もくじを開く

通史編

本扉

I 根津育英会武蔵学園

II 旧制武蔵高等学校の歴史

III 武蔵大学の歴史

IV 新制武蔵高等学校中学校の歴史

V 根津化学研究所

VI 武蔵学園データサイエンス研究所

年表

奥付

主題編

本扉

旧制高等学校のころ

大学・新制高等学校中学校開設のころ

創立50 周年・60周年のころ

創立70 周年・80周年のころ

創立100周年を迎えた武蔵

あとがき

  • あとがき

  • 武蔵学園百年史刊行委員会 委員一覧・作業部会員一覧・『主題編』執筆者一覧

資料編

武蔵文書館

  • 武蔵大学「白雉祭」案内冊子ページ

  • 武蔵高等学校中学校「記念祭」案内冊子ページ

  • 武蔵学園史年報・年史類ページ

  • 付録資料のページ

武蔵写真館

武蔵動画館

第2章 経済学部単学部時代(1949-1968年)
初代学長と初代学部長

 初代学長となった宮本和吉は、前章でみたように、京城から引き揚げて東京に居を構えていた鈴木武雄を、経済学部長の最有力候補と考え、説得にあたった。宮本は鈴木家を2 度訪問したが会えず、3 度目に用件は伝えたものの、鈴木からはよい返事をもらえず、5 度目の訪問でようやく承諾を得ることになったという*。鈴木は大学の発足までは旧制武蔵高等学校講師(「法制概論」担当)の身分で、大学開設の準備作業に専心した。9 月から学部長予定者として実務に取り組んだ鈴木は、それ以前に作成された申請書の書類のうち専門教員のリストについて手直しをし、11 月20 日に武蔵大学設置認可申請書補遺を文部省に提出している。

 開設の認可を得るにあたって最も重要な課題は、優秀なスタッフを多く集めることにあった。鈴木は幅広い人脈に依りながら、友人、知己、それに教え子などを教員スタッフに迎えた。当時は新制大学の開設ブームで、全国的に大学教員の有資格者は各大学で引く手あまたという状況にあった。そうしたなかで武蔵大学が、旧制高校からの大学開設というハンディを補い、有能で社会的評価の高いスタッフを迎え得たのは、鈴木の卓越した識見と人柄によるものであった。

 学外から専門分野の専任者として、金融論の学界第一人者渡辺佐平教授、大内兵衛門下の逸材である経済政策論の芹沢彪衛教授、読売新聞の論説委員であった近代経済理論の山口正吾教授、アダム・スミス研究で知られた経済学説史の藤塚知義助教授(当時)があげられる。また鈴木の東京大学のゼミの教え子で若手のホープである波多野真、秋山穣、小沢辰男、大谷瑞郎の各助手(当時)が開設年とその翌年に加わった。ほかに非常勤スタッフとして憲法学者の鵜飼信成東京大学教授、法学の船田享二教授、経済史の高橋幸八郎東京大学助教授(当時)などが参加している。

 宮本学長は1949(昭和24)年の初代学長就任と同時に在任期間中を通じて、創設されたばかりの経済学科の基礎づくりに大きく貢献し、1956 年に退任後は成城大学学長となった。鈴木学部長もまたその翌年に退任し、東京大学経済学部の専任教授となった(1962年、東京大学を定年退官して本学教授に復職した)。

(注)『鈴木武雄経済学の五十年』(1980年、金融財政事情研究会)、「初代学長宮本和吉初代学部長鈴木武雄」参照。

経済学部の発足

 旧制高校を唯一の母体として発足した武蔵大学は、超えなければならない多くのハードルを抱えていた。最大の問題は、過去の遺産として、一般教養科目に必要なスタッフ、図書などには恵まれていたが、経済学部の専門教員や研究用の専門図書、施設などは殆ど皆無に近い状態であり、専門教育を行うための条件整備が緊急の課題であった。

 文部省から1949(昭和24)年2 月に武蔵大学設置の許可が下りるにあたり、二つの条件が付けられた。第一は、専門学科の教員組織を充実すること、第二は、経済学関係の図書を充実すること、であった(この二つの条件は、1957年に充足された)。

 1949 年4 月23日、第1 回入学式が大講堂2 階の会議室(現在、武蔵学園記念室2階展示室)において開催された*。入学生は約70 名にとどまり、定員を下回ったままでの新学期のスタートとなった。このため国立大学1 期の入試後の6 月20 日にも入試が行われ、その時点で入学した学生を対象として7 月に補講という特別の措置がとられた。

 1949 年5 月9 日、第1 回教授会が開かれた。当日の議事録によれば、出席者は宮本和吉学長のほか15 名(他に中学主事、高校主事を含む)であった。一般教養部門担当の専任者は12名、大半は旧制武蔵高等学校からの移籍組であり、専門教育担当は学部創設の推進者である鈴木武雄経済学部長(財政学)、移籍の増井経夫教授(東洋経済史)、それに外部から招いた藤塚知義助教授(経済学史)の3 名にとどまった。専門教員スタッフが着任し充実に向かうのは、専門教育がスタートする1951年度からである。

