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旧制生徒の進級・留年と健康問題(井上俊一)
はじめに

 武蔵高等学校の第一回入学生は、「厳しい教育方針により、半数を超える大量の脱落者を出した」との評価が一般になされている。1922 年4 月に入学した80 名のうち七年制の規定通り1929 年3 月に卒業したものは33 名であり、47 名が留年・退学を経験したことは厳然たる事実である。しかしながらその47名はそのすべてが「厳しい教育方針」に沿わなかったがゆえの留年・退学かどうかは一考の余地がある。武蔵高等学校が日本で初めての私立七年制高等学校であったこと、また現在とは社会情勢も大きく異なる大正・昭和初期の出来事であったことを踏まえ、旧制武蔵高等学校の進級・留年事情を考えてみる。

退学・留年の比率

 まずは1922 年4 月に尋常科一年生として武蔵高等学校に入学した生徒80 名について調べることにする。80名のうち規定通りの7年で卒業したのは33 名、規定通りの年限で卒業した割合は33÷80=41%であるが、これを「わずか40%」ととらえるのは正しいのだろうか。同年代の他の高等学校ではどのような状況だったのだろうか。

 例として、武蔵とほぼ同じ時期に開校した公立の旧制高等学校である、広島高等学校を取り上げてみる。「中退率はおおむね5~10%、留年率は10~15%であり、規定通りの三年で卒業するのは75~85%である」旨が記されている*1。武蔵高等学校と広島高等学校との違いは、生徒の年齢層もあるが、最も大きな相違点は七年制と三年制である。留年は学年末に決定されるものなので、生徒にしてみれば進級・留年の判定を下される機会は三年制ならば3 回、七年制ならば7 回あることになり、これを同一の基準で比較するのは無理がある。

 ここで「単年度平均進級率」なる値を考えてみる。仮に100 名の生徒のうち90%が一年後に次学年に進級し10%が留年・退学(死亡退学を含む)するならば、さらにその翌年に進級するのは100 名×0.9×0.9=81 名、三年後は100 名×0.9×0.9×0.9=73 名のようになる。つまり三年制高等学校の場合は前述の75~85%の三乗根をとれば、単年度でどの程度の割合の生徒が留年せずに進級したかという平均的な値が求められる。参考文献に示された広島高等学校の場合では、第一回入学生である1923 年4 月入学者では(規定年限での卒業者数)/(入学者数)=152/198=0.768 の三乗根を取って91.6%、1924 年から1939 年までの入学者・卒業者の総数から計算すれば92.9%となる。のちに七年制高等学校となる甲南中学校(旧制、五年制)においても1919年4 月の第一回入学生55 名のうち、1924 年3 月に卒業した16 名に加えて甲南の高等科に進学した17 名を規定通りの卒業と考えれば、単年度平均進級率は(16+17)÷55=0.60の5 乗根を取って90.3%となる。また甲南高等学校が七年制となった1923 年4 月に高等科に入学した生徒51 名のうち規定通りの3年間で卒業したものは43 名、ここから単年度平均進級率を計算すると43 ÷ 51 = 0.84 の三乗根を取って94.5%となる*2。さらに同様に成蹊中学校(旧制五年制)においても第一回入学生55 名に対して規定年限での卒業生22 名*3、単年度平均進級率は22÷55=0.40の五乗根を取って83.3%となる。

 旧制武蔵高等学校の第一回入学生に対しても同様な計算を施すと、単年度平均進級率は(規定年限での卒業者数)/(入学者数)=33÷80の七乗根をとって88.1%となる。これをまとめたものが表1 である。武蔵を含めほとんどの学校において生徒のおおよそ90%前後が次学年に進級し、約10%が留年または退学(死亡退学を含む)したことになる。

表1  旧制中学校・高等学校第一回入学生の単年度平均進級率
退学・留年の理由

退学の理由

 単年度で見れば全体の10%程度が留年または退学となるのは武蔵高等学校だけではなく他の学校でも同様である。そこで退学者の理由について、より詳しく調べることにする。武蔵学園記念室では、伊藤誠一(29 期)および福田泰二記念室名誉顧問(30期、もと武蔵高等学校中学校長)の両氏により、旧制武蔵高等学校に在籍した生徒を網羅した「旧制生徒一覧」が作成され、各生徒の入学年および卒業年、卒業しなかった場合は退学年度とその理由が調査された。元となっているのは「同窓会会員名簿」、「武蔵高等学校一覧」などである。

