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生徒の「服装」について(1)―旧制時代の服装規定を中心に―(通堂あゆみ)
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高校・中学において「制服がない」ことは、武蔵の自由を象徴するもののひとつであるかもしれない。小林哲夫『学校制服とは何か―その歴史と思想』(朝日新聞出版[朝日新書]2020年)では本校のwebサイトでの説明(*1)「服装などについては学校として決まりは作っていません。時として教員が個別に指導することはありますが、その場合も本人の自覚を促すことを基本としています」を紹介し、「自由である。学校は規則で生徒を縛っていちいちうるさいことを言わない。自律を求め、自覚を促すに尽きる」(p.161)と述べている。なお、生徒だけでなく、教員の服装も基本的には自由である。おおたとしまさ『名門校「武蔵」で教える東大合格より大事なこと』(集英社[集英社新書]2017年)では、ある教員について「武蔵の教員にしてはいつもちゃんとした服装をしている」(p.24。下線は引用者)と評する。スーツ着用等のルールはないため、私服の教員はよほどラフに見えるのであろうか。
しかし、武蔵100年の歴史において、生徒の服装が完全自由になったのは後半の約50年のみである。第8代校長である大坪秀二先生(在任1975年度~1987年度[在職は1950年度~1996年度]。16期卒。以下、敬称略)が『武蔵学園史年報(*2)』、また同窓会会報(*3)に寄せられた「随想 定年退職にあたって 武蔵の服装規定のこと」で学校史における服装規定を整理され、規定廃止の経緯を記されている。小稿ではこれら記述を参考に、あらためて武蔵の服装規定をめぐる歴史を整理してみたい。
武蔵高等学校の開校は1922(大正11)年4月であるが、この時点では生徒の服装に関する規定は定められていなかったようである。第一回尋常科入学式記念写真(1922年4月17日撮影:下記「写真1」)でも、新入生は学生帽こそ揃ってかぶっているものの、着衣は羽織に袴、長着に袴、学生服(デザインも詰襟、立折襟が混在)とさまざまである。帽子正面には徽章が付けられているようであるが、帽子自体のデザイン(天井部分の形状)は微妙に異なるように見え、統一された規格ではなさそうである。
開校の翌月、1922年5月6日の『教務日誌(*4)』に「生徒ノズボンハ長短随意トス。夏略帽ハ固キ麦帽トシ、リボンヲ黒色トシ徽章ハ外部ニ付セシム」、9日には「ズボンノ長サハ当分任意トスルコト」といった記述があるが、和装が禁止された様子はない。とはいえ1923(大正12)年2月23日には「本校生法規定中外套を削り、上衣の袖ボタンを随意とす(*5)」ることが定められており、徐々に洋装に統一されていったようである。またこの記述から、大坪はこの時点で「[引用者補:服装の]規定が既に存在する」と理解している。履き物については断片的な記述しか確認できないが、1925(大正14)年10月~11月の教師会(職員会議)において泥土による教室の汚れが話題にされている。教室に土足で入るためにおこった問題である(なお、現在も音楽室や家庭科室など一部教室をのぞき、校内では土足で過ごしている)。この解決方法として「靴底に凸凹の甚だしき靴の使用禁止」のほか、「脱靴」や「オーバーシュー」の導入が議論され、翌月7日には「靴底に甚だしき凸凹のある靴」は漸次禁止とすることが決定されている。しかし、この後も教室に泥土が持ち込まれてしまう問題は継続したようで、1926(大正15)年10月の教師会でも教室清掃についての話し合いが行われていることが確認できる。
制帽については、第一回入学生の高等科進学の際(彼らが尋常科4年在籍時の1925年度)に「白線」を巻くかどうかが議論になったことが伝えられている。白線帽は高校生のシンボル(*6)であり、高校生になるからには帽子に白線を巻きたいという生徒の希望が優勢であったというが(こうした意見の表明、学校当局に許可を求める運動は「白線運動」と呼ばれる)、武蔵高等学校では白線を巻くことは許さなかった。新設の私立七年制の諸高等学校では、従来の高校生らのバンカラなイメージを避けたスマートな校風作りを意識したことが指摘されており(*7)、武蔵では初代教頭・山本良吉(のち第三代校長)の英国風の「ハイカラ趣味」が生徒の服装やふるまいのしつけに強く影響したようである。山本のしつけに関する思い出のひとつとして、松葉谷誠一氏(第3回卒業生)は修身の試験で「きたない帽子をかぶってほうば(原文ママ)[引用者補:朴歯(ほおば)の下駄]をはいて、手拭をぶらさげて大きな声を出して歌をうたいながら町を歩く高等学生というものに対して、君等はそれをどう思うか」「どう思うかということについて理由を述べよ」という出題があったと紹介している。「だんだん反抗的になってくる年令」、バンカラな服装に「かなりのあこがれを感じて、なんとかしてああいうまねをしてみたいというようなことを思っていた時代」の生徒に「自分でなぜそうするほうがいいのか、なぜそうしたほうが悪いのかというようなことについて自分で考えさせるというような指導教育方法をされたように思っておるんで、その点は非常に立派な教育方法であった」と述べている(*8)。
