濯川
濯川
濯川は江古田校地をほぼ二分して東西に流れる小川である。
千川上水の分水で、学校創立以前から敷地内を流れ、農業用水として利用されていた。
買収前校地地図
1925年に校地南側の運動場整備が完了した際に山本良吉教頭が「濯川」と命名した。
命名の由来となったのは、中国戦国時代の詩人・屈原の「漁父辞」の一節である。
「滄浪の水清まば、以ってわが纓を濯ぐべし。滄浪の水濁らば、以ってわが足を濯ぐべし」
1935年の濯川
濯川は学校として格好の環境を提供し、生徒たちも自らの手で護岸・植樹などの周辺整備を行った。
濯川周辺の工事をする生徒
1960年代に千川上水が暗渠となると濯川へ分かれる水量も減少し、濯川周辺の環境は悪化した。
1979年の濯川
1980年代に入ると学園創立60周年の記念事業として、太田博太郎学園長・大坪秀二校長による濯川蘇生計画が企図される。
濯川蘇生計画と太田学園長
後援会・同窓会からの寄附を募り、河床・護岸の回収、井戸および還流水を供給するポンプを設置し、清流が蘇った。
また併せて水辺の整備もおこなわれることで、教材となる武蔵野の草木や水棲生物も考慮した生態系が構築されることになる。
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