Story
014
日本初の人工衛星「おおすみ」
悲劇の実験主任、野村民也
ジェット機よりも速く

  1951年、「日本国との平和条約」(サンフランシスコ講和条約)により日本の主権が承認されたとき、航空機はレシプロエンジンとプロペラか、すでにジェット機の時代が轟音を立てて近づいていた。条約締結まで基礎研究以外の開発、製造などが禁じられていた航空関係の技術者や研究者たちは一斉にジェット機の開発・研究を目指した。

 そのジェット機の速度を凌駕するロケット機に夢を抱いたのが、「日本の宇宙開発の父」糸川英夫博士である。糸川博士は1954年に東京大学生産技術研究所内にロケットの研究班を立ちあげる。そのメンバーに31歳の助教授だった野村民也氏がいた。

 しかし、彼らは数周早すぎるランナーだった。他の技術者や研究者の理解は少なく、目先の利潤を追求する産業界からもなかなか協力は得られなかった。野村氏は後年、「糸川先生は連日、いろいろな会社や役所でロケットの可能性を説いてまわられた。研究では、わたしは下っ端なのにずいぶんと生意気な意見を先生に申しあげたが、逆にそれを買っていただいたとも思う。初期にはロケットが成功しても大学関係者の反応は冷ややかだったが、大胆な発想と情熱に満ちた時代だった」と述べている。

 野村民也氏は武蔵高等学校15期理科を卒業(修業年限短縮による1947年秋)し、東京帝国大学工学部航空学科、同大学院に学び、1945年に東京大学生産技術研究所助教授となった。1964年には後にJAXAの研究部門となる東京大学宇宙航空研究所が設立、野村氏は同研究所で1966年よりロケットの実験主任となった。

無誘導ロケットへの挑戦

 1955年の糸川博士によるペンシルロケット(全長23.8㎝)から11年、1966年9月26日、鹿児島県内之浦の宇宙空間観測所からL(ラムダ)-4S1号機が人工衛星の地球周回軌道投入を目指して打ち上げられた。野村実験主任の挑戦の始まりだった。

 ロケットは4段式で4段目が衛星を射出する計画だったが、第3段で軌道がずれ、第4段で姿勢制御が不能になった。それでも野村氏は「貴重な実験データが採れた」と、3か月後の2回目の打上げに向かった。野村主任をはじめとするラムダのティームが最も頭を悩ませたのは「ロケットの誘導技術」であった。ロケットはただ打上げても人口衛星を地球周回軌道にのせることはできない。どこかで地表に対してロケットをほぼ水平にする必要があり、そのためには精密な誘導技術が不可欠となる。

 しかし、誘導技術はミサイルなどへの軍事転用への可能性を否定できない。アメリカはすでに最先端の誘導技術を保持していたが、軍事機密にあたる情報を日本に提供することはあり得なかった。また、日本国内においても「ロケット誘導技術の軍事転用への懸念」が国会でも厳しく議論された。

 そこで編み出されたのは、世界でも類を見ない「無誘導重力ターン方式」である。これはロケットを斜めに打ち上げ、1段目と2段目は尾翼の空力で姿勢を保ち、2段目と3段目はモーターで機体を回転させて安定を保持、第4段では逆回転モーターで回転を止めてジャイロによる姿勢制御を行い、機体が水平になったところで再び回転をかけて安定させてから衛星をうちだす神業ともいうべき方式だった。

■停滞と挫折——漁業問題の発生——

  1号機の経験を踏まえて、同年の12月20日に2号機が打ち上げられたが、4段目の点火に失敗、翌年4月に打ち上げられた3号機は4段目の姿勢制御に失敗した。さらに、かねてから問題になっていたロケットが落下する海域での漁業への補償対策がこじれ、3号機以降、1969年秋まで2年半の間、ロケット打上げが中止された。

 その間も野村主任たちは着々と研究を進め、9月22日、満を持して3号機が打ち上げられた。だが、切り離された3段目が4段目に接触するという不測の事態が発生し制御装置が故障する。

 これは大きな痛手だった。3号機までは「実験」としての意味合いが強く激励もされていたが、漁業問題などの社会的課題も乗り越えての「本番」であり、巨額の費用を使っての「4度目の失敗」にはマスコミの対応も皮肉混じりだった。

 多くのスタッフが動揺するなか、野村民也氏は凛としてぶれることがなかった。糸川博士から学んだ柔軟な発想と情熱は諦めることを許さなかった。

 そして1970年2月11日、3段目ロケット切り離し後に方向を変える装置を積んだ5号機が打ち上げられ、日本初の人工衛星が地球周回軌道に乗った。

 その日に開かれた記者会見で野村主任(写真左から2人目)は、やや照れながら、しかし堂々と報告し、お祝いに駆けつけた地元の漁師や主婦たちからも拍手がおきた。「悲劇の実験主任」に満面の笑みが浮かんだ。

 「おおすみ」からの信号は15時間で途絶えたが、その後も日本初の人工衛星は33年間地球を回り続け、2003年8月2日早朝、北アフリカ上空で大気圏に再突入し自らを消滅させた。この日、野村民也氏は「あの4度の失敗がその後の科学衛星打ち上げに大きく貢献した」と淡々と振り返った。宇宙関係の開発・研究機関が宇宙航空開発研究機構(JAXA)に統合される2か月前だった。

※写真下は野村民也氏退官の日に「おおすみ」記念碑の前で。右端が野村氏、後列の右端が武蔵19期でラムダのメンバーだった林知直氏(東京大学名誉教授)

 
 
 
 
 
 
武蔵今昔物語一覧
 
to-top