Story
001
凛烈な冬空で道を示す星座の人
山川健次郎(1854-1931)
『山川健次郎日記』にのこる武蔵創立前夜

☆……2018年は明治維新から数えて150年目にあたる。この年の1月、安倍晋三首相は国会の施政方針演説で明治政府軍と闘った会津藩白虎隊の隊士だった山川健次郎の名をあげ、会津降伏後、エール大学に留学し日本最初の物理学博士となり、東京帝国大学総長を二度務め、京都帝国大学(兼任)、九州帝国大学総長も歴任した山川の業績を讃えた。武蔵には東京帝国大学総長時代からその設立に関わり、晩年は第2代校長を務める山川健次郎と武蔵の出会いの物語。

◎秋夜の電話――10月3日午後4時青山へ

 彼岸過ぎにしては冷える夜だった。東京帝国大学総長山川健次郎は、毎夕晩酌を楽しむと早々に床に就くのを習慣としていたが、電話がその慣習を破った。1919(大正8)年9月28日のことである。灯りはすでに電燈であったが、当時の夜は東京市街地でも暗い。吹き抜けの渡り廊下を抜けて電話室に向かう健次郎の左右はまったくの闇だった。

 健次郎の自宅は北豊島郡西巣鴨、現在の池袋駅の北西にあった。会津出身、白虎隊の生き残りであり、弱冠17歳でエール大学に留学し、土木と物理を学んだ健次郎は、1910(明治43)年に自ら設計してこの家を建てた。耐震と通気が精密に計算された構造は、採光にも優れ、南向きの居間には真冬でもおだやかな陽ざしがさしこんだ。敷地は男爵にふさわしく7000㎡ほどもあったが、内部は来客が驚くほど装飾がなく美術品の類いも一切見当たらなかった。

 健次郎にとって家は住むことができればよく、広さは「来る者を受け入れるため」という持論によるものだった。事実、このとき健次郎は二度目の東京帝大総長の任にあり(50歳で一度退官、その後は明治専門学校総裁、九州帝大総長を歴任し58歳で再び東京帝大総長に就任、さらには1年間京都帝大総長も兼任した)、理化学研究所顧問、帝大航空研究所所長(この5日前に就任)など多くの要職を兼ねていたため、きわめて来客が多かった。この日は日曜日で健次郎は終日在宅したが、朝から学生が運動会の相談に来るなど(ていねいに話を聴き助言している)夕刻まで訪問者が絶えなかった。

 

 電話の主は、法学博士にして臨時教育会議総裁の平田東助だった。健次郎も同会議の委員であり、また学習院評議会の会員どうしでもあった。すなわち当時の日本の教育界の重鎮から重鎮へのホットラインである。平田の話は根津嘉一郎と文部官僚の本間則忠を紹介し、「両名が私立学校をつくることを計画しているので協力してほしい。ついては相談の会を10月3日午後4時に青山の根津邸(現在の根津美術館)で開くので参加できないか」というものだった。平田はまた、会のメンバーとして北条時敬(学習院長)、一木喜徳郎(元文部大臣・枢密顧問官、後に武蔵高等学校初代校長)、岡田良平(文部大臣・一木の実兄)らの名をあげた。いずれも教育界を代表する錚々たる顔ぶれである。なかでも岡田は文部大臣として臨時教育会議をおこし、義務教育の国庫負担への道を開こうとしていたが、もうひとつ、国立の旧制高校しかなかった高等教育の拡充という大仕事をこの臨時教育会議のタスクとしていた。

 武蔵高等学校の誕生は、根津嘉一郎という一個人の社会貢献への篤志と、その思いを学校というかたちで実現させるべく勧奨した本間の情熱のコラボレイションにあることはまちがいないが、時代も国もその志をささえるべく動きだしていたといえる。

 古武士の精神と物理学者の合理性を兼ね備えていた山川健次郎の決断ははやい。その場で平田に承諾する旨を伝えた。しかし、健次郎はめずらしくその晩に風邪をひき(長身で頑健だった)翌日から2日間、休みをとった。

◎幻の「山川健次郎日記」秋田公文書館で発見

 武蔵高等学校設立の経緯は、財団法人根津育英会設立時以降は克明な記録がのこされており、『武蔵学園史年報』や『武蔵七十年史』などに紹介されている。それらは来る「武蔵百周年」に刊行予定の「正史」の貴重な史料となるが、財団設立以前の経緯については根津嘉一郎に熱弁をもって学校設立後を決意させ、実務を取り仕切った文部事務官の本間則忠が理事会宛にのこしたメモ(『武蔵学園史年報』創刊号掲載)と関係者の日記や伝記などを辿る以外になかった。

 それらを詳細に照らし合わせていくと、できごとの日時や話し合いの経過などにくいちがいが散見される。なかでも本間メモは、これまでの研究で意図的かどうかは別として日時の誤記と思われるものがあるとされてきた。

 こうした謎を解くのは、より信憑性の高い同時期の記録を見つけだすしかないが、有力な史料が2012年に秋田県公文書館で発見された。それが『山川健次郎日記』の写本である。

 健次郎の日記は彼の伝記『男爵山川先生伝』(1939)などから、その存在が示されていたが、東京大学、京都大学、九州大学、武蔵学園、福島県立博物館など、健次郎の史料を保管している施設には日記に関するものはなかった。2001年に古本市に出たという情報があるのみで、健次郎のこの時期に直筆日記と手帳は未だに発見されていない。

 4年前に発見された今回の日記は写本ではあるが信頼のおけるものであることが判明した。日記はときとして文学者のそれのように「読まれること」を意識して創作要素が含まれるので注意が必要だが、健次郎の日記は歴史的事実と整合し、さらに史料価値の高い北条時敬の日記とも一致する。ただし、この写本がなぜ秋田県公文書館に保管されていたのかはさらなる調査を待たねばならない。

◎会津のほこり――星座の人

 日記には10月3日の根津邸での会合についても書かれている。この日付は北条日記とも一致し、本間メモの「初の協議会は12月28日」という記述は誤りであることがわかる。この日は金曜日で健次郎は朝から東京帝国大学に出校し、総長室や食堂などで来客に追われているが、午後4時の会合には間に合い(時刻も記されている)、健次郎は学校をつくるなら実業補習学校のようなものと意見を述べている。根津嘉一郎が用意する資金は200万円(実際には360万円を超えた)で、1万坪の土地は取得済みであるとの記述もあり、健次郎はそうしたドキュメントを手帳に記録、帰宅して日記に書きなおしたと思われる。会議は各自が意見を述べるのみで終わり、次回を約束して宴会になった。「根津氏の丁重なる饗応」と健次郎は書き、北条も「日本式念入りの馳走」と記している。

 夜更けて、健次郎は根津家の自動車で北条時敬とともに帰宅する。車は青山から目白の学習院を経て池袋の山川邸へ深夜の東京を急ぐ。その加速は動きはじめた日本の高等教育そのものだった。車内で健次郎と北条はどんな会話をしたのだろうか。

 この会合で結論は出なかったが、根津嘉一郎と根津の相談相手で親友の宮島清次郎(日清紡績社長)、正田貞一郎(日清製粉創業者)は「七年制高等学校」という本間が建てたプランで進めるという腹は据わっていた。健次郎の日記にも北条の日記にも、2日後の10月5日の日曜日に、本間則忠が学校設立の具体的計画を大量の資料を携えて説明しに来宅したとの記載がある。そうした本間のすばやい動きは本間メモにはない。

