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通史編

本扉

I 根津育英会武蔵学園

II 旧制武蔵高等学校の歴史

III 武蔵大学の歴史

IV 新制武蔵高等学校中学校の歴史

V 根津化学研究所

VI 武蔵学園データサイエンス研究所

年表

奥付

主題編

本扉

旧制高等学校のころ

大学・新制高等学校中学校開設のころ

創立50 周年・60周年のころ

創立70 周年・80周年のころ

創立100周年を迎えた武蔵

あとがき

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資料編

武蔵文書館

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多才の人、有馬朗人学園長(三澤正男)
有馬朗人前学園長
創立百周年を見届けることなく

有馬朗人学園長が2020 年12 月6 日、白玉楼中の人となられた。同年9 月に、満で卒寿を迎えられたばかりだった。

筆者が有馬学園長に直接拝眉したのは学園記念室長を定年で退任するまえの2018 年1月が最後だが、非常勤の研究員になってからも登室日の朝、有馬先生が登校されるところによく出会った。

有馬先生は正門を入ってすぐに学園長車を降りられ、少し背をかがめて杖もおつかいにならずゆっくりと学園長室のある8 号館まで歩いていかれるのが常だった。おひとりでおつきの方もつけず、車を8 号館に横付けすることもなかった。学園長車はそのまま右折して守衛室横の駐車場に向かった。学園内での自動車の移動を最小限にしたいという先生のお心遣いだったと想像する。たまにタイミングがあったとき「学園長、おはようございます」とごあいさつすると、先生は「はい、おはよう」とにっこり微笑まれた。

2022 年に武蔵学園は創立百周年をむかえた。有馬先生はそのときも、お元気で学園長をされているものと筆者は無邪気に思い込んでいた。すべての学園関係者もおなじ思いだったろう。毎年の新年の会のごあいさつ、大学、高中の式典での祝辞は、いつも凛として、きびしくも愛情に満ちていた。齢をかさねられるごとにおことばがみずみずしくなられるのは驚異的だった。

創立百周年を機に「武蔵正史」を刊行することは、太田博太郎学園長時代の30 年以上まえから決まっており、筆者は学園記念室長を務めていたとき、「武蔵学園百年史刊行準備委員会」、さらに「同刊行委員会」とその作業部会の立ちあげを行った。これらの委員は大学、高中の教員、法人の職員から選ばれるが、規程上、学園長から委嘱するかたちになっている。

そのためにアポイントメントをとり、何回か有馬先生にご相談し、助言をいただいた。学園長室を予定の時刻にたずねると、有馬先生はうずたかく積まれた資料や書籍に囲まれていて、小柄な先生はお顔しかみえなかった。秘書の方が「記念室長がおみえです」と伝えると、先生は資料のなかから「やあやあ、ごくろうさん」と気さくに登場され、「ここは狭いから、広いところへ行きましょう」と、ふたりだけの打ち合わせなのに、大きな部屋に自ら案内してくださった。

準備状況を報告して、委嘱に関するお願いをすると、有馬先生は少年のように好奇心いっぱいに眼を輝かせ、筆者の整理されていない話を熱心に聴いてくださり、ご質問はすべて簡潔明瞭で正鵠を射ていた。最後に有馬先生から、「たいへんなお仕事でしょうがよろしくお願いします」と激励をいただいた。そして、「学園史は過去に起こったこと、現在のことを記述するのは当然ですが、回想に終わることなく、また旧制高校のノスタルジーに惹かれ過ぎることなく、次の50 年への示唆、教育の未来に向けた発信にしていただきたい」と結ばれた。このときは、少年から研究者の鋭い眼になられ、筆者は心のなかで後退りをした。そして、多方面ですばらしい業績をのこされている方なのに、わけへだてのない対応をされる先生に、「ほんとうにえらい人とは、こういう人なのだ」と学んだ。

研究者、教育者、政治家、俳人として

有馬先生は1930 年、大阪のご出身だが、その後は銚子、浜松で過ごされ、県立浜松第一中学(現・県立浜松北高等学校)を卒業された。武蔵には高等科から入学、旧制時代の終わり、22期(1950年)のご卒業だ。東京大学理学部物理学科に進まれ、同大学院で原子核物理学を研究、28 歳で理学博士号を取得された。

