Story
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「はやぶさ」イオンエンジン開発者
國中均「深宇宙への夢」

 

☆……2014年12月に打ち上げられた小惑星探査機「はやぶさ2」は、2018年6月27日、3年半の旅を経て「Ryugu」の上空20キロメートルに到着した。これから精密な探査や岩石などのサンプル採取を行い、2020年末の地球帰還を目指す。往復58億キロメートルにおよぶ飛行の主な推力であるイオンエンジンは、奇跡の帰還物語で感動を呼んだ初代「はやぶさ」に搭載されたものの改良型である。このイオンエンジンの開発者が、JAXAの國中均(くになか・ひとし)教授は武蔵高等学校53期の卒業生だ。幾多の困難をのりこえ、「自ら調べ自ら考え」「宇宙に雄飛」した「はやぶさ」と國中教授の物語

■太陽観測部で培った宇宙への憧れ

 2003年5月の打上げから7年、小惑星イトカワのサンプルを携えた探査機「はやぶさ」は、60億㎞の旅を経て、2010年6月13日、地球に帰還した。往路は比較的順調だったが、イトカワへの着陸失敗と再試行の後、「はやぶさ」は通信が途絶し3年間も帰還が遅れる。その帰路にも予定を超える長時間飛行や着陸失敗による損傷のため、「はやぶさ」は幾多のトラブルに見舞われた。当初の予定では「はやぶさ」は地球の衛星軌道でサンプルカプセルを切り離し、本体は無限の宇宙の果てに旅に出るはずだった。しかし、すでに満身創痍だった「はやぶさ」は、確実にカプセルを地上の安全な位置に落下させるため本体ごと大気圏に再突入する。「はやぶさ」は最後に地球を撮影して故郷を見とどけると、カプセルを切り離し、自らは分散焼滅し全ミッションを終えた。
 「はやぶさ」の想像を絶する長旅の主動力を担った「イオンエンジン」。その開発責任者が、武蔵高等学校53期卒業生の國中均氏だ。國中氏は武蔵在学中には「太陽観測部」に所属し宇宙への夢を膨らませた(はやぶさのティームには太陽観測部の後輩も2名参加)。卒業後は京都大学、東京大学大学院に学び、28歳で現在のJAXAの研究員となった。
 イオンエンジンはマイクロ波を使いプラズマを作る電気推進機関で、燃料を燃焼させる化学エンジンに比べてはるかに効率がいい。推進力は1円玉を2mくらいの高さから落とした程度だが、宇宙空間ではパワーよりも耐久力が重要だ。そのため國中氏は18000時間の耐久試験を2度行った。1年は約9000時間だから4年間である。試験はイオンエンジンを真空装置に入れてコンピューターによる自動制御で行われたが、そのプログラム作りも試行錯誤の繰り返しであり、國中氏たちは夏休みも正月も返上し、夜中でも連絡があれば実験室に駆けつけたという。「はやぶさ」のプロジェクトは、イオンエンジンのみならず各部門において緻密な作業が長期間にわたって行われ、その積み重ねがサンプルリターンを成し遂げることになった。奇跡は周到な準備の結果である。

■火事場の馬鹿力、110%の5乗

 「はやぶさ」のイオンエンジンは世界初の実用化でもあった。「はやぶさ」は4機のイオンエンジンを搭載し、計算上は、29000時間の連続飛行が可能だった。しかし宇宙空間では予測不能な事態もおきる。そこで國中氏は「万が一」に備え、エンジンと中和機の組み合わせを変更できるシステムを組みこんだが、これが帰路のエンジントラブルを救うことになった。國中氏はいう「通常の機械は作る人と使う人がちがいます。だからその能力を万が一にそなえて90%で用いるように作られます。『はやぶさ』は基本的に5つのシステムなので、この方式だと90%の5乗、6割弱の力しかでない。ところが、『はやぶさ』は作り手と使い手がいっしょ。だから協力して休ませたりがんばらせたりすることで110%の力がでる。そうすると110%の5乗という力になる。いわば火事場の馬鹿力です」。
 とはいえ、「はやぶさ」が1回目のイトカワタッチダウン(着地)に失敗したとき、國中氏は「お願いだからこれ以上壊さないで。もう帰ろうよ」と思ったと、同窓会の会合で語られた。結果的には、「はやぶさ」は再度タッチダウンを試み、サンプル採取に成功する。

■未来はあるものではなく創るもの

 持ち帰ったイトカワ資料の分析は進み、すでに3000以上もの、ミリからミクロン単位のイトカワ由来のサンプルが検出されており、その3倍程度はさらに見つかるといわれている。かつては望遠鏡で点にしか見えなかったイトカワをついに顕微鏡の世界でとらえることができたのだ。これらのサンプルは、一切地球の外気にふれさせてはいない。また、全体の約3割は手をつけず、未来でよりすぐれた分析方法、知見が生まれたときのため、まだ見ぬ研究者たちのために保存されている。
 その後、2014年には「はやぶさ2」が打ち上げられ、小惑星リュウグウを目指して順調に飛行している。國中均氏は今回もイオンエンジン改良型μ10の開発と、さらに打ち上げ時のプロジェクトマネージャーを担当した。
 リュウグウには炭素系の物質があるとされ、サンプルに有機物が含まれていれば、地球の生命起源と小惑星衝突との関係を知る縁(よすが)となることが期待される。 
 國中氏はイオンエンジンのように「ゆっくりでも進めば届く力」を追求することで、さらなる「深宇宙探査の夢」の可能性を語る。そのためには、もっと短い間隔での実験研究ができる人的、経済的態勢が必要だという。
 「はやぶさ2」の打ち上げが成功した日、國中氏はメディアの「今回も感動を与えてください」という呼びかけに、こう答えた。「もう物語はいりません」。國中均氏は根っからの技術者である。

※タイトル写真=2015年11月14日に本校大教室で開催された國中教授の特別授業『新領域への挑戦が切り開く宇宙活動』から
写真1枚目=同授業で生徒とディスカッションする國中教授
写真2枚目、3枚目=同授業での國中教授のメッセージ

※撮影 岸田生馬(武蔵高等学校中学校教諭)

 
 
 
 
 
 
