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第4章 大学設置基準の大綱化と教学体制の改革(1992-2000年)
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戦後、日本が新制大学を発足させたとき、その設置認可は大学設置基準によると決められた。その設置基準は最低の基準とされ、その維持向上は各大学に任されたが、事実上十分に機能しなかった。その後、高等教育を巡る社会情勢の変化に伴って、大学の改革についても様々な論議が行われてきた。
その中で、「従来の設置基準が日本の大学の現状に必ずしも適合しておらず、大学の将来の発展の障害になっているのではないか」という意見が出され、大学審議会によって長期間検討が進められた結果、1991(平成3)年3 月に答申が行われ、文部省はそれを受けて大学設置基準などの改正を行い、同年7 月から施行した。その基本的な内容は、大学の個性化、多様化のために基準を単純化、大綱化することと、大学の質の向上を大学の責任とし、そのため自己点検・自己評価を義務付けたことである。
この設置基準の大綱化は、戦後最大の大学改革になった。武蔵大学でも自己点検・評価検討委員会が設置され、学則にも自己点検・評価の実現が明記された。また大綱化に伴って、カリキュラム改革が各学部で検討され、やがて実現された。そして改革後もそれは絶えず見直しが行われ、引き続き改定が行われている。
また設置基準の大綱化は、単に大学学部だけでなく、大学院にも及んだので、武蔵大学としては大学院の強化・充実を目指し、とりあえず人文科学研究科の社会学専攻修士課程の申請と研究科全体の博士課程の申請を行うと共に、同じく大綱化による学部、学科の設置申請の簡略化に応じて新たに人文学部社会学科の社会学部への改組転換を図った。そして社会学科の抜けた人文学部に新たに比較文化学科を設置することになった。
それまでの過程では東アジア文化学科の設置、欧米文化学科のアメリカ文化学科とヨーロッパ文化学科への分化独立、コミュニケーション学科の新設などの案が提出され、検討されたが、最終的には上記のように決まったのである。もちろんそれらは、大綱化が直接の設置理由ではない。むしろ武蔵大学の将来を見据えた計画として考えられ実現されたのである。しかし設置基準の大綱化がなければ、このように早く実現することはなかったであろう。
1985(昭和60)年以降の大学受験生急増という事態に対して、文部省は臨時的に定員の増加を認めることで、それに対処した。これは、基本的には大学の教室などの設備や教員定員の拡大や増加なしに、一定期間に限っての学生定員増を認めるものであった。この決定は受験生の急増という事態に、教育水準を低下させても大学の門戸を開きたいという行政の判断があったと見てよい。その結果、大学進学率はさらに高まることになったし、大学財政にとってはまたとない蓄積の機会となった。
武蔵大学は、当初、いわば文部省の要請とも言い得る臨時的定員増を受け入れず、むしろ従来の定員を守って教育水準の確保に努めたいという立場であった。しかし1989 年からスタートしていた経済学部の金融学科設置構想実現についての文部省との交渉で、金融学科の定員枠の純増を求めたが、臨時定員増を使ってほしい旨の示唆を受け、結局は臨時定員増を利用することになったのである。ただしそれは1 学年80 名というごく僅かの学生定員の金融学科開設のために数名の教員の採用が必要であったので、本学にとっては財政的に有利であるどころか、むしろ逆の事態を招いた。
なお、人文学部も同時に1 学年100 名の臨時定員増を認められた。1991 年度から臨時的定員増を実施し、欧米文化学科180 名、日本文化学科120 名、社会学科150 名となった。この時、学部の入学定員は最大となった。
この臨時的定員増の措置は、1998 年をもって廃止された。ただしその半分の定員は恒常化が認められ、また5 年間の漸次減少も認められたので、武蔵大学としては1999 年から2003 年までの間に全学合わせて1 学年180 名の臨時定員を90 名で恒常化することになった。ただその定員増の恒常化にあたっては各学部、学科にウェイトを付けた配分を行うこととし、経済学部は内部的な再配分、人文学部は若干のウェイト付けを持った配分、社会学部は社会学科の持つ臨時定員分を全部配分するなど、将来の受験者の志望傾向の予想を織り込んだものになっている。
武蔵大学にとって、臨時的定員増は少なくとも当初においては学部学科の新設があり、財政的に必ずしも貢献しなかったが、やがてそれは本学の財政基盤を支える重要な要素になった。そのため、それが半分は残るにしても、この措置が廃止されたことは大学財政にとって大きな痛手であった。さいわい、臨時定員の数の総定員に対する比率は19%程度で、他大学に比べてそれほど多いものではなかった。
金融学科が発足したのは1992(平成4)年4 月である。その発足に至る前史は長く、設立の準備は1988年から始まっている。
日本の大学の危機と武蔵大学の将来への不安を経済学部の教員たちが議論するようになったのがその出発点である。経済学部も変貌する必要があるが、どのようにその内容を変えていくかが問題であり、とりあえずは「新学科の増設」ということになった。それをどのような学科で実現すべきかで議論は分かれたが結局、金融(ファイナンス)学科しかないという結論になった。金融の重要性が益々高まる今日の日本において、ファイナンス理論で武装する必要性を強く説くためであった。そして欧米で盛んになってきたファイナンス理論の、日本における普及と発展を武蔵大学でやろうというのがその狙いであった。
本学の金融学科は私立大学としては日本に最初に誕生した金融学科である。設立時には折しも、バブル崩壊の最中であったために、設立の意図も十分には理解されず、受験生も多くはなかった。しかしバブル崩壊以後の金融危機を体験し、その機能や役割の理解が進むにつれて、この学科の意図も受験生に次第に理解されるようになったと思われる。
