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三理想の成立過程を追う(大坪秀二)
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以下の文章は、故大坪秀二氏(高校16期・元武蔵高等学校中学校校長)が生前、「特別読みもの 武蔵七十年史余話」の一つとして、『同窓会会報』第39号(1997年11月30日)に寄稿されたものである。】
初代教頭・三代校長山本良吉先生の手になる『武蔵高等学校歴史』(いわゆる六年史)には、1922 年4 月17 日の第1 回入学式に一木喜徳郎校長が「本校の成立、使命および三理想について式辞を述べた」とあり、三理想の原型、「東西文化融合のわが民族使命を遂行し得ベき人物を造ること。世界に雄飛するにたへる人物を造ること。自ら調べ自ら考える力を養ふこと。」(あとで『第2 の原型』と呼ぶ)が記されています。三理想がどのように発想されたかについては一木・山本両先生の後日の証言があり、お二人の合作であるらしく推測されますが、その時代のなまの史料としては創立の前年5 月、根津家の公式発表での一木先生の談話(『武蔵学園史年報』創刊号に収録、当時の各新聞社の記事でも裏付けられる)と、入学式3 日前の教師会における校長の訓辞原稿(『武蔵七十年史』15 ぺージ。筆跡は山本先生のものと推測される)とがあります。後者は冒頭に「正義を重んじ真理を愛し、自ら理解考究する能力を有し、将来世界に活動し得る体力を有す」とあり、これが三理想の『第1 の原型』でしょう。しかし、七十年史編集の時の私は、この史料をみていながら、この原型が僅か3 日後に六年史に記録されている『第2 の原型』ととり換った不思議さを、とくに感じることなしに過ごしました。初めて「おやっ?」と思ったのは、その後、山本先生の原稿集(製本されて何冊にも分かれている)の初めの一冊に、製本洩れになって、はさまっている5 枚の談話原稿を読んだときです。それは1924(大正13)年4月8 日の教師会のためのもので、新学年を迎えるにあたっての各教師の心得を詳細に説いた最後に「本校に於いては、真理を愛し、正義を重んじ、将来世界に活動し得る人物を造るを主としたく教授も仕附(しつけ)もすべて之を目安としたし」とあるのです。
つまり、創立初年に一木校長が話された「第1 の」原型は、少なくとも2 年後まで生きていたことになります。この時から、三理想成立に関する私の史料あさりが始まりました。実は、この草稿は『晁水先生遺稿』の327 ページに載っていますので、読んだ方は多いと思うのですが、一木校長の訓辞と結びつけた人は多分ないでしょう。『一木訓辞』は『武蔵七十年史』で初めて人の目に触れたのですから。
私の「三理想あさり」は、詳しく書くとかなり長くなります。結論を先に言えば、『第2 の原型』は1924(大正13)年の3 月末頃に出来たものと推測され、したがって、武蔵六年史の第1 回入学式の記述は、意図的に事実と違えて作られたものと思われるということです。1924 年4 月以降に書かれたと思われる『理事会における大正13年度予算案説明文書(山本教頭による)』の中に、「本校元来、東西の文化を融合し世界に雄飛する底の人物を養うを薫育の一方針とすることは、校長が新入生に対して告げらるる所なり」とあり、記録の中に初めて三理想の項目が二つ出てきます。前に記した同年4 月の教頭談話草稿には、まだ『第1 の原型』が述べられていることを考えると、『第2 の原型』の成立はその教頭談話草稿が書かれた時期と4 月始めの入学式との間のごく短い期間の中だと考えます。恐らく前々から一木・山本両先生の間に相談の積み重ねがあった結果、その入学式の式辞に結実したものでしょう。『予算案説明文書』は予算案提出の時点のものでなく、理事会の査定で「生徒の外国旅行への教師付添費」が切られたことへの復活要求として書かれたと見る根拠がありますので、「校長が新入生に対して告げらるる所なり」と言っているのは、「ついこの間の入学式で一木先生が言われたでしょう、あの三理想ですよ」というふうに読めば、すんなり読めます。「何時の新入生に」とか「第1 回からずっと」とかの限定がないのは、理事長はじめ理事諸氏にとって、すぐ思い起こすことが出来るつい先日のことだったからではないでしょうか。
『根津翁伝』には一木校長の話として、「『東西文化融合』は大隈重信が言っていたことで私自身も良いと思った」ということと、「『世界雄飛』はヴェルサイユ会議のことを牧野伯から聞いて以来の私の主張である」こととが述べられています。出典が示されていないので真偽不明ですが、武蔵関係の記録に大隈云々の話はないので、根津翁伝の編者は何か独自の資料を持っていたのでしょう。『世界雄飛』については、大正10 年5 月の根津家育英事業発表時の記録に明記されています。ただし、「世界に雄飛」ではなく「世界の舞台に立って活動」、「世界の日本人」という表現です。この表現の根底にある心が開校当初の『第1 の原型』に確かに含まれているのがわかります。
