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山上学校と海浜学校
学校行事としてのいわゆる林間・臨海学校は社会の安定にともない,教育手段の一つとして広まっていった。そのなかで,武蔵の山上・海浜学校は学校としての特色を盛り込み,時代の変遷の中で変貌を遂げてきた。
戦中から戦後の混乱期にかけて中断されていた夏期山上学校・海浜学校の行事は,旧制創立当初から尋常科1・2年生に対して実施されていた学校の伝統行事であり,日常の規律ある学校生活にも大きな効果をもたらすことから,その再開が新制発足当時から検討された。
しかしながら,鵜原寮が利用不可能な状態であったため,山上学校だけが1949(昭和24)年,中学1年に対して有志参加で,翌50年には学年行事として軽井沢青山寮を使用して再開された。海浜学校は中学2年を対象に,51年に鵜原の旅館を借りて,52年には学校のプールで,53年には鵜原の東京学芸大学附属小学校の寮で実施され,さらに54年,中学2年父母の協力を得て鵜原寮を復旧し,14年間の空白に終止符を打って両夏期学校が完全に再開されるに至った。
《山上学校》
開校1年目の1922(大正11)年に軽井沢で行われた(夏期大学)。その頃の山上学校は午前中2~3時間,通常の勉強をし,午後は野外に出て自然に触れ,その場所でなければできないことを行った。それは自然観察や山歩きであったようだ。机上の学問でなく,自分の経験を通して感じたこと,体験を通して学んだことを大切にする「本物教育」はいまでも受け継がれている。
実施期間も最大で8泊9日,実施方法も二期制で行われたり,全員参加の一期制で行われたりした。その目的も,新制以降暫くは第3代校長であった山本良吉流の「躾教育」的な要素が強かったようだが,1960年代後半頃から教師会のなかでそのようなやり方に批判も出て,集団生活のなかでの社会性の養成という意味合いを強めていった。教育活動に占める夏期学校の意義を確認しながら,しかも絶対無事故を旗印に伝統行事を受け継いできた。それは教師全員にとって心労の多いことで,毎年その実施前後には真剣な討議が重ねられた。
80年に軽井沢青山寮が廃寮になり,翌81年から新設の赤城青山寮が利用されるようになった。さらに97年度からの中学4クラス化による生徒増に応じて,山上学校ではグループ活動を重視しての山歩きを主な活動目的とするようになった。しかし,赤城青山寮も建物の老朽化が進み,2011(平成23)年3月11日の東日本大震災でも大きな損傷を受けた。
山上学校をどのように行うかについては大きな議論が必要となっている。13年夏は寮の隣の青木旅館にも協力を仰ぎ実施する予定だが,今後その形で継続するのか場所を変えて実施するのか,あるいは山上学校の使命は終わったと考えて行事を中止するのか,大きな岐路に立っている。
1922(大正11)年 軽井沢で第1回山上学校(夏期大学)
1923(大正12)年 長野県木崎湖畔
1924(大正13)年~1925年 軽井沢(夏期大学)
1926(大正15)年~1928(昭和3)年 日光湯元
1929(昭和4)年 軽井沢(夏期大学)
1930(昭和5)年~1936年 日光湯元
1937(昭和12)年~1940年 軽井沢青山寮
1941(昭和16)年 中止
1942(昭和17)年~1943年 軽井沢青山寮(短期開催)
1944(昭和19)年~1948年 中止
*1945(昭和20)年4~9月 尋常科2,3年が軽井沢に疎開,陸軍気象部の作業を行った。
1949(昭和24)年~1980年 軽井沢青山寮
*1950(昭和25)年度は二期制で9泊10日。
*1956(昭和31)年度は6泊7日の二期制という記録がある。
*1958(昭和33)年度から8泊9日。特別日課として乗馬もあった。
*1964(昭和39)年度から7泊8日,67年度から6泊7日。
*1979(昭和54)年度から二期制で4泊5日。
*1980(昭和55)年12月赤城青山寮が竣工。新寮は根津理事長の厚志により学園に寄贈された。
1981(昭和56)年~現在 赤城青山寮
*1988(昭和63)年度から3泊4日。集合解散が前橋駅となった。
*1997(平成9)年 中学定員増4クラス化に伴い,三期制3泊4日となる。
《海浜学校》
海浜学校は1924(大正13)年,千葉県岩井の府立第四中学校の水泳場を借りて,尋常科2年有志のために行ったのが最初である。「三理想」具現化のための教育の一環として行われたという記述が,初期の「海浜学校要覧」にある。山上学校が「静」の教育であり,海浜学校は「動」の教育であるとの考えであった。身体を鍛えることによって,自己を高めるという思想が全面に押し出されていた。
