一木喜徳郎
一木喜徳郎
武蔵高等学校初代校長、一木喜徳郎(いっき きとくろう)。
慶応3年(1867年)4月4日静岡県掛川の岡田良一郎の次男として出生、1873年に一木家の養子となる。
帝国大学卒業後に内務省入省、在職中にドイツ帝国に私費留学し行政法を修める。
帰国後は帝国大学教授に就任し、国際法、行政法を担当する。
1900年には貴族院勅撰議員に就任、以後法制局長官、内務次官などを歴任、1914年には文部大臣、1915年に内務大臣、1917年には枢密顧問官に就任する。
1917年の臨時教育会議には委員として参加、七年制高等学校制度を推進する立場をとる。
1919年には平田東助の推薦を受けて武蔵高等学校設立に関する協議に関わり、設立認可後の1921年12月25日初代校長に就任する。
1925年に宮内大臣に就任したため1926年4月に校長を辞任、のちに枢密院議長となり天皇の相談役を務める。
1926年一木喜徳郎校長(壇上)
そののち根津嘉一郎初代理事長、第二代根津藤太郎理事長の後を請けて1940年に第三代根津育英会理事長に就任し、1944年に亡くなるまで学校の運営に当たった。
官僚・学者・政治家として活躍し、天皇機関説を提唱したことでも知られる。
後年の一木喜徳郎
なお根津育英会評議員を務めた岡田良平文部大臣は一木喜徳郎の実兄である。
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