正田構想実現の10年間を回想する

大坪 秀二(高校16期・元武蔵高等学校中学校長)

正田構想実現の10年間を回想する

【武蔵学園記念室より:以下の文章は、故大坪秀二氏(高校16期・元武蔵高等学校中学校校長)が生前、『武蔵学園史年報』第14号(2009年3月刊)に寄稿されたものである。】


◆はじめに
 たまたま時の巡り合わせのような縁で、『武蔵七十年史』編纂を機に学園史資料に関わることになり、20年近くが過ぎてしまった。その70周年記念事業で設置された学園記念室では、2022年に刊行されるであろう学園の正史、『武蔵百年史』を一つの目標とした仕事が進められている。旧制時代と、新制高校中学の18年間(発足から1967年3月まで)については、概略の記録を「校務記録抄」や「記録抄」として7回に分けて学園記念室年報に発表した。それらについては、歴史家でもない私が不遜とは思いつつ資料を取捨し、解題を書いた。対象とした四五年間のうち、筆者は生徒時代、教師時代を併せて23年半を武蔵で過ごした。一数学教師としての管見ではあるが、大勢の同僚と気持ちを共有するものが多く、ある程度は客観的な見方を貫くことが出来たように思っている。私はこれで、武蔵の歴史をあとの人々に引き継げると思った。
 記念室の方針として、世間一般に倣い、30年以上を経過した史料は出来るだけ記録として遺すこと[30年ルール]にしており、現在[=この文章が執筆された2008年の時点(武蔵学園記念室注)]それは1978年以前を意味する。未発表の分の初めの10年間は、いつの間にかその30年ルールに当てはまってしまった。そのとき、任じられて教頭、のち校長の職にあった筆者には、それを取り纏める資格はなく、しかし、後継の人選は決まっていない。これまで協力して仕事をしてきた記念室関係諸氏のご意見で、ごく概略の記録だけでもまとめておけば、と促されて、異例ではあるがその10年間の整理をすることにした。
 流れの大筋は、事務長が記録する「学務日誌」に拠り、これに内容的な肉付けを加える史料として、「教師会議事録」と、私自身の校務メモ(主として教師会のための準備)、私自身の日記(両メモをあわせて[大坪メモ]とした)とを援用した。他に『大欅』[学校と家庭の連絡誌]、『校友会報武蔵』の両資料を確認程度に利用した。私には克明な記録を残す習慣がなく、教頭になってやっと、書き残すべきことがあると気付いたが、長年の習慣は簡単には改善できず、今更ながら恥ずかしく思っている。
あり合わせの資料を並べただけの変則な記録であるが、これに『解題』を書くのも烏滸がましく、記念室運営委員会のお許しを得て、主な事柄についての私自身の回想のようなものを書き並べてお許し頂きたいと思っている。

◆学園再編計画 第2次正田構想 (1966~1967年度)
 学園を挙げて朝霞に移転するという第1次正田構想は、米軍朝霞基地[一部は既に自衛隊が使用中、さらに1966年にはホークミサイル基地となることが予定された]の追加払下げ可能性が消滅した段階で振り出しに戻ったが、大学を複学部にする(当初は文系、理系各一学部増設)構想は生きていた。1966年度の終わりには「学部増設準備会」が発足して、高中からは大坪[筆者。1967年度から教頭就任予定]と島田[いずれ日本史担当として大学への移籍が予想されていた]の二教諭も準備会の委員に加えられていた。
学部増設は殆ど大学プロパーの問題のように見えて、実はそうでない。新設すべき大学学部の居所を何処に設けるかは、大学と高中が建物についても運動施設についても混在していた当時にあっては、先ず直面する大問題であった。[さらに、東京都外の朝霞に移転する場合と異なり、江古田校地内で大学と高中が共存することになると、その住み分けの処理が、新学部認可申請の時期次第では、認可の成否にも微妙に関わる懸念もあった]
 この問題は、結局、大部分が正田学長・校長の意中にあるということを、関係者みんなが暗黙のうちに了解し合う状況のなかで進行したといってよい。したがって、筆者が校長の計画の具体的な内容を正式の場で聞いたのも、1967年6月27日、高中父兄会長と高校同窓会長とを校長自宅に招いての新計画への募金事業に協力を懇請したときである。もちろん、それ以前に漠とした構想の話はあった。筆者が教頭に就任したばかりのころ、正田先生に誘われて濯川のへりを散歩した折のことである。「将来にわたって、大学、高中それぞれが施設その他の更新を望むことがある筈。それが、一々学園全体の問題となって動きがとれなくなるような事態には、今こそ対処しておかねばならない。それに、学生運動はまだまだ序の口で、将来に向けて一層高まることが予想される。大学、高中が完全に混在している現状で、どちらかに何事かあれば、必ず影響は全体に及ぶ。火種は個々別々なことが多いだろう。必要なだけの対応ですませる為にも、お互いの生活域は分けておく方がよい」と、まあこんな話であった。正田先生の考えはこの点ではっきり決まっており、細部のプランが未定のままに、濯川の線が大まかな境というところまで煮つまっていた。そして、先生はこの構想の線でどんどん周囲への働きかけを行っておられた。『正田構想』と呼ばれた所謂である。