武蔵大学では長い間、筆記試験による学力検査をその選抜方式として行ってきたが、1977(昭和52)年から指定校制推薦入学制度を導入し、高等学校の基礎的な学習到達度と学校長の推薦をもって入学を許可する方式を併用してきている。
これらの方式はほとんどの大学で採られているものといってよく、今や入試の多様化は大学改革の大きな柱になっている。もとより、入試の多様化が現在日本の入試制度にからむ弊害を軽減する上で成功しているかという点には異論も存在する。「多様化はむしろ、偏差値を巡る競争を緩和する作用もなく、また推薦入試での選抜の早期化による高校教育の歪みなどの弊害を除去する作用もなく、ただ高校と大学の教育に混乱と歪みをもたらすにとどまっている」というような批判には、それなりに傾聴すべき点があるだろう。しかし大学の存立が危ぶまれている昨今、受験生確保のために絶えず手を打っていく必要があり、武蔵大学においても入試の多様化は大きな要請である。
そのため学力試験においては、従前の3 科目入試の他に2 科目入試を経済学部で導入すると共に、人文学部では英語の試験にヒアリングを加えるなどの工夫も行っている。また推薦制度では推薦校の指定をきめ細かく行うと同時に、推薦の条件についても様々な検討を行って入学生の潜在的能力と可能性を探ることとした。
大学設置基準の改定に伴う、経済学部におけるカリキュラム改定の検討は、1992(平成4)年7 月9 日の教授会で経済学部大綱化問題検討委員会が設置されて始まり、1995 年7 月6 日の教授会での「カリキュラム改定に伴う学則の一部変更」を終えるまで、長期間を要した。それは経済学部のカリキュラムにおいて重要な位置を占めてきた、ゼミナールの必修制や第2 外国語の必修などがこの改定の中心的な検討課題となったからである。
○カリキュラム改正の方向
1994(平成6)年10月6 日の教授会での検討委員会報告「今回のカリキュラム改正の考え方」には、状況認識、改革の方向が一応整理されているが、大綱化という「外圧」から始まったために、相当の期間と労力を要したカリキュラム改定にしては改定の理念についての議論は不十分だったように思われる。
このカリキュラム改定全体の方向をまとめれば、大学教育の基本は学生が意欲をもって自主的に学ぶことであり、またそれによってはじめて教育効果が上がる、その条件を作るために学生が自らの興味に従って学びたい科目を学べるように選択の幅を拡大した、と言うことができる。それは、卒業必要単位や必修科目の削減、科目区分にとらわれずに履修できる任意選択単位の設置等に現れている。
とはいえ他方で、必修制であったからこそ一定水準の教育を行うことができたのであり、そのような方向は結局怠惰な学生を作り出すことにならないか、あるいは専門教育の効果を上げるためには授業科目の積み重ねが従来以上に必要となっている点と、選択の幅を拡大することとをどのように整合させるかなど、簡単に否定できない論点も共通に認識されていた。それ故に、改定までに多くの議論が必要だったのである。
○一般教育科目の再編
一般教育科目の再編に伴って、経済学部では、授業科目の区分を基礎教育科目(教養ゼミナール、外国語科目、身体運動科学科目、基礎科目)、総合科目、専門科目の3 区分とした。総合科目は基礎教育科目と専門科目を繋ぐものとし、境界領域的な課題あるいは現代的な課題を総合的なアプローチによって学び、広い専門的知識を修得するための科目という位置付けで新設された。この科目はその性格からリレー講義として開講され、人文学部にも性格の似た総合講座が新設されたために両学部の教員が協力して講義を担当している。
○外国語科目
合意を得るまでに時間がかかったが、結局、学科会議の検討を踏まえ、経済学科については英語の他に第2 外国語として独語、仏語、中国語のうちから1 か国語を選択し履修する2 か国語必修を維持することになった。経営学科、金融学科については必修は英語、独語、仏語、中国語のうちの1 か国語とした。この改定によって中国語が必修外国語となった。またこれまで学部共通であったその他の基礎教育科目の必修科目についても学科ごとの独自性を認めることとした。
同時に、学生の選択の幅を拡大する方向で、内容の多様化、レベル別授業の導入、あるいは授業の難易度を提示して選択させる等々、授業内容についてもかなりの議論が行われ、また専門教育における外国語教育についての議論も行われたが、それら多くの議論は未決着のまま残された。
○ゼミナールを中心とした専門教育科目
検討課題はいくつかあったが、中心はゼミナールの必修制が、むしろやる気のある学生の足を引っ張り、ゼミの活力を低下させているのではないかという評価に基づいて選択制を導入するかどうかであった。
結局、教養ゼミナール1 年次4 単位必修、専門ゼミナールは2~4 年次まで1 学年1 ゼミ、計10 単位を履修可能とし、ただし必修は2 年次の専門ゼミナール第1 部4 単位のみとした。また、従来の9 月開講を改めていずれも4 月開講とし、2 年次の4 月から専門ゼミが始まることにした。専門ゼミナール第3 部は4 年次生を対象とした2 単位の卒業論文指導ゼミとした。これによってゼミナールの必修単位を減らすと同時に、意欲のある学生については従来より多くの専門ゼミナールを履修できることとなった。運営の仕方は担当者の判断を尊重し、いくつかのゼミナールは学年縦割りで運営されるようになった。
また専門教育科目については、3 学科で半期制等の制度の面も関連して検討がなされた。経営学科では、カリキュラム内容の大幅な見直しが行われ、コース制の色彩を強めて情報関係科目、法律関係科目を新たに設け、かつ必修科目の増強が図られるとともに、半期制を意識して、これまで4 単位科目であった経営学科のいくつかの専門教育科目について、Ⅰ・II と2 単位科目への分割が行われた。
