をめざす友へ』《武蔵の青春群像 No.5 1968年(昭和43年)》に、第三代正田健次郎学長が「武蔵の教育理念」と題する寄稿がある。  「国際的な感覚と知識を身につけた人材を生み出す。身につけるためには自主的に調べ、考えなくてはならない。これが武蔵大学の建学以来の理念であり方針である。このことは本学に限るわけではないが、大学において、特に大切だと思う。  大学教育を受けることによって学生は何を得ようとすべきか。学士の称号を得ることでもない。スポーツの選手になることでも勿論ない。良い職場を得ること、つまり働き甲斐のある職につくことも望ましい結果ではあっても、大学教育の直接の目的とはいえない。  大学では自己と社会との関連に於いて確立し、あわせて社会の一員として役立つ専門の知識技能を身につけること、それ自体を目的として専念すべきである。  科学技術の進歩は世界をますます狭いものにし、今日では国際的視野に立たなくては、何事もなし得ないようになった。本学の教育理念として重視してきた国際的感覚の重要性は、現在の時点に於いて特に強調すべきであろう。学校教育においては、本学に限らず、ともすると知識を偏重するきらいがある。知識はそれが働かされて初めて効能があるので、そのためには感覚にまで深められていることが望ましい。換言すれば身についたものにすることである。自ら調べ自ら考えるという、本学の教育方針はそのためであり、それも教授との密接な接触により、その個人的指導のもとに行なおうとしているのである。  知識の切り売り的な、書物を読んで事足りているような教育は本学のとらざるところである。  本学が開学以来経済学部だけの単科大学として今日に至り、ようやく明年度より人文学部を増設することになったのもこの望ましい姿を無理なく堅持するためであった。将来もこの姿を教職員・学生が一緒になって更に徹底させていくように努力したい。」  その後、1992年(平成4年)からは学部改組、カリキュラム改正に伴う新たな展開が進められている。  2005年(平成17年)10月、「武蔵学園将来構想計画」が学校法人根津育英会から打ち出された。その中で「大学のビジョン」として、  「武蔵大学は、21世紀の新たな時代と社会において大学に求められる知の創造、継承と実践にその教育研究活動を通じて貢献すること(「知と実践の融合」)を基本的な理念とし、知的実践の基盤となるリベラルアーツを重視した教育に重点を置く大学としてその社会的使命を持続的に果たしていくことを目指す。」  と記され、この理念・使命の達成のための教育・研究活動等の基本目標を、次のように定めている。  『教育の基本目標』として、「建学の三理想」と「自由闊達な学風」の今日的な意義と有効性を踏まえ、その新たな展開を図る。すなわち、①自ら調べ自ら考える(自立)、②心を開いて対話する(対話)、③世界に思いをめぐらし、身近な場所で実践する(実践)ことができる資質・能力を有し、21世紀の社会を支え発展させ得る「自立した活力ある人材」を育成する。   おわりに 繋げよう武蔵の伝統  この新たな展開の中でスタートした「三学部横断型ゼミナール」、その運営に必要とされる能力として「社会人基礎力」を求めている。その社会人基礎力の活用を含めた三学部横断ゼミナールの具体的実践内容を卒業生にもアピールする目的で、「大学開学60周年記念オールカミング(2010年(平成22年)3月6日開催)」プログラムの一コマに組み入れた経緯もある。  大学開学以来積み上げた約70年の重み、それを未来に確実に繋ぐためにも卒業生の協力も一層重要になると感じる。「自ら考え、そして実践する姿勢」は、卒業生としてずっと持ち続けていきたい。 【主要参考文献】 『武蔵五十年のあゆみ』 (1972年 昭和47年) 『武蔵七十年のあゆみ』 (1994年 平成 6年) 『武蔵九十年のあゆみ』 (2013年 平成25年) 『武蔵大学五十年史』  (2002年 平成14年)  『随筆集 思い出に誘われるままに』 櫻井 毅 (2007年 平成19年)  キャンパス内の緑陰でのゼミナール授業風景。中央は近藤康男教授。  『武蔵大学五十年史』2002年(平成14年)に掲載
2018.07.02
「歴史家島田俊彦」の出発点 ― 淡々たる言動に秘められた硬骨
武蔵における存在の重さ  武蔵高等学校では、修学旅行が1978(昭和53)年を最後に廃止され、それ以降も復活の動きは見られない。武蔵学園の編年史における「修学旅行」の項では、『武蔵60年のあゆみ』から『武蔵90年のあゆみ』まで一貫して、ほぼ同一の記述が続いている。以下、その一節を掲記してみよう。  「関西方面の歴史的風土・文化遺産を見学することを目的とした高校2年の修学旅行は、1951(昭和26)年に復活した。戦後の混乱期から少しずつ立ち直りかけた時期であり、戦前の国史教育の反省に立った戦後の日本史学習とあいまって、復活当初の修学旅行には新鮮な活気があった。しかし同時に、団体旅行につきものの無責任な風潮の萌芽も、すでにそこに存したといえよう。その後、集団観光旅行が観光地に充満する時代のなかで、武蔵の修学旅行は、コース選択制・グループ見学方式など先駆的な改善を行ってきたが、ついに修学旅行という因襲的形態にまつわる欠陥を除去し得なかった。集団のなかに個々の責任が埋没してしまうような学校行事はむしろ進んで廃止しそこで失われる修学旅行の美点は別の形で追求すべきであるという考えのもとに、78年を最後に廃止された。中学3年も東北旅行を実施していたが、66年を最後に廃止された。」(以上、『武蔵90年のあゆみ』190ページより)  この廃止が決まったときの武蔵高校の校長は大坪秀二氏であったが、彼は『大欅』1979年6月15日号に「修学旅行の廃止をめぐって」と題する文章を載せている(のち『大坪秀二遺稿集』に収録)。大坪はそこにおいて、「出発から帰着まで、全員が一斉行動をする」という、修学旅行の「伝統的な様式」についての批判が復活早々から見られたと述べ、「修学旅行を単なる団体観光旅行、思い出旅行とするのでなく、各人が主体性をもって計画し見聞するという旅行本来の立場を、修学旅行の中に何とか生かせないだろうかという意図に発する」コース選択制の導入もあったものの、「結局は単なる集団旅行へと風化してゆく経過を、毎回たどった」と記している。  続く文では、「修学旅行という名の下に私たちの社会に定着しているのは団体旅行であり、日本的な団体旅行の魅力は、それに加わることで個々人の責任が消失する気楽さにあるということが、すべての底流にあった」、「団体旅行に典型的なこうした精神現象を、私は生徒への話しの中で、『集団無責任体制』という言葉で表現しました。今の社会で問題となっている多くの事柄、青少年の聞で問題となっている事柄などを見きわめてゆくとき、この『集団無責任』が根本にある場合が実に多い」とある。  上記の文章はいまから約40年前のものであり、率直に言って、なかなかその切実さが身近に感じられない部分もあるが、「集団観光旅行としての修学旅行」の強硬な廃止論者であった大坪による、現在全国的に積極的な意義が失われつつある修学旅行の否定的な側面を浮き彫りにした先駆的な考えとして、一読に値するものであろう。  その大坪が、武蔵高校の修学旅行で唯一、「今日的観点から見ても、非常に立派なものだった」と高く評価しているものがあった。それは、1951(昭和26)年から1969(昭和44)年まで教諭(その後、1975年の逝去まで大学の人文学部専任教授)をつとめていた島田俊彦を中心に立案・実行されたものである。  「20年以上昔の当時、既に、コース選択制による見学人数の分割を行って、見学の徹底をはかったことなども、島田さんだけの発案ではないが、卓見であった。阿弥陀信仰という一本の線で、法界寺・平等院・かにまん寺・浄瑠璃寺・岩船寺を結んだり、飛鳥・白鳳・天平の線を完成するために、一般コースを離れて当麻寺まで足を延〔ば〕したり、さらには室生・多武峯までを日程に含めたりした。  当時は、バスの運転士でも飛鳥や南山城の道は不案内で、島田さんが運転士の横の席でいちいちコースを指示したし、島田さんの指導の下に生徒が編集した旅行の案内書は、バスガイドたちに好評で、せがまれてわけ与えることになったりした。  島田さんは、地図なしでも歩ける旅行の先々でなおかつ熱心にスライド用の写真をとり、さらに民族文化部の生徒との旅行の時のデータなども補充して、翌年の生徒に対してはさらに新しい工夫を加えるなど、私たち教師にとっても、島田さんの手で総合された修学旅行につきあうことは、日本史への興味を啓発される上でも、大層勉強になることであった。」(以上、大坪「島田先生を悼む」『武蔵大学人文学会雑誌』第7巻第3・4号、1976年に所収)    修学旅行が実施されていたとき、引率役であった島田の(武蔵学園史において)面目躍如たる事件があった。  制服を着ることなくセーター姿で旅行先を歩いていた生徒たちが、他校生に脅かされたり撲られたりという出来事があったというが、付添い教師が京都の警察署で事情を説明する段になって、京都府警少年課の担当者が「制服を着てないような生徒は、それだけで不良と見られても仕方ないのだ」というような話をしたさい、島田が「うちの学校では服装は自由なのだ。あんたは、ひとの学校の教育方針にケチをつけるのか」と応酬したという。これ以降は、関西旅行の折には必ず教師が五条警察署に立寄り、「本校は服装自由であるので、その旨ご承知いただきたい。服装だけの事で取締りの対象にしていただきたくない」旨を説明することになり、これが結果として「武蔵は制服のない学校」ということを世間に定着させることに役立ったという(大坪「武蔵の服装規程のこと」同窓会会報第32号、1990年12月に所収。のち『大坪秀二遺稿集』に収録)。    大坪は、新制武蔵高校発足の2、3年後ごろからのつきあいであった島田について、「吾々の仲間の餓鬼大将でもあった」と評している。  「私は、あるいは私たちは、島田さんとよく飲み、よく出歩いた。そうした生活の中で、島田さんが発散するザックバランな、一本気な、正義派的な雰囲気は、当時の私達の気風をとりまとめる一つの中心になっていたかと思われる。」  この文は、武蔵高校の教師陣が、個性的で、かつ識見すぐれた人物を得ていたことを示すものといえるだろう。 ↑ 『武蔵七十年史―写真でつづる学園のあゆみ』(1993年)掲載の写真   近代史研究の出発点としての海軍勤務  島田は教諭在任中に、満州事変や日中戦争の実証的研究の第一人者としても名高い存在であった。1962年から63年にかけて朝日新聞社から刊行された『太平洋戦争への道―開戦外交史』(全7巻)の共同執筆者として、また1964年から66年にかけては、みすず書房の『現代史資料』シリーズの『満州事変』、『満洲事変 続』、『日中戦争』の共同編者としてそれぞれ名を連ね、単著として『関東軍―在満陸軍の独走』(中公新書、1965年)、『満州事変』(人物往来社、1966年)を執筆している。この2冊の単著は講談社から学術文庫化され、初版刊行から半世紀がすぎた現在でも新刊本の書店で入手が可能である。このような貴重な成果として結実した研究の出発点は、以下に紹介するように、彼の使命感や良心と不可分のものであったといえる。    島田は1908(明治41)年生まれ、1931(昭和6)年に東京帝国大学文学部史学科を卒業後、2年間の大学院での研究を経て聖心女子学院高等専門学校の教授をつとめていたが、太平洋戦争中の1942年5月に退職、その翌月に海軍の軍令部嘱託(戦史編纂事務)となり、終戦までその職にあった。以下、みすず書房の『現代史資料』第7巻の付録月報に収録されている島田の回想「軍令部戦史部始末記」によりながら、彼の研究基盤や独特な言行に接近してみたい。    日本海軍では日清・日露戦争や北清事変、第1次世界大戦、満洲事変、第1次上海事変など、かかわった対外戦争や戦闘に関して、軍令部による厖大な戦史が(軍事機密扱いであるが)編纂されていた。日中戦争が太平洋戦争にまで発展拡大した時、軍令部が恒久機関として「戦史部」をあらためて発足、現役・予備役の将校が15、6名ほど配属されるとともに、歴史専門家として島田が嘱託に就任した。  編纂の計画は、まず『大東亜戦争海軍戦史本紀』という表題の、従来程度の詳しさの戦史をつくるほか、さらに詳細でさらに機密度の高い『秘史』(作戦や用兵が記述の中心)、そのほかに機関科、主計科、軍医科等各科別の戦史を書く。さらに一般啓蒙用として、機密事項を取除いた奥味本位の戦史もつくる、というものであったという。「生来無類の臆病者である私は、何としても戦争へ行くのはイヤだった。徴兵検査は丙種だったから、満洲事変、日華事変のうちはいささか高みの見物だったが、これが太平洋戦争にまで拡大されると、安閑としてもいられなくなってきた。恩師の辻善之助先生〔1877―1955、歴史学者・日本仏教史〕は、私のこの哀れな心情を察して、ある日私を招いて『海軍で軍人たちだけで大東亜戦争の戦史を編さんしているそうだが、最近、歴史の専門家がひとり欲しいといってきた。この仕事をやれば、かえって戦争に行かないですむかもしれない。行かないか。』といわれた。……何よりも、もしかすると戦争にいかないですむということが最大の魅力だったので、結局推せんをお願いして清水の舞台から飛びおりた。」  以上の叙述は、島田がこの仕事を引き受けた理由が、単なる徴兵の忌避にしか感じられないような書きぶりであるが、実相は彼が持っていた(実証的な歴史学の学徒という)職業的倫理観に共鳴するものが、このプロジェクトを担当した海軍側の人間の言動に見出されたからではなかろうか。「ある日、先生の紹介状を持って軍令部戦史部に先任部員(課長相当)の高田俐大佐をたずねた。……高田大佐は……『あなたにこれから書いてもらう戦史は、将来軍機書類として海軍軍人だけに研究させるのだから、あらゆる事実について絶対に筆を曲げないでほしい、よしんばそれで海軍が悪者になってもさしつかえないから――』というそのときの一言は、吹きすさぶファシズムの嵐の中で、自由な歴史研究が妨げられつつあることを感じていた私に、この仕事にたずさわる最後の腹をきめさせた。」    なおこのプロジェクトでは、作家の吉川英治も勅任待遇の嘱託になっていたという。「吉川氏はわれわれの書いた『本紀』に基づいて、一般啓蒙用に筆を振うはずであった。そしてその出版は岩波書店が引受けていた。高田大佐の話によれば、吉川氏はこの仕事を依頼にいったとき、同氏は今後一切他の執筆を絶って、この意義ある任務に専心すると、涙と共に誓ったということだったが、ついに1字も書かずに終戦を迎え、他にも小説を書かれた(もっともその際軍令部の諒解を求めに来られたが)。それは恐らく、われわれの書いた無味乾燥な戦史だけが資料というのではどうにも筆の振いようがなかったことにもよるのであろうが、それよりも次第に吉川氏の胸中において、『大東亜聖戦』のイメージが崩れ去りつつあったことが最大原因だったのだろう。純真な吉川氏にはまことにお気の毒であった。」    ここで島田が記している、吉川が覚えたかもしれない失望は、おそらく島田自身のものでもあったのではないだろうか。敗戦後、組織の解散時に残すことのできた業績は、B5版約900頁の『本紀第1巻』(1937年の第2次上海事変まで)1冊だけだったという。もっとも、島田の遺品として残された史資料群には『本紀第2巻』の草稿も含まれているが、これが日の目を見ることはなかった。島田は戦争後半のある時期から、海軍部内で編纂された戦史の完成を断念し、後世のいつの日か、自身の使命感を充足しうる(そして、広く国民一般にそれを公表しうる)内容の戦史執筆を構想し始めたように思われる。   島田の「歴史家としての良心」―戦後に大成へ  島田の回想は以下に続く。  「戦史部ではジッとしたままで、資料係が転手古舞するほどたくさんの貴重な資料が入手できた。それをいつでも自由に披見できることは、何ごとにも代え難い大きな魅力であった。ことに敗戦の〔19〕45年になってからだと思うが、情報担当の軍令部第3部から、古い資料が場所ふさげでこまるから、そちらで不要なら焼却するがという照会があって、そのあげく資料の山が戦史部に移管されたとき、私の胸は躍った。