武蔵今昔物語一覧
2018.12.19
「えごた」はたまた「えこだ」
江古田今昔混同物語
 タイトルに掲載した空中写真は、昭和30年代(1955〜64)に撮影された武蔵学園周辺だ。  まだ高等学校中学校の校舎は時計塔のある現在の3号館で、大学のメイン教室はその左手の旧1号館だった(高中新校舎は1968年竣工)。正門は現在の位置よりやや西にあり、ややわかりにくいが守衛所も今は郵便室になっている三角屋根だ(正門が現在地に移動し根津化学研究所まで直線的に欅並木を見通せるようになったのは2012年の暮)。     学園の北側(画面手前)には、すでに住宅が密集しているが、南には田畑が大きく広がっている。横に掲載した写真の最上段は、同じく昭和30年年代の江古田駅周辺(江古田銀座)だが、店舗は変わっても道路の幅や構成が今とほとんど変化していないことに驚く。江戸時代は農村(新田)であった江古田だが、現在は武蔵学園、日本大学芸術学部、武蔵野音楽大学という三大学が集まる学生の街として知られる。武蔵百年の歴史を考えるとき、学生・生徒たちを育んだ江古田の街について触れないわけにはいかない。当サイトでも何回かに分けて江古田の街についてとりあげたい。今回はその初回、町名についての話。 ■江古田の駅名、町名パラドックスをさぐる  「武蔵学園はどこにありますか」という問いに練馬区豊玉上といっても伝わりにくいので、「練馬の江古田です」「西武池袋線の江古田駅が最寄り」と返すことが多い。そして「えごた? えこだ? どっち」という質問は、もう武蔵の関係者なら何回も受けたことだろう。  ご存じのように、西武池袋線の駅名は「えこだ」だ。しかし南へ下って大江戸線の新江古田は「しんえごた」である。ちなみに江古田銀座のアーチから新江古田駅を経由して目白通りを横切り新青梅街道まで伸びる「江古田通り」(通称「チャンチキ通り」)は「えごたどおり」だ。  さらにこの新青梅街道にかかる妙正寺川の「江古田大橋」はなんと「えこたおおはし」であり、その下流の「江古田橋」は「えごたばし」なのでややこしさが倍増する。  「江古田」の名前が記録に現れるのは室町時代後期で、地域は現在の中野区江古田付近、目白通りの南側一帯で、太田道灌が豊島一族と戦った古戦場「江古田原」として『太田道灌状』に記されいる。ただし読みは判然としていない。その後も「えこた」「えごた」「えこだ」が混在して使用されているが、中野区江古田の地元では「えごた」が人口に膾炙していたようだ。そして、現在の中野区江古田(えごた)の町名と範囲は1963年の住居表示法で定まった。  一方、今の練馬には江古田という町名はない。1960年、横の写真の頃までは、現在の旭丘と栄町が江古田町だった。これは、この一帯が中野の江古田村の新田として開発された地域であることに由来する。戦後、中野区江古田と混同されることが多いことから、この年に旭町と栄町に再編・改名された(旭町の名は住民投票によって決定した)。       しかし江古田駅の名はそのまま残っており、駅名は「えこだ」である。ご承知のように江古田駅は大正11(1922)年、西武線の前身である武蔵野鉄道の「武蔵高等学校用仮停停留所」として開設され(根津嘉一郎初代理事長は同鉄道の大株主だった)、ホームは現在よりも武蔵に近かった。その翌年、今の位置に移設されて武蔵野鉄道「江古田駅」として開業。戦後、昭和21(1946)年に西武鉄道「江古田駅」となり駅名の読みが「えこだ」になったが、その読み変更の経緯は不明である。秋葉原駅が「あきばはら」が発音のしやすい「あきはばら」になったと同じという説もあるが、証明するものはない。なお、最下段の写真は昭和10(1935)年ごろの江古田駅で、このときも「えごた」である。  中段の地図は大正15(1926)年6月30日発行の大日本帝国陸地測量部によるものだ(武蔵学園記念室所蔵)。これには駅名は「えごた」と記されている。少なくともこの時点では「えごた駅」だった。また、右下には江古田新田の表示があり、中野の江古田より後に開墾されたことがわかる。千川通りの北側に沿う黒い細い線は千川上水で、まだ暗渠ではなく上水として機能していた。残念ながら中新井分水である濯川は描かれていないが、当時は川幅が30㎝程度だったためと推察される。なお、2017年夏にNHK衛星放送の番組で江古田をとりあげたとき、番組担当者と学園記念室で西武鉄道江古田駅に問い合わせたが、この駅名の読みについての資料は得られなかった。   ■江古田の語源は、エゴの木?  結局のところ、江古田の読みについては、地名にはさまざな「音の揺れ」がおこると理解するしかない。なお、江古田は横浜市にも江古田と荏子田があり、これはどちらも「えこだ」だ。  では江古田の語源は何かと追求したくなるが、現時点では確定できる説はない。一時期説得力があるとされたエゴマ油のエゴの木があった田という説も、証明できる、あるいは説得力の高い資料・記録はない。また。ひらがな表記すればエゴの木は「ゑご」であるが、「ゑこだ」あるいは「ゑごた」という記録がない。江古田の「え」は旧仮名でも「ゑ」ではない。  ほかには「窪地」「淵」などを意味する「えご」からだという地形説があるが、このことばは関東ではあまり使用されていないという反論もある。またアイヌ語語源説も証拠がない。  江古田の田は、おそらく水田に由来すると思われ、「えご」もしくは「えこ」の解明が待たれる。そして「た」か「だ」かという問題は日本語の特徴である「連濁」(サクラ→ヤマザクラ、クルマ、ニグルマのように接頭語により濁音化する例外が少ない現象)との関係性ともあいまって興味は尽きないが、武蔵学園記念室では今後も江古田の歴史については調査・研究を進めていく。次回は、江古田の街と店と学生について触れたい。 ※参考文献 黒田基樹『図説 太田道灌』(戎光祥出版 2009年) 武蔵学園70年史委員会編『武蔵七十年史』(1993年)  
2018.10.02
栄誉の思召しは一切断ること
無私の財界人・根津育英会第4代理事長宮島清次郎