◆動き出した計画 (1967年度後半)
 1967年9月末から計画は一気に動き始めた。まずは、教師会に校長から計画を発表することであったが、全員の同意を得ることは決して簡単なことではなかった。構想そのものへの強い批判もあった。その後の教師会では、強硬な反対意見も堂々と述べられ、論議は年末近くまで繰り返された。さんざん議論した揚げ句に、疑義は残したものの、学長・校長構想の線でとにかくまとまろうと言うことが多数の同意を得た。このあと、生徒への説明は教師会の論議をふまえて、11月24日、講堂に全校生徒を集めて教頭から説明が行われた。説明は1時間半に及び、10日ほどあとの代表委員その他有志との話し合いも含め、現段階で分かる限りの情報を尽くして話し合った。11月14日に父兄会委員会での説明のあと、生徒にも情報が流れて、主として上級生の間には反対行動を企てるやの噂も聞こえていたが、この説明後の全体の傾向としては、つとめて前向きに受け止め、遠慮なく要望を発言して行こうという方向に変わっていったのは頼もしいことであった。
 根本問題の議論とは別に、具体的な移転計画は時間と睨めっこで進めねばならない。各教科に現状確認の作業が求められ、新施設への要望事項をまとめるための調査、検討が始められた。総務委員のほかに建設担当の小林教諭、体育施設担当の飯塚教諭(当面代理高橋教諭)を加えて建設委員会が作られ、専ら建設のことを扱った。一部屋を無理矢理に空き部屋にして、ここを建設委員会の作業場とした。
募金計画への対応は、父兄、同窓の間で大層好意的に進められ、学校側としては只ただ感謝であった。父兄会委員長会、委員会、総会がそれぞれ一度ならず持たれ、熱心な討論が夜遅くまで行われた。こうした率直な作業が、通り一遍、儀礼的な賛同ではなく、歯に衣着せぬ討論を経た強固な合意を形成してくれたと思っている。
 同窓会については、総会、旧制・新制それぞれの部会、卒業期ごとや部ごとの集まり、関西・中京・東北・北海道等地域での集まりと、実に様々なグループが賛同と後援の催しを行ってくれた。その他、同窓には第一線で活躍中の建築家が多く、幾つもの場面でその人たちのアドバイスを得ることが出来た。もちろんその中心となってくれたのは建築学科の大先輩太田博太郎先生であり、すべてについて気を配ってくださったのは内田祥哉先生(17理、当時東大建築学科教授)であった。

