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オンケルの遺産 「民文」の礎を築いた原田亨一(井上翔)
はじめに

 原田亨一(1897–1938)は、自らの号、恩軒にかけてオンケルと自称され(高校生当時からの渾名であったという)、その愛称で生徒に非常に親しまれた旧制武蔵高校の歴史の先生である。原田は在職中、病床に倒れ、そのまま病没した。その教育熱心な授業態度や校友会活動に積極的に取り組まれる姿は教職員や生徒から多大な尊敬の念を集め、その一端は、『校友会誌』(追悼特別号)*1 によって明らかである。その内容は、まず名物教師といってよいものであり、愛敬あふれるエピソードにめぐまれている。生徒とのほほえましい話は同号に多数収められており、原田の普段の活動については、同号を読んでいただければお分かりいただけるだろう。本文では、追悼号では余り触れられなかった、原田亨一の歴史学者としての側面に注目し、学生時代のエピソードや研究テーマ、論文を参照し、武蔵の教育に与えたであろう少なからぬ影響についてみていきたい。

1938 年2 月15 日に講堂で執り行われた原田亨一教授追悼式。写真右は弔辞を読む山本良吉校長、祭壇には「有隣 恩軒」の文字がある。
1.大学・大学院学生時代

 原田亨一は、明治30 年(1897)に高知県高知市に生まれた。大正4 年(1915)に第三高等学校第二部甲類に入学するも、同8年(1919)に病気を理由に退学する。同9 年(1920)に第六高等学校文科乙類に入学し、同12 年(1923)3 月に卒業すると、同年4 月に東京帝国大学文学部国史学科に入学した。同級生には、皇国史観で固まっていた東大国史研究室を戦後になって立て直し、実証的な歴史研究で多大な業績を挙げ、後に文化勲章を受章した坂本太郎がいた。坂本は自叙伝の中で原田について以下のように語っている。

 

 原田亨一君は、肋膜で永く休んだとかで年がかなり上だった。自称オンケルOnkelというあだ名を披露して、よくみんなの面倒を見た。ただし学校の講義にはあんまり顔を見せず、修学旅行だけは休んでは卒業できぬという噂だといって参加した。無類の歌舞伎好きで、この人の案内で同級生数名が歌舞伎座の三階に行ったことがある*2。

 

 歌舞伎好きが高じて卒業論文は、出雲の阿国歌舞伎についてであり、後に昭和3 年(1928)に至文堂より『近世日本演劇の源流―阿国歌舞伎の内容と其の発展を中心として―』と題して出版されている。さすがに、戦前の研究のため現在では引用されることも少ない本書であるが、本書の史学史上の評価について、芸能史研究の大家である服部幸雄はこう論評している。

 

この書以前の歌舞伎成立史研究が、とかく「事始」的に「出雲阿国伝」にかかわりすぎて、いわゆる「出雲阿国の伝説」に入っている芸能(念仏踊・神楽など)以外に眼を向けようとしなかったのに対して、視野を周辺の先行諸芸能に拡げねばならないということに着目されたわけで、成立史研究の段階としては明らかに一つの飛躍であった。(中略)信憑性の濃い一等史料を利用するようになった嚆矢であって、このことは研究史上特筆される(中略)歌舞伎成立史が歴史学の一ジャンルとして認められていく道を開いたものといえる(中略)本書の出現によって、成立史研究が「学問」として、新しい展開を果たすことになったといってもよい*3。

 

 服部によれば、原田の研究は歌舞伎成立史研究において一大画期をなす著作として高く評価されている。原田の研究によって歌舞伎成立史研究が歴史学の一分野として確立しえたことが非常に重要な点として評価されており、この点については同級生である坂本太郎も同様に歌舞伎を歴史学的に初めて取り組まれたものと評価しているのと共通している*4。原田の代表的著作の史学史上の位置は上述のようにまとめられよう。

 歌舞伎が趣味であることは国史学研究室が毎月11 日に行っていた研究集会である十一日会の記録にもしばしば見られる。例えば、大正14 年(1925)9 月21 日の記事によれば、各自が休暇中の旅行について述べられる中で、原田は歌舞伎の写真の紹介と実地見学を説明している様子が紹介されている*5。

