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成績評価と進級制度
新制中学高校の成績評価は,当初戦後アメリカからもたらされ,高校以下に画一的に採用された相対評価の5点法であった。その後,評価についての自主的検討が行われ,1952(昭和27)年度からは,学期ごとに絶対評価の10点法によって行われ,進級は個別の教科ごとの単位制ではなく,学年成績と出欠によって,学年ごとに判定されてきた。52年度末の教師会において,現在に続く判定制度の原型が決められている。その後,国内の教育制度が整う一方で受験競争が激化すると,履修科目の多様化や生徒数の増加もあって進級基準のいっそうの明確化が必要となった。また,かつてのように一時期の成績不振がそのまま1年間の遅れとならないよう,仮進級の制度を設けて生徒の自主的な発奮を促す指導がなされた。こうして,65年より幾つかの改訂を経て,現在では以下のような進級制度が設けられている。
・ 成績・出欠両面で基準となる数値を設け,合格・不合格の判定をする。成績は学年ごとに設定された全教科の合格基準点に達しているかどうか,また,どのような不合格点が幾つあるかによって合否を判定する。出欠については,正当な理由のない欠席・遅刻・欠課の回数により,成績とは関係なく合否を判定する。
・ 成績・出欠いずれかで不合格の判定を受けた者は,仮進級して努力するか,同じ学年を再修するかを選ぶ。
・ 2年連続して不合格の判定を受けた者は再修または退学とする。
ただし,義務教育である中学においては,どの学年においても再修はなく,中2中3で連続の不合格者は武蔵中学を卒業させるが,武蔵高校への進学を認めないこととした。
この結果,毎年不合格者は出るものの,ほとんどが仮進級して次学年に頑張りをみせ,前年度の不合格を挽回している。しかし,一部に再修または退学となる生徒がいるのも事実である。
90年代に入った頃から,社会環境の変化や家庭のあり方の変化に起因する精神的事由により学習意欲を無くした,いわゆる「不登校生」が次第に増え,進級の面での特別な配慮が必要となった。それまでの経験を踏まえ,98年度に,こうした生徒に対しては,学校精神科医や学校カウンセラーの意見を参考にして個別に対処していくことが決定された。不登校状態が長期に及ぶ場合,一定の基準を設けつつ,柔軟に対処することなどの申し合わせもなされた。
総じて,中学4クラス化以降,多様化した生徒に対し従来の進級基準を下げることなくきめ細かな指導が続けられている。
生活指導
基本的な生活習慣は各家庭で身につけるものであるが,社会の縮図としての学校においても必要な事は身につけさせている。中学1年の赤城における山上学校,中学2年の鵜原における海浜学校はそれぞれ自然と対峙する場であるが,多くの仲間や教師と寝起きを共にするなかで,一人ひとりが自分勝手に行動するのではなく,他者のために何をなすべきかを考えながら生活するよう指導している。
日常の学校生活においても,必要に応じて今日的な問題を考えさせている。携帯電話の普及がめざましい昨今,その扱い方も一つ間違えば陰湿なイジメにもつながりかねないことに鑑み,中学生を対象にして「携帯電話講習」を開き,匿名性の高い携帯電話やパソコンメールの正しい使い方を示し,今の時代におけるモラルを身につけさせるよう心掛けている。
また,この錯綜した時代,スクールカウンセラーの協力の下,相談室主催の保護者向けワークショップを年に数回開き,円滑な親子関係の構築や生徒の環境としてのより良い家庭のあり方について助言している。
生徒の学校生活は15時までの授業とそれ以後の校友会(各種委員会・部・同好会)活動に支えられている。旧制発足当時,下校時刻は夏冬を通じて16時30分であったが,時代の趨勢とともに幾つかの変遷を経て,2001(平成13)年からは,一般生徒の下校時刻は17時30分,校友会活動をしている生徒は中学生が18時,高校生は19時と決められ,教師による日直制度によって,下校時刻の徹底が図られている。
進路指導と特別授業
