Story
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凛烈な冬空で道を示す星座の人
山川健次郎(1854-1931)
『山川健次郎日記』にのこる武蔵創立前夜

☆……2018年は明治維新から数えて150年目にあたる。この年の1月、安倍晋三首相は国会の施政方針演説で明治政府軍と闘った会津藩白虎隊の隊士だった山川健次郎の名をあげ、会津降伏後、エール大学に留学し日本最初の物理学博士となり、東京帝国大学総長を二度務め、京都帝国大学(兼任)、九州帝国大学総長も歴任した山川の業績を讃えた。武蔵には東京帝国大学総長時代からその設立に関わり、晩年は第2代校長を務める山川健次郎と武蔵の出会いの物語。

◎秋夜の電話――10月3日午後4時青山へ

 彼岸過ぎにしては冷える夜だった。東京帝国大学総長山川健次郎は、毎夕晩酌を楽しむと早々に床に就くのを習慣としていたが、電話がその慣習を破った。1919(大正8)年9月28日のことである。灯りはすでに電燈であったが、当時の夜は東京市街地でも暗い。吹き抜けの渡り廊下を抜けて電話室に向かう健次郎の左右はまったくの闇だった。

 健次郎の自宅は北豊島郡西巣鴨、現在の池袋駅の北西にあった。会津出身、白虎隊の生き残りであり、弱冠17歳でエール大学に留学し、土木と物理を学んだ健次郎は、1910(明治43)年に自ら設計してこの家を建てた。耐震と通気が精密に計算された構造は、採光にも優れ、南向きの居間には真冬でもおだやかな陽ざしがさしこんだ。敷地は男爵にふさわしく7000㎡ほどもあったが、内部は来客が驚くほど装飾がなく美術品の類いも一切見当たらなかった。

 健次郎にとって家は住むことができればよく、広さは「来る者を受け入れるため」という持論によるものだった。事実、このとき健次郎は二度目の東京帝大総長の任にあり(50歳で一度退官、その後は明治専門学校総裁、九州帝大総長を歴任し58歳で再び東京帝大総長に就任、さらには1年間京都帝大総長も兼任した)、理化学研究所顧問、帝大航空研究所所長(この5日前に就任)など多くの要職を兼ねていたため、きわめて来客が多かった。この日は日曜日で健次郎は終日在宅したが、朝から学生が運動会の相談に来るなど(ていねいに話を聴き助言している)夕刻まで訪問者が絶えなかった。

 

 電話の主は、法学博士にして臨時教育会議総裁の平田東助だった。健次郎も同会議の委員であり、また学習院評議会の会員どうしでもあった。すなわち当時の日本の教育界の重鎮から重鎮へのホットラインである。平田の話は根津嘉一郎と文部官僚の本間則忠を紹介し、「両名が私立学校をつくることを計画しているので協力してほしい。ついては相談の会を10月3日午後4時に青山の根津邸(現在の根津美術館)で開くので参加できないか」というものだった。平田はまた、会のメンバーとして北条時敬(学習院長)、一木喜徳郎(元文部大臣・枢密顧問官、後に武蔵高等学校初代校長)、岡田良平(文部大臣・一木の実兄)らの名をあげた。いずれも教育界を代表する錚々たる顔ぶれである。なかでも岡田は文部大臣として臨時教育会議をおこし、義務教育の国庫負担への道を開こうとしていたが、もうひとつ、国立の旧制高校しかなかった高等教育の拡充という大仕事をこの臨時教育会議のタスクとしていた。

 武蔵高等学校の誕生は、根津嘉一郎という一個人の社会貢献への篤志と、その思いを学校というかたちで実現させるべく勧奨した本間の情熱のコラボレイションにあることはまちがいないが、時代も国もその志をささえるべく動きだしていたといえる。

 古武士の精神と物理学者の合理性を兼ね備えていた山川健次郎の決断ははやい。その場で平田に承諾する旨を伝えた。しかし、健次郎はめずらしくその晩に風邪をひき(長身で頑健だった)翌日から2日間、休みをとった。

◎幻の「山川健次郎日記」秋田公文書館で発見

 武蔵高等学校設立の経緯は、財団法人根津育英会設立時以降は克明な記録がのこされており、『武蔵学園史年報』や『武蔵七十年史』などに紹介されている。それらは来る「武蔵百周年」に刊行予定の「正史」の貴重な史料となるが、財団設立以前の経緯については根津嘉一郎に熱弁をもって学校設立後を決意させ、実務を取り仕切った文部事務官の本間則忠が理事会宛にのこしたメモ(『武蔵学園史年報』創刊号掲載)と関係者の日記や伝記などを辿る以外になかった。

 それらを詳細に照らし合わせていくと、できごとの日時や話し合いの経過などにくいちがいが散見される。なかでも本間メモは、これまでの研究で意図的かどうかは別として日時の誤記と思われるものがあるとされてきた。