 大正15 年(1926)には東京帝国大学大学院に入学し、同時に史学研究室別室副手を務めている。大学院における研究題目は「室町時代の文化史的研究」であり*6、近世における歌舞伎の成立のみならず、より広く美術史、文化史へとその興味・関心が移っていたことが知られ、その造詣の深さについては、法隆寺再建・非再建論争で有名な建築史家である足立康が追悼号で指摘している*7。

 大学院に進学し、副手拝命後の同研究室における原田による重要な提言と思われるのが学生文庫の創設についてである。十一日会の記録によれば、大正15 年12 月11 日の会合において、原田が立たれて学生文庫の創設を提言された旨が記されている。学生一同また当時の同研究室の主任であった黒板勝美教授も賛成するものであり、同研究室の歴史を考える上でも非常に重要であるが、原田の人となりを考える上で重要なことは、同記事によれば、「同(原田)氏曰く「十年後の研究室を目標とすべし」」と発言されたらしいことである。原田は面倒見の良い性格だったらしく、その一例として、国史研究室の後輩である井上久米雄が急逝すると、その卒業論文をまとめて刊行することに尽力されたことがあげられる*8。また、坂本太郎は、恩師である黒板勝美が自身と原田について「君たち二人は、二人合わせて一人前の仕事ができる。まるっきり反対の性格だから」と言われたとしており、黒板氏の真意について原田が親切で面倒見もよく世事にも通じていたのに対し自分は世事にうとく役に立たないことを皮肉っていたのだろうと回想されている*9。

 この他に、原田が携わった仕事としては、平泉澄のもとで坂本太郎とともに室町時代から戦国時代にかけて関白・太政大臣であった近衛政家の日記である『後法興院政家記』の校訂作業を手伝ったりしている*10。また、注目される点として『新訂増補国史大系』の校正にも一部参加されており、担当書物は『後鏡』であった*11。『国史大系』とは歴史研究で必須かつ基本となる古典籍を集成、校訂した叢書であり、歴史研究者必携の叢書である。もとは明治時代に田口卯吉の主宰によって刊行されたもので、原田が参加したのは黒板勝美が主宰され、昭和4 年(1929)より刊行されたシリーズである。ただし、原田は健康を害したため中途でリタイアしたらしい*12。しかし、黒板勝美が自身の作業を手伝う助手として指名されていたということは黒板が原田のことを高く評価していたことの表れではなかろうか。ちなみに黒板勝美の甥にあたる黒板伸夫も旧制武蔵高等学校の卒業生であるが、伸夫が武蔵に進学することに決まったことを報告すると勝美は大変喜ばれたという*13。伸夫は18 期卒業生で昭和20 年(1945)に卒業しているので、原田の授業を受けてはいないが、黒板勝美にしてみれば、自分もよく知っている教え子が教えていた学校に甥が入学したわけで、喜んだ背景には単純に旧制高校入学を祝う以外の気持ちもあったのではないだろうか。

 いずれにせよ、原田亨一は、学生時代から人の面倒を見るのが好きな世話焼きの人物で自分の研究だけでなく、他人の研究の手伝いや仕事を熱心に行う学生であったことがうかがい知れる。このような学生生活を経た上で旧制武蔵高等学校の教員となったわけで、世話好きな一面は、生徒と積極的に関わっていく原田亨一の教育スタイルとして旧制武蔵高校の教育にも大きな影響を与えたものと考えられる。

2.研究内容

 原田亨一の論考は多いとは言えない。若くして亡くなられたことを勘案しても多い方ではないだろう。以下が確認できた活字化されている論考である。

 

1928年『近世日本演劇の源流―阿國歌舞伎の内容と其の發展を中心として』(至文堂)

1929年「信西古学圖にあらはれたる原始散樂の研究」(『歴史教育』4-2)

1929年「正倉院御物弾弓にあらはれたる原始散楽」(『寧楽』12)