◆「日常+建設」の1年半
 1967年の年末に設計・施工会社が清水建設に決まり、学校建築専門家をまじえたスタッフが紹介された。その人たちと年末から年始にかけて幾つかの学校を見学したのを皮切りに、設計の本格的な相談が始まった。相談はすべて建設委員会の部屋で行われたが、正田校長は毎週1度の定期会合に必ず出席されて、具体的な件にも個人の見解を述べられた。旧テニスコートの周りに植えられていた7本ほどの欅を1本だけは保存し、新校舎の屋上に穴を作って欅はその穴を貫いて茂らせるという設計側の案に、せっかくの欅は全部残して、それにさわらぬように校舎をプランしたいと提案されたのは正田先生だった。欅の列を渡り廊下が貫くというプランがこれで確定した。
 基本設計の相談が始まったのが1月半ば、そして3月半ばには大坪、小林の二人が清水建設本社に出向いて設計スタッフと膝詰めで正味8時間を越す作業を行い、やっと基本設計を完了した。この2ヶ月間は教師としてのルーティンな仕事も多忙な年度末であり、これに設計計画が加わって、徹夜に近い忙しさに耐えた日々であった。[筆者注:このような高中プロパーの仕事は、大学の人たちには殆ど伝わっていなかったらしい。3月14日の学園協議会では、何の相談もなく勝手に基本設計を作ってしまったと学・校長をなじる発言が大学側から出て、「基本設計は案であること、一昨昨日、長時間かかって出来たばかり、一昨日教頭から報告を得て、すぐに学部長に渡したものであること」が学・校長から説明された。『武蔵学園史年報第9号』「学園協議会議事録」には、この時のやりとりがかなり省略して記録されている(43~44ページ)]
 新しい学年が始まり、建設は実施設計に入った。細部になるほど素人の手に負えない事柄が多くなったが、内田教授の計らいで、34期の澤田誠二氏が技術的問題を検討する大役を引き受けてくれた。我々教師側にとって力強い味方であった。
 この段階では、一つ一つの細部がすべて施工費算定に直結するので、きびしいやりとりが際限なく続くことになった。決着までの3ヶ月間には、思い出として苦いものが多い。計画の基本だけは崩したくなかった。初めて経験する「値段をめぐるやりとり」も、内田教授ほかの味方になってくれる人々の助けで何とか耐え抜いた。理科関係教室の設備を一部分別枠にすることで交渉が妥結し、7月15日に契約成立、全校生徒も出席して地鎮祭が行われ、新校舎への移転がはっきりとした未来として意識されることになった。
 予想外のことの一つに、5月16日の十勝沖地震があった。倒壊した建物に学校建築が多く、構造上の強度があらためて問題になった。しかし、この時ただちに構造設計を見直すまでには到らなかった。此の問題は、1981年夏の校舎一部増築の時にまで持ち越された。
 記事が前後したが、1969年4月の新校舎への移転を必ず実現しなければならないと言うギリギリの条件をあてがわれて、それでも生徒たちの日常の活動はなくすわけに行かない。体育館、グラウンド、テニスコート、すべてなくなって、この1年間、どこかの施設を借用して活動を続けねばならない。それは高中生だけでなく、大学生も同様であった。近隣の学校の厚意に縋り、他方で朝霞校地の迅速な整備が求められた。その工事中に遺跡が出土して一時工事中断。幸に早めに処理されて、切り抜けることが出来た。人文学部のための旧校舎の改装は先ず外壁の塗装から始まり、高中の授業終了をまって、内部の大がかりな模様替えを急ピッチで進めねばならない。これらすべてのお膳立ては、地鎮祭以後現場事務所が立ち上がるころから、先へ先へと相談が進行した。
 1968年4月には、大学、高中双方の体育科の一致した意見が通って、大学体育館も江古田校地内に造ることが決まっていた。高中の体育館・グラウンド・集会所等については父兄、同窓の寄付金で造られることから、設計・管理[もちろん大学体育館も含めての]を19期卒業の山田水城氏に依頼することが決まり、夏の間にその点の調整が行われた。そのこともあって、体育館等の工事の細部決定だけが残った一一月末に、筆者が工事現場で転落、腰椎骨折の重傷を負うという不測の事故に遭ってしまった。必ずかぶらねばならぬヘルメットのせいで身長がほんの3センチほど高くなっていたために、触らずにすむ筈の足場パイプがヘルメットに当たったためであった。「ヘルメットは必ず阿弥陀にかぶれ」という工事現場の鉄則があることを後で聞いた。私の不注意が多大の迷惑をかける結果になったが、幸運にも入院108日、コルセット生活1年半という療養で全快することが出来た。しかし、1969年4月から大学人文学部に移籍予定の島田先生に4月末まで教頭代理をお願いしたことは、申しわけないことであった。
 これら、当時の事情を回顧しながら思うことは、教師会のほかに、総務委員会、学科主任会、建設委員会がそれぞれ身軽な数名ずつのメンバーで機能したことの有難さである。

