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Ⅳ 新制武蔵高等学校・中学校

新制武蔵高等学校・中学校の発足

新学制の六年制として

 1948(昭和23)年に新制武蔵高等学校,翌49年には武蔵中学校が発足した。新制度のもと,旧制七年制の精神を中学高校一貫の六年制に受け継ぎ,建学の理想を支えに再出発した。

 とは言っても,社会の中における学校が置かれた位置は,旧制・新制の間には大きな違いがある。旧制高校は,少数の選良校であり旧制の国立大学にほぼ直結した学校であった。特に七年制高校は旧学制の中でもっとも狭い関門である高校入試の苦労をせず,修業年限を1年短縮できる利点を有していた。旧制武蔵高等学校に豊かな資質に恵まれた入学志願者が殺到したのは当然であった。

 学制改革で,中等教育が前期の中学校3年,後期の高等学校3年に分けられた。新制度が発足した48年度で3,575校という数の高等学校が誕生した。狭き関門は高校入学時ではなく大学進学時に移り,新制高等学校の社会における立場は旧制時代とは全く異なるものとなった。しかし,このことは新しい環境の中で一貫教育を軌道に乗せ,魅力的な高校中学であろうとする努力の日々の始まりを意味していた。

その後のあゆみ

 新制発足当初は,旧制高校の最後の校長であった宮本和吉が大学学長と高校中学校校長を兼ね,高校中学にはそれぞれ主事が置かれた。その後1952(昭和27)年に教頭職が復活,以後,学長と校長を兼務する学園統括者の下で教頭・主事体制が続いたが,主事制は67年に廃止された。75年,学園長制度が発足し,初代学園長に正田建次郎が就任。同時に,教頭大坪秀二が新職制による初代校長に就任,教頭・校長として20年の長きに亘って今日の武蔵の礎を築いた。小規模校ということもあり当初,教頭は空席とされたが,仕事量の増大等により,87年,2代校長小林奎二の就任からは教頭職も置かれるようになった。

 新制開設直後の過渡期をのぞき高校中学ともに3学級であったが,同世代人口の増加とともに,65年,高校が1学年4学級に増えた。69年には新校舎が建設され,旧校舎(現・大学3号館)から移転し,濯川を境に大学とキャンパスを分けることになった。

 96年12月の新棟竣工を受けて,翌年4月の中学1年生から中学4学級編成となり,2000(平成12)年から高校入試を廃止し,高校中学全学年4学級となり今日に至っている。

 中学入試のあり方も少し変わり,従来,「国語」「算数」「社会・理科」の3科目で行っていたものを,09年よりは,「社会」と「理科」を分離独立させ4科目とし,より緻密な能力判定を行うようにした。

 この間も,新棟建設,図書館棟の建設,各教室のエアコン設置,グラウンドの人工芝敷設,奨学金制度の充実,生徒相談室の設置等,教育環境の整備に努めて来た。

進学と学校教育

 中等教育の目的は生徒を全人的に育て,社会に送り出すことである。武蔵での教育は,その原点に立って考え続けられてきた。三理想は本校の教育の根幹をなす。まず自らを鍛え,律し,その自立した自己で他者と対峙する。その自己が世界に羽ばたく。

 人を育てるということが教育の本来の目的であるにも拘わらず,今の時代では大学進学実績を上げることにのみに汲々としている学校も多い。進学実績の落ち込みが問題とされているが,本来の教育の目的を達成しようとする試みがあったうえでの進学実績の向上でなければならない。

 教育だけでなく,日本全体で短絡的な発想による行き過ぎた数値目標・成果主義が蔓延しているように思われる。教育現場でも効率の良さが求められ,武蔵の伝統的な旧制以来の学問への高い志に対して適切な評価が得られにくくなっている。このような世間の風潮に抗いつつ,武蔵は,大学進学においても生徒の大多数が自らの志望校に入ることができるよう,教師も生徒も努力を続けている。

