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通史編

本扉

I 根津育英会武蔵学園

II 旧制武蔵高等学校の歴史

III 武蔵大学の歴史

IV 新制武蔵高等学校中学校の歴史

V 根津化学研究所

VI 武蔵学園データサイエンス研究所

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主題編

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創立70 周年・80周年のころ

創立100周年を迎えた武蔵

あとがき

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第2章 旧校舎の時代(1948-1969年)

 新制発足当初は、旧制高等学校の校長であった宮本和吉が大学学長と高校中学校長を兼ね、高校と中学にはそれぞれ主事が置かれた。

大学と高校中学合同の祭

 1949(昭和24)年の文化祭、1950 年の記念祭や1949 年秋の体育大会(運動会ともよばれた)など、新制当初の数年間の行事は、大学と高校中学との合同で行われた。

1950 年に開催された大学・高校・中学合同体育祭の光景。大学学友会の強い希望により、武蔵大学・武蔵高等学校中学校共同での体育大会が実現した(提供:斎藤寿郎氏(高校26 期))。
1949 年6 月に開催された「文化祭」のプログラム。高校中学と大学と合同による開催であった。
図書館が1951(昭和26)年に竣工

 鉄筋コンクリート3 階建ての書庫と、木造平屋建ての仮閲覧室とが並んでいた。その後も図書館は、2004 年に高中図書館ができるまで、大学と高等学校中学校で共有していた。

若返る教師陣

1 学年の人数が倍増して、にわかに教員不足となった。加えて、旧制以来の教授たちは大学専任になる人も多く、新制高校中学には毎年新人が補充され、教師陣は3、4 年の間に一気に若返った。1955年春(下の写真)までの数年間において、30歳代前半までの専任教員数は下表の通りである。

1951年竣工の図書館(1957 年に撮影)。左すぐ後ろの建物は、わずかに戦災で焼け残った慎独寮の一部。
図書館閲覧室の様子。
一坪農園の再開

 1951(昭和26)年4 月、和田八重造(やえぞう)元講師の好意により生徒の希望者に対し一坪農園の実習が再開された(注1)。一坪農園のあった場所は江古田校地南西隅、現在の高中サッカーグラウンドのゴール裏付近であり、その後グラウンド拡張などで農園はだんだんと縮小されたが、実習は生物科の授業の中に取り込まれて現在に及んでいる。

山上学校の復活

 1949(昭和24)年7 月、軽井沢青山寮における山上学校を再開、中学1・2 年の有志が参加した。翌1950年には中学1 年を前後2期に分けて全員、中2、中3 はそれぞれ1 期ずつ有志の参加で行った。

1949 年に実施された戦後初の山上学校の集合写真
高校寮の再開

 1951(昭和26)年4 月、1949年以来閉鎖中の双桂・愛日の2 寮を再開して「武蔵寮」と改名、内田教諭が寮主事に任命された。1954年5 月、寮生の希望を入れて「白雉寮」と改称した。賄などの世話は旧制時代からの引き続きで箱田スエさんに依頼し、1968年に学園総合計画の中で寮が廃止されるときまで続いた。

(注)お礼奉公の弁:「本校創立以来久しく御厄介になって来ましたが,最早老衰重任に堪へませんのでほんの零細な時間を頂き、些細な仕事を任せてもらい、若人達相手に楽しく御礼奉公をしています。……仕事というのは4 月下旬に始まり、約200日間の労働で一応片の付く甘藷の栽培で、11 月中旬の収穫に終る間に科学的知識及技術を授けるだけでなく、『収穫は問わず只耕耘を問う』という心構で其の日其の時の仕事に忠実でありさえすれば、豊かな収穫は顧はずとも自ら来るものであることを此の作業を通じて篤と体得させ様と努め……単に藷を上手に作るだけでなく、実は立派な人間を作る為に、青少年の逃すべからざる一時期を捉えて精進丹誠して居る次第です。」1952 年6 月 和田八重造謹白

