畑野 勇(武蔵学園記念室)
1956(昭和31)年から1965(同40)年まで大学学長・中高の校長をつとめた吉野信次(1888-1971)は、大正・昭和戦前期の商工官僚、そして政治家(大臣や貴族院議員、県知事)として知られる。第一高等学校を経て東京帝国大学法科大学に入学、在学中に高等文官試験に合格し、1913(大正2)年の大学卒業と同時に農商務省に入り、1937(昭和12)年に商工大臣、翌年には貴族院議員、その後愛知県知事などを歴任し、戦後1953(昭和28)年に参議院議員に当選した。
その吉野が武蔵学園の学長・校長に就任した時は、第3次鳩山一郎内閣の運輸大臣の職にあり、学園での執務は週1日程度であった。彼は就任式の席上で「私はいわばパートタイムの学長・校長」と述べたが、1956年12月の内閣総辞職で大臣を辞した後も1959年まで参議院議員であり、武蔵大学では学部長が事実上の学長、中高では教頭(鎌田都助)が事実上の校長と言われていた。『武蔵学園史年報』第20号の「昭和38年度~40年度の武蔵大学―『教授会記録抄』解題」(星野誉夫氏執筆)によれば、学園から月給は出されず、法人から出ていたのかどうかも不明であったという。
『武蔵七十年史―写真でつづる学園のあゆみ』では、この期間中の学園の運営について、学長校長が不在のことが多く、学部長と教頭との連絡・協力によって進行した、と記されている。「この期間、大学の新館建設を別としても、集中暖房の復活、青山寮・鵜原寮の増築など、父兄・同窓の寄与に頼りながらの諸施設改善が進行した。戦後状態からのこのような立ち直りを、鎌田教頭の円満・謙虚・誠実な人柄が常に支えてきたということができるだろう」。この記述からは、吉野学長・校長が在任中、学園の発展に著しい寄与があったという評価はうかがえない。
また、『武蔵学園史年報』第4号所収の「武蔵高等学校中学校記録抄 その2(1956.4~60.3)」の解題(大坪秀二)においては、在任初期の吉野について、以下のように記されている。
「新制発足から昭和33年までは、もし大学、高中を分離すれば大学に赤字、高中に黒字がついたのであるが、高中の側からとかくのクレームつかなかったのは、新設の大学を盛り立てる為という考えが学園内に多数を占めていたからである。経営学科増設で大学学生数が増加し、一方高中では教師平均年齢の漸増と一部定員割れしている学年があることなどから、34年度で赤黒の関係が逆転した。この時から、大学から高中への経営上の圧力が強まったが、『パートタイマー』を自称する吉野学長校長は調整の努力に欠けるところがあった。この問題は正田学長校長の着任と、50周年記念事業、公的助成金導入に伴う大学・高中経理の対行政上の分離作業成立などに伴って一応の決着を見た」。
「『パートタイマー』を自称する吉野学長校長は調整の努力に欠けるところがあった」と記されている以上、学園全体の運営に積極性が見られなかった、という評価とみて差し支えないであろう。
哲学者で教育者だった宮本和吉学長・校長が1956年に退任したとき、元官僚・当時代議士で運輸大臣であった吉野がその後任となった事情は、現在でも詳しくはわかっていない。吉野に関する正伝『吉野信次』(同追悼録刊行会、1974年)によれば、理事の山本為三郎(のち理事長)が当時の鈴木武雄学部長に対して吉野の就任を打診したとき、鈴木は、「吉野信次には面識がないが、実兄であった吉野作造はよく識り、尊敬していた。その実弟なのだから、役人あがりでも、大学とか学者といったものに対し十分の理解があるに違いない。自分個人として異論はない」という旨回答したという。しかし教授会においては、学問や教育の中立性という観点から現役政治家の学長就任に難色を示す雰囲気であった。
発令日の前日にあたる3月31日の教授会では、深夜の24時になっても了承に至らず、このため時計の針を操作して議事録では「31日夜に了承」とした、という紛糾ぶりであったという。またその際に教授会では吉野に対し、「学長就任後は再び大臣を引き受けない・参議院への立候補もしない」という要望を伝え、吉野もこれに応じての学長就任という経緯があった。
