未完
朝からの雨が上がり、武蔵野鉄道(西武池袋線の前身)江古田駅には池袋行が西陽を背にシルエットで入線してきた。制動音とともに眩しく拡散する水の匂いを浴びて武蔵高等学校の生徒たちが乗り込んだ。
1943年6月、期末試験も近い夕刻である。発車後、ひとりの尋常科3年生が英語の教科書を広げた。軍服姿の将校が目の前に立ち、学校では英語をどの程度教えているかと尋ねた。
やや怒気を帯びた詰問にも生徒は「文法、解釈、英作文の週7時間です」と外連味なく答えた。将校は目を丸くし呆れ顔で下車していった。
第二次世界大戦の戦況は坂道を転がるように悪化し、軍部は一層の犠牲を国民に強いていた。禁止こそされていなかったが英語は軽佻浮薄な敵性語といわれ、多くの学校が授業をやめたり時間を削減するなか、武蔵は5月の教授会で尋常科3、4年生の英語に英作文を単位として加え、時間数も増やしていた。
三理想の「世界に雄飛するにたえる人物」に必要な資質の一つである外国語への意識は創立時から高く、尋常科2年から英語教科書には英米製を用い、現在も続く分割授業も開校直後から実施されていた。母語の通じぬ外国でも相手を理解し自己表現できる人物を育てるという志は戦時中も緩がなかったのだ。
また、世界を直接体験するべく1927年から1943年まで行われた生徒外遊制度は、昭和1987年に生徒国外研修制度として再出発。ヨーロッパ、アジア各地の提携校で三○○名超の生徒が学び、同時に海外生徒の受け入れも行ってきた。
戦争末期には国から派遣された校長による国策押しつけや配属将校の干渉が各校で見られた。しかし、武蔵では行きすぎた軍国主義の息苦しさ最後までなかった。それは国には従う姿勢を見せつつ生徒の自主性を尊重する山川黙(しずか)第4代校長や教授会の態度と武蔵生の自由な精神によるものだった。そして何より驚かされるのは、どの学校にもあった「御真影」とそれを納める奉安殿が終戦まで武蔵にはなかったことだ。
だが、いかに自ら考える武蔵であってもやがて戦争の重圧と無縁ではいられなくなる。勤労動員が始まり空襲も激化して通常の授業の継続は困難になった。それでも当時の日誌には寸暇を惜しんで学習する生徒の姿が見え、空腹と死の恐怖、未来への不安と戦いながらも智の高みをめざす瑞々しい青春が伝わってくる。
終戦の翌年、国から奉安殿の撤去が命じられ、その報告書の控えが記念室に残る。
「本校には奉安殿の設置がありませんので、報告いたします事項がありません」