帽子の白線は許可しなかったが、尋常科生徒と異なる高等科生徒の「待遇」については1925年度中に議論がたびたび行われており、12月には両者を区別する服飾として「ガウン[引用者補:アカデミックガウンのようなものを想定か?]又は懸章等」の案が出され、大坪はこれらが佩章規定につながるとみている。尋常科修了時に佩章を授与し、高等科の生徒は式典等でこれを身につけることが定められた。日常的には、上衣襟に文科/理科を示す徽章(当初は市販の“L[文科]"、“S[理科]"の徽章を使用。のちに独自にデザインした漢字の“文"、“理"に変更された(*9))を附したことが尋常科生徒との違いであった。
服装規定の明文化は1927(昭和2)年、開校から5 年を経た秋である。10月19日の『教務日誌』で服装規定を定めたことが確認でき、昭和3 年度からは佩章規定とあわせて『武蔵高等学校一覧』にも掲載されるようになった。次に挙げるのは、その服装規定である。
服装規定
第一條 生徒登校スルトキハ所定ノ制服ヲ著用スヘシ但シ脚絆ハ教練ソノ他特ニ指定シタル場合ニノミ著用スルモノトス
第二條 事情ニヨリ制服ヲ著用シ得サルトキハソノ旨保証人ヨリ届出ツヘシ
第三條 新ニ入学セル生徒ハソノ年ノ六月マデ従来使用ノモノヲ著用スルコトヲ得但シ前章及ヒ服釦ハ学校所定ノモノヲ用フヘシ
第四條 服装左ノ如シ
一 正帽
制式 丸形
品質 黒羅紗
前章及横章 学校所定ノモノ
二 略帽
制式 ソノ都度示ス
品質 麦藁
前章 学校所定ノモノ
三 冬衣袴
(1)衣
制式 背広型立襟 袖釦ヲ著ケス
品質 紺ヘル
釦 学校所定ノモノ
(2)袴
制式 普通又ハ短袴
品質 上衣ニ同シ
四 夏衣袴
制式 冬衣袴ニ同シ
品質 鼠霜降小倉
五 靴
制式 編上ケ又ハ深ゴム 底部ニ床板ヲ毀ケ又ハ汚損スル如キ付著物ナキモノ
品質 黒革
六 脚絆
制式 巻脚絆
品質 茶褐木綿又ハ茶褐絨
七 外套又ハ雨覆
制式 ナシ
品質 黒羅紗
父兄ノモノヲ改造シテ使用スルモノハコノ限リニアラス
第五條 夏衣袴ハ五月十日ヨリ十月十日マテ著用スルモノトス
この規定には、1929 年度より冬衣袴の項に「右腰部後ロニボタン附隠(かくし)一ヲ附ス」の一文が追加され、1933年度には「外被[引用者補:オーバージャケットのようなものと見られる]」についての規定が加えられた。
さきにも少し触れたように、服装規定制定については山本良吉のこだわりがあったらしい。ここでは服地はヘルと定められているが、学生服にはサージが用いられることも多かった。生徒や父兄からはサージではだめなのかという問い合わせもあったが、ヘル地のほうが「本校生徒年齢の特殊性を考えて価格、保温等の関係上尤も適当」として退けている。ヘルもサージ(セル)も毛織物であるが、ヘルはサージよりも質が劣るものの丈夫であるのだという。ズボンについては前述の通り、1929 年度に「隠(かくし)=ポケット」の位置が決められているが、これは1938 年度には念を押すように「両側トモ附隠かくしヲ附セズ右腰部後ロニボタン附隠一ヲ附ス」との表現に改められている。1933年度(第12回)入学生より尋常科1・2 年生は半ズボンを着用することが定められ*10、1935 年度には学校一覧の服装規定にも「尋常科第一学年及第二学年ニ於テハ半ズボントス但尋常科第二学年第二学期以後ニアリテハ事情ニヨリテハ許可ヲ経テ長袴ヲ用フルコトヲ得」と明記されるようになった。
ヘル地への固執も、ズボンのポケットや長短の指定についても、その理由をうかがい知ることができる資料はない*11。しかしながら大坪は、これら規定化は山本の思想の反映ではないかと考察し、ズボンの左右の脇ポケットをつけさせなかったのは自慰の防止、尋常科1・2 年生に半ズボンを着用させたのは上級の生徒と区別し、「不良の習慣・行為」が下級生に及ばぬようにする(そうした習慣を見つけた場合に注意しやすくする)ためではなかったかと述べている。そもそも七年制の中等教育機関には否定的な姿勢*12 も見せていた山本は、「尋常科4 カ年の成立の過程に於てがっちりと1 つの型をはめてしまうこと、その生徒達が高等科に進んでひとかどの大人っぽい振舞におよびたくなったときでも、子供の時から仕付けた権力の手で、しっかりと手綱をとることができる」という考え方に基づいてその職をつとめたのではないかと大坪は推測している。上着の「隠」については言及がないことも自慰の防止説を補強するかもしれない。1939 年には開襟服には必要なだけ隠を付けて良いことが教師会で確認されており、問題とされたのはあくまでもズボンのポケットの位置なのである。