1957 年11 月11 日に撮影された一坪農園での実習の様子。
分割授業の復活と新設

 旧制時代に行われていた分割授業を復活することは、新制当初からの悲願であったが、人員・教室・財源のいずれからみても許されなかった。1951(昭和26)年9 月から、中学3 年の英語で3 組4 分割の時間割作成を試験的に行った。旧制時代より遙かに複雑になった時間割について、その後も検討を継続していたが、1953年9 月から中学各学年の英語に分割を復活、また新たに、中3・高1 の数学の分割を新設した。以後、分割授業は時代を追って拡充され今日に及んでいる。

1957 年撮影、松尾吉知教諭による数学の分割授業
撮影年不詳、小野赳講師による英語の分割授業
教頭制の復活

 新制当初は高校・中学にそれぞれ主事を置くのみで、教頭は置かれなかった。完全に新制のみとなった1950(昭和25)、1951 の両年度も主事2 名の体制が続いたが、1952 年9 月に教頭制を復活し、初代に内田泉之助教諭が選ばれ、1956年まで在任した。

 内田は、広島高等師範、東京帝国大学文学部支那文学科を卒業、1926 年に本校教授に就任、漢文科の主任、生徒指導等にあたった。旧制時代には校友会担当の総務部長として部活動の世話に尽力し、戦後高校寮の再開については、教員の年長者として自ら責任の重い寮監の仕事を引き受けた。多数の著書があり、1962 年文学博士となる。白水と号し、漢詩・詩文も多く、また書もよくし、自作の漢詩を揮毫して卒業生に贈ることも多かった。

 教頭職が復活して以降、学園統括者としての学長・校長(兼務)の下で教頭・主事体制が続いた(その後、主事制は1967年に廃止された)。

内田泉之助教諭(1952―1956 年に教頭在任)
学校山林への関心喚起

戦後、一時手入れの行き届かなかった学校山林を見直す気運が起こり、1954(昭和29)年5 月、全校遠足で山林を訪れ先輩の業績を偲んだ。

鵜原寮の改修

 戦後、鵜原町大火(1945〈昭和20〉年12月)の被災者収容に協力して、鵜原寮の一部を貸与した。その後、入居者の立退きが進渉せず、寮の使用ができなかったため、1951年には鵜原館、1953年には東京学芸大附属小学校の寮至楽荘を利用して海浜学校を開いた。1954 年に立退き問題がようやく解決し、時の中2 保護者各位の尽力により、荒廃した寮の改修が成り、鵜原寮での海浜学校を復活実施した。

1953 年に実施された海浜学校(32 期)の集合写真。
1954 年5 月4 日、学校記念林への全校遠足の様子。ただし、「全校」とあるが高校生の写っている写真が見当たらない。あるいは「中学全校」だったかも知れない。
千川通りの拡幅と千川上水の暗渠化

学校前の千川上水は1953(昭和28)年に暗渠となり、その後1960年に桜並木も伐り倒されて千川通りが拡幅された。

1956 年に撮影された、学園前の千川通りの様子。
視聴覚教室を造る

和辻夏彦教諭の熱意により、教室の改造等が行われ視聴覚教育も盛んに行われた。

撮影年不詳、映写室と担当の中山氏。
吉野信次校長と鎌田都助教頭の就任

 1956(昭和31)年4 月、宮本校長・内田教頭に代わって、吉野信次*が校長に、鎌田都助(かまた くにすけ)が教頭に就任した。

 吉野校長は、就任の時、まだ運輸大臣の現職にあり、就任式の席上「私はいわばパートタイムの学長・校長だな」と一同を笑わせたが、大臣を辞した後も政財界になお仕事が多く、学園に顔を見せる時間はごくわずかであった。そのため、大学では学部長が事実上の学長であり、高校中学では教頭が事実上の校長であるという形が、ここに至って極めて明確になった。

 学園全体に関わる事柄の運営は学部長と教頭との連絡・協力によって進行した。この期間、大学の新館建設を別としても、集中暖房の復活、青山寮・鵜原寮の増築など、保護者・同窓の寄与に頼りながらの諸施設改善が進行した。

(注)本百年史の『主題編』に収録の「『大臣学長』吉野信次の事績と人物像」も参照されたい。

鎌田都助教頭(在任:1956―1960)
集中暖房の復活

 スチーム暖房用のラジエータは、戦時中に鉄資源としてすべて供出され、以後1949(昭和24)年まで暖房はなかった。同年度の冬から、各教室に米軍放出の鋼板製ダルマストーブが入り、屋上に滑車を取付け校舎の外壁に石炭を吊り上げて2、3 階へ運んだ。