■「勲章などもらって、あの世でなんの顔で奴らに会えるか!」  泉岳寺から北西に向かう伊皿子坂(いさらござか)は頂上で魚籃坂(ぎょらんざか)となって三田方面に下る。江戸時代には江戸湾が望めたという。  1963年9月6日早朝、1台の黒塗りの車が伊皿子坂の中腹にある日本工業倶楽部理事長・財団法人根津育英会理事長の宮島清次郎の屋敷をすべりでた。  後部座席に身を沈めているのは、後にいう「財界四天王」の一人である日清紡績社長櫻田武である。櫻田は9月に入ってから、病篤く命潮汐にせまっていた育ての親ともいえる宮島清次郎の病床の傍に詰めていた。この朝、宮島の容態がやや安定したことで、櫻田はまだ息があるうちに宮島逝去後の相談を当時の首相池田勇人とすべきと思い、宮島邸から一度自宅に戻ったのだった。しかし、 洗顔をしていたところに逝去を知らせる電話が鳴ったと、櫻田は「日清紡績社報」の追悼文で述べている。  櫻田が東京帝大卒業後、日清紡績の入社試験を受けたのは1926年。200名に及ぶ志願者のなかから当時の社長、宮島の最終面接を経て入社したのはわずか2名。櫻田はそのひとりだった。早くから櫻田の力量を見抜いていた宮島は1945年に櫻田を41歳の若さで日清紡績社長に昇格させた後に会長を退任した。  厳格な合理主義的経営とともに、深夜操業廃止など労働者の立場も重視した宮島は、およそ賞されることが嫌いだった。「財界御意見番」といわれた経済評論家の三鬼陽之助によれば、宮島は死の数年前から「戦争で多くの部下が無冠の大夫で死んだ。生き残った俺が勲章などもらって、なんの顔で奴らに会えるか」と周囲に広言していたという。しかし、吉田茂と池田勇人という2名の宰相の政権成立に尽力した宮島には勲一等の叙勲と相応の叙位が追贈されることが予想された。かつてそのことを櫻田がいうと宮島は激怒し、遺言状に「栄誉の思召しは一切断ること」と鉛筆で書き添えた。  1963年9月6日午前7時28分、稀代の企業人宮島清次郎は老衰により84歳の生涯をとじた。そして、鉛筆書きの一行は尊重され叙勲叙位は見送られた。 ■19歳年上の親友、根津嘉一郎との絆  宮島清次郎は1879年、現在の栃木県佐野市の生まれだ。宇都宮中学(現・県立宇都宮高校)から四高(現・金沢大学)に進み、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業すると企業人としての道を選び、住友金属工業の前身である住友別子鉱業所を経て東京紡績に入社、業績回復を成し遂げて専務取締役に昇進する。宮島は東京紡績が尼崎紡績(現・ユニチカ)に吸収合併される際に退任し、根津嘉一郎(初代)が相談役を務めていた日清紡績専務に就任。同社の経営を建て直して安定企業に押しあげ1919年には社長に就任する。このとき清次郎はまだ40歳だった。根津と宮島は、宮島が専務就任直後から互いの経営哲学や見識に共感し、ビジネスを超えた絆を結んだ。根津は宮島より19歳も年上であるが、深い信頼と尊敬の関係が成立する両者の度量の大きさは驚くべきである。根津はさらに、日清製粉創業者正田貞一郎とも強い関係があったわけだが、根津嘉一郎にとって、友であり相談相手であり、社会や日本の未来に向けて同じベクトルを抱く同志であるこの2名の存在が、さまざまなリスクが想定されるなか、一私人による旧制七年制高校の設立という日本の教育史に大きな足跡を残す決断の支えになったことは確かである。  宮島は1921年から正田とともに財団法人根津育英会理事を務め、旧制武蔵高等学校の創設に協力、1940年、根津嘉一郎が急逝すると宮島はその遺志をついで武蔵の運営をサポートし、1951年からは学校法人根津育英会理事長に就任して武蔵高等学校、戦後の武蔵大学の経営に力を尽くした。1960年に私財を学園に寄付し(宮島基金)、これは今日でも学園基金の一つとなっている。  また根津がコレクションした美術品を保持・公開するべく根津美術館の設立に尽力したことはよく知られている。 ■清次郎の人物を見抜く眼力   宮島清次郎は経営者としてすぐれていたのみならず、人物の力量と可能性をいち早く見抜く眼力とその才能を育てる能力にも秀でていた。歴史が証明する強いリーダーに共通する短所は、「次世代の育成ができない」ことだが、宮島清次郎のもとからは政財界の中核を担う才能が多数巣立っている。宮島と帝大同期で5度も首相を務めた戦後の顔ともいえる吉田茂は、外交官出身であるが故に経済があまり得手ではなく、ことあるごとに宮島を頼り、宮島もそれに応えて物心両面で吉田を支えた。  1949年、宮島は第3次吉田内閣の大蔵大臣就任を打診される。しかし宮島は固辞し、かわりに吉田学校の優等生で初当選したばかりの池田勇人と会い、その実力、とりわけ数字に強く驚異的な記憶力を見抜いて推薦する。異例の抜擢で大蔵大臣となった池田は後に総理になり、高度経済成長を牽引した。  池田勇人をはじめ、前述の櫻田武、水野成夫(フジテレビジョン初代社長)、永野重雄(新日本製鉄会長)、小林中(日本開発銀行初代総裁・根津育英会理事長)など宮島清次郎の薫陶を得た財界人は綺羅、星のごとく居並ぶ。 ■座右の銘は「感謝報恩」——清貧無私の人生  宮島清次郎は吉田茂の朝食会に怒鳴り込んで白洲次郎を恫喝するといったradicalな行動でも怖れられたが、自身の生活は清貧というべき極めて質素なものであった。戦後は日本工業倶楽部理事長、日本銀行政策委員として日本の経済的復興に力を注いだ。日本工業倶楽部のある理事が洗面所にお湯が出ないことに注文をつけると「水で手洗いして冬が越せないような老人に経営はできない」と一喝したエピソードが伝わっている。  宮島は故郷に多くの寄付・寄贈もしており、1950年には母校の県立宇都宮高校にR書館を寄贈した。この図書館は現存し、宮島の座右の銘である「感謝報恩」から「報恩館」と名付けられている。また、一昨夏、佐野市郷土博物館から武蔵学園記念室に電話があり、宮島清次郎が佐野市の小学校に多額の図書購入費用を寄付しており、それによって佐野市出身の社会運動家田中正造の書や書簡をコレクトした「宮島文庫」を紹介する企画展をするので清次郎関連の資料を提供してほしいという依頼があった。この件は記念室にとって初耳だったが、自己喧伝を嫌った清次郎の寄付の全容はかように把握が困難である。清次郎は資産のほとんどを寄付しており、遺産と呼べるものはわずかで、晩年は自宅まで売却しようとして周囲に説得されたといわれる。  タイトルの写真は日清紡績の社葬として行われた宮島清次郎の葬儀。左から櫻田武社長、吉田茂元首相、池田勇人首相。三者の表情がそれぞれの清次郎との関係を物語る。なお、1949年秋、池田勇人が第2次吉田内閣で大蔵大臣に抜擢されたとき、池田は秘書官に黒金泰美(後に内閣官房長官)と、英語力に秀でた宮澤喜一(後に第78代首相)を指名したが、この両名は奇しくも旧制武蔵高等学校の卒業生である。  