以上より、すくなくとも学内では就任時の吉野について、その人柄や才幹に期待が寄せられていたとは言いがたい。『武蔵大学五十年史』では「多忙のため週に1度くらいの出校であったから、一般の教職員との接触は薄く、また学生から親しまれた学長ではなかった」と、かなり厳しい評価が記されている。
武蔵学園での執務が「パートタイマー」であった吉野だが、では戦後の政治家としての足跡はどうか。現代の目から見て、それは微々たるものであったと言わざるをえない。
吉野が第3次鳩山内閣の運輸大臣に就任した当時の自民党幹事長は岸信介である。この大臣人事における岸の影響力の発揮が容易に想像できるが、吉野が大臣をつとめたのはこの1年1か月間にすぎず、1959(昭和34)年の参議院議員任期満了とともに議席を去り、また多くの関係事業の現役の地位からも降りて、相談役に終始している。政治家生活が終わってからも学長校長の在任期間が5年以上あったにもかかわらず、学園運営についての後世の評価が芳しいものではないことは冒頭にみたとおりである。政治・文教の世界に適しなかった(と、言っても過言ではないだろう)彼の真骨頂は、それではどのような領域にあったのか。
前出の正伝『吉野信次』の序文に、岸信介が次のような一文を載せている。「……吉野さんは大正2年農商務省に入られて以来、累進して商工次官となり、退官後、商工大臣にもなられ、その間大正、昭和にかけて、日本の商工行政、産業政策、特に中小企業育成の政策に秩序と体系を整え、その理論的根拠を樹立された功績は、特筆に値するものでありました。……私の知る限り素晴らしい記憶力の持ち主で、官僚としては最高級の人物の一人であった事は間違いないと思います」。
「官僚としては最高級の人物の一人」という表現は、吉野があくまでも官僚社会の内部でのみ力を発揮できた人間だったといわんばかりに感じられるが、別の場所で岸は、吉野の商工省時代の貢献について、以下のように述べている。
「私は吉野という人は、本当に日本の商工行政を初めて系統立てて、それに理論的な根拠を与えた人だと思う。産業組合は別にして、それまでの産業政策は、その場その場の思いつきみたいなもので、統一した考え方はなかったわけです。商工省の役人だけの考えということではなく、我々の作った原案を審議してもらうために学者や実務家や役人を入れた商工審議会を作ったのですが、それを実際にリードしたのは幹事長役をした吉野さんでした」(『岸信介の回想』)。
この商工審議会の設置当時、吉野の8年後輩として重用されていたのが岸であった。昭和初期の商工省において、吉野と岸は強力なコンビを組み、産業合理化路線において省内をリードした。1931(昭和6)年の重要産業統制法や工業組合法、翌32年の商業組合法などは、このコンビが生み出したものであった。他方で財界や自由主義者からは警戒された。1936年には当時の商工大臣であった小川郷太郎によって2人は辞表提出を迫られ、それぞれ新たな仕事場を求めるに至る。この時点で吉野は次官就任から5年が経過していたのであるから、省内での力は絶大なものであった。
吉野や岸が注目を集めた時期は、兄の吉野作造がかつて、その象徴的存在であった「大正デモクラシー体制」が急速に衰退しつつあったときであった。昭和初期から続く恐慌のなか、政党政治の腐敗を糾弾し、満州の重要性を強調し、中国ナショナリズムの挑戦から日本権益を守るために積極的に行動すべしとして、国内政治の革新と強硬な対外政策の樹立を要求する主張が国民大衆の支持を得ていた。