 翌1920(大正9)年、健次郎は66歳で東京帝大総長を退官する。その翌年秋、財団法人根津育英会が設立され、健次郎は顧問・評議員となり、1926(大正15)年には一木喜德郎(宮内大臣就任のため校長退任)の後を継いで武蔵高等学校第2代校長となった。ときに健次郎71歳である。

 山川健次郎を語るとき、彼の会津藩への思いを切り離すことはできない。朝敵の汚名を晴らすことと白虎隊の悲劇を語り続けることは彼の後半生の最大テーマだった。博士となり帝大総長となった健次郎を会津の人びとは頭上で輝いて道を示す「星座の人」と呼んだ。その学識とマネジメント力、そして何より高潔な人格は、当時の教育者、科学者、学生、さらに武蔵にとっても、オリオン座のように凛烈な冬空に雄雄しく舞い立っていたといえよう。

 健次郎の会津と白虎隊への深い思いに感動した根津嘉一郎は、健次郎が武蔵校長就任の年、荒れ果てていた白虎隊の墳墓の整備資金を寄付するが、そのエピソードの詳細は次の機会にしたい。

 山川健次郎は1931(昭和6)年の年明けに病を得て入院、3月に武蔵校長を辞任する。桜の頃には退院するが再び悪化し、6月26日の午前、息をひきとった。幕末から昭和まで走りぬけた77年間の激動の旅だった。

                                                   (武蔵学園記念室・調査研究員 三澤正男)

 

タイトル写真――会津藩校「日新館」(1987年に移築・再建)入口の山川健次郎像

写真上――武蔵高等学校第2代校長時の山川健次郎

写真中――第1代校長一木喜德郎と山川健次郎

写真下――飯盛山の白虎隊の墳墓

 

主な参考文献

・『山川健次郎日記』(2014・尚友倶楽部史料調査室・小宮・中澤) 

・『男爵山川先生伝』(1939・故男爵山川先生記念会)

・『武蔵学園史年報』創刊号(1997・学校法人根津育英会)

 

 
 
 
 
 
 