1934 年「平安時代の藝術」(國史研究會編輯『岩波講座日本歴史 第3(上代2)』岩波書店)

1934年「伎楽雑攷」(『寧楽』16)

 

 これら一つ一つの論考に対して論評を加えることは避けるが、注目すべき点として、演劇史を扱う関係上からか、文献資料のみにとらわれず、信西古楽図や正倉院宝物に見える絵柄などに注目されている点があげられるであろう。文字資料にとらわれずに研究する姿勢が教育に与えた影響も十分に想定される。この他にこの様な原田の研究姿勢、能力を伺うことが出来る場面としては大学院での研究会での報告内容があげられる。以下、長文ながら原田の研究報告に関わる部分を全文引用する。

第五回例会

 十一月廿八日(木)午後四時より史料室に於て開き、五時半散會。本日は原田氏の研究發表があつた。即ち法隆寺四天王像一躰の銘文〈山口大□費上斤次木閇二人作也〉とある下に行久皮臣とあるのを行久皮臣(イクハノオミ)と解され、此の人は造像を手傳ひし人ならん云はれ、應神紀に高麗より献ぜる鐵の盾(的)を射通してイクハノ臣なる姓を與へられた者の子孫ならんとて、新撰姓氏録其他國史の記事を引用して考証された。黒板先生は評されて行にイなる発音なくユクと訓むべきであるが、行は伊と解する方可ならんと言はれた。又工藝に直接手を下すは雑戸等の賤民で姓を有する者が手を下す筈なく、又應神紀にイクハノ臣なる姓を賜つたとある記事は地名解釋説話と同じく、子孫が其の祖先を飾り、又その姓を説明せんが爲に作爲せる家の纂記の如きもので信用するべきものではないとの御説明があつた*14。

(中略)

〇志貴山縁起に見える東大寺大佛殿に就て原田亨一君

 志貴山縁起三巻中尼君の巻にある東大寺大佛殿は天平創建當時のスケツチではあるまいか。現在の大佛殿は7×7、天平當時のは11×7 である。志貴山縁起のは鎌倉時代のものではない。大佛記、東大寺要録、扶桑略記によれば、鎌倉時代のものは天平時代の土台の上にそのまゝ作られた。志貴山縁起のは正面に扉七ツあり。東大寺要録には扉十六とある。今の大佛は石台の上に蓮座があるが、志貴山縁起の図には石台のかはりに瑪瑙石(東大寺要録)の蓮辨の上に坐して居る。此の瑪瑙石の蓮辨の模様は三月堂の不空羂索觀音の蓮辨と同一形式である。この蓮辨にも三千世界の図があつたであらう。又志貴山縁起には脇侍が見えて居る。現在の石段は三つあるが、志貴山縁起のは五つに区切られて居る。石壇上の欄干は図のと同様なものが今もある。組物は図では二手先組となつて居る。又その左右の小壁に唐草模様がある。図中の一本燈籠は今も変りはない。恐らく志貴山縁起に見える図は天平創建のものであらう*15。

 

 第5 回例会報告では、法隆寺四天王像の銘文について「片文皮臣」と読まれていたものに対して、「行久皮臣」(イクハノオミ)と釈読し、仏像制作を担った人物の名前ではないかとされている。これに対して黒板勝美は、「行」には「イ」という音はなく、「伊」ではないかとされ、さらに『日本書紀』にみえる「的臣」の伝承については氏族伝承であることから史実かどうかには慎重であるべきという史料批判を展開しており、あくまでも実証、論証的歴史学を志向しようとする当時の東大国史研究室の研究姿勢が見て取れる。

 実は、この文言を「イクハノオミ」と読むことは、その後に東野治之によって1960 年代以降出土するようになった木簡等を用いて論証されており、原田の見解は―「行」と釈読した以外は―正当であったことが実証されている*16。時代状況―木簡等の出土史料が存在しない時代―から論証過程に問題があるとはいえ、史料を読み取る能力は戦後歴史学の研究者と比べても遜色がないことが明らかである。