この社葬の翌年、1964年、日清紡績中興の祖と称された櫻田武は、「社長は60歳まで」という宮島清次郎の遺訓を忠実に守り、惜しまれながら退任する。  同年秋、東京オリンピックの開会式が挙行され、日本は世界に向かって大きな一歩を踏み出す。それを可能にした戦後の経済復興に於いて、礎石ともいえる大きな役割を宮島清次郎が担っていたことは、今あまり語られることがない。 ※横の写真=上・晩年の宮島清次郎 中・財団法人根津育英会設立の頃の宮島清次郎、推定41〜42歳  下・1936年6月15日、根津嘉一郎(初代)の喜寿を祝って、同窓会と父兄会から寄贈された「根津化学研究所」の玄関での集合写真。右から3人目、玄関柱の前に立つのが宮島清次郎(当時57歳)。中央に桜井錠二学士院長。その右隣に正田貞一郎理事(日清製粉社長・根津育英会理事)。左隣に談笑する山本良吉校長と根津嘉一郎理事長。その左下に玉蟲文一所長と根津藤太郎(後に2代根津嘉一郎)。
2018.07.13
智の邂逅ーー単学部からの飛躍
高津春繁と正田建次郎
人文学部を生んだ世界的数学者と言語学者の出会い  1955年からの数年間で、経営学科の新設と大規模な施設計画をほぼ完成した武蔵大学は、少数教育を基盤に「経済の武藏」「ゼミの武蔵」の社会的評価を確実なものにした。さらに1963〜4年ごろには、研究・教育の一層の充実のために複学部への発展が求められるようになった。こうしたなか、1965年、正田建次郎元大阪大学学長(1902-1977)が武蔵大学学長・武蔵高等学校中学校校長に就任すると、7年後にせまった学園創立50周年を念頭に、大学の質量両面の拡充に着手。その成果は1969年、人文学部の創設という具体的な形となった。この人文学部創設には初代人文学部長を務めた高津春繁(こうづ・はるしげ 1908-1973)前東京大学教授の役割が大きい。世界的数学者と言語学者という異なる分野の知性の邂逅をふりかえる。 ■長イスでの長考——文学部ではなく、Humanities 人文学部へ  自宅の南に向いた居間に置かれた長イスには、冬の穏やかな陽が舞い降りていた。1967年、師走半ば、東京大学教授高津春繁は、昼食後この長イスに横たわり、陽射しに包まれながら2時間以上も瞑目したままだった。比較言語学、ギリシア文化を中心とする西洋古典学の大家は、どんな小文でも大著でも、なにかを纏め決断するときには、この長イスで沈思黙考するのが習わしだった。やがて、陽が傾き部屋が薄暗くなった頃、高津はゆっくりと起きあがると机上のメモに力強い字でこう書き留めた「Humanities 人文学部」。  高津は神戸市にうまれ、旧制第六高等学校から東京帝国大学文学部言語学科に進んだ。卒業、オックスフォード大学に留学。帰国してすぐに辻直四郎(つじ・なおしろう 古代インド学・言語学)から引き継ぐ形で東京帝大の講義を受けもった。その内容をもとに上梓した『印欧語比較文法』は今でも比較言語学の研究者が避けて通れぬ1冊であり、さらには19世紀には受け入れられなかったソシュールの評価にもつながった。1951年には東京大学文学部教授に就任、第3代日本西洋古典学会会長も務め、呉茂一(くれ・もいち)とともに西洋古典学、とくに古代ギリシア文学研究の泰斗となっていた。  高津が師である辻から、「経済学部単学部の武蔵大学が『文学部』を増設する計画がある。ついては学長の正田建次郎氏と会ってほしい」といわれたのはその年の秋のはじめである。理知的だが義に篤い高津にことわる理由はなかった。  正田建次郎武蔵大学学長・武蔵高等学校中学校校長(当時)に高津が学士会館で面会したのは秋も深まった11月である。そして師走はじめには、正田邸で辻と桂壽一(かつら・じゅいち 哲学者)を顧問に招き、新学部創設のミーティングが行われた。この席には上野景福武蔵大学教授らも参加。高津が正田学長以外の武蔵大学の関係者と接触したのはこのときが最初のようだ。  高津はもちろん正田建次郎の名前は知っていた。武蔵の創設者根津嘉一郎の親友である正田貞一郎の次男にして皇太子妃(当時)の叔父、そしてなにより世界的な数学者であるとともに大阪大学中興の祖といわれた学長としての実績は、専門の異なる高津にとっても十分認識できていた。    だが、高津は学士会館での初面談と会合で、人間としての正田建次郎のスケールと魅力に惹かれてしまう。正田学長の堂々たる体躯に矛盾しない、細事に動じない大らかさと真摯な態度。学問に対する志の高さと造詣の深さ、さらに新学部創設への熱い思いに高津は大きく心を揺さぶられたのだ。 ■哲・史・文、全てを包括——人間の人間たる理由を培う人文学部=LIBERAL ARTSへの旅たち  新学部創設に向けた第1回会合からほどなく、高津は正田学長に招かれて武蔵を訪ねた。大講堂から濯川、そして諸施設を正田学長直々の案内で見学したが、敷石の1枚、樹木の1本にまで学長の思いがこもっているのを高津は感じた。それは、一貫して官立で学び教鞭をとってきた高津にとっては私学ならではの緻密かつ和らいだ空気感だった。高津はまた、そのときに武蔵高等学校の教育プログラムにも強く関心をもち、後に久美子夫人に「あのような高校で教えてみたい。いや、もう一度生徒になって学んでみたい」と語っている。  かくして、「あの学長のもとでなら」と、高津は武蔵大学文学部創設に協力する意志を固めた。しかし学部新設には、さまざまな準備作業、人事や財務面の計画立案や交渉などが山積した。根っからの研究者であり、けして実務派ではなく、しかもすでに専門分野では大家であった高津だが、年末から翌春にかけてはまさに「師走」を過ごすことになった。翌年には東大の定年退官を控え、それ以後は愛してやまないギリシア研究に没頭することが高津の計画だった。だが、正田学長との出会い、抽象代数学と比較言語学という狭義では異質な分野の、しかし広義に言語・記号に水源をもつ智という意味では、重なりあう部分をもつ学問の専門家同士の邂逅が生み出した熱量が高津をつき動かした。  高津の人文学部創設への思いは、以下の文部省に提出された人文学部設置認可申請書のなかの「設置要項」に明確に示されている。  「人文学はもともと、ローマのキケロによって提唱せられたhumanitasに由来し、人間形成のために必要な諸々の知識と、その結果の正しい応用を意味した。