(注)1949 年の武蔵大学第1回入学式の写真は、残念ながら武蔵学園に残存していない。

渡辺佐平教授
芹沢彪衛教授
山口正吾教授
藤塚知義助教授(のち教授)
波多野真助手(のち教授)
秋山穣助手(のち教授)
四大学対抗運動競技大会と四大学合同文化祭

 戦前の旧教育制度の時代から比較的校風が似ていた七年制高等学校の成城、成蹊、学習院と武蔵の4 校は、1948(昭和23)年の初め頃既存の有力大学に対抗する意味で「東京連合大学」をつくる動きがあったものの、既述のようにそれは幻に終わった。しかしながら、こうした四大学の連携の動きは、1950年に「四大学対抗運動競技大会」の開催として具体化された。

 この大会は、当時の『学習院新聞』によると、武蔵大学の発案でスタートしたとあり、その趣旨は「運動競技を通じて、四大学間にいっそうの親密提携をはかるにあり」と記されている。

 第1 回大会は、1950 年の11 月11~14 日の4 日間にわたり学習院で開催され、14 の正式競技種目が採用された。そしてこの時から、体育の単位として学生の出席が義務づけられた。朝日新聞社がこの競技大会を後援し、優勝校には文部大臣杯と四大学学長杯が授与されることになった。

 大会の発足40 周年を記念して1990 年に刊行された『四大学運動競技大会四十年史』において、学習院大学の鈴木正三名誉教授は、当時、文部大臣杯の授与が一地域の競技会で行われたことについて「当時における四大学の価値がいかに高く評価され、期待されたかを窺うことが出来る」と記している。この大会は、今日まで伝統に裏付けられた対外的な行事となっている。

 競技方法は各競技種目について得点を競うもので、第1 回の正式種目の得点は、成蹊が51 で1 位、学習院が42、成城32、武蔵20 であった。その後、正式種目のほか一般学生参加の一般種目、それに教職員種目が設けられた。武蔵は、正式種目では参加種目が少ないこともあり、今日まで総合優勝の実績はないが、一般種目と教職員種目では、幾度か優勝している。

 初期の大会において特記されるのは、1952 年11 月、武蔵が当番校となり開かれた第3 回大会の各種目のキャプテン会議に、皇太子明仁親王が学習院大学の馬術部キャプテンとして出席されたことである。学内に警察が入る警備のあり方と学内における学生自治との関係が問題となり、宮内庁の係官が学内に入ることで一応了解が成立したものの、当時の学生にとっては忘れられない出来事となった。

 1953年には、文化面の交流を深めるための会合として「四大学交歓会」が発足し、翌年には「四大学文化連合」へと発展。さらに1957年には「四大学合同文化祭」が開催された。しかしこの文化祭は、各大学ともに学内事情や学生紛争の発生で1970・1971年度には中止され、その翌年度は本学が当番校となったが、2 校の参加にとどまり、以後、開催されていない。

1952 年に武蔵大学が当番校(開催校)となって開催された第3 回四大学運動競技大会。同競技大会は、四大学対抗運動競技大会ともいわれている。
上記の第3 回四大学運動競技大会の各種目のキャプテン会議出席のため、学習院大学の馬術部キャプテンとして武蔵大学を訪問された皇太子明仁親王。大学1 回生の石田久氏による回想(『武蔵大学創立40 周年記念誌 VOIR』1989 年に掲載)には、「当日は、校門までは、警察の護衛で、校内から講堂の2 階会議室までは、警察の立入りは一切なし。私の方も、それとなく運動部の連中を配置して、それなりに気は遣った。会議には東雅(江古田駅の踏切のそば、現在東京都民銀行になっているところにあった)の“まんじゅう”と、小使室からの湯呑茶碗でお茶、皇太子も全く屈託なく“まんじゅう”は食べ、お茶も飲み、一キャプテンとしての態度、それが当り前の事、そして無事完了」とある。
第1回生の卒業式

 大学創設から4 年の歳月が流れ、最初の卒業生が誕生し、1953(昭和28)年3 月22日、講堂(現在の大講堂)において第1 回卒業式が行われ、卒業生68 名が大学関係者の祝福を胸に実社会に巣立っていった。

 卒業式では、宮本学長から卒業証書が一人ひとりに手渡され、宮島清次郎理事長から最優秀学生2 名に旧制高校から続いていた「根津賞」が授与された。在学生による送別の辞、卒業生代表の答辞。宮本学長は式辞の中で「世間が本学をどのように評価するか、諸君はその試験台に立たされている。自ら研究心を奮い起こして各々の職務に精励せられよ」と激励した。また宮島理事長は、大学の設立には反対だったが、4 年後には立派になったとの祝辞とともに「人間はいつ逆境に落ち込むか分からないので、粗食に耐える習慣を忘れぬように」と処世訓を述べた。

 卒業式の後、講堂前で理事長、学長以下の学校関係者を囲んで卒業生の記念写真撮影後、本館(現3 号館で、当時は学内で教室のある唯一の建物であった)3 階の大教室において卒業生によるささやかな謝恩会、教授会主催の壮行会など、厳粛な卒業式とは異なる心温まる行事が行われた。