 1956 年に入り、父兄会の協力を得て寄付金を集め、高圧温水式の集中暖房が復活した。ボイラー室・煙突は戦前のものを改修して用いた**。

(注)『白雉たより』第13 号、1990 年所収の矢代源司・大島廣両氏の対談「武蔵と共に43 年……」による。

1957 年11 月撮影、改修されたボイラー室
武蔵学園ヒュッテ

 通称「赤い小屋」は、1959(昭和34)年11月に竣工。山岳部と繋りを持つ山やスキー関係の同窓生・保護者を中心に約400名の寄付を得て、八方尾根に建設された***。山岳部OBの内野邦夫氏(高校25期)の設計になる。

(注)武蔵学園ヒュッテ(通称「赤い小屋」)については、大坪秀二(高校16 期、元校長・教頭)による「特別読みもの 赤い小屋のこと」(『武蔵高等学校同窓会会報』第43 号、2000 年)が詳しい。

撮影年不詳、武蔵学園ヒュッテ(通称「赤い小屋」)
新錬心館剣道場

 旧剣道場錬心館は戦災で焼失し、剣道自体も戦後しばらくは学校で行うことを禁じられた。解禁の後も部活動は途絶えたままであったが、剣道部OBの再興への熱情やみがたく、同部OB会(剣友会)を中心に同窓の寄付を集めて再建された。1958(昭和33)年11月の竣工で、剣友会員川上玄氏(18期理)の設計になる。

撮影年不詳、新錬心館剣道場
青山寮の増築と山上学校実施体制の整備

 1958(昭和33)年6 月、根津嘉一郎(2 代)の寄与により、青山寮に食堂・宿泊室等が増築され、これによって中学1 年の山上学校を一度に全員収容して行うようになった。戦後の再開以来、引き続いて中学1 年を担当した和辻夏彦教諭の熱意に支えられたものである。常住の管理人がなかった青山寮の維持は、顧問の星野嘉助氏(星野温泉社長)に負うところが大であった。

撮影年不詳、旧軽井沢の町
鵜原寮での海浜学校実施

 1957(昭和32)年、父兄会の寄付によって鵜原寮に食堂・宿泊室等を増築し、中学2 年の海浜学校を一度に全員収容して行うようになった。海浜学校の運営については、森愈(もり まさる)教諭(1959 年より中学主事)を中心に体育科その他の教員よりなる「海のスタッフ」が武蔵の海浜学校の伝統を形成した。

武蔵高等学校奨学基金団の発足

 創立の年以来事務室に勤務した西岡美啓の遺志による寄付金を中心に、1959(昭和34)年11 月に設立された。以後折にふれて、教職員・保護者・生徒・同窓生などの善意を集め、経済的困難に陥った生徒に、授業料全額までの奨学金を給付または貸与してきた。1969 年からは、学校法人としても奨学金貸与の制度が作られたが、この基金団は法人による奨学金の不足を補う役割を果たしていた。

撮影年不詳、鎌田教頭・森主事はじめ海浜学校付添いの教員たち
プールの改修と増築

 水泳部OB会(しぶき会)を中心に同窓保護者の寄付を得て、循環浄化装置の設置、プラットフォームの拡張、脱衣場の整備、部室の新設、夜間照明の設置などを行った。工事は1961(昭和36)年6 月に完了した。

畑龍雄教頭の就任

 1960(昭和35)年4 月、鎌田教頭に代わって、畑龍雄が教頭に就任した。同時に、松尾吉知が高校主事となり、前年から中学主事であった森愈とあわせて、教頭・両主事の体制が続いた。

 この年には、戦後のいわゆるベビー・ブームの年代が中学に進むことになり、武蔵でも入試の競争率は一躍10 倍近くとなって話題を呼んだ。社会が高度成長期に入り、生徒たちもまた競争社会に搦めとられようとする中で、学校本来のあり方を確立し、どのような個性を打ち出していくか、それがこの時期の武蔵に問われていたといえる。

