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Ⅳ 新制武蔵高等学校・中学校

校友会活動

生徒の活動と教師

 生徒の活動の母体は全生徒教師からなる校友会であり,新制においては1951(昭和26)年以来,中高一体の組織として日常の活動と学校行事を企画・運営してきた。

 武蔵では,伝統的に生徒の自主的な活動を尊重してきた。学校行事としての,記念祭・体育祭・強歩大会は生徒の代表による運営をそれぞれの顧問教師が表からはよく見えないところで支えて成り立っている。生徒の活動は,運動部・文化部ともそれぞれの特色を生かし多彩である。

 79年,同窓会の主催でホームカミングディが設けられた。運動部を中心に一部の文化部も参加して,各部のOBが秋の一日に母校を訪れ,現役部員と交歓の場を持ち,相互の親睦を深めている。他の多くの部活動においても,卒業生がコーチとして指導に加わり,顧問教師と一体となって生徒の指導に当たっている。文化部での活動も盛んで,記念祭での発表を中心に,部によっては共同研究により,山川賞・山本賞に応募し,受賞するところもある。音楽部は記念祭での演奏以外にも,秋には練馬文化センターでの定期演奏会が恒例化している。

 かつて,長野県白馬村で稲作を行ったり,校内で鶏を飼うなどした「豊作会」という生徒の自主的な活動があった。これがやがて家庭科の実習,さらには総合講座の下地になった。その流れを汲んで,2011(平成23)年秋,総合講座「やぎの研究」が開講した。ペットとは異なり,野生の感じられる動物の命と向き合い,“逞しく生きる力”に触れる事で,生徒達にとって貴重な体験の数々をさせようというものである。また,同時に,総合講座の履修者のみならず,学園全体の教職員・生徒・学生にとっての和やかな空間も作り出しており,一面において武蔵の教育を象徴するものとなりつつある。

学校行事

《記念祭》

 新制発足後の数年間は,高校中学と大学合同の記念祭が行われた。しかし1954(昭和29)年に至り両者は分離し,高中独自の記念祭が始められた。創立記念日の4月17日には,毎年,卒業生による記念講演が慣例となり,記念祭はそれに続く土曜・日曜に行われた。しかし,70年代以後は,準備の関係もあって4月下旬の週末に開催される慣行となった。なお,17日の記念講演は2002(平成14)年度以降行われていない。

 90年代の中頃からは,生徒・教師合同での書道展,高1家庭科から発展した高校1年生徒による総合講座の研究発表も加わり,内容が多様化した。一時期に比べて,模擬店や飲食団体は減少傾向にあるが,一方で武蔵グッズ販売やバザー,縁日・駄菓子は好評を得て続けられている。また,奇術部やジャグリングなどをはじめ,理科・社会系の部活動団体も毎年充実した活動報告を行っている。

 近年,記念祭の歴史は一面で生徒側と教師側との団交の歴史であると言える。毎年繰り返される,互いに開催期間と日程とを主張し合う戦いの場であった。しかし,過去35年間の記念祭開催日程をみると,すべて4月23日から5月1日までの間の金曜~日曜日の3日間となっている。毎年,ほぼ結論は出ていた状況ではあったが,交渉過程での議論に意味があった。何のための記念祭か,その目標と意義とをじっくり検討したうえで開催期間を考えるという,いかにも武蔵らしい伝統が長く続いている。

 だが,2011年3月11日の東日本大震災によって記念祭は中止を迫られた。相次ぐ余震のなか4月開催は見送られ,その後,小委員会スタッフと教師側とで数度に及ぶ協議と交渉の結果,第89回記念祭は6月の2日間で縮小開催とする異例の決定に至った。ただし,避難訓練を実施し警備員を増員して避難誘導体制を万全とする等の条件付き開催であった。12年は再び3日間開催に戻った。近年は後片付け翌日に代休を確保するとの前提で日程調整が行われてきた。生徒・教師の疲弊,意義内容の程度,モチベーションの維持などの問題から,3日開催の再検討について議論が行われている。

 ただし,小委員会スタッフや部活動団体においては,生徒を主体とする組織がよく機能しており,「生徒による生徒のための記念祭」は,なお武蔵の良き伝統として受け継がれている。