それらは昭和初年からの各種対外案件に関する陸・海・外の機密電報、外地からの情報、中央国策決定の文書、軍令部甲部員(政策担当)関係の作戦日誌……さては新聞の切抜きに至るまで、いずれも実によく整備された珠玉の資料であった。そのころ私は太平洋戦争のひとつの重要な核である日中両国のもつれ、そして戦争を、いつの日にか解明してやろうと考えていたので、これらの資料の中から主として中国関係のもの――つまり軍令部第6課(中国情報担当)のもの――ばかり200冊余(1冊平均約200枚)をえらび出し、自分用の金庫にこれを格納した。そして公務のあいまにこれを取出しては、少しずつ読んでいった。」    1945年6月になると、空襲を避けて戦史部は保管資料とともに山中湖畔に移転し、島田らは翌々月にその地で敗戦を迎えた。  「海軍大臣からは機密書類焼却の厳命が来ていた。だが当時資料保管の責任者でもあった私には、到底焼く気になれなかったし、また将来のため焼くべきでないと考えた。そこで私は独断で、ある日ひそかに湖畔の村の某家を訪れ、資料の隠匿を依頼した。幸い同家ではこれを快諾し、2階の物置をこれにあてるということだったので、私はすぐにホテルに戻り、夜陰に乗じて運びこむべく、水兵を指図して資料の箱詰め作業にとりかかった。ロビーを資料で一杯にして作業している最中に、終戦だというので本省へ出張した長井〔純隆〕大佐〔海軍兵学校50期、戦史部専任部員〕が帰られた。そしてこの『ていたらく』を何ごとかと不審がられ、やがて真相が分ると「大臣の命令が分らないのか。全部焼け」と命じられた。先任部員の立場としては、もちろん当然の発言だったのだろう。私も上官の命令とあればやむを得ず、速刻箱詰め作業を焼却作業に切換えた。それから4日3晩、徹夜で資料は火葬に付された。炎々たる焔は天を焦し、最初の晩には村人が火事とまちがえて駈付けるほどだった。」    ここで登場する長井が戦後、防衛庁防衛研修所の戦史室(現在、防衛省防衛研究所の戦史研究センター)の室員として海軍公刊戦史の編纂執筆に携わり、大半が焼却処分されてしまった機密書類の欠を埋めるため、関係者の回想やインタビューの実施や史料収集に日々忙殺されたことは、皮肉なめぐり合わせと言える。そして長井らの編纂官は、その作業において、今度は島田の大いなる助力を得ることとなったのであるが、それは島田が秘匿保管していた史資料を参照し得たことによるものであった。    島田の回想を続ける。「戦史部の全機密書類は焼却完了ということになった。しかしそのことは必ずしも事実と符合しなかった。なぜならば焼却の指揮者であった私は、またしても独断で例の2百余冊の日中関係資料をえらび出し、家族を疎開させてあった山中湖畔の借家に、ひそかに運びこませてしまったからである。これは明らかに大臣命令違反であり、またやがて進駐して来るアメリカ軍の追求を受ける恐れもあった。しかしこのことに関する限り、臆病者の私にしてはふしぎなことに少しも恐くなかった。これという理由もなしに、私は当然これを守るべきだし守り得ると考えていた。」「終戦後、私は職場を失い、また元軍令部職員ということから、しばらくは教員の適格審査にも合格せず、いささか世の辛酸をなめた。しかしそのようなことは臆病者、卑怯者の当然受けるべき『しもと』であって、問題ではない。私の任務は、幸い残すことのできたこれらの資料を活用することにある。だから今まで細々とではあったが、これらをもとでに研究を続けてきた。そして一方では、私物ではないこれらに日の目を見せるチャンスをうかがってきた。」    島田が保管していた、この一群の史資料の大部分は、後年、みすず書房の『現代史資料』に収録され、敗戦後約20年の年月を経て国民一般の目に供せられることになった。また防衛庁(当時)による陸海軍の公刊戦史の編纂執筆に際しても、さきにふれたように、それらの史資料が複製され参照されている。その内容から見えるものは、満州事変から日中戦争の拡大まで、日本の海軍も陸軍も外務省も、1930年代に中国に対して相当に強硬な姿勢を取り続け、軍事衝突の発生時にはさまざまな拡大防止の策を検討したことも確かではあるが、全体としては中国側の交戦意思を低く見積もり、また事態収拾の見込みについて著しく楽観し、最終的に国際的な孤立をまねいていったという日本の姿であった。    みすず書房の『現代史資料』編集室は、上記の月報掲載文の紹介において「淡々たる筆致のうちに、『資料』とは日本国民の公有のもの、そして公開への使命感にささえられて、あの敗戦直後異常な緊迫時に、身をもって資料を守りぬいた姿が語られています。――この『焼け』という大臣命令に『焼かない』という行動が、どんな危険を意味し、この反逆がどれほどの勇気を必要とするかは、軍隊で8月15日を迎えた体験者には誰しも判っていただけると思います。」と記しているが、これは歴史家としての良心と硬骨さとを兼ね備えた島田がおこなった、他に類を見ない「日本国民にとっての一大貢献」であったといえる。    1960年代半ばからの短期間で、続々と単著や共同研究の成果が世に出されるにつれて、しかし、島田の健康は急激に損なわれていった。それでも、1970年前後からさかんになった学費問題をめぐる学内での紛争にも正面から対処し、その収束から数年後の1975年12月に満67歳で逝去している。    長いとはいえない生涯ではあったが、敗戦直後には史資料の秘蔵保管という心理的な抑圧(あるいは自責の念)に耐え、戦後は質の高い歴史研究の成果を次々と世に送り、あわせて教育者としても確固たる精神を持ち続け、多くの学生がその薫陶を受けた。このような人物は今後、武蔵においても他の教育機関においても、なかなか現れないのではなかろうか。
2018.07.02
根津化学研究所初代所長・玉蟲文一の足跡と学問観・教育観
はじめに  1936(昭和11)年に武蔵学園内に設置された根津化学研究所は、私立の旧制高等学校が高度な研究活動を展開すべく、特定領域の研究所を設置したという点で、きわめてユニークな存在であった。そして、その初代所長に就任した玉蟲文一(1898-1982)もまた、武蔵学園における化学研究と教育の高度化、そして新制大学における一般教育の充実発展に大きな貢献があった稀有の教員であった。  世間ではじめて彼が有名となったのは、ロングセラーとなった岩波新書『科学と一般教育』を上梓した1952年以降のことと思われるが、本稿では武蔵学園での経験に関わりが深い事項を中心に、彼の足跡とその学問観・教育観の特色、さらには、当時の武蔵での教育の意義について考察してみたい。   1 玉蟲の生い立ちと武蔵学園への就職  玉蟲は1898(明治31)年宮城県生まれ、母方の祖父は玉蟲左太夫といい、江戸幕府が初めて米国と通商条約を結ぶため派遣した使節の一行に加わっていた。仙台藩に帰ってからは藩の学問所であった養賢堂の頭取となったが、戊辰の乱では仙台藩が幕府側に立ったため、戦争終結後に責任を負って切腹となり、玉録家は家財没収、家名略奪となった。家名の復興が許されたのは22年後の1889年、大日本帝国憲法発布の年になってからという。そして玉蟲の父は玉蟲家の養子となり、しばしば朝鮮・中国方面へ出張していたが、玉蟲が9歳の年に京城(ソウル)で急病にあい、若くして客死したという。  東京にでて母の手一つで育てられた玉蟲は一高に入学し、ここで北川三郎(ウェルズの『世界文化史大系』の訳者)と親友となり、東京帝国大学に進学後は理学部化学教室で片山正夫教授に学んだ。1922年に大学を卒業して財団法人理化学研究所の片山正夫研究室の助手に任用され、2年間の助手生活を過ごした後、旧制武蔵高校の教員となる。  玉蟲の教授就任は、当時武蔵高校の顧問であった山川健次郎が、片山教授に化学教員の適任者の推薦を依頼し、片山が玉蟲を推薦したことによる。山川は会津藩の出身で玉蟲左太夫の事蹟を知っており、玉蟲文一の研究教育をこれ以降、強力に支援したという。  旧制武蔵高校における玉蟲の教員生活と当時の高校の雰囲気については、玉蟲自身の回想(『科学・教育・随想』岩波書店、1970年)において、以下のように精細に描かれている。   私が奉職した武蔵高等学校は最初に設立された私立の7年制高等学校であった。そこでは、当時すでに和田八重造氏によって初年級(尋常1、2年、現在の中学1、2年に当たる)の理科の授業がおこなわれていた。その授業は同氏の編著「科学入門」ならびに「生物」によっておこなわれており、前者はアメリカにおける一般科学(ジェネラル・サイエンス)の方法を入れたものであったが、著者自身の体験と工夫にもとづく独特の内容をもつものであった。その内容や方法に対しては、多くの批判や抵抗があったが、和田氏は信念をもってこの自著による理科教育をおし進めていた。同氏の献身的な努力と情熱的な指尊によって、多くの純真な生徒は理科への興味にひき入れられた。私は実際、その影響力によっていかに多くの少年が後に科学に志すようになったかを知っている。私は和田氏の授業をうけついで3、4年の生徒に対する化学と物理を主体とする理科の授業を担当した。   私が武蔵高等学校に就任した際の一条件は、1人で化学と物理を綜合した教案に従って教えるという試みを実行するということであった。当時、一般の中学校では、文部省検定教科書にしたがって動植物、鉱物、化学、物理などがそれぞれ独立の科目として教えられていた。それに対して武蔵高等学校の理科授業は、科学入門(ジェネラル・サイエンス)、生物(ジェネラル・バイオロジー)、理化(フィジックス・アンド・ケミストリ)の系統にしたがって計画されたのであった。……初歩の段階であっても、化学と物理学を―つの綜合科目としてまとめ、かつそれを一人の教師が担当するという仕事は実際にいろいろな困難をともなうものであった。  ……私はできるだけ労をいとわず生徒に実験と観察の機会を与えた。実験室で生徒の行動をみていると、その性格がよくわかった。ある生徒は与えられた仕事を順序よく迅速に片づけてゆくのに、他の生徒はそうではなかった。ある生徒は要求された課題の外にも自らの問題を見出しているのに、他の生徒は課題だけで追いまわされていた。しかし、概して生徒は実験の時間になると活気づいているのがわかった。そして実験のともなわない理科の授業がどんなに生気のないものであるかがよくわかった。 2 武蔵での玉蟲の研究と教育  前項での回想の末尾に記された実験の重要さに対して、玉蟲自身はどのようにユニークかつ有意義なスタイルの授業を展開したのか言及していないが、実際に授業を受けた学生が受けた印象は強烈で、玉蟲の名物教師ぶりは学内にいち早く知れ渡った。受講生であった永松一夫氏(高校16期卒業生・故人)が、1983年に「玉蟲先生を偲ぶ」と題して発表した回想文(『日本レオロジ一学会誌』第11号に所収)が、その情景をリアルに描写している。以下は、その抜粋である。  玉蟲先生が居られた頃の武蔵は、いわゆる旧制の7年制だった時期が大部分をしめる。現在でも中・高あわせて6年の学校もあるが、この年頃の少年にとっての1年は大きな意味を持つ上、時代差もあって、新入生は現在よりも一層小学生に近く、最高学年の方は逆に今の大学生よりも逝かに大人であった。玉蟲先生の授業があるのは高等科になってからだが、校内での評判は高く、部活動の場などで上級生たちから頻繁に玉蟲先生の御噂を聞かされた。「講義が魅力的だ」「話の筋が通っている」「身ぶり、手ぶり、話し方に特徴がある」「大きな声で叱ったりされることは絶対ないだけに“君、それは危ないですよ”などと言われたら大変な事なのだゾ……」等、等。  玉蟲先生の講義が受けられる高等科になるまで、中学に相当する4年間、こうして期待を持ち続けさせられる。そして、ようやくその時期になるのだが、玉蟲先生の援業は期待を上まわるものであった. Langmuirの式、Freundlichの式あたりは玉蟲先生としても特に熱のこもったお話となる故か、現に私の同級生でもその頃から先廻りして統計力学の勉強にまで自分で手を拡げる者も生じてきた。その上、ほぼ毎週講義実験を見せて頂いたのが印象に刻まれている。  中でも忘れられないのは、シキソトロピーのサンプルである。たしか、石英粉―トルエン、ベントナイト―水の系の2種だったと思うが、両方とも試験管に封入されていて、そのまま倒立させても、逆になった底部の方に固まったまま落ちてこないものが、軽く振るだけでシャポ・シャポと音をたてて、掌の中で液化するのがよく分かるものであった。これを生徒たちに手渡されて、ひとりひとりが「ほう」と感嘆の声をあげては隣にまわして行ったのを、昨日のことのように思い出す。この実験は玉蟲先生御自身でもお得意のものであったらしく、私たちが驚異の目をみはるのを、あの、例の「玉蟲スマイル」とも言うべき微笑を浮かべて(一寸首をかしげて)見守っておられた。  このように、高校において多くの生徒の科学探究心に火をともした玉蟲は、また同時にコロイド化学分野におけるすぐれた学究でもあった。1927年には当時武蔵高校の校長であった山川の配慮によって、ドイツのカイザー・ウィルヘルム物理化学研究所に約2年間留学した。帰国後、1935年には論文「2次元状態方程式と表面層の構造」によって東京大学から理学博士の学位を得ている。当時、高等学校の教職にあって学位の取得はきわめて珍しいケースであり、「教育と研究は両立しうる」を持論としていた玉蟲が、自らの活動においてそれを証明したといえよう。  玉蟲は前出の回想録において、「1934―1940年の数年間はおそらく筆者の研究生活において、もっとも恵まれた時期であった」と記している。これは玉蟲が博士の学位を取得して以降、日本が太平洋戦争に突入する(そして1942年に玉蟲が教頭に就任する)直前までの期間であるが、その中で根津化学研究所長としての活動が占めた役割は大きなものがあった。研究所では根津が寄贈した資金を元手に研究が行われ、化学に関する基礎的な問題に焦点が当てられ、物理化学、地球化学、放射化学、化学教育などで成果を出している(これらの成果については『根津化学研究所20年史』1956年に詳しい)。なお以下に掲げる玉蟲晩年の回想からは、彼の目からみた同研究所の規模や社会的位置づけ、そのなかにあって彼の持った強い職業的使命感が伝わってくる。  ……この研究所は、その名は大げさに聞こえるが、学校の付属施設であり、研究員は学校の化学教室の教員(当時都築洋次郎氏と私)であり、ほかに専任の助手1名の給与と年間の経常費として若干の金額が財団から供与されるにすぎなかった。しかし、研究に必要な最小限の機械類、器具類は開設に際して根津氏から寄贈された金額(当時の約3万円)をもって整えることができた。研究施設の規模としてはおそらく当時の国立大学の一講座に比較される程度のものと思われた。にもかかわらず、大学でない学校の中にこのような研究施設が設けられたことは、明るい話題として世間の注目をひいたようであった。  世間の一角からは、武蔵高校が私という個人の足止めのために作った研究所だというような風評もあったが、私としては、この研究所の設立は良心的教育者は何よりも学問研究を大事にするということの表われであり、研究は大学でなければできないという一般論に対する抗弁でもあったと思われた。  いずれにしても私が何の拘束もうけることなく、まったく自由に研究ができるという立場におかれたことは感謝すべきことであり、それだけに課せられた責任の重さを感じたのである。(玉蟲『一科学者の回想』中央公論社1978年に所収) 3 戦後の玉蟲と武蔵学園  戦後初期の玉蟲は武蔵高校のゆくべき道として、武蔵・学習院・成蹊・成城の旧7年制高校を土台とする「東京連合大学」の設置に向けて奔走した。これはもともと、当時の学習院教授であった天野貞祐が提唱したものであったが、この構想に共鳴した玉蟲は「その可能性を打診するために二、三心当りの方面に当ってみた」という。  玉蟲による自身の奔走についての回想は上記のように控えめであるが、この構想については、4大学それぞれの専門学部設置構想を記した「協定案」が作成されるまでにいたったことが知られており、(『武蔵大学五十年史』)。近年では、教育史の研究者である天野郁夫氏が「自発的に模索された私学間の連合化・共同化の試みとしてしかるべき構想」(天野『新制大学の誕生 下』名古屋大学出版会、2016年)と評価している。