一方、山本教頭には、約1 年間にわたるアメリカ・ヨーロッパ視察旅行からの帰途船中で書いたという著書『民族の思想』があります。第1 次大戦後の極右、極左台頭の時期のヨーロッパを周遊して、先生はその保守傾向(私の独断で恐縮ですが)に加えて民族主義、国家主義的な理想を強めて帰国したらしく思います。この本で主張する『わが民族の理想』とは、「日本の民族文化を基礎として、それを欧米的文化によって深高化し、世界的な新文化を創造して人間の文化史に貢献すること」であり、その日本民族文化とは、「いわば神道……存在・恩・義務を基礎とした国民道徳で、その発現の中心が皇室であることに特質がある」としています。山本教頭は後に『創立当時回顧座談会』(昭和11年、速記録あり) でも、「東西文化というが、東の方が大切だ」と、『民族の理想』での主張に近いことをのべています。『東西文化融合』という言葉が、必ずしも気に入っておられなかったらしく感じます。一木・山本両先生の話し合いで、一木先生は『東西文化』を持ちだし、山本先生は『民族の使命』あるいは『民族の理想』を持ち出して、両者がつけ合わされたものかと思われます。いずれにせよ、開校時の「第1 原型」三項目に較べてかなり校是らしい体裁になったと同時に、民族主義・国家主義的な匂いがついたと思うのは私の偏見でしょうか。校長になった後の山本先生は、昭和13年に『三理想の英訳』を定めています。ここでは、『融合』は『Harmonization』となって一歩穏やかになり、『雄飛』は『to act on theWorld-Stage』となって、一木校長の表現に近づいています。私は、山本先生の思想傾向が昭和11年頃(二・二六事件のころ)を境に変化したと考えるものですが、三理想の英訳はそれをいささか裏付けているような気がします。
話が少し横道にそれました。三理想を初めて述べたと思われる大正13 年入学式での一木校長の式辞は記録がありません。山本教頭の教務日誌その他にも三理想の影は見えません。翌14(1925)年7 月に『校友会誌』が創刊され、その巻頭に『一木校長入学式訓辞大要』というのものが載っています。それには「本校は東西文化の融合を計るのが国民の任務であるという信念の上に、万端の施設をなしている…」と三理想の第一項目だけが述べられています。また、この年度の初めの「校報」(教師向けの会議まとめ)にも、校長式辞の概要が記録されています。思うにこの年以降、学校は三理想の生徒への周知に力を入れたようです。「校歌」が募集されたのもこの年からのようです。26(大正15)年12月発行の校友会誌第4 号には、懸賞校歌応募3 等当選作品(3 期相当、小林保雄氏作)の発表があり、その歌詞に「我等の力は日毎に増して、天下に雄飛す準備は成らむ……」と三理想の第2 項がちょっぴり詠み込まれています。そしてその選評に、「校歌は一校の理想・校風・特質等を標榜し、全校生徒の血潮を高鳴らしむべきものであってほしいと思う」とあり、この年から校歌が募集されて、しかも、そこに『本校理想』が歌い込まれることが奨励されていたが、実際の応募作品には従来の寮歌風のものが多く学校側の満足が得られなかったことが述べられています。この年は3 等が最高でした。同じ号に脇田 忠氏(2 期文)の『我等の使命』と題する論文があり、その中に「……。人物が出来て始めて東西文化の融合を望むこともできれば…」というくだりがありますから、おそらく、理想の三項目は既に発表されていたことでしょう。それにしても、当時それを印刷して生徒に配ったものがあってもよいと思うのですが、現存しません。「あった」という証言だけでもほしいものです。翌27(昭和2)年7 月発行の校友会誌第5 号には応募校歌当選作として、谷田閲次氏(2 期文)の『2 等作品』(「東西文化合璧の、灯かかぐる我ひとの……」の一節あり)と、野辺地東洋氏(3 期文)の『2 等作品』(「…東西古今の華をあつめん」の一節あり)とが発表され、選評には「本校理想の三大綱領も、割合よく歌い出されているが…」とあります。前年度の作品にも『雄飛』はあったのに不満とされ、この年の作品は、『東西文化』はあっても他の二つはないに近い(『雄飛』らしく見えるものはある)のに褒められているのは、歌としての善し悪しではあるとしても、少し奇妙に感じます。もしかすると三理想の最重点は『東西文化』であり、それを歌い込んでいないものは不満だと言うことかも知れません。なお、主に旧制時代の歌を集めた『武蔵歌集』が今年同窓会から刊行されますが、これらの当選歌はそこに収録されています。