それが中世から文芸復興期にいたるとlitterae humanioresとして西欧における教育の基礎と見做され、ギリシア、ローマの言語への深い理解の上に立ち、文学、思想、歴史はもとより、広く芸術全般、これらを培い育てる社会そのものに対する把握を加えて織り成された高い叡智を教養する学問と考えられたのである。  新たに設立を計画している人文学部は上述のような、人文学に対する理解にもとづき、広い視野をもつ人材の育成を主眼とする。学部は欧米文化学科、日本文化学科、および社会学科の三学科をもって構成される。前二学科において「文学」の名称をさけて、あえて「文化」とした理由は、人文学に対する上述の基本理由から、在来の文学部に見られるような晢・史・文の狭い垣根を意識的に除去し、人間存在と文化伝承の中心をなす言語の習熟を基盤に、広く思想、文学、芸術、政治、経済、社会等に関する専門知識を授けて、幅と厚味のある人格の養成を目指したためである。欧米文化学科と日本文化学科の併設を意図した理由は、西欧文化の中心的担い手である英・独・仏三民族の文化や生活、その深い影響の下に独自の新旧文化の文脈を形成しつつある日本民族の生活や文化に対する相互理解と専門的研究の必要を痛感したが故である。また、社会学科は、東西文化交流の一拠点として、独特の状況を展開しているわが国社会構造全般の解明を中心に、制度や文化を運載する生活共同体そのものの維持発展に対する偏らない把握をねらった科目を編成している。  とくに、専門教育課程に豊富な共通科目をおいたことは、前記理念を卒直に具体化したものであって、在来の縦割りシステムからくる独善的なセクショナリズムの弊を排除しつつ、人間形成のために必要な専門知識を広く習得させる意味をもち、本学部の特色の一つとするところである」 ■ソークラテースやプラトーン、アリストパネースのように    かくして1969年2月8日、武藏大学人文学部の設置が認可され、同月末と3月に2期に分けて入学試験が行われた。定員は欧米文化学科100名、日本文化学科50名、社会学科100名である。  4月1日、武蔵大学人文学部が開設され、初代学部長に高津が就任した。8月には3号館の学部増設に伴う改修工事が完成し、人文学部研究室、学科研究室、演習室、教室などが整備された。単学部単学科でスタートした武蔵大学の新たな旅たちである。おなじく4月には大学院経済学研究科経済学研究科選考修士課程も設置され、学園創立50周年事業は着々と進んでいた。また、秋には正田建次郎学長・校長が文化勲章を受賞するという慶事もあった。  しかし、1968年ごろからから大学立法や沖縄返還協定、日米安全保障条約自動延長などをめぐって「学生運動」が全国に広がっていた。武蔵大学もそれと無縁ではなく、さらに学費改定とあいまって学生集会やストライキが行われた。学生側の要求する団体交渉は、野次と怒号が飛び交う交渉とは呼べないものだったが、正田は学長として、高津は学部長としてできるかぎり学生の声に耳を傾けた。そうした大学紛争への対応は両名にとっては大きな心労であっただろう。  高津は人文学部の準備中から「第1回の卒業生が出た際には、彼らとともにソークラテースやプラトーン、アリストパネースのように酒を酌み交わしながら学問を、社会を、そして人生を語り合いたいものよ」と夫人に語っていたという。また、一日も早く大学院での専門の講義をできるようにと準備もしていた。  高津は1972年、紫綬褒章を受賞した秋ころから体調をくずし、学部長を努めることが困難になり療養生活に入った(上野景福教授が学部長代理)。明けて73年3月には第1回人文学部卒業生284名が誕生し、4月には高津の念願だった大学院人文科学研究科が開設するが、5月4日高津春繁はその研究と学生の育成に捧げた生涯を閉じた。  正田建次郎学長・校長は、1975年、新制度により設けられた学園長に就任し、武蔵学園全体の発展に尽力したが、1977年3月20日、講演先の足利市で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。武蔵高等学校中学校卒業式の翌日だった。  正田建次郎が武蔵で過した12年間のエピソードについては、あらためて紹介したい。 ※タイトル写真=正田建次郎初代学園長(左)、高津春繁初代人文学部長 写真1枚目=1969年度の武蔵大学の学生募集ポスター 写真2枚目=日本文化学科の演習報告書 写真3枚目=1973年3月21、人文学部第1回卒業式で卒業生一人ひとりと握手する正田学長(中央)。この卒業式(学位授与式)での学長と学部長による 握手による送りだしは現在も続いている  
2018.07.09
清濁を呑み今日も流れる
濯川(すすぎがわ)物語
 武蔵学園内を流れる濯川は、春の桜、初夏には新緑、秋は紅葉と、四季の移ろいを水面に映しつつたゆとい、生徒・学生・教職員のみならず近隣の人びとや訪問者に安らぎと潤いを与えている。校内に池や噴水などの水がある学校は少なくないが、川が流れる学校は稀だ。  武蔵学園の魅力のひとつに23区でありながら校地の自然の美しさが挙げられるが、濯川は大欅とともにその象徴といえる。 ■320年前からの流れーー千川上水中新井分水  濯川という名称は古来よりのものではない。その起源は元禄9(1696)年、5代将軍綱吉の時代まで遡る。この年、綱吉は江戸城以北の飲料水確保の名目で玉川上水を水源とする上水の開削を指示し、現在の武蔵野市と西東京市の境界付近から取水された水は、巣鴨から地中に埋めた木樋を通り、湯島、本郷、白山、外神田、浅草の一帯を潤した。しかし一方で、綱吉の小石川の別荘、湯島聖堂、寛永寺、浅草寺、さらに綱吉が重用した柳沢吉保の下屋敷(六義園)にも大量の導水がなされた。  総距離は22キロメートルに及び、高低差は約40メートル。寛永時のある上野の台地にもサイフォン効果で水をあげる技術が用いられていた。設計は政商の河村瑞軒。開削には仙川村太兵衛、徳兵衛があたった。この二人は後に仙の字を改め千川の姓が与えられ水流の管理も委託された。「千川上水」の名はここからである。   その10年後、それまで天水に頼り幾度も干害に苦しんできた千川上水沿いの20か村から農業用水としての使用が嘆願され、現在の練馬区、豊島区内7か所から分水が引かれた。当時としてはかなり規模の大きい灌漑、Irrigationであり、なんと米田1反歩あたり玄米3升の料金を取っている。