この構想が、学園間での検討段階に至るまでに玉蟲が果たした役割はきわめて大きなものがあったはずである。  「しかし、当時の各学校の内部事情はそのような1つの理想案を検討する余裕もなく、その意欲すらもちえないことが明らかになった。つまり、この構想は天野博士を中核とするきわめて少数の人々の間での話題となったにすぎなかったが、それもいつの間にか忘れ去られたのである。……やがて学習院も成蹊も成城も、また武蔵もそれぞれの方途に従って新制大学となった。それが自然の成行きであったのである。武蔵では宮本学長の下に経済学部が設置された。そのさい私自身の立場は学長の補佐役であったが、新設学部に対しては傍観者であるにとどまり、いずれは自分自身の行く道を定めなければならなかった」(前出『一化学者の回想』による)。  玉蟲は戦後、1949年の旧制武蔵高等学校の廃止に伴って東京大学教養学部に転じた。1959年に東京大学教授を定年で退職して後は東京女子大学教授就任、そして69年にふたたび武蔵学園で教鞭をとり、あわせて根津科学研究所の所長に復帰した(翌年から名誉所長)。1975年まで再び在職した武蔵学園で、玉蟲は新制武蔵大学の人文学部教授として、人文系の学生に対する一般教育として科学史の講義を担当し、人文・経済学部の共通科目としての科学概論を演習形式で行った。そしてこの時期の玉蟲は「大学における一般教育のあり方」に対する積極的かつ具体的な提言を行い、教育界にきわめて大きな光を放ったことが知られている。  現在我々が容易に入手しうる玉蟲の提言として、ここでは武蔵大学での教育経験に根ざした「科学史と科学教育」(『自然』1973年3月所収)に焦点を当ててみたい。この文章において玉蟲はまず、高等学校までに科学についてある程度の一般的知識を学んでおり、かつ科学を専門としない(もっぱら文化系の)学生人に、何を教えればよいかを問う。「高校の教育はもっぱら一般人のための教育であるから、科学者にとって重要であり、興味あるものであるとの理由によって教材が選ばれてはならない。生徒に対して期待すべきことは多くの科学的事実や技術を習得することではなく、むしろ彼らが将来科学という学問への関心を向け。それについていくばくかの理解をもちうるような素地を養うことである」。  そして、玉蟲が科学史の講義で取りあげるテーマは、たとえば“酸素はいかにして発見されたか”、“エネルギー保存の法則はいかにして確立されたか”というようなものである。この点についての彼の主張を以下に取り上げてみよう。  空気中に酸素があることは小学生も知っている。しかしそれが初めて確認されるまでに、いかに多くの錯綜した道程があったかは、大学生も知らない。そこで18世紀末期にプリーストとラヴォアジエの二人の人物を中心として展開された問題を歴史的資料にもとづいて解説することは、科学における研究や発見の実態を知らせ、科学的方法についての理解を与えることに役立つと思われるのである。また、エネルギー保存の法則については高等学校の物理で教えられているが、どのような人間の経験と推論によってこの法則がみちびかれたかは必ずしも数えられていない。このことについていくらかの解説が与えられないで、この法則の正しい理解がえられるであろうか。落下した物体はひとりでに上ってくることはないという事実は原始人も知っていたにちがいないが、人間は長い間いわゆる“永久機関”をつくることに腐心したのである。この経験の歴史からファラデー、ジュール、マイヤーのような科学者がどのような実験と考察によって、自然界における諸力――当時の語法による――の間の関係を求め、保存の法則に達したかという思索の過程は科学の進歩の実際の状況を示し、この法則の意義を理解させる上に役立つのである。   このような科学的事例は、現代ではすでに“常識化”したものであり、学生にとって“古くさい”という印象を与えるかも知れない。学生はむしろ“素粒子”の話とか、遺伝のしくみにおける“二重ラセン”の話のようなものに魅力を感ずるであろう。しかし、これらのように現に進展しつつある科学の新しい問題は、専門外の者にとっては難解な基礎的知識なしには扱うことができないものである。もちろん新しいものでも事例によっては教育的に適切と考えられるものもあろう。しかし、科学史によって科学の方法やその本質を理解させるという観点から見れば、すでに常識化しているような話題についての歴史的扱いの方がより実際的でもあり、適切であると思われるのである。  いわゆる“リベラル・アーツ”の一科目としての科学史においては、科学史を通じて科学への理解を与えることが重要であるが。その“理解”は単に科学的方法への理解というばかりでなく、さらに広い意味に解さるべきである。それは、科学は元来人間の本性―ヒューマニズム―と結びついたものであること、科学は人間の社会生活や一般的思想と関連したものであること、科学は人類の文化的遺産の重要な部分であること、などに対する理解を与えるものでなければならない。そして科学史はその扱い方によってこのような目的にかなうものとなりうるのである。(以上、「科学史と科学教育」より)  なお、玉蟲は上記の提言と同じ年に「大学における一般教育の立場から見た現下の教育問題」(『教育委員会月報』文部科学省1973年9月所収)という文を発表している。これは戦後の新制大学における一般教育の開始と展開、そしてその問題点をカバーしたものであるが、「国語にせよ、数学にせよ、理科にせよ、人間性に無縁のものはない。例えば、筆者の専門の化学は理科の中の一科目であるが、既知の事実や慨念や法則のみを教えるものではない。それらが知られるにいたる過程を通じて人間の理性の働きとその背景にある社会的・文化的事情についての理解を与えるものでなければならない」とも述べている。   4 おわりに―玉蟲の学問観・教育観の起点について  これまで、参照文献からの抜粋が多くなったが、玉蟲が遺した文章を概観して、「科学が人類の社会生活と深い関わりを持つ」という玉蟲の科学観・学問観が、ある程度浮き彫りになったように思われる。  最後に、上のような科学観・学問観が、いつから玉蟲に育ち始めたのかを考察してみたい。そして、彼が教育の第一線にあった時期の武蔵学園の社会的意義もまた、その作業を通じて、いくらかは明らかになるだろう。  玉蟲は逝去の前年に、「ワイマール末期(1927-29)のベルリン」と題する見聞録を発表している(『思想』1981年10月号所収)。表題の年代から、彼が武蔵高校教授在職中にドイツに留学した時期の思い出を記したものであることは一目瞭然であり、また彼はそれまでも、この留学時の経験談(研究活動や音楽・オペラ・演劇の鑑賞ぶり)を詳細に記した回想を何度も発表しているが、末尾において、いままでの回想になかった以下のような考察がある。   ……右の時期はベルリンの“輝かしい時期”というに適わしく、科学に於ても、芸術においても世界の文化史に残る果実を生んだ。先に引用した物理学者エルウィン・シュレーディンガー(1887-1961)は1932年、“科学は時代の流行か”と題するプロシア・アカデミーでの講演の中で、“芸術は人間気質を透して見た自然である”というゾラの言葉を引用しつつ、科学もまた、その時代や環境と無縁のものではないことを語っている。私が1927―29年ベルリンで体験したことは、このシュレーディンガーの言説を裏書していたかのように思われる。物理学における量子力学や波動力学の勃興は芸術における新即物主義の展開と無関係ではなかったのではあるまいか。ドイツにおけるワイマール末期の芸術や科学がその短期間にいっせいにその花を咲かせ、実を結んだことは偶然ではなかった。それは共にそれらの底流に流れる時代精神の現われであったと言ってよかろう。  玉蟲はすでに1958年に、自身の武蔵高校での教師生活を回顧して「私は理科教師としてたしかに恵まれた境遇にあった。現在は過去とは非常にちがうことは明らかである」と述べ、続けて次のように記していた。   「理科教育の内容や方法は文部省の指尊要領や検定教科書で制約されている。それは一つの基準としては有意義なものであるが、それによって教育が画一化される傾向の強くなることは問題である。人間に思想の自由がなければ、文化の発展は望みえないと同じように、教育者に自由が与えられなければ、教育の効果を期待することはむずかしいのである。……過去をそのまま現在に移すべきではないが、教育におけるかつての自由主義時代の経験は、現在において、とくに尊重さるべきではなかろうか」(前掲『科学・教育・随想』に所収)。  この2つの文章から、以下のような解釈が可能なように思われる。 「玉蟲は、ワイマール末期のドイツにおける人文・自然両文化の隆盛を目の当たりにして、自身も精力的にかかわっていた武蔵学園における『自由な教育』が、場所や時代を超えて、普遍的な意義を持つことを自覚し、その文化的意義が戦後の教育界においても埋没しないように努め続けた」、と。  玉蟲の逝去から35年以上が経過した現在、彼の研究と教育の経験から生まれた教育界への提言は今なお、尊重されるべきメッセージではなかろうか。 化学実験室における玉蟲の授業の様子   1936(昭和11)年に竣工した根津化学研究所内の実験設備を見る根津嘉一郎理事長(右から2人目)。 最も左は桜井錠二学士院長、その右は玉蟲文一教授。最も右に写っているのは山本良吉校長    
2018.07.02
「大臣学長」吉野信次の事績と人物像
学園運営に関する後世からの評価  1956(昭和31)年から1965(同40)年まで大学学長・中高の校長をつとめた吉野信次(1888-1971)は、大正・昭和戦前期の商工官僚、そして政治家(大臣や貴族院議員、県知事)として知られる。第一高等学校を経て東京帝国大学法科大学に入学、在学中に高等文官試験に合格し、1913(大正2)年の大学卒業と同時に農商務省に入り、1937(昭和12)年に商工大臣、翌年には貴族院議員、その後愛知県知事などを歴任し、戦後1953(昭和28)年に参議院議員に当選した。    その吉野が武蔵学園の学長・校長に就任した時は、第3次鳩山一郎内閣の運輸大臣の職にあり、学園での執務は週1日程度であった。彼は就任式の席上で「私はいわばパートタイムの学長・校長」と述べたが、1956年12月の内閣総辞職で大臣を辞した後も1959年まで参議院議員であり、武蔵大学では学部長が事実上の学長、中高では教頭(鎌田都助)が事実上の校長と言われていた。『武蔵学園史年報』第20号の「昭和38年度~40年度の武蔵大学―『教授会記録抄』解題」(星野誉夫氏執筆)によれば、学園から月給は出されず、法人から出ていたのかどうかも不明であったという。    『武蔵七十年史―写真でつづる学園のあゆみ』では、この期間中の学園の運営について、学長校長が不在のことが多く、学部長と教頭との連絡・協力によって進行した、と記されている。「この期間、大学の新館建設を別としても、集中暖房の復活、青山寮・鵜原寮の増築など、父兄・同窓の寄与に頼りながらの諸施設改善が進行した。戦後状態からのこのような立ち直りを、鎌田教頭の円満・謙虚・誠実な人柄が常に支えてきたということができるだろう」。この記述からは、吉野学長・校長が在任中、学園の発展に著しい寄与があったという評価はうかがえない。  また、『武蔵学園史年報』第4号所収の「武蔵高等学校中学校記録抄 その2(1956.4~60.3)」の解題(大坪秀二)においては、在任初期の吉野について、以下のように記されている。  「新制発足から昭和33年までは、もし大学、高中を分離すれば大学に赤字、高中に黒字がついたのであるが、高中の側からとかくのクレームつかなかったのは、新設の大学を盛り立てる為という考えが学園内に多数を占めていたからである。経営学科増設で大学学生数が増加し、一方高中では教師平均年齢の漸増と一部定員割れしている学年があることなどから、34年度で赤黒の関係が逆転した。この時から、大学から高中への経営上の圧力が強まったが、『パートタイマー』を自称する吉野学長校長は調整の努力に欠けるところがあった。この問題は正田学長校長の着任と、50周年記念事業、公的助成金導入に伴う大学・高中経理の対行政上の分離作業成立などに伴って一応の決着を見た」。  「『パートタイマー』を自称する吉野学長校長は調整の努力に欠けるところがあった」と記されている以上、学園全体の運営に積極性が見られなかった、という評価とみて差し支えないであろう。  哲学者で教育者だった宮本和吉学長・校長が1956年に退任したとき、元官僚・当時代議士で運輸大臣であった吉野がその後任となった事情は、現在でも詳しくはわかっていない。吉野に関する正伝『吉野信次』(同追悼録刊行会、1974年)によれば、理事の山本為三郎(のち理事長)が当時の鈴木武雄学部長に対して吉野の就任を打診したとき、鈴木は、「吉野信次には面識がないが、実兄であった吉野作造はよく識り、尊敬していた。その実弟なのだから、役人あがりでも、大学とか学者といったものに対し十分の理解があるに違いない。自分個人として異論はない」という旨回答したという。しかし教授会においては、学問や教育の中立性という観点から現役政治家の学長就任に難色を示す雰囲気であった。  発令日の前日にあたる3月31日の教授会では、深夜の24時になっても了承に至らず、このため時計の針を操作して議事録では「31日夜に了承」とした、という紛糾ぶりであったという。またその際に教授会では吉野に対し、「学長就任後は再び大臣を引き受けない・参議院への立候補もしない」という要望を伝え、吉野もこれに応じての学長就任という経緯があった。  以上より、すくなくとも学内では就任時の吉野について、その人柄や才幹に期待が寄せられていたとは言いがたい。『武蔵大学五十年史』では「多忙のため週に1度くらいの出校であったから、一般の教職員との接触は薄く、また学生から親しまれた学長ではなかった」と、かなり厳しい評価が記されている。   「官僚として一流」といわれた吉野の実像は?  武蔵学園での執務が「パートタイマー」であった吉野だが、では戦後の政治家としての足跡はどうか。現代の目から見て、それは微々たるものであったと言わざるをえない。  吉野が第3次鳩山内閣の運輸大臣に就任した当時の自民党幹事長は岸信介である。この大臣人事における岸の影響力の発揮が容易に想像できるが、吉野が大臣をつとめたのはこの1年1か月間にすぎず、1959(昭和34)年の参議院議員任期満了とともに議席を去り、また多くの関係事業の現役の地位からも降りて、相談役に終始している。政治家生活が終わってからも学長校長の在任期間が5年以上あったにもかかわらず、学園運営についての後世の評価が芳しいものではないことは冒頭にみたとおりである。政治・文教の世界に適しなかった(と、言っても過言ではないだろう)彼の真骨頂は、それではどのような領域にあったのか。  前出の正伝『吉野信次』の序文に、岸信介が次のような一文を載せている。「……吉野さんは大正2年農商務省に入られて以来、累進して商工次官となり、退官後、商工大臣にもなられ、その間大正、昭和にかけて、日本の商工行政、産業政策、特に中小企業育成の政策に秩序と体系を整え、その理論的根拠を樹立された功績は、特筆に値するものでありました。……私の知る限り素晴らしい記憶力の持ち主で、官僚としては最高級の人物の一人であった事は間違いないと思います」。  「官僚としては最高級の人物の一人」という表現は、吉野があくまでも官僚社会の内部でのみ力を発揮できた人間だったといわんばかりに感じられるが、別の場所で岸は、吉野の商工省時代の貢献について、以下のように述べている。  「私は吉野という人は、本当に日本の商工行政を初めて系統立てて、それに理論的な根拠を与えた人だと思う。産業組合は別にして、それまでの産業政策は、その場その場の思いつきみたいなもので、統一した考え方はなかったわけです。商工省の役人だけの考えということではなく、我々の作った原案を審議してもらうために学者や実務家や役人を入れた商工審議会を作ったのですが、それを実際にリードしたのは幹事長役をした吉野さんでした」(『岸信介の回想』)。  