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第6章 新制中期
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1960 年代に入ると、学園は漸く戦後の混迷期を脱し、大学と高校中学とはそれぞれ自分自身の道を明確にして、その方向にはっきりと歩み始めていた。しかし、施設の面では、新制当初から続いた大学・高中の混住体制はそのままであり、抜本的な解決が迫られる時期に来ていた。
1963(昭和38)年、理事長宮島清次郎が死去して、後任に山本為三郎が就任した。1965 年、学長・校長吉野信次が退任し、山本理事長の懇請の結果、後任に正田建次郎(元大阪大学総長)が就任した。1966 年には、その山本理事長が死去し、小林 中がその後を継いだ。正田学長・校長は就任以来独自の構想を持ち、1972 年の創立50 周年を目標に学園再編・整備・充実の記念事業を計画・実現して学園発展の基盤を固めた。
学園再編事業とは、一つは新学部増設と大学院設置とによる大学の拡充であり、いま一つは大学・高中それぞれが独自の展開を可能とするために従来の混住体制を解消して、江古田・朝霞両校地を総合的に整備し直すことであった。
後者の具体的内容は、大学と高校中学とが濯川を境として江古田校地の北と南に施設を分離して住み分けを行い、高中の側では、校舎・体育館・プール・生徒集会所を新築、グラウンドを配置換え・整備すること、大学の側では、旧高校中学校舎(現・大学3 号館)の改修、体育館・学生会館の新築、朝霞校地を整備し、そこヘグラウンド・合宿所・学生寮を新設すること、などであった。いずれの運動施設も、課外活動についてはそれぞれの専用とすることが約束された。この事業にあたり、法人理事関係縁故の諸企業からの寄付の他に、在学生父母、卒業生、教職員などの寄付があった。特に、高校同窓会・高校中学父兄会は大規模な募金活動を行い、高校中学体育館、プール、集会所の建設費全額を負担した。
記念事業の一つとして計画された大学の拡充は、当初、文科および理科関係の学部を増設することで検討を始めたが、経営上の配慮などもあって、結局、文科関係の一学部を増設することに決定した。新学部は、従来の文学部に見られた通例の学科区分を排して、文学・思想・歴史・芸術その他の諸々のものを総合的に学習させる方針を立て、欧米文化学科・日本文化学科・社会学科からなる人文学部として1969(昭和44)年4 月に発足した。欧米文化学科には、英語・英米文学、ドイツ語・ドイツ文学、フランス語・フランス文学の三専攻が置かれた。学部長には、前年4 月に武蔵大学教授に招聘されて準備の中心となった高津(こうづ) 春繁(はるしげ)が就任した。
同じく大学拡充の一つとして、1969(昭和44)年度に経済学研究科修士課程が設置され、1970 年度から開講された。さらに、1972 年度から博士課程が設置され、大学院経済学研究科が完成した。
人文学部でも、第1 回生の卒業にあわせて、1973 年度から大学院人文科学研究科を設置、開講した。英語・英米文学専攻、ドイツ語・ドイツ文学専攻、フランス語・フランス文学専攻、日本語・日本文学専攻の4 専攻によって構成された。
なお、その後の大学院の展開については、第Ⅲ部の第3 章から第5章に譲る。
新体制移行以来、学長と校長は同一人が兼任し、大学と高校中学とを統轄してきた。しかし、大学・高中それぞれのプロパーな運営・管理については、大学では学部長が、高校中学では教頭が責任の立場にあった。人文学部創設で大学が複学部になった結果、両学部を統轄する責任者としての学長の役割が重くなり、正田学長・校長の仕事は学長としてのものが大半を占めるに至った。加えて、大学の学長は大学教員の選挙によって定められる社会の通例からみても、大学専任の学長を置くことが望まれた。1974(昭和49)年に大学では学長、高校中学では校長をそれぞれ選出する規程が作られ、学園全体の統轄者として学園長を置くことになった。1975 年4 月、学園長正田建次郎、学長鈴木武雄、校長大坪秀二で新職制は発足した。
50 周年記念事業は一段落したが、まだ手の回りかねる部分が随所に残っていた。記念事業に際しては、学園と関連のある財界各企業、同窓会、父兄会をあげて後援会が組織され、多大の寄与があった。これは、この記念事業に限定された後援会であり募金であったが、私学の健全な発展のためには、その時々に在籍する学生・生徒の納付金に頼るだけでは不十分であることが強く認識された。時あたかも日本経済が為替レート変動、石油価格変動で大揺れの時期にあたり、国および地方自治体による私学助成が漸く緒についた頃でもあった。学園としては、学生・生徒の納付金と私学助成金とに頼るだけでなく、武蔵の教育活動に共感を持つ人々の好意を、長い将来にわたって結集し続けることの重要性を考え、卒業生やその父母にも協力を求め、これらの人々の力で武蔵学園後援会が1975(昭和50)年12月1 日に組織された。初代会長には植村甲午郎(卒業生の父、当時経団連名誉会長)が就任した。
