山川黙
山川黙
1886年7月26日、東京市助役を務めた河田烋の次男として誕生。
山川健次郎の甥である山川戈登(やまかわ ごるどん)とは大学在学中親交があり、戈登の没後に山川健次郎の姉である山川操の養子となる。
東京帝国大学卒業後、京北中学校教諭、慶応義塾大学予科教授を経て1924年より武蔵高等学校で生物学担当の専任講師となる。
1925年に教授、1942年に教頭就任。
山本良吉校長の逝去に伴い1942年7月14日校長事務取扱就任、同9月23日校長就任。
在任中に生徒のために原色高山植物・蝶類・貝類などの図鑑を著作するが、これが日本初のカラー図鑑として知られる。
生徒の健康管理には特に注意を払い、結核研究所から専門医を招聘したり早くからBCG法を取り入れたりした。
温厚寡黙な裡に剛直な誠実さをもち、常に陰の功労者に終始していたと評されている。
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