 壮行会では「根津賞」を貰えなかった卒業生全員に対して、教授会から在学時代の行状や奇行に見合ったユーモラスな「珍賞」が授与された。この「珍賞」授与はその後のかなりの期間、卒業式を彩る伝統行事として毎年続いたが、1970 年代になると学生紛争などの影響で消えてしまった。

1953 年3 月の武蔵大学第1 回卒業式における集合写真。経済学部経済学科第1 回卒業生とともに、宮島理事長、根津副理事長、宮本学長、鈴木学部長など多くの関係者一同がおさまっている貴重な写真である。
珍賞授与式(撮影年は不明。壮行会場にて)。最初から「珍賞」と称したわけではなく、第1 回生の卒業生が、ささやかな記念品を先生方に進呈した。その返礼として、ユーモラスな言葉を添え、指導教授がポケットマネーのなかから一人ひとりに、ささやかな(たとえばトイレットペーパーなど)変わった賞品が手渡された。これが毎年続くうちに珍賞と呼ばれるようになった。
就職への取り組み

 第1 回の卒業生を社会に送り出す前の、大学関係者にとっての重要な課題は、学生たちの就職問題であった。言うまでもなく、学生が就職する企業や事業所の規模や内容によって大学に対する社会的な評価が決まるということもあって、大学は父兄会とタイアップする形で早くから準備を始めていた。当時の学生の就職活動は、夏休み明けにスタートして卒業までに終わるというのが一般的であった。武蔵大学の最初の卒業生が就職活動を始めた1952年は、朝鮮動乱による好景気の収束による不況に、旧制度最後の大卒と新制度最初の大卒が同時に生まれるという特殊事情が加わり、全国の大卒就職希望者は極めて厳しい就職環境の中にあった。

 こうした悪条件のなかで、大学院への進学者(東京大学3 名、東北大学1 名、法政大学1 名)などを除き、多くの学生が有力な金融機関を中心に就職できたことは、本学にとって幸先の良いスタートであった。

第1 回卒業生(総数68 名)の就職先一覧表。
プレメディカル・コース(医歯学進学課程)の設置*

 学制改革で新制大学となった各大学の医歯学部修業年限は、教養課程2 年間と専門課程4 年間の6 年制となっていた。そして1951(昭和26)年度から1950年代後半にかけて、医歯学部では自ら一般教育部門を持つことを認められず、学内の他学部でこの部門を履修した学生、あるいは他大学で履修した学生を対象に、選考入学させていた。そのため、武蔵大学で2 年間、一般教育部門で履修に必要な単位を取得し、厳しい入試関門を突破して他大学の医歯学部へ進学する学生が少なくなかった。開学の頃はこうした医歯学部に進学する学生と経済学部の学生とのコースの区別はなかったが、次第にプレメディカル・コース(医歯学進学課程)として制度化されていった。そして制度の定着とともに、入試についても経済学部の学生と別建てで行われるようになり、入学後は別クラスを編成し独自のカリキュラムで授業が行われたのである。

 1953 年度の学科履修規定解説によると、医歯学進学課程の学科履修については、自然科学系列の全科目(数学、物理、化学、生物)について69単位(演習3 単位)の取得が義務づけられていた。そうすることで医歯学部を受験する資格が得られたが、このコースの学生には厳しい勉学が課せられたのである。

 このコースでは、難関の医歯学部の入試に合格するように厳しいカリキュラムを設けていた。自然科学部門の各科目の担当者は指導教授を兼ねていた。当時を回顧して生物学担当であった故岡山光憲教授は「非常に活気にあふれた授業」で「実に皆よく勉強したものだ」と語っている*。

 上述のような新制の医歯学部学生採用にみられる特別の事情から、一時期、武蔵大学でプレメディカル・コースを修め他大学の医歯学部へと進学を希望する学生はかなりの数に達した。1951・52 年度の2 年間で国公立や私立の医歯学部に進学した学生は20名、そして、その翌年度には15 名にのぼり、当時の2 年生の学生数と比較すれば相当の比率(20%~30%)であった。このため、他大学の医歯学部に進学する目的で武蔵大学に入学する者も多かった。

 やがて、多くの医歯系大学では自校での一般教育部門の設置が可能となり、学外からの学生の採用を縮小ないし中止するようになった。このため1960 年頃になるとプレメディカル・コースの存在価値は次第に失われるようになり、1962 年度からはこの制度は正式に廃止された。

 大学の同窓会名簿には、医歯学部に進学した学生のうち本学同窓会に加入を希望した71 名が記載されており、いずれもみな、武蔵大学同窓会のメンバーとなった。

経営の困難

 戦後10 年間ほどのほとんどの期間、旧制高校から昇格したばかりの武蔵大学は、旧制時代から存在した大学に比べて、歴史と伝統、さらに施設の面で見劣りすることは否めず、文字通り苦難に満ちた時代を過ごさねばならなかった。

 当時、武蔵大学だけでなく、旧制高校や専門学校から昇格した私立大学は、いずれも志願者を集めるのに苦労を強いられていた。これらの大学は、定員の確保すら容易ではなかったのである。