この商工審議会の設置当時、吉野の8年後輩として重用されていたのが岸であった。昭和初期の商工省において、吉野と岸は強力なコンビを組み、産業合理化路線において省内をリードした。1931(昭和6)年の重要産業統制法や工業組合法、翌32年の商業組合法などは、このコンビが生み出したものであった。他方で財界や自由主義者からは警戒された。1936年には当時の商工大臣であった小川郷太郎によって2人は辞表提出を迫られ、それぞれ新たな仕事場を求めるに至る。この時点で吉野は次官就任から5年が経過していたのであるから、省内での力は絶大なものであった。  吉野や岸が注目を集めた時期は、兄の吉野作造がかつて、その象徴的存在であった「大正デモクラシー体制」が急速に衰退しつつあったときであった。昭和初期から続く恐慌のなか、政党政治の腐敗を糾弾し、満州の重要性を強調し、中国ナショナリズムの挑戦から日本権益を守るために積極的に行動すべしとして、国内政治の革新と強硬な対外政策の樹立を要求する主張が国民大衆の支持を得ていた。  満州事変が発生した1931年当時、政友会の幹事長でありながらも、従来の議会政治擁護の態度を捨て、政友会と軍部との提携による独裁政治の実現を強く主張していた、森恪という人物がいた。そして、国内革新を断行して政治権力の強化と統制経済を確立することにより、はじめて日本は大陸へ膨脹することが可能であると信じた森が、当時連絡を保っていた軍人や官僚の一人に、吉野がいたことも知られている(緒方貞子『満州事変―政策の形成過程』)。  また1935(昭和10)年ごろになると、陸軍を主体として軍需工業と基礎産業の生産力を拡充するための計画作成が着手され、1937年には「重要産業5ヶ年計画要綱」が第1次近衛文麿内閣(同年の6月に成立)に提案されており、内閣はこれを受けて「我国経済力の充実に関する件」を閣議決定し、あわせて財政経済3原則(生産力の拡充・物資需給の調整・国際収支の均衡)を発表した。生産力拡充が経済統制を要請することを表明したこの原則は、当時商工大臣に就任していた吉野と賀屋興宣(おきのり)大蔵大臣の名で発表されている。そして翌38年の内閣改造で大臣を退いた吉野は、満州重工業開発会社の副総裁を2年間つとめている。  このような経歴から、兄の作造と対照的な国家観・政治観の持ち主として吉野をとらえる見方が一般に広く行き渡っているようである。作造の妻であった玉乃と、吉野の妻であった君代とは姉妹であったが、彼ら彼女ら4人を描いた評伝劇『兄おとうと』(講談社刊)において、作者の井上ひさしは次のように4人に言わせている。   信次 君代、これ以上、ここにいては危険だ。帰ろう。   君代 おにぎりがまだのこってる。   信次 (改まって)万世一系の神聖にして侵すべからざる巨きな存在から下しおかれた憲法、その憲法にたいし、きみの義兄は不敬をはたらいている。それが判らないのか。【引用者注:「きみの義兄」という部分に傍点あり】   君代 きみの義兄? へんな言い方なさるのね。   信次 帰るんだ。   君代 いまのはただのお講義でしょう。   信次 その内容は大逆罪に相当する。   作造 待てよ、信次。憲法の原理を説いて、なぜ大逆罪なんだ。ましてやここは学問の府、どんな議論も許されるはずだよ。   信次 国家の官僚としてとうてい聞き逃すことのできない話を耳にしました。しかし、密告はしません。それが、弟としての最後の友情、と思うからです。     信次、さっと出て行く。君代、作造や玉乃に目顔で「さよなら」を告げて、そのあとを追う。   作造 弟として最後の……どういう意味だ。   玉乃 あなたが、うーんと遠いところ、怖いところへ行ってしまった。だから……。   作造 ……縁を切る?     玉乃の悲しいうなずきに、作造、暗然となる。  だが、国家革新の流れを代表する人物として、兄と対比(そして対決)させて吉野を描いたその像が、はたして史実に即したものであるのか、引用者にはやや疑問に感じられる。商工次官を辞任してからの吉野が顕著な事績を見せた、あるいは大いに実力を発揮できた(すくなくとも当人がそう感じえた)場は、戦前戦中の日本(・「満州国」)に存在しなかったことは、正伝『吉野信次』の記述からも明らかである。むしろ引用者には、その像は吉野というよりも、戦後に戦犯容疑者から総理大臣にまで上り詰めた岸信介について、より当てはまるように思われる。岸が「官僚としては第一級」と評したように、吉野は世の中の趨勢に抗ったり、あるいは趨勢をつくるというより、むしろ既定の国家の路線のただ中にあって着実に成果を積み重ねることに適した人物であったといえるのではないか。  ここで、吉野作造記念館の研究員である小嶋翔氏が吉野のパーソナリティに関して以下のように述べているのは、注目すべき分析と思われる。「信次は帝大卒業後の就職先探しについて『就職について特別の希望もなかった』『折角高文試験に合格したのだから官庁へでもと思って』などと回顧しているが、こうした野心の希薄さには、かえって大正時代らしい新しい国家エリートのあり方が認められると思われる。『天下国家』や人類の歴史といったことに大志を抱くよりも、目の前の仕事を着実にこなし、実際的な努力の結果として得られた成果に、職業人としての人生の充足を覚える、というあり方である」(「吉野信次の思想形成」『吉野作造研究』第9号、2013年所収)。  なお吉野が兄作造をどのように見ていたか、その思い出を語った文章が、『青葉集』に掲載されているが、その中で次の一節は、兄弟の性格や生き方の相違や、兄弟間の距離を感じさせる象徴的な記述ではなかろうか。  ……年が十も違つては、吾輩の物心のついた頃にはもう仙台の学校へ遊学中であったから、家庭で兄に甘えて遊んで貰った記憶がない。  ……[兄が]漸く多年の宿望の留学が出来ることになって、二つの故障に遭遇した。……一つは金である。子供が五人もあったから、洋行中の家族の生活費の問題である。流石に金に対しては無頓着な彼も之には弱ったらしい。それを[徳富]蘇峰先生の尽力で、当時政界に飛ぶ鳥を落す勢力のあった後藤新平伯より三ヶ年間、毎月五百円宛頂戴することになって大安心をした。其の辺の事情は吾輩はよく知らない。蘇峰先生とも当時昵懇と云う仲ではなかったらしく思う。  ……第一回は兄が出立前直接に受取り、第二回以後の分は弟にお渡しをと云う訳で、紹介方々[明治]四十三年の春だったか、時めく通信大臣官邸に朝早く兄に連れられて行った。帰るさに銀座の松喜と云ふ牛肉屋で朝食を奢ると云い出した。所が生憎貰った斗りの百円札五枚の外、電車賃の小銭があるに過ぎぬ。百円と云えば大金だから、之で牛肉屋に上っては具合悪いと思ったらしく、兄は兎も角牛肉代を借りる積りで銀座裏の知人の家に行ったものだ。朝早くの珍客の御入来で一寸驚いたらしい。  あれで妙にはにかみやの癖があって、仲々要点を切り出さない。吾輩は朝早くからやって来てるので腹が減った。下らぬ世間話はやめて早く金を借りればよいとヂリヂリしてたらば、漸く一寸買物をし度いので百円札を細いのに代へて貰えまいかとやったものだ。素より家の構えから見て百円の手持があろう筈がないことは書生っぽの吾輩にだって明白である。果して先方では迷惑顔をした。実は少々入用なんですが、これを向けたら三十円位ならここにありますとの返事だ。いや十円もあれば結構ですと云う訳で、十円札一枚借りるのに一時間以上も費した。松喜の牛肉を生れて始めて御馳走になった。  今から考えると午前の十時頃に牛肉屋に行くのも変な話だし、百円札を銀行で両替えて貰っても宜かろうし、或は松喜の支払に出しても差支なかりそうに思われるのに、随分廻りくどい事をやったものだ。俗事に疎いと云うよりは、そう云う性格の半面を持った人であった。  海外留学を卒えて大学の助教授となってからの兄に付いては別段茲(ここ)に書くことはない。云わば公人としての活動期に属するので、寧ろ吾輩には之を叙する資格がないと云って宜しい。第三者として眺むれば華かな所もあったが、文字通りの悪戦苦闘の四字に尽きると思う。……   吉野学長校長の積極的事績と教育観  (あくまでも官僚として)抜群の有能さを評価された吉野が、それでは武蔵大学学長・高中校長として、どのような事績を残したであろうか。ここであらためて確認してみたい。  吉野の在任中の事項として特記されるのは、1961(昭和36)年に「君が代斉唱」の必要を述べた件である。『武蔵学園史年報』第8号所収の「武蔵高等学校中学校記録抄その4 1960.4~1967.3」(大坪秀二編)によれば、吉野は4月17日の教師会において「今まで歌っていないものを急に歌うのもどうかという意見もあるが、歌わないことの理由はどこにあるのか。とにかく、歌う歌わないは別問題として高校を卒業して国歌を知らない国民が出現する心配は無いものだろうか。またそれで良いものだろうか。これはある意味で根本問題だと思う」と述べ、ただそれに続けて「ここで今すぐ議して貰わなくてもよいが、以上問題を提供しておく」と発言し、この問題はそのままとなったという。学長校長在任中の吉野について、現在の目から見た評価は「積極果断な、かつ大きな変革への取り組みが見られなかった」ということになろう。  ただ、前出の『武蔵大学五十年史』は、吉野が教職員と接触が薄く、学生からも親しまれていなかったと記した後、続けてこのように記している。「しかし、吉野学長の期間には、経営学科の新設と大規模な施設の拡充が実現されたという点で、大学の歴史に残る仕事を成した学長の一人であった」。  詳細は正史の記述に譲りたいが、大学の拡充に消極的であったといわれる宮島清次郎理事長、山本為三郎理事をはじめ学園の要路の説得に吉野は成功し、経営学科の増設や大学1号館、そして研究棟・図書館・学生ホールの建設を実現させている(『武蔵大学五十年史』、向山巌「経営懇談会記録解題―経営学科創設との関連について」(『武蔵学園史年報』第4号所収)、大坪秀二「武蔵学園経営懇談会記録解題」(同じく第4号に所収)による)。  大学における人文学部の設置をはじめとする学園の飛躍的な発展は、1965(昭和40)年4月に吉野の後任として学長校長に就任した正田建次郎によってなされたと言えるが、それまでの「つなぎという立場」(前掲『吉野信次』)として、学科と設備面での拡充に関しては、吉野学長の寄与貢献があったことになる。    最後に、吉野は学生に対してどのような希望を託したのかを確認しておきたい。入学式・卒業式の祝辞などは 『武蔵大学新聞』のバックナンバーにおいて確認できるが、ここでは正伝『吉野信次』(執筆者:有竹修二)に収録された、卒業式の挨拶(初出は武蔵高校・中学校の学園雑誌『大欅』創刊号(1965年)、当時の吉野は名誉校長)を紹介したい。そこでは、19世紀の詩人であったヘンリー・ワーズワース・ロングフェロー(Henry Wadsworth Longfellow)のA Psalm of Lifeの一節が引かれ、吉野の解説あるいは解釈が記されている。  Lives of great men all remind us     we can make our lives subline,  And, departing, leave behind us     Footprints on the sands of time ;  Footprints, that perhaps another,     Sailing o'er life's solemn main,  A forlorn and shipwrecked brother,    Seeing, shall take heart again.  「……われわれは、この世においては、この人生の、(sands of time) 時の砂の上に、ある足跡を残すような気持ちで奮発しろ。どうせ、どんなにえらい人でも、結局、時の波というものには、みんな洗われちまうんです。  われわれは、人生に残した足跡というものは、これは、永久に岩に刻むようなわけにはいかないんで、やっぱり砂の上の足跡なんですね。いずれは消えてしまうんだ。消えちまうんだけれども、しかし、短かい間でも、その砂の上に残した足跡というものがあれば、あとに来る人がこの足跡を見て、大いにふるい立って、勇気を起こすだろうというんです。  それだから、いま、支那流、東洋流にいうた『志は不朽にあり』というのが、そういう意味なんだ。そういう学に志す心という気風が、私は非常に欠けていると思うのですよ。……あなた方も、この卒業という段階の時に、いま申したように、志を不朽にもって、そうして自分の与えられた境遇で、どうしたら一番効果的の勉強をすることができるかということに、私は一段と力を尽くしてもらいたいと思います。……」  引用者には、この挨拶が、役人生活を終えて以降、(あくまで引用者の想像であるが)会心の活躍の場がなかった自身の人生を振り返り、かつ、学長校長としての事績が微々たるものであったことを自覚していた吉野の、きわめて深い感慨が込められているように感じられる。   ↑ 吉野信次学長・校長(在任期間:1956-65年)   ↑ 1964(昭和39)年6月に開催された、「第4回武蔵大学土曜講座」にて、「我が邦工業政策の変遷」と題して講演を行っている吉野学長   ↑ 吉野信次学長の武蔵大学卒業式(1963年度)送辞原稿
2018.07.02
武蔵学園の創設と本間則忠の「十一年制寄宿舎」構想
はじめに  1921(大正10)年9月、財団法人根津育英会が設立され、1922年4月の旧制七年制武蔵高等学校開校に向け動きが本格化した。その中心となったのはもちろん初代理事長根津嘉一郎であったが、根津に学校建設を働きかけ、さらに具体的なプラン作りにも大きな影響を与えた人物として、本間則忠(1865~1938)という文部官僚がいた。その本間の構想については、すでに大坪秀二「武蔵創設の『初心』 創立前史に想う」によって紹介されている。それによれば、ドイツのギムナジウムを模した中高一貫教育と、イギリスのオックスブリッジなどのカレッジにみられる学寮制を併せ持ったようなものであり、特に学寮制については、日本の旧制高等学校のような精神主義的で「バンカラ」風なものでは決してなく、人格陶冶をめざし、教師と生徒が同じキャンパスで生活することで「広範に教育活動を展開」できるような、まさしくイギリス風の寄宿舎を考えていたという。そして、大坪はそのような寄宿舎が結局は実現しなかったことを「ちょっぴり残念な気もする」と述べている。  この項では、この本間構想が実際にどのようなものであったのかを改めて振り返ってみたい。というのも、じつは2016年より元国立国会図書館長大滝則忠氏らの手によって、同年夏に発見された「本間則忠旧蔵文書」の整理が武蔵学園記念室で進められている。2018年8月の時点で整理作業はまだ進行中であるが、それでも少しずつ新たな事実が判明しつつある。そこで、ここではいわばその中間報告として、新事実を含めて本間の構想を再構成したいと思う(以下、特に出典を注記せずに引用する資料は「本間則忠旧蔵文書」所収のものである。また、引用文は現代語風に書き換えた)。   1 本間と平田東助・根津嘉一郎  まず、本間について紹介しよう。現在の山形県東置賜郡川西町玉庭の農家に生まれた本間は、山形師範学校(当時の師範学校は授業料がないため、貧しいが優秀な生徒が通う学校というイメージが強かった)を卒業して小学校教員となり、さらに東京の高等師範学校(現・筑波大学)を卒業すると長崎県師範学校教員として赴任した。ここまでは通常のエリート教員のコースであるが、本間の場合は、こののち文部省に勤務することとなり、かつ40歳で文官高等試験(現・国家公務員試験Ⅰ種)に合格し、いわゆるキャリア官僚となった点がほかの者と異なっていた。このような履歴をみる限り、歳をとっても刻苦勉励を怠らずに教育界・官界で立身出世に成功した人物であり、勉学というものの重要さを身に染みて理解している人物といえよう。しかし、そんな努力型の彼でも、50歳頃になると官界での出世に陰りが見えてきた。本間の後ろ盾となってくれた人物として、同郷の先輩である元内務大臣平田東助(1849~1925)という大物政治家がいたが、この頃の本間は、しばしば平田に書簡を差し出し、なんとか自分を引き立ててくれるよう懇願している。  