武蔵今昔物語一覧
2021.05.20
【追悼】風わたる草原に座る人のいなくなった椅子がひとつ
武蔵百年史と有馬朗人学園長
創立百周年を見届けることなく     有馬朗人学園長が2020年12月6日、白玉楼中の人となられた。その年の9月に、満で卒寿を迎えられたばかりだった。  筆者が有馬学園長に直接拝眉したのは学園記念室長を定年で退任するまえの2018年1月が最後だが、非常勤の研究員になってからも登室日の朝、有馬先生が登校されるところによく出会った。   有馬先生は正門を入ってすぐに学園長車を降りられ、少し背をかがめて杖もおつかいにならずゆっくりと学園長室のある8号館まで歩いていかれるのが常だった。おひとりでおつきの方もつけず、車を8号館に横付けすることはなかった。学園長車はそのまま右折して守衛室横の駐車場に向かった。学園内での自動車の移動を最小限にしたいという先生のお心遣いだったと想像する。たまにタイミングがあったとき「学園長、おはようございます」とごあいさつすると、先生は「はい、おはよう」とにっこり微笑まれた。  2022年に武蔵は創立百周年をむかえる。有馬先生は、そのときもお元気で学園長をされていると筆者は無邪気に思い込んでいた。すべての学園関係者もおなじ思いだったろう。毎年の新年の会のごあいさつ、大学、高中の卒業式、入学式での祝辞はいつも凛として、きびしくも愛情に満ちていた。齢をかさねられるごとにみずみずしくなられるのは驚異的だった。  創立百周年を機に「武蔵正史」を刊行することは、太田博太郎学園長時代の30年以上まえから決まっており、筆者は学園記念室長時代に「武蔵学園百年史刊行準備委員会」、さらに「同刊行委員会」とその作業部会の立ちあげを行った。これらの委員は大学、高中の教員、法人の職員から選ばれるが、規程上、学園長から委嘱するかたちになっている。  そのためにアポイントメントをとり、何回か有馬先生にご相談し、助言をいただいた。学園長室を予定の時刻にたずねると、有馬先生はうずたかく積まれた資料や書籍に囲まれていて、小柄な先生はお顔しかみえなかった。秘書の方が「記念室長がおみえです」と伝えると、先生は資料のなかから「やあやあ、ごくろうさん」と気さくに登場され、「ここは狭いから、広いところへ行きましょう」と、ふたりだけの打ち合わせなのに、大きな部屋に自ら案内してくださった。  資料をお渡しし準備状況を報告して、委嘱に関するお願いをすると、有馬先生は少年のように好奇心いっぱいに眼を輝かせ、筆者の整理されていない話を熱心に聴いてくださった。そして、いただいたご質問はすべて簡潔明瞭かつ正鵠を射ていた。最後に有馬先生から、「たいへんなお仕事でしょうがよろしくお願いします」と激励をいただいた。そして、「学園史は過去に起こったこと、現在のことを記述するのは当然ですが、回想に終わることなく、また旧制高校のノスタルジーに惹かれ過ぎることなく、次の50年への示唆、教育の未来に向けた発信にしていただきたい」と結ばれた。このときは、少年から研究者の鋭い眼になられ、筆者は心のなかで後退りをした。そして、多方面ですばらしい業績をのこされている方なのに、わけへだてのない対応をされる先生に、「ほんとうにえらい人とは、こういう人なのだ」と学んだ。 研究者、政治家、教育者、俳人としてーー「三理想」を体現された90年の旅  有馬先生は1930年、大阪のご出身だが、その後は銚子、浜松で過ごされ、県立浜松第一中学(現・県立浜松北高等学校)を卒業された。武蔵には高等科から入り旧制時代の終わり、22期(1950年)のご卒業だ。東京大学理学部物理学科に進まれ、同大学院で原子核物理学を研究、28歳で理学博士号を取得された。  その後、東京大学教授、ラトガーズ大学教授、ニューヨーク州立大学教授などを経て1989年東京大学総⻑。1993年理化学研究所理事⻑。1998年には参議院議員となり文部大臣、科学技術庁長官を歴任された。2006年4月に武蔵学園⻑に就任され、亡くなられるまで現職だった。また、公立大学法人静岡文化芸術大学院の創立者でもあり、理事長をされていたので毎週静岡にも行かれていた。  有馬先生は俳人でもあり、16歳で「ホトトギス」に入選して以来、俳句でも多くの賞をうけられているが、2018年には句界の最高賞と言われる蛇笏賞を受賞された。  2020年秋、武蔵高校卒業生の俳句をたしなむ有志が「武蔵俳句会」を立ちあげ、有馬先生に顧問と指導をお願いしたところご快諾をいただいた。12月1日には第1回の句会がオンラインで開催され、先生も参加されてとてもお元気そうだったという。筆者もその句会の案内を頂戴していたが、自分の句などはお目汚し、お耳汚しだと遠慮してしまった。いまではとても後悔している。  とらわれのない多様な表現と豊かな詩情は有馬先生の句の魅力だ。先生は「ホトトギス」同人の山口青邨に師事されたが、鉱山学者でもあった師と同様に科学者としての目線も感じられる作品も多い。  櫟なほ芽吹かざれども雲は春 朗人  福田泰二元校長によると、この句は1947年4月22日の夕刻か翌日に詠まれた作品で、有馬先生が旧制武蔵高校高等科の編入試験に合格され、その喜びと未来への期待をクヌギの巨木を見上げて詠まれた句だと、先生ご自身から伺ったとのことだ。この編入試験の志願者は1,000名強、合格者は45名だった。  爽やかに回り舞台の一変す 朗人  有馬先生の逝去は、あまりに突然だっため、ご自身が「辞世」として詠んだ句はない。先生は1990年から「天為俳句会」を主宰されているが、上記の句は同会のウェブサイトに有馬先生の2020年12月の句として掲載されている作品だ。「無季の句」であるが、なにか暗示的ではないだろうか。 お別れの会のしおりから ーー根津理事長、五神前東京大学総長の弔文  現職学園長の急逝に、学園関係のみならず有馬先生が関わられた多くの組織に連なる人びとが、悲しみをこえて前に進むためにはセレモニーが必要だった。 Covid-19の感染拡大のなか、武蔵学園、東京大学、理化学研究所の共催により、4月23日、帝国ホテルにて「「有馬朗人先生お別れの会」が執りおこなわれた。感染防止のため、参加は事前予約制、さらに参加時間もグループことに指定して、献花だけを行った。したがって、弔辞などのあいさつはなく、800名におよぶ参加者は献花のあとは別室に展示された有馬先生の業績やあゆみを語るパネルや資料で先生との思い出を偲んだ。  また参加者には、先生の略歴、受賞歴、折々の俳句が掲載された「しおり」が配布されだ。これに寄せられた根津公一学校法人根津育英会武蔵学園理事長(高校43期)、五神真前東京大学総長(高校50期)の弔文を、許可を得て転載する。                                ※  根津公一理事長ーー私が根津育英会理事長、有馬先生が武蔵学園長に就任したのは、2006年4月のことでした。就任早々有馬先生は私に、「初代根津嘉一郎が、どのような思いで、またどのように旧制武蔵高等学校をつくっていったのかを調べるように」との宿題を与えられました。調べた結果いくつか分かったのは、先ず初代根津嘉一郎の育英報国という動機。そして創立者が一人の思いで学校を創るのではなく、周囲に、当時日本の教育や政治にたずさわる超一流のブレーン達がいて、その人々の活発な議論の中から新しい学校が創られていったということでした。  そのとき私が思ったことは、初代根津嘉一郎を囲んだ多くのブレーン達の役割を、一世紀後の今日、有馬先生はひとりで果たしてくださっているのだと言うことでした。「天は二物を与えず」という俚諺がありますが、時として天は特定の人物にだけ、二物はおろかいくつもの才を与えることがあります。有馬先生はそういう方でした。今指を折って数えるだけでも、物理学者、教育者、学校の運営者、政治家、行政官、俳人等々そのどれをとっても、この国の、あるいは世界の最高級の才を、天は有馬先生一人に与えられたのです。気さくでひょうひょうとした日々の先生のたたずまいのどこから、あのきらびやかな才が閃くのか、まことに驚嘆する思いでした。  最晩年の有馬先生が、とくに心に掛けられていたのは、「東西文化融合」の思いでした。