 たとえば、武蔵、学習院、成蹊、成城の四大学のいずれも、第1 回の入学試験では定員に対して応募者数がかなり下回り、2・3 年生の編入に注力した状況であった。武蔵大学では開校時の入学者数は70 名と、定員120 名の半分強にとどまっていた。完成年度を迎えた1952(昭和27)年度の総在学生数は420名(内訳は4 年生85名、3 年生49名、2 年生113名、1 年生173名)であり、1 年生を除けばどの学年も定員総数をかなり下回っていた。この時期(単学部単学科時代)の武蔵大学の定員総数は480名と、新制高校程度に小規模であったが、それにもかかわらず一定水準の学生の質を確保しようとすれば、定員数確保も容易ではなく、厳しい経営上の困難をもたらしていたのである。

 大学に比べれば、新制武蔵高等学校中学校は、進学校として旧制時代の社会的評価を引き継いでおり、東京大学など国立の新制大学への進学率の高さから、比較的安定した経営を維持することができた。武蔵学園の財政は大学、高校、中学を一体としていたから、結果として大学が高校に財政的に依存するという、現在では考えられない状況が、大学創設後数年の間は続いたのである。

 大学が社会的存在として高度の学問研究を行い、また社会の要請する高等教育を実践するためには、それに相応しい健全な経営の維持が不可欠である。しかし当時、理事会には経常的な財源を外部から調達する余裕がなかったから、武蔵大学が置かれている単学部単学科という小規模大学の状態からの脱皮が求められていた。創設初期の教授会議事録を見ると、学部増設の議案がいくつも提示されていたことが判明している。大学の発展と経営の安定が法人にとどまらず教授会にとっても共通の願いであったことから、早期から複学部構想が審議されていたとみられる。

(注)本百年史の『主題編』に収録の「武蔵大学プレメディカルコース(医歯学進学課程)について」も参照されたい。

化学教室で実験中のプレメディカル・コース在学生

(注)『武蔵大学創立40周年記念誌 VOIR』1989 年に掲載。

岡山光憲教授
独自性に富んだ学風の形成―「ゼミの武蔵」の誕生*
【新しい伝統と校風】

 旧制高校を母体として誕生した新制大学である武蔵大学が、旧制大学から移行した新制大学と伍して発展するには、社会にその存在をアピールできるだけの学問研究の実績をあげるとともに、個性と独自性に富んだ教育を実践して社会が必要とする優秀な人材を育成し、社会に送り出すことが不可欠である。

 武蔵大学は、旧制武蔵高校の優れた学風と教育の伝統を基盤として発足したのであり、その目標は旧制高校が目指していた人格主義、教養主義の理念を教養課程の教育の中に活かし、その上に専門教育課程において専門知識と能力を与え、旧制高校以来の「三理想」を具現するに相応しい人物を養成することにあった。

 1949(昭和24)年4 月の入学式において宮本和吉学長は「本学は過去の伝統にこだわらず、いわば処女地を開墾し、新しい伝統と校風を築いていくが、『視野の広い、世界人としての日本人、自ら調べ自ら考え、批判的精神を失わない日本人をつくり上げる』というモットーを大切にしたい」と述べ、「この大学を良くするも悪くするもすべて諸君の今後の努力にかかっている。武蔵大学の歴史を先ずつくる人、それは諸君である」と結んでいる。歴史と伝統を受け継ぎながらも「処女地を開墾し」「新しい伝統と校風」づくりに挑戦することこそ、新生の武蔵大学に与えられた課題であった。

 鈴木学部長は、教授会の全面的な協力の下に、宮本学長が描く「新しい伝統と校風」の具現化として「少数精鋭主義」を基本とする教育方針を前面に打ち出した。

【教育の基本となったゼミナール制】

 大学の授業の中で、教員と学生が直接的な触れ合いと交流を基本として知識の授受が行われるゼミナール教育は、人格主義を実践する「場」として最も相応しい。こうした観点から、本学では創立と同時に、全学生の履修を義務づけたゼミナールをカリキュラムの中心に据えるとともに、それを補完し人格主義の徹底に資するための指導教授制を導入した。また将来、国際舞台で活躍できる人材養成のために、外国語教育とともに原書講読の授業にも必修制を採用したのである。

 1951(昭和26)年度から専門課程の授業開始に伴って、新たに施行された学科規定によると、一般教養部門、語学部門、専門科目部門、体育部門の科目のほかに、研究指導課程として原書講読、ゼミナール、卒業論文指導の3 種類の履修科目を必修として課した。さらに卒業充足の条件として、一般教養科目については3 系列から各12 単位、計36 単位の履修に加え、語学部門では第1 外国語12 単位、第2 外国語6 単位の取得が必要となった。第2 外国語の履修を必修とし、外国語教育を重視する教育方針を打ち出したのである。

 専門教育科目については、講義科目の履修のほかに、原書講読8 単位以上、ゼミナール8 単位以上、卒業論文指導4 単位の履修が義務づけられた。原書講読8 単位を必修として、教養課程の外国語重視の姿勢を専門教育の面でも貫いたのである。ゼミナールについては、1 年から4 年まで教養課程、専門課程を通じて全部を必修制として、一人の教員が平均20 名程度の学生指導に当たるという形をとっていた。