人文学部における大綱化以降のカリキュラムについては、カリキュラム’96、カリキュラム’98 という二度の大きな改定がある。前者は大綱化に対応したものであり、後者は1998(平成10)年の人文学部社会学科の学部化と、比較文化学科の開設に伴って改定したものである。
カリキュラム’96 は、いわゆる教養科目と卒業条件の改正に留まるものであり、専門科目については殆ど手付かずの状態であった。専門科目に関する本格的な検討が始められたのは、社会学科の学部化、比較文化学科の開設が決められた1996 年4 月8 日の教授会以降のことである。
従来の専門科目との相違点のみを指摘しておくならば、次の通りである。それは第一に、共通専門科目の大幅な改定である。具体的には、そこに含まれていた比較文化関係の科目を比較文化の専門科目へ、自然科学関係、第3 外国語関係の大半の授業を共通関連科目にまわしている。第二に、人文学部全体に共通していた共通専門科目を、各学科が取捨選択して学科専攻間で相違するようにしたこと。第三に、社会学部の専門科目のうちのいくつかが共通専門科目として提供されていること。さらに最も大きな改定としては、第四に、同一授業が学科専攻を超えて、それぞれの専門科目として設けられるようになったことではなかろうか。
こうした改定点を含むカリキュラム’98は、3学科間はもとより、人文・社会両学部間の垣根を低くする意図の下で、社会学部、比較文化学科開設と同時に実施されることになった。
1991(平成3)年に定められた設置基準の大綱化は、一方で、規制を緩和し、各大学に設立の理念に従った教育の独自性を認めるものであったが、他方で、大学教育、研究の質の確保と向上を図るために自己点検、自己評価を行うことを大学に強く要求するものであった。その制度化のために武蔵大学でも大学学則および大学院学則の第1 条に次の条文を加えた。
第1 条の2 本大学(院)は、前条の目的を達成し、教育研究の向上を図るため、教育研究活動等の状況について自ら点検・評価を行う。
3 自己点検・評価の項目、実施に関する組織及び運営等については別に定める。
なお、設置基準の大綱化の実施に伴い、本学でも「自己点検・評価のあり方検討委員会」が設置され、議論が始まっていたが、本格的な検討は行われていなかった。したがって「あり方検討委員会」は1992年5 月「自己点検・評価検討委員会」に発展的に改組され、そこでの議論の過程で、自己点検・評価が大学の管理手段として考えられるべきではなく、本来、大学自体が教育研究の社会的責任を果たしていくために、自らの活動状況を点検・評価し、それによって改善していくべきであると確認された。そして、本学における自己点検・評価活動の必要性を改めて承認し、点検・評価制度の整備と具体化への作業に着手したのである。
その後「自己点検・評価委員会規程」が大学協議会で制定され、委員会の当面の仕事として自己点検・評価の基本的事項を確認して、それぞれについて列挙し、その内容を記述する作業に着手することになった。その結果、1996 年に『武蔵大学の現状と課題』として、報告書が提出された。
1969(昭和44)年に創設された人文学部は、1973年、第1 回卒業生を送り出すとともに、同年修士課程が開設されて、第1 回院生が誕生した。ここに人文科学研究科の歴史がはじまった。修士課程も軌道に乗り始めた1977 年度の氷上英廣研究科委員長の時に、博士課程設置の可能性が検討議題にのぼった。同時に、社会学科の大学院設置の可能性も検討された。というのは、博士課程は社会学科の修士課程設置を待って開設するという学部の了解事項があったからである。
こうして、検討のための小委員会が組織されて検討に入ったが、社会学科からは、大学院設置は時期尚早であるから延期したいので社会学科と関係なく他専攻が博士課程を設置してもかまわない、との意向が出された。博士課程設置については、当時の文部省の方針などを確かめながら検討したところ、それぞれの専攻に博士課程を立ち上げる場合はその人員確保の問題、またそれぞれの専攻を統合する場合は統合案のあり方について検討すべき多くの課題がある一方、大学院の構成や博士課程の院生の卒業後のポストの可能性をどのように考えるかという疑問も出された。その結果、将来において条件が整った時期に再検討するという結論をもって小委員会は役割を終えて解散し、博士課程設置は後の課題として残された。
1994 年度になると、学部のカリキュラム改革を終えた社会学科に大学院設立の機が熟してきた。そして私市保彦研究科委員長の任期中に社会学科の修士課程設置を文部省に申請し、認可を受けて、1995年4 月から社会学科の大学院修士課程が開設された。それによって社会学科大学院の開設にあわせて他専攻の博士課程を設置するという懸案の問題も解決したばかりか、その時点での教員スタッフから見ると、欧米文化系専攻、日本文化専攻、社会学専攻の博士課程の積み上げには絶好の機会であるという判断が出てきた。
一方、学部と大学院の組織上の矛盾も年とともに目立ってくるという状況があった。すなわち、学部が文化学科であるのに、大学院が英語英米文学、ドイツ語ドイツ文学、フランス語フランス文学、日本語日本文学といった語学、文学の専門課程であるという現実から生じる、教育・研究上のずれに伴う様々な問題が指摘されていた。とりわけ大学院においては、語学、文学を超えた広い分野のテーマを追求する院生が増大した事態への対応の必要性が浮上していた。
こうして、1995 年度に大学院人文科学研究科の改組、博士課程設置の検討委員会が組織され、大学院の組織改革と博士課程設置の問題点・可能性の検討に入った。