その後、東京大学教授、ラトガーズ大学教授、ニューヨーク州立大学教授などを経て1989 年東京大学総長。1993 年理化学研究所理事長。1998 年には参議院議員となり文部大臣、科学技術庁長官を歴任された。2006年4 月に武蔵学園長に就任され、亡くなられるまで現職だった。また、公立大学法人静岡文化芸術大学の創立者でもあり、理事長をされていたので毎週静岡にも行かれていた。

有馬先生は俳人としても活躍され、16 歳で「ホトトギス」に入選して以来、多くの賞をうけられているが、2018 年には句界の最高賞、蛇笏賞を受賞された。

2020 年秋、武蔵高校卒業生の俳句をたしなむ有志が「武蔵俳句会」を立ちあげ、有馬先生に顧問と指導をお願いしたところご快諾をいただいた。12 月1 日には第1 回の句会がオンラインで開催され、先生も参加されてとてもお元気そうだったという。

とらわれのない多様な表現と豊かな詩情は有馬先生の句の魅力だ。先生は「ホトトギス」同人の山口青邨に師事されたが、鉱山学者でもあった師と同様に科学者としての目線も感じられる作品も多い。

櫟なほ芽吹かざれども雲は春 朗人

福田泰二元校長によると、この句は1947年3 月22 日の夕刻か翌日に詠まれた作品で、有馬先生が旧制武蔵高校高等科の編入試験の合格発表を見に来た時の句だと、先生ご自身から伺ったとのことだ。この編入試験の志願者は1,000名強、合格者は45名だった。

爽やかに回り舞台の一変す 朗人

有馬先生の逝去は、あまりに突然だったため、ご自身が「辞世」として詠んだ句はない。先生は1990年から「天為俳句会」を主宰されているが、上記の句は同会のウェブサイトに有馬先生の2020 年12 月の句として掲載されている作品だ。「無季の句」であるが、なにか暗示的ではないだろうか。

学園長として

2006 年3 月末、田中郁三理事長・学園長が退任、同年4 月1 日、根津公一第10 代理事長、有馬朗人第5 代学園長が就任された。この年は武蔵学園創立百周年記念事業の大綱が策定された年でもあった。また、その前年には改正私立学校法が施行され、それまでの教員自治による学校経営から、設置者が経営に責任をもつことが定められた。有馬先生は、この大きな節目に学園長という責任ある立場で母校に帰ってこられたわけである。

有馬先生が学園長就任時は、第一次中期計画が策定された直後であり、先生は理事長とともにその実施に尽力された。先生は続いて2011 年度よりの第二次中期計画の策定に参加、これには根津公一理事長と有馬先生の学校法人設置者としての経営への意図が、大学、高中のバランスを配慮しながらもある程度反映していた。

2016 年度からの第三次中期計画には、理事長と学園長の想いが鮮明に打ち出されている。2014 年3 月、「理事長ドクトリン」が骨太の経営方針として発表され、教職員全員が武蔵の将来への海図と羅針盤を共有することになった。その海をゆく航路、すなわち教学面の具体的展開として、同年10 月、「学園長プラン」が示された。

2016 年からの第三次中期計画以降はこの「ドクトリン」と「プラン」がコアとなって策定された。それは、基本的な方針と展開が設置者から示され、それを実現すべく両校、諸部門が計画を立てることという大きな変化だった。「理事長ドクトリン」では、「まなざしを世界に向け、21 世紀の課題を担う国際人を育てる学校」が謳われ、「学園長プラン」では、「百周年を目標に世界に開かれたリベラルアーツの学園をめざし、世界とつながる教育コースを創設する」と述べられ、大学には「文理の壁を越えた21世紀の学問の在り方を見据え、新しい学問体系を再構築すること」「芯となる新しい層を育てる仕組みの構築」を課題とした。