 1953 年度の『学生便覧』によると、教養ゼミナールは、1・2年生を対象に教養科目と経済学関係の入門に関する授業が行われた。専門ゼミナールは2・3 年生と4 年生を対象とした授業が開講されていて、学生はそれぞれの学年において教養科目、専門科目の履修が義務づけられ、専門ゼミナールの担当教員は卒業論文指導を兼ねていた。全学ゼミナール必修制の実施や外国書になじむための必修原書講読の授業は、学生数が比較的少数であったので可能だった。教授と学生が小さなゼミ室の中で直接的に意見を交換し討議し合う、こうしたFace to face の教育は、担当教員にとっての苦労は多いが、学生の教育という点では優れた方法の一つといえよう。

 創設の頃のゼミナール制度は、経済学部では内容の変化を伴いながら基本的には今日まで受け継がれてきており、社会から「ゼミの武蔵」と呼ばれるようになった。1960 年4 月27 日付の朝日新聞に「小さな大学のプラスマイナス」という見出しで、武蔵大学のゼミナール制度が詳しく好意的に紹介されたが、このことは、世間からこのユニークな教育方法が注目されるようになった証でもあろう。

 鈴木学部長の回想*によれば、武蔵大学が国立、私立の数ある大学のなかで独自性を発揮し存在感を示すためには、少数の精鋭な学生を手作り教育するという「少数精鋭主義」教育を看板に掲げる必要があった。開学当初は、質の良い学生を集めるためにも特色のある教育が求められていたのである。それはまた「武蔵を日本のロンドン・スクール・オブ・エコノミックス」にしたいという鈴木学部長構想にもつながっていた。

 今日では多くの大学で「ゼミナール制」を特色として掲げている。当時、多くの大学がマスプロ教育に走り規模や施設の拡充につとめていたなかで、独り武蔵大学が、鈴木学部長を中心に独自の教育システムを開発・採用してきたことは誇りとすべきところであるが、同時に、私学という制約の下で経営上の困難との板挟みに苦しむという問題にも取り組まなければならなかったのである。

【研究体制の確立と『武蔵大学論集』の発刊】

 創設時代の武蔵大学にとって、教育内容の充実とともに研究条件を早急に整備することがなによりも優先すべき課題であった。

 本学が第1 回生を送り出した1953(昭和28)年、学内関係者の努力が実って学術研究センターの役割を果たす「武蔵大学学会」が設立された。学会の機関誌は『武蔵大学論集』と命名され、その第1 号が同年11 月に刊行された。名誉会長に学長の宮本和吉、会長には経済学部長の鈴木武雄が就任した。

 『武蔵大学論集』はしばらくは年2 回の刊行にとどまったが、1963 年には年6 回刊行となった。創刊以来、年々号を重ね、2022年の時点では年4 回、第69巻が刊行されている。

(注)本百年史の『主題編』に収録の「『武蔵のゼミ』ここが出発点!」も参照されたい。

武蔵学園記念室に所蔵されている、宮本和吉大学学長・高等学校中学校長による訓辞集の目次(一部)。ご遺族から寄贈を受けたもので、本文で言及のある1949 年4 月入学式の手書き原稿も収録されている。
かつて穂波出版社というところから刊行された雑誌『経営技術』1960年3 月号に掲載された、武蔵大学経済学部のゼミナール紹介特集記事の一部(武蔵学園記念室所蔵)。「全学年の全学生にたいして徹底した少数ゼミナール制度を実施しており、わが国の大学ゼミナール制度のうえでは特異の存在をほこっている」、「〔徹底した少数精鋭主義という〕旧制高校以来の教育理想を継承し、発展させた成果にほかならない。ゼミナール制度は、伝統の少数精鋭主義の教育をつらぬく中核をなしているが、そのほかこれと密接に結合されて表裏一体の関係をなしている各種の特色ある制度がある。全員必修の卒業論文制度もその一つだし、原書講読も少数単位で二カ年必修制が堅持されている。財界の知名の士を講師とする特殊講義も多数開設されているし、全学年の全学生にたいして、各界第一流の権威者をまねいて聴講させる全学特別講義の制度もたしかに異色の存在であろう」という冒頭文から、武蔵大学の少数教育のユニークさが学外から大いに注目された様子がうかがえる。
『武蔵大学論集』第1 号(創刊号)の表紙。武蔵大学学会の鈴木武雄会長は、巻頭の「創刊のことば」において、大学校舎が完成し教授陣容も一通り整備されたが、「ここにただ一つ、われわれのかねてからの願望であったわが武蔵大学機関誌発行ということが種々の事情のために今日までその実現をみなかったことは遺憾この上ない」とし、「第1 号を世に送ることができるようになったのは、われわれ一同無上の欣び」であり「本誌を学会諸機関誌に伍して遜色のない立派なものに育て上げる」と誓った。

(注)『鈴木武雄―経済学の五十年』参照。

単学部時代の校舎建設の展開
【開学後10 年の校舎建設】

 大学の校舎は、時計台のある本館(現3 号館)の一部を、新制高校・中学と分け合う形で使用していた。学園の施設には、この他に共同使用の主な建物として講堂(現大講堂)と小さな体育館、集会所(両者ともすでに解体されている)があるに過ぎなかった。

 図書館については、独立した施設はなく、本館の一部に小さな図書室があり、それが図書館に代わる役割を果たしていた。大学開設から2 年を経過した1951(昭和26)年、本部棟のやや裏側にコンクリート造りの書庫棟と木造平屋建てで小規模な図書館が完成した。

