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「歴史家島田俊彦」の出発点―淡々たる言動に秘められた硬骨(畑野勇)
山本良吉「と」武蔵学園(その2)―〈建学の三理想〉の系譜学―:山本没後―戦後の顕彰的語りと大坪秀二の学園史研究(吉川弘晃)
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武蔵高等学校では、修学旅行が1978(昭和53)年を最後に廃止され、それ以降も復活の動きは見られない。武蔵学園の編年史における「修学旅行」の項では、『武蔵60年のあゆみ』から『武蔵90年のあゆみ』まで一貫して、ほぼ同一の記述が続いている。以下、その一節を掲記してみよう。
「関西方面の歴史的風土・文化遺産を見学することを目的とした高校2年の修学旅行は、1951(昭和26)年に復活した。戦後の混乱期から少しずつ立ち直りかけた時期であり、戦前の国史教育の反省に立った戦後の日本史学習とあいまって、復活当初の修学旅行には新鮮な活気があった。しかし同時に、団体旅行につきものの無責任な風潮の萌芽も、すでにそこに存したといえよう。その後、集団観光旅行が観光地に充満する時代のなかで、武蔵の修学旅行は、コース選択制・グループ見学方式など先駆的な改善を行ってきたが、ついに修学旅行という因襲的形態にまつわる欠陥を除去し得なかった。集団のなかに個々の責任が埋没してしまうような学校行事はむしろ進んで廃止しそこで失われる修学旅行の美点は別の形で追求すべきであるという考えのもとに、78年を最後に廃止された。中学3年も東北旅行を実施していたが、66年を最後に廃止された。」(以上、『武蔵90年のあゆみ』190ページより)
この廃止が決まったときの武蔵高校の校長は大坪秀二氏であったが、彼は『大欅』1979年6月15日号に「修学旅行の廃止をめぐって」と題する文章を載せている(のち『大坪秀二遺稿集』に収録)。大坪はそこにおいて、「出発から帰着まで、全員が一斉行動をする」という、修学旅行の「伝統的な様式」についての批判が復活早々から見られたと述べ、「修学旅行を単なる団体観光旅行、思い出旅行とするのでなく、各人が主体性をもって計画し見聞するという旅行本来の立場を、修学旅行の中に何とか生かせないだろうかという意図に発する」コース選択制の導入もあったものの、「結局は単なる集団旅行へと風化してゆく経過を、毎回たどった」と記している。
続く文では、「修学旅行という名の下に私たちの社会に定着しているのは団体旅行であり、日本的な団体旅行の魅力は、それに加わることで個々人の責任が消失する気楽さにあるということが、すべての底流にあった」、「団体旅行に典型的なこうした精神現象を、私は生徒への話しの中で、『集団無責任体制』という言葉で表現しました。今の社会で問題となっている多くの事柄、青少年の聞で問題となっている事柄などを見きわめてゆくとき、この『集団無責任』が根本にある場合が実に多い」とある。
上記の文章はいまから約40年前のものであり、率直に言って、なかなかその切実さが身近に感じられない部分もあるが、「集団観光旅行としての修学旅行」の強硬な廃止論者であった大坪による、現在全国的に積極的な意義が失われつつある修学旅行の否定的な側面を浮き彫りにした先駆的な考えとして、一読に値するものであろう。
その大坪が、武蔵高校の修学旅行で唯一、「今日的観点から見ても、非常に立派なものだった」と高く評価しているものがあった。それは、1951(昭和26)年から1969(昭和44)年まで教諭(その後、1975年の逝去まで大学の人文学部専任教授)をつとめていた島田俊彦を中心に立案・実行されたものである。
「20年以上昔の当時、既に、コース選択制による見学人数の分割を行って、見学の徹底をはかったことなども、島田さんだけの発案ではないが、卓見であった。阿弥陀信仰という一本の線で、法界寺・平等院・かにまん寺・浄瑠璃寺・岩船寺を結んだり、飛鳥・白鳳・天平の線を完成するために、一般コースを離れて当麻寺まで足を延〔ば〕したり、さらには室生・多武峯までを日程に含めたりした。
当時は、バスの運転士でも飛鳥や南山城の道は不案内で、島田さんが運転士の横の席でいちいちコースを指示したし、島田さんの指導の下に生徒が編集した旅行の案内書は、バスガイドたちに好評で、せがまれてわけ与えることになったりした。
