第1回入学式写真
根津育英会武蔵学園は2022年4月17日で創立100周年を迎えました
武蔵学園史紀伝
戦時下の武蔵
―空襲を中心として―
庄司潤一郎

はじめに

 

 1944(昭和19)年7 月のサイパン陥落を契機として、米軍の日本本土への空襲が本格化し、当初は航空機生産工場(例えば、東京近郊では中島飛行機武蔵野製作所など)が重要目標とされたが、次第に一般の市街地にまで広がり無差別爆撃となった。したがって、武蔵も例外ではなかった。

 武蔵が所在する練馬区(当時は板橋区。1947 年8 月に板橋区から分離独立)には、航空機生産工場は所在しなかったが、成増飛行場(光が丘)、造兵廠練馬倉庫(練馬北町)、無線電信講習所(高松)、電波兵器学校(上石神井)、中島飛行機社員住宅(関町)などの軍事関係施設があった*1。一方、戦時中、武蔵の敷地内にも、「久保部隊」と称する軍事施設が置かれていた。

 

1.「久保部隊」

 

1)部隊の設置

 

 「教務日誌」など武蔵の資料によると、1944(昭和19)年8 月に関して、以下の記述がなされている。

 

・8 月4 日:「防衛司令部(※)建築班に三階を貸与し机の移動を行えり」

・8 月22 日:「本校舎3 階の一部を陸軍防衛司令部建築班(久保部隊)に徴発される。(校長室は講堂に移った)」

・8 月28 日:「久保部隊在宿の下士十数名に限りプールの使用を許可した」

※正しくは「防衛総司令部」

 

 防衛総司令部は、1941年7月12日、「関特演」実施に伴いソ連爆撃機の来襲が予想されたことから、本土防空を念頭に、「防衛に関し東部、中部、西部、北部、朝鮮及び台湾各軍司令官並びに所定の航空部隊を指揮する」ことを任務として、編成された。

 1944 年5 月5 日、防衛総司令部は、本土防衛作戦を強化するため、新任務を付与され臨時増員がなされた。新任務は、「皇土(内地)の防衛」、すなわち防空、離島・本土沿岸要域の防衛などで、予想される本土決戦に備えるためであった。7 月17 日には、満州所在の防衛築城部が、防衛総司令部の編制に編入され、防衛総司令部の築城能力の強化が図られた(築城とは、要塞、陣地、砲台などの構築)。20日には「本土沿岸築城実施要綱」が指示されるに至る*2。

 こうした経緯から、防衛総司令部の一組織が武蔵に配備され、資料では、「建築班」となっているが、同様に「久保部隊」とあることから、正確には「築城部」と思われる。すなわち、「久保部隊」の「久保」とは、久保禎三陸軍少将のことで、当時、防衛総司令部築城部長であった(のち中将、第4 野戦鉄道司令官)*3。

 翌1945 年4 月1 日の「公文書綴 校舎転用関係書類」には、「転用先:陸軍防衛本部築城部隊築城班、及東京第二造兵廠。転用:一一七八坪(総坪数:二、八四〇坪の内)」との記載があり、6 日には、校舎2 階の一部が陸軍防衛本部築城

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