西欧近代文明と、その対極にあって漸く力をつけて来ている、中国、イスラムなどの東洋諸国との軋轢が先生の問題意識でした。そして、日本は古い東洋文化の一員でありながら、西洋の主導する近代文明とも価値観を共有することの出来る国として、これからの歴史の中で、両者の架け橋にならなければならない、というのが先生の持論でした。  武蔵学園は来年創立百周年を迎えます。その百周年を超えてどのような事業をしていくのか、それを議論している最中に、議論の中心であった有馬先生を突然喪ったことへの痛恨は大きいものですが、残された私たちは、これからも有馬先生の遺志を酌んで、将来「東西の架け橋」としての役割を果たす若い人々を育てる武蔵学園を創っていくことを誓います。  有馬先生の偉業に対し、心から尊敬と感謝を捧げ、謹んで御冥福をお祈り申し上げます。   五神真前東大総長ーー私が最後に有馬先生にお会いしたのは、昨2020年10月30日、先生が会長を務める東京大学地域同窓会連合会の会合でした。いつものはりのある声で、お変わりなく元気そのものでした。卒寿を過ぎてなお矍鑠たる有馬先生のお姿を見て、100歳までのご活躍を信じておりましたが、その僅か1月後に突然の訃報に接したのです。東京大学を長く精神的に支えて下さった巨星を不意に失い、大きな喪失感に襲われています。  有馬先生は、私の武蔵高校の先輩であり、東京大学理学部物理学科の先輩でありました。旧制と新制の違いこそあれ、武蔵高校では同じく、受験教育と距離を置き「自ら調べ自ら考える」ことの大切さと、リベラル・アーツを尊重する精神を学びました。  有馬先生は、配位混合理論や相互作用するボゾン模型など原子核理論の業績で世界的に知られ、文化勲章を始め国内外の栄誉を多数受けられました。原子核は多数の粒子が強く相互作用している難解な多体量子システムですが、対称性などの数理を駆使した先生の見事な理論によって、原子核はその美しい姿を際立たせました。一方で、現在の計算科学の先駆けとなる、原子核の量子構造の大型数値計算を創始されました。それは、お弟子さん達に引き継がれ、最先端計算科学を駆使して、先生の先見性が見事に証明されています。また、東京大学大型計算機センター長時代には、国産の大型計算機技術を堰合に示す事にも尽力されました。  2015年4月に私は東京大学総長に就任し、有馬元総長の後輩となったのですが、大学改革に対する先生の信念と行動力は、いつも私の手本でした。1990年代初頭の大学院重点化と教養学部改革という、よく知られたふたつの大改革の他にも、有馬総長は情報公開の推進、外部評価の導入、寄付講座の創設などを進められました。どれも常識を超えた大胆な改革で風当たりが強いものもありましたが、30年後の今、当たり前のこととなっています。批判に怯まず、将来を見通し、必要な改革は断行するという有馬先生の姿勢は、総長のあるべき姿を示すものでした。  私が総長となって2年たった頃に、東大の広報誌『淡青』での対談で、有馬先生は次のように発言されました。  「五神総長はよく頑張っていると感心していますよ。私も物理教室の出身ですが、理論屋だから屁理屈で終わってしまうことが多い。でも五神総長はきちんと実行もしますね。実験をやる人だったからかな。私を他山の石としてしっかりやってくれてありがとう」  私の総長在任中で、最も嬉しい言葉でした。有馬先生から、私の6年間の総長任期を終えたときの評価を伺うのを楽しみにしておりましたが、もはや叶いません。東京大学のさらなる発展を天国から見守って下さるようお願いするとともに、有馬先生のご冥福を心からお祈りいたします。                                ※  無月なり世のほころびをかくさんと  朗人  これは先生が「天為俳句会」に寄せた昨年12月の作品のなかの一句だ。有馬先生か旅立たれてからまもなく半年がたとうとしているが、Covid-19の感染収束の光は未だ見えず、社会のあらゆる局面に混乱が生じている。その歪みがもたらす変容は経済のみならずモラルにまで及びつつある。有馬先生は現在の日本と世界の状況を座標のない空間からどのようにご覧になっているのだろうか。  風わたる草原に置かれた椅子がひとつ、かつてここに座っていた人をいまもまっている。                                      (2021年5月記)                                         三澤正男(武蔵学園記念室調査研究員・前学園記念室長:高校45期)  写真上 1950年3月、武蔵高等学校22期理科の卒業式にて(現時点で有馬先生を特定できていない) 写真中 2018年春、武蔵学園の樹木のに名札をつける活動をされたとき、学生たちに語りかける有馬先生  写真下 2021年4月23日、帝国ホテル2階「孔雀の間」で執りおこなわれた「有馬朗人先生お別れの会」の祭壇 ※訂正とおわびーー有馬先生の俳人としての歩みを紹介する文に「夫人に先立たれてからは」という事実に反する表現がありました。筆者の誤解に基づくものであり、謹んで削除、訂正しおわびいたします。 筆者  
2018.12.19
「えごた」はたまた「えこだ」
江古田今昔混同物語
 タイトルに掲載した空中写真は、昭和30年代(1955〜64)に撮影された武蔵学園周辺だ。  まだ高等学校中学校の校舎は時計塔のある現在の3号館で、大学のメイン教室はその左手の旧1号館だった(高中新校舎は1968年竣工)。正門は現在の位置よりやや西にあり、ややわかりにくいが守衛所も今は郵便室になっている三角屋根だ(正門が現在地に移動し根津化学研究所まで直線的に欅並木を見通せるようになったのは2012年の暮)。     学園の北側(画面手前)には、すでに住宅が密集しているが、南には田畑が大きく広がっている。横に掲載した写真の最上段は、同じく昭和30年年代の江古田駅周辺(江古田銀座)だが、店舗は変わっても道路の幅や構成が今とほとんど変化していないことに驚く。江戸時代は農村(新田)であった江古田だが、現在は武蔵学園、日本大学芸術学部、武蔵野音楽大学という三大学が集まる学生の街として知られる。武蔵百年の歴史を考えるとき、学生・生徒たちを育んだ江古田の街について触れないわけにはいかない。当サイトでも何回かに分けて江古田の街についてとりあげたい。今回はその初回、町名についての話。 ■江古田の駅名、町名パラドックスをさぐる  「武蔵学園はどこにありますか」という問いに練馬区豊玉上といっても伝わりにくいので、「練馬の江古田です」「西武池袋線の江古田駅が最寄り」と返すことが多い。そして「えごた? えこだ? どっち」という質問は、もう武蔵の関係者なら何回も受けたことだろう。  ご存じのように、西武池袋線の駅名は「えこだ」だ。しかし南へ下って大江戸線の新江古田は「しんえごた」である。ちなみに江古田銀座のアーチから新江古田駅を経由して目白通りを横切り新青梅街道まで伸びる「江古田通り」(通称「チャンチキ通り」)は「えごたどおり」だ。  さらにこの新青梅街道にかかる妙正寺川の「江古田大橋」はなんと「えこたおおはし」であり、その下流の「江古田橋」は「えごたばし」なのでややこしさが倍増する。  「江古田」の名前が記録に現れるのは室町時代後期で、地域は現在の中野区江古田付近、目白通りの南側一帯で、太田道灌が豊島一族と戦った古戦場「江古田原」として『太田道灌状』に記されいる。ただし読みは判然としていない。その後も「えこた」「えごた」「えこだ」が混在して使用されているが、中野区江古田の地元では「えごた」が人口に膾炙していたようだ。そして、現在の中野区江古田(えごた)の町名と範囲は1963年の住居表示法で定まった。  一方、今の練馬には江古田という町名はない。1960年、横の写真の頃までは、現在の旭丘と栄町が江古田町だった。これは、この一帯が中野の江古田村の新田として開発された地域であることに由来する。戦後、中野区江古田と混同されることが多いことから、この年に旭町と栄町に再編・改名された(旭町の名は住民投票によって決定した)。       しかし江古田駅の名はそのまま残っており、駅名は「えこだ」である。