1954(昭和29)年,鵜原寮復旧後は,実施期間も最大で11泊12日,中学2年全員で行っていた。実施に当たっては,この行事に賛同する教師が中心となり運営を行っていた。昔の「要覧」に「その他 校長,教頭,事務局長,校医,その他の諸先生は随時」という記述があるのが興味深い。
70年,体育館,プールが竣工し,海浜学校は大きな方向転換の時期を迎えた。授業では後に大学プールとなる古いプールと新しいプールを平行して使えるようになった。旧プールだけの時は長距離を泳ぐ力を身につけるのは海浜学校の課題であったが,二つのプールが出来て泳力が向上し,体育科のなかではわざわざ海浜学校を行う意味はないとの見解も生まれた。しかし,人間同士の触れ合いを通じて生徒の人間形成に少なからぬ影響があるのではないか,それが全くないのならやめてしまえばいいという所に議論が収斂し,目標を新たなものに改め,生徒たちの活動に教師は協力していこうということで存続が決まった。
73年からは二期制にし,生徒数を半分にした。これは,安全の確保を容易にするためと,水上での安全教育という思想を中心に据え,長い距離を泳ぐこと,潜水,サーフィンを取り入れたことによるものである。海浜学校という行事を通し,行動を共にし,生徒一人ひとりが人間的成長を遂げることを目的とするものに変わってきた。
88年に鵜原寮も改築され,さらに97年度からの中学4クラス化による生徒増に応じて,海浜では着衣泳を取り入れた海上安全教育を骨格とするなど運営形態も工夫された。また,この年から三期制となり,期間も3泊4日となった。
現在の海浜学校は,泳いでいる生徒の周りに多くの船が付き,体育科だけでなく,教師,助教で泳ぎに自信のある者が伴泳し,万が一にも事故を起こさない体制を取っている。また2011年3月11日の東日本大震災以後,安全対策にはさらに力を入れている。このような体制のなかでも船頭さんが高齢化し,いつまで協力を仰げるのか見通しが立っていない。また三期制になったことにより,体育科,組主任はほぼ2週間以上にわたり,寮に泊まり込むことになり,教員にとっては大きな負担となっている。
寮の増改築,二期制への移行も視野に入れながら,海浜学校を今後どのように運営していくべきか,または廃止すべきか,山上学校同様大きな岐路に立っている。
1924(大正13)年 開校3年目,内房岩井の東京府立四中の寮を借りて,尋常科2年有志のために海浜学校を開いた。
1927(昭和2)年 千葉県興津において開設
*学校寮所有の必要性を痛感する。
1928(昭和3)年 当時の父兄の尽力により鵜原寮が竣工(7月16日)この時以来,この地で海浜学校が行われるようになった。
1938(昭和13)年 赤痢流行のため海浜学校中止。翌年再開。40年まで開かれた。
1941(昭和16)年 7月に文部省から中止の通達を受けた。その間,軍の使用もあった。
1951(昭和26)年 鵜原館の一部を借用して戦後初の海浜学校を開いた。この時は有志のみ。
1952(昭和27)年 鵜原寮の復興を計画したが間に合わず,プールで練習。
1953(昭和28)年 東京学芸大附属小学校の寮(至楽荘)を借り実施。
1954(昭和29)年 4月,中学2年父兄の協力を得て,寮の修理に着工。7月,復旧工事完成。8月に二期に分け海浜学校を開いた。
*1956(昭和31)年は8泊9日で行われたという記録がある。午前中に50分の学習時間,夜は講話が行われた。
1957(昭和32)年 父兄会の好意により食堂を増設。収容能力が増大したので,54年度から二期に分けて行っていたのを,この年度から一期で行うこととなった。この年から11泊12日。午前中に45分の学習時間もあった。
*1961(昭和36)年度から10泊11日,1962年度は9泊10日,1969年度は6泊7日。
1973(昭和48)年 二期に分け,潜水と波乗りの課程を加えた。4泊5日で行われた。
*平成2年まで,父兄参観を許可していたとの記録がある。海浜学校開学当時は寮内にも希望する保護者を泊めていた。
1992(平成4)年 着衣泳の課程を加えた。
1998(平成10)年 中学定員増に伴い,三期制に。
2011(平成23)年 3月11日の東日本大震災の影響で中止。津波が起こる可能性はほとんど無かったが,実施を決める5月頃はまだ世間的にもそうした雰囲気ではなかった。
2012(平成24)年 海浜学校実施
地学巡検
戦前,旧制高校の理科1年次に,必修科目「地質鉱物」の中で,秩父,浅間山,日光・足尾方面や,鵜原寮完成以降は鵜原の地質などを対象として,秋に1週間程度の野外実習が「地質旅行」として行われていた。