畑龍雄教頭(在任:1960―1967)
高校4 クラス制

 旧制での40 名2 組制に比べ、新制では50 名3 組制での出発であり、多少の変動はあったが、基本的にこの形は変わらずにきた。

 しかし、教育本来の方向である組定員の縮小を視野に入れた上で、経営上の問題・教員規模の問題などにつき長期の検討・論議の結果、高校は45 名4 組、中学は48 名3 組としてその差分を高校に新入学させることが決定され、1965(昭和40)年度から実施された。この方式は、クラス定員をさらに縮小する第一歩のつもりであったが、実現困難な諸事情のため、これよりかなり後になって漸く、これに続く動きがはじめられた。

1961年6 月に改修が完了したプール
プール開きでは、北博正校医(1 期)がプールの水を飲んでみせて、浄化装置の完璧をアピールした。
スキー教室の発足

 1951(昭和26)年以降、大坪秀二山岳部顧問が中心となって、旧制の頃と同様に山岳部主催で一般校友も含めてのスキー合宿を新潟県燕温泉で行ってきた。しかし、参加者が増加し、山岳部の仕事としては困難になったため、1960 年3 月から学校主催のスキー教室が始まり、体育科の教員を中心に運営・指導が行われ、現在に至っている。

最初の「スキー教室要覧」
強歩大会

 1956(昭和31)年度に始まった強歩大会は、学校から野火止の平林寺を往復する35km余のコースであった*。武蔵野の姿を随所にとどめるこのコースも、1960 年以降は都市化の波に呑まれてゆく。1966年度には、秋津~平林寺~学校の片道コースとなり、翌1967 年度には多摩湖・狭山湖畔に移り、1972 年度からは飯能の周辺で、1990年代からは神奈川県でも行うようになった。

(注) 1957 年の強歩大会創設の事情を明らかにする史料は武蔵学園内でほとんど見当たらないが、本文説明の後に掲げた「第一回武蔵強歩大会実施案」〔1957 年2 月16 日実施〕は、その唯一というべきものである。大会目的として「我々武蔵生徒にとって一番欠けているのではないかと思はれる 忍耐力 強靭性を養い チームとしてのまとまりから責任、協同の態度を養いたい。今迄此の様なものを養う機会がなかったが 此の機会に我々の体力のある限りを使って歩く事により心身の鍛錬をして見よう」とあり、目的地は「平林寺往復 約30km 強 時間にして約7 時間」とされている。

学校山林での新たな植樹

 1960(昭和35)年5 月、中学生全員、折からの雨の中を学校山林に赴き、桧苗2,000 本余りを新たに植樹した。山林の管理については、1957 年から顧問を委嘱した保護者の石井茂氏に負うところが大きい。

 その他、1960年代の動向として以下のものがある。

  • 1963年からの山上学校運営方法の改革
  • 1966年度に決定した中学3 年生の修学旅行(東北地方3 泊4日)の中止
  • 1960年からの相談室・カウンセラー制の設置
校友会各部の活動成果
【バレーボール部】

 終戦直後の1946(昭和21)年、原田宏(23期理)らによって創設され、1948年、小山昭二(22期理、旧姓佐藤)を主将としてようやく部の体裁を整え、旧制最後のインターハイにも参加した。新制バレー部はその後を継ぎ、「努力と闘魂」を旗印に精神と技術の向上に努めてきた。

 1950、1951 年頃の第1 期黄金時代以来、盛衰を繰り返してきたが、1954、1955年には都のベスト8 まで進出、特に1955年には、私立高校大会準決勝でインターハイ3 位の立教を2-0 で破り、決勝では明治と激戦、フルセットの末敗れるという健闘が光った。また1961 年には都高校選手権で3 位となり関東大会2 回戦まで進んだ。1962 年からは6 人制に変わり、メンバー基盤の薄い武蔵には苦しい時代が続いているが、OB会の支えもあって部は健在である。

1951 年撮影、バレーボール部高校リーグ優勝の記念写真。中央は小沼教諭
【野球部】

 3 代山本良吉校長の意向で校禁のスポーツであった野球は、1945(昭和20)年10 月、正式に解禁となったが、「農産物等を荒さぬことに注意」という但し書きがつく時代であった。野球好きの生徒たちを集めて部を作ったのは矢島剛一教諭である。1949年6 月、部発足の3 日後に夏の大会に臨み、熱戦の末1 回戦を勝ち抜いたが2 回戦で敗れた。