ご承知のように江古田駅は大正11(1922)年、西武線の前身である武蔵野鉄道の「武蔵高等学校用仮停停留所」として開設され(根津嘉一郎初代理事長は同鉄道の大株主だった)、ホームは現在よりも武蔵に近かった。その翌年、今の位置に移設されて武蔵野鉄道「江古田駅」として開業。戦後、昭和21(1946)年に西武鉄道「江古田駅」となり駅名の読みが「えこだ」になったが、その読み変更の経緯は不明である。秋葉原駅が「あきばはら」が発音のしやすい「あきはばら」になったと同じという説もあるが、証明するものはない。なお、最下段の写真は昭和10(1935)年ごろの江古田駅で、このときも「えごた」である。  中段の地図は大正15(1926)年6月30日発行の大日本帝国陸地測量部によるものだ(武蔵学園記念室所蔵)。これには駅名は「えごた」と記されている。少なくともこの時点では「えごた駅」だった。また、右下には江古田新田の表示があり、中野の江古田より後に開墾されたことがわかる。千川通りの北側に沿う黒い細い線は千川上水で、まだ暗渠ではなく上水として機能していた。残念ながら中新井分水である濯川は描かれていないが、当時は川幅が30㎝程度だったためと推察される。なお、2017年夏にNHK衛星放送の番組で江古田をとりあげたとき、番組担当者と学園記念室で西武鉄道江古田駅に問い合わせたが、この駅名の読みについての資料は得られなかった。   ■江古田の語源は、エゴの木?  結局のところ、江古田の読みについては、地名にはさまざな「音の揺れ」がおこると理解するしかない。なお、江古田は横浜市にも江古田と荏子田があり、これはどちらも「えこだ」だ。  では江古田の語源は何かと追求したくなるが、現時点では確定できる説はない。一時期説得力があるとされたエゴマ油のエゴの木があった田という説も、証明できる、あるいは説得力の高い資料・記録はない。また。ひらがな表記すればエゴの木は「ゑご」であるが、「ゑこだ」あるいは「ゑごた」という記録がない。江古田の「え」は旧仮名でも「ゑ」ではない。  ほかには「窪地」「淵」などを意味する「えご」からだという地形説があるが、このことばは関東ではあまり使用されていないという反論もある。またアイヌ語語源説も証拠がない。  江古田の田は、おそらく水田に由来すると思われ、「えご」もしくは「えこ」の解明が待たれる。そして「た」か「だ」かという問題は日本語の特徴である「連濁」(サクラ→ヤマザクラ、クルマ、ニグルマのように接頭語により濁音化する例外が少ない現象)との関係性ともあいまって興味は尽きないが、武蔵学園記念室では今後も江古田の歴史については調査・研究を進めていく。次回は、江古田の街と店と学生について触れたい。                                                    (武蔵学園記念室・調査研究員 三澤正男) ※参考文献 黒田基樹『図説 太田道灌』(戎光祥出版 2009年) 武蔵学園70年史委員会編『武蔵七十年史』(1993年)  
2018.10.02
栄誉の思召しは一切断ること
無私の財界人・根津育英会第4代理事長宮島清次郎
■「勲章などもらって、あの世でなんの顔で奴らに会えるか!」  泉岳寺から北西に向かう伊皿子坂(いさらござか)は頂上で魚籃坂(ぎょらんざか)となって三田方面に下る。江戸時代には江戸湾が望めたという。  1963年9月6日早朝、1台の黒塗りの車が伊皿子坂の中腹にある日本工業倶楽部理事長・財団法人根津育英会理事長の宮島清次郎の屋敷をすべりでた。  後部座席に身を沈めているのは、後にいう「財界四天王」の一人である日清紡績社長櫻田武である。櫻田は9月に入ってから、病篤く命潮汐にせまっていた育ての親ともいえる宮島清次郎の病床の傍に詰めていた。この朝、宮島の容態がやや安定したことで、櫻田はまだ息があるうちに宮島逝去後の相談を当時の首相池田勇人とすべきと思い、宮島邸から一度自宅に戻ったのだった。しかし、 洗顔をしていたところに逝去を知らせる電話が鳴ったと、櫻田は「日清紡績社報」の追悼文で述べている。  櫻田が東京帝大卒業後、日清紡績の入社試験を受けたのは1926年。200名に及ぶ志願者のなかから当時の社長、宮島の最終面接を経て入社したのはわずか2名。櫻田はそのひとりだった。早くから櫻田の力量を見抜いていた宮島は1945年に櫻田を41歳の若さで日清紡績社長に昇格させた後に会長を退任した。  厳格な合理主義的経営とともに、深夜操業廃止など労働者の立場も重視した宮島は、およそ賞されることが嫌いだった。「財界御意見番」といわれた経済評論家の三鬼陽之助によれば、宮島は死の数年前から「戦争で多くの部下が無冠の大夫で死んだ。生き残った俺が勲章などもらって、なんの顔で奴らに会えるか」と周囲に広言していたという。しかし、吉田茂と池田勇人という2名の宰相の政権成立に尽力した宮島には勲一等の叙勲と相応の叙位が追贈されることが予想された。かつてそのことを櫻田がいうと宮島は激怒し、遺言状に「栄誉の思召しは一切断ること」と鉛筆で書き添えた。  1963年9月6日午前7時28分、稀代の企業人宮島清次郎は老衰により84歳の生涯をとじた。そして、鉛筆書きの一行は尊重され叙勲叙位は見送られた。 ■19歳年上の親友、根津嘉一郎との絆  宮島清次郎は1879年、現在の栃木県佐野市の生まれだ。宇都宮中学(現・県立宇都宮高校)から四高(現・金沢大学)に進み、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業すると企業人としての道を選び、住友金属工業の前身である住友別子鉱業所を経て東京紡績に入社、業績回復を成し遂げて専務取締役に昇進する。宮島は東京紡績が尼崎紡績(現・ユニチカ)に吸収合併される際に退任し、根津嘉一郎(初代)が相談役を務めていた日清紡績専務に就任。同社の経営を建て直して安定企業に押しあげ1919年には社長に就任する。このとき清次郎はまだ40歳だった。根津と宮島は、宮島が専務就任直後から互いの経営哲学や見識に共感し、ビジネスを超えた絆を結んだ。根津は宮島より19歳も年上であるが、深い信頼と尊敬の関係が成立する両者の度量の大きさは驚くべきである。根津はさらに、日清製粉創業者正田貞一郎とも強い関係があったわけだが、根津嘉一郎にとって、友であり相談相手であり、社会や日本の未来に向けて同じベクトルを抱く同志であるこの2名の存在が、さまざまなリスクが想定されるなか、一私人による旧制七年制高校の設立という日本の教育史に大きな足跡を残す決断の支えになったことは確かである。  宮島は1921年から正田とともに財団法人根津育英会理事を務め、旧制武蔵高等学校の創設に協力、1940年、根津嘉一郎が急逝すると宮島はその遺志をついで武蔵の運営をサポートし、1951年からは学校法人根津育英会理事長に就任して武蔵高等学校、戦後の武蔵大学の経営に力を尽くした。1960年に私財を学園に寄付し(宮島基金)、これは今日でも学園基金の一つとなっている。  また根津がコレクションした美術品を保持・公開するべく根津美術館の設立に尽力したことはよく知られている。 ■清次郎の人物を見抜く眼力   宮島清次郎は経営者としてすぐれていたのみならず、人物の力量と可能性をいち早く見抜く眼力とその才能を育てる能力にも秀でていた。歴史が証明する強いリーダーに共通する短所は、「次世代の育成ができない」ことだが、宮島清次郎のもとからは政財界の中核を担う才能が多数巣立っている。宮島と帝大同期で5度も首相を務めた戦後の顔ともいえる吉田茂は、外交官出身であるが故に経済があまり得手ではなく、ことあるごとに宮島を頼り、宮島もそれに応えて物心両面で吉田を支えた。  1949年、宮島は第3次吉田内閣の大蔵大臣就任を打診される。しかし宮島は固辞し、かわりに吉田学校の優等生で初当選したばかりの池田勇人と会い、その実力、とりわけ数字に強く驚異的な記憶力を見抜いて推薦する。異例の抜擢で大蔵大臣となった池田は後に総理になり、高度経済成長を牽引した。  池田勇人をはじめ、前述の櫻田武、水野成夫(フジテレビジョン初代社長)、永野重雄(新日本製鉄会長)、小林中(日本開発銀行初代総裁・根津育英会理事長)など宮島清次郎の薫陶を得た財界人は綺羅、星のごとく居並ぶ。 ■座右の銘は「感謝報恩」——清貧無私の人生  宮島清次郎は吉田茂の朝食会に怒鳴り込んで白洲次郎を恫喝するといったradicalな行動でも怖れられたが、自身の生活は清貧というべき極めて質素なものであった。戦後は日本工業倶楽部理事長、日本銀行政策委員として日本の経済的復興に力を注いだ。日本工業倶楽部のある理事が洗面所にお湯が出ないことに注文をつけると「水で手洗いして冬が越せないような老人に経営はできない」と一喝したエピソードが伝わっている。  宮島は故郷に多くの寄付・寄贈もしており、1950年には母校の県立宇都宮高校にR書館を寄贈した。この図書館は現存し、宮島の座右の銘である「感謝報恩」から「報恩館」と名付けられている。また、一昨夏、佐野市郷土博物館から武蔵学園記念室に電話があり、宮島清次郎が佐野市の小学校に多額の図書購入費用を寄付しており、それによって佐野市出身の社会運動家田中正造の書や書簡をコレクトした「宮島文庫」を紹介する企画展をするので清次郎関連の資料を提供してほしいという依頼があった。この件は記念室にとって初耳だったが、自己喧伝を嫌った清次郎の寄付の全容はかように把握が困難である。清次郎は資産のほとんどを寄付しており、遺産と呼べるものはわずかで、晩年は自宅まで売却しようとして周囲に説得されたといわれる。  タイトルの写真は日清紡績の社葬として行われた宮島清次郎の葬儀。左から櫻田武社長、吉田茂元首相、池田勇人首相。三者の表情がそれぞれの清次郎との関係を物語る。なお、1949年秋、池田勇人が第2次吉田内閣で大蔵大臣に抜擢されたとき、池田は秘書官に黒金泰美(後に内閣官房長官)と、英語力に秀でた宮澤喜一(後に第78代首相)を指名したが、この両名は奇しくも旧制武蔵高等学校の卒業生である。  この社葬の翌年、1964年、日清紡績中興の祖と称された櫻田武は、「社長は60歳まで」という宮島清次郎の遺訓を忠実に守り、惜しまれながら退任する。  同年秋、東京オリンピックの開会式が挙行され、日本は世界に向かって大きな一歩を踏み出す。それを可能にした戦後の経済復興に於いて、礎石ともいえる大きな役割を宮島清次郎が担っていたことは、今あまり語られることがない。                                                    (武蔵学園記念室・調査研究員 三澤正男) ※横の写真=上・晩年の宮島清次郎 中・財団法人根津育英会設立の頃の宮島清次郎、推定41〜42歳  下・1936年6月15日、根津嘉一郎(初代)の喜寿を祝って、同窓会と父兄会から寄贈された「根津化学研究所」の玄関での集合写真。右から3人目、玄関柱の前に立つのが宮島清次郎(当時57歳)。中央に桜井錠二学士院長。その右隣に正田貞一郎理事(日清製粉社長・根津育英会理事)。左隣に談笑する山本良吉校長と根津嘉一郎理事長。その左下に玉蟲文一所長と根津藤太郎(後に2代根津嘉一郎)。
2018.07.09
清濁を呑み今日も流れる
濯川(すすぎがわ)物語
 武蔵学園内を流れる濯川は、春の桜、初夏には新緑、秋は紅葉と、四季の移ろいを水面に映しつつたゆとい、生徒・学生・教職員のみならず近隣の人びとや訪問者に安らぎと潤いを与えている。校内に池や噴水などの水がある学校は少なくないが、川が流れる学校は稀だ。  武蔵学園の魅力のひとつに23区でありながら校地の自然の美しさが挙げられるが、濯川は大欅とともにその象徴といえる。 ■320年前からの流れーー千川上水中新井分水  濯川という名称は古来よりのものではない。その起源は元禄9(1696)年、5代将軍綱吉の時代まで遡る。この年、綱吉は江戸城以北の飲料水確保の名目で玉川上水を水源とする上水の開削を指示し、現在の武蔵野市と西東京市の境界付近から取水された水は、巣鴨から地中に埋めた木樋を通り、湯島、本郷、白山、外神田、浅草の一帯を潤した。しかし一方で、綱吉の小石川の別荘、湯島聖堂、寛永寺、浅草寺、さらに綱吉が重用した柳沢吉保の下屋敷(六義園)にも大量の導水がなされた。  総距離は22キロメートルに及び、高低差は約40メートル。寛永時のある上野の台地にもサイフォン効果で水をあげる技術が用いられていた。設計は政商の河村瑞軒。開削には仙川村太兵衛、徳兵衛があたった。この二人は後に仙の字を改め千川の姓が与えられ水流の管理も委託された。「千川上水」の名はここからである。   その10年後、それまで天水に頼り幾度も干害に苦しんできた千川上水沿いの20か村から農業用水としての使用が嘆願され、現在の練馬区、豊島区内7か所から分水が引かれた。当時としてはかなり規模の大きい灌漑、Irrigationであり、なんと米田1反歩あたり玄米3升の料金を取っている。この7分水のひとつが中新井分水で、正確には中新井分水は3本あり、その1本が大講堂裏手から武蔵学園内を抜けて東門の先の北新井公園付近から目白通りを横切るように南下して国立中野療養所跡地手前で中新井川に合流していた。 ■命名「濯川」———憂国の詩人、屈原の漢詩から  大正11(1922)年の武蔵開校時には、中新井分水は幅30センチメートルほどの細い流れだった。生徒たちは運動の後に手を洗い、近隣の人びとが野菜を洗ったりもしたと記録にある。その後、武蔵の生徒たちが授業として川幅を広げ、橋を架け、島も築き、大正14(1925)年に山本良吉教頭によって「濯川」と命名された。  出典は、BC4世紀からBC3世紀に活躍した楚の詩人、屈原の以下の詩による。  滄浪之水清兮 可以濯吾纓 滄浪之水濁兮 可以濯吾足 「楚辞」巻七「漁父」  滄浪(そうろう)とは揚子江支流の漢水下流のことで、纓(えい)とは冠の紐の呼称だ。詩の大意は「滄浪の水が澄んでいるなら冠の紐を洗い、もし濁っているのなら自分の足を洗う。すなわち世の清濁に応じて生きよ」である。  屈原は文学的才能のみならず政治にもすぐれ、かつ強力な愛国者であった。しかしできすぎる者は妬みと嫉みの標的になる。屈原は、楚にとって西方の脅威である秦との同盟を思いとどまるよう楚王に進言したこことがきっかけとなり、地方に左遷されてしまう。この詩は、傷心の屈原が、漁父に出会い「潔白にストレートに生きたい」と主張したことに対する漁父の助言に感銘をうけて書かれたものだ。  命名者の山本良吉は昭和3(1928)年の「同窓会報」に次のような一文を寄せている。  「(前略)川の水、時には澄み、時には濁る。丁度われ等の心が時には晴れ、時には曇ると同じく、又人生の運に時には幸があり、時には不幸があると同じである。いづれ二元の間に徘徊するわれ等は、この川が二相を呈するのを咎めむべきでもあるまい。清い時には清きに処し濁った時には濁りに処する。幸が来れば幸を受けん、不幸が来れば不幸を迎へん。この小川が自身の清濁を一向知らず顔に、ゆるゆる、しかも止まずにその流れを続ける如く、われ等もわれ等の道を辿りたい。川沿いの木、今は尚小さいが、他日それが大きくなって、亭々として天を衝くとき、今の諸生が その下逍遙して、想いを今昔の間に回らせば、かならず感にたへないものがあらう。今諸生が見るその水はその頃には流れ流れて、いづこの果に、どうなってあるか考えることもできまい。しかし在る物は永遠に消えぬ。独り水辺 に立って、静かに行末を思ふと、われ等の心は自然に悠遠に引きこまれて行く。・・・・・ 昭和3年8月9日 久雨始めて晴れた朝、 山良生」 ■千年後へのメッセージ、八角井戸、そしてケム川幻想  千川上水は、戦後、近郊農業が減少していくなかで農業用水としての役割を終え、暗渠化して下水道に転用された。濯川も学園60周年記念事業として1985年に蘇生作業が行われ、現在は一の橋から玉の橋の間で循環しており千川とは繋がっていない。上流の水源(地下水)には八角井戸が埋められており、これには武蔵の祐筆として多くの書を遺した矢代素川氏の筆による前述の屈原の詩が記されている。この井戸は平城京跡から出土したもののレプリカで千年の後までも思いを伝えたいという心映えが込められている。  屈原はその後、楚の首都陥落に絶望し汨羅江(べきらこう)に入水するが、彼の詩形はその後の漢詩の源流のひとつになっていく。  