旧制武蔵高等学校時代の記録は、第二次世界大戦終戦を挟む数年間についてはまことに少ない。記録する余裕などない日々だっただろうが、終戦直後に焼却されたものもかなりあると推測される。
1987年に学園史料室(記念室の前身)が設置され、戦前、戦中、戦後の空白を埋める作業が行われはじめた。当時を知る教員や卒業生からは個人日記の提供や補足の座談会などで協力をいただき、さらには校内各地に残存していた『教務日誌』、『校報』、『総務部日誌』、『発令書綴』『動員作業日誌』などの学校文書をはじめとする一次史料を収集・整理するなかから、戦中、戦後の武蔵の姿をある程度再現することができた。その一部は軍部の目にふれることを意識したものもあり、したがって厳しい時代の渦中にあった教員、生徒たちの真実にどれほどせまれたかはわからない。
しかし、戦後75年の節目にあたる今年、「武蔵今昔物語」では「戦時下の武蔵」というタイトルで何回かに分け、戦争という不条理に抗いながらも、ひたむきに生き、学びつづけようとした生徒たちの青春像を偲びたいと思う。
写真は1938年11月、中華民国南京市(当時)に赴任した卒業生より山本良吉第3代校長宛の写真はがきだ。差出人は小野茂良(3期理)氏。写真面の被写体は同期の岩崎之隆氏である。 山本校長は訓育的で厳しい指導で知られた。有名な逸話としては、野球、柔道の禁止がある。前者はカープや盗塁は卑怯であり、英国ではやっていない。後者は投げられて頭部を打つと思考力が落ちるなどとの理由だが、本音はスポーツに熱中して勉学が二の次になることを恐れたようだ。しかし、体罰は一切許さなかったこと、生徒が自宅を訪問してくると玄関先で待たせ、きちんとドレスアップして出迎えるという側面もあり、生徒も自立した人格として遇していた。
卒業生との交流にも熱心で、卒業生とはよく手紙のやりとりをし、同窓会には喜んで参加した。一番下の写真は、1939年1月10日に山本邸で開かれた3期理科生の茶話会だ(小野氏、岩崎氏は写っていない)。
小野氏からのはがきには小野氏の字で、「先日は御葉書有難う御座居ました。小生は本年4月以来、當地に参り宣撫のための施療に従事致し、その間、中國人の疾患統計、調査等致しております。御健康を御祈り申し上げます。南京同仁会 小野茂良」(原文ママ)とある。
写真は南京郊外から市内方面に向けて撮影されたもので、左手遥かにかすむ「雨花台」は南京城門の南にある海抜60メートルの丘で、現在は戦時の歴史的記念碑や南宋の詩人、陸游の史跡などがある。また、同仁会は日本の医療団体で明治から第2次大戦後まで存続した。
文中の「宣撫」とは占領地において被占領地住民が軍政に対し協力的態度をとるようにするために住民への援助を行う作業で、映画、演劇、ビラ、新聞、ラジオなどの媒体を駆使したり、住民の衣食住、衛生、医療などを保障することで、占領地統治の成功と戦争目的の達成を図ることにあった。
小野、岩崎両氏が南京に到着したのは1938年4月であると書かれているから、「南京事件」のぼぼ4か月後である。岩崎氏の屈託のない笑顔は何を語るのだろうか。当時、推定26歳である。
その9年前の1929年、岩崎氏は成績優秀者として第3回外遊生としてアメリカ合衆国カリフォルニアに派遣されている。戦後、岩崎氏は医師となり活躍。小野氏も医師となり皮膚科専門医として業績をのこした。