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財団法人から学校法人ヘ
1951(昭和26)年,私立学校法に基づいて,財団法人根津育英会は学校法人となり,理事長には宮島清次郎が就任した。財団法人時代の役員は,ほとんどが創立者と親交のあった財界人か,創立に直接関わった教育関係者であったが,新学校法人では,私立学校法の定めるところに従って教職員・父母・卒業生から選ばれた理事・評議員が加わった。
学園経営の財政的な面について言えば,草創期には理事長の寄付で形成された財団の寄与が経常費の大半を賄い,創立後15年を経た収支の定常期にあってもなお,それは収入のほぼ6割を占めていた。
しかし,戦後の混乱の中で法人資産は著しく減価したし,創立時のように企業トップ個人の意思のみで企業としての社会への貢献ができるようなシステムは変化・消滅しつつあった。したがって,終戦後のわが国を襲った窮乏とインフレのなかで,学園を支え得たのは,財団当事者の大変な労苦の他に,在校生父母の熱心な支援によるところが大きかった。
特に,新学制発足後の数年間は,必要に迫られては後追いでしのぐ苦難の連続の財政運営であったが,とにかくこの時期を切り抜けて新しい発展の時代につなぎ得たのは,当時の父兄会の学校運営への積極的な協力であった。
戦後の苦境からの脱出
戦争末期から戦後1949(昭和24)年までの6,7年間は,冬期に暖房もない時代が続いた。本校舎東翼は陸軍東京第2造兵廠に借り上げられていたこともあり,長期の手入れ不足で施設は荒廃していた。このなかで,高校中学の人員は旧制時代の倍近くになり,新たに大学生も年々加わって,在来の施設のままではとても対処できない時期が来た。51年,大学設置の条件の一つであった図書館が書庫だけ鉄筋コンクリート造3階建,閲覧室は木造平屋建という仮の姿で落成し,53年には校地東側,旧制高校尋常科寮の焼跡に大学新校舎(後の大学2号館,2001年取壊し)が建てられ,漸く施設面での第一歩が踏み出された。
他に,56年には,戦時中のラジエーター供出以来十数年を経て,漸く集中暖房が学園全体に復活した。また,青山・鵜原2寮の修理・拡張,体育館の修理,プールの改良,剣道場の建設,グラウンドの配置変更と整備など,施設面で多くの改善が行われた。これらの多くは,当時の在校生父母や卒業生の寄付によるものであった。
この間,52年に高校と中学とが一つの機関であることを制度化する意味で教頭制を作り,新制初代教頭に内田泉之助が就任した。
大学の充実発展
1956(昭和31)年,学長・校長宮本和吉が退任し,吉野信次(当時運輸大臣)が就任した。すでに始められていた施設面での改善計画が,大学の拡充計画とあいまって進行した。59年に経営学科設置が認可され,以後,大学は単学部2学科構成となり,学生数はほぼ倍増し,内容も一段と充実した。大学の拡充に合わせて,大学としての本校舎(旧・1号館,2011年取壊し)が59年に落成し,他に大学食堂(57年),大学寮(59年),図書館・研究棟・学生ホール(63年)も完成して施設面でもかなりの前進を見た。