 図書館と並んで、大学専用の教室や事務室の建物の完成も急がれていた。1953年になって、2 号館と呼ばれるに至った施設の一部である3 階建ての、横長で小規模な建物が完成し、当時は本館(現3 号館)に対応して新館と呼ばれた。ここに講義用の教室とともにゼミ室が置かれ、大学の学務課や学生部の事務室も本館から移転することとなった。かくて新館には、研究室や一部のゼミ室を除いて大学の主要な事務部局がまとめられた。

 この当時の建設の財源の多くは、宮島清次郎理事長の寄付によったとされている。学生数が極めて少なく、財源の乏しい状況下で、ともかく最低限度の施設を確保するのが精一杯の時代であった。

 大学に相応しい最初の大規模な校舎建設が始められたのは、経営学科の設置(1959 年)の条件整備の一環としての施設拡充であった。この建物(1 号館)は、本館(現3 号館)と比べてやや小さいとはいえ、千川通りに面した4 階建てで特大教室を含む大・中の各教室、学長室、学部長室をはじめ、学生部、教務部などの事務管理の部屋を擁していた。当時の教職員にとっては、まさに希望に適った施設で、1958 年9 月に着工し、大学創立10 周年にあたる1959 年の4 月から使用を開始した。古い校舎があるにもかかわらず、1 号館と呼ばれたのは、この建物をもって大学発展の礎としたいという願望が込められたといわれる。

【複学科時代の校舎建設問題】

 経営学科の増設に伴う、当時としては大規模な施設(1 号館)の建設は、大学の発展にとって教育・研究面のプラスにとどまらず、学生定員の倍増を可能とし、恒常的な赤字状態を余儀なくされていた大学財政の健全化をもたらした。学園経営の基盤強化は、当然、学園関係者、とりわけ教授会から、教育・研究施設についてだけではなく学生用の福利厚生施設などについても、他大学と比較して遜色ない水準にまで引き上げることが強く要望されるようになった。

 1960年代において拡充が求められていたのは、本館(現3 号館)3 階に位置した共同利用方式の研究室の個室化、図書館の座席数の増加や、収容蔵書冊数増加に見合った書庫の増設、全国レベルでの学会開催の会場に相応しい中講堂などの設置、学生生活の向上に必要な福利施設として学生数の増加に見合った学生ホールの新設などであった。

 これら学園施設の大幅な拡充は、1962(昭和37)年から翌63年に実施された。図書館は2 階建て、延べ床面積150 坪(495.9㎡)、研究棟は3 階建て、延べ床面積267 坪(882.7㎡)、学生ホールは平屋建て、延べ床面積93坪(307.4㎡)であった。研究棟の完成によって専任教員の研究室が共同部屋から個室へと移行した。また貧弱であった学生ホールの大規模化、近代化は、学生生活の向上と大学のイメージ・アップに役立った。

 これら施設の建設や拡充に必要な資金は約9,500 万円であったとされている。当初の建設計画に比較すれば縮小されたといわれるが、今日の物価で換算すれば20 億円以上となり、当時の学園の経営規模からみて、かなり大きな工事額であったといえる。

 なお今日では、それらの施設の姿はない。1960 年代後半以降、新たな建設計画が具体化され、図書館は現在の位置に移ってその跡は本部棟となり、学生ホールは取り壊されて現在の建物(中講堂棟)となった。研究室は新館(2 号館)に連結してつくられたが、その後全て教授研究棟へと移転し、ゼミ室などに利用された。その後、本部棟・2 号館は、2002 年に竣工した大学8 号館の建設に際して取り壊された。

図書館閲覧室での学生の勉学風景
1953 年に竣工した新館(かつての大学2 号館)
新館の落成祝賀会の様子
1959 年に竣工した、かつての大学1 号館。特大教室( 1 室)、大教室( 3室)、中教室( 4 室)、小教室( 2 室)、演習室( 5 室)が設けられ、庶務部・経理部・教務部・学長室・学部長室・会議室などが設置された。
1963 年に竣工した図書館(手前)と、かつての大学1 号館(奥)。
1960 年代における図書館閲覧室の様子。建設時点での図書館蔵書数は約8 万5,000 冊で、当初は学生への貸し出しはせず閲覧のみとされていた。
1963 年に竣工した学生ホール。学生の待ち合わせや休憩、ゼミの会合やコンパなど多目的に利用された。存在した場所は、2022 年4 月現在の中講堂棟(大学2 号館)の付近である。
教職課程の設置

 大学開設後、残されたままであった整備・検討されるべき課題の一つに、教職課程の設置があげられる。大学に進学する学生の中には、卒業後の就職のために、中学、高校の教員免許状の取得を希望する者もいた。しかし武蔵大学には開学当初にはこの課程がなかった。経済学部を卒業する大多数の学生の将来への進路は、民間企業などビジネスの分野であったから、教員免許状は不要とも考えられていた。とはいえ教職課程を持たないことは、学生募集という面からも明らかに不利であり、この課程の設置は早い時期から求められていた。