その平田も武蔵学園に由縁の深い人物なので簡単に紹介しておこう。彼は米沢藩の医師の家に生まれ、明治維新後は藩命で上京し勉学に励んでいた。その際に優秀さが認められ、いわゆる「賊軍」出身であったにも拘らず、岩倉使節団に加えられそのままドイツに留学した。帰国後は法制官僚となって伊藤博文の憲法調査団にも加わっている。その後は、反政党意識を強く持つ山県有朋に近い官僚政治家として貴族院に強い影響力を持つ一方、現在の農業協同組合の前身である産業組合の育成に力を注いだり、教育振興にも熱心に取り組んだ。そんな平田と本間が最初に接触したのは、1894年に本間が東京の高等師範学校に入学する際に、平田に保証人になってくれるよう依頼した時であった。この時は、面識がないとの理由から本間の申し出は断られたが、その後は平田の子供たちからも本間は慕われたようで、家族的な付き合いをするようになっていく。したがって、平田も本間のさきほどのような懇願には大いに配慮したものと思われるが、それでも結局、本間の希望が叶うことはなかった。  根津と本間が運命的な出会いをしたのは、丁度このような時であった。1915年12月、大分県別府温泉日名子旅館に静養のため宿泊していた根津を、大分県理事官であった本間が訪問し「秀才教育の施設経営」を熱心に説いたのである(本間則忠「武蔵高等学校創立に関する経過」)。ただし、これが両者の初対面ではなかった。本間は根津の出身地である山梨県で役人をしていたことがあり、その頃根津が本間に「御書面の件に付ては自分にも多少意見もあり、いずれお目にかかった際に申し上げたい」との趣意の書簡(1909年7月24日付)を送っている。この書簡は、根津が公益的な事業に私財を投じたいと考える契機となった実業視察団の出発直前であり、「御書面の件」の具体的内容がどのようなものであったのか是非知りたいところであるが、残念ながらこれ以上は不明である。  さて、この出会いの後、「武蔵高等学校創立に関する経過」によれば、翌1916年12月、再び別府を訪れた根津は、本間に前年の提案に承諾を与えるとともに、その実行方法を本間に委嘱したとあり、学園建設に向け順調な滑り出しを切ったように見えるが、この後も創設までには様々な紆余曲折があった。じつは本間はこの頃、大物実業家の久原房之助(1869~1965、日立製作所などの創設者)にも同じような提案をしていた。つまり、二股をかけていたのであり、それを示すのが1917年6月付の久原宛本間書簡控である。久原はこの頃、自身の出身地である山口県下松に一大工業都市を建設する計画を持っており、その一部として学校の設立も含まれていた(『久原房之助』日本鉱業、1970)。そして、その校長に東京高等師範学校校長の嘉納治五郎を予定しており、その嘉納は本間を同校の幹事(校長の補佐役)に擬していたのである(1917年12月12日付平田東助宛本間書簡控)。しかし、久原の計画はアメリカの鉄禁輸の影響を受けて頓挫し、同時に学校設立も一時中断してしまったようで、本間にとっては根津が唯一の頼みの綱となってしまった。   2 「十一年制寄宿舎」構想  さて、本間がめざした学園とはどのようなものであったのか。「本間則忠旧蔵文書」には作成時期は不詳であるが、本間が執筆したと思われる「秀才教育に関する施設経営」という史料が存在する。それによれば、「人生を通して教育上、最も大切な時期は青年時代である。青年時代は身心の発達最も旺盛にして、まさに保護者の干渉を脱し、独立の地位に就かんとする」時期なので、「青年個々の資性に応じて適切な教育を施し、特に英才俊秀の者に対してはこれを抜擢して適切な教育を受けしめ、自由にその驥足を伸ばさせる」必要があるという。これは、当時の画一的な教育を強く非難し、「個性教育」を主張したものであった。そして、これを実現するためには、まず中学校では全国から優秀な人材を集めた上で、校舎と寄宿舎を一体化し、教師と生徒が親子のごとく接することができるような環境を整え、そこで勉学の進展と天稟の才能の自由な発達を促すことが重要である、と本間は述べている。  さらに、そのような中学校を卒業した者に対しては、「親」からの必要以上の干渉は個性の発達にとってむしろ有害なので、既に存在する官立の高等学校や大学(一高や東京帝国大学を指すと思われる)に進学させることをめざすべきであるが、その一方で、進学した学生たちには「独立自修」の便を与えることが重要なので、そのような設備がある寄宿舎に依然として留まらせるべきであるとも彼は主張する。つまり、中学校5年間、高等学校3年間、大学3年間合計11年間の寄宿舎生活を構想していたのである。そして、こうした教育を受けた者は将来、各方面における「大器」の指導者として活躍することが期待できるであろう、と本間は結んでいる。  以上のように、本間構想の特徴は、第一に、画一的教育に対し「自由」「個性教育」「独立自修」を重んじたことであり、第二に、11年間という長期間に亘る寄宿舎生活を送ることにあった。特に第二の点は、「前古未曾有の大教育事業として、世間の注目を受けるべきものはこの学寮制度の実現にほかならず」(1918年11月6日付根津宛本間書簡控)と本間自身が語っているが、確かにそれも首肯できよう。彼は、このような形でドイツのギムナジウムと、イギリスのカレッジにおける学寮制の両立を、東洋の日本で実現しようとしたのであった。なお、「本間則忠旧蔵文書」中には、当時本間が作成したと思われる図面も残されているので、文末に掲載しておいた。  ところで、このように長期の寄宿舎生活を強いるとすれば、その寄宿舎に「自分の家のごとき親しみを与えることができるか否か」が重要であり、それは「学寮敷地の良否により決する」(同前、書簡控)ことも確かであった。このため、本間は学校の建築場所に強い拘りをもっていた。具体的には、風教の良さや交通の便はもちろんのことであるが、「採光通風佳良にして高燥の地」でなければならない、なぜならば「近視眼と脚気が学生の最も冒されやすい病気であり、ことに地方出身の学生には脚気の用心が最も必要なので、運動を奨励し胃腑を健全にする」ことが必要であったからである。もっとも、実際に土地の選定にあたったのは、いまだ地方官として地方に在住していた本間ではなく根津自身であった。根津は不動産業者の小玉光威なる人物を通して土地を物色したが、最初に候補に挙がったのは谷中(台東区)であった。しかし、本間にはここでは工場の煙が多く流れ込むのではないかという不安があったようである。つぎには、滝野川(北区)が候補地となったが、ここも地価で折り合いがつかなかったり、陸軍の火薬庫がそばにあることが問題であったようで、本間が「いずれの点から見ても不足の無い」と表現した現在の練馬区豊玉に決定したのは、1919年の4月以降のことであった(1918年11月6日付根津宛本間書簡控、1918年12月5日付本間宛小玉光威書簡)。   3 本間構想の挫折とその功績  以上が本間構想の概略であるが、つぎにこの構想がどのような経緯をたどって最終的な七年制高等学校に落着したのかをみていきたい。これに関しては、本間が作成したと思われる「本校創立事情記録」と「武蔵高等学校創立に関する経過」のほかに、北條時敬の日記を掲載した『廓堂片影』(教育研究会、1931)や花見朔巳編『男爵山川先生伝』(故男爵山川先生記念会、1939)、および近年発見された小宮京・中澤俊輔編『山川健次郎日記』(尚友倶楽部、2014)などが参考になる。 まず、指摘しておきたいのは、根津嘉一郎が本間構想を全面的に支持した訳ではなかったことである。1919年3月30日付本間宛根津書簡には「敷地に付ては目下二三交渉中であり、不日相談が整うものと思われる。そして、適当の時期に発表するつもりであるが、その時期は私の考えに任せてもらいたい。また、趣意書についても他の方と相談したいので、貴台が趣意書を起草するのは暫く見合わせてほしい」と記されている。即ち、学校敷地や学校の全体的骨格については、あくまでも根津が主導権を持っていた。  土地の目途もついた1919年9月、その根津の動きが本格化した。根津と本間はまず平田東助に正式に援助を依頼すると、平田はそれに承諾を与えるとともに、山川健次郎(東京帝国大学総長)、岡田良平(前文相)、一木喜徳郎(元文相)、北条時敬(学習院長)にも相談するよう進言した。彼らはいずれも当時の代表的な教育家である。これをうけて9月28日には山川には平田から、北条には正田貞一郎、宮島清次郎からそれぞれ依頼がなされている。  そして、10月3日午後4時を期して南青山根津邸で平田、山川、一木、北条、佐々木吉三郎(東京高等師範学校教授)、根津、正田、宮島、本間らが会合を開き、まず根津側から二百万円の提供と一万坪の土地を既に購入したことが示された。これに対し、学校建設そのものには出席者一同みな賛成したが、どのような学校にするかで紛糾した。北条の日記には「俊才を集める中等教育」が議題であったと記されているので、これはあくまでも推測であるが、本間の前述のような構想がここで開陳されたものと思われる。しかし、これに対し、山川は「実業補習学校」案を提案した。実業補習学校とは、小学校の義務教育を終えた者が進学する中等教育程度の機関であるが、実業に従事することを想定した修業年限3年の職業訓練学校であり、本間のめざす「秀才教育」のための「十一年制寄宿舎」とはかけ離れたものであった。さらに、あとで触れるが、「七年制高等学校」案も提唱されたものと推測される。このため、結局この日は決議するに至らなかった。これ以降の状況については、これ以上判然としないが、『男爵山川先生伝』には次のように記されている。  本間氏は〔以前から〕将来大臣大将を以て任ずる如き学生を養成する学校を設立すべきことを根津氏に進言してゐたが、第一回会合〔10月3日の会合のこと〕の折に実業学校を作るべきことを主張するもの〔山川のこと〕もあり、根津氏の意見もこれに傾いたのであつたが、時恰も七年制の高等学校が岡田文相の発案で出現することゝとなり、之が人物を養成するに好都合だといふので、〔第二回会合の前には〕根津氏の学校も我国最初の七年制高等学校として誕生することに略々決定してゐた  即ち、第一回会合と第二回会合の間の根回しで、本間の言う「将来大臣大将を以て任ずる」ような「秀才」の養成を目的としながらも、学校としては「七年制高等学校」に変更した形に落着したようである。この「七年制」案を主張したのは、引用文中にある岡田のほかに平田、一木であったと思われる。大坪秀二が明らかにしたように、以前からギムナジウムのような七年制高等学校という制度に強い執着を持ち、実際にそれに基礎に1918年に新高等学校令を法制化したのは、ほかならぬ彼らたちであった。  ここで少し説明を加えておきたいのは、引用文中の「将来大臣大将を以て任ずる如き学生」という表現である。おそらく『男爵山川先生伝』は、本間が以前から主張していた「秀才」の意味を「将来大臣大将」と解釈したものと思われるが、「本間則忠旧蔵文書」中の資料をみる限り、大将(軍人)を育成しようという発想は見当たらない。むしろ、当時の制度では「大将」へのキャリアパスとして、「七年制」のような学校はふさわしいものではなかった。  さて話は戻るが、前出の第二回会合は1920年2月29日、一ツ橋如水会館に本間を除く前回のメンバーが集まり、以下のことを決定した。   ・七年制高等学校とすること   ・総裁平田、顧問山川・岡田・北条、理事長根津、理事本間・正田・宮島、校長・一木    とすること   ・山川の発案で、根津が提供する資金を増額すること  このうち、資金について付言すれば、前述のように山川は「実業学校」説を唱えたが、その理由の一つはおそらく資金面にあったと思われる。彼にしてみれば、「七年制高等学校」や「十一年制寄宿舎」では、金銭的に維持管理が困難であると感じたからであろう。しかし、根津が増額を承諾したことで、彼も「七年制」に同意したものと思われる。  もう一つ付言すれば、前述の引用資料中に、山川の「実業学校」案に根津の意見が傾いたとの記述があったが、これも事実だったようである。「本間則忠旧蔵文書」には武蔵学園創設後、九段の中坂に宮島清次郎を校長として、実業教育を施す第二根津学園構想があったことを示す資料がある。これにも本間が深く関わっていたようであるが、結局実現することはなかった。  こうして、本間の構想は実現することがなかった。しかし、本間は別の形で大きな足跡を残した。当初は「東京高等学校」という校名を予定していたが、同時期にやはり七年制として設立が予定されていた現在の東京大学教育学部附属高等学校もその名称を使用しようとしており、結局は根津側が「武蔵学園」に変更したが、それを考案したのが本間であった。また、現在でも武蔵大学3号館として利用されている建物が、木造から鉄筋コンクリート造りに変更されたのも本間の主張によるものであった。    「十一年制」学校概略図  (「本間則忠旧蔵文書」収蔵) ※本図には、高等学校寄宿舎が記入されていないが、本間則忠は高等学校を大学の一部として取り扱っていると思われる。
2018.06.11
鈴木武雄―武蔵大学経済学部の生みの親
はじめに  経済学部のみの単科大学としてスタートした武蔵大学の基礎を創り、「ゼミの武蔵」の風土を醸成した*1 といえるのが、この項でとりあげる鈴木武雄である。鈴木の経歴を紹介しながら、創設期の教員配置における鈴木の人脈や「ゼミの武蔵」の風土醸成の背景を整理することに努めたい。記述にあたっては鈴木自身による回顧録である『鈴木武雄〰経済学の五十年*2 』(発行人・鈴木洋子、制作・社団法人金融財政事情研究会、1980年[非売品])および「鈴木先生を囲んで武蔵大学の草創期を語る〈第一部〉*3 」(『武蔵大学同窓会報』30、1981年)を基本資料とし、関係者による文章など各種周辺資料を利用する。 1.文学青年を経て経済学を志す  1901(明治34)年生まれの鈴木は、兵庫県立神戸第一中学校(現・神戸高校。以下、神戸一中)を経て第三高等学校文科丙類(1919年9月入学、1922年3月卒業。以下、三高)に学んでいる。9月入学で3月卒業と在学期間が変則的であるのは、1920年に行われた学年終始時期の変更による*4 。  いわゆる旧制高校におけるクラス分けは、文科においても理科においても学習する第一外国語によって行われていた。鈴木が在籍した丙類はフランス語選択である(甲類=英語、乙類=ドイツ語)。志望者の多い甲類や乙類ではなく丙類を選んだことについて、鈴木は「実はそのころおやじから外交官になれといわれて、ぼくはそれほどなりたいとは思っていなかったのですが、そのためにはフランス語がいちばんいいんだろうというぐらいの気持ち」と「多少、文学青年的になっていたから、フランス語をやってフランス文学を」という気持ちであったと述べている。  旧制高校時代には同級生の大宅壮一(大宅は文科乙類)らに誘われて新劇運動に熱中し、『キネマ旬報』への映画評論の執筆も盛んに行うなど文学青年であったというが、鈴木を社会科学方面へと導いていったのも大宅壮一であるという。大宅のほか、浅野晃(文科乙類)、服部之総(文科甲類)らと河上肇の講義を聴きに京都帝国大学へ通っていたというエピソードも残されている。  それでも、外交官になってもらいたいという父親の希望から東京帝国大学進学時には法学部政治学科を選び、高等文官試験も受験・合格している。このため大学卒業時には法学士称号を得ており、これは後年の武蔵[旧制高等学校]着任時に経済学ではなく法制概論を担当した背景ともなっている。とはいえ記憶に残っている講義として名前を挙げているのは渡辺銕蔵の経済政策や矢作栄蔵の農政(農業経済)学、後に師事することになる大内兵衛の社会政策などであり、学部を卒業するころには経済学を学ぶことを志すようになっていたという。なかでも政治学とも関連の深い財政学を専攻することを望み、1925(大正14)年に学部を卒業すると大学院へ進学し、土方成美や大内兵衛に学んだ。このころから大内の影響で金融関係の論文を発表しており、鈴木にとって初めてのアカデミック・ポストとなる京城帝国大学法文学部講師(のち助教授をへて教授*5 )においても貨幣金融論を担当した。 