吉川 弘晃(高校84期・総合研究大学院大学・日本学術振興会)
「武蔵」とは何か?「自由の校風」とは何か? そもそも「自由」とは何ぞや? 早熟で少しばかり生意気な少年たちが、いつもの馬鹿話にも飽きると、ふと真剣な顔つきになって、差し込む木漏れ日に輝く「すすぎ川」を横眼に、青臭い議論を交わしながら校門を出ていく。そんな風景がいつから見られたのか、また今も残っているのかは分からない。だが確かに言えるのは、「古い男児たちOB」はしばしば、この種の話題を何時間でも語りたがるということである。キャンパスの門を出て幾星霜、時には世間の荒波を逃れ、今や失われた「変わり者たちの楽園」に浸る日があってもよかろう。しかしながら、我々がここでなすべき仕事は、そうした内向きの郷愁を無批判に再生産することではなく、冒頭の問いを可能にする武蔵学園という「場」を創った人間とその理念について、内と外をつなげる視点から動態的に捉え直すことである。
「武蔵の精神」なるものを問うとき、山本良吉(1871~1942)という巨像を避けては通れない。山本は石川県に生まれ、東京帝国大学文科大学を卒業した後は、倫理学の研究や教育学に関する評論をこなしつつ、京都帝国大学や第三高等学校、学習院で教鞭をとる。理論・実践の両面で中等・高等教育界で名を馳せた山本は、旧制武蔵高等学校の創設から20年間(1922~42)、その死に至るまで、初代教頭・第3代校長を勤め上げた。危機の時代に一つの理念を貫いた学校経営者・教育者としてのあり方は、「気骨あふれる教育者」(黒澤英典)、「仰げばいよいよ高い先生の御人格」(相原良一)と肯定的に語られる一方、「フューラー・システム」の牽引者(日下晃)、「閉鎖的な教育空間を作る方向に傾いていった」、(兵頭高夫)「ワンマン校長/教頭」「民族主義・国家主義的」(大坪秀二)と批判されることも多い*1。山本の評伝を著した上田久の言葉を借りれば「先生のように教え子の間での毀誉褒貶の激しい方も少ない」*2。
没後の語りをめぐる闘争は山本という存在の大きさとその多面性を如実に示している。だが、我々がここで注意すべきは、この偉大な「建学の父founding father」をめぐる対抗的な言説は、そのほとんどが学園関係者によるものであるため、「様々な評価はあれども山本先生は一つの礎を築いた」という楽観的(また擬似弁証法的)な結論を導きがちだということである。これはややもすれば、山本(像)の語りnarrativeを収束・単一化させ、学園史の叙述を閉鎖的なものにする危険をもつ。だが我々が『百年史』において目指すのは、内外の読み手と未来の書き手に開かれた、批判的かつ多元的な学園史である*3。
本学園史は「編年体」と「紀伝体」の二つの歴史叙述から成り立っているが、この「紀伝」に与えられた役割とは何か。それは、ある人間とその中心的テーマとの「と」を考え抜くこと、ここでは山本良吉「と」武蔵学園を、学園関係者による言説の網の目の外側から検討するということである。山本はいくつもの官立・私立学校で教鞭を執り、同時代には教育・倫理学者として多くの言論活動で知られた人物であり、必ずしも武蔵学園にだけ関わったのではない。とすれば、両者を結ぶ「と」を前もって当然視するのではなく、この「と」が19世紀後半から20世紀前半にかけて歴史的世界に結ばれた偶然的かつ運命的な糸であったということに注目せねばならない。本論では、そこから生まれる山本の課題を捉えた上で、戦前・戦中期の「武蔵の精神」を新たな視点から論じていきたい。
結論から言えば、山本が教育者として生涯抱きつづけた目標は、西欧的近代の文明を吸収しながら日本独自の伝統を守りつつ、世界に冠たる「民族文化」を建設することであった。「万世一系」の皇室を崇拝し、伝統的な家族道徳の上に「國體」を繁栄させていくここそ、国民全員の生きる意味である。旧制武蔵が当時の水準からすれば生徒の自主的な学びを重視したことは確かだが、その目的は日本帝国に最も忠実な「臣民」の育成であったこともまた無視してはならない。無論、ある時期に流行ったように、〈ここ・いまhinc et nunc〉の立場から山本の「政治的責任」を大上段に難じることは容易い。しかし、我々は彼自身が残したテキスト=痕跡に寄り添うことで、山本「と」武蔵の生成変化の過程を追うという歴史学的な手法を取る。とはいえ、山本の活動範囲の広さや残存テキストの多さを考えれば、あらゆる論点を限られた紙面で扱うことはできない。
そこで我々は、山本と大日本帝国(1868~1945)が生死をほぼ同じくしていることに着目する。日本帝国は山本「と」武蔵にとっていかなる意義をもったのか、また戦後も含めてそれはどのように機能したのか。これが本論が掲げる大きな問いである。以下ではその解決のために問題を切り分ける。まずは議論の前提として、前半生(1910年代まで)の軌跡を踏まえつつ、山本が明治国家の発展を経ながらいかに問題意識を形成していったかを確認する。次に第一次世界大戦後、日本帝国が転換期を迎えるなか、山本の思想がいかに具体化されていったかを、そのヨーロッパ滞在経験(1920~21年)を軸に論じる。そして明治が遠くなるなか、山本は自ら築き上げた明治人としての歴史観を武蔵の教育でどのように実践したかを詳しく検討する。最後に日本帝国と山本の精神が戦後も長く残りつづける点に注目し、山本の名がいかに語り継がれたかを学園関係者たちの声から考察する。
山本良吉は、1871(明治4)年10月10日、加賀藩下級藩士であった金田清三郎基之(もとゆき)の三男として、金沢・鶴間谷に生まれた。同年8月に始まった廃藩置県により、旧武士の生活基盤は藩による俸禄から新政府による金禄へと変わり、5年後には秩禄処分でそれも廃止されてしまう。生活の糧を失った多くの士族の例に漏れず、父・基之もまた米穀商を営み、母・直(なお)は木綿織の内職をして一家の生計を支えた。だが、まもなく長兄・孝三郎を水死事故で失うと、金田家は深い悲嘆に暮れる。越中町に移ってからは父母ともに定職を得ることができず、一家は日々の生活にも事欠くようになる。だが貧しさのなかでも父母は残された子供たちに教育を施すことを諦めず、良吉は1878年には小学校へ、84年には石川県専門学校へと入学した*4。
石川県専門学校は、その後の一生を左右する決定的な経験と出会いを良吉に与える。本校は、4年の予備科と3年の専門部からなる7年制の中等教育機関であり、1886年に設置されたばかりの(東京)帝国大学への進学を目指すところであった。そもそも加賀藩には学問や文化を重んじる雰囲気が強かったが、制度や人材の面で藩校・明倫館の系譜を引いていた本校は明治10~20年代、金沢の知識人ネットワーク(三宅雪嶺・高峰譲吉・清水澄・泉鏡花・徳田秋聲など)を形成し、近代日本精神史にも無視できない影響をもたらす。そのネットワークの中心には、少年時代の良吉が、鈴木大拙・藤岡作太郎・西田幾多郎と結んだ固い友情があった。彼らは文芸誌を作り、互いに書簡を交わし、文学や哲学、天下国家を語り合った。後年、教育・宗教・国文学・哲学の各方面で指導的地位を占めるようになってからも彼らの友情は変わることはなかったという(ただし藤岡は1910年に早逝)。さらに重要なのは、師・北條時敬(ときゆき)との出会いである。優等生だった良吉は唯一、数学を不得手としていたが、北條の丁寧な手ほどきのおかげで「十点か二十点くらい」だったのが「七十五点位取る力はついた」*5。加えて北條は、その高潔な人格によって一人の数学教師を越えて良吉や西田の永遠の師となった6。金沢で育まれた師弟・友情関係は、後に見るように武蔵学園創設の欠かせない伏線をなしていく。
しかし、学び舎での暖かい日々にはやがて終止符が打たれる。1887年、前年の教育令改正に伴い、石川県専門学校が廃止され、新たに第四高等中学校(四高)が設置された。中央集権的な教育を全国に広めようと目指す政府は、薩摩閥の教員を数多く金沢に送り込み、さらに加賀藩出身の教員を更迭したために、校風は一変する。かつての土着的で自由な雰囲気は失われ、校内は上からの規則ずくめとなり、教員の学力水準は落ちたという。試験を突破したにもかかわらず、新設校への期待を裏切られた良吉たちは、教師への抵抗を繰り返し、新方針に異を唱えて既に教壇を去っていた北條のあとを追うように、1889年に四高を退学した(翌年に西田も退学)。
四高退学後の良吉は、東京での学びを経て、教育者としてのキャリアを歩みはじめる。1892年、県内中学校での僅かな勤務を終えると、東京帝国大学法科大学に進学する。正規の進学ルートを経ねばならない本科生にはなれず、既に帝大で学んでいた西田と同じく、大学では選科生として様々な面で差別的な待遇を受けねばならなかった。そうしたなかで良吉は、西田と励まし合いながら学業をつづけ、政治学から教育学へと転向する。在学中にはルソーの教育思想を研究し、その成果を『教育時論』などの雑誌に発表することで、教育評論家としての第一歩を踏み出した。この間、故郷の山本家の養子となり、金田良吉は山本良吉となったが、実母・直への深い愛情はやがて訪れる離別(1896年)を経ても一生変わることはなかった。「不肖の身、吾母のなくては何をかなし得ん、憐みて教え祐け給へよ吾母、最も慈悲ありながら最も不幸なりし吾母、アゝ吾母」と追悼文を結んでいる*7。
山本は1895年に文科大学選科を修了してから、東京を離れること20年以上、京都府立尋常中学校、静岡県尋常中学校、京都府立第二中学校、京都帝国大学、第三高等学校に奉職する。この時期の山本は、主に舎監として寄宿舎学生の教育に長年、携わったこともあり、単なる知識の伝達ではない全人教育として、倫理・道徳教育がいかに重要であるかを自覚し、『倫理学史』(1897年)や『実践倫理要義』(1900年)、『中学修身教科書』(1909年)を出版した。言論人としては、『教育時論』だけでなく、国粋主義系の評論団体であった政教社(中心人物として同郷の三宅雪嶺など)の『日本人』や東京青年会YMCAの『六合雑誌』といった雑誌に教育の専門家として数多くの記事を残している*8。
山本の前半生は、明治国家体制の目まぐるしい発展とともにあった。彼はこの日本の変転を同時代人としてどのように捉えていたのか。山本が1899年に発表した論説「明治の三世」*9によれば、歴史の展開を人間の発達段階になぞらえ、いかなる国も幼児期は視野が狭くて夜郎自大に陥るが、広い世界で見識を深めるなかで、次第に自らの客観的な位置を理解できるようになる。そこでは徳川期からの日本の歴史は、「日本主義」と「西洋主義」の入れ替わりで展開する。まず、維新以前は根拠もなしに自らを天下唯一の神国、外国を野蛮国と見なす「日本主義」の思想があった。その後の明治の30年については、ヘーゲル的な弁証法が念頭に置かれつつ、最初の20年余は、文明開化の名の下に見境なく西洋の文物を受容しようという「是提」(正These)が続くが、その後の10年間はこの潮流に抗し、日本独自の歴史と生活を守るべきとする「国粋」主義が「反提」(反Antithese)として盛り上がる*10。しかし日清戦争の勝利後、日本が清と同等の存在として認められ、自らは西洋諸国と対等に渡り合えるかどうかを自問する段階に入ると、急進的な反西洋主義も成り立たない。そこで山本は、日本主義と西洋主義を高次で綜合する「合提」(合Synthese)、つまり「一方に於ては日本の社会的生活を認め、同時に其短処をも認め、之を長処ある西洋主義によりて改め、此社会をして円満の発達をなさしめんとする」時代、従来とは異なった「高尚なる日本主義の時代」に我々は立っていると論じる*11。この西洋の良い点からは学びつつも日本独自の精神こそが最も重要であるという立場は、その後もずっと山本の思想と実践の全てを貫くことになる。