戦後,科目として「地学」は存在したものの,しばらくは地学に関する野外実習は特には実施されなかった。しかし,理科教育における野外実習の重要性が,旧制時代からの武蔵の伝統として強く認識されていたため,1964(昭和39)年に必修科目として地学が再開されたのを機に,「地学巡検」が行われるようになった。当初は不定期に希望者のみで実施されたが,67年頃から高校1年を対象に,全員参加で巡検が行われるようになった。その後,73年から地学の学習が中学2年に移行され,2000年からは中学1年に地学の地質分野が移行されるのにともない,巡検が行われる学年も変更された。巡検先は日帰りの行程で秩父・長瀞方面,箱根方面,筑波方面で行われることが多く,地学の担当者により選定されたが,97年度からは,箱根方面での巡検が恒例となっている。08年度より中学1年の科目「科学B」のなかで地質分野を扱うことになり,箱根火山の地形観察を中心に,「神奈川県立生命の星・地球博物館」見学などが,引き続き地学巡検として行われている。
天文実習
1学年の生徒全員が参加する天文分野の実習は,おそらく1993(平成5)年,中学1年「物理」において行われた「天文博物館五島プラネタリウム」見学が初めてであろう。この実習は97年まで続いたが,生徒が近隣のプラネタリウム施設へ行くことも容易であり,また,「本物・実物に触れる」という教科教育の理念と「投影された天体の観察」との整合性を再検討した結果,同年をもって廃止された。
その後99年,中学1年に対して「県立ぐんま天文台」を利用した最初の「天文実習」が1泊2日で行われた。大小の望遠鏡利用と屋内外の展示見学といった,天文台設備を存分に利用した内容であった。翌2000年はカリキュラム移行期につき実施しなかったが,01年から中学2年「地学」において,清里高原の「山梨県立八ヶ岳少年自然の家」を利用して1泊2日で行われた。実習内容も,生徒一人ひとりが望遠鏡を操作し,本物の天体に触れる直接体験をより重視した内容に組み直された。この年以降,実習のために追尾機能付の小型屈折赤道儀式天体望遠鏡,天体観測用双眼鏡を多数揃えていった。04年までは,天文学者を招いての講演会と,同施設に程近い「国立天文台野辺山宇宙電波観測所」の見学も内容に組み入れられた。
05,06年は現地改修工事のため「茨城県立さしま少年自然の家」に開催地を移し,天文台見学を除いた内容で行われた。その後は再びカリキュラム改訂を挟み,08年より中学3年「物理」で,また10年からは中学3年「科学A」において行っている。08年以降は清里の施設を利用することで定着し,より多くの種類の天体が観測できる11月の下弦~新月の時期に開催している。現在の実習は,天文学や幾何光学の知識をもとにした生徒のグループワークを中心に行われている。
スキー教室
スキー教室は,1950(昭和25)年から山岳部顧問教師の個人指導で始まり,51年より山岳部主催で部員以外の参加者も含めて行われていたスキー合宿が始まりである。山岳部以外の参加希望が増大したため60年より学校主催のスキー教室となった。
当初は新潟県の燕温泉スキー場で実施されていたが,ゲレンデが手狭であり利便性に欠けることから70年代には長野県志賀高原横手山および熊の湯スキー場に移ることになった。その頃から運営を山岳部から体育科中心で行うようになった。体育科以外にも学内教師が指導にあたり,希望者の自由参加による実施,また12月と翌年3月に4泊5日の年間2回の実施という現在と同じ教室形態となった。
80年代には希望者増加により全学年対象から中学生対象になったが,それでも毎回120名から150名の規模での教室となっていた。
現在は12月180名程度,3月100名程度の参加希望がある。初心者から初級,中級,上級に分け,12月はシーズン初めの基礎練習を中心に,3月はツァーと称してのバス移動を含めたゲレンデ巡りを行っている。
修学旅行
関西方面の歴史的風土・文化遺産を見学することを目的とした高校2年の修学旅行は,1951(昭和26)年に復活した。戦後の混乱期から少しずつ立ち直りかけた時期であり,戦前の国史教育の反省に立った戦後の日本史学習とあいまって,復活当初の修学旅行には新鮮な活気があった。しかし同時に,団体旅行につきものの無責任な風潮の萌芽も,すでにそこに存したといえよう。その後,集団観光旅行が観光地に充満する時代のなかで,武蔵の修学旅行は,コース選択制・グループ見学方式など先駆的な改善を行ってきたが,ついに修学旅行という因襲的形態にまつわる欠陥を除去し得なかった。集団のなかに個々の責任が埋没してしまうような学校行事はむしろ進んで廃止し,そこで失われる修学旅行の美点は別の形で追求すべきであるという考えのもとに,78年を最後に廃止された。中学3年も東北旅行を実施していたが,66年を最後に廃止された。