本間則忠
本間則忠
武蔵高等学校設立に際して根津嘉一郎に学校設立を進言し、具体的なプランを策定した文部官僚。
慶応元年(1865年)8月25日山形県東置賜郡出身。1898年東京高等師範学校を卒業して教員となる。
1905年に高等文官試験に合格し、文部省事務官として島根県、鳥取県、山梨県、大分県、栃木県に赴任する。
1915年、育英事業の重要性を根津嘉一郎に提言、根津は己の公共事業への志と一致するところが多い事を認め、友人の宮島清次郎・正田貞一郎を加えた4人で学校創設の構想を練ることとになる。
本間則忠は臨時教育会議総裁である平田東助を根津に紹介し、平田東助は一木喜徳郎、山川健次郎、岡田良平、北条時敬の4人を相談役として根津に推薦した。
なお平田は本間の同郷の先輩で、上京時の保証人として頼った時からの縁であり、本間は平田の息子の家庭教師をしていた時期もある。
1921年9月28日に根津育英会設立許可されると本間則忠は理事に就任する。
1924年、自ら富士見高等女学校を創設し初代校長に就任する。
1928年10月7日に根津育英会理事を退任、郷里の山形県に転居、1938年10月10日逝去。
晩年の本間則忠
2016年5月、山形県の旧本間宅より武蔵高等学校設立に関する資料を含む大量の文書が発見される。
この資料は大滝則忠(もと国立国会図書館長)氏によって整理・分類が行われ、武蔵学園、愛知大学、山形県川西町など関係各所に寄贈される。
愛知大学
川西町