この明治30年余の回顧が示すように、山本は西洋的近代に対峙するジレンマのなかで思索した。攘夷と開国、あるいは欧化と国粋の狭間で、日本人はいかにして「国のかたち/憲法constitution」を作るべきか、そのために国民一人ひとりは何をなすべきか。だが、こうした問題意識は、それ自体としては明治初頭生まれの知識人の誰もが抱いた典型的なものである。またこの時代の山本は、社会を進歩させ、「高尚なる日本主義」を実現させるは社会運動家と学校教師であると説く一方、その論点や方法については、教師として勉学と道徳の向上に努めるべしと主張するのみで、抽象論と具体論をうまく結びつけられていない*12。だが、武蔵「と」のつながりを扱う本論が追うべきは、理論の人というよりは実践の人としての山本である。別稿にあるように「もと人心内にあるを道徳と云ひ、之が外に実際に現はれたるを社会と云ふ」以上、社会の進歩は「知行合一」によってのみ実現されるということこそ、彼の生涯変わらないもう一つの立場であったのだ*13。
明治から大正へと時代が変わるなか、山本はいかに自らの課題を深めていったのか。
(1) 学習院での経験と人脈
1917~18年は、世界史の一大転換点であった。1914年8月に勃発した第一次世界大戦は、ヨーロッパ全土を、やがて中東・アフリカ・アジア諸国を戦火に包み込んだ。日本は協商(連合)国側で参戦し、極東での対独戦争を有利に進める。だが1917年の十月革命は、総力戦で疲弊した各国での共産主義革命を惹起し、ロシア・ドイツ・オーストリア=ハンガリー・オスマンの諸帝国を崩壊させた。列強上層部は戦争継続よりも革命阻止を深刻視するようになり、ロシア内戦への共同軍事介入を開始し、日本も列強最大の兵力を提供した。しかし、最終的には7年も続くシベリア出兵は、軍事・外交的な失策を招いたばかりか、国内の経済・社会に過大な負担を強いた。1918年の全国的な暴動(米騒動)は寺内正毅内閣を総辞職に追い込む。大戦後の日本は、山東省や南洋諸島の利権と国際連盟常任理事国の座を手にする一方、国内社会の大混乱によって天皇を戴く国家体制から崩壊する恐怖を味わった。大政奉還から50年目の日本帝国は厳しい転換期を迎えていた。
1918年は山本の人生にとっても転機の年であった。前年8月、文部大臣・岡田良平は、東北帝国大学総長の座にあった北條時敬に、学習院院長への就任を懇願し、紆余曲折を経て北條はこれを承諾した。学習院は皇族・華族の子弟教育を目的とする宮内省直轄の学校であったため、少ない例外をのぞき、乃木希典といった陸軍将官の院長のもと、厳しい質実剛健の気風が貫かれていた。それを踏まえれば異例の人事とも言える北條の登用の裏には、教育の近代化の遅れや学生の風紀弛緩といった問題を解決したいという宮中・文部行政の意図があったのかもしれない。北條は岡田の親友であったし、四高退任後、全国の高等学校で経験を積み、中央からの信任も厚かったからである。北條は早速、自らの教え子たちを東京に呼び寄せたが、学校改革の右腕として最も期待したのが山本であった。当時、京都帝大学生監として活躍していた山本はその地位を惜しみつつも、恩師の願いに応えることを選ぶ。1918年3月に学習院教授に就任してからは、寮長として厳格な学生指導に、教授として哲学・修身教育に尽力することで、北條の学校改革を最大限、補佐した。しかし、皇族・華族以外にも開かれた高度な教育機関を目指すという北條の路線は、学内で多くの反発を招き、1920年4月には北條は辞職、山本は休職を命じられた*14。
北條体制下の学習院は短期ではあったが、ここでの人的ネットワークは興味深い。例えば、北條と岡田良平、その次弟の一木喜徳郎、学習院評議会会員でもあった山川健次郎(1916年)らは、いずれも第一高等学校や京都帝大、文部省で重要なポストを歴任し、貴族院議員や枢密顧問官を務めている。この4人は岡田を筆頭に1917年8月に発足した「臨時教育会議」の中心メンバーであったことに注意しよう。これは、日露戦争期から続く深刻な社会の疲弊と大正期の自由主義や社会主義運動の台頭を前に、国民思想の善導と教育体制の刷新を目指すものであり、7年制高等学校の発足にも関与している*15。彼らの全員がやがて根津育英会(1921年発足)理事となったことを踏まえれば、小林敏明が指摘する通り、武蔵学園の起源は、北條・岡田を軸とする教育行政のエリート集団に見いだすことができる*16。金沢ネットワークについても触れておこう。西田は1909年から1年間赴任して同じ時期に大拙(後に北條院長を補佐)や法学者の清水澄といった四高出身者が学習院で教えており、山本は少し遅れてこのつながりに参入したと言えよう。
人間関係やキャリアは歴史学的な論証にとってある種の状況証拠に過ぎないとはいえ、院長時代の北條をめぐる文部省・宮中・金沢をつなぐネットワークこそが山本「と」武蔵をもつなぐ要因となったこと、その背景には日本帝国および皇室の危機という問題意識があったことは認められよう。なお、四高時代の苦渋と藩閥政治への反発から山本の性格を「反官僚的」とする言説が見られるが、あくまで彼自身は集権的かつ画一的な教育制度に反対しただけで、多数者の人気取りのために刹那的な機会主義に傾く自由主義よりは、地味ながらも国家全体の利益を長期的に考える官僚主義の方が優れているとさえ述べている*17。山本の視点はあくまで国家を統治する当事者の側にあったことを忘れてはならない。
(2) 山本の欧米旅行と『わが民族の理想』(1921)
山本は日本帝国の転換期にあたり、国家と国民の行く末をいかに考え、自らの教育的理念を具体化していくのか。その鍵は、山本の欧米旅行とその成果にある。学習院を去った北條は、山本の休職に責任を感じていたので、彼に外遊の機会を与えるよう文部省当局に働きかけた。山本はかねてよりの希望であった欧米視察の任を受け、1920年7月23日、横浜港から太平洋へと乗り出した。翌年7月までの1年の間、およそ3ヶ月を合州国で、2週間をオランダ・ドイツで、3日間をスイスで、2ヶ月をフランスで、そして3ヶ月をイギリスで過ごしている*18。彼は長旅で得た成果を帰りの船旅で原稿にまとめ、帰国後まもなく『わが民族の理想』(1921年)として出版した。本書は欧州各国の比較を行い、そこから日本人の使命を捉え、そのために解決すべき課題をテーマ毎に扱っている。
まず、本書冒頭で山本は自らの民族観を述べている。すなわち、各民族が世界に存在するにはそれぞれ異なった特殊の理想をもたねばならず、それを実現していくことで人類全体の文化が深まるが、逆に一つの理想を実現して他の理想を見つけられない民族は衰退する*19。民族を構成する諸慣習の起源を定めるのは難しいが、一つの民族は複数の民族が混ざり合って成立し、それぞれ独自の歴史を経て一つの個性と理想を獲得していく。そこで自らの民族的理想を実現することが国民の任務である*20。日本民族の理想発現の中心点は天皇にあり、その徳を発揚させて内外に発展させるのが臣下の役割であるという*21。
この記述に山本の国家主義・民族主義・天皇中心主義を見いだすのは容易だが、個人と国家の志向が同一であるべしという価値観を含め、この種のナショナリズムは同世代の知識人にとって別段、珍しくはない。ここで注目すべきは、自民族の核(特殊の理想)が同化されない限り、他民族の理想の良い点を学んで咀嚼・吸収して、自民族の位置づけを洗練させるべきだと山本が考えている点である*22。この有機的な民族観は後に、西田を含めた京都学派たちを通じて「世界史の哲学」として深められ、戦火のなかで大きな禍根を残した。本論でその膨大な研究と議論を追うことは避けるが、少なくとも山本や西田の民族観が日本民族の外部を認めない皇国史観のそれと全く相容れないことは確かである。
とすれば、山本は欧米諸国から何を選んで何を捨てるべきと考えたのか。まず、滞在日数の差が象徴しているが、山本はフランス・イギリス・合州国に大きな関心を示す一方、ドイツにはかなり悪印象を抱いている。日記によれば、エリートたちの「Kulturハ頭ノCulture」に過ぎず、非礼かつ高慢で下層階級を見下し、「共ニ社會ヲ経営スヘシトノ念ニ乏」しかったことが敗戦の原因であるという*23。明治以来、ドイツの学問は日本知識人に絶大な力をもっていたこと、特に敗戦後にインフレに陥ったドイツには、日本から若い学生たちがゲーテやカントに憧れて殺到していたことを考えると、山本のドイツ嫌いは一線を画しているが、同時に観念論を廃し、常に個々の具体的事例と伝統の継続性を重視する視座をそこに見ることができよう。
その視座は、仏・英・米に対しても貫かれている。まず、フランスは一般に想像される急進的な国ではなく、中世から現代までギリシャ語・ラテン語の古典を尊重する懐古的な民族理想をもつ。王党派と軍部の台頭が示すとおり、民衆にとって共和政は必ずしも適していないという*24。こうした歴史論を公式の革命史観ではなく、カトリック的な保守史観から表明しているのは、現地で交友した仏文学者・太宰施門の入れ知恵であった反面、大学令でフランスの制度を導入したために近代日本の教育制度が集権的なものになってしまったことに対する山本の批判意識を察知することが重要である*25。
山本のイギリスへの評価は高い。「個人の価値を明らかにしてその能力の最高を発揮せしめんとするのが英国民の理想であ」り、この個人主義をもってイギリス人は人類の文化に貢献した。彼らは自他の自由を侵犯しないよう細心の注意を払うため「考へ方も具体的となり、方案も実際的となり、議論にはまじめと親切とが主となって質問応酬互に誠意を披瀝する」*26。その結果、国の制度は画一化しないし、裁判ではフランスのように法律を機械的にあてはめるのではなく、個々の事例に応じて人情を重んじた判決が下されるという*27。多少の批判もあるがイギリスの民族理想からは深く学ぶべきだとしている*28。
アメリカについてはどうか。合州国の基本精神は、イギリスの個人主義をさらに進めて「民主的、共和的精神」を完成させることである。共和政をとる合州国では多数者が優先される以上、「品位品質の高尚」は保障されないものの、「米国第一America First」の標語のもとで「米国社会を世界最進文明の上に築かうとの国民的理想」が共有されている*29。そのため、アメリカ国民は優れたと感じるものは洋の東西やコストを問わずに取り込み、弊害をなすものは躊躇せずに捨てる。山本は彼らの進取の気風を高く評価する一方、これは日本民族にとって必ずしも楽観視できるわけではないと論じる*30。
なぜなら「わが民族の理想はわが文化を基礎として、それを欧米文化によつて拡張、深高化して、世界的大の新文化を人間文化史に貢献するにある、米国と相並んで、同一理想を洋の東西に於て違つた形式で発揚するにある」からだ*31。ここで山本は英・米と日本の民族理想の差異化を試みる。日本民族は伝統的に、君臣祖裔が全人格的関係で結合してきたのであり、自己は「家」を通じて民族と国家全体につながっている。そうした土台に神道・仏教・儒教を自らのものとしてきた日本の国民道徳は、自己の価値を至上として業務的関係を中心とする英・米の個人主義に対して、独自の可能性をもつとする*32。ここから武蔵建学の三大理想*33の一つとして今も謳われる「東西文化の融合」の背後には、第一次大戦後の日本が同じ後発的近代国家(新興勢力)として合州国に激しいライバル意識を感じていたこと、そして他ならぬ皇室の伝統をもつ日本民族こそが歴史的使命を果たすのだという山本の意志があったということに気づかされる。
(3)「民族文化」教育のために
仏・英・米の観察を経て設定された「わが民族の理想」をいかに実現するか。山本は、歴史・国文学・国語の教育改革を提案する。まずは従来の歴史教育の弊害を説く。一般的な歴史教科書は「少年の精神全体を引きつけるには余りに脱人間的であり、又その時代時代の活生活(引用者注:原文ママ)を知るには余りに抽象的」なので、歴史教育は無味乾燥な暗記作業と化している。そもそも普通教育では歴史の事実を教え込むより、それらへの生徒自身の関心を刺激するのが重要である*34。したがって歴史・国文学・国語の教科を合併して教え、教材は歴史物語や歌謡などの親しみやすいものを使うべきである*35。また民族文化の教育水準を高める上では専門的な歴史研究の基盤作りが欠かせない。よって歴史研究者への奨学金を手厚し、帝国大学から独立した総合的な学術機関として「日本学研究院」を設置すべきである*36。さらに、子供たちや民衆が生活のなかで歴史を身近に感じることができるよう、博物館や美術館を欧米並みの水準に引き上げ、重要文化財や歴史的建築物の保護を進めるべきだという*37。実現可能性の如何はさておき、ここで提起された文化教育の問題は今もなお問われるべきものであるし、その解決案については、教育の分野横断化や研究の学際化、歴史研究のアウトリーチが求められるようになった昨今の観点からしても十分、傾聴に値する。
