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通史編

本扉

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畑龍雄先生―日本バスケットボール界への貢献(佐室瑞穂)

【編者注:本原稿は、(旧制)武蔵高等学校教授・新制武蔵高等学校中学校教諭・のち教頭をつとめ、日本のバスケットボール黎明期の指導者としても高名であった畑龍雄氏の事績について、武蔵高等学校33期卒業生の佐室瑞穂氏が執筆されたものである。畑氏は(旧制)武蔵高等学校3 期のご卒業で、武蔵学園には1943年から1997年まで在職され、数学を担当された。佐室氏は今回のご寄稿において、副題にもあるように、武蔵高等学校のみならず日本のバスケットボール界、ひいては日本のスポーツ界にも広がる大きな貢献という観点から、畑龍雄氏の足跡を紹介しておられる。】

畑龍雄教授・教諭(在職1943 年3 月1 日―1997 年3 月31日、教頭1960年4 月1 日―1967年3 月31日)
日本バスケットボールの黎明期

 バスケットボールは今やサッカー・野球と並び世界で最も盛んなスポーツである。日本でもBリーグのプロ化とともに、北海道から沖縄まで、日本の隅々に浸透し、人気のみならず、ビジネスとしての規模も拡大している。日本にバスケットボールが伝わったのは畑龍雄(以下、敬称を略す)が生まれた1909(明治42)年と同じ時期である。畑が旧制武蔵高等学校、東京帝国大学に進み、指導的立場でバスケット部生活を過ごしたころは、バスケットボールが盛んなスポーツになり始めた黎明期だった。1936(昭和11)年のベルリンオリンピック日本代表の長身センターとして活躍した鹿子木健日子(旧制6 期・文)は3学年下にいて、畑の指導を受けている。

 畑は東京帝国大学理学部数学科を卒業後、直ちに東京女子高等師範学校附属高等女学校(女高師:後のお茶の水女子大付属高校)で監督を務めた。その後70年間、畑のバスケットボールに対する探究心と熱意は、ひと時も休むことなく続いた。

 指導・研究の範囲は、技術論のみならず、ルールブックの完成、審判の育成、指導論、メンタリティ論等全分野にわたった。ルールブックはアメリカンルールの翻訳に桂正之(旧制18 期・理)と二人で取り組み、推敲を重ね、その後50 年以上にわたる日本ルールの基礎を築いた。

 1943(昭和18)年に除隊後、母校である(旧制)武蔵高等学校に奉職し、数学を教え、バスケット部(RKM)でも教えた。一方、畑の監督のもとで、女高師・お茶の水女子大付属高校は、1939(昭和14)年から1951(昭和26)年の間に全国大会で5 回優勝している。

 畑は、1946(昭和21)年から日本バスケットボール協会理事、1948(昭和23)年から公認審判員を務めた。1950(昭和25)年には米国から初めてハワイAJA チームが来日したが、この時全日本学生チームの監督として、畑が選ばれた。この時、目を見張るような高いレベルの米国のバスケットボール技術を、畑はしっかり学び、いち早く武蔵でのチームの指導に取り入れた。

武蔵高校の黄金期

 わが武蔵高等学校のバスケット部(RKM)は、畑の先進的指導により、1950(昭和25)年から1960(昭和35)年まで連続11 年インターハイ出場を果たす黄金期にはいり、1954(昭和29)年から1957(昭和32)年までの4年間には、優勝、準優勝、優勝、優勝という華々しいピークを迎えた。武蔵高等学校のように1 学年130~150 人ほどの小さな、しかも進学校で、他の中学から選手をスカウトすることなく、これだけの成績を挙げた畑の指導力は、他校から驚嘆されたものである。

 その能力を買われ、1958(昭和33)年のアジア大会では日本代表チームの監督に指名されたが、高校チームの監督が全日本代表チームの監督に抜擢されることは、それまで例がなく、周囲を驚かせた。1977(昭和52)年には、都内の私立京北高等学校(現在の東洋大学京北高等学校)の校長として招かれた。京北高等学校もバスケットボールでは全国屈指の強豪校に成長し、現在に至っている。

1960(昭和35)年、畑龍雄教頭がバスケットボールの国際審判員として、同年開催のローマオリンピックに参加したことを報じた学校新聞の記事。「武蔵の三大理想の一つである『世界に雄飛するにたえる人物』については我等の鏡としたい」と、上記新聞に記されている。
畑式指導法

 誰もが畑の、興奮したり、怒ったり、怒鳴ったりするところを見たことがない。どんなピンチでも、うろたえず、感情的にならず、冷静に判断した。選手に対する体罰は、そのそぶりも見せず、注意の仕方は、いつも極めて穏やかで、論理的であった。当時では当たり前の根性論は否定した。技術の説明は科学的であった。このようなタイプの優れた指導者は、今でこそ多く輩出しているが、当時はどのスポーツ種目にも、全くと言ってよいほど存在しなかった。教え子からだけでなく、バスケットボール界の誰からも尊敬された所以である。

 畑のバスケットに関する教え、名言は数々ある。中でもすべての教え子が座右の銘のごとく覚えているのが「へばったらがんばれ」である。これは、畑著の小冊子「バスケットする心」に解説されているが、要するに、「もうだめだ」と思った時にこそ、もうひと頑張りしようという、畑一流のレトリックである。バスケットボールの試合や、練習の場面だけでなく、人生の色々な局面で、このひと言を思い出し、頑張って、乗り切った教え子が多い。

 このほか、畑の執筆した多くの文献・資料が「NPO法人日本バスケットボール振興会」(東京都千代田区神田神保町1-40-301)の「神田バスケットボール資料室」に収められている。この団体の理事長は、渡邊誠(武蔵大学17 回生)が務めている。

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