進路・進学指導については,組主任を中心に各教科の担当教師が生徒との話し合いにあたり,情報の提供とアドバイスをしているが,最終的な判断は生徒と家庭での話し合いに任せている。2001(平成13)年度より,7月の特別授業期間中に卒業生等に講師を依頼し,高校2年を対象に進学選択のためのガイダンスを実施している。講師の職種は医師,福祉関係,コンピュータ関係,外交官,出版社,法曹関係など多岐にわたっている。
12年度からは12月と3月にも特別授業期間を設け,キャリアガイダンス,進学ガイダンスも行うこととした。「生徒の自主性に任せる」のが武蔵の基本的な考え方であるが,時代の変化に対して必要な対応をとらざるを得なくなった。武蔵だけでなく,指示待ち人間が増えている状況では,自主性を尊重しつつも,ある程度,教師がお膳立てして生徒に方向を示す必要も出てきた。進路ガイダンスは高校2年だけでなく,中学3年から上の学年にも行うようになった。
そのようななかで,進路情報部の仕事も活発化してきている。学内模試は11年度から始め,高校生が受けている。大学進学は本来生徒が考えるべきものであるが,一定程度の手助けをする必要が出てきているのが現実である。進路情報部では,学外模試の案内,各予備校からの情報収集,キャリアガイダンスの企画などを行い,業務量も増えてきている。生徒からは,「ただの進学校であれば武蔵に来ていない」との声も多く,11年度模擬試験導入に反対する署名運動も行われた。学校としては,生徒自身の現在の状況を正確につかんでもらい,教師陣もその結果を受け止め,指導に生かすために導入を決断した。世間の風潮に迎合することなく,旧制以来の「学び」を追求し,なおかつ進学実績を上げるのが昨今の課題となっている。
夏休み前に行われる特別授業は,時間を自由に設定できる利点を活かし,毎年中学3年の歌舞伎教室や野外研究奨励のための講演や進路選択に関する講義,国外研修に行った生徒の報告会,人権講習,コミュニケーションスキルアップのためのワークショップなどが実施されている。また生徒からの希望を受け入れ,普段の授業では味わえない授業や講演を実施している。特別授業は,生徒の自主的な企画を軸に運営するのが本来の趣旨であった。しかしながら近年,生徒の自主的企画が減少し,クラスや学年単位で提案される企画が球技大会や映画鑑賞に偏るなど,その実施や運営について問題が生じているのも事実である。
課外活動の奨励
《山川賞と山本賞》
生徒の課外活動を奨励する目的で,理科的研究に対して山川健次郎第2代校長を記念して山川賞が,文科的研究に対しては山本良吉第3代校長を記念して山本賞が制定された。両賞は毎年選考のうえで与えられるもので,1943(昭和18)年,山川黙校長の代に制定され,47年に第1回の授与が行われた。
学制改革後も両賞は受け継がれ,56年,部としての応募を認めること,その年度の受賞件数を制限しないことなど,応募規定を弾力化し,該当するものがあるごとに授与されてきた。制定以後の授賞論文は2012年までに山川賞44編,山本賞25編,計69編に上る。山川賞では,物理部,生物部,化学部,気象部,太陽観測部,山本賞では民族文化部,地理研究会などがクラブ活動での日頃の成果をまとめて受賞している。個人あるいは複数の共同研究で受賞している例も多く,その分野は多岐にわたっており,内容も高度で英文の論文もある。
《野外活動奨励基金》
野外活動奨励基金制度は「本物教育」の一環として1999(平成11)年に始まった。
契機となったのは以下の事件である。97年初め,日本海で「ナホトカ号」が重油流出事件を起こし,沿岸に深刻な被害をもたらした一件があった。当時の高校1年3名が休校日を利用して福井県まで駆けつけ,寒風のもと,漂着する重油を柄杓で掬い,岩に付着したのを素手で拭い取るという作業に参加し汗を流してきた。その体験談は大変興味深いものであった。この様な活動について,学校として何らかの手助けができないものであろうかと考えたのがこの『基金制度』の始まりである。
98年秋以降具体的に検討した結果,発足したものであり,その骨子は以下の通りである。
・ 本校の教育目的に則り,生徒の自主的・個人的野外研究・実地活動を奨励し,その費用を補助する。
・ 基金は,本校関係者の寄付によることを基本とし,各年度50万円を目途とする。