では究極のところ、山本にとって歴史とは何を意味したのか。まず、彼は日本学研究院の経営において「民族の主張たり表現者であらせられる皇室」による庇護を望んでいる。このくだりから、山本が「伝統文化の体現者」としての役割を天皇に期待していることが分かる*38。さらに、効果的な歴史教育において写真や絵本、映画といった新しい媒体の役割に注目するのに加え、自ら熱心に取り組んだ謡曲や講釈物を勧めている点は山本の歴史に対する態度を示している。講釈物は大正期には一部の知識階層からは軽蔑されていたが、それでも多くの人々に親しまれていた。社会階層の上下を問わずに民族全体が歴史に親しめることこそ、講釈物の利点であると山本は述べる*39。畢竟するに、彼にとって歴史とは、文字を通じて冷静に分析すべき死んだ情報ではなく、声を通じて感情的に体感すべき血の通った物語なのだ。山本は歴史に科学的事実そのものよりも、民族的な規範を求める。彼は実証的な歴史研究とその成果の社会的共有を望んだが、それはより確かな歴史こそが民族をまとめる共同体の倫理に他ならず、その中心には神世の時代から皇室が鎮座してきたし、これからも全人類のなかで永遠に輝きつづけると信じていたからである。欧米への雄飛は山本の信仰をより堅く、その使命をより詳らかにしたのだ。
1922年元旦、山本は武蔵高等学校より辞令を受ける。その後の10年間は教頭として、もう10年間は校長として、創設まもない学び舎の教員・生徒を文字通り「領導」することになる。この動乱期の出来事は長大な説明を要するので他の文献に譲る*40。ここでは武蔵の教育では民族文化を涵養する場として修身(山本自らが教鞭をとった)、国語・漢文、地理・歴史が重視されていたことを述べるにとどめる。山本は教育者としての最終任務において、「民族文化」、あるいは共同体倫理としての歴史をいかに学生たちに伝えようとしたのだろうか。
(1) 昭和の危機と明治の回顧
降る雪や明治は遠くなりにけり…。一人の若き国文学徒がこの句を詠んだのは1931年のことであった*41。ひとがある時代を想起するのは、それが終わるときではない。その時代を象る精神の形象がやがて直観的に捉えられなくなるだろうと気づくときである。ここに歴史意識が生じ、ひとは自己の実存を賭けて過ぎ去った日々を語りはじめる。
明治維新はその50年目に本格的な想起の対象となった。1917年、旧幕臣や旧藩関係者によって各地で大規模な慰霊行事が開催され、第一次大戦後は明治「大帝」を顕彰する明治神宮の建設が進められた。明治回顧の雰囲気は関東大震災(1923年)で一段と強まる。文部省は明治末から維新史料編纂会に歴史学者を置いて幕末基礎史料の収集・整理をつづけていたが、その方針は設立当時から藩閥史観に偏っているとの批判を受けていた*42。しかし昭和天皇即位後の1928年、維新から60年目の「昭和戊辰」の年、さらなる明治維新ブームのなか、賊軍扱いされてきた人々(会津藩や新選組)や志なかばで落命した人々(坂本龍馬)に焦点が当てられるようになる。また、吉野作造や宮武外骨たちが主催した明治文化研究会(1924年発足)は、学者だけでなく在野・民間の研究者を巻き込み、維新期の関係者に聞き取りを行ったり、当時は軽視された雑誌や新聞を収集することで、明治史研究の幅を大きく広げた。こうした明治をめぐる語りは、史論や伝記、小説、戯曲や映画など多種多少なやり方で人々の歴史観を刺激した*43。その最大のケースとして島崎藤村の大河歴史小説『夜明け前』(1929~35年連載)を挙げることができる。
明治が遠くなることを山本も強く自覚していた。国家と自己の運命をどこまでも等しいものと捉えたこの明治人にとって、維新からの歴史を回顧することは、単なる慰みとしての懐古ではなく、緊張感ある実践であった。山本は後述するように、武蔵の生徒たちに明治の歴史に触れてもらうだけでなく、自ら筆をとって教育勅語や大日本帝国憲法を題材に明治立憲制の歩みを論じている。彼がここまで明治の精神にこだわる背景にはマルクス主義の興隆があった。1930年前後、世界恐慌の手痛い打撃を受けた日本では、共産主義の炎が燃え盛っており、武蔵もその例外ではなかったという*44。山本は、学生や官僚までもが「危険思想」にかぶれるのは、日本が西洋の物真似ばかりをつづけて伝統を疎かにしてきたツケであり、自らの民族文化を国民教育でうまく伝えられていないからであるとしている*45。こうした危機意識は山本の教育観をより保守化させたと西田は証言している*46。
山本は武蔵での歴史教育においてどのような歴史観を重視していたのか。彼は『勅語四十年』(1930年)で自らの明治論を披露するにあたって序文でこう述べている。
明治天皇の人格と維新以来のわが社会状態とが撞着して出たものが教育勅語である。勅語御下賜前のわが社会状態を知れば、勅語の意味がわかる。勅語の意味がわかれば、御下賜後四十年間、わが社会がその精神の発揚のために何をしてゐたかがわからう。それを考へるために、私は静かに過去六十年を顧みた*47。
単なる教育方針を示したものとしてではなく、近代以降に日本人の民族理想が世界に発現していく過程を捉える根本的な視座として山本は教育勅語を重視する。本書は、第一に勅語が日本社会で求められるようになる背景を論じ、第二に勅語の発布と意義を考察し、第三に勅語が各学校でどのように普及していったかを考え、最後に以上を踏まえた上での民族文化教育の立場から提言を行うという構成を取っている。以下、要点を見ていこう。
何よりもまず彼は、明治維新を伝統文化を破壊する革命として厳しく批判する。当時の日本が古い体制を脱却するためには、欧米諸国から先進的な技術を取り入れ、多くの制度や因習を廃止していくことが必要であったこと(廃藩置県や廃刀令)を認めつつも、五箇条の御誓文の「旧来ノ陋習ヲ破リ」という箇所ばかりが行き過ぎて、日本独自の文化を蔑ろにする風潮を生んだとする。例えば、江戸時代の礼服であった麻上下を廃止する必要はなかった。また廃仏毀釈や士族の困窮で貴重な文化財が海外に流出したと嘆いている*48。
次に明治初期の教育制度が知識偏重であったと難じている。御誓文の「知識ヲ広ク世界ニ求メ」というのは法律・政治・軍事・科学の知識を外国から取り入れることであったので、教育面ではフランスの制度を導入して学制(1872年)が敷かれた。これは大学校を頂点に中学校から小学校までを含めた階層秩序のもとで上から集権的な教育を施すものである。小中学校の授業ではアメリカやフランスの教科書の翻訳が用いられ、生徒は日本の風土に合わない内容を無理やり教え込まれたため、民族文化の教育は困難だったという。山本は中学時代を振り返って、英語・数学・科学はしっかり勉強できたが、国語の授業は全く受けられず、国史の教育も不十分だったとしている*49。しかし明治20年代から日本主義が台頭し、社会が民族文化を尊重するようになり、国民的自覚を強めていく。
こうした歴史観は第1節で扱った山本の青年期のものとあまり変わらない。しかし本論で大事なのは、山本が教育勅語が抱える問題をどう捉えていたかという点である。日本教育史の一般的な説明では、1870年代の欧化主義への反動として80年代からは復古主義の傾向が強まる。近代国家の国民のための先進的な知識を重視するか(森有礼)、天皇の臣民のための伝統的な道徳を重視するか(元田永孚)という、明治国家のもつ根本的なジレンマは深い対立を生んだが、両者の折り合いの産物が「教育ニ関スル勅語」(1890年)であるとされる*50。山本は、勅語発布までの対立には深入りせず、勅語によって日本独自の民族文化の地位と国民の考え方の基準が明らかになったと意義づける。これにつづいて「勅語は読む事によつてわかるのでもなく、読ませるために御下賜になつたのでもなく、わが民族をして永く前述の意味に於てわが民族伝来の胸の鼓動を聞き得しめるためのものである」と述べている点に注意したい51。教育勅語の本文は約300字と短く、宗教・政治的な対立を避けるために抽象的な言い回しが多いため、発布直後から解釈をめぐる問題が生じていた一方、語の修正や撤回を提案するのは不敬と目される恐れがあったため、各学校では勅語を丸暗記させるという教育法が流行していた52。山本はこの風潮を批判し、勅語の解釈が時代によって変わることや教育現場での混乱を認めつつも、勅語の意味を体得するプロセスの重要性を強調する。すなわち、自分たちの祖先は勅語に書かれた徳目をいかに理解し、民族の発展につなげたのかと生徒自身が問わねばならない。そのためには『わが民族の理想』が示した民族文化の教育によって、具体的な歴史的事実を身につけ、そのための制度や工夫を施す必要がある。山本は教育勅語の困難が文言それ自体ではなく、その解釈や伝達にあるということを痛感しており、その突破口を歴史教育に求めたのである。
(2)「明治講話」と「民族文化講義」
山本「と」武蔵高等学校による歴史教育は具体的にどのように実践されたのか。山本の教育理念の重心は、修身を軸に人文系諸科目を連携させて民族文化を涵養することにあったが、その実践として注目したいのが「明治講話」と「民族文化講義」である。
前者は1928年からほぼ毎年、明治節(11月3日)に開催され、生徒たちに様々な視点から明治の歴史に興味をもってもらう機会を作ろうとしたものである。各回の講師・題目・内容は校友会雑誌のバックナンバーから確認することができる(【表1】を参照)。講師には三上参次や渡邊幾治郎、本多辰次郎、藤井甚太郎、尾佐竹猛たちの名前が見える。彼らはいずれも宮内省や文部省で維新期史料の編纂に深く関わった歴史学者たちであり、明治史研究の開拓者として後世に知られる。山本が武蔵時代以前のコネを生かして彼らを招聘したのであろう。最初の7回は、明治天皇に関するテーマを扱っている。詳しい内容の紹介は省くが、いずれも時代背景を踏まえ、一次史料に基づきつつも、ちょっとしたエピソードを挟むことで天皇個人の人格を伝えている。天皇との個人的な想い出を語る講師も多い。講演内容を事前に山本が確認していたかは不明だが、大まかな方針として、生徒が具体的な事例を通じて明治天皇に親しみをもってもらえるよう意識していたのだろう。
山本自身も「明治講話」を4回行っている。日清戦争(37年)と不平等条約改正(39年)を扱った講演では、陸奥宗光の功績がいかに偉大であるかを情熱的に語っている。前者では、明治時代には陸軍の山縣有朋のような誰も文句を言えない絶対的権威がいるときは部下の統一がうまくいっていたが、「段々偉い人が無くなって全体が団栗のせい較べになると、どこから命令するのか、どこが中心になるのか分らなくなり、終に国家の大半を負担するに耐へなくなる」*53と結んだ。前年の二・二六事件で生徒の父親であった渡辺錠太郎陸軍大将が犠牲になったことに山本はショックを受けていたことは学園史でも語られるが、以上のくだりは彼が明治を称揚することで同時代の国家体制の危機を照射しているようにも読める。明治時代の教育(36年)と旅行についての講演(40年)は、いずれも山本の体験談が盛り込まれた自伝的な語りを取っているが、特に後者はその強みが生きている。明治から70年を経たいま、生徒(あるいは我々)にとって、旅行とは交通機関で目的地に向かうことを指すが、山本にとっては「その途中の風景を味つたり、名所を調べたり、生活を観察したりして、それがすつかり頭に収まるのをいふ」*54。徒歩・人力車・馬車・汽車・汽船・自動車と様々な移動手段が盛衰していく様子を自らの思い出を添えて語り、乗り物を使わない旅行をして日本各地をじっくりと学んでほしいと結んでいる*55。本講話は、交通技術が各地域を結ぶことで人々の国民意識を醸成したという古典的なナショナリズム論を裏づけるように見えて、その実、新たな技術が人々の時・空間意識を激変させていく70年余の過程を批判的に眺めた交通史的エッセイとしても興味深く読める。