校内に川の流れる学校は稀だと冒頭に書いたが、山本良吉は、University of Cambridgeを流れるRiver of Cam(The River Camとも表記。ケンブリッジ大学の校名の由来)のイメージを濯川に対して抱いており、当初は「武高のケム川」と仮称していた。山本は武蔵開校の1年前、欧米を視察した際にケンブリッジを訪問しケム川を舟で周遊しており、ケム川とその周囲の森から幾多の偉人、世界の運命にかかわる人材が輩出されたことへの憧れと尊敬を書き残している。  アカデミズムにとって、豊かな自然環境が教員、書籍、施設、教材などと同様に、いやそれ以前の基本的要件として必要であることを山本は確信していたのだろう。  その豊かな自然をこれまで守り抜いてきたことは、武蔵学園の誇りであることはまちがいない。                                                    (武蔵学園記念室・調査研究員 三澤正男) タイトル写真=紅葉の濯川。中流の欅橋から上流を臨む 写真1枚目=新緑の濯川。中の島付近 写真2枚目=下流の玉の橋周辺の改修作業を行う8期生。1933年撮影 写真3枚目=現在の濯川水源、八角井戸
2018.07.03
「はやぶさ」イオンエンジン開発者
國中均「深宇宙への夢」
  ☆……2014年12月に打ち上げられた小惑星探査機「はやぶさ2」は、2018年6月27日、3年半の旅を経て「Ryugu」の上空20キロメートルに到着した。これから精密な探査や岩石などのサンプル採取を行い、2020年末の地球帰還を目指す。往復58億キロメートルにおよぶ飛行の主な推力であるイオンエンジンは、奇跡の帰還物語で感動を呼んだ初代「はやぶさ」に搭載されたものの改良型である。このイオンエンジンの開発者が、JAXAの國中均(くになか・ひとし)教授は武蔵高等学校53期の卒業生だ。幾多の困難をのりこえ、「自ら調べ自ら考え」「宇宙に雄飛」した「はやぶさ」と國中教授の物語 ■太陽観測部で培った宇宙への憧れ  2003年5月の打上げから7年、小惑星イトカワのサンプルを携えた探査機「はやぶさ」は、60億㎞の旅を経て、2010年6月13日、地球に帰還した。往路は比較的順調だったが、イトカワへの着陸失敗と再試行の後、「はやぶさ」は通信が途絶し3年間も帰還が遅れる。その帰路にも予定を超える長時間飛行や着陸失敗による損傷のため、「はやぶさ」は幾多のトラブルに見舞われた。当初の予定では「はやぶさ」は地球の衛星軌道でサンプルカプセルを切り離し、本体は無限の宇宙の果てに旅に出るはずだった。しかし、すでに満身創痍だった「はやぶさ」は、確実にカプセルを地上の安全な位置に落下させるため本体ごと大気圏に再突入する。「はやぶさ」は最後に地球を撮影して故郷を見とどけると、カプセルを切り離し、自らは分散焼滅し全ミッションを終えた。  「はやぶさ」の想像を絶する長旅の主動力を担った「イオンエンジン」。その開発責任者が、武蔵高等学校53期卒業生の國中均氏だ。國中氏は武蔵在学中には「太陽観測部」に所属し宇宙への夢を膨らませた(はやぶさのティームには太陽観測部の後輩も2名参加)。卒業後は京都大学、東京大学大学院に学び、28歳で現在のJAXAの研究員となった。  イオンエンジンはマイクロ波を使いプラズマを作る電気推進機関で、燃料を燃焼させる化学エンジンに比べてはるかに効率がいい。推進力は1円玉を2mくらいの高さから落とした程度だが、宇宙空間ではパワーよりも耐久力が重要だ。そのため國中氏は18000時間の耐久試験を2度行った。1年は約9000時間だから4年間である。試験はイオンエンジンを真空装置に入れてコンピューターによる自動制御で行われたが、そのプログラム作りも試行錯誤の繰り返しであり、國中氏たちは夏休みも正月も返上し、夜中でも連絡があれば実験室に駆けつけたという。「はやぶさ」のプロジェクトは、イオンエンジンのみならず各部門において緻密な作業が長期間にわたって行われ、その積み重ねがサンプルリターンを成し遂げることになった。奇跡は周到な準備の結果である。 ■火事場の馬鹿力、110%の5乗  「はやぶさ」のイオンエンジンは世界初の実用化でもあった。「はやぶさ」は4機のイオンエンジンを搭載し、計算上は、29000時間の連続飛行が可能だった。しかし宇宙空間では予測不能な事態もおきる。そこで國中氏は「万が一」に備え、エンジンと中和機の組み合わせを変更できるシステムを組みこんだが、これが帰路のエンジントラブルを救うことになった。國中氏はいう「通常の機械は作る人と使う人がちがいます。だからその能力を万が一にそなえて90%で用いるように作られます。『はやぶさ』は基本的に5つのシステムなので、この方式だと90%の5乗、6割弱の力しかでない。ところが、『はやぶさ』は作り手と使い手がいっしょ。だから協力して休ませたりがんばらせたりすることで110%の力がでる。そうすると110%の5乗という力になる。いわば火事場の馬鹿力です」。  とはいえ、「はやぶさ」が1回目のイトカワタッチダウン(着地)に失敗したとき、國中氏は「お願いだからこれ以上壊さないで。もう帰ろうよ」と思ったと、同窓会の会合で語られた。結果的には、「はやぶさ」は再度タッチダウンを試み、サンプル採取に成功する。 ■未来はあるものではなく創るもの  持ち帰ったイトカワ資料の分析は進み、すでに3000以上もの、ミリからミクロン単位のイトカワ由来のサンプルが検出されており、その3倍程度はさらに見つかるといわれている。かつては望遠鏡で点にしか見えなかったイトカワをついに顕微鏡の世界でとらえることができたのだ。これらのサンプルは、一切地球の外気にふれさせてはいない。また、全体の約3割は手をつけず、未来でよりすぐれた分析方法、知見が生まれたときのため、まだ見ぬ研究者たちのために保存されている。  その後、2014年には「はやぶさ2」が打ち上げられ、小惑星リュウグウを目指して順調に飛行している。國中均氏は今回もイオンエンジン改良型μ10の開発と、さらに打ち上げ時のプロジェクトマネージャーを担当した。  リュウグウには炭素系の物質があるとされ、サンプルに有機物が含まれていれば、地球の生命起源と小惑星衝突との関係を知る縁(よすが)となることが期待される。   國中氏はイオンエンジンのように「ゆっくりでも進めば届く力」を追求することで、さらなる「深宇宙探査の夢」の可能性を語る。そのためには、もっと短い間隔での実験研究ができる人的、経済的態勢が必要だという。  「はやぶさ2」の打ち上げが成功した日、國中氏はメディアの「今回も感動を与えてください」という呼びかけに、こう答えた。「もう物語はいりません」。國中均氏は根っからの技術者である。                                                    (武蔵学園記念室・調査研究員 三澤正男) ※タイトル写真=2015年11月14日に本校大教室で開催された國中教授の特別授業『新領域への挑戦が切り開く宇宙活動』から 写真1枚目=同授業で生徒とディスカッションする國中教授 写真2枚目、3枚目=同授業での國中教授のメッセージ ※撮影 岸田生馬(武蔵高等学校中学校教諭)
2018.05.25
凛烈な冬空で道を示す星座の人
山川健次郎(1854-1931)
