Story
005
栄誉の思召しは一切断ること
無私の財界人・根津育英会第4代理事長宮島清次郎
■「勲章などもらって、あの世でなんの顔で奴らに会えるか!」


 泉岳寺から北西に向かう伊皿子坂(いさらござか)は頂上で魚籃坂(ぎょらんざか)となって三田方面に下る。江戸時代には江戸湾が望めたという。
 1963年9月6日早朝、1台の黒塗りの車が伊皿子坂の中腹にある日本工業倶楽部理事長・財団法人根津育英会理事長の宮島清次郎の屋敷をすべりでた。
 後部座席に身を沈めているのは、後にいう「財界四天王」の一人である日清紡績社長櫻田武である。櫻田は9月に入ってから、病篤く命潮汐にせまっていた育ての親ともいえる宮島清次郎の病床の傍に詰めていた。この朝、宮島の容態がやや安定したことで、櫻田はまだ息があるうちに宮島逝去後の相談を当時の首相池田勇人とすべきと思い、宮島邸から一度自宅に戻ったのだった。しかし、

洗顔をしていたところに逝去を知らせる電話が鳴ったと、櫻田は「日清紡績社報」の追悼文で述べている。
 櫻田が東京帝大卒業後、日清紡績の入社試験を受けたのは1926年。200名に及ぶ志願者のなかから当時の社長、宮島の最終面接を経て入社したのはわずか2名。櫻田はそのひとりだった。早くから櫻田の力量を見抜いていた宮島は1945年に櫻田を41歳の若さで日清紡績社長に昇格させた後に会長を退任した。
 厳格な合理主義的経営とともに、深夜操業廃止など労働者の立場も重視した宮島は、およそ賞されることが嫌いだった。「財界御意見番」といわれた経済評論家の三鬼陽之助によれば、宮島は死の数年前から「戦争で多くの部下が無冠の大夫で死んだ。生き残った俺が勲章などもらって、なんの顔で奴らに会えるか」と周囲に広言していたという。しかし、吉田茂と池田勇人という2名の宰相の政権成立に尽力した宮島には勲一等の叙勲と相応の叙位が追贈されることが予想された。かつてそのことを櫻田がいうと宮島は激怒し、遺言状に「栄誉の思召しは一切断ること」と鉛筆で書き添えた。

 1963年9月6日午前7時28分、稀代の企業人宮島清次郎は老衰により84歳の生涯をとじた。そして、鉛筆書きの一行は尊重され叙勲叙位は見送られた。

■19歳年上の親友、根津嘉一郎との絆


 宮島清次郎は1879年、現在の栃木県佐野市の生まれだ。宇都宮中学(現・県立宇都宮高校)から四高(現・金沢大学)に進み、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業すると企業人としての道を選び、住友金属工業の前身である住友別子鉱業所を経て東京紡績に入社、業績回復を成し遂げて専務取締役に昇進する。宮島は東京紡績が尼崎紡績(現・ユニチカ)に吸収合併される際に退任し、根津嘉一郎(初代)が相談役を務めていた日清紡績専務に就任。同社の経営を建て直して安定企業に押しあげ1919年には社長に就任する。このとき清次郎はまだ40歳だった。根津と宮島は、宮島が専務就任直後から互いの経営哲学や見識に共感し、ビジネスを超えた絆を結んだ。根津は宮島より19歳も年上であるが、深い信頼と尊敬の関係が成立する両者の度量の大きさは驚くべきである。根津はさらに、日清製粉創業者正田貞一郎とも強い関係があったわけだが、根津嘉一郎にとって、友であり相談相手であり、社会や日本の未来に向けて同じベクトルを抱く同志であるこの2名の存在が、さまざまなリスクが想定されるなか、一私人による旧制七年制高校の設立という日本の教育史に大きな足跡を残す決断の支えになったことは確かである。

 宮島は1921年から正田とともに財団法人根津育英会理事を務め、旧制武蔵高等学校の創設に協力、1940年、根津嘉一郎が急逝すると宮島はその遺志をついで武蔵の運営をサポートし、1951年からは学校法人根津育英会理事長に就任して武蔵高等学校、戦後の武蔵大学の経営に力を尽くした。1960年に私財を学園に寄付し(宮島基金)、これは今日でも学園基金の一つとなっている。
 また根津がコレクションした美術品を保持・公開するべく根津美術館の設立に尽力したことはよく知られている。