「民族文化講義」についても触れておこう。本講義は1925年からほぼ毎年、各方面の研究者を招聘して開催され、その概要は校友会雑誌の記事として出版された(【表2】を参照)。講師には瀧精一や関野貞、武内義雄、村岡典嗣といった第一級の人文学者たちを、また鈴木大拙や暁烏敏といった金沢・四高ネットワークに連なる大物の名が見える。テーマはほぼ全て日本と中国の文学・思想・芸術に関するもので、西洋や自然科学(史)は極めて少ないが、それは山本の文化教育には東洋重視の傾向があったことを顕著に示している。明治以来の歴史学は国家中心の公文書に依拠した歴史叙述(政治・外交史)を中心としていたが、大正期からは欧米の学界動向の影響もあり、より幅広い史料や手法で民族全体の精神を描く「文化史」や「精神史」が流行しつつあった*56。「民族文化講義」は歴史研究の新たな潮流を取り込んで生徒の興味を引き出そうとしたのではないか。また、音楽史や服飾史(風俗史)といった、当時のアカデミアでは研究対象として認められなかった新領域の研究者にも目配りしている点に、山本の視野や度量の広さを認めることができる。
※以上は、武蔵高等学校『校友会誌』(後に『武蔵』に改名)のバックナンバーを参考に作成した。
講演内容は概ね、講師の研究テーマを学術的に示すものであった。例えば、関野貞「日本彫刻史」(1931年9月)は「日本文化史上に於ける彫刻史の価値は鎌倉時代までゞ、それ以後は特に見るべきものなく、殊に江戸時代に入つては論ずるに足るものはない」と講師の歴史観を示した後、飛鳥・奈良・平安・藤原・鎌倉の各時代の彫刻様式について様々な事例とともに説明している*57。「明治講話」も「民族文化講義」も、その内容が講師自らの研究的知見を土台にしているという点で共通しているが、その語り方については、前者は明治天皇をはじめとする歴史上の人物に親しみをもたせる歴史物語の形式を、後者は実例を示しながら研究上のテーマを論証していく学術講義の形式を取っている。日本人は世界独自の優れた民族文化を長きに渡って受け継いできた(それ故にこれを守り伝えていかねばならない)という論旨がどの講義にも一貫していたことには注意せねばならないが、それを生徒に効果的に伝えるべく、複数の語りのスタイルを使い分けるという歴史教育上の工夫の痕跡を認めることができる。
いずれにせよ、山本「と」武蔵の「民族文化」教育にとって「明治講話」と「民族文化講義」が大きな役割を果たしたのは明らかだ。そして山本自身も講師として参加した前者は、明治国家の精神を、究極的には教育勅語の理念を教育する場として特に重要であった。戦後に文部大臣を務めた教育社会学者の永井道雄(14期文科)は「明治節の場合は、記念講演があって大体三時間くらいかかったように記憶しておりますが、天長節は大へん短くて」そういうものでよろしいと山本が考えていたと、武蔵OB座談会で回想している*58。ここでは詳しく触れないが、戦前の武蔵には、大正・昭和天皇の天長節(8月31日・4月29日)にその名を冠した企画は単発的なものを除けば存在しない。紀元節(2月11日)の扱いについては後で述べるが、毎年恒例の民族文化教育の特別日として選ばれたのは明治節(11月3日)であった。それは山本(「と」彼が率いる武蔵)の日本帝国と皇室に対して抱きつづけた強烈な忠義とその実践の何よりの証なのである。
(3)「わが民族の理想」の果てに
日本は1930年代、いよいよ先の見えない総力戦へと突入していく。山本は武蔵高等学校校長としていかに考え、何を語ったのか。
山本の危機意識は昭和10年前後にますます強まっていた。彼は1938年の紀元節講話「憲法五十年史」で、議会の動向を中心に日本憲政史を語っている。最後に、神兵隊事件や五・一五事件、二・二六事件は、国制を脅かす「不詳事件」であると不快感を示す一方、その遠因は「国民の不良政治に対する憂心」にもあったとして、原内閣以降の党利党略の横行(知事の更迭・行政の政党化・選挙干渉)を指摘する。そして「始には藩閥の専制を抑へんとして政党が力を得た。政党が政権を握るに及んで、政党自身の弊害を生じ、自己の信用を失墜した。憲政の運用はこゝに三転を見た」と憲政史50年を総括する*59。
山本は昭和初期の政治腐敗と軍部の政治介入を批判しているが、学園史で語られる「全体主義」に対する山本の「抵抗」を過剰に読み込むのは避けたい。彼の理解では、議会の最大政党が政権を担うやり方は必ずしも三権分立の原則に適ったものではない。政党政治を相対化する山本の立憲主義観は、現代の我々が想定する「リベラル」な政治観(議会制民主主義)とは大いに異なる。たとえ政党政治が機能しなくても、立法府が憲政上の一組織に過ぎなくなっただけで、立憲政治そのものは崩壊していない。山本にとって最も重要なのは、いかなる形であっても、憲法に定められた手続きに従い、国益全体にとって最善の方向を模索して行くことであった。
その意図があくまで明治維新が築いた近代国家体制の擁護にあったとはいえ、校長は中国との戦争を苦々しく思っておられた(のではないか)とOBの声はしばしば主張する。これについても留保が必要だ。山本は、1937年秋の講話で、勅語の精神を説きつつ、同年に勃発した「支那事変」(日中戦争)の意義を論じている。すなわち、中国やインドは儒教や仏教を生んだがこれを発展させられなかったのに対し、日本のみが両者を実際の教えとして自らの民族文化に活かしつづけることができた。今や中国人は愛国心を見失い、共産主義や外国勢力とその場の利害に応じて結託・敵対を繰り返す有様である。そうした情勢下での日本の任務とは「東洋の一有力なる表現たる支那文化を保護し、これによつて世界に於て東洋文化の地位を確立する」ことである。軍部はそうした意識で対中戦争を始めたわけではないが、結果としてこの目的を達成するだろうという*60。山本は日本の軍事行動を手段としては批判するものの、歴史的使命の名の下にこれを合理化しているのは見逃せない。古代文化への限りない敬意は、その後に「頽落」した彼ら(中国人)への蔑視を生み、東洋文化の偉大な遺産を我々(日本人)こそが保護すべしという論理を導く。それはE・W・サイードが論じた文脈とは異なるとはいえ、やはり「オリエンタリズム」の典型である。山本の帝国主義は「民族文化」教育の形をとって、武蔵の生徒たちに放たれていたのである。
日本は東洋文化の指導者として行動してきた/せねばならない。この魔性を秘めた格率は、近代化の加速とともに鍛えられ、右翼だけでなく左翼の知識人をも虜にした挙句、遂に「西洋」との決戦を迎える1941年12月8日朝、「世界史的使命」として一つの完成を見た*61。その凄惨な実態はさておき、「大東亜戦争」の理念が「アジアの解放」と「東洋世界の繁栄」にあるとすれば、42年2月15日の英領シンガポール占領の意義は計り知れなかっただろう。
同年2月18日、山本は老体に鞭打って歓喜の声をあげ、「シンガポール陥落祝賀式」を開いてその気持ちを学園全体で分かち合った。早朝、校長一同は東京駅に集合して皇居を奉拝して天皇陛下万歳三唱、その後は各自で靖国神社に参拝。夕方からは学園講堂にて国歌斉唱、校長式辞、賀表披露がつづき、宮内省職員が久米歌を奏でた*62。山本はその賀表にて「新世界史ノ想像ハ一ニ国民教育ニ俟タザルベカラズ」と天皇に向けて高らかに決意表明を行い、式辞ではシンガポール陥落の歴史的意義を次のように述べている。
ここに英国は堅い関所を設けて、東洋の勢力はこれより以西に入るべからずと固めてきた。この一の関にさへられて、東西洋ははつきりと別のものとなつて居り、西人の所謂世界史はこれから西のものと定つて居た。支那事変の初りに私は、これは東洋史と西洋史とが一になつて新らしい世界史を想像する陣痛であるといつておいた。このたびのシンガポールの関処の破れたことによつて、始めて新世界史想像の端緒に入つたのである。この意味に於て、この度の勝利は世界史上非常な大事件である*63。
ここでふと20年も前の記憶が蘇ってくる。「旅客がマルセーユを舟出して、スヱズを過ぎアデンから東に向ふと、一週間ばかりは何もない。目に入るものはたゞ青い天と青い水、満眼たゞ一青の間を、舟は明けても暮れても進む。時に旅客を驚かすものは激しいモンスーンであるが、それが過ぎれば、天地はまた依然たる一青。やがて印度が見え、暫くするとマレイが見えるいつともなしに右側にはスマトラの林丘がその静かな姿を横たへて居る。その極まる処がシンガポール」64。それはあの長旅の光景、欧米諸国での観察から「わが民族の理想」を打ち立て、膨らみつづける祖国と皇室への想いを乗せた長い旅路のなかで、人生50年で得た天命を長大なマニフェストとしてしたためる合間、ふと垣間見る客船の窓に浮んでは消えていく「東西文明」の夢の欠片たちであった。最晩年には涙脆くなっていたという山本は、この日、全校生徒に感極まった声で皇室に尽くしてきた自らの人生を回顧していたが、その熱く濡れた瞳のうちに認めたのは、「わが民族の理想」を達成しつつある日本帝国75年目の晴れ姿ではなかったのか。
それはやがて消え失せる一瞬の虹であることを我々は知っている。学生たちは輝きを増す虹に「悠久の大義」を見つけるや否や、筆を捨て、刀を取り、あるいは赤い夕陽の差す下で草生す屍に、あるいは南十字星の煌く下で水漬く屍となりはてた。武蔵の生徒や卒業生たちもまた虹の犠牲となった。だが、虹の消滅と帝国の結末を見届けぬまま、1942年7月12日、山本良吉はその最後の眼を閉じた。
ここまでで「民族文化」という視点から、山本「と」武蔵の実践のあり方を考察してきた。彼の究極的な目標は、国民各自が教育勅語の理念を体得すること、つまり自らの民族文化と主体的に向き合えるようにすることにある。それは一方で国家の教育方針との摩擦を生む。1930年代、文部省は国民精神文化研究所を通じて、上からの勅語の解釈変更を進め、そのアクセントを元来の国民道徳論から戦争動員を導く「皇道ノ道」へと移していった*65。ここで武蔵がトップダウンの方針に従わず、小冊子『国体の本義』(文部省発行)の採用や御真影の設置に抵抗したことは、「リベラル」な美談として語り継がれるが、山本の言葉を内在的に読めば、その理由はあくまで「國體」に忠義を尽くす方法の違いにあったのだと分かる。いかに勇ましい言葉や仰々しい儀式も、参加者の主体性を伴わなければ抽象論に陥る。教師は上から知識を押し付けるのではなく、生徒・学生が自らの手で材料を調べ、扱い、自らの頭で問題を考え、結論を導くようにすべし。こうした「発動主義」を中等教育に取り入れることを山本は早い時期から訴えていた*66。これは武蔵の建学理想にもつながる発想であるが、歴史的文脈を踏まえれば、「民族文化」を「自ら調べ自ら考える力」こそが自発性に満ちた帝国の「主体/臣民subject」を形成する原動力となるのだ。1941年の紀元節講話で山本は生徒たちに語っている。「具体的に楠公(引用者注:楠木正成)を知るとは、楠公が平生いかなる心懸で居り、いつ、いかなる気持で、いかに皇室のために尽したかを、自分自身の事の様につかむことである」*67。
山本と日本帝国はまもなく最期の時を迎えるが、両者は形を変えつつ、戦後もなお「武蔵的なるもの」を語るときに顔を見せるだろう。山本はいかに「没後の生Nachleben」を送ることになるのか。以下、山本「と」武蔵をとりまく人々の声に耳を傾けていこう。
(1) 仰げば尊し、我が師の恩