高校中学には、「若年からのリベラルアーツ教育の要素は、武蔵らしい教育に潜在している。それらを活かし、生徒が志望する大学へ進めるように、支援の仕組みの構築に取りくむ」「国内大学はもちろん、海外大学への進学、さらには海外大学院への進学につながる教育の仕組みを構築」を課題とされた。

こうした課題に対し、大学では経済学部PDP、人文学部GSC、社会学部GDS、の「グローバル3 コース」が創設・運用された。そして、PDP、GSCを統合し、あらたに国際教養学部が発足することとなった。

高校中学では、2019 年度から就任した杉山剛士校長の下で、「新生武蔵のグランドデザイン」が策定され、「育てたい人物像」として「独創的で柔軟な真のリーダーとして、世界をつなげて活躍できる人物」を掲げて、理事長、学園長が求めた課題にこたえた。

2022 年から始まる第四次中期計画の策定では、有馬先生はより強いリーダーシップを発揮された。先生は、地球、人類全体の未来を見つめたさらにスケールの大きなアイディアも練られていた。とくに先生は「三理想」に掲げられている「東西文化融合」をキイワードとし、欧米と日本という枠組みをこえて、中国、イスラムも含めた汎アジアの文化・価値観をも視野に入れ、これまで世界をリードしてきた欧米のそれとの架け橋になりうる日本人の育成を願われていた。

第三次中期計画の完成を待たず、有馬先生は旅たれた。原子核というミクロの研究者は、マクロな視座の教育者でもあった。

根津公一理事長と有馬学園長
「お別れの会」しおりから

現職学園長の急逝に、学園関係のみならず有馬先生が関わられた多くの組織に連なる人びとが、悲しみをこえて前に進むためにはセレモニーが必要だった。 Covid-19 の感染拡大のなか、武蔵学園、東京大学、理化学研究所の共催により、4 月23 日、帝国ホテルにて「有馬朗人先生お別れの会」が執りおこなわれた。感染防止のため、参加は事前予約制、さらに参加時間もグループごとに指定して、献花だけを行った。したがって、弔辞などのあいさつはなく、800 名におよぶ参加者は献花のあとは別室に展示された有馬先生の業績やあゆみを語るパネルや資料で先生との思い出を偲んだ。

また参加者には、先生の略歴、受賞歴、折々の俳句が掲載された「しおり」が配布された。これに寄せられた根津公一学校法人根津育英会武蔵学園理事長(高校43 期)、五神真前東京大学総長(高校50期)の弔文を、許可を得て転載する。

根津公一理事長

私が根津育英会理事長、有馬先生が武蔵学園長に就任したのは、2006 年4 月のことでした。就任早々有馬先生は私に、「初代根津嘉一郎が、どのような思いで、またどのように旧制武蔵高等学校をつくっていったのかを調べるように」との宿題を与えられました。調べた結果いくつか分かったのは、先ず初代根津嘉一郎の育英報国という動機。そして創立者が一人の思いで学校を創るのではなく、周囲に、当時日本の教育や政治にたずさわる超一流のブレーン達がいて、その人々の活発な議論の中から新しい学校が創られていったということでした。

そのとき私が思ったことは、初代根津嘉一郎を囲んだ多くのブレーン達の役割を、一世紀後の今日、有馬先生はひとりで果たしてくださっているのだと言うことでした。「天は二物を与えず」という俚諺がありますが、時として天は特定の人物にだけ、二物はおろかいくつもの才を与えることがあります。有馬先生はそういう方でした。今指を折って数えるだけでも、物理学者、教育者、学校の運営者、政治家、行政官、俳人等々そのどれをとっても、この国の、あるいは世界の最高級の才を、天は有馬先生一人に与えられたのです。気さくでひょうひょうとした日々の先生のたたずまいのどこから、あのきらびやかな才が閃くのか、まことに驚嘆する思いでした。

最晩年の有馬先生が、とくに心に掛けられていたのは、「東西文化融合」の思いでした。西欧近代文明と、その対極にあって漸く力をつけて来ている、中国、イスラムなどの東洋諸国との軋轢が先生の問題意識でした。そして、日本は古い東洋文化の一員でありながら、西洋の主導する近代文明とも価値観を共有することの出来る国として、これからの歴史の中で、両者の架け橋にならなければならない、というのが先生の持論でした。