≪体育祭≫

 1954(昭和29)年以来行われている2日制の体育祭が,現在も続いている。第1日が球技大会,第2日が団体競技(いわゆる運動会)という形も変わっていない。ただ,中学・高校がともに4クラスになったことにより,球技大会も団体競技もクラス対抗形式になった。中学1年~高校3年までの生徒がクラスにより同じ色のTシャツを着用し,競技に熱中し,得点を競い合う。従来より白熱した体育祭となり,今日まで続いている。

《強歩大会》

 当初の競歩大会は,学校から野火止(埼玉県新座市)の平林寺までの往復35キロで,随所に武蔵野の面影の残るコースであった。その後,郊外の発展にともない急速な都市化が進み,交通量の増大や環境の悪化にコース変更を余儀なくされた。より安全な場所を求めて,多摩湖・狭山湖畔に移り,さらに1973(昭和48)年からは飯能周辺で開催されることが多くなった。この頃からコースに遊歩道や山道が多くなり,距離は30キロ以下に短縮した。また,期日も75年以降交通量の少ない1月15日の成人の日に定着していたが,成人の日の変更に伴い,現在は2月の第2日曜日に行われている。実施場所は,その後神奈川県の横浜ベイエリアや港北ニュータウン,相模湖周辺や湘南平,ひいては名所旧跡地の鎌倉・逗子方面まで足を延ばすようになった。ここ数年は大宮・浦和方面でも実施している。さらに留学生の受け入れ時期と重なり,中国や韓国からの留学生も参加するようになった。

 計画から準備運営まで強歩大会小委員会がほとんど自主的に行い,夏休みからコースの選定が始まり,外部との交渉,下見などの準備は,安全面を最優先に献身的な努力がなされている。

クラブ活動

 学校が家庭に次いで居心地の良い情動の交流空間であるようにとの配慮は,学校をとりまく環境の悪化とともに,ますます強く望まれるところである。しかし,1970(昭和45)年に高校中学校舎,体育館,プール等の整備が完了するまでは,大学と高校中学とが施設を共同使用するといった不自由な状態であった。にもかかわらず生徒の課外活動は,運動部,文化部,同好会,愛好会が,それぞれ消長はありながら活発に着実な歩みを続けてきた。

 運動部では,バスケットボール部が50年から60年までと68年から70年までの間,全国高校選手権大会に出場し,54年,56年,57年と3回優勝,51,55年には準優勝を遂げている。水泳部も水球の部で75年から3年連続全国高校選手権大会に出場し,75,76の両年には準優勝を飾った。硬式テニス部や陸上競技部も,全国大会出場の経験を持っている。その他幾つもの部が,東京都大会において上位進出を果たしている。

 その後,ここ10年の活動で全国優勝やそれに匹敵するような成果はほとんど見られないが,将棋部は高校選手権団体2位,関東高校リーグ準優勝などの成果をあげている。その他目立ったものとしては,中学水球の全国中学校選抜,硬式テニス部の東京都ジュニアテニスチャンピオンシップ「小・中学校の部」優勝,中学卓球部,サッカー部,バレーボール部,野球部の練馬区大会優勝がある。文化部のなかでは,太陽観測部が05年3月,「75年にわたる太陽面の継続観測」に対して,日本天文学会から天文功労賞を授与され,化学部が「科学論文コンクール」の優秀賞など幾つかの賞を受賞し,ESSがインターハイドラマフェスティバルに優勝している。

生徒国外研修制度

 武蔵の三理想を形に表す方策の一つとして,旧制時代には外遊制度があった[1927(昭和2)年~43年]。しかし戦時中に実行不可能になり,新学制に移行後も復活のないまま自然消滅していた。やがて国際交流も次第に活発となり,他方,受験競争が激化する風潮のなかで,武蔵独自の教育姿勢を明確にする方向が検討された。そこで外遊生の一人であった大坪秀二校長(当時)を中心に国外研修制度が企画された。また平田篤信氏(17期理科)の寄付を基に募金活動が推進され,根津嘉一郎(二代)理事長を含む旧外遊生その他同窓生有志の後援を得た。

 「生徒国外研修制度」は,1987(昭和62)年の理事会承認を経て,翌88年春には3カ国(中国,西ドイツ[当時],フランス)への派遣生5名をもって開始された。以後,毎年各国へ2~4名ずつがそれぞれの提携校へ留学し,先方からも留学生が派遣されてくる形を原則とする制度が定着していった。提携校の選択は,お互いの文化を学ぶという主旨から,日本語コースを持っている学校を探し,履修生を武蔵に受け入れるように努めている。その上で,武蔵生の希望者が相当数に上ること,海外における日本語熱の増加とともに年々制度の拡充がはかられてきた。