2.京城帝国大学での教歴と武蔵大学の創設  京城帝国大学とは、日本統治下の朝鮮半島に6番目の帝国大学として1926年に設立された大学である(学部開学に先立ち、高等学校高等科に相当する予科を1924年に開設した)。鈴木は1928年4月に法文学部講師として着任、翌月には助教授となり財政学講座、経済学第二講座を担当した(2年間の留学を経て1935年から教授)。この大学での経験が、のちに武蔵大学経済学部を創設する際に様々な面で影響を及ぼしていることが鈴木自身の回顧からも読み取れる。  最も大きな影響は、人脈の形成であろう。そもそも鈴木を武蔵に招いたのは当時高校校長であった宮本和吉であるが、宮本は京城帝国大学法文学部で哲学・哲学史講座を担当していた人物である。宮本は「[引用者補:武蔵大学として]経済学部をつくることになったので、自分は哲学者で経済学のことはさっぱりわからんから*6 」と「五顧の礼」(実際に鈴木を五度訪問した)で鈴木を迎え、大学創設の中心に据えた。着任時の身分は武蔵高等学校講師であり、1948年度後期から高校生に法制概論を講義しながら設立準備を進めたという。  当時は新制大学、とりわけ経済学部の創設が相次ぎ、教員スタッフの確保に苦労があったというが、経済再建研究会(のち経済発展協会)における鈴木の人脈(渡辺佐平、芹沢彪衛)に加え、京城帝国大学人脈からも教員が招かれている(山口正吾[無給副手として京城帝国大学法文学部経済研究室所属、のち京城高等商業学校教授]、藤塚知義[経済思想史。父の藤塚鄰が京城帝国大学教授])。経済学分野のみならず、教養科目担当として鵜飼信成[法学]、有泉亨[民法]、船田享二[憲法]、高橋幸八郎[西洋経済史]、山田文雄[経済学]が講師として授業を担当した。助手として採用された波多野真、小沢辰男、秋山穣は東京帝国大学経済学部の教え子であるなど、むろんのこと京城帝国大学関係者以外からもスタッフが招来されたが、いずれも鈴木のネットワークによるものであった。鈴木自身が「まあ極端に申しますと、ほとんど私が個人的に懇意であり、知っているという人に頭を下げて来ていただいたと。中にはそういう人からまた推薦のあった人に来ていただいたというようなことで、[中略]ほとんど私が一人で、自分の知っている範囲の人を歩き回って連れてきたと、そういう形です*7 」と述べている。  また武蔵大学が少人数教育・少数精鋭主義を特色としたことについて、単学部単学科からスタートせざるを得なかったことから、それは「ある意味では負け惜しみ」であったとしながらも「宮本学長なり私なりが、長い間おりました京城帝国大学法文学部というのは[中略]いろんな事情から少数で、[中略]そういう講義をずっとやってきておりましたので、言わば少数の学生を対象とした大学というものには馴れておったと言いますか、そういう経験を十分に持っておった」と述べている。京城帝国大学法文学部*8 は学生定員(一学年80名程度)に対して講座数が豊富で教員が多いことが特徴であり、教員と学生との距離が短かったことが関係者の回顧*9 からもうかがえる。武蔵大学が創立初期から父兄会(設立当初は武蔵大学父兄会、現在は武蔵大学父母の会)を持ち、学生―保護者―教員の連携を密に持った背景にも、鈴木の京城での経験がある意味で理想的な大学イメージとして形作られていたものではなかったかと想像される。  鈴木自身が「[引用者補:武蔵大学は]ほかの大きな大学に比べまして少数ですから、教授と学生のあいだが、非常に親密でして、教室内ばかりでなくて校外でもコンパをするとか、ハイキングをするとか、泊まりがけの旅行をするとか、そういうことで非常に親密にやってきたことが、後年、学内紛争が盛んになってきたときも、比較的話し合いが楽になって、断絶ということにはいまだに至っていないと思います*10 」と述べている。学生の側もこうした雰囲気を好ましいものと捉えていたようで、「いまの言葉で言いますとゴッドファーザーファミリーと言うんですか、鈴木先生ファミリーですか、秋山先生、小沢先生、波多野先生、秋山先生なんかはまだ独身だったし、その先生方と鈴木先生を中心にやっていった中で学生たちも中心になっていったという感じは、いま思うと強いですね。それがうんと盛り立てていったというような――。[改行]それともう一つ、わりあい家族的と言うか、ハイキングで鳩ノ巣ですか、あっちのほうへ行ったりしてやってきたのが盛り上がってきたんじゃないですかね*11 」との発言が見られる。学生たちも教員を尊敬しながら親しくつきあっていたのであろう。 3.教育者として  初期のゼミ運営にも、学生への配慮と公平性確保とを両立させようという鈴木の思想が反映されている。ゼミは、必修(専門)ゼミと選択(教養)ゼミの二種類が設定されていたが、学部長と学生部長を務める教員は必修ゼミを担当しないという運用方法である。その理由は「必修ゼミを担当する先生は指導教授として自分のゼミ学生の学内における父兄に代るいわば保証人のごとき立場に立つわけで、武職(原文ママ)[引用者補:就職]の世話や学生のプライベートな問題にも親身な相談相手になる」が、「万が一何か処分問題などが起ったときには、指導教授は教授会においては指導学生の弁護人の立場に立つことになるが、その場合、学生部長はいわば検事であり、学部長は裁判長である」ため、両者は必修ゼミを持たないようにしたというのである。ただし、学生数が増えてくると学部長も学生部長も必修ゼミを持たざるを得なくなったという。  鈴木自身がゼミの指導だけではなく、コンパや旅行などを学生とともに気さくに楽しんだという回顧や関係者の想い出もたくさん残されている。親身になって学生の世話をし、就職相談に限らずゼミ生の恋愛問題の相談にさえ乗ったという鈴木を慕い、在籍期を問わず交流を持てるようにとゼミ出身者が「四月会」というグループを組織している*12 。東京大学の鈴木ゼミ生らは「七月会」(初会合がフランス革命記念日である7月14日であったこと、鈴木の留学先のひとつがパリであったことから)という集まりを持っており、これに対して鈴木の誕生日が4月27日であることにより「四月会」と名付けられたものである。会名にちなむ『あぷりーりす』という機関誌が発行されており、鈴木ゼミ生のさかんな活動や交流を知ることができる。  1957年には本務校を東京大学に移し武蔵大学では経済学部兼任講師となったが、1962年に東京大学を定年退官となると武蔵大学教授として復職した。学部増設が議論された際には正田健次郎学長(当時)の委嘱を受けて新学部の原案を作成している。それは「外国語を中心とした人文科学的なエーリア・スタディ」の学部か、「社会科学に若干傾斜するが社会科学・人文科学双方から接近するエーリア・スタディ」の学部か、いずれかが挙げられるが後者が望ましいとするもので(国際関係コース、アジアコース、英米コース、ヨーロッパコースからなる「国際社会学部」構想*13 )、実際の人文学部創設に大きな影響を与えたという*14 。その後鈴木は学部増設当審議会に委員として加わっており、大学創設初期のみならず拡充期にあっても鈴木はなお積極的に自身の役割を果たそうとしていたらしいことがうかがえる。 おわりに  1975年4月には教授会選出として初めての学長に就任したが、同年11月に脳出血により学長室で倒れ、一ヶ月後の12月6日に練馬総合病院で亡くなった。同月22日に大学葬が営まれ、武蔵大学経済学会は『武蔵大学論集 故鈴木武雄学長追悼記念号』を編み、その業績や遺徳を偲んでいる。  鈴木の死から十年後、四月会が中心となり寄付を集め(前述の七月会も協力している)、彫刻家松村外二郎による鈴木の胸像が作成された。1985年の建立当初は大学三号館正面入り口のホールに位置していたが、大学図書館入り口ホールを経て、現在では大学一号館ホールに移されている。胸像制作時には多額の寄付が集まったため、剰余金に同窓会からの援助金を加えた300万円を大学に寄付し、これをもとに学生の研究を支援するための基金が設立された。毎年度、学部学生の優れた研究論文に与えられる鈴木賞の始まりである。なお鈴木が大学に寄贈した旧蔵書は4000冊以上にのぼり、『鈴木武雄先生寄贈図書目録』(武蔵大学附属図書館、1989年)に整理されている。とくに鈴木が学外で関わった各種審議会・委員会関係資料群は貴重なもので、別途『鈴木武雄先生寄贈 審議会・委員会関係資料―昭和30・40年代を中心とした』(武蔵大学附属図書館、1984年)が作成されている。  鈴木は死後もなお、学生や大学を見守り続けているのである。   鈴木武雄 経済学部長・学長   文化放送のスタジオで「武蔵大学ラジオ公開講座」放送中の鈴木武雄教授    【注釈】 *1 鈴木の追悼記念号である『武蔵大学論集』(24-3・4・5、1976年11月)に収められた文章では「今日の経済学部の秀れた学風と伸びやかな気風は、鈴木先生によってはじめて培われた」(経済学部長[当時]・浅羽二郎)、「本学の「生みの親」、「育ての親」ともいうべき存在」(葬儀委員長・岡茂男[当時武蔵大学学長])と評されている。 *2 『エコノミスト』誌(毎日新聞社)の企画で行われたインタビュー速記録による。記事は「社会科学50年の証言」というタイトルで連載された(全50回。鈴木のインタビューは1~7回[51(27)1973年7月~51(33)1973年8月]。聞き手は高橋誠、加藤三郎)。 *3 1973年3月に丸の内銀行協会で行われた座談会の記録である。出席者は鈴木武雄、向山巌、桜井毅。 *4 島専一四号「高等学校学年終始ノ時期ニ関スル件」(大正9年10月15日に文部省専門学務局長松浦鎭次郎名で各地方長官宛てに出されたもの。「文部時報」19、1920年11月1日発行)。高等学校規定第二十四条但し書きにより従来は9月1日から翌年8月31日までであった年度を、同条本文により4月1日から翌年3月31日までとした。 *5 東京帝国大学大学院を1927年3月に退学し、大学院在籍中から勤めていた財団法人東京市政調査会研究員を1928年3月に辞任した。京城帝国大学講師として朝鮮に渡ったのもこの年で、4月の着任時には講師であったが、翌5月には准教授となった。教授昇進は1935年である。 *6 前掲『鈴木武雄―経済学の五十年』p.129。 *7 前掲「鈴木先生を囲んで武蔵大学の草創期を語る〈第一部〉」pp.42-43。 *8 法科系学科(法学・政治学・経済学)と文科系学科(哲学・史学・文学)からなる。ただし京城帝国大学法文学部を卒業して得られる称号は法学士か文学士のいずれか限られており、経済学士称号は得られなかった。 *9 京城帝国大学創立五十周年記念誌編集委員会編『紺碧遥かに―京城帝国大学創立五十周年記念誌』(京城帝国大学同窓会、1974年)等参照。 *10 前掲『鈴木武雄―経済学の五十年』pp.132-133。 *11 「鈴木先生を囲んで武蔵大学の草創期を語る〈第二部〉」pp.47-48。長谷川勝己[一回生]の発言。 *12 鈴木武雄「最後のゼミを終えて―鈴木ゼミ四半世紀の回顧」(『あぷりーりす』11、1974年)、向山巌「四月会あれこれ」(同)。学生数の少なかった経済学部第一回・二回生はほぼ全員が鈴木ゼミ(選択ゼミ)参加者であったことから、みな構成員として加えられている。 *13 『武蔵学園史年報』9(武蔵学園記念室、2003年)収録。 *14 鳥居邦朗「人文学部準備教授会記録解題」(前掲『武蔵学園史年報』9)、『武蔵(武蔵大学同窓会報)』54(2005年)掲載の白鳥優子による人文学部改組特集記事(pp.4-5)も参照。
2018.05.25
社会貢献への目覚め―根津嘉一郎にとっての渡米実業団
はじめに  武蔵高等学校設立の出発点が、創立者根津嘉一郎の1909(明治42)年における渡米実業団への参加であるということは、よく知られている。根津は、自著『世渡り体験談』の中で、以下のように述べている。 「私は明治四十二年、渋沢栄一男爵を団長とした実業視察団の一員に加わって亜米利加へ渡ったが、亜米利加では、数かずの感服した話がある。 第一に亜米利加人は郷土を愛する心、愛郷心と云ふものが強くて、大抵どこの土地にも、図書館や、学校や、病院等が立派に建設されている。そして土地の人は、私のところは何々の建物や名物があって、亜米利加一であるとか、世界一であるとか云ふ事を誇りにして、委しく説明して呉れるのである。又、其のやうな金のかかる建造物の総ては、土地の有力者から寄附金を募集して建てたもので、亜米利加人は斯る公共的の事業に対しては、巨額の金を惜しまないのである。」  この見聞が、帰国後の鉄道事業への進出や武蔵高等学校の設立などへ根津を向かわせた大きな誘因であったことは疑いない。ただ、根津の伝記(いわゆる正史としての『根津翁伝』)や自伝(前出『世渡り体験談』)、あるいは武蔵学園の年史類や『学園史年報』を参照しても、実業団の滞米期間中に、具体的にどのような経験から、武蔵学園の設立(渡米から12年近くが経過している)に乗り出したのまでは明らかではない。  他方で、「実業団の訪米報告書」に相当するとされる、巌谷季雄(のち巌谷小波という筆名で活動)編集によって1910年に刊行された『渡米実業団誌』においても、帰国までの間に根津に関して言及された箇所はごくわずか(実業団のメンバー一覧などに名前が記される程度)である。  そこで、この一文ではまず、渡米実業団が帯びた役割(アメリカへの訪問が持っていた意味)について、これまであまり語られることのなかった側面から言及し、その役割の中で、根津嘉一郎が米国のどのような点に着目して帰国後の武蔵高等学校設立に至ったのかを考察したい。   1 渡米実業団とは  冒頭で記した通り、実業団がアメリカに渡ったのは1909(明治42)年のことである。これは民間交流を図る日米の実業団による相互訪問の一環であり、前年の米国商業会議所実業団の日本招待に続き、今度は日本実業団がアメリカに招待されたものであった、と伝えられている。 スポケーン・タコマ・ポートランド・シアトルの4つの商業会議所の招きにより、渋沢栄一(当時、第一銀行頭取)が団長となり、東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人50名余りが、8月31日から12月1日(いずれも日本時間による日付)までの約3か月にわたって、アメリカの主要都市を訪問し、根津もその一員であった。各地で歓迎を受けながら産業、経済をはじめ政治、社会福祉、教育など多岐にわたる施設や機関を視察した。訪問した州は25、都市は60に及んだといわれる。 渡米実業団の米国内訪問のルート (↓ 木村昌人『日米民間経済外交 1905-1911』慶應通信、1989年、122ページに掲載の図)    渋沢は在米中の1909(明治42)年9月4日、シアトル博覧会の「日本日」(Japan Day)の祝賀式において「実業団之使命」と題する演説を行った。増田明六によってまとめられ、『竜門雑誌』に掲載されたその概要には、「日本帝国が外国と交通を開きたる以来、外国に向て派遣せられし使節は数多き事ながら、何れも政治的意味を有するものなりし、然れとも、吾々一行の使命は全く是等と異りて、合衆国の商工農の状態を観て、将来米日両国をして従来の親厚を益増進せんとするに在れば、其切要なる事は決して前者に譲らざるものなり」とある。  ただし実業団に対しては日本政府から、日米通商航海条約の改正(のち、1911年に実現)に向けた、アメリカの政財界首脳との交流という外交面での期待が大きかったことも、判明している。前年の渡日実業団の訪問に際して、被訪問側の日本では、外務省を中心に政府各省が全面的にその企画を支援し、桂首相や小村外相みずから晩餐会を催したのをはじめ、政府関係者が数多く行事に参加した。そして翌年の渡米実業団の出発においても、直前に明治天皇が芝離宮において午餐会を開催し、政府要人として総理大臣(大蔵大臣兼任)の桂太郎や外務大臣の小村寿太郎、農商務大臣の大浦兼武などが列席している。  渡米実業団は、アメリカで訪問したそれぞれの都市の商業会議所において、東アジア(特に中国市場)での平和裏の競争、あるいは資本・技術提携の可能性について率直に意見を交換したという。