社会学専攻は「構造と計画」「情報と変動」「文化と人間」という修士課程のカリキュラムを基礎に、隣接領域からの研究と視点をさらに積極的に取り入れ高度の研究を行う博士課程を積み上げるという構想なので、修士課程を含む大学院の改組は専ら欧米文化と日本文化の2 学科の問題であった。改組の基本は、文化学科で構成されている学部と連続性を保ち、学部の教育と大学院の研究・教育に一貫性を与えるよう、大学院に語学、文学のみならず文化研究の柱も立て、語学、文学、思想、歴史などの分野を一体化して教育・研究できるような構想の実現にあった。そればかりでなく、広い文化領域を対象とするようになった現代の学問の動向を積極的に取り入れることも、基本的な課題として視野に入っていた。
このような教育・研究上の本質的な問題を含む大学院改組の構想と併行して博士課程設置の可能性を検討したため、委員会では様々な改組の原案が浮かび、その検討には多くの知力とエネルギーが費やされた。はじめの段階では、従来の語学、文学から文化研究の課程を独立させた上で、文化学専攻とする案もあったが、私市研究科委員長のねばり強い努力の下での度重なる検討の結果、まとまった最終案は次のようなものであった。それは従来の英米・独・仏の語学・文学の欧米系の3 専攻を「語学・文学」「思想・歴史」「比較文学・比較文化」の3 分野で構成される「欧米文化専攻」として一体化する。日本語日本文学専攻を「日本語学」「日本思想史」「日本歴史」「日本文学」「日本文化史」の5 分野で構成される日本文化専攻に改組する。それに社会学専攻を加え、博士前期課程、博士後期課程とするといった構想である。
こうした検討の結果が研究科委員会の承認をえる間に、研究科委員長が杉田弘子教授に交代した時点で検討委員会は準備委員会に発展的解消され、準備委員会は文部省申請と学内のコンセンサスの調整に当たった。改組案に伴うカリキュラムと担当教員が決まり、事務職員の精力的な協力があって、文部省に最終案が提出され、1996 年末に認可が下り、1997 年度から新体制による大学院が発足した。
大学院の改組は、文化学科で構成されている学部との一貫性を追求した結果でもあるが、さらに同年度に社会学科の学部昇格が認可されると同時に人文学部の比較文化学科設置も認可され、学部と大学院の分野の関連性はいっそう補強される結果となった。社会学部大学院の専攻は従来通り人文科学研究科に所属のままとなったため、人文科学研究科は、欧米文化、日本文化、社会学の3 専攻の構成で、人文学部と社会学部の2 学部の上にまたがる形で置かれた。
大学院の完成によって、人文系の幅広い研究分野と教育の基礎の上に高度の専門家の育成を可能ならしめる縦軸が完成され、武蔵大学が社会により貢献しうる基盤が築かれたといえよう。
武蔵大学が電算機教育を始めたのは1980(昭和55)年代の初期であるが、最初はミニコンに20 台ほどの端末を付けてベーシックによるプログラムの作り方などを指導するのがやっとの状態であった。ミニコンは、やがて科学情報センター棟ができあがるのを機会に、小型の汎用機に変わったが、端末機をいくつかぶら下げての授業や実習には自ずと限界があった。
そこで従来の電子計算機室を情報処理教育センターに改組、独立させると共に、1993年から電算機の構成も一新した。
インターネットも直ちに利用できるようにした。また、6 号館、7 号館の完成もあって、専用教室をさらに増設し、従前のゼミ室などにもPCを設置するなど、学生にとっては大変に利便性が増した。
当初の学生の利用は微々たるものであったが、コンピュータ環境の劇的な変化に伴って学生の利用も飛躍的に高まった。1999年度末の時点では、約4,500 名の学生に対し、約300台のPCが準備され、別に150の情報コンセントも用意された。
朝霞校地2 万坪(6 万6,900㎡)は、主として大学の運動部(体育連合会)の学生用グラウンドとして利用されている。使用しているクラブは硬式野球部、ホッケー部、ラグビー部、サッカー部、アメリカン・フットボール部、硬式庭球部、ゴルフ部、洋弓部などであり、全体を水曜会と総称している。
大蔵省の返還を受けた頃は自衛隊用地であったためもあって、必ずしもグラウンドとしてよく整備されているとは言えなかったが、窪地に土を入れ、また土を入れ替え、芝を植え、散水装置を付けるなどして改良に努力してきた。まだまだ問題は残っており、それも折々に改善を続けているのが現状である。最近ではグラウンドの中央にトイレを設置し、グラウンド利用者の便宜を図ると共に、その上部に観戦台を設けてラグビー、アメフト、サッカーなどの試合や練習を観るのに便利にしたり、テニス・コートに照明灯を設置するなど、大きく改善された。
また部室と合宿所は、木造あるいはプレハブで、古く劣化していた。そのため江古田校地再開発と併行して、その改築が計画され、 1995 (平成7)年10月31日の施設整備打ち合わせ会の席上で、6・7 号館および4 号館「武蔵倶楽部」の基本設計と共にその基本構想が正式に議題として取り上げられた。
その計画が可能であったのは、大学が建設のために従前から積み立てておいた資金があったためである。新入生の父母の任意寄付金のうち予算額を上回る部分について長年蓄積されていた資金が役立った。
計画は順調に推移し、1996 年5 月に合宿所が、続いて9 月に部室が完成した。合宿所は鉄骨3 階建て(延べ床面積は589.26㎡)で、1・3 階がミーティング室、2 階には3 部屋の和室の宿泊室がある。3 階のミーティング室は大きく、他大学との試合後の交歓会などの会場に利用できるようになっている。また部室は同じく鉄骨2 階建てで、水曜会に所属するクラブの学生の部室であるが、上掲のクラブのほかにラクロス愛好会の利用室や女子マネージャー室など各種含まれている。シャワー室などは体育の授業で朝霞を訪れる一般学生にも、また交流試合で朝霞に来る他大学の学生にも開放される。これら部室等の延べ床面積は411.54㎡で総工費はおよそ1 億7,000万円であった。