1942年7月18日、新校長に就任した山川健次郎の甥・黙(しずか)のもと「故山本校長校葬儀」が行われ、一木喜徳郎や安倍能成、西田幾多郎などからは弔辞が寄せられた。同年10月19日の「故山本校長追悼会」には遺族・友人のほか、職員・生徒一同が参加し、山本が遺した功績や思い出を語った。ここで興味深いのは、武蔵の職員たちが、山本の人徳や見識に敬意を払いつつも、彼の直情的で頑固な性格を隠さずに話していることである。山川によれば、彼は生徒・教師の両方から非常に怖がられており、他人の欠点を徹底的に直してやろうという親切心から「かなり厳しい鉄槌が加へられ」たといい、また和田教授は、メートル法の導入を民族文化の破壊として猛反対していた山本と何度も激論を交わし、彼は一切意見を曲げなかったと回想している*68。山本の強烈な個性は反発を招きつつも「愛の鞭」であったという語りは(後になってそのありがたさが分かるというというオチを含め)、死後数カ月にして山本像の柱の一つを作っていたことが分かる。
終戦後、1946年には山川が校長を退任。後を襲った哲学者の宮本和吉は学制改革への対応に従事し、旧制武蔵高等学校は1950年にその幕をおろした。慌ただしい改編(新制高校は48年、大学は49年に設置)を経てまもない51年、故山本先生記念事業会より『晁水先生遺稿』が出版された。本書は、山本の手による各種テキスト(論説や随筆、講話・訓話原稿)を整理し、その一部を収録したものであり、大拙による序文や山本の略歴・著作物のリストなどを附す。本書は初めての山本のアンソロジーであり、出版部数は限られていたとはいえ、今なお彼の思想を知る上で第一に手に取るべき基礎文献である。また、生前の関係者が山本を語る際、本書がその土台としての役割を果たしたであろうことは想像に難くない。果たして1966年に山本先生記念会より刊行された続編は、山本をめぐる多種多彩な声(追悼文・回想・座談会)を収めて、その分量は本書全体の半分以上を占めている。本論ではそのあまりに膨大な声を詳しく分析することはせず、全体的な傾向をつかむにとどめたい。
まず何よりも、頑固でワンマンな強烈な人格をもった修身教授としての山本像が至るところで浮かび上がった。特に最初の10年までに教育を受けた卒業生たちの声に厳格なイメージが強く残る。毎回、「お尋ねします」との掛け声を合図にはじまる授業中の問答から校内での身なりや振舞に至るまで、生徒たちは一人ひとり厳しくチェックされ、端からみれば理不尽な理由で落第点をつけられるケース(例えば、厳格な山本の前で緊張して黒板に正しい答えを書けなかったため)も珍しくなかったという。1964年、旧制1~7回生を集めた卒業生座談会が開催された。ここで武蔵の第一の特徴として「落第主義」を挙げて「私自身二回も落ちている。満足に七年間で卒業したのは大秀才です」と振り返る本田正義(6期文科、当時は最高検検事)は、山本のやり方に反発して学校を追放された集団がいたことに触れて「山本教育の地盤で、要するに花が咲かなかった子供たちというのは、相当おりますよ。これは山本教育を見る場合、私どもは常に忘れては行かんところだと思うんですが、教育というものは一体それでいいものかどうかということですね」と加えている*69。すぐ後で草創期の私学を支えるために強硬手段を取る必要があったと山本をフォローしているとはいえ、座談会が全体として山本への感謝へと向かう雰囲気をつくるなか、以上のくだりは学園の内側から出された実感にもとづく批判として貴重である。
さらにそうした山本像がある種の神聖さを帯びていくさまを象徴する声も出てくる。64年の同じ座談会で山本の厳しい指導は生徒への愛情ゆえであったと、卒業生たちが自らの少年時代の苦い経験を意義づけようとするなか、高橋喜彦(2期理科、当時は気象技術研究所)は、かつての学友で医学者になった梅澤濱夫が文化勲章を受章した際の祝賀会でOBたちが「武蔵の心」を語ったときに、一度も山本の名前が出なかったことを肯定し、「『山本良吉』というのは、仮の宿りなんです。つまり、山本良吉が先代から受けついだ何ものかを、我々の心に残してくれた気持ちは、その祝賀会に非常に表れてくるんです」*70と述べる。恐怖の対象としての師は、同じ苦しみを耐えきった仲間で共有されることで、畏怖すべき対象としての父へと変わる。しかもそれは軽々しく口にすべきではない神聖な対象であるという前提こそが、この同質的な集団の結束力を強めるという、OB座談会にとって本来の機能を果たしている。とはいえ、第8~14回生の座談会になると、山本の厳格さのイメージには色々な声が見られるようになり、それより若い卒業生にとっては厳しさよりも優しさのイメージが強くなっている。
次に重要なのが山本の政治的立場についてのイメージである。旧制時代のOBたちはいずれも山本の教育に強烈な国家主義の匂いを嗅ぎとってはいたが、それは他国の良きを学びつつも自国の古きを守る「非常ないい意味の国粋主義者」といった像に落ち着く*71。それを支えるのは、彼は戦争へ向かう日本の政局に批判的であったという言説である。例えば、第15~21回生の座談会では、山本は政局を生徒の前で語ることには禁欲的であったこと、満洲事変後の陸軍の動きを暗に批判していたことなどが語られる。本座談会には参加者から一世代離れた先輩として参加している川崎明(4期文科)はそこで、自分たちが生徒だった時代には、山本は政友会と民政党の対立について後者を贔屓して前者を攻撃していたと回顧するついでに、山本が学園の配属将校を選ぶときに陸軍と一悶着を起こしたこと、軍への批判が当時は命に関わることであったことに触れ、「強い者を恐れなかった山本先生の勇気」を賞賛している。一方、山本は「紀元2600年」と「大東亜戦争」の初期の勝利に浮かれていた世の風潮に反し、お祭り騒ぎはやらなかったという声に注意を向けよう*72。山本が生徒たちに植林事業を行わせて気分を引き締めたという前者の証言は正しいものの、後者は第3節で詳しく扱ったとおり(シンガポール陥落祝賀会)誤りである。山本の国家に対する「抵抗」の神話は、旧制高校で1940年前後を迎えた者の記憶さえをも混乱させはじめていたのである。
川崎はここで、「軍の勢力をかさに着ていばる連中を軽べつなさったので、ここから軍人ぎらいの異名をもらわれた」と述べつつも、敗戦責任を軍に全て押しつける戦後の風潮への批判を忘れていない*73。彼は『晁水先生遺稿続編』の編者として「反軍人」のレッテルを避けつつ、「抵抗者」としての山本像をバランスよく立ち上げようと努めている。ここで教員座談会(64年6月末開催)に眼を移すと、興味深いことに、武蔵の配属将校(1928~31年)を務めた元陸軍将校(在任当時は中佐)の鈴木春松の証言が残されている。着任前は山本は礼儀に厳しくて反軍思想をもっているという評判を聞いていたが、武蔵では暖かく迎えられ、山本の理解も得られたと好意的に回顧する。一方、何か企画をやるときは将校団で民主的な話し合いをする陸軍軍人から見ても相当なレベルで、山本の指導手法は独断的に感じられたという旨を漏らす*74。鈴木の証言は、武蔵・陸軍関係が良好であった満洲事変以前のものであることは考慮すべきだが、それだけにかえって山本の強烈な個性とワンマンぶりを照らし出し、また「反軍人」イメージを相対化する学園の外からの声として示唆的である。
最後に、山本と武蔵の三大理想の確立をめぐる問題がある。上記の教員座談会で、三大理想の原案は山本ではなく、初代校長・一木喜徳郎が作ったものであり、だとすれば山本はその成立過程にどう関わったのかという話題が提起される。だが当時はそれを確定する史料に乏しかったため、様々な憶測が飛び交った結果、「時代がどんなに変っても、私はあれは、厳として不滅だと思うんですよ」という内田泉之助(1926年に漢文教授として着任)の言葉で締めくくられる*75。このくだりで気になるのは、山本自身は三大理想の原文を起草したとは一度も発言しなかったと、各人によって強調されていることである。従って、山本と三大理想を結びつける確かな根拠はこの時点では存在しない。後に言及するように、実際は山本の役割は限定的であったことが実証されることになるのだが、ここで重要なのは山本神聖化のプロセスがここに顕著に表れているということである。その強硬な領導で知られた山本は、元教員たちにとっても畏怖の存在であったが、建学時の精神について彼が沈黙していたことは、かえって(一木ではなく)山本「と」三大理想を結ぶ糸を想像させ、彼を絶対的な「建学の父」として神聖視する流れをもたらしている。
以上、山本の死から約20年のうちに、強烈で頑固な個性でワンマンぶりを発揮したというイメージから出発して、それ故に草創期の学園を指導できたのだという語りが戦前・戦中の抵抗という武勇談を交えて正当化され、またその厳格さをめぐる記憶が建学の三理想と結びついて共有されていく。こうして理念面でも実践面でも、山本は旧制武蔵の神話の主人公としての像を帯びていくのである。
(2) 学園史家・大坪秀二による神話破壊
大きな神話は破壊に時間を要する。そして破壊者は同時に創造者でもあるのが歴史の常である。20世紀の終わりに山本神話を破壊したのは、武蔵高等学校中学校第8代校長の大坪秀二(1924~2015)である。
大坪は武蔵在学中(1942年)、第16回外遊生として満洲行きの機会を与えられるほど傑出した生徒であったが、卒業後は東京帝大理学部で物理学を専攻し、大学教員を経て、1950年から新制になったばかりの武蔵高等学校・中学校で(後には武蔵大学でも)数学を教えた。67年からは同校教頭、75年からは校長を務め(87年まで)、90年に定年退職した*76。ほぼ40年に渡って武蔵の教育・経営に関わった大坪は、その膨大なエネルギーと独自の理念をもって新しい校風を学園にもたらし、その影響は現在にも及ぶと言われる。その実態については別途の検討を要するが、本論で重要なのは退職後の大坪の仕事である。彼は退職後、武蔵学園記念室顧問として学園史料の整理・編纂に携わっただけでなく、その解題やエッセイを通じて、従来の学園史の語りを批判しながら新しい歴史像を作ろうと試みた。その成果は、原史料と解題を収めた『武蔵学園史年報』として1995年から毎年出版され、バックナンバーは20号以上を数える。それらは武蔵学園史の研究のみならず、20世紀の日本教育史にとっても重要な基礎史料としての可能性を秘めている。
大坪の歴史叙述は、戦前から戦後まで、旧制高校から新制高校・中学・大学まで幅広く扱っているが、その最も重要な役割は、一次史料とその批判的検討にもとづいて山本神話を実証的に破壊した点にある。ここでその要点を整理しておこう。第一に、山本の専制体制が学園に招いた弊害を批判的に究明した。例えば「野球禁止考」(1999)は、旧制武蔵ではなぜか野球禁止令が出されていたという言説に注目し、日本での野球の社会的地位に触れた上で、創設当初は禁止ではなかったが途中から禁止になったと論証する。山本が公表した禁止の理由は道理にかけるとした上で、後半では1930年5月の「山本教授弾劾事件」という事件に触れている。卒業生数名が武蔵関係者や近隣住民にビラを撒き、「詰込主義、点数主義、厳罰冷酷主義」や生活・趣味への厳しい制限を批判していたという。学園内部の史料と照合したところ、叛乱卒業生側に「三分の理どころか、五分ほどの理を認めざるをえない」との評価を与えつつも、彼らの声は左翼運動弾圧のなかで消されてしまったとする*77。「たかが野球一つで大げさな」と言わず、野球問題を社会史上に位置づけるとともに、外部の声を拾い上げた上で、山本の教育体制を自由に反するものであったとする大坪の叙述は、効果的なものとなっている。そこには山本の強烈な個性・ワンマンぶりを「愛の鞭」や「リーダーシップ」という言葉で美化するのを拒み、外に開かれた学園史を創ろうという大坪の対抗的意志が横たわっているのだ。
