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植村泰忠学園長の肉声(武蔵学園記念室)
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【編者注:第三代武蔵学園長植村泰忠は、1921 年4 月18 日東京生まれ。武蔵高等学校理科13期。
1944 年東京帝国大学理学部物理学科卒業後、東京帝国大学第一工学部大学院、中央大学工学部、東京芝浦電気株式会社(現東芝)などを経て、東京大学理学部物理学科助教授、同教授。東京大学定年退職後、東京理科大学教授を経て、1990 年4 月学校法人根津育英会武蔵学園長に就任、1998 年まで在任した。学園長在任中の事績としては、太田博太郎学園長から引き継いだ、武蔵七十年史の発行、濯川蘇生事業、学園記念室の設立などがあげられる。
本編は、植村が学園長退任後自ら編纂した『学苑落葉集』(人生折々の物理学以外の著作を集めたアンソロジー)の中から、植村の肉声が比較的良く伝わる式辞三編を採録したものである。】
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〈本物を大切にしよう〉
1994(平成6 )年3 月18 日 卒業式祝辞
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(前文略す)
今年も例によって、この1 年間に読んだものから主題をえらび、所感の一端を述べ、それに因んだ“ 餞けのことば” を贈ります。今年のそれは“ ほんものを大切にしよう” であります。当然のことだと思う人もあるでしょうが、しばらく私がこれを選んだわけをきいて下さい。
昨年夏に発行された写真集「武蔵七十年史」(すでにみた人が多いと思いますが)、その14 ページに、初代校長一木喜徳郎先生のプロフィールを述べた記事があります。その一部をまず読んでみます。
「一木先生を深く尊敬し、先生直接の指導を得る機会もあった脇田忠氏(2 期文)の話によると、愼独寮生数名で先生宅に伺ったところ、しばらく待たされた後、生徒達に会うにも衣服を改め、袴までつけて出てこられたという。その折に、「昔両替屋というものがあって、新入りの店員を仕込むのに、はじめは本物のお金だけを扱わせたという。本物をはっきり覚えると贋金の見分けがつくようになり、騙されることがなかったそうだ」という話があった。入学間もない生徒たちに、本物の知識や方法をしっかり身につけさせたいとの気持ちから分かり易い例を引いて話されたのであろう。」
これまでこの話を、私(13 期理)は知りませんでした。しかしかねがね私の子供達(45・46 期)と3 人で、武蔵の思い出話などをする機会には、「僕達は、要するに本物の大切さを教えられたのだ」という言葉で、3人の議論が決着することがよくありました。
また最近刊の同窓会誌で、昨年卒業した木村敬君(67 期)の寄稿を説みました。彼は、在校生のころ校友会誌に発表した文章に、ある先生から懇切な返信を受けて嬉しかった旨を述べ、その内容を一言でいえば、「武蔵の先生方は本物の教育を行いたいのだ」と記しています。寄稿の主旨は、彼のいうこの理想主義が、現在の武蔵生の現実と整合したものであってほしいという希望にあります。
今まで述べた二つの話に登場した5 人の同窓生の世代の分布を思い、それに共通するキーワードからすると、“ ほんものを大切にしよう” ということは、確かに、一木先生から今日に至る迄、武蔵の先生方にとって、まことに重要な教育の指針であり、それを受けとめた生徒達にとっては、在校中はもとより、一生を通じての重い課題であると思います。
さて、それでは“ ほんもの” とはどういう意味でしょうか。それは何故重い課題なのでしょうか。ここで難しい哲学論議をするつもりも、また能力も私にはありませんが、二つのことを申し添えたいと思います。
