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Ⅱ 旧制武蔵高等学校

山上学校と海浜学校

 創立の年から,軽井沢夏期大学の施設を借用して夏期学校を始めた。これは,和田八重造講師の進言を容れたものと言われている。都会育ちの少年たちに自然のなかでの生活を体験させ,日常の起居,観察・学習,運動を通して自ら調べ自ら考え,自らを律しさせる体験学習であった。

 米国におけるサマーキャンプは第一次大戦前後に多数創始されているが,その頃に米国の教育視察をした和田は,その運動に共感して帰国したのではなかったろうか。第3年目には,内房岩井の東京府立四中の寮を借りて,尋常科2年生希望者のための海浜学校が行われ,以後「山上」「海浜」の名が定着した。このような活動は,わが国の学校教育のなかで先駆的なものというわけではないが,十分な日程をとり,明確な目標を持って積極的に取り組んだ計画としては,かなり早期のものと言えるであろう。

 山上学校は1926(大正15)年から場所を日光湯元に移し,旅館を借りて行うようになった。戦場ヶ原など自然観察の適地にめぐまれ,白根山その他一日の登山に格好の高山もあって,実り多い山上学校であったが,日常の起居については,旅館泊りであることの短所が多かった。37年,既述のように,軽井沢に青山寮が建てられ,これを利用して山上学校を行うようになった。

 海浜学校については,これも当時の父母の寄付によって,28年,外房鵜原の地に鵜原寮が建設され,以後,海浜学校は戦中戦後の中断を除き,今日までここを用いて行われている。

 山上学校は尋常科1年生中心,海浜学校は尋常科2年生中心ではあったが,はじめ10年間ほどは必ずしも一定せず,参加者は数学年にわたった。32年ごろから,原則として全員参加,学年も指定されるようになり,軽井沢に青山寮が建てられるに及んで形態がほぼ確定した。特に,青山寮での山上学校は,野外活動は従来通りであったが,寮での学習は専ら英語を行うこととし,山本校長自らも英語を講じた。寮での生活は,清潔・整頓から配膳・後片付け,食事のマナーまで日常生活のすべてに校長の指導が及んだ体験学習であり,また寮周辺の環境整備に汗を流す労働もあった。

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