島田さんは、地図なしでも歩ける旅行の先々でなおかつ熱心にスライド用の写真をとり、さらに民族文化部の生徒との旅行の時のデータなども補充して、翌年の生徒に対してはさらに新しい工夫を加えるなど、私たち教師にとっても、島田さんの手で総合された修学旅行につきあうことは、日本史への興味を啓発される上でも、大層勉強になることであった。」(以上、大坪「島田先生を悼む」『武蔵大学人文学会雑誌』第7巻第3・4号、1976年に所収)
修学旅行が実施されていたとき、引率役であった島田の(武蔵学園史において)面目躍如たる事件があった。
制服を着ることなくセーター姿で旅行先を歩いていた生徒たちが、他校生に脅かされたり撲られたりという出来事があったというが、付添い教師が京都の警察署で事情を説明する段になって、京都府警少年課の担当者が「制服を着てないような生徒は、それだけで不良と見られても仕方ないのだ」というような話をしたさい、島田が「うちの学校では服装は自由なのだ。あんたは、ひとの学校の教育方針にケチをつけるのか」と応酬したという。これ以降は、関西旅行の折には必ず教師が五条警察署に立寄り、「本校は服装自由であるので、その旨ご承知いただきたい。服装だけの事で取締りの対象にしていただきたくない」旨を説明することになり、これが結果として「武蔵は制服のない学校」ということを世間に定着させることに役立ったという(大坪「武蔵の服装規程のこと」同窓会会報第32号、1990年12月に所収。のち『大坪秀二遺稿集』に収録)。
大坪は、新制武蔵高校発足の2、3年後ごろからのつきあいであった島田について、「吾々の仲間の餓鬼大将でもあった」と評している。
「私は、あるいは私たちは、島田さんとよく飲み、よく出歩いた。そうした生活の中で、島田さんが発散するザックバランな、一本気な、正義派的な雰囲気は、当時の私達の気風をとりまとめる一つの中心になっていたかと思われる。」
この文は、武蔵高校の教師陣が、個性的で、かつ識見すぐれた人物を得ていたことを示すものといえるだろう。
島田は教諭在任中に、満州事変や日中戦争の実証的研究の第一人者としても名高い存在であった。1962年から63年にかけて朝日新聞社から刊行された『太平洋戦争への道―開戦外交史』(全7巻)の共同執筆者として、また1964年から66年にかけては、みすず書房の『現代史資料』シリーズの『満州事変』、『満洲事変 続』、『日中戦争』の共同編者としてそれぞれ名を連ね、単著として『関東軍―在満陸軍の独走』(中公新書、1965年)、『満州事変』(人物往来社、1966年)を執筆している。この2冊の単著は講談社から学術文庫化され、初版刊行から半世紀がすぎた現在でも新刊本の書店で入手が可能である。このような貴重な成果として結実した研究の出発点は、以下に紹介するように、彼の使命感や良心と不可分のものであったといえる。
島田は1908(明治41)年生まれ、1931(昭和6)年に東京帝国大学文学部史学科を卒業後、2年間の大学院での研究を経て聖心女子学院高等専門学校の教授をつとめていたが、太平洋戦争中の1942年5月に退職、その翌月に海軍の軍令部嘱託(戦史編纂事務)となり、終戦までその職にあった。以下、みすず書房の『現代史資料』第7巻の付録月報に収録されている島田の回想「軍令部戦史部始末記」によりながら、彼の研究基盤や独特な言行に接近してみたい。
日本海軍では日清・日露戦争や北清事変、第1次世界大戦、満洲事変、第1次上海事変など、かかわった対外戦争や戦闘に関して、軍令部による厖大な戦史が(軍事機密扱いであるが)編纂されていた。日中戦争が太平洋戦争にまで発展拡大した時、軍令部が恒久機関として「戦史部」をあらためて発足、現役・予備役の将校が15、6名ほど配属されるとともに、歴史専門家として島田が嘱託に就任した。
編纂の計画は、まず『大東亜戦争海軍戦史本紀』という表題の、従来程度の詳しさの戦史をつくるほか、さらに詳細でさらに機密度の高い『秘史』(作戦や用兵が記述の中心)、そのほかに機関科、主計科、軍医科等各科別の戦史を書く。さらに一般啓蒙用として、機密事項を取除いた興味本位の戦史もつくる、というものであったという。「生来無類の臆病者である私は、何としても戦争へ行くのはイヤだった。徴兵検査は丙種だったから、満洲事変、日華事変のうちはいささか高みの見物だったが、これが太平洋戦争にまで拡大されると、安閑としてもいられなくなってきた。恩師の辻善之助先生〔1877―1955、歴史学者・日本仏教史〕は、私のこの哀れな心情を察して、ある日私を招いて『海軍で軍人たちだけで大東亜戦争の戦史を編さんしているそうだが、最近、歴史の専門家がひとり欲しいといってきた。この仕事をやれば、かえって戦争に行かないですむかもしれない。行かないか。』といわれた。……何よりも、もしかすると戦争にいかないですむということが最大の魅力だったので、結局推せんをお願いして清水の舞台から飛びおりた。」