以上の経過を経て、1928(昭和3)年4 月15 日の開校式(七学年が揃った時点での披露式)を迎えます。この式で一木前校長は、式辞の中で、自分がかつて第一回入学式の折に訓示したことだとして、修飾の多い漢文体で三理想を述べておられ、かつ、それを『三大理想』と呼んでおられます(校友会誌第7号)。私の独断で恐縮ですが、これを書いたのは一木先生でなく漢文の加藤虎之亮先生だと思います。たしかに一木先生は漢学の高い素養を身につけておられましたが、演説や著述の文章は平易で極めて明瞭です。この式辞のような、難解な言葉を多用する修飾の多い文章は、一木先生に、とりわけ生徒に語りかけるときの一木先生に似合わないように思います。加藤先生による双桂寮記、愛日寮記と文章の発想法が似ていること(似ていないという方もおられますが)、根津理事長の祝辞その他や、山本校長校葬の折の一木理事長弔辞などは多く加藤先生の手になるという証言があることから見ても、ありそうなことです。前に引用した『創立当時回顧座談会』での加藤先生の発言に、開校時、第1 回入学式での一木先生の式辞の内容はと問われて、「三大理想です。あれを敷衍してずっとお話しになった」、「三大理想を一木先生が堂々とお述べになり」というくだりがありますが、「開校式」での一木前校長祝辞が加藤先生の代作だとすれば、話のつじつまを合わすためにも、加藤先生としてはこう言わざるを得なかったことでしょう。というより、代作した時点で既に、「三理想は第1 回入学式で校長が述べたもの」と思いこんでおられたと考えるべきでしょう。一木先生は在任中4 回の入学式式辞のうち、あとの二回には確かに三理想を、あるいはその一部分を話しておられたわけですから。1932(昭和7)年に創立十周年の記念式が行われましたが、その時の一木先生の祝辞の速記録が校友会誌第19 号にあります。この時の話は至って平明なアドリブ調で、「本校は兼ねてより正義を重んじ、研究を尊び、而して将来のモットーとしては、世界の文化を進め人類の幸福に寄与すると云うことを信条としておるのであります云々」と、創立の時の『第1 原型』に近い言葉が語られているのはまことに興味深いと思いますが、いかがでしょうか。
ともあれ、走り書きのような第1 原型から始まった三理想を、校是に相応しい表現に直すこと、そしてそれを、第一回入学式に校長が生徒に表明したと学校史に記述し、同時に開校式での一木前校長祝辞で裏付けること(大正13、14 両年の入学式で一木先生の訓示はあったものの、その内容は恐らく三理想の完全型でなく、山本先生にとっては意に充たぬものだったのでしょう)、これが山本先生のシナリオだった筈です。そのためには、開校式での前校長祝辞が一木先生の即妙の話で予定と違うものになってほしくなかった。加藤先生(でないにしろ一木先生以外の誰か)が祝辞を代作してそれを一木先生に読んでいただくことは、山本先生のシナリオにとって不可欠なことであり、予め一木先生の了解を得てあったことだろうというのが私の推測です。私個人の感想をつけ加えるなら、三理想の成立をそのように細工をしなくても、ありのままに伝えて良かった筈だと思います。理想の形が整うのが創立の2 年後だからといって、三理想に傷が付くわけのものでもなかったでしょう。
どの学校にもある校訓・校是が、前大戦以降の新時代に古い形のままで生き続ける例は必ずしも多くありもません。この点で、武蔵の三理想は時代を超えて生命を持ち続けていることを誇れると思います。とはいえ、今の目で見れば、「世界に雄飛する」という言葉が持つ戦前の膨張主義臭さとか、文化を東西に限定して東西南北多種多様な文化を互いに認めあう現代的視点を欠いていること、異文化どうしを融合するという考えに潜む独りよがり、それに、民族理想という断定など、多少の抵抗感なしには受け入れにくい点もあります。このことについては、以前、ある先輩の方からも「少なくとも第一理想の文言は改めるべきである」とのご指摘もありましたし、私自身、生徒に対しての話の中で、前述の諸点について注釈付きで三理想を説明してきたという経過もあります。三理想が示す「方向性」については、一木・山本両先覚者の見識に敬意を抱きながらも、後に続く我々としては、我々自身の現代的な思想の中で三理想を受けとめることが、我々に与えられた自由であろうと思います。三理想の成立の歴史を見ることも、そうした「我々自身の三理想」を形成する上で意義あることではなかろうかと考えて、独断と偏見の謗りを顧みず一個人として推測を書いてみました。
なお、1923 年度から1944 年度までの22 年間、43(昭和18)年を除いて毎年刊行された武蔵高等学校一覧に『三理想』が載るのは29(昭和4)年版からで、しかもその文言は現在と同じ「……人物。」のスタイルで書かれています。つまり、昭和3 年度の一年間に「……人物を造ること。……力を養うこと。」のスタイルから現在の形に変えられたわけです。また、武高一覧ではずっと『三理想』のままで、『三大理想』ではありません。しかし、旧制時代の生徒達は『三大理想』という表現に慣らされてきたので、『三理想』というと違和感を覚える方もあるようです。そしてその『三大理想』の原点は、昭和3 年開校式の一木前校長式辞であることは、ほぼ確実だと思います。
一つだけ私が気がかりに思っているのは、創立の年の一学期に生徒が発刊した同人誌の名が『雄飛』で、その会の名が『雄飛会』だということです。第一回入学の先輩たち何人かに伺ったところ、「それは三大理想の雄飛だろう」といわれる方もあれば、「三大理想とは関係ない。当時の世の中では『雄飛』という言葉はそんなに珍しいものではなかったよ」といわれる方もあります。私は、私の推測にかなりの自信をもっていますが、動かぬ証拠が出て私の推論が全て崩れても致し方ないことですので、新たな資料を寄せていただけることを切望しています。