 こうした謎を解くのは、より信憑性の高い同時期の記録を見つけだすしかないが、有力な史料が2012年に秋田県公文書館で発見された。それが『山川健次郎日記』の写本である。

 健次郎の日記は彼の伝記『男爵山川先生伝』(1939)などから、その存在が示されていたが、東京大学、京都大学、九州大学、武蔵学園、福島県立博物館など、健次郎の史料を保管している施設には日記に関するものはなかった。2001年に古本市に出たという情報があるのみで、健次郎のこの時期に直筆日記と手帳は未だに発見されていない。

 4年前に発見された今回の日記は写本ではあるが信頼のおけるものであることが判明した。日記はときとして文学者のそれのように「読まれること」を意識して創作要素が含まれるので注意が必要だが、健次郎の日記は歴史的事実と整合し、さらに史料価値の高い北条時敬の日記とも一致する。ただし、この写本がなぜ秋田県公文書館に保管されていたのかはさらなる調査を待たねばならない。

◎会津のほこり――星座の人

 日記には10月3日の根津邸での会合についても書かれている。この日付は北条日記とも一致し、本間メモの「初の協議会は12月28日」という記述は誤りであることがわかる。この日は金曜日で健次郎は朝から東京帝国大学に出校し、総長室や食堂などで来客に追われているが、午後4時の会合には間に合い(時刻も記されている)、健次郎は学校をつくるなら実業補習学校のようなものと意見を述べている。根津嘉一郎が用意する資金は200万円(実際には360万円を超えた)で、1万坪の土地は取得済みであるとの記述もあり、健次郎はそうしたドキュメントを手帳に記録、帰宅して日記に書きなおしたと思われる。会議は各自が意見を述べるのみで終わり、次回を約束して宴会になった。「根津氏の丁重なる饗応」と健次郎は書き、北条も「日本式念入りの馳走」と記している。

 夜更けて、健次郎は根津家の自動車で北条時敬とともに帰宅する。車は青山から目白の学習院を経て池袋の山川邸へ深夜の東京を急ぐ。その加速は動きはじめた日本の高等教育そのものだった。車内で健次郎と北条はどんな会話をしたのだろうか。

 この会合で結論は出なかったが、根津嘉一郎と根津の相談相手で親友の宮島清次郎(日清紡績社長)、正田貞一郎(日清製粉創業者)は「七年制高等学校」という本間が建てたプランで進めるという腹は据わっていた。健次郎の日記にも北条の日記にも、2日後の10月5日の日曜日に、本間則忠が学校設立の具体的計画を大量の資料を携えて説明しに来宅したとの記載がある。そうした本間のすばやい動きは本間メモにはない。

 翌1920(大正9)年、健次郎は66歳で東京帝大総長を退官する。その翌年秋、財団法人根津育英会が設立され、健次郎は顧問・評議員となり、1926(大正15)年には一木喜德郎(宮内大臣就任のため校長退任)の後を継いで武蔵高等学校第2代校長となった。ときに健次郎71歳である。

 山川健次郎を語るとき、彼の会津藩への思いを切り離すことはできない。朝敵の汚名を晴らすことと白虎隊の悲劇を語り続けることは彼の後半生の最大テーマだった。博士となり帝大総長となった健次郎を会津の人びとは頭上で輝いて道を示す「星座の人」と呼んだ。その学識とマネジメント力、そして何より高潔な人格は、当時の教育者、科学者、学生、さらに武蔵にとっても、オリオン座のように凛烈な冬空に雄雄しく舞い立っていたといえよう。

 健次郎の会津と白虎隊への深い思いに感動した根津嘉一郎は、健次郎が武蔵校長就任の年、荒れ果てていた白虎隊の墳墓の整備資金を寄付するが、そのエピソードの詳細は次の機会にしたい。

 山川健次郎は1931(昭和6)年の年明けに病を得て入院、3月に武蔵校長を辞任する。桜の頃には退院するが再び悪化し、6月26日の午前、息をひきとった。幕末から昭和まで走りぬけた77年間の激動の旅だった。

                                                   (武蔵学園記念室・調査研究員 三澤正男)

 

タイトル写真――会津藩校「日新館」(1987年に移築・再建)入口の山川健次郎像

写真上――武蔵高等学校第2代校長時の山川健次郎

写真中――第1代校長一木喜德郎と山川健次郎

写真下――飯盛山の白虎隊の墳墓

 

主な参考文献

・『山川健次郎日記』(2014・尚友倶楽部史料調査室・小宮・中澤) 

・『男爵山川先生伝』(1939・故男爵山川先生記念会)

・『武蔵学園史年報』創刊号(1997・学校法人根津育英会)

 

 
 
 
 
 
 
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