◆高校紛争の1年間 (1969~1970年度)
 1960年代の半ばすぎから、学生運動が大学を中心に少しずつ高まりはじめた。ベトナム戦争に反対する平和運動(ベ平連)、沖縄返還交渉に於ける核の問題、1968年にフランス全土を覆った学生の反乱、同年の日大闘争、東大医学部を発端にして全学に拡大した反権力闘争、それに1970年6月の日米安保条約継続問題など、幾つもの要因を抱え、指導者も様々な混迷の時代であった。
反乱の波は1968年終わりごろには高校段階までおりてきて、学校側、教師側への反権力闘争の形をとり、過激化した。武蔵でも、1969年3月の卒業式への異議申し立てを皮切りに、4月には沖縄反戦、10月には国際反戦デーへの参加に関連したバリケード・ストライキ予告[不発に終わる]、他校の紛争への参加、そして1970年3月には他校生をまじえての卒業式阻止バリスト未遂事件に至った。これら一連の動きは、本年報において内容が理解され得る程度に事実を追ったつもりである。
 今、当時を思い出して感じるのは、われわれ教師たちがいわゆる過激派の生徒たちと、とことん対決する姿勢は決してとらなかったことが、事態を穏やかに収める大きな要因だったということである。いわゆる非行に対して、停学、謹慎という処分をきっぱりと行って来たのと異なり、思想上の対立[本当に思想上の対立があったかどうかは断定できない]に対しては、落ちついて話し合うしかないことを繰り返し説得するとともに、簡単に割り切った返事を求める彼等の要求に、それほど単純に割り切れないことの意味をよく話したつもりである。卒業式のバリスト未遂事件でも、試験の不正や社会的不正への対応とは異なり、それらと同様な処分では何も解決しないことを説明し、教師と生徒が結ぶ関係は、最終的には「人間関係」、いわばヒューマニズムとも言うべき、簡単には説明出来ない複合的思想が根本にあることを述べたつもりである。そのことにはその直後に、彼等からはげしい反発が寄せられたが、それ以上の反乱はなかった。通常の処分は行われることなく、大部分の問題は時が解決した。
 同様の考え方は「70年安保の日」の対生徒の方針にも貫かれたと思う。「高校生が政治活動を行うのは何が何でも許せない」式の文部省方針に従う多数高校とは一線を画して、生徒たちがこの日をどのように過ごすべきか、本気で十分に討論した上で行動の方針を決めたらよかろうと、一日の授業時間を生徒の自由にまかせた。大げさに言えば一国の将来を大きく支配する基本が定められるとも言える日に、自分の意志で自分を律する経験を得損なうのは、生徒たちの今後の人生にとってまことに重大な損失であることを、彼等に伝えたかった。結果として、午後に大学生と高中生とが合同で校外へ出て、整然としたデモ行進を行った。学校が承認したデモと理解され、力による弾圧はなかった。
 この日を境に、学校への反権力行動はすっかり影を潜めた。そのかわり、以後世の中では過激派同士のいわゆる内ゲバが長期間続いた。年を越えて1971年10月、外部の過激派勢力が校内に侵入、大学施設内で、居合わせた高校3年生1名が頭部を殴られ、脳挫傷で意識不明の重傷を負う事件が起きてしまった。これがきっかけで、校内にも過激派同士の争いが再燃した。内ゲバについては、暴力抗争は絶対に許さないこと、抗争が行われた場合には必ず厳しい処分をすることを、父兄同伴の場で、問題生徒数名には申し渡した。安保の日における対応とは全く異なる方針であることを明確に出したことで、以後、生徒内での暴力抗争は起こらなかった。重傷の生徒は約1ヶ月後に意識が戻り、その後徐々に回復した。

◆紛争後 (70年代後半以後)
 70年安保の後、世の中も武蔵高中も急速に落ちつきを取り戻していった。もちろん、外ではセクト間の抗争が引き続いていたし、成田闘争は、安保騒動が終わっても燃え尽きない学生たちの結集場として残った。一方、若者社会は急激に非政治化し、「しらけ世代」とか「三無主義」とかが言いならわされるようになった。しかし、武蔵の場合、この時代に新しい活動の気風が見え始めていたことも明らかである。自由研究発表の場である山川・山本両賞の応募が急に増えて、内容も著しく向上した。学校外の選者の批評でも、大学卒論レベルというより大学院レベルとまで賞賛される論文も多く、学校の授業の枠を越えて自己を形成しようと試みる若者活動は頼もしかった。
 論文とは別に、部活動の面でも決して「しらけ」でないことが顕れてきた。スポーツの場合、東京都の大会を勝ち抜くことは、選手スカウトが当たり前の多数有名校がある以上ほとんど不可能に近いが、その次の位置を保ち続けるのも立派なことである。そうした部が幾つも出た以外に、世間から注目されることの少なかった種目で、著しい成果を上げる部も出て来た。水泳部が水球で全国準優勝(同率2位)をつづけ、国体でも都代表の主軸として出場し連覇したのがその著しい例である。