 美術史料を多用する点は第7 回報告でも看取され、志貴山縁起絵巻に見える東大寺大仏殿の構造から絵巻に記された大仏殿を天平創建当初のものと解釈する点は、美術史的、建築史的視点が欠かせない。原田は、昭和6 年に大学院を退学されており、この他の研究内容を明らかにすることは叶わないが、この二回の報告内容が分かったことによって、①史料読解能力、②美術史に対する見識、③建築史に関わる知見、④それらを積極的に活用する先見性といった原田の歴史学的素養が明らかになったと言える。

 特に原田は武蔵高等学校に着任後、昭和4年(1929)に文化学部の事業として拓本展覧会を実施しており*17、この時には、国史学研究室所蔵の拓本を多数借用して実施している様子が明らかになっている。現在の東大日本史学研究室では、黒板勝美を中心として行われた全国の金石文拓本が所蔵されており*18、『校友会誌』の目録と所蔵拓本がほぼ一致する。また、採拓が行われた時期は原田の在学期間に一致していること、また、大学生、大学院生時代の懇話会にて黒板勝美が日本史を勉強する者の心得として様々な分野に精通すべきことを縷々述べていることから考えても、美術、芸術史料活用の積極性は黒板勝美の薫陶を受けたものであろう。そして、この黒板勝美の教えを受け、拓本展覧会に代表されるように武蔵高等学校では、単なる文献史料に捉われずに様々な史料に基づいた歴史教育が校友会活動を含めて行われたものと考えられる。

高等科の生徒たちと原田亨一教授(前列中央)
おわりに

 以上、原田の著作や研究内容、また同窓生の回顧録より原田の研究姿勢や目的意識、その識見と能力についてみて来た。最後に、原田の授業を受けて、歴史分野に大きな足跡を残した二人の太田による原田亨一に関する回顧について見て筆をおきたい。原田亨一の授業内容について、4 期(文)卒業生で帝大国史研究室を卒業し、史料編纂所教授を務めた太田晶二郎は以下のように回顧されている。

 

旧七年制私立武蔵高等学校の国史の時限、教授原田亨一先生が小冊子を生徒に配って、読めと命ぜられたので、皆、目を白黒させた。何しろ上宮聖徳法王帝説證注(『日本古典全集』本抽印)というしろ物だったのだから、

 時処移って、東京帝国大学の国史十一日会、昭和七年六月例会、「宮田〔俊彦〕君引く所の法王帝説の問題から、一年生太田晶二郎君立って明快に是を論じて気を吐く」。此れは『史学雑誌』第四十三編第七号、彙報、一三九頁にまさしく記録する所である。本当に「明快」であったかどうかは保証せぬが、半家言ぐらい持っていたとして、入学後二個月そこそこだったのだから、失礼ながら大学の御蔭ではない、原田先生の賜ものにほかならぬ*19。

 

 同じく4 期(理)卒業で、帝大工学部建築学科を卒業し、後に武蔵学園の学園長も務めた太田博太郎は以下のような回顧談を民族文化部の創立五十周年記念号に掲載されている。

 

 原田先生は、三高の理科を出て、六高の文科に行かれた。それで若干、他の生徒より年が上なもんですから、それに人の世話をするのが好きだからということもあるのかもしれませんが、当時からオンケルというあだ名があって、自分でも気に入っておられた。で、我々もオンケル、オンケルと呼んでおりましたが、そのオンケルさんの三高の時の同級生に長谷川輝雄という人がいた。東大の建築史の助教授になってすぐ、昭和二年に亡くなられてしまった。それでオンケルは自分の弟子の中から、将来を非常に属目されながら若くして亡くなった、親友、長谷川さんの代わりになる様なやつを作っておきたいと思っておられたらしい。ただ建築史は、ヨーロッパでは考古学者、または美術史家がやるけど、日本では建築の卒業生の商売になっている。当時、工学部に建築学科があったのは、東大と京大と東工大ですけれども、いずれにしても理科を卒業した人間でないと入れない。だから武蔵の理科の生徒の中で歴史が好きなやつはいないだろうかと探しておられた。そういう風にはっきり聞いたことはないんですが、遊びに行くと遅くまで引き留めて話しをされる、その口裏を察すると、どうもそういう意図があった様です*20。