 表2 に示すように、第一回入学生80 名のうち規定年限(7 年)での卒業が33 名(41.2%)、規定年限を超過しての卒業が15+5=20 名(18.8+6.3=25.1%)、退学者は27名(33.8%)である。退学者のうち死亡退学が6 名、病気による退学が5 名、その他の理由による退学が16 名となっている。その他の退学理由は主に家事都合退学と転校である。武蔵高等学校一覧に記載されている「本校諸規則」には、病気による欠席・休学・退学は保証人連署による届出と医師の診断書が必要とされている*4。すなわちこの両方を学校に提出した生徒のみが「病気理由退学」となり、それ以外は(実際には病気が理由であっても)別の理由が記載されることになる。病気によって学校を離れねばならなかったことが明らかな生徒は死亡退学(6 名)と病気退学(5 名)をあわせて少なくとも11名であり、これは退学者27 名のうちの約40%を占め、第一回入学生全体の13.8%にあたる。資料では「入学者の20%(原文まま)以上が途中退学というかなり極端な状態であった」*5と評されているが、入学者全体の約14%が病気のために退学したことにも留意する必要がある。

 病気による退学が相当数みられるが、これを同時期の統計と比較してみる*6。この資料には昭和9 年度から12 年度までの四カ年間にわたり、年度ごとに全国の中学校・高等女学校・実業学校・女子実業学校における在学者・死亡退学者・病気退学者・病気休学者・病気欠席者がまとめられており、表3 はこの資料を基に死亡・退学・休学の割合を計算したものである。旧制武蔵高等学校の在学者は12 歳から20 歳程度であり、資料でまとめられた中学校(12歳から16歳)と実業学校(12歳から16歳)に重なる部分が大きいので、健康状態に関してはひとまず同等と考えることにする。この表から男子生徒の死亡退学と病気退学はあわせておよそ1.1%、すなわち一年間病気のため死亡することも退学することもなく過ごせる生徒が98.9%であり、七年間無事で過ごせるものは98.9%の7 乗、92.5%となる。つまり当時の環境で七年間を過ごせば生徒のうち(1–92.5%)=7.5%が、一学年の生徒数が80名であれば80×7.5%=6 名程度の死亡・病気退学者が出てくるものと推測される。また死亡退学率は0.25%なので、同様に計算すれば七年間の在学中に1.7%が病没することになる。つまり七年間という長期間の学校生活では生徒80 名のうち80×1.7%=1.39名と、同期生に一名以上の病没者が出るのを覚悟しなければならなかったのが昭和初期の健康問題の実情となる。

 武蔵高等学校の第一回入学生では死亡退学者は6 名と統計から想定される値の約4倍、死亡・病気退学者を合わせた数は11 名で、想定される値の約2 倍に達する。また第二回入学生の入学試験を行った1923 年2 月、受験者のうち成績上位の120 名の身体検査を行ったところ、呼吸器の疾患だけで20 名に上り「驚くべきの至とす」旨が記録されている*5。当時の生徒の健康状態は現在想像する以上に悪く、武蔵に限らず他の旧制中学校、旧制高等学校でも多くの病気退学者がいたものと考えられる。

