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あとがき
武蔵学園百年史刊行委員会 委員一覧・作業部会員一覧・『主題編』執筆者一覧
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『武蔵学園百年史』の編纂をほぼ終えて、『通史編』、『主題編』を通覧し、あらためて武蔵百年の歴史とは何であったのかを考えている。刊行委員会としての公式の立場で言えば、それは読者各自の思うところに任せて、学園としてはあまり価値観の押付けにならぬようにするというのが方針であり、また実際に出来上がった百年史も概ねその方針に沿って完成されたとは思っている。しかし、あとがきの限られた紙数の中で、僅かにこの学園の100年の歴史評価にふれることをお許し願いたい。
旧制七年制高校期についていえば、尋常科- 高等科ひとつながりの私立高等学校のモデルとしての役割があげられる。それは従来帝国大学の予備門的な色彩の強かった三年制の高等学校を変革し、生徒の少年期から青年期7 年の通期で、大人としての大学生になるに十分な教養を授け育むという新しい試みであった。武蔵は、成蹊、成城あるいは公立の東京高校などとともに、その変革のフロントランナーであった。が、戦前の教育史の中でもこの七年制高等学校は、全体の中では少数にとどまり、主流とはなりえなかった。ただ、創立者根津嘉一郎の絶大な支援の下に、戦前の武蔵が「生徒たちにほんとうの学問を授ける」という意味でかなりの程度に理想的な環境を提供してきたことは、特筆してよいことと思う。
戦後の教育改革後、武蔵大学(経済学部)の設立、新制武蔵高校中学の発足から、50周年記念事業による人文学部設立と高校中学の江古田キャンパス南側への移転までの期間は、武蔵にとって自らのアイデンティティを求める模索の期間であったといえる。戦後初期にはそもそも学校経営が成り立つかどうかも定かではなかったし、私立学校としての独自性(ユニークネス)の根拠を何処に求めるかを巡っても学内に十分のコンセンサスはなかったように思える。
50 周年記念事業後の武蔵は、外から見れば、大学については中堅の文系総合大学、高校中学については都内屈指の進学校の一つという比較的わかりやすい特色を出すことができた。しかし実は「中堅大学」や「進学校」は武蔵が自ら求めたものとは言えず、むしろ大学については「ゼミの武蔵」が、高校中学については「自由な武蔵」が各々の内なる存在証明であったように思える。
その後の半世紀についていえば、歴史の評価はまだ定まっていない。が、百年史の掉尾の十数年間、武蔵が、全国の多くの教育機関と比較しても、かなり大きな改革に取り組んでいることは、百年史を読んでいただければ、お分かりいただけることと思う。その一端を披歴すれば、三理想の一つである「世界に雄飛するにたえる人物」を育てる国際化教育であり、そのための基盤としてのリベラルアーツ&サイエンス教育であり、さらには従来並立していた大学と高校中学の関係をより緊密化しようとする高大連携の取り組みなどがそれである。
さて、最後に第8 代の高校中学校長であり、その後学園記念室にも長く在籍された大坪秀二氏のことについてふれたい。大坪氏は、とくに百年史の中では、第3 代校長山本良吉氏と並んで、それぞれの時期の武蔵高校中学の姿かたちを形成するのにもっとも影響力のあった人物であり、当然『主題編』の中で評伝に取り上げられるべき教員の一人でもある。が、あえて『主題編』の「対象」から外したのは、故人ではあるが大坪氏を私たち『武蔵学園百年史』編纂に携わる同僚の一人、あるいは「百年史の書き手」として位置づけたためである。『主題編』には、大坪氏の手になるいくつかの原稿をそのまま採録している。そればかりではなく、通史編も含めて、すくなくとも『武蔵学園百年史』の前半部分については、学園記念室における大坪氏の活動がなければ、成り立ち得なかったことをここに記して、謝意を表したい。