満州事変が発生した1931年当時、政友会の幹事長でありながらも、従来の議会政治擁護の態度を捨て、政友会と軍部との提携による独裁政治の実現を強く主張していた、森恪という人物がいた。そして、国内革新を断行して政治権力の強化と統制経済を確立することにより、はじめて日本は大陸へ膨脹することが可能であると信じた森が、当時連絡を保っていた軍人や官僚の一人に、吉野がいたことも知られている(緒方貞子『満州事変―政策の形成過程』)。
また1935(昭和10)年ごろになると、陸軍を主体として軍需工業と基礎産業の生産力を拡充するための計画作成が着手され、1937年には「重要産業5ヶ年計画要綱」が第1次近衛文麿内閣(同年の6月に成立)に提案されており、内閣はこれを受けて「我国経済力の充実に関する件」を閣議決定し、あわせて財政経済3原則(生産力の拡充・物資需給の調整・国際収支の均衡)を発表した。生産力拡充が経済統制を要請することを表明したこの原則は、当時商工大臣に就任していた吉野と賀屋興宣(おきのり)大蔵大臣の名で発表されている。そして翌38年の内閣改造で大臣を退いた吉野は、満州重工業開発会社の副総裁を2年間つとめている。
このような経歴から、兄の作造と対照的な国家観・政治観の持ち主として吉野をとらえる見方が一般に広く行き渡っているようである。作造の妻であった玉乃と、吉野の妻であった君代とは姉妹であったが、彼ら彼女ら4人を描いた評伝劇『兄おとうと』(講談社刊)において、作者の井上ひさしは次のように4人に言わせている。
信次 君代、これ以上、ここにいては危険だ。帰ろう。
君代 おにぎりがまだのこってる。
信次 (改まって)万世一系の神聖にして侵すべからざる巨きな存在から下しおかれた憲法、その憲法にたいし、きみの義兄は不敬をはたらいている。それが判らないのか。【引用者注:「きみの義兄」という部分に傍点あり】
君代 きみの義兄? へんな言い方なさるのね。
信次 帰るんだ。
君代 いまのはただのお講義でしょう。
信次 その内容は大逆罪に相当する。
作造 待てよ、信次。憲法の原理を説いて、なぜ大逆罪なんだ。ましてやここは学問の府、どんな議論も許されるはずだよ。
信次 国家の官僚としてとうてい聞き逃すことのできない話を耳にしました。しかし、密告はしません。それが、弟としての最後の友情、と思うからです。
信次、さっと出て行く。君代、作造や玉乃に目顔で「さよなら」を告げて、そのあとを追う。
作造 弟として最後の……どういう意味だ。
玉乃 あなたが、うーんと遠いところ、怖いところへ行ってしまった。だから……。
作造 ……縁を切る?
玉乃の悲しいうなずきに、作造、暗然となる。
だが、国家革新の流れを代表する人物として、兄と対比(そして対決)させて吉野を描いたその像が、はたして史実に即したものであるのか、引用者にはやや疑問に感じられる。商工次官を辞任してからの吉野が顕著な事績を見せた、あるいは大いに実力を発揮できた(すくなくとも当人がそう感じえた)場は、戦前戦中の日本(・「満州国」)に存在しなかったことは、正伝『吉野信次』の記述からも明らかである。むしろ引用者には、その像は吉野というよりも、戦後に戦犯容疑者から総理大臣にまで上り詰めた岸信介について、より当てはまるように思われる。岸が「官僚としては第一級」と評したように、吉野は世の中の趨勢に抗ったり、あるいは趨勢をつくるというより、むしろ既定の国家の路線のただ中にあって着実に成果を積み重ねることに適した人物であったといえるのではないか。
ここで、吉野作造記念館の研究員である小嶋翔氏が吉野のパーソナリティに関して以下のように述べているのは、注目すべき分析と思われる。「信次は帝大卒業後の就職先探しについて『就職について特別の希望もなかった』『折角高文試験に合格したのだから官庁へでもと思って』などと回顧しているが、こうした野心の希薄さには、かえって大正時代らしい新しい国家エリートのあり方が認められると思われる。『天下国家』や人類の歴史といったことに大志を抱くよりも、目の前の仕事を着実にこなし、実際的な努力の結果として得られた成果に、職業人としての人生の充足を覚える、というあり方である」(「吉野信次の思想形成」『吉野作造研究』第9号、2013年所収)。