大坪の第二の功績は、山本の「建学の父」としての役割をある程度まで相対化した点にある。例えば「三理想の成立過程を追う」(1997)は、武蔵の三大理想に関する原史料を丹念に整理・吟味した上で、開校当初(1922年4月)は一木喜徳郎が用意していた「第1の原型」があったとする。もとは「正義を重んじ真理を愛し、自ら理解考究する能力を有し、将来世界に活動し得る体力を有す」であったのが、約2年後に「東西文化融合のわが民族使命を遂行し得ベき人物を造ること。世界に雄飛するにたへる人物を造ること。自ら調べ自ら考える力を養うこと。」という現在のものにつながる「第2の原型」が作られたと推定している。特に「東西文化融合」という文言を肯定する一木に対し、山本は最後までこれに完全には同意していなかったとしている。そして「第2の原型」は山本体制下で教員たちによって権威づけられていったと主張している。「民族使命」や「世界に雄飛する」といった文言に見られる山本の「民族主義、国家主義的な理想」に違和感を唱える大坪は、アナクロニズムを改め、これからの時代に即した三大理想を練り直す必要性を訴えて文章を締めている*78。山本神話を支える三大理想の文献学的な精査を通じて、その内側からの崩壊を試みる叙述には、先と同様、山本の思想に対する大坪の強い批判意識を読み取ることができる。従来は権威化されていた山本像を正面から破壊するのは、学園関係者にとっても相当に勇気あることであっただろう。それでもこの大変な仕事へと退職後の大坪を向かわせたのは何であろうか。
(3) 戦後民主主義の可能性と限界
時は遡って1942年2月18日、ひとりの武蔵高校1年生(16期理科)が「何故それほど破天荒なことなのか良く判ら」ないまま、シンガポール陥落に沸き立つ山本校長の「何時にない上機嫌」を唖然と見つめていた*79。それは、明治生まれと大正生まれ、戦場に赴く可能性のある者とそうでない者とのあいだに生じざるを得ない認識のズレであった。43年9月、戦局が悪化するなかで卒業を迎えるこの少年は、校友会誌の記事「卒業を前にして友へ」でこう呟く。
君、死ぬ事は一番やさしいよ。殊に大君の為、国の為に死ぬ事は最もたやすいよ。只如何に生きぬくか、国家の為に如何に生きぬくか、それが一番難しいだらう。僕達は死んではいけない(中略)僕達は僕達の学業に対してもつとはつきりした自信を抱き、もつと熱烈な理想と必死の努力とをそれにかけていゝのぢやないだらうか。*80
戦争で十分な勉学を果たせなかったことへの後悔と生きぬくことの決意は、後に教育者となる大坪少年にとって精神的な出発点となった。この強烈な戦争経験は同時に、老いては歴史家となる彼にとっての原点ともなる。
大坪は学園史を書くとき、書き手としての当事者意識を明らかにしている。歴史家は実証に徹すべきで自らの政治的立場の表明には禁欲的でなければならぬという格率を、彼もまた共有していたが、それでも自らの立場性に敢えて立ち入ったのが、「『君が代』の歌と『武蔵の式』のこと」(2000年)である。日本での国旗・国歌の法制化をめぐる議論が盛り上がるところから話を起こし、戦後の卒業式では国歌斉唱が消滅していたが、その復活の是非をめぐって校内で論争があったことが語られる。大坪が武蔵に着任した翌年の1951年、文部大臣の天野貞祐が「国民実践要領」を作成し、戦後の精神的荒廃に対して道徳教育の強化を訴えた。この「天野談話」が教育面での「反動」として左翼陣営や進歩的知識人たちから猛烈な批判を浴びたことは知られているが、大坪もまた批判側の立場から同時代を描いている。創立30周年(52年)からは天野大臣の来校もひとつの引き金となり、卒業式での国歌斉唱が復活する。その方針を保持させた中心人物として槍玉に上がるのが、内田泉之助教頭(1892~1979)である。この開校以来の最年長者であった漢文教授は、山本の理念に忠実な保守派であり「かなり強面で、とかくの異義は認めなかった」が、若手教員にとって「この『逆コース』は快いものではなかった」と大坪は回想している。しかし内田退職後の67年以降の卒業式では武蔵讃歌のみが歌われることになり、その後も学園関係者や生徒から復活を望む声があったが、結局は国歌斉唱はその後も行われなかった*81。
ここにはまず、「個人として『日の丸・君が代』を支持しない立場をとる」と述べる大坪の戦後民主主義への強いこだわりが見られる。戦時中のど真ん中に高等学校で、戦後の混乱期に大学で過ごした大坪にとって「二度と過ちを繰り返さぬ」という意志は、この時代を過ごした多くの者と同様、身体に刻み込まれたものであったに違いない。次に興味深いのが、テキストにおける大坪と内田との敵対関係である。内田は山本の信頼を最も受けた教員であり、戦後は『晁水先生遺稿』の編集に中心的役割を果たし、その続編の序文に彼の人格について「之を仰げばいよ/\(引用者注:いよ)高く、これを鑽(き)ればいよ/\堅い」*82と記した。いわば彼は、戦後における山本と日本帝国の精神の守護者であった。これに対し、明治憲法体制の破綻を受け止めて新制時代に相応しい精神を創ろうという改革者たらんとした大坪は、彼岸には山本、此岸には内田という二人の超克すべき目標を抱えていたのである。旧制武蔵の負の遺産を直視していた彼は、スパルタ教育や厳罰主義ではなく自律的な思考をじっくり育てる教育方針を取り、そして国家主義を相対化できるような広範な視野を育む機会を生徒たちに与えようと努めた。例えば、日本の受験戦争と詰め込み方式の過激化に警鐘を鳴らし、第二外国語学習の促進と国外研修制度の確立に力を尽くした。そうした点も含め、大坪に山本神話の解体を可能にしたのは、史料批判という研究手法だけでなく、戦後を生きぬいた彼自身の歴史意識であったと考えられる。
だが、大坪が戦後民主主義に忠実であったがゆえの限界も存在した。それは概して言えば、戦後の視点から戦前の精神を一括りにして外在的に批判・拒絶するという傾向、また評価するにしても戦後の価値に合うように修正して解釈するという傾向である。
例えば、大坪は上記のエッセイで、昭和30年代に学内で「君が代」復活論が唱えられた時、教員たちは「私立学校の私的行事論」でこれに対抗したと述べている。もとは国語科教員だった三木孝が提案した「武蔵は私立学校、入学式や卒業式は家庭での祝い事に類似の私的な行事だから、それに『国歌』はなじまない」という論理は「学校が君が代を禁止するのはおかしい」という生徒からの反発への抵抗にも用いられたという。「公私」の区分を根拠に学園内での「公的なもの」を拒否するというそれ自体はしかし、山本にも共有されていたは見落とされる。彼は1939年の紀元節講話で、日本の民族文化を象徴する行事は江戸時代に比べて、現在では廃れてしまったとして、例えば紀元節には神武天皇にちなんだ人形や食べ物を設け、各家庭で肇国の日を祝い、その理念を生活のなかで共有し、民族意識を高めるべきであると主張している*83。実際に武蔵は元旦には式を行わずに、1月8日に年賀式を行っていたし、国家主導の紀元2600年記念行事には他校と違って生徒を派遣しなかった。国家(公)と個人(私)の目標を分離させる大坪とこれらを統合させる山本とは、イデオロギーの面では正反対であるが、「公的行事」に「私的団体」が関与しないという方針自体は共有している。つまり、山本にとっては忠君愛国の理念に基づいていた以上の論理は、戦後の文脈で換骨奪胎された上で、学園に「公」を持ち込まない、つまり国歌を拒否する方便として利用されたわけである。
大坪は以上の論理を「私立学校を盾にとった」逃げ道であるとしつつも、地元住民の税金で支えられる公立学校にも適用できるはずだとさえ主張している。もしそうだとすれば、究極的には各個人が主権者として国民自らを統治することになっている日本国憲法下において「公」の論理はどこに働く余地を残すのだろうか。大坪はこれに明瞭な見解を示していないが、これに対して山本の「私」の論理は、「家族」から「団体」を経て「民族」へと徳を通じてつながっていくという共同体観を土台にした。我々は政治哲学を論じるつもりはないが、「公的なるもの」への学園の関わり方が戦前・戦後で実は継続してしまっているという点について大坪が十分に総括していないことは明らかである。
次に、大坪は戦後的な価値観に合うように山本の行動を解釈しようとするあまり、その理念の内在的な把握に失敗している。例えば、「御真影と奉安殿 旧制武蔵高等学校の場合」(2001年)は、旧制武蔵はある時期まで御真影も奉安殿も設置しない方針をとっていたという話を皮切りに、山本の国家との関係を論じている。そうした方針を山本の「個性」を国家に対する「反骨伝説」とする言説を括弧に入れ、大坪は自らの研究に基づき、彼が三理想の成立や学校成立の過程を学園史にまとめる際に意図的な記述・編集を施していることを指摘し、さらに陸軍や文部省高官との密接な関係に着目することで「反軍」や「反官僚」の像を脱色している。ここまでは山本の国家主義への批判を貫く大坪らしいキレのある叙述である。しかし、1920年前後から僅か数年間で「国の状勢は一挙に超国家主義の方向に動き始めていた」と述べるくだりから叙述が怪しい。さらに、二・二六事件(1936年)の犠牲者に武蔵生の父親であった渡辺錠太郎陸軍教育総監が含まれていたことに山本が衝撃を受けたのではないかと推測し、これを転機として彼の反軍・反官僚(文部省)の傾向が一気に強まり、対英米開戦後は「戦局への憂慮と軍人嫌いとが山本校長の気持ちの中で重なって、驚くほど過激な反発につながったのではなかろうか」と仮定する*84。大坪は1942年4月に起きた御真影問題をめぐる山本と文部省官僚・陸軍軍人の大喧嘩をエピソードとして挙げるが、以上の議論は憶測に憶測を重ねたもので説得力に欠ける。
山本が晩年には立場を変えて国家主義に対する「反骨者」に転じたという議論は、第3節で論じたとおり、「日支事変」や「大東亜戦争」開戦後、日本の「世界史的使命」に対する山本の期待が強まったことを考えれば、再考を要する。確かに、武蔵が奉安殿を置かなかったのは、根津嘉一郎など明治をはじめから知る財界人には「大正から昭和にかけて天皇を神格化し超国家主義、軍国主義の道を歩み始めたこの国の状勢を批判的に見ていた人物」が多かったからだと述べる大坪はなるほど、明治世代の大正世代に対する違和感そのものには気づいてはいる。しかし、山本の明治人としての論理において、「國體」(伝統的な生活と精神に基づいた皇室を軸とする民族文化)という目的への忠誠と「国制」(集権的なシステムに基づく統治機構)という手段をめぐる異論は両立する。つまり、陸軍の軍事行動の個々のやり方には反対しても、日本の対外行動には全体的に賛成することは可能である。この精神を十分に汲み取れなかった大坪は、「忠君愛国」の理想とその支柱としての「歴史観」教育の実践に死ぬまで固執しつづけた山本の思想的な一貫性を捉え損ねたのである。
勿論、大坪が学園の歴史を担う正統な後継者として、「建校の父」の権威を完全に葬り去るのではなく、その可能性を救いとらざるを得ない立場にあったことは認めよう。けれども、大坪は国家(公)と個人(私)を対立項で捉える戦後的な社会観に囚われたため、山本にとって不可分なはずの「国家主義」と「自由主義」を無理に分断して解釈してしまった。結局、大坪の実証的な努力とその名声に支えられる形で、山本=武蔵の「反骨精神」なるものは――1936年の「転向」という伝説を援軍に――「リベラル」な校風を裏づける強力な神話となり、21世紀に入っても機能することになる。
武蔵という場で神話の破壊者にして歴史の創世者たらんと努め、両方の仕事を自分なりに済ませた大坪の晩年は、穏やかな収穫の秋であった。2011年8月には学園史研究が反映された『武蔵九十年のあゆみ』の刊行を祝い、2013年6月には国外研修制度でドイツ・オーストリアに派遣された(元)生徒たちやドイツ語教員との懇親会を楽しんだ*85。あの敗戦から70年目の2015年11月15日、新しい武蔵を創った「ラディカル・リベラリスト」はついに冥府へと旅立った*86。翌年2月の「お別れ会」では、長い土砂降りが大講堂に無数の雨音を響かせるなか、500人以上の「大坪チルドレン」たちが師の学恩を偲んだ。
武蔵のキャンパスには大きな欅の木が立っている。学園の象徴ともなったオオケヤキは開校以来、1世紀に渡って教師や学徒たちを見守りつづけている。けれども「建学の父」の薫りは今やすっかり薄れてしまったように見える。