表2  武蔵高等学校第一回入学生の卒業者・退学者数
図1  生徒の健康調査を行う小野寺寅次郎専任講師

留年の理由

 退学者のかなりの割合を病気理由が占めるとして、留年した生徒はどのような理由によるのだろうか。ここに一枚の写真(図2)がある。武蔵高等学校は、創立の1922 年4 月に尋常科一年生となる生徒のみを募集し、7年目の1928 年4 月にしてようやく尋常科一年から高等科三年までの全学年が揃うことになるが、それを記念した1928年4 月の「開校式」の様子である。講堂の壇上には山川健次郎校長、根津嘉一郎理事長や来賓の田中義一首相、水野錬太郎文部大臣、渋沢栄一子爵や東京・京都の両帝国大学総長らが並ぶ中、生徒代表として最上級生の高等科三年生が列席している(図2 写真右端)。この生徒は1922年入学の第一回入学生だが卒業期では第一期生ではなく、この開校式ののち一度留年して第二期生として卒業している。このような場に代表として選ばれる生徒は当時の言葉を借りれば「成績優秀・品行方正・志操堅固」であり、成績や素行に問題があるとはきわめて考えにくい。留年した理由は成績・素行以外の理由と考えるのが妥当であり、健康状態に問題があったものと推測される。また1945年4 月に旧制武蔵高等学校尋常科に入学したある生徒は在学中に6 年間もの病気療養生活を送り、1957年3 月に制度が新制高校となってから卒業したことがよく知られている。これとは別に武蔵高等学校の「校友会誌」に自らの病床体験を寄稿した生徒も複数いるが、彼らは例外なく留年を経験している。これらの例は名簿その他に病気のため留年と記載があるわけではない。つまり病気のために留年せざるを得なかった生徒がいるにもかかわらず、それらは記録の上では現れてこないことになる。このような生徒は上に挙げた例にとどまらないことは容易に想像できる。

 病気による留年がどれほどの割合だったのか、武蔵高等学校に残された資料からは判別しないので、上述の表3*6 から推測を試みる。病気による休学は男性では約2.62%であり、同じ資料には死亡・退学に至る病名も統計がとられているが、その中では結核が突出して高い。資料*7によれば、1990年代に至っても結核患者の平均入院期間は約10 カ月であり、現在のような特効薬のない大正末期・昭和初期にあってはより長期の療養が必要であったことは容易に理解される。つまり当時にあっては病気にかかることは多くの場合長期療養を意味する。資料にも「休学者は進級させぬので短期の欠席者は休学とせぬ方が良い」(1934年)という記述があり*5、長期療養者は留年とされた可能性が高い。また別の資料には1928 年9 月健康調査会設立の経緯が述べられており「生徒の健康状態が理想の標準に達しないで、中途休学するものが往々あるためにその原因と思はれる事項を調査し」と記述されており、病気によって留年する生徒がしばしば出たことは明らかである*8。

 大坪秀二記念室名誉顧問(16期、元武蔵高等学校中学校長)の証言によれば、当時は結核患者が多く武蔵高等学校でも原田亨一教授が結核で亡くなったほか(1938年1 月31 日)、同期入学生(1937年入学、79名)のうち8 名が結核に罹患して休学するなどを余儀なくされたという。また結核以外の病気も流行し、16 期生ではこのために海浜学校が取りやめとなり、また大坪名誉顧問自身も病気のため山上学校を欠席している。一年間で0.25%が死亡、0.86%が病気退学、2.62%が病気休学(留年)するならば、一年間を通じて健康でいられる生徒はこれらを除いた96.3%であり、七年間を通じて健康な生徒は96.3%の七乗、全体の76.6%ということになる。生徒数80 名であれば、80×(1-76.6%)=19 名程度が病気退学又は病気のための留年を経験することになる。また留年に至らなくとも病気欠席は極めて多く、資料には「(1938 年)理科卒業某は七年間全出席であったのでそれを賞した。皆勤賞はこれが初である」*9 との記述がある。この生徒は第11回の入学生であって、この時までに入学した生徒総数871 人のうち皆勤賞がわずか一人であったことが病気欠席の極めて多かった傍証となる。

 ここまでの推論は七年制高等学校生徒(12-20 歳程度)と中学校・実業学校生徒(12-16歳)の健康状態を同等と仮定したものだが、実際には結核は10 代後半から20 代の若年層において顕著な病気であり、昭和10 年度の人口10 万人当たりの結核死亡率は10-14 歳で99.4 に対して15-19 歳では378.3、20-24 歳では467.8 となっており*7、10 代後半で結核患者は激増する。つまり表3「昭和初期の病気退学者・死亡退学者の割合」に表された死亡退学・病気退学の割合は10 代後半の旧制高等学校生徒に適用するにはかなり控えめな値であり、実際の病気退学および病気休学の割合はさらに高かった可能性がある。