なお吉野が兄作造をどのように見ていたか、その思い出を語った文章が、『青葉集』に掲載されているが、その中で次の一節は、兄弟の性格や生き方の相違や、兄弟間の距離を感じさせる象徴的な記述ではなかろうか。
……年が十も違つては、吾輩の物心のついた頃にはもう仙台の学校へ遊学中であったから、家庭で兄に甘えて遊んで貰った記憶がない。
……[兄が]漸く多年の宿望の留学が出来ることになって、二つの故障に遭遇した。……一つは金である。子供が五人もあったから、洋行中の家族の生活費の問題である。流石に金に対しては無頓着な彼も之には弱ったらしい。それを[徳富]蘇峰先生の尽力で、当時政界に飛ぶ鳥を落す勢力のあった後藤新平伯より三ヶ年間、毎月五百円宛頂戴することになって大安心をした。其の辺の事情は吾輩はよく知らない。蘇峰先生とも当時昵懇と云う仲ではなかったらしく思う。
……第一回は兄が出立前直接に受取り、第二回以後の分は弟にお渡しをと云う訳で、紹介方々[明治]四十三年の春だったか、時めく通信大臣官邸に朝早く兄に連れられて行った。帰るさに銀座の松喜と云ふ牛肉屋で朝食を奢ると云い出した。所が生憎貰った斗りの百円札五枚の外、電車賃の小銭があるに過ぎぬ。百円と云えば大金だから、之で牛肉屋に上っては具合悪いと思ったらしく、兄は兎も角牛肉代を借りる積りで銀座裏の知人の家に行ったものだ。朝早くの珍客の御入来で一寸驚いたらしい。
あれで妙にはにかみやの癖があって、仲々要点を切り出さない。吾輩は朝早くからやって来てるので腹が減った。下らぬ世間話はやめて早く金を借りればよいとヂリヂリしてたらば、漸く一寸買物をし度いので百円札を細いのに代へて貰えまいかとやったものだ。素より家の構えから見て百円の手持があろう筈がないことは書生っぽの吾輩にだって明白である。果して先方では迷惑顔をした。実は少々入用なんですが、これを向けたら三十円位ならここにありますとの返事だ。いや十円もあれば結構ですと云う訳で、十円札一枚借りるのに一時間以上も費した。松喜の牛肉を生れて始めて御馳走になった。
今から考えると午前の十時頃に牛肉屋に行くのも変な話だし、百円札を銀行で両替えて貰っても宜かろうし、或は松喜の支払に出しても差支なかりそうに思われるのに、随分廻りくどい事をやったものだ。俗事に疎いと云うよりは、そう云う性格の半面を持った人であった。
海外留学を卒えて大学の助教授となってからの兄に付いては別段茲(ここ)に書くことはない。云わば公人としての活動期に属するので、寧ろ吾輩には之を叙する資格がないと云って宜しい。第三者として眺むれば華かな所もあったが、文字通りの悪戦苦闘の四字に尽きると思う。……
(あくまでも官僚として)抜群の有能さを評価された吉野が、それでは武蔵大学学長・高中校長として、どのような事績を残したであろうか。ここであらためて確認してみたい。
吉野の在任中の事項として特記されるのは、1961(昭和36)年に「君が代斉唱」の必要を述べた件である。『武蔵学園史年報』第8号所収の「武蔵高等学校中学校記録抄その4 1960.4~1967.3」(大坪秀二編)によれば、吉野は4月17日の教師会において「今まで歌っていないものを急に歌うのもどうかという意見もあるが、歌わないことの理由はどこにあるのか。とにかく、歌う歌わないは別問題として高校を卒業して国歌を知らない国民が出現する心配は無いものだろうか。またそれで良いものだろうか。これはある意味で根本問題だと思う」と述べ、ただそれに続けて「ここで今すぐ議して貰わなくてもよいが、以上問題を提供しておく」と発言し、この問題はそのままとなったという。学長校長在任中の吉野について、現在の目から見た評価は「積極果断な、かつ大きな変革への取り組みが見られなかった」ということになろう。