この7分水のひとつが中新井分水で、正確には中新井分水は3本あり、その1本が大講堂裏手から武蔵学園内を抜けて東門の先の北新井公園付近から目白通りを横切るように南下して国立中野療養所跡地手前で中新井川に合流していた。 ■命名「濯川」———憂国の詩人、屈原の漢詩から  大正11(1922)年の武蔵開校時には、中新井分水は幅30センチメートルほどの細い流れだった。生徒たちは運動の後に手を洗い、近隣の人びとが野菜を洗ったりもしたと記録にある。その後、武蔵の生徒たちが授業として川幅を広げ、橋を架け、島も築き、大正14(1925)年に山本良吉教頭によって「濯川」と命名された。  出典は、BC4世紀からBC3世紀に活躍した楚の詩人、屈原の以下の詩による。  滄浪之水清兮 可以濯吾纓 滄浪之水濁兮 可以濯吾足 「楚辞」巻七「漁父」  滄浪(そうろう)とは揚子江支流の漢水下流のことで、纓(えい)とは冠の紐の呼称だ。詩の大意は「滄浪の水が澄んでいるなら冠の紐を洗い、もし濁っているのなら自分の足を洗う。すなわち世の清濁に応じて生きよ」である。  屈原は文学的才能のみならず政治にもすぐれ、かつ強力な愛国者であった。しかしできすぎる者は妬みと嫉みの標的になる。屈原は、楚にとって西方の脅威である秦との同盟を思いとどまるよう楚王に進言したこことがきっかけとなり、地方に左遷されてしまう。この詩は、傷心の屈原が、漁父に出会い「潔白にストレートに生きたい」と主張したことに対する漁父の助言に感銘をうけて書かれたものだ。  命名者の山本良吉は昭和3(1928)年の「同窓会報」に次のような一文を寄せている。  「(前略)川の水、時には澄み、時には濁る。丁度われ等の心が時には晴れ、時には曇ると同じく、又人生の運に時には幸があり、時には不幸があると同じである。いづれ二元の間に徘徊するわれ等は、この川が二相を呈するのを咎めむべきでもあるまい。清い時には清きに処し濁った時には濁りに処する。幸が来れば幸を受けん、不幸が来れば不幸を迎へん。この小川が自身の清濁を一向知らず顔に、ゆるゆる、しかも止まずにその流れを続ける如く、われ等もわれ等の道を辿りたい。川沿いの木、今は尚小さいが、他日それが大きくなって、亭々として天を衝くとき、今の諸生が その下逍遙して、想いを今昔の間に回らせば、かならず感にたへないものがあらう。今諸生が見るその水はその頃には流れ流れて、いづこの果に、どうなってあるか考えることもできまい。しかし在る物は永遠に消えぬ。独り水辺 に立って、静かに行末を思ふと、われ等の心は自然に悠遠に引きこまれて行く。・・・・・ 昭和3年8月9日 久雨始めて晴れた朝、 山良生」 ■千年後へのメッセージ、八角井戸、そしてケム川幻想  千川上水は、戦後、近郊農業が減少していくなかで農業用水としての役割を終え、暗渠化して下水道に転用された。濯川も学園60周年記念事業として1985年に蘇生作業が行われ、現在は一の橋から玉の橋の間で循環しており千川とは繋がっていない。上流の水源(地下水)には八角井戸が埋められており、これには武蔵の祐筆として多くの書を遺した矢代素川氏の筆による前述の屈原の詩が記されている。この井戸は平城京跡から出土したもののレプリカで千年の後までも思いを伝えたいという心映えが込められている。  屈原はその後、楚の首都陥落に絶望し汨羅江(べきらこう)に入水するが、彼の詩形はその後の漢詩の源流のひとつになっていく。  校内に川の流れる学校は稀だと冒頭に書いたが、山本良吉は、University of Cambridgeを流れるRiver of Cam(The River Camとも表記。ケンブリッジ大学の校名の由来)のイメージを濯川に対して抱いており、当初は「武高のケム川」と仮称していた。山本は武蔵開校の1年前、欧米を視察した際にケンブリッジを訪問しケム川を舟で周遊しており、ケム川とその周囲の森から幾多の偉人、世界の運命にかかわる人材が輩出されたことへの憧れと尊敬を書き残している。  アカデミズムにとって、豊かな自然環境が教員、書籍、施設、教材などと同様に、いやそれ以前の基本的要件として必要であることを山本は確信していたのだろう。  その豊かな自然をこれまで守り抜いてきたことは、武蔵学園の誇りであることはまちがいない。 タイトル写真=紅葉の濯川。中流の欅橋から上流を臨む 写真1枚目=新緑の濯川。中の島付近 写真2枚目=下流の玉の橋周辺の改修作業を行う8期生。1933年撮影 写真3枚目=現在の濯川水源、八角井戸
2018.07.03
「はやぶさ」イオンエンジン開発者
國中均「深宇宙への夢」
  ☆……2014年12月に打ち上げられた小惑星探査機「はやぶさ2」は、2018年6月27日、3年半の旅を経て「Ryugu」の上空20キロメートルに到着した。これから精密な探査や岩石などのサンプル採取を行い、2020年末の地球帰還を目指す。往復58億キロメートルにおよぶ飛行の主な推力であるイオンエンジンは、奇跡の帰還物語で感動を呼んだ初代「はやぶさ」に搭載されたものの改良型である。このイオンエンジンの開発者が、JAXAの國中均(くになか・ひとし)教授は武蔵高等学校53期の卒業生だ。幾多の困難をのりこえ、「自ら調べ自ら考え」「宇宙に雄飛」した「はやぶさ」と國中教授の物語 ■太陽観測部で培った宇宙への憧れ  2003年5月の打上げから7年、小惑星イトカワのサンプルを携えた探査機「はやぶさ」は、60億㎞の旅を経て、2010年6月13日、地球に帰還した。往路は比較的順調だったが、イトカワへの着陸失敗と再試行の後、「はやぶさ」は通信が途絶し3年間も帰還が遅れる。その帰路にも予定を超える長時間飛行や着陸失敗による損傷のため、「はやぶさ」は幾多のトラブルに見舞われた。当初の予定では「はやぶさ」は地球の衛星軌道でサンプルカプセルを切り離し、本体は無限の宇宙の果てに旅に出るはずだった。しかし、すでに満身創痍だった「はやぶさ」は、確実にカプセルを地上の安全な位置に落下させるため本体ごと大気圏に再突入する。「はやぶさ」は最後に地球を撮影して故郷を見とどけると、カプセルを切り離し、自らは分散焼滅し全ミッションを終えた。  「はやぶさ」の想像を絶する長旅の主動力を担った「イオンエンジン」。その開発責任者が、武蔵高等学校53期卒業生の國中均氏だ。國中氏は武蔵在学中には「太陽観測部」に所属し宇宙への夢を膨らませた(はやぶさのティームには太陽観測部の後輩も2名参加)。