白雉の丘・昭和27年
昭和27年の記録映像を見ながら、向山巌名誉教授が対談形式で解説する。2002年制作3部作その2
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江古田駅
江古田駅の雑踏を抜けて武蔵大学正門へ至る
これは映画研究部のメンバーが最初出て来ておりますね。
(これは車内から写していますね)これは電車が江古田へ向かっているところで、「江古田」と書いてありますけど、これは難しいんで、本当は昔の人は「えごた」と言ったんですね。今はそれがどういうわけか「えこだ」に変わりましたけど。
これは大勢の人たちが出て行きますね。(これは駅おりて)ちょっと詳しくお話しさせていただきますけれども、江古田駅がいま出て参りまして、大勢の乗客が改札口を出てゆくわけですけど、そのころは北口というのは無かったんですね。南口ひとつしかありませんから、みんなホームから降りると南口から出て行く。
しかも珍しいことに、江古田駅というのは3つの大学があるということで、それで学生数が多いんですね。3つ合わせると多くなるわけです。最初に出来たのは武蔵高等学校ですけれども、昭和に入ってから武蔵野音楽学校とか、あるいは日本大学芸術学部とか、そういうのができましてね、学生数がどーっと戦前でも増えたんですね。
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武蔵大学の授業とゼミ
昭和27年、高校中学と同居していた武蔵大学の学習環境。ゼミナール、授業および図書館の様子
(こちら武蔵大学前ですね。バス停)千川がまだあって、暗渠になっていなくて、なんとなく農村風景という感じですね。
(今のは第9教室での授業の始まりですか)これは古い高等学校の建物の内部だと思います。そこに出てくるのが、武蔵大学ができた時から助手として入って、そして丁度専任講師になられた、昭和27年の4月から専任講師になられた、小沢先生、社会政策。
(こちらはゼミの風景ですね)これは鈴木武雄先生。鈴木先生がゼミの授業をしている(背中を向けてますけど、女子学生の方が一人いらっしゃいますよね)勉強家ですね、鈴木ゼミというのはなかなか。このときはケインズの一般理論を読んでいたんです。私は入っていなかったんですけども、けっこう武蔵のエリート学生がゼミに参加していたようですよ。
(こちらはどこかやはり)ここは学習室みたいなところですね。で、いま学生さんが出てきます、これは図書館から。(こちらが図書館ですか)書庫があって、木造の図書館があって(小さい図書館だったんですね)できたばっかりのころです
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江古田での学生生活
食堂・グラウンド・学友会
(ここは大学食堂です)これがあの体育館の近くにあった集会所で、そこで食事を出していたということなんでしょう。今はありません。
これは(これは運動競技大会ですか)競技をしているところですね。
今の3号館ですか、一番古い建物ですけれども。いま出てきた先生は重友先生、日本文学の先生。
(こちらは映画研究部と)真ん中にいるのが部長さん、浅田さんです。(ポスターが盛んに貼ってありますね。映画のポスターなど)
これが武蔵評論ですね。これが当時としては学生が文芸評論などを載せた雑誌です。
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四大学運動競技大会
四大戦、先生方の日常風景。「花月」でのコンパには塙教授と、この映像制作を担った浅野氏が登場する
(これは野球の試合とサッカーですか)武蔵で行われた四大学運動競技大会の一コマですね(ホッケーもやってますね)ホッケーがあったり(陸上で)武蔵大学が主催校ということで、四大学運動競技大会が開かれました。これは昭和27年は3回目ですね
(こちらは先生が話してますね)これは芹澤先生じゃないかと思いますね。
これは鈴木武雄先生、大勢の四大戦に参加した学生とどっか行くのでしょう。
(女子学生ですね)これは佐藤学生部長。今出てきた女性は1年生ですね。
これはコンパの時ですね。(こちらは)塙先生。駅の向こう側に「花月」というお蕎麦屋さんがあったんですね。
いまギターを弾いているのは学生さん。これが映画研究部の部長ですよ。先生みたいな感じがしますけど(芸達者ですね)もう亡くなりましたけどね。花月で200円て書いてあるでしょ、会費が。いまでいうと3000円くらいということですね。
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軽井沢でのゼミ合宿
青山寮で起居を共にして勉強する、鈴木武雄教授と学生の様子
(これは浅間山ですね。旧軽井沢駅ですね)良く知りませんけど、昔の軽井沢の駅ですね。ここに武蔵学園の寮がありまして。
(一行がやって来たところですね)一行がやってまいりました。鈴木武雄先生が先頭で、学生たちをつれて、合宿で勉強ということなんでしょう。なつかしいですね。軽井沢の青山寮、今はありませんけどね。昔、大いに利用されていました。これは勉強の合間を見ておしゃべりしているところなんでしょう。
鈴木先生は、煙草を、よくくわえ煙草をしながら原稿書いていることが多いんですね(鈴木先生はご一家でいらしてたんですか)ご一家と言いますかね、これはお嬢さんなんですよ、隣にいる人は。あとは我々。私も参加してたんですけども。
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四大学運動競技大会と皇太子殿下の訪問
「第一周目」の四大学運動競技大会での競技、そして四大戦のはじまりについて
これは正門前で四大学運動競技大会に、今の天皇陛下である当時の皇太子殿下がお見えになったところで。学生として参加されたということで、馬術部のキャプテンを当時していたので、それで参加したと。
宮本学長、武蔵大学の宮本学長が四大祭の開催にあたり挨拶をしている。(開会式の一コマですね)これは武蔵大学の、名前は憶えて居りませんが、代表が宣誓しているところでしょう。