 創部当初は「部員こそかなり多かったが、グラウンドは畝のある畑で、イレギュラーバウンドしないと捕り手が面喰らった」(『野球部40年の歩み』より)ほどであった。年々の苦労が積み上げられ、1962年に初のシード権を得て、1963年は東京大会ベスト16 まで進み日大二高に惜敗。以後数年にわたる第1 期の黄金時代であった。その後も、夏の大会で1982 年と2005 年に西東京大会ベスト16に進出するなど、しばしば優れた記録を残している。

1963 年撮影、野球部ベスト16 に進出
【軟式テニス部】

 1954(昭和29)年、吉沢真(30期)が主将となってスタートした。吉沢は卒業後も後輩を指導し、部を育成した。こうして育ったひとの一組が、1959 年、東京新進大会に準優勝し、このことが部の飛躍的成長を促した。1964 年に初めて監督・コーチ制度が設けられ、OB会(白飛会)が結成される。部の基礎固めとなるこれらの事柄については、顧問の三和一夫教諭の理解あるはからいがあった。

 1965 年から新顧問真崎駒男教諭の熱心な指導を受け、成果も一段とあがった。中学都大会の団体優勝3 回、高校も都大会の成績上位で関東大会3 回戦まで進出すること2 回、その他新人戦・インドア選手権などで団体5 位、個人3 位などの優れた成績を残している。

1962 年撮影、軟式テニス部創部の頃
【バスケットボール部】

 1950(昭和25)年春、ハワイの日系二世チームが来日、見事なドリブルと片手ショットとパスを見せた。華麗なそれらの技術の本質を見抜くのは容易ではなかったが、武蔵のチームは日本のどのチームにも先んじてこれらの技術をものにし、それを駆使したオフェンスプレーを展開して注目を浴びた。ディフェンスにはオールコートのゾーンプレスを主武器としたが、これも日本では武蔵が先駆けである。週3 回の練習が伝統の武蔵にとって、このゾーンプレスは練習時間のハンデをなしにするほどに働いた。かくして、年々の積み重ねが1954 年からの5 年間に花開いた。実際にインターハイで優勝したのは1954年、1956年、1957年だが、1955年も1958年も優勝しておかしくない好チームだった。

1956 年のインターハイ優勝記念写真(1956 年鳥取大会、右端は畑教諭)
バスケットボール部を全国大会での優勝レベルにまで導いた畑龍雄教諭(旧制3 期の卒業でもあった)の追悼文集『へばったらがんばれ』(2000 年)の表紙。
【サッカー部】

 旧制末期から新制にかけて、解散せずに存続していただけのような蹴球部を、まともな形の部に再建したのは山本荘二(26 期)の努力によるところが大きかった。彼の熱意にひかれて依田修教諭がコーチ役もする顧問を買ってでて、旧制の大先輩や、戦後旧制インターハイで活躍した若い先輩たちが寸暇をさいてはコーチに来校、これが新旧世代を結ぶきっかけとなった。

 1959(昭和34)年、関東大会出場をかけての東京代表決定戦で延長引き分け、再試合の再延長で敗れた活躍などのほか、何度か都内上位進出の記録を持つ。顧問には依田教諭のあと板坂元・田中新一両教諭や大西正幸教諭のように優れたプレーヤーでもあった顧問に恵まれ、再び着々と実力を伸ばした。

1959年撮影、サッカー部(当時は蹴球部)春のリーグ戦優勝。左端は田中新一顧問。
【陸上競技部】

 戦後しばらく途絶えていた陸上競技部の活動も、1958(昭和33)年の夏休み、中学3 年生が上田久教諭を頼って軽井沢で合宿をしたのが部活動の始まりで、その後次第に部員も増え、勉強と運動との両立を目指して努力している。 

 1966年には武蔵走友会(OB会)が発足し、武蔵の主唱で東京8 校対抗が毎年開催されることになった。1967 年には安達博一が5 種競技で初めて都6 位に入賞、1968 年には佐藤公一が400mで2 位、1969年春には関東大会の準決勝にまで進んだ。