 大学入試結果を煽る風潮は今に始まったことでなく,ベビーブーム時代にその萌芽をみることができる。武蔵でも,1957(昭和32)年の受験者数が262名,その後,少しずつの増加が認められたが,60年に受験者数は1,353名と過去最大となった。その後63年には615名と落ち着きを取り戻すが,この頃から,武蔵をみる世間の,そして保護者の目が変わってきた。中学入試の激戦を勝ち抜いてきたからには,大学進学についても,相応の結果を出すようにとの保護者からの有形無形の圧力があった。

 「学び」本来の姿を語ることが困難な時代であればこそ,武蔵から教育についてのメッセージを発信し続けなければならない。

社会環境の変化

 高校中学教師の難しさは精神的,肉体的に未熟な生徒たちを,授業をはじめ,校外学習,部活動などを通して育てながら,教師自身が専門の研究も続けていくことである。武蔵の教師は自分の学問を高めようと日夜努力している。しかし,昔と違い,生徒・保護者に関わる時間が格段に増えている。研究に励みたくてもそれが時間的な制約のなかで許されない環境となってきたことは問題である。

 ここ10年ほどで社会も大きく変化した。インターネットの普及,携帯電話に代表されるソーシャルメディアの社会への浸透に伴い,社会も大きく変化し,生徒たちにも大きな影響が及んでいる。このような道具は便利である反面,大きな弊害も生んでいる。ネット依存により,勉学に身が入らない生徒が出てきたことも大きな問題である。今までは,学校生活に不適応な生徒に対し,教師,保護者の指導はそれほど大変ではなかった。現在は,学力低下ではなく,学ぶ意欲の低下が大きな問題となっている。この原因は複合的で一言では言い表せない。家庭環境の変化,生徒のメンタルな問題など考えなければならない要因が幾つもあり,教師がカバーする限界を超えているのが現状である。スクールカウンセラー,児童精神科医を校内に配し,生徒への対応を行っているが,それで問題が解決するわけではなく,この縺れた糸をほぐすため,粘り強く解決策を探っていくことが教師に求められている。

教師集団のあり方

 各校では新人研修があり,そのなかで教師としての心構えを叩き込まれる。授業以外にもクラス運営など,生徒と接する能力が求められる。武蔵では教師にも「自調自考」が求められ,先輩教師から技を盗むしかない。これが良い面でもあり,悪い面でもある。マニュアル通り行動していれば,新人教師も初年度からそれなりに務まるというような学校では教師は育たない。教師の「自調自考」を阻害する。たとえ回り道であっても,教師もやるべきことを自分で見つけるしかない。武蔵の教師集団は,長年そのようなスタイルで行動してきたが,学校教育の現場でもマニュアルがないと行動できなくなってきていることも事実である。社会全体を覆う「面倒見の良さ」が教育にマイナスの効果として出ている面もある。

 旧制以来,武蔵を支えてきた教師集団のあり方も,そのような流れに飲み込まれないように気をつけなければならない。武蔵では,校長および教頭が理事の側面を持つ以外は,全員が基本的に平等な立場であることを原則としてきた。今でもお互いに「さん」づけで呼び合い,役職名で呼ぶことはない。互いに「先生」と呼ぶこともない。それぞれの分野でプロフェッショナルであり,校務分掌の役職は上下関係ではない。教師会,学年会,各種委員会などでは出席者の意見は同等の重みを持ち,合意の形成が重んじられている。そうした関係のなかで,一人ひとりの教師が学校運営に責任を持って考え,教師同士が互いに学び,成長し合う態度が生まれてくる。こういう仲間によって個性豊かな武蔵の校風が形成されているのである。一人ひとりの教師が授業の創造を軸に生徒と向き合い,個々の専門性と力量との向上に努力することのできる環境づくりが旧制末期から新制初期に行われてきた。これは山川黙,宮本和吉両校長の理解ある配慮があったことは間違いないであろうし,その定着には学園長制度導入により専任の校長となった大坪秀二(教頭1967.4~75.3,校長75.4~87.3)はじめ歴代校長のリーダーシップによるところが大きい。

 戦後復興と経済成長,またそれに続く停滞の時代の中で,日本社会は管理重視と画一化への道を辿ってきた。多くの学校もその道筋を辿っているが,武蔵はこれらと一線を画し,教育の世界において独自の地位を築いていかなければならない。

  • 武藏のあゆみ
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