その相手としては、発明王トーマス・エジソン、鉄道王ジェームズ・ヒルなど各界実力者だけでなく、同年の3月に合衆国大統領に就任していたウィリアム・タフトも含まれていた。  ただ、タフトのような政界の代表が、当時の日米間での懸案と目された事柄について何らかの積極的な解決姿勢をこの面談で示したという記録はなく、あくまで日米間での友好親善の深化を期待する、という姿勢の表明にとどまったようである。  それでは渡米実業団の派遣は日米関係史において、ほとんど顕著な役割を果たさなかったことになるのだろうか。団長の渋沢栄一が「渡米実業団の由来」と題して、前出の『渡米実業団誌』の巻頭に前書きとして掲載した以下の文面を読むと、そうは決して言い切れないように思われる。  ……明治四年に成つてから、日本政府が岩倉公以下大勢の人々を派出して、海外各国との条約に付いて評議討論した時も、矢張亜米利加を第一番にした。……其後明治十二年に「ゼネラル、グラント」と云ふ人が、大統領を罷めて世界漫遊を企て、第一に日本へ来られた。其時に東京市民は、従来亜米利加を頗る徳として居り、殊に「グラント」と云ふ人が、文勲にも武功にも、世界に於て赫々たる名誉ある人であり、且其性質も至て真摯朴訥で、思ふたことは言ふ、言つたことは必ず行ふと云ふ気風に聴いて居つたから、其高風を慕うて、大に之を歓迎しやうと云ふ計画を起した。  其時に斯く云ふ私も、歓迎委員の一人で、特に委員長に推されて万事斡旋した事である。……上野公園に大会を開いて、日本の古武術を見せると云ふので、幌曳とか流鏑馬とか云ふ、種々の芸術を演ずることにして、殊に当日は是非 陛下の御親臨を請うて、共に御覧ある様にと云ふことを、歓迎会の有志者から御願して御許可を蒙つて居つた……陛下は勉めて出御あらせられ、為めに当日は、実に満都湧き立つばかりの大歓迎会が開かれた。其時「グラント」氏に対しては、余興の前に特に会員が相集つて、歓迎文を私が朗読したことを覚へて居る。……  この文面においてユリシーズ・S・グラント元米国大統領の訪日が語られているが、実は明治天皇にとって、外国の政治家としてもっとも信頼しうる意見を提供してくれたと見なされた人物が彼であった。日本の外務省記録や『明治天皇紀』、岩倉具視の伝記である『岩倉公実記』には、1879(明治12)年8月10日に行われた、明治天皇と来日中のグラントとによる会見記録が残されているが、おそらくこの会見を用意したのが当時の右大臣であった岩倉であったと想像される。  日本政治外交史の研究者である三谷太一郎氏は、この会見記録の歴史的意義として「明治天皇がグラントの勧告によって、不平等条約下の日本の進路について具体的な指針を得たことである。それは日清不戦と非外債政策である。しかもそれが天皇の信条に止まらず、少なくとも日清戦争前(日本の植民地帝国化前)の自立的資本主義を追求する日本の政治的経済的な対外政策の基本線を形成したことである。」(『外交史料館報』第30号、2017年)として、近代化途上にあった日本にとっての対外政策や国家発展の方向性が、グラントによる勧告によって大きな影響を受けたことを紹介している。  また三谷氏によれば、この会見記録は対日占領下の1949年に『日本外交文書』第12巻に収録されたが、それは「当時の日本には、戦後日本の出発点を日清戦争前の明治日本に求めようとする考えが一部の識者や宮中関係者の間にあり、この会見記録はその考えに沿っていたと思われる」という、大きな意味を持つものであった。  渋沢による「渡米実業団の由来」に話を戻すと、彼はグラントについての話題に続けて、タフトについても言及している。「明治三十八年と四十年とに、米国現大統領タフト氏の日本に来遊せられたときも、東京の商工業者は大に之を歓迎した。是等が日米間の商工業者の意志を通ずるに付ての、沿革と云うても宜からうと思ふ」。  以上より、渡米実業団の役割とアメリカの位置づけは、すくなくとも渋沢に限ってはある程度明らかになったと思われる。渡米実業団の役割は、明治初期における岩倉使節団のそれ(直接には条約改正を意図、それに付随して諸国の近代化の様相を視察)に相当し、アメリカの位置づけは、来日経験もある政界の実力者に象徴される、日本の外交路線や経済発展路線への助言者というものであったのではないか。  では、この実業団の3か月にわたる滞米において、根津嘉一郎はアメリカの何に啓発され、日本においてそれを実現しようとしたのか。   2 根津嘉一郎がアメリカで見て学んだもの  1989年に刊行された『日米民間経済外交 1905-1911』(木村昌人著、慶應通信刊)で記されているように、20世紀の初頭に、婦人を含む50名以上の団体が太平洋を横断し日米各地を旅行することは、莫大な費用と時間がかかる事業であった。  経費としては、シアトル商業会議所やアメリカ側準備委員会(1909年6月9日シアトルにて開会)で、渡米実業団の旅費及び接待費として5万ドルが要求され可決していることから、5万ドル前後(10万円)と推定される。またアメリカ東部の大物実業家も、渡米実業団の歓迎にあたっては尽力し、特にノーザン・パシフィック鉄道社長のJ・ヒルは渡米実業団専用の特別列車を用意し、シアトルからシカゴ、ニューヨークへの運賃を無料とするという好意を示した。20世紀初頭にこのようにアメリカ各地実業界から歓迎された実業団は、アジアでは日本が初であった(以上、同書より)。  そのような歓待ぶりの中で、アメリカ各地で政治・経済・社会福祉・教育など、多方面の施設の視察見学を行った根津にとって、もっとも印象に残ったことは、「今は故人となられたロックフェラー氏に会った時、同氏が多額の金を儲けて、その多くを世の中のために散ずる主義を知って、大いに啓発された」(『世渡り体験談』より)という点であった。  前出の『渡米実業団史』において、ロックフェラーの名が登場するのは、10月4日の項、クリーブランド滞在中における記録であり、以下のように記されている。「午前九時出迎の自動車に分乗し、亜米利加銅鉄及鋼線会社、工業学校等を参観し、午後は各自の希望により、工場、学校、慈善事業等を視察研究す。……午後七時半より商業会議所内に盛大なる晩餐会あり。例の石油王ロックフェラー氏も出席せしが氏が此種の宴席に出づるは、二十年来無きことなりと云ふ。」  ロックフェラーがこのときにどのような発言をしたのかは記録に残っていないが、晩餐会で直接対面したという経験は、おそらく根津をはじめ他の団員にとっても強烈なものがあったと想像される。  この使節団の一員であった巌谷小波による記録『新洋行土産 下巻』では、クリーブランドの別荘の庭園を巌谷ほか何人かが見学に行き、芝庭でゴルフをしていたロックフェラーと偶然出会い、見学者全員が彼と握手して愛想の良い世辞を言われた、という旨が記されている。あるいは根津もその見学者に含まれていたか、見学者から話を聞いた可能性があるのではなかろうか。  クリーブランドはいうまでもなくロックフェラーの育った地(13、4歳のころから居住)であり、彼が事業を起こしたのもこの都市においてであった。実業団員らが見学した会社や工場、学校のほとんどが、彼の事業あるいは彼の慈善事業による寄付によって発展したものと考えられても不思議ではないだろう。  というのは、実業団がその1週間ほど前に数日間滞在したシカゴにおいて、シカゴ大学の見学も一部の団員(根津が含まれたかどうか判明しないが)によって実施され、また商業会議所の晩餐会においてはシカゴ大学教授との面談も開催されているが、シカゴ大学は資金難から1886年に閉鎖されていたのを、ロックフェラーが8000万ドルを寄付して1890年に世界的な大学として再興させたという経緯がある。  おそらく団員はその説明を受けており、根津も同大学やクリーブランドの隆盛が彼の事業の成功と慈善事業によるものであったと考えたのではなかろうか。すると根津が訪米によって得た最大の成果は、「社会から得た利益は社会に還元する」という信念を強固にしたことであったといえよう。  もっとも、彼が学校設立の社会的意義を認めたとしても、ただちにアメリカ(あるいは西欧)の学風や制度にならった設立には向かわず、またそれについて否定的な意向を持っていたであろうこともまた、容易に想像できる。『根津翁伝』には、武蔵高等学校設置の項目において、彼が重視した教育方針が以下の通り記されている。  我が国の教育は、御一新までは各藩に藩の学校があったり、寺子屋の塾があって、日本人を作るのに、実地に即した教育機関を設けていたのであるが、明治になってから我が国の教育が、欧米の文化を参酌した結果は、日本固有の教育は次第に影を潜めて、極端に言えば、日本人であるのか世界人であるのか、執れとも判らぬような教育を採って来たのである。  其の結果、漢字廃止論などが現はれ、漢字は煩雑極まりないもので、世人の頭脳を圧迫することが甚だしいから、宜しく漢字を廃止し〔←す?〕ベしなどと説いている。併し、漢字の圧迫が甚だしいといふならば、西洋諸学説の方が、遥かに圧迫が強いのである。そして、明治以来六十年間、専ら欧米思想を注入した結果は如何かというに、其の影響は、随分と危険極まる思想を胚胎させたのである。  事実一概に総てを欧米流に行うことは、余程考えなければならぬことである。新しい教育を受けたといふ人達が、何かという場合、年号の記載に一々西暦紀元を用うることなども、大日本帝国の認識を欠いたもので、それが西洋歴史の場合には、西暦紀元は必要に違いないだろうが、我が国の日常生活にまで西暦紀元を用いることは、矛盾の甚だしいものである。  それから、今日の教育では、最早、西洋の学問ばかりを主とせずに、国学は言うに及ばず、昔から採り入れられたところの、漢籍なども相当学ばせるべきである。そして、日本人を育成するといふ根本観念の下に、総て教育の見識を高め、且つ深められることを望みたい。  根津が武蔵高等学校の設立に向けて、寄付金360万円(地所、株券、引金)を基礎とする財団法人根津育英会の設立に踏み切ったのは1921(大正10)年のことで、この間にロックフェラー財団が1913年に設置され、ロックフェラー自身による2億5,000万ドル近くの寄付によって、公衆衛生、医学教育、芸術などを主な対象とした大々的な支援活動が軌道に乗っていた。  根津の寄付金の額はいうまでもなくロックフェラーのそれとはかなりのスケールの差があり、高等学校の開学の年も1909年からやや隔たりがあるが、実は根津はすでに1915(大正4)年ごろから、「今のところ一つの学校を建てるには、私に未だ多少の負債があるから、それを償却した上でと、暫く時節を待つ心でいた。けれども翻って考えてみると、負債は短日月に切れるものでないし、負債があっても、銀行が資金を融通して呉れるならば、それが出来ないわけはなく、而も人聞は老少不定であるから、何時どういう事が起らないとも限らない」と考え、「現在社会の為に尽す事としては、教育事業に奉仕するよりほかに道がないと決心して、そのことを友人宮島清次郎君に相談」(以上、『根津翁伝』より)という行動を取っていた。  したがって、根津はやはりロックフェラーの事績を大いに意識して、武蔵高等学校の建学に踏み切った、と言って誤りではないであろう。  では、その具体的な構想は、相談相手の宮島清次郎らによってどのように具体化されていったのか。それについては後日、別稿で、英米訪問実業団(1921~22年、団長は団琢磨)にも参加した宮島の足跡にも言及しながら論考を進めることとしたい。   <参考文献> ・『根津翁伝』1961年(第28章「渡米実業団」) ・根津嘉一郎『世渡り体験談』(「亜米利加へ行って感服した数々」) ・『渋沢栄一伝記資料』第32巻 ・東京商業會議所編『渡米實業團誌』(1910年10月) ・巌谷小波(季雄)『新洋行土産』上下巻、1910年 ・木村昌人『日米民間経済外交 1905-1911』慶應通信、1989年
2018.05.25
武蔵大学プレメディカルコース(医歯学進学課程)について
はじめに  1949(昭和24)年に開学した武蔵大学は当初、経済学部経済学科の単学部単学科によって発足したが、その中にあって、他大学の医学部への進学を目指す学生が多数入学し、教養科目を学んでいた。そして1950年台前半には、そのような学生のための課程(プレメディカルコース:医歯学進学課程)が本学に設置され、巣立った学生の多くが、開業医やいくつもの大学の医歯学部のスタッフとして活躍した。以下は、その背景と活動の紹介である。  いまでは想像しにくいことだが、開学当初の武蔵大学は、志願者を集めるのに大変な苦労を強いられていた。当時の経済学部経済学科の定員は1学年120名、4学年の定員総数は480名であったが、初年度(49年度)4月の入学生数は78名と、定員の半分強でしかなかった。このため5月に第2次学生募集(56名)を行い、国立大学1期の入試後の6月20日に入試を行うなどの措置が取られていたが、これ以降も定員数の確保は容易ではなかった。53年・54年・55年のいずれも3月に挙行された第1回から第3回の卒業式それぞれにおける卒業者数を見ると、66名・36名・53名にとどまっている。  ただ、このときの記録で目を引かれる事柄がある。「教養課程のプレメディカルコースを修了して他大学の医歯学部へ進学する」学生がそれぞれ42名・48名・45名あり、その修了者にも修了証書が授与されている(第1回の卒業式では、それ以前の同課程修了者49名にも授与がなされた)、という事実である。開学以来、第4回の卒業式がおこなわれた1956年3月までの卒業者数の合計は250名であるが、同じ時期のプレメディカルコースの修了者数の合計は225名であり、ほとんど同規模といえる。年度によっては、このコースの在学生の方がはるかに多いという現象も見られたのである。定員の確保が大きな課題であった初期の大学が、本来の経済学部での教育活動と同程度(あるいはそれ以上)に、いかにこのプレメディカルコースの活動に力を入れていたかがうかがえる。 プレメディカルコース設置の背景  プレメディカルコースの設置は、戦後初期の学制改革の産物といえる。まず、新制の大学で医歯学部の修業年限は教養課程(2年間)と専門課程(4年間)の6年制となっていた。そして49年6月に学校教育法(1947年制定・施行)が改正され、「医学又は歯学の学部を置く大学に入学し、医学又は歯学を履修することのできる者は、[中略]その大学の他の学部又は他の大学に二年以上在学し、監督庁の定める課程を履修した者[中略]でなければならない。」(第56条第2項)と定められたのである。この法改正の主旨として、第5回国会の参議院本会議における文部委員長(田中耕太郎)は以下のように説明している。  「医学又は歯学の大学につきましては、医師や歯科医の業務の特殊性に鑑みまして、特例を認めて、普通の場合よりも就学年限を長くいたしまして、他の学部又は他の大学に二年以上在学するということを要求いたしておるのであります。[中略]本法案に対する質疑によりまして明らかにされました点といたしましては、医学、歯学の修業に特に年限を延長するのはどういうわけであるかという点でありました。これは業務の性質が人命を預かる極めて重要な職責であつて、人格教養等が特に高いことが要求せらるるという理由であるのであります」。  この改正によって、医歯学部は自ら一般教育課程をもつことを認められず、学内の他学部でこの部門を履修した学生、あるいは他大学で履修した学生を試験によって選考し、専門課程に入学させることとなった。具体的な医歯学進学の資格は、1948年5月に大学基準協会で承認された「医学教育基準」・「歯学教育基準」によって定められた。そこでは医歯学教育の修業年限はそれぞれ4年以上とされ、入学資格として、修業年限4年の大学において2年以上の課程を修了し、物理学・化学・生物学・数学・人文科学・社会科学・外国語(英語に加えてもう一つの言語)などを含めて「64単位以上を履修して充分なる知識・教養を修得したもの」とされた。  武蔵大学が医歯学部進学者のためのプレメディカルコース(医歯学進学課程)を設置したのは、改正された学校教育法が施行された50年4月のことである。もっともそれ以前から、前出の「医学教育基準」にしたがって大学の授業を履修し、医師学部進学を目指す者もすでに在学していた。