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その他の事柄
尋常科の寄宿舎
創立の年の9月から,尋常科生のための寮が開設された。これは元来,遠隔地からの生徒を収容するための施設であったが,通学可能な東京在住者からも入寮希望があって,その後も増築され,1年生から4年生まで約40~60人の生徒たちが起居を共にすることになった。「慎独寮」は2代校長山川健次郎の命名である。数名の舎監が交替で生徒と生活を共にし,毎週,舎監と寮生との対話・討議の機会(「無邪志会」と呼ばれた)が設けられ,活発に運営された。節句・名月・新年などに家庭的な伝統行事を取り入れたり,クロスカントリー競走・試胆会・寒稽古など鍛練の機会もあった。
1945(昭和20)年4月13~14日の空襲で焼失した後も,荒牧鉄雄元教授宅を借用するなどして寮は続けられたが,終戦後の窮乏期のなかで消滅した。
高等科の寄宿舎
高等科発足にあたって,尋常科寮の経験者のなかからの要望を容れて寮が設置された。初年度,1926(大正15)年は校外に借家して発足したが,第2年度から校地西隅に「双桂」・「愛日」の2寮が建設された。どちらも16人収容の小さなもので,運営は生徒の自主性に任され,2寮それぞれの個性を形成した。
この他に,学校が認めたものとして,6期理科卒業生矢部正澄の発意で作られ,矢部塾頭の個人的指導を特色とした「弘正塾」(36~43年),太平洋戦争開戦で無人となった外国人教師用舎宅を利用して生徒有志が新しい共同生活を求めた「致誠寮」(44~45年)があった。
双桂・愛日2寮は,新制移行後に,51年,高校寮として再開され,「武蔵寮」のち「白雉寮」と命名されて,68年3月,江古田校地の再編事業で撤去されるまで存続した。
在外研究員と外遊生
1925(大正14)年,小野赳教授が初めての在外研究員として1年間イギリスに派遣された。その後,山川健次郎校長がその就任にあたり,根津育英会に対して教員の在外研究制度の確立を強く要望した結果,続いて,化学1名,英語1名,ドイツ語1名が派遣された。また別に,父母有志の寄付による「職員外遊資金」が作られて,短期間の国外出張・視察も多数行われた。
第1回入学生で在校中に死亡した生徒の父からの寄付を基礎に,有志の醵金を積んで,24年「外遊基金団」ができた。これは,本校三理想の第2項を強調する目的で,高等科2年生から1,2名を選び,夏休みに国外を旅行させる制度で,第1回(27年)から17回(43年)まで,合計25名の外遊生を派遣した。