武蔵学園は来年創立百周年を迎えます。その百周年を超えてどのような事業をしていくのか、それを議論している最中に、議論の中心であった有馬先生を突然喪ったことへの痛恨は大きいものですが、残された私たちは、これからも有馬先生の遺志を酌んで、将来「東西の架け橋」としての役割を果たす若い人々を育てる武蔵学園を創っていくことを誓います。

有馬先生の偉業に対し、心から尊敬と感謝を捧げ、謹んで御冥福をお祈り申し上げます。

五神真前東大総長

私が最後に有馬先生にお会いしたのは、昨2020 年10 月30 日、先生が会長を務める東京大学地域同窓会連合会の会合でした。いつものはりのある声で、お変わりなく元気そのものでした。卒寿を過ぎてなお矍鑠たる有馬先生のお姿を見て、100 歳までのご活躍を信じておりましたが、その僅か1 月後に突然の訃報に接したのです。東京大学を長く精神的に支えて下さった巨星を不意に失い、大きな喪失感に襲われています。

有馬先生は、私の武蔵高校の先輩であり、東京大学理学部物理学科の先輩でありました。旧制と新制の違いこそあれ、武蔵高校では同じく、受験教育と距離を置き「自ら調べ自ら考える」ことの大切さと、リベラル・アーツを尊重する精神を学びました。

有馬先生は、配位混合理論や相互作用するボゾン模型など原子核理論の業績で世界的に知られ、文化勲章を始め国内外の栄誉を多数受けられました。原子核は多数の粒子が強く相互作用している難解な多体量子システムですが、対称性などの数理を駆使した先生の見事な理論によって、原子核はその美しい姿を際立たせました。一方で、現在の計算科学の先駆けとなる、原子核の量子構造の大型数値計算を創始されました。それは、お弟子さん達に引き継がれ、最先端計算科学を駆使して、先生の先見性が見事に証明されています。また、東京大学大型計算機センター長時代には、国産の大型計算機技術を世界に示す事にも尽力されました。

2015 年4 月に私は東京大学総長に就任し、有馬元総長の後輩となったのですが、大学改革に対する先生の信念と行動力は、いつも私の手本でした。1990 年代初頭の大学院重点化と教養学部改革という、よく知られたふたつの大改革の他にも、有馬総長は情報公開の推進、外部評価の導入、寄付講座の創設などを進められました。どれも常識を超えた大胆な改革で風当たりが強いものもありましたが、30 年後の今、当たり前のこととなっています。批判に怯まず、将来を見通し、必要な改革は断行するという有馬先生の姿勢は、総長のあるべき姿を示すものでした。

私が総長となって2 年たった頃に、東大の広報誌『淡青』での対談で、有馬先生は次のように発言されました。

「五神総長はよく頑張っていると感心していますよ。私も物理教室の出身ですが、理論屋だから屁理屈で終わってしまうことが多い。でも五神総長はきちんと実行もしますね。実験をやる人だったからかな。私を他山の石としてしっかりやってくれてありがとう」

私の総長在任中で、最も嬉しい言葉でした。有馬先生から、私の6 年間の総長任期を終えたときの評価を伺うのを楽しみにしておりましたが、もはや叶いません。東京大学のさらなる発展を天国から見守って下さるようお願いするとともに、有馬先生のご冥福を心からお祈りいたします。

無月なり世のほころびをかくさんと 朗人

これは有馬先生が「天為俳句会」に寄せた2020 年12 月の作品のなかの一句だ。2022 年現在でもなお、Covid-19 の感染収束の光は未だ見えず、混乱が続いている。その歪みは経済のみならずモラルにまで及びつつある。有馬先生は現在の日本と世界の状況を座標のない空間からどのようにご覧になっているのだろうか。

武蔵関係者のみならず、いやそれ以上に、偉大な智をなくした世界の喪失感は大きい。風わたる草原に置かれた椅子がひとつ、かつてここに座っていた人をいまもまっている。

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