もくじを開く

通史編

本扉

I 根津育英会武蔵学園

II 旧制武蔵高等学校の歴史

III 武蔵大学の歴史

IV 新制武蔵高等学校中学校の歴史

V 根津化学研究所

VI 武蔵学園データサイエンス研究所

年表

奥付

主題編

本扉

旧制高等学校のころ

大学・新制高等学校中学校開設のころ

創立50 周年・60周年のころ

創立70 周年・80周年のころ

創立100周年を迎えた武蔵

あとがき

  • あとがき

  • 武蔵学園百年史刊行委員会 委員一覧・作業部会員一覧・『主題編』執筆者一覧

資料編

武蔵文書館

  • 武蔵大学「白雉祭」案内冊子ページ

  • 武蔵高等学校中学校「記念祭」案内冊子ページ

  • 武蔵学園史年報・年史類ページ

  • 付録資料のページ

武蔵写真館

武蔵動画館

「長安の月」―軽井沢青山寮集団疎開の日々に―(宇都宮弘之)

【編者注:戦時下における武蔵高等学校(旧制)生徒の集団疎開・勤労動員の様子がうかがえる文章として、『武蔵高等学校同窓会会報』第58号(2015年)に掲載された回想を収録する。掲載を承諾下さった宇都宮氏に、記して謝意を表します。】

 

 「高原の夏は短い。秋も駆け足で、去っていく。厳寒の冬に備えもない諸君を南の岡谷に移転させようとしてきたが道なかば―。諸君をこの青山寮に残したまま出征することになった」

 昭和20 年(1945)、敗戦の年の夏の夜。学校の夏季寮舎監の増井経夫先生が本館1 階の座敷に集まった生徒に話かけられた。4 月からは尋常科(中等部)2,3年生の多くが集団で疎開、寮の本館・賓寮・一田屋に分宿している。灯火管制下の暗い部屋だが先生の太い声はよく透る。禿げあがった額と太い眼鏡。先生は清朝や「太平天国」の研究など、見たことはないが東洋史少壮の学徒として知られていた。入学して先生の授業に驚いた。爽快無比の面白い話のなかで隣国の人々にも躍動する歴史と文化、深い人間の英知があることを教えられる。それまでの私は彼らを蔑視、差別、嘲笑する言葉しか知らなかった。

 私自身は3 月に10 万余の犠牲者をだした東京下町の大空襲を間近に目撃。疎開直前にアメリカ大統領急死の報復爆撃で罹災、猛火の下を逃げ惑ってきた。焼け焦げた学生服と小さな行李が1 つ。高原ではじめて接した怪異な浅間山と静寂な風景には解放と蘇生の思いがあったが不安も残った。途中の車窓で見た巨大な高崎観音の尖塔から熱気球で逃亡した「怪人二十面相」が、不気味な火山の背後からローラースケートで軽井沢の町を襲ってくるからである。

 寮は矢ケ崎山の麓、奥まった林のなかにある。橋を渡ると峠の頂きで一息ついた中山道にでる。街道は浅間三宿、軽井沢・沓掛・追分に小諸と浅間の麓をめぐっていく。信越本線も関東北西部の群馬から標高差9 百メートル余、急峻な碓氷峠を一気に登る。26 番目のトンネルを抜けでた矢ケ崎信号所は目の前だ。アプト式鉄道の客車を前後4 重連でひっぱる専用の電気機関車・ED40~42 型が稔りをあげており、相互に連絡しあう甲高い警笛が高原に谺していた。

 遅い春が峠を登ってくると、空腹で陰鬱に思えていた高原が、新緑に目覚める。野鳥たちがにわかに騒がしくなった。学校や父兄による配慮なのだろう。寮生たちは勤労動員、軍属待遇で、離山に近い陸軍気象部高原分隊に通っていた。すでに動員令で学業は廃止されている。旧国鉄と無蓋貨車に硫黄を積載した玩具のような草軽電鉄の駅前を通り、落葉松の林に沿う街道を歩く。外人や憲兵隊の隠れ宿舎も垣間見る。寮での予備研修のあと、分隊の作業場ではアジア広域の軍用気象図の写しや整理を手伝う。指導教官は若い見習士官。元・六大学野球の選手で、兄貴のような存在だった。ときには隠れて敵国野球をやり、芋畑になったゴルフ場で騎馬戦に興じたりもした。

 休日に友だちと矢ケ崎山に登ってみた。寮側の山容は穏やかだが、群馬県境との山頂は断崖になっている。眼下の雲海。峨々たる頂きは妙義山だ。はるか彼方からは雷鳴のような轟きが伝わってくる。太田の飛行機工場が爆撃されているらしい。郷里も家族も遠い空の下になる。何時になったら会えるのだろうか。

 ―この戦時下、少年たちがだらだらと街道を歩くとは何事か。町の一部から寮に苦情がきた。寮生たちは駅前や途中で歩調をとり、軍歌などをうたうことになった。官民あげて喧伝された「アッツ島玉砕」の軍国歌謡もある。島は北海の孤島。2 千余名の日本軍守備隊が全滅した。大本営ははじめて「玉砕」の言葉をつかい、後に続けと国民を鼓舞する。隊列の後部を歩く私は憂欝になった。

