白雉の丘・プロローグ
武蔵大学開学当初の記録映像を第1回卒業生である向山巌名誉教授が解説する、そのプロローグ。2002年制作3部作その1
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武蔵賛歌
旧制時代の校内風景を背景に武蔵賛歌
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武蔵大学の発足
武蔵大学の創立経緯を、第1回卒業生の向山巌教授が概説する。
武蔵大学が誕生しましたのは、敗戦から4年たった昭和24年、西暦で言えば1949年のことです。当時日本はまだ連合国の占領下で、占領軍は旧制の帝国大学とともに旧制の高等学校を、軍国主義・封建体制の温床とみなして、それの解体が新生日本の民衆的教育制度の目標となりました。この年に旧制の高等学校は、大学予科・専門学校とともに新制大学として新しく発足することになったのです。
戦前から官立の旧制第一高等学校と並んで高い社会的評価を得ていた旧制武蔵高等学校も、惜しまれつつも幕を閉じて新制大学の仲間入りをしたのです。現在の武蔵大学は創立からすでに半世紀以上の歴史を刻んでおり、また大学の母胎となった旧制武蔵高等学校の創立から数えれば、すでに80年の歳月を経過しています。
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映像公開のきっかけ
教授室に保管されていた映像が、向山教授退職を機に公開の運びとなる。
大学の最初の卒業生として母校の教員となり、45年にわたり研究・教育にあたった私は2年前の平成12年3月に停年で退職いたしましたが、その際長い間使用していた研究棟の個室の明け渡しのために部屋を整理したところ、大学創立から約10年の間の記録であるフィルムをビデオ化したものが出てきました。
家に持ち帰りましたがそのまま我家の机の引き出しの中に埋もれたままにしておくのは勿体ないと思いました。この夏大学同窓会・幹事会の会合の折に、今回の記念事業の一環として公開できたらという提案をいたしましたところ、満場一致で賛成を得ることができ有難く思っている次第です。
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映像作品の解説
この後につづく2つの映像作品について向山教授が解説。
さてこのビデオは2つの内容から成ります。タイトルは「白雉の丘(昭和27年)」と「武蔵大学の昨今(昭和34年秋)」です。前者は大学創設から3年目の昭和27年の秋から冬にかけての学園の風景を描いた映画研究部の作品で、1回生で既に故人となった浅野君が中心になり制作されたものです。
後者は昭和34年の秋の季節の学園生活にスポットをあてて、大学創立10周年を記念した作品で、企画と責任は向山ですが、6回生の籾山君と7回生の国見君が自主的に制作を担当しており、ここに両君にお礼を申し上げます。
どちらの作品も学生自身の手で自主的に制作された、いわば手作りのものであり、素朴な内容ですが、当時のありのままの大学の授業風景や学生生活の様子がいろいろな角度から紹介されています。
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初期の武蔵大学
向山教授による「簡約武蔵大学十年史」
はじめに誕生してから10年間の武蔵大学について簡単に紹介しておきます。昭和34年に経営学科ができましたが、それまでは経済学部経済学科一つという単科大学で、定員は全学生合計で480人という、普通の高等学校には及ばない規模の小さな大学として発足したのでした。
昭和27年末の教室のある建物は、現在は3号館と呼ばれている校舎が一つあるだけで、他には講堂があり、現在でもその役割を果たしています。校舎の建物の真ん中から東側は大学用、西側は高校中学用として分けられていて、ひとつの建物に大学と高校が同居している状態で、図書館もその建物の中に置かれていました。自然が豊かで武蔵野の面影を深く宿す恵まれた学園でしたが、大学としての対応は極めて貧弱の感を免れませんでした。
しかし、先生と学生の関係は濃密で、ビデオにも登場してきますが、ゼミナールの武蔵と呼ばれる授業や、軽井沢青山寮での合宿ゼミ、教授を囲んでの和やかなコンパ風景、そして学生と教授が一体となった運動会の開催など、学生にとっては恵まれた青春時代がキャンパスの中に繰り広げられていたと言えるでしょう。
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校舎の名称について
一番古い建物がなぜ「3号館」なのか、武蔵の謎を解く。
ここではじめに、当時の建物の名称について説明しておきたいと思います。大学専用の建物が初めてつくられたのは、昭和27年の秋から冬にかけてでした。「白雉の丘」のビデオには工事中の様子が写されています。これは小規模な校舎で、昭和28年の春にオープンし、当時「大学新館」と呼ばれていました。
さらに昭和33年に経営学科の新設にあたり、大学にとって2番目の建物が作られました。当時のちいさな大学にとっては規模の面でも画期的な校舎であり、これを記念して1号館と命名されたのです。1号館は当時の武蔵にとって本格的な校舎であり、「武蔵大学の昨今」のビデオの中で様々な角度から紹介されているのも、大学にとって自慢の建物として受け止められていたからです。
こうして、大学にとって最初に作られた大学新館の建物は2号館と名付けられることになったのです。この2号館は今回の8号館の建設にあたり残念ながら解体されてしまい、今では存在しておりません。
さらに昭和44年の人文学部の発足に当たり戦前に作られた旧制高等学校時代の校舎は、高校中学が濯川の向こう側に新築した校舎へ移転した後、主に人文学部用の校舎として使用されることになり、そのため武蔵にとって最も古い記念すべき建物であるにもかかわらず3号館と呼ばれているのです。
武蔵の建物の番号は建設された年を基準に付けられたものではなく、こうした理由でやや複雑な経緯を辿るなかで付けらたことに注意していただきたいと思います。
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映像の解説音声について
この映像の公開意図と、音声解説について
このビデオはおそらく、他のどこにもない貴重な資料ですので、永久保存を目的として、大学当局と同窓会の全面的な協力と援助により、内容について多少の修正をおこない、またまとまりのあるよう編集することになりました。
また無声のフィルムなので多くの箇所について長い教員生活を過ごした向山が必要な解説を加え、できるだけ内容の豊富化の工夫に努めてあります。内容の解説にあたり22回生の山下さんが質問やコメントをし、向山が答えるという形式をとることになりました。
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