創立の年以来、尋常科生徒の山上学校が軽井沢、木崎湖畔、日光湯元で行われてきたが、1937(昭和12)年、当時の在校生の父、石川昌次氏からその邸宅の寄贈を受け、根津家の所有地(軽井沢町矢ヶ崎)の利用を許されてこれを移築、付属施設を増築して山上学校用の寮とし、理事長の号に因み青山寮と名づけた。新制になってからは、中学1 年生の山上学校だけでなく、部の合宿や各種グループの勉強会、教職員の保養にも利用されるようになった。1958 年、根津家の寄付により、食堂その他の増築が行われたが、明治年間に建てられた巨宅は年々老朽化が進み、維持費負担が増大した。一方、リゾートとしての軽井沢は繁華になり過ぎて、山上学校の適地とは言い難くなったため、新たな地に移転することが望ましいとの正田学園長の判断から、2 年余にわたって候補地を検討し、赤城山上、大沼湖畔に内定した。後述のごとく、この内定の直後に正田学園長の死去に遭ったが、事業は太田新学園長に引き継がれて、1980 年12 月に新寮が落成し、翌年5 月から開寮した。この新築移転の経費の大部分は、根津家の寄付によったので、旧名を残し赤城青山寮と名づけられた。
青山寮の赤城移転が内定した1977(昭和52)年3 月、正田学園長が死去した。50 周年記念事業の完成によって、学園は目覚ましい変貌を遂げたが、費用の関係もあって、なお施設面では十分とは言えない状況であった。正田学園長はこれを解決するため、前述の青山寮問題の他、図書館・研究室・食堂などの増改築を企画し、その概要まで学内で検討が進んでいたが、死去はまさにその途上での思いがけぬ出来事であった。岡茂男学長が学園長事務取扱となって1 年の後、1978年4 月、太田博太郎(高校4 期・理、前九州芸術工科大学学長)が学園長に就任し、この計画を実現することになった。
従来の学園内諸施設の増設は、その時々の必要に迫られて行われたものが多く、長期にわたる展望を持つだけの余裕がなかった。太田学園長は、江古田校地内のマスター・プラン作成を内田祥哉東京大学教授(高校17 期・理)に依頼し、その結果に基づき、同教授を長とする設計チームに設計監理を委嘱して、中講堂棟・教授研究棟・図書館棟の新築、その他付帯工事を1982 年4 月までに完了した。高校中学でも各科研究室・分割教室・体育館・自習室等の増改築を行い、1982年9 月完成をみた。
また、長年根津育英会の理事長として尽力した小林中(あたる)が1981年死去し、後任として根津嘉一郎(2代)が就任した。
校地を二分する小川は千川上水の分水で、18 世紀初め宝永年間(1704―10)に開削されたものであるという。歴代の生徒たちの手で拡幅・護岸工事や植樹が行われ、濯川と名づけられて学校の讃歌・寮歌・部歌などにも謳われ、学園開設時にすでに大木であった中庭の欅とともに、学園に欠くことのできぬ景観を作ってきた。
しかし、その後1950 年代初めに学園付近の千川がすべて暗渠となり濯川は僅かな分水しか得られなくなり、1974(昭和49)年には周辺下水道の整備とともに千川との連絡を断たれて、濯川は雨水の溜り場となって孤立した。上述の学園諸施設建設工事が一段落しかけた1981 年秋、漸く濯川蘇生事業が創立60 周年記念事業として取りあげられた。多数の同窓生から積極的な拠金が寄せられ、2 年度にわたる工事が1986 年に完成し、ポンプによる還流で流れが復活して周辺の景観も整備された。
(注)本百年史の『主題編』に収録の「語り継ごう濯川」も参照されたい。
尋常科生徒の海浜学校のための鵜原寮は、1928(昭和3)年、当時の父母多数の醵金によって建設された。1945 年12 月、鵜原町大火罹災者の一時収容に協力したが、その後、立退きが順調には行われず、寮は荒廃した。1954 年、立退き問題が漸く解決し、1950 年代には2 次にわたり、その時々の中学2 年生父母有志の寄付を得て修理増築が行われ、以後、30 年余にわたり海浜学校の寮として活用されてきた。一方、1960 年代に入ってから、青山寮・鵜原寮ともに、中学生の夏期学校のためだけでなく、学生・生徒・教職員の厚生施設としての性格が加わることになり、鵜原寮は建物の老朽化とは別に、宿泊施設としての設計上の問題で検討を迫られることになった。1985 年秋から設計計画を始め、1988 年6 月竣工した。ここに特記すべきことは、新寮の建設に学校山林の間伐檜材が用いられたことである。学校山林については、第Ⅱ部の第5 章で記述するが、太平洋戦争直前、当時の軍国主義的風潮への批判をこめて植樹された学校山林の檜が、半世紀を経て鵜原寮に生きるのは意義深いことであった。