 私は父親の赴任先の青森で、長い英霊の列を迎えている。家で休まれた隊長夫人とも接した。英霊の白木の箱のなかは紙切れと砂袋だけとも知った。後に「アッツ島玉砕」の大作を描いた藤田嗣治画伯が来県する。大画面は皇軍常勝の絵本や聖戦完遂絵画とはまるでちがう。敵も味方も勝敗もない。暗夜、孤島の凍土におりかさなり殺戮しあう兵士たちの白兵戦。これが戦争なのかと息を飲んだ。

 雨季。峠から霧が流れこんでくる。何も見えない。浅間も姿を隠した。体の変調に気がつく。立ちくらみ。世界が青黒い幕のなかに消えていく。頭が錐で刺されたようになった。慰問に見えた先輩は「原爆」を研究、サイクロトロンの話をされる。早い完成と敵の一挙撃滅を期待した。顔なじみの鉄道員の人たちが胸に大きな名札をつけている。敵の上陸にそなえ軍隊組織に編成されたのだとか。見習士官に前線出動の命令がきた。士官の武運を祈り作業場でぎこちない万歳をくりかえす生徒の前で、士官は机に顔を伏せると号泣した。

 「君たちとの別れに歌をうたいます。はじめは日本語。あとを支那語で―」。冒頭の夏の夜の話に続き、先生が歌の意味を説明される。前に習ったことがあった。

 

長安一片ノ月 萬戸衣ヲ打ツノ声

 

 歌は唐都・長安の都で女たちが防人として遠く西域辺塞の地に送られた夫や恋人を偲んだ俗謡を李白が詩にしたものだという。碓氷峠も徴発された防人と父母・妻・妹らとの惜別の径だったとある。先生は密かにそのことにも想いを重ねられたのだろう。飢餓感のうえに女人の心がわかる年齢でもなかったが、先生の身を案じた。先生の応召ははじめてではない。1 年ほども前だったか、高い欅に囲まれた母校中庭の壇上で出陣の挨拶をされたことがある。が、即日除隊となった。学生時代、山岳部で脚を負傷されていたからだ。そのような人を何度も兵役にひっぱりだすとは。「今度こそ先生は生還できないだろう。敵が本土に上陸してくれば俺たちも生き残れない」。誰もがそう思っていた。「日本は負けるんだ!」。1 人の生徒が叫んだ。不意をつかれた私などが先生の去った夜の座敷で彼を囲む。日本が勝つとは思えなかったが、敗北は皆殺しか奴隷にされるだけだ。彼を論破もできなかった私は敗戦の直前、高原を降りた。敵前逃亡であった。

 戦後、私は父親も卒業していた松山の中学に移る。空襲で焼失、木造平屋の校舎に下級生たちの消火活動で、旧藩校だけが残っていたが、明治期には漱石や子規に虚子などがいた。伝統と独自の気風に良き教師、良き友にも恵まれる。だが、どこか寂しい。上京すると武蔵野の面影が残る「母校」を訪ねる。南青山の根津美術館では学校創立者の嘉一郎翁の胸像に拝礼。高原にも戻ってみた。寮の跡はない。旧軽の昔の宿で赤城に移転したと聞く。アプト式のED型も姿を消し、EF63 の牽引方式に。新幹線の計画もある。碓氷峠も旧道、バイパス、高速道路と3 代の変遷を重ねるようだ。

 「お前の世界は終わったのだ―」。浅間の火口から暗褐色の山肌を爬虫類のように滑りおりてくる噴煙が言う。野鳥の声も他人行儀に聞こえた。でも私は折れない。あの大戦下でも自由の灯を守ろうとした学校。短かったがその生徒の一員でありえたことへの思い。漱石・子規に鴎外も馬車鉄道で峠をこえ、この宿場へ旅をしている。虚子もまた小諸に疎開。私たちと同じときに同じ浅間の煙を見上げていた。なぜかそのことが私の心を支えてくれた。

 西安から敦煌へ。仕事や個人で、中央アジアからも西域の奥地に入ったことがある。閉ざされた「絹の道」が開かれようとしている。西安での満月は赤黒く不気味だった。西域礫漠の砂塵のためだろうか。街中心部の宿舎を1 人で出た。西安の象徴、基壇上層の巨大な鐘楼へ歩く。甍に月がかかっている。先生の「長安の月」だ。感情表現ができない私は先生の歌を中国人に習った言葉でうたった。

 

秋風吹イテ盡サズ総テ是レ玉関ノ情

何レノ日ニカ胡虜ヲ平ラゲ良人遠征ヲ罷メン

 

 先生が兵士としてふたたびこの地に立たれたら何を思われただろうか。先生に尋ねてみよう。友人にも会いにいけるだろう。小心者の逃亡兵にもやっと決心がついた。だが先生はすでに亡くなられていた。長く海外にいたとはいえ己の迂闊さが悔やまれた。偶然の出会いから沖縄在の内山氏が私と入れ替わりに松山から「母校」に転校していたことを知る。彼の好意で永淵・小野・横井氏などが私のような者のことを覚えてもらっていることがわかった。黒板氏は日経紙のコラムなど手を尽くして「失踪不明者」の私を捜してくれていた。友人からも暖かい手紙をもらう。涙がとまらなかった。高原での夏の夜。先生は秋にも冬にも備えのない寮生たちのことを心配しておられた。だがいまの私にはこの季節が待ち遠しい。毎年、旧友たちとの再会の場が持たれているからだ。

1943 年撮影の軽井沢青山寮。戦時中だが山上学校は「健民修練」と名前を変えて挙行された。
to-top