武蔵高等学校同窓会―発足の経緯

武蔵高等学校同窓会

武蔵高等学校同窓会の歴史を、その成立の契機を作った2 名の高校生の活躍とその後の各時代の特色を記すことで同窓会の歴史を振り返りたい。

 

「同窓会前史— 2 名の高校生の役割」

 

その一人、青木政一氏(3 理、住友金属工業元常務)が1958年の水泳部の機関紙「しぶき」5 号に投稿した「30年前の思い出」から抜粋して同窓会誕生秘話を紹介する。



 「1929 年初めて1 期生の卒業式を行い、父兄会もその年の暮にできた。プールがなかった時代、1930年の春から夏のことである。3期の私が高等科3 年、4 期理の藤井豊君(大島藤井病院院長)が2 年生の時、水泳部もなかったが、水泳好きな連中が、石神井のプールや夏の鵜原の海で泳いでいた。海中に50m間隔で矢倉の飛込台を置き、両方から引っ張る数本のロープに、コース代りに白い布を縫い付けるのも手間がかかったので、もし母校にプールがあったらと口々に言いあった。その時私は我々が同志を集め、学校内にプールを我々の手で掘ろうではないか、そうすれば学校や父兄は黙って見てはいないはずだ。純真な一同は直ぐに賛成し、2 学期早々に行動を起こすことに一決したのであった。私は東大受験前であったが、母校にプールを作ることに情熱を傾ける決心をした。

 2 学期になると早速我々は物理教室のトランシットを借り出し、藤井君たちと不慣れな土地測量を始めた。候補地の3 か所を調査し百葉箱の場所が給水、濯川への排水の点で一番良いと結論付けた。調査が済むとすぐ各学年代表に呼び掛け、プールを掘ることの相談を持ち掛けた。ほとんどの代表は我々の手で掘ることは無謀だという声が高く、私の情熱も無残にも打ち砕かれた。こうなったら父兄に頼る他はないが、取り敢えず新しい形式のプールでできるだけ切り詰めた予算を我々の手で調べあげることにした。

 藤井君と二人で動物学の柳田教授に頼み、先生の一高東大時代からの親友であるロスオリンピックの日本水泳監督であった松澤一鶴氏の処へ、先生と藤井君と3 名で訪問し、どういうプールを作るべきかお尋ねした。松澤氏は我々高校生を親しく迎え、最も理想的なプールは夏冬使える室内プールだが、予算の関係で室外プールにする場合に大切なことは、水の清浄さを保つこと、そのためにはプール水面を地上より高くし、プールに入る人が必ずシャワーを通るようにすれば、プール内に土や埃が入りにくい。しかも土地を深く掘ることもないから建設費も割安で完成後の水漏れの修理も簡単であると合理的なお話をいただいた。また、新しい形式のプールの実例を2・3 紹介していただき見学も行った。清水建設にお願いして、私の書いた幼稚な設計略図を元にして全体の設計図と概算の予算を計算して、当時の金額で約1 万5 千円(今の2 億3 千万円)だった。

 すべて資料がそろったのは12 月に入ってからだった。藤井君と二人で冬休みを利用して父兄を訪問することにした。その時の武蔵は、元東京帝大総長の山川健次郎校長、山本良吉教頭ら私学では最強の教授陣をそろえ、名士の子弟が競って入学していた。この前年に父兄会が出来たばかりだったが、父兄会長は私と同じ高等科3 年大庭正君(3 文)の父上、陸軍の大庭二郎大将、副会長は高等科2年明石景明君(4 文)の父上、第一銀行頭取の明石照男氏で、各学年の父兄代表もそれぞれ相当の名士揃いであった。これらの十数名を前に、白面の高校2、3 年生がどの様に映ったかを考えると全く冷や汗ものである。ともかく私達は必死だった。

 私が父兄の方々にお願いした論旨は山本教頭の受け売りだった。教頭は官学の教育にあきたらず、優秀な私学の師弟関係において真の教育を実現しようという理想を持っておられた。イートン校やラグビー校はその代表である。そして優秀な先輩が学校に多額の寄付をし、物心両面から母校の発展をはかっている。私は、前後に山本教頭の持論を代弁しつつも、未だこの武蔵には卒業生が2 学年しかいないので、在校生の希望であるプール建設には是非、父兄のご協力を願いたい、と松澤一鶴氏の勧める新しいプールの設計の意図と私の手書き設計図、清水建設の概算見積書をそろえて説明した。父兄方も我々二人をまことに丁重に迎えて下さり、12 月末の5 日間にわたる説明会を経て訪問した全員の父兄代表の賛同が得られた。父兄会はその後、何回か開かれ、1 口30円の寄付(今の感覚で1 口50万円)ということで3 月末までに瞬く間に工事費全額の寄付が集まった。

