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第1章 創立前史(1949年まで)
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戦時中の様々な混乱と校舎や寮などの戦火に因る被害は、根津育英会および武蔵高等学校にとって大きな痛手となり、戦後、学校経営の危機を招いた。食糧難やインフレによる生活苦は学校の財政を窮乏に導き、授業の維持すら難しくした。財団の経営意欲が極端に落ち込み、新学校制度への改革問題で様々な議論を招き、左翼政治運動の影響をも含めて、多面にわたる混乱が学内に吹き荒れた。このなかで、山川黙第4 代校長は退き、新たに、前京城帝国大学教授の宮本和吉が5 代目の校長に就任した。
占領軍として敗戦後の日本を支配したアメリカは、日本の軍国主義と教育制度との関係を重く見て教育制度の大改革を要求し、旧制高等学校が廃止された。その結果として1947(昭和22)年に教育基本法が制定公布され、新しい学校制度が成立した。義務教育は小学校、中学校の計9 年間となり、その上に新制高等学校、さらにその上に新制大学が置かれて、いわゆる単線型の日本の新しい学校制度ができあがった(注1)。
1948年には学校教育法(1947年3 月公布)と大学基準(1947年7 月、大学基準協会が制定)によって、私立の女子大学、キリスト教系大学など12 の公・私立大学が、続いてその翌年、全国で一斉に168 の国・公・私立の新制大学が発足する。武蔵大学も他の80 の私立大学と共にその年に開学したが、そこに至る道筋は決して平坦ではなかった。
1947(昭和22)年3 月に公布施行された学校教育法によって新学制が定まり、旧制高校制度の廃止が決まると、武蔵高等学校(宮本和吉校長、1946年2 月就任)でも新学制への対応を検討しなければならなくなった。1947 年度には、根津育英会理事会・武蔵高等学校・父兄会・同窓会の間で、尋常科を新制中学と新制高校に改組するか、それともそれを新制高校とするにとどめるか、そして高等科は改組して大学を新たに設置するかどうか、新学制への対応が盛んに議論された。その結果、本百年史の「Ⅱ 旧制武蔵高等学校の歴史」で概観したように、武蔵は他の私立七年制高等学校と同様に、「自らが旧制高等学校を発展させて新制大学となり、その予科として中等教育機関を付置する」という道を選んだ。新制高等学校は1948 年に発足していたので、大学と中学について1949年4 月からの発足を目指した。
(注)日本全国における新制大学の誕生経緯を、大学ごとに詳細にたどった近年の研究成果として、天野郁夫『新制大学の誕生』上下巻(名古屋大学出版会、2016 年)がある。その710―714 頁では、武蔵大学を含む5 学園の大学の設置にあたり、「五校の旧制高等学校が、昇格にあたっていずれも社会科学系の学部を開設したのは、それが入学者の確保が容易な、その意味で私立大学の経営的基盤の安定と拡大に不可欠の専門学部であったことを物語っている」という指摘がなされている。
この過程において、まず、宮本校長が尋常科の新制中学・高校への改組と高等科の大学への変換で、学園の将来を構想していたことは疑い得ない。しかし財団は、大学を設置する場合、経営には自信を持てないので参加せず、したがって理事会で、教授会が大学の設置を決めた場合には、将来の経営を学校、父兄会、同窓会に委ねるという決議を行った。だがその決議はすぐに撤回され、結局は大学設置に同意する結果になった(注1)。
個人的資産に依存するところの多かった根津育英会の財政運用が、根津理事長(初代)の死と激化する戦争、それに続く敗戦後の経済的混乱のなかで、大きな転換の危機に直面し、理事長の根津嘉一郎(2 代)も苦境に立たされたことは想像に難くない。
このとき、大学を設置したいという学校側の意志を積極的に支えたのは、当時の父兄会であった。父兄会は、学校財政の根幹の維持に努力すると共に、財団に学校運営上の重大な事項については打ち合わせることを強く要望した。そして、新しく作られた武蔵学園経営委員会の運営に積極的に参加することで、大学設置についての学校当局の方針を承認・支援し、事実上それを実現させた。宮本校長を中心とする教授陣の熱意と、父兄会の甚大な努力が、新制大学開学の推進力となったといえる。
他方、古参の教授や同窓生の一部には大学設置に強い反対があった。それは理事会の動きと一部連動していた。同窓生の中には武蔵高校の理念と伝統を損なうという大義を掲げ、同志を糾合して激しく大学設置反対運動を展開する者もいた。
このように、様々な議論はあったにせよ、結局、新制大学の設置は理事会で承認され、その手続きは宮本校長に委ねられ、申請に向けての準備が急ピッチで開始されることになった。
(注)大学設置をめぐる経緯については、『武蔵学園史年報』第2 号(本百年史の『資料編』に収録されている)に所収の「Ⅲ 武蔵大学設置関係史料7 理事会記録」が詳しい。
大学を作るという方針は決まったものの、どのような大学にするかについては決まった方針があったわけではなく、高等学校の教授会を中心に様々な案が検討された。
教養学部案や文理学部案などいろいろ出され、最終的に文理学部案が提示されたが、理事会によって経営上問題があるとされ、承認されなかった。宮本校長は、経済学部のみの単学部単学科大学の設置を改めて教授会に再提案し、理事会は父兄会の参画を条件にそれを認め、ここに経済学部経営科学科の設置申請を決定することになった。しかし文部省から「経営科学科としては条件に不備がある」という理由で、経済学科に変更するよう指示があった。そのため、経済学部経済学科(1 学年定員120 名)に変更して認可を求めることになった。その際、大学設置委員会から、①専門学科の教員組織を充実させること、②経済学関係の図書を充実することという条件をつけられたが、1949(昭和24)年2 月21日、大学設立が認可された。
開設される経済学部の将来の盛衰は、専門分野における卓越した人材を責任者に迎えられるかどうかに大きく依存している。そして宮本校長は、開設の責任者であり同時に開学後の学部長予定者として、旧知の元京城帝国大学教授鈴木武雄に白羽の矢を立てた。その主たる理由は、宮本校長が京城帝国大学の教授をしていた戦前の時代、同じ大学に在籍していた鈴木とは先輩後輩という関係にあり、宮本は人格と学識を評価していたからである。
単学部単学科大学の設置には、しかし新たな問題発生の可能性も潜んでいた。それは、設置形態の如何を問わず旧制高等学校の高等科が新制大学に転換した場合、多くは文理学部であるとか、文学部、人文学部などの形をとり、高等学校の教授スタッフが大学の中心スタッフに座る場合が多かったが、武蔵大学の場合、旧制高校に全くスタッフを持たない経済学部だけの単学部であって、専門科目の担当者は完全に外部からの移籍者であり、従来の旧制高校から大学に移籍した教授たちは専門科目ではない教養科目の担当者とならざるをえなかったからである。不満を抱いて武蔵を去り他の大学に移った教授も少なくなかった。
ともあれ、様々な苦労と未解決の問題を孕みつつ、設置認可を受けた武蔵大学は同年3 月末に入学試験(筆記試験と面接)を行い、4 月23 日に新入生を迎えた。経済学部経済学科、定員は1学年120名、4 年間の定員総数は480名という小さな規模であるが、ここに武蔵大学の誕生をみたのである。