 その後、1976 年からは原間裕教諭のコーチにより練習も充実し、特に走幅跳、三段跳では都大会入賞者も数名出るようになり、1990年には都城北予選で全員の頑張りで総合6 位になった。

1966 年、松本での陸上部夏合宿。上田教諭のほか、創部の頃のOB も参加した。
【剣道部】

 敗戦とともに、剣道部は一度途絶えた。占領軍による剣道の禁止が解かれ、旧制OBの熱意で錬心館が再建された後も、大学生が練習する合間に同好の有志が指導者もなく打ち合っている程度であった。

 香川真(39期)はこの剣道同好会を部に昇格させることを念願に、「運動部を振興すること」を公約に掲げて代表委員長選挙に当選し、陸上・剣道両同好会の部昇格を実現した。この後、顧問に三和一夫教諭を迎え、保護者の石橋秀雄氏にコーチを懇請して新しい剣道部が始まった。1963(昭和38)年度の終わり頃である。

 以後、石橋コーチの技術・精神両面にわたる指導で部は成長し、協力してくれる若いOBも育った。1974年、新制OBの会「竹友会」が発足、部員中の有段者も増加して、区大会などでの成果も現れてきている。

1968 年、剣道部鹿島合宿。付添は中央左から松谷教諭と石橋コーチ。
【水泳部】

 戦争直後、荒廃した鵜原寮でいちはやく合宿を行い復活の旗を掲げた。新制移行後も、旧制七年制大会は6 高水上大会として継続したし、1955(昭和30)年には、旧制時代の東大主催インターハイの伝統を引き継いだ関東16 高校水上大会が発足した。この両大会には、多くの優勝を含め好成績をあげている。また、水泳部については、その部活動以外に、OB会による海浜学校への協力、日常のプール運営への協力などがあったことも書き加えねばならない。昭和30 年代の初期に、水球を復活してリーグに参加したこともあるが、長くは続かなかった。本格的に水球に取り組むようになったのは昭和40年代からである。

1964 年撮影、水泳部の集合写真。森教諭や父母・OB とともに
【山岳部】

 1950(昭和25)年秋、旧制から続いた山岳部の2、3 名を吸収して、大坪秀二教諭を顧問として発足した。旧制時代と違って純粋に部として活動し、夏山縦走を中心に、春秋には丹沢・奥多摩の沢歩きが多かった。

 1951年春から、旧制の頃と同じ燕温泉でのスキー合宿(一般校友も参加)を再開。燕合宿での団欒のなかから、戦前の吾妻山荘を懐しむ話が出て、今度こそ自分たちの山小屋を造ろうという話になった。

 佐藤静一郎・森五郎両教諭を顧問格に、OBたちの協力を得て若手の大坪教諭が奮闘、1959年秋に八方尾根のヒュッテ「赤い小屋」ができた。1967年から、百済弘胤・田中勝両教諭が顧問に就任した。八方の小屋をべースに、3 月の白馬岳登頂など安全限界内で力を十分に発揮した記録が光っている。

1956 年、山岳部の北アルプス全山縦走時の写真。付添いは大坪教諭。
【物理部】

 戦後、旧制の終わり頃に誕生し、初期には実験好きな10 名内外の小さな集まりで、主に真空管回路の試作などを行っていた。1960(昭和35)年に突然20名を超す中1 生徒の入部を迎え、集団としての部のあり方を模索、その結果、個々人の希望と能力は生かしながら目標とする研究題目は一つに絞り、全員でその達成に向かうという態勢が整った。この方針に沿っての春夏の合宿や日常の研究会などで行われる学年を超えた徹底した討論などが、部員には有益な体験となっている。

 諸研究のうち、「露粒の測定」は1963年度日本学生科学賞で科学技術庁長官賞(総合3 位にあたる)を、1973年度には「鋼球の衝突」が同賞文部大臣賞(総合2 位にあたる)を受賞した。顧問は部の形成期には森愈教諭、1957 年以後1987 年まで小林奎二教諭であった。

1973 年に日本学生科学賞文部大臣賞を受賞した『鋼球の衝突―ふりこを用いた2 球の衝突現象の研究』冊子の表紙と序文
1973 年、物理部合宿(長野県開田村)
【化学部】