その他、ゴルフ練習場を作り、体育の授業にも利用できる。さらに、照明が暗く不十分であるという声が強いので、照明についての改善も計画している。
千川通りに面して、武蔵大学正門のかなり手前、江古田駅寄りにもう一つ大学の門があり、その門を入った所に新しく武蔵倶楽部の建物ができた。もともとはそこに、大学が同窓会から寄付された瀟洒な建物(武蔵クラブ)があった。輸入した北欧の木造建物を、展示場で展示の済んだ後、同窓会が買い取って、それが大学に寄付されたものである。
主に喫茶店として、また学生の食事やコンパの会場などにも良く利用されていたが、次第に老朽化して改築の必要が生じていた。江古田キャンパスの再開発を進めていくなかで、その再建が問題になり、法人との調整を必要としたが主に大学が独自に蓄積していた資金などを利用し、大学4 号館(通称、武蔵倶楽部)として新たに地下1 階、地上5 階の多目的な建物が建設されることになった。着工は1995(平成7)年11月、翌1996年11月に竣工した。総工費はおよそ2億9,500万円であった。
この建物には、前面外壁の上部に本学のシンボルである白雉のデザインが埋め込まれ、また5 階ホールの窓ガラスには白雉のエッチングが彫り込まれている。
その計画は当初「武蔵大学東ゾーン整備構想」と名付けられていた。1994年6 月3 日付けの「整備構想」の提案書によれば、6・7・8 号館の課題の一つに「教室機能の拡大並びに高度化を図る必要がある」とある。「大学1 号館、大学2・4 号館は建築後40 年前後を経過しているが、当時の社会一般の施設水準、設計・施工水準からの制約を強く受けており、規模・設備対応力、避難施設、耐震性等の点で現在の新しいニーズに応えられる基本性能を持ち得ていない。21 世紀に向け、本学の教育研究環境の規模的充実と質的高度化は急務であり、そのためには、東ゾーンに於ける老朽校舎の順次的建て替えが必要である。」
そしてそのステップとして以下のように記されている。
「本部棟、2・4 号館をクリアランスし、新本部棟(8 号館)を整備し、6 号館に仮収容していた事務機能を、再収容する。
6 号館1、2 階は大規模教室とする。
大学1 号館の機能は順次、教室機能に移転していく。大学1 号館は教室機能を順次、8 号館並びに7 号館へと移転し、低密度な利用形態への移行をはかる。」
6・7 号館と新本部棟を兼ねている8 号館は一体として計画されたが、まず6・7 号館が1997 年3 月に完成した。6 号館は地下1 階、地上2 階で、1 階は学務事務部の事務室で、2 階には第2小講堂、コンピュータ実習室があり、地下は倉庫、電気室などの設備がある。7 号館は主に演習室で、1・2 階の全部と3 階の半分がそれに当てられている。3 階の後半分にはスタジオなどの実習室や集計・分析室、大学院生室など社会学部の諸施設が置かれている。地下は2 層で屋内プールやそれに関連する諸設備が設けてある。6 号館は1,572㎡、7 号館は3,238㎡で、同年4 月から使用されている。
8 号館は地上8 階建てで、地下に2 層の書架を持つ図書館の第2 書庫などの施設が入る。地上は1 階が大学の学務部の事務室や学部長室、教務委員長室、会議室、国際センターなど、2 階は学園の総務部、財務部などの事務室の他、理事長室、学園長室、学長室、専務理事室及び大学学長事務室や会議室などが入る。
以上は主に教育関係の施設で、AV・外国語教育センターやマルチ・メディア関係の施設や教室ができる。教室は大、中、小と様々な種類のものが計画されており、各教室にはマルチ・メディア対応の施設が設置された。8 階には武蔵大学開学50 周年記念ホールが設けられ、そこでは各種の催し物が開催できるようになっている。
大学設置基準の大綱化は各大学の教育の独自性を強めることを意味するものでもあったので、各大学はカリキュラムの改正をはじめ教育課程の改善に努めることになったが、武蔵大学ももちろん例外ではなかった。多くの改革を繰り返しながら現在に及んでいるが、ここでは学部の教育から一応独立した教育の組織・制度について触れておこう。
1992(平成4)年には「AV外国語センター」が設置された。外国語教育についての関心の高まりから、授業の方法、授業のテキストの作成、その他ビデオ教材の作成などを目指して、人文学部欧米文化学科の強い要望もあって設置をみた。その後「AV・外国語教育センター」と改称され、その目的が鮮明になると同時に内容も豊富になり、現在、グループ学習席や18 の個人ブースを持つAVラウンジが設けられ、MITCと呼ぶ英語集中訓練コース*、英語によるスモールトーク、語学相談など積極的な活動も行っている。構想としては、学部から独立したセンター独自の授業の開設や現在、英語だけについて実施しているセンターの事業をドイツ語、フランス語、中国語にまで広げていくことなどがある。しかしそのためには必要な施設の整備はもちろん、センター独自の教職員スタッフの確保が大きな課題となる。
情報関係の教育組織としては、従前から設けられていた「情報処理教育センター」が2000年4 月から「情報システムセンター」に改組され、さらに情報教育の充実等を図ることになった。
ところで、大学設置基準の大綱化によって、専門、一般教育の区別は必要なくなったが、従前から本学が重視してきた自然科学系の科目や身体運動系の科目は、武蔵大学では「基礎教育センター」が担当している。一般に科学の知識を学ぶ機会の少ない文系の大学の学生に対して、本学では最新の科学知識を習得させることに努め、また物理、化学、生物の実験も重視しており、効果を挙げている。
さらに身体運動の面では運動能力の増進、チームワークの形成、運動実技の習得、「心と体」の講義などを通して、生涯を通じた身体の鍛練に向けて学習し、友人と汗を流し、スポーツを楽しむ機会を設けている。