スタートというところ(競技がはじまりまして)
これはホッケー。ホッケーは割合に強かったんじゃないかと思いますけどね
(走り幅跳びなんかもあったんですね)あったみたいですね
(テニスと野球と)ご承知だとおもいますけど、武蔵大学は四大祭に参加して、昭和25年から始まったんですね。で、武蔵大学が発案校だと言われているんですね。
最初学習院大学で第1回が開かれて、第2回を成蹊、そして第3回目を武蔵大学と。4回目は成城大学。こういうことで行われたわけですね。なぜ成城が最後になったのか、武蔵が3番目なのかという問題はあるんでしょうけど、成城大学は1年遅れて大学が出来たんですね。
(そうですか)昭和25年に出来た。ほかの3大学は昭和24年にできたものですから、あいうえお順にいって学習院、成蹊、武蔵と、そのあと成城大学が25年から発足したものですから、最後にやりなさいということで、そういう順番になったとおもわれると、正確じゃあありませんけどね。
そういう順序で四大学運動競技大会が開かれてきましたけれども、まあ、いつも武蔵大学はビリと。3位だったことが54回やったうちの3回あると。あとは全部一番ビリと。ちょっとあまり好ましい成績ではありませんけどね。そういう状況でした。
10:00
構内の風景
雪の校内風景と大欅・講堂、そして清流だった頃の濯川の光景
これは就職シーズンですね。学生部の掲示板に各会社からの求人依頼の掲示が出る訳です。11月頃ですね。
(これは雪が降って来てますね)ちょうど11月から12月ごろの風景でしょう(けっこう大雪の感じですね)すごい雪ですね。珍しい大雪シーンだと思いますね。(木まで真っ白になってきましたからね)(はしゃいでますね)大雪が降って枝が折れてしまうこともあるそうですけどね。今はあまり大雪ということはないですけれどね(雪はふらないですね)
(こちらは)これもまあ集会所のひとつですね
(これも四大のシーンですね)
盛んに応援している(これは講堂ですね)講堂の中で応援してるようですね(開会式とか閉会式とかのなかのひとつですね)これで一応終わったんで、閉会式ですね。
いま橋が見えましたけど、あれはちょっとわかりませんね。昭和27年に高速道路みたいな橋がどこにあったのか
これは軽井沢の様子ですね
これは大学キャンパスの中の大欅、冬という季節です
これは何でしょうか?(講堂にすわっていたようにも見えたんですけど)時々講堂を利用して大きな講義をしたりするんですよ。私も試験などあそこで受けたり、学内試験ですけど、講堂で受けたことがあります。
(こちらはグラウンドですね)グラウンドの風景ですね。
(濯川ですね)満々として水を湛えて流れている。いまの濯川はモーターで回しているそうですけど昔はあったんですね
12:35
大学新館の工事
宮島清次郎理事長が私財を投じて建築した、大学専用の新校舎
これは工事、昭和27年に大学新館と呼ばれている最初の大学の建物が作られたんです。今はもうありません。プロローグの所でもいいましたけど、もうない建物です。懐かしい。
これは宮島理事長が私財をなげうって作った、2000万円で作ったと聞いていますけれども、当時2000万円と言えば今から比べれば大きな金額なんでしょう
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江古田駅の成り立ち
武蔵高等学校創立と江古田駅成立との関係、そして江古田駅が「武蔵高等学校前駅」にならなかった理由
これは江古田駅のホーム、あの近く見えますか、踏切の近くに家が一軒建っているでしょ、あれは本屋の建物ですね。
江古田の駅に関する面白い話をしておきましょう。江古田駅ができたのは大正11年の11月のことなんですね。ところが武蔵高等学校ができたのは大正11年の4月です。駅ができるより半年前に武蔵高等学校がオープンした、こういうことになりますね。
ではいったい学生たちはどうやって武蔵高等学校へ通って来たのか、ということになりますけど、駅が無かったんで、やむを得ず物置みたいな仮設の降りるホームみたいなのを作ったんですね。
はっきりしたことはわかりませんけど、簡単な台を作って、そこに臨時の駅を作って、そこを通って乗ったり下りたり。臨時の駅ですから、午前中8時ごろ1回、午後3時ごろ1回、2回しか止まらなかったといわれます。
もう一つはどうしてその駅が江古田駅になったのか。本来なら武蔵高等学校駅とかそういう名前があってもいいと思うんです。例えば成城学園駅とか、学校と駅とが同じ名前になることが多いです。たとえば都立高等学校前とかありますね。同じような事が言えますけど。
武蔵高等学校前にならなかった理由は、ひとつは、当時の線路、武蔵野線と呼んだんですけど、田舎風の電車が走っていて、将来はそれを根津財団が買収して武蔵高等学校前と名付ければよかったんでしょうけど、まだそれだけのできる状況じゃなかったということなんでしょう。
そのうちに西武鉄道に買収されたものですから、そんなことも関係ありますね。なぜ買収されたのかということもいろいろ問題がありそうですが、あまり東武鉄道があちこち買収しては困るということもあったかもしれません
もうひとつは池袋から江古田までの料金の話なのですが、あのころは10円だったんです。池袋から練馬まで10円だったんです。それがだんだん値上がりしてきまして、桜台まで10円、江古田まで10円どんどん距離がみじかくなったんですね。とうとうそれが20円になったり30円になったりして上がってきた、そういう面もあるんでしょう。
当時10円というと、私が学生の頃、練馬―池袋の間の料金を払って乗ったりしましたけど、私の家は桜台だったものですから、池袋へゆくのに10円で行けたという時代でしたね。
なつかしい、昭和20年代の風景ということになるんでしょう。当時はまだここには映っておりませんけど学園の周りには畑が多くありましたね。外に一寸出ると、学園の裏側へゆくと畑がずっとつづいておりましたから、そんな時代なんだなと思います。
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