卒業後は京都大学、東京大学大学院に学び、28歳で現在のJAXAの研究員となった。  イオンエンジンはマイクロ波を使いプラズマを作る電気推進機関で、燃料を燃焼させる化学エンジンに比べてはるかに効率がいい。推進力は1円玉を2mくらいの高さから落とした程度だが、宇宙空間ではパワーよりも耐久力が重要だ。そのため國中氏は18000時間の耐久試験を2度行った。1年は約9000時間だから4年間である。試験はイオンエンジンを真空装置に入れてコンピューターによる自動制御で行われたが、そのプログラム作りも試行錯誤の繰り返しであり、國中氏たちは夏休みも正月も返上し、夜中でも連絡があれば実験室に駆けつけたという。「はやぶさ」のプロジェクトは、イオンエンジンのみならず各部門において緻密な作業が長期間にわたって行われ、その積み重ねがサンプルリターンを成し遂げることになった。奇跡は周到な準備の結果である。 ■火事場の馬鹿力、110%の5乗  「はやぶさ」のイオンエンジンは世界初の実用化でもあった。「はやぶさ」は4機のイオンエンジンを搭載し、計算上は、29000時間の連続飛行が可能だった。しかし宇宙空間では予測不能な事態もおきる。そこで國中氏は「万が一」に備え、エンジンと中和機の組み合わせを変更できるシステムを組みこんだが、これが帰路のエンジントラブルを救うことになった。國中氏はいう「通常の機械は作る人と使う人がちがいます。だからその能力を万が一にそなえて90%で用いるように作られます。『はやぶさ』は基本的に5つのシステムなので、この方式だと90%の5乗、6割弱の力しかでない。ところが、『はやぶさ』は作り手と使い手がいっしょ。だから協力して休ませたりがんばらせたりすることで110%の力がでる。そうすると110%の5乗という力になる。いわば火事場の馬鹿力です」。  とはいえ、「はやぶさ」が1回目のイトカワタッチダウン(着地)に失敗したとき、國中氏は「お願いだからこれ以上壊さないで。もう帰ろうよ」と思ったと、同窓会の会合で語られた。結果的には、「はやぶさ」は再度タッチダウンを試み、サンプル採取に成功する。 ■未来はあるものではなく創るもの  持ち帰ったイトカワ資料の分析は進み、すでに3000以上もの、ミリからミクロン単位のイトカワ由来のサンプルが検出されており、その3倍程度はさらに見つかるといわれている。かつては望遠鏡で点にしか見えなかったイトカワをついに顕微鏡の世界でとらえることができたのだ。これらのサンプルは、一切地球の外気にふれさせてはいない。また、全体の約3割は手をつけず、未来でよりすぐれた分析方法、知見が生まれたときのため、まだ見ぬ研究者たちのために保存されている。  その後、2014年には「はやぶさ2」が打ち上げられ、小惑星リュウグウを目指して順調に飛行している。國中均氏は今回もイオンエンジン改良型μ10の開発と、さらに打ち上げ時のプロジェクトマネージャーを担当した。  リュウグウには炭素系の物質があるとされ、サンプルに有機物が含まれていれば、地球の生命起源と小惑星衝突との関係を知る縁(よすが)となることが期待される。   國中氏はイオンエンジンのように「ゆっくりでも進めば届く力」を追求することで、さらなる「深宇宙探査の夢」の可能性を語る。そのためには、もっと短い間隔での実験研究ができる人的、経済的態勢が必要だという。  「はやぶさ2」の打ち上げが成功した日、國中氏はメディアの「今回も感動を与えてください」という呼びかけに、こう答えた。「もう物語はいりません」。國中均氏は根っからの技術者である。 ※タイトル写真=2015年11月14日に本校大教室で開催された國中教授の特別授業『新領域への挑戦が切り開く宇宙活動』から 写真1枚目=同授業で生徒とディスカッションする國中教授 写真2枚目、3枚目=同授業での國中教授のメッセージ ※撮影 岸田生馬(武蔵高等学校中学校教諭)
2018.05.25
凛烈な冬空で道を示す星座の人
山川健次郎(1854-1931)
『山川健次郎日記』にのこる武蔵創立前夜 ☆……2018年は明治維新から数えて150年目にあたる。この年の1月、安倍晋三首相は国会の施政方針演説で明治政府軍と闘った会津藩白虎隊の隊士だった山川健次郎の名をあげ、会津降伏後、エール大学に留学し日本最初の物理学博士となり、東京帝国大学総長を二度務め、京都帝国大学(兼任)、九州帝国大学総長も歴任した山川の業績を讃えた。武蔵には東京帝国大学総長時代からその設立に関わり、晩年は第2代校長を務める山川健次郎と武蔵の出会いの物語。 ◎秋夜の電話――10月3日午後4時青山へ  彼岸過ぎにしては冷える夜だった。東京帝国大学総長山川健次郎は、毎夕晩酌を楽しむと早々に床に就くのを習慣としていたが、電話がその慣習を破った。1919(大正8)年9月28日のことである。灯りはすでに電燈であったが、当時の夜は東京市街地でも暗い。吹き抜けの渡り廊下を抜けて電話室に向かう健次郎の左右はまったくの闇だった。  健次郎の自宅は北豊島郡西巣鴨、現在の池袋駅の北西にあった。会津出身、白虎隊の生き残りであり、弱冠17歳でエール大学に留学し、土木と物理を学んだ健次郎は、1910(明治43)年に自ら設計してこの家を建てた。耐震と通気が精密に計算された構造は、採光にも優れ、南向きの居間には真冬でもおだやかな陽ざしがさしこんだ。敷地は男爵にふさわしく7000㎡ほどもあったが、内部は来客が驚くほど装飾がなく美術品の類いも一切見当たらなかった。  健次郎にとって家は住むことができればよく、広さは「来る者を受け入れるため」という持論によるものだった。事実、このとき健次郎は二度目の東京帝大総長の任にあり(50歳で一度退官、その後は明治専門学校総裁、九州帝大総長を歴任し58歳で再び東京帝大総長に就任、さらには1年間京都帝大総長も兼任した)、理化学研究所顧問、帝大航空研究所所長(この5日前に就任)など多くの要職を兼ねていたため、きわめて来客が多かった。この日は日曜日で健次郎は終日在宅したが、朝から学生が運動会の相談に来るなど(ていねいに話を聴き助言している)夕刻まで訪問者が絶えなかった。    電話の主は、法学博士にして臨時教育会議総裁の平田東助だった。健次郎も同会議の委員であり、また学習院評議会の会員どうしでもあった。すなわち当時の日本の教育界の重鎮から重鎮へのホットラインである。平田の話は根津嘉一郎と文部官僚の本間則忠を紹介し、「両名が私立学校をつくることを計画しているので協力してほしい。