 終戦直後の1945(昭和20)年秋に、部活動の新興勢力として化学・物理・生物の3 部がほぼ同時に誕生した。水島恵一(20期理)が化学部創設の推進役で、以後、水島・奥田典夫(20 期理)・井上博愛(21期理)がそれぞれ分野別に部の中心となった。創部の頃には、化学の田辺振太郎講師が面倒を見ていた。

 化学教室4 階の小部屋や、1 階廊下の片隅を部室としていた。尋常科生徒の入部も多く、1946 年には合宿して研究をしている。校舎で合宿して実験したり、鵜原寮に赴いて合宿して海水の検査をするなど、窮乏の時代をはね返す元気いっぱいのスタートであった。化学部生物部合同のガリ版誌『緑葉』を出したのも、その時期のことである。

1988 年、化学部OB 会での集合写真
【生物部】

 戦後間もなく、高宮篤講師の生物研究室に入り浸って実験したり議論したりする仲間が生物部を作ることになった。宮地重遠・山田晃弘(22期理)らがその中心で、宮地の研究論文は1950(昭和25)年の山川賞を受賞した。

 新制になった後も、蜂を飼う仲間、蝶を追う仲間、植物を調べ育てる仲間など個々人またはいくつかのグループになって、それぞれの活動を楽しんだ。昭和30 年代には顧問の矢部一郎教諭にせがんで、まるで山岳部のような野外での合宿活動をすることも多かった。

 昭和40 年代になって、全員で調査研究を行い結果をまとめる傾向が強まる。河川の底棲昆虫、付着性珪藻類などがテーマとなり、自然誌的または生態学的な研究を進める方向で活動し、部として4 回にわたり山川賞を受賞している。

1964 年、生物部夏合宿(平川ダム)。付添いは矢部教諭。
【地学部】

 1952(昭和27)年、中2 生徒島田邦彦(31期)の自宅裏の崖で化石が発見され、それを機に地質に興味をもった生徒数名が、地学の陶山国男講師の指導の下に同好会を作った。1954~55 年頃部に昇格し、陶山講師の後任の端山好和講師を顧問に迎えて本格的な活動が始まった。休日を利用して巡検を行い、春、夏、冬の休暇には合宿をして集中的な調査を実施した。

 その成果は毎年の記念祭で発表してきたが、数年にわたる継続研究を論文にまとめるようになってからは、1972年度に「秩父盆地第3 紀層」の、1975 年度に「房総半島関亜層群及び梅ヶ瀬層」の、1981年度に「梅ヶ瀬層東部地域」の研究で山川賞を受賞した。2000 年度においても、「堆積相と貝化石・カニ化石から推定される中新世秩父盆地の古環境」が山川賞を受賞している。

1974 年、地学部房総半島巡検
【気象部】

 1945(昭和20)年9 月、部としての活動は再開され、旧制末期から新制初期にかけて部の基調は継続された。1953 年、東京管区気象台の要請によって観測時刻を午前10 時から午前9 時に改めた。1953 年5 月、大学校舎の建設に伴い、露場がプール横に移転。1969年には高校中学校舎の新築とともに東門横に移転した。

 新制気象部の活動としては、浅間山に発生する雲の研究、軽井沢の霧の研究、八ケ岳・富士山の雲の研究、新宿の高層ビル風の観測、霜柱の実験などがある。浅間山の雲の研究には、1960 年に山川賞が与えられた。

1949 年撮影、気象部集合写真。旧制の先輩たちに新制の部員が混じっている。
1949 年撮影、旧制以来の露場。
【太陽観測部】

 1956(昭和31)年、アマチュア天文家横山政二氏から愛用の11cm屈折望遠鏡を譲り受け、OB、保護者の寄付に頼って屋上の小屋を新築した。これには、同窓の建築家石川重維(13 期)・川上玄(18期)両氏を煩わした。

 新望遠鏡とそれに付属する自動運転装置は、活動の発展に大きく寄与した。プラネタリウム自作もその副産物であった。

 1969 年の新校舎竣工とともに観測小屋は理科棟の一部に組み込まれ、FRPのドームとなった。しかし皮肉にもこの頃から、東京の空では星の観測が困難になってきた。新鹿沢や沼尻に合宿しての流星観測、高尾山、野辺山、御園などに出向いての写真撮影など都会を避けての活動が増加したが、顧問の藤崎達雄教諭の理解に助けられた。そして、これら活動の中から数度の山川賞が生まれた。

