Story
004
智の邂逅ーー単学部からの飛躍
高津春繁と正田建次郎
人文学部を生んだ世界的数学者と言語学者の出会い

 1955年からの数年間で、経営学科の新設と大規模な施設計画をほぼ完成した武蔵大学は、少数教育を基盤に「経済の武藏」「ゼミの武蔵」の社会的評価を確実なものにした。さらに1963〜4年ごろには、研究・教育の一層の充実のために複学部への発展が求められるようになった。こうしたなか、1965年、正田建次郎元大阪大学学長(1902-1977)が武蔵大学学長・武蔵高等学校中学校校長に就任すると、7年後にせまった学園創立50周年を念頭に、大学の質量両面の拡充に着手。その成果は1969年、人文学部の創設という具体的な形となった。この人文学部創設には初代人文学部長を務めた高津春繁(こうづ・はるしげ 1908-1973)前東京大学教授の役割が大きい。世界的数学者と言語学者という異なる分野の知性の邂逅をふりかえる。

■長イスでの長考——文学部ではなく、Humanities 人文学部へ


 自宅の南に向いた居間に置かれた長イスには、冬の穏やかな陽が舞い降りていた。1967年、師走半ば、東京大学教授高津春繁は、昼食後この長イスに横たわり、陽射しに包まれながら2時間以上も瞑目したままだった。比較言語学、ギリシア文化を中心とする西洋古典学の大家は、どんな小文でも大著でも、なにかを纏め決断するときには、この長イスで沈思黙考するのが習わしだった。やがて、陽が傾き部屋が薄暗くなった頃、高津はゆっくりと起きあがると机上のメモに力強い字でこう書き留めた「Humanities 人文学部」。

 高津は神戸市にうまれ、旧制第六高等学校から東京帝国大学文学部言語学科に進んだ。卒業後、オックスフォード大学に留学。帰国してすぐに辻直四郎(つじ・なおしろう 古代インド学・言語学)から引き継ぐ形で東京帝大の講義を受けもった。その内容をもとに上梓した『印欧語比較文法』は今でも比較言語学の研究者が避けて通れぬ1冊であり、さらには19世紀には受け入れられなかったソシュールの評価にもつながった。1951年には東京大学文学部教授に就任、第3代日本西洋古典学会会長も務め、呉茂一(くれ・もいち)とともに西洋古典学、とくに古代ギリシア文学研究の泰斗となっていた。
 高津が師である辻から、「経済学部単学部の武蔵大学が『文学部』を増設する計画がある。ついては学長の正田建次郎氏と会ってほしい」といわれたのはその年の秋のはじめである。理知的だが義に篤い高津にことわる理由はなかった。
 正田建次郎武蔵大学学長・武蔵高等学校中学校校長(当時)に高津が学士会館で面会したのは秋も深まった11月である。そして師走はじめには、正田邸で辻と桂壽一(かつら・じゅいち 哲学者)を顧問に招き、新学部創設のミーティングが行われた。この席には上野景福武蔵大学教授らも参加。高津が正田学長以外の武蔵大学の関係者と接触したのはこのときが最初のようだ。
 高津はもちろん正田建次郎の名前は知っていた。武蔵の創設者根津嘉一郎の親友である正田貞一郎の次男にして皇太子妃(当時)の叔父、そしてなにより世界的な数学者であるとともに大阪大学中興の祖といわれた学長としての実績は、専門の異なる高津にとっても十分認識できていた。  
 だが、高津は学士会館での初面談と会合で、人間としての正田建次郎のスケールと魅力に惹かれてしまう。正田学長の堂々たる体躯に矛盾しない、細事に動じない大らかさと真摯な態度。学問に対する志の高さと造詣の深さ、さらに新学部創設への熱い思いに高津は大きく心を揺さぶられたのだ。

■哲・史・文、全てを包括——人間の人間たる理由を培う人文学部=LIBERAL ARTSへの旅たち


 新学部創設に向けた第1回会合からほどなく、高津は正田学長に招かれて武蔵を訪ねた。大講堂から濯川、そして諸施設を正田学長直々の案内で見学したが、敷石の1枚、樹木の1本にまで学長の思いがこもっているのを高津は感じた。それは、一貫して官立で学び教鞭をとってきた高津にとっては私学ならではの緻密かつ和らいだ空気感だった。高津はまた、そのときに武蔵高等学校の教育プログラムにも強く関心をもち、後に久美子夫人に「あのような高校で教えてみたい。いや、もう一度生徒になって学んでみたい」と語っている。
 かくして、「あの学長のもとでなら」と、高津は武蔵大学文学部創設に協力する意志を固めた。しかし学部新設には、さまざまな準備作業、人事や財務面の計画立案や交渉などが山積した。根っからの研究者であり、けして実務派ではなく、しかもすでに専門分野では大家であった高津だが、年末から翌春にかけてはまさに「師走」を過ごすことになった。翌年には東大の定年退官を控え、それ以後は愛してやまないギリシア研究に没頭することが高津の計画だった。だが、正田学長との出会い、抽象代数学と比較言語学という狭義では異質な分野の、しかし広義に言語・記号に水源をもつ智という意味では、重なりあう部分をもつ学問の専門家同士の邂逅が生み出した熱量が高津をつき動かした。