武蔵大学は開学の当初から、国立大学と同じように、学部事務室制を採用してきた。1 学部しかない大学では当然とはいえ、設立時の教員の国立大学での経験が多分にそれを採用した理由であって、そこに疑問の余地はなかったと思われる。従って、人文学部ができた後も、事務組織を変えるという発想は出てこなかった。しかし私立大学、特にマンモス大学と呼ばれる大学では、大学事務は学部を超えた全学的な組織をとるところが多かった。その方が効率的であると考えられたからである。
武蔵大学においても学部事務のありようについて少しずつ議論が出てきたのは、最近になってからである。それが具体化したのは社会学部の創設が話題に上ってきた折、新学部の職員の増員は認められないという条件が前提とされたことからである。従前の人文学部事務室内に社会学部事務室を置くという発想は、地方の国立大学が学部を増設する際にとったやり方であるが、本学ではそれを採らず、3 学部の教務をまとめて処理する教務課とその他の事務を扱う庶務課、それに従来学部事務室が中心に行ってきた入学試験関係の業務を行う入試課の3 課からなる学務部を新たに設けることにして、50 年近く実施してきた学部事務室体制から新しい体制に移行することになった。大学創立から50 年を経た1999(平成11)年においては、大学の事務組織は、学長の統括の下に学長室(企画調整課)、学務事務部(教務課、入試課、庶務課)、学生部(学生生活課、学生相談室、大学保健室)、就職部(就職課)の四つの部局からなっていた。
1998 年に社会学部として独立した。以下、学部設置に至るまでの経緯を、1970~1980年代における議論も含めて記述する。
学科の当初の方針をみると、理論系、産業社会学系、社会人類学系を3 本柱とし、これに応用社会学系を配するという構想で、当時の他大学の社会学科と比較して、より実証的な学科の創設を志向していた。カリキュラムは、武蔵大学の少人数教育の理念を演習を通して実施すべく、1 演習は多くても20 名程度で各学年に配置され、1 年次のすべての演習を専任教員が担当することとされた。文部省(当時)への申請の際に、フィールドワークやアンケート調査を行う専門の組織として研究室に付属する「調査室」の整備が認可の付帯条件とされた。だが、その充実には長い期間が必要であった。
文化の総合的な研究の遂行を理想とする人文学部の中に位置付けられた社会学科であるが、社会科学系の教員を多数擁する経済学部と部分的に重なる関係もあり、具体的なカリキュラム編成における様々な問題を初めから抱えていた。
10 年後(1979年)のカリキュラムからは、初期の教員の半数が入れ替り、科目名の変更等が生じたことがうかがわれる。
1981 年度に研究室が新図書館棟に移転し、学生・教員・職員の接し方および図書と機器利用の面で研究室制度に大きな変化が生じ始めた。調査室は3 号館3 階の東南端に置かれ、翌年はカード式の情報処理機が導入され、しばらくして日本語ワープロ機も備えられた。
カリキュラムの大きな見直しが始まったのは1984 年度からである。第1 外国語(英語)の2 単位減、共通専門科目に10科目を提供すること(それまでは4 科日)、必修科目としての「社会構造および変動論」「集団論」に代えて「社会心理学」「社会人類学」を取り入れたこと、それまで2 単位の「社会学演習」の4 単位化が主たる変更であった。
1986 年度末に人文学部長より、社会学科の4 年次生に対する履修指導のあり方を検討するように求められた。3 年次までに努力して必要な単位を修得してしまうと、4 年次に何も履修登録せずにいられる仕組み(同年度には3 名の該当者がいた)はいかがかと問われたのである。これに対して1987 年度末に社会学科は報告書を提出し、4 年次演習の必修化と4 年次向け新必修科目の設置を全体的なカリキュラム改訂の一環として行うと表明した。
当初の社会学科は、おおむね専任者7 名で支えられていたが、1987 年度から人事に関わる変化が次々と生じ、専任者3 名という危機的状態もくぐり抜け、「カリキュラム’89」と通称される案をまとめた。4 年次問題は、4 年次演習の必修化、「社会学総合特講」の新設、3・4 年次年演習の継続履修で対処した。卒業論文は選択のままであったが、それに匹敵する「卒業研究レポート」が全員に課されることになった。社会学の専門講義科目はA(高齢化)、B(地域化)、C(情報化・国際化)といった課題に対応する3 科目群と基礎科目群の計4 群に編成され、必修科目もこれに対応した形の重点化が図られた。卒業論文の扱い、学年進行のチェック、コース設定による系統的な科目履修、外国語、特に英語読解力の確保などカリキュラムに関する事項はもとより、就職活動と4 年次での履修、入試方法、他大学における社会学の教育状況についても検討が行われ、可能な部分から実施に移されていった。
この後の大幅な改革は、いわゆる大綱化に対応して1996 年度に改訂されたカリキュラムと、社会学部化に伴う全面的見直しであった。その間に生じた状況の変化には、1991 年度からの臨時定員増で社会学科に50 名が割り振られたこと、中国語も第2 外国語に加えられたことなどがあげられる。また、調査室の充実という面では、1992 年頃からパソコンを導入した電算化が図られ、その他の機器類の整備も進められて、調査室はその後の演習や調査の授業で積極的に活用されることになった。
「カリキュラム’96」では結果として、外国語科目と一般教育科目、および、卒業条件の改正が行われた。一般教育科目を「共通関連科目」という名称に改めて各専攻の専門科目との関連を深め、新分野の科目や総合講座等を組み込んで「自然と環境」「文化と社会」「心と体」(ここには保健体育関連科目が全面的に見直し強化され、取り入れられた)「言語」の4 分野に大別する斬新な案が採用された。社会学科は外国語に関して必修の履修単位数を4 単位減らし、2 年次の第2 外国語科目を選択必修とすることにした。卒業総単位は128単位となった。この2 年後の学部化に際しても、基本的にはこのカリキュラムが取り入れられた。