1953 年撮影、旧制以来の小屋での太陽観測部集合写真。前列左端は顧問の大坪教諭。
【民族文化部】

 旧制時代から新制の初めにかけて、石神井川流域の縄文遺跡発掘など活発な活動があり、その成果は2 度にわたる山本賞に結実した。以後の民族文化部(民文)の活動は、数多くの山本賞受賞論文によって、その一端を推測できる。

 また、民文には旧制時代以来の貴重な資料が蓄積されており、これを保存し、できれば適宜な方法で公開することも部の仕事の一つであるが、1978(昭和53)年、部員たちの熱意が叶って、部室とは別に民文資料室が同好会室などと同じ棟の中に設置された。

1953 年撮影、民族文化部夏の旅行。最前列中央は島田俊彦教諭。
【音楽部】

 旧制時代以来の音楽部は続いていた。部活動と直接の関係に濃淡はあったが、新制初期の学年からは優れた音楽家が輩出したこともある。しかし、現在の形の音楽部が育ち得たのは、1956(昭和31)年から音楽の講師に招かれた小鷹直治講師のおかげといってよいだろう。音楽部の活動としてブラスバンドを編成することを勧め、小鷹講師所有の楽器一式(40台ほど)を貸与してくださり、ブラスバンド同好会が設立された。

 その後、様々な音楽活動が盛んになり、泉周二教諭、伊能敬教諭(1963年から武蔵大学教授)の協力により合唱同好会も誕生した。1961 年6 月、同好会から部に昇格し、1963 年には鑑賞班、1964 年には室内楽班が加わり、4 班体制となった。記念祭と秋と年2 回の定期演奏会を行っていた。

1957 年撮影、記念祭での高3 生有志によるドジョッコ合唱団。伊能敬教諭指揮。後年の合唱同好会の母体となった。
【美術部】

 旧制時代の形象部から引き続いた部員も何名かいて、新制校友会の美術部が発足した。新制の中学1 年に入学した新入生からの入部も多く、美術部の活動は絵画中心で展開した。美術の金子保講師(のちには成木浩二講師)の指導も受けた。片瀬にある金子講師のアトリエを訪ね共に江ノ島に写生に出かけたり、夏休みには先生に同行をお願いして青山寮に合宿したりした。

 この時代の部員だった伊能洋(27期)が、1972(昭和47)年から美術の講師に招かれ、以後、伊能「先生」(1979 年からは新任の佐藤美江子講師も加わった)の指導の下で美術部は活動を続けた。鵜原寮・赤城青山寮での夏合宿を行い、春の記念祭、秋の秋陽展と年2 回の発表を欠かさなかった。美術部は1990 年代末まで活動を継続した。

1951 年撮影、金子保講師と青山寮で合宿。金子講師の左は横井徳治教諭、右は長く寮の賄を担当した増田為三郎氏。
【その他の活動】

 新制初期には演劇活動も盛んであった。記念祭(文化祭)を発表の場として、いくつもの劇団体が名乗りをあげたこともある。鉄道模型同好会も旧制の終わりに誕生し、そのメンバーの中からコンピュータや自動制御などの優れた研究者も生まれた。校友会の中心となる代表委員会に直属する形の報道班(新聞等発行)、放送班(校内放送)は、部活動に近い形態を保って活動していた。

 柔道部は1955(昭和30)年から1977年まで部として活動したが、部員が減少して消滅した。スキー同好会は1960 年に誕生し、後にスキー部となり、1990年代末まで活動した。

1950 年記念祭における演劇部の公演「白鳥の歌」集合写真。前列右端は古山真一教諭。
1950 年の記念祭における鉄道模型同好会の展示実演。
1979 年撮影、軽井沢における放送班合宿。付添いは矢崎三夫教諭。
1960 年5 月7 日撮影、全校植林に参加した高中・大学の教員。右から福本、塙(学部長)、矢代、吉野(学校校長)、石井氏、畑(教頭)、大坪の各教員
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