このとき武蔵大学は旧制高校時代の遺産として、すぐれた教師陣と設備が残っており、講義や実験を基準に沿って行うことに支障はなかった。 1949年度においては、特にプレメディカルコースの課程を設けなかったものの、翌年度に講義内容を医歯学部進学に対応させるために充実させ、募集に際してその旨を強調するという方針であった。50年度以後はプレメディカルコースを開設し、経済学部の経済学科と区別して学生を募集することとなり、はじめの数年間は毎年、40名内外の学生が入学していた。経済学科への入学者とほとんど同数の学生を確保できたことは、学園経営のうえでも大きなメリットがあったと想像できる。 プレメディカルコースの教授内容  当時の入学試験は、1950~52年度について見ると学科試験(国語・数学・外国語:英語または独語、いずれも必修)と適性検査、口頭試問(面接)、身体検査からなっており、これは経済学科とプレメディカルコースとで共通であった。翌53年度から経済学科の入試科目は国語・社会(2科目)・外国語に変更され、プレメディカルコースでは数学・国語・外国語のほか理科が追加された。入学後については経済学科とプレメディカルコースとはクラスが別に編成され、それぞれ独自のカリキュラムで授業が行われた。  時の生物系科目の担当教授であった故岡山光憲氏の回想によれば、プレメディカルコースに入学した学生には厳しい勉学が課されたという。自然科学部門の各科目の担当者は指導教授を兼ねており、教員による学生への指導は密接であった。「カリキュラムはきびしく、特に自然科学では、数学、物理学、化学、生物学がおのおの四講座と実験、演習(数学)が必修として課されていた。1学年2級制で、佐藤(独)、上野(数)、依田(化)、岡山(生)の四教授が指導教授となって面倒を見ていたが、実に皆よく勉強したものだ」(光憲「プレメディカル・コースのこと」(武蔵大学同窓会『VOIR』武蔵大学創立40周年記念誌所収)。修了後に学部に進学した学生数について、『武蔵大学新聞』に掲載の記事によれば、1951・52年度の2年間で医歯学部に進学した学生は20名以上(修了者数は計49名)、53年度には15名(同36名)、54年度には26名(同42名)とあり、年度の経過につれて好調な実績を収めていることがわかる。このため、他大学の医歯学部に進学する目的で武蔵大学に入学する者も多かった。ただ、医科大学の進学に失敗した、あるいは途中で文科系に志望を変更した学生で、武蔵大学経済学部に転部して卒業した者も一定数存在したようである(1951・52年度の2年間で9名の転部が判明している)。  プレメディカルコースの修了者に対しては、1951年1月の時点では、修了式、証書授与等は行われず「送別会は適当な時期に行うことにしたい。同窓会員とすることを考慮することにしたい」という旨のみが教授会で決められていた(『成蹊学園史年報』第3号所収)が、翌52年4月には、修了者の扱いを卒業者に準じる措置とすることが決まり、その翌53年の第1回卒業式以降、前出のように修了証書が授与されている。 【以下2枚の写真は、化学実験中のプレメディカルコースの学生の様子を撮影したもの。(『武蔵七十年史―写真でつづる学園のあゆみ』102ページに掲載)】 他大学のケース  かつての私立旧制高等学校(七年制)から新制大学設置に踏み切った成蹊大学・成城大学も、武蔵大学と同様にプレメディカルコースを設置していた。なかでも成蹊大学は、政治経済学部の単学部制で1949年に開学したが、この年のうちに政治経済学部の中にプレメディカルコースを設置し、1964年3月に廃止されるまでの間、課程を修了して国公私立の医歯学系学部へと進学した者は637名に及ぶ(『成蹊学園六十年史』より)。  創設当時、政治経済学部とならんで工学部の設置を要望していた成蹊大学において、同コースは、「一般教養の自然科学系を増やすことができ、旧制高校の理科系の教授や工学部設立予定で採用した人材をプールできた」(『成蹊学園百年史』より)という点で、メリットは大きかった。のち1962年の工学部設置実現にあたって、これらの設備や教員などが役立ったことは容易に想像できる。  なお成城大学については、1950年4月に経済学部と理学部の2学部制で開学したが、その2年後の52年4月にプレメディカルコース(医歯学進学課程)が開設されている。ただ、翌年の3月に施設・設備の資金難という事情で理学部が廃止され、その翌54年 3月にはコースが廃止されている。この2年間における同大学でのコースの活動や成果について、刊行されている年史類(『成城学園五十年』・『成城学園六十年』・『成城学園七十年のあゆみ』・『成城学園八十年』など)ではこれ以上のことは確認できない。 コース廃止の経緯と背景  武蔵大学の初期の教育において重要な役割を果たしたプレメディカルコースであるが、1955年度をもって経済学科とは別枠での入試を停止し、62年3月には廃止された。このコースの縮小や廃止をもたらした原因は医歯学教育制度の変更にあった。1954年2月18日発行の「武蔵大学新聞」13号には、「プレメ廃止か 医歯学部教育方針変わる」と題する、以下の記事が掲載されている。  「大学の医歯学部の教育方法改善のため文部省では昨年末医[学]、歯[学]視学委員会にその具体策を検討するよう諮問していたが、8日の中央教育審議会でその改善方法が認められ学校教育法改正をはかって30年4月から実施することになった。この改善方法によると ①新しく6年生の医科大学、歯科大学または医学部、歯学部を設け高校と直結させ、進学課程2年、専門課程4年とする。②進学課程をおかない総合大学の医歯学部では他の学部に進学課程を置き、また単科大学では他の大学と協定して進学課程を置く。  これによると本学のプレメは②の他大学との協定によって存続させるか、あるいは調停せずに廃止するかの二途専一を迫られるわけである。現在のところ、学校、教授側はこの協定による存続に消極的で、プレメ学生募集は今年で終止符が打たれるものとみられている」  この新聞が発行された1954年2月は、ちょうど第19回国会において学校教育法の再度の改正が審議されていた時期である。この中で医歯学教育に関する条項の改正案は、第55条・第56条を対象として、「1955年度から、修業年限は従来同様6年以上として、これを4年の専門課程と2年以上の進学課程とに分け、医歯学部において6年一貫の教育を実施することを可能とする、ただし特別の必要があるときは専門の課程だけを置くことができるようにする」という主旨であった。この修正案は3月に可決成立し、同年12月には大学基準協会において「医学教育基準」「歯学教育基準」それぞれにおいても、6年一貫の教育が行えるように改められている。  この動きは、先の「武蔵大学新聞」記事にもあるように、武蔵学園の外部から起こってきたものであった。たとえば右の学校教育法改正の主旨について、第19回国会の参議院文部委員会では政府委員(稲田清助)から以下のように説明されている。  「……医学又は歯学又は歯学の単科大学におきましては直接高等学校の進学者と結びつかない点からいたしまして、必要な優秀な志願者を得にくいというような事情を訴える向が相当あるのであります。又総合大学等におきましては、この医学、歯学の進学課程と他の学部の課程とが年限において相違いたしまするというような点からいたしまして、すでに農学部或いは理学部等他学部に入つております者が、途中から医学又は歯学に入つて来ることによつて、農学教育或いは理学教育が撹乱されるというような弊を訴えられる。そういうような点からいたしまして、どうせ進学課程と専門課程と両課程を設けることならば、これを一貫的に六年の学部とするのがいいのじやないかということが、その方面の当事者から切実に要求がありまして、まあそういうことで改正いたしたわけであります」。  この説明から、医歯学部の従来の4年の課程を6年に移行させることが、修正の眼目にあったことがうかがえる。なおこの日の質疑で、文部大臣(大達茂雄)は「本問題は中央教育審議会の答申の大綱をそのまま容れて立案した」と説明している。  このような医歯学部進学の制度改変にともない、武蔵大学では経済学科とは別枠での医歯学進学課程の学生募集に関しては、1955年度をもって廃止した。ただ、この時点では東京慈恵会医科大学・日本医科大学など、進学課程を設置していない医歯学部も多数あり、それらの専門課程進学のために必要な科目単位の修得ができるカリキュラムを残置し、募集人員の制限もおこなわず、入学案内に医学部受験の単位を取得できる旨を記載していた。そして59年4月の経済学部内での経営学科開設に際して、学科内に経営管理コース・工業経営コースとならんで「プレメ・コース」が設けられている。  経営学科の学生募集にあたって、当時の大学が発行したリーフレットでは、将来の展望として、近い将来には、理論を主体にした理学関係学科と、応用を主体とした工学関係学科をもって理工系の新学部を増設すること、その時は工業経営学科に発展せしめる予定であることが記されていた。そしてプレメ・コースについては、経営学科と直接の関係はないが、このコースに進む学生の履修科目が工業経営コースの場合とほとんど同じであるため開設したこと、希望により工業経営コースへの進学も可能であると説明されていた。この内容は、成蹊大学の工学部設置時にプレメディカルコースが有した資産を活用し得た前出の事例を想起させる話である。  しかるに、工業経営コースが設置7年後に廃止の憂き目を見るよりも早く、プレメ・コースは経営学科内に設置されて3年後の1962年3月末日をもって廃止されることとなった。先述の医歯学教育制度の転換以降、武蔵大学の経済学部を経て医歯学部の進学を志望する学生は減少を見たからである。このころには、プレメディカルコース修了者にとっての主要な進学先であった東京医科歯科大学・東京医科大学が1955年に、また東京慈恵会医科大学が1960年に、それぞれ医学進学課程の設置認可を得て6年制へ移行していた。 コースの価値と遺産  武蔵大学のプレメディカルコースの変遷は、高校教育と大学専門教育の間に位置する進学課程(=教養課程)の位置づけをめぐる教育界の混迷という波を、正面から受けたものといえる。たとえば1949年の学校教育法改正を審議した第5回国会で、政府委員(剱木亨弘文部省学校教育局次長)は、2年間の医学進学課程が医歯学部以外の学部(あるいは学校)に設置された背景として、医科のように説明している。「医学の入学資格はそれはPHW[Public Health and Welfare Section:公衆衛生福祉局]の中に設けられました医学[教育]審議会から、日本の医学教育の刷新につきまして、他の大学若しくは学部の3年以上を終了した者について入学せしめるようにするというように勧告があつたのでございます。併し日本の実情から申しまして、一面これは相当医学の教育について、長い年月を要しますので、教育刷新委員会におきまして、この問題を取上げていろいろ論議いたしました結果、刷新委員会の原案といたしましては、6年の大学ということが適当ではないかという御意見があつたのでありますが、それで今の医学[教育]審議会と刷新委員会としばしば会議をいたしまして、両者の意見の相違を妥結するように努めたのでございますが、その結論といたしまして6年の大学は認められない。他の大学もしくは学部の2年以上を終了した者について、入学資格を認めようということに結論として妥結いたしましたので、その結論に基いて、この法案を作成したのでございます」(1949年4月26日の参議院文部委員会における答弁による)。  この答弁を見ると、もっぱら占領軍最高司令官総司令部GHQ/SCAPの一部門であったPHWの強い意向によって医歯学進学課程が設置され、占領終了後ほどなくして教育刷新委員会の唱えた6年制一貫課程への移行がなされたことになる。ただしそのような時代背景のもとで一時的に設置されたプレメディカルコース制度も、普遍的な価値を有するものとして現在、リベラルアーツを再考する上での検討に値するものではないだろうか。上記の参議院文部委員会の席上、剱木政府委員は上記の発言に続けてこのようにも述べている。 「6年の大学を他の大学というふうに限定いたしました理由は、その医師という職業を決定いたしますのが、できるだけ高年齢において決定するをまあ適当と認めるという理由が一つになつておるのでございます。もう一つは先程申上げました、やはりこの広い視野に立つて医師のコースというふうに、決定したコースによつて勉学しないで、いろいろな職業につくものと同じような扱いで、共に勉学をして、それから二ケ年以上たつて医者になるというふうに方向転換をする。これが最も適当であるというふうに考えられたからでございます。  現在の大学におきましては、そういうふうに決めましても、一定の単位を要求されますので、その如何なる学部でもそれを、要求を充たすだけの学科課程、学識組織がございませんので、例えば総合大学でございますとか、今般国立で申しますと、高等学校と他の專門学校と一緒になりましてできました文理学部を持つような大学でございますとか、或いは又一般教養におきまして、相当大きい一般教養のコースを以て医学に対しまする進学者の必要とする科目を備えておる大学等が、医学歯学への学部を有する大学と考えられると考えるのでございます。」  当時の武蔵大学の教育設備やスタッフは、この発言(とくに、「一般教養におきまして、相当大きい一般教養のコースを以て医学に対しまする進学者の必要とする科目を備えておる大学」という部分)に最適な資源を持つ学校の一つと評価されていたことになる。  こんにち武蔵大学のプレメディカルコース出身者の年齢は、すでに70歳代後半から80歳代に達しつつある。そのうち多くの者が大学同窓会に加入して、いまもなお同窓会は続いている。人格教養すぐれた医歯学進学者たるべく、旧制武蔵高校の遺産を受け継いだ良質の教育を受けた人々の、変わらぬご健康とご活躍を祈念する次第である。 参考文献 武蔵大学プレメディカルコース(医歯学進学課程)の歴史については、『武蔵学園史年報・第16号』所収の川村政義・竹林惟允・星野誉夫編「武蔵大学医歯学進学課程」、また同号所収の星野誉夫「武蔵大学医歯学進学課程の歴史」に詳しく、本稿でもこれらの記述に負うところがきわめて大きい。 その他、本稿の執筆にあたっては下記の文献を参照した。 ・『武蔵七十年史―写真でつづる学園のあゆみ』1993年 ・『武蔵大学五十年史』2001年 ・『武蔵九十年のあゆみ』2013年 ・『武蔵学園史年報・第3号』(「武蔵大学教授会記録抄(一~四六号) 昭和二四年五月九日~二六年三月一五日」) ・『武蔵学園史年報・第6号』(「武蔵大学教授会記録抄(昭和二六年四月九日~二九年三月三一日)」・星野誉夫「武蔵大学教授会記録抄解題(昭和二六年四月九日~二九年三月三一日)」 ・『武蔵学園史年報・第10号』(「評議員会記録(評議員会決議録)昭和二七年度~昭和三〇年度」・「宮本和吉学長・校長訓話抄」) ・『武蔵学園史年報・第18号』(「武蔵大学教授会記録抄 昭和32年4月18日~昭和35年3月27日」・星野誉夫「武蔵大学教授会記録抄解題」) ・『武蔵大学新聞』(復刊12号)1954年1月15日:「プレメディカル探訪―四年のあとをおう」 ・『武蔵大学新聞』(復刊13号)1954年2月18日:「プレメ廃止か―他校との協定に消極的」 ・『武蔵大学新聞』(復刊18号)1955年4月1日:「好成績を収めたプレメ進学者」 ・『武蔵大学新聞』(復刊20号)1955年6月21日:「プレメ存続か」 ・岡山光憲「医歯学進学課程について」(『武蔵大学創立40周年記念誌VOIR』1989年所収) ・『成蹊学園六十年史』1973年 ・『成蹊学園百年史』2015年 ・『成城学園五十年』1967年 ・『東京医科大学五十年史』1971年 ・『東京慈恵会医科大学百年史』1980年 ・国立国会図書館ホームページ内「日本法令索引」:「学校教育法の一部を改正する法律案」 ・橋本鉱市『専門職養成の政策過程』学術出版会、2008年    
 
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