以上の叙述は、島田がこの仕事を引き受けた理由が、単なる徴兵の忌避にしか感じられないような書きぶりであるが、実相は彼が持っていた(実証的な歴史学の学徒という)職業的倫理観に共鳴するものが、このプロジェクトを担当した海軍側の人間の言動に見出されたからではなかろうか。「ある日、先生の紹介状を持って軍令部戦史部に先任部員(課長相当)の高田俐大佐をたずねた。……高田大佐は……『あなたにこれから書いてもらう戦史は、将来軍機書類として海軍軍人だけに研究させるのだから、あらゆる事実について絶対に筆を曲げないでほしい、よしんばそれで海軍が悪者になってもさしつかえないから――』というそのときの一言は、吹きすさぶファシズムの嵐の中で、自由な歴史研究が妨げられつつあることを感じていた私に、この仕事にたずさわる最後の腹をきめさせた。」
なおこのプロジェクトでは、作家の吉川英治も勅任待遇の嘱託になっていたという。「吉川氏はわれわれの書いた『本紀』に基づいて、一般啓蒙用に筆を振うはずであった。そしてその出版は岩波書店が引受けていた。高田大佐の話によれば、吉川氏はこの仕事を依頼にいったとき、同氏は今後一切他の執筆を絶って、この意義ある任務に専心すると、涙と共に誓ったということだったが、ついに1字も書かずに終戦を迎え、他にも小説を書かれた(もっともその際軍令部の諒解を求めに来られたが)。それは恐らく、われわれの書いた無味乾燥な戦史だけが資料というのではどうにも筆の振いようがなかったことにもよるのであろうが、それよりも次第に吉川氏の胸中において、『大東亜聖戦』のイメージが崩れ去りつつあったことが最大原因だったのだろう。純真な吉川氏にはまことにお気の毒であった。」
ここで島田が記している、吉川が覚えたかもしれない失望は、おそらく島田自身のものでもあったのではないだろうか。敗戦後、組織の解散時に残すことのできた業績は、B5版約900頁の『本紀第1巻』(1937年の第2次上海事変まで)1冊だけだったという。もっとも、島田の遺品として残された史資料群には『本紀第2巻』の草稿も含まれているが、これが日の目を見ることはなかった。島田は戦争後半のある時期から、海軍部内で編纂された戦史の完成を断念し、後世のいつの日か、自身の使命感を充足しうる(そして、広く国民一般にそれを公表しうる)内容の戦史執筆を構想し始めたように思われる。
島田の回想は以下に続く。
「戦史部ではジッとしたままで、資料係が転手古舞するほどたくさんの貴重な資料が入手できた。それをいつでも自由に披見できることは、何ごとにも代え難い大きな魅力であった。ことに敗戦の〔19〕45年になってからだと思うが、情報担当の軍令部第3部から、古い資料が場所ふさげでこまるから、そちらで不要なら焼却するがという照会があって、そのあげく資料の山が戦史部に移管されたとき、私の胸は躍った。それらは昭和初年からの各種対外案件に関する陸・海・外の機密電報、外地からの情報、中央国策決定の文書、軍令部甲部員(政策担当)関係の作戦日誌……さては新聞の切抜きに至るまで、いずれも実によく整備された珠玉の資料であった。そのころ私は太平洋戦争のひとつの重要な核である日中両国のもつれ、そして戦争を、いつの日にか解明してやろうと考えていたので、これらの資料の中から主として中国関係のもの――つまり軍令部第6課(中国情報担当)のもの――ばかり200冊余(1冊平均約200枚)をえらび出し、自分用の金庫にこれを格納した。そして公務のあいまにこれを取出しては、少しずつ読んでいった。」
1945年6月になると、空襲を避けて戦史部は保管資料とともに山中湖畔に移転し、島田らは翌々月にその地で敗戦を迎えた。