服装規定において履き物は洋靴とされているが、1938 年9 月に学校教練のない日は下駄履きでもよいことを確認している。ただし校内では革靴・運動靴を原則*13 としており、願い出の上で上履き替わりにゴム草履の着用が認められている。通学時の下駄履きは構わないが草履は不可で、1941 年5 月6 日記事には「制服制帽を着したるときは、校の内外を問わず草履の使用を禁止す」とある。現代においても「下駄履き禁止」は武蔵の数少ない校則(のようなもの)として言及されることがあるが、少なくともこの時期、限られた場面では下駄は許可されていたのである。終戦後には「下駄を校舎内で使わぬようにするため」(「教務日誌」1945年10月15日)の方法を生徒に考えさせることにしたが、生徒の要望で「当分随意」と下駄履きの継続が許されている(「教務日誌」10 月29日)。
生徒の服装はかなり細かく規定化が進められていたようであるが、日中戦争開始以後は物資不足により、そのようなこだわりにもとづく服装指導も不可能になっていった。服地に指定されたヘルは手に入りづらくなり、「当分の間、冬の服地は色は黒又は紺とし地質は選ばぬ」こととされ(1940年4 月8 日)、「教練服*14 のズボンは平常に於ても使用差支なきも、上着はなるべく制服を着用することにする」(1940 年9 月30日)との対応も行われた。制服の金属ボタンの調達が難しくなってくると、卒業生からボタンを集めることも試みられたようである(1941 年1 月20 日)。逼迫の度合いは「学校本来の制服の制式は変更せぬが、目下の時期では当分の間、服地色(紺、黒、国防色)は制限せぬ。又夏服では詰襟、開襟何れにてもよい」(1941 年12 月1日)、「国防色の配給服を使用して差支えなきことにした。但し尋常科1・2 年は半ズボンとすること」(1942 年1 月12 日)と服装規定をつぎつぎに緩和する様子からもうかがい知ることが出来る。いっぽうで、こうしたなかでも「尋常科1・2 年生は半ズボン」と、かたくなに上級・下級生の区別が守られている点はなにやらおかしくもある。同年10 月には「将来制服地の色は配給品の色のものを正規とし、その他の色地のものは許可を要することとする」(1942年10 月26日)ことが定められ、翌11月にはついに「尋常科1、2 年生のズボンは配給のままとし、長短は各自に委す」(「校報」1942年11月2 日)ことになった。大坪は「戦争の激化につれて次第に服装規定は守れなくなるが、それは概ね山本没後[引用者補:山本は1942 年7 月12 日に亡くなった]のことである」と述べている。それでも「式等に佩章を付けざるものを往々見る。定められたことは必ず実行するよう主任から注意する」(「校報」1942年11月16日)との記事もみられ、規定に基づき生徒の身だしなみを整えさせようとの意識は依然強かったようである。
1943 年には燃料不足から暖房が入らなくなり、教室内でも「教師の許可を得た上で」外套やマントを着用するようになっている。それまでは「通学の際、外套、マントの使用は差支えなきも校内殊に教室内の使用は厳禁する」(1942年11月30日)とマナーを守ることが求められていた。1944 年になると「身許票を各自上衣の裏側に縫着することにしたについて、生徒が所定の通りして居るや否や体操科及び教練科で調べる」(5 月1 日)ことも行われている。空襲被災等万が一の状況における身元確認に備えるためであろう。貴重な靴を大事にするためか「舎内では上履の代りに上草履又は裸足でもよいことにした」(1944 年8 月28日)と、「裸足」で過ごすことまでを許可している。
このような逼迫した状況にあっても「手拭は持参するも可なるも、外に見えないよう腰にすることに注意する」(1945年5 月7 日)というような細かな指示も行われている。洋装が崩れていくことにより、昔の旧制高等学校風、すなわちバンカラな服装がはやりだしたのではないか、それを見苦しいと考える「武蔵風」が残っており教員が指導を主張したのではないかと大坪は推測している。物資不足のなかでも見られるこうした“ スマートさ” を求める態度は、他校生のように白線を巻きたいとの希望も叶えず、細かな規定を設けて身だしなみの指導を行ってきた、山本の路線を継承しようとする教員らの矜恃でもあったのではないか。なお、終戦をむかえた1945 年の冬も教室内での外套着用が続けられている。食糧事情も改善せず、45 年度、46 年度には冬期休業の延長や、臨時休校も行われた。