武蔵大学の発足当初から、文系の大学としていかに充実を図るかは将来構想のなかに様々に描かれてきたが、1990 年代中頃には社会学部案が検討されはじめた。その外部要因は、端的に少子化と表現される社会的環境であり、それに見合う大学設置基準の大綱化であった。また内的には、人文学部に収まりきらない形での社会学分野の発展があり、それに社会学科を構成する教員の大幅な変化からくる社会学科側の積極的な対応があった。さらに、他に具体化しうる新設学科・学部案も出されなかった。このようにして、社会学科の学部化が実現する運びになったのである。
新学部は初め1997 年度からと予定されていたが、進行中の建設計画や申請手続きの都合で、1998 年度の発足予定で各種作業が進められた。
新学部の教育のうち専門科目は1996 年のカリキュラムを大幅に拡大、充実させることで行うことになった。すなわち、専門教育科目を、「社会学原論」を核とする「理論科目」、社会調査方法論や社会調査実習を核とする「方法科目」、1 年時の「社会学基礎演習」と3・4 年次の「専門研究演習」からなる「演習科目」、家族社会学や都市社会学などの様々な連字符社会学や文化人類学、メディア研究などの科目から構成される「専門研究科目」の四つに体系化した。この体系化には過去にない三つの特徴がある。一つは、社会調査実習を15 名程度の少人数の演習方式とし、2 年次の必修科目としたことである。これにより、1 年次の基礎演習、3・4 年次の専門研究演習を含め、1~4 年で一貫して少人数ゼミ教育を実践することが可能となった。二つ目は、専門研究科目に関して、「社会システム」「人間と文化」「メディアとコミュニケーション」という三つのコース制を設けて、科目を再配分、増設したことである。これにより、学生は自らが主体的に学ぶ分野を意識的に選択することが可能となった。三つ目は、これまでのゼミ論必修・卒論選択という方式を改め、全学生に卒業論文を必修としたことである。社会学部の学生は4 年間の演習・実習と体系化された科目群の学習の最終的な成果を卒業論文に結実させることとしたのである。
また、こうしたカリキュラムを実践的に運用する教育環境の整備も行われた。7 号館3 階に、社会調査集計用のコンピュータ等の設備を配した教室、調査用の実習室、グループスタディルーム等を設置し、社会学部実習準備室を置いてこれら施設を管理する職員を配置した。
1995(平成7)年当時、臨時定員確保(人文学部100名)を視野に入れた学内改革の一環として、社会学科の学部昇格が人文学部内の了承を得て動き出していた。そのことは、残る人文学部にとって、単に学科や学生定員の減少にとどまらず、将来的にみて学部の停滞、沈滞に繋がる危険性をはらんでいるものであり、さらなる改革が必要であるという状況にあった。「新学科設置等検討委員会」が設置され検討された結果、「複眼的視野をもつ国際的人材を養成」するための比較文化学科の設置が1997 年12 月に文部省の正式認可を受け、翌年の2 月入試(定員40 名)、3 月入試(定員20名)を経て、同年4 月に新入生を迎えた。
比較文化学科は、専任教員9 名、学生定員60名で構成された。既存の欧米・日本両文化学科が主として文字を媒体とする文化を中心としているのに対し、それと同程度の比重をもつものとして非文字文化(民俗、美術)を位置付けた。同時に比較文化学科は、欧米・日本両文化学科と緊密な関係を保ち、人文学部の有機的一体化を図るための学科であると期待され発足した。
経済学研究科は、1969(昭和44)年4 月に修士課程が、また1972 年4 月に博士課程が設置されて以来、経済学単専攻の下で、主として研究業務に従事する優れた人材を数多く養成してきた。しかし設置後四半世紀が経過し、研究科のあり方について中長期的な視点からの見直しを迫られることになっていた。
その理由の一つは、研究科を取り巻く社会経済的な環境の変化である。それまでの経済学研究科では、研究者養成のための5年一貫教育を理念型とし、大学院教育においても武蔵大学の伝統である少人数教育を堅持してきた。しかし社会環境の変化に伴って、必ずしも研究者に限定されない高度専門職に従事する人材の育成や生涯教育等、大学院教育に対する社会のニーズが多様化してきた。この社会のニーズに的確に応えるためには、必ずしも博士後期課程に進学しない学生にも広く門戸を開放し、またそのようなニーズに即した教育体制を整備する必要があるという認識が高まることになった。
さらに、経済学研究科は経済学部が経済学科、経営学科の2 学科体制に移行してから10 年後の1969 年に発足したため、研究科のカリキュラムも当時の学部のカリキュラムと連動して経済理論・経済史、経済政策、財政金融政策、経営・会計の四つの系から編成され、経営・会計系の科目が四つの系のうちの一つに集中して配置されるというややアンバランスな編成になっていた。さらに、1992 年には学部に金融学科が増設されて経済、経営、金融の3 学科体制となり、学部のカリキュラムは金融学科の特性を活かして3 学科間の有機的な関連性を持った科目編成に改まってからも、大学院においてはほぼ設置当初のままのカリキュラムが継承されていた。そのため、学部カリキュラムと大学院のカリキュラムの間で少なからず不整合が生じるようになっていた。とりわけ、大学院進学者の中で経営学、企業財務、企業会計を主たる専攻分野とする学生の占める比重が相対的に増える傾向にあったため、それらの学生により的確で高度な専門的能力を身につけさせるためには、大学院のカリキュラムを抜本的に見直し、学部のカリキュラムとも整合がとれる形に改める必要が生じていたのである。