 高津の人文学部創設への思いは、以下の文部省に提出された人文学部設置認可申請書のなかの「設置要項」に明確に示されている。
 「人文学はもともと、ローマのキケロによって提唱せられたhumanitasに由来し、人間形成のために必要な諸々の知識と、その結果の正しい応用を意味した。それが中世から文芸復興期にいたるとlitterae humanioresとして西欧における教育の基礎と見做され、ギリシア、ローマの言語への深い理解の上に立ち、文学、思想、歴史はもとより、広く芸術全般、これらを培い育てる社会そのものに対する把握を加えて織り成された高い叡智を教養する学問と考えられたのである。
 新たに設立を計画している人文学部は上述のような、人文学に対する理解にもとづき、広い視野をもつ人材の育成を主眼とする。学部は欧米文化学科、日本文化学科、および社会学科の三学科をもって構成される。前二学科において「文学」の名称をさけて、あえて「文化」とした理由は、人文学に対する上述の基本理由から、在来の文学部に見られるような晢・史・文の狭い垣根を意識的に除去し、人間存在と文化伝承の中心をなす言語の習熟を基盤に、広く思想、文学、芸術、政治、経済、社会等に関する専門知識を授けて、幅と厚味のある人格の養成を目指したためである。欧米文化学科と日本文化学科の併設を意図した理由は、西欧文化の中心的担い手である英・独・仏三民族の文化や生活、その深い影響の下に独自の新旧文化の文脈を形成しつつある日本民族の生活や文化に対する相互理解と専門的研究の必要を痛感したが故である。また、社会学科は、東西文化交流の一拠点として、独特の状況を展開しているわが国社会構造全般の解明を中心に、制度や文化を運載する生活共同体そのものの維持発展に対する偏らない把握をねらった科目を編成している。
 とくに、専門教育課程に豊富な共通科目をおいたことは、前記理念を卒直に具体化したものであって、在来の縦割りシステムからくる独善的なセクショナリズムの弊を排除しつつ、人間形成のために必要な専門知識を広く習得させる意味をもち、本学部の特色の一つとするところである」


■ソークラテースやプラトーン、アリストパネースのように

 

 かくして1969年2月8日、武藏大学人文学部の設置が認可され、同月末と3月に2期に分けて入学試験が行われた。定員は欧米文化学科100名、日本文化学科50名、社会学科100名である。
 4月1日、武蔵大学人文学部が開設され、初代学部長に高津が就任した。8月には3号館の学部増設に伴う改修工事が完成し、人文学部研究室、学科研究室、演習室、教室などが整備された。単学部単学科でスタートした武蔵大学の新たな旅たちである。おなじく4月には大学院経済学研究科経済学研究科選考修士課程も設置され、学園創立50周年事業は着々と進んでいた。また、秋には正田建次郎学長・校長が文化勲章を受賞するという慶事もあった。
 しかし、1968年ごろからから大学立法や沖縄返還協定、日米安全保障条約自動延長などをめぐって「学生運動」が全国に広がっていた。武蔵大学もそれと無縁ではなく、さらに学費改定とあいまって学生集会やストライキが行われた。学生側の要求する団体交渉は、野次と怒号が飛び交う交渉とは呼べないものだったが、正田は学長として、高津は学部長としてできるかぎり学生の声に耳を傾けた。そうした大学紛争への対応は両名にとっては大きな心労であっただろう。
 高津は人文学部の準備中から「第1回の卒業生が出た際には、彼らとともにソークラテースやプラトーン、アリストパネースのように酒を酌み交わしながら学問を、社会を、そして人生を語り合いたいものよ」と夫人に語っていたという。また、一日も早く大学院での専門の講義をできるようにと準備もしていた。
 高津は1972年、紫綬褒章を受賞した秋ころから体調をくずし、学部長を努めることが困難になり療養生活に入った(上野景福教授が学部長代理)。明けて73年3月には第1回人文学部卒業生284名が誕生し、4月には高津の念願だった大学院人文科学研究科が開設するが、5月4日高津春繁はその研究と学生の育成に捧げた生涯を閉じた。
 正田建次郎学長・校長は、1975年、新制度により設けられた学園長に就任し、武蔵学園全体の発展に尽力したが、1977年3月20日、講演先の足利市で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。武蔵高等学校中学校卒業式の翌日だった。
 正田建次郎が武蔵で過した12年間のエピソードについては、あらためて紹介したい。

                                                   (武蔵学園記念室・調査研究員 三澤正男)

※タイトル写真=正田建次郎初代学園長(左)、高津春繁初代人文学部長

写真1枚目=1969年度の武蔵大学の学生募集ポスター
写真2枚目=日本文化学科の演習報告書

写真3枚目=1973年3月21、人文学部第1回卒業式で卒業生一人ひとりと握手する正田学長(中央)。この卒業式(学位授与式)での学長と学部長による

握手による送りだしは現在も続いている

 

 
 
 
 
 
 
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