・ 交通費,宿泊費,調査研究費の一部を補助する。
幸いにも多くの学校関係者の賛同を得て,生徒たちの活動に充分に対応できる状態になったが,その後2012年度現在,基金が不足気味で今後の運営資金をどのように集めるか検討中である。
自分の目で見て確かめ,触り,自分のすべてを総動員して体験すること。そしてその体験を自分の中で咀嚼し,自分独自の創造として人に伝えること。ここまで出来て初めて,学びは「本物」となる。「学び」が社会と隔絶されたものであったり,ただ知識量を誇るだけでは意味はない。
以下はこの基金を利用した活動の記録である。
06年 夏休み 高1三名 アイヌ民族研究 2泊3日
07年 夏休み 高1一名 太地・捕鯨研究 2泊3日
夏休み 高1二名 奥入瀬生物調査 3泊4日
夏休み 高1四名 佐渡・トキ研究 2泊3日
08年 2月 中3二名 太宰府調査 2泊3日
3月 高1一名 白虎隊と会津藩 2泊3日
夏休み 高2五名 海軍及び自衛隊と広島県 2泊3日
夏休み 高1三名 宮崎県椎葉村の焼畑調査 5泊6日
09年 7月 高1二名 京都の新方言調査 2泊3日
8月 高2二名 福井県旧美山町焼畑調査 2泊3日
《ボランティア活動》
2011年3月11日の東日本大震災以降,生徒たちは様々な活動を行ってきた。大震災直後,高校2年有志が銀座にある岩手県のアンテナショップの店頭に立ち,募金活動を始め,その活動を受け継いだ後輩達がいまでも現地でのボランティア活動を続けている。
高1総合学習の中で,履修者も教師の指導のもと,現地での活動を11年度,12年度と行ってきた。個別にボランティア活動を行っている生徒も多い。学校での授業だけでなく,このように社会に関心を持ち続ける生徒がいるということは大変心強い。
災害対策訓練と震災
1980年代に入り,東海地震,首都圏直下型地震の可能性が大きく伝えられ,学校もその対策として,・帰宅別グループ分けとグループ別行動の検討 ・水や食料などの備蓄品の整備を進めた。「帰宅別グループ」とは,生徒の住んでいる地域や利用する電車などを考慮して47のグループに分けたもので,警戒宣言が出た時など,中学1年から高校3年まで一緒に行動する,という単位である。
1学期に行う防災訓練(通常,地震と火災と交互に行っている)の後,グループ別の会合を行い,生徒は電車が動く,動かない両方の場合を想定して話し合いを行っている。備蓄品については,食料やアルミックシートなどの寝具,簡易トイレなどの準備を進めてきた。
さて,2011年3月11日,東日本大震災の日のことである。この日は,試験が終わった後の学年末成績提出の日であった。そう大きくはなかったものの,かなりの時間,何回も建物が揺れた。揺れが収まり校長が校内放送をかけた上,グラウンドに集合し点呼を取ると,生徒は主に部活動で来ていた130数名がいた。教職員も含めてけが人が皆無だったのは幸いであったが,待機中も,グラウンド北側の工事中のマンションが何度も揺れた。
生徒を大教室に移動させ帰宅グループに分かれ様子を見たが,JRなどの交通機関が不通となってしまい,学校近くの生徒,保護者が迎えに来られた生徒,それから若干の距離があっても保護者の承認を得て複数で徒歩での帰宅を許可した高校生を除き,大教室と多目的演習室に分かれて78名が宿泊することになった。教職員も30数名が各研究室や事務室に宿泊した。
翌朝は,交通機関が復旧したので,8時過ぎから順次,グループごとに生徒を帰宅させる方針を取った。それでも,池袋駅が前日からの帰宅者で溢れてしまい,駅に入れず一度学校に帰ってきて様子を見たりした生徒もいたし,駅に入ったはいいが,何時間も電車に乗れなかった生徒もいた。家に帰り着いたという保護者からの最後の連絡が来たのは4時過ぎであった。
初めての事態で相当戸惑いつつも,生徒も教職員も冷静であり大きな混乱はなかった。学校の色々な対応は細かく的確に行われたと言えるのではないか。しかし,今回の地震は専任教師が全員登校していた日で,一部の生徒が部活などで来ているだけだったことから対応がうまくいったが,状況によっては大きな混乱が生ずると考えられる。学校の防災意識も高まり,備蓄もかなり充実してきたが,さらに対策を加えていく必要があろう。