■清次郎の人物を見抜く眼力 


 宮島清次郎は経営者としてすぐれていたのみならず、人物の力量と可能性をいち早く見抜く眼力とその才能を育てる能力にも秀でていた。歴史が証明する強いリーダーに共通する短所は、「次世代の育成ができない」ことだが、宮島清次郎のもとからは政財界の中核を担う才能が多数巣立っている。宮島と帝大同期で5度も首相を務めた戦後の顔ともいえる吉田茂は、外交官出身であるが故に経済があまり得手ではなく、ことあるごとに宮島を頼り、宮島もそれに応えて物心両面で吉田を支えた。
 1949年、宮島は第3次吉田内閣の大蔵大臣就任を打診される。しかし宮島は固辞し、かわりに吉田学校の優等生で初当選したばかりの池田勇人と会い、その実力、とりわけ数字に強く驚異的な記憶力を見抜いて推薦する。異例の抜擢で大蔵大臣となった池田は後に総理になり、高度経済成長を牽引した。
 池田勇人をはじめ、前述の櫻田武、水野成夫(フジテレビジョン初代社長)、永野重雄(新日本製鉄会長)、小林中(日本開発銀行初代総裁・根津育英会理事長)など宮島清次郎の薫陶を得た財界人は綺羅、星のごとく居並ぶ。


■座右の銘は「感謝報恩」——清貧無私の人生


 宮島清次郎は吉田茂の朝食会に怒鳴り込んで白洲次郎を恫喝するといったradicalな行動でも怖れられたが、自身の生活は清貧というべき極めて質素なものであった。戦後は日本工業倶楽部理事長、日本銀行政策委員として日本の経済的復興に力を注いだ。日本工業倶楽部のある理事が洗面所にお湯が出ないことに注文をつけると「水で手洗いして冬が越せないような老人に経営はできない」と一喝したエピソードが伝わっている。
 宮島は故郷に多くの寄付・寄贈もしており、1950年には母校の県立宇都宮高校にR書館を寄贈した。この図書館は現存し、宮島の座右の銘である「感謝報恩」から「報恩館」と名付けられている。また、一昨夏、佐野市郷土博物館から武蔵学園記念室に電話があり、宮島清次郎が佐野市の小学校に多額の図書購入費用を寄付しており、それによって佐野市出身の社会運動家田中正造の書や書簡をコレクトした「宮島文庫」を紹介する企画展をするので清次郎関連の資料を提供してほしいという依頼があった。この件は記念室にとって初耳だったが、自己喧伝を嫌った清次郎の寄付の全容はかように把握が困難である。清次郎は資産のほとんどを寄付しており、遺産と呼べるものはわずかで、晩年は自宅まで売却しようとして周囲に説得されたといわれる。
 タイトルの写真は日清紡績の社葬として行われた宮島清次郎の葬儀。左から櫻田武社長、吉田茂元首相、池田勇人首相。三者の表情がそれぞれの清次郎との関係を物語る。なお、1949年秋、池田勇人が第2次吉田内閣で大蔵大臣に抜擢されたとき、池田は秘書官に黒金泰美(後に内閣官房長官)と、英語力に秀でた宮澤喜一(後に第78代首相)を指名したが、この両名は奇しくも旧制武蔵高等学校の卒業生である。

 この社葬の翌年、1964年、日清紡績中興の祖と称された櫻田武は、「社長は60歳まで」という宮島清次郎の遺訓を忠実に守り、惜しまれながら退任する。
 同年秋、東京オリンピックの開会式が挙行され、日本は世界に向かって大きな一歩を踏み出す。それを可能にした戦後の経済復興に於いて、礎石ともいえる大きな役割を宮島清次郎が担っていたことは、今あまり語られることがない。

                                                   (武蔵学園記念室・調査研究員 三澤正男)

※横の写真=上・晩年の宮島清次郎 中・財団法人根津育英会設立の頃の宮島清次郎、推定41〜42歳  下・1936年6月15日、根津嘉一郎(初代)の喜寿を祝って、同窓会と父兄会から寄贈された「根津化学研究所」の玄関での集合写真。右から3人目、玄関柱の前に立つのが宮島清次郎(当時57歳)。中央に桜井錠二学士院長。その右隣に正田貞一郎理事(日清製粉社長・根津育英会理事)。左隣に談笑する山本良吉校長と根津嘉一郎理事長。その左下に玉蟲文一所長と根津藤太郎(後に2代根津嘉一郎)。

 
 
 
 
 
 
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