『山川健次郎日記』にのこる武蔵創立前夜 ☆……2018年は明治維新から数えて150年目にあたる。この年の1月、安倍晋三首相は国会の施政方針演説で明治政府軍と闘った会津藩白虎隊の隊士だった山川健次郎の名をあげ、会津降伏後、エール大学に留学し日本最初の物理学博士となり、東京帝国大学総長を二度務め、京都帝国大学(兼任)、九州帝国大学総長も歴任した山川の業績を讃えた。武蔵には東京帝国大学総長時代からその設立に関わり、晩年は第2代校長を務める山川健次郎と武蔵の出会いの物語。 ◎秋夜の電話――10月3日午後4時青山へ  彼岸過ぎにしては冷える夜だった。東京帝国大学総長山川健次郎は、毎夕晩酌を楽しむと早々に床に就くのを習慣としていたが、電話がその慣習を破った。1919(大正8)年9月28日のことである。灯りはすでに電燈であったが、当時の夜は東京市街地でも暗い。吹き抜けの渡り廊下を抜けて電話室に向かう健次郎の左右はまったくの闇だった。  健次郎の自宅は北豊島郡西巣鴨、現在の池袋駅の北西にあった。会津出身、白虎隊の生き残りであり、弱冠17歳でエール大学に留学し、土木と物理を学んだ健次郎は、1910(明治43)年に自ら設計してこの家を建てた。耐震と通気が精密に計算された構造は、採光にも優れ、南向きの居間には真冬でもおだやかな陽ざしがさしこんだ。敷地は男爵にふさわしく7000㎡ほどもあったが、内部は来客が驚くほど装飾がなく美術品の類いも一切見当たらなかった。  健次郎にとって家は住むことができればよく、広さは「来る者を受け入れるため」という持論によるものだった。事実、このとき健次郎は二度目の東京帝大総長の任にあり(50歳で一度退官、その後は明治専門学校総裁、九州帝大総長を歴任し58歳で再び東京帝大総長に就任、さらには1年間京都帝大総長も兼任した)、理化学研究所顧問、帝大航空研究所所長(この5日前に就任)など多くの要職を兼ねていたため、きわめて来客が多かった。この日は日曜日で健次郎は終日在宅したが、朝から学生が運動会の相談に来るなど(ていねいに話を聴き助言している)夕刻まで訪問者が絶えなかった。    電話の主は、法学博士にして臨時教育会議総裁の平田東助だった。健次郎も同会議の委員であり、また学習院評議会の会員どうしでもあった。すなわち当時の日本の教育界の重鎮から重鎮へのホットラインである。平田の話は根津嘉一郎と文部官僚の本間則忠を紹介し、「両名が私立学校をつくることを計画しているので協力してほしい。ついては相談の会を10月3日午後4時に青山の根津邸(現在の根津美術館)で開くので参加できないか」というものだった。平田はまた、会のメンバーとして北条時敬(学習院長)、一木喜徳郎(元文部大臣・枢密顧問官、後に武蔵高等学校初代校長)、岡田良平(文部大臣・一木の実兄)らの名をあげた。いずれも教育界を代表する錚々たる顔ぶれである。なかでも岡田は文部大臣として臨時教育会議をおこし、義務教育の国庫負担への道を開こうとしていたが、もうひとつ、国立の旧制高校しかなかった高等教育の拡充という大仕事をこの臨時教育会議のタスクとしていた。  武蔵高等学校の誕生は、根津嘉一郎という一個人の社会貢献への篤志と、その思いを学校というかたちで実現させるべく勧奨した本間の情熱のコラボレイションにあることはまちがいないが、時代も国もその志をささえるべく動きだしていたといえる。  古武士の精神と物理学者の合理性を兼ね備えていた山川健次郎の決断ははやい。その場で平田に承諾する旨を伝えた。しかし、健次郎はめずらしくその晩に風邪をひき(長身で頑健だった)翌日から2日間、休みをとった。 ◎幻の「山川健次郎日記」秋田公文書館で発見  武蔵高等学校設立の経緯は、財団法人根津育英会設立時以降は克明な記録がのこされており、『武蔵学園史年報』や『武蔵七十年史』などに紹介されている。それらは来る「武蔵百周年」に刊行予定の「正史」の貴重な史料となるが、財団設立以前の経緯については根津嘉一郎に熱弁をもって学校設立後を決意させ、実務を取り仕切った文部事務官の本間則忠が理事会宛にのこしたメモ(『武蔵学園史年報』創刊号掲載)と関係者の日記や伝記などを辿る以外になかった。  それらを詳細に照らし合わせていくと、できごとの日時や話し合いの経過などにくいちがいが散見される。なかでも本間メモは、これまでの研究で意図的かどうかは別として日時の誤記と思われるものがあるとされてきた。  こうした謎を解くのは、より信憑性の高い同時期の記録を見つけだすしかないが、有力な史料が2012年に秋田県公文書館で発見された。それが『山川健次郎日記』の写本である。  健次郎の日記は彼の伝記『男爵山川先生伝』(1939)などから、その存在が示されていたが、東京大学、京都大学、九州大学、武蔵学園、福島県立博物館など、健次郎の史料を保管している施設には日記に関するものはなかった。2001年に古本市に出たという情報があるのみで、健次郎のこの時期に直筆日記と手帳は未だに発見されていない。  4年前に発見された今回の日記は写本ではあるが信頼のおけるものであることが判明した。日記はときとして文学者のそれのように「読まれること」を意識して創作要素が含まれるので注意が必要だが、健次郎の日記は歴史的事実と整合し、さらに史料価値の高い北条時敬の日記とも一致する。ただし、この写本がなぜ秋田県公文書館に保管されていたのかはさらなる調査を待たねばならない。 ◎会津のほこり――星座の人  日記には10月3日の根津邸での会合についても書かれている。この日付は北条日記とも一致し、本間メモの「初の協議会は12月28日」という記述は誤りであることがわかる。この日は金曜日で健次郎は朝から東京帝国大学に出校し、総長室や食堂などで来客に追われているが、午後4時の会合には間に合い(時刻も記されている)、健次郎は学校をつくるなら実業補習学校のようなものと意見を述べている。根津嘉一郎が用意する資金は200万円(実際には360万円を超えた)で、1万坪の土地は取得済みであるとの記述もあり、健次郎はそうしたドキュメントを手帳に記録、帰宅して日記に書きなおしたと思われる。会議は各自が意見を述べるのみで終わり、次回を約束して宴会になった。「根津氏の丁重なる饗応」と健次郎は書き、北条も「日本式念入りの馳走」と記している。  夜更けて、健次郎は根津家の自動車で北条時敬とともに帰宅する。車は青山から目白の学習院を経て池袋の山川邸へ深夜の東京を急ぐ。その加速は動きはじめた日本の高等教育そのものだった。車内で健次郎と北条はどんな会話をしたのだろうか。  この会合で結論は出なかったが、根津嘉一郎と根津の相談相手で親友の宮島清次郎(日清紡績社長)、正田貞一郎(日清製粉創業者)は「七年制高等学校」という本間が建てたプランで進めるという腹は据わっていた。健次郎の日記にも北条の日記にも、2日後の10月5日の日曜日に、本間則忠が学校設立の具体的計画を大量の資料を携えて説明しに来宅したとの記載がある。そうした本間のすばやい動きは本間メモにはない。  翌1920(大正9)年、健次郎は66歳で東京帝大総長を退官する。その翌年秋、財団法人根津育英会が設立され、健次郎は顧問・評議員となり、1926(大正15)年には一木喜德郎(宮内大臣就任のため校長退任)の後を継いで武蔵高等学校第2代校長となった。ときに健次郎71歳である。  山川健次郎を語るとき、彼の会津藩への思いを切り離すことはできない。朝敵の汚名を晴らすことと白虎隊の悲劇を語り続けることは彼の後半生の最大テーマだった。博士となり帝大総長となった健次郎を会津の人びとは頭上で輝いて道を示す「星座の人」と呼んだ。その学識とマネジメント力、そして何より高潔な人格は、当時の教育者、科学者、学生、さらに武蔵にとっても、オリオン座のように凛烈な冬空に雄雄しく舞い立っていたといえよう。  健次郎の会津と白虎隊への深い思いに感動した根津嘉一郎は、健次郎が武蔵校長就任の年、荒れ果てていた白虎隊の墳墓の整備資金を寄付するが、そのエピソードの詳細は次の機会にしたい。  山川健次郎は1931(昭和6)年の年明けに病を得て入院、3月に武蔵校長を辞任する。桜の頃には退院するが再び悪化し、6月26日の午前、息をひきとった。幕末から昭和まで走りぬけた77年間の激動の旅だった。                                                    (武蔵学園記念室・調査研究員 三澤正男)   タイトル写真――会津藩校「日新館」(1987年に移築・再建)入口の山川健次郎像 写真上――武蔵高等学校第2代校長時の山川健次郎 写真中――第1代校長一木喜德郎と山川健次郎 写真下――飯盛山の白虎隊の墳墓   主な参考文献 ・『山川健次郎日記』(2014・尚友倶楽部史料調査室・小宮・中澤)  ・『男爵山川先生伝』(1939・故男爵山川先生記念会) ・『武蔵学園史年報』創刊号(1997・学校法人根津育英会)  
 
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