これらの課題への対応として、1994(平成6)年4 月、大学院経済学研究科に経営・ファイナンス専攻が増設された。これにより、経済学研究科は設置以来30 年間続いてきた単専攻(経済学専攻)体制から2 専攻体制へと拡充されることになった。それによって、学部の経済学科が経済学専攻に、経営学科が経営・ファイナンス専攻に繋がり、金融学科の財政金融関連科目とコーポレートファイナンス関連科目が経済学専攻と経営・ファイナンス専攻にそれぞれ分かれて配置されることになった。大学院のカリキュラムは学部のカリキュラムと共にバランスのとれた科目編成になり、「経営ファイナンス統計」等のスクーリング科目の新設と相侯って、学生の専門知識の習得にとってより充実した内容になった。1999 年4 月、この新カリキュラムの下で博士前期課程に1 名、博士後期課程に2 名の学生を迎えた。
(注1)1999 年刊行の『白雉たより』第22 号掲載の直井一博(人文学部助教授)「MITC から『英語集中実習』へ」には、以下の紹介がある。「際立っているのは、実施時間(期間)中はすべて英語で通すということでしょう。(中略)MITC では実際にどんな活動が行なわれているのでしょうか。英語を話し、また聞かないとできない様々な活動が用意されています。ヘッドホンから聞こえてくる英語を同時に口頭で再生(これだけではシャドウイングと呼ばれます)し、周囲の人がそれを聞いて書き取る、それをもとにディスカッションをしながら聞こえてきたテキストを復元していくという『ラウド・スピーカー』、英語の歌を聞いてそれを書き取り、仲間とディスカッションをして歌詞を復元する『ソング・トランスクリプション』があります。これらは聞くことを出発点として、それに討論という話し合いの要素を加えたものという共通点があります。 以上の二つに加え、定番的な活動として『スピーチ』があります。この活動では参加者が特定トピックを与えられ、皆の前で体験談や意見を披露します。それ以外にも朝の口慣らしをリズムに合わせて練習を行なう『ウォームアップ』、屋外でオリエンテーリング形式で決められたスポットを巡り、それぞれの地点で決められた活動をこなすもの、また、与えられたシナリオをグループ毎に演じる『スキット』、特定テーマに関して意見を交わし合う『ディスカッション』、それを発展させ、肯定否定の立場をきちんと表明し、それを対照させながら論点を深めていく『ディベート』なども含まれます」
1989(平成元)年、「国際的視野に立ち、社会・文化に関する問題を総合的に調査・研究することにより学術の振興に寄与することを目的」として総合研究所が設立され、「学術文化の国際交流」を大学として推進する仕組みが整えられた。
次いで1990年、「国際交流に係る基本方針の策定と重要事項についての審議」を目的として学長のもとに国際交流会議が置かれ、国際交流委員会をその決定の執行組織と定めた上で、派遣留学制度が発足した。それ以降、武蔵大学では、研究に係る、教員を中心とする国際交流は総合研究所、学生の教育に係る国際交流は国際交流委員会が主管することとなった。同委員会の事務担当は、当初、学校法人の企画室であったが、その後、大学庶務部庶務課に移管された。
新設された留学制度の眼目は、留学期間を在学期間に算入することにより、4 年間で卒業することを可能にしたこと、留学先大学で修得した単位のうち、一定単位(制度開始当時は30単位)を限度として武蔵大学の単位に認定されるようにしたことと、武蔵大学年間授業料相当額を限度として学生国外留学奨学金を与えるようにしたことである。協定留学と認定留学という2 種類のカテゴリーが設けられたが、協定留学は海外大学との協定に基づき協定校に派遣する制度であり、認定留学は学生本人が留学する大学を確保した上で申請し、留学先として適切と認定した場合に留学を許可する制度である。
この制度の下で武蔵大学が基本協定あるいは学生派遣協定を結んだ大学は、ケント大学(イギリス、1990 年)、ウーロンゴン大学(オーストラリア、1994年)、南開大学(中国、1997年)、マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク(ドイツ、1999年)、セント・マイケルズ大学(アメリカ、2001年)、オハイオ大学(アメリカ、2000 年)、カリフォルニア大学リバーサイド校エクステンション(アメリカ、2001 年)、リヨン第三大学(フランス、2003 年)である(ただしこの中で、現在は協定関係にない大学も複数存在する)。
この制度の利用が始まった1991年から交換留学制度(後述)開始の前年(2001 年)までの11 年間に、合計66 名の学生が協定校への留学を実現した。また、この間、1994 年の2 名から始まって合計7 名の学生が認定留学制度により留学した。
この時期、1990 年から1999 年まで、ドイツのミュンヘン大学と武蔵大学の学生が休暇中に合宿を行う形で日独国際交流セミナーが実施された。共同生活を通してお互いの言語と文化についての理解を深める意義深い試みであった。
1999(平成11)年度は、武蔵大学が1949年4 月に経済学部経済学科を発足させてから開学50周年を迎え、次なる50年を目指し、新たな一歩を歩み始めることになった。現下の社会・経済環境の厳しい激動・変革の時代、あるいは少子・高齢化や生涯学習と言われているなかで、武蔵大学としては、開学の原点を振り返るとともに、将来を展望する機会として、様々な「武蔵大学開学50周年記念行事」を執り行った。
この開学50 周年事業の大きな柱は、武蔵大学8 号館の建設である。その施設は、これまで一連の大学関連施設充実計画の中で先送りにされていた部分の大方に応えるもので、大規模な工事となった。地上8 階地下1 階で、8 階には「記念ホール」が設けられることになっている。工事は、2000 年度に着工し、2002 年度に竣工した。
開学50 周年記念式典を始めとする記念行事が1999 年4 月からその翌年3 月にかけて開催され、いずれも盛会のうちに幕を閉じた。