 

 武蔵高校の授業内容については、一般的にアカデミックな内容と評価されることがしばしばであるが、太田晶二郎の回想は、旧制時代から原文にあたって授業を行う様子が看取され、校風の淵源が旧制時代に遡ることが出来そうである。旧制時代の武蔵については、少数精鋭のがり勉と評されることもあるが、単なるがり勉とは言い切れない側面があることがみてとれるだろう。また、太田博太郎の随想からは、「十年後の研究室を目標とすべし」と発言されたように、将来を見据えた人材育成を行っていこうという姿勢が感じ取れる。

 拓本展覧会を開くなど原田が精力的に活動された文化学部は後に民文の愛称でよばれる「民族文化部」と改称されて、現在まで続き、その卒業生の少なくない人数が歴史学者として育っていったことを考え合わせれば、原田の業績には軽視できないものがあるだろう。また、拓本展覧会では、東大国史研究室から多数の拓本を借用しており、武蔵高校と東大国史研究室との浅からぬ関係が見て取れ、その両者の間に原田の存在があることは疑いない。本文はあくまで武蔵の歴史を明らかにする目的の一端として執筆したが、本文を通じてより広い範囲に原田亨一という興味深い人物がいることが知れ渡れば幸いである。

1929 年記念祭での、民族文化部の前身であった文化学部の展示と推測される写真。左から高等科生徒、原田亨一教授、粟田賢三教授、石山乾二教授、高等科生徒。
【註】
  1. 武蔵高等学校校友会編集・発行『故原田教授追悼 校友会誌別号』(1938年)。
  2. 坂本太郎『古代史の道 考証史学六十年』(読売新聞社、1980年)62頁。
  3. 服部幸雄『歌舞伎成立の研究』(風間書房、1968年)14~17頁。
  4. 前掲『故原田教授追悼 校友会誌別号』8 頁。
  5. 東京大学文学部日本史学研究室所蔵『東京帝国大学文学部国史研究室十一日会記録』同日条。
  6. 東京大学文学部日本史学研究室所蔵『東京帝国大学大学院学生談話記録』第一回記録。
  7. 前掲『故原田教授追悼 校友会誌別号』10頁。
  8. 同上、7 頁。
  9. 前掲坂本『古代史の道 考証史学六十年』89頁。
  10. 同上、88頁。
  11. 皆川完一・山本信吉編『国史大系書目改題』下(吉川弘文館、2001年)955頁。
  12. 前掲坂本『古代史の道 考証史学六十年』98頁。
  13. 黒板伸夫・永井路子編『黒板勝美の思い出と私たちの歴史探求』(吉川弘文館、2015年)4 頁。
  14. 東京大学文学部日本史学研究室所蔵『大学院国史学科専攻学生談話会記録』昭和四年十一月廿八日付第五回例会記録。
  15. 同上、昭和五年六月十九日第七回例会記録。
  16. 東野治之「法隆寺金堂四天王像光背銘の「片文皮」」(『東京国立博物館研究誌』第388号、1983年)。
  17. 武蔵高等学校『校友会報』第9 号分冊1(1929 年)16 頁、太田博太郎「民族文化部創立当時の思い出―OB会講演より―」(『民族文化部五十周年記念随筆集』(武蔵高校民族文化部OB会、1980年)6頁。
  18. 佐藤信解説「東京大学日本史学研究室架蔵拓本目録」、同「東京大学日本史学研究室架蔵拓本目録索引」、同「東京大学日本史学研究室架蔵拓本目録(続)」(それぞれ『東京大学日本史学研究室紀要』創刊号・第2 号・第3 号、1997~1999年)。
  19. 太田晶二郎「『上宮聖徳法王帝説』夢ものがたり」(『太田晶二郎著作集』第二冊(吉川弘文館、1991年(初出は1960年))9 頁。
  20. 前掲太田博太郎「民族文化部創立当時の思い出―OB会講演より―」6~7 頁。
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