 次に成績理由による留年を考えてみる。第一回生が入学した当初の成績評価は、「生徒の学年成績が平均百分の六十に達するものは進級することと定められている。従ってきわめて劣等な成績のものでも大抵進級の資格を持つ(1924 年)」*8 とされていたが、「始めて高等科生徒学年成績試験を行った(中略)十五名を原級に停める必要が生じた(1926年)」*8 となっている。この理由として「普通教育の趣旨にも反し、大学進入を目的とする者の希望にも反くこととなるので、前年度に於て学則を改正し、一般学校と進級の規定を類似せしめたために、この結果を生じたのである(1926年)」*8とされている。この時点までは尋常科において極力留年者を出さないような成績評価を行っていたが、以後は他の学校と評価基準を合わせるために、この時点で基準に達しない生徒を留年させたと読み取ることができる。

 当然ながらこの時点までにも病気退学者・病気休学者は出ており、初めての成績試験を受験できたのは尋常科一年から進級して5 年目の57 名とこの年高等科に編入した15 名の合計72 名である*4。このうち15 名が留年とされたので、試験による合格率は(72-15)/72=0.792 であり、この結果をこれまで5 年間の成績評価の累計とするならば、この5 乗根を取って0.954、すなわち尋常科一年から毎年4.6%の割合で成績理由による留年として来たのと同等の成績評価となる。他方で第一回入学生がこの時点で57 名にまで減じていることも注目するべきで、この時点まで成績理由による留年がほとんどなかったはずにもかかわらず23名が退学・死亡・留年となっている。これは毎年在学者の9 %近くが病気退学・病気療養を余儀なくされたことを意味する。

表3  昭和初期の病気退学者・死亡退学者の割合(*6 より作成)
図2  「開校式」式典(1928 年)
旧制武蔵高等学校の退学者・留年者・ 単年度平均進級率

 ここで旧制武蔵高等学校における入学年度ごとの卒業・退学および単年度平均進級率を表4 にまとめてみる。なお単年度平均進級率を計算する都合上、中途編入者はこの表に含めていない。このうち1937 年度、1938 年度入学生は戦争のため卒業が半年早められて入学から卒業まで6 年半となったが、便宜上規定所要年度を7 年としてある(表4 中の*)。1939 年度入学生は戦争のため卒業が1 年早められたため、所要年度を6 年として計算した(表4 中の**)。また1944 年度入学生は在校中に学校制度が旧制から新制に移行し、旧制尋常科四年生修了後に旧制高等科に進級したもの(一年間在学のち修了のため、所要年度は4+1=5 年)と新制高等学校2年に進級したもの(二年間在学のち卒業のため、所要年度は4+2=6 年)に分けられたため、単年度平均進級率が計算できない(表4 中の***)。また1943 年度入学生には6 年で修了の生徒がいるが、これは尋常科四年修了までの間に一度留年して1944 年度入学生と同期となり、尋常科修了後に旧制高等科に進級して一年間在学のち修了したもの。入学年度が1944 年以後の生徒は在学途中に新制の課程に移行したため、以下では計算に含めない。

 1922 年の第一回入学生から1943 年までの間に旧制武蔵高等学校尋常科1 年に入学した生徒総数1753 名のうち、規定の7 年以内に卒業した生徒は(30+69+1016)/1753=63.6 %、留年したのち卒業した生徒は(332+115)/1753=25.5%、退学した生徒は221/1753=12.6%となる。1936 年度より後の入学生には病気退学者は記録されていないが、死亡退学者がいるのに病気退学者が全くないのは不自然であり、病気退学時に医師の診断書を提出する規定*4が徐々に守られなくなっていったためと解釈するのが適切である。成績理由・病気理由以外の退学・留年に関しては、武蔵学園史年報5 号*5 にいくらか記事があり、

表4  旧制武蔵高等学校生徒の尋常科入学から卒業までの所要年度数と単年度平均進級率
  • 「生徒3 人の修学旅行中の喫煙その他不当行為処分法につき審議、1 人は出校停止の上翌年転校させること、2 人は停学とし反省の様子を見て停学を解く」(1926年11月10 日)、
  • 「一生徒を諭旨退学と決定(成績証明書の偽造)」(1927年5 月16日)
  • 「思想問題に関する生徒の処分、文三生徒3 名謹慎。文一生1 名当分出校停止いずれ転校」(1931年12月23日)
  • 「生徒2 名、思想上、進級の上退学せしむ」(1932年3 月20日)

