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Ⅱ 旧制武蔵高等学校

太平洋戦争開戦から旧制終焉まで

学校山林

 1940(昭和15)年には,2年目に入った欧州での第二次大戦や日本と米・英・蘭諸国との関係悪化のなかで,日本紀元2600年の祝典が国をあげて行われ,各学校に対してもこの行事への参加が求められた。山本校長はその参加を最小限にとどめ,独自の祝賀を行うことを決心して,父兄会の寄付金2万円によって埼玉県入間郡毛呂山町権現堂の山林1万坪を購入,ここに高等科3年生の手で檜苗を植樹させ,「目先のお祭り騒ぎよりも遠い将来に意義を求めることの重要さ」を生徒たちに説いて,押しつけられた奉祝ムードヘの批判の意をこめた。植樹や植樹後の手入れに参加した当時の生徒たちには,このことに深い感銘を受けた者が多い。

学徒動員

 1941(昭和16)年夏,高等科生約100人が選ばれて陸軍兵器廠に10日間,初めての勤労動員を受け,砲弾製造の作業に従事した。その後,軍工場その他への動員は次第に頻繁となり,同年12月,太平洋戦争の開戦となった。学校生活のあらゆる面で,戦争の影響が色濃く現れ始めた42年7月,山本校長は狭心症の病状が悪化して死去した。教頭就任以来20年余,学校の中心として生き抜いた生涯であった。

山川賞・山本賞の制定

 戦争はいよいよ激しく,1943(昭和18)年秋には学生に対しての徴兵猶予が廃止されて,多数の学生・生徒が戦地に赴いた(学徒出陣)。軍工場や農村への動員は日とともに繁く,ついには授業の体をなさぬまでになった。数多くの戦死傷,動員中の事故,さらに尋常科生徒の集団疎開など,日本のどこにもあった事柄ではあるが,武蔵の歴史のなかでも類のない深刻な体験であった。山本校長の後を継いで就任した山川黙校長は,このような時代のなかで,43年4月,山川賞・山本賞を制定した。山川健次郎先生記念会および山本家からの寄付を基金として,「生徒の正課外において卓越せる理科的/文科的研究業績を発表したものに対して」それぞれ山川賞/山本賞を授与するものであった。

 当時の状況では,課外研究など望むべくもなかったが,この制度は戦後いち早く自由な研究の気風を促し,さらに,新制武蔵高中に受け継がれて,現在に至るまで武蔵生の学校生活に強い影響を与え続けている。

 初期の山川賞・山本賞受賞研究には次のようなものがあった。

  1947年 (山川賞)「整空間論」 佐武正雄 

(山本賞)「宗教改革論」 田中幸太

  1948年 (山川賞)「墨膜に関する二三の現象」 秋山義亮,伊藤 敬

(山本賞)「最勝院五重塔小考」 中村俊亀智

  1949年 (山川賞)「格子電流について」 吉谷 豊

  1950年 (山川賞)「単細胞生物に対する毒物の作用研究の一方法」 宮地重遠

戦災と戦後の再起

 1945(昭和20)年4月,空襲によって慎独寮・剣道場・弓道場・木工金工室など木造建築物を失い,その痛手のまま終戦となった。戦後も食糧危機,精神の混乱期が続き,戦後インフレは学園の財政を窮迫に陥らせた。食糧休暇などで授業どころではない状況が続き,このような混乱のなかで,山川黙校長が辞任,代わって宮本和吉が校長に就任した。

 新学制への移行をめぐって校内外の論議も多くなり,当時の社会情勢も反映してか生徒の政治活動への参加など,世の中の風が学園に直接に吹き込むことも多くなったが,武蔵という学校がより自由な,より多様な,より雑草的精神に充ちた学校に脱皮してゆく期間でもあった。

服装規程の撤廃

 旧制時代の生徒の服装は,世間一般と同じく制服・制帽が定められていたが,帽子に白線を巻かないことで在来の旧制高校とは一線を画した。生徒間にも論議があったうえでの決定のようだが,既成のムードヘのささやかな反骨精神であったとも想像される。その代わりとでも言おうか,高等科に進学したという自覚と誇りを表徴する意味を含めて佩章の制度が定められ,3月の修了式において尋常科修了生に授与された。佩章は深紫,緑,空色の3色が“ムサシ”を表す6・3・4本の縦縞に区切られたもので,式典等の場合に着用した。武蔵生に対する佩章を武士の大小二刀に比した山川健次郎校長の訓示は,「最後の武人」と評された同校長の風貌を今に伝えている。

 20年を隔てて,戦後の解放期に,帽子にはやはり白線を巻きたいという衝動が,一部高等科生の間に広がったとしても不思議ではない。再び生徒の間で論議が繰り返され,教授会にもかけられた。曲折の末に,生徒自治会代表の意見を容れて教授会が出した結論は,「服装規程を撤廃する」というものであった。1946(昭和21)年12月,宮本校長はこのことに関する訓示のなかで,急に手に入った自由が放埒に流れることへの心配を表明しながらも,「自由こそ人間精神の本質であり,その真のあり方である」ことが憲法にも明記される新時代の武蔵で,「個性尊重と相容れない画一主義に陥りやすく,また内容の充実を伴わない形式偏重に堕し易い……形式本位の教育方針」である制服制帽主義と決別することの重さを説いた。

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