 私はこれを見届け武蔵を卒業し大学1 年生になった。その後藤井君は高等科3 年生になり医学部受験準備も大変な中、4 月から始まったプール工事の現場監督の補佐役としても尽力されて9 月には5mの2 段飛込台のある一部水深4m、プールサイド地上2mの衛生的な新型プールは見事に竣工した」(1958年水泳部の機関誌「しぶき」5 号より抜粋)

 この1931 年3 月山川健次郎校長は体調を崩し退任され、山本良吉教頭が校長事務取扱に就任した。6 月山川校長が逝去され、9 月のプール竣工式並びに父兄会から武蔵高等学校への贈呈式が根津嘉一郎理事長、山本校長事務取扱、真田父兄会新会長、明石父兄会副会長、在校生父兄列席のもとに行われた。私事だが筆者の父永井友二郎(10理)はこの年武蔵の尋常科に入学し水泳部に入った。翌1932 年には武蔵は初参加の東日本インターハイで、水球試合で決勝まで残り、生徒数が5 倍もいる最強豪校の一高と競り合い、同点で延長戦にまで持ち込んだ。惜しくも1 点差で本命の一高に敗れ準優勝。創部間もない武蔵水泳部が健闘できたのは、東京帝大水泳部に入った藤井さんが早速習得した理論的な東大水球戦法を武蔵水泳部へ持ち込んだお陰だった。

 

「同窓会の発足」

 

 山本教頭はこのプール建設にあたった武蔵生徒2 名の働きを大いに評価され、「母校を物心両面から支える同窓会」設立の必要性を痛感し、竣工式と同じ9 月自ら同窓会長となり同窓会発足を宣言され、10 月発足式を講堂で行い、11 月に青山の根津嘉一郎理事長邸にて第1 回会合を開くに至った。

 5 年後の1936年根津嘉一郎理事長の喜寿の記念に、根津化学研究所(所長は玉蟲文一教授)を設立する話が起こり、父兄会と同窓会の寄付により贈呈することになったが、同窓生数は7 期までと少なく、寄付の主力は父兄会であり、寄付総額はプール寄付の時の2 倍余り、2 万8 千円(今の約4 億円)であった。

 

写真は1936 年の同窓会(青山根津邸)

 

「戦前の同窓会の実際」―幹事長と同窓会誌

 

 武蔵高等学校同窓会は戦前、戦後の期間、校長が同窓会長を兼務するという形で続いたが1933年、根津藤太郎氏(5 文、後に根津嘉一郎を襲名)が武蔵卒業・東京帝大入学と同時に同窓会幹事長に指名された。同窓会誌第1 号は1939 年11 月に発行され、同窓会名簿の整理は山本校長の指示のもと学務の矢代源司氏の手で継続された。

 

「新しく組織化された同窓会最初の10 年」

 

 戦後の混乱復興期はともかく物もなく学校設備の更新の費用もなく、旧制の教授方と新しく戦後着任した若い先生方の熱意により武蔵は復興していった。

 1955 年になるとようやく学校設備更新拡充などに先生方の目が向くようになり、また武蔵大学の基盤拡大のために、根津嘉一郎氏はより一層根津育英会の経営に注力していく必要性を感じ、同窓会の幹事長を辞任し育英会専務理事への専任を決意された。当時、東大付属中学高等学校の総務をしておられた1年先輩の4 期川崎明氏を幹事長に指名し、同じ1958 年の同窓会総会で1 期の田辺重明氏を同窓会長に選出した。田辺重明氏は2 年にわたって同窓会長就任を固辞されたが、川崎明幹事長はリベラルな集団体制を考え、6 役(同窓会長、副会長2 名、会計幹事、庶務幹事、幹事長)の体制で臨むからと田辺重明氏を説得し、ようやく2 年後、1960 年春に今の同窓会組織とほぼ同じ体制の同窓会が発足した。副会長には黒沢俊一(1 理)、松葉谷誠一(3 文)、庶務幹事には夏目三郎(5 文)、会計幹事に渡辺正廣(7 文)の各氏が全員ほぼ10 年務められ、毎年タブロイド版の同窓会報(第17 号まで)を発行し総会を開催するなど精力的に同窓会活動を進められ、地方にも関西武蔵会、北海道武蔵会、千葉・横浜武蔵会などの支部、運輸武蔵会、原子力武蔵会、流通武蔵会などの諸会合等ほぼ今の同窓会の基礎が固められた。

執筆:永井眞氏(高校40期)

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