など、素行問題による退学や、当時は危険思想とされた共産主義思想問題による退学・停学も少数ながらある。

 転校による退学については、上述のとおり学校からの実質的な追放といった意味合いのケースもあるが、転校先が他府県であったり軍の学校(陸軍士官学校、海軍兵学校、陸軍幼年学校など)や医科学校であったりと、学校から転校を強いられるのではなく保護者の転居に伴う転校または本人の意志によると推測されるケースが多い。

 理由は不明ながら一度に大量の留年者が出た記録としては

・「本年度(1946 年3 月)は学校として初めて大量の落第生を出し、理一乙の停級生16名に及ぶ」(『武蔵学園史年報』6 号 2000年)

とあり、該当する1940 年度入学者の進級率は他年度に比べて低く91.7%となっている。この年度は生徒が勤労動員されたため十分な授業が出来ず、「2 学期の試験結果も参考程度という了解もあった」にもかかわらず多数の生徒が留年とされたが、これに対する明確な説明はない。

 上述の様々な事例を含めた上で、1922 年度入学から1943 年度入学まで、規定の7 年間のうちに卒業した生徒は全体の63.6%であるが、これから単年度平均進級率を算出すれば93.7%と、他の高等学校における進級率との間に差はない。また1 期生は死亡・病気による退学が極めて多く、「半数を超える大量の脱落者を出した」という指摘のうち、病気に起因する部分は決して小さなものではない。

 進級率が他校と同程度であるにもかかわらず武蔵高等学校において留年者が多かったと指摘される理由については、一つにはその修業年限の長さが考えられる。他の七年制高等学校では初年度から複数学年の生徒募集を行ったために開校時に尋常科一年生だけでなく二年生や三年生がおり、第一期生の卒業が最も早かった旧制甲南高等学校では設立時の1923 年4 月に高等科一年生として入学した生徒が3 年後の1926 年3 月に卒業している*2。一方で武蔵高等学校では1922 年4 月の創立時に尋常科一年生のみを募集し、最初の卒業は7 年後の1929 年3 月である。長期の高等学校生活の間に病気その他による退学者・留年者が累積し、7 年後に規定通り卒業した生徒は半数以下となった。また先に挙げた1926 年、1946 年の事例のように一度の多数の留年者が出ることがあり、七年間を平均してみれば他の学校と変わらなくとも、在校生や世間一般には「多数が留年した」との印象を与えることは否めない。

結論

 旧制武蔵高等学校は七年間という長期間教育を行う学校であったため、他の旧制高等学校と同等の基準で進級が審査されたとしても規定年限の七年で卒業できるものは全体の60%程度となる。これは80%程度が三年の年限で卒業できる旧制(三年制)高等学校と比較してかなり低いと思われがちであるが、単年度平均進級率をみればどちらも同等である。また留年・退学の理由としては病気が大きな割合を占めており、特に第一回入学生では大量の病没者・病気退学者が出たことが規程年数での卒業者が少なかった大きな理由となっている。これまでは死亡退学・病気退学の状況が明らかにされていなかったために七年間という長期教育に対応する十分な考察ができず、旧制武蔵高等学校においては「厳しい教育方針により大量の脱落者を出した」という風評を生み出したものと推測される。

【註】
  1. 「昭和戦前期における高等学校の就学・進学実態」(『広島大学文書館紀要』第18号、2016年)を参照。
  2. 『甲南学園の100年』(甲南学園、2020年)
  3. 『成蹊学園百年史』(成蹊学園、2015年)
  4. 『武蔵高等学校一覧 大正十五年度』(武蔵高等学校、1926年)
  5. 『武蔵学園史年報』第5 号(武蔵学園、1999年)
  6. 『中等学校生徒の死亡者、病気退学者病気休学者病気欠席者に関する調査』(文部大臣官房体育課、1940年2 月)
  7. 公益財団法人結核予防会編『結核の統計』2021年版
  8. 『武蔵高等学校十年史:二五八二年~二五九二年』(武蔵高等学校、1932年)
  9. 『武蔵高等学校二十年史:二五八二年~二六〇一年』(武蔵高等学校、1941年)
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