 現在は同窓生などの定期的な寄付ばかりでなく,高等学校同窓会の毎年の寄付も得て,生徒の海外研修が支えられている。

〈ドイツ,オーストリア〉

 ドイツ派遣は,2年目からミュンヘン・マクシミリアン校を中心に交換が行われたが,1992(平成4)年にはオーストリア・ウィーンのテレジアヌム校が加わった。両校とは,ほぼ毎年生徒の交換が実施されている。そして98年から2008年までハンブルグのヘレーネ・ラング校と交換し,01年から現在までベルリンの学校(カミーユ・クローデル校,ヒルデガルト・ヴェークシャイダー校,フェリックス・メンデルスゾーン・バートルディ校,カニジウス・コレグなど)との提携も行われている。

〈フランス〉

 フランスの提携校は初めのうちはポアチェのヴィクトル・ユゴー校,パリのジャン・ドゥ・ラ・フォンテーヌ校,ボルドーのマジャンディ校と提携していたが,現在はラ・ロシェルのサンテグジュペリ校,リヨンのオンブローザ校と生徒を交換している。

〈イギリス〉

 1989(平成元)年からイギリス・イートン校と1名ずつの交換が始まり,90年から3年間は,イートン校開校550周年記念の国際奨学生として武蔵生の1年間ずつの受け入れが実現した。その後,交換生は2名が原則となり,また,イートン校のサッカーチームとの交流試合も行われたが,イートンの経営事情から2010年の派遣をもって交換は終了した。現在英語圏の学校との交換を模索中であり,12年には試験的にイギリス・モールバーン校と1名生徒を交換した。

 なお,1990年から10年間,武蔵から計5名の教師をイートンに派遣し,日本語授業を行った。

〈中国〉

 中国は,国家体制の違いから提携校を見つけることが困難で,はじめは北京大学などの中国語コースに参加してきたが,漸く1993(平成5)年から北京の中国人民大学附属中学へ,99年からは天津の南開大学附属中学への派遣が実現した。現在は人民大学附属中学に2名から4名の生徒を派遣し,武蔵にも生徒を受け入れている。

〈韓国〉

 韓国・朝鮮語の新設にともない,韓国への派遣も1994(平成6)年に始まった。しばらくソウルの高麗大学の韓国語コースに参加する形態が続いたが,2002年春にソウルの漢栄(ハニョン)外国語高等学校との相互交換が始まり現在に続いている。

 制度が発足した当初,学年の1割派遣を目標にしてきたが,その見込みをほぼ達成した。2012年現在,累計312名の生徒を派遣している。派遣生のなかには,卒業後派遣国に暮らしたり,国際関係に携わるといった,目に見える形で成果を表す者や,派遣国で後輩の派遣生の面倒を見る者が出てきた。また派遣されなかった生徒も,世界を身近に感じ,勇気を持って国外に出かけるようになったと思われる。しかし一方,日本の景気後退とともに,武蔵でも外に出て行く気概を持った若者が少なくなってきたように見えるのは残念である。領土を巡る国際間の摩擦が起こっているなか,互いに行き来して理解し合うことこそ重要なことであり,本校に望まれることだと確信している。

 11年3月11日に東日本大震災が発生したとき,中国にはすでに派遣済みだったが,その他の国へは翌日から数日後に控えている状況であった。学校では,部活などで残っている生徒を校庭に避難させ対応を図りつつ,今回の派遣をどうするか校長,国外研修委員の間で相談した。とりあえず予定の出発をキャンセルし,派遣生とその保護者や相手先,旅行代理店と連絡をとりながら実施の可能性を探った。数日後には派遣を1週間遅らせて実行することを決定し,関西空港発に変更になった便は家族が飛行場まで付き添うことになった。また旅行代理店の迅速な対応もあって,生徒を無事送ることができた。当時送り出す方としては,派遣生が帰国したくても帰る国がなくなっているかもしれない,というくらいの気持ちで送り出したものだった。一方震災後の受け入れは,放射能を心配してか,10月にベルリンの高校生が1名来校したのみであった。しかし翌12年には,ほぼ例年通りアジア,ヨーロッパから高校生が来校した。

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