“ ほんもの” の反対語は、“ にせもの” でしょう。またこれと関連した一対の言薬に、例えば、正と誤、真と偽、善と悪、美と醜などが思い浮かびます。数学の定理や物理の法則などは、正と誤或は真と偽の判断対象としてわかりやすい例です。私の研究者としての体験では、この場合でも美と醜の感覚とも深いところで通ずるものがあると思います。貨幣の真偽も、科学的な結果のみをとりあげれば同様ですが、この場合はむしろ善悪とのつながりが感じられます。
しかし、“ ほんもの” か“ にせもの” かの表現はもっと複雑なようです。例えば、あの人はほんものの政治家だという場合と、贋の政治家だという場合、判断された人は勿論、判断した人の側にも、いろいろな心の動きをともなうに違いありません。判断の対象と主体の背後に、双方の人間としてのありようが、或は真理の実践的な意義が、存在するからです。そして、自分が“ ほんもの” か否かを自分自身に問うことこそ一番大切で、しかも痛みをともなうことかも知れません。“ 重い”と申したのは、そのことを指しています。
また、“ ほんもの” と“ にせもの” の表現には、その内容や基準が必しもはっきり定義されず、多様な価値を含む総合的な判断を示す場合、またそれが実践とつながる決断を要する場合によく使われます。その意味で、適正な判断は、道理や美醜に対する鋭い感性と、豊かな人生体験によるところが大きいと思います。私が“一生の”とか“指針”と申したのは、われわれが常時このような感覚を、さまざまな体験を通じて、その都度磨き上げることを求められているからであります。
今日の社会は、しばしば情報社会であると言われています。巷には、“ ほんもの” と“ にせもの” の情報があふれています。卒業生の皆さんは、これから更に研鑽を重ね、やがて社会人となって、それぞれ多様な人生行路を歩むことになりますが、そのみちが“ ほんもの” を目指すものであることを、私は心から願っています。そして今日までの武蔵の生活がその出発点であったと思うときがあったら、それはまことに嬉しいことです。私は、武蔵が、これからもそのような学園でありたいものと、及ばずながら力を尽したいと存じます。
“ ほんもの” を大切にしよう
卒業生諸君の前途を祝し、健康と発展を、祈ります。
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〈ふたゝび本物を大切にしよう〉
1997(平成9)年3 月22 日 卒業式祝辞
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(前文略す)
例年にならい、最近私が感動して読んだ本を紹介して、それに因んで、今日の「餞け」のことばを贈りましょう。
本の題名は、「旅する巨人」、著者は佐野真一氏。咋年11 月末に文藝春秋社から発行されたノンフィクションで、約400 頁。定価は1800 円です。副題が示すように、「旅する巨人」とは、「宮本常一と渋沢敬三」の両氏のことです。堅苦しい伝記や学術書ではなく、力作ながら読み易い物語りで、著者の両氏に対する思い入れと情熱の程が伝わるのを感じました。これから内容の一部を紹介致しますが、時間節約のため敬称・敬語を略しますので、お許し下さい。
宮本は、明治40(1907)年 山口県周防大島の農家に生れ、渋沢はその11 年前の明治29(1896)年東京深川で生れました。渋沢は、私の世代からみると、父親に相当します。明治・大正・昭和初期と三代を通じ、日本経済界の重鎮であった、渋沢栄一の嫡孫です。相互に無縁とも思えるこの二人が、生涯の友となった背景に何があったか、本書はこれを詳述したものですが、一言でいえば、その絆は、二人が共有した民俗学に対する強い関心と、大きな貢献にあるといえましょう。因みに、民俗学のゾクは、風俗のゾクで、英語でfolklore に当ります。家族の族を書く民族学(Ethnology)とは、近接するもやや異ります。