◆第2外国語に新しい風 (1973年度以後)
 旧制武蔵高校では、高等科の外国語は英・独2ヶ国語で、英語を主とするものを甲類、ドイツ語を主とするものを乙類とし、文、理それぞれに甲、乙の別があって、生徒はそのどれかを選んだ。旧制一般ではフランス語を主とする丙類もあったが、丙類を置く高校はあまり多くなかった。
 1950年に旧制は終わったが、ドイツ語の教授が引き続き武藏大学におられたので、それらの先生によって兼修、選択科目としてのドイツ語が存続した。旧制の名残のような選択ドイツ語にも、いろいろの変遷はあったが、今号で記述した時代には高校3学年にわたる学年制コースで、高1(初級)ではかなり多数が選択するが、高2(中級)につなげる者は激減、高3(上級)になるとほんの数人になってしまう状況が続いていた。
 1969年に武藏大学に人文学部が新設され、英、独、仏3ヶ国語については、それまでの教養科目だけの扱いでなく、それぞれ英、独、仏文化コースという専門課程としてメンバーも増強された。
 新しくなったキャンパス内の生活が落ちつくにつれ、大学の専任として人文学部に就任した大竹健介教授(旧制22期)から、第2外国語としてドイツ語だけでなくフランス語も始めてはどうか、協力したいとの話が熱心に寄せられた。そのドイツ語には、1970年度から鹿子木先生の後任にお願いしていた池谷洋子氏のほかに、大学人文学部に就任した鈴木滿助教授(32期)が加わってくれていたので、この機会に第2外国語の方式を一新する計画が立ち上がった。
 従来の制度では、せっかく上級コースがあるのに、多くの生徒にとって大学進学と両立しにくい事情であった。新しい構想では学年制でなく初、中、上級の3グレード制、中3以上の生徒がどの級にも能力に応じて参入出来る、つまり、高2までで3つのグレードを終えられるという利点があり、途中脱落が防げることが期待出来た。
 この計画には、国語科(漢文担当)高橋稔教諭から、中国語コースも設けてほしいとの希望があり、結局独、仏、中3ヶ国語にグレード制、無学年制の選択科目として、1973年度から第2外国語が発足したのである。高橋氏は翌年東京学芸大学に移籍したが、非常勤講師として1981年度まで中国語を担当した。
 たしかに、新しい制度は途中での脱落を防ぐのにかなり役立った。高2で上級を終えた生徒たちが高3でもまだ学びたいという希望者もあって、上級の扱い方を時に応じて工夫するなど、嬉しい意外さもあった。しかし、第2外国語の学習が大学進学と全く無縁な、しかし異文化との接触に於ける独立のルートとしての意義を生み出すことになるのはまだ10年以上先の1987年を待たねばならなかった。

◆海浜学校の方針転換
 1970年には体育館と並んでプールも竣工して、授業では古いプール(大学プールとなった)と新しいプールとが時間割をうまく組めば両方を使えることになり、中1、中2の水泳指導効果が急速に向上した。旧プールだけの頃は、長距離を泳ぐ力を身につけるのは海浜学校の課題で、小三角、中三角、大三角(大三角ではじめて湾外へ出る)、興津(または守谷)への大遠泳と順次泳力を高め、参加者の半数以上が大遠泳を泳ぎ切る成果を上げていた。しかし、鵜原の海は水温が20度を割ることも多く、その克服のために学校のプールで水道水の温度が低い頃から泳ぎ込んで、寒さに順応する授業が行われていた。新施設が出来て、プールでの泳力が格段に向上し、その面だけ見れば、わざわざ海浜学校を行う必要はない、というのが体育科多数の見解であり、別に設けられた海浜学校を考える委員会の論議もそれに近いものであった。しかし、そのような技術問題ではなく、ある目標を中心にした合宿生活が、中学1、2年の少年たちに、人間同士のふれあいを通じて彼等の人格の成立に少なからぬ影響があるのではないか、技術面とは別に教師の役割の意義があるのではないか、極論すればそれが全くないというなら止めてしまえばよい、多少はあるだろうと思うからやっているのだという、比較的年かさの何人かの声に、積極的否定論に沈黙していた人たちも胸を打たれるものがあったようである。結局、目標は目標として新鮮なものに改め、それを中心とした生徒たちの活動を教師は協力して支えて行こうということに落ちついた。
 1973年夏からの海浜学校では討論の結果を受けて、まず第1に2期にわけて1回の生徒数を半分にし、安全の確保を容易にすること、具体的課題としては水上安全教育という思想を中心に据えて、距離泳、潜水、サーフィンの3種目を行い、プールでの成果を基礎に水上での安全を高めるために、海そのもの、波や風、潮流などへの体験を深めることを求めた。そしてそれら総ての上にある(あるいは基にある)ものとは、それら具体的行動を共に行うことによって参加生徒1人ひとりが人間的成長を遂げることにある、としたのである。
 また、翌年には教師の責任問題の議論を再度行い、これまで学校行事として参加を原則としていた海浜学校を、参加申し込み制に改めた。どうしても海を拒否したいという生徒なり父母なりの意志を尊重したからであった。同時に、授業を含む学校行事において、教師が個人としての事故責任を問われたとき、それが明白な不適切行為である場合以外では、学校法人の責任においてその教師を弁護するということを、学園協議会の議を経て議事録に明記した。