ついては相談の会を10月3日午後4時に青山の根津邸(現在の根津美術館)で開くので参加できないか」というものだった。平田はまた、会のメンバーとして北条時敬(学習院長)、一木喜徳郎(元文部大臣・枢密顧問官、後に武蔵高等学校初代校長)、岡田良平(文部大臣・一木の実兄)らの名をあげた。いずれも教育界を代表する錚々たる顔ぶれである。なかでも岡田は文部大臣として臨時教育会議をおこし、義務教育の国庫負担への道を開こうとしていたが、もうひとつ、国立の旧制高校しかなかった高等教育の拡充という大仕事をこの臨時教育会議のタスクとしていた。  武蔵高等学校の誕生は、根津嘉一郎という一個人の社会貢献への篤志と、その思いを学校というかたちで実現させるべく勧奨した本間の情熱のコラボレイションにあることはまちがいないが、時代も国もその志をささえるべく動きだしていたといえる。  古武士の精神と物理学者の合理性を兼ね備えていた山川健次郎の決断ははやい。その場で平田に承諾する旨を伝えた。しかし、健次郎はめずらしくその晩に風邪をひき(長身で頑健だった)翌日から2日間、休みをとった。 ◎幻の「山川健次郎日記」秋田公文書館で発見  武蔵高等学校設立の経緯は、財団法人根津育英会設立時以降は克明な記録がのこされており、『武蔵学園史年報』や『武蔵七十年史』などに紹介されている。それらは来る「武蔵百周年」に刊行予定の「正史」の貴重な史料となるが、財団設立以前の経緯については根津嘉一郎に熱弁をもって学校設立後を決意させ、実務を取り仕切った文部事務官の本間則忠が理事会宛にのこしたメモ(『武蔵学園史年報』創刊号掲載)と関係者の日記や伝記などを辿る以外になかった。  それらを詳細に照らし合わせていくと、できごとの日時や話し合いの経過などにくいちがいが散見される。なかでも本間メモは、これまでの研究で意図的かどうかは別として日時の誤記と思われるものがあるとされてきた。  こうした謎を解くのは、より信憑性の高い同時期の記録を見つけだすしかないが、有力な史料が2012年に秋田県公文書館で発見された。それが『山川健次郎日記』の写本である。  健次郎の日記は彼の伝記『男爵山川先生伝』(1939)などから、その存在が示されていたが、東京大学、京都大学、九州大学、武蔵学園、福島県立博物館など、健次郎の史料を保管している施設には日記に関するものはなかった。2001年に古本市に出たという情報があるのみで、健次郎のこの時期に直筆日記と手帳は未だに発見されていない。  4年前に発見された今回の日記は写本ではあるが信頼のおけるものであることが判明した。日記はときとして文学者のそれのように「読まれること」を意識して創作要素が含まれるので注意が必要だが、健次郎の日記は歴史的事実と整合し、さらに史料価値の高い北条時敬の日記とも一致する。ただし、この写本がなぜ秋田県公文書館に保管されていたのかはさらなる調査を待たねばならない。 ◎会津のほこり――星座の人  日記には10月3日の根津邸での会合についても書かれている。この日付は北条日記とも一致し、本間メモの「初の協議会は12月28日」という記述は誤りであることがわかる。この日は金曜日で健次郎は朝から東京帝国大学に出校し、総長室や食堂などで来客に追われているが、午後4時の会合には間に合い(時刻も記されている)、健次郎は学校をつくるなら実業補習学校のようなものと意見を述べている。根津嘉一郎が用意する資金は200万円(実際には360万円を超えた)で、1万坪の土地は取得済みであるとの記述もあり、健次郎はそうしたドキュメントを手帳に記録、帰宅して日記に書きなおしたと思われる。会議は各自が意見を述べるのみで終わり、次回を約束して宴会になった。「根津氏の丁重なる饗応」と健次郎は書き、北条も「日本式念入りの馳走」と記している。  夜更けて、健次郎は根津家の自動車で北条時敬とともに帰宅する。車は青山から目白の学習院を経て池袋の山川邸へ深夜の東京を急ぐ。その加速は動きはじめた日本の高等教育そのものだった。車内で健次郎と北条はどんな会話をしたのだろうか。  この会合で結論は出なかったが、根津嘉一郎と根津の相談相手で親友の宮島清次郎(日清紡績社長)、正田貞一郎(日清製粉創業者)は「七年制高等学校」という本間が建てたプランで進めるという腹は据わっていた。健次郎の日記にも北条の日記にも、2日後の10月5日の日曜日に、本間則忠が学校設立の具体的計画を大量の資料を携えて説明しに来宅したとの記載がある。そうした本間のすばやい動きは本間メモにはない。  翌1920(大正9)年、健次郎は66歳で東京帝大総長を退官する。その翌年秋、財団法人根津育英会が設立され、健次郎は顧問・評議員となり、1926(大正15)年には一木喜德郎(宮内大臣就任のため校長退任)の後を継いで武蔵高等学校第2代校長となった。ときに健次郎71歳である。  山川健次郎を語るとき、彼の会津藩への思いを切り離すことはできない。朝敵の汚名を晴らすことと白虎隊の悲劇を語り続けることは彼の後半生の最大テーマだった。博士となり帝大総長となった健次郎を会津の人びとは頭上で輝いて道を示す「星座の人」と呼んだ。その学識とマネジメント力、そして何より高潔な人格は、当時の教育者、科学者、学生、さらに武蔵にとっても、オリオン座のように凛烈な冬空に雄雄しく舞い立っていたといえよう。  健次郎の会津と白虎隊への深い思いに感動した根津嘉一郎は、健次郎が武蔵校長就任の年、荒れ果てていた白虎隊の墳墓の整備資金を寄付するが、そのエピソードの詳細は次の機会にしたい。  山川健次郎は1931(昭和6)年の年明けに病を得て入院、3月に武蔵校長を辞任する。桜の頃には退院するが再び悪化し、6月26日の午前、息をひきとった。幕末から昭和まで走りぬけた77年間の激動の旅だった。   タイトル写真――会津藩校「日新館」(1987年に移築・再建)入口の山川健次郎像 写真上――武蔵高等学校第2代校長時の山川健次郎 写真中――第1代校長一木喜德郎と山川健次郎 写真下――飯盛山の白虎隊の墳墓   主な参考文献 ・『山川健次郎日記』(2014・尚友倶楽部史料調査室・小宮・中澤)  ・『男爵山川先生伝』(1939・故男爵山川先生記念会) ・『武蔵学園史年報』創刊号(1997・学校法人根津育英会)  
 
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