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通史編

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I 根津育英会武蔵学園

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第1章 その概観

 第Ⅰ部において述べたように、旧制武蔵高等学校は、官立の東京高等学校に次いで、わが国で初の私立七年制高等学校として発足した。七年制を高等学校の正式の形態とする新しい高等学校令に基づくものである。しかし、同じ高等学校令によって1923(大正12)年までに新設された官立校は、東京高等学校と台湾総督府高等学校(後の台北高等学校)を除く16校すべてが在来の8 校と同じ三年制で、旧制高校という制度の枠は強固なものであったから後発の七年制諸校は必然的にその枠内にあった。したがって、7 年一貫とはいえ、高校の課程は在来の旧制諸校のそれから大きく逸脱した独自性を発揮することは無理であった。

 そこで、七年制高校が独自の校風を創出できるか否かは、尋常科4 年間をどのように用いるかに強く左右されたと言えよう。もちろん、こうしたことは武蔵に限らず七年制高校の多くも同様であった。在来の三年制高校と比較したとき、多少の相違はあるにせよ長所・短所とも七年制9 校に共通するものがあるのは、頷けることであろう。

 学校の性格づけについての方針は、開校の前年から打ち出されていた。校長就任が予定されていた一木喜徳郎は、「新設の私立高校の特色を、『世界の日本人』を作ることに求め」たい旨を述べ、外国語教育の重視を宣言したと、1921 年5 月11 日の朝日新聞ほか各紙に報じられた。開校の初期から打ち出されていた三理想の中でも、「自ら調べ自ら考える力を養うこと」という生徒の日常を常時支配する項目が、学校生活のあらゆる面で強調されたことが、やがて高等科まで完成される時代に、もはや壊れることのない伝統となって学校に根付いたと言うことができる。

 入学試験は第1 回から、国語・地理・歴史・算術・理科という通例の類別によらずに、1)思想力(第2 回から理解力)、2)計算力、3)観察力に分けられた。1)には主として国語・地理・歴史が含まれ、2)は主に算術、3)は主に理科に関するものであったが、全体として科目横断的・総合的で、単に記憶による知識を要求するものだけでなく、深く考えて自分の意見を形成する力が問われるものであった。

 特に、和田八重造講師が担当した観察力の問題は、「理科教育は実験・観察を中心に構成されるべきもの」という彼自身の年来の主張を入学試験の問題において具現化したものであった。

1922 年度入試の思想力(のち理解力)試験問題

 7 年間を一貫して一つの学校とするという考え方は、教員組織の上にもはっきりと示された。ドイツ語・哲学・法学のような高等科にだけある科目の担当者以外は、原則として尋常科、高等科の区別なく授業を担当した。法令上は尋常科と高等科の担当者に資格の区別があったにもかかわらず、最初の七年制高校として武蔵のとったこの方針はきわめて明確であり、7 年間の中での尋常科4 年間の持つ意義を高めることに役立ち、それがこの学校の性格形成にも与ったと言うことができる。

 もちろん、当時の学制において、三年制の高等学校への入学試験がもっとも狭い関門であったから、それを通らずに帝国大学への受験資格が得られる七年制高等学校の実利が評価され、それへの入試が当然難関となり、結果的に素質の優れた生徒が集まったということはできる。しかし、そのような生徒たちであるだけに、尋常科時代をどのように過ごさせるかは重大な課題であった。武蔵がその発足当初から、高等科の教授としても優れた人々に、小学校を出たばかりの年少の生徒たちの授業を担当させて、学問への本質的な関心を呼び起こしたといえる。

1922 年度入試の観察力試験問題
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