 1957(昭和32)年度になって教職課程部門が新たに開設され、この課程を履修し、卒業時には中学校教員免許状(社会科、職業科)および高等学校教員免許状(社会科、商業科)を取得できるようになった。

 学生数が極端に少なく、経営的にも厳しい状況にあった当時の武蔵大学にとっては、教職課程の設置が大きな財政負担となったことは否めない。しかも教員免許状を取得した学生は僅かにとどまった。そうしたなかで、教職担当者による人間性の豊かな教師の育成を目指すユニークな教育が行われた。その一つに山村生活の実態調査と、その体験に基づく「辺地教育実習」があり、その状況が新聞(『毎日新聞』1960年10 月17 日朝刊など)に大きく掲載された。

 教職課程の修了による教員免許状の取得者は、その後、人文学部の増設や女子学生の増加などによって急速に増加した。それとともに中学、高校の教員となる卒業生も全国に広がって、今日では、教職課程は本学の教育部門のなかで重要な柱となっている。

辺地の学校へ向かう教育実習生たち(東京都檜原村の村立檜原中学第一分校)
経営学科の増設

 1956(昭和31)年4 月、商工省出身の官僚として知られ、参議院議員で運輸大臣(第3 次鳩山内閣当時)を務めていた吉野信次が、宮本学長に代わって第2 代学長に就任した*。就任に先立って当時の教授会は、学問や教育の中立性という観点から、吉野の学長就任に難色を示す雰囲気であった。しかし学長の任命は理事会の専管事項であったから、政治家であるという理由で受け入れを拒否することはできなかった。学長の選考を宮島理事長から委任されていた山本為三郎理事は、吉野信次を学長に任命するために鈴木学部長に相談し、発令日の前日にあたる3 月31 日の教授会で了承を取り付けることになった。教授会での論議は紛糾して真夜中を過ぎ、このため時計の針を後戻りさせて、ようやく前日了承に漕ぎ着けたのである。その際に教授会は、吉野に対して学長就任後は再び大臣を引き受けない、参議院への立候補もしないという要望を付け、吉野もこれを受け入れたという**。

 吉野学長は、1965 年まで9 年間にわたり在職したが、多忙のため週に1 度ぐらいの出校であったから、一般の教職員との接触は薄く、また学生から親しまれた学長ではなかったとされている。しかし、吉野学長の在任期間には、経営学科の新設と大規模な施設の拡充が実現されたという点で、大学の歴史に残る仕事を成した学長の一人であった。

 すでに述べたように、創立間もない頃から学科増設問題は教授会の議題としてとり上げられていたが、理事会が消極姿勢をとり、また増設に伴う財源の調達がネックとなって、議論の段階を超えられないままに歳月を重ねていたのである。この当時、法人側の実力者で後に理事長に就任した山本為三郎理事は、建学の精神、特色ある大学を強調し、大学の学科増設にはどちらかといえば消極的な態度であった。これに対し吉野学長は、高校・中学が少数教育の方針を守るのを前提として、大学の拡充を推し進めることに極めて意欲的な姿勢をとり、消極的な人々を説得し、学科増設が承認された。

 1959 年1 月20 日、文部省から大学学科増設の認可書が交付され、経営学科が同年4 月から発足した。これによって大学全体の学生定員数は従来の480 名から1,080 名へと倍以上になった。志願者数は学科増設の初年度には1,000 名前後であったのが、3 年目の1961 年には3,000 名に達した。在籍学生数は、1956年度末の745 名から、1963 年度末に2 学科合計で1,906 名へと増え、受験料収入、授業料収入ともに大幅に増加した。

 学生数増加は、それまで財源不足に悩み続けてきた学園の経営にとって大きなプラス材料となった。経営学科創設という大事業を実現することで、学園経営は創設時代の困窮をようやく克服できたのである。

経営学科の創設は学部長だった芹沢教授をはじめ、企画室長の藤塚教授、経営学科への所属が決まった蔵園教授(「経営財務論」担当)などが中心となって行われた*。

 第一の理由である理工学部を目指しての条件整備は、創設期の教授会議事録などによると、大学創設の頃から学内関係者によって説かれていた。経営学科の設置認可申請書に添付された「将来の計画」によれば、経済学部の充実と併せ、1960・61年度に「理論を主体とした理学関係学部に、応用を主体とした工学関係学科を以て理工学部を増設し……経営学科はその内容に於いて、工学的色彩を多く持った工業経営学科に近い存在に改変していく」とある。学内関係者の多くが、経営学科の設置を媒介として、武蔵大学の近い将来に対して壮大な構想を描いていたのである。

(注)本百年史の『主題編』に収録の「『大臣学長』吉野信次の事績と人物像」も参照されたい。

武蔵学園大講堂内に掲げられている、吉野信次大学学長・高等学校中学校校長の肖像画。

(注)吉野信次追悼録刊行会『吉野信次』による。

山本為三郎理事

(注)蔵園教授は、1958 年10 月28 日付の『武蔵大学新聞』に「経営学科創設準備を終わりて」と題する文章を寄せている。それによれば、経営学科に踏み切った理由は、第一に将来理工学部へ発展するための基礎とするとし、将来、理工学部を創設する際に経営学科に橋渡しの役割を担わせることを意図し、そのためには工業経営の色彩の強い工業経営学科としたいが「工業」と名乗ると理科系統の施設や教授陣容へのチェックが厳しく、文部省の認可が得難いために経営学科としたこと、第二に、経営学は商業学よりも時代の要請と関心に合致している学問であることを挙げている。高度成長の時代が始まり、当時の産業界では経営合理化の必要性が高まりつつあるなかで、経営能力のある人材の育成が求められたことが、社会的背景にあった。