◆修学旅行の方針
 戦後、やや事情の安定した1951年秋に関西修学旅行が復活し、高2生を対象にして行われてきた。旅行を取りまく事情は次々に変化し、改善の工夫は絶え間なく繰り返されてきた。期間中、毎日、全員で同一行動だった当初の2、3回のあと、日程の一部にコース別選択制が採用され、見学のための学習資料が生徒たちの手で作成されるようになった。「もはや戦後ではない」といわれた昭和30年代になると、世間一般の観光ブームが起こり、奈良、京都の有名な見学先は人々がごった返すようになった。日本史担当の島田先生が計画の中心にいたおかげで、当時まだ観光ツアーから外れていた方面に歴史の学習としての基本的なコースを設定し、定着させることが出来た。しかしそれも、ほんの一時しのぎに過ぎなかった。京都郊外、奈良周辺、そして飛鳥一帯は、数年の中に一変してしまった。
 コース選択制でバス1台ずつを行動単位とする方式では満足な見学が困難になり、とうとう、数人ずつのグループを作ってグループごとの自由行動を採り入れた。毎日を完全グループ化することに踏み切ったのは1973年秋からである。年報本号の範囲ではないが、1978年秋を最後に関西修学旅行はとりやめになった。何か新しい計画が浮かべば再考の余地があると含みを残したし、2学年ほどが、赤城や鵜原の寮に合宿して討論するなどの試行を行ったが、後続の企画は現れなかった。

◆部合宿の付添問題
 1973年6月、山岳部の夏山合宿に「田中 勝顧問は国外出張中、百済弘胤顧問は健康上の理由でともに付添不可能だが、信頼できるOBがいるので彼に委せて合宿をさせてやりたいが如何」との提議から、教師会は激論となった。
 他の部でも休暇中に合宿するものは多いが、どの部にも顧問が付添うのが原則であった。しかし、顧問自身が技術面のコーチでもある場合だけでなく、OBのコーチに頼り、顧問は合宿の総責任者である場合が多いのも実情であった。その点で、山岳部の付添顧問には山行のリーダーとなるべき力量が求められている。OBに委せてただ付いて行くだけという顧問は問題外だというのが会議の共通理解であった。(実際には「顧問は付いて行くだけという高校山岳部」に山で出会ったことは一度ならずある)
 だから、その最も責任の重い山岳部こそ、顧問付添の原則を外すわけにゆくまいという意見、更に山岳部でさえOBの付添ですむのなら、ほかの部の顧問もOB委せでいいはずだという意見が中心であった。
 しかし、山岳部員から見れば、夏山は部活動の第一目標であり、これを禁じられることは部をつぶされるのと同様と受け止めるであろう。顧問が信頼を置くOBがいるのだから、そのOBの力量の範囲の山を選んで負担を軽くしてでも、合宿をさせてやりたいというのが問題提起した顧問の立場であった。
 仲裁案は「現顧問が十分信頼出来る人物がいるなら、その人に学校の教師と同様の資格を認めて、合宿を行わすことが出来る」というものであった。賛否は教頭を除く40人中、賛成22、反対6、棄権12ですれすれの賛成だった。
 実際には、この夏の合宿は顧問の判断で中止とし、個人山行に切り換えられた。一般論として、個人山行にすれば学校の責任外とはなるが、かえって顧問の目の届かない山行が暴走することもあり得る。その危険を考慮しない両顧問である筈はなかった。個人山行とは言え、顧問が十分に目を届かせ、責任への配慮をした上での「個人」であったのだが、記録の上には残らなかった。

