Story
013
戦時下の武蔵 2 親友三名、最後のつどい
鈴木大拙、西田幾多郎、山本良吉
石川が生んだ哲学者、仏教学者、教育者

 なんという迫力のある1枚だろう。左から鈴木大拙、西田幾多郎、ひとりおいて山本良吉である。 いうまでもなく、鈴木大拙は禅文化を世界にひろめた仏教学者。西田は日本を代表する哲学者で、 いわゆる京都学派の創始者だ。

 撮影は1941年2月28日、場所は牛込にあった 割烹「よしの」。右端の山本良吉は、このとき旧制武蔵高等学校の第3代校長だった。3名はいず れも加賀、石川の出身、第四高等中学校の同期生である。

 石川時代、3名は才気あふれる若者で、鈴木は早くから禅 に興味をもち、西田は数学が飛びぬけて優秀だった。後に学習院長となり、臨時教育会議のメンバーとして、初の私立七年制高等学校である武蔵の建学に協力し、山本を武蔵に紹介することになる北条時敬は、彼らの 石川時代の恩師だが、西田に数学者の道を勧めたほどだ。しかし、学校が教育方針を転換し、訓育的になると3名は前後して退学する。

 彼らは生涯親友であり続け、世に知られる存在となり、多忙になってからも膨大な量の書簡をやりとりし、互いを気 づかい、プライベイトなことにも心を寄せている。なかでも西田が山本に送った「君は生徒にも教師にも厳しすぎるという評判があるから、少し柔らかくしたらどうか」や「鈴木の妻君が病気だと聞いたが、彼女は外国人だから見舞いにいく作法がわからない。どうしたらよいか」などの手紙は彼らの友情の一端が感じられる

 この日は、山本の発案で赤坂の日本コロムビアで鼎談を録音し、打ち上げを山本がセッティングした。だから上座は鈴木と西田である。奥の若者は相原良一といい、武蔵高等学校で教師を務め、山本の孫娘と結婚、後に水産大学や横浜市立大学で教授をした。「よしの」は現存しないが、脚付きの器や螺鈿の卓を見るとかなり格式がある店のようだ。西田の日記にもこの会は書かれていて、勘定は割り勘でといったが山本がすべて支払ったとある。自ら企画し、多忙な西田と鈴木を呼びだした山本にしてみれば、設けたがわが支払うのが当然の一席だった。

 翌日の3月1 日、尋常小学校は国民学校と名称がかわり、日本は12月の太平洋戦争開戦に向かって一気に傾斜していく。コロムビアでの鼎談はレコード化されて今でも聴くことができる。しか し、当時はついに発売はされなかった。なぜなら鼎談の内容、とくに西田幾多郎が天皇ヘの「ご進講」に関して発言した表現が「学問指導をした」というやや不敬ととられかねないと判断した実務家の山本がプロデューサーとして発表をストップしたからだ。山本が「お蔵入り」を決断したのは収録後ほどなくだったようだが、「統帥権」という妖怪が跋扈する閉塞の時代に向かう空気を彼は敏感に感じとっていたのではないだろうか。

 この親友 3 名が同席するのは、これが最後となった。翌年夏、山本良吉は現職校長のまま狭心症で急逝する。 山本の学校葬には鈴木大拙が鎌倉から駆けつけたが、西田幾多郎はすでに健康思わしくなく、京都で山本を悼む 短歌を詠んだ。なお、西田幾多郎の孫の上田久、和辻哲郎の子息の和辻夏彦も武蔵で教員となった。

 
 
 
 
 
 
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