「海軍大臣からは機密書類焼却の厳命が来ていた。だが当時資料保管の責任者でもあった私には、到底焼く気になれなかったし、また将来のため焼くべきでないと考えた。そこで私は独断で、ある日ひそかに湖畔の村の某家を訪れ、資料の隠匿を依頼した。幸い同家ではこれを快諾し、2階の物置をこれにあてるということだったので、私はすぐにホテルに戻り、夜陰に乗じて運びこむべく、水兵を指図して資料の箱詰め作業にとりかかった。ロビーを資料で一杯にして作業している最中に、終戦だというので本省へ出張した長井〔純隆〕大佐〔海軍兵学校50期、戦史部専任部員〕が帰られた。そしてこの『ていたらく』を何ごとかと不審がられ、やがて真相が分ると「大臣の命令が分らないのか。全部焼け」と命じられた。先任部員の立場としては、もちろん当然の発言だったのだろう。私も上官の命令とあればやむを得ず、速刻箱詰め作業を焼却作業に切換えた。それから4日3晩、徹夜で資料は火葬に付された。炎々たる焔は天を焦し、最初の晩には村人が火事とまちがえて駈付けるほどだった。」
ここで登場する長井が戦後、防衛庁防衛研修所の戦史室(現在、防衛省防衛研究所の戦史研究センター)の室員として海軍公刊戦史の編纂執筆に携わり、大半が焼却処分されてしまった機密書類の欠を埋めるため、関係者の回想やインタビューの実施や史料収集に日々忙殺されたことは、皮肉なめぐり合わせと言える。そして長井らの編纂官は、その作業において、今度は島田の大いなる助力を得ることとなったのであるが、それは島田が秘匿保管していた史資料を参照し得たことによるものであった。
島田の回想を続ける。「戦史部の全機密書類は焼却完了ということになった。しかしそのことは必ずしも事実と符合しなかった。なぜならば焼却の指揮者であった私は、またしても独断で例の2百余冊の日中関係資料をえらび出し、家族を疎開させてあった山中湖畔の借家に、ひそかに運びこませてしまったからである。これは明らかに大臣命令違反であり、またやがて進駐して来るアメリカ軍の追求を受ける恐れもあった。しかしこのことに関する限り、臆病者の私にしてはふしぎなことに少しも恐くなかった。これという理由もなしに、私は当然これを守るべきだし守り得ると考えていた。」「終戦後、私は職場を失い、また元軍令部職員ということから、しばらくは教員の適格審査にも合格せず、いささか世の辛酸をなめた。しかしそのようなことは臆病者、卑怯者の当然受けるべき『しもと』であって、問題ではない。私の任務は、幸い残すことのできたこれらの資料を活用することにある。だから今まで細々とではあったが、これらをもとでに研究を続けてきた。そして一方では、私物ではないこれらに日の目を見せるチャンスをうかがってきた。」
島田が保管していた、この一群の史資料の大部分は、後年、みすず書房の『現代史資料』に収録され、敗戦後約20年の年月を経て国民一般の目に供せられることになった。また防衛庁(当時)による陸海軍の公刊戦史の編纂執筆に際しても、さきにふれたように、それらの史資料が複製され参照されている。その内容から見えるものは、満州事変から日中戦争の拡大まで、日本の海軍も陸軍も外務省も、1930年代に中国に対して相当に強硬な姿勢を取り続け、軍事衝突の発生時にはさまざまな拡大防止の策を検討したことも確かではあるが、全体としては中国側の交戦意思を低く見積もり、また事態収拾の見込みについて著しく楽観し、最終的に国際的な孤立をまねいていったという日本の姿であった。
みすず書房の『現代史資料』編集室は、上記の月報掲載文の紹介において「淡々たる筆致のうちに、『資料』とは日本国民の公有のもの、そして公開への使命感にささえられて、あの敗戦直後異常な緊迫時に、身をもって資料を守りぬいた姿が語られています。――この『焼け』という大臣命令に『焼かない』という行動が、どんな危険を意味し、この反逆がどれほどの勇気を必要とするかは、軍隊で8月15日を迎えた体験者には誰しも判っていただけると思います。」と記しているが、これは歴史家としての良心と硬骨さとを兼ね備えた島田がおこなった、他に類を見ない「日本国民にとっての一大貢献」であったといえる。
1960年代半ばからの短期間で、続々と単著や共同研究の成果が世に出されるにつれて、しかし、島田の健康は急激に損なわれていった。それでも、1970年前後からさかんになった学費問題をめぐる学内での紛争にも正面から対処し、その収束から数年後の1975年12月に満67歳で逝去している。
長いとはいえない生涯ではあったが、敗戦直後には史資料の秘蔵保管という心理的な抑圧(あるいは自責の念)に耐え、戦後は質の高い歴史研究の成果を次々と世に送り、あわせて教育者としても確固たる精神を持ち続け、多くの学生がその薫陶を受けた。このような人物は今後、武蔵においても他の教育機関においても、なかなか現れないのではなかろうか。