Story
011
武蔵百年への船出
青春の日付変更線をこえて

 花曇りの空から、わずかに陽ざしがこぼれた。武蔵野を渡る南風がやわらかに頬をなでたが、集った人びとはややかたい表情で時を留めた。

 本記事の冒頭に掲げたのは、大正11(1922)年4月17日、武蔵高等学校の第1期生入学式の集合写真だ。いまから98年前のこの日、武蔵は日本初の私立七年制高等学校として歩みはじめた。尋常科4年、高等科3年を基本とする新学制の下にいち早く誕生したのは、根津嘉一郎という一個人の貢献によるものだった。

 それ以前の中学5年、官立高校で3年の計8年ではなく、尋常小学校卒業後、7年間の一貫教育で大学に進学できる新しい学校である武蔵には、全国から1,102名が志願した。

 一私人の篤志による設立、広大な校地に募集定員わずか80名という個性ある学校は、入学試験も独自だった。「理解力」では、「其の右に出づるものなし」「すめばみやこ」などの語句の説明や、武将の辞世の歌の知識を問う難問もあった。最後の大問は「世界石炭産額の比較」で、文科理科を問わず幅広い基礎教養を考査している。さらに「観察力」では実物の葉を3枚用意して差異を書かせていて、現在も武蔵中学入試の理科で出させれるいわゆる「おみやげ問題」は第1回入試から出題されていた。武蔵三理想の一つ「自ら調べ自ら考える人物」は入試問題からも求められていた。

 こうして船出した武蔵は、初代校長に一木喜徳郎(枢密顧問官)、第二代に山川建次郎(東京帝大総長)という教育界の重鎮をすえ、強力な教授陣のもと、根津理事長の教育は現場に委ね経済的支援は惜しまぬ理解を得て、授業も設備施設も充実していった。また山上学校などの校外活動も開校直後から行なわれた。

 とはいえ、都心から離れた小さな私立校が「一中、一高を経て帝大へ」を至上とする当時の学歴社会の荒海を渡っていくことへの不安は、生徒も父母も教員も抱えていただろう。しかし彼らの表情は、それ以上にパイオニアとしての希望と気迫に満ちている。事実武蔵は、その心映えのままに草創期を駆け抜けていく。

 この日は少年たちにとって、海図も航跡ない日付変更線の彼方への船出だった。だから未来を見つめる彼らの表情は、かたいながらもどこかまぶしそうだ。 

                                                    (武蔵学園記念室・調査研究員 三澤正男)

※写真上=初代校長・一木喜徳郎 下=第1回入学試験の「観察力試験」

 

 
 
 
 
 
 
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