◆学園長制度と大学、高中にそれぞれ専任の学長、校長
 1969年に発足した大学人文学部は1972年に4学年が揃う段階に達し、大学は成熟した2学部を持つことになった。単学部のときは、学部長が事実上の学長の役をつとめ、学長としての正田先生もそれをごく自然な形として受け止めていたが、2学部になって2人の学部長を取りまとめる学長の役は、単学部の時と全く異なる重みを持つことになった。1968年から69年の初めにかけて、この点について、「大学に専任の学長を置くべきであること、その選出は世間通例に従って教授、助教授の投票で決すべきこと、理事会決定で選ばれた学長、校長兼職の自分の立場は世間通例で言えば学園長というものであろう」という正田先生の意向を、一度ならずいろいろな側面からの考え方として伺うことになった。
 大学学長に関する意見が問題の発端であったが、高校中学については従来通りというのでは学園内のバランスが崩れると言うことで、高中にも専任の校長を置くべきだという意見であった。1969年5月、校長から見解表明があり、それに応じた論議をふまえて校長選任内規を作ることが合意された。9月には、総務委員会で作成した内規原案が会議で承認され、10月にそれに従った方式で1975年度からの校長予定者として大坪教頭(筆者)が正田校長から指名され、大坪教頭退席の教師会で論議が行われて指名が承認された。内規は世間の慣例とかなり異なる点があり、それは内規作成段階での筆者の考え方に、総務委員諸氏が同意してくれて出来たものであった。
 公立校などと異なるのは、校長とは身分の段階ではなく、職務の名称であること、従って、任期を終え、重任されなかった校長は、定年前であればもとの教諭職に戻ること、そのことは校長の給与を教諭給とし職務手当は別に定めるという形で明記されている。もう一つは、教師会で強く主張された「天下り校長の否定」である。1年以上教諭をつとめた者の中からしか選ばれないとする規程は、仮に、「天下り的人材」を校長に選任したいと「理事会」の意向が決まった場合でも、1年間この学校の教諭として仕事をし、同僚の信頼が得られなければ、選任の論議に上れないということであった。この2点のうち後者は、その後教師会の決議で変更されたが、それはこの制度発足から約20年後の話である。