1993年、西田幾多郎の孫であり、旧制武蔵で教育を受け(16期理科)、その後は新制武蔵高校・中学で物理や数学を教えた上田久は『山本良吉先生伝』を刊行した。本書は、対象の著作を読み込み、多くの同時代史料を検討し、抑制された筆致で山本の教育者としての生涯を初めて包括的に描いた優れた評伝である。それが呼び水になったのか、『同窓会会報』では3年連続(93?95年)で山本や「武蔵らしさ」を扱う特集が組まれた*87。そこには山本のテキストの引用や旧制出身者たちの回想が収録されたが、現在確認できる限りでは、これが山本「と」武蔵をめぐる声の群れが見られる最後の機会であった。
2010年代以降、受験教育への批判から塾・予備校業界と距離をとっていた武蔵高中は、次第にそれまでの方針を修正し、対外発信に力を入れるようになった。そこでは、建学の三大理想がブランドの史的根拠として強力に作用する。教育ジャーナリストのおおたとしまさは、綿密な取材を通して、武蔵の理念と実践を他に類を見ないものだと賞賛するが、その歴史理解には、かつての神話の影がうっすらと見られる。旧制武蔵は「特権に守られ、受験競争とは無縁の、真のエリート教育」を行いつつも、御真影や奉安殿を置かず、小冊子『国体の本義』も無視するなど「体制に与しない気骨も稜々だった」とする*88。それはまさしく、大坪が破壊しようとしたが、内在的な検討を徹底しなかったために、逆に強めてしまった「リベラルな抵抗者」としての山本像である。結局、彼の抵抗の事実だけが「自由の校風」の根拠として切り取られ、抵抗の理念としての帝国・皇室への忠誠心は葬られてしまったのだ。
以上、山本「と」武蔵を結ぶ糸を近代以来の歴史的世界のなかで洗い直してきたが、そこから浮き上がるのは、「武蔵的なるもの」が「日本帝国的なるもの」の生成・転換・崩壊・復活のサイクルのなかで様々な語りをなしたということである。だからといって全ては仮構の言説だったのだと切り捨てることはしない。教育勅語の理念への奉仕を誓った山本と、それに徹底して反対した大坪は、政治的立場は正反対であるにもかかわらず、両者の歴史(観)を語る言葉は、明日の世界を担う強い主体性をいかに育むかという近代教育の根源的な問いに真摯に応答し、また学校教育という場で実際に作動したからである。
では、山本という存在を〈ここ・いま〉の視座からどう考え直せるだろうか。20世紀の経験を経た我々にとって、山本の民族主義や国家主義を批判ぬきで扱うことなどできないし、理性を備えた強い主体を前提とする人間観も、数ある近代主義批判を前に修正を余儀なくされるだろう山本(や大坪)の理念を歴史的文脈から離して評価するのは極めて難しい。例えば、武蔵の三理想を「全球化globalization」の時代に「自律的思考」でもって対応できる個人を目指すことなどと読み替えるのは、それこそ山本の盲目的な伝統破壊への批判や、大坪の価値の画一化への警戒を水に流しかねない安易な行為である*89。
それでも、なんとかして山本の遺産を拾い上げようとすれば、そこに「型」への拘りがあることに気づく。思想家の唐木順三は戦後まもなく、近代日本の知のあり方を「型の喪失」と総括した。明治初期生まれの知識人は伝統的な形式を守ったが、明治20年代以降の世代は個性と自由を求める。前者(修養派)は「あれかこれか」と一冊の古典を熟読し、素読や坐禅などの身体実践を通じて知を身体に刻むのに対し、後者(教養派)は「あれもこれも」と多くの書を乱読し、内面世界での思索を通じて知と戯れる。昭和に入ると教養派は、強い型を擁するマルクス主義と帝国陸軍の席巻に対抗できず、やがて軍国主義の一人勝ちになってしまった*90。以上を補助線にすると、山本が武蔵で伝えようとした知のあり方の意味も、それに生徒たちが反発した理由も明快となる。山本は、生徒自身が「筋肉」を動かすことにこだわり、選ばれた古典(古文・漢文)を精読させ、自らもまた老年に至るまで謡曲に親しんだ。そして何のために教育の「自主」や「自由」があるかを自分なりに考え抜いた結果、大正という脱「型式」の時代風潮を横目に、明治の精神を徹底的に肯定したのだった。その方針が「個人」の自律を求める新世代の生徒たちの反発を生むのは必然であったが、山本の「ラディカルな反動性」は堅固な「型」を備えていたからこそ、左右の「全体主義」という新興の「型」に対して――「リベラル」な歴史観の想定とは逆のベクトルではあるが――叛逆しつづけられたと考えてよかろう。
今世紀に入って加速するIT革命と情報爆発、価値多元化のなか、もはや古典どころか一冊の新書さえまともに読めず、身体的な知の感覚を働かせる機会をほとんど失った我々にとって、残された唯一の規範とは、いかなる「型」からも脱して「自由に」(市場経済の再生産のために!)生きよという、見えざる「メタな型」である。機械翻訳もウィキペディアも使える新世紀に、敢えて漢文を暗唱させたり、原史料に耽溺させたり、英語以外の語学を習得させたりする教育は「反時代的」と目されるかもしれない。だが、少なくとも、画一的な「メタな型」を照らし出し、相対化するという目的に限るのであれば、自己と世界の具体的なつながりを「筋肉」を通じて「自ら調べ自ら考える力」は新たな可能性をもつのではなかろうか。「晁水」山本良吉の遺産は、我々に大きな問いを残している。
(後記)
本文に登場する史料は、読みやすさのために一部を常用漢字に改めて引用した。現代の観点で不適切と思われる表現であっても、同時代の雰囲気を伝えるためにそのまま引用した。武蔵の卒業生については旧制は「◯期文・理科」、新制は「◯期」と記した。
本論の執筆にあたり、武蔵学園記念室所蔵の数多くの貴重な資料を利用させていただいた。多忙のなかで全面的な協力を惜しまなかった同記念室の畑野勇室長に深く御礼申し上げる。有益なコメントをくださった同記念室の福田泰二名誉顧問(元武蔵高等学校長)・三澤正男調査研究員(高校45期・前武蔵学園記念室長)ほか、本学園史の書き手と読み手の全ての方々に感謝する。本論に対し、忌憚なき批判・助言を賜れれば、またOBの一人(84期)が残した声として読んでもらえれば幸いである。
*1 ここでの山本評は以下を参照。黒澤英典「武蔵学園建学の思想と山本良吉の教師論:閉塞的時代をリードした気骨あふれる教育者」『武蔵大学人文学会雑誌』41(3・4)(2010年3月)、199頁。相原良一「山本先生の思想について」川崎明編『晁水先生遺稿続編』山本先生記念会、1966年、547頁。兵頭高夫「山本良吉小論」『武蔵大学人文学会雑誌』37(4)(2006年3月)、126頁。大坪秀二『大坪秀二遺稿集』武蔵エンタープライズ、2017年、156、182頁。山本と武蔵学園をめぐる先行研究としては、上田久による評伝(上田久『山本良吉先生伝:私立七年制武蔵高等学校の創成者』南窓社、1993年)と大坪による一連の論考(大坪秀二、前掲書の「4 学園史研究」に収録)が最も充実している。
また、武蔵学園と関係しない点で山本を論じる研究も存在する。特に同郷の親友・西田幾多郎や鈴木大拙との関係で注目されてきた。石川県の知識人ネットワークの文脈で論じるものとして、浅見洋『思想のレクイエム:加賀・能登が生んだ15人の軌跡』春風社、2006年の第2曲「母への努めを果たす―気骨あふれる教育者・山本良吉」を参照。また明治知識人の宗教観の事例研究として山本を扱うものとして、松本皓一「晁水・山本良吉の宗教観」『駒澤大学佛教学部研究紀要』40(1982年3月)、62~83頁がある。
なお、山本は西田・大拙と膨大な量の書簡を交換している。それらの多くは今世紀に入って岩波書店より再編集・再刊行された『西田幾多郎全集』(全24巻、2002~2009年)および『鈴木大拙全集増補新版』(全40巻、1999~2003年)に新たに収録されている。濃厚な人間関係にもとづく私的なやりとりからは、両者の思想が生成変化していく過程を、論文や書籍、講義といった公共空間を意識せざるを得ない媒体には見られないような、赤裸々な痕跡を観察することができる。西田・大拙の思索に山本が果たした役割を考えることも、両者との関係から改めて山本の思想的意義を捉えなおすことも、学園史を広く位置づける上でも重要な課題となるが、それについては別の機会に論じたい。
*2 上田久、前掲書、271頁。
*3 「学園史」は、学校関係者の、学校関係者による、学校関係者のための歴史叙述としての性質をもつ以上、学園の指導(運営)者を顕彰する英雄伝となりがちである。伝統が浅い最初のうちはそうした歴史のあり方にも確かに意味はあろう。だが、学園創設から100年を数え、近代的教育理念の見直しや少子高齢化が世界的な課題となったいま、学園史は内向きの郷愁や好奇心を満たすためだけの「考古的歴史」を越え、外部を巻き込んで議論を喚起して新たな価値を生み出す「批判的歴史」を志向せねばならない。
*4 本節における山本の京大時代までの伝記的記述は次に依拠した。上田久、前掲書、第一章から第三章3節まで。
*5 山本良吉「開校十五週年記念式」『校友会誌』(武蔵高等学校)第34号(1937年6月)、14~15頁。
*6 北條の評伝は以下を参照。丸山久美子『双頭の鷲:北条時敬の生涯』工作舎、2018年。
*7 不孝(山本)良吉「アゝ我母」川崎明編『晁水先生遺稿続編』山本先生記念会、1966年、464頁。初出は『校友会雑誌』(静岡中学校)第2号(1896年4月)。
*8 山本の著作一覧は次を参照。上田久、前掲書、273~286頁。また山本の関連文献を含めたものとして「武蔵学園記念室支援サイト」内のページ(鈴木勝司編)を参照。http://wwr3.ucom.ne.jp/sirakigi/yamamoto-bk.html (最終閲覧日:2021年9月26日)
*9 山本良吉「明治の三世」川崎明編、前掲書、464~474頁。初出は『静岡県教育協会雑誌』第126号(1899年5月)。
*10 同上、470頁。
*11 同上、471頁。
*12 同上、472頁以下。山本良吉「教育家と理想」川崎明編、同上、285?290頁。初出は『静岡県教育協会雑誌』第117号(1899年2月)。
*13 山本良吉「小学教師に呈す」川崎明編、同上、302頁以下。初出は『静岡県教育協会雑誌』第144号(1900年3月)
*14 本節の学習院時代の山本の伝記的記述は次に依拠した。上田久、前掲書、第三章4節。
*15 臨時教育会議の概説とその時代背景については次を参照。山本正身『日本教育史』慶應大学出版会、2014年、第12章。
*16 小林敏明『西田幾多郎の憂鬱』岩波書店、2011年、318頁。
*17 山本良吉「岡田良平氏と歿後の教育界」『東洋文化』第109号(1934年5月)、13~23頁。山本は自由主義者と官僚主義者の代表としてそれぞれ澤柳政太郎と岡田を対比し、大衆受けはしないが教育人として誠実なのは岡田や山川・北條らであるとしている。澤柳は大正新教育(自由主義)運動の立役者、7年制高校をもった成城学園の創設者として知られる。山本のもつ澤柳および自由主義教育との距離感は改めて検討する必要があるが、少なくとも「リベラル」の名のもとに武蔵とほかの学校を論じることは避けるべきだろう。
*18 詳しい日程は以下の通りである。8月3日に合州国に入って大陸を横断し、11月6日に出国、大西洋を経て11月13日にイギリス着、12月1日にオランダ、12月4日にドイツ、12月14日にフランスに入って年末を過ごす。翌年1月16日にスイスを訪れ、同月19日にフランスに戻ってから2月12日に再び訪英する。そこで5月16日までロンドンやケンブリッジ、オックスフォードなどを視察し、再びフランスを経て5月23日にはマルセイユを出港、その後は地中海からスエズ運河、コロンボ、シンガポール、上海を経由して、7月2日に神戸に上陸、3日後に東京に帰着した。上田久、前掲書、139~140頁。
*19 山本良吉『わが民族の理想』弘道館、1921年、1頁。
*20 同上、4~7頁。
*21 同上、8~9頁。
*22 同上、5~7頁。
*23 山本良吉(尾形健編)『祖父・山本良吉渡欧日記:1920年-21年』私刊、1995年、62?64頁。1920年12月10日付。Kulturとはドイツ語で「文化」を表す単語であるが、大戦前後には英・仏の「文明civilisation」に対して独自の民族性を強調するための概念としてしばしば持ち出されていた。