入学志願者の増大と経営基盤の確立

 大学創設以来、本学入学志願者数は、関係者の期待に反して、1957(昭和32)年度までは多い年でも500名前後にとどまっていた。その主たる理由として、納入する学費が文科系の私学の中では極めて高かったこと、規模が小さく、対外的に活躍する有名なスポーツ選手もおらず、マスコミで注目されることが少なかったことなど、知名度の低さが指摘されていた。しかし、1958・59年度になると、入学志願者数は2 倍の1,000 名近くに膨らみ、経営学科が発足して2 年目の1960年度に入ると2,000 名を超え、さらにその翌年度には3,000 名を突破するという予想外の増大であった。

 単学科時代の最終年度に当たる1958 年度の在学生数は877 名であったが、経営学科の完成年度に当たる1962 年度の在学生総数は1,621名となった。経済学科が完成年度を迎えた1952年度の420 名と比較すれば4 倍増となった。他方、経常支出はそれに比べれば低い伸び率にとどまったので、受験料収入の増加による経常収支の状況は好転し、学園の経営基盤は目立って改善されていった。

 志願者が増大した理由は、大学進学率の上昇や国民生活の安定・向上など社会全体の豊かさがもたらした面もあるが、同時に、開学以来、ゼミナールを基本とした「少数精鋭主義」教育を貫いた「ゼミの武蔵」への社会的評価が次第に高まったこと、学科の増設による規模の拡大、マスコミへの働きかけがそれなりの効果を上げたこと、などの様々な要因が指摘されよう。

1960 年前後の入学試験
入学試験で受験生を面接する藤塚教授。入学試験は、1961 年度まで筆記試験に加えて面接試験も実施された。
1960 年度の入学試験合格発表
工業経営コースの廃止

 創設された経営学科の最大の特徴は、学科の中に経営管理コースと工業経営コースを併置したことである。前者は多くの大学で設けられているものの、後者は理工学部系大学に設けられているのみで、経営学科の中にとり入れられているケースは殆どなく、そういう意味でユニークかつ斬新なコースとして注目されたのであった。

 工業経営コースを設けた目的は既述のように、このコースを橋渡しとして、近い将来、本学に理工学部を設置したいという構想が存在していたからで、新学科が誕生した当初、工業経営学の権威である工学博士の上田輝雄を専任教授として迎えた。工学的色彩の濃い専門科目を置き、工学系統の設備を整え、実習に専門性を採り入れて内容を充実し、理工学部創設への準備を進めた。しかしながら、その後、財政上の制約のほかに工業経営コースへの応募学生が予想外に少なく、大学経営の立場から、このコースの維持が重荷となり、教授会においても廃止の方針を決定せざるをえなかった。最終的にこのコース廃止の決断を下したのは就任間もない第3 代学長正田建次郎であるが、それは本学が将来理工系学部を増設し総合大学への道を進むとすれば、キャンパスの規模の問題や経営上の負担面などで困難を生じ、構想の実現は不可能という判断に基づくものであった。

 こうした動きに対して1965(昭和40)年5 月、工経(工業経営コースの略称)所属の学生は工経廃止反対委員会を組織し、さらに6 月には学生自治会も参加して、工経コース廃止の白紙撤回要求を打ち出し、大きな学内問題へと発展した*。

 工業経営コースの廃止は、武蔵大学が理工系学部の増設を断念し、文科系学部の充実による総合大学へ転換したことを意味する重要な出来事だった。

(注)この問題について大学側は、窓口となった学生部を通して学生側との折衝に当たった。当時の山口正吾経済学部長による回答が同年6 月25日付の『武蔵大学新聞』に掲載されている。「……工業経営コースは、最初から経済学部に存在するものとしてつくられたもので、この点は今でも少しも変わっていない。途中で工学的色彩がかかったけれども、その拡充は資金面でどうにもならず、行き詰まり……学生諸君には誠にお気の毒である。……学長中心に新長期計画の推進という形以外ない」。このように、山口学部長の回答文は、工業経営コースの存続がとくに資金面から不可能になった経緯を学生に訴えたものであった。

学園祭を「白雉祭」と命名

 1952(昭和27)年から始まった大学祭(当初は大学・高中の合同文化祭で、1954年から大学のみで開催)は、1962年には校舎改築工事の実施により中止となったため、翌年が第11 回目となり、この年から大学祭を白雉祭と呼ぶようになった。

(左)1963 年10 月21 日付の『武蔵大学新聞』号外記事。同月末から11 月はじめにかけて、はじめて「白雉祭」と銘打って開催される文化祭の内容予告がある。 (右)第11 回武蔵大学祭としての「白雉祭」パンフレット
1963 年の第11 回白雉祭におけるパレードの様子。車列が正門を通過している場面。
to-top