ただ、前出の『武蔵大学五十年史』は、吉野が教職員と接触が薄く、学生からも親しまれていなかったと記した後、続けてこのように記している。「しかし、吉野学長の期間には、経営学科の新設と大規模な施設の拡充が実現されたという点で、大学の歴史に残る仕事を成した学長の一人であった」。
詳細は正史の記述に譲りたいが、大学の拡充に消極的であったといわれる宮島清次郎理事長、山本為三郎理事をはじめ学園の要路の説得に吉野は成功し、経営学科の増設や大学1号館、そして研究棟・図書館・学生ホールの建設を実現させている(『武蔵大学五十年史』、向山巌「経営懇談会記録解題―経営学科創設との関連について」(『武蔵学園史年報』第4号所収)、大坪秀二「武蔵学園経営懇談会記録解題」(同じく第4号に所収)による)。
大学における人文学部の設置をはじめとする学園の飛躍的な発展は、1965(昭和40)年4月に吉野の後任として学長校長に就任した正田建次郎によってなされたと言えるが、それまでの「つなぎという立場」(前掲『吉野信次』)として、学科と設備面での拡充に関しては、吉野学長の寄与貢献があったことになる。
最後に、吉野は学生に対してどのような希望を託したのかを確認しておきたい。入学式・卒業式の祝辞などは 『武蔵大学新聞』のバックナンバーにおいて確認できるが、ここでは正伝『吉野信次』(執筆者:有竹修二)に収録された、卒業式の挨拶(初出は武蔵高校・中学校の学園雑誌『大欅』創刊号(1965年)、当時の吉野は名誉校長)を紹介したい。そこでは、19世紀の詩人であったヘンリー・ワーズワース・ロングフェロー(Henry Wadsworth Longfellow)のA Psalm of Lifeの一節が引かれ、吉野の解説あるいは解釈が記されている。
Lives of great men all remind us
we can make our lives subline,
And, departing, leave behind us
Footprints on the sands of time ;
Footprints, that perhaps another,
Sailing o'er life's solemn main,
A forlorn and shipwrecked brother,
Seeing, shall take heart again.
「……われわれは、この世においては、この人生の、(sands of time) 時の砂の上に、ある足跡を残すような気持ちで奮発しろ。どうせ、どんなにえらい人でも、結局、時の波というものには、みんな洗われちまうんです。
われわれは、人生に残した足跡というものは、これは、永久に岩に刻むようなわけにはいかないんで、やっぱり砂の上の足跡なんですね。いずれは消えてしまうんだ。消えちまうんだけれども、しかし、短かい間でも、その砂の上に残した足跡というものがあれば、あとに来る人がこの足跡を見て、大いにふるい立って、勇気を起こすだろうというんです。
それだから、いま、支那流、東洋流にいうた『志は不朽にあり』というのが、そういう意味なんだ。そういう学に志す心という気風が、私は非常に欠けていると思うのですよ。……あなた方も、この卒業という段階の時に、いま申したように、志を不朽にもって、そうして自分の与えられた境遇で、どうしたら一番効果的の勉強をすることができるかということに、私は一段と力を尽くしてもらいたいと思います。……」
引用者には、この挨拶が、役人生活を終えて以降、(あくまで引用者の想像であるが)会心の活躍の場がなかった自身の人生を振り返り、かつ、学長校長としての事績が微々たるものであったことを自覚していた吉野の、きわめて深い感慨が込められているように感じられる。
↑ 吉野信次学長・校長(在任期間:1956-65年)
↑ 1964(昭和39)年6月に開催された、「第4回武蔵大学土曜講座」にて、「我が邦工業政策の変遷」と題して講演を行っている吉野学長
↑ 吉野信次学長の武蔵大学卒業式(1963年度)送辞原稿