*24 山本良吉『わが民族の理想』、12~23頁。
*25 一高教授としてフランスに派遣されていた太宰から受けた影響は、山本の日記(1921年2月10日付)にも反映されている。山本良吉(尾形健編)、前掲書、140~144頁。
*26 山本良吉『わが民族の理想』弘道館、1921年、25~29頁。
*27 同上、29~39頁。
*28 山本は個人主義の弊害として他者への同情心の欠乏を、その急進化として女権拡張(フェミニズム)運動や労働運動(ストライキ)を挙げて批判している。同上、42~45頁。
*29 同上、46~50頁。
*30 同上、52~55頁。
*31 同上、56~57頁。
*32 同上、63~72頁。
*33 武蔵学園が90年以上の伝統をもつと公言する建学の三理想は次の通り。
「1. 東西文化融合のわが民族理想を遂行し得べき人物
2. 世界に雄飛するにたえる人物
3. 自ら調べ自ら考える力ある人物」
根津育英会武蔵学園HP内より引用。https://www.musashigakuen.jp/gakuen/kyouiku.html (最終閲覧日:2021年9月30日)
*34 山本良吉『わが民族の理想』弘道館、1921年、76~77頁。
*35 同上、80~90頁。
*36 同上、90~92頁。
*37 同上、第七章。
*38 1918年に送った山本宛書簡によれば、西田は文化のパトロンとして天皇を捉える考えをもっていたようだ。文化的共同性の象徴としての皇室観は、西田の死後、その人脈を通じて、戦後の象徴天皇制を支えるイデオロギーとなったという小林の議論は、山本の皇室観を考える上でも示唆的である。小林敏明、前掲書、338~356頁。
*39 山本良吉『わが民族の理想』弘道館、1921年、86~89頁。
*40 武蔵時代の山本の伝記的記述は次を参照。上田久、前掲書、第四・五章。その他、通史については例えば、武蔵九十年のあゆみ編集委員会『武蔵九十年のあ*ゆみ』根津育英会武蔵学園、2013年。
*41 中村草田男(くさたお)(1901~83)作。後に『長子』(1936年、沙羅書店)所収。
*42 維新史料編纂事務局の業務については次を参照。淺井良亮「明治を編む:維新史料編纂事務局による維新史料の蒐集と編纂」『北の丸』第50号(2018年3月)、81~92頁。
*43 昭和初期の明治維新像については次を参照。奈良岡聰智「『昭和戊辰』における明治維新イメージ:歴史意識の変容と相克」(瀧井一博編著『「明治」という遺産:近代日本をめぐる比較文明史』ミネルヴァ書房、2020年所収)。
*44 山本は自ら編纂した学園史のなかでも生徒・教員の共産主義との接触を憂慮している。第八年目(1929年)の記述にそれが見られる。武蔵高等学校編『武蔵高等学校二十年史:二五八二年~二六〇一年』1941年、42~43頁。
*45 山本良吉「思想問題の一方面:民族文化の闡明」内田泉之助編『晁水先生遺稿』故山本先生記念事業会、1951年所収)。初出は『東洋文化』第87号(1931年9月)。
*46 「西田幾多郎「思出話」内田泉之助編、前掲書、6頁。初出は『校友会誌』(武蔵高等学校)第49号(1942年12月)。ただし西田はすぐ後に「彼の様な頭の人が、単なる保守主義者になれ様はない」と述べている。
*47 山本良吉『勅語四十年』教育研究會、1930年、i頁(最初の数頁には頁番号なし)。
*48 同上、1~11頁。
*49 同上、14~15頁。
*50 例えば、山本正身、前掲書、第6~9章。侍講として明治天皇に儒学を講じた元田は宮中要人とともに、藩閥政治に対して天皇を頂点とする政治体制を築こうと試みていたという背景は無視できない。山本は随所で国体を重視する元田の思想と実践を高く評価しているが、明治国家と立憲体制における宮中の役割を彼がどう考えていたのかは改めて問われるべきであろう。
*51 山本良吉『勅語四十年』教育研究會、1930年、44頁。
*52 貝塚茂樹「教育勅語の戦前と戦後:教育勅語研究の現在と課題」(道徳教育学フロンティア『道徳教育はいかにあるべきか:歴史・理論・実践』ミネルヴァ書房、2021年所収)36~38頁。近現代日本の道徳教育の通史としては、江島顕一『日本道徳教育の歴史:近代から現代まで』ミネルヴァ書房、2016年。
*53 山本校長(良吉)「明治講話〔九〕明治二十七八年戦役に就て」『校友会誌』第36号(1938年3月)、巻末14頁。
*54 山本校長(良吉)「明治講話〔十一〕明治の旅行」『校友会誌』第44号(1941年3月)、巻末1頁。
*55 同上、巻末14頁。
*56 その最も有名な例として次のものがある。和辻哲郎『日本精神史研究』岩波書店、1926年。西田直二郎『日本文化史序説』改造社、1932年。20年代以降、「文化史学」は、古代史家の津田左右吉や思想史家の村岡典嗣(武蔵の「民族文化講義」にも出講)などの仕事によって評価を高め、特に西田が属した京都帝大の国史学科がもっていた、狭い政治的領域にとどまらない民族の精神発展を広く研究する気風のなかで、また京都の学際的なネットワーク(哲学・文学・人類学・宗教学…)を背景に、独自の研究成果を生み出した。
*57「民族文化講演「日本彫刻史」概要」『校友会誌』(武蔵高等学校)第17号(1931年12月)、172~189頁。注記によれば、本文は校友会文化学部の生徒が関野の講演内容の要項をまとめたものである。
*58 川崎明編、前掲書、661頁。
*59 山本良吉「憲法五十年史」『校友会誌』第37号(1938年6月)、8~9頁。
*60 山本良吉「教育勅語の発布に就て」『校友会誌』第36号(1938年3月)、7~8頁。
*61 京都学派の「世界史の哲学」や日本浪曼派の「近代の超克」といった言論的キャンペーンは無論、戦争責任論で一刀両断できるものではない。特に山本や西田たちが右翼(原理日本社など)や陸軍からの暴力に晒されるなかで思考をつづけていたことの重みは十分に踏まえられねばならない。大橋良介『京都学派と日本海軍』PHP研究所、2001年。
*62 無記名「シンガポール陥落祝賀式」『武蔵』(武蔵高等学校報国団)第47号(1942年3月)、1~2頁。
*63 同上、4頁。
*64 同上、4頁。
*65 貝塚茂樹、前掲論文、38?40頁。なお、貝塚によれば、勅語が現場でどのように運用され、どの程度まで機能したかという問題や、勅語の解釈変更を促した社会・思想的背景は何であったかという問題は、特に昭和戦前期では十分に解明されていないという(同上、46~47頁)。明治に制定された教育勅語がそのまま「戦争イデオロギー」になったという直線的な理解を修正するためにも、本論を含めて多くの事例研究が必要だろう。
*66 山本良吉『発動主義の教育』弘道館、1913年。
*67 山本校長(良吉)「二六〇一年紀元節講話」『武蔵』(武蔵高等学校報国団)第44号(1941年3月)、4頁。
*68「故山本校長追悼会」『武蔵』(武蔵高等学校報国団)第49号(1943年3月)、14~20頁。山本は日本の伝統的にあった尺貫法の保存を擁護し、それを破壊するメートル法をトップダウンで導入することに対して徹底して反対した。関係する論文として、山本良吉「メートル制の再判」『東洋文化』第109号(1933年7月)、12?18頁。同「メートル法強行について再説明」『東洋文化』第113号(1933年11月)、13~22頁。同「メートル法問題と官僚と内閣」『東洋文化』第123号(1934年9月)、12~19頁。ほか多数あり。
*69 川崎明編、前掲書、606頁。
*70 同上、618頁。
*71 同上、750頁。岩田雄二(15期文科、当時は大日本紡績綿布課長)の発言。
*72 同上、712~713頁。
*73 同上、713~716頁。
*74 同上、794~797頁。ここで鈴木が「まあ、ワンマンじゃありませんけれどね」と場を和ませる言葉を挿んでいる点も興味深い。
*75 同上、817~819頁。
*76 大坪の経歴は次を参照。大坪秀二、前掲書、503~504頁。
*77 大坪秀二「武蔵七十年史余話(その三)野球禁止考」(同、前掲書、166~171頁)。初出は、『同窓会会報』第42号(1999年11月)。
*78 大坪秀二「武蔵七十年史余話三理想の成立過程を追う」(同、前掲書、155~159頁)。初出は『同窓会会報』第39号(1997年11月)。
*79 大坪秀二、前掲書、283頁。
*80 大坪秀二、前掲書、8頁。初出は『武蔵』(武蔵高等学校報国団)第50号(1944年1月)。
*81 大坪秀二「「君が代」の歌と「武蔵の式」のこと」(同、前掲書、176~180頁)。初出は、『同窓会会報』第43号(2000年11月)。
*82 内田泉之助「序」川崎明編、同上、1頁。
*83 山本校長「紀元節講話」『校友会誌』(武蔵高等学校)第39号(1939年7月)巻末1~3頁。
*84 大坪秀二「御真影と奉安殿旧制武蔵高等学校の場合」(同、前掲書、181?188頁)初出は『同窓会会報』第44号(2001年11月)。
*85「武蔵高等学校国外研修ドイツ・オーストリア派遣生懇親会」は2013年6月30日の夕方に当時の図書館棟で開催された。(元)派遣生は63期から86期まで30人ほどが参加し、本論著者の吉川(高校84期・2010年ヴィーン派遣生)もその一人であった。
*86 根津育英会理事(2021年9月現在)を務める植村泰佳(高校45期)は、『大坪秀二遺稿集』刊行委員長として、かつてその教えを受けた大坪を「自由」「平等」「博愛」という近代の徳目を「原理的」に思考・実践した「ラディカル・リベラリスト」と称している。植村泰佳「大坪時代」(大坪秀二、前掲書、507頁)。
*87『武蔵高等学校同窓会会報』第35号(1993年11月)~第37号(1995年11月)の特別企画のタイトルは「武蔵と山本良吉先生」「武蔵らしさと山本良吉先生」「武蔵らしさとはなにか」であった。
*88 おおたとしまさ『名門校「武蔵」で教える東大合格より大事なこと』集英社、2017年、5頁。なお「一二歳で武蔵に合格すれば、ほぼそのまま無選抜で帝国大学に入学できる特権が得られた」という記述は不正確である。旧制高校から帝国大学への進学は原則、無試験とされていたが、大正期に中等教育を受ける人数が激増したため、1922年から各帝国大学は進学者に統一試験を課している。特に東京帝大といった人気大学、法学部や医学部など人気学部には多くの高校生が殺到した。なお、1927~40年のデータによれば、最難関校の東京帝大法学部への合格率は、武蔵が第一高等学校を抑えて首位であり、同大医学部への合格率も50%を越えている。旧制武蔵と受験戦争の相性は抜群であったようだ。竹内洋『学歴貴族の栄光と挫折』講談社、2011年、132~141頁。
*89 ここまでの議論が明らかにした通り、山本が生徒たちに強く求めたのは「国際性inter-nationalism」であって「普遍性universalism」ではない。「国民nation」を前提とする「国際性」という概念は、「国民国家」が経年劣化を迎える今、練り直される必要があるのは確かだが、一方で「全球性globalism」の急進的拡張が、あらゆる面での不平等や格差を人類史上類を見ないレベルでもたらしているのは間違いない。日本の受験教育において東大を頂点とする「大学偏差値ランキング」が、英米名門大学を頂点とする「世界大学ランキング」へと取って代わられ、「グローバル人材」の名の下に、人間の評価軸がますます画一化する日も決して遠くはない。世界と個人とその「あいだ」で我々はいかに生きていくべきか。山本や大坪たち「と」武蔵のつながりに眠る「歴史の教訓」はまだまだ多い。
*90 唐木順三「現代史への試み:型と個性と実存」(『現代史への試み 喪失の時代(唐木順三ライブラリーⅠ)』中央公論新社、2011年収録)。初出は『現代史への試み』筑摩書房、1949年。