◆青山寮移転問題
 1937年(昭和12年)、山上学校のための寮として、当時の父兄石川昌次氏の本郷弥生町にあった巨宅が寄贈されてそれを解体、軽井沢矢ヶ崎の地に移築したのが武蔵青山寮である。青山寮の敷地(約1万坪)は、南軽井沢一帯の広大な根津理事長所有地の一部分で、青山寮のために無償で使用を許されたものだった。移築にあたり学校では父兄からの寄付(約2万円)を得て、これを移築の費用に充てたが、別に理事長からは校長ほか付添教師のための教室の建築費を寄贈されている。
 建築が古めかしいとは言え、築後70年程度ではまだまだ居住に耐えるはずであったが、寮のある軽井沢東端は夏期の極端な多湿気象、冬期の寒冷と積雪などの自然条件に加えて、年間約10ヶ月ほどは無人という利用状況の故もあって老朽化がはげしく、毎年手入れのためにかなりの費用を必要とした。その上に、保健所、消防署からは新時代に相応した設備の充実が求められるようになって、その場しのぎの対応は許され難くなっていた。
 1974年の記録に青山寮をどうするかという教師会の記事がある。議論の設定がはっきりしなかった為に、話は散漫となり、明確な論議にならなかった。しかし、正田学長・校長の考えの中では、当時の学園の財政状況――物価高騰で支出が増大する一方で、容易に学費が上げられぬ事情――の中で、青山寮問題をどう処理すべきなのかを模索しておられたようである。根津副理事長とも内々の相談をされていたと思われる。
 1976年3月、学園長から老朽した青山寮のためにいつまでも軽井沢の土地を使い続けることをやめてこれを根津家に返還し、新しい場所に寮を作りたいという話が切り出された。そしてその1ヶ月後には青山寮移転先の第一候補地が奥日光であることが表明され、移転話はにわかに具体的な段階に入った。
 候補地については東武鉄道の不動産部が関与しており、東武が旅館を持っている光徳沼近辺が第1に挙げられていた。奥日光は旧制創立後の第5年目から昭和5年度以外の10夏にわたり山上学校を行ったところで、立地条件としては申し分なかった。[注:この時の山上学校は日光湯本の旅館を借りて行われた。例外の昭和五年は旅館が火災で建て替えとなり、やむなく軽井沢の夏期大学で行った]ただ、山上学校の運営形態が変わって、10数人ずつの班単位で山歩きなどをする方式になっていたので、奥日光周辺の山は標高の上でも、ルートの難易度や天候条件の上でも、1000メートルを僅かに越す程度の軽井沢周辺より危険は多いと思われた。そのことが、活動内容にかなりの制限を与えることだけは分かっておく必要があった。
 実は、奥日光について、筆者はこの時から約20年前の1955年頃に、武蔵山岳部の山小屋を建てることについて、東武鉄道におられた先輩から候補地などの紹介を頂いた経験があった。はじめは光徳沼近辺、小田代近辺の何処でも、気に入った場所ならよかろうと告げられて実地を見て歩いたが、いざ本格的に話を進める段階になったところ、奥日光は国立公園中でもとくに規制がきびしく、原則として新築は禁止であること、さらに、附近唯一の水源地の水利権は、戦場ヶ原にある開拓村と東武鉄道のホテル[当時はまだ山小屋程度のものだったが]とが持って居り、割り込む余地がないことが分かり、計画は消滅した。そのような経験を持つ筆者には、その頃と全く同じ状況のままの光徳付近に武蔵が寮を持つことは、ほぼ不可能であると思えた。その旨を正田先生にも説明したが、先生は話の次第では道が開けるのではないかとして、なお、旧父兄の縁故を頼って交渉を続けられた。そして、この年10月、環境庁の許可が下りないことが明確となり、計画は白紙に戻った。
 候補地探しは続行され裏磐梯の檜原湖周辺、同沼尻付近、安達太良山東面の岳温泉近辺などを岡学長、大坪校長、と事務局長、財務部長同道、東武側の案内で歴訪した。しかし、何処の場所もわれわれが考えている武蔵の寮のイメージとはまるで合致しなかった。12月に入り、赤城の大沼湖畔に東武の旅館(黒檜莊と呼ばれた)があり休業中であること、この施設を含め周囲の県有地を借地することが可能との話があり、取りあえず都合のつく3人(大坪、高久、志村)だけで現地を訪れた。会社や学校の寮が立ち並ぶ厚生団地から離れて、立地条件は申し分なかった。ただ、カルデラを囲む外輪山はごく小ぢんまりとまとまっていて、いささか箱庭的にも見え、避暑地としては最高でも生徒たちの活動の場としてはやや物足りぬ感もあった。学園長にはこの感想を伝え、最善とは言わぬが次善の候補地であろうと報告した。
 年が明けて、学園長、学長が赤城を視察、候補地をほぼここに定めて話を進めることになった。此の問題についての最終的な詰めは、1月半ばに根津氏と学園長との間で行われ、両者ともに多少の含みを残しつつも、話はほぼまとまったようであった。
 この話と同時進行で、学園内では再編事業にもれた大学関係施設(図書館、研究棟、中・小講堂など)を、更に充実したいとする要望について、意見がまとめられつつあった。1975年11月の着任以来1年余となった中村新一専務理事が学園長を補けて、大学側の意見を調整し、試案が固まったのが1977年3月半ばで、その直後に私達は正田学園長の急逝に遇った。そして私たちは、その日から先生の学園葬を終えるまでの10日間、ただ無我夢中で過ごした。それが終わって、どっと疲れが出た。
 正田学園長没後、岡学長が学園長事務取扱を1年間つとめ、1978年4月、太田博太郎氏が第2代学園長に就任した。青山寮問題は新学園長に引き継がれて、約2年半後、1980年12月に赤城青山寮が竣工した。昭和12年、当時の父兄多数の拠金によって建てられた旧青山寮を、根津家、学園双方の事情が重なって廃棄せざるを得なかったことへの償いの意味も込めて、新寮は根津理事長の厚志により学園に寄贈された。しかし、これらのことは次の校務記録で記されるはずの内容である。

 【写真:正田建次郎学園長の書。『武蔵七十年史』に掲載】

武蔵学園史紀伝一覧
 
to-top