皆さんは、民間伝承の物語りを研究した柳田国男や折口信夫の名を聞いているかも知れません。然し宮本や渋沢の関心は、自分の脚を使った野外調査に重点があり、村人の生活に密着していました。宮本が73 年の生涯を通じて行なった野外調査は、日本の各地に及び、1 日当り40km、伸べ日数にして4000 日に及ぶといわれます。まさに「旅する巨人」であります。
周防大島の多くの若者と同様、少年時代に島を離れ、大阪で郵便局に勤めたり、夜間の師範学校を出て、小学校の教員を勤めるなど苦労しながら各地の村落を訪れ、古老からは伝承の物語の、村人からは固有の生活体験談などのききとりを行ないました。その文章化は活き活きとして、土着の音韻すら想わせるような絶妙なところがあり、研究者仲間の注目を集めました。壮年時代の何年かは、定職を擲って調査と研究に専念したこともありました。晩年は、各地の伝統をふまえた村興しにも助力を惜まず、また大学の教壇に立ったこともありました。昭和56(1981) 年の死去に至る73 年の一生は、先述の大記録とともに、類稀れな輝きを放っています。
勿論、この間の家族の苦労は並々ならぬものがありました。このような宮本の研究人生の全てにわたり、それを理解し、助言し、援助したのが、渋沢敬三であります。渋沢の友情は、単なる援助の域を超えて、心が通いあった真のパトロネージとも呼ぶべきものであったのかも知れません。
渋沢は18 才のとき、柳田国男を訪ねていますが、将来は、民俗学ではなく動物学を専攻したいと強く希望して居ました。然し、祖父栄一の懇願を受けて、これを断念し、大正10(1921) 年東大経済学部を卒業、横浜正金銀行に入行、英国勤務を経て大正15(1926)年、祖父栄一が明治の頃に設立した第一銀行の取締役に就任し、バンカーの道を歩むことになりました。
然し、「民俗学」への志も忘れ難く、その後彼の学界活動の中心となった「アチックミューゼアム」の初会合を、大学卒業の直前に開いています。天井裏、或は屋根裏博物館とでも釈せましょうか。「アチック」が略称でした。渋沢自身やその友人達が収集した、生活民具、旧い農器具、或は漁具などを、当時三田綱町にあった渋沢家の広大な敷地の一偶にある建物の、屋根裏などに収納したのが、命名の由来と想像されますが、“ 屋根裏の哲人” に擬したともいわれています。ここは開放的で、関心を持つ研究者が随時出入りして談論風発を楽しみ、渋沢も在宅の折りには屡々ここで時を過しました。
渋沢の勧めで、宮本が初めてここを訪れたのは昭和10(1935)年で、その頃からの数年間は、アチックの活発な発展期でありました。同志達の研究や調査の報告が相継いで刊行されましたし、瀬戸内海巡回調査などの中心母体にもなりました。
困難な年月は、国の大陸政策、それに続く戦争とともに訪れました。関連の深い「民族学」の研究は、国策に沿った一面が重視され、陸軍の援助や、国立研究所の設置などがありました。研究者の職域は拡大し、新しい職場に移る人も出ました。アチックの個名書き名が、漢字書きの常民文化研究所に改められたことに、この時代の風潮と、それが意味するところが察せられます。
戦争は、渋沢の身辺にも激変をもたらしました。懇請辞し難く、戦時の日銀副総裁、次いで総裁となり、敗戦後は、米国占領下の幣原内閣の大蔵大臣として、所謂“ 新円への切換え” や、財産税の公布と施行という大仕事をなしとげました。やがて、公職追放、三田の広大な邸宅は、財産税として物納することとなりました。この様な状況のなかで、アチックがどんな道を辿ることになったか、本書の後半は、これを詳しく述べていますが、ここでは省略致します。
渋沢の死は、昭和36(1963)年 で、67 才でした。死後に、長男雅英宛、死の2 年前にかかれたメモが発見されました。それによると、
「自分はあと2 年位で死ぬだろう。これまで、第一銀行や日銀、大蔵省など、いろいろの処でお世話になったが、自分が一番大切にしたかったのは、学問であり、アチックミューゼアムだった。
アチックは、小さくはあったが、自分としてはまがいものでない本当の文化の一部をつくったと思っている。
もし、自分の遺産が残るなら、そうしたまがいものでない文化と社会をつくる方々のために役立ててもらいたい。それが自分にとって一番うれしいことだと思っている。」
とあります。(傍点は筆者による)
さて、今日皆さんに贈る“ 餞け” の言葉ですが、平成6 年の卒業生に対するそれを、“ ほんものを大切にしよう” と致しました。私は今、お話ししたように、宮本常一と渋沢敬三が歩んだ人生は、それぞれに、まがいものではなく、まさにほんものの典型と思うのです。そこで敢えて、重ねて本年も“ ほんものを大切にしよう” とすることに致しました。
卒業生の皆さん、今日まで「自ら調べ」「自ら考える」ことを学んだ皆さんは、これから実社会に出て、自分の人生を「自ら択び」、ときには自ら切り開いて、進むことになります。その道が、どうか“ ほんもの” への道であるようにとの期待をこめて、皆さんの健闘を祈ります。
ふたゝび本物を大切にしよう 卒業式祝辞(1997、大学) 所収 未出、当日口頭発表のみ
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〈forgive and forget〉
1998(平成10)年3 月22 日 卒業式祝辞
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(前文略す)
さて、本日は、武蔵大学の「学生海外研修報告集」のうち、平成8 年度のものを採りあげ、私がとくに印象深かく読んだ1 篇をえらび、読後の感想を述べて、餞けの言葉に代えたいと思います。どうかきいて下さい。
このシリーズは、着任以来読むのを楽しみにして来ましたが、近着の9 年度号を含めて、初期からみると、質・量ともに、充実・多彩となりつつあるのは嬉しいことです。本日平成8 年度のものを採りあげたのは、この年度の研修生逹が、今日の卒業式に臨んでいるのでは、と思うからです。
注目した1 篇は、人文学部の竹下麻衣子さんの報告で、“Philippin学生の考える、平和・戦争、そして日本” と題し、“ 歴史教育のあり方を考える” という副題がついています。この題から受けた初印象は、“ テーマが広汎なのに加えて、最近の社会的トピックスともつながりがあるので、果して自分の研修としての特色を出せるか否か、? ” という危惧でした。ところが、報告を読了して、これが全く杞憂だったことが解りました。まず、その理由からお話し致しましょう。
採用した調査方法は、他の多くの報告にもみられるような所謂アンケートと、きき取りによるものですが、(1) その前提となる動機と、その形成過程、(2) 調査対象撰択の着眼点と、対象に対する十分な接触、(3)結果の位置づけ、以上の3 点に特色があり、これが設問構成と、結果分析の綿密さと相侯って、読み応えのある報告が出来上ったものと思いました。これから、その具体例を簡単に紹介しましょう。
竹下さんは、高校2 年生のとき埼玉YMCAが企画したWorkcampに参加し、現地を訪れて、何人か心許した友人ができました。
また、今回の研修は、1996 年の夏休みに、全53 日間をかけたものですが、その中間となる8 月下旬の2 週間を、再び前回と同じ団体のworkcampに参加し、今回の調査対象となった大学の学生計19 名と一緒に生活して、意見を交換し合ったり、共に古老の話を親しくきいたり、セミナーや病院訪問なども体験しました。勿論、campの主目的である勤労奉仕の間にであります。
前回の訪問のとき、竹下さんは、現地の人がさりげなく語る対日戦の歴史に、自分が対応できる知識の不足が著しいのに驚きました。同時に、この国の友人達が、日本をどう観ているかについて、もっと突込んだ知識をもちたいとの想いをつのらせました。これが、今回の研修調査の動機の形成であります。それは書物を通じたり、マスメディアの情報から得たもののみではなく、自分の現地体験がもたらした、強い内的衝動でありました。これが先述した特徴(1) の内容です。
竹下さんが選択した調査対象は、比島北部のDagupan地区にあるCollege 等、さらにマニラ郊外のTala 村にある私立校Holy RosaryCollege、そして対日戦で有名なLeyte 島にあるLeyte Institute of Technology 等、三地区に学ぶ学生達です。私はどのようにして、この選択をなしえたか。又有効な調査結果が期待できたか、はじめ不思議に思いました。しかし、報告をよみすすむと、その終りの部分で、前述したように、2 回目のworkcampに参加した19 名の現地学生が、実はDagupanとTala村から来ていることを知り、その謎が解けたように思いました。このことが、前述した(1) 及び(2) にまたがる特色の背景であります。
戦争・平和・歴史教育について、現地の人との面談、先方教科書の調査等をとりあげたのは当然ですが、戦争とのつながりで将来を想い、現在殆んどの大学で男女ともにそのどちらかに参加の体験をするCAT(CitizenAnny Training) や、CMT(Citizen MilitaryTraining) を採りあげ、詳しい調査と見学を行いました。私は、その着眼点に感心致しました。これも前述した特色(2) の具体的事例の一つです。
最後に、特色(3)、即ち報告作成の際のまとめ方について述べましょう。
竹下さんがこの研修報告をまとめるに当り、計画頭初から活動の最終段階に至るまで、ある種の強いemotionalな要素があって、これが一貫して作業を支えていた事実と、にも拘らず、研修調査とその結果の分析が、一つの知的作業として、客観性を欠いてはならぬことを、よく自覚して報告をまとめたことです。
前者についていえば、現地の人々の対日戦争体験の底に流れる、彼女の表現によれば、forgive and forgetの心(許しと忘却の心とでも申せましょうか)であります。また平和に対する意識の両面性、即ち個々人の心の平和と、社会的な平和、これが双方とも同じ程度の重要度を占めて語られる事実であります。竹下さんは、これらの事実の背景には、信仰、とりわけキリスト教の血に入った滲透という宗教的なものがあるのを感じ取っています。以上に述べたことと、数々の統計表を具えた報告をふまえて記された“ まとめ” は、私も大きな共感をもって読みました。
最後に、私の忘れえぬ体験にふれたいので、お許し下さい。私の友人にS さんというPhilippin 人の科学者があります。米国で大学院を了え、化学でPh.D を取得し、その頃Ateneode Manira 大学の教授をしていたカトリックの神父さんです。
武蔵に赴任する前、日本学術振興会(JSPS)の非常勤理事をしていた私が、学者の国際的な人物交流や、研究協力の仕事を通じて、知りあいとなり、個人的な友情でも結ばれるようになった人で、今でも文通がありますし、いわゆる過去の歴史についても卒直な話しあいができる人です。
私の忘れえぬ想い出は、公務でマニラを2度目に訪れたとき、会議や視察で数日を共に過した機会に、休日の日曜日、私一人をバギオにある修道院に案内してくれて、遥かに夕暮れのリンガエン湾を望む山上の小さい礼拝堂で2 人だけでミサを棒げ、共に祈った時間のことです。クリスマスを前にした12 月の一日で、簡素で小さな礼拝堂のなかの唯一の飾りつけは、ベトレヘムの馬子屋と、その中にある聖母子像でした。但し、馬小屋は、藁束でくまれ、中に置かれた聖母子像の肌の色は褐色でした。
そのとき私は、この国の文化に滲透しているものの深さと強さを、竹下さんと同じ様に感じとっていたのです。
ご承知のように、この春から武蔵大学には社会学部と、人文学部比較文化学科が、新しく発足しますが、私は、何故か、竹下さんの報告や、私のバギオの一日のことを、これに重ねて想い出しています。
卒業生の皆さん、今日私がお話した例に限らず、又その内容の如何を問わず、皆さんが、この武蔵大学の4 年間で、自分のなかに、何ものかをしっかり刻んで、今日を迎えたことと私は信じています。
どうか武蔵で過した日々に、